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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について

52地名:2004/05/26(水) 00:13
続く

(⑤日文字口傳)
聖人重曰様日蓮弟子檀那等非母物語不可思、即金言也、其故予修行兼母霊夢ニアリケリ、日蓮富士山自然名号、富士郡名也、實名大日蓮華山云也、我中道修行故如此、国云日本、神日神申、佛童名日種太子申、予童名善日、仮名是生實名即日蓮也、久遠下種南無妙法蓮華経守護神我国天下始国出雲也出雲日御崎云所、天照大神始天下給故日御崎申也、我釈尊顕法華経説已来号十羅刹女

(⑥生佛法界一如口傳)
十羅刹天照大神釈尊日蓮一体異名、本地垂迹利益広大也、日神與月神合文字訓十、十羅刹女申諸神一体束合深義也、日蓮日則日神昼也、蓮即月神夜也、月水縁蓮水生故也、又是生日下人生書

(⑦本門下種口傳)
日蓮天上天下一切衆生主君也父母也師匠也、今久遠下種寿量品云今此三界皆是我有(主君義也)其中衆生悉是吾子(父母義也)而今此所多諸患難(国土草木)唯我一人能為救護(師匠義也)云(佛與聖人同体口傳)日蓮今此三界主也、日蓮大恩以希有事憐愍教化利益我等無量億劫誰能報者ナルヘシ、若日蓮現在弟子並未来弟子等中、日文字名乗上字不置者、自然法罰蒙可知、予一期功徳日文字留置御説法儘、日興謹奉記之、聖人言、此相承日蓮嫡々唯授一人秘傳也、神妙神妙言給留畢

53地名:2004/05/26(水) 00:19

41-44 の空き缶さんと独歩さんの記述内容の方がものすごく重要な事をご指摘なされています。
脱線どころか、大変勉強になります。
是非引き続き「産湯記」等のご検討をお願い申し上げます。

このような「口傳」の集合体は、それぞれ別々の出所なのでしょうか。
どうも一冊の「…記」のようには見受けられないのですが。

54地名:2004/05/26(水) 00:30

52 について

⑦と⑧を分けますので、独歩さんのご指摘のとおりかと思います。
以下に訂正いたします。

(⑧佛與聖人同体口傳)
日蓮今此三界主也、日蓮大恩以希有事憐愍教化利益我等無量億劫誰能報者ナルヘシ、若日蓮現在弟子並未来弟子等中、日文字名乗上字不置者、自然法罰蒙可知、予一期功徳日文字留置御説法儘、日興謹奉記之、聖人言、此相承日蓮嫡々唯授一人秘傳也、神妙神妙言給留畢

55犀角独歩:2004/05/26(水) 10:06

地名さん:

詳細の対象、有り難うございました。
たいへんに参考になりました。

> …「口傳」の集合体…それぞれ別々の出所
> 一冊の「…記」のようには見受けられない

わたしもそう思います。
それぞれの特徴から、出所が判別できるのだと思います。
そんな研究はあるのでしょうか。
それにしても、『産湯相承事』の‘作者’はなかなか筆力であると改めて感心しました。

56れん:2004/05/26(水) 11:58
横レス失礼します。
空き缶さん、聴講見聞録は実成寺にないのですか。題名から想像するに日法師の蓮師聞き書きのごとく蓮師の教学を検討する上で有益な資料と想定されますから、非常に残念です。空き缶さんは実成寺のお虫払いに参詣されるとのことですので、行かれましたら、実成寺の宝物についてご教示ください。
犀角独歩さん、「図解必携…」はいつ頃、発刊されるのでしょうか?空き缶さんではありませんが、私も首を長くして刊行をお待ちしていますので、いつ頃刊行されるご予定かご教示ください。m(__)m

57空き缶:2004/05/26(水) 16:09

 れんさん、お久しぶりです。
 實成寺では聴講見聞録を「日目上人の書かれたもの」といわれていました。「日蓮宗の本山めぐり」によれば目師の自署・花押は認めるものの、目師の著作とまでは書いていませんでしたので、この点も気になるところです。
 いずれにしましても、現在は實成寺にないということで現状では確認のしようがありませんね。極めて残念です。
 所持している寺院には名乗り出てもらいたいですね。それとも出せない理由でもあるんでしょうかね。
 いずれにしましても、實成寺には継命新聞社「日目上人」に掲載の、目師書写曼荼羅の目録から外れているものがありますので興味があります。お虫払いは晴れれば全ての宝物を出すといわれていましたので、この目で確認したいと希望しています。
 實成寺には興風談所の御僧侶も、何度か足を運んでいるようですので、「日目上人」に掲載されなかったということはそれなりの判断があったものと思われます。

58一字三礼:2004/05/26(水) 16:12
「聴講見聞録」の筆録年代が気になります。

目師が身延山にあがったのが建治2年11月24日とされています。(日蓮正宗聖典603)
この年代に間違いがなければ、「聴講見聞録」の建治3年2月書了は、いかにも時間が短いように思います。

59れん:2004/05/26(水) 19:23
空き缶さん、そういえば目師開山の富士宮市安居山東漸寺所蔵の目師マンダラ?も「日目上人」には掲載されてませんでしたね。伊豆実成寺のものについては、空き缶さんのご教示をお待ちいたします。
一字三礼さん、実見した堀日亨師によれば、「聴講見聞録」は止観と五戒口決の抄録とのことで、保田妙本寺の行忍抄と同類のいわゆる要文集の可能性もあると思います。たまたまその中に、上記要文に関する蓮師の法義指導も筆録されていたが故に「聴講見聞録」と呼ばれるようになったのかもしれません。いずれにせよ所蔵寺院には公開してほしいものです。

60一字三礼:2004/05/26(水) 21:12
れんさん
>蓮師の法義指導も筆録されていたが故に「聴講見聞録」と呼ばれるようになったのかもしれません。

常々、蓮祖の止観解釈を知りたいと思っていたので、がぜん興味が涌いてきました
「日目身延において五戒口決伝受を書写す建治3年2月」(富士年表)
なるほど、確かに「五戒口決伝授」と「聴講見聞録」は書かれた時期が一致しますね。

ところで不勉強をさらしますが、お教えいただければありがたいです。
「五戒口決伝授」とはいずれの法門でしょうか。

61地名:2004/05/26(水) 21:18

『富士門徒の沿革と教義』松本佐一郎著、P159-164から引用いたします。
(読みやすいように括弧や句読点等を適宜入れております事お許しください)。

「その他の口伝法門
●日順師の「本因妙口決」の末文に、
次に「日文字の口伝」「産湯の口決」「本尊七ヶ口伝」「教化弘法七箇の伝」は「別紙」の如し(要相127 学二312)
とあるが、その「別紙」というのは無い。これはおそらく右の口伝に順師が注を加えたものであろうから、せん滅が惜しまれる。

●産湯相承(産湯の口決、日文字の口伝)
「産湯の口決」は要集相伝信条部に「産湯相承」として載せられ、別刊もあり、宗学全書第二巻(学全本)にもある。
また身延文庫「本尊論資料」第二篇には稍変わった異本があり、これは日意師が後半を不審な内容だからといって書き留めなかったのを他本を以て補ってある。
学全本には日山師の「奥書」に長々と興師の説に仮託して一致征伐の文章を偽作したものが付加されているが、前の「百六箇抄」の偽作文と同様な代物だから贅説せぬ。
学全本には所々に何々口伝と書いた細字傍注があって、全体を若干の口伝に小分けしているが、編者はこの細注を後加分と言い、要本ではすべてこれらを欠いている。
どの「奥付」にも弘安五年十月八日の記文があり、要集では後人の偽托として二本線を引き、要集を転載した創価学会版御書では、二本線を削除してある。

62地名:2004/05/26(水) 21:21

続き
「底本」は、
要集本    ①房山・日山師本・等
学全本    ②了玄本(辰師本の写し)
       ③山師本
       ④大石寺・僧・本是教師本
       ⑤嘉伝・悦師本
       ⑥大崎蔵・薩牙感師・手択本
       ⑦身延本 意師本・其他
で、要本は等略してあるが、「底本」は学全本と共通していると思われる。
要本には学全本使用・山師本の長い「奥書」について、一言も触れていない。あるいは触れる価値さえ無い偽択分として片付けてしまったのかも知れぬ。
意師本の表題は「御実名縁起」としてあったらしい。

63地名:2004/05/26(水) 21:23

続き
全体の構想は、
前分は、御父母の夢物語に寄せて聖人の仏法における地位を説いたもので、
後分は、「日文字」の宗教的内容を説いている。
この部の学全本「傍注」に「日文字口伝」とあるのは、後注が計らずも順師の所謂「日文字口伝」と同名になったものか、それとも順師の時は後分が別になっていて、それに「日文字口伝」の名が付けられていたのかは、論ずべき材料が少ない。
ただ順師のあげた口伝の中で「日文字口伝」のみは要・学・身・三本の何れにも見当たらないし、現存の「産湯相承」の前分たしかに産湯に関して述べられているが、後分は産湯と直接関係が無いので、順師の頃は、「産湯の口決」「日文字の口伝」といって別になっていたものが、後になって一本化して「産湯相承」となったと推理することもできる。
ただし「傍注」の「日文字口伝」の語は、その後に同様な三箇の「傍注」があり、これは前分に六箇の「傍注」があって全体を十箇に分けているのと同じ形で、特に「日文字口伝」から後の全部を含むという表現とはみえないから、順師の「日文字口伝」とは別の考え方で施した後注であろう。
私見では史料が少ないけれども元は別本であったと思う。順師の「別紙」が無いから、今のところこの程度で満足する外は無い。

入文の「房号」は「是生」に作ってあるが、「是聖」「是性」など色々に作った御伝記がある。聖人御自写の「円多羅義集」には「是聖」とあって「生」字でないけれど、この時代は通音が平気で用いられたのだから、取り立てて言う程の事ではない。

御父を「三国氏」と言うのは「註画讃」にもこの説があり、古伝ではあろうが確実な出所は分からぬ。あるいは本書あたりが種本で、「註画讃」の著者が密かにこれに拠ったのかも知れない。 中略

64地名:2004/05/26(水) 21:24

続き
「日輪の夢」と「青蓮華」の「産湯伝説」は諸門流に伝わるもと同じ類であるが、遙かに複雑で且そのうちに法門が説かれている所が変わっている。
所述の法門は、上行応生、本地自受用・垂迹上行、末法教主・勝釈迦仏、寿量魂魄等の、両巻血脈と同じものだが、唯、「十羅刹、天照、釈迦、日蓮一体異名」、「十羅刹諸神一体」等の説が本書の特徴であって、是は検討を要する。

周知の如く、「十羅刹女」は、御書にしばしば出て来る「鬼神」の名で、出典は「法華経・神力品」に゛法華経の行者の守護を誓う゛御文がある。
宮崎英修学士は「十女」について極めて詳細な研究を出しておられるが、これにおいても「守護鬼神」であるという線は動かない。
「鬼神」だから守護のしかたも荒っぽく、迫害者を治罰したり、行者を苦しめ鍛えたりする。しかし本書に見えるような取扱について言って居られるのは、富士の特殊性を認めない立正大学の学風から言えば当然であろう。唯、本口伝には「十女」を言って「鬼子母神」を除いているが、学士の研究にも宗門の上古には「十女」の方が重く見られていたとあるのが注目すべきことであろう。
聖人真跡の文永期曼荼羅(以下「妙曼」と略記する)で、随喜文庫発行の御本尊写真集には、「十女」の一々の名をあげて勧請されたものが若干あって、弘安期に入って「十女」具名の図顕がなくなってからでも、「鬼子母」「十女」は中尊に近く位置することが多く、重視された意がみえるが、それだけでは本口決における「十女」の註脚には不足する。結局「十女」に就いて一番詳しい依文は「御義口伝・陀羅尼品」である。
十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神・十羅刹女と云うなり 三宝荒神とは十羅刹女の事なり 所謂飢渇神・貪欲神・障碍神なり 今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり 荒神とは法華不信の人なり 法華経の行者の前にては守護神なり   皐諦女は本地は文殊菩薩なり 山海何かなる処にても法華経の行者を守護すべし(日137)
一念三千を観法と考えては鬼神と同等にならないから、ここでは法体と考えるべきだ。法体の一念三千とは仏そのものだから、
十女 = 三宝荒神 = 法華不信の人 = 法華経行者 = 守護神   
となる。この最後の不等号が気になるから、全部が等式に入るように処理するには、仏の性悪の法門を出して来るより外に手がない。
法華宗の心は一念三千 性悪・性善 妙覚の位になお備れり 
元品の法性は梵天帝釈等と顕れ 
元品の無明は第六天の魔王と顕たり(治病大小権実違目 艮2100)
天台大師より外の人師の所釈の中に一念三千の名目これ無し 若し一念三千を立てざれば性悪の義これ無し 性悪の義これ無んば 仏・菩薩の普現色身・不動愛染の降伏の形 十界の曼荼羅三十七尊等 本無今有の外道の法に同じきか(法華真言勝劣事 艮502)

65地名:2004/05/26(水) 21:25

続き
仏心中の一念三千、仏力中の一念三千の中には当然・餓鬼界も無くてはならない。所謂・衆に三毒ありと示すの格で、仏のはたらきの中で行者を苦しめる力がある。それが苦しめっ放しでなく、かえって守護の力として働いて来るから、大局観に立てば苦しめる事に依って行者を助ける用を成ずる。末法の化導に三類の強敵は付きもので、それがあるからこそ行者は過去の罪障を滅することができ(転重軽受事 艮692)、法華行者たる資格を証明しうる(開目抄 艮817)。それだから末法には仇をする悪鬼神の存在は大切であり、観心釈に立てばそれすらも仏の用と見ることができる。と、ここまで推してくると、聖人等御返事(変毒為薬御書)の文が有力な註脚であることが発見される。これは熱原法難の時、神四郎等が蟇目で責められたことを報告した飛報への御返事である。
今月十五日酉(とりの)時御文・同十七日酉時到来 彼等御勘気を蒙るの時 南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると偏(ひとえ)に只事に非ず 定めて平金吾の身に 「十羅刹」 入易りて法華経の行者を試すか  例せば雪山童子・尸昆王等の如し はたまた悪鬼その身に入るか 釈迦・多宝・十方諸仏・梵帝等五五百歳の法華経の行者の守護を為す可之御誓是也
「十羅刹」が平頼綱の身に入って行者を試みる。そして、それは結局仏に出るものであるとなって、 「釈尊=十女」 の線は遠回しではあるがつながってしまう。遠回りではあるが、 「産湯相承」 の線は御書と反対や傍道に走っているものではなく、むしろ、その延長線上に有るものであることがこれで明らかになる。
天照釈迦日蓮一体は「報恩抄」に
神をば天照という国をば日本という又教主釈尊をば日種と申
と義にその一体を示し、「諫暁八幡抄」には八幡 釈迦の一体を説かれてある。八幡天照は「日女抄」に一つにまとめて説かれ、「高橋入道御返事」「神国王御書」に天皇天照一体の義があるから、この線も当然釈迦天照一体を指向する。更に口伝相承に求めれば興門は勿論の事、朗門(本二88)(本尊ノ聞書 本二88) 向門(御本尊十界ト習事 本二143)などにもあり、富士独自の義とするわけには行かなくなる。たとへこれらの相伝が富士家の義を盗んだものと仮定しても、他門徒にも承認された法門であるという線になるだけのことで、日蓮宗として見当外れの法門だとは言い得ないのである。

註:(4)十女具名の妙曼は文永期に限られるので、あるいは十女重視の法門は文永期にのみ限られたとも見られるが、口伝は主として身延期に属すると思われるから、十女を重く見られたのは文永期だけのものとすべきではない。しかしその詳細に関しては未だ成案を得ぬ。

66地名:2004/05/26(水) 21:26

続き
更に朗門の像師から大覚師に与えたといわれる口伝には、「産湯相承」を簡略化したような記が出て来る(当家相伝大曼荼羅事 一 日蓮ト名乗給事 本二44)。しかも「産湯相承」では「叡山に腰をかけて近江の湖水で手を洗い富士から出た日輪を抱く」という夢想が、「日天子の蓮華に座したるを手に取る」と語られており、伝承の間に変形の起こったことを示している上、「是生は日の下の人を生む」というのが、唯「是生者日下人ハ是ノ字ト書」と変わって、「産湯相承」では末尾にあったものが、右の夢想のすぐグ後に出ている。こうしたちがいは、一方が他を種本として盗作したのなら起こり得ない。必ずもっと大きな、字句や形式の類似がある筈だ。変わっていてしかも同じことを言っているのは、両者の根源が一つで、しかも伝承の間の変化があることを推測せしめる。奥書によればこれは延文三年に大覚師が筆記したもので、順師の本因妙口決と略同時期になり、富士がその特色法門を他門流に向かって広説するに至った時でもなければ、大覚師が遙々京都まで富士の法門を輸入したとも考えられぬ。このように御書と共通点が多く、他に類似の口伝があってその相互間の交渉が認め難いのだから、本書が確実な口伝であることは疑い得ない。いわんや本因妙口決に名を載せられたことにおいて、本因妙抄におけると同様な、確実性があると言ってよい。」

末尾の「……このように御書と共通点が多く、他に類似の口伝があってその相互間の交渉が認め難いのだから、本書が確実な口伝であることは疑い得ない。いわんや本因妙口決に名を載せられたことにおいて、本因妙抄におけると同様な、確実性があると言ってよい。」というお考えは上述した望月師や執行師の考えとやや異なるものと思われます。

67れん:2004/05/26(水) 22:20
横レス失礼いたします。
一字三礼さん、私も今更ながら不勉強を晒しますが「五戒口決伝授」については、調べていないので全く分かりません。今後何かの機会に五戒口決伝授について分かりましたら、ご教示くださいませ。m(__)m

68一字三礼:2004/05/27(木) 12:35
私ごときが、れんさんにお教えできる事があるとも思えませんが、よろしくお願い致します。
「五戒口決伝授」についてはもう少し調べてみます。

ところで、れんさんは、創価学会を退会なさったそうですね。
私の経験ですが、個人で行なう信仰は、法華経と御遺文の理念を自らに課すのみで、何の利害もなく、純粋で、楽しいものですよ。

69空き缶:2004/05/27(木) 16:10

れんさん、一字三礼さん、こんにちは。
日蓮正宗富士年表は、日精師の家中抄を根拠にしているみたいですが、家中抄日目伝の記述によれば「五戒口決伝授」が当時實成寺にあったと出てきますので、やはりれんさんのご指摘通り「聴講見聞録」と「五戒口決伝授」は同じものであり、近世までは實成寺にあったといえるかもしれません。

「同く三年二月には五戒口決伝受書写したまふ日目の御自筆伊豆実成寺に之れ有り」(富士門家中見聞中 日目伝)

その意味で「五戒口決伝受」には、私もただならぬ関心をいだかれました。ここを御覧のどなたか是非教えて下さい。

70れん:2004/05/27(木) 20:27
一字三礼さん、仰る通り私は先日創価学会を退会致しました。「個人で行う信仰は、法華経と御遺文の理念を自らに課すのみで、何の利害もなく純粋で楽しいものですよ」とのお言葉に同感致しました。産湯相承についてですが、ご承知の通り産湯相承の書名が本因妙抄にあります。本因妙抄とそれに付随する文書は日隆師の教学を摂取した富士門僧が1400年代前半に制作、本因妙抄は日親師の伝灯抄・日朝師の当家朝口伝に触れられているので1400年代中頃には他門にも其の存在が知られるようになったものと愚考しております。産湯相承もその辺の成立と存じます。

71犀角独歩:2004/05/27(木) 20:33

56 れんさん:

ご無沙汰しております。返信が遅くなり、申し訳ありません。
ただいま、サーバ・トラブルと格闘中です。

『図解必携大石寺本尊の鑑別』は、いちおう、来月を目処に発刊を予定しております。
その際は、当掲示板にも、管理人さんのご許可を賜り、紹介させていただく所存です。
よろしくお願い申し上げます。

新しいロムの方に:

以下のページで触りのみ、掲載させていただいております。
発刊本は内容は異なりますが、

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

72れん:2004/05/27(木) 21:59
犀角独歩さん。サーバートラブルと格闘中にもかかわらず返レスありがとうございました。独歩さんの新刊書「図解必携…」が来月を目処に発刊されるとのこと、了解いたしました。独歩さんの新刊書によって多くの人が蒙を啓くことになると存じます。拝読の時を楽しみにいたします。
空き缶さん、「五戒口決伝授」は其の題名からは、通仏教の文献なのか、中古天台の文献の類なのか、それとも蓮師の著作なのか、分かりませんね。聴講見聞録が公開されれば、現時点において不明の文献である五戒口決伝授の正体が明らかになると期待いたします。

73地名:2004/05/28(金) 01:51

『現代宗教研究 別冊』日蓮宗現代宗教研究所、平成13年3月より「大日蓮華山」関係について引用いたします。                             

「ところで、日興上人が筆受されたと正宗が伝えている『産湯相承事』に、「日蓮は富士山自然の名号なり。実名をば大日蓮華山と云うなり。」などとあり、日代上人の『申状』に「爰に富士山とは閻浮提無双の名山、日城第一の神峰、而も幸いに聖主治国、武将崇法の世に逢えり。早く法華本門の極説を以て吾が国第一の霊峰に弘めらるれば国家福祚の大本たるべし」とあることなどを以て、正宗が富士山をどのように見て来たかを伺うことが出来ますが、こうした 【富士信仰】(【 】の記号は私注) が、正宗系教団の教義に影響を与えたであろうことは、想像に難くありません。
今般調査した、「天母山」、「旧丸山」周辺には、 【富士信仰】 に関わる神社も幾つかあり、そうした神社にも立ち寄りました。(「 」の記号は私注。以下同) 
「旧丸山」のほど近くには、「山宮浅間神社」があります。ここは、通称「山宮」と呼ばれ、「富士山そのものを神」とした神社です。神域には社殿がなく、本殿に相当する場所は「富士山を御神体」と仰ぐ遙拝所として、「浅間大神」の祭祀を行ったところと考えられており、最も古い神社の形態を残しているものとされています。
「山宮浅間神社」から南に2kmほどのところに、「富士山本宮浅間神社」(私注:全国浅間神社総本宮と石塔にあり)があります。こちらは「山宮」に対して「里宮」と呼ばれ、この両社は、「里宮」である「浅間神社」と「元宮・山宮」である「山宮浅間神社」として、往古より密接不可分な関係を保って来ていると言います。
「山宮浅間神社」と「天母山」を挟んだ反対側には、「村山浅間神社」があります。ここは修験道や密教との関係の深さが伝えられており、「富士修験」の道場として「大日堂」(興法寺)を中心に発展してきたところで、室町時代以降、多くの山伏が集まったと言います。「廃仏毀釈」などによって衰微したようですが、今日でも「大日堂」と「浅間神社」とをあわせて持つ 【神仏習合】 の姿を留めています。 中略 
その他に、「浅間大社」の南方2kmほどのところにある「金ノ宮神社」(カンノミヤ)を訪れました。
これらの神社やそこに祀られている「神廟」を「山宮七廟」とする信仰もあるようで、その七廟には、「北山本門寺」の「垂迹天照大神宮」をも含むとするようです。


山宮七廟
   名称   祭神   旧 名 新 名    現  況            
1.麿山神廟 天照大神  麿 山 丸 山  北山本門寺内の「本化垂迹天照太神宮」
2.寒川神廟 国狭槌尊  宮 原 宮 原  由緒不詳の小祠           
       国狭媛尊                             
3.山守神廟 大山祇命  茂良山 村 山  村山浅間神社            
       加茂沢蹊                             
4.金山神廟 瓊々杵尊  金ノ宮 金ノ宮  金ノ宮神社             
       木花咲耶媛                            
5.高座神廟 高皇産霊神 山 宮 山 宮  山宮浅間神社            
       神座巣日神                            
6.高燈神廟 伊弉諸尊  山 宮 山 宮  山宮浅間神社            
       伊弉再尊                             
7.根元神廟 猿田彦ノ神 大 宮 大 宮  富士宮浅間神社内の稲荷神社

74地名:2004/05/28(金) 01:56



70 れんさん

>産湯相承についてですが…産湯相承の書名が本因妙抄にあります。本因妙抄とそれに付随する文書は日隆師の教学を摂取した富士門僧が1400年代前半に制作、本因妙抄は日親師の伝灯抄・日朝師の当家朝口伝に触れられているので1400年代中頃には他門にも其の存在が知られるようになった…。産湯相承もその辺の成立と存じます。

ありがとうございます。
もしよろしければもう少し詳しく教えて頂ければ幸いです。

75顕正居士:2004/05/28(金) 13:24
口伝の編纂過程

口伝書は通常は誰かがいっぺんに作ったのではなく、切紙伝授されていたのを集めて編纂したのです。

身延相伝の「本地垂迹口伝」の中にこういうのがあります。

「又此経ヲハ恵日ト宣ヒタリ 釈尊ヲハ因位ニハ日蓮ト称ス云云 果位ハ恵日大聖尊ト云云
国ヲ日本ト名ツケ 神ヲ日神ト称ス 正像ヲハ暮月ニ譬ヘ 末法ヲハ朝日ニ類ヘ 能弘ノ導師ヲ
日蓮ト号シ奉ル 良(まこと)ニ所以(ゆゑ)有ル也
御書ニ云ク 又某ヲ恋シクオハセム時ハ日々ニ日天ヲ拝マセ玉ヘ等云云 之ヲ思フ可シ」
(『本尊論資料』第1編)

同じ内容は富士派にありますが、まとまって重なる相伝はありません。したがって切紙がさまざまに
編纂された結果でしょう。また上の口伝のように遺文に根拠を求められる内容は、もとの切紙伝授が
複数の場所で同時に発生したこともあり得るでしょう。

*『本尊論資料』第1編(身延相伝)は国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られます。
http://kindai.ndl.go.jp/

76れん:2004/05/28(金) 20:23
地名さん、本因妙抄とそれに付随する文書の成立については大黒喜道師が「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(一)(二)」(興風十四・十五号所収)において、所見を述べられています。大黒師の所見は学術的な考察としてほぼ妥当な見解と存じますのでそちらをご参考にしてください。顕正居士さんのご教示は達見と存じますが、総ての切紙が蓮師由来とは考えられず、蓮師本仏観の成立には富士門僧による中古天台本覚思想や日隆師の教学の研さんと摂取が深く関与していると思います。口伝の編纂成立に関しては、それも考慮すべきと存じます。

77名無し@ピンキー:2004/05/28(金) 23:12
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIToc.cgiにある三十七番の御本尊
真筆が現存します。 妙宗先哲本尊鑑二 三十七番

78地名:2004/05/29(土) 01:04

76 れんさん

>本因妙抄とそれに付随する文書の成立については大黒喜道師が「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(一)(二)」(興風十四・十五号所収)において、所見を述べられています。大黒師の所見は学術的な考察としてほぼ妥当な見解と存じますのでそちらをご参考にしてください。

ありがとうございます。早速拝読したいと思います。「産湯相承」の成立も大黒喜道師の論文にある程度触れられているということですね。
ありがとうございました。

79顕正居士:2004/05/29(土) 06:32
れんさん。

>総ての切紙が蓮師由来とは考えられず、

日蓮聖人は口伝相承には否定的であったように見えます。切紙伝授が日蓮聖人の時代にはじまった
とは考えません。また聖人が身延におられた時期にも高弟たちは教線の伸張にそれぞれ多忙であり、
本格的な法華文句の講義などはおこなわれなかっただろうと想像します。しかし後世の口伝の中に
「高弟たちの記憶の中の日蓮聖人」というか、そのへんに遡るものはあるのではないでしょうか。

>蓮師本仏観の成立には富士門僧による中古天台本覚思想や日隆師の教学の研さんと摂取が深く関与
>していると思います。

室町時代は執行師のいう「日本天台心酔時代」で何派であれ本覚思想であり、日有と日朝の教学にも
大差はなく、ただし要法寺や大石寺はこの時代の教学を冷凍温存したところに特徴があると考えます。
日隆師の影響というのは「本因下種」の明確な思想が日有師以前の富士派にはないという意味かと
おもいます。本因妙抄は京都布教が進んで「台当相対」(天台宗と日蓮宗の違い)が問題となる時期
に出来たと考えるのが自然でしょう(本因妙抄の最初の本文がどこまでなのかわかりにくいですが)。

しかし本因下種の思想は遺文から逸脱したものではなく、本果下種では説明できない遺文中の箇所
を説明します。「釈尊ヲハ因位ニハ日蓮ト称ス」などの直感的な口伝が先行した可能性はないのか。
日蓮正宗系の方に「御書(御遺文)」と「口伝書」をごっちゃにして真書とか偽書とかいう傾向が
幾分あるようにわたしには見えます。口伝書が「御書」と一緒の本になっているからとおもいます。
口伝書は通常はいっぺんに誰かが作ったのではなく、「日蓮判」とか「日興記」とかある場合でも
それらは誰かが加えた可能性があります。だから、ある口伝書がある著書の影響下に出来ただろう
とかは、編纂意図としてはいえるのですが、口伝書の箇条書のそれぞれは切紙としてそれより以前
に伝授されていた可能性があります。

80れん:2004/05/29(土) 07:35
地名さん、大黒師は産湯相承の成立そのものについてはあまり触れていませんが、所謂両巻血脈をはじめとする口伝書の成立には富士門における本因妙思想の形成(蓮師滅後の門弟による教学的付加作業)が大きく作用していると考えますので、その意味で参考にしてくださいという意味です。
顕正居士さん。ご教示ありがとうございます。ご見解に賛同いたします。

81地名:2004/05/29(土) 21:08

80 れんさん

>大黒師は産湯相承の成立そのものについてはあまり触れていませんが、所謂両巻血脈をはじめとする口伝書の成立には富士門における本因妙思想の形成(蓮師滅後の門弟による教学的付加作業)が大きく作用していると考えますので、その意味で参考にしてくださいという意味です。

はい、ありがとうございます。「その意味で参考に」いたします。御懸念いただきありがとうございます。

82空き缶:2004/05/29(土) 22:39

れんさん、私は「興風」は限られたものしか所持していないのですが、大黒師は「両巻血脈抄」の偽作の背景に日什師の思想へのけん制などを考察されていますでしょうか?

 特に「百六箇抄」には「或は又末代に於て経巻相承直授日蓮と申して、受持知識相承を破らんが為に、元品の大石僧形と成りて日蓮が直弟と申し狂へる僻人出来し、予が掟の深密の正義を申し乱さんと擬する事之れ有らん、即ち天魔外道破旬の蝗虫なり。上首等同心に之れを責む可き者なり。」との文(堀日亨師は富士宗学要集にて御加文としている)があり、明らかに日什師へのけん制と感じ取れます。

 隆門とあわせまして、什門の存在も相伝書類作成の背景として考えられるのではないでしょうか。

83空き缶:2004/05/29(土) 22:41
 
 訂正です。

 御加文→後加文

84名無し@ピンキー:2004/05/29(土) 23:04
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049307&VOL_NUM=00002&KOMA=18&ITYPE=0

これが、吉田兼益に授与されし御本尊です。

77番は誤りです。ご迷惑お掛けしました。

85犀角独歩:2004/05/30(日) 04:18

> 元品の大石僧形と成りて日蓮が直弟と申し狂へる僻人出来

私は、この一節を前から気にしていました。
ここで「大石」とは暗に‘大石’寺にこすっているのではないのか?という点でです。
まあ、考え過ぎかもしれませんが。

86犀角独歩:2004/05/30(日) 04:23

「一切衆生の元品(がんぽん)の大石、第六天の魔王、師子身中の蝗虫(いなむし)と成り、名を日蓮に仮りて、本迹一致と云ふ邪義を申し出して、多くの衆生を当(まさ)に悪道に引きいる」

ともあります。まあ、しかし、この記述当時の石山が本迹一致と批判される対象であったかどうか、一考は要しますが。

87犀角独歩:2004/05/30(日) 04:37

>87

建治元年12月の以下の漫荼羅
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/030.html

また、建治2年2月の漫荼羅と比較して、御筆漫荼羅とは違うと思います。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/031.html

88犀角独歩:2004/05/30(日) 05:03

【87の訂正】

誤)>87
正)>84

89顕正居士:2004/05/30(日) 08:50
元品の大石

両巻血脈の両方にみえみえに予言のふりをした低レベルの文章があり、「元品の大石」が化身し
本迹一致(本因妙抄)とおよび経巻相承、直授日蓮(百六箇抄)をそれぞれにとなえるという。
本迹一致のほうは最初に京都布教に成功した妙顕寺開山日像、経巻直授は妙満寺開山玄妙日什を
さすのでしょう。「元品の大石」は「調達が山を推す」から、提婆達多のような附仏法の外道が
あらわれる意味でしょう。けれども「元品の大石」なんという仏教語は見たことがない、大石寺
にでも掛けてあるんでないかとおもうのはもっともです。しかしこの言葉は両巻血脈以前の文献
に存在し、それは日蓮聖人の『祈祷抄』なのであります(「元品の大石を破らんと思ふに」)。

90犀角独歩:2004/05/30(日) 09:24

89 顕正居士さん:

真跡から「大石」で検索してみました。


南条兵衛七郎殿御書,文永元年(1264)12月13日43歳
「小船には大石をの(載)せず。悪人愚者は大石のごとし」

法華題目抄,文永3年(1266)1月6日45歳
「提婆達多又仏をうかゞい、大石をもちて仏の御身より血をいだし」

開目抄上,文永9年(1272)2月51歳
「提婆が大石をとばせし、阿闍世王の酔象を放ちし」
「此等の聖者は大火の中をすぎても、大石の中をとをりても、とぶら(訪)わせ給ふべし」

祈祷抄,文永9年(1272)51歳
「提婆が大石を放ち、旃遮婆羅門女が鉢を腹」
「大石を放って仏の御指をあやまちぬ」
「元品の大石をわらんと思ふ」

新尼御前御返事,文永12年(1275)2月16日54歳
「富士河と申す日本第一のはやき河、北より南へ流れたり。此の河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風を立て並べたるがごとくなり」

新尼御前御返事,文永12年(1275)2月16日54歳
「谷に下りてたづぬれば大石連々たり」

撰時抄,建治元年(1275)6月10日54歳
「大石を負ふて大海をわたらんはやすし」

光日房御書,建治2年(1276)3月55歳
「但し大石も海にうかぶ、船の力なり」

報恩抄,建治2年(1275)7月21日55歳
「大石をなげて仏の御身より血をいだし
「提婆が長三丈、広さ一丈六尺の大石」

四條金吾殿御返事,建治3年(1277)4月56歳
「西ざかを大石をまろばすやうに引き下して頸をうち切りたりき」

下山御消息,建治3年(1277)6月56歳
「重病に軽薬を授け大石を小船に載せたるが如し」

盂蘭盆御書,弘安2年(1279)7月13日58歳
「大石の天にのぼらんとせんがごとし」

聖人御難事,弘安2年(1279)10月1日58歳
「大石の頂にかゝりし」

大尼御前御返事,弘安3年(1280)9月20日59歳
「くぶし(挙)は大石のごとく」

諌暁八幡抄,弘安3年(1280)12月59歳
「小船に大石をつめ(積)るがごとく」

富城入道殿御返事,弘安4年(1281)月22日60歳
「一丈二丈の大石は枯葉の如く浮かび」
「大石の小丸を始めとして廿余人に、王法に敵を為し奉れども」

以上の如く多々使用例が見られました。殊にご指摘のとおり『祈祷抄』に「元品の大石」という句が見られ、すなわち該当の『本因妙抄』の「蝗虫云々」の記述とも一致します。


ご教示尤も拝した次第です。有り難うございました。

91名無し@ピンキー:2004/05/30(日) 12:10
犀角独歩様
あの御本尊様は、吉田兼益授与日之宮曼陀羅と申して、御本尊集には載せる事が
出来ず、尚相貌が特殊で前後に同じような容で顕示がなされなかった事情もあり、
御本尊集に掲載されませんでした。掲載されない事情は他にもありますが・・・
立正安国会の片岡随喜居士は一般の曼荼羅と特殊曼陀羅の存在を立て分けて考え
特殊曼陀羅には真偽の偽の面が強く感じられその存在を認めなかったのではない
でしょうか。
現在吉田兼益授与日之宮曼陀羅は、真筆が存在していますし、岩本山ではなく
富士門流の古刹にその由緒を伝えており、かっては姉崎博士がこの御本尊の表具
替えの際に、裏書があったのを、表具屋が持ち出し紛失をしてしまい、それを
抗議する為、大阪北野の蓮華寺に赴き住職に抗議したようです。

92地名:2004/05/30(日) 15:58

日本全国にある「富士山」名の山々

 1.富士山 ふじさん 静岡県 3776m
 2.富士山 ふじさん 長野県 1029m
 3.富士山 ふじさん 福島県  509m
 4.富士山 ふじさん 岐阜県  357m

 5.富士山 ふじやま 栃木県 1184m
 6.富士山 ふじやま  同   427m
 7.富士山 ふじやま  同   365m
 8.富士山 ふじやま  同   214m
 9.富士山 ふじやま 茨城県  183m
10.富士山 ふじやま  同   152m
11.富士山 ふじやま  同   128m
12.富士山 ふじやま 埼玉県  221m
13.富士山 ふじやま  同   183m
14.富士山 ふじやま 千葉県  285m
15.富士山 ふじやま 神奈川県 183m

16.富士山 トミシヤマ 471m 広島県

「天母山」 あんもやま 静岡県富士宮市 490m

「身延山」 みのぶさん  山梨県身延町、早川町 1153m
「七面山」 しちめんざん 山梨県身延町、早川町 1989m

93れん:2004/05/30(日) 16:45
空き缶さん。
>82、大黒師のあの覚書は富士門流における本因妙思想の形成に関する考察が主題ですので、両巻血脈と日什師門流との関係については触れられておりません。が、私は空き缶さんの仰る通りと思います。
犀角独歩さん。両巻血脈の中の元品の‘大石’については基本的には顕正居士さんのご教示と同感ですが、独歩さんの仰る通り、尊門あたりの石山に対する当て付けとみることも充分可能だと思います。

94地名:2004/05/30(日) 16:53

「仏名の山」 (2.5万分図に記載された山のみ)

「山名」としては文字が異なっても同じ仏名と思われるものは同一名として数える。(例:釈迦如来には「釈迦ヶ岳」等…)
主山名のほか、別称名の場合も含む。

如来の部

仏  41山 (特定の仏を指すのではなく、仏の文字が含まれている山名)
如来  1山 (如来という文字が含まれているだけの山名)
薬師如来 45山
大日如来 24山
金剛(薩捶) 16山
釈迦如来 14山
阿弥陀如来  9山(弥陀だけも含む)

米 日蓮山も大日蓮山もない。 出所:「日本山名総覧・1万8000山の住所録」武内正著、1999年

95地名:2004/05/30(日) 16:59

続く

菩薩の部

観音菩薩  54山
虚空蔵菩薩 30山
地蔵菩薩  27山
文殊菩薩  10山
普賢菩薩   5山
如意輪観音菩薩 5山 (如意だけでいいとした)
馬頭観音菩薩 3山
弥勒菩薩   2山
日光菩薩   2山
勢至菩薩   1山
千手観音菩薩 1山

* 上行菩薩 の名はない

96地名:2004/05/30(日) 19:20

當宗相傳大曼荼羅事」延文三年正月十八日、日像傳、大覚記(日朗門流)『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P280

「一 日蓮名乗給事
示云 日本導師故日蓮付也 三国三光所成事如上生国相応義也云々 又日本門月迹門也 又蓮字蓮華者蓮實也本門華権迹門捨権弘實導師 又本化迹化中本化云事顕也 或又云其因縁蓮師母夢日天子蓮花坐手取御覧懐妊設給故幼稚時日種云薬王丸申也 生長後日蓮實名申仮名是生房申也 是生者日下人是字書 是又生国相応仮名云々
示云 昔釈尊御母麻耶夫人七月七日夜御夢日御覧有御懐妊仍太子日種申也云々 蓮祖日種申蓮師御母一向不知如是付只夢想任自然如是也 以下略

97犀角独歩:2004/05/30(日) 20:15

91 名無し@ピンキーさん:

当掲示板における申し合わせ「さん」付けでお気軽にどうぞ。
わたしもそうさせていただきます。
このスレッドは、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』891におけるご投稿に由来するものですから、ここにようやくと議論をできることを嬉しく存じます。

わたしは毎日のように山中師『御本尊集』123舗を何度も瞥見しております。
その結果、御筆漫荼羅には図示年代を特定できる特徴を有していることにほぼ確信を懐いております。以上の管見から記したのが85の投稿でした。

> 特殊曼陀羅

これはご投稿から拝すれば、図示の時代変遷における特徴が反映されず、かつ『御本尊集』にも掲載されない漫荼羅という意味であると拝察いたします。
恐縮ながら、わたしはこのお考えには消極的です。
その時代的特徴、もっと言えば御筆漫荼羅そのもの特徴が反映されない漫荼羅は、要は「御筆漫荼羅に非ず」という見解です。

しかしながら、この漫荼羅を名無し@ピンキーさんが真筆と仰ぐのにはそれなりの理由があろうかと存じます。たとえば本紙、墨などの科学的検証を経てのことなのでしょうか。お記しいただければ参考にさせていただきたく存じます。

98犀角独歩:2004/05/30(日) 20:16

れんさん、有り難うございます。
わたしは案外、こういう言葉の裏腹に文書成立の背景が潜んでいるのではないのかと考えてしまうわけです。たとえば『五人所破抄』に「隋身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か」などと読むと、直ちに常師、その二人の継子・頂師と澄師のことを思い起こしました。つまり、この表現は常師から向師を経、富士に至ったその継子に侮蔑をはらんだ表現ではないのか?と考えるわけです。執行師も指摘するところですが、当時の重須は本堂派(代師系列といって善いのか?)と檀所派(澄・順)は違う系譜を形成していたと言います。となれば、『五人所破抄』は本堂派が頂・澄を睥睨しながら編纂したもので、反面、『富士位置跡門徒存知事』は澄師の継承者・順師の法脈者が編纂したものかと想像を逞しくしたりします。けれど、挙証主義などと嘯いているのにここでは資料手放し、類推の枠に過ぎません。ですから、慧眼の諸師の研究結果とは必ずしも一致しないかもしれません。

地名さん、充実した資料のご呈示、興味深く拝読いたしております。
山を仏菩薩にとらえるというのは、山岳信仰が神仏習合で焼き直された結果なのであろうと考えます。
雑駁な記述になりますが、古墳時代、陵墓を形成したのは、人は死ぬと山になるという考えに基づいたと読んだことがあります。人は山になり、神になるという考えです。還元すれば、すべての山は皆、人が山となり神になったものであるということでした。こんな考えが山岳信仰から日本教のカミを形成し、仏教流入後には神仏習合して仏菩薩の名を山に冠する結果になったのであろうなどと想像を逞しくしながら、アップいただいた資料を拝読いたしておりました。

『當宗相傳大曼荼羅事』で蓮師の幼名が「薬王丸」で「善‘日’丸(麻呂)」でないところに目が引かれました。

99犀角独歩:2004/05/30(日) 20:20

【98の訂正】

誤)富士位置跡門徒存知事
正)富士一跡門徒存知事

誤)還元すれば
正)換言すれば

他にあれば、ご判読いただきたく存じます

100名無し@ピンキー:2004/05/30(日) 21:02
犀角独歩さん
もっと気楽にお話を致しましょう。
各寺院も厳護している御本尊については、由来・伝承も檀信徒以外には認知されず
旧態依然とした、封建的体質が色濃く残っています。
私は特殊曼陀羅も真筆として持論を立てていますが、ご指摘のように紙・墨の濃淡
も科学的に立証されなければいけませんので、先程の特殊曼陀羅は間違えなく、
鎌倉時代中期の和紙で、墨も炭素からその当時の物に他ならないと検査の結果、判明
しています。
特殊曼陀羅といえる御本尊は、身延派・富士派の区別なく古刹寺院にはあるのではない
でしょうか、研究には私財と時間がかかり、宗史を志す方なら興味を持つべきでしょう。

101犀角独歩:2004/05/30(日) 21:06

名無しピンキーさん:

> 特殊曼陀羅…宗史を志す方なら興味を持つべき

一見して偽物とわかるものに興味を懐く必要があるのでしょうか。
まあ、視点を変えて、贋作捏造品が与えた影響というテーマは確かに興味の対象ではあります。

102れん:2004/05/30(日) 21:52
顕正居士さん。
>75、手元に本尊論資料がありますので、75にてご引用の本地垂迹口伝を興味をもって読みましたが、本文は「又此経恵日宣釈尊因位称日種云々…」とあり、手持ちの本尊論資料では因位称日蓮ではなかったことをご報告申し上げます。
地名さん。なるほど興門以外でも、蓮師の名乗りについて実否は別として蓮師の御母堂の夢想の因縁を挙げているものがあったんですね。先程手持ちの本尊論資料で確認しました。これはそれなりに興味深いことです。
犀角独歩さん。文書の記述から、文書の成立の背景を読み取られる慧眼に敬服いたします。

103名無し@ピンキー:2004/05/30(日) 22:06
犀角さん
追加です。逆に偽筆と論を立てた場合には、科学的根拠(紙質・墨)が立証されても
それだけの顕能をもった人物が当時の時代に他にいたか考えなければいけません。
国柱会が今も佐渡始顕の本尊を本部に奉安していますが何故でしょうか?
真筆は現存していませんが国柱会は真筆論を立てています。
筆法が前後相違しなければ、真筆として扱われるのが安国会の御本尊集だと思います。

104名無し@ピンキー:2004/05/30(日) 22:06
犀角さん
追加です。逆に偽筆と論を立てた場合には、科学的根拠(紙質・墨)が立証されても
それだけの顕能をもった人物が当時の時代に他にいたか考えなければいけません。
国柱会が今も佐渡始顕の本尊を本部に奉安していますが何故でしょうか?
真筆は現存していませんが国柱会は真筆論を立てています。
筆法が前後相違しなければ、真筆として扱われるのが安国会の御本尊集だと思います。

105名無し@ピンキー:2004/05/30(日) 22:07
104番、削除願います。

106顕正居士:2004/05/30(日) 23:00
れんさん。

「日種」であり、「日蓮」ではありません。わたしの見間違いです。また昭和40年代に出た本は
影印復刻で内容に差はないはずです。有難うございます。口伝を捏造するところでした。

「摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給ふ。かるがゆへに仏のわらわなをば日種
という」(撰時抄)

ですから本地垂迹口伝にいう「釈尊ノ因位」は今番の出世でまだ菩薩であられた時という意味です。

107犀角独歩:2004/05/31(月) 02:04

名無し@ピンキーさん:

> 偽筆と論を立てた場合…それだけの顕能をもった人物が当時の時代に他にいたか考えなければいけません。

当時とは何時を指すのでしょうか。また、何故、そのようなことを考えなければならないのでしょうか。

> 国柱会が今も佐渡始顕の本尊を本部に奉安していますが何故でしょうか?

何故ですか。

> 真筆は現存していませんが国柱会は真筆論を立てています。

それは国柱会のお家事情であり、わたしが漫荼羅真偽を考えることとはまるで関係ありません。

> 筆法が前後相違しなければ、真筆として扱われるのが安国会の御本尊集

そうでしょうか。では、本尊集のなかで真筆が遺らないで、そのように扱う本尊集掲載の漫荼羅をすべてご教示いただけますでしょうか。

108顕正居士:2004/05/31(月) 05:22
卜部兼益授与の御本尊

ピンキーさんは特殊な曼荼羅にも真蹟があり得るとおっしゃりたいのだと拝察します。
特殊な曼荼羅とはこの御本尊のように二十八宿を総勧請してあるような場合でしょう。
『妙宗先哲本尊鑑』と『御本尊集』しかこの方面で権威ある書籍がなく、『本尊鑑』には
載っているのだから、真蹟の可能性を検討するべき御本尊の一つでしょう。

「鎌倉時代中期の和紙で、墨も炭素からその当時の物に他ならないと検査の結果、判明」
したのは何時のことで、誰が調査し、何という書籍あるいは雑誌に書かれたのでしょうか?

「真筆が存在しています」、「岩本山ではなく」とはどういう意味なんでありましょう?
「真筆が存在しています」なら、議論する必要がなく、真蹟と認定された経緯を記せば
済みます。重文に指定された、古文書か日蓮宗学の権威が著書で述べた、などです。
「岩本山ではなく」とは「真筆」は別の山にある意味なのでしょうか?とにかく、今少し
おっしゃりたいことを整理してみられたら。お知り合いの住職さんから口頭で聞いたこと
ならば、もう一度、「何時のことで、誰が調査し〜」をお聞きになったらいかがでしょう。

109空き缶:2004/05/31(月) 07:51

『妙宗先哲本尊鑑』の第2冊・15Pに「万年救護本尊」の模写が出ています。
 万年救護本尊の真筆写真と『妙宗先哲本尊鑑』掲載の模写を比べますと、決して上手な模写とはいえないと思います。(はっきりいって似ても似つかない、主題の長さも全然違います)
 
 したがいまして、名無し@ピンキーさんのいわれる曼荼羅も実際の伝真筆曼荼羅は、『妙宗先哲本尊鑑』掲載の模写からは想像もつかないものではないかと想像します。
 
 やはり模写はどこまでいっても模写であり、「過去にあった」ぐらいのデータにはなっても、それをもとに真偽の鑑別をするのは難しいと思われます。
 名無し@ピンキーさんよりの真筆写真の公開があれば、鑑別も可能かと思われます。写真公開可能でしたら是非お願い致します。

110犀角独歩:2004/05/31(月) 11:57

空き缶さん:

『妙宗先哲本尊鑑』万年救護之御本尊 上総妙本寺
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049307&VOL_NUM=00002&KOMA=15&ITYPE=0

これが文永11年12月No16本尊(万年救護本尊)とは一瞥しただけでは気付きませんでした。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html

並べてみました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/manen_mosha.jpg

ここまで違うと最早、模写とも言えない気がしますね。

111空き缶:2004/05/31(月) 12:21

犀角独歩さん、早々の画像処理ありがとうございます。

 並べてみると模写をされた方の性格といいますか、なんともいいがたいものを感じます。

112犀角独歩:2004/05/31(月) 12:42

自己レスですが、

87に伝・吉田兼益授与漫荼羅に就き、模写を御筆漫荼羅の筆跡と違うと論じましたが、空き缶さんのご指摘を受けて第16本尊で『妙宗先哲本尊鑑』模写とこれを比較したところ、相貌、筆法その他はまるであてにならないことがわかりました。

この漫荼羅原本が存在した可能性を考えるのであれば、何を基準にするべきか。これはやはり、108に顕正居士さんがご指摘の点であろうと思います。

なお、わたしは個人的に山中師『御本尊集』掲載漫荼羅のなかにも何点か蓮師真筆とは疑わしいものも含まれていると思います。しかし、その本紙を閲覧し、また科学的調査をできる立場にあるわけでもありませんので、この点は特に追求しないこととしているばかりです。

ともかくも蓮祖門下文献、さらに派祖文献、なおさらに各派文献は、もっと徹底した学術調査がなされるべきであると考え、それを強く希望するものです。

さらに余計なことを記せば、蓮門で切紙相承がいつ頃からなされるようになったのか?という点について、79に顕正居士さんが「切紙伝授が日蓮聖人の時代にはじまったとは考えません」と仰せになる点はわたしも頷くものです。

このような文書相承は口伝の変形なのか、あるいは允可書のようなものの類型なのか、わたしはさらに考えてまいりたいと思っておりますが、「南無妙法蓮華経」は本来、臨終正念として最期の床にある者の耳元で囁き伝授されたという原型があると言い、これは一種の口伝?と言えるのだろうかと考える面もあります。

また、蓮師の漫荼羅図示と授与は一種の文書相承の変形と見なすことはできるのだろうか怪しむ面もあります。

これまた顕正居士さんが「日蓮正宗系の方に「御書(御遺文)」と「口伝書」をごっちゃにして真書とか偽書とかいう傾向が幾分ある」とご指摘される点は、襟を正すところがあります。蓮師遺文の形式を取るもので偽書は多く存在するわけで、この選別は最も基本的な作業でありながら、しかし、それぞれの真筆と扱い門下を教導してきた歴史的事情もありいまさら斥けられないというジレンマが現状にあり、そんな情緒面からも至難な側面を孕んでいると観察できます。故にわたしはかなり執拗に真跡遺文に就き喧しくする態度で一貫してきました。

しかし一方、相伝、口伝の類は、派祖本仏などと言われる本覚影響下の「お偉いさん」への無条件服従の背景で、師を日蓮、もしくは仏、釈尊と仰ぐ信仰様態の中では、師の言は直ちに仏聖人の言とするという受容形態が背景にあります。この歴史は既に平安朝、あるいはそれ以前に遡れるのだろうと思えます。このような現場で、相伝・口伝を蓮祖に遡源できるかを問うことはある面、ナンセンスな側面はあります。

しかし、それでも時代考証において、文献の成立、語彙の成立、思想様態などを具に分析すれば、概ねそれら伝授がいつの時代まで遡れるかは大方の見当は立てられるかもしれません。しかし伝授内容自体を問う相伝・口伝の考証では、それをまとめた文献の真偽を問うことはもちろん意味をなさないことであると思うわけです。

いずれにしても、問題にされるのは、常に「事実」と言うことであって、教団あるいは信者の信仰上の証とは別の事実証拠である点に、ここ富士門流信徒の掲示板と管理者さんの秀でた面をわたしは仰ぐわけです。

その意味において、顕正居士さん、れんさん、地名さん、空き缶さん、また、愚鈍凡夫さん、山学無縁さんをはじめとする皆さんの真摯な文献呈示と考証に改めて敬意を表するものです。

名無し@ピンキーさんまたその他の方々が、この考証議論にさらに参加されることを期待申し上げるものです。

113犀角独歩:2004/05/31(月) 12:58

―112からつづく―

近日の文献呈示でお一方、漏れてしまいました。
菱村正敏さんのご投稿にも敬意を表するものです。

三学無縁さん、また名前を間違えました。失礼。

114名無し@ピンキー:2004/05/31(月) 22:00
皆さんの疑問にある特殊曼陀羅は、日蓮正宗の末寺に秘蔵され現法主様もその存在
を認知しております。
これ以上は、現段階では申しませんが、堀上人が裏書をされています。
現物の曼陀羅は、建治年間前後の楮紙で、筆法は首題が小さいとまで言っておきましょう。

115犀角独歩:2004/05/31(月) 23:14

無し@ピンキーさん:

何か勘違いなさっておりませんか。
当掲示板では阿部さんや、堀さんがそれを認めた云々は、何の証憑性にもなりませんよ。

ただし、楮紙であるというのは一つのハードルは越えていることにはなるでしょう。

116犀角独歩:2004/05/31(月) 23:16

失礼。

誤)無し@ピンキーさん
正)名無し@ピンキーさん

それともう一つ。お尋ねしますが、阿部さん・堀さんは「特殊曼陀羅」なる語彙はどこで使用しているのですか。

117犀角独歩:2004/05/31(月) 23:18

また、だらだらと書いて恐縮ですが、該当漫荼羅は身延にあったものではありませんでしたか。
それに堀さんがどうやって裏書きをしたのでしょうか?

118空き缶:2004/06/01(火) 00:32

>114
日蓮正宗末寺の所蔵では、写真公開は期待できませんね。
ニセ本尊を本物であるかのように信じ込ませるには、どうしても隠しとおさなければならないものがありますからね。
末寺分は公開して本山所蔵分は隠しとおすなんて不自然すぎますもんね。
私は日顕師の鑑定眼をもってして真筆と判断されるならば、恐らく該当曼荼羅は真筆なんだと思います。(河辺メモのような正確な本尊鑑定のできる方なので)

119空き缶:2004/06/01(火) 00:35

>112
犀角独歩さん、恐れ入ります。
私こそこの掲示板に参加させていただき、日々目から鱗の落ちる思いです。
今後とも宜しくお願い致します。

120地名:2004/06/01(火) 01:08

112 独歩さん

私も、空き缶さん同様、この掲示板に参加させていただき、仏教再考の初学の一歩を踏み出すことができました。空き缶はじめ大先輩の方々の中で恥多き引用ばかりの初学の者・末輩にすぎませんがこれからもみなさまのご厚情をよろしくお願い申し上げます。

以下は朗門の資料ですが、「本門寺」とありましたので引用いたします。

本尊ノ聞書」   私云是ハ比企谷相承の趣也ト傳給ヘリ(日朗門流)        
                       『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P325
「一 四天を書く時は、北方は多聞天と云て毘沙門は鬼門の方を守るなり。本尊は不爾、是れ本門寺の戒旦建立の時の面なり。然に本門寺戒檀は西面に立べきなり。その故は、像法は仏法東漸とて、西土より仏法渡り、末法に至りては西土へ仏法渡るなり。故に西を守りて西面に立べきなり。西面に立れば自を鬼門に成るなり。」(私注:カタカナをひらがなに直し、適宜句読点を入れた)


以下は上記とは関係ありませんが、現在「本門寺」を称しているのは

富士門流では
1.北山本門寺
2.西山本門寺
3.讃岐本門寺
でしょうか。

日朗門流では
1.池上本門寺
でしょうか。
間違っていたら訂正いたします。

121れん:2004/06/01(火) 06:18
>112
犀角独歩さん。こちらこそ独歩さんや皆さんから多くのことを学ばせて戴いております。今後ともご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。草々。

122みかん:2004/06/01(火) 11:51
4.神奈川の富士山本ry

いや剣呑剣呑

123犀角独歩:2004/06/01(火) 13:16

空き缶さん:

> 顕師の鑑定眼…該当曼荼羅は真筆
> 河辺メモ…正確な本尊鑑定

なるほど。『図解必携大石寺本尊の鑑別』はその線で記すところでした(笑)

名無し@ピンキーさん:

「該当漫荼羅は身延にあった」はわたしの勘違いでしょうか。
いまはいずこですか。

> これ以上は、現段階では申しません

この手の秘密譚はやめにしませんか。
「師に握挙無し」でこそ、仏教でしょう。
「言えないけれど、これは真実だ」なんていうのはペテン師の論法だとわたしは思いますね。真筆である証拠があれば、勿体ぶらず、披露されれば宜しいだけのことです。
そうしないと眉唾とロム者は思う以上何の効果もありません。付き合わされるほうからは雲を掴むような噂話、それ以上に意味を持つことはありません。議論・論考には馴染めないものですよ。

R・チャルディーニは『影響力の武器』第7章 希少性―わずかなものについての法則で
「ある情報を得ることを禁じられると、私たちは、禁じられる以前よりもその情報を求めるようになり、その情報をより好ましく思うようになるのです。検閲された情報が聴衆にもたらす効果について興味深いのは、聴衆が以前より情報を求めるようになるということではありません。それは当然のことといえるでしょう。興味深いのは、聴衆が情報を受け取らないのにその情報を信じるようになるという点です」(P300)

とその心理的効果を説明します。秘密めいた話は以上の如き心理テクニックと解されるばかりで、ビジネス、セールスという世俗の商売、トーク・テクニックと類します。
こんなものに引っかかる人はここにはおりません。

124犀角独歩:2004/06/01(火) 13:29

地名さん:

> 本門寺戒檀は西面に立べきなり…

これは『本尊三度相伝』の
「本門寺の戒壇は西面に立つ可きなり、其の故は像法の時は仏法東漸す西土より仏法を渡す、末法に至つては西土へ仏法を渡すなり故に西を守て西面に立つ可きなり、西面に立つ自ら鬼門の方と成るなり」

既に執行師が指摘されたことでした。『本尊口伝相承書の研究』でしたか。

以上のことは今更言うことでもありませんが、ご指摘の「池上本門寺」、この寺名はやはり目を見張るものがあります。

本尊相伝の同源、そして寺名の一致、上古では朗興二門は極めて近距離にあった証左であろうとわたしには思えます。これも今更言うことでもないでしょうか。

127地名:2004/06/01(火) 23:14

124 独歩さん

>上古では朗興二門は極めて近距離にあった…

独歩さんのこの言葉が気になったものですから、本尊論集を見て各門流でどうなっているのだろうと調べています。以下は常門の日文字(にちもじ)相伝です。

「日文字相傳」         日實記之(日常門流 中山流−親師流−日實流)  
                       『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P516
「日文字相傳
示云釈尊名日種経云恵日大聖尊云々 天照大神名日神 国日本国申又日域云 此日文字横三点竪(たて)二点加書 妙法蓮華経五字也 其法華経如日月(薬王十喩) 然者国日文字 娑婆世界主釈尊日文字 天照大神日文字 依之末法導師日蓮名乗給 仍用日文字事尤深旨云々 此日輪東方出給 東字日本書 木火二法肝心二蔵 仏法東漸是也 故日蓮名乗生日本国垂給也 されば日蓮二字南東習也 日月垂迹御座 故蓮水生 故感応道交自本迹一如名顕也 判口傳事別紙在之 是以上行菩薩御垂迹習也 経云爾時仏告等○如日月光明○衆生闇○決定無有疑云々 天台云子弘父法有世界益云々 此経文斯人行世間間云斯人経文當家秘密有之能々可口傳云々                           
                日 源 ――― 日 實 ――― 日 怡    」
(私注:カタカナをひらがなに直した)

128空き缶:2004/06/02(水) 01:49

犀角独歩さん、管理人さん、他掲示板より転載します。

*****************************

某掲示板 投稿者:宿坊 投稿日:06/01(火) 18:34 PC No.4477

友人から連絡を受け教えていただきましたが、宗旨研鑽のまじめな某掲示板にて、不届きものが宿坊の名前をかたり、フェイク第519号(発行=04.05.29)投稿したものがいます。
このようなことをして喜ぶのは日蓮正宗並びに法華講ではないでしょうか!?
IPを公開すれば誰が投稿したかすぐにわかるものです。


dhcp-2771.nava21.ne.jp Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1) Opera 7.11 [ja] (ID:404092128552)


******************************

本物の宿坊氏ではないようです。彼はここを「真面目な掲示板」と評しています。
宿坊氏のIPが表示されている掲示板からの転載ですので、管理人さんの協力を戴ければ125のカキコが本当の宿坊氏によるものか否かわかると思います。
他人のハンドルを使って、当掲示板を荒らすなど言語道断であると思いますので、真相究明をお願いしたいと思います。

129管理者:2004/06/02(水) 06:09

独歩さん
空き缶さん 

125の、自称「宿坊」氏の発言は、当掲示板の禁止事項に該当しますので、削除致します。なお、ホストを調べましたところ、128に空き缶さんが示してくださったホストとは異なっておりましたので、某掲示板における、「不届きものが宿坊の名前をかたり、フェイク第519号(発行=04.05.29)投稿したものがいます。」との、宿坊さんのご発言は裏付けられました。

なお、IPの公開につきましては、当掲示板では、現在までのところ、議論や取り決めが有りませんので、現段階での公開は差し控えさせていただきたいと存じます。この点につきましては、「管理者からのお願い」スレッドにてご議論を賜りたいと存じます。

当面の措置として、自称「宿坊」氏のIPアドレスに書き込み規制措置を取りました。御理解賜りたいと存じます。

130犀角独歩:2004/06/02(水) 16:41

空き缶さん:
管理者さん:

しかし、他人の名と記事でスレッドテーマと関係のない投稿をするというのはいったい如何なる神経なのでしょうか。他人の名と記事を騙って投稿。まあ、一種の真贋問題と言えなくもない……、いやあ、言えませんでしょうね。

集団から与えられた他者蔑視と憎悪で、情報を配布。いつも出入り禁止になる人々の有様は一緒です。個性というものがありません。ファンダメンタリズム、カリスマ崇拝、全体主義者の性格、すなわち権威主義的パーソナリティの典型的見本をまた見ることとなりました。

131地名:2004/06/03(木) 00:10

独歩さんにお伺いいたします。

日向門流  藻原流                                
                      『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P378-9
「御本尊十界習事」                         日海記    
「一 日神輿法華一体習事」                            
「天照大神・面女体なれとも実・陰陽和合神也 陰陽即本迹二門也 又・天云字・二人書是則陰陽也 又明神・明字・日月也 是則陰陽也 所詮・陰陽和合神併法華本迹全体習時・日神輿法華一体也 或傳云・西天・顕釈迦・任諸仏之本意・説妙法蓮華経・今此三界皆是我有・名乗給 吾朝・天照大神顕・為国主・守正直衆生給 是併釈迦輿天照一体義也 末法・顕日蓮聖人・顕諸仏本意之要法給 然即・釈迦・上行・日神・日蓮・只一体習也 日種・日神・日蓮・可思之」                             
(私注:カタカナをひらがなに直し、適宜句読点等を入れた。)
(私注:上記にある「或傳云」は下記では記されていません。)

日朗門流
                     『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P324-325
「本尊ノ聞書」   私云是ハ比企谷相承の趣也ト傳給ヘリ              
「一 釈迦と申は天照大神也 西天にては顕釈迦・諸仏本極の妙法蓮華経を説き一切衆生悉是吾子と宣たり 日本にては又・顕大明神・酬正直捨方便の本願・宿正直之頭玉へり 末法濁世之時は顕日蓮聖人・顕諸仏本意玉ふ されは釈迦・上行・天照大神・日蓮上人・只一体と習也 故に釈迦・幼少の御名を・号日種・天照大神・幼少の御名を日種と申す尤も有謂事也 其上・天照大神は即・法華本迹の体にて御座也 天照大神は・面は女体にて御座せとも・実には陰陽和合の神にて御座ある也 天と云字は二人と書たり 是則・陰陽の二也 明神の明の字は又・日月と書たり・則・日月は陰陽の体にて本迹二門也」
(私注:カタカナをひらがなに直し、適宜句読点等を入れた。)
(私注:上記で、日蓮「聖人」と「上人」と語が異なるが「本尊論資料」のまま転記した。)

「 釈迦・上行・天照大神(日神)・日蓮 → 一体 」とありますが、どのように会釈すればいいでしょうか。

132犀角独歩:2004/06/03(木) 13:14

地名さん:

他門相伝のご呈示の意は、たぶん、わたしの考え、蓮師はご自身を上行再誕という確信にいたっておらず、蓮師を直接上行応化と見なしたのは本弟子6人中、興師であって、他のお弟子方は存命中はこの考えに消極的であり、その後、徐々に日蓮門下一般の通説になったという考えを確認されるためであろうと存じます。

その意味からご呈示の資料が、だいたいいつの時代であるかを特定することが必要になってこようと思います。しかし、相伝であるので成立時期の特定はなかなか難しいかもしれません。碩学の執政を仰ぐところですが、資料手放しで記せば、同対異名相伝は日文字相伝のあとに成立し、その時期は祖滅100年より下れないのではないのか、と類推を申し上げたいと思います。

真跡から見る限り蓮師がご自身を上行であると思っていたと確信できるものはないとわたしは受け止めます。しかし、興師に濫觴を見、重須で確定した思想なのではないかと思えます。

この後、「悉く日蓮」の類の同体異名相伝は成立していく時系列ではないでしょうか。全日蓮門下のその濫觴を興師と言えば、大胆すぎるのかもしれませんが、いまのところ、わたしはそのような認識を持っています。

133犀角独歩:2004/06/03(木) 13:15

【132の訂正】

誤)碩学の執政
正)碩学の叱正

134犀角独歩:2004/06/03(木) 13:42

ちょっと、地名さんのご質問から離れますが、ご呈示の同体異名相伝は、現在とその趣が異なり、仏本神迹ではなく、神本仏迹で一貫しているのではないのか?とわたしには思えます。是一

もう一点。これは皆さんのご意見を賜りたいのですが、釈尊・上行・天照(・八幡・十羅)・日蓮が一体であると言う、その部分を切り出して、天照・日蓮が一体と言ってしまうとき、平たく言えば、日蓮は天照であるから、いまの天皇の祖先であると、こうなってしまいます。こう考えるとなかなか大胆な考えであると思うのですが、この解釈は是なのでしょうか。是二

いずれにしても、これら相伝類は神道色が濃い、というより神仏習合の思想背景に基づくのでしょうが、ここに山岳信仰との融和を見ると如何にも興門という感じがします。

135地名:2004/06/04(金) 01:18

132 独歩さん

大変ありがとうございます。
このご指摘は重要であると思いますので、十分に踏まえながら考究していきたいと思います。
重ねて御礼申し上げます。

なお、134については、是一・是二・是三ともいまの私にはコメントしうるだけの知識がありません。
一部の書物では本地垂迹から神本へ移行したとする考えを述べられているものもあるように思われますが、いまの私には軽々に言えません。
神仏習合はあくまで私の推測・憶測・妄想にすぎませんが、仏本ではないような気がいたします。
ただ、初期の習合においては、「本来わが国の神祇には、強い信仰性はあっても、思想・教義はなかった。清らかな心、正直な心をもって神を祈るという、実に素朴な信仰で支えられている。それに寄生していった仏教の側としても、あえて深い思想や理論的裏付けを必要とせず、習合することこそ先決であったといえよう。」(「神仏習合」逵日出典(つじひでのり)著、昭和61年、P85)と。そして、それは「金色燦然と輝く仏像を前にして、わが国固有の信仰対象である神と対比するとき、あまりにも大きく異なる対象であることか。天皇はいうにおよばず、周囲の群臣たちにも共通した驚きであったことだろう。」(同書P18)と。
著者は「わが国固有の神と大陸伝来の仏が、しだいに接近し、やがて習合するに至る素地は、仏教の伝来以後少しずつ培われていった。本来、相当に内容を異にする二つの宗教は、対立こそあれ、歩みより習合するといったようなことはまことにめずらしい。
したがって、その素地の形成には、日本特有なものが作用していることと思われる。四方を海で囲まれた列島、山がちで、山々の間に点々と散在する小さな平地、このような地理的環境は、日本人の生活を考える場合、まず念頭に置かねばならぬ基本的な条件であろう。それに明瞭な四季のめぐり、これも基本的な条件として無視できないであろう。神仏習合の素地の形成には、日本の風土、日本人の心情などが強く働いていたであろうことに注意しながら、いくつかの角度から」「神と仏が習合する素地」「をみつめていくことにしたい。」(P15-16)と。

136地名:2004/06/04(金) 01:30

「身延相傳」
「二神勧請事」                        日傳記  示日鏡  
「一 天照太神輿出雲大社法華法門習合事
示云凡・日神善神也 素戔鳥尊悪神也 然・元品法性天照太神顕・元品無明第六天魔王顕されは天照輿魔王夫婦契御座申・無明即明形表玉と習也 又天照太神日神云々 素戔鳥尊出雲国宮居し玉等云々 日対法性・雲対無明・可思之 夫・そさのを尊・悪事故・日神・天岩戸籠玉者・法性為無明被覆形也 雖然・日神遂岩戸出・そさのをの尊出雲国流玉云るは・無明為法性被断破形也 如此之振舞・無明法性功能顕玉 されとも二神兄弟事・無明法性一体不二の実義顕也 又朝日欲出之時・東天必横雲聳 是即法性欲現之時・無明発動形也 日出横雲即退散・法性明了折節染体自虚事相目前見 仍日神輿出雲大社兄弟二神善悪現玉 併法華円経実義事相見形習也 挙一例・何神慮皆悉法華内証顕不可有之・能々此等得心御本尊勧請意趣可存知也 可秘之                       

尋云・日神・素戔鳥尊諍様如何
答・別余所有之・雖然・不知本体法門難知之故一端可載之・凡・天地開闢後・天神七代之末・伊奘諾・伊奘册・二柱御神・天浮橋上して天逆鉾指下給・滄海捜玉ひしに鉾滴島成・是をヲノコロ島名・二柱御神・彼島天降給・大八洲生給・山川草木生定給・天下主生さらんやとて・所謂・一女三男生玉・日神・月神・蛭子・素戔鳥尊・是也・後・日神日本国授玉・地神五代始・天照天神・是也・然・御弟そさのをの尊此国諍玉蠅なす十千悪神語一千八葉劔宇多野城崛立・日神失奉・我国主成らんと巧玉・其時・天照天神国争事あらんとて大和国宇多郡秋山・天岩戸・閇籠玉・六合常闇成・其時・天津兒屋根天太玉尊相計・八百萬神達集玉・神鏡鑄奉・榊樹着奉禮奠幣帛捧七日七夜御神楽参せ玉・日神・神楽メヲ給・岩戸・開出玉・然世間明成・さて天照太神・荒御前遣給・一千八葉劔蹴破捨玉悪神拂却給・素戔鳥尊・出雲国にてヒノ川上大蛇切り尾中より・天村雲劔・取給さかのまかり玉と聟引出物鏡副・天照大神奉給・兄(コノカミト)成玉・十月一日出雲大社譲玉へり・依之・余十一月我朝八百萬神達・伊勢大神宮・詣給・十月一日計諸神・出雲大社・参玉ふと見たり・委如神代巻等云々                                 
   私云此縁起以前無明法性法門道理可得心合也・所詮・和光利益全体・法華内証至極
   事能々意可存也」                             
(私注:カタカナをひらがなに直し、適宜句読点等を入れた。)

「産湯記」の出雲の見方とこの「身延相傳」の出雲の見方は何なのでしょうか。

137地名:2004/06/04(金) 01:47

135で「神仏習合はあくまで私の推測・憶測・妄想にすぎませんが、仏本ではないような気がいたします。」についてやや舌足らずですので追記しますと、上記書P33に「氏神の信仰と同じように各地の氏族の本拠地に氏寺が建立されていった」「仏教伝来に際しては崇仏・排仏の対立・抗争があったとはいうものの、その後においては、天皇および各氏族とも、神と仏の間にいずれか一方を排撃するというような二者択一の姿勢をとらなかった。ここにも両者接近の素地が生まれることになっていく。」と。
本地垂迹説はもう少し時代が下がってからのような気がいたします。
間違っていましたら訂正いたします。

138顕正居士:2004/06/04(金) 08:41
地名さんが引用された相伝は内容が各山に共通で文章が全同の箇所もあり、大変興味深いものです。
富士の相伝ですと『本尊三度相伝』がこれらにあたります。富要集の註には底本は「水口日源筆」
とあり、『富士年表』の1296年の項に「水口日源生る」とあるから、そうであるならば『本尊三度
相伝』は14世紀の半ば頃に編纂されたのでしょう。

「反本地垂迹」(神本仏迹)の教義をはじめて明確に述べた著作は1332年(元弘2年)、慈遍大僧正
の『旧事本紀玄義』だとされますから、日蓮宗各山の「釈迦天照一体」(日神本釈迦迹)の相伝の
文書化の時期と一致します。
*慈遍大僧正 『徒然草』の著者吉田兼好の兄であり、顕本法華宗の祖玄妙日什の師でもあります。

『産湯相承』は内容に多くの重なりがありますが、「釈迦天照上行日蓮一体」ではなく「釈迦天照
十羅刹日蓮一体」を伝え、「法性天照無明素盞嗚」の配当はいわず、「天照大神日の御崎最初降臨」
をいう特色がみとめられます。

*天照大神は日の御崎に最初に降臨 これは島根県の日御碕神社日沈宮の縁起であります。
http://www.genbu.net/data/izumo/hinomisaki_title.htm
*「本地垂迹」から「反本地垂迹」への思想潮流
次のサイトにあります広神清氏の論考が要約として参考になります。
http://www.jp.tku.edu.tw/japanese/7/COVER.HTM

139顕正居士:2004/06/04(金) 10:04
地名さんが引用された諸相伝に『本尊三度相伝』や『産湯相承』を加え、これを「日神本釈迦迹」
の相伝群と呼び得るでしょう。元寇以後に醸成された「日神本釈迦迹」の思想は一方では唯一神道
(吉田神道)に展開し、他方では「独一本門」の思想に発達します。神本仏迹の思想は比叡山で
大本はできただろうが、四十九院を擁し、五百の僧坊を有したという「岩本実相寺」、こちらでも
じゅうぶんに発展していたのではないか。「日蓮教団」は岩本実相寺において、その原初の勢力を
形成した。
「駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧釈の日興等謹て申す」で始まる『四十九院申状』にあるように
白蓮日興その他、岩本実相寺で日蓮聖人に随った人たちの多くは「四十九院」の「供僧」であった。
「供僧」とは神職をおこなう僧侶の意味であり、神仏判然令によって還俗を強制された身分をいう。
私は「日神本釈迦迹」相伝群は岩本実相寺の「原初日蓮教団」に遡源するのではないかと思います。

140地名:2004/06/05(土) 01:20

138 顕正居士さん

大変ありがとうございます。
「日御碕神社日沈宮の縁起」および「本地垂迹」から「反本地垂迹」への思想潮流のサイトをわくわくしながら読んでいます。
本当にありがとうございました。

141地名:2004/06/05(土) 01:27

139 顕正居士さん

こちらの内容も大変ありがとうございます。

>「日神本釈迦迹」の思想は
>他方では「独一本門」の思想に発達します。
>「日蓮教団」は岩本実相寺において、その原初の勢力を形成した。
>白蓮日興その他、岩本実相寺で日蓮聖人に随った人たちの多くは「四十九院」の「供僧」…神職をおこなう僧侶…
>私は「日神本釈迦迹」相伝群は岩本実相寺の「原初日蓮教団」に遡源するのではないかと思います。

大変勉強になりました。心より御礼申し上げます。

142犀角独歩:2004/06/06(日) 14:55

地名さん:

貴重な資料のご呈示、有り難く拝読いたしました。
資料に関する点は改めて、記述することとさせていただきます。

本地垂迹説、今更ながら、考えさせられるものでした。
地名さんの影響を受け、数日前、近隣の図書館に行き、何か関連する良い書籍はないものかと探していたのです。見つけたのは村山修一師著『本地垂迹』<日本歴史叢書33>吉川弘文館刊でした。

わたしはこの本を一読して「おや」と思ったのです。個人的には本地垂迹説を本門・迹門とはまるで違う観点で考えてきたのですが、この本の中では、その起源をインドに権化思想に置き、羅什から僧肇を経、天台に至り本迹法門を生んだと言い、その影響が日本の本地垂迹説となっていくという粗筋に基づくのでした。また、この書の冒頭に

「近代史において、はじめて本地垂迹を体系的にとりあげたのは辻善之助博士であった。『史学雑誌』第18巻(明治40年)にのせられた「本地垂迹説の起源」のはじめのところで、博士はその概念を次のように説明されている。
  この説は本地即本有の妙理無始無終の絶対なる仏陀が、人間を利益し衆生を済度せんが為めに、迹を諸所に垂れて、神となって種々の形を顕はすをいふので、我邦の神祇は、其本源をたづぬればみな仏菩薩にあり、仏も神も帰する処は一つであるといふのである。
  この語の起りは、法華寿量品にあり、もとは久遠実成の釈迦即絶対的理想の仏陀を本地とし、始成正覚の釈迦即現実的の歴史上の釈迦を垂迹とするのである。日本の本地垂迹説は、この説を拡張応用したのである」(P1)

と紹介します。また、僧肇については

「その名著『註維摩』の中で、
  本に非ずして以て跡を垂るる無く、跡に非ずして以て本を顕す無し、本跡殊なりと雖も不思議一なり。
 とのべ、本地垂迹の深淵な関係を強調して注目をひき、仏身論に関してこの説は以後の学者に盛んに利用せられ、やがて天台宗をはじめた智邈や三論宗をはじめた吉蔵にもとりいれられ、『法華経』寿量品にみえる、上に引用した辻博士の後段に文にある定義、つまり本地仏と垂迹仏の解釈となってあらわれた。そうしてこの解釈はやがて喇嘛(ラマ)教などにみられるような外道諸神の密教的習合の上にもおしひろげられて適用されることになり、次第に仏神論より他の方向へも発展する形勢となった。(P4)

と解説します。この記述はしかし、最近の法華経解釈で日本のスタンダードになりつつある菅野博史師が

「本と迹は、『荘子』の説かれる聖人の具体的な行為を『迹』(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以(履き物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教の側で『迹する所以』を『本』と改めたものである。智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである」(『法華経入門』岩波新書 P91)

という説と必ずしも一致しません。

本地垂迹が本門迹門であるというのはしかし、頷けません。
天台が指摘する本迹の相違は特に始成正覚として久遠実成を隠すということに特に力点があり、履き物と足跡の関係というより、権(かり)実の差と言ったほうが当を得ている気がするからです。

わたしは水戸藩の出身なのですが、物語『水戸黄門』で、旅を続けるご老公は「縮緬問屋の隠居」という仮(権)の姿を採っています。しかし、悪事を前に印籠を示して「先の副将軍・水戸光圀公」という本当の姿(実)を示します。多分、この物語は法華文化・本迹思想がまさに生かされたものであると思うのですが、しかし、縮緬問屋隠居が足跡で、副将軍が履き物という関係と言うより、権(仮)と実と見たほうがすんなり理解できます。脱線しました。失礼。

石山が自山の相伝と謀ったものは、これに本因妙思想が被さり、さらにその解析をややこしくするのであろうと思えます。また、そこには陰陽道の風合いも加わり、いきおい真言立川流も考慮しなければいけないのかと思え、一筋縄ではいかないだろうと嘆息を禁じ得ません。

ご呈示いただいた相伝文献を見て、その基が類似系を示しながら、時に本迹一如で、勝劣義と違うなど、表層の装いを変えている点に興味が惹かれました。この点はもう少し考えてから投稿させていただく所存です。

有り難うございました。


顕正居士さん:

横レスながら、たいへんに参考になりました。
有り難うございました。

143地名:2004/06/07(月) 06:22

142 独歩さん

大変貴重なご意見ありがどうございます。
「本地垂迹説」に対するお考えについては、私はまだ十分に理解できておりません。
このご意見等を踏まえてよく熟読していこうと思います。

ただ、「本地垂迹説」はおよそ10世紀(前後の世紀も踏まえたものか)前後に形成されたものではないかと推測しておりまして、この説ができるまでの経緯に注目しています。

「なにごとの おはしますとは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮に参拝した西行法師(1118-1190年)がこの名歌を残している)

「カミ」の起源というものは、我々日本人の祖先が抱いていた、何か敬虔なものに対する素朴な感情の表出であるものとみられますので、道教や儒教、山岳信仰、そして仏教との関係や経緯(神仏習合)などを踏まえて考えてみたいと思います。

144犀角独歩:2004/06/07(月) 15:02

なんだか最近、自己レスばかり書いていますが、わたしは142に本・迹を実・権の関係で見たほうがわかりやすいという論旨で記しました。しかし、これはあまり上手くないと思いました。言うまでもなく、権実相待は法華已前の諸経を権(仮)として、法華ばかりを実経とする相待を論じるのであって、これと同等の用語で捌けば混乱が生じると思ったからです。

本は本体、迹は影像(ようぞう)と言ったところでしょうか。天の日月は一つであるけれど、地上の池・湖・海・河川など、水に浮かべる影像は無数であると言った関係です。
そうなると、たしかに履き物と足跡に例を採るのはある面、妥当なのかも知れません。
本迹は、そもそもそのような関係でありながら、では内外から本迹までの所謂相待論全般を通じては、今風に語彙を使えば、覆蔵と露現の程度を比較するものの如く映じます。(哲学・現象学・宗教学的用法と言うより、まあ、一般化された語彙程度の意味で介してください)

一仏がどの程度、自分の正体を明かしたのかという程度の比較と言えばわかりやすいのでしょうか。ここで重要な点は一仏の正体の露出具合ということなのであって、本仏・脱仏、まして、本仏・迹仏と言っても別仏であるわけはありません。

日蓮本仏論は二つの流れがあります。学会を含む原石山系集団では、釈迦・日蓮を別仏として扱います。つまり本仏と脱仏が違う仏であると言います。しかし、これはそもそも寛師教学と違っている点に信者の多くは気付いていません。この分岐はたぶん応師が果たしたところが大であると記憶します。つまり初学・不信者には別仏と教え、深信者には同体異名たると諭す階梯を設けていたと記憶します。この筋で書かれたのは応師『日本仏論』でしたでしょうか。

地名さんが本地垂迹を通じて、同体異名相伝に係る各門の相伝を挙げてくださり、このことはさらに明瞭化した観があります。いわば、石山・学会・顕正会の日蓮本仏論は元来の日蓮本仏論から見ても「間違っている」ということです。また間違っていると言わずとも浅はかな初学向けを絶対であると信じていることになります。

なお、富士門における本地垂迹を考えるに当たり、殊に現代的で重視されるのは外用・内証という便利な用語でしょう。外用・内証は富士系では当然の対句として扱われますが、真跡では「内証」の使用はあっても「外用」は使われません。もちろん、真跡以外では当然その使用が見られます。不審に思い、天台初期文献を当たると、外用の使用は見られても、内証はないのです。これにはやや驚かされました。いったいいつの頃から、外用・内証が対句として使われるようになったのか、蓮師滅後と考えるべきでしょうか。

当掲示板では、真跡による考証を根本に据えてきましたから、相伝についての積極的な考証は今回が初めてと言っても過言ではないように思えます。

「他山相伝の寄せ集めに過ぎない石山相伝」というのが正直な感想です。寄せ集めであるだけに各所で矛盾が生じ、齟齬を来すのでしょうね。

地名さんの今回のご呈示は、以上の意味からもたいへんに参考になるところでした。

145地名:2004/06/07(月) 16:50

「神仏習合」逵日出典著、P99-103から引用いたします。
「…この動きにおいても、やはりどこよりも先んじていたのが宇佐八幡宮であった。応和二年(962年)の奥書をもつ「大安寺八幡宮縁起」によると、行教が宇佐に参り八幡神を石清水に勧請することを述べている中で、彼が宇佐に参籠しているとき、衣の袖の上に釈迦三尊が映じたとある。このことは、八幡神の本地が釈迦三尊であることを示しており、10世紀の半ばころに、すでに宇佐を中心とした地域において、八幡神に対する本地仏の設定がなされていたことになる。
しかし、本地仏の設定が一般的に普及してくるのは、11世紀半ばころからであるとみられる。大江匡房(おおえまさふさ)の「江談抄」(ごうだんしょう)に熊野の本地仏について記されている。それによると、熊野三所(本宮・新宮・那智)は伊勢大神宮の御身であると述べているのである。また、同じく匡房の「続本朝往生伝」には八幡大菩薩の本地を阿弥陀如来としている。先に紹介した「大安寺八幡宮縁起」では八幡神の本地を釈迦三尊としていたが、ここに来て阿弥陀如来となっているのは、このころ発展・普及してきた浄土教思想の影響によるものと考えてよかろう。
このようにして、神々への本地仏の設定はいよいよ盛んになっていく。以下、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、文献に登場してくる本地仏について代表的なものを列挙してみる。
●「長秋記」長承三年(1134年)二月一日条にみえる「熊野」の本地仏
三所について
丞相(しょうじょう)   和名家津王子   法形阿弥陀仏     
両所   西宮結(むすぶの)宮女形   本地・千手観音    
中宮   早玉(はやたまの)明神俗形  本地・薬師如来    
 五所王子について
   若宮女形   本地・十一面
   禅師宮俗形   本地・地蔵菩薩
   聖(ひじり)宮俗形   本地・龍樹菩薩
   児(ちご)宮   本地・如意輪観音
   子守   正観音

146地名:2004/06/07(月) 16:51

続き
●平清盛が「厳島神社」に奉納した経巻の願文にみえる本地仏
    当社(厳島神社)は是れ「観世音菩薩」の化現(けげん)なり

●「春日社古記」承安五年(1175年)三月一日条の「春日大明神」御体・本地の注進にみえるもの
   一宮   鹿島神   不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)
   二宮   香取神   薬師如来
   三宮   平(枚)岡神   地蔵菩薩
   四宮   姫神   十一面観音
   若宮   文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)

●「卅五文集」にみえる治承三年(1179年)「祗園三所権現」の本地
     薬師如来  文殊師利菩薩  十一面観音

●「玉葉」建久五年(1194年)七月八日条に、先の「長秋記」と同様に「春日五神」の本地仏が記載されている。ただし、「若宮」を「十一面観音」としているところが異なる。

●「古事談」では、次の二カ所が注目される。
その一は、範兼卿が「賀茂」の本地を知らんとして祈った箇所に、「賀茂神」の本地を「観音」としている。
その二は、六波羅太政入道が「高野大塔」を造ることについて記した箇所に、「伊勢大神宮」と安芸の「厳島神社」の本地は「大日如来」であると記している。

●「春日社古社記」に、また「春日五神」の本地仏が記されているが、ここでは、これまでの同神に対する本地仏の諸説をまとめた形となっている。
   一宮   不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)あるいは「釈迦如来」
   二宮   薬師如来あるいは弥勒菩薩
   三宮   地蔵菩薩
   四宮   「伊勢大神」の本地である「大日如来」あるいは十一面観音

147地名:2004/06/07(月) 16:52

続き
●「沙石集」には、「伊勢大神宮」の本地を「大日如来」としている。

●「春日社私記」には、「春日」の神々に対する本地が一層詳しく記されている。
   一宮 鹿島大明神 不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)あるいは「釈迦如来」
   二宮   香取大明神   薬師如来
   三宮   平岡大明神   地蔵菩薩
   四宮   姫神   十一面観音あるいは救世観音あるいは「大日如来」
   若宮   文殊師利菩薩あるいは十一面観音
   太力雄(たぢからお)大明神   不動明王
   三十八所大明神   弥勒菩薩
   榎本大明神   多聞(たもん)天王
   紀ノ御社   虚空蔵菩薩
   水屋大明神   薬師如来

●「宝基本紀」には、古人の秘伝として、「伊勢の両宮(内宮と外宮)」の本地を、密教でいう胎蔵界と金剛界の両界としている(天台・真言両宗の密教では、「大日如来」を中心とした仏の世界を胎蔵界と金剛界の二つとしている。)

●「三輪大明神縁起」では、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の本地を「大日如来」とし、御室山(みむろやま・三輪山)の山麓に鎮座する「八所権現」は、胎蔵・金剛両界の曼荼羅中にある仏が本地であると説明する。

●「諸神本懐集」には、実に多くの神々について本地を記している。その主なものを示しておく。
   鹿島大明神=十一面観音(奥の御前は不空羂索観音
   天照大神=観音
   素戔嗚尊(すさのおのみこと)=勢至観音
   熊野三所権現=阿弥陀如来(西の御前は千手観音、中の御前は薬師如来)
  (五所王子=若王子は十一面観音、禅師の宮は地蔵菩薩、聖の宮は龍樹菩薩、児の宮は如意輪観音、子守の宮は聖観音(しょうかんのん))
   二所三島の大明神(大箱根=三所権現にして文殊師利・弥勒・観音)
   八幡三所(中は阿弥陀如来、左は観音、右は大勢至菩薩)
   祗園=薬師如来
   稲荷=如意輪観音
   白山=十一面観音
   熱田=不動明王 」

148地名:2004/06/07(月) 16:54

続き
同書P112には
「本地垂迹説の発展は、神仏習合の現象を急速に普及させた。神と仏のあるところには必ずといってよいほどその現象がみられるようになる。ましてや、本地垂迹説から説明すれば、一対一の習合にとどまらず、一つの神に複数の仏、一つの仏に複数の神を習合させることも可能となってきた。…」と。

149地名:2004/06/07(月) 18:41

天照大神と出雲の関係について「島根県大百科事典」から引用いたします。

「日御碕神社」(ひのみさき・じんじゃ)

「簸川郡(ひかわぐん)大社町日御碕に鎮座する元の国幣小社。神社本庁別表神社。
下の宮(しものみや)と上の宮(かみのみや)とからなり、下の宮(しものみや)は天照大日靈貴(あまてらす・おおひるめむち)ほか5柱、上の宮(かみのみや)は神素盞鳴尊(かみ・すさのおのみこと)ほか3柱を祀る(まつる)。祭日8月7日。氏子約500世帯。

社殿によれば、上の宮(私注:素盞鳴尊の方)はもと・背後の隠ヶ丘(かくれがおか)にあったのを安寧天皇の13年、現在地に遷し(うつし)、下の宮(私注:天照大日靈貴の方)は海辺の経島(ふみしま)にあったのを948年(天暦二年)現在地に遷し(うつし)、合わせて日御碕大神宮(ひのみさき)と称するに至ったとなっている。

「出雲風土記」の美佐伎社(みさきのやしろ)、「延喜式」の御碕神社にあたる。

古伝神事として旧正月7日の和布刈神事(めかり)、大晦日(おおみそか)の神剣奉天神事は著名である。

150地名:2004/06/07(月) 19:24

天照大神と出雲の関係について「島根県の地名」日本歴史地名大系33から引用いたします。

「日御碕」(ひのみさき)
「島根半島の北西端に位置し、岬としての日御碕は地内北西端から日本海に突き出す。
江戸時代は日御碕社(日御碕神社)領。
南東は仮宮村(かりのみや)、日御碕社東方は宇龍浦(うりゅう)。同社北西方に経島(ふみしま)がある。

「出雲風土記」にみえる出雲郡(以下同郡)支豆支(きづき)の御碕・杵築御碕は日御碕(ひのみさき)に比定され、朝鮮半島の志羅紀(新羅)から佐比売山(さひめやま・三瓶山)を杭(くい)とし、園(その)の長浜を綱として引寄せたのが支豆支(きづき)の御碕であるという「国引き神話」が載る。 中略

経島(ふみしま)は標高約20mの島で、出雲風土記の御巌島(みいつく・しま)に比定される。島の洞窟に神代文字が刻まれるとの伝承から文島(ふみしま)ともいう。日本海西部の代表的なウミネコ繁殖地として国指定天然記念物となっている。

151地名:2004/06/07(月) 20:53

天照大神と出雲の関係について「島根県の地名」日本歴史地名大系33から引用いたします。

「日御碕神社」(ひのみさき・じんじゃ)

「島根半島の北西端、日御碕(ひのみさき)に鎮座する。
日本海に西面した権現造の社殿は神ノ宮(かみのみや・上宮)と日沈宮(ひしずみのみや・下宮)からなり、西の日光といわれる。
主祭神は神ノ宮が神素盞鳴尊、日沈宮(ひしずみのみや)が天照大日靈貴(あまてらす・おおひるめむち)。旧国幣小社。

社伝によると、神の宮(私注:素盞鳴尊の方)は背後の隠ヶ丘(かくれがおか)にあったものを現在地に移し、天暦二年(948年)北西方の文島(ふみしま・現・経島)にあった日沈宮(ひしずみのみや)(私注:天照大日靈貴の方)を現在地に移したという。

この社伝を信頼するなら、神ノ宮は「出雲風土記」の出雲郡美佐伎社(みさきのやしろ)、「延喜式」神名帳の御碕神社(みさきじんじゃ)、日沈宮(ひしずみのみや)は「出雲風土記」の百枝槐(ももえ・えにす・のやしろ)に比定される。

社名は、古代末期に日御碕社、中世は御碕社、室町〜戦国期以後再び日御碕社と称し、明治4年国幣小社日御碕神社となる。

[杵築大社からの独立]
古代末期には鰐淵寺(がくえんじ)と並ぶ独自の勢力を誇る修験の道場として知られ、「梁塵秘抄」に「聖の住所は何処何処ぞ(いずこ・いずこぞ)、箕面よ・勝尾よ・播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕(ひのみさき)」と歌われたが、中世への移行に伴って杵築大社(出雲大社)の末社として組込まれ、祭神も杵築大明神(スサノオ)の御子(季女すなわち十羅刹女)とされた。 以下略 」

ここで「十羅刹女」がなぜ出てくるのだろうか。
素盞鳴尊(スサノオのみこと)の御子(みこ)とは、田心姫,瑞津姫,厳島姫のだれかなのだろうか。


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