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戦争を考える

1管理者:2005/11/14(月) 06:01:53

憲法改正について、戦争について、不戦について、戦争と不殺生戒について、などの議論が活発に展開される事を期待して、「世界の情報ボックス」スレツドでの議論から「戦争を考える」内容の議論を分離独立させたいと思います。よろしくお願いいたします。

166匿名:2005/12/01(木) 12:25:42
もうひとつ。これも強要ではありませんが、質問を。

>国民が政治に関心を持てということはけっこうなことですが、日蓮を語るのであれば、もう少しちゃんと日蓮を読み解いたほうがよろしいでしょう。

では、あなたは、憲法改正という時代の転換期を迎えるにあたり、日蓮の教えや行動から何を現代に生かすべきだとお考えですか。

168犀角独歩:2005/12/01(木) 13:22:12

わたしに向けたレスのところで、藤川さんの言葉に対してのものだはないでしょう。

> 勘繰る。これがあなたの政治への意識の程度を示しているようなものです

ほら、でました、この上から見下した態度。「意識の程度」自分は政治はわかっている、立派だというわけで、それに比べて、ここの投稿はということでしょう。

> 感情をぶちまけている

まるで、そんなことはありません。日蓮が天台の立場に立つのは、宗教の覇権争いなどというのであれば、では、あなたが日蓮に向けたような視線であなたは政治を論じているのか、そうならば、政治的野心、自衛隊員に対する個人的執心からなのか、そんな見方をされるのはいやでしょう、日蓮をそんな見方をすると、あなた自身がそう見えてしまいますよ、という意味での記述です。
あなたに対して、感情をぶちまける必要など、そもそもまるで、ありません。
何かあるとすぐに感情的だとか、怒っているとか、まるでわたしが考えていないことを言い出しますが、それは、まさにあなた自身の心象風景なのではないでしょうか。

> 気に入らない

別段、そんな感情はありません。ただし、政治という観点から、仏教を云々されることには、甘んじないということです。政治から観て、日蓮がどうだ、仏教がどうだ、また、政治的な観点から仏教を解釈されれば、それはある姿の仏教、ある姿の日蓮と齟齬を来たしますから、その点について、違うと記したまでです。

169犀角独歩:2005/12/01(木) 13:58:28

> あなたは、憲法改正という時代の転換期を迎えるにあたり、日蓮の教えや行動から何を現代に生かすべきだとお考えですか

まだ、こんな質問ですか。政教は分離です。
ここは憲法改正や、政治を論じる掲示板ではありません。

日蓮と憲法改正を脈絡をもって論じることは、戦前の日蓮主義への反省から反対の立場だと記してきたわけです。わたしが先に記してきたことは、戦前の日蓮門下は戦争責任がある、故に軍事・戦争翼賛につながいかなる日蓮解釈には反対ということです。また、日蓮から政治を考えることにも反対です。

わたしは憲法改正(改悪)と日蓮を脈絡をつけて考えることを警告を発しているのです。
殊に冨士門流信徒の掲示板という枠組みにおける憲法論争とは、「日蓮正宗」の国教化というのが主な議論です。ですから、政教分離、国立戒壇が日蓮に遡源しないことを明らかにして、このような動きに反対する第一義があります。

なお、わたしは日蓮の教えに基づいて仏教を語っているわけではなく、何度も記したとおり、法華・涅槃という天台五時のくくりではなく、法華経は法華経一経から読み解き、その教えを組みことを主張してきました。それは、先に記したとおり、ジハードとポアの否定という意味です。また、軍事への反対は、不殺生という自戒に基づくのであって、これは既に日蓮の教えとは違います。むしろ、原初釈迦教団のあり方です。

ただし、国民としてということであれば、既に先に記したとおり、憲法、自衛隊ともに現状維持という見解です。しかし、これはわたしの「日蓮」との脈絡で考えるのは、わたしの内心の話であって、政治的技術論その他は、ここ仏教の掲示板の内容に沿わないというという判断です。

ここの掲示板は過去数年間、宗派的立場を超えた真摯な人々によって、実に大きな成果を上げてきました。このような現場で、政治という観点から、日蓮を見なければならないという視点にわたしは反対であるといっているわけです。それは、ですから、過去にあなたがわたしの投稿を誤読した上で、質問を無視したこととは違い、ネグレクトと批判されることではありません。

実際のところ、真蹟遺文、冨士門下資料、曼荼羅その他の優秀な議論が、まったくとまってしまっていることを政治的観点から仏教を論じようとするの弊害であると残念に思っています。
大学研究室に入り込み、政治を意識しない研究はだめだといっているようなものでしょう。なんでも政治的見地からものを見なければならないという議論は、本来仏教議論に対する政治的干渉以上の意味を持ち合わせないということです。

170犀角独歩:2005/12/01(木) 15:34:25

望月哲也師(立正大学文学部教授)
『社会変動と宗教戦後日本の社会変動と宗教』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho34/s34_083.htm

師の反カルト運動、また、マインド・コントロールに対する見解と、わたしは違う立場・考えですが、上記講演は、社会と宗教を考えるうえで、なかなか参考になりました。(師はカルト・反カルトを宗教対宗教、もしくは宗教対国家の観点で論じていますが、実際のカルト問題はカルト対無宗教の家族という関係で生じている点からは論じられていないように見えます。この点で、見解を事にするということです。ただし、これはこの講演の社会と宗教を分析する師の秀逸さに疑義を挟むという意味ではありません。カルト、マインド・コントロールに係る見解のみわたしと違うということです)

わたしは政教分離という原則から宗教は私的枠組みを第一義とする考えですが、望月師、また、西山師は、世俗国家、国民国家という枠組みで封印された宗教の公共性の喪失に警鐘を鳴らしています。

(参:『公共問題と公共宗教』
    http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/23269593.html )
ただ、このような公共性は、政治的見地からの解釈ではなく、宗教者側からの自主的反省に基づく点が重要です。また、ここでいう宗教の公共性は近代、世俗国家論によって私事に追いやられた宗教を < 私事 - 公共 - 政治 > の中間に見、私事から公共への役割の拡大を示唆するものであるとわたしは受け止めた。

西山師が「真ん中(私事の集合)で宗教が活躍すべきではないのか。上=国家としては政治として、私生活としては心理学的に換言するのではなく、その真ん中で関わる。公共を大切にしながら個人の問題とどう関わるかに本化仏教がある」(当日メモ)と位置づけた視点にも、わたしは学ぶところがありました。

171犀角独歩:2005/12/01(木) 15:35:44

【170の訂正】

誤)見解を事にする
正)見解を異にする

172犀角独歩:2005/12/01(木) 18:09:11

仏教が果たすべき本来の役目
日蓮宗現代宗教研究所主任 伊藤立教 
第38回中央教化研究会議報告〈速報〉
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/flash043.htm

以上、わたしとは、立場も考えも違いますが、当スレ、日蓮、日蓮宗、日蓮主義と関連するので、資料として紹介しておきます。

なお、石橋湛山師については、日蓮関連の掲示板では、取り立て説明するまでもないでしょう。わたしは個人的に石橋師に賛同するところは多くあります。また、石橋師に関しては、戸田氏はかなり、意識しており、昭和2、30年代の創価学会出版物においては、その対抗意識はありありと看取できます。それはまた、戸田氏の政治的動向とも大きく関わっていること、ひいては現在の創価・公明と自民との関連にまで及ぶことはいまさら記すこともないでしょう。

173犀角独歩:2005/12/01(木) 21:15:32

・以下、論考も参考になります。

キリスト教、天台宗、イスラム教の視点も含め
伊藤立教師『日本の若者は殺さない』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/note_015.htm

「軍隊を捨てた国コスタリカ」の紹介
石川浩徳師『有事立法に思う』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/note_003.htm

国がまえに民のから、民を意識したという点では、言うまでもなく左系と非難された
中野教篤師『現代に『立正安国論』をよむ』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_272.htm

中野師とはまた違った視点から
三原正資師『「立正安国論」の世界観(初期御遺文を中心として) 』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho30/s30_134.htm

ガンジーとの関連も含めて
今井行順師『但行礼拝の行者 藤井日達師の問いかけるもの』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_295.htm

174匿名:2005/12/02(金) 00:06:39
>ほら、でました、この上から見下した態度。「意識の程度」自分は政治はわかっている、立派だというわけで、それに比べて、ここの投稿はということでしょう。

投稿内容のレベルが低い、参考にならない、わかりきったことだ、知識がないなどと、散々と見下されたのは、私のほうなんですよね。
まあ、しかし、人にはそれぞれ得意分野、専門分野というのがあります。
私は、仏教教義に関しては、おわかりのように、たいした器量はありません。信仰心はあっても、細かい教義を身につけていくのは私には不向きなことなのでしょう。大半は、こちらの掲示板、貢献度の高い犀角独歩さんから学ばせて頂いた。何度も書いたことですが、その点については、感謝もしているのです。

しかし、政治と憲法については、恐らく関心度においては多少は私のほうが高いのかもしれません。
しかしだからといって何も見下しているのではありません。
私の投稿とて、政治の専門家や法律家から見れば、相当舌足らずな内容です。
でも、それでいいのではないでしょうか。ひとつのキッカケなんですから。
読んでくださった方が、少しでも、憲法改正について、一国民として向き合う気持ちを持ってくださり、責任ある投票意識を持とうと頭の片隅にでも留めてくれるといいなあと思うのです。
まだまだそのような意識を持っていなかった方だっていらっしゃるのではないでしょうか。もともとの私はそんな感じでしたから、そう思いますよ。

>ここは憲法改正や、政治を論じる掲示板ではありません。

と思うのなら、このようなスレッドを立てた管理者に異論をいえばどうでしょう。

>憲法改正(改悪)と日蓮を脈絡をつけて考えることを警告を発しているのです。

私は護憲の立場で書いてきていますが。

>また、軍事への反対は、不殺生という自戒に基づくのであって、これは既に日蓮の教えとは違います。むしろ、原初釈迦教団のあり方です。

軍事への反対は、自戒に基づき兵役拒否だと書かれていたかと思います。
これは、自分自身のことであって、人にそれを勧めるものではないと解釈して良いのでしょうか。
前の戦争責任から、積極的に政治には関与しない。それもひとつの道だと思います。
お釈迦さまの出家に近い精神行動かもしれません。

175匿名:2005/12/02(金) 00:07:07
>仏教の掲示板の内容に沿わないというという判断です。

仏教の掲示板に沿わないということをよく書かれています。つまりそれは、仏教徒は考えてはならないということですか?それとも、考えたくないということでしょうか。

>実際のところ、真蹟遺文、冨士門下資料、曼荼羅その他の優秀な議論が、まったくとまってしまっていることを政治的観点から仏教を論じようとするの弊害であると残念に思っています。

私の投稿が原因だというなら、それは大変申し訳ないことだと思います。

>大学研究室に入り込み、政治を意識しない研究はだめだといっているようなものでしょう。

それは違います。最初の頃に書きましたが、いつもいつも戦争のことを考えなければならないわけではなくて、時に真剣に向きあって考えておかなければならないのではないかということです。そのとき、日常的に考えている立場の人の意見というものにも、耳を傾け参考にすることも必要なのではないか、そのような人をやたらと排除しないほうが良いのではないかというのが、この度の私の見解です。

>なんでも政治的見地からものを見なければならないという議論は、本来仏教議論に対する政治的干渉以上の意味を持ち合わせないということです。

また、何を言っているのでしょう。前にも聞いたことですが、仏教教義に対して、政治的干渉を、誰がしました?
私ですか?私は他のスレッドには、意見も見解も挟んでいません。今後もそのようなことはないでしょう。
今回、書いたことは、私の内心の信仰について語ったまでであって、何も人に押し付けようという意図のものではありません。

そもそも、この掲示板で政治的発言をしたのは、あなた自身です。だからこそ私はそれに異論を投じたのです。
それがこれまでの流れですね。
しかしあなたにしても私にしても、政治的発言をしたからといって、何ら「政教分離の原則」に反したことではありません。
宗教の側から政治的発言をすることは、憲法上、何も問題はないのですから。

176匿名:2005/12/02(金) 00:07:36
政教分離の原則について

日本国憲法第二十条〔信教の自由〕で、「政教分離の原則」を規定されているわけですが、二十条の原文は以下の通りです。

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

ここには「政教分離」という文言はありません。
信教の自由を「保障する」ということは、公権力によって、信教の自由を侵害することを禁ずるという意味であり、そのために、さらにすすんで、国家があらゆる宗教から絶縁し、すべての宗教に対して中立な立場に立つことが求められる、これがすなわち、国家の非宗教性の原則、または国教分離(政教分離)の原則といわれるものです。

しかしこれは、言い換えれば、宗教の側からの政治関与を否定するものではないということです。
ですから、宗教家であっても、政治的発言はもちろんのこと、政治家にもなれますし、宗教教団を母体とする政治団体をつくっても違憲ではありません。ですから公明党そのものは、違憲ではないということになります。

ただし、政治的権力を使った特定宗教団体への利益誘導がされるようなことは、これは完全な憲法違反です。
ですから公明党の場合、そのような政治的な利益誘導がなされていないかといったことの、国民的監視は必要であろうかと思います。
国には、地方公共団体や公法人も含みますので、国家レベルのみならず、市町村レベルでの監視が求められるところといえるでしょう。

この度発表された自民党の新憲法草案では、この第二十条に関しては、3項目が以下のように大きく書き換えられているようです。

③ 国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。

これは、「政教分離原則は維持すべきだが、一定の宗教活動に国や地方公共団体が参加することは、社会的儀礼や習俗的・文化的行事の範囲であれば、許容されるものとする。」ものだそうで、恐らく、政治家の靖国神社参拝を合法化する意図のものかとうかがえるものです。

私の所感としては、憲法というのは、あまり複雑な文章であってはならないと思うのです。
簡素な文章で大筋を定め、細かいところは、その他の法律で規定していく。そういうものであるべきだと思いますね。
むしろ、いろいろな解釈が成り立つくらいの規定が、かえっていいと思います。

自民党の新憲法草案
http://www.jimin.jp/jimin/shin_kenpou/shiryou/pdf/051122_a.pdf

177犀角独歩:2005/12/02(金) 01:08:27

匿名さん

わたしがあなたに、「仏教的な立場はどのようなものでしょうか」、こうお尋ねしてきたと、あなたはなんと言いましたか、本人が投稿したくないこと、語らないことを無理矢理、強要した、こんな調子ではありませんでしたか。

それにもかかわらず、わたしは政治的なことは記さないというと、それに対して食い下がり、あなたは抗議しています。これは‘強要’に当たらないのでしょうか。

> 政治と憲法については、恐らく関心度においては多少は私のほうが高い

さあ、どうでしょうか。ここで述べなければ関心が低いと判断するのは短絡でしょう。

> 憲法改正…意識を持っていなかった方だっていらっしゃる

それは、この掲示板投稿者の「政治の程度」を低く見下した観察でしょう。

>> ここは憲法改正や、政治を論じる掲示板ではありません。
> …管理者に異論をいえばどうでしょう。

なぜでしょうか。戦・争は何の憲法改正、政治と関連せずとも佛教のテーマでもあります。それを憲法改正・政治と見るのはあなたの視点であって、佛教的見地からであれば、何も異論を述べる必要などまったくありません。

>> 憲法改正(改悪)と日蓮を脈絡をつけて考えることを警告を発しているのです。
> 私は護憲の立場で書いてきていますが。

別段、あなたに対して記しているわけではありません。日蓮から創価学会が言う日蓮民衆仏法までの先の投稿におけるわたしの発言を説明しているのです。

> 軍事への反対は、自戒に基づき兵役拒否
> 自分自身のことであって、人にそれを勧めるものではないと解釈して良いのでしょうか。
> 前の戦争責任から、積極的に政治には関与しない。それもひとつの道だと思います。
> お釈迦さまの出家に近い精神行動かもしれません。

そのように単純ではありませんが、原則、そのような立場です。
しかし、殺人に関して、制止は自戒の範囲を超えています。

> 考えたくないということでしょうか

考えたくないということではなく、顕正会が、わたしの実名と社会的地位を報道した以上、わたしの宗教論攷の成果をここに記すことはともかくとして、政治的な記述は、できれば避けたい。仏教徒として、相手が○○党であるとか、右・左、○○宗などという分け隔てなく、連携していく段階で、特定の政治的見地にしばられている立場ではないわたしとしては、そのような点について、述べることは出来ません。これが個人的な理由です。

178犀角独歩:2005/12/02(金) 01:08:47

―177からつづく―

> …仏教教義に対して、政治的干渉を、誰がしました?

あなたがしています。
仏教徒に対して、政治から考えろと言うのは強要と映じているということです。「そんなことはしていない」というのであれば、そのように見えますよと、言い換えてもよいでしょう。

> 政治的発言をしたのは、あなた自身

世界の情報ボックスで徴兵制に触れたこと、自衛隊が任務で人を殺せば殺人だといったことでしょうか。佛教の見地から話です。あなたがいう仏教から政治にものをいう入り口をノックした程度の話でしょう。すると、政治側から仏教解釈にものが言われた。これは政治の宗教関与のようで不快だといったわけです。あなたも政治の宗教関与は不可だと記していましたね。

> 宗教の側から政治的発言をすることは、憲法上、何も問題はない

そのとおりです。
しかし、政治の側から宗教に発言することは信教の自由を国家レベルから侵害したことになります。それはあなたが記したとおりです。

あなたがどのような職業の方が存じ上げませんし、社会活動その他をしているのかどうかも存じ上げません。ただ、先に共産主義、共産党に対してはかなり侮蔑的な発言をし、自らを保守右系のように語っていましたね。

佛教者には、公明党は元より、共産党員もいます。無政府主義という人もいるでしょう。いろいろな立場の人がいます。そのような政治的な立場は、佛教という現場では問題ではないのです。しかし、ここで政治の話を持ち出せば、せっかく、佛教の議論をしていても、その各人の所属に引っ張られてせっかくの佛教議論が歪んでしまうことは残念なことであると言うことです。仏教徒は出来る限り政治的には中立であるほうが発言も中立となります。そのためには、自身の政治カラーは、押さえるほうが適切であるという判断はあるということです。それも無利子つり聞き出そう、引き出そうとするあなたのやり方には従えないと申し上げているわけです。これは政治への関心が低い・高いと言うこととは別次元の問題です。

あなたは、政治・憲法については、ここで投稿する方々より、自分のほうが意識が高い、そう自負されるのは勝手です。しかし、そのような議論を持ち出すことによって、壊れてしまう議論者同士の微妙な関係には思いが至らない点は迷惑だということです。

以上なことから176に記されるような点は、まあ、言いたくありませんが、わかり切った話であると、皆さん、お考えなのではないでしょうか。ですから、議論に参加されないのでしょう。

ご本人、自覚がないようですが、ご自身が政治・憲法の知識が他より高いという見地から、何かここの投稿者を見下しているような形になっていることにお気付きになれない点は、しかし、わたしが申し上げるしかないのでしょう。

種々、お勉強もなさっていると思いますが、わたしが170から173に紹介したいくつかの短文ぐらいは目を通してみてください。さすれば、なぜ、皆さんがあなたの議論に加わらないのかはご理解いただけると思います。

179犀角独歩:2005/12/02(金) 01:16:51

【178の訂正】

誤)無利子つり
正)無理失理

180匿名:2005/12/02(金) 10:49:18
>仏教徒に対して、政治から考えろと言うのは強要と映じているということです。

微妙なニュアンスは伝わらないものです。
政治から仏教を考えるなどと言ってはいません。逆です。
仏教から政治を考えることを言ってきたつもりです。
ただ、そこには限界もあるだろうことを私は最初に書きました。在家信徒ですから、それも仕方ないだろうと。これは個人的な見解ですが。
それに関連して、犀角独歩さんの社会的な立場は理解いたしますので、お答えも無理だということ、理解いたします。
ただ私が質問にお答えすると、お粗末だといわれたので、なんだか矛盾を感じ、あの質問はどうなったのかをお尋ねしたまでです。何度も言っているように、もとより強要するつもりはありません。

>自分のほうが意識が高い、
>ご自身が政治・憲法の知識が他より高いという見地から

意識ではなくて、関心です。取り違えないでください。
私は、世界情報ボックスから、自分の関心事について投稿をはじめました。
情報ボックスですから、「議論」というよりは、「情報」としての投稿です。こちらのスレッドになっても同じです。しかし、私個人についてのことを聞かれたので、語らざるを得なくなった。
語れば語ったで、「そんなことはわかりきったことで参考にならない」と何かにつけて見下してきたのは、犀角独歩さんですね。それも1度や2度のことではありません。
こういうことが連発されるのは、非礼・無礼、言葉の暴力の類であります。また、他の掲示板に行けということも何度も言われましたし、またこのこの度の私への投稿も、投稿させまいと心理的に追い詰める内容にとれます。このように、投稿をさせないよう促す発言は、ある種の人権侵害でもあるでしょう。

投稿者に対して、そのような発言を何度も繰り返すことは、あまり好ましいことではないと思います。

掲示板のルールでは

これらの「掲示板の主旨」をご理解いただきまして、どんどんご発言賜りたいと存じます。

と書かれてあるのですから。
私の投稿が、掲示板の主旨に反しているなら話は別ですが、反していないのであれば、その投稿内容が掲示板に「ふさわしいか、ふさわしくないか」をあまりに問題視にしていくと、投稿が窮屈になるばかりです。それが行き過ぎると、「どんどんご発言賜りたい」という主旨に反することになっていきはしませんか。
ですかに、本来そうしたことは、管理者さんのご判断に一任すべきことではないかと存じます。

ただしかし、犀角独歩さんが他の議論の妨げとなって迷惑しているという、その現状とお気持ちを汲み取り、そこそこで投稿は止めるつもりでおります。

181犀角独歩:2005/12/02(金) 11:44:44

匿名さん

わたしは、あなたの文章というものは事実を枉げていると思いますよ。

> 「そんなことはわかりきったことで参考にならない」と何かにつけて見下してきた

見下したわけではありません。そのようなわかりきったことを記し、見下されたと思ったのわたしのほうです。

> 非礼・無礼、言葉の暴力の類

非礼・無礼にあったときに、その点を指摘するとこれを言葉の暴力であるというのは、殴った相手を怒鳴りつけたら、怒るのは悪いというような論法でしょう。

> 他の掲示板に行け

そういったのではなく、政治的技術論、また、自衛隊翼賛したければ、その点については、それぞれの掲示板でなさってはどうか、ここでは仏教の視点に絞られてはどうかと言ったのです。

> 投稿させまいと心理的に追い詰める内容…人権侵害

人権侵害、冗談でしょう。
もう少し、ここまでの流れをちゃんと思い出してください。
わたしが自衛隊に関して、異論を述べた。それを妨げようとしたのは、あなたを含めて3人の人々であった。つまり、わたしに自衛隊批判の投稿をさせまいとしたのは、あなた方のほうでしょう。人権侵害をされたという認識は、むしろわたしのほうにあります。

よくここまで論理をすり替えられるものであると、溜息をつくほかありません。

戦争という問題を、仏教という視点で考えるとき、非暴力、不殺生を教えを護り無惨に殺されていった過去2500年間、あまたの仏教徒の不幸にわたしは涙が止まりません。

また、日蓮と戦争の関係を考えるとき、過去の敗戦で戦争翼賛に理論的荷担をした日蓮主義の過ちを二度と繰り返してはならない身の引き締まる思いがするのです。

その視点から、語ると自衛隊を批判したと言い、寄ってたかって、人格を傷つけられたのはわたしのほうであるという自覚です。

182匿名:2005/12/02(金) 12:15:21
>そのようなわかりきったことを記し、見下されたと思ったのわたしのほうです。

とんでもない。あなたにはこの掲示板の貢献において、勉強させていただいたこと、感謝していると何度も申し上げてきました。
いつのまにか、こんな応答になってしまいましたが、そもそも私は、投稿内容に対しての「意見」を述べてきただけです。
見下すなどは、もとより有り得ません。

そうそう、私は、レベルが低いとまで言われましたよ。

>非礼・無礼にあったときに

相手にとってわかりきったことを書くのが非礼・無礼なのですか?
そんな、わかわりきったことかどうかなど、そもそも、わかりようがないと思いませんか。

>それぞれの掲示板でなさってはどうか、ここでは仏教の視点に絞られてはどうかと言ったのです。

それは、管理者にルールとしてご提案されてはいかがでしょうか。
今のルールでは、それを投稿者に促されても無理だと思います。

>わたしに自衛隊批判の投稿をさせまいとしたのは

一連の自衛隊への異論は、通りすがりさんからの侮辱への抵抗と書かれていたかと思いましたが。
そもそもあなたの自衛隊批判というのは、どういうものなのでしょう。
いまだにそれはよくわかりません。
具体的な自衛隊批判を、お書きになればよろしいかと思います。
私はそれを妨げるつもりはないです。むしろ、その点は「自衛隊の存在をどう思っているのか」といった質問をしていたはずです。

>日蓮主義の過ちを二度と繰り返してはならない身の引き締まる思いがするのです。

この点は、これまでの記述でよく理解いたしました。
私も賛同いたします。

>寄ってたかって、人格を傷つけられたのはわたしのほうであるという自覚です。

怒りっぽいことをたしなめはしましたけど、人格を傷つけるほどのことではないと思っております。
ただ、あなたは社会的立場を公表しておられるので、その点において、社会的名誉をもしかしたら傷つけたかもしれず、その点はご迷惑をおかけしたかもしれないなと、申し訳なく思っております。
しかし、自分の立場を公表するしないは、本人が判断することですから、まあ掲示板ではこういうことは避けられないと思います。

183犀角独歩:2005/12/02(金) 12:57:00

> レベルが低いとまで言われました…

あなたは、わたしに「政治の程度が」といいました。
売り言葉に買い言葉、喧嘩は江戸の華という育ちは、どうも抜けません。
この点はお詫びします。

> 投稿者に促されても無理だと思います。

改憲、軍事、自衛隊に異論を述べた瞬間にわっと寄ってたかってという印象です。
わたしの気分として、掲示板が軍国主義に占拠されかけたことへのレジスタンス運動のような思いでした。
何度も記しましたとおり、ここで実現された冨士門再考は歴史的な成果があったのです。
それを政治、改憲、自衛隊、軍事翼賛で占領され動きを止められて残念という思いがあるわけです。そのことからのこげりの表現です。
しかし、実際、あなたが言うとおり、とまらないのです。むしろ、このようなところに、わたしは戦争のメカニズムを見るのです。

> 自衛隊批判

この点は具体的に述べません。功罪両面があるでしょう。
しかし、一般市民に過ぎないわたしへ、元自衛隊がどのような態度で接するか、官軍・民の一つの縮図をここに現出させたことになったわけです。
そのような軍反発を素直に捉えられるキャパが、やはり、自衛隊にはないのかと、落胆しました。武器を持った者は、丸腰市民に威圧的、かつ侮辱的であるというのは洋の東西、古今を問わず、変わらぬ光景です。そして、彼らは必ず同じことを口にします。「我々ほど、平和を愛するものはいない」、平和だけならヒットラーでも口にしたわけです。実際、丸腰市民にどのように接するか、軍経験者が特権意識を持っているか・いないかという点で‘民主平等’を本気で言っているかどうかを、民は観察しています。

> あなたは社会的立場を公表しておられる

これはまったく誤解です。
わたし犀角独歩は社会的立場を公開してなどいません。
それをこの人物の本名はかくかくしかじかだ、どこどこのなになにだと、本人の許可も取らず、公開したのが顕正会でした。顕正会にも自衛隊は多いとのことでした。まあ、それが今回の反発の動機にはなっていませんが。

> 自分の立場を公表するしないは、本人が判断すること

そうです。そのわたしの判断権利を侵害された矢先のあなた方の投稿であったわけです。

184匿名:2005/12/02(金) 13:07:30
>183

すべて納得いたしました。理解いたします。
貴重なお時間をとらせて申し訳ありませんでした。

あと私は、戦争責任について、少しばかり投稿してみたいと思っております。
それをもって終わりますので、よろしくお願いいたします。

185匿名:2005/12/02(金) 13:16:52
追記
>顕正会にも自衛隊は多いとのことでした

そうですね。
顕正会以外の富士門の方もいらっしゃることでしょう。
私が心配するのは、教団同士の確執やいざこざが、隊の中に持ち込まれていなければいいがという思いですね。
それこそ国家防衛にとって弊害以外の何ものでもないですから。
余談ですが、ちょっと記しておきました。

186犀角独歩:2005/12/02(金) 13:39:41

匿名さん

長い諍論でしたが、誤解は解けた点は良かったと思います。

> 教団同士の確執やいざこざが、隊の中に持ち込まれていなければいい

まあ、これは逆も真で、自衛隊内の確執、いざこざを、こういった宗教の現場に持ち込まないでほしいという弱者の願いがあります。

> 国家防衛にとって弊害以外の何ものでもない

これも同様です。
常に官・軍の強権で翻弄されてきたのが宗教です。
先では各宗派の戦争協力、近代では廃仏毀釈という大破壊もありました。

そして、国家防衛という名の隣国挑発で、その利権はさらに力を増し、利権が生じるのでしょう。
残念ながら、この点での同意に至ることはないでしょうか。

187匿名:2005/12/02(金) 22:57:07
>186
>これは逆も真で、自衛隊内の確執、いざこざ

自衛隊内の確執、いざこざが持ち込まれた投稿であったということなのでしょうか。
ごめんなさい。これに関連して、一点だけ前のレスにコメントさせてください。

>軍反発を素直に捉えられるキャパが、やはり、自衛隊にはないのかと、落胆しました。

これは恐らく、個人レベルの話になるかと思います。世間は広いですから、いろんな人がいます。自衛隊員のなかにも、紳士的な人もいれば、威圧的な人もいる。同じ訓練を受けても、いろいろおられることと思います。
ただそれとは別に、こと宗教が絡むと、さらに事情が複雑になるものではないかと想像します。あくまで想像ですが、宗教問題に軍事が関係してくるとなると、非常にナーバスな問題だと思いますね。それを掲示板に持ち込まれたのかどうかは私にはわかりませんが、しかし、逆にいえば、そういう問題が自衛隊組織の中に存在しているということを意味しているわけで、となると、確かに犀角独歩さんの言われるように、掲示板での議論で自衛隊については深く触れないほうが賢明といえるかもしれません。
その意味で、私は考えを改めます。

>常に官・軍の強権で翻弄されてきたのが宗教です。

戦前はそういう側面が強くあったのでしょうね。戦後生まれになると、それをどう想像していいものやら、わかりませんが。
宗教と政治の関係を考えはじめると、これはまた別の深い議論になるでしょう。
それこそ奈良から平安への遷都にまで溯る議論ですから。
こちにのスレッドにうつって早々に頂いた、乾闥婆さんからのご質問のなかにありました記述、

>国家を容易に左右できる宗教があるのであれば、それこそ「批判」の対象となるべきなのだと思いました。

実は、今でも自問しているんです。国家を左右できる宗教は、本当に批判の対象だろうかと…。
とりあえずのご返答を投稿いたしましたが、私自身は、まだ自分で納得する答えが出ていません。
とても重用な投げかけを頂いた気がいたしております。

そもそも国家や民族の成り立ちに、宗教の存在は決して切り離せるものではありません。しかし、宗教の権威が絶対的なものになると、かえって民衆を苦しめてしまう。ヨーロッパ中世の歴史や、戦前の国家神道、日蓮主義がそれを証明しているわけですね。そのような長い歴史の教訓を経て、今日のような近代憲法における、信教の自由と政教分離が確立されてきたものかと思います。

188匿名:2005/12/02(金) 22:57:32
>国家防衛という名の隣国挑発で、その利権はさらに力を増し、利権が生じるのでしょう。

「国家防衛」を「安全保障」に訂正しても構いませんが、「戦車」を「特車」と言っているようなものですから、私はそんな言葉上の誤魔化しはしないことにいたしまます。

ご指摘のように利権の側面も確かにあるでしょう。しかし防衛利権で生活が成り立っている人は、何も自衛隊員だけではありませんね。民間企業だってたくさんあります。もっといえば、石油エネルギーからその他のエネルギーへの転換が難しいのは、エネルギー利権を生業としている人々がいるという側面もあるわけです。大半は民間企業です。
経済の構造そのもの、産業の根幹から変わっていくことですから、クリーンエネルギーの開発が進んでも、一気にそれを転換することは難しいわけです。抵抗勢力といえぱいいのかもしれません。ただしかし、石油に関して私見を述べれば、実際、それはそれは大変な思いで石油を採掘し日本に届けてくれてもいるわけです。目には見えませんが、その人々のことを、単に石油利権として括るのはあまりにも酷なことではないかとの思いも、私にはあります。当面は、生活に石油が欠かせないのは現実ですしね。
かつて、石炭がエネルギーの主流だった頃、炭鉱は経済産業の根幹を担っていたわけです。それがあることで救われた人々もたくさんいたわけです。
どんな利権であっても、ひとつを崩壊させれば、それは経済全体へと崩壊が波及しかねないわけです。だからといって戦争していいものなのかという倫理観の話にもなりますが、しかし実際には、業界の人たちにとっては死活問題ですし、ひとつの業界が破綻して、その余波で経済そのものが崩壊すれば、利権に関係なく日本国民全体に経済被害は波及します。それを人災というか天災というかわかりませんが、それ自体が戦争みたいなものでしょう。
ですから、現実問題として、平和の理想通りに、すんなりとはいかず、どうしても徐々に移行していくしかないものなのだろうと思います。上昇を止めれば、下降が待っているわけですから、利権が増幅しないようにといっても、難しいことなのでしょう。
さらに、ただ利権の為だけの国防ではないのも事実ですね。恐らくその点は、仏教徒としてのご自分において、敢えて書かないだけで、本当は理解されていることと思います。

隣国挑発という懸念も確かにあるでしょう。
日米同盟における仮想敵国は、中国なわけですが、中国は経済大国を目指しつつ、同時に軍事大国をも目指してきました。勢いをもって大国になってきている国というのは、非常に微妙で、時に政治的判断を誤る場合もあるわけです。
その意味において、ある程度の警戒は必要であり、とりもなおさず、中国が今後どうなっていくかは、21世紀世界全体の課題でもあるといえるともいわれています。
現在、世界の工場とまで言われるほど経済的発展を遂げた中国にとって、今後の石油資源の確保は最重大な国家課題です。
領海域を侵しかねない中国の資源争奪に対しては、日米共同の軍事的牽制はどうしても避けられるものではありません。
ただしこれも、いたずらに過敏になることではありません。そもそもこうしたことは、世界中の大半の国家間が水面下で日常的に行なってきていることであり、そのような水面下の牽制が、かえって表面的な政治的対立を抑えてきてもいるわけです。
まず何よりも、こうした状況というものを冷静に見極めていくことが大事なのではないでしょうか。
そもそも、軍事大国を目指してきた中国ですが、実は、大国アメリカの軍事力に対しては、ある意味大きな敬意を払ってもいるといわれています。ですから基本的には、米中の戦争はないものと考えられています。だからといって、軍事的牽制を怠ることはできないというのが、国家の現状というものなのでしょう。

しかし、こうした国家同士が繰り広げている水面下の軍事牽制などは、仏教徒してはどうにも理解しがたいところだといえるでしょう。
そこは人間の為す愚かさであり、それが国家というものだとして、それに対して仏教徒がどうあるべきかにおいては、軍事反対は頑として反対だとしても、やはり、その訴えが怒りにまかせた感情的なものになってはならないものと、私は思っております。

仏教徒としては、確かにコスタリカのような国を目指したいところです。ある意味、羨ましいと思いますね。
しかし日本の地理的におかれた状況からいって、アメリカの環太平洋政策における軍事要塞としてのポジションは避けようがなく、ある程度の軍事保有は、日本の国民生活を保障する国益を考えれば当面は致し方ないだろうと思います。
これは日本の地政上のある意味での宿命といえるでしょうし、また同時に、日本の仏教徒としてのジレンマでもあるでしょう。

189匿名:2005/12/02(金) 22:57:58
>残念ながら、この点での同意に至ることはないでしょうか。

これは同意に到らなくとも、何も残念がることではありません。
藤川一郎さんも書かれていましたが、真中をとるというのは、とても大事なことです。しかし、そうだとわかっていても、中庸というのは大変に難しい。一人の人間の内心のなかで、真中をとるというのは、とても難しいものだと思います。どうしても、どちらかに偏ります。
だけど、いろんな人がいれば、全体で中庸にバランスがとれるものではないでしょうか。

私は、仏教徒である自分を譲らない犀角独歩さんの立場を、理解するに到りました。
しかし理解はするけど、私の考えが変わるかというと、完全には変わらない。
それでいいのではないでしょうか。
お互いに立場も考えも変わるものではないけれども、その立場を超えて、お互いの考えを理解し、そして尊重する。
私はそうありたいと思うのですが。

>長い諍論でしたが、誤解は解けた点は良かったと思います。

長く掲示板をロムしてきておりますから、これでもあなたのことは、そこそこ理解しているつもりです。
ただ、怒りっぽいのが玉にキズのようで、それでは、僭越ながら私のような者に、足もとをすくわれかねない。
老婆心ながら重ねて申し上げますが、ムカつく相手への反撃にも、多少の逃げ道をつくってあげられてはいかがかと。
それがあなた自身の為にもなるものと、拝察いたしております。無礼を承知で、これは進言させていただきます。

190犀角独歩:2005/12/02(金) 23:21:57

匿名さん

有り難うございます。
仰るとおり、同意に至らないことだらけで、皆で一緒にいる社会が素晴らしいのかも知れません。

まあ、わたしの怒りっぽいのは治りそうもありません。
足下など救いたければ救えばいいというのもわたしです。
けれど、進言は承っておきます。

しかし、かくいうあなたもけっこう短気なのではないでしょうか(笑)

191匿名:2005/12/02(金) 23:50:42
>190
>しかし、かくいうあなたもけっこう短気なのではないでしょうか(笑)

はい(笑)

だいぶ、落ち着きましたね。近日中に、もう1回投稿して終わります。
どうか静かな教義の議論に戻られますように。

192犀角独歩:2005/12/03(土) 13:44:52
「戦争を考える」というテーマは、仏教という心を扱う側にとっては、「何故、戦意が生じるのか」と換言できるテーマでもあります。この点は心理分析、ことに社会心理学の分析と相共通する側面を有しています。

ここ一連の議論が成り立たない理由は、至って簡潔で、向いている視線が逆であることに起因しています。

戦争というテーマに当たって、仏教・もしくは社会心理学は、その内的要因(心因)を考えるようとします。一方、政治という現場では外的要因(社会状況、国内事情、国外の脅威といったもの)から考えようとします。この2つは噛み合いません。けれど、たぶん、外的要因から考える人々も内的要因を考えていると答えるでしょう。しかし、内的要因から考え出す側からすると、その外的要因から考える人々の言う「考えている」ものは、実は与えられた考えを自分の考えであると思い込んでいるのに過ぎないという分析を伴って観察しているという構造もあります。半面、外的要因から考える人々は、内的要因から考える人々を外的要因に対する無知からの判断と即断する傾向があるように思えます。

歴史から、この内容が要因を考えて見ます。
中国では文武両道を言い、政に儒教などの内的要因の認知が導入され、さらにその中国思想によってアレンジされた仏教(格義仏教から鎮護仏教)が文武両道に併せて採用されることによって王政は統治に当たるという構造によって実現されていたわけです。
この点は、明治以前の日本においても、ほぼ同様であったことが窺われます。
ここで、為政者は、自己観察と分析において、文武、もしくは政教といった二律背反する原理を認めその両面から考える努力をなしていたことが知られます。

明治以降の国家の有様は、この政教というものを解体し、かつ、国民の意思(民意)を単一化することによって達成されてきた側面があります。
ここにおける民意は、国家が考えるように国民も同様に考えるという思想統制によって実現されたものでした。では、この統制に合わないものにはどのような烙印が押されたのか。非国民というそれです。このラベリングは、生殺与奪の実権を握る国家から生きながらの死刑を宣告をするものでした。さらに実際の投獄、極刑が治安維持法違反、また、不敬罪といった名目で可能であったわけです。

近代以降の日本において、ここに住む国民は、どのように考えるのかという国家が提供する心的モデルに基づいて実は考えてきたのであり、その心的モデル、すなわち提供された内的要因によって、外的要因を考えるという構造がそこにあります。

この内的要因の国家操作で重要な点は、国家が重大な決定を下すとき、国家は、この内的要因を、国民という群集心理の操作を必ず行ってきたという事実です。

政治システムから考えて見ます。
投票というシステムは、近代、考案されたもっとも民主的な方法論であるということになっています。これ以上のシステムは今のところ、思いつきませんが、しかし、この方法は万能ではありません。また、この方法は、それまでの政治責任、国家の決定が国王・為政者にあったものを、国民一人ひとりの責任の置き換えるという重大な負荷を背負うものです。
アメリカを例に取ります。投票の結果は大統領は選ばれます。この大統領が、核のスイッチを押した。すると、それはアメリカ国民全員の責任であり、かつ総意である<ということになる>という構造がそこにあるわけです。しかし、本当でしょうか。総意といわずとも、アメリカ国民の大多数が核のスイッチが押され世界が滅亡することを望んだからでしょうか。
このような歪は、しかし、日本の投票、政治というシステムでも同様の欠陥を有しています。
国民への責任転嫁は以上のような欠陥によって可能になっている構造がここにあります。
民意と政治上で‘翻訳’されるものは、以上のような深刻な構造欠陥の上でいわれているものに過ぎないという前提をわたしはいつも考えています。

193犀角独歩:2005/12/03(土) 13:45:28

―192からつづく―

また、戦争には重大な利権が絡み、一部特権階級にとって、これ以上のビジネスはないという一面を持っています。また、外的要因を考える人々は内的要因について、実に不感症になっている点をわたしは深刻に受け止めています。また、人の死、被害について、驚くほど無責任であるということです。外的要因から考える人々の国家と国民の同一視、思考の単一化は、社会心理学的な見地からすれば、権威主義的人格への民意統一によって実現されていると映じます。

わたしが、たとえば疑問に思うのは、小泉は靖国参拝をしますが、隣国緊張が騒がれているのであれば、そんなものは見えないところで個人的にやればよいわけです。日本にはキリスト者もいれば、共産主義者もいます。そのようなところで単に国民の‘半分’が支持するに過ぎない与党の総理大臣として、国民‘総意’の代表と他国からとられる公的参拝を特定神社にすることは論理的に成立しません。

結局のところ、このパフォーマンスは、アジア緊張を高める効果を有しています。また、国民にはアジア諸国から内政干渉されているという国民感情をあおる効果を有します。
隣国緊張が高まっているなどといいますが、高めているのは、このようなパフォーマンスに大きな原因があります。そして、その結果、アジアの緊張が高まっているから軍事強化をしなければならないというのは単なる為にする理論、出来レースであることはあまりにも明白です。

つまり、靖国参拝は英霊を御霊を崇めるために行われているのではなく、この御霊を利用し、アジア緊張を高めて、軍事ビジネスのスムーズ挙行を可能にするために行われている構造がここに見られるわけです。

以上は心的要因の操作の一例に過ぎませんが、しかし、このような恣意的操作に基づく、政治がいう外的要因とは、本当に信頼するに足りるものなのかという点が考えられなければなりません。また、そのような情報操作、さらに国民感情の操作によって‘作られた’国民の内的要因は、実際のところ、利権に絡む一部特権階級が用意したシナリオの選択を、あたかも国民の意思で行っているという‘まやかし’に基づいているのではないのかという点を、内的要因から考え出す側は懸念しているわけです。

ハッサンがカルト・メンバーの心理と行動について、以下のように記述しています。

「マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう」(『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)P109)

この決められたとおりの選択が、軍事増強、改憲論ではないのかという懸念をわたしはもっているわけです。

冒頭に記しましたが、外的要因から考える人々は、内的要因からものを言う人々に外的要因の認識の無知を指摘することが多く散見できます。このような人々の論調は、その外的要因を認識できれば、いま、日本が選択肢よとしている憲法改正(改悪)、軍事増強という決定は当然理解できるはずだという結論に基づいています。

しかし、そもそも、この結論が違っています。まったく、同じ情報を完全に掌握できたとしても、外的要因から考える人々の結論と、内的要因から考える人々の結論が違うことを、内的要因から考える人々は当初から認識しています。いや、たぶん、この点は外的要因から考える、特に政治側は熟知しているでしょう。故に彼らは‘操作’を仕掛けるのでしょう。

続きは追って記します。

194犀角独歩:2005/12/03(土) 17:14:44

今後、当スレの考証では、しばしば引用しようと思いますが、S・ミルグラム著『服従の心理』(河出書房新社)は必読書であると推薦しておきます。

ここで、「戦争を考える」という点で、戦争(=大量殺人)はイメージ化されている点をまず指摘しなければなりません。先にも引用しましたが、

「道具や武器があいだにはいったために、抑制メカニズムが利かなくなったことをコンラート・ローレンツが述べている。『このことは、さらにいっそう、現代の遠隔操作兵器を使う場合にも当てはまる。発射ボタンを押す人は、自分の行為から完全に遮断されており、それを見ることも、聞くことも、あるいはその他の方法で情緒的に実感することもないので、兵器でそうすることができる。たとえ、想像力を負わされていたとしても……』『攻撃』ⅠⅡ、日高敏隆・久保和彦訳、みすず書房、1970年)」(P273)

また、このような構造は

「破壊的な官僚組織の有能な策略家なら、人員をうまく配置して、いちばん冷酷無情な者だけがじかに暴力に関係すればよいようにすることができる。人員の大部分を占めている男女は、実際の残虐行為から遠く離れているために、それを助ける職務を果たしていても、ほとんど緊張を感じないであろう。彼らは二重の意味で責任を免れている。第一に、合法的権威が彼らの行動を完全に是認しているため、第二に、彼ら自身は残忍な行為を実際にやっていないためである」(P186)

直前の引用文は、ある面、軍備を提示する側の国民への情報操作の面とも一致しています。また、ここのところ、議論されてきた点とも、一致しているようにわたしには思えます。

夏の頃でしたか、アメリカのハイスクールでの取材報道が放映されたことがありました。これは反戦運動家であれば、皆、遭遇したことですが、我々日本人が成育過程で必ず目にしてきた原爆投下後のあの悲惨な写真資料を、アメリカ国家は教育現場における操作によって抹殺しています。この点を、この報道は見事に映し出していました。

はじめに、アメリカの学校で使用される歴史教科書で第二次世界大戦の知識を得させ、原爆投下について、生徒たちに議論させます。

アメリカの子どもは言います、「たった数十万人の日本人が死んだだけで戦争が終わったんだから、原爆投下は正しい選択だった」

たった数十万人と子どもは事も無げに言いました。
授業の最後に多数決を取ります。結果は大多数が「日本への原爆投下は正しかった」に投票しました。

そのあと、日本人ディレクターが、この子ども達に、日本で出版されている原爆写真集を閲覧させます。それを見た子ども達は顔色を変えて言いました、「私たちはこんな残酷なことを隠されてきたのかな?」

195犀角独歩:2005/12/03(土) 17:15:06

―194からつづく―

いま日本で起きている自衛隊論争、また改憲論争は、このような情報操作はないのでしょうか。先にわたしが記した用語を使えば、外的要因とされる情報のなかに、戦争の凄惨な現実、また、過去半世紀の日本政府の非戦闘員に対する無責任な政府対応をはじめとする重要な情報が盛り込まれていないのはなぜなのか。反面、靖国英霊といった形で、戦争は美化され血なまぐささ、死傷、人がもがき苦しみ死んでいった様は、灰燼に帰して人間が燃え、腐り異臭を放った町並みのリアリティは最早そこにはありません。「御霊」と変換され美化されていきます。
ここでは、内的要因が操作されていないのか?
操作されているでしょう。

わたしは、この議論の当初で「徴兵制が不可欠」と記したことによって、やり玉に挙がりました。徴兵制によらなくても軍事増強になっているのが、世界の流れだと言います。
そうでしょう、たしかに。しかし、それは、国民が、この悲惨残酷な「戦争」を考えるうえで、どこに配置されているのかという視点に立つとき、「冷酷無情な者…暴力」から隔離される操作がある点が見落とされています。戦争とは=自分自身の殺人殺戮、残虐暴力の問題であるという点を、わたしは言いたかったのです。この点を直ちに了解してくれたのは単己さんでした。

わたしはたとえば憲法改正賛成、軍事増強賛成、自衛軍賛成、参戦賛成という意志を持つ人が100人いるとき、では、その交戦にあなたは参加しますか、また、体を吹き飛ばされ、腸が飛び出し、苦しみもがき治療も受けられない状態に、あなたが自分の手でしますか? と尋ねるとき、たぶん、大半の人は、憲法改正その他には賛成だが、自分が戦争に行くのは嫌だ、交戦して人を殺すのは嫌だと答えるのではないでしょうか。

では、このギャップはいったいなんなのかということが内的要因を考えるということです。

故にわたしは匿名さんに問うたわけです。では、あなたが自衛隊になりなさい。なって、専守防衛(安全保障)という名目で、攻めてきた敵を殺しなさい。国際貢献という名で交戦に参加し、人を殺しなさい、と。

凶器を使わず、人を殺すということは、かなり永続的精神力を要し、体力も要します。
首を絞めるか、殴打して殺すか、蹴り殺すか、大変な労力を要します。殴打した側も打撲を負い、骨折することもあるでしょう。その痛みから殺人のなんたるかを実感できます。刃物をもって、刺し殺せば、その夥しい血の量に自分が何をなしたかが実感されるでしょう。ピストルで撃ったとしても、流れる血、はじき飛ばされる肉骨、地面に広がる血から、自分がなしたことはある程度、実感できます。
1対1の殺人でも以上のようです。それが参戦という現場では時には数十万人の規模で起きるわけです。

しかし、われわれが国際貢献のために自衛軍参戦に1票を投じるとき、このようなリアリティは完全に失われています。失われたところから議論がされています。

過去の戦争より、現在の戦争ははるかに残虐であり、大量殺人になっています。しかし、その労力は反比例して、格段に下がっているわけです。つまり、残虐・凄惨さをまったく感ぜず、何万人の人を瞬時に虐殺できる反比例がここにあります。

以上のような点は、戦争、いや憲法改正、自衛軍、国際貢献という名の参戦を考えるうえでの自分自身に置き換えた外的要因であるはずです。ところがこの点は、通常、議論される段階でまったく除外されているわけです。

この除外された議論は、まさにアメリカのハイスクールの子ども達と、どこが違うのか?という疑問を、わたしは内的要因から申し述べているわけです。

196匿名:2005/12/03(土) 21:36:02
>192〜195

何度も投稿してきたことですが、私は護憲の立場だと言ってきたことも、今の憲法で十分、自衛隊は合憲だということも、まったく理解されていないのでしょうか。
私のほうばかりが、犀角独歩さんの立場に理解と尊重を心がけて、議論の収拾をはかっていたようで、一方の犀角独歩さんの方は一向に、私の議論に理解すら得られなかったことがよくわかりました。
やっと長い議論が収拾に向かったかと思いましたが、このような投稿を読むと、つい意見を挟まずにはいられません。
申し訳ないですが、挟ませていただきます。

>そのようなところで単に国民の‘半分’が支持するに過ぎない与党の総理大臣として、国民‘総意’の代表と他国からとられる公的参拝を特定神社にすることは論理的に成立しません。

半分が支持しているというのは、大変大きいのではないでしょうか。
残りの半分は、積極的に支持しない人がいるとはいっても、半分のうちのおよそ半分は無関心かと思われます。

そもそも小泉首相は、総理大臣に就任する前までは、実は靖国神社には参拝していはいません。総裁選出馬するにあたり、日本遺族会が小泉さんを支持したわけです。本来は、小泉さんの支持団体ではなかった。しかし、総裁選で小泉さんを支持することになった。そしてその見返りとして、靖国神社に参拝することを公約とさせた。その公約を掲げて当選をしたわけですから、事実上、その公約は支持を得たということになります。今は、支持をくれた日本遺族会とのその約束を果たしているということなのでしょう。
他の靖国神社に参拝している国会議員も、パフォーマンスなどではなくて、日本遺族会から政治的支持と支援を得ているからとみればいいでしょう。

>結局のところ、このパフォーマンスは、アジア緊張を高める効果を有しています。また、国民にはアジア諸国から内政干渉されているという国民感情をあおる効果を有します。

アジア諸国といっても、中国・韓国・北朝鮮だけではないでしょうか。

>隣国緊張が高まっているなどといいますが、高めているのは、このようなパフォーマンスに大きな原因があります。

小泉首相の靖国参拝がアジアの緊張を高めているわけではないでしょう。これは、見誤っているのではないでしょうか。
中国が小泉靖国参拝に批判をするのには、政治的な別の意図があると見たほうが良いと思います。
中国にしても北朝鮮しても、外交手段は、大変に強かです。脅しや嫌がらせ恫喝などを使って何かを要求してくるのが常套手段といえるでしょう。それも外交手段のひとつです。
靖国批判もひとつの外交手段につかっていると見るべきではないかと思いますが。
要求の中味は、ODAの継続と新幹線誘致だと一説にはいわれています。
それと、中国の国内では貧富の格差が生じ、暴動が多発しているといいます。そうした国内情勢の不安定が大きくならないように、靖国批判で怒りを日本に向けて解消させようという狙いもあるといわれています。
要するに日本は、足もとを見られていて、。中国にしても韓国・北朝鮮にしても、反日感情を露にするその本質は、実はお金の要求とみるのが妥当ではないでしょうか。

>つまり、靖国参拝は英霊を御霊を崇めるために行われているのではなく、この御霊を利用し、アジア緊張を高めて、軍事ビジネスのスムーズ挙行を可能にするために行われている構造がここに見られるわけです。

これは違っていると思いますね。日本の側からアジアの緊張を高めようなどというものではないでしょう。
小泉首相の靖国参拝は日本遺族会という支持団体との約束であって、軍事ビジネスとは関係はありません。
むしろ、小泉首相の靖国参拝を利用しているのは、困難な内政問題を抱える中国や朝鮮半島の側といえるのではないでしょうか。

197匿名:2005/12/03(土) 21:37:35
>そして、その結果、アジアの緊張が高まっているから軍事強化をしなければならないというのは単なる為にする理論、出来レースであることはあまりにも明白です。

アジアの緊張は、小泉首相の靖国参拝などではなくて、巨大に産業化していく中国の石油確保にあるということ。ここを押えておかないと、見誤るのではないでしょうか。
中国は石油確保と、もうひとつ台湾の問題も抱えています。それと、今一番の緊張は何より北朝鮮の問題といえるでしょう。北朝鮮も国内的な行き詰まりから、色んなことを要求しようとしてきているわけです。
いずれも靖国神社で引き起こした緊張ではありません。また緊張を助長しているわけでもありません。
彼らの要求は、ズバリお金なのです。
ただし、日本の国民のナショナリズムを刺激していることまでは、計算に入っていないのです。だから危険でもある。そうした反日暴動に便乗して反日批判をする日本人もいるわけですが、皮肉なことに、かえって日本を危険な方向に向かわせてしまうといえるでしょう。

>つまり、靖国参拝は英霊を御霊を崇めるために行われているのではなく、この御霊を利用し、アジア緊張を高めて、軍事ビジネスのスムーズ挙行を可能にするために行われている構造がここに見られるわけです。

これも違っていると思います。アジアの緊張を高めようというものではないでしょう。
小泉首相の靖国参拝は日本遺族会という支持団体との約束であって、軍事ビジネスとは関係ありません。むしろ、小泉首相の靖国参拝を利用しているのは、困難な内政問題を抱える中国や朝鮮半島の側といえるでしょうね。

>195
>いま日本で起きている自衛隊論争、また改憲論争は、このような情報操作はないのでしょうか。

どうしてこういうことを書くのでしょう。
私がそのような情報操作をしていると言わんばかりのようにとれますが。

確かに改憲は、はっきり言ってアメリカの要望です。ライス長官がポスト小泉に名乗りをあげている麻生太郎に、「日本の憲法改正は進みそうか」ということを聞いてきたと言われているくらいですから。
アメリカは、日本の軍事力を必要としているのは事実でしょう。アメリカとしても、これ以上自国の兵士を犠牲にしたくないという思惑も見てとれます。なんせイラクで2000人もの米軍兵士を犠牲にしているのですから。
そのアメリカからの日本の軍事増大という圧力に抵抗するためには、憲法を改正させないことが一番なのです。これしかない。

しかし、そのためには、仏教徒としては苦しい選択かもしれないけれど、一時措置としてでも自衛隊を合憲と解釈する道を選んだほうが賢明なのです。多くの自衛官にしても、本音ではそれ(護憲)を望んでいるとも聞きます。彼らの本音は、日米関係は重視しつつも、海外の戦争には駆り出されたくはないのです。少なくとも、ここを履き違えてはいけません。

>靖国英霊といった形で、戦争は美化され血なまぐささ、死傷、人がもがき苦しみ死んでいった様は、灰燼に帰して人間が燃え、腐り異臭を放った町並みのリアリティは最早そこにはありません。

靖国神社には確かに大東亜戦争肯定論はあります。しかし、きちんと読んでみると、戦争を美化しているものとは思えません。あの戦争を避けられなかった時代の流れというものの一端がわかります。犠牲になった人々のことを忘れてはならない。もちろん、戦争の犠牲者は兵士だけではありません。空襲や原爆の被害を受けた一般国民の戦争被害者は、まさに本当の犠牲者でしょう。そういう方々の慰霊はもちろんのことです。しかし、だからといって兵士の慰霊をしてはならないということにはならないでしょう。
戦場に赴く兵士たちは、戦死の場合は、靖国神社に祀ることを国家が約束していたのです。
兵士同士も、特に特攻隊で命を散らせた人たちは、皆、靖国の桜の木の下で会おうと誓って散っていっているわけです。

198匿名:2005/12/03(土) 21:38:04
こんなことを書くと、また掲示板にふさわしくないと言われるかもしれませんが、しかし、当時の死んでいった人の気持ちは、今の私たちの時代感覚で推し量ることは、とてもできません。しかし、戦没者は亡くなったときの気持ちのままなのではないでしょうか。
時代が変わり、価値観も変わり、今の時代を生きる私たちには、想像もつかない思いなのでしょう。
だけど、ただはっきりとわかっていることは、戦死者は靖国に祀るという国家の約束です。だからその約束通り、兵士たちは靖国に祀られた。神として祀られた兵士たちを、誰が参拝しようと何も咎められることではないはず。それを誰が否定することができるというのでしょう。
靖国神社が戦死者を祀り、そこに参拝するという、その信教の自由もあります。たとえ靖国に空襲や原爆で亡くなった人が祀られていないからといって、それを干渉することはできないといえるでしょう。
仮に、戦争被害者全てを慰霊する戦没慰霊碑が設立されるにしても、何も私は異論はありません。
しかし、だからといって、靖国神社の参拝がなくなるかというと、それはまた別に行なわれるのではないでしょうか。

>この議論の当初で「徴兵制が不可欠」と記したことによって、やり玉に挙がりました。

正確には「不可欠」ではなくて「必須」と書いていたはずでしょう。「不可欠」では若干意味が違ってきます。
「必須」の根拠を求められて、明確に示せなかった。しかしこの点は、あなたは後に訂正したはずです。にもかかわらず、今またこの議論を蒸し返すのですか。

>徴兵制によらなくても軍事増強になっているのが、世界の流れだと言います。

なんでそういうことになるのか、まさにそれを考えるのがこのスレッドですね。
私は現時点での答えを書きました。
改めて一文で言えば、生存競争から発展した国家繁栄のための資源争奪による覇権争いが戦争の根本原因であろうと。
だから、その根本を戦争以外の方法で解決、克服していかなければならないわけです。それが戦争回避の方法なのです。
ただ何が何でも戦争をしたい、そんなことはアメリカといえども有り得ません。

>故にわたしは匿名さんに問うたわけです。では、あなたが自衛隊になりなさい。なって、専守防衛(安全保障)という名目で、攻めてきた敵を殺しなさい。国際貢献という名で交戦に参加し、人を殺しなさい、と。

まだこういうことを私に言いますか。
どうして、自衛隊を合憲だといえば、そういう議論になるのでしょうか。

あなたは仏教徒とはいえども出家はしていませんね。少なくともお坊さんにはなってはいません。信仰はあれども在家信徒なのです。
それと同じではありませんか。

>われわれが国際貢献のために自衛軍参戦に1票を投じるとき、このようなリアリティは完全に失われています。

今の議会制民主主義という間接民主主義の制度では、自衛軍参戦に、国民の直接一票は投じられません。
自衛軍の参戦に関して、国民投票を経ることを求めるなら、自衛隊法の改正に何かしらの政治運動を起こすことになるでしょうか。
いずれにしても、自衛隊を認めなければ話になりません。
また政治の決定において直接民主主義になっていけば、国民1人1人の、政治責任は今以上に重くなります。
スイスの例のように、国民投票で、徴兵制の責務を被ろうということになる場合だって有り得るわけです。
前々から、何度か質問していたことですが、スイスのような軍事も含めた政治システムについては、どのように考えられるのでしょうか。

>戦争、いや憲法改正、自衛軍、国際貢献という名の参戦を考えるうえでの自分自身に置き換えた外的要因であるはずです。ところがこの点は、通常、議論される段階でまったく除外されているわけです。

私は、このテーマで議論を投稿しても構わないと思っておりますけれど。ところが私が何かを書けば、そんなことを書くなら他の掲示板に行けという。なんだか矛盾してます。
要するに、あなたは自分と同じ立場の人としか議論したくないだけなのではないでしょうか。
しかし、せっかく落ち着いたと思えば、なんだか蒸し返す。どういうことなんでしょう。

199犀角独歩:2005/12/04(日) 09:06:36

匿名さん

192から195につき、外的要因からご批正有り難うございます。
誤解なさらないように、おことわりしておきますが、このよう内容は、別段、あなたの投稿について、記したものではありません。一般世間の議論から落ちている内的要因を記していくことに主眼があります。いわゆる政治評論ではありません。

なお、先の投稿の文中で単己さん、匿名さんのお名前を挙げたのは、言動と行動の不一致が生じることによって調整される内的要因を説明したミルグラムの引用文の例として挙げたまでです。仏教徒が全員、坊さんにならなくても、仏教集団(サンガ)は、元より四部衆=比丘(出家の男性)・比丘尼(出家の女性)・優婆塞優(在家の男性)・優婆夷(在家の女性)で形成されていますので、特に矛盾となりません。また、大衆部、大乗という分類される経典群に‘菩薩’思想が生じますが、この菩薩とは、在家仏教者であるというの一般の説です。

しかし、見事にわたしの論旨である内的要因の説明、ミルグラム、ローレンツ等の諸説に関してはスポイルされて、政治的な反論だけを記したのには驚きました。内的要因にはまったく興味を示さずということですか。

まあ、ロムの皆さんには、併せてあなたの政治的見解は参考にしていただくこととして、戦争のメカニズムの、内的要因をどう見るかという、社会心理学の分析と仏教の見地をさらに、わたしは記していこうと思います。

20001:2005/12/04(日) 17:56:19
本日はちょいマジで。ローレンツの攻撃について、ちょっとレクチャーしてください。
お願いします。

20101:2005/12/04(日) 20:56:21
日蓮宗では、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で毎年、法要を営んでいるんだよね。
だけど、小泉や、議員はこっちには行かない。遺族会へのパフォーマンスにもなんないしね。
マスコミだって、取り上げない。自分の利益になんなきゃ何もやんない。
それで、国家と国民を思って専守防衛! ああ。
思っているのは、御身可愛さだけだと思うね。

202匿名:2005/12/04(日) 21:50:23
>199
>ミルグラム、ローレンツ等の諸説に関してはスポイルされて

いえいえ、スポイルではなくて、納得です。
この領域は、私が余計な口を挟める内容ではありません。

203匿名:2005/12/04(日) 23:24:34
>201
>日蓮宗では、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で毎年、法要を営んでいるんだよね。
だけど、小泉や、議員はこっちには行かない。遺族会へのパフォーマンスにもなんないしね。

支持とは、票としての支持と資金的な支援を意味します。
つまり、たとえば日蓮宗が強力な政治献金をすれば、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にもきっと来られます。
当然、マスコミも注目します。(そんなことを煽っているわけではありませんよ)
でも、それが日蓮宗としての政教分離に反するという思いであるなら、致し方ありません。

だけど、政治とは、政治活動に熱心な人の意向に動かざるを得ないものなのではないでしょうか。
政治を放棄すれば、放棄した人の意向には絶対に成り得ません。

ちょっと、難解な文章になりましたけれど、そんな意味合いのこと、もう少し投稿してみますので、おつき合いください。

それから、ローレンツの攻撃、私も大変興味あります。是非、レクチャー頂きたいものと思います。

204匿名:2005/12/04(日) 23:26:01
>この内的要因の国家操作で重要な点は、国家が重大な決定を下すとき、国家は、この内的要因を、国民という群集心理の操作を必ず行ってきたという事実です。

難しい表現ですが、たぶんこのことに関連するだろうことを記しておきます。

憲法改正の布石は、何もここ1〜2年のことではありません。
決定的な布石が敷かれたのは、「政治改革」の名で改変された選挙制度の改変、つまり小選挙区制の導入から現実味を帯びたといえるでしょう。

犀角独歩さんのいう、国家の「操作」という意味では、この時点をいうのだろうと思います。

まさか、この「政治改革」という美名が、憲法改正の布石だったとは、この当時のほとんどの国民はわからなかったはずです。大手新聞マスコミすら、こぞって、この波に乗ったのです。まさに「バスに乗り遅れるな」の勢いでした。
本来、社会党、公明党、共産党などは、小選挙区制には反対だったはずです。二大政党制を前提とする小選挙区制では、少数野党政党は、生き残れないからです。
だからこそ、自民党改憲派としては、憲法改正の為の3分の2議席という絶対的多数勢力を獲得するためには、小選挙区制を導入しなければならなかった。まさに改憲派にとっては、小選挙区制導入こそが長年の悲願だったといえるのです。しかし、そこまでのことは国民は認識していなかったでしょう。ただし、与野党ベテランの国会議員は、そのことをわかっていたはずです。
小選挙区制導入の試みは、戦後、何度か政権与党の自民党から法案が国会に提案されています。しかし、野党の圧倒的な反対にあって、成立をみなかったのです。
ところが、平成の時代に入って、この法案が実現化します。比例並立制という特異な方式を導入することで、少数野党の生き残りがはかれる形式を示すことで、共産党以外の野党も納得します。なぜなら、今回の総選挙と同じで、「改革」に否定的な姿勢を示すと、国民の支持を得られないところにまで、国家の思惑は巧妙に「操作」されていたからです。
既に共産党以外の野党は、自分たちの生き残りをかけて、憲法改正のための絶対的布石である小選挙区制導入という禁断の扉を開ける側に依って立つしかなかった。
社会党からは、多くの議員が生き残りをかけて、民主党へ移ります。民主党ではもはや護憲は、党の政策として受け入れられなかった。若干、抵抗する議員もいるかもしれませんが、もはや無理でしょう。
そして小選挙区制導入の結果は、今日の姿が示すとおり、憲法改正国会発議を目前としました。

205匿名:2005/12/04(日) 23:26:24
細かいことを書けば、多くの政治家の名前を出すことになるので、ここでは控えますが、少なくとも、国民もマスコミの大半も、それが憲法改正の布石だということを見抜けなかったのです。言い換えれば、国家から巧妙に「操作」されたといってもいいでしょう。

余談ですが、小泉首相は、このとき、小選挙区制への改革を声をあらげて大反対しています。
靖国参拝もしていなかったことと併せていえば、意外と小泉さんは、タカ派ではないかもしれないということも想定できるのです。今回の自民党の改憲草案における、「自衛軍」の名称も、「国防軍」にすべきという意見もあったなか、小泉首相は「自衛軍」がいいのではと言ったことで、「自衛軍」に収まったと聞きます。

話を戻しますが、とにかく憲法改正の布石は、約10年前の「政治改革」の名のもとに改変された小選挙区制という選挙システムから、現実味を帯びてきたということです。
皮肉なことに、小選挙区制に大反対だった小泉さんが、この制度のもつ威力を最大限に発揮させてしまったのが、この夏の総選挙だったとえるでしょう。
政治の「操作」というのは、なかなか、そうそう見抜けるものではありません。
気がついたときには、抜き差しならないところに、持っていかれてしまっているものといえるでしょう。
だからこそ、常日頃からの政治への監視(関心)が必要だと思うというわけです。

自民党の意向では、あと5年を目途に、憲法改正の国会発議と国民投票を行いたいようです。自民党結党50周年を節目として、改正草案を出しています。今後は、この草案をもとに、超党派で議論していきたいとのこと。
そこに、護憲の立場を貫く社民党や共産党が、参加するのか否か。恐らく、ネグレクトされるのかもしれませんが、これは私の個人的意見ながら、ここは護憲を貫く社民党と共産党に入ってほしいという思いでもいます。
今の社民党と共産党の勢力数からいえば、国会発議への抵抗はほぼ困難といえるでしょう。改憲派の会合などとんでもないことかもしれませんが、せめて、行き過ぎた改憲にされないためにも、意見を挟んでほしいという思いがあります。
次の総選挙は4年以内ですから、次の総選挙が憲法改正が争点となる選挙になるといえるでしょう。しかし恐らくそれまでに改憲案はほぼ煮詰まってしまうことが想定されるわけです。

ここ5年、5年というと少し長いようにも思いますが、長い人生のほんの5年と思って、向こう5年は、少しばかり今までに増して、政治と憲法に関心を持つべきではないかという思いでおります。

206犀角独歩:2005/12/05(月) 01:23:05

本日は忙しい1日でした。ようやくと帰宅です。
なんだか、えらく投稿数もあり、全部にちゃんとお答えできません、ご挨拶程度で失礼します。

匿名さん、了解です。わたしも少し穿った見方をしましたね。
お詫びします。

ともかく、このような話題を扱うのに内的要因だけでも、外的要因だけでも偏りが生じます。幸いにも(不幸にも?)感心がお互い、内外と違っておりますので、それぞれに出し合い、互いに参考に試合ながら、議論を出し合うというコラボレーション(というかどうか?)でなにがしのアウフヘーベンできるものがあったら、これはみっけものかもしれません。

わたしが外的要因で納得のいかないことを記しましたら、また、ご批正をお願いします。

さて、01さん、『攻撃』について、少し記そうと思いますが、あなたがこの書を読んでいないとはどうも信じがたいので、また、何か試されているような気もしませんが、匿名さんもご要望を出してくださったので、記すことにします。しかし、本日は疲れました。明日、また、詳しく記しますが、要はこの書は動物学者であるローレンツが動物の‘攻撃’(特に種内攻撃=同種同士の攻撃行動)がその種の発展継続に役立っているのに、なぜ人間だけはそうならないないのかという点を書いているといってよいと思います。

この書の大半は昆虫から哺乳動物に至るまでの攻撃に係る行動を記したもので動生物がお好きな方には、この部分だけでもたいへんにおもしろい本です。全2巻で時間がない方は下巻のみを読んでも、当スレのテーマの参考になろうかと思います。まあ、掻い摘んで、明日でも改めて、投稿させていただきます。

匿名さんのご投稿については、一々応答しませんが、拝読させていただております。あと、1回と仰っていましたが、議論もまだ半ば、できましたら、継続してご投稿いただければ、内・外の両要因のすりあわせもできそうな気もします。お時間の許す限りでけっこうですから、ご投稿いただければ勉強になります。お願い申し上げておきます。

207匿名:2005/12/06(火) 02:27:22
戦争責任に関連ついて、少し投稿してみます。

今の平和な世の中を生きる感覚のままで、戦前のことを推し量っては、恐らく見誤ってしまう場合が多々あのではないかと思います。
実は、そのことを気付かされたのは、テレビ出演されていた小野田少尉の言葉なんですね。一時期ブラジルに移民されていた小野田さんが、再び日本の地で「自然塾」を開いて子どもを教育されておられる。その一部ながら「自然塾」の中味を拝見すると、考えさせられることがいっぱいありました。今の日本の社会の実情から鑑みても、日本人に欠けてしまっているものは、まさに「逞しさ」ではないだろうかとの思いがしまいました。だからといって、戦争への逞しさというものではありません。それは「精神力」といってもいいかもしれません。そうしたものを喪失してしまった弱さが、社会の病理をつくっているのではないだろうか…と思えてしまったくらいなのです。

戦前の日本の政治は、不完全ながらも議会制民主主義であり、政治家は今に比べて不平等な選挙制度ながら、一応は選挙という洗礼を受けて選出されていました。
ざっとですが、どの時点で、戦争の足音が近づいてきたのかを、年表で追ってみます。
対外的な大きな流れでいうと、

1902(明治-35) 日英同盟調印
1904(明治-37) 【日露戦争開始】
1910(明治-43) 日韓合弁条約調印
1914(大正-03) 【第一次世界対戦開始】
1921(大正-10) 日英同盟廃棄・四カ国条約成立
1932(昭和-07) 上海事変・「満州国建国」宣言(1932/3/1)・リットン調査団派遣        
1933(昭和-08) 国際連盟脱退         
1937(昭和-12) 南京事件・蘆溝橋事件、【日中戦争開始】
1941(昭和-16) 真珠湾攻撃、【太平洋戦争開始(日米開戦)】

そして国内的には、1937年6月から発足した近衛文麿内閣のもと、1938年5月に国家総動員法が発令されます。その後、平沼騏一郎内閣を経て、再び1940年6月に近衛内閣となり、大東亜共栄圏、日独伊三国軍事同盟、同年10月には大政翼賛会となっていきます。
翌1941年には、アメリカ・イギリス・中国・オランダ4カ国からの経済制裁(ABCD包囲網)によって、石油や鉄など生活に必要不可欠な物資が入らなくなり、資源に乏しい日本は戦争へと追い詰められていきます。
このあたりが戦争前夜の日本の政治状況というところで、着々と戦争への足音が聞こえてくるところです。

そもそも1925年4月から施行された「普通選挙法」により、男性だけとはいえ、身分に関係なく一般国民に選挙権が認められています。
ただし、この国民に選挙権与える「普通選挙法」と引き換えに、悪名高き「治安維持法」も施行されるわけです。ここが国家の「操作」として重要なところかもしれません。
治安維持は主に共産主義者の取り締まりだったわけですが、自由主義思想も取り締まり対象だったといいます。要は、大日本帝国主義思想以外の思想は、完全に取り締まり対象だったということでしょう。
しかし、「操作」されていたにせよ、選挙という手続きを経て「体制翼賛会」という状況をつくっていったのは、他でもない「国民」そのものだったということでもあるわけです。
                                      
今では考えられない、想像もできないことですが、日露戦争勝利を経験してしまった日本は、「戦争だ!戦争だ!」と高揚していたのは他でもない、国民そのものだったといえるでしょう。
今の感覚からは、戦争に高揚するなどはとても想像できないけれども、しかし、先の郵政解散の総選挙における国民の熱気を思い出すと、もしかしてあんな感じで戦争に突入していったのだろうかと、少し空恐ろしくもなります。

208匿名:2005/12/06(火) 02:27:53
このような国家国民の戦争モードが高まるなかで、戦争にたった1人で反対を表明していた国会議員もいました。

斉藤隆夫
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/saitoutakao.htm

サイト先から以下抜粋いたします。================================

「すべての戦争は力と力との衝突である。そうした戦争観を鏡とすれば、国際正義、道義外交、共存共栄、世界の平和等の美名を掲げて聖戦などと称することは、単なる虚偽にすぎない」と、いう約1時間半に及び斎藤の演説は、いうまでもなく軍部が主導する戦争政策全体への批判で、その要旨は、
①1938(昭和13)年1月の近衛声明が「支那事変」処理の最善をつくしたものであるか否か、
②いわゆる東亜新秩序建設の具体的内容とはいかなるものか、
③江兆銘援助と蒋介石政権打倒を同時に遂行できるのか、
④「事変」勃発以来すでに戦死者10万、国民にさらに犠牲を要求する十分な根拠を示せ」というものであった。

斎藤の演説は拍手喝さいで終わったが、軍部のみならず、議会内でも、時局同志会、政友会革新派、社会大衆党が斎藤を非難、憂慮した小山松寿衆院議長と斎藤が所属する民政党幹部は、斎藤に演説速記録中の以下の「不穏当」部分の削除を要求、斎藤も議長に一任、議長は職権で演説の後半部分すべてを速記録から削除した。

さらに軍部の攻撃を恐れた民政党幹部は、斎藤に離党・謹虞を勧告、斎藤は同日党籍を離脱するが、これでおさまらず、衆議院懲罰委員会は満場一致で除名を決定、6日の衆議院本会議は、除名賛成296票、反対7票、棄権144票で可決した。

================================================================

何か、今の時代のことを言われているようにも聞こえる内容に思えました。
時代の気運が止められないほど高揚している中で、1人反対を訴えるというのは、大変なエネルギーでしょう。実際、斉藤は、政治生命を絶たれる寸前まで追い詰められています。しかし、そんな斉藤隆夫を地元の支援者は見捨てず、次の選挙ではトップ当選を果たすのです。そして戦後の吉田内閣では、国務相を任命されます。
斉藤隆夫の気骨ある行動もすごいけれど、そんな彼を決して見捨てず支援を続けた地元の支持者もすごいと思いました。

国際法では、戦争は戦闘員同士の戦いでなければなりません。非戦闘員、いわゆる民間人を狙うことは禁じられているにも関わらず、アメリカは日本の一般市民を空襲や原爆で攻撃してきました。
しかし、私は、戦争とは、それが回避できなければ、それはもう「超法規」の次元になってしまうものだと思ってもいます。
だからこそ、なんとか回避する知恵を出し合っていかなければならないものと思うのです。

戦争に対する、国家賠償ということが疑問に出ました。
しかし、どこの国でも戦争で国家は、戦争被害を受けた国民に対しての賠償責任を負わないのが通例です。また、敗戦国の最高責任者は勝戦国の軍事裁判にかけられ罰せられます。これは、いわば、国民を代表して罰せられるということになるでしょう。
厳しい見方を書きますが、最大の戦争被害者である国民ですが、一方で、戦争責任者でもあるという見方もあるわけです。
たとえそれが、国家から操作されたというものであったとしてもです。
操作されてしまったことも含めて、責任の一端を負うということにもなるわけです。
だからこそ、よく政治を監視しておかなければならないと思うのです。決して、放棄してしまつてはならない。
おかしな方向に国民が操作されないよう、政治というものの本質をしっかり見極め、責任ある考えをしっかりと持つということが、戦争回避の第一歩といえるでしょう。

209匿名:2005/12/06(火) 02:28:18
先週のNHKの「その時歴史は動いた」では、シリーズ真珠湾への道 <前編>〜山本五十六 苦渋の作戦立案〜が放送されました。
ご覧になられた方も多く、多くの方はご存知のことかもしれませんが、「戦争を考える」意味で、確認の意味として投稿させていただきます。

真珠湾攻撃を作戦・指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六は、その直前まで、アメリカとの戦争には反対の立場を貫いていました。
日本海海戦に参戦した山本五十六は、その後大艦巨砲主義を掲げる海軍で、エリートとして本流を駆け上がります。
しかしその後、山本はアメリカの現地視察を命ぜられ、赴いたアメリカの地で、その圧倒的な国力を目のあたりにするのです。
アメリカの繁栄とその国力は、一体何がもたらしているものなのか。山本はアメリカという国の本質を探求します。そして明確な答えが出るのです。アメリカの国力の源は、何よりアメリカ国土が有する鉄や石油など豊富に有する資源であり、それが国家国民の繁栄を根底から支えているのだ、という答えにだとりつきます。
そのようなアメリカと、資源の乏しい日本がまともに戦っても、絶対に勝ち目はない。
山本五十六は、対米戦争は日本を壊滅させる暴挙と確信し、軍事強行派に命を狙われながらも対米戦回避を訴えつづけます。

昭和9(1934)年第2次ロンドン軍縮会議の予備交渉に、山本五十六は全権代表として赴きます。当時、定められていたアメリカ・イギリス・日本の主力艦の保有比率は、大正11(1922)年に締結されたワシントン海軍軍縮会議で決められた比率により、5対5対3で、日本にとってはいわゆる軍事的不平等なものでした。山本五十六は、政府からこの不平等を解消してくるよう命ぜられるのですが、しかし山本の心は違っていました。
「条約は、日本が3に縛られているのではない、米英を5に縛っている。条約が消え、無制限の建艦競争が始まれば国力の差から、5対3どころか10対1に引き離される。」
しかしそんな山本の思惑とは別に日本政府は、この予備交渉の内容を不服とし、1934(昭和9)年12月ワシントン条約を破棄、1936年1月ロンドン軍縮会議も脱退してしまうのです。

その後、日独伊三国同盟に際しても、山本五十六は反対の立場を示します。
「日米正面衝突を回避するため、万般(ばんぱん)の策をめぐらすべきで、絶対に日独同盟を締結すべきではない」
「三国同盟が成立すれば、現状でも兵力は不足している上に、米英からの資材はこなくなる。一体これをどうするつもりなのか。」
「アメリカと戦争すると言うことは、全世界を相手にすることだ。東京辺りは三度くらい丸焼けにされ、惨めな姿になってしまう。」
などと言っています。

実際、ABCD包囲網によって、石油や鉄など生活に必要不可欠な物資が日本に入らなくなります。ただでさえ、資源がない上に、経済制裁でさらに物資が入らない中、日本は国をあげての開戦を決意するのです。いや、経済封鎖されたが故に、戦うしかなかった一面もあるでしょう。まさに窮鼠ネコを食むかもしれません。
とにかく、馬鹿な戦争だと、今の時代だからこそ言えますが、当時の人々には、それを止める術はなかった。馬鹿な戦争だとわかっている人ですら、止められなかったのですから。

「欲しがりません勝つまでは」
そんな言葉を合言葉に、国民は衣・食・住の生活すべてを犠牲にして、戦争モードに突入します。
しかし、アメリカは違っていたんですね。豊な暮らしも繁栄も贅沢もそのままに、映画はもちろんのこと、国民の娯楽は全て何も犠牲にすることなく、日本と戦います。確か、映画「風と共に去りぬ」なども戦時中に制作されたのではなかったでしょうか。
資源も国力もあるアメリが戦争をするのに、アメリカ国民の生活の犠牲などは何も必要とはしません。ただ必要なのは、その戦争を支持するという国民の強い「意思」です。
しかしまさに皮肉なことに、アメリカとの対戦をギリギリまで避けるべく苦心をした山本五十六が、最後には、自らが作戦・司令した真珠湾攻撃によって、アメリカ国民に絶大な「戦争支持」という強い「意思」を与えてしまう結果となってしまうわけです。
このあたりの後半は、今週の「その時歴史は動いた」で放送されます。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/

210匿名:2005/12/06(火) 02:29:11
その山本五十六が、母校である長岡高等学校での言葉は、印象的ですので紹介しておきます。

「私は諸君に対し、銃をとって第一線に立てとは決して申しません。あなた方に希望するところは、学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し、将来発展の基礎を造って頂きたいと熱望する次第であります。どこまでも気を広く持ち、高遠なる所に目標をおいて、日本のため進んでください。」*山本五十六の母校・長岡高等学校(卒業当時は長岡中学校)での昭和14年の講演より

平和を愛する非暴力主義の仏教徒にとって、軍人の言葉というのは、なかなか耳を傾けられないものかもしれません。
戦前の日本を戦争へ導いたのは、確かに軍部なのでしょう。政府よりも、軍部に政治的実権を握らせてしまった。そういう流れだったのではないでしょうか。それを後押しする、国民の風潮もあった。マスコミの論調もしかりだったでしょう。誰も止められなかったのです。

しかし、流されることなく、世の中の動きや情勢がしっかりと見えていた人もいた。
私も、できれば、そうありたいと思うのです。何をするわけでもありません。たった一票だけれども、その一票の責任をしっかりと持ちたいと思うのです。

もうひとつ、紹介しておきたいこと。
私がこの間、投稿してきた、いわゆる自衛隊というもの。
どこのどいつともわからない、「匿名」の投稿内容など、信用に値しないと、読み捨てられたものかもしれませんが、責任ある立場の人の語る「自衛隊」を紹介しておきます。

イラク特措法案を廃案にすることの要望書を全国会議員に送付したことで話題となった、防衛庁出身で現在は、新潟県加茂市長小池清彦氏です。
ちょうど、共産党の議員が、小池氏を訪問された内容をみつけました。これはとてもわかりやすく、私がここに投稿してきた意見にも大変近いものと思いましたので、ご紹介しておきます。

http://www.kasai-akira.jp/taiwa/data1/040409-140355.html

イラク特措法案を廃案にすることの要望書
http://www.city.kamo.niigata.jp/section/oshiraseban/shisei/jieitainoirakuhakenwookonawanaikotowomotomeru151022.pdf

211匿名:2005/12/06(火) 02:33:47
犀角独歩さん

>206
>また、何か試されているような気もしませんが、匿名さんもご要望を出してくださったので、記すことにします。

試すなど、この点は、まったくご心配なく。私の、純粋な向学心です。
それこそ心理学のレベルはまったくの素人ですから、どうぞお手柔らかに、投稿を楽しみにしております。

概ね、私の投稿したい内容は終えました。
一時はどうなることかと思いましたが、今は、意を決して投稿して良かったと思っています。
他の貴重な教義議論をしばらく少し止めてしまい、申し訳なく思っております。
少しずつ再開の兆しが出ていること、安堵しております。

>議論もまだ半ば、できましたら、継続してご投稿いただければ、内・外の両要因のすりあわせもできそうな気もします。お時間の許す限りでけっこうですから、ご投稿いただければ勉強になります。

ありがとうございます。
もちろん、政治と憲法に関して、口を挟みたい投稿をみましたら(笑)、引き続きこれからも「匿名」の名で投稿させていただきます。

ひとまず、犀角独歩さん、連日おつきあいくださいまして、本当にありがとうございました。
今後の更なるご活躍、心より、お祈りしております。

212犀角独歩:2005/12/06(火) 10:32:38

外的要因に関してはあまり触れないつもりですが、以下の点は記しておかなければなりません。

> 選挙…国民
> 最大の戦争被害者である国民…戦争責任者でもある

これはつまり、選挙によって選択をしたのだから、戦争は責任は国民にあるという議論の運びなのでしょうか。

わたしはこの考えは再考されるべきだ思います。
なぜならば国民には、いま生まれたばかりの赤ん坊から、心的障害を持つ人まで含まれているからです。そのなかで、投票権を持っている人は常に限られています。それが国民総意であるとしてしまう丼勘定が、投票というシステムにはあるからです。まして、先の大戦は非戦闘員、婦女子まで無差別に殺戮したものでした。その極が原爆投下でした。先にも紹介しましたが、その原爆の開発・投下・写真撮影までしたアグニューと、あなたは意識してかしないでか同じことは言っています。この男は60年後の原爆の被災地広島に立ってまで「罪もない一般市民はいない」と言いました。この男の一流の論理から言えば、原爆投下によって、宗教的な意味合いとしては捌きを与えた、政治的には国民に責任をとらせたのでしょう。異教の黄色人種への裁き、そして、政治的には原爆投下に値する責任が非戦闘員である乳飲み子から寝たきりの老人に至る一切が背負った‘責任’であるという政治的感覚から、己とアメリカのあの人類史最高の極悪を肯定しています。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1131915713/75

あと、議論は及んでいませんが、日本に侵略された側の人々は、侵略者の神王と国家を崇めさせられたのです。また、政治的には日本の奴隷とされたのです。この人たちの責任は、彼らの投票とは関係ありません。

以上の点で、あなたの投票=国民の責任という議論は不完全であるとわたしは考えます。

投票と議会制‘民主’?主義は、言葉としては、侮蔑的で好ましくありませんが、衆愚政治となったとき、致命的な破滅をもたらしていきます。あなたの国民に対する警告は、この点にあるのでしょうから、この点では賛同します。しかし、では、そのような政治的な無関心がどうして起こるのかという点はこの論法では、国民の政治意識の高揚を訴えるほかないという欠陥を孕んでいます。

しかしながら、この欠陥を補うだけの力は、もちろん、わたしにもありません。宗教にもないのでしょう。故に‘滑り出せば’瞬く間に国家は戦争になだれ込んでいきます。衆愚化した国民による投票と決断は、残念ながら、国民にとって利益をもたらすとは限らないという側面があります。しかし、その責任は、仰るとおり、国民に返ってきます。

たぶん、あなたとわたしの考えで大きく違うのは国家という点でしょう。
わたしは国家とは、国民の総体であるという理想的モデルとは別に、特定権力者(利権者・既得権者、それに傅く政治家、軍部)という極一部の連中が国家そのものとなり、万民と対峙している構造もあると常々考えています。しかし、あなたの考えは投票によって国民は国家に等しいという民主国家モデルそのままを、論の基礎に据えているように見え、その根本的な部分で、わたしとは違っていると感じます。また、そのような投票=国家という単純式からすべては国民の責任とするような蛮勇は、俄にわたしには生じません。先にも引用しましたが、ハッサン師が、統一協会のメンバーを指した以下の構造は、衆愚政治という現場では常に繰り返されていたことでしょう。このような選択を、仮に投票と言うことに置き換えたとき、わたしはここに一人ひとりの責任を負わせるのではなく、煽動側の責任こそ、追究しなければならないと考えるのが内的要因をいう理由です。

「マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう」(『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)P109)

あと、「何か試されているような気」と記したのは、匿名さんについてではありません。01さんに対してです。『攻撃』、その他については追って投稿することといたします。

御礼をいただきましたので、この点はわたしのほうも御礼申し上げておきます。

21301:2005/12/06(火) 20:55:32
>203
なにいってんだか、ぜんぜん、わかんないな。議員秘書かなんかと会話してるみたい。
政治家が坊さんじゃなくて良かったよね。自分を支持しなきゃ、手も合わせないってわけ?
でも、総理大臣て、そんな自分と自党のためだけの存在かい?
>政治を放棄すれば、放棄した人の意向には絶対に成り得ません
じゃあ、投票権の無い子ども、心神耗弱者には政治はなんの役にもたたなわけか。
ひでえ商売だな。福祉もなんもあったもんじゃないのはこんな理由か。
金と票で魂を売るのが政治家だといっているわけだね。

21401:2005/12/06(火) 21:00:13
>『攻撃』・読んでいない・試されている
それはひみつです。

215匿名:2005/12/07(水) 00:36:18
>212
なかなか、引くに引けませんね。

>なぜならば国民には、いま生まれたばかりの赤ん坊から、心的障害を持つ人まで含まれているからです。そのなかで、投票権を持っている人は常に限られています。それが国民総意であるとしてしまう丼勘定が、投票というシステムにはあるからです。

権利には義務も伴います。この原則を、どうお考えになりますか。

現行憲法では、三大義務が定められています。教育、納税、就労の義務です。
まず生まれたばかりの子どもに関しては、三大義務の原則から外れますので、一応投票の権利が認められない理論は成り立つはずです。
しかし、だからといって、子どもに権利がないということでは決してありません。あくまで、政治における投票する権利がまだ未熟であるということです。投票は社会人としての責任を負う行動ですから、社会的に未成熟な子どもにはその責任を負わせないという意味を含むわけです。これは、理解されることと思います。

次に、心的障害を持つ人のことになりますが、一票の権利はあるはずです。しかし、投票の意思が示せないわけですね。もしかしたら、意思そのものが、ないかもしれない。意思が示せない、もしくは意思がない場合は、総意に含められないのは、仕方ありません。
しかし、だからといって、心的障害を持つ人の人権が守られないかというと、全くそうではありません。
それこそ、憲法25で保障されていることです。

第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

とりあえず、その保護的立場の者がその権利を代弁することを含めた投票で意思を示すしかないのではないでしょうか。
それでは不十分でしょうか。

>投票と議会制‘民主’?主義は、言葉としては、侮蔑的で好ましくありませんが、衆愚政治となったとき、致命的な破滅をもたらしていきます。

侮蔑的?なぜ、そう思うのでしょう。
議会制民主主義をどうして侮蔑に感じるのか、この点は、私にはとても理解できません。
他にどのような方法が望まれるのか。侮蔑的とまで言うからには、侮蔑的に感じないあなたなりの方法があるはずでしょう。それを示されてはいかがでしょうか。

>しかし、では、そのような政治的な無関心がどうして起こるのかという点はこの論法では、国民の政治意識の高揚を訴えるほかないという欠陥を孕んでいます。

日本における政治的無関心は、そもそも、それこそ意図的に操作されたものと思います。操作せざるを得なかったとでもいえばいいでしょうか。60年代から70年代にかけて起きた学生運動を鎮圧させるために制定された「大学運営に関する臨時措置法」により、全共闘運動が沈静化され、次第に学生は党派離れをし、やがて政治離れが進むわけです。
ある意味、学生の政治離れは、共産主義対策をキッカケとした国家の思惑といえるでしょう。

ご存知のことかもしれませんが、そもそも、「民」という字は象形文字で、これは、人の目に槍を突いている姿を表しているといいます。
つまり「民」とは、権力者に目つぶしされている状態の人々のことを示している文字なのです。
日光東照宮にもありますね、「見ざる、聞かざる、言わざる」三猿が。それですよ。
権力者にとっては、国民が、政治的関心などないほうが好都合なのです。選挙の投票率にしても低いほうが、結果は都合がいい。

政治的無関心というのが、どうして起こるのか。
それは、そもそも政治とは、国民が無関心であるように「操作」されているところから始まっているものだから、といえるのではないでしょうか。それが権力者の本質的な思惑であり、権力者にとって民とは、そういう存在に他ならないものなのです。
それを打ち破ったのが、近代政治における民主主義というシステムなのでしょう。

しかるべき政治家を信じて、全てお任せしたいというのが、本来の日本人気質かもしれません。
長く続いた江戸幕府の体制が、まさにそれで安定していたのですから。封建体制ではあったけれでも、決して悪政ではなかった。その観念や風習は、どことなく今の日本人の気質に残ってしまっているものなのでしょう。
しかし、敗戦によって、国家体制が民主化されてしまった以上、どうしたって後戻りは出来ないわけです。
それに代わる方法がみつかれば、話は別ですけれど。今のところ、みつからないでしょう。
だったら、民主主義の法則に習い、衆愚政治に陥らないよう、また政治から目潰しされないよう、個々に政治意識を高めていくしかないのではないでしょうか。

216匿名:2005/12/07(水) 00:36:44
>あと、議論は及んでいませんが、日本に侵略された側の人々は、侵略者の神王と国家を崇めさせられたのです。
また、政治的には日本の奴隷とされたのです。この人たちの責任は、彼らの投票とは関係ありません。
以上の点で、あなたの投票=国民の責任という議論は不完全であるとわたしは考えます。

どのような経緯で、日韓が併合されたのか、これはご存知ですか?

217匿名:2005/12/07(水) 00:40:21
>213
>政治家が坊さんじゃなくて良かったよね。自分を支持しなきゃ、手も合わせないってわけ?

衆議院議員のことを代議士というでしょ。つまり国民の代表であり、国民の代弁者なんですよ。
代弁者なんですから、国民の支持なくして、どうして国民の代表になれますか。
そこが、お坊さんとは全く違うわけで、一緒くたに考えられないところです。

>でも、総理大臣て、そんな自分と自党のためだけの存在かい?

自分のため?自分のためだったら、小泉さんは、靖国に参拝していないんじゃないのでしょうか。
元々はしていなかったんですから。そこは、己を捨てて、公約を守っているんじゃないでしょうか。
ただ、あなたの個人の意向には反している。そういうことですね。

218犀角独歩:2005/12/07(水) 00:56:27

>> …国民総意
> 権利には義務も伴います

これは話が違うでしょう。総意と義務とは共に論じても始まりません。
また、人権とも違います。
わたしが言っているのは、総意と言っても投票と多数決による数で勝ったことを総意としているのに過ぎない大雑把さがあるということです。
何で、こんな簡単なことが伝わらないのか不思議です。

> 侮蔑的?なぜ、そう思うのでしょう。
> 議会制民主主義をどうして侮蔑に感じる

これまた、わたしはこんなことは言っていませんが。
あなたとの議論ではしょっちゅう感じるのですが、文章をちゃんと読んでいらっしゃいますか。わたしが侮蔑的で好ましくないと言ったのは「衆愚」という成句についてです。

> …政治的な無関心

アメリカの占領政策であるという分析もあります。

> 国民が無関心…近代政治における民主主義

打ち破ったんですか。
では、なぜ、民主主義の日本で皆が政治に無関心なのですか。

> 個々に政治意識を高めていくしかないのではないでしょうか。

どうやってですか。

> 日韓が併合されたのか、これはご存知ですか?

どのように併合されたのですか。
また、中国はどうでしょうか。

219匿名:2005/12/07(水) 01:18:42
>218
>わたしが言っているのは、総意と言っても投票と多数決による数で勝ったことを総意としているのに過ぎない大雑把さがあるということです。
何で、こんな簡単なことが伝わらないのか不思議です。

では、国民の総意というものを、投票以外の方法で、どうやって計りますか。
その方法は、別にありますか。

>侮蔑的で好ましくないと言ったのは「衆愚」という成句についてです。

つまり、あなたの考えでは、民主政治は衆愚政治を免れないものと考えるということでしょうか。
要するに、短絡的かもしれませんが、あなたの中では、民主政治=衆愚政治という図式になっているということでしょうか。

>アメリカの占領政策であるという分析もあります。

では、その根拠は?

>では、なぜ、民主主義の日本で皆が政治に無関心なのですか。

先に書いたように、政治の思惑で教育の場から、具体的には「大学運営に関する臨時措置法」により、学生に政治的関心を持たせないように仕向けたということです。
本当は国民は政治に関心はあったのです。戦前からして、もともと特権階級にしかなかった選挙権を得た一般国民はこぞって投票に行きました。今だってその名残から、年配者の方は、選挙権の有り難さを心得てか、若年層より投票率は高いはずです。

>> 個々に政治意識を高めていくしかないのではないでしょうか。
>どうやってですか

そんなことまで、私が書くのですか。
当たり前のことですが、新聞、テレビ、インターネットなどからの、報道による基本的な情報に、日々、関心を向けることから始めることでしょう。あとはできるならば、自分の生活に関連した業界における政治的活動に、何らかの形で関わるということでしょうね。

>>日韓が併合されたのか、これはご存知ですか?
>どのように併合されたのですか。
また、中国はどうでしょうか。

先にあなたの認識を聞いているのです。
もし私と違っているならば、投稿いたします。

220犀角独歩:2005/12/07(水) 01:42:51

それに反論されると、何でそこまで向きになって怒りまくらなければいけないのでしょうか。

> 国民の総意というものを、投票以外の方法で、どうやって計りますか。
> その方法は、別にありますか。

論点がすり替わっているでしょう。方法がなければ計れないと言うことでしょう。無謬的にとらえるのではなく、本来持っている欠陥は考慮しながら運用する必要を言っていることがわかりませんか。

> あなたの中では、民主政治=衆愚政治という図式になっているということでしょうか。

あなたは、わたしの文章をちゃんと読んでいますか。
悪く悪く、低く低く解釈し、自分が批判されたという怒りをぶちまけているのに過ぎないのではないでしょうか。

このような感情的な状態では、何を書いても誤読され、改竄され、悪し様にされるだけでしょう。相手が批判しなければ満足で、異論を唱えられると烈火のように揚げ足取りのオンパレード、怒るなと言ったのはあなたのほうではないのですか。
まったく、不愉快の極みです。あなたとの議論はお断りします。

222犀角独歩:2005/12/07(水) 03:18:37

> 214 01さん

ローレンツ『攻撃 ― 悪の自然誌』(みすず書房)はいまから30年前に発刊された名著でした。訳者の言を借りれば

「ローレンツは同種個体――種(アルトゲノツセ)を同じくする仲間(Artgenosse)――どうしの闘い、すなわち攻撃性(アグレツシヨン/Aggession)について、彼が歩んだと同じ道を辿りながら、読者に語る」(P384)

というのが、この書の内容でしょう。
動物学者である著者はしかし、人間の戦争を動物に見られるそれから分析したところにこの書のユニークさと価値があるとわたしは思います。

動物の同種どうしの攻撃性は、その種の発展と維持に役立っている。ところが人間の場合はそうはならない点を分析するこの書の切れ味は鋭いと思います。
動物には本来、同種を殺せる能力のある種とない種があると言います。前者はたとえばオオカミは一咬みで同種のオオカミを殺すことができる。このような種の場合、攻撃性はセーブされ、どのような闘争になっても、実際に相手を殺すに至らない抑制が種全体の特徴となっている。実際のところ、喧嘩するたびにかみ殺し合っていれば滅んでしまうわけだから、このような抑制が発達したと言うことでしょう。一方、ウサギなどは同種の仲間を殺す能力は持っていない。このような点では、上述のような発達は起こらないとまず観察結果を報告します。では、人間という種は、どちらかというと、後者に属するといいます。つまり、人間という種は、オオカミのようには、同種攻撃の抑制が発達しなかった種であるといいます。ところが人間は武器をもつにいたったわけです。いわば、オオカミの牙をもつことになった。オオカミであれば、その牙で同種をかみ殺さない発達を遂げているが人間はその発達がない。その発達のないところで、武器を手にした人類は無制限の同種殺戮を開始することになった。
これが第一段階である。

それでも同種殺戮は、手斧といった武器であった限りは、殺す相手の苦痛の死は、同種死に過敏反応を示す生物共通の心的特徴から抑制にはなっていた。ところが近代の兵器の発達は、その抑制すら取り除いてしまったと指摘します。

「近代の遠隔操作兵器…使う際、わたしたちは抑制を解発し、同情をかき立てるいっさいの刺激状態から全く切り離されてしまっている。私たちの情緒的深層は、この人差指の発射の合図が他人のはらわたを引き裂くのだということに、全く気付きはしないのだ。もし野獣を歯や指の爪で殺さなければならないとしたら、人はウサギ狩りにだって行かなくなるだろう。
 わたしたちの武器が届く距離が増せば増すほど、私たちの行為がもたらすいっさいの結果はますます感情に届かなくなる。こうして、行儀の悪い子に一発見まうことすら、おいそれとできない人にも、ロケット兵器とか爆弾投下装置のボタンを押し、それによって何百人というかわいらしい子供たちを焼き殺すことは、やすやすとできる。善良な、ちゃんとして礼儀正しい一過の父親たちが、じゅうたん爆撃をやってのけた。驚くべき、そして今日ではもう本当にあったとは思えないような事実ではないか」(P332)

頁は前後しますが、ローレンツは以下のように人類を観察します。

「かりにひとりの行動学者が、ある別の惑星、たとえば火星から、人間の社会行動を望遠鏡を使って客観的に調べてみたとしよう。その望遠鏡は、人間をひとりひとりを見分けて個人の行動を追うには倍率が低すぎるけれども、民族の移動とか戦闘のような大きな出来事はちゃんと観察できる。さて、その結果、かれは人間の行動が理性とか、まして、責任感に従っているどころか、人間の集団はネズミのそれとたいへんよく似た構造をもっているのだと、十分な根拠をもって結論するだろう。かれらはネズミ同様、閉じた民族の間では社交的に平和に暮らそうとするが、自分の党派ではない仲間に対しては文字通り悪魔になるのだ。さらに、この火星の観察者が、人口の爆発的増加とか、武器の脅威の増大とか、人類が二、三の政治陣営に分かれていることなども知ったらどうだろう。かれは人類の未来を、ほとんど食料もつきた船の上でいがみ合っているネズミの群の行く末とさして換わらないと判断するだろう。それでもネズミのほうはまだ楽観できる。というのは、ネズミの場合には大量殺戮のあとでも、ともかく種を保つにたるだけの数だけは残っているだろうからだ。水素爆弾を使ったあとの人類については、それは極めて疑わしい」(P328)

以上のようなローレンツの分析は、人類の特性から戦争を考えていくものでした。わたしは以上の記述を読みながら、日本という国家も、ネズミの集団賭さして変わらない暴走をはじめようとしているのではないのかという危惧を抱いたわけです。この本については、また取り上げようと思います。

223犀角独歩:2005/12/07(水) 03:35:15

ただ、わたしはローレンツがいうように無制限に同種殺戮ができないような社会的な構造が、いちおうは法と道徳の名の下に人々に浸透したのが文明社会であろうとも思います。

しかし、これでは戦争ができないわけです。この場合、国民を旧石器時代の石斧をはじめてもった原人のように戻す方法を採らなければならないことになります。この点について、S・ミルグラムは『服従の心理』(河出書房新社)のなかで以下のように、記述しています。

「軍事訓練の全目的は、(略)自我のいっさいの痕跡を除去し、広範囲に及ぶ慣れを通じて、軍の権威を確実に内面化させることである…数週間は基礎訓練に使われる。その表向きの目的は新兵に軍事技術をたたき込むことであるが、その根本的目的は、個人であること、自己であることのいっさいの名残をたたき出すことである」

「彼らは、権威によって変身させられ、自分の行動に対するいっさいの個人的責任感を放棄していた人たちであった」
「権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、ヒエラルキーに組込まれる前にいた状態とは別の‘状態’におかれたのだと言うことができよう。わたしはこの状態を‘代理状態’(agentic state)と呼ぶことにする。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、‘自主性’、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう」
「正常な人間は、成長の過程で、攻撃衝動の表現をチェックすることを学習する。しかし、文化は、権威から発する行動に対する内的抑制を教えこむことにほぼ全面的に失敗している。そのため、権威に発する行動は、人類の生存にとってはるかに大きな危険となっている」

以上のような分析は、しかし、軍隊という特殊環境のなかのみではなく、国家が劇的な方向転換をするような場面では、常に悪用されるのでしょう。

このような内的要因の操作について、もう少し記していこうと思います。

224犀角独歩:2005/12/07(水) 03:55:02

日韓併合について、わたしは多少の朝鮮半島の友人を有しますので、日本で語られる歴史と同調しようとは思いません。

使い捨てカメラを「バカ○○○カメラ」とつい最近まで言っていた日本人が、朝鮮半島を、どう見ていたのか。わたしが子供のころ「○○○ころ」という民族軽蔑を平然と口にする日本人は多くいました。また、朝鮮人居住区を「朝鮮部落」などと言って蔑称することは近年まで続いていました。

わたしはこのような差別を通じて、政治関連族が語る日韓と、朝鮮半島の人々が語るそれとの大きな隔たりを、朝鮮半島の友人と共に語り合ってきた自分史があります。故に、このデリケートな問題について、日本人であるわたしは、敢えて軽々に触れないことといたします。

225パンナコッタ:2005/12/07(水) 11:45:47
横レス失礼します。これまた蛇足なのですが、
 http://www.pit-japan.com/ws30/sabetsu.html

自分にも半島系の二世・三世、帰化された知人がおりますので、事実的な根拠はともかく
相手を不愉快にさせるこのような言い回しは、しないようにしています。 

当て字の”馬鹿”はサンスクリットの『愚か』というのが興味深いですね。

227匿名:2005/12/08(木) 02:05:12
日韓併合について

1905(明治38)年に交わされた、「桂・タフト協定」というのがあります。
これは、日露戦争の講和直前に桂太郎首相と、フィリピン訪問途中に来日したアメリカ特使ウィリアム・タフト陸軍長官との間に交された秘密覚書のことで、その内容こそが、日韓併合です。
この当時、日米英の関係はよく、アメリカがフィリピンを占領し支配することを認める交換条件として、日本が朝鮮を支配することをアメリカが認めるというものを、相互に承認するという内容の密約です。
要するにアメリカは朝鮮半島を支配したかったとはいえ、まずフィリピン占領が先決であり、とても朝鮮半島までは手が回らなかった。
そこで、関係の良好な日本に支配させておこうとした密約が、桂・タフト協定です。

その後朝鮮では、李完用が駐米朝鮮公使館に書記官として派遣され、この密約を知ります。
もともと、親露派だった李完用ですが、密約の中味を知って親日派に転向し、1910年には、朝鮮王国の最後の総理大臣として日韓併合を推進して条約に調印します。このため朝鮮で李完用は、民族を売った民族反逆者とされているといいます。

朝鮮は、日韓併合の前にアメリカと国交を交わしていますが、実は、李完用の前に朝鮮皇帝の政治顧問としての大使を務めていた人がいたのです。ところが、たまたまこの時期に母親が亡くなり、朝鮮の儒教のしきたりに習って、三年の喪に服さなければならず、交渉の場に赴けなかったといいます。この時、その他の官職もみな一時辞職しています。
国の存亡に関わる一大事のときでも、儒教のしきたりを重んじなければならないところは、とても想像の域を越えているところなのですが、しかし、それが朝鮮半島の誇りというものなのかもしれません。

長い歴史の中、朝鮮半島が独立国となったのは、私の認識では戦後のことだと思われます。それまでは、ほとんど中国の属国であったといえるでしょう。「朝鮮」という国名そのものが、中国の皇帝から賜ったものだと聞くくらいですから。ちなみに、「朝鮮」の意味とは「朝ぼらけの清々しい国」とのこと。中国の皇帝からもらった国名を、とても大事に思っていると聞きます。

そもそも日本とは大変縁の深い間です。しかし国の事情はまるで違います。
恐らく、最も近い国でありながら、半島と島国という地形的違が、それぞれの国の歴史事情を大きく左右したものだろうと考えられます。

中国についていは、書き出すととても長くなるので、またの機会をみて別投稿したいと思いますが、とにかく長年、中国の属国だった朝鮮半島ですが、親のような存在であった中国が欧米列強の侵略にあい不安定になってしまっていた。その状況の中での日韓併合を、認め決定させたのは、他でもない強国アメリカだったということです。このことは、朝鮮半島の大半の学識者は理解していることでもあります。
ただ、日本は植民地政策というものに不慣れで、朝鮮半島を直接統治をしてしまったことが、きな不幸を招いたものといえるでしょう。

228匿名:2005/12/08(木) 02:05:32
私は、朝鮮半島との交流を考えるとき、一番に思うのは、「朝鮮通信使」です。

天下を統一を果たした豊臣秀吉は、貿易の利益を求めるために朝鮮に対して日本との国交を再開するよう働きかけたといいます。そして朝鮮通信使が持ってきた国書には、秀吉の天下統一を祝い、これからますます国交を深めていきたいと言う意味として
「速やかに信を講じ睦を修めて、もって隣交をあつくせん」
と書かれていたといいます。ところが秀吉はこれを朝鮮国王から服従するように求められていると錯覚し、その翌年の1592年、突然15万人余りの兵を朝鮮半島に送り込んで一方的に戦争を始めたわけです。
相手の心を読めなかった秀吉の残した傷は今でも両国に影を落としています。
しかし、徳川の時代には「朝鮮通信使」との国交回復が努められます。
多くの文化人を連れた朝鮮通信使一行の江戸城までの長い行路は、今の韓流ブームさながら、当時の日本人の多くの人々が、いわゆる「追っかけ」をしたといいます。朝鮮通信使ご一行は、まさに日本人の文化の憧憬的存在だったようです。
ちなみに、「通信」とは、「よしみを交わす」と意味だといいます。
日本の中韓との関係では、あくまで政治的コミットは一線を置き、民間レベルでの文化交流を深めていくほうが、友好関係が保てるように思われます。

230匿名:2005/12/08(木) 02:20:02
>225

ご紹介されたサイトにも、朝鮮通信使のことがとても詳しく書かれていました。
とても勉強になりました。

231匿名:2005/12/08(木) 02:28:01
片瀬江ノ島 さん

護憲のことばかり、力説にして申し訳なく思います。
お読みくださって、本当にありがとうございます。
私は、前向きに改憲の覚悟もできております。
どうか、お体ご自愛なさってください。
ありがとうございました。

232犀角独歩:2005/12/08(木) 10:41:37

匿名さん

ここ関連のやり取りは、わたしの212の

>> 選挙…国民
>> 最大の戦争被害者である国民…戦争責任者でもある
> これはつまり、選挙によって選択をしたのだから、戦争は責任は国民にあるという議論の運なのでしょうか

という問に発しています。
ところが、ここ一連の内容は全く違う方向になっています。
また、「衆愚」という語が民衆に対して軽蔑を含んでいる印象があるので、そのことわりを入れると、これを、わたしが議会制民主主義を侮蔑したとして批判を加え、それに講義をしたところで、訂正、謝罪の一つもありません。
このような議論の姿勢に問題があるのです。ついには何故か話は日韓併合に及んでいます。

この点について、わたしは224について、議論を避けるとし、また、パンナコッタさんも同様の意見を述べられています。ところが、あなたは227〜228にかけて、やはり記述しています。あなたの文章は日本の近代史を肯定的に捉えるような人々、また、「朝鮮半島の大半の学識者」は指示するでしょうが、少なくとも、わたしの知人である朝鮮半島の人々は納得しません。だからやめたほうがよいと言ったのですが、あなたは、そのような進言を聞こうとしないわけです。

先にわたし戦争をする国家の国民の戦争責任と言うことにつき、原爆で殺された乳飲み子に戦争をしている国の民としての責任はない、そのような無念の死に鞭打つような議論はやめるよう再考を促したことを無視し、さらに今度は朝鮮半島の民衆の心情を傷つけるような議論をわたしは述べないとこの議論の打ち切りを告げたのにも関わらず、しかし、記しました。

わたしが「政治関連族」と記したのは、あなたのことではない。まさに政治で飯を食っている人々を指していったのです。それを自分に向けたものであるなら、取り消せと息巻きながら、しかし、あなたがわたしに向けた言葉は

> 政治といえば、それだけで穿った目でタブー視する。そうした偏見

などと侮蔑して憚りません。
何度も記しているとおり、ここは、仏教の掲示板です。
もっと言えば富士門流信徒の掲示板です。

議論が無理なのは、あなたのように、こちらが再考してはどうかと話しかけると、それに答えないばかりか感情的になり、揚げ足取りをするような態度、また、民族問題につき記述は避けると言った内容を、その該当する人々の心情を度外視して、平然と書き連ねる態度を言うのです。これでは、議論にならない。何ら得るものがありません。もう一度、申し上げますが、あなたとわたしは議論をすることを快しとしません。

233犀角独歩:2005/12/08(木) 10:42:11

管理人さん

229の書き込みは、当人も十分に認識しているとおり、削除対象になるわたしへの侮蔑を含んでいます。また、先の削除の対象となった「平和ボケ戦士もどき」という侮辱を繰り返し記述をすることを目的としたうえで、さらに「うさんくさい武勇伝」と侮辱しております。

削除を希望します。

234犀角独歩:2005/12/08(木) 10:43:04

【232の訂正】

誤)講義をしたところで
正)抗議をしたところで

235管理者:2005/12/08(木) 11:05:43

片瀬江ノ島さん

229レス削除します。合わせて、削除対象になることをご存知の上で、敢えて書き込みをされたと判断出来ますので、今後の投稿をお断りいたします。

236犀角独歩:2005/12/08(木) 11:36:13

管理者さん、有り難うございました。

237匿名:2005/12/10(土) 00:33:59
>229

まだ、ロムされておられることを祈り、投稿させていただきます。

私への呼びかけの為に、ご自身の痛ましい戦争体験を綴ってくださいました。
削除されることを承知で投稿してくださった内容は、削除されても、私の心には深く刻まれております。
戦争というのは、こういうことなのかと、正直言葉を失い、何をどう表現していいものやら、短いご返信しかできませんでした。
しかし、戦火に遭いながら、何はともあれよくぞ生きてこられた。
そして逆境をバネに、「逞しく」今日まで乗り切ってこられたこと深く拝察いたします。
そのように生きてこられたあなたが、今、前向きに日本の将来のことを考えておられること、私は心より敬意を表します。

私のような直接戦争を体験していない者が綴る、いかにも「戦争」をわかっているかのような投稿など、薄っぺらいものであったろうと恥ずかしい思いさえいたしました。
しかしそんな私の拙い投稿を、戦争を体験された方が最後まで読み続けてくださった。それだけで、精一杯の思いで投稿した私の気持ちは完全に報われ、感謝の気持ちでいっぱいです。

貴重な戦争体験の内容が削除されたことは、とても残念に思いますが、しかしこれは、管理者の判断ですから仕方ありません。
しかし、私の心にはしっかり残っております。
あらためて、本当に、ありがとうございました。

241匿名:2005/12/10(土) 01:13:32
>242

あなたは、私に何を応じろと言っているのでしょう。
過去の投稿の番号ではなく、具体的に記してもらわないとわかりません。

242匿名:2005/12/10(土) 01:18:05
私の投稿を「恨み言」などと表すのは、大変失礼なことてですね。
議論が成り立たないのも、これは合意点ですから、当然のこと、おつき合いは求めておりません。
ただ、私が何かに応じないことを問題にされているというのであれば、それが何のことなのか、お尋ねしておきます。

243犀角独歩:2005/12/10(土) 01:31:49

以下の記述についてです。

>> 選挙…国民
>> 最大の戦争被害者である国民…戦争責任者でもある

> これはつまり、選挙によって選択をしたのだから、戦争は責任は国民にあるという
> 議論の運びなのでしょうか。

> わたしはこの考えは再考されるべきだ思います。
> なぜならば国民には、いま生まれたばかりの赤ん坊から、心的障害を持つ人まで含
> まれているからです。そのなかで、投票権を持っている人は常に限られています。
> それが国民総意であるとしてしまう丼勘定が、投票というシステムにはあるからで
> す。まして、先の大戦は非戦闘員、婦女子まで無差別に殺戮したものでした。その
> 極が原爆投下でした。先にも紹介しましたが、その原爆の開発・投下・写真撮影ま
> でしたアグニューと、あなたは意識してかしないでか同じことは言っています。こ
> の男は60年後の原爆の被災地広島に立ってまで「罪もない一般市民はいない」と言
> いました。この男の一流の論理から言えば、原爆投下によって、宗教的な意味合い
> としては捌きを与えた、政治的には国民に責任をとらせたのでしょう。異教の黄色
> 人種への裁き、そして、政治的には原爆投下に値する責任が非戦闘員である乳飲み
> 子から寝たきりの老人に至る一切が背負った‘責任’であるという政治的感覚から、
> 己とアメリカのあの人類史最高の極悪を肯定しています。

尚、この点に、いまさら応じていただく必要はありません。
削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて、わたしへの軽蔑を奨励するあなたと語るべきことは何一つありませんので。誤解なきように言っておきますが、応じていただく必要はありません。そのよう運びになっている文章に抗議したまでのことです。しかし、それも今は昔です。応じていただく必要はありません。あなたと議論をするつもりはありません。

244匿名:2005/12/10(土) 01:37:59
>243
>削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて

私の記述のどの文言を指しているのでしょう。
ご指摘ください

245匿名:2005/12/10(土) 01:39:32
>240において、私の投稿に対して「恨み言」と発言されました。
これは、私としては大変心外です。

犀角独歩さんには、前言の撤回を求めます。
もし撤回していただけないのであれば、以下のルールに即して

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。

管理者さんに犀角独歩さんへの投稿内容への尊重を促す注意、もしくは投稿の削除を求めます。

246匿名:2005/12/10(土) 01:49:37
>243
>削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて

>237のことですね。

よく読んでください。削除されるのは、仕方ないと書いてはずです。
しかし、その他の内容は、戦争の体験談であり、あなたのこととは関係ないでしょう。
その記述は、真に迫るものがあったと私は感じたのです。ましてや、私への忠告のために向けてくださった投稿です。
削除されたとはいえ、それに応じて何が悪いというのでしょう。
とにかく、もう応答ややめます。
私もそのつもりでいたのですから。
とにかく>240「恨み言」というのは、掲示板のルールに即して、撤回して頂きたいと思います。

247管理者:2005/12/10(土) 06:55:53

犀角独歩さん

>240レスの、「恨み言」と言う表現は匿名さんが指摘されるように、掲示板ルールに抵触していますので、削除いたします。

248犀角独歩:2005/12/10(土) 08:42:39

管理者さん

既に、削除されたことなので、致し方ありませんが、当方の弁明も聞かずの削除は一方的ではないでしょうか。

わたしは、匿名さんの

> 発言の自由はあるとはいえ、そもそも、あれは書くな、これは書くべきでないなど、あなたがいちいち検閲のようなことをすべき立場にでもいるのでしょうか。あまりにそれが繰り返されるので、とても不可解です

という文章を指して、「恨み言」と記しました。なんとなれば、わたしは検閲など全くしていないのであり、また、そのような立場としても振る舞っていません。わたしの文章の誤読から生じたこちらから申し出を無視した挙げ句、以上のような書き込みは、まさに「恨み言」以上の意味を持ちません。ですから、記したわけです。

「恨み言」という言葉が、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」にどのように該当するのか、説明してください。

242に、わたしに尋ねた点について、わたしは243にその解答を載せています。しかし、それに、またもや、答えないばかりか、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」などといういわれる筋合いはありません。

249犀角独歩:2005/12/10(土) 08:49:33

追加します。

わたしが投げかけた疑問に答えず、わたしの質問を一方的に「検閲」と決め付けることは、この掲示板の趣旨に反しないのでしょうか。

質問に対して、答えないばかりを、それを「検閲」だとされるのは、わたしのほうこそ、心外です。

よって、238の削除を求めます。

250犀角独歩:2005/12/10(土) 09:01:37

> 削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて

この点について、記します。

当掲示板では、文中に投稿ルールに違反する文言がある場合、投稿全文が削除されます。つまり、その段階で、削除された文章はそれ以後のロムの方々は見られないことになります。ですから、「削除対照になる無礼な文章」とは、削除文書全体を指して記すほかありません。

つまり、意味するところは、削除対照になった1投稿を肯定的に捉えてほどの意味になります。そして、その削除投稿が著しく、わたしの名誉を傷つけたものであれば、その傷つけた投稿を賞賛することは、わたしへの侮辱をも、含めて賞賛していると採らざるを得ない。なぜならば、その文章は既に削除対照文章ということで存在していないからです。

削除文章を取り上げるということは、以上のように連鎖的に、わたしへの侮辱を再燃、肯定される‘効果’を持ちます。故にわたしは「抗議」と記したわけです。

251管理者:2005/12/10(土) 09:26:58

犀角独歩さん

匿名さんの書き込みを「恨み言」と断定することは、相手に対する侮辱に当たると判断しました。たとえ、相手のレスが「恨み言」と取れる内容であっても、それを明からさまに書き込み事は、侮辱以外の何物でもないと思います。

匿名さんは、犀角独歩さんに撤回を求めていましたが、管理者はそれ以前の問題だと判断しました。

当掲示板では、当掲示板の趣旨、原則から見て、相手の発言が不適切な場合には、お答えにならないようにお願い申し上げています。相手の論理の非を攻めるのは何ら問題ではありませんが、既に議論がかみ合わないことが明らかになった段階では、非難の応酬になってしまいますので、双方とも自粛して戴きたく存じます。

252犀角独歩:2005/12/10(土) 09:29:15

以下の点も補足しておきます。

当スレのわたしの投稿は、匿名さん個人に向けて記しているものではありません。しかし、書くごとにすべての言葉が自分に向けられたようにレスされることは、実に迷惑です。また、そのような誤解に抗議しても、それを無視して論を進める在り方にはわたしは納得ができない。さらに勝手に自分に向けられた言葉であるとして、さらに侮蔑的言辞を吐くことにも納得はできません。

近日で、何をさしているかといえば、わたしが日韓併合を美化して語る政治に係る人々を「政治関連族」と記すと、それを自分に向けられた言葉であると即断し、「政治といえば、それだけで穿った目でタブー視する。そうした偏見」などと、わたしを偏見者扱いをしています。これだけでも十分に言葉の暴力であり、侮蔑表現です。この点について、わたしは抗議もしました。しかし、この点について、何ら謝罪もなく、謝罪もない点をまた抗議しています。

そもそも、わたしが匿名さんなる人物が、どのような信仰背景にあるのか、また、どのような職業にあるのか、もっと言えば、男なのか女なのかすらしりません。その職業も何も知らないわけですから、「政治関連族」という表現が本人を指したといわれるなど、思いもよらないことでした。また「〜族」という表現に問題があるという指摘と考えられなくもありませんが、しかし、たとえば「遺族」という語句はあります。反面、「暴走族」という語句もあります。つまり、「族」自体に何ら悪意、侮蔑の意は孕んでおらず、わたし自身その意図でも使用していません。また、わたしは、仏教という視点から、政治にもちろん、強い関心を抱いています。在り方に不満・疑問は持っていますが、偏見は持っていません。それにも関わらず、偏見者扱いされることはまことに心外です。それでも、敢えて削除依頼はしませんでした。しかしながら、昨晩の経緯がある以上、わたしはわたしで、自分の名誉を守らなければなりません。

よって、226の投稿も削除を求めることといたします。

253犀角独歩:2005/12/10(土) 09:38:15

管理者さん

> 相手の発言が不適切な場合には、お答えにならないようにお願い申し上げています

なるほど。このような「お願い」は確かにあったと記憶します。

「恨み言」という表現を、わたしは侮蔑表現であるとわたしは考えません。
しかし、以上のルールの提示は管理者さんからあった点は思い出しました。
これに従うことといたします。また、非難の応酬になっている点も否めません。
以上のご指摘に従い自粛をいたします。
今後、このような応酬にならないよう勉めます。

しかし、わたしは検閲、偏見者呼ばわりをされることを、自分に対する侮辱であるととらえます。よって、繰り返しになりますが、226、238の削除は重ねてお願い申し上げることといたします。

254管理者:2005/12/10(土) 09:58:51

犀角独歩さん

226、238の削除のご依頼の件、本日は家業が極めて多忙で、精査している時間が有りません。申し訳ありませんが、今晩まで判断をご猶予ください。本日中には必ず判断いたします。

255犀角独歩:2005/12/10(土) 10:25:11

254 管理者さん

了解しました。
ご多忙のところ、お手数をおかけいたします。

256犀角独歩:2005/12/10(土) 11:46:32

本日中のご判断ということですので、もう1点、追加します。
239の

> 参加者の投稿内容を仕切るが如き発言を続けることは、私からみれば、掲示板における「越権行為」

わたしは発言を仕切っておりませんし、何ら越権行為をいたしておりません。
このような断定は名誉を傷つけます。
そもそも発言の根拠を求めたり、再考を促すことは何ら越権行為に当たりません。
自分の考えと違うことを述べられることを「仕切る」などと表現される筋合いもありません。

226、238に併せて、239の削除も依頼します。

257犀角独歩:2005/12/10(土) 12:04:23

管理者さん、もう一点のみ。

> 匿名さんは、犀角独歩さんに撤回を求めていました

しかし、これに応じるのには、時間がありません。
匿名さんの要求はから、削除までは5時間16分、それも深夜から早朝にかけてのことです。この短時間、深夜に応じることはできません。

2005/12/10(土) 01:39:32
2005/12/10(土) 06:55:53


※ いずれにしても、ここ一連のやり取りは、原爆投下で虐殺された投票権もない子どもたちに、何の責任もないということを強調するためです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1131915713/212

仏教徒として「戦争を考える」うえで、この点は、絶対に外せません。
原爆、無差別爆撃で殺された幼い命、なかにはいまだ母の胎内にあった子もいたでしょう。それらに戦争をしている国の民であるから、戦争責任があるなどという考えは、断じて再考されなければならず、仏教として、断じて認めることはできない。この点に議論の焦点があったことを、ロムの方々は見失わないでいただきたいと思います。

258匿名:2005/12/10(土) 12:12:12
管理者さん

>226、238、239

できれば、削除しないでいただきたい。その理由は後ほど記します。

もし、どうしても削除するというのであれば、投稿者である私が納得する明確なる根拠をご提示ください。

「恨み言」についても、管理者さんが注意や警告によって、相手が理解を示してくだされば、そのまま残しておいてもよかったと思っておりました。(今回の場合は、理解はされなかったようですが)

投稿をやたらと削除するというのも、これも自由発言の侵害にあたるものだと考えます。
また、そうしたことが濫用されていけば、自分にとてって不都合な意見を排除させる手段に用いられる危険性も孕みます。
そういうひとつひとつが、ある意味での言論統制につながるものではないでしょうか。

管理者さんには、お手を煩わせますが、言葉の言い回しによってはルール違反の判断が難しい場合もあります。
明らかなる侮辱言葉とはいえないけれども、抵触することが考えられるような発言が続いているときは、削除以前の、注意や警告という段階も必要ではないかと考えます。

259犀角独歩:2005/12/10(土) 12:40:27

既に、注意、警告を経ず、管理者さんの判断で即刻削除は、幾度となく、実施されています。
匿名さんに限り特別扱いはフェアではありません。

260犀角独歩:2005/12/10(土) 12:44:15

また、私自身、今回弁明の機会もありませんでした。
それにもかかわらず、理由を述べるから削除をしないでほしいというのも、フェアではありません。

261匿名:2005/12/10(土) 13:00:15
国民の政治責任については、憲法の前文冒頭に、しっかり示しています。

「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する。 」
(続きは、こちらで)
http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM#s0 

投票権のない子どもたちには責任はありません。当然です。だけど、その子の親には一分の責任があります。政治家の責任に比べればその比ではありませんが、しかし、戦争を支持した一分の責任は国民にもあるのです。

国民といったときには、もちろん子どもも含みます。しかし、国民主権といったときの政治的主権は、投票権を持った人々を指します。その人たちには、選挙権のない人の分まで含めた政治的責任があるということです。

戦前の場合は、普通選挙法が制定されたとはいえ、治安維持法により投票行動はかなり統制されているものでした。
そのような中、日本人は戦争に邁進していった。また、そうせざるを得なかった世界情勢と日本の実情というのもあります。
そのことをよく認識しておかなければ、戦争回避の具体策は見えてこないでしょう。

また、戦前のように思想統制された政治が悪いというのであれば、尚のこと、今の私たちは政治に関心をもって統制されないようにしっかり監視しておかなければならないはず。私はそのことをずっと書いてきたつもりです。

262管理者:2005/12/10(土) 13:07:42

>明らかなる侮辱言葉とはいえないけれども、抵触することが考えられるような発言が続いているときは、削除以前の、注意や警告という段階も必要ではないかと考えます。

ご提案として承ります。「管理者からのお願い」スレッドにてご参加の皆様に「ルールの改廃提案」として議論して頂こうと思います。少し時間をください。

264犀角独歩:2005/12/10(土) 14:21:32

263について、わたしに関する一方的な評論であるので、このような何かと評論されることは不快です。また、全くわたしの内心と違っており、的外れです。この263もまた、削除してほしいほどです。

もとより、排除する意図などありません。しかし、こちらが仏教的見地から述べると、政治を考えない仏教はだめであるかのようなコメントが戻れば、議論は成り立ちません。
ですから、先の段階で、和解もし、終わりになったはずです。

しかし、わたしが再考を促した部分だけは、到底、承服しかねる。故にその再考を促したわけです。

わたし、子どもに責任はないと言ったのです。
それ以上のことを記しているわけではありません。
戦争で殺された子どもには、何の責任もありません。
また、子どもと親は別の人格であり、別の人権を有します。
親の決定は子どもの人権とはまったく別のものです。
子どもを踏みにじる権利は、親にはありません。国にもありません。
子どもは親の所有物ではありません。国の所有物でもありません。

なんで、このようなことに同意いただけないのか、不思議でなりません。
無残に殺されていった人々を弔う気持ちは、「だから、今憲法を、政治を」という話ではありません。いまから60年前、虐殺された人々、その遺族を思う心の話です。
わたしは、再考を促した段階で当然、投稿を訂正してくれるだろうと思っていました。
まして、批判するのではなく、一歩引いて、再考をと言葉も和らげてのことです。
しかし、事態はまったく違いました。残念なことです。

何もわからず、ただ虐殺された惨状を思うとき、憲法が、親の投票権がというより、なぜ、そのような惨状にリアリティを感じられないのか。人一人の命を考える心が喪われています。
このようなリアリティの喪失を考えるうえで、社会心理学の分析は必要であると思っています。
また、殺された人々を考え、残された人々の心を救ううえで仏教の叡智があると考えます。

政治に還元できない、政治、憲法、法律で割り切れない部分を仏教は語っています。
それを政治、憲法、法律で評論されても、当然、かみ合わないのでしょう。

なお、わたし自身が誰と議論するかは、わたしの自由です。議論をことわることに異議を申し立てることはわたしの自由の侵害です。
このような自由選択は、掲示板ルールに違反するものではありません。

なお、管理人さんに申し上げますが、ルールとは、施行後に有効になるものです。
今回の匿名さんの投稿への削除依頼は、このルール改案以前のことです。ですから、旧来の段階で判断されてしかるべきです。つまり、匿名さんの申し出を考慮して判断を下すことは、アンフェアであるとともに、ルール施行の精神に反することを申し添えておくことといたします。

265犀角独歩:2005/12/10(土) 14:26:55
『第三文明』06.1号に『師恩報謝を誓った日蓮門下の戦い」という東洋哲学研究
所・主任研究員・小林正博氏の文章が載っていました。その全体の内容は…、ま
あ、置くこととしますが、この書き出しは、当スレ、世界の情報ボックスの近日
のやり取りと関連するので、覚書代わりに紹介しておきます。

「鎌倉時代、一般的に師弟というと、僧侶と武家の関係を指していました。殺生
を生業とする武士にとって、「後生、自分は往生できる」は最大の関心事でした
。そのため、武士は定年退職すると、不安感を安心に変えていく存在として、師
を選んで出家し、師から法名をもらって、余生を仏門に投じたのです」(P30)

この小林氏の文章は最後に(談)と記されているので、どうやら、インタビュー
録音を編集が起こした文章であると目されます。ですから、直ちに小林氏の考え
とするのは早計でしょうが、いくつかの疑問点はあります。それはともかくとし
て、ここで「殺生と生業とする武士」という件は、武・仏の関係を示す認識とし
て、この部分ばかりは賛同します。

小林氏は「定年退職…出家…余生を仏門」というのは、少なくとも日蓮門下の実
際とは一致しないと思えます。たとえば四条金吾は寛喜2(1230)の生まれで入信
は、康元元年(1256)、つまり26歳で35歳の日蓮の‘檀那’となっています。また
、富木常忍は正安元年(1299)84歳の寂で、入信は建長5(1253)ですから38歳であ
ったことになります。その他の檀那は調べていませんが、この2人の年齢は「定
年退職後」とは言い難いと思われます。また、これら檀那は、単なる入信である
というより、入道(半僧半俗)であったのではないのかと思われます(例に挙げ
た2人の入道時期は確認していません)
北条時宗などの像をみても、髷はなく剃髪をしていますから、入道であったこと
が窺われます。以上の点から、どうも小林氏のこの点についての記述は不適切で
あると思えます。

しかしながら、武士が殺生を生業として、その殺生の贖罪として、仏教に帰依を
するという心的構造は外れたものではないとわたしは考えます。

このような仕組みは、中国における鎮護仏教の発達、また、インドにおける釈迦
の出家といったこととも通じるものなのだろうと考えられます。

日本の武士、中国の武人、インドのクシャトリアと仏教の関係は、ある面、重要な
テーマです。
これに日本では僧兵というテーマも加わるでしょう。

仏教から「戦争を考える」、原点がここにもあると、わたしは思います。


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