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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

634鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/14(金) 23:42:08 ID:qCfHw3OY0
 ブラフマンはただ単に世界の母胎であるから全知なのではなく、聖典の母胎でもあるから全知だというのじゃ。
 聖典の母胎であることが全知であることを確立する根拠となるというのじゃ。
 リグ・ヴェー ダ等は、弟子たちに四カーストと四住期それぞれに関して、さまざな祭式の諸々の手順を教示しているのじゃ。
 さらにまた、ブラフマンという真理について教示しているから、聖典なのであり、内容が広範であるから、偉大だというのじゃ。
 宗教的な知識を全て記しているから、それを教えた者は全知であるというのじゃ。

 さらにまたリグ・ヴェーダ等は、ただ単にその内容が広範であるから偉大なのではなく、多くの補助学や副補助学に支えられているから偉大だというのじゃ。
 プラーナ、論理学、祭事学等の十種の学問分野に精通していなければ、ヴェーダは理解できないから偉大だというのじゃ。
 ヴェーダは、あらゆる種類の事柄をあらゆる方法で教示するのじゃ。
 からこそ全知者に近い、すなわち全知者であるブラフマンにに似ているというのじゃ。

635避難民のマジレスさん:2022/10/15(土) 02:36:27 ID:kHqP6UpE0
(つづき) p349-350
  このように肯定法(anvaya)を述べたのちに、[師シャンカラは、次のように]否定法(vyatireka)を述べているのである473。実に[全知者の特質を備えた]このような云々と。すなわち、全知者の特質とはあらゆるものを対象としていることであり、その(特質)を聖典が備えているのである。何故なら、これ(聖典)もあらゆるものを対象としているからである。
   [次に師シャンカラは]、すでに述べた趣旨を[次のように]根拠づけている。すなわち、広範な内容の聖典が、ある特定の人から生ずるとき、その人はつまり特定の人は、それよりもつまり聖典より[も]多くの知識を備えている、というのが文の繋がりなのである。今日でも、われわれなどが正しい意味を含んだ聖典を作成したとすると、 われわれ語り手(作者)の知識は、[聖典の]文章より内容が広いのである。というのは、諸々の特殊な性質は、経験されても表現することができないからである。実に、砂糖きびや牛乳や糖蜜などの甘味の違いは、[言葉の神]サラスヴァティー女神474でさえも表現することはできないのである。[なお]広範なという語が用いられているのは、 [聖典の]文章は内容が広範であっても、語り手の知識と同じ内容であるわけではない、ということを述べるためである。
  [師シャンカラは]適用(upanaya)とともに結論を[次のように]述べている475。 まして・・・言うまでもないと。すなわち、まして、ヴェーダがかの偉大な存在という母胎 から生ずるとすれば、その偉大な存在が至上の全知者であって全能を備えているのだ、 ということは言うまでもない、というのが文の繋がりである。[そしてまして、あらゆる知識の宝庫であるリグ・ヴェーダ等一それは様々な]多く支派[に分かれ]云々のうち、様々な多くの枝派に分かれから生ずるとすればまでが適用であり、その[偉大な存在]がから全能を備えているのだまでが結論なのである。また、なんの努力もなくというのは、「大麦の粥は塩気がない」という場合のように476、少しの努力で[実現される]ということである。実に、神々や聖者たちが非常に努力してもできないようなことを、彼(主宰神)は遊びでもあるかのように少しの努力で行うので、この者(主宰神)が至上の全知者であって全能を備えているのだ、と述べられているのである。[さらに]、この者(主宰神)がなんの努力もせずヴェーダを生み出したということに関して、[次のような]天啓聖典句が挙げられている。「[このリグ・ヴェーダは]かの偉大な存在の云々」477と。

脚注
473 肯定法と否定法ととは、ミルの一致(放→法)と差異法に該当するもので、前者は 「AならBである」という形の証明法(たとえば火の存在を煙があれば火があるというような形で証明す る方法)、後者は「BがなければAがない」という形の証明法(たとえば火の存在を火がなければ煙がな いというような形で証明する方法)のことである。ここでは、「聖典は全知者に近いからその原因は全知者ブラフマンである」というのが肯定法で、「聖典の原因が全知者ブラフマンでなければ全知者の特質を備えたこのような聖典が生ずることはない」というのが否定法であり、この両者の方法で聖典の原因かブラフマンあることを証明しているのだ、と解釈されているのである。
474 サラスヴァティー女神は元来はサラスヴァティー河が神格化されたものであるが、ブラーフマナ文献や叙事詩『マハーバーラタ』などでは、言葉の女神でもあるとされてい。
475ここでは、『註解』本文中の議論を、「ブラフマンは聖典の母胎である」ということに関して、(1)主張(2)理由(3)実例(4)適用(5)結論と いう五分作法と呼ばれる論式の型に従って推論しているのだ、と解釈しているのである。すなわち,(1) 「ブラフマンは聖典の母胎である」というのが主張で、(2)「聖典は全知者に近いから」および「聖典の原因が全知者ブラフマンてなければ全知者の特徴を備えたこのような聖典が生ずることはないから」という のが理由で、(3)「たとえはパーニニ云々」というのが実例で、(4)「まして、あらゆる知識の宝庫であるリグ・ヴェーダ等一〔それは]様々な多くの枝派に分かれ云々」というのが適用であり、(5)「その偉大 な存在が至上の全知者であって全能をそなえているのだ」が結論なのである。なお、Vedāntakalpataru.は、この箇所の説明として以下のような三分作法の推論を挙げている。「ブラフマンはヴェー ダの対象より多くの対象を知っている。何故ならそれ(ヴェーダ)の作者だからである。文章という認識根拠の作者はだれでもそれ(文章という認識根拠)より多くの対象を知っているものである。たとえば、 パーニニのように」。
476 意図不明。
477 脚注467参照
(´・(ェ)・`)つ

636鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/15(土) 23:55:13 ID:DnEa/qgA0
 シャンカラは次は否定法を述べているというのじゃ。
 聖典はあらゆるものを対象としているから全知者の特質と同じだと言うのじゃ。

 広範な内容の聖典がある特定の人から生ずるとき、その人は聖典よりも多くの知識を備えていることになるのじゃ。
 ヴェーダが偉大な存在という母胎から生ずるとすれば、その偉大な存在が至上の全知者であって全能を備えていることになるというのじゃ。
 神々や聖者たちが非常に努力してもできないようなことを、ブラフマンは遊びでもあるかのように少しの努力で行うので、主宰神であるブラフマンが至上の全知者であって全能を備えていることになるというのじゃ。
 ブラフマンがなんの努力もせずヴェーダを生み出したということに関して、リグ・ヴェーダの天啓聖典句が挙げられているというのじゃ。

637避難民のマジレスさん:2022/10/15(土) 23:57:39 ID:Kr9AfsSk0
1.2.ブラフマンは聖典の母胎であるという論証  p250-253 177左/229

  まず、音(varna)が永遠であることを主張しようとしている人たちでさえ478、語や 文等が無常であることは認めるべきである479。実に語とは、音に前後の繋がりによる区別のあるものであり、文とは語に前後の繋がりによる区別のあるものである。[そしてその]前後の繋がりというのは、表現(vyakti)の属性であって、音の属性ではない。 何故なら、永遠で遍在する音には、時間的にも空間的にも前後関係が存在しえないからである。[そして]表現が無常なのであるから、それ(表現)に含まれる(すなわち表現された)480音が永遠であっても、どうして語の本質が永遠でありえようか。また、語が無常であるから、文等が無常であることも説明されたことになる。 従って、語等のお復習い(おさらい)は踊りのお復習いのようなものなのである481。すなわち、たとえば、踊りの師匠の身体の振りと同じように、弟子の踊り子がお復習いしても、同じ 振り見せることはない。それと同じように、弟子は、ヴェーダの音や語等を師が伝承してきた通りにお復習いしても、その通りに発音できるものではない。何故なら、弟子の表現は師の表現と異なるからである。
  従って、[音が]永遠であると主張する人と 無常であると主張する人のあいだには、語や文等一[それが]世俗的なものであろうとヴェーダに属すものであろうと一が人間に基づくという点については、見解の 対立は存在しないのである。ただ、人間(創造主)がヴェーダの文章から自立しているか否かという点についてのみ、見解の対立が存在するのである。[そのことが]たと えば、「われわれは、人間(創造主)が[ヴェーダの文章から]自立しているという見解を、懸命に否定しなければならない」482と述べられているのである。この点に関して、[リグ・ヴェーダの]創造と破壊を認めないジャイミニの徒たち483は、ヴェーダの 学習について、「師資相承であって([この点では]われわれと同るじである)、途切れ ることがなく、無始である」と主張している。

脚注
478 祭事学派のことである。
479以下の議論は各段階それぞれ次のような反対主張に対する答えであるとされている。すなわち、ヴェーダには作者(創造主)がいるわけであるから、ヴェーダはその作者に基づいているわけだが、その基づくというのは、(1)ヴェーダは人間(創造主)によって作成されるという意味なのか、(2)創造主が全く新たな伝承を作りあげるという意味なのか、(3)他の認識根拠に基づいて認識された対象に関する文章を創造主が作成するという意味で、他の認識根拠に基づいているとい う意味なのか、(4)いく(ろ→つ?)かの時代に作られたあらゆる伝統を含むヴェーダが一人の人(創造主)から生ずるという意味なのか、という反対主張を個々に退けているとしているのである。そのうちまずこの段落 では、反対主張(1)「ヴェーダは人間(創造主)によって作成されるという意味なのか」を、「音は無常であるとする反対主張者たちも、文(つまりヴェーダ)が無常であることは認めざをえず、無常なものは作成されたものであるから、それを創造主が作成したと考えている点ではわれわれと同意見であるので、反対主張に価しない」というかたちで退けているのである。
480
481この段落は、反対主張(2)「ヴェーダが作者(創造立)に基づくというのは、創造主が全く新たな伝承を作りあげるという意味なのか」に対する答えであると(と)れる。すなわち、「全く新たな」というのは、(1)伝永の順序が単に異なっているという意味か、あるいは、(2)伝承の順序が異質であるという意味かのどちらかであるはずだが、(1)は反対主張者も認めていることであり、(2) はこの段落から明らかなようにわれわれも認めていないのであるから、このような反対主張は成り立たない、と言うのである。
482出典不明。
483祭事学派のことある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

638避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 07:39:10 ID:bzChC4fg0
訂正
p250-253→ p350-353
(´・(ェ)・`)b

639避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 13:48:18 ID:DN34W08I0
勉強会、講読会等バックナンバー
鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実(2ch 心と宗教)
1)アファメーション」>>749 2017/04/02
 10語のアファメーション>>819 2017/04/06
❇︎この頃はまだ愉快なアラシくんたちもいて、楽しさもあったのである。

鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実2(2ch 自己啓発)
1)アファメーション
  「潜在意識、マーフィーの法則」>>23 2017/04/13
2)「存在の詩」osho >>305 2017/05/13
❇︎2014年に、『マハームドラーの歌』として既に取り上げられており、(鬼和尚に聞いてみるスレ part4 - なんでも避難所 - したらば掲示板)>>709-762 2014/11/29-12/09 鬼和尚による解説はそちら↑に載ってるであります。
3) 「信心銘 」>>389 2017/ 05/23。
❇︎2014年に、既に取り上げられており、
(鬼和尚に聞いてみるスレ part4 - なんでも避難所 - したらば掲示板 >>658 -699 2014/11/20-11/27)(鬼和尚による解説はそちら↑に載ってるであります。。
4)「真理のことば(ダンマパダ)」>> 562〜780 2017/06/25-09/09
5)ブッダのことば(スッタニパータ) 782〜939 2017/09/10-10/26
❇︎dat落ちにより移転。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ(2ch 自己啓発)
→ 5)ブッダのことば(スッタニパータ) 1〜323 2017/10/28-2018/01/01
❇︎dat落ちにより移転。まさに、dat落ちとの戦いでありました。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ2(2ch自己啓発)
→ 5)ブッダのことば(スッタニパータ) 1〜42 完結 2018/01/02-01/08
6)『I AM THAT 私は在る』 46〜530(1〜31)2018/01/09-06/13
❇︎dat落ちにより移転。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ3 (2ch自己啓発)
→ 6)『I AM THAT 私は在る』 2〜60(2〜33)2018/06/14-07/01
❇︎ dat落ち回避の為、偽和尚管理による したらば掲示板へ移転を決意したが、その後粘着くん定着。dat落ちせずに、スレ継続。7)〜13)の投稿を続行。大作『狂雲集』にも着手できた。これは、dat落ち、及び、粘着くんハッスルによりもたらされた機会であったと言えるかもである。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4(- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→ 6)『I AM THAT 私は在る』 2〜862(33〜101)一時中断 2018/07/07-2019/05/06

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 (- なんでも避難所 - したらば掲示板
→6) 『I AM THAT 私は在る』 696-728(101)完結 2020/03/26-04/05
❇︎結局、11ヶ月中断した上での完結でありました。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3 (2ch自己啓発)
7)パタンジャリのヨーガスートラ 85-209: 2018/07/21-08/23
 ガーヤトリー・マントラ 212: 2018/08/24
8)バガヴァッド・ギーター 218-456: 2018/08/25-10/17
9)鈴木大拙 457〜490:2018/10/18-11/24
10)サティパッターナ・スッタ 大念住経 (大念処経) 491-557: 2018/11/24-2019/04/03
❇︎鬼和尚の解説はありません。
11)ブッダ 神々との対話 より抜粋 565.567: 2019/05/08、05/11
❇︎鬼和尚の解説はありません。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

640避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 13:49:30 ID:DN34W08I0
(つづき)
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3 (2ch自己啓発)
12)一休さんの詩→狂雲集 596-978: 2020/05/06-07/02
❇︎ >>618 から鬼和尚解説付きであります。
❇︎ 『I AM THAT 』をしたらばへ移転させた後、(11)までdat落ち覚悟の投稿継続。その後、粘着くんの定期巡回以外ほとんど投稿無いまま、一年経過しても、スレ存続していたため、「一休さん」の詩を取り上げ始めた。最初はoshoの「一休道歌」をベースに資料を集めたが、どうやら一休さん作か真偽不明なものも多数あるため、方針変更。『狂雲集』の詩を、あいうえお順に全部取り上げるという無謀な作業に着手。

鬼和尚の仏教講読会 別館2 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→12)狂雲集 2-890: 2020/09/22-2021/11/03 完結
❇︎一応の完結まで1年7ヶ月でありました。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
→12)(再掲載)狂雲集 『真理のみ』レスの下方に掲載465-612: 2021/12/07-2022/01/25
❇︎全576首のうち、鬼和尚の解説が無かった詩を再掲載して、解説をお願いしました。

鬼和尚の仏教購読会 別館 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
13)黄金の華の秘密osho 1-584: 2018/10/16-2019/06/01
❇︎老子、荘子も取り上げる予定であります。
14)「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA 一時中断 585-783: 2019/06/02-09/02

鬼和尚の仏教講読会 別館2 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→14)「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA 891-998: 2021/11/03-12/07
❇︎2年3ヶ月ぶりの再開。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→14)「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA 465-767: 完結 2021/12/07-2022/04/05

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
15)クリシュナムルティ変化の緊要 608-1000: 2020/03/04-06/22

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→15)クリシュナムルティ 最初と最後の自 由 3〜464:完結2020/06/23-2021/01/02

オショーのSadhana Pathを読んで実践する (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
16)大乗起信論 271〜386: 2022/03/18-04/30
17)バ-マティ- 387〜現在: 2022/06/22-
(´・(ェ)・`)
(つづく)

641避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 13:51:22 ID:DN34W08I0
(つづき)
◉別レス者様による勉強会
鬼和尚に聞いてみるスレ part4(- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
1)信心銘 658-699: 2014/11/20-11/27
別レス者様による
2)マハームドラーの歌 709-762: 2014/11/29-12/09

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
3-1)ラマナ・マハルシとの対話(対話1〜41) 863〜1000: 2019/05/07-09/18

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
3-2)ラマナ・マハルシとの対話(対話42〜294)3〜604: 2019/06/19-2020/03/04

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
3-3)ラマナ・マハルシとの対話 (1936年12月16日 〜対話 362)769〜942: 2022/04/12-06/21

オショーのSadhana Pathを読んで実践する - なんでも避難所 - したらば掲示板(- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
4)Sadhana path 修行の道 1-269: 2020/11/18-2021/03/22第1章(1-16) ようこそ〜
第2章(18-34)最初の朝 1964年6月4日 午前
第3章(36-57)初日の夜 1964年6月4日午後
第4章(59-73)2日目の朝 1964年6月5日 午前
第5章(75-118)2日目の夜 1964年6月5日 午後
第6章(121-140)3日目の朝 1964年6月6日 午前
第7章(142-161)3日目の夜 1964年6月6日 午後
第8章(163-206)4日目の朝 1964年6月7日 午前
第9章(209-250)最後の夜 1964年6月7日午後
第10章(252-269)別れの言葉 1964年6月8日午前
(´・(ェ)・`)b

URLは貼り付けできませんでした。

642鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/17(月) 00:03:58 ID:EBzO3fvU0
 音が永遠であることを主張しようとしている人たちでさえ語や文等が無常であることは認めるべきであるというのじゃ。
 語とは、音に前後の繋がりによる区別のあるものであり、文とは語に前後の繋がりによる区別のあるものなのじゃ。
 そしてその]前後の繋がりというのは、表現の属性であって音の属性ではないのじゃ。
 永遠で遍在する音には、時間的にも空間的にも前後関係が存在しえないからなのじゃ。
 表現が無常なのであるから、表現に含まれる音が永遠であっても、語の本質も無常になるのじゃ。
 語が無常であるから、文等も無常であるのは当然なのじゃ。

 音が]永遠であると主張する人と 無常であると主張する人のあいだには、語や文等が人間に基づくという点については、見解の 対立は存在しないのじゃ。
 ただ、人間(創造主)がヴェーダの文章から自立しているか否かという点についてのみ、見解の対立が存在するのじゃ。
 そのことがたとえば、「われわれは、人間(創造主)が[ヴェーダの文章から]自立しているという見解を、懸命に否定しなければならない」と述べられているのじゃ。
 リグ・ヴェーダの創造と破壊を認めないジャイミニの徒たちは、ヴェーダの 学習について、師資相承であって途切れることがなく、無始である」と主張しているのじゃ。

643避難民のマジレスさん:2022/10/17(月) 01:21:16 ID:hFEPjK6k0
(つづき)  p352-353
  一方、ヴヤーサの考えに従う者たちは[次のように主張している]484。「[ヴェーダは]創造され破壊されるという見解一[それは]天啓聖典・聖伝書・叙事詩等におい て確立している一に従えば、永遠なる最高のアートマンー[それは]無始の無明と結び付くことによって獲得された全知・全能を備えている一は・ヴェーダの母胎ではあっても、それら(ヴェーダ)から自立しているわけではない。何故なら、[最高の アートマンはヴェーダを]、それぞれ前に創造されたものに従って、その通りの順序で 再現するからである」と。詳論すれば[次の通りである]485。供犠等やバラモン殺し等は、ブラフマンの仮現486ではあっても、[前者が]好ましい事柄の原因であり、[後者]が好ましくない事柄の原因であるということは、新たに創造された世界において 逆転することはない。実に、創造されたどんな世界においても、バラモン殺しが好ましい事柄の原因であり、馬祠祭が好ましくない事柄の原因であるということは決してないのである。それは、火が湿っていたり水が燃えたりすることがないのと同じである。[また]、創造された現在の世界において、一定の順序に従ったヴェーダの学習は、 繁栄や至福の原因であり、それとは異なる形でのそれ(ヴェーダの学習)は、言葉の雷487なので好ましくない事柄の原因であるが、そのことは新たに創造される世界にお いても同じである。従って[最高のアートマンは]、全知であってもまた全能であっても、それぞれ前に創造されたものに従ってヴェーダを作成するのであり、[ヴェーダから]自立しているのではないのである。さらにジャイミニの徒たちも、[ヴェーダが] 人間の手になるものではないということを、人問(創造主)が[ヴェーダから]自立しているわけではないという[意味で]のみ[解釈すること]を好んでいる。そしてそのことは、意図は異なるにせよ、われわれの場合にも共通なのである。

脚注
484ここで言うヴヤーサとは、『ブラフマ・スートラ』の作者とされている伝説上の聖者のことで、「ヴヤーサの考えに従う人たち」とは、ヴェーダーンタ学派のことである。なお、この段落は、反対主張(3)「他の認識根拠に基づいて認識された対象に関する文章を創造主が作成するという意味でヴェーダは他の認識根拠に基づいているという意味なのか」に対する答であるとされる。 すなわち、創造主といえども、ヴェーダから自立しているわけではなく、それぞれ前の世界に創造されたヴェーダに従って、新たに創造した世界のヴェーダを作成するのではあるが、ヴェーダ以外の認識根拠に基づいてヴェーダを作成するわけではないので、このような反対主張は成り立たない、と言うのである。
485異本では、「たとえば」となっているが、ここでは底本の「詳論すれば」に従った。
486 不二一元論学派では、ブラフマンのみが実在であり、その他の世界等(当然供養(な→や)バラモン殺し等もそのなかに含まれる)は、ブラフマンの仮現であって実在しないとされる。
487 ヴェーダを誤って唱えると、ちょうどその言葉が雷でもあるかのように、その誤って唱えた人に対して害を及ぼすのである。たとえは次の話が有名である。トヴァシュトリが、インドラ神を打ち負かすことのできるような息子を望んで供犠を行ったとき、ヴェーダ中の(インドラを打ち負かす敵)という複合語のアクセントをまちがえて、「インドラに打ち負かされる敵」という意味で発音してしまい、そのため、その息子ヴリトラはのちにインドラに殺されてしまうという結果になったのである。その典拠として次 のような文章を挙げている。「アクセント的にもまた発音的にも誤って用いられて損なわれたマントラは、その意味を伝えない。それは言葉の雷であって、供犠の主催者に害を加える。たとえば、Indraśatrhがアクセント的に誤っていたために云々」。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

644鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/17(月) 23:13:17 ID:F2dFintI0
 ヴェーダーンタ学派によれば、ヴェーダは創造され破壊されるという見解に従えば、永遠なる最高のアートマンはヴェーダの母胎ではあるがヴェーダから自立しているわけではないというのじゃ。
 なぜならば最高のアートマンはヴェーダを、それぞれ前に創造されたものに従って、その通りの順序で 再現するからであるというのじゃ。
 創造された現在の世界において、一定の順序に従ったヴェーダの学習は、 繁栄や至福の原因であり、それとは異なる形でのヴェーダの学習は好ましくない事柄の原因であるのじゃ。

 新たに創造される世界においても同じであるというのじゃ。
 最高のアートマンは全知であってもまた全能であっても、それぞれ前に創造されたものに従ってヴェーダを作成するのであり、ヴェーダから自立しているのではないのじゃ。
 ジャイミニの徒たちもヴェーダが 人間の手になるものではないということを、アートマンがヴェーダから自立しているわけではないという意味でのみ解釈するのじゃ。
 それは意図は異なるにせよ、われわれの場合にも共通だというのじゃ。

645避難民のマジレスさん:2022/10/17(月) 23:50:14 ID:.qDmBa.Q0
(つづき)  p353
  また、「一人だけの啓示には信頼が置けない」というのは正しくない488。実に、無知なあるいは賢い多くの人の場合でも、[その人の]心に欠陥があれば、その啓示に信頼をおくのは正しくないし、一人の人であっても、[その人が]真理を認識しており、あらゆる欠陥と無縁であれば、その啓示に信頼を置くのはまさに正しいのである。[世界] 創造の最初に存在していたプラジャーパティや神仙たち489一[かれらは]徳と知識と離欲と神通力を備えていた一の場合には、それ(主宰神ブラフマン)の本質を確実に知ることが可能である490。そして、かれらに対する信頼を通して、後世の人たちの場合にも、それ(主宰神ブラフマン)に対する信頼が存在するのである。従って、ブラフマンが聖典の母胎であり、聖典は人間の手になるものではなく、正しい認識根拠なのである。以上が[このスートラの]第一の解釈である。

脚注
488この段落は、反対主張(4)「いくつかの時代に作られたあらゆ る伝統を含むヴェーダが一人の人(創造主)から生ずるという意味なのか」に対する答えであるとされる。
489ともに聖仙の一人で、プラジャーパティとは、マーリーチィ・アトリ等のブラフマー神の息子たちで、神仙とは、地上で完成に達し、神に近い地位に到達した聖仙たちのこと、たとえば、 「マールカンデーヤ・プラーナ』の作者とされているマールカンデーヤなどが有名である。
490この箇所は次のような反対主張に対する答えであるとされる。「われわれは主宰神を見ていない。なのにどうしてそれ(主宰神)が作者であるヴェーダに信頼が置けようか」。


2.スートラ解釈(2)ーー聖典はブラフマンを知る典拠である p353-354 178右/229

  あるいはまた[このスートラは次のように解釈できる]。上述のリグ・ヴェー ダ等の「聖典」は、このブラフマンのありのままの本質を理解するための「母 胎」すなわち原因、認識根拠であると。すなわち、聖典という認識根拠に基づいてのみ、ブラフマンが世界の生起等の原因であると理解されるという意味である。[そしてその]聖典とは、前のスートラ(I.1.2)に引用されていた「実にそれよりこれらの存在が生じ云々」491等である。
  [反対主張]まさに前のスートラでこのような聖典を引用して、聖典がブラフマンの典拠であることをすでに示しているとすれば、このスートラは何のために存在するのか。
  [答論]そこでは、前のスートラの語からは聖典[の意味]が明確には理解されないので、「[世界の]生起等云々」[というスートラ]が単に推論を問題 にしているのではないかという疑問が生ずることになろう。[そこで]その疑問を退けるために、この「聖典が典拠(母胎)だからである」というスートラが開始されているのである。
  [師シャンカラは]第二の解釈を[次のように]開始している。あるいはまたと。前の節(すなわちスートラI.1.2)では、ブラフマンの本質を定義することは不可能ではないかという疑問を退けて、定義が可能であると述べていた。一方[このスートラでは]、 聖典に言及することで、その定義に関する疑問、すなわちこれ(ブラフマンの定義)に基づいて〔ブラフマンの存在が]推論されるのではないかという疑問を退け、ブラフマ ンに関しては聖典が認識根拠であると述べているのである。ここの『註解』492の意味は実に全く明らかである。

脚注
491 脚注453参照。
492ここで『註釈』と訳したaksaraはもともとは「文字」という意味だが、ここでは『註釈』の該当箇所をさしていると思われるのでこう訳した。
(´・(ェ)・`)つ

646鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/18(火) 23:35:34 ID:MTNgA1.s0
 無知な者とか賢い多くの人の場合でも、心に欠陥があれば、その啓示に信頼をおくのは正しくないというのじゃ。
 一人の人であっても、その人が真理を認識していてあらゆる欠陥と無縁であれば、その啓示に信頼を置くのはまさに正しいのじゃ。
 世界] 創造の最初に存在していたプラジャーパティや神仙たちが聖典をブラフマンから啓示で授かったという伝説があるのじゃ。
 そうであるからブラフマンが聖典の母胎であり、聖典は人間の手になるものではなく、正しい認識根拠だというのじゃ。


 リグ・ヴェー ダ等の聖典は、このブラフマンのありのままの本質を理解するための母 胎すなわち原因、認識根拠であるというのじゃ。
 聖典という認識根拠に基づいてのみ、ブラフマンが世界の生起等の原因であると理解されるという意味でなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 前のスートラでこのような聖典を引用して、聖典がブラフマンの典拠であることをすでに示しているとすれば、このスートラは何のために存在するのか聞いたのじゃ。。


 前のスートラの語からは聖典の意味が明確には理解されないので、単に推論を問題にしているのではないかという疑問が生ずることになるのじゃ。
 すなわちスートラI.1.2では、ブラフマンの本質を定義することは不可能ではないかという疑問を退けて、定義が可能であると述べたのじゃ。
 このスートラでは 聖典に言及することで、その定義に関する疑問、ブラフマンの定義に基づいてブラフマンの存在が推論されるのではないかという疑問を退け、ブラフマンに関しては聖典が認識根拠であると述べているのじゃ。

647避難民のマジレスさん:2022/10/19(水) 00:32:24 ID:KXJII9pk0
『パーマティー』I.1.4

1.聖典はブラフマンを知る典拠ではないという反対主張 p355-356 179右/229

  [反対主張]しかしどうして聖典が、ブラフマン[を知る]認識根拠だと言えるのか。というのは、聖典が行為のためのものであることは、[『ミーマー ンサー・スートラ』に]「聖典は行為(祭式)のためのものであるから、それ (行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」493と明示されているからである。従って、ウパニシャッドの諸聖典句は、行為を目的としていないから無意味であるが、[祭式の]執行者や神格等を明らかにすることを目的とすという形で行為(祭式)[を命ずる]儀軌に従属するか、あるいは、念想494等の[祭式とは]異なる行為を命ずることを(目)的とするがのいずれかであろう。
  というのは、[聖典が]すでに存在している事物を明らかにすることはありえないがらである。何故なら、(1)すでに存在している事物は直接知覚等の対象であう、(2)またそれ(すでに存在している事物)を明らかにすることに は、取捨の指示が含まれていないので、人間の役に立たないからである。[だが]まさに同じ理由で、「彼は泣いた」495等[の聖典句]が無意味とならないようにというので、[これらの聖典句は]儀軌を賞賛するという点で意味があるということが、「だが、[これらの諸聖典句は]儀軌と同一の文章を構成するから、儀軌を賞賛するためのものなのである」496と述べられているのである。
  また、「強くなるために汝を[切るのだ]」等497の真言も、行為(祭式)とそれ[を成立させる]手段を述べているという点で、祭式と常に関係しているということが、[『ミーマーンサー・スートラ』に]述べられている。ともあれ、 ヴェーダの諸聖典句が儀軌と関わりなく意味をもつなどということは、どこにも見られないし、どこにも論証されていないのである。 また、儀軌がすでに存在する事物の本性に関わることはありえない。何故なら、儀軌の対象は行為だからである。従って、ウパニシャッドの諸聖典句は、 祭式に必要な執行者の性質や神格等を明らかにするという形で、行為(祭式) を[命ずる]儀軌に従属するのである。
  またたとえ、「[ウパニシャッドというヴェーダの知識部とヴェーダの祭事部とは]主題が異なるという恐れがあるから、これ[ウパニシャッドの諸聖典句が祭事部に説かれている儀軌に従属するという見解]は認められない」としても、[ウパニシャッドの諸聖典句は]、自らの聖典句の中に説がている念想等498の行為のためのものなのである。従って、聖典はブラフマン[を知る]典拠ではないのである。

脚注
493これは反対主張であり、祭式行為を目的としない無意味な聖典句の例として、「彼は泣いた。泣いたから、ルドラ神はルドラと呼ばれる ようになったのである」等が挙げられている。このような反対主張にたいして、答論者は、「これらの諸聖典句は、祭式式行為の意義を説明する釈義だから意味(目的)があるのだ」と答えているのである。
494
495 「等」には、プラジャーバティは自分の網(もう)を取り出した」などが含まれるものと思われる。
496 祭式行為を目的としない諸聖典句は無意味であるとする先の反対主張に対する答論が、このスートラ以下であり、 そこでは先の聖典句の意義が釈義という形で説明されている。すなわち、たとえば、「彼は泣いた云々」の場合には、この聖典句は、「銀をクシャ草の上に捧げるべきではない」という禁令に従属し、何故そうしてはいけないのかという理由をこの聖典句が次のように説明しているとされるのである。すなわち、「彼は泣いた云々」の次に「彼の流した涙が銀になる」という聖典句があり、銀はルドラの涙であるから、「供犠で銀を捧げると、一年もたたないうちに、[供犠を行った人の]家のなかに泣くこと(不幸)起こる」ので、供犠においてクシャ草の上に銀を捧げてはならないのである。これは、釈義の持つ二つの意味のうち、祭式行為を非難するほうの例であるが、賞賛するほうの例としては「プラジャーバティ云々」という聖典句がある。
497 祭式の際に唱えられる真言も、それ自体では行為を命じているわけではないが、「強くなるために汝を」という真言はダルシャプールナマーサ祭に用いる木の枝を切るという行為を行う時に唱えられるという形で、祭式行為と常に関連しているし、また、祭火を設置する祭式 の際に「アグニ神が頭である」と唱える場合には、祭式行為を成立させる手段の一つである神格について語っているので、常に祭式と関連しているのである。
498「等」には聴聞等が含まれる。
(´・(ェ)・`)つ

648鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/19(水) 23:58:33 ID:edTHfve20
 反対なのじゃ。
 聖典はブラフマンを知る認識根拠ではないというのじゃ。
 なぜならば聖典とは行為のためのものであるからというのじゃ。
 
 聖典がすでに存在しているブラフマンを明らかにすることもありえないというのじゃ。
 なぜならばすでに存在しているものは直接知覚の対象であり、取捨の対象ではないからなのじゃ。
 それでは人の役にはたたないというのじゃ。
 
 ヴェーダの諸聖典句が儀軌と関わりなく意味をもつということは、どこにも見られず、どこにも論証されていないのじゃ。
 儀軌がすでに存在する事物の本性に関わることはありえないのじゃ。
 何故なら、儀軌の対象は行為だからなのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句は、祭式の行為を命ずる儀軌に従属するものというのじゃ。

 ウパニシャッドの諸聖典句は、自らの聖典句の中に説がている念想等の行為のためのものなのじゃ。
 そうであるから聖典はブラフマンを知る典拠ではないというのじゃ。

649避難民のマジレスさん:2022/10/20(木) 00:14:28 ID:ezP1.vB.0
1.1.反対主張の趣旨説明 p356-358 180左/229

  [答論者の解説][前スートラでは、第二の解釈として]、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であると、ただ単に主張されていただけであった。そこでこのスートラでは、[そのことを]説明すべきであるというので、註作者は、スートラが言外に暗示している反対主張を[次のように]提示するのである。しかしどうして云々と。 [ここで]どうしてというのは反対主張の意味である。
  [反対主張]ブラフマンは、本性上、清浄で、悟っており、無関心な存在なので、無視すぺきなのである。というのは、(1)[このような]すでに存在するものについて述 べている諸ウパニシャッドは、人間の目的(祭式行為)を説くものではない[ので]、 無目的(無意味)であることになるし、(2)さらに、すでに存在するものを対象としているため、[諸ウパニシャッドは]直接知覚等と対象が同一であることになり、その ため世間一般の文章と同じように、それ(直接知覚等)の対象に再び言及(anuvāda) していることになり、認識根拠ではないことになってしまう499、という誤謬に陥るか らである。実に世間一般の文章は、[自ら]以外の認識根拠の対象である事物を伝えるものなので、自立した認識根拠ではないのである。諸ウパニシャッドもそれと同じである。従って、それ(諸ウパニシャッド)の場合には、認識根拠であるという性質一[それは自ら以外の認識根拠に]基づかないということを特徴とする一が損なわれるのである。
  しかし一方、それら(諸ウパニシャツド)が認識根拠ではないというのも正しくない。また、無目的(無意味)なものである[というのも正しくない]。というのは、[諸ウパニシャッドには]ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌によって明らかにされた目的 (意味)があることは、決まっているからである500。従って、[諸ウパニシャッドは]、あれこれの命じられた祭式に必要な執行者や神格などを明らかにすることを目的とするという形でのみ、行為(祭式)に役立つのである。しかしもし、「[ウパニシャッド は、儀軌を説く祭事部の]近くに位置していないから、それ(儀軌の命ずる祭式に必要 な執行者や神格等を明らかにすること)を目的とするとは認められない」とするなら、その場合には、諸ウパニシャッドは、近くに位置する念想等の行為のためのものであろう501。
  このように実に、[諸ウパニシャッドは]、直接知覚等によっては理解されないものを対象としており、かつ[他の認識根拠に]基づかないので、認識根拠でありかつ目的 (意味)のあるものである、と確定されるのである。以上が[反対主張の]趣旨なので ある。
  [答論者の解説]ところで、[『註解』本文中で]偉大な聖者(ジャイミニ)のスートラを引用しているのは、反対主張を補強するため[であって、その説を採用しているからではないの]である。[『註解』本文中の]無意味であるとは、無目的であるというこ とである。すなわち、再言及なので、[自ら以外の認識根拠に]基づいているから、正 しい認識を生じないという意味なのである。また、というのは云々からいずれかであ ろうまでは、要約の文章である。そして、というのは云々から論証されていないのであ るまでは、これ(要約の文章)を説明している箇所なのである。

脚注
499認識根拠とは、「まだ理解されていないものを理解させるもの」だとされる。また、これまで他の認識根拠(他のウェーダの文章)によって理解されていないものがはじめてその認識根拠によって命じられる場合に対して、すでに他の認識根拠によって理解されたものが再度言及される場合をいう。さらに、諸ウパニシャッドと直接知覚の場合にも、これと同原則に従えば、諸ウパニシャッドの説くすでに存在するものは、直接知覚という他の認識根拠によってすでに理解されているわけであるから、諸ウパニシャッドは認識根拠はないことになってしまうのである。
500ヴェーダの学習を命ずる儀軌とは、「ヴェーダを学習すべし」であるが、ミーマンサー学派はヴェーダの中には無意味なことはなに一つ述べられていないという前提に立つので、このような儀軌が存在する以上、ヴェーダの学習は必ずなにか有益な結果(たとえば、天界という果報を最終的にもたらす目に見えない結果、あるいはヴェーダの意味の理解という目に見える結果)をもたらすとされるのである。
501ヴェーダはヴェーダンタ側から言えば、祭式を主題とする祭事部(プラーフマナ)とブラフマンの知識を主題とす知識部(ウパニシャッド)に分かれるとされるが、ここで反対主張者は、両者の主題が 異なることを認めた上で、ウパニシャッドの主題はブラフマンの知識ではなくて念想であるとしているの である。
(´・(ェ)・`)つ

650鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/21(金) 00:02:31 ID:Oe9PRgP20
 反対意見の解説だというのじゃ。
 前のスートラでは聖典がブラフマンを知る認識根拠であると、ただ単に主張されていただけなのじゃ。
 このスートラではそれを説明するために反対意見を載せるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものについて述 べている諸ウパニシャッドは、人間の目的である祭式行為を説くものではないから無目的、無意味になるというのじゃ。
 そしてれはすでに存在するものを対象としているため、諸ウパニシャッドは直接知覚等と対象が同一であることになるのじゃ。
 そうであるから世間一般の文章と同じように、直接知覚等の対象に再言及していることになり、認識根拠ではないことになってしまうというのじゃ。

 世間一般の文章は、自ら以外の認識根拠の対象である事物を伝えるものなので、自立した認識根拠ではないのじゃ。
 諸ウパニシャッドもそれと同じなのじゃ。
 諸ウパニシャッドの場合には、認識根拠であるという性質が損なわれるからなのじゃ。

 しかし諸ウパニシャツドが認識根拠ではないというのも正しくないのじゃ。
 諸ウパニシャッドにはヴェーダの学習を命ずる儀軌によって明らかにされた目的、意味があるのじゃ。
 諸ウパニシャッドは祭式に必要な執行者や神格などを明らかにすることを目的とするという形でのみ、行為である祭式に役立つのじゃ。
 ウパニシャッドは直接知覚等によっては理解されないものを対象としており、他の認識根拠に基づかないので、認識根拠でありかつ目的 、意味のあるものとなるのじゃ。

 解説なのじゃ。
 本文中でジャイミニのスートラを引用しているのは、反対主張を補強するためで、その説を採用したのではないのじゃ。
 無意味であるとは、無目的であるということなのじゃ。
 再言及なので自ら以外の認識根拠に基づいているから、正しい認識を生じないという意味だというのじゃ。

651避難民のマジレスさん:2022/10/21(金) 00:38:21 ID:470jMM2s0
1.1.1.ウパニシャッドは祭式に必要なものを明らかにするためのものである  p358-360 181左/229

   [反対主張に対する反論]諸ウパニシャッドは、行為には役立たないが、ブラフマンの本性を教示する儀軌を専ら説いているのであろう。そしてこのような意味で、「だが、[これらの聖典句は]儀軌と同一の文章を構成するから云々」502という[ミーマー ンサー学派の]定説[を述べている]スートラが重んじられるべきなのである。すなわち儀軌とは、まだ開始されていない活動を引き起させるだけのものではないのである503。何故なら、根本儀軌(utpattividhi)504の目的はまだ知られていないものについて教えるところにあり、諸ウパニシャッドは、まだ知られていないブラフマンについ て教えている[ので]、そのような(根本儀軌という)性質があるからである。
  [反対主張]だから[以上のような反論に対して、『註解』本文では次のように]答えているのである。また[儀軌が]すでに存在する[事物の本性に関わることはありえ] ないと。実に、「すべての儀軌は、まだ存在していないものであってかつこれから生じようとしているもののみを対象としている」と認めるべきである。というのは、(1)資格儀軌(adhikāravidhi)、関係儀軌(viniyogavidhi)、執行儀軌(prayogavidhi)、根本儀軌は、相互に不可分に結びついており505、(2)それら(四種の儀軌)は、すでに存在するものに対しては[作用し]えないからである506。ただし、それら(四種の儀軌)の文章の目的は、それぞれ異なっているのである。たとえば、「アグニホートラ祭を行う[べきである]」という聖典句(儀軌)には、根本儀軌の意味しかない。何故なら、資格、関係、執行に関しては、「天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである」等[の儀軌]によってすでに理解されそいるからである。だが、この(「アグニホートラ祭を行う[べきである]」という儀軌の)場合でも、執行等が存在しないわけでは ない。[それらは]存在していても、別の[儀軌]から理解されるので、 [ここではこの儀軌によって]意図されていないにすきないのである。従って、志向を対象とする儀軌が、すでに存在する事物に対して[作用することは]ありえないのである507。[そして以上の議論を]結論づけて、[反対主張者は『註解』本文中で]、従って、[ウパニ シャッドの諸聖典句は、祭式に必要な執行者の性質や神格等を明らかにするという形で]云々と[述べているのである]。

1.1.2.ウパニシャッドは念想等のためのものである p360-361 182/229

  ここで[以上のように、反対主張に対する反論に]満足できない理由を述べたのち、[反対主張者は]またたとえ云々と別の見解を紹介しているのである。すなわち、『註解』本文に述べられている通りだとすると、聖典は先に述べたような性質のあるブラフマン(すなわち、すでに存在する事物としてのブラフマン)[について教えること]を意図していないことになるので、これ(ブラフマン)の性質が、[念想を命ずる儀軌に従属している聖典とは]異なる認識根拠(すなわち「汝はそれなり」等の個人存在とブラフマンとの同一性を明らかにする聖典句)によって確立されることになろうが、[ブラフマンの性質は]、その(念想に従属する)聖典と矛盾しないのである508。というのは、それ(「汝はそれなり」等の聖典句)は念想のためのものであり、また、念想は附 託によっても可能だからである509。[そして以上の議論を]結論づけて、[反対主張者は、『註解』本文中で]従って、[聖典はブラフマンを知る典拠ではないのである]と [言っているのである]。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

652避難民のマジレスさん:2022/10/21(金) 00:39:06 ID:470jMM2s0
(つづき) p358-359
脚注
502 脚注496参照のこと。
503儀軌とは、「ヴェーダのなかで、まだ知られていない好ましい事柄を教える部分のこと」で、たとえば、「天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである」という儀軌の場合には、この儀軌は、天界という有意義な結果をもたらす護摩一それはこの儀軌以外の認識根拠によっては知られない一を行うこと を命じているのである。この儀軌には、まだ開始されていない活動を引き(起)こさせるという側面(たとえは、アグニホートラ祭という活動を引き起こす)と、儀軌を聞く以前には(ま)だ知らていないことを教えるという側面(たとえば、天界を望む者がアグニホートラ祭を行うぺべきであることは、この儀軌を聞く以前には知られていない)とがある。
504儀軌は、根本儀軌、関係儀軌、資格儀軌、執行儀軌の四種に分類される。そのうち、根本儀軌とは、「祭式そのもののみを教える儀軌」のことで、たとえば、「アグニホートラ祭を行う[べきである]」という儀軌がそうである。ここで、反論者の立場にたてば、この儀軌はアグニホートラ祭というまだ知られていない祭式そのものについて教えているにすきないということになるが、ミーマーンサー学派に言わせれば、この儀軌は、 「アグニホートラという護摩によって望ましきものを生じさせるべきである」ということを意味しており、やはりまだ開始されていない活動を引きこすものでもあるとされるのである。
505 関係儀軌とは、「従属するものと主要なものとの関係を教える儀軌」のことで、たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う[ぺきである]」という儀軌がそうである。すなわち、この場合、この儀軌は、「ヨー グルトという手段によって護摩という目的を実現せよ」という意味で、ヨーグルトが護摩に対して従属関係にあることを示しているのである。また、資格儀軌とは、「祭式から生ずる果報の所有者を教える儀軌」、 すなわち、祭式執行の結果得られる果報を誰が享受するかということを教える儀軌のことである。たとえば、天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである、という儀軌がそうである。この場合、天界を望む者がアグニホートラ祭執行の結果得られる天界という果報を享受することができるわけであるが、その果報を享受できるということは当然、アグニホートラ祭を行うことのできる諸資格も備えているということになるのである。また、執行儀軌とは、執行の迅速なることを教える儀軌のことで、これは、祭式そのものについて命じている儀軌(たとえば、アグニホートラ祭を行う[べきである]等の根本儀軌) と祭式に付随している事柄について命じている儀軌(たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う」等の 関係儀軌)が一組になったものである。すなわち、この執行儀軌によって主要な祭式とそれに従属する祭 式とが一つの全体の祭式を構していることが理解され、それらの祭式が一定の手順で迅速に行われるぺきことが理解されるのである。なお、これらの儀軌が祭式を執行するために相互に不可分に結び付いていることについては説明を要しないであろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

653避難民のマジレスさん:2022/10/21(金) 11:56:40 ID:VL1lr7pc0
(つづき)  
脚注   p359-361
506 諸ウパニシャッドの説くすでに存在するものは、活動ではないから.「まだ開始されていない活動を引き起こす。儀軌の対象でないのは言うまでもない。さらに、すでに存在するものは直接知覚等によってすでに知られているわけだから、まだ知られていないものについて教えている、儀軌の対象でもないのである。従って、儀軌はとんなものであれ、すでに存在するものに対して作用することは、ないのである。
507 志向とは、「生み出すものに存在するある種の働きで、生み出されるものが生ずることを促すもの」であり、これには依言志向と依果志向の二種がある。たとえば、先の「天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである」を例にとれば、このヴェーダの文章を聞いてから天界を獲得するまでには、次の二つの段階がある。すなわち、(1)このヴェーダの文章を聞いてから、アグニホートラ祭を行おうという心の動きが天界を望む者に生ずるまでの段階と、(2)アグニホートラ祭を行おうという心の動きが天界を望む者に 生じてから、その人が天界を獲得するまでの段階である。このうちまず、第一段階では、「天界を望む者は云々」というヴェーダの文章が「生み出(す)もの」であり、天界を望む者にアグニホートラ祭を行わせようと するこの文章の意図が「志向」(依言志向)であり、アグニホートラ祭を行おうという天界を望む者の心 の動きが「生み出されたもの」である。そして第二段階では、天界を望む者が「生み出すもの」であり、アグニホートラ祭を行おうという天界を望む者の心の働きが「志向」(依果志向)であり、天界を望む者 が天界を獲得すことが「生み出されたもの」である。要するに、志向とは、活動を起こさせようという意志あるいは活動しようという意志のことで、そのうち、人に何かをさせようとする意志が依言志向(言葉 によって表された志向)であり、自ら何かをしようという意志が依果志向(結果をもたらす志向)なのである。そして、これらはそれぞれ、動詞の接尾辞「•••すべきである」の願(望)法の語尾としての部分と、動詞の語尾としての部分によって表される。従って、すべての儀軌は、動詞の語形としては願望法が用いらていない場合もあるにせよ、実際にはこのような二種の志向を表しているので、活動を命じていることになる。そのため、儀軌が(です→すで)に存在する事物に対して作用することはないのである。
508
509これは、「お前の見解によれば、個人存在とブラフマンは同一ではないのに、どうしてお前にそれらの同一性に関する念想が存在しうるのか」という反論に対する反対主張者の答えだとされている。
(´・(ェ)・`)つ

654鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/22(土) 00:07:44 ID:FL7XR5dU0
答えたのじゃ。 
 諸ウパニシャッドは行為には役立たないが、ブラフマンの本性を教示する儀軌を専ら説いているというのじゃ。
 根本儀軌の目的はまだ知られていないものについて教えるところにあるのじゃ。
 ウパニシャッドは、まだ知られていないブラフマンについて教えているから根本儀軌の性質があるというのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 儀軌がすでに存在する事物の本性に関わることはありえないというのじゃ。
 すべての儀軌は、まだ存在していないものでこれから生じようとしているものだけを対象としていると認めるべきなのじゃ。
 すべての儀軌は相互に不可分に結びついており、すでに存在するものに対しては作用しえないからなのじゃ。
 志向を対象とする儀軌が、すでに存在する事物に対して[作用することはありえないのじゃ。

 さらに本文に述べられている通りだとすると、聖典はブラフマンについて教えることを意図していないことになるのじゃ。
 ブラフマンの性質が聖典句によって確立されることになるのじゃ。
 ブラフマンの性質は、念想に従属する聖典と矛盾しないのじゃ。
 「汝はそれなり」等の聖典句は念想のためのものと看做すことができるのじゃ。
 念想は附託によっても可能であるのじゃ。
 そうであるから聖典はブラフマンを知る典拠ではないと言っているのじゃ。

655避難民のマジレスさん:2022/10/22(土) 00:47:27 ID:wXxa30NA0
2.聖典がブラフマンを知る典拠であるという答論 182右

2.1.ウパニシャッドは祭式に必要なものを明らかにするためのものはない。 p361-363

  以上のような反対主張に対して、[『ブラフマ・スートラ』は次のように]答えている。

  だが、それ(ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されること)は[何故か]。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句はブラフマンを教示するという点でその意図が]一致しているからであ る(tat tu samanvayāt.BS I.1.4)。

  [答論]「だが」(tu)という語は反対主張を退けるためのものである。 [そして]「それ」とは、すなわち、全知全能で、世界の生起・維持・帰滅の原因 であるブラフマンは、ウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるということである。何故か。一致しているからである(samanvayāt) 510すなわち、あらゆるウパニシャッド中において、諸聖典句は、この事物(ブラ フマン)を教示するという点でその意図が一致しているからである。たとえ ば、「愛児よ、太初にはこの[世界]は有のみであった。唯一にして無二であったのだ」511「実に太初には、この[世界]は唯一のアートマンのみであった」 512「まさにこのブラフマンには、前もなく、後もなく、内もなく、外もない。このアートマンがすべてを知るブラフマンなのである」513「前方にあるこの[すべて]は、不死なるブラフマンである」514等の[諸聖典句]が[そうである]。これら[の諸聖典句]に含まれている諸語の対象が、ブラフマンであると確定され、[諸語の意味が]一致していることが理解されている時に、それ以外の意味を想定することは正しくない。何故なら、聖典に述べられていることを捨てて聖典に述べられていないことを想定する、という誤謬に陥るからである。また、それら[の聖典句]が、専ら[祭式の]執行者の性質を明ら かにしているとは決まっていない。何故なら、「[すべてがアートマンのみとなったとき]、そのとき何によって何を見るべきなのか」515等の、行為、行為主体、[行為の]果報を否定する聖典句があるからである。

  [答論][師シャンカラは]、スートラによって[次のように]定説を述べているので ある。以上のような反対主張に対して[『ブラフマ・スートラ』は次のように]答えて いる。

  だが、それ(ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されることは)[何故か]。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句はブラフマンを教示するという点でその意図が]ー致しているからである。

脚注
510
511ここで言う「有」とはシャンカラ註によればブラフマンのことである。
512ここで言う「アートマン」とは、シャンカラ註によれば、ブラフマンのことである。
513 514
515当然のことだが、行為、行為者、行為の果報が否定されれば、祭式は成り立たない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

656鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/22(土) 23:24:48 ID:uReM1n8M0

 答えたのじゃ。
 実は聖典は祭式に必要なものを明らかにするためのものではないというのじゃ。
 全てのウパニシャッドはブラフマンを教えるためのものだったのじゃ。
 ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるというのじゃ。

 諸聖典句に含まれている諸語の対象が、ブラフマンであると一致しているという理解がされるべきだというのじゃ。

657避難民のマジレスさん:2022/10/23(日) 06:45:59 ID:4uL.bxCk0
(つづき) p362-363
 
  [そして]これ(スートラ)を説明して、「しかし」という語は云々と[言っているの である]。[そしてさらに、スートラ中の]「それ」という[語で表されている]定説の主張を詳しく説明して、「それ」とはブラフマン云々と[言っているのである]。[それに対して]、頭のかたい反対主張者が、何故かと尋ねる。[何故かとは]どのようにしてと いう意味である。[そこで]答論者は、自己の見解に対する根拠を、一致しているからであると[これまでとは]別の形で述べているのである。[ここで]一致(samanvaya)とは、[諸語の意味が]正しく相互に繋がっていることで、それ故に、[ブラフマンは ウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるのである]。まさにこのことを詳しく説明して、すなわちあらゆるウパニシャッド中において云々と[言っているのである]。[そして]、ウパニシャッドの諸聖典句が専らブラフマンを説いていることを説明 するために、[次のように]多くの聖典句が引用されている。「[愛児よ、太初にはこの 世界は]有のみで[あった]」等々と。ただし、「実にそれからこれらの諸存在が[生じたのである]」という聖典句は、以前にすでに引用されており、[ブラフマンが]世界の生起・維持・帰滅の原因であると[述べていた]516と、ここで思い出されるので、引 用してないのである。
 実に、聖典句がXで始まり、Xで終わっていれば、そのXが聖典句の意味である、というのが聖典に詳しい人々[の見解]なのである。たとえば、ウパームシュ祭に関する聖典句の場合、連続して[捧げる]二つの祭餅に関して、[連続して捧げるのが]途切 れるという欠陥について述べたのちに、ウパームシュ祭[を命ずる]儀軌があり、[最後に]それ(途切れるという欠陥)を避けることで結論づけられている517。この場合、 [これらの三種の文章は]、同一の文章(章句)を構成しているので、新規の(これまで 命じられていない)ウパームシュ祭についての儀軌を専ら説いてのだと認られる。同じようにここ(ウパニシャッド)でも、「愛児よ、この[世界]は有のみ云々」とブラフマン[についての記述]で始まり、「汝はそれなり」という形で個人存在のアートマ ンはブラフマンであると結論づけられているから、[この全体の]聖典句(章句)は、 まさにそれ(ブラフマン)を専ら説いているのである。同じように他の聖典句の場合 も、[文章の]前後関係を考えることによって、ブラフマンを専ら説いていると理解されるのである。また、[以上のような方法で]それ(ブラフマン)を専ら説くという目に見える形のものが可能なのに、それ以外のものを専ら説くという目に見えないものを想定するのは正しくない。何故なら、拡大適用という誤謬に陥るからである。さら に、それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が専ら[祭式の]執行者[の性質を明らかにしている]ということは、ただ単に見られないだけではなくて、論証されてもいないのである。だから[師シャンカラは、このことを]、それら[の聖典句]が、[祭式の執行 者の性質を明らかにするとは決まって]いない云々と言っているのである。

脚注
516本訳344頁参照。
517ダルジャプールナマーサ祭において、二つの祭餅を火に捧げる際、連続して二つの祭餅を捧げるという行為が途切れるのは良くないとされている。 そのため、この文章に続いて、途切れ(た)ときにはあいだにウパームシュ祭を命ずる儀軌が述べられている。そしてその後にさらに、途切れるという欠陥を避けるために、ヴィシュヌ等の三神にたいしてウパームシュ祭を行うべきことが述べられている。そしてこれら三種の文章は、同一の文章を構成しているので、この章句はウパームシュ祭を主題としていることが分かる。さて次に問題となるのが、「ウパームシュ祭を命ずる儀軌」いう文章が新規の儀軌なのか、それとも、三つの文章が新規の儀軌なのかということがで あるが、同一の文章において二つ以上の新規のことが命じれることはないという原則があるので、ヴィシュヌ等の三神に対してそれぞれウパームシュ祭を行うことを命じている三つの文章は儀軌ではあ りえない。従って、「ウパームシュ祭を命ずる儀軌が述べられている」という文章が儀軌であり、他の三つの文章は釈義であることになるのである。
(´・(ェ)・`)つ

658鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/24(月) 00:09:01 ID:1TTaSWHA0
 聖典の主題が複数の文章に渡っていても、同一とみなされるというのじゃ。
 そうであるから聖典はブラフマンを専らに説いているというのじゃ。
 
 他の聖典句でも文章の前後を考えれば、専らにアートマンを説いているといえるのじゃ。
 それらは目に見える形で証明できるのに、他の目に見えないものを説いているというのは正しくないのじゃ。
 それは拡大適用になるからなのじゃ。

 ウパニシャッドの聖典句が祭式の執行者の性質を明らかにするということは、見られず、論証もされていないのじゃ。
 そうであるからシャンカラはそれらの聖典句が、祭式の執行者の性質を明らかにするとは決まっていないといっているのじゃ。

659避難民のマジレスさん:2022/10/24(月) 02:10:42 ID:ue1aVzjQ0
2.2.先の様々な反対主張を退ける p364-365 184左/229

  さらにブラフマンは、本性上すでに存在している事物ではあっても、直接知覚等の対象ではない。というのは、ブラフマンがアートマンであることは、「汝はそれなり」という聖典句がなければ、理解されないからである518。ところで、[先に反対主張者が次のように主張していたが]、
   [反対主張][ウパニシャッドには行為の]取捨についての指示が含まれていないので、[その]教えは無意味である519。
   [答論]それは[われわれの]理論的欠陥ではない。何故なら、取捨[という行為]とは無縁なブラフマンがアートマンなのである、と悟ることによっ てのみ、あらゆる苦悩が滅せられて、人間の目的(解脱)が達成されるからである。
  確かに、[ウパニシャッド中で]神格等について説いているのが、自己の聖典句中の(すなわち、同じウパニシャッドに説かれている)念想のためであっ たとしても、なんら矛盾はない。だが、ブラフマンも同じように念想を命ずる儀軌に従属する、ということはありえないのである。というのは、[ブラフマンが]唯一[の存在]である[と知られた]時には、[ブラフマンは本来]取捨[という行為]と無縁な存在なので、[行為の前提となる]行為・行為主体等の二元[性に基づく]認識が破壊されてしまうことになるからである。さらに、もし[これらの二元性に基づく認識がその後再ぴ生ずるのだとすれ]ぱ、 ブラフマンが念想を命ずる儀軌に従属することもありえようが、二元[性に基づく]認識は、[ブラフマンが]唯一[の存在]であるという認識によって [いったん]破壊されれば、二度と再び生ずることはないのである520
  またたとえ、[ウパニシャッド]以外の箇所では521、ヴェーダの諸聖典句が 儀軌と無関係に認識根拠となるということが経験されないにしても、アートマンの認識は、[解脱という]果報をもって終わるので、それ(アートマンの認識)を主題とする聖典(ウパニシャッド)が認識根拠であることは、否定す ることができないのである。また、もし[聖典がブラフマンを知る認識根拠であることが推論から理解されるとすれ]ぱ、[ウパニシャッドという聖典]以 外のところで経験された例証が必要であろうが、聖典が[ブラフマンを知る] 認識根拠であることは、推論から理解されるようなものではない522。従って、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であると確定されるのである。

脚注
518「汝はそれなり」という聖典句は、「汝」の指示するアートマン と「それ」の指示するブラフマンとの同一性を教える聖典の偉大な文章(大文章)として、不二一元論学派で極めて重要視されており、何故ブラフマンとアートマンとの同一性を示している文章だと解釈しうるのかという点に関して様々な解釈が行われている。
519 本訳355頁参照。
520 念想は行為の一種であり、念想という行為、念想する人(行為者)、念想の対象(行為の対象)等の区別が存在するという認識を前提としているので、ブラフマンが唯一の存在であるという認識とは相入れないのである。
521 祭事部における釈義等の箇所のことである。
522この点に関しては372頁参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

くま質問
4つ目の段落(確かに〜)の『自己の聖典句』とは、アートマン、ブラフマンの絶縁句という意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

660避難民のマジレスさん:2022/10/24(月) 06:39:45 ID:A3rMH/8Y0
>>659
訂正
くま質問•••
絶縁句→聖典句

(´・(ェ)・`)b

661鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 00:32:33 ID:8525DWIM0
 さらにブラフマンはすでに存在しているが、直接知覚の対象ではないというのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであることは、「汝はそれなり」という聖典句がなければ理解されないからというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドには行為の取捨についての指示が含まれていないので、その教えは無意味というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 取捨とは無縁なブラフマンがアートマンなのである、と悟ることによっ てのみ、あらゆる苦悩が滅せられて、人間の目的である解脱が達成されるというのじゃ。
 
 ウパニシャッド中で神格等について説いているのが、自己の聖典句中の念想のためであっ たとしても、なんら矛盾はないのじゃ。
 しかしブラフマンも同じように念想を命ずる儀軌に従属する、ということはありえないのじゃ。
 ブラフマンが唯一の存在であると知られた時には、それは取捨と無縁な存在なので、行為と行為主体等の二元性に基づく認識が破壊されてしまうからなのじゃ。
 それが元に戻ることもないのじゃ。
 
 ヴェーダの諸聖典句が儀軌と無関係に認識根拠とならくとも、アートマンの認識は解脱という果報をもって終わるから、それを主題とする聖典が認識根拠となるのじゃ。
 そうであるから聖典がブラフマンの認識根拠であると確定されのじゃ。

662避難民のマジレスさん:2022/10/25(火) 07:46:43 ID:ESRIuovU0
2.2.1.ウパニシャッドはすでに存在するものを対象としていても正しい認識根拠である P365-366 184右/229

  [ウパニシャッドは自ら以外の認識根拠に]基づいているから認識根拠ではない、という反対主張の論拠を、[師シャンカラは、次のように]批判しているのである。[さてブラフマンは]、本性上すでに存在している事物ではあっても云々と。その意図は以下の通りである。
  実に、[あなた反対主張者は]、普通の人間の文章を例として、「ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としているから、[直接知覚等の自己以外の認識根拠に]基づくのではないか」と疑っているのであろう。もしそうなら、ここであなたにお尋ねしよう。お答えいただきたい。人間の文章が[文章以外の認識根拠に]基づくのは、はたしてそれが、すでに存在するものを対象としているからであろうか、それとも、[それが]人間のものだからなのであろうか。もしすでに存在するものを対象としているからであるとすると、その場合には、直接知覚等も、相互に依存し合っているわけだから523、認識根拠ではないということになってしまうであろう。というのは、 それら(直接知覚等)もすでに存在するものを対象としているからである。一方、人間 の文章は、人間の統覚機能から生ずるから、[自己以外のものに]基づいているのだと すると、この場合には、それ(人問の統覚機能)を前提としないウパニシャッドの諸聖典句は524、一定の感覚器官や徴標(lińga)から生ずる直接知覚等と同じように525、 たとえすでに存在するものを対象としていても、認識根拠であるということになろう。
   [反対主張]実に、ウパニシャッドの諸聖典句は、人間の手になるものではないと確定していれば、[自ら以外の認識根拠に]基づくことはないので、認識根拠であると確定されよう。ところが、[ウパニシャッドが]すでに存在するものを対象としているために、そのこと(ウパニシャッドが人間の手になるものではないということ)自体が確定していないのである。というのは、(1)すでに存在する対象に関して、人は、聖典に基づかなくても、[聖典]以外の認識根拠に基づいて認識することが可能なので、 [人問の]統覚機能に基づいて[その対象に関する文章を]作ることが成り立つからであり、(2)また、文章であること等を理由として、[ウパニシャッドをも含む]ヴェー ダが人間の手になるものであるを推論することは、なんの障害もなく、成立するからである526。従って、[ウパニシャッドがそれ以外の認識根拠に]基づくということが避けられないのは、[それが]人問の手になるものであるという理由によるのであって、すでに存在するものを対象としているからではないのである。

脚注
523「直接知覚等」の「等」は推論のことを意味している。直接知覚はもちろん推論もすでに存在するものを対象としているわけであるが(たとえば、これまで火というものをどこかで見たことがなけれ ば、煙を見ても山に火があるとは推論できない)、推論は徴標が直接知覚されていなければ成り立たないという意味で直接知覚に基づいており、直接知覚はあいまいな場合には推論によって確認されるといつう意味で推論に基づいている。このように両者は互いに依存し合っているから、もしすでに存在するものを対象とするウパニシャッドの諸聖典句が直接知覚等の自己以外の認識根拠に基づいているので正しい認識根拠でないとすると、直接知覚は推論も同じように正しい認識根拠ではないことになってしまう。
524 ミーマーンサー学派とヴェーダーンタ学派の両派にとって、ウパニシャッドを含むヴェーダ聖典は人間の作ったものではないとされている。ただし、ミーマーンサー学派の場合には、ヴェーダは永遠の過去から存在しているとして、人間はもちろん主宰神もその作者だとは認めないが、ヴェーダーンタ学派の場合には、主宰神がその作者だとされている。
525もし、ニヤーヤ学派やウァイシェーシ力学派の主張するように、直接知覚が感覚器官と対象との接触 によって起こる認識であれば、直接知覚は感覚器官と対象が接触することによって自動的に生ずるわけだ から、それが人間の統覚機能に基づかないことは理解できる。だが、推論知の場合に、それが人間の統覚機能に基づかずに徴標から生ずるというのはどういうことかについてはここでは不明である。
526 「ヴェーダの文章は人間の手になるものである。何故なら文章だからである。カーリダーサの文章のように」。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

「自己の」は、聖典句ではなくて、念想にかかっているのでありますね。ありがとうでありました。
(´・(ェ)・`)b

663鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 23:37:34 ID:5G6CKgYU0
 反対派は普通の人間の文章を例としてウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としているから、直接知覚等の自己以外の認識根拠に基づくのではないかと疑っているのじゃ。
 人間の文章が文章以外の認識根拠に基づくのは、はたしてそれがすでに存在するものを対象としているからか、それともそれが人間のものだからじゃろうか。
 
 もしすでに存在するものを対象としているからならば直接知覚等も、相互に依存し合っているわけだから認識根拠ではないということになるのじゃ。
 直接知覚等もすでに存在するものを対象としているからなのじゃ。

 人間の文章は人間の統覚機能から生ずるから自己以外のものに基づくとすると、人問の統覚機能を前提としないウパニシャッドの諸聖典句は直接知覚等と同じようにすでに存在するものを対象としていても、認識根拠であるということになるのじゃ。

 
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドがすでに存在するものを対象としているために、ウパニシャッドが人間の手になるものではないということ自体が確定していないというのじゃ。
 すでに存在する対象に関して、人は聖典に基づかなくてもそれ以外の認識根拠に基づいて認識することが可能なのじゃ。
 人問の統覚機能に基づいてその対象に関する文章を作ることが成り立つからなのじゃ。
 文章であること等を理由として、ウパニシャッドをも含むヴェーダが人間の手になるものであるを推論することは、なんの障害もなく成立するのじゃ。
 ウパニシャッドがそれ以外の認識根拠に基づくということが避けられないのは、それが人問の手になるものであるという理由によるのじゃ。
 すでに存在するものを対象としているからではないのじゃ。

664鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 23:38:51 ID:5G6CKgYU0
>>662 どういたしまして、またおいでなさい。

665避難民のマジレスさん:2022/10/26(水) 00:28:22 ID:HJ/1Z6FU0
(つづき) p366-367
  ところが、[ウパニシャッドが]実現しなけれぱならないものを対象としているとすると、(1)実現しなければならないもの、すなわち新得力(aparva)527は、[ウパニシャッド]以外の認識根拠の対象ではないし、(2)[新得力のように]これまでまった く経験したことのないものは、その本来の姿でにしろ附託された姿でにしろ、人間の意識にのぼることはないので、それ(実現しなければならないもの、すなわち新得力)を 対象とするウパニシャッドの諸聖典句は、作ることができなくなり、その結果、人問の 手になるものであるという性質が存在しないことになるから、[自ら以外のものに]基づかず、従って認識根拠である、と確定されるのである。このようなわけでわれわれ は、[ウパニシャッドが]認識根拠であること[を守る]ために、ウパニシャッドの諸聖典句は実現しなければならないものについて説くためにあるのだと主張しているの である。
  [答論]ああ、あなたは長生きするよ。[ではお尋ねするが]、この[あなたが]言わんとしている実現しなけれぱならないものとは、人間には知ることのできないものなのか。
  [反対主張][目に見えない果報]新得力のことである。
  [答論]ああなんということを。これ(新得力)がどうして[命令等を示す接尾辞である]liń等の意味となれるのか。というのは、(1)[人間の]経験を超えたそれ(新 得力)が、[接尾辞liń等と]関係するという認識は、存在しないからであり、(2)ま た、通常[の言葉の用法]に従えば、接尾辞liń等からは、経験される行為が実現(遂行)しなけれぱならないものだと理解されるからである。
   [反対主張]「天界を望む者は供犠を行うべきである」という[儀軌]からは、実現しなければならない対象である天界によって限定された者が、供犠の執行者であると理解され、さらにその者は、天界に[達するのに]適したことが実現(遂行)しなけれ ぱならないことなのだ、と理解するのである。また、瞬時に減する行為は、来世に属す天界[を得るの]には適しないので、必然的にヴェーダにのみ基づいて、「liń等の接尾辞が、実現しなければならないもの、すなわち新得力と関係しているのだ」理解される のである528。

脚注
527 新得力については、脚注243参照のこと。
528「天界を望む者は供犠を行うべきである」という儀軌の場合、(行うべきである)が、これは「実現しなければならないもの(行わなければならないもの)」 を表示している。この「実現しなければならないもの」は、ヴェーダ聖典以外の通常の文章の場合には、聖典以外の認識根拠によって知ることのできる行為(「たとえば、牛を連れて来い」という文章の場合には、連れて来るという行為はすでにとこかで経験されている行為である)である。だが、ヴェーダ聖典の儀軌の場合には、この「実現しなければならないもの」は、祭式というような行為ではない。何故 なら、祭式という行為は瞬時に滅するので、死後に獲得される天界に達するのに適していないからであ孔る。従って、祭式の執行ののち天界を獲得するまで存続するものが天界に達するのに適したものとして必要とされ、これこそが「実現しなければならないもの」であることになるが、それが新得力なのである。このように命令の意味を表す接尾辞は新得力を表示しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

666鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/27(木) 00:06:45 ID:PiSGWw3I0
 ウパニシャッドが実現しなけれぱならないものを対象としているとすると、実現しなければならないもの、新得力はウパニシャッド以外の認識根拠の対象ではないことになるというのじゃ。
 これまでまったく経験したことのないものは、その本来の姿ででも附託された姿でも、人間の意識にのぼることはないじゃろう。
 それでは新得力を 対象とするウパニシャッドの諸聖典句は作ることができなくなるのじゃ。
 
 その結果、人問の 手になるものであるという性質が存在しないことになるのじゃ。
 そして自ら以外のものに基づかず、従って認識根拠であると確定されるのじゃ。

 そうであるからわれわれはウパニシャッドが認識根拠であることを守るために、ウパニシャッドの諸聖典句は実現しなければならないものについて説くためにあるのだと主張しているというのじゃ。


 答えたのじゃ。
 実現しなけれぱならないものとは、人間には知ることのできないものなのかと聞いたのじゃ。。

 反対なのじゃ。
 目に見えない果報、新得力のことだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 新得力なぜ命令等を示す接尾辞である等の意味となれるのか、というのじゃ。
 人間の経験を超えた新得力が、接尾辞等と関係するという認識は、存在しないからなのじゃ。
 また通常の言葉の用法に従えば、接尾辞等からは、経験される行為が実現しなけれぱならないものだと理解されるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 天界を望む者は供犠を行うべきである」という儀軌からは、実現しなければならない対象である天界によって限定された者が、供犠の執行者であると理解されるじゃろう。
 さらにその者は、天界に達するのに適したことが実現しなけれ ぱならないことなのだ、と理解するのじゃ。

 さらに瞬時に減する行為は、来世に属す天界を得るのには適しないのじゃ。、
 そうであるから必然的にヴェーダにのみ基づいて、・・等の接尾辞が、実現しなければならないもの、すなわち新得力と関係していると理解されるのじゃ。

667避難民のマジレスさん:2022/10/27(木) 06:27:26 ID:NYNmgcMQ0
(つづき)  p367-368
  [答論]ああなんということを。[もしそうだとすると]、チャイティヤ(仏塔)を崇拝することを命ずる文章等の場合にも、「天界を望む云々」という語と結びついているわけだから、新得力が実現しなければならないものであることになる、という誤謬に陥ることになるであろう。そうなれば、それら(チャイティヤを崇拝することを命ずる文章)も、[人間が]作ることは不可能であるということになるから、人間の手になるものではないことになってしまうであろう529。あるいは、もし、それら(チャイティヤを崇拝することを命ずる文章)は、人間の手になることがはっきりしているので、新得力のためのものであることが否定されるとすると、[ウパニシャッドを含む]ヴェーダの諸聖典句も、[同じく]文章であるから等の理由で、人間の手になるものだと推論で.きることになり、その結果、[それらは]新得力のためのものではないことに なろう。一一方、「文章である等を理由に[ヴェーダの諸聖典句が人間の手になるものであるとする]推論は誤りである」と、もし別の根拠に基づいて示せるとすると、この (ウパニシャッドの)場合に、それ(人問の手になるものではないこと)を示す根拠として、[それが]新得力のためのものだからであるという理由をあげるのは余分なことであろう530。なお、[ウパニシャッドが]人間の手になるものでないことについては、 [私はすでに]『ニヤーヤカニガー』のなかで説明したので531、ここでは[論議が]拡散することを恐れて論じないことにする。ともかくこのように、[ウパニシャッドが]人間の手になるものでないことが確定すれば、ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としていても、[自ら以外の認識根拠に]基づくことを理由に[その] 妥当性が損なわれることはないのである。また。もし[ウパニシャッドが、すでに他の認識根拠によって理解されていることばかり教えていて、まだ理解されていないことは教えないとすれ]ば、[それは]認識根拠とはいえないだろうが、「[ウパニシャッドは]また理解されていないものを理解させるわけではない」532などということはないのである。何故なら、個人存在がブラフマンであることは、[ウパニシャッド]以外のものからは理解されないからである。以上のことが、[さてブラフマンは]本性上すでに存在している事物ではあっても云々と[『註解』本文中に]述べられているのである。

脚注
529天界を望んでチャイティヤ(仏塔)が崇拝されることがあるが、このチャイティヤ崇拝は仏陀の死後に生じたものであるから、チャイティヤ崇拝を命ずる文章が人闇の手になることは明らかである。またこのチャイティヤ崇拝は仏教徒のものであり、仏教徒はヴェーダ聖典の権威を認めていないので、ヴェーダ聖典の儀軌に従って行った祭式の果報として生ずる新得力が仏教徒の場合にも実現しなければならないものであるというのは理に合わないのである。
530ヴェーダの文章が人間の手になるものではないことを証明する別の根拠として、「ヴェーダの場合にはその作者が思い起こせない」という理由を挙げている。ヴェーダの場合がそうなら、ウパニシャッドの場合にも、その作者が思い起こせないという同じ理由で、人間の手になるも のでないことが証明されるはずである。従って、新得力云々という理由を挙げるのは余分なことになるのである。
531
532 本訳257頁以下参照。
(´・(ェ)・`)つ

668鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/28(金) 00:14:44 ID:d474Ayao0
 答えたのじゃ。
 反対論の通りならば、仏塔を崇拝することを命ずる文章等の場合にも、天界を望む云々という語と結びついているから新得力が実現しなければならないものになるのじゃ。
 そうするとそれも、人間が作ることは不可能であるということになるから、人間の手になるものではないことになるのじゃ。

 崇拝することを命ずる文章は、人間の手になることがはっきりしているから、新得力のためのものであることが否定されるのじゃ。
 ウパニシャッドを含むヴェーダの諸聖典句も、文章であるから等の理由で、人間の手になるものだと推論できるのじゃ。
 そうするとそれらは新得力のためのものではないことになってしまうのじゃ。
 矛盾に陥ってしまうのじゃ。

 一方、文章である等を理由にヴェーダの諸聖典句が人間の手になるものであるとする推論は誤りであると、もし別の根拠に基づいて示せるとするのじゃ。
 そうするとウパニシャッドの場合に、それを示す根拠として新得力のためのものだからであるという理由をあげるのは余分なことなのじゃ。

 ウパニシャッドが人間の手になるものでないことについては、ニヤーヤカニガーのなかで説明したのじゃ。
 ウパニシャッドが人間の手になるものでないことが確定しているから、ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としていても、自ら以外の認識根拠に基づくことを理由に妥当性が損なわれることはないのじゃ。
 
 もしウパニシャッドが、すでに他の認識根拠によって理解されていることばかり教えていて、まだ理解されていないことは教えないとすれば認識根拠とはいえないのじゃ。
 ウパニシャッドは理解されていないものを理解させるものであるのじゃ。
 何故なら、個人存在がブラフマンであることは、ウパニシャッド以外のものからは理解されないからなのじゃ。

669避難民のマジレスさん:2022/10/28(金) 00:45:38 ID:iCwPImq60
2.2.2.ウパニシャッドは取捨の指示が含まれていなくても有意義である   p368-370 186左/229

   次に[師シャンカラは]、反対主張の第二の論拠を[次のように]思い起こさせて、[それを]批判するのである。[ウパニシャッドには行為の]取捨についての指示が含まれていないので云々と。実に、儀軌の意味の理解からは、[そののち祭式を執行して新得力を得、その新得力が熟したとき天界に生まれるというように]、まわりまわって人間の目的が達成されるのである。一方ここ[ウパニシャッドの]場合には、「汝はそれなり」という聖典句の意味を知ること一[それは]悟りをもって終わる一から 直接に、外的な遂行努力になんら基づくことなく、人問の目的が達成されるのである。 ちょうど、「これは蛇ではない。これは縄である」という認識から[直接に、外的な遂行努力になんら基づくことなく、誤認が取り除かれる]ように。まさにこの点が、これ (ウパニシャッドの聖典句の意味を知ること)のほうが、儀軌の意味を知ることより優れているところなのである。
  その趣旨は以下の通りである。実に、人間の望むものには二種類ある。あるものは、 [これから行こうとしている]村等のように、まだ到達していないものであり、一方、 他のものは、首にかかっている[のにそれを忘れてしまった]首飾りのように、[実際 には]すでに獲得しているのに、錯誤のためにまた獲得していないかのように理解されているものである。同様に、捨てたいと思うものにも二種類ある。すなわち、ひとつ は、足にまきついた蛇のように、まだ捨てていないものを捨てようとする場合であり、もうひとつは、足の飾りである足首飾りに附託された蛇のように、すでに捨てられて いるものを捨てようとする場合である。このうち、まだ到達していないものに到達しようとする場合、および、まだ捨てていないものを捨てようとする場合には、[それらは]外的な手段を遂行することによって実現されるので、それら[を実現する]手段 について正しく知ったのちに、[さらにその手段を]遂行する必要がある。単なる知識 が、実際に存在するものを否定することは決してないのである。というのは、蛇の観念が千集まっても、実際に存在する縄を別のものに変えることはできないからである。 だが、到達したいと思っているもの、および捨てたいと思っているものが、附託された
ものである場合には、外的な遂行に基づくことなく、単に真理を直証するだけで、あたかも到達したかのように、あるいは、あたかも捨てたかのようになることが可能なのである。というのは、それら(すでに到達されているもの、および、すでに捨てられているもの)は、附託に基づいてのみ[まだ到達されていな(く→い?)かのように、あるいはまだ 捨てられていないかのように]存在しているのであり、附託されたものは真理の直証が根こそぎ滅ぼしてしまうからである。同じようにここ、すなわち、実際には歓喜であって悲しみや苦しみなどとは無縁なブラフマンに、無明によって個人存在という状 態が附託されている場合でも、附託に基づくその(個人存在という)状態は、「汝はそれなり」という聖典句の意味を真に知ること一[それは]悟りをもって終わるーによって、止滅するのである。そして、それ(個人存在であるという状態)が止滅する と、歓喜という状態は、すでに到達されていたにもかかわらず・まだ到達されていな かったかのように到達され、悲しみや苦しみなどは、すでに捨てられていたにもかかわらず、まだ捨てられていなかったかのように捨てられるのである。
  従って、以上のことが、[『註解』本文では]、ブラフマンがアートマンであると理解することによってのみ、個人存在のあらゆる苦悩が、すなわち潜在印象とともに錯誤が [滅せられて云々]と述べられているのである。実にそれは、生き物を苦しめるから苦悩なのである。そして、それ(苦悩)を完全に滅することで、苦しみの止滅と楽しみの獲得を特徴とする人問の目的が達成されるのである。
(´・(ェ)・`)つ

670鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/28(金) 23:42:21 ID:o6g4y7o20
 儀軌の意味の理解からはまわりまわって人間の目的が達成されるのじゃ。
 ウパニシャッドの場合には、「汝はそれなり」という聖典句の意味を知ることで直接に、外的な遂行努力になんら基づくことなく、人問の目的が達成されるのじゃ。
 「これは蛇ではない。これは縄である」という認識から誤認が取り除かれるようなものじゃ。
 ウパニシャッドの聖典句の意味を知ることのほうが、儀軌の意味を知ることより優れているのじゃ。

 人間の望むものには二種類あるというのじゃ。
 ひとつはこれから行こうとしている村等のように、まだ到達していないものなのじゃ。
 他のものは、首にかかっているのを忘れてしまった首飾りのように、実際にはすでに獲得していながら錯誤のためにまだ獲得していないかのように理解されているものなのじゃ。

 また捨てたいと思うものにも二種類あるというのじゃ。
 ひとつは足にまきついた蛇のように、まだ捨てていないものを捨てようとする場合なのじゃ。
 もうひとつは足の飾りである足首飾りに附託された蛇のように、すでに捨てられているものを捨てようとする場合だというのじゃ。

 このうちまだ到達していないものに到達しようとする場合、およびまだ捨てていないものを捨てようとする場合には、外的な手段を遂行することによって実現されるのじゃ。
 それらを実現する手段について正しく知ったのちに、遂行する必要があるのじゃ。
 単なる知識が実際に存在するものを否定することは決してないのじゃ。
 蛇の観念が千集まっても、実際に存在する縄を別のものに変えることはできないからなのじゃ。

 到達したいと思っているもの、捨てたいと思っているものが附託されたものである場合には、外的な遂行に基づくことなく、単に真理を直証するだけで到達したかのように、捨てたかのようになることが可能なのじゃ。
 それは附託に基づいてのみまだ到達されていないかのように、あるいはまだ捨てられていないかのように認識されているからであり、附託されたものは真理の直証が根こそぎ滅ぼしてしまうからなのじゃ。

 同じように実際には歓喜であって悲しみや苦しみなどとは無縁なブラフマンに、無明によって個人存在という観念が附託されている場合も「汝はそれなり」という聖典句の意味を真に知ること、悟り、によって止滅するのじゃ。
 個人存在が認識が止滅すると、歓喜という状態は、すでに到達されていたのにまだ到達されていな かったかのように到達され、悲しみや苦しみなどは、すでに捨てられていたにもかかわらず、まだ捨てられていなかったかのように捨てられるのじゃ。

 ブラフマンがアートマンであると理解することによってのみ、個人存在のあらゆる苦悩が、すなわち潜在印象とともに錯誤が [滅せられて云々]と述べられているのじゃ。
 苦悩を完全に滅することで、苦しみの止滅と楽しみの獲得を特徴とする人問の目的が達成されるのじゃ。

671避難民のマジレスさん:2022/10/29(土) 00:31:49 ID:AJCsu82w0
2.2.3.ウパニシャッドは念想等のためのものではない p370 187左/229

  [反対主張]ウパニシャッドの諸聖典句は、「アートマンであるとしてのみ念想すべ きである」「アートマンのみを世界として念想すべきである」533等の念想を命じる聖典句にでてくる神格等について説いているので、念想のためのものである。
   [答論]このように[反対主張者が]述べていたが、それを[師シャンカラは、次のように]批判しているのである。確かに、[ウパニシャッド中で]神格等について説いているのが、すなわちアートマン云々とのみ[言っているの]が、自己の聖典句中の (すなわち同じくウパニシャッドに説かれている)念想のためであったとしても、なんら矛盾はないと。
   [反対主張]もし矛盾がないのなら、その場合には、ウパニシャッドの諸聖典旬は、神格について説くことを通して、念想を命ずる儀軌にのみ従属することになろう。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのである。だが、ブラフマンも同じように[念想を命ずる儀軌に従属するということはありえ]ないのであると。すなわち、念想は、念想の対象、念想する人、念想[という行為]等の区別が確立していることを前提としている[ので]、あらゆる多様な区別が 取り払われているブラフマンー[それは]ウパニシャッドから知られるべきもので ある一を対象としては成り立たないのである。従って、[ウパニシャッドの諸聖典句は]、念想を命ずる儀軌に従属することはない。何故なら、[区別の存在しないブラフマ ンについて教える]ウパニシャッドの諸聖典句は、[念想の対象、念想する人等の区別に基づいて成り立っている]それ(念想)とは矛盾するものだからである。

脚注
533
(´・(ェ)・`)つ

672鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/29(土) 23:46:42 ID:0jgPF.8Q0
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句は、「アートマンであるとしてのみ念想すべ きである」「アートマンのみを世界として念想すべきである」等の念想を命じる聖典句にでてくる神格等について説いているので、念想のためのものだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはパニシャッド中で神格等について説いてアートマン云々と言っているのが、自己の聖典句中の念想のためであったとしても、なんら矛盾はないというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 矛盾がないのなら、その場合には、ウパニシャッドの諸聖典旬は、神格について説くことを通して、念想を命ずる儀軌にのみ従属することになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 念想は、念想の対象、念想する人、念想という行為等の区別が確立していることを前提としているのじゃ。
 あらゆる多様な区別が取り払われているブラフマンを対象としては成り立たないのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドの諸聖典句は、念想を命ずる儀軌に従属することはないのじゃ。

 区別の存在しないブラフマ ンについて教えるウパニシャッドの諸聖典句は、念想の対象、念想する人等の区別に基づいて成り立っている念想とは矛盾するものだからなのじゃ。

673避難民のマジレスさん:2022/10/30(日) 01:16:53 ID:6RSFdUD.0
2.2.4.ウパニシャッドと釈義との相違 p371-372 187右/229

  [反対主張]もし、ウパニシャッドの諸聖典句が、儀軌と無関係でも認識根拠であるとすると、その場合にはなんと、「彼は泣き叫んだ」534等の無関心であるべきことを説 く[聖典句]も、それ自身で認識根拠であることになろう。というのは、取捨しようとする気持ちだけが認識根拠から生ずる結果ではなくて、無関心であろうとする気持ちもそれ(認識根拠)から生ずる結果であると、認識識根拠について知る者たちによって認められているからである。とすれば、これら(「彼は泣き叫んだ」等の聖典句)が、 「供犠において銀を[供物として]捧げるべきではない」等の禁令に従属するというの は余分なことになろう。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのである。またたとえ云々と。すなわち、実にヴェーダ全体は、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解されるように、人間の目的を達成する手段であるとすでに理解されている。そこ(ヴェーダ)には、一字といえども人間の目的に役立たないものはありえないのである。もちろん、「彼は泣き叫んだ」等の[字どころか]語の繁がり(すな わち文)は言うまでもない。だが、ウパニシャッドの諸聖典句とは異なり、その(「彼 は泣き叫んだ」というヴェーダ聖典句の)意味を理解しただけでは、なんら人問の目的は達成されない。従って、この(「彼は泣き叫んだ」という)語の繋がり(文)は、人 間の目的[との関わり]を求めている[ので、人間の目的と関わるようななにかを]予期していることになる。[一方]、「供犠において銀を[供物として]捧げるべきではな い」というこの禁令も、自らが禁じていること(供犠で銀を供物として捧げること)を非難(する言葉)を必要としている。というのは、さもなければ(供犠において銀を供物として捧げることを非難する言葉がなければ)、それ(銀を捧げること)を[人に] 思い止まらせることができないからである。従って、もし非難〔の言葉]が[ヴェーダ中のこの禁令のある箇所の近くは言うにおよぱず]遠くでさえも得られない場合には、 [「供犠において銀を供物として捧げるべきではない」というこの]禁令自身が、ダルヒホーマ祭のように、二種の能力一すなわち、銀の禁止に関する能力と非難に関する能力ーを備えることになるのである535。このような場合、「彼は泣き叫んだ」と「供犠において銀を[供物として]捧げるべきではない」という二つの文(語の繋がり)、 [それら両者は、互いの予期あるいは必要を充たそうとして求めあい]、あたかも燃えさかっているかのようである一は、[「彼は泣き叫んだ」という文によって]暗示されている非難を媒介とすることによって、まるで馬の死んだ[戦車]と戦車の燃えてしまった[馬]のように、互いに結びつくのである。だがウパニシャッドの諸聖典句の場合には、この[「彼は泣き叫んだ」というヴェーダの聖典句の]ような形では、人間の目的を必要としない。何故なら、それ(ウパニシャッドの聖典句)の意味を理解しただけで、[それ]以外にはなにに基づくこともなく、人間の最高の目的が達成されるからなのである。以上が[『註解』本文の]言っていることである。

脚注
534 脚注496参照。
535 ダルヴイホーマ祭とは火に供物を捧げる護摩の一種であるが、この護摩を命ずる次のような儀軌がある。「供物を一つ捧げようとするときには、ダルヴィホーマ祭を行うべきである」。そしてこの儀軌は、ダルヴィという祭杓によって、火に供物を捧げることを命ずる従属儀軌ではなくて、ダルヴィホーマ祭そのものを命ずる根本儀軌であるとされている。しかしこの儀軌の前後には、この祭式に従属する要素等について命じている従属儀軌等も見当たらないし、またこの祭式の意義を説明する釈義も見当たらないのである。従って、このような場合には、この儀軌自身が従属儀軌等の働きはもちろん釈義の働きもしていると解釈されるのである。すなわち、釈義に関して言えば、この儀軌はダルヴィホーマ祭を命ずるとともにダルヴィホーマ祭を賞賛してい るとされるのである。
(´・(ェ)・`)つ

674鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/31(月) 00:01:18 ID:K6UW1Jvw0
 反対なのじゃ。
 「彼は泣き叫んだ」等の無関心であるべきことを説 く聖典句も、それ自身で認識根拠であることになるというのじゃ。
 無関心であろうとする気持ちも認識根拠から生ずる結果であると、認められているからなのじゃ。
 「彼は泣き叫んだ」等の聖典句が、「供犠において銀を捧げるべきではない」等の禁令に従属するというのは余分なことになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ヴェーダ全体は、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解されるように、人間の目的を達成する手段であるとすでに理解されているのじゃ。
 ヴェーダには、一字といえども人間の目的に役立たないものはありえないのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句とは異なり、その「彼 は泣き叫んだ」というヴェーダ聖典句の意味を理解しただけでは、なんら人問の目的は達成されないのじゃ。
 「彼は泣き叫んだ」という文は、人 間の目的を求めているから、人間の目的と関わるようななにかを予期していることになるのじゃ。
 
 文を切り取っても無意味だというのじゃな。
 
 「供犠において銀を捧げるべきではない」というこの禁令も、自らが禁じていることを非難することを必要としているのじゃ。
 もなければ(供犠において銀を供物として捧げることを非難する言葉がなければ)、それを思い止まらせることができないからなのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の場合には、この「彼は泣き叫んだ」というヴェーダの聖典句のような形では、人間の目的を必要としないのじゃ。
 ウパニシャッドの聖典句の意味を理解しただけで、人間の最高の目的が達成されるからなのじゃ。

675避難民のマジレスさん:2022/10/31(月) 06:36:03 ID:tAeos4UY0
2.2.5.ウパニシャッドは儀軌と無関係であっても正しい認識根拠である  p372-373 188左/229

   [反対主張]ヴェーダの[ウパニシャッド]以外の箇所では、儀軌と無関係な箇所が、認識根拠であるとは認められていない。従って、どうして、それ(儀軌)と無関係なウパニシャッドの諸聖典句が、それ(認識根拠)でありえようか。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのである。また...推論がら理解されるようなものではない云々と。そもそも認識根拠の妥当牲は、(1)否定されることがなく、(2)まだ知られていなくて、(3)疑問の余地のない認識を生ずるところにある。そして、それ(認識根拠)は、すでに説明したよう に536、自らに基づいている。たとえ、これら(ウパニシャッドの諸聖典句)がこのような認識を生ずるということが、結果(すなわち生じた認識)からアルダーパッテイ によって理解されるとしても537、そのような認識を生ずる際には、[自ら]以外の認識根拠に基づくことはないのである。さらに、[ウパニシャッドの諸聖典句は、そのよう な認識を生ずる際に]、まさにこのアルダーパッティに[基づくことも]ない。何故なら、[認識が生じた時に、認識根拠がその認識を生みだしたことをアルダーパッティ によって理解し、そのアルダーパッティから認識が生ずるという]相互依存の誤謬に陥ってしまうからである538。従って、[ウパニシャッドの諸聖典句は]自らに基づいていると言ったのである。諸儀軌が、遂行しなければならないことに関して、このような(否定されることがなく、まだ知られていなくて、疑問に余地のない)認識を生ずるように、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンに関して、このような認識を生ずるのである。従って、それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が、ブラフマンに対して認識根拠であるということは、例証に基づくことなく確立されるのである。さもなければ、 [目]以外の感覚器官が色形を明らかにしないからという理由で、目も色形を明らかにしないのだと[いうことになってしまうであろう]539。以上の主題を[師シャンカラ は、次のように]結論づけているのである。従って云々と。

脚注
536 本訳357頁以下参照。
537アルダーパッティ関しては、脚注435参照のこと。
538
539 直接的な経験によって確立しているものが、それ以外のところすなわちすでに存在する事物に関する釈義等に見られないからという理由で否定されるとすれば、その場合には拡大適用という誤りに陥ってしまうのである
(´・(ェ)・`)つ

676鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/01(火) 00:01:38 ID:EtNGimwU0
 反対なのじゃ。
 ヴェーダのウパニシャッド以外の箇所では、儀軌と無関係な箇所が、認識根拠であるとは認められていないというのじゃ。
 そうであるから儀軌と無関係なウパニシャッドの諸聖典句は認識根拠と認められないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そもそも認識根拠の妥当牲は、(1)否定されることがなく、(2)まだ知られていなくて、(3)疑問の余地のない認識を生ずるという三つの条件で証明されるのじゃ。
 そして、認識根拠は自らに基づいているものじゃ。

 たとえウパニシャッドの諸聖典句がこのような認識を生ずるということが、アルダーパッテイ によって理解されるとしても7、そのような認識を生ずる際には自ら以外の認識根拠に基づくことはないのじゃ。
 さらにウパニシャッドの諸聖典句は、そのよう な認識を生ずる際にアルダーパッティに基づくこともないのじゃ。
 何故ならば認識が生じた時に、認識根拠がその認識を生みだしたことをアルダーパッティ によって理解し、そのアルダーパッティから認識が生ずるという相互依存の誤謬に陥るからなのじゃ。

 インドの教義は、ある主題が相互依存とか循環理論に陥れば、間違いであったとみなされるからなのじゃ。

 そうであるからウパニシャッドの諸聖典句は自らに基づいていると言ったのじゃ。
 諸儀軌が遂行しなければならないことに関して、否定されることがなく、まだ知られていなくて、疑問に余地のない認識を生ずるように、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンに関して、このような認識を生ずるのじゃ。
 それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が、ブラフマンに対して認識根拠であるということは、例証に基づくことなく確立されるのじゃ。
 そうでなければ目以外の感覚器官が色形を明らかにしないからという理由で、目も色形を明らかにしないのだということになってしまうじゃろう。

677避難民のマジレスさん:2022/11/01(火) 03:18:06 ID:lt1ibQ2.0
3.ウパニシャッドの説くブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対 象であるという反対主張 188右/229

3.1.ウパニシャッドはすでに存在するブラフマンの性質について 教えるものではない p373-375

  これに対してある人たちが540[次のような]反対主張を提示する。
  [反対主張]たとえ聖典が、ブラフマン[を知る]認識根拠であったとしても、ブラフマンは、[ブラフマンについて]知ること(pratipatti)を命ずる儀軌の541対象だからこそ、聖典が教示しているのである。たとえば、[供犠で供物として捧げる獣をつなぐ]柱やアーハヴァニーヤ祭火等542は、確かに通常は知られていないものではあるが、儀軌に従属するものだから、聖典が教示しているのであり、[ブラフマンの場合も]それと同じなのである。それは何故か。聖典の目的は、[人を]活動へ向かわせ、[人を]活動から退かさせるところにあるからである。たとえば、聖典の趣意を知る人々は[次のように] 言っている。「実に、祭式について教えることが、それ(ヴェーダ)の目的で あると認められている」543「教令というのは、行為を促す言葉のことである」544「それ(ダルマ)の知識が教示(upadeśa)である」545「これら(事物) を示す[語つまり名詞]は、行為を意味する[動詞]と同時に発せらるのである」546「聖典は行為(祭式)のためのものであるがら、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」547と。従って聖典は、人をある特定の対象に向がわせ、あるいは、ある特定の対象から退かせるところに、意味が あるのである。そして、[人を活動に向かわせたり、活動から退かせたりする ヴェーダの諸聖典句、すなわち儀軌と禁令]以外の諸聖典句548は、それ(儀軌と禁令)に従属するものとして利用される。[従って]、ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ヴェーダの諸聖典句)と同じなので、そういったもの(人を活動に向がわせたり活動から退かせたりするもの)としてのみ、意味があるのであろう。そして[このように、ウパニシャッドの諸聖典旬が]儀軌のため
のものであれば、[ヴェーダでは]天界等を望む者に対してアグニホートラ祭等549の手段が命じられているように、[ウパニシャッドでは]不死であることを望むものにはブラフマンの知識が命じられているのである[と考えるのが] 正しいのである。

  [師シャンカラは]、[立場の]近い先師たちの見解を、[次のように]提示している。 これに対してある人たちが[次のような]反対主張を提示すると。詳論すれば次の通 りである。
  [反対主張]「[ウパニシャッドの諸聖典句の場合には、ブラフマンとの]関係が知られておらず、聖典であり、意味があり、思惟等[を命ずる文章]が認められるので、 ブラフマンは遂行しなければならない事柄を教える章句から確知されるのである」550。
[その意味は以下の通りである]。

脚注
540「ある人たち」をBhāmatīは、「立場の近い先師たち」と取り、Ratnaprabha,
は「註解作者たち」と解している。
541ここで、「知ることを命ずる儀軌」とは、もともとミーマーンサー学派の述語で、祭式に用いられ たものを投棄すること(たとえば祭式で神に捧げた供物の残りものを食べること等)を言う。たとえば、 従属祭が、祭式ですでに用いられたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いられるものを浄化する祭式の二種に分けられており、そのうち前者が 知ることを命ずる儀軌と呼ばれている。しかしながら、『註解』にでてくる獣をつなぐ桂やアーバヴァニーヤ祭 火の例は、明らかにこれから祭式で用いられるものであるから、この説明はここにはあてはまらない。pratipattiという語はもともとは知るとか理解するという意味なので、ここ では文字通りにブラフマンを知ることを命ずる儀軌の意味に解しておいた。
542アーバヴァニーヤ祭火は、供犠に用いられる三つの祭火のひとつである。この祭火や柱がどのように儀軌に従属するのかという点については本訳378貫以下参照のこと。
543 544 545 546 547 548
549脚注340参照。
550 出典不明。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

678鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/01(火) 23:57:41 ID:CED49D/k0
 反対なのじゃ。
 たとえ聖典がブラフマンの認識根拠であったとしても、ブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象だから聖典が教示しているというのじゃ。
 聖典の目的は、人を活動へ向かわせたり、活動から退かさせりするところにあるからというのじゃ。
 
 聖典の趣意を知る人々は次のように言っているというのじゃ。
 「実に祭式について教えることが、それ(ヴェーダ)の目的で あると認められている」
 「教令というのは、行為を促す言葉のことである」
 「それ(ダルマ)の知識が教示である」
 「これら(事物) を示す[語つまり名詞]は、行為を意味する[動詞]と同時に発せらるのである」
 「聖典は行為(祭式)のためのものであるがら、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」
 等なのじゃ。

 従って聖典は人をある特定の対象に向がわせたり、ある特定の対象から退かせるところに、意味があるのじゃ。
 人を活動に向かわせたり、活動から退かせたりする ヴェーダの諸聖典句、すなわち儀軌と禁令以外の諸聖典句は、それらに従属するものとして利用されるのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句も、ヴェーダの諸聖典句と同じなのじゃ。
 ウパニシャッドでは不死であることを望むものにはブラフマンの知識が命じられているというのじゃ。


 さらに反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の場合には、ブラフマンとの関係が知られておらず、聖典であり、意味があり、思惟等を命ずる文章が認められるのじゃ。
 そうであるからブラフマンは遂行しなければならない事柄を教える章句から確知されるのじゃ。

679避難民のマジレスさん:2022/11/02(水) 06:24:28 ID:MlNBE9Z.0
(つづき)    p375-376
3.1.1.理由(1)言葉とブラフマンとの関係が一般には知られていないからである

  実に、ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するブラフマンの性質について教えるものではない。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句が]、それ(すでに存在するブラフマン)と関係しているとは知られていないからである。実に世の人々は、言葉との対応関係が理解されていないものに対しては、言葉を用いることはないのである。 さらに賢い人は、取捨とは無関係な単なる事物についてなんら述べようとは思わないものである。何故なら、それ(取捨とは無関係な単なる事物)について知りたいとは思 わないからであり、また、知りたくもないことを[人に]教えたとすると、[その人の] 賢さが損なわれることになるからである。従って、世の賢い人たちは、[人が]知りたいと思っていることを教える[ので、人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりする原因となる事物についてのみ教えることになるのである。そして、遂行しなければならないことが知られれ[ば、それが]それ(人を活動に向かわせたり活動から退けたりすること)の原因なので、それ(遂行しなければならないこと)のみを教えるのである。このように[人は]、年長者の言葉の用法から、言葉が遂行しなければならないことを伝えるものだと理解するのである。このうち、ある[言葉]は、遂行しなければならないことを直接に表示し、ある[言葉]は、遂行しなければならないことに従属するような形で[その言葉]自身の対象を表示するが、言葉が、すでに存在する事柄[のみ]を伝えることはないのである。 さらに、言葉がそれ(認識)の対象を伝えるものであるということは、語意を習得している他の人の対象の認識を推論し、それ(対象の認識)が言葉の存在・非存在と対応していることを理解することによって、確定されるのである。そして、他人の行う、すでに存在する事物の単なる性質についての認識の場合には、[その認識を推論しこのような対応関係を理解する]てだてがなんら存在しないが、他人の行う、遂行しなけれ ぱならないことについての認識の場合には、[その認識を推論し言葉と認識の対応関係を理解する]原因一すなわち、[言葉が人を]活動に向かわせ活動から退かせるということ一が存在するのである。従って、[ブラフマンとの]関係が知られていないので、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について教えるものではないのである。

3.1.2.理由(2)聖典とは人を活動に向がわせたり活動がら退かせたりするものだがらである

  さらに、ウパニシャッドの諸聖典句は、ヴェーダ[の一部]なので、聖典であることは周知の事実である。そして聖典とは、[人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりすることを目的とするもろもろの[語の]繋がり(諸文章)のことなのである。[そのことは]たとえば[次のように]述べられている。「常にあるいは臨時に、活動に向かうことあるいは活動から退くことを人に教示するものが、聖典と言われる」551と。従って、[ウパニシャッドが]聖典であることは周知の事実なので、それら(ウパニシャッ ドの諸聖典句)が[ブラフマンの]本性について教えるということは否定されるのである。

3.1.3.理由(3)ブラフマンの性質を専ら教示するウパニシャッドは無意味だからで ある

  さらに、ブラフマンの性質を専ら教示しているこれら(ウパニシャッドの諸聖典句) に意味があるとは認められない。「これは縄であって蛇ではない」という場合には、間接表示機能によってなんとか[その]文章の真の意味が確定すると、恐れや震えなどが 止まるということがあるが552、「汝はそれなり」という文章の意味を理解しても、輪廻者としての諸属性が止滅することはない。何故なら、[その]文章の意味を聞いた人の 場合でも、それら(輪廻者としての諸属性)はそのままだからである。

脚注
551
552 間接表示機能とは、言葉本来の意味を表す言葉の機能(直接表示機能)に対して、言葉本来の意味以外の意味を間接的に表示する言葉の機能のことを言う。たとえば、「ガンジス河に牛飼部落がある」と言ったとき、河の中に牛飼部落があるはずはないので、「ガンジス河」という語が間接的に「ガンジス河岸」を意味しているような場合がそうである。ここでは、「これは縄であって蛇ではない」という文章がただ単にそのような事実を述べているだけでなくて「だから恐れるは必要はないのだ」というような意味も間接的に表示しているような場合がそうである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

680鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/02(水) 23:56:07 ID:XBbd4tCc0

 さらに反対が続くのじゃ。
 
 ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するブラフマンの性質について教えるものではないというのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句が、すでに存在するブラフマンと関係しているとは知られていないからなのじゃ。
 世の人々は、言葉との対応関係が理解されていないものに対しては、言葉を用いることはないのじゃ。

 賢い人は、取捨とは無関係な単なる事物についてなんら述べようとは思わないものというのじゃ。
 世の賢い人たちは、人が知りたいと思っていることを教えるのじゃ。
 人を活動に向かわせたり活動から退かせたりする原因となる事物についてのみ教えることになるのじゃ。
 遂行しなければならないことが知られれば、それが人を活動に向かわせたり活動から退けたりすることの原因なので、それを教えるのじゃ。
 
 ある言葉は遂行しなければならないことを直接に表示し、又ある言葉は遂行しなければならないことに従属するような形でその言葉自身の対象を表示するのじゃ。
 言葉がすでに存在する事柄を伝えることはないのじゃ。

 言葉が認識の対象を伝えるものであるということは、語意を習得している他の人の対象の認識を推論し、対象の認識が言葉の存在や非存在と対応していることを理解することで確定されるのじゃ。
 他人 の行う、すでに存在する事物の単なる性質についての認識の場合には理解するてだてがなんら存在しないことになるのじゃ。
 他人の行う、遂行しなけれ ぱならないことについての認識の場合には、[その認識を推論し言葉と認識の対応関係を理解する原因が存在するのじゃ。
 ブラフマンとの]関係が知られていないので、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について教えるものではないのじゃ。

 さらに、ウパニシャッドの諸聖典句は、ヴェーダの一部なので、聖典であることは周知の事実なのじゃ。
 聖典とは、人を活動に向かわせたり活動から退かせたりすることを目的とする諸文章のことなのじゃ。
 それはたとえば次のように述べられているのじゃ。
 「常にあるいは臨時に、活動に向かうことあるいは活動から退くことを人に教示するものが、聖典と言われる」と。
 つまりウパニシャッドが聖典であることは周知の事実なので、ウパニシャッドの諸聖典句がブラフマンの本性について教えるということは否定されるのじゃ。

 さらに、ブラフマンの性質を専ら教示しているこれらウパニシャッドの諸聖典句に意味があるとは認められないというのじゃ。
 「汝はそれなり」という文章の意味を理解しても、輪廻者としての諸属性が止滅することはないからなのじゃ。
 何故なら、その文章の意味を聞いた人の 場合でも、輪廻者としての諸属性はそのままだからなのじゃ。

681避難民のマジレスさん:2022/11/03(木) 00:55:18 ID:OgyPC/Yw0
(つづき) p376-377 190左/229
3.1.4.理由(4)思惟等を命ずるウパニシャッドの活聖典句が無意味となるからである

  さらに、もし、ブラフマンについて聞けば輪廻者としての諸属性が止滅するのなら、どうして聖典には、聴聞に加えてさらに思惟等が命じられているのであろうか。従っ て、それら(思惟等を命ずる聖典句)が無意味になってしまうという誤謬に陥るという理由からも、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について専ら教えるものではなくて、アートマンについて知るという、遂行しなけれぱならないものについて専ら教えているのである。そして、この遂行しなければならないもの(kārya)は、[遂行 しなければならないもの]それ自身へと駆り立てられる者(niyojya)を駆り立ててい るので、駆り立てるもの(niyoga)と呼ばれ、また、[儀軌]以外の認識根拠によって まだ知られていないので、未知のもの(apūrva,新得力)と呼ばれるのである553。さ らに、対象(アートマンの知識)を執行することなしには、それ(遂行しなければならないもの)は実現しないので、まさにその遂行しなけれぱならないものは、自らを実現するために、自ら[を限定する]対象でありかつ[自らを実現する]手段であるアートマンの知識の執行を、暗示しているのである。また、遂行しなければならないものは、自ら[を限定する]対象に基づいて確定するので、対象である知識によって確定される のだが、それと同じように知識も、自己[を限定する]対象であるアートマンが存在し なけぱ確定しえないので、それ(知識)を確定するためにそのようなアートマンを暗 示しているのである一 Bすなわち、それ(アートマンの知識)こそが、遂行しなけれぱならないものなのである554。たとえば同じ趣旨のことが、「しかし、それ(儀軌によって 命じられたこと)を実現するために認められていること(すなわち暗示されていること)も、儀軌によって命じられていることのなかに含まれる、というのが聖典における 用法である」555と述べられている。そして、儀軌によって命じられているということは、駆り立てるもの(新得力、遂行しなければならないもの)[を限定する]対象であ る知識にとっては、[新得力を]生ずるために執行しなければならないということであり、一方、それ(知識)[を限定する]対象であるアートマンにとっては、自己の存在が確定されるということなのである。

脚注
553
554 ミーマーンサー学派のプラバーカラ派によれば、儀軌の文中の動詞のうち、願望法の接尾辞の語は、kārya(遂行しなければならないもの)を表示し、このkārya は、apūrva (新得力)および駆り立てるもの(niyoga)と同義であるとされている。一方、動司の語根の表示する意味は、様々な行為から生ずるをその供犠という行為から 生ずるものという形で一定のものに限定するという意味で対象と言われる。さてここで「知るべきであるという動詞について考えてみると、知るという動詞語根の意味する知識(知るという行為)が対象であり、この知識が生じてくるapūrvaを一定のものに限定しているのである。次にアートマンの知識について考えれば、知識には対象が必ずあり、知識はその対象によって限定されているのであるから、この知識は対象であるアートマンによって限定されていることになる。従って、ちょうど、供犠や知識などの対象によって限定されているapūrvaが遂行しなければならないものであるように、アートマンという対象によって限定されている知識もまた遂行しなければならないものなのである。ただし、供儀や知識の場合には、それが限定している遂行しなければならないもの(新得力)を生ずるためには、それらの行為を執行しなければならないが、アートマンの場合には執行する必要はなく、ただその存在が確定されるだけなのである。
555
(´・(ェ)・`)つ

682鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/03(木) 23:43:20 ID:nwQZKQi60
 反対が続くのじゃ。
 さらに、ブラフマンについて聞けば輪廻者としての諸属性が止滅するのならば、なぜ聖典には聴聞に加えてさらに思惟等が命じられているのか、というのじゃ。
 思惟等を命ずる聖典句が無意味になってしまうという誤謬に陥るという理由からも、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について専ら教えるものではないというのじゃ。
 そうではなくて、アートマンについて知るという、遂行しなけれぱならないものについて専ら教えているのじゃ。

 この遂行しなければならないものは駆り立てるもの(niyoga)と呼ばれているのじゃ。
 儀軌以外の認識根拠によって まだ知られていないので、未知のもの,新得力と呼ばれるのじゃ。

 対象であるアートマンの知識を執行することなしには、遂行しなければならないものは実現しないのじゃ。
 その遂行しなけれぱならないものは、自らを実現するために、自らを限定する対象であり、自らを実現する手段であるアートマンの知識の執行を、暗示しているのじゃ。

 遂行しなければならないものは、自らを限定する対象に基づいて確定するので、対象である知識によって確定されるのじゃ。
 同じように知識も、自己を限定する対象であるアートマンが存在し なけぱ確定しえないので、その知識を確定するために、アートマンを暗示しているのじゃ。
 アートマンの知識)こそが、遂行しなけれぱならないものなの

 同じ趣旨のことが、「しかし、それ(儀軌によって 命じられたこと)を実現するために認められていることも、儀軌によって命じられていることのなかに含まれる、というのが聖典における 用法である」と述べられているのじゃ。

 儀軌によって命じられているということは、駆り立てるもの、新得力、を限定する対象である知識にとっては、それを生ずるために執行しなければならないということなのじゃ。
 その知識を限定する対象であるアートマンにとっては、自己の存在が確定されるということなのじゃ。


 つまり聖典が説いているは遂行できるアートマンであり、ブラフマンではないというのじゃな。
 梵我一如ではないというのじゃ。
 反対するものがそう言っているのじゃ。

683避難民のマジレスさん:2022/11/04(金) 05:50:05 ID:FuSmha0U0
3.1.5.ウパニシャッドは不死を望む者にブラフマンを知ることを命ずる儀軌なのである  p378-379 191左/229

   [反対主張に対する反論][どうして、附託されたものが、儀軌によって命じられたものに関する認識の対象ではないのか。]556
   [反対主張]それ(アートマン)の性質の附託されたものは、[アートマン]以外のものを確定するので、それ(アートマンの性質の附託されたもの)によって、それ(アートマンの知識)が確定されることはないであろう。従って、このようなアートマンについて知ることを命ずる儀軌に従属するウパニシャッドの諸聖典句によって、このようなアートマンが確定されるのである。以上のことすぺてが、[『註解』本文中に]たとえ [聖典がブラフマンを知る認識根拠であったとして]も云々と述べられているのである。
  儀軌に従属するものからでも事物の真の姿が確定される、ということに関する例を、 [師シャンカラは]たとえば云々と述べているのである。「柱に獣をつなぐ[べきである]」557と、つなぐために儀軌によって命じられた柱に関して、それ(柱)が通常知られていないものであるので、「この柱とはいったい何か」という疑問が生じた時に、「カデイラ木でできた柱である」「柱を削る」「柱を八角にする」等の聖典句558一[それらは、「柱に獣をつなぐ[きである]」という]儀軌に従属するものである一から、浄化されて559特定の形をした木がその柱であると理解されるのである。アーハヴァニー ヤ祭火の場合も、同じように理解すべきである560。(1)聖典とは、[人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりするためのものであって、[事物の]本性について教えるものではなく、(2)[言葉は]、遂行しなけれぱならないことにのみ関係しているのであって、〔事物の]本性に[関係するものでは]ないという二つの理由が、聖なる註解作者によって[次の箇所で]説明されている。すなわち、[聖典の目的は人を]活動に 向がわせ活動がら退かせるところにあるで始まり、従って、ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ヴェーダ諸聖典句)と同じなので、そういったもの(人を活動に向かわせ たり活動から退かせたりするもの)としてのみ、意味があるのであろうで終わる[箇所]でである。そして、遂行しなけれぱならないものは、独立したものではなく、[遂 行しなけれぱならないものへと]駆り立てられている人、[遂行する]資格のある人、遂行する人が存在しなければ[成り立た]ないので、[『註解』本文中に]、[遂行しな けれぱならないものへと]駆り立てられている人の区別が、[次のように]述べられて いるのである。そして、[このようにウパニシャッドの諸聖典句が]儀軌のためのものであれば云々と。「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という釈義から、ブラフマンになることがすでに実現されたものであるかのように理解されても、[その場合に は、ブラフマンとなるように儀軌によって]駆り立てられている特定の人が予期されるので、ラートリサットラ祭の原則561に従って、[儀軌によって]駆り立てられている 特定の人、すなわちブラフマンになりたいと望んでいる人が、必要とされるのである。というのは、一方、ピンダ・ピトリ供犠の原則562に従えば、天界を望む者が[ブラフマンとなるよう儀軌によって]駆り立てられている人であると想定されることになるが、[「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という]釈義は、[天界という]目的と結びつかないので、全く間接的な意味しかもっていないということになるからである。そして、ブラフマンとなるということは、不死であるということだから、不死であ ることを望む者には云々と[『註解』本文中に]述べられているのである。また。不死 であるのは、不死であるという理由にのみ基づくのであるから、[ブラフマンを知ることで]生じたものであるという理由に基づいて、無常であると推論することはできな い。何故なら、聖典と矛盾するからである563。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

684避難民のマジレスさん:2022/11/04(金) 05:50:44 ID:FuSmha0U0
(つづき)
脚注
556
557 出典不明。
558出典不明。
559 従属儀軌によって命じられている従属祭が祭式に用いられるものあるいは用いられたものを浄化するためのものであることについては脚注541参照のこと。
560「アーハヴァニーヤ祭火において護摩を行うべきである」と儀軌によって命じられている場合に、アーハヴァニーヤ祭火とは何か」という疑問が生じたとき、「バラモンは春に祭火を設置すべきである」等の儀軌から、浄化によって限定された祭火 がアーハヴァニーヤ祭火だと理解されるのである。

561ヴィシュヴァジット祭の原則が、それに続いて、ラー トリサットラ祭の原則が述べられている。ここで問題となっているのは、祭式の果報が儀軌に述べられて いない場合には、何を果報と解すればいいかという点であるが、このような場合にはヴィシュヴァジット祭におけるように天界を果報と考えるべきである、というのがヴィシュヴァジット祭の原則である。それに対して、儀軌には果報が述べれていなくても、ラートリサットラ祭の場合のように釈義に述べられてい れば、それを果報と考えるべきである、というのがラートリサットラ祭の原則である。そして両原則の関係については、ヴィシュヴァジット祭の原則も天界という果報について述べている釈義(ラートリサットラ祭の場合と異なり実際には存在しない)を想定することによって、天界が果報だと考えられているのだ、とされるのである。従って、このラートリサットラ祭の原則に従えば、ブラフマンの知識の場合にも、儀軌中にはブラフマンを知ることの果報が述べられていなくても、「ブラフマンを知る者はブラフマンとな る。という釈義に基づいて、ブラフマンになることすなわち不死となることが果報であることになるのである。
562ピンダ・ピトリ供犠とは、新月の日の午後に行われる祖霊に対する供養であるが、これは従属祭ではなくて主要祭である。従って独自の果報をもつはずであるが、それが儀軌はおろか釈義にも述べられていない。従ってこの場合には、先のヴィシュヴァジット祭の原則に従って、天界が果報であることになるのである。ただしここで「ヴィソユヴァジット祭の原則に従えば」となっていないのは、ヴィシュヴァジツト祭は、本来はサットラ祭を執行する決意をして開始した人がそれを継続できなかったときに行われる贖罪祭であって、天界が果報というわけではないからである。
563「ブラフマンは真実(実在)であり、知識であり、歓喜である。」という聖典句を、ブラフマンが永遠であることを示すものとして、すなわちブラフマンが無常であるという推論と矛盾する聖典句として挙げている。
(´・(ェ)・`)つ

685鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/05(土) 00:11:25 ID:Jj0/owdk0

 反対主張に対する反論なのじゃ。
 何故附託されたものが、儀軌によって命じられたものに関する認識の対象ではないのかと聞いたのじゃ。

 反対なのじゃ。
 アートマンの性質の附託されたものは、アートマン以外のものを確定するので、それよって、アートマンの知識が確定されることはないというのじゃ。
 このようなアートマンについて知ることを命ずる儀軌に従属するウパニシャッドの諸聖典句によって、このようなアートマンが確定されるのじゃ。

 儀軌に従属するものからでも事物の真の姿が確定される、ということに関する例を、 シャンカラはたとえば云々と述べているのというのじゃ。
 「柱に獣をつなぐ[べきである]」と、つなぐために儀軌によって命じられた柱に関して、それが通常知られていないものとしてたとえるのじゃ。
 「この柱とはいったい何か」という疑問が生じた時に、「カデイラ木でできた柱である」「柱を削る」「柱を八角にする」等の聖典から、浄化されて特定の形をした木がその柱であると理解されるのじゃ。

 聖典とは、人を活動に向かわせたり活動から退かせたりするためのものであって、本性について教えるものではないというのじゃ。
 その言葉は遂行しなけれぱならないことにのみ関係しているのであって、本性について教えるものではないというのじゃ。
 う二つの理由が、聖なる註解作者によって[次の箇所で]説明されている

 遂行しなけれぱならないものは、独立したものではなく駆り立てられている人資格のある人、遂行する人が存在しなければならないので、駆り立てられている人の区別が述べられて いるのじゃ。

 「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という釈義から、ブラフマンになることがすでに実現されたものであるかのように理解されても駆り立てられている特定の人が予期されるので、駆り立てられている特定の人、すなわちブラフマンになりたいと望んでいる人が、必要とされるのじゃ。
 天界を望む者が駆り立てられている人であると想定されることになるが、「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」釈義は、天界という目的と結びつかないので、全く間接的な意味しかもっていないということになるからなのじゃ。

 不死であるのは、不死であるという理由にのみ基づくのであるから、ブラフマンを知ることで生じたものであるという理由に基づいて、無常であると推論することはできな いというのじや。
 何故ならば、聖典と矛盾するから゛というのじゃ。

686避難民のマジレスさん:2022/11/05(土) 02:23:14 ID:ZhLKcSFQ0
3.2.ダルマの考究とブラフマンの考究には違いがない および 先の理由(3)と理由(4)の説明  p380- 381 192左/229

  [反対主張に対る反論]考究の対象に違いがあると述べられていたではないか564。すなわち、祭事部では、将来実現すべきダルマが考究の対象であり、 一方、ここ(知識部)では、すでに存在し、永遠に実現されているブラフマンが、考究の対象なのである。従って、ブラフマンの知識の果報も、ダルマの知識の果報一[それには]遂行が必要である一とは違っているはずである。
   [反対主張]そういうふうにはなりえない。何故なら、遂行しなければなら ないこと(行為)を命ずる儀軌と関係する限りにおいて、ブラフマンが教示されているからである。すなわち、「実にアートマンは見られるべきである」 565「アートマンは罪とは無縁であるが、それが探究されるべきであり、それが考究されるべきである」566「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」567「アートマンのみを世界として念想すべきである」568「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」569等の儀軌が存在する時、「このアートマンとはなにか」「そのブラフマンとはなにか」知りたいという気持ちが生ずる。その時、あらゆるウパニシャッドの諸聖典句が、それ(ブラフマン=アートマン)の本性を教えるのに役立つのである。[すなわち]ブラフマンは、常に充足し、本性上永遠で、全知で、悟っていて、解脱しており、認識であって、歓 喜である云々570というように。さらに、それ(ブラフマン=アートマン)を念想すれば、解脱という果報一[それは]聖典からは知られるが、[通常の 手段では]知られないものである一が生ずるであろう、と[も教えるのである]。[だが]もし、[ウパニシャッドの諸聖典句が]、遂行しなければならないこと(行為)を命ずる儀軌と無関係であって、事物についてのみ語っているとすると、[そこには]取捨という行為がありえないので、ウパニシャッドの諸聖典旬は、「大地は七州からなる」「かの王が行く」等の文章と同じように、無意味であることになろう。
  [反対主張に対する反論]事物についてのみ語っていても、「これは縄であ る。これは蛇ではない」等の[文章の]場合には、錯誤から生じた恐れを取り去るので、意味があることが経験されている。同じように、この[ウパニシャットの諸聖典句の]場合も、輪廻することのないアートマンという事物について語ることによって、[アートマンが]輪廻者であるという錯誤を取り去るから、意味があるのであろう。
   [反対主張]もし、縄であるということを聞げば蛇だという錯誤が[取り去られる]ように、ブラフマンの本質について聞いただけで[自己を]輪廻者であるとする錯誤が取り去られるのなら、あなたがた[反論者]の言う通り であろう。だが、[輪廻者であるとする錯誤が]取り去られることはない。何故なら、ブラフマンについて聞いた者にも、[それ]以前と同じように、楽し み・苦しみ等の輪廻者の属性が見られるからであり、また、「[アートマンは]聞かれるべきである。思惟されるべきである。冥想されるべきである」571と、[アートマンについて]聞いたのちに[それについて]思惟・瞑想すべきことを命ずる儀軌が見られるからである。従って、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であるのは、[ブラフマンが、それについて]知ることを命ずる儀軌の対象だかわらなのである、と認めるべきである。

脚注
564 本訳300頁参照。
565 566 567 568 569
570「云々」には、真実(実在)、知識等が含まれる。
571
(´・(ェ)・`)
(つづく)

687鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/05(土) 23:11:54 ID:6HX6rPH60
 答えたのじゃ。
 考究の対象に違いがあると述べられていたというのじゃ。
 祭事部では、将来実現すべきダルマが考究の対象であり、 知識部では、すでに存在し、永遠に実現されているブラフマンが、考究の対象なのじゃ。
 ブラフマンの知識の果報も、ダルマの知識の果報とは違っているはずなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 遂行しなければなら ないことを命ずる儀軌と関係する限りにおいて、ブラフマンが教示されているからそうではないというのじゃ。
 「実にアートマンは見られるべきである」
 「アートマンは罪とは無縁であるが、それが探究されるべきであり、それが考究されるべきである」
 「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」
 7「アートマンのみを世界として念想すべきである」
 8「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」
 等の儀軌が存在する時、「このアートマンとはなにか」「そのブラフマンとはなにか」知りたいという気持ちが生ずるじゃろう。
 その時、あらゆるウパニシャッドの諸聖典句が、その本性を教えるのに役立つというのじゃ。

 ブラフマンは、常に充足し、本性上永遠で、全知で、悟っていて、解脱しており、認識であって、歓喜である云々というようにのう。
 アートマンを念想すれば、解脱という果報が生ずるであろうと。

 もしウパニシャッドの諸聖典句が、遂行しなければならないことを命ずる儀軌と無関係であって、事物についてのみ語っているとすると、無意味であることになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 事物についてのみ語っていても、「これは縄であ る。これは蛇ではない」等の場合には、錯誤から生じた恐れを取り去るので、意味があることが経験されているのじゃ。
 同じように、この場合も輪廻することのないアートマンという事物について語ることによってアートマンが輪廻者であるという錯誤を取り去るから、意味があるのじゃ。

 反対なのじや。
 もし、縄であるということを聞げば蛇だという錯誤が取り去られるように、ブラフマンの本質について聞いただけで自己を輪廻者であるとする錯誤が取り去られるのならその通りなのじゃ。
 しかしそれで輪廻者であるとする錯誤が取り去られることはないじゃろう。
 ブラフマンについて聞いた者にも、以前と同じように、楽しみや苦しみ等の輪廻者の属性が見られるのじゃ。
 さらにアートマンは聞かれるべきである。思惟されるべきである。冥想されるべきであると、聞いたのちに思惟や瞑想すべきことを命ずる儀軌が見られるのじゃ。
 聖典がブラフマンの認識根拠であるのは、ブラフマンが、それについて知ることを命ずる儀軌の対象だからと認めるべきだというのじゃ。

688避難民のマジレスさん:2022/11/06(日) 01:15:59 ID:mFE37tps0
(つづき)   p381-382
  先に述べられていたように、ダルマの知識とブラフマンの知識は異なるので、[ブラフ マンの知識は]儀軌の対象ではない、という反論を[反論者が次のように]提示してい るのである。[考究の対象に違いがあると述べられていたではないか]云々と。[それを反対主張者が次のように]退けている。そういうふうにはなりえないのである云々と。
  [反対主張]さて、アートマンを直接見ること(darśana)は、儀軌によって命じら れるようなものではない。というのは、[直接見ることという語の語根である]/drśが 知覚を表しているので、それ(直接見ること)とは、聴聞のことであるか、直接知覚の ことであるかのいずれかだろうからである。さらに直接知覚も、一般に経験されているような「私」という観念のことであるか、修習が優れたものとなった果に生ずるもののことであるかのいずれかであろう。これらのうち[まず]、聴聞は儀軌によって命じられるようなものではない。というのは、それ(聴聞)は、祭式に関する聴聞と同じように、ヴェーダの学習を命ずる儀軌のみによっても実現されるからである。また、一 般に経験されているような直接知覚(すなわち「私」という観念)も、[儀軌によって 命じられるようなものではない。というのは、それ(「私」という観念)は生得のものだからである。さらに、ウパニシャッドに説かれているアートマンを対象とする修習によってもたらされる明析さも、儀軌によって命じられるようなものではない。というのは、それ(このような明析さ)は、念想を命ずる儀軌からのみ、副産物として生ずるるものだからである。[それは]ちょうど、[クリームを作るために、牛乳にヨーグルトを入れると、副産物として乳漿[が生ずる]ようなものなのである572。従って、ウパニシャッドに説かれているアートマンを念想すべきことが、不死性を望む人という 命令の執行者に対して、命じられていることになる。一方、「[アートマンは]見られ るべきである」等は、儀軌に似てはいるが、儀軌ではないのである。まさに以上のことが、[『註解』本文中では]、さらに、それ(ブラフマン=アートマン)を念想すれば 云々と述べられているのである。
  なお「[ウパニシャッドの諸聖典句の場合には]意味があり、思惟等[を命ずる文章が]認められるので」573ということに関して、[『註解』本文中に見られる]わその他の説明については自明である。

脚注
572「熱いミルクにヨーグルトを入れ、[生じた]凝乳は神々ヴィシュヴァデー ヴァたちに、乳漿は神々ヴァージンたちに捧げるべきである」という聖典の文章の解釈をめぐって、熱いミルクにヨーグルトを入れる目的は、凝乳を生ずることなのか、それとも乳漿を生ずることなのかということが問題となっており、結論としては、目的は凝乳を生ずることであり、乳漿は副産物として生ずるのだとされている。
573 本訳374頁24行以下参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

689鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/07(月) 00:12:29 ID:EJMTWIUA0
 反対なのじゃ。
 アートマンを直接見ることは、儀軌によって命じられるようなものではないというのじゃ。
 直接見ることという語の語根が知覚を表しているので、それは、聴聞のことであるか、直接知覚の ことであるかのいずれかじゃろう。
 直接知覚も、一般に経験されているような「私」という観念のことであるか、修習が優れたものとなった果に生ずるもののことであるかのいずれかじゃろう。

 これらのうちまず、聴聞は儀軌によって命じられるようなものではないのじゃ。
 それは、祭式に関する聴聞と同じように、ヴェーダの学習を命ずる儀軌のみによっても実現されるからなのじゃ。

 一般に経験されているような直接知覚、すなわち「私」という観念も、儀軌によって 命じられるようなものではないのじゃ。
 「私」という観念は生得のものだからだというのじゃ。

 さらに、ウパニシャッドに説かれているアートマンを対象とする修習によってもたらされる明析さも、儀軌によって命じられるようなものではないというのじゃ。
 このような明析さは、念想を命ずる儀軌からのみ、副産物として生じるものだからなのじゃ。

 ウパニシャッドに説かれているアートマンを念想すべきことが、不死性を望む人という命令の執行者に対して、命じられていることになるのじゃ。
 「[アートマンは]見られ るべきである」等は、儀軌に似てはいるが、儀軌ではないのじゃ。

690避難民のマジレスさん:2022/11/07(月) 04:28:31 ID:br8FubL20
4.ウパニシャッドの説くブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象ではないという答論  193左/229
4.1.祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なる ーーーブラフマンの知識の果報は解脱であるーー p382-385

   [答論]これ(以上の反対主張)に対して答えて言う。そうではない。何故なら、祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからである。
  天啓聖典と聖伝書から知られる身体的・言語的・心的行為がダルマと呼ば れ、その(ダルマ)を対象とする考究が、「さて、この故に、ダルマの考究が [開始されるべきである]」574と、スートラに述べられていたのである。また、 殺害等の非ダルマも、禁止を命ずる教令によって規定されているので、[それを]捨て去るために考究の対象となるのである。そして、これらダルマと非ダ ルマーー[それらはともに]教令によって規定されているが、[一方は]好ま しい事柄であり、[他方は]好ましくない事柄である一ーの果報、すなわち知覚される楽しみと苦しみは、対象と感覚器官が接触することから生じ、身体・ 言語・心によって経験され、ブラフマー神がら草木に至るまで広く知られてい る。また聖典は、人間らブラフマー神に至る身体をそなえた者には、楽しみに程度の差があると説いている575。従って、その(楽しみの)原因であるダルマにも、程度の差があると理解される。さらに、ダルマに程度の差があれば、[ダルマを遂行する]資格をもつ人にも程度の差があることになる。そして、[ダルマを遂行する]資格をもつ人の程度の差が、[その人の果報への]欲求や能力[の差]によることは周知の事実である。
  また、供犠(yāga)の執行者たちの場合には、[その]知識と三味が優れているので、北道を通って行き、単に儀式(ista. stの下に・)、慈善(apūrta)、布施を行ったにすぎない場合には、煙となって云々という順序で南道を通って行くのであるが576、その場合にも同じように、楽しみやそれ[を得る]手段に程度の差 があることが、「[行為の果報が]尽きるまで[そこに]留まって」577という 聖典句から理解される。同様に、人間から地獄や草木に至るまで、[その]わずかな楽しみは、教令によって規定されたダルマによってまさに実現されるので、[その]程度に差があると理解される。また同様に、高級なあるいは低級な身体をそなえた者たちには、苦しみに程度の差があることが見られるから、 その(苦しみの)原因である非ダルマーー[それは]禁止を命ずる教令によって規定されているー一およびそれ(非ダルマ)の遂行者にも、程度の差があると理解される。このように、楽しみと苦しみの程度の差は、身体をそなえていることを前提として、ダルマ・非ダルマの程度の差に基づいて、無明等の欠陥のある人たちに生ずるのだが、[それは]無常であって輪廻に属すものであると、天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのである。
  同じ趣旨で天啓聖典はまず、「実に身体をそなえている限り、好悪が滅せられることはない」578と、先に述べた輪廻の性質に再び言及(anuvāda)している。[次に]「実に身体がなければ、好悪に影響されることはない」579と、好悪に影響さることを否定しているので、解脱と呼ばれる身体のない状態が、教令によって規定されたダルマの結果であるということは、否定されているのだと理解される。というのは、[解脱すなわち身体のない状態が]ダルマの結果であれば、好悪に影響されるのを否定することはありえないからである。

脚注
574 575 576 577 578 579
(´・(ェ)・`)
(つづく)

691鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/08(火) 00:24:25 ID:z.9F0lN20
答えたのじゃ。
 祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるから、それらの主張は間違いだというのじゃ。
 天啓聖典と聖伝書から知られる身体的、言語的、心的行為がダルマと呼ばれ、ダルマを対象とする考究が、「さて、この故にダルマの考究が [開始されるべきである]」と、スートラに述べられていたのじゃ。
 殺害等の非ダルマも、禁止を命ずる教令によって規定されているので、捨て去るために考究の対象となるのじゃ。

 これらダルマと非ダ ルマの果報、すなわち知覚される楽しみと苦しみは、対象と感覚器官が接触することから生じ、身体・ 言語・心によって経験され、ブラフマー神がら草木に至るまで広く知られているのじゃ。
 また聖典は、人間らブラフマー神に至る身体をそなえた者には、楽しみに程度の差があると説いているのじゃ。
 そうであるからその楽しみの原因であるダルマにも、程度の差があると理解されるじゃろう。
 さらに、ダルマに程度の差があれば、ダルマを遂行する資格をもつ人にも程度の差があることになるのじゃ。
 そして、ダルマを遂行する資格をもつ人の程度の差が、欲求や能力によることは周知の事実であるのじゃ。

 同様に人間から地獄や草木に至るまで、わずかな楽しみは、教令によって規定されたダルマによってまさに実現されるので、程度に差があると理解されるじゃろう。
 また同様に、高級なあるいは低級な身体をそなえた者たちには、苦しみに程度の差があることが見られるから、 その苦しみの原因である非ダルマとその遂行者にも、程度の差があると理解されるのじゃ。
 このように、楽しみと苦しみの程度の差は、身体をそなえていることを前提として、ダルマ・非ダルマの程度の差に基づいて、無明等の欠陥のある人たちに生ずるのだが、[それは]無常であって輪廻に属すものであると、天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのじゃ。

 同じ趣旨で天啓聖典はまず、「実に身体をそなえている限り、好悪が滅せられることはない」と、先に述べた輪廻の性質に再び言及しているのじゃ。
 次に「実に身体がなければ、好悪に影響されることはない」と、好悪に影響さることを否定しているので、解脱と呼ばれる身体のない状態が、教令によって規定されたダルマの結果であることは否定されているのじゃ。
 解脱すなわち身体のない状態がダルマの結果であれば、好悪に影響されるのを否定することはありえないからなのじゃ。

692避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 00:34:21 ID:fXYFUQkc0
(つづき)   p384-385
   [反対主張]身体のない状態こそがダルマの結果ではないのか。
  [答論]そうではない。[身体のない状態は]、それ(アートマン)にとって本来の状態だからである。というのは、「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」580「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」581「実にこのプルシャは無執着である」582等の天啓聖典句があるからである。以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのである。

  以上の一部の[先師たちの]見解を、[師シャンカラは次のように]批判している。 これ(以上の反対主張)に対して答えて言うと。一部の[先師たちの]見解は[正しく]ない。何故か。何故なら、祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからで ある。すなわち、善業と悪業の果報は[それぞれ]楽しみと苦しみである。このうち楽 しみは、人間の世界からブラフマー神の世界に向かうにつれ、[その]程度がますます高まってゆく。同じように苦しみにも、人間の世界から[地獄の]アーヴィーチィ界に至るまで程度に差がある。そしてこれら(楽しみと苦しみ)すべては、生み出されたものであって滅してゆくものである。一方、アートマンの知識の果報は、絶対的、非 身体的で、これ以上優れたものはなく、本来的に完成されているので、永遠であって、 生み出されたものではない。実にそれは、果報のごときものであって、無明を取り除くだけで現れてくるのである。
  その趣旨は以下の通りである。すなわち、ウパニシャッドの諸聖典句が念想を命ずる儀軌に従属していると認めているあなた[反対主張者]ですら、個人存在の本質が本来的にブラフマンーー[それは]永遠で清浄で悟っている等を本質としているーーであることは、ウパニシャッドから理解されるのだと認めている。だがそれ(個人存在の本質がブラフマンであるということ)は、念想を対象とする儀軌の果報ではない。何故なら、[個人存在の本質がブラフマンであるということは]常にそうなので、[儀斬の命ずる念想によって]生み出されるようなものではないからである。また、無始の無明という覆いを取り除くことが[儀軌の果報であるということ]もない。何故なら、それ(無明の覆いを取り除くこと)は、無明と対立する明知が生じることでのみ、起こるものだからである。また、明知が生ずることが[儀軌の果報であるということ] もない。というのは、それ(明知が生ずること)は、聴聞・思惟を前提とする念想から 生じた潜在印象に助けられた時にのみ、心に生ずるからである583。

脚注
580 581 582
583この点に関しては、本訳284貢参照
(´・(ェ)・`)つ

693鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/08(火) 22:39:55 ID:JQGnxcCQ0
 反対なのじゃ。
 身体のない状態こそがダルマの結果ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 違うというのじゃ。
 身体のない状態はアートマンにとって本来の状態だからなのじゃ。
 「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」
 「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」
 「実にこのプルシャは無執着である」
 等の天啓聖典句によって証明されているのじゃ。
 
 以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのじゃ。

 シャンカラは一部の先師による反対主張の見解は正しくないと批判しているのじゃ。
 何故ならば祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからなのじゃ。

 善業と悪業の果報は楽しみと苦しみであるのじゃ。
 このうち楽しみは、人間の世界からブラフマー神の世界に向かうにつれ、その程度がますます高まってゆくじゃろう。
 同じように苦しみにも、人間の世界から地獄のアーヴィーチィ界に至るまで程度に差があるのじゃ。
 そしてこれら楽しみと苦しみすべては、生み出されたものであって滅してゆくものなのじゃ。

 一方、アートマンの知識の果報は、絶対的、非身体的で、これ以上優れたものはなく、本来的に完成されているので、永遠であって、 生み出されたものではないのじゃ。
 実にそれは、果報のごときものであって、無明を取り除くだけで現れてくるのじゃ。

 反対主張者ですら個人存在の本質が本来的にブラフマンであることは、ウパニシャッドから理解されるのだと認めているじゃろう。
 だが個人存在の本質がブラフマンであるということは、念想を対象とする儀軌の果報ではないのじゃ
 何故ならば個人存在の本質がブラフマンであるということは常にそうなので、儀斬の命ずる念想によって生み出されるようなものではないからなのじゃ。

 無始の無明という覆いを取り除くことが儀軌の果報であるということもないのじゃ。
 何故ならば明の覆いを取り除くことは、無明と対立する明知が生じることでのみ、起こるものだからなのじゃ。

 明知が生ずることが儀軌の果報であるということ もないのじゃ。
 何故ならば明知が生ずることとは、聴聞・思惟を前提とする念想から 生じた潜在印象に助けられた時にのみ、心に生ずるからなのじゃ。

694避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 22:49:57 ID:21ocOwHE0
4.1.1.新得力と念想と直証との関係 p385-387 194右/229

  [反対主張]念想から生ずる潜在印象と同じように、念想から生ずる新得力も、[明 知が生ずる際に]心の手助けをするのではないか。儀軌によって命じられたことを遂 行した結果生ずる果報が、[来世ばかりでなく]現世で生ずることも実際に経験されて いるではないか。たとえば、カーリーリー祭やチトラー条等を命ずる儀軌(niyoga)の 場合には、[前者の]果報は[現世でと]決まっており、[後者の]果報は[現世でとも 来世でとも]決まっていないのである584。
  [答論]そうではない。音楽理論について修練(upāsanā)することから生ずる潜在印象が、新得力を必要とすることなしに、シャドジャ等[の音階]585を直観的に知るのに力があるように、ウパニシャッドの諸聖典句の意味について念想することから生ずる潜在印象は、[新得力を]必要とすることなしに、個人存在がブラフマンであるという直証に対して力があるのである。また同じように、念想から生ずる新得力は、不死となる原因ではないので、不死性を望む人がそれ(新得力)を遂行すべきものだと理解している、などということはありえないのである。何故なら、Aを望んでBを遂行するという矛盾が生ずるからである。
  [反対主張]それ(不死性)を望む人は、[念想という]行為のみを遂行しなければならないことだと理解しているのであって、新得力を[そうだと理解しているの]ではないのであろう。
   [答論]それは正しくない。それ(念想という行為)がそれ(直証)の手段であるということは、別の方法から586知られるので、儀軌が無意味となるからである。また [念想を命ずる儀軌は籾を]つくこと等を命ずる儀軌と同じではない。何故なら、それ (籾をつくことを命ずる儀軌)の場合には、制限新得力(niyamāpūrva)が[儀軌]以 外のものに基づいて理解されることはないからである587。さらにもし、[ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられていれ]ば、それ(不死性)を望む者に念想を行う資格があるということもあろうが、ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられているなどということはない。一方、ヴイシュヴァジット祭の原則588に従って、天界[が念想の果報]だと想定すると、それ(天界)は、それより優れたものがありかつ滅してゆくものなので、念想の果報は永遠ではないことになる。従って、 (1)ブラフマンとなることは、無明の覆いを取り除くだけで実現され、(2)無明の除去は、ウパニシャッドの諸聖典句の意味を知ること一[それは]悟りをもって終わる 一に基づいてのみ可能であり、(3)念想が潜在印象の原因であって、潜在印象は直証が生ずる際に心の手助けをするということは[儀軌]以外の方法によっても確定できる ので、「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」589というのは儀軌ではないのである。そうではなくて、それは儀軌に似たものにすぎないのである。[それは]たと えば、ウパームシュ祭に関する聖典句の場合に、「ヴィシュヌ神がウパームシュととも に供犠に供せられるべきである」等[の聖典句]が、儀軌に似てはいるが儀軌ではない ようなものである590。以上が[『註解』本文の]趣旨なのである。
  [『註解』本文に]天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのであるとあった が、[師シャンカラは]、そのうち天啓聖典を、同じ趣旨で天啓聖典は云々と示している のである。[そして]論理を、以上のような理由で云々と述べているのである。すなわち、「本来的なものはすぺて永遠である。たとえば純粋精神のように。そしてこれは本 来的なものである。それ故永遠である」 [という論理なのである]。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

695避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 22:50:45 ID:21ocOwHE0
(つづき)
脚注
584カーリー祭とは、収穫が豊穣であるための雨乞いの儀式であり、その果報は現世において、すなわちこの祭式のほとんど直後に得られてしかるべきものである。一方、チトラー祭とは、家畜を得るために行われるもので、その果報がいつ得られるという点に関する決まりはない。家畜を得て繁栄するという果報は、現世において得られることもあれぱ、来世において実現されることもあるのである。
585脚注258参照。
586「別の方法」とは、肯定法と否定法であるとされている
587 制限新得力とは、制限儀軌に従って行われた祭式から生ずる果報 のことであるが、制限儀軌とは、次のようなものである。すなわち、「行為(祭式)が様々な手段によって達成しうる場合に、ある手段が確立されようとしているとき、それとは別のまだ確立されていない手段を確立させる儀軌」が制限儀軌なのである。たとえば、「穀粒を打っ[べきである]」という儀軌が制限儀軌である。穀粒を脱穀するという行為は、爪でむくとか穀粒を打つとか、様々な方法で達成しうる。この場合に、ある手段(すなわち爪でむくという手段)が採用されようとしているときに、それとは別のまだ確立(採用)されていない手段(すなわち穀粒を打つという手段)を確立させるのがこの儀軌なのである。この脱穀の場合に、爪でむいても打っても、脱穀されるという目に見える結果(果報)に変わりはないので、目に見えない果報(新得力)に違いがあることになる。すなわち、穀粒を打って脱穀すれば、爪でむくのとは異なって、目に見えない果報(新得力)が生ずるとされるのである。これが制限新得力であり、この制限新得力が生ずることは、この制限儀軌からしか知られないのである。
588 脚注561;562参照。
589
590 脚注517参照。
(´・(ェ)・`)つ

696鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/09(水) 22:43:46 ID:eBxtCfAg0
 反対なのじゃ。
 念想から生ずる潜在印象と同じように、念想から生ずる新得力も、心の手助けをするのではないかというのじゃ。
 儀軌によって命じられたことを遂行した結果生ずる果報が、現世で生ずることも実際に経験されて いるからのう。

 答えたのじゃ。
 そうではないというのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の意味について念想することから生ずる潜在印象は、新得力を必要とすることなしに、個人存在がブラフマンであるという直証に力があるのじゃ。
 念想から生ずる新得力は、不死となる原因ではないので、不死性を望む人が新得力を遂行すべきものだと理解しているということはありえないのじゃ。
 あるものを望んだのに、他のものが得られるという矛盾になるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 不死性を望む人は、念想という行為のみを遂行しなければならないことだと理解しているのであって、新得力を遂行すべきものと理解しているのではないじゃろう。

 答えたのじゃ。
 念想という行為がそれ(直証)の手段であるということは、別の方法から知られるので、儀軌が無意味となるのじゃ。
 念想を命ずる儀軌は籾をつくこと等を命ずる儀軌と同じではないからのう。。
 何故なら籾をつくことを命ずる儀軌の場合には、制限新得力が儀軌以外のものに基づいて理解されることはないからだというのじゃ。
 
 ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられているなどということはないのじゃ。。
 ヴイシュヴァジット祭の原則に従って、天界が念想の果報だと想定すると、天界はそれより優れたものがありかつ滅してゆくものなので、念想の果報は永遠ではないことになるじゃろう。

 ブラフマンとなることは、無明の覆いを取り除くだけで実現され、無明の除去は、ウパニシャッドの諸聖典句の意味を知ることに基づいてのみ可能なのじゃ。、
 念想が潜在印象の原因であって、潜在印象は直証が生ずる際に心の手助けをするということは儀軌以外の方法によっても確定できる ので、「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」というのは儀軌ではないのじゃ。

 それは儀軌に似たものにすぎないのじゃ。
 ウパームシュ祭に関する聖典句の場合に、「ヴィシュヌ神がウパームシュととも に供犠に供せられるべきである」等の聖典句が、儀軌に似てはいるが儀軌ではないようなものじゃ。
 以上が[『註解』本文の]趣旨なのじゃ。

 シャンカラは「本来的なものはすぺて永遠である。たとえば純粋精神のように。そしてこれは本 来的なものである。それ故永遠である」[という論理を述べているのじゃ。

697避難民のマジレスさん:2022/11/09(水) 23:47:27 ID:eeZSdj9c0
4.2.解脱(ブラフマン)は変異することなく永遠なので行為に従 属しない p387 195右/229

  この(永遠なもの)のうち、あるものは変異しつつあるが永遠なものであり、[それは]たとえば、世界は永遠であるとする論者にとっての地等[の元素]591や、サーンキヤ学派にとっての構成要素(guna)のように592、変異しつづけていても<同一のものである(tad evedam)>という認識が損なわれないもののことである。 しかし[解脱は]、最高の実在であって、変異することなく永遠であり、虚空のように遍在しており、あらゆる変化と無縁で、常に充足し、部分がなく、 本性上自ら輝いている。それには、ダルマ・非ダルマおよびその果報(楽と苦)が、[過去・現在・未来の]三時に渡って伴うことはなく、そのような身体のない状態が、解脱と呼ばれるのである。何故なら、「ダルマとも異なり、 非ダルマとも異なり、原因や結果とも異なり、過去や未来とも異なる」593等の聖典句がああるからである。従って、それ(解脱)はまさにブラフマンであり、それ(ブラフマン)についてこの考究が開始されたわけだが、それ(ブラ フマン)がもし、遂行しなければならない行為に従属するものとして[ウパニ シャッドに]教示されており、さらに、その遂行しなければならない行為によって解脱が実現されるのだと認めるとすると、[解脱は]まさに無常であることになるであろう。そしてこのような場合には、解脱は、先に述べた祭式の 果報ーー[それは]程度の差が確立しており、無常であった一ーのうちの一種の優れたものであることになろう。だが解脱が永遠であることは、すべての解脱論者によって認められているところなのである。従って、ブラフマンは、遂行しなければならない行為に従属するものとして[ウパニシャッドに] 教示されているのではない。

脚注
591ミーマーンサー学派等の見解である。
592純質(sattva)•激質(rajas)•翳質(えい質tamas)という世界を構成する三要素のことで、三要素か様々な比率で組み合わされることによって多様な世界か構成されているとされる。
593

4.2.1.解脱(ブラフマン)は変異することなく永遠である p388 196左/229

  実に他の者は、二種の永遠性について述べている。すなわち、変異することなく永遠 であることと、変異しつつあるが永遠であることとである。このうち、[解脱が]永遠であると言う時には、それ(解脱)は変異しつつあるが永遠であるという[意味]ではないので、[師シャンカラは]この(永遠なものの)うち、あるものは云々と述べているのである。というのは、変異しつつあるが永遠であるというのは、究極的なものではないからである。詳論すれば次の通りである。すなわち、[ブラフマン=解脱が変異しつつあるが永遠であるとすれば]、それは、全体が変異するかあるいは一部が変異するかのいずれかであろう。もし全体が変異するとすれば、その性質が損なわれずにはおかないことにる。またもし、一部が変異するのであれば、その[変異した]部分は、 それ(変異した部分以外の部分)とは異なるか、あるいは異ならないかのいずれかであ ろう。もし異なるとすれぱ、どうして、それ(ブラフマン=解脱)が変異することがあろうか。実にAが変異してもBは変異しないのである。何故なら、[もしAが変異すればBも変異するとすれば]、拡大適用という誤謬に陥るからである。またもし異ならなけれぱ、どうして全体が変異するといえようか。
(´・(ェ)・`)つ

698避難民のマジレスさん:2022/11/10(木) 06:42:45 ID:2xw.CApE0
>>694
ヴィシュヴァジット祭の原則
脚注561
・・・ここで問題となっているのは、祭式の果報が儀軌に述べられて いない場合には、何を果報と解すればいいかという点であるが、このような場合にはヴィシュヴァジット祭におけるように天界をヴィシュヴァジット祭報と考えるべきである、というのがヴィシュヴァジット祭の原則である。

>>684

(´・(ェ)・`)b

699避難民のマジレスさん:2022/11/10(木) 06:47:59 ID:2xw.CApE0
>>698
訂正
ヴィシュヴァジット祭におけるように天界を果報と考えるべきである、
(´・(ェ)・`)b

700鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/11(金) 00:02:57 ID:KTvQbUPE0
 この永遠なもののうち、あるものは変異しつつあるが永遠なものだというのじゃ。
 たとえば世界は永遠であるとする論者にとっての地等や、サーンキヤ学派にとっての構成要素のように、変異しつづけていても同一のものという認識が損なわれないものなのじゃ。
 
  しかし解脱は最高の実在であって、変異することなく永遠であり、虚空のように遍在しており、あらゆる変化と無縁で、常に充足し、部分がなく本性上自ら輝いているものじゃ。
 
 それには、ダルマ・非ダルマおよびその果報(楽と苦)が、過去現在未来の三時に渡って伴うことはなく、そのような身体のない状態が解脱と呼ばれるのじゃ。
 何故ならば、「ダルマとも異なり、 非ダルマとも異なり、原因や結果とも異なり、過去や未来とも異なる」等の聖典句がああるからなのじゃ。

 その解脱はまさにブラフマンであり、そのブラフマンについてこの考究が開始されたのじゃ。
 そのブラフマンがもし、遂行しなければならない行為に従属するものとして教示されており、さらにその遂行しなければならない行為によって解脱が実現されるのだと認めるとすると解脱はまさに無常であることになるのじゃ。
 そしてこのような場合に解脱は、先に述べた祭式の果報のうちの一種の優れたものでしかないことになるのじゃ。
 だが解脱が永遠であることは、すべての解脱論者によって認められているから違うのじゃ。
 従って、ブラフマンは遂行しなければならない行為に従属するものとしてウパニシャッドに 教示されているのではないのじゃ。


 他の者は、二種の永遠性について述べているのじゃ。
 変異することなく永遠 であることと、変異しつつあるが永遠であることなのじゃ。
 このうち、解脱が永遠であると言う時には、その解脱は変異しつつあるが永遠であるのではないので、シャンカラはこのうち、あるものは云々と述べているのである。
 というのは、変異しつつあるが永遠であるというのは、究極的なものではないからなのじゃ。

 ブラフマン=解脱が変異しつつあるが永遠であるとすれば、それは、全体が変異するかあるいは一部が変異するかのいずれかになるじゃろう。
 もし全体が変異するとすれば、その性質が損なれるじゃろう。
 またもし、一部が変異するのであれば、その部分は、 他なの部分とは異なるか、あるいは異ならないかのいずれかじゃろう。
 もし異なるとすれぱ、それは変異しないのじゃ。
 実にAが変異してもBは変異しないのじゃ。
 何故なら、拡大適用という誤謬に陥るからなのじゃ。
 またもし異ならないならば全体が変異することもないのじゃ。

701避難民のマジレスさん:2022/11/11(金) 01:51:14 ID:.FscfNds0
4.2.2.変異した部分と変異していない部分は異なっておりかつ異なっていないという反対主張 p388-389 196左/229

  [反対主張]それ(変異した部分と変異していない部分)は、異なっておりかつ異なっていないのである。詳論すれば次の通りである。すなわち、それ(両者)は、原因 を本質とするという点では異ならず、同時にまた結果を本質とするという点では異なっ ているのである。たとえば[金の]腕輪等は、金を本質とするという点では[原因である金と]異ならないと同時に、腕輪であることを本質とするという点では[原因である金と]異なるようなものである。
   [反対主張に対する反論]異なることと異ならないことというのは矛盾するから、同一の場所に共存することはない。
  [反対主張]それは正しくない。「矛盾する」というわれわれの認識は、いったいどこに存在するのであろうか。それは、認識根拠に反するようなところに存在するので ある594。一方、認識根拠によって理解されたものは、そのままの形で[正しいと認めるべきなのである]。[たとえば]「このイヤリングは金である」という同格関係に基づく認識には、[両者が]異なっておりかつ異なっていないということが明確に現れて いる。詳論すれば次の通りである。すなわち[この場合]、両者が全く異ならないとすると、[「このイヤリングは金である」という文章は]同語反復であることになってしまう。一方、[両者が]完全に異なっているとすると、牛と馬の場合のように、同格関 係か成り立たないことになる。また同格関係は、基体とその基体の上にあるものとの関係(ādhāarāheyabhāva)の場合にも、また同じ基体の上にあるものどうしの関係 (ekāśrayatva)の場合にも成り立たない。というのは、[ナツメの実とそれが置かれている基体である鉢について]、「鉢はナツメの実である」とは言わないし、また、同じ席にいるチャイトラとマイトラについて、「チャイトラはマイトラである」とは言わないからである。そしてまさに、この同格関係に基づく認識一[それは]否定されることがなく、疑問の余地がなく、すべての人が知っている一が、原因と結果は異なっておりかつ異なっていないのだということを確定するのである。このように、もろもろの結果は原因を本質としており、さらに、原因の本質が存在であることは、すべてに認められているので、結果である世界は存在を本質とするという点では、[原因であ るブラフマンと]異ならないが、壼等の結果という姿では[原因と]異なるのである。 たとえば次のように言われている。「結果という姿では多様であるが、原因を本質とするという点では異ならない。たとえば、腕輪等の姿では異なるが、金を本質とすると いう点では異ならないのである」595と。

脚注
594
595 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

702鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/11(金) 23:58:53 ID:qiL6aIhY0
 反対なのじゃ。
 変異した部分と変異していない部分は、異なっておりかつ異なっていないというのじゃ。
 それら両者は原因を本質とするという点では異ならず、同時にまた結果を本質とするという点では異なっていると言えるからなのじゃ。
 たとえば金の腕輪等は金を本質とするという点では原因である金と異ならないと同時に、腕輪であることを本質とするという点では異なるようなものじゃ。

 答えたのじゃ。
 異なることと異ならないことというのは矛盾するから、同一の場所に共存することはないのじゃ。

 
 反対なのじゃ。
 それは正しくないのじゃ。
 「矛盾する」というわれわれの認識はないというのじゃ。
 それは、認識根拠に反するようなところに存在するのじゃ。
 一方、認識根拠によって理解されたものは、そのままの形で正しいと認めるべきなのじゃ。
 たとえばこのイヤリングは金であるという同格関係に基づく認識には、両者が異なっておりかつ異なっていないということが明確に現れているのじゃ。

 この場合、両者が全く異ならないとすると、このイヤリングは金であるという文章は同語反復であることになってしまうじゃろう。
 一方、両者が完全に異なっているとすると、牛と馬の場合のように、同格関係か成り立たないことになるのじゃ。
 また同格関係は、基体とその基体の上にあるものとの関係の場合にも、また同じ基体の上にあるものどうしの関係)の場合にも成り立たないのじゃ。

 というのは、ナツメの実とそれが置かれている基体である鉢について「鉢はナツメの実である」とは言わないのじゃ。
 また、同じ席にいるチャイトラとマイトラについて、「チャイトラはマイトラである」とは言わないからなのじゃ。
 この同格関係に基づく認識が、原因と結果は異なっておりかつ異なっていないのだということを確定するのじゃ。

 このように、もろもろの結果は原因を本質としており、さらに、原因の本質が存在であることは、すべてに認められているのじゃ。
 結果である世界は存在を本質とするという点では、原因であるブラフマンと異ならないが、壼等の結果という姿では原因と異なるのじゃ。

703避難民のマジレスさん:2022/11/12(土) 04:47:57 ID:O51dUIFk0
4.2.3.異なりかつ異ならないということはありえないので解脱は変異することなく永遠であるという答論 p389-391 196右/229

  [答論]以上の反対主張に対して次のように答える。もし、異なることが異ならないことと同じ場所に共存するとすれば、一体この異なることとは何なのか。もし互いに 存在しないということ(paraspārabhāva)であれば、それは金と腕輪のような原因と結果のあいだに存在するのであろうか、それとも存在しないのであろうか。もし存在しないとすれば、まさに同一であることになり、異なるということはない。もし存在すれば、まさに異なっているのであって、異ならないなどということはない。また、存在 と非存在が相反しないなどということもない。何故なら、共存することはありえない からである。あるいはもし、[共存することが]可能だとすると、異なることと異ならないこととが相反しないわけだから、腕輪と皿(vardhamānaka)596もそれ自体異ならないという誤謬に陥ることになる。さらに、[金の]腕輪が金と異ならないとすると、 [金の]腕輪、王冠、イヤリング等は、金を本質とするという点で異ならないのと同じ ように、腕輪を本質とするという点でも異ならないということになってしまうであろう。何故なら、腕輪と金とが異ならないからである。とすれば、違いというものが現れないことになるから、金のみが実在であって、腕輪等は実在ではないことになろう。
  [反対主張][腕輪は]金であるという点では[イヤリング等と]異ならないが、腕輪であるという点では[異ならないわけでは]なく、その(腕輪であるという)点ではまさにイヤリングと異なるのである。
  [答論]もし[金の]腕輪が金と異ならないとすると、どうしてこれ(金の腕輪)が [金と同じように]イヤリング等に受け継がれることはないのか。またもし受け継がれ ないとすると、どうして[金の]腕輪が金と異ならないということになるのか。という のは、Xが受け継がれている時に、Yが受け継がれていなけれぱ、Y.はXとは異なるからである。ちょうど[花輪の]花が、[それを繋ぎとめる]糸とは異なるように597。そして、金であるという性質は、[腕輪やイヤリング等に]受け継がれていっても、イヤリング等は受け継がれてはいかない。従って、それら(イヤリング等)は金とは異なるのである。またもし、存在性が受け継がれているからすぺての事物は異ならないとすると、「これはここにあるが、これはない」「これはこれとは[異なる]が、これはそうではない」「これは今あるが、これはそうではない」「これはこのようであるが、これは そうではない」等の区別が存在しないことになろう。何故なら、何の、どこに、いつ、どうやってという形で区別をする原因が存在しないからである。さらに[イヤリング 等が金と異ならないとすると、それらは]遠くから見て金だと分かれば、[だれも]そ のイヤリング等の区別を知りたいとは思わないであろう。何故なら、それら(イヤリング等)は金と異ならないうえに、それ(金)はすでに知られているからである。
   [反対主張][イヤリング等は金と異ならないとはいっても、一方では]イヤリング 等と金には違いが存在するので、[イヤリング等は]、金だと分かってもまだ知られてはいないのである。
   [答論][両者が]異ならないという面もあるのに、どうして[イヤリング等は、金だと分かっただけでは]すでに知られていることにはならないのか。それどころか、それら (イヤリング等)が知られることこそが、正しいはずなのである。何故なら、原因(金) が存在しない時に、結果(イヤリング等)が存在しないというのが原則(autsargika) であり、[ここでは]それ(結果が存在しないこと)は、原因が存在することによって否定されているからである598。そして、[両者が]異ならない時には、原因が存在する のだから、金が知られた時にはイヤリング等も知られていることになり、それ(イヤリ ング等)の考究および知識は無意味であることになろう。従って、Xが理解されている時にYが理解されていなければ、YはXとは異なるのである。たとえば、ラクダが 理解されている時に理解されていないロバは、ラクダとは異なるように。そして、遠くから見て金だと理解されている時には、そのイヤリング等の区別は理解されていない。従って、それら(イヤリング等)は金とは異なるのである。

脚注
596
597 糸は花に受け継がれているが、それぞれの花は他の花に受け継がれない
598否定法による証明である
(´・(ェ)・`)
(つづく)

704鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/13(日) 00:11:52 ID:Wm4lhuJQ0
答えたのじゃ。
 異なることが異ならないことは同じ場所に共存しないのじゃ。
 もし互いに 存在しないのならば、それは金と腕輪のような原因と結果のあいだに存在するのか、それとも存在しないのかと問うのじゃ。
 もし存在しないとすれば、まさに同一であることになり、異なるということはないのじゃ。
 存在しないということで同じなのじゃ。。
 もし存在すれば、まさに異なっているのであって、異ならないなどということはないじゃろう。
   
 また、存在と非存在が相反しないなどということもないのじゃ。
 何故ならば、それらが共存することはありえない からなのじゃ。
 もし、共存することが可能だとすると異なることと異ならないこととが相反しないから、腕輪と皿もそれ自体異ならないという誤謬に陥ることになるじゃろう。
 金の腕輪が金と異ならないとすると、金の腕輪、王冠、イヤリング等は、金を本質とするという点で異ならないのと同じように腕輪を本質とするという点でも異ならないということになってしまうじゃろう。
 そうであるからそこには違いというものが現れないことになるから、金のみが実在であって、腕輪等は実在ではないことになるじゃろう。

 反対なのじゃ。
 腕輪は金であるという点ではイヤリング等と異ならないが、腕輪であるという点では異るというのじゃ。
  
 答えたのじゃ。
 もし金の腕輪が金と異ならないとすると、どうしてそれがが 金と同じようにイヤリング等に受け継がれないのかと問うのじゃ。
 またもし受け継がれ ないとすると、腕輪が金と異ならないということになるじゃろう。
 というのはXが受け継がれている時に、Yが受け継がれていなけれぱ、Y.はXとは異なるからなのじゃ。
 ちょうど花輪の花が、それを繋ぎとめる糸とは異なるようにのう。

 そして、金であるという性質は腕輪やイヤリング等に受け継がれていっても、イヤリング等は受け継がれてはいかないじゃろう。。
 従って、それらイヤリング等は金とは異なるのじゃ。
 またもし、存在性が受け継がれているからすぺての事物は異ならないとすると、何の、どこに、いつ、どうやってという等の区別が存在しないことになるのじゃ。
 何故なら、何の、どこに、いつ、どうやってという形で区別をする原因が存在しないからである。
 さらにイヤリング 等が金と異ならないとすると、それらは]遠くから見て金だと分かれば、だれもそのイヤリング等の区別を知りたいとは思わないじゃろう。
 何故なら、それらのイヤリング等は金と異ならないうえに、金はすでに知られているからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 イヤリング等は金と異ならないとはいっても、一方ではイヤリング等と金には違いが存在するので、それらは金だと分かってもまだ知られてはいないのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 両者が異ならないという面があればイヤリング等は、金だと分かっただけですでに知られていることになるのじゃ。
 むしろイヤリング等が知られることこそが、正しいはずなのじゃ。
 何故ならば原因である金が存在しない時に、結果のイヤリング等が存在しないというのが原則であり、結果が存在しないことは、原因が存在することも否定されているのじゃ。
 そして、[両者が]異ならない時には、原因が存在する のだから、金が知られた時にはイヤリング等も知られていることになるのじゃ。
  
 たとえば、ラクダが 理解されている時に理解されていないロバは、ラクダとは異なるようにのう。
 そして、遠くから見て金だと理解されている時には、そのイヤリング等の区別は理解されていないのじゃ。
 従って、それらイヤリング等は金とは異なるのじゃ。

705避難民のマジレスさん:2022/11/13(日) 13:38:38 ID:fO1sW.K20
(つづき)    p391-392
   [反対主張]ではどうして、「イヤリングが金である」という同格関係があるのか。
  [答論]まず、基体とその基体の上にあるものとの関係、あるいは、同じ基体の上にあるものどうしの関係の場合には、同格関係は成り立たないということは、すでに述べた通りである599。
  [反対主張]では、[金はイヤリング等に]受け継がれ、[腕輪等はイヤリング等に]受け継がれないという違いや、金が知られている時にもイヤリング等が考究されるというのは、どのように[説明すればいいのか]。
   [答論]これらは、[両者が]異ならないということが絶対的にそうである時と、絶対的にそうでない時には成り立たない、とすでに述べた通りである600。従って、異な ることと異ならないことのうちどちらかを放棄するとすると、異ならないことに基づ いて異なることが想定されるのであり、異なることに基づいて異ならないことが想定 されるのではない、と[考えるのが]正しいのである。すなわち、(1)異なることは異 なっているものに基づき、(2)異なっているものはそれぞれ同一のものに基づいており、(3)同一のものがなけれぱ、[異なるものの]基体が存在しなくなるから、異なる ことが成り立たなくなり、(4)同一のものは異なることに基づかず、(5)「それはこれ ではない」という形の異なるという認識は、それと反対のもの(pratiyogin,すなわち 同一であること)601の認識に基づいており、(6)同一であるという認識はそれ以外の もの(すなわち異なるという認識)に基づかないので、異なること一[それは実在で あるとも非実在であるとも]表現し得ないものである一を想定するのは、異ならないこと(同一であること)に基づいているのである、というのが正しいのである602。同じ趣旨で、「粘土であるというのだけが正しいのである」603という天啓聖典句がある。従って、変異することなく永遠であることだけが、究極的なものであって、変異しつつあるが永遠であることというのは、そうではないのである。
  なお、虚空のようにという例は、他学派で604[永遠であると]認められているものである。というのは、われわれの見解では、それ(虚空)も結果なので永遠ではないからである。そしてここ(『註解』本文)で変異することなく永遠でありと言っている のは、[解脱が]実現すべき対象であることを退けているのである。また、遍在しておりと言うのは到達の対象であることを、あらゆる変化と無縁でと言うのは変化してできるものだということを[退けているのである]。さらに、部分がなくと言うのは、浄化 されるべき対象であるということを[退けているのである]605。すなわち、穀粒の場合には、[水を]ふりかけることによって、浄化と呼ばれる部分(要素,amśa)が生ずるが606、ブラフマンの場合には、部分(avayava)がないので、すなわち要素(amśa)がないので、このような部分(要素)がなんらかでも行為によって生ずることはないのである、という意味である。[次に師シャンカラは、解脱が]人問の目的であることを[次のように]述べている。常に充足しておりと。充足[という語]によって、苦しみとは無縁な楽しみが暗示されているのである。というのは、飢えという苦しみの止滅と結びついた楽しみが、充足だからである。[さらに]楽しみは、認識されていなければ、人間の目的ではないというので、[師シャンカラは、解脱は]自ら輝いていると述べているのである。
  このように[師シャンカラは]、自己の見解によれば、解脱と呼ばれる果報は永遠であるということを、天啓聖典何等によって明らかにして、[次に]解脱は行為によって 実現されるとすれば無常であることになってしまう[ということを、次のように]述 べている。それ(ブラフマン)がもし云々と。さらに、[解脱が永遠であることは]聖 典によって否定されることはない。何故なら聖典は、これまで述べてきたような形で(すなわち解脱は永遠であると説いていると)理解し得るからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

706避難民のマジレスさん:2022/11/13(日) 13:39:20 ID:fO1sW.K20
(つづき)
脚注
599 本訳389頁参照。
600 本訳389頁19行以下参照。
601 602 603
604 たとえばヴァイシェーシ力学派等。
605 解脱が実現すべき対象、到達の対象、変化してできるもの、浄化されるべき対象という四種のものではないという点については本訳402頁以下参照のこと。
606 供犠において神に捧げる祭餅を穀粒から作る過程で、「穀粒に水をふりかける[べきである]」どいつ儀軌によって、穀粒に水をふりかけてから祭餅を作ることが規定されているが、水をふりかけなくても祭餅を作るのになんら支障はないので、この行為からは目に見える結果は生じないことになる。だが、ミーマーンサー学派によれば、ヴェーダのなかにはなんら無意味なことは述べられていないはずであるので、この「穀粒に水をふりかける[べきである]」というヴェーダの文章は、穀粒を浄化することによって、目 に見えない結果(果報)である新得力を生み出すのだとされるのである。なおこの場合には、穀粒に浄化と呼ばれる部分(要素)が生じたと考えられるわけであるが、ブラフマンには部分がないのでブラフマン が浄化されることはないのである。
(´・(ェ)・`)つ

707鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/13(日) 23:19:13 ID:l1uWjDFM0
 反対なのじゃ。
 どうしてイヤリングが金であるという同格関係があるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 基体とその基体の上にあるものとの関係、あるいは、同じ基体の上にあるものどうしの関係の場合には、同格関係は成り立たないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 金はイヤリング等に受け継がれ、腕輪等はイヤリング等に受け継がれないという違いや、金が知られている時にもイヤリング等が考究されるというのはなぜかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 これらは、両者が異ならないということが絶対的にそうである時と、絶対的にそうでない時には成り立たないからというのじゃ。
 異なることと異ならないことのうちどちらかを放棄するとすると、異ならないことに基づ いて異なることが想定されるのじゃ。

 (1)異なることは異なっているものに基づいているのじゃ。
 (2)異なっているものはそれぞれ同一のものに基づいているのじゃ。
 (3)同一のものがなけれぱ、異なるものの基体が存在しなくなるから、異なることが成り立たなくなるのじゃ。
 (4)同一のものは異なることに基づかないのじゃ。
 (5)形の異なるという認識は、それと反対のものの認識に基づいているのじゃ。
 (6)同一であるという認識はそれ以外のものすなわち異なるという認識に基づかないので、異なることを想定するのは、異ならないことに基づいているというのが正しいのじゃ。

 変異することなく永遠であることだけが、究極的なものであって、変異しつつあるが永遠であることというのはないのじゃ。

 虚空も結果なので永遠ではないのじゃ。
 そして本文で変異することなく永遠でありと言っている のは、解脱が実現すべき対象であることを退けているのじゃ。
 また、遍在しておりと言うのは到達の対象であることを、あらゆる変化と無縁でと言うのは変化してできるものだということを退けているのじゃ。
 さらに、部分がなくと言うのは、浄化 されるべき対象であるということを退けているのじゃ。
 ブラフマンは、部分がない、すなわち要素がないので、このような部分がなんらかでも行為によって生ずることはないのである、という意味なのじゃ。

 
 シャンカラは、解脱が人問の目的であることを次のように述べているというのじゃ。
 常に充足しておりと。
 充足という語によって、苦しみとは無縁な楽しみが暗示されているというのじゃ。
 というのは、飢えという苦しみの止滅と結びついた楽しみが、充足だからなのじゃ。
 さらに楽しみは、認識されていなければ、人間の目的ではないというので、シャンカラは解脱は自ら輝いていると述べているのじゃ。

 シャンカラは自己の見解によれば、解脱と呼ばれる果報は永遠であるということを、天啓聖典何等によって明らかにしているのじゃ。
 [次に]解脱は行為によって 実現されるとすれば無常であることになってしまうということを、述べているのじゃ。
 さらに解脱が永遠であることは聖 典によって否定されることはないのじゃ。
 何故ならば聖典は、これまで述べてきたような形で、解脱は永遠であると説いていると理解し得るからなのじゃ。


 解脱は永遠であり、全てであり、分裂していないというのじゃ。
 それはもとからあるもののであり、修行とかで人間の心が変異したりしてできるものではないというのじゃな。
 解脱とは変異ではなく、心の回帰であるといえるのじゃ。

708避難民のマジレスさん:2022/11/14(月) 05:16:49 ID:loidiCpM0
4.3.ブラフマンとアートマンとの同一性を知れば行為を介在する ことなく即座に解脱する
  p.393-394 198右

  さらに、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」607「高くかつ低い者を見た時、彼の行為は滅するのである」608「ブラフマンの歓喜を知る者 はなにものも恐れない」609「ジャナカ王よ、汝は無畏に達したのである」610「それはまさに自らを『私はブラフマンである』と知った。それ故、それは一切となったのである」611「[万物が]唯一であることを知った者にどんな迷い
があろうか。どんな悲しみがあろうか」612等の天啓聖典句は、ブラフマンの明知の直後に解脱を示しており、[ブラフマンの知識と解脱との]中問に、遂行しなければならない他の行為が介在することを妨げているのである。同じように、「実にこれを見て、聖仙ヴァーマデーヴァは、『私はマヌであったのだ』『私は太陽であったのだ』と理解したのである」613という[聖典句も]、ブラフマンを見ることと万物のアートマンとなることとの中間に、遂行しなければならない他の行為が[介在することを]妨げるものとして引用しておくこ とにする。[それは]ちょうど、「立っていて歌う」という言えば、立っていることと歌うこととの中問に、同じ行為者の別の行為が存在しないことが分かるのと同じである。
  さらに、「実に汝はわれらの父であり、われらを無明の彼岸へ渡らせてくれるのである」614「実に私は神聖なる聖仙たちから『アートマンを知るものは悲しみを超越する』と聞いたのです。神聖なる者よ、この私が悲しんでいるのです。神聖なる者よ、その私を悲しみの彼岸に渡らせてください」615「神聖なるサナトクマーラは、汚れが滅した者に対して、暗闇の彼岸を示すので ある」616等の聖典句は、アートマンの知識の果報が、専ら解脱の障害となるものを止滅することにあるということを、示しているのである。また同じ趣旨で、師が著し論理で支えられた[次のような]スートラがある。すなわち、 「苦しみ、生、活動、過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱(apavarga)が[生ずるのである]」617と。そして誤った知識は、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識によって取り除かれるのである。

脚注
607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617
(´・(ェ)・`)
(つづく)

709鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/15(火) 00:33:25 ID:H1q7SeVA0

 さらに、
 「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」
 「高くかつ低い者を見た時、彼の行為は滅するのである」
 「ブラフマンの歓喜を知る者 はなにものも恐れない」
 「ジャナカ王よ、汝は無畏に達したのである」
 「それはまさに自らを『私はブラフマンである』と知った。それ故、それは一切となったのである」
 「[万物が]唯一であることを知った者にどんな迷いがあろうか。どんな悲しみがあろうか」

 等の天啓聖典句は、ブラフマンの明知の直後に解脱を示しているというのじゃ。
 ブラフマンの理解と解脱の中問に、遂行しなければならない他の行為が介在することを妨げているというのじゃ。

 つまりブラフマンは観てしまえば解脱は自然に起こるというのじゃな。
 ブラフマンを理解すれば、即解脱が起こるのじゃ。

 同じように、「実にこれを見て、聖仙ヴァーマデーヴァは、『私はマヌであったのだ』『私は太陽であったのだ』と理解したのである」
 という聖典句も、ブラフマンを見ることと万物のアートマンとなることとの中間に、遂行しなければならない他の行為がないことを示しているのじゃ。
 それは]ちょうど、「立っていて歌う」という言えば、立っていることと歌うこととの中問に、同じ行為者の別の行為が存在しないことが分かるのと同じようにのう。

 さらに、「実に汝はわれらの父であり、われらを無明の彼岸へ渡らせてくれるのである」
 「実に私は神聖なる聖仙たちから『アートマンを知るものは悲しみを超越する』と聞いたのです。神聖なる者よ、この私が悲しんでいるのです。神聖なる者よ、その私を悲しみの彼岸に渡らせてください」
 「神聖なるサナトクマーラは、汚れが滅した者に対して、暗闇の彼岸を示すので ある」
 等の聖典句は、アートマンの知識の果報が、専ら解脱の障害となるものを止滅することにあるということを、示しているのじゃ。

 また同じ趣旨で、師が著し論理で支えられたスートラがあるのじゃ。
 「苦しみ、生、活動、過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱が生ずるのじゃ。
 そして誤った知識は、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識によって取り除かれるのじゃ。

710避難民のマジレスさん:2022/11/15(火) 07:41:43 ID:sfCtiVOE0
(つづき) p394-395
  さらに、「解脱は、知識から生ずる新得力によって生み出されたもの[なの]で、儀軌 に基づいている」というこの見解を妨げる天啓聖典句がたくさんあることを、[師シャ ンカラは、次のように]述べている。さらに「ブラフマンを知る者は...」云々と。ま た、明知が解脱の手段であるのは、二種の無明という障害を取り除くことにのみよるのであり、それ自身で[解脱の手段であるのでは]ないし、新得力を生み出すことによってでもないのである。このことに関しても、[師シャンカラは、次のような]諸天啓聖典句を引用している。さらに「実に汝はわれらの父であり...」云々と。さらに同じ趣旨 のものとして、ただ単に諸天啓聖典句ばかりでなく、師アタシャパーダ作の論理に基づくスートラ618も存在することを、[師シャンカラは次のように]述べているのである。 また同じ趣旨で師が著し云々と。ところで師とは、プラーナに次のように定義づけら れている。「聖典の意味を集成し、[弟子たちに]良い行い(ācāra)をさせ、自らも良い行いをする(ācarate)ので、師(ācārya)と言われるのである」619と。そして、このような師によって[次のような]スートラが著されたのである。「苦しみ、生、活動、 過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消 滅するので、解脱が[生ずるのである]」と。[ここに]述べられている順序によれば、 後のものが原因であり、前のものが結果であって、原因が消滅すれば、結果は消滅するのである。[それは]ちょうど、粘液が消滅すれば、粘液によって生じた熱が消滅するようなものである。[すなわち]、生が消滅すれば苦しみが消滅し、活動が消滅すれば生が消滅し、過失が消滅すれば活動が消滅し、誤った知識が消滅すれば過失が消滅するのである。そして、誤った知識すなわち無明は、食欲等を生ずるというまさに経験されて いるような形で、輪廻の根本的な原因となっているのである。そしてそれ(無明)は、 [無明と]対立する真理の知識、すなわちブラフマンとアートマンは同一であるという認識一[それは]悟りをもって終わる一によって、滅せられるのである。従って、解脱とは・無明が成することによってブラフマンの本質が顕現することなのであって、明知(念想)の結果でも、それ(明知=念想)によって生じた新得力の結果でもない。 これがこのスートラの意味なのである。[ただし}このスートラは、真理の認識に基づ いて誤った認識が取り除かれるのだという意味あいでのみ紹介されているのであり、ここでアクシャバーダの見解が真理の認識だと認められているわけではない。すなわち、 このように他学派の師も認めているので、この趣旨(つまり真理の認識に基づいて誤っ た認識が取り除かれるということ)が、確実なものとなるというわけなのである。

脚注
618アクシャバーダとは、ガウタマことである。
619 出典不明。ここでは師という語を、良い行いをする。という語源から説明しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

711鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/15(火) 22:59:55 ID:V/tVZ63I0
 さらに、「解脱は、知識から生ずる新得力によって生み出されたもので、儀軌に基づいている」というこの見解を妨げる天啓聖典句がたくさんあるとシャンカラは述べているというのじゃ。
 また明知が解脱の手段であるのは、二種の無明という障害を取り除くことのみによるのであるとシャンカラは述べているというのじゃ。

 諸天啓聖典句ばかりでなく、師アタシャパーダ作の論理に基づくスートラも存在することシャンカラは述べているというのじゃ。
 師とはプラーナに次のように定義づけら れているのじゃ。
 聖典の意味を集成し、弟子たちに良い行いをさせ、自らも良い行いをするので、師と言われるのである」と。

 このような師によって次のようなスートラが著されたのじゃ。
 苦しみ、生、活動、 過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱が生ずるのであると。
 述べられている順序によれば、 後のものが原因であり、前のものが結果であって、原因が消滅すれば、結果は消滅するというのじゃ。

 生が消滅すれば苦しみが消滅し、活動が消滅すれば生が消滅し、過失が消滅すれば活動が消滅し、誤った知識が消滅すれば過失が消滅するのじゃ。
 そして、誤った知識すなわち無明は、食欲等を生ずるというまさに経験されて いるような形で、輪廻の根本的な原因となっているのじゃ。
 そして無明は、対立する真理の知識、すなわちブラフマンとアートマンは同一であるという認識によって、滅せられるのじゃ。

 解脱とは無明が成することによってブラフマンの本質が顕現することなのであって、明知、念想の結果でも、それによって生じた新得力の結果でもないのじゃ。
 これがこのスートラの意味なのじゃ。
 このスートラは、真理の認識に基づ いて誤った認識が取り除かれるのだという意味で紹介されているのであり、ここでアクシャバーダの見解が真理の認識だと認められているのではないのじゃ。。
 このように他学派の師も認めているので、この趣旨が確実なものとなるのじゃ。

 この他学派とはニヤーヤ学派だというのじゃ。
 観察によって認識主体などを見極めることで、悟りを目指す学派なのじゃ。

712避難民のマジレスさん:2022/11/15(火) 23:57:56 ID:5XJU9Nfk0
4.4.ブラフマンとアートマンとの同」性の認識は想像上の同一視 等の性質のものであるという反対主張 p395-396

  [反対主張]もし[ブラフマンと個人存在(アートマン)が同一であるという認識が すでに存在する事物を対象として]いれば、それは、多様性の現われという誤った認識 を滅するであろうし、また、儀軌の対象となることはないであろうが、[ブラフマンと 個人存在が]同一であるという認識は、すでに存在する事物を対象としているのではな い。そうではなくて、[その認識は]想像上の同一視(sampad)等の性質のものなので ある。従って、[そのブラフマンと個人存在が同一であるという認識は]、儀軌以前に は成立しておらず、人間の欲求によって成立するはずなので、儀軌の対象となるであろう。
  たとえば[次の通りである]。心(manas)は、無限に変化するという点で、ヴィシュヴァデーヴァたちと類似しているので、ヴィシュウァデーヴァたちを心のなかに思い 浮かべる。そして、心という[思い浮かぺるための]基盤を存在しないかのように見なして、主に思い浮かべたヴィシュヴァデーヴァたちだけを瞑想する。そうすることに よって、無限の世界を獲得するのである。それと同じように、個人存在は、精神という性質が類似しているので、ブラフマンと同一であると思う。そして、個人存在という [同一視の]基盤を存在しないかのように見なして、主にブラフマンを瞑想狐そう することによって、不死性という果報を獲得するのである620。
  一方、附託の場合には、[附託の]基盤が主なので、[それを]附託されたものの性質をもつものとして瞑想するのである。たとえば、「心をブラフマンとして念想すべきである」621とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」622というように。そして同じように、ブラフマンではない個人存在を「ブラフマンとして念想すべきである」623とされるのである。

脚注
620ブラフマンと個人存在は精神という性質が類似している。この類似性に基づいてブラフ マンが個人存在という基盤の上に想定される。そしてその想像上の同一視の基盤である個人存在を無視し て、ブラフマンだけが主に瞑想され、それによって不死性という果報が獲得されるのである。
621 622
623附託場合には、その基盤が主要なものであり、それが附託されたものの性質をもつものとして瞑想されるのである。たとえば、真珠母貝に銀が附託される場合に、附託の基盤は真珠母貝であり、それに銀が附託される。真珠母貝を銀だと誤認するとき、基盤である真珠母貝が銀の性質をもつものとして瞑想さ れているのである。従って、心をブラフマンとして念想する場合にも、ブラフマンの附託されている心が ブラフマンの性質をもつものとして瞑想(念想)されるのである。同じく、ブラフマンと個人存在の場合にも、ブラフマンの附託されている個人存在が、ブラフマンの性質を持つものとして瞑想されるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

713鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/17(木) 00:43:48 ID:NIaONxU60
 反対なのじゃ。
 ブラフマンと個人存在が同一であるという認識は、すでに存在する事物を対象としているのではないというのじゃ。
 その認識は想像上で同一視しているだけというのじゃ。
 ブラフマンと個人存在が同一であるという認識は、儀軌以前には成立しておらず、人間の欲求によって成立するから儀軌の対象となると主張しているのじゃ。

 心は無限に変化するという点で、神々であるヴィシュヴァデーヴァたちと類似しているので、ヴィシュウァデーヴァたちを心のなかに思い浮かべるのじゃ。
 心という基盤を存在しないかのように見なして、主に思い浮かべたヴィシュヴァデーヴァたちだけを瞑想するのじゃ。
 そうすることによって無限の世界を獲得するというのじゃ。
 
 つまりは神々を観想して一体化するサマーディの状態を実現するのじゃな。
 聖典に記されているのはその行だと言うのじゃ。

 それと同じように個人存在は精神という性質が類似しているので、ブラフマンと同一であると思念するのじゃ。
 個人存在という基盤を存在しないかのように見なして、主にブラフマンを瞑想することによって、不死性という果報を獲得するのというのじゃ。

 一方、附託の場合には基盤が主なので、それを附託されたものの性質をもつものとして瞑想するのじゃ。
 たとえば、
 「心をブラフマンとして念想すべきである」とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」
 という聖典の文句のように。

 そして同じように、ブラフマンではない個人存在を「ブラフマンとして念想すべきである」と聖典の言葉通り遂行するというのじゃ。

714避難民のマジレスさん:2022/11/17(木) 01:57:01 ID:3atWFrfo0
(つづき)   p396-397
  また、特定の行為との結合に基づいて[異なるものが同一視されることがある]。たとえば、「風は実に[すべてを]飲み込む者である」624「生気は実に[すべてを]飲み込む者である」625という場合のように。実に、外界に存在する風の神は、火等を飲み込むのである。というのは、世界の最終的な帰滅のときには、それ(風の神)は火等を飲み込んで、滅ぼし、自らのなかに存在させるからである。たとえば、ドゥラヴィ ダ・アーチャーリアは[次のように]述べている。「[すべてを]滅ぼすから、また[すべてを]取り込んで自己のものとするから、風は[すべてを]飲み込む者なのである」 626と。そして、内的な生気も[すべてを]飲み込む者である。すなわち、それ(生気) は言葉等のすべてを飲み込んでしまうのである。というのは、死ぬときに、それ(生気)がすべての器官を取り込んで旅立って行くからである。ちょうど、このように風や生気を飲み込む者だと瞑想することが、十方の世界を明らかにするように627、[身体等を]成長させる(brhana)という行為を媒介として個人存在(アートマン)をブラフマンだと瞑想することは、不死性という果報を生み出すのである628。
  以上の三種の見解においてはともに、アートマン認識のための念想等が主要な行為で ある。何故なら、[それらの行為は]新得力を対象としている(生み出す)からである。 たとえば、讃歌(Stuta)や讃詞(śastra)のように629。だがアートマンは、行為に従属する供物(dravya)なので、アートマンを見ることは浄化として命じられているのである。たとえば、ダルシャプールナマーサ祭の章に、「ギーが[祭主の]妻によって 見つめられる[ぺきである]」630と述べられているが、その章に含まれている見つめることは、ウパームシュ祭に従属するギーという供物を浄化するためのものなので、従属 祭として命じられているのである631。同じように、「アートマンは実に見られるべきである」632というような、アートマンー一[それは祭式の]執行者であるから祭式に従 属している一ーを見ることは、従属祭として命じられているのである。何故なら、「一 方、ある行為によって供物が生み出される(準備される)とき、その[行為]は、従属祭だと見なされるのである」633という原則があるからである。

脚注
624 625
626 出典不明。
627 十方とは四方と四椎と上下である。
628 風や生気が、飲み込むという行為と結び付いているから飲み込む者と呼ばれるように、個人存在は成長させる(brhana)という行為と結び付いているのでブラフマンと呼ばれるのである。なお、ブラフマン(brahman)という語が、/brh (増大する、成長する)という語源 から説明されることについては、脚注375参照のこと。
629 旋律をつけて神を(試→讃)えるのが讃歌であり、旋律をつけずに神を讃えるのが讃詞である。これらの讃歌や讃詞を唱えることが従属祭なのか主要祭なのかということが問題にされている。まず、反対主張によれば、讃歌や讃詞を唱えることは、(1)供犠という主 要なものと神(それは讃歌や讃詞に言及されている)という従属するものとの関係を明確にし、(2)神の性質を明らかにするという目に見える結果を生ずるから、従属祭であるとされる。それに対する答論は次 の通りである。(1)もし、讃歌や讃詞を唱えるという行為が、神の性質を明らかにするという目に見える 結果しか生じないのなら、ある儀軌が無意味になってしまうし、また(2)讃歌や讃詞は神を(教→讃)えているのであって、神の性質を明らかにしているのではないから、神の性質を明らかにすることが讃歌や讃詞を唱えるという行為の結果ではない。従って、讃歌や讃詞を唱えるという行為は、神の性質を明らかにするという目に見える結果以外のもの、すなわち、目に見えない結果である新得力を生ずるはずである。このように讃歌や讃詞を唱えるという行為は、新得力を生ずる主要な祭式なのでる。
630 天啓経には必ず、ダルシャプルナマーサ祭を扱っている章があり、この文章はその中にでてくるものである。
631 ダルシャプルナマーサ祭で、火の神アグニに祭餅を捧げたあと、プラジャーパティーあるいはアグニとソーマあるいは、ヴィシュヌに黙ってギーを捧げるウパームシュ祭というものが行われる。このギーを祭主の妻が見つめて浄化するわけであるが、このギーを見つめるという行為(祭式)はウパームシュ祭に
従属する行為(祭式)である。
632 633
(´・(ェ)・`)つ

715鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/18(金) 00:00:14 ID:O5lFzwTw0
まだ反対が続くのじゃ。
 特定の行為との結合に基づいて異なるものが同一視されることがあるというのじゃ。
 「風は実に[すべてを]飲み込む者である」と「生気は実に[すべてを]飲み込む者である」という場合のようになのじゃ。

 このように風や生気を飲み込む者だと瞑想することが、十方の世界を明らかにするように、成長させるという行為を媒介として個人存在をブラフマンだと瞑想することは、不死性という果報を生み出すというのじゃ。
 
 以上の三種の見解においてはともに、アートマン認識のための念想等が主要な行為だというのじゃ。
 何故なら、それらの行為は新得力を対象としているからなのじゃ。

 アートマンは、行為に従属する供物なので、アートマンを見ることは浄化として命じられているというのじゃ。
 「アートマンは実に見られるべきである」というようなアートマンを見ることは、従属祭として命じられているのじゃ。
 何故ならば「一 方、ある行為によって供物が生み出されるとき、その行為は、従属祭だと見なされるのである」という原則があるからなのじゃ。

716避難民のマジレスさん:2022/11/18(金) 00:20:01 ID:et44OVjI0
4.5.ブラフマンとアートマンとの同」性の認識は想像上の同一視 等の性質のものではないという答論   p397-398

  さらに、ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は、「実に 心(manas)は無限である。ヴィシュヴァデーヴァたちは無限である。それ によって彼は、まさに無限の世界を勝ちとるのである」634というような、想像上の同一視ではない。また、「心をブラフマンとして念想すべきである」635とか「太陽がブラフマンであるというのが教えでである」636いう場合に、ブラフマンのイメージが心や太陽に附託されているのとは異なり、附託という性質 のものでもない。また、「風は実に[すべてを]飲み込む者である」637「生気 は実に[すべてを]飲み込む者である」638というのとは異なり、特定の行為との結合に基づいているわけでもない。さらにまた、ギーを見つめること等の行為とは異なり、祭式行為に従属する要素の浄化という性質のものでもない。というのは、ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだと認めると、「汝はそれなり」639「私はブラフマ ンである」640「このアートマンがブラフマンである」641等の聖典句中の諸語の趣旨の一致一[それらは]ブラフマンとアートマンとが同一であるとい う事実を専ら明らかにしている一が、損なわれることになるからである642。 また「心のこだわりが解けて、あらゆる疑いが断たれる」643等の、無明の止 滅という果報を説く諸聖典句が矛盾することになろう。さらに、 [ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が]想像上の同一視等であるとする見解に立つと、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」644等の、 [アートマンが]それ(ブラフマン)の状態となることを説く諸聖典句は、正 しく理解されないことになろう。従って、ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が、想像上の同一視等の性質のものであるなどということ はないのである。

脚注
634
635 脚注621参照。→参照先省略
636 脚注622参照。→参照先省略
637 脚注624参照。→参照先省略
638脚注625参照。→参照先省略
639 640 641
642これらの聖典の文章は、ブラフマンとアートマンとが実際に同一であることを説いている。従ってもし、ブラフマンとアートマンとの同一性が想像上の同一視等であって、実際には同一ではないとすると、これらの聖典の文章が損なわれることになるのである。
643 644
(´・(ェ)・`)
(つづく)

717鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/18(金) 23:25:52 ID:LUCU52Jw0
 答えたのじゃ。
 ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は、「実に 心は無限である。ヴィシュヴァデーヴァたちは無限である。それ によって彼は、まさに無限の世界を勝ちとるのである」というような、想像上の同一視ではないというのじゃ。
 
 また「心をブラフマンとして念想すべきである」とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」いう場合にブラフマンのイメージが心や太陽に附託されているのとは異なり、附託という性質のものでもないのじゃ。

 「風は実に[すべてを]飲み込む者である」637「生気 は実に[すべてを]飲み込む者である」638というのとは異なり、特定の行為との結合に基づいているわけでもないのじゃ。
 
 ギーを見つめること等の行為とは異なり、祭式行為に従属する要素の浄化という性質のものでもないのじゃ。

 ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだと認めると、「汝はそれなり」とか「私はブラフマンである」とか「このアートマンがブラフマンである」等の聖典句中の諸語の趣旨の一致が損なわれるからなのじゃ。
 また「心のこだわりが解けて、あらゆる疑いが断たれる」643等の、無明の止 滅という果報を説く諸聖典句が矛盾することに
 [ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が]想像上の同一視等であるとする見解に立つと、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」等の諸聖典句は、正しく理解されないことになるじゃろう。

 そうであるからブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が、想像上の同一視等の性質のものであるなどということはないのじゃ。

718避難民のマジレスさん:2022/11/19(土) 06:15:54 ID:gVdKmW6k0
(つづき) p398-400 201左/229
  [答論]だから[師シャンカラは、以上の反対主張に対して次のように]答えている のである。さらに、ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は云々と。 何故か。というのは、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだ[と認めると]云々だからである。
  確かに、ダルシャプールナマーサ祭の章に述べられているギーを見つめることが、そ れ(ダルシャプールナマーサ祭)に従属するギーを浄化するというのは正しい。だが、 「アートマンは実に見られるべきである」等は、どんな[祭式に関する]章にも述べら れていない。また[確かに]、「バルナ材でできたジュフー祭杓を用いる者は[自己に ついての悪評を聞くことがない]」645という[聖典句]は、特定の章で述べられてはいなくても(anārbhyādhīta)646、ジュフー祭杓が祭式と一定の関係にあるので、「ジュフー祭杓」という語は文内文脈(vākya)によって祭式を思い起こさせるから、バルナ材製であるということは祭式に従属することになる647。だが、アートマンの場合に はそれとは異なる。すなわち、もし[アートマンが祭式と一定の関係に]あれば、それ(アートマン)を見ることは、祭式に従属することになり、また祭式のためにアー トマンを浄化することにもなるだろうが、アートマンは祭式と一定の関係にはないのである。従って、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、儀軌ではあっ ても、「金を身につけるべきである」という場合と同じように、関係儀軌が適用されず (viniyogabhańga)、また未知の果報を対象としている(生み出す)ので、主要祭なのである。従属祭ではないのである648。
  以上の批判は、広範囲に渡るものなので、[『註解』本文には]述べられておらず、[そこではただ]すべての立場に共通する批判が述べているだけであるが、その意味は明白 なので説明の必要はない。

脚注
645
646 儀軌には、特定の祭式にのみ関係する特定儀軌と特定の祭式のみにかかわらない一般的な儀軌である不特定儀軌があり、後者は基本祭すぺてにたいして適用される。ここで述べられている「バルナ材云々」という儀軌は不特定儀軌であり、特定の祭式について述べている章のなかにでてくるものではないのである。
647文内文脈とは、「近接した発声のことであり、近接した発声とは[行為によって]実現されることを示す第二格等(の格語尾)が[そこに]存在しなくても、実際上主従の関係にあるものを述べている二つの単語 が同時に発音することである」とされる。たとえば、この「バルナ材でできたジュフー祭杓」という場合には、(バルナ材でできた)という語も(祭杓)という語 もともに主格であるために、第二格は行為によって実現されるもの、すなわち行為に対して主となっているものをあらわし、他の諸格はそれぞれ行為に対して従となっているものをあらわすと解釈して、従属関係を決定する方法を用いることができない。しかしながら、ここでは、これらの語は近接して発音されており、また実際上主従の関係にあるものが、これらの語によって述べられている。従って、バルナ材製であることがジュフー祭杓に対して従属関係にあることが知られるのである。
648 「金を身につけるべきである」という儀軌は、特定の祭式と無関係に聖典に述べられている文章である。まず、反対主張によれば、この儀軌は次のような理由で、アグニホートラ祭の祭式に従属する祭式だとされている。(1)主要祭であるために必要な供物や神格が述べられていない。(2)この儀軌は、アードヴァリヤ(アドヴァリュウ祭官に所属する)•ヴェーダに述べられているので、この行為はおそらくアドヴァリュウ祭官が行うものと思われる。すなわちその行為は、主要な祭式のためのものなのである。また、金を身につけるのは、祭式のために行われるものである。以上の反対主張に対して答論者は、次のような理由で、この金を身につけるという祭式は主要祭であるとしている。すなわち、(1)この祭式から生ずる独立した果報(未知の果報)、すなわち敵の顔が青ざめるという果報が述べられている。 (2)この儀軌が他の祭式に従属することを示すような関係儀軌(脚注505参照)が存在しない。このように「金を身につけるべきである」 という儀軌の命ずる祭式は、主要祭であって従属祭ではないのである。同じように、「アートマンは見られるべきである」という場合にも、これを儀軌だと考えると、(1)独立した果報(未知の果報、たとえ ばアートマンを知ること)を生じ、(2)この行為が他の行為(祭式)に従属することを示す関係儀軌が存在しないので、この行為(祭式)は主要祭であって従属祭ではないのである。
(´・(ェ)・`)つ

719鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/19(土) 23:51:21 ID:nrj4ujyY0
 ダルシャプールナマーサ祭の章に述べられているギーを見つめることが、ダルシャプールナマーサ祭に従属するギーを浄化するというのは正しいというのじゃ。。
 しかし「アートマンは実に見られるべきである」等は、どんな祭式に関する章にも述べられていないのじゃ。

 「バルナ材でできたジュフー祭杓を用いる者」という聖典句は、特定の章で述べられてはいなくてもジュフー祭杓が祭式と一定の関係にあるので、「ジュフー祭杓」という語は文内文脈によって祭式を思い起こさせるから、バルナ材製であるということは祭式に従属することになるのじゃ。

 しかしアートマンの場合に はそれとは異なるのじゃ。
 アートマンは祭式と一定の関係にはないののじゃ。

 この「アートマンは実に見られるべきである」という聖典句は、儀軌ではあっても、「金を身につけるべきである」という場合と同じように、関係儀軌が適用されず、また未知の果報を対象としているので、主要祭だというのじゃ。
 従属祭ではないというのじゃ。
 
 つまり他の祭式に従属するものではないということじゃな。

720避難民のマジレスさん:2022/11/19(土) 23:57:48 ID:KKmI94.E0
4.6.ブラフマンの知識は人間の行為に基づかないブラフマンは知るという行為の対象ではない p400-401 202左/229

  従って、ブラフマンの知識は人間の努力に基づくものではない。では何に基づくのか。直接知覚等の認識根拠の対象である事物に関する知識と同じように、事物に基づくのである。このようなブラフマンおよびその(ブラフマンの)知識は、どんな論理に基づこうとも、行為によって将来実現されるべきものの中に含めることはできない。また、「ブラフマンは、知るという行為の対象だから、行為によって将来実現されるものの中に含まれる」ということもない。何故なら、「それ(ブラフマン)は、知られるものとは異なっており、また知られていないものをも超えている」649とあるように、[ブラフマンが]知るという行為の対象であることは否定されているからである。また[同じ趣旨で]、「あるもの(ブラフマン)によってこの一切を認識するとき、それを何によって認識できようが」650という[天啓聖典句]もある。また同じく[次の ような、ブラフマンが]念想という行為の対象であることを否定する天啓聖典句もある。すなわち、まず、「言葉によって表現されないものであり、それに よって言葉が現れてくるところのものである」651と、ブラフマンは対象ではないことを論じて、それがブラフマンであると知れ。人がこれ(ブラフマン) であると念想しているものはそうではない(ブラフマンではない)」652と[述べられているのである]。

  [反対主張]ブラフマンが対象でなければ、聖典は[ブラフマンを知る]典拠とはなりえないであろう653。
  [答論]そうではない。何故なら、聖典は、無明によって誤って想定された 区別を止滅させることを目的としているからである。実に聖典は、「これである」というような形で、ブラフマンを対象として明らがにしようとするのではないのである。ではどうするのか。[聖典は]、内的なアートマンであるから 対象ではないのだという形で、ブラフマンを明らかにし、無明によって誤って想定された認識対象・認識主体・認識等の区別を取り除くのである。このような趣旨で、次のような聖典が存在している。「[ブラフマンは]知らないという人には知られており、知っているという人は[ブラフマンを]知らないのであ る。[またブラフマンは]認識している人には認識されておらず、認識してい ない人に認識されているのである」654「見ることを見る者を見ることはできない。認識を認識する者を認識することはできない」655と。従って、無明に よって誤って想定された輪廻者という性質が取り除かれれぱ、永遠に解脱しているアートマンの本質が明らかになるので、解脱には無常であるというような欠陥は存在しないのである。

  さらに、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、[アートマン=ブラフマンが]知るという行為の対象であることを命ずる儀軌であるとすれば、多くの天啓聖典句と矛盾するので、[師シャンカラが次のように]述べているのである。[「ブラフマンは]知るという行為の対象[たがら、行為によって将来実現されるべきもののなかに含まれる」ということも]ないと。

脚注
649 650 651 652 653 654 655
(´・(ェ)・`)
(つづく)

721鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/20(日) 23:57:15 ID:tlS1c7L.0
 さらに答えが続くのじゃ。
 従ってブラフマンの知識は人間の努力に基づくものではないというのじゃ。
 直接知覚等の認識根拠の対象である事物に関する知識と同じように、事物に基づくのじゃ。

 このようなブラフマンおよびその知識は、どんな論理に基づこうとも、行為によって将来実現されるべきものではないのじゃ。
 また、「ブラフマンは、知るという行為の対象だから、行為によって将来実現されるものの中に含まれる」ということもないのじゃ。
 何故なら、「それ(ブラフマン)は、知られるものとは異なっており、また知られていないものをも超えている」とあるように、知るという行為の対象であることは聖典で否定されているからなのじゃ。
 また[同じ趣旨で]、「あるもの(ブラフマン)によってこの一切を認識するとき、それを何によって認識できようが」650という[天啓聖典句]もある。

 また同じくブラフマンが念想という行為の対象であることを否定する天啓聖典句もあるのじゃ。
 「言葉によって表現されないものであり、それによって言葉が現れてくるところのものである」と、ブラフマンは対象ではないことを論じて、それがブラフマンであるというのじゃ。 
 「人があれとかこれとかと念想しているものはブラフマンではない」とあるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンが対象でなければ、聖典は典拠とはなりえないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は無明によって誤って想定された 区別を止滅させることを目的としているだけなのじゃ。
 聖典は知識としてブラフマンを把握させるものではないのじゃ。

 聖典は内的なアートマンであるから対象ではないのだという形で、ブラフマンを明らかにし、無明によって誤って想定された認識対象や認識主体や認識等の区別を取り除くのじゃ。
 このような趣旨で、次のような聖典が存在しているのじゃ。
 [ブラフマンは]知らないという人には知られており、知っているという人は[ブラフマンを]知らない」
 [またブラフマンは]認識している人には認識されておらず、認識してい ない人に認識されているのである」
 [見ることを見る者を見ることはできない。認識を認識する者を認識することはできない」等と。
 従って、無明によって誤って想定された輪廻者という性質が取り除かれれぱ、永遠に解脱しているアートマンの本質が明らかになるので、解脱には無常であるというような欠陥は存在しないのじゃ。

 さらに、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、[アートマン=ブラフマンが]知るという行為の対象であることを命ずる儀軌であるとすれば、多くの天啓聖典句と矛盾するじゃろう。
 シャンカラが次のように]述べているのじゃ。
 [[ブラフマンは]知るという行為の対象ということも]ないというのじゃ。

722避難民のマジレスさん:2022/11/21(月) 05:21:39 ID:Ch4YNbew0
(つづき)   p401-402
  [反対主張][ブラフマンが]対象でなければ云々。すなわち、悪霊を鎮める儀式の最中に悪霊(Vetāla)が現われてきたようなものである、という意味である。
   [答論]そうではない。何故か。何故なら、[聖典は]、無明によって誤って想定された区別を止滅させることを目的としているからで脇実に、すべての文章は、事物どうしの違いを、「これである」というような形で理解させることはできないのである。というのは、[言葉では]砂糖きび、牛乳、蜂蜜等の甘味の違いを表現することはできないからである。他の場合にもすぺて同様であると考えるべきである。従って、[聖典の言葉]以外の認識根拠によって確知される世俗的な対象の場合に、もし言葉というものがこのような運命のものであれば、非世俗的な内的なアートマンの場合には何をかいわんやである。
  だが[言葉が]、あまりにも掛け離れているというほどではない間接的な方法で、 なんとか[物事を]明らかにするのは、この(ブラフマンの)場合にも同じである。すなわち、「汝」という語の対象である認識主体が、認識根拠に基づく認識を通して、壷等 の認識対象を覆う(認識する)とされるが、これは無明に基づいて成立しているのである。従ってこれ(「汝」という語の対象)は、[「汝はそれなり」とあるように]、rそれ」 という語の対象である内的なアートマンー[それは]対象ではなくて無関心な存在である一と同格関係にあるので、認識主体ではないから、それ(すなわち認識主体であるという性質)が止威したときには、認識根拠等の三種のものも止滅するのである。実に、料理人が実在しなければ、料理されるもの・料理されたもの・料理は実在ではありえないのである。たとえば[同じ趣旨で、次のような]まとめの偈(antaraŚloka)がある。「『それ』という語は、外界に存在する対象を宿さない場合には、『汝』という語と同じ対象を指す。そのとき、『汝』という語は、それ(『それ』という語)と同じ意味、すなわち清浄な純粋精神であるアートマンを指すことになり、[『汝』という]語の指す対象のもつ生来の汚れすぺて一すなわち行為者性等一を捨て去るのである」 656と。[そして師シャンカラは]、まさに同じ趣旨で、[次のような]諸聖典句を引用しているのである。このような趣旨で次のような聖典が存在している。「[ブラフマンは] 知らないという人には...」云々と。[そして、次のように]ここの主題を結論づけている。従って、無明によって誤って想定された云々と。

脚注
656 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

723鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/21(月) 23:57:27 ID:3UgX9Yj20
 反対なのじゃ。
 ブラフマンが対象でなければ云々とは、すなわち、悪霊を鎮める儀式の最中に悪霊が現われてきたようなものというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は無明によって誤って想定された区別を止滅させることを目的としているからのじゃ。
 そうであるからすべての文章は事物どうしの違いを、「これである」というような形で理解させることはできないのじゃ。

 言葉では砂糖きび、牛乳、蜂蜜等の甘味の違いを表現することはできないようなものじゃ。
 他の場合にもすぺて同様なのじゃ。
 聖典以外の認識根拠によって確知される世俗的な対象の場合でもこのような運命のものであれば、非世俗的な内的なアートマンの場合にはさらに困難なのじゃ。
 
 言葉があまりにも掛け離れているというほどではない間接的な方法で、 なんとか物事を明らかにしようとするのは、このブラフマンの場合にも同じなのじゃ。
 「汝」という語の対象である認識主体が、認識根拠に基づく認識を通して、壷等 の認識対象を認識するとされるが、これは無明に基づいて成立しているのじゃ。
 従ってこの「汝」という語の対象は、[「汝はそれなり」とあるように]、それという語の対象である内的なアートマンと同格関係にあるので、認識主体ではないから、それが止威したときには、認識根拠等の三種のものも止滅するのじゃ。
 三種とは認識主体、認識、認識対象の三種じゃな。
 

 料理人が実在しなければ、料理されるもの・料理されたもの・料理は実在ではありえないようなものじゃ。

 次のような]まとめの偈があるというのじゃ。
 「『それ』という語は、外界に存在する対象を宿さない場合には、『汝』という語と同じ対象を指す。
 そのとき、『汝』という語は、それと同じ意味、すなわち清浄な純粋精神であるアートマンを指すことになり、[『汝』という]語の指す対象のもつ生来の汚れすぺてを捨て去るのである」 と。

724避難民のマジレスさん:2022/11/22(火) 06:44:59 ID:G.ekUBlI0
4.7.解脱は入間の行為に基づかない   p402-409 203左/229

4.7.1.解脱は生み出されるべきものでも変化してできるものでも到達すべきものでもない    p402-404

  だが 解脱は生み出されるべきものであるとする人の場合には、当然のことながら[解脱を]、心的・言語的・身体的行為によって実現されるものだと考えている。また、[解脱を]変化してできるものだとする人の場合にも同様である。[しかし]これら両者の見解によれば、解脱は確実に無常であることになってしまう。というのは、ヨーグルト等の変化してできるものや、壷等の生み出されるものが永遠でないことは、世の中で経験されているからである。
   [反対主張][解脱=ブラフマンは]到達すべきものだがら、行為によって実現されるのではないか。
   [答論]そうではない。何故なら[それは]、自己のアートマンの本質なので、到達されるようなことはないからである。またたとえ、[それがアートマンの]本質とは異なるものであったとしても、ブラフマンは到達すべきものなどではない。何故なら、ブラフマンは、遍在しており、そのためすべての人にいつでも到達されているからである。それはちょうど、虚空の場合と同じなのである。

  [師シャンカラは]、だが、[解脱は生み出されるものであるとする]人の場合には云々と、反対主張者の見解によれば解脱が無常であることになる[と述べている]。[このうちまず]行為によって実現されるものとは、供犠等の執行によって生ずる新得力のことであり、解脱はそれが生ずるのにそれ(新得力)を必要とする、という意味である。またこれら両者の見解によればとは、[解脱が]達成されるべきもの(生み出されるべきもの)であるという見解と、変化してできるものであるという見解のことである。すなわち仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張している。そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。従って解脱は、 達成されるべきものであることになる。だが他の学派の場合には、輪廻の状態を捨ててアートマンが独存の状態を獲得することが解脱であるので、解脱は変化してできた ものであることになる。たとえば、牛乳がそれまでの状態を捨てて、別の状態を獲得する一すなわち変化してヨーグルトになる一ようなものである。これら両者の見解によれば、解脱は無常であることになる。何故なら[解脱が]、ヨーグルトや壷等の、ように、行為によって実現されるものであることになるからである。
  [反対主張]「さて、この天を超えたところで輝いている光が云々」657という天啓聖
典旬によれば、ブラフマンには変化した場所と変化していない場所という区別[のあること]が理解される。従って、念想を命ずる儀軌によって、ブラフマンの変化していない場所へ到達することが実現されるのであろう。それ故ブラフマンは、到達すべき目的であることになるのである。
   [答論][このような解脱=ブラフマンは]到達すべきものだがら[行為によって実現されるのではないかという反対主張に対して、師シャンカラは]そうではない云々と答えているのである。すなわち人は、自己自身以外の手段によって、変化した場所を去り、変化していない場所に到達するものなのである。たとえば、海岸の近くでは、寄せては返す波が互いにぶつかりあって生ずる大量の泡のために、海が変形しているが、沖のほうは、まったく波がなくて静かなありのままの姿をしており、一定なので変形していないとする。そして、その変形していない沖の方へ、船員は船で到達するのである。[このように人は、自己自身以外の手段一たとえば船一によって、変形した場 所一たとえば海岸近くの海一を去り、変形していない場所一たとえば沖一に到達するのである]。だが個人存在は、[海岸近くの海と沖のような違いのある場合とは異なり]、ブラフマンにほかならないのだから、一体何によって何に到達するというのだろうか。というのは、到達は区別に基づいているからである。以上が[『註解』のこの箇所の]意味なのである。
  また、たとえ個人存在がブラフマンと異なっていたとしても、それ(個人存在)がブラフマンに到達することはない。何故なら、ブラフマンは遍在しているので、常にすでに到達されているからである。このことを[師シャンカラが、次のように]述べているのである。またたとえ[それがアートマンの]本質とは異なるものであったとしそも云々と。

脚注
657
(´・(ェ)・`)つ

725避難民のマジレスさん:2022/11/22(火) 06:45:58 ID:G.ekUBlI0
くま質問。
>仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張している。そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。従って解脱は、 達成されるべきものであることになる

↑これが、仏教の見解であり、従って、仏教は解脱、或は、ブラフマンを無常であるとしているのでありましょうか?
一切無常でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

726鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:03:03 ID:VbeGsvBM0

 それは間違いなのじゃ。
 以前に解説した大乗起信論の真生不二の段にも、
 心は実に動ぜず、と書いてあるのじゃ。
 動じないから無常ではないのじゃ。
 仏教をよくしらないだけなのじゃ。

727鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:33:48 ID:VbeGsvBM0
 解脱は生み出されるべきものであるとする人の場合、当然のことながら解脱を、心的・言語的・身体的行為によって実現されるものだと考えているというのじゃ。
 解脱を変化してできるものだとする人の場合にも同様だというのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は確実に無常であることになってしまうというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱=ブラフマンは到達すべきものだがら、行為によって実現されるのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そうではなくブラフマンは自己のアートマンの本質なので、到達されるようなことはないというのじゃ。
 たとえ、アートマンの本質とは異なるものであったとしても、ブラフマンは到達すべきものなどではないというのじゃ。
 何故ならばブラフマンは遍在しており、そのためすべての人にいつでも到達されているからなのじゃ。
 それはちょうど、虚空の場合と同じなのじゃ。

 衆生は本来仏であるというのと同じじゃな。
 
 シャンカラはだが解脱は生み出されるものであるとする人の場合には云々と、反対主張者の見解によれば解脱が無常であることになると述べているのじゃ。
 ]行為によって実現されるものとは、供犠等の執行によって生ずる新得力のことであり、解脱はそれが生ずるのに新得力を必要とする、という意味であるなのじゃ。
 またこれら両者の見解によれば、とは、解脱が達成されるべきものや生み出されるべきものであるという見解と、変化してできるものであるという見解のことなのじゃ。

 仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張しているというのじゃ。
 そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張しているというのじゃ。。
 従って解脱は、 達成されるべきものであることになるというのじゃ。

 他の学派の場合には、輪廻の状態を捨ててアートマンが独存の状態を獲得することが解脱であるので、解脱は変化してできた ものであることになるのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は無常であることになるというのじゃ。
 何故ならば解脱が、ヨーグルトや壷等のように行為によって実現されるものであることになるからというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 「天を超えたところで輝いている光が云々」という天啓聖典によれば、ブラフマンには変化した場所と変化していない場所という区別が理解されるのじゃ。
 従って、念想を命ずる儀軌によって、ブラフマンの変化していない場所へ到達することが実現されるじゃろう。
 それ故ブラフマンは、到達すべき目的であることになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 人は、自己自身以外の手段によって、変化した場所を去り、変化していない場所に到達するものなのじや。
 たとえば、海岸の近くでは、寄せては返す波が互いにぶつかりあって生ずる大量の泡のために、海が変形しているが、沖のほうは、まったく波がなくて静かなありのままの姿をしており、一定なので変形していないとするのじゃ。
 そして、その変形していない沖の方へ、船員は船で到達するのじゃ。
 
 だが個人存在はブラフマンにほかならないのだから、一体何によって何に到達するというのかというのじゃ。
 なぜならば到達は区別に基づいているからなのじゃ。
 以上が[『註解』のこの箇所の]意味なのじゃ。
 
 また、たとえ個人存在がブラフマンと異なっていたとしても、それ個人存在がブラフマンに到達することはないのじゃ。
 何故なら、ブラフマンは遍在しているので、常にすでに到達されているからなのじゃ。

728避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:23:59 ID:67Dnd.II0
>>726

↓この辺りでありますね。
ありがとうでありました。(´・(ェ)・`)つ
>>293
若風止滅動相則滅。濕性不壊。如是衆生自性清浄心因無明風動。心與無明倶無形相。不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壊故。
若し風、止滅すれば、動相は則ち滅するも、湿性(しっしょう)は、壊せざるが如くなるが故に。かくの如く、衆生の自性(じしょう)清浄心も、無明の風に因って動じ、心と無明と、ともに形相(ぎょうそう)無く、相捨離せず、而も心は動性に非ず。若し無明滅すれば、相續は則ち滅し、智性(ちしゃう)は壊せざるが故に。

>>339
謂一切境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅唯一眞心無所不徧。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故

所謂一切の境界は、唯心の妄に起こるが故に有り。若し心、妄動を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一の眞心にして、徧せざる所無し。此を如來廣大の性智究竟の義と謂ふ。虚空の相の如きに非ざるが故に。

729避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:26:09 ID:67Dnd.II0
4.7.2.解脱は浄化されて生ずるものではない p404-405 204左/229

  [反対主張]解脱は浄化されて生ずるものなので、[人問の]努力に基づくのではないか。
  [答論]そうではない。実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えることによって[実現される]か、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くことによって[実現される]かのいずれかであろう。[だが解脱は]、まず第一に、すぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはない。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからである。さらに欠点を取り除くことによって [解脱が生ずる]ということもない。何故なら、解脱の本質は、常に清浄なブ ラフマンにほがならないさらである。
   [反対主張]解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのか。それはちょうど、磨くという行為によって鏡が清められたときに、輝きという特性が現われてくるようなものなのであろう。
  [答論]そうではない。何故なら、アートマンが行為の基体であることはあ りえないからである。すなわち行為は、その基体に変化を及ぼすことなしには成立しない。そしてもし、アートマンが行為によって変化を被るとすると、アートマンは無常であるということになってしまう。[そしてその場合には]、「これ(アートマン)は変化しないと言われている」658等の聖典の文章が否定 されることになる。そしてそれは、望ましいことではない。従って、自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのである。一方、[アートマン]以 外のものに基づく行為の場合には、[アートマンはその行為の]対象ではない わけだがら、そ[の行為]によってアートマンが浄化されることはない。

脚注
658
(´・(ェ)・`)
(つづく)

730避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:50:10 ID:3K0VgoIU0
最質問であります。
>清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。
↑この点が間違いでありましょうか?

それとも、そもそも「刹那滅」を否定すること自体が、間違いなのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

731鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 22:41:51 ID:bumgdxTA0
>>730 そうじゃ、清浄な認識は生じるのではないのじゃ。
 もともとあるものじゃ。
 
 それはブラフマンと同じなのじゃ。
 心が変質するのではなく、無明がなくなればもとの清浄な認識があるだけになるのじゃ。

732鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 23:46:55 ID:bumgdxTA0
 反対なのじゃ。
 ]解脱は浄化されて生ずるものなので、人問の努力に基づくのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えるか、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くかのいずれかで実現されるのじゃ。
 まず第一に、解脱はすぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからなのじゃ。

 さらに欠点を取り除くことによって 解脱が生ずるということもないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、常に清浄な欠点のないブラフマンにほがならないからなのじゃ。

 反対なのじゃ
 解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのかと聞いたのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 そうではないというのじゃ。
 何故ならばアートマンが行為の基体であることはありえないからだというのじゃ。
 行為とはその基体に変化を及ぼすことなしには成立しないのじゃ。
 そしてもしアートマンが行為によって変化するとすると、アートマンは無常であるということになってしまうじゃろう。
 「これ(アートマン)は変化しないと言われている」等の聖典の文章が否定 されることになるからありえないのじゃ。

 自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのじゃ。
 一方、アートマン以外のものに基づく行為の場合には、対象ではないからそれでアートマンが浄化されることはないのじゃ。

733避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 23:58:55 ID:AjT8MWTM0
(つづき) p405-406
  [次に師シャンカラは、解脱が]浄化の対象であるという見解を[次のように]退けている。そうではない云々と。実に浄化が実現されるのには、次の二通りの場合があ る。すなわち、(1)すぐれた特性を付け加えることによって[浄化が実現される]場合、たとえば、シトロンの花にラックの汁を振り掛け、そうすることで、その(シトロンの)花が浄化されてラックと同じ色の実をつけるような場合と、(2)欠点を取り除くことによって[浄化が実現される]場合、たとえば、汚れた鏡の表面を磨き粉で磨けば、浄化されて輝きがでてくるような場合である。このうちまず、すぐれた特性を付け加えることは、ブラフマンには不可能である。すなやち、この特性とは、ブラフマンの本性であるか、あるいはブラフマンとは異なるものであるかのいずれかであろう。 もし(ブラフマンの)本性であれば、どうして付け加えることができようか。何故なら、それ(ブラフマンの本性)は、永遠不変だからである。一方、もし[ブラフマンとは]異なるとすれば、[そのブラフマンの特性が]後に生じたことになるから、[ブラフマンの特性である]解脱は、永遠不変ではないことになる、という誤謬に陥ることになる。また、[ブラフマンとその特性との]違いには、牛と馬の場合と同じく、基体とその属性というような関係が存在するわけではない。また、[両者が]異なっておりかつ異なっていないというのは矛盾であるから、すでに退けた通りある659。 [そして師シャンカラは]、以上のような考察をふまえたうえで、[次のように]述べている。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンにほかならないからであると。[そしてさらに]第二の見解を、[次のように]批判している。 さらに欠点と取り除くことによって[解脱が生ずる]ということもないと。鏡には汚 れが存在するので取り除かれるが、ブラフマンには[汚れが]存在しないので取り除くことはできない。何故なら、[ブラフマンの場合、汚れは]常に取り除かれているから一である。以上が[『註釈』のこの箇所の]意味なのである。
  [師シャンカラは次のような]反対主張を想定している。[解脱とは]、自己のアートマンの隠れた特性なのであって云々と。すなわち、解脱とは、ブラフマンの本性ではあるが、無始の無明という汚れ覆われているので、念想等の行為によってアートマンが浄化されたときに、現われてくるのである。生みだされるようなことはないのである。その趣旨は次の通りである。すなわち、アートマン(個人存在)の場合には、輪廻の状態にあって無明のために汚れているので、常に清浄であるという性質は確立していないのである。
  [このような反対主張を、師シャンカラが次のように]退けている。そうではないと。 何故か。何故なら、[アートマンが]行為の基体であることはありえないからである。 すなわち、無明の基体は、ブラフマン(=アートマン)ではなくて個人存在なのである。だがそれ(無明)は、[ブラフマンに附託されているので、ブラフマンがその基体であるとも]660表現できないと言われるのである。従って、ブラフマンは常に清浄なのである。しかしながら、[師シャンカラは、ブラフマンの]汚れを認めたうえで、[ それが]行為によって浄化されるという見解を、[次のように]批判してゆくのである。 実に行為は、ブラフマンに内属していてブラフマンを浄化するか(ちょうど、磨くとい う行為は、磨き粉とは何度も接触したり離れたりするが、常に鏡の表面からは離れないように)、それとも、[ブラフマン]以外のものに内属していて[ブラフマンを浄化する]かのいずれかであろう。まず行為は、ブラフマン[に内属する]属性ではない。 何故なら、それ(行為)は、その基体を変化させる原因なので、ブラフマンは永遠不変 であるということが損なわれてしまうからである。一方、[行為の]基体が[ブラフマン]以外のものであれば、その[行為]がどうして[行為の基体]以外のもの(すなわ ちブラフマン)に役だったりしようか。何故なら、[その行為の]適用範囲が広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。というのは、鏡が磨かれたときに宝石がきれい になるなどということは経験されないからである。
  そしてそれは望ましいことではないというのは、それという語で[聖典の文章が]否 定されることを指しているのである。

脚注
659 本訳389頁以下参照。
660
(´・(ェ)・`)つ


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