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素朴な疑問

1820犀角独歩:2004/10/27(水) 14:13

【1818の訂正】

誤)興師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。
正)亨師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。

1821きゃからばあ:2004/10/28(木) 12:03

過去ログにありましたらゴメンナサイ。
『富要第8巻』と山口範道さんの『日蓮正宗史の基礎的研究』を比べてみました。


『富要第8巻』(番号は私が付けました)

大聖人御筆漫茶羅の分。

1.建治元年太才乙亥十一月日 総本山。
2.建治二年太才丙子八月十三日 同上。
3.弘安二年太才己卯八月十八日、沙門佑盛日合に之を授与す、 同上。
4.(楠板彫刻戒壇大御本尊)
  右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日、 同上。
5.弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上入御加筆)本門寺重宝たるべきなり、 同上。
6.弘安三年太才庚辰二月日、(開山の加筆あり明らかならず) 常陸永井藤蔵。
7.(紫宸殿御本尊と伝称す)弘安三年太才庚辰三月日 総本山。
8.弘安三年太才庚辰卯月日 下総富久成寺。
9.弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上入御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京法道院。

10.弘安三年庚辰五月廿六日、沙門民部日向に之を授与す、 総本山。
11.弘安四年太才辛巳四月廿五日、(開山上入加筆)摂津公日仙は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、 東京常泉寺。
12.弘安四年太才辛巳□□□□□、日教に授与する者なり、 加賀妙喜寺。


ところが、『日蓮正宗史の基礎的研究』掲載されているものと比べると、

3番はなぜか見当たりません。
6番は「大石寺所蔵」に変更(この御本尊は昭和45年4月1日に総本山へ納められています。)
9番はなんと北山所蔵になっています。これは法道院より昭和45年3月19日に総本山へ納められたはずなのですが、大石寺所蔵には見当たらなくなっています。
そしてさらに驚くことに「弘安三年太歳庚辰卯月日 比丘日禅授与之」という御本尊が大石寺に所蔵されているようになっています。

つまり「比丘日禅授与の弘安3年5月9日の御本尊」は、法道院より納められてにもかかわらず、現在では大石寺の所蔵に無く、新たに「比丘日禅授与の弘安3年4月日の御本尊」が所蔵されているとしているのです。
もちろん他にも後から納められた御本尊が掲載されているようですが、法道院より納められた「5月の御本尊」は無く、「4月の御本尊」が現われたのには、不可解です。

1822頭角無類:2004/10/28(木) 16:36
犀角独歩さん

いつも丁寧なレスありがとうございます。

>「經」字の筆法を以て、少なくとも彫刻本尊原本は弘安2年10月
>の特徴を示していない点を主張したものでした。

 なるほど『經』字の検討でも大石寺の本門戒壇本尊についての真偽を検討されていたということですか。

>あえて禅師授与漫荼羅については寡聞とし、先に送ることとして
>おります。

 非常に残念です。様々な研究をする上で原本資料の検討というのは最も大切なことではないかと思います。
 北山の「日禅授与本尊」についての真偽等についても是非、犀角独歩さんのご見識をもって検討して頂ければと思います。

ちなみに、

>亨師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。となれば御筆は
>こちらかと思いたいところですが、重要な「本門寺に懸け奉り万
>年の重宝たるべき」が削損され、北山にはしかし、その加筆があ
>るといいます。

について一言しますと、私の考えでは、富士宗学要集8-178の、永井家蔵(現大石寺蔵)の本尊について、亨師は

「開山の加筆あり明ならず」

とされています。現在大石寺蔵の『日禅授与本尊』、旧永井家蔵本尊、この二幅は同時期に売りに出されていた本尊で、法道院と、金銭的に個人での取得が可能であった永井藤蔵氏がそれぞれ購入したと言われています。また、両本尊とも元々北山本門寺にあった本尊とほぼ断定されています。この「開山の加筆あり明ならず」は、実はこれも「削損」です。
 恐らくですが、北山が本尊を売りに出すときに、寺の重宝を売りに出すという売僧行為を非難されるのを嫌い、出もとを隠すため、本門寺等々の文字を「削損」したのではないでしょうか。ですから「開山の加筆あり明ならず」は、これも「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべき」、または授与者に関係する事柄が記されていたのだと思います。

1823犀角独歩:2004/10/29(金) 09:29

1821 きゃからばあさん:

この相違は確かに興味深いですね。
弘安3年5月9日禅師授与漫荼羅の動向は如何にも奇怪です。
そもそも北山が売ったはずが、今でも北山にあること自体、不可解です。
けれど、山口師は石山に無しというわけですね。

余談ながら『学林秀輯葉巻之廿二/遠霑講寺沙門完則鳩集』では

1.戒壇板本尊 長4尺7寸5分 横2尺2寸5分 厚2寸2分
2.紫宸殿本尊 3枚綴り
3.建治元乙亥11月御本尊 3枚綴り
4.病息消滅本尊 建治2丙子8月13日/号死活本尊
5.重須本門寺本尊 弘安3辰11月/日増授与
6.妙一授与本尊
7.紺帋本尊文永甲子2月15日
8.日月四菩薩御本尊
(『日蓮聖人の本懐』P188)

となっていました。(見習ってわたしも通し番号を振りました)


1822 頭角無類さん:

こちらこそ、御礼申し上げます。

> 原本資料の検討というのは最も大切

まったくもって仰るとおりであろうと存じます。
ただ、禅師授与漫荼羅については、石山蔵の写真を手にしてからと考えております。

> 出もとを隠すため、本門寺等々の文字を「削損」

なるほど。これは一つ考えさせられるところでした。

一つご賢察を窺いたいのですが、禅師授与漫荼羅が北山を離れた時期、また、法道院に渡った時期はおよそいつ頃とお考えになりますでしょうか。

1824きゃからばあ:2004/10/29(金) 10:26

『法道院百年史』(平成十年十二月十二日発行)を見てみました。

以下、本文。

宗祖御真筆御本尊の奉蔵

 明治四十一年六月一日、宗祖日蓮大聖人御真筆「弘安三年太歳庚辰五月九日」御図顕、「授与之比丘日禅」の御本尊が法道会に奉蔵された。
 この種のことの常として、以前の所有者やその経緯は残されていないが、ともかく法道会では信徒に呼びかけ、その費用のための喜捨金を募った。その結果、この日法道会で奉納式が行われたのである。
 御本尊の裏書には「法道会什宝御真筆寄付人名」とあり、「法道会妙道講」「法道会妙典講」「法道会浄信講」のほか、他寺関係五講中(京橋本門講中、浅草本因妙元講中、中延講中、青山講中、砂村法華本門講中)名がある。
 また、百二十二人の御供養者名が書かれている。なかには、まだ子供である人、すでに亡くなっている人(戒名も書かれている)などもある。縁ある人の積功累徳のためにも、多くの人が真心の御供養したことがわかる。
 最下段には、「発起人」として「内野金次郎、平沢億太郎、後藤亮之助、佐野光三郎、山田和助、上野七蔵、金子銕(鉄)次郎」の名があり、最後に「明治四十三年六月一日奉納式行」「総本山五十六世 法道会会長大石日鷹(花押)」とある。
 ここに記されている講中、個人がどのくらいの喜捨金を集めて、御真筆御本尊を奉蔵したかは不明である。
 この裏書に名前は記されていないが、奉納に遅れて七月四日喜捨金を寄せた土浦の永井家に、その領収証が三通残されている。この領収証では各々喜捨金額は五円となっている。
 御真筆御本尊は、以後、法道会における諸法要に奉掲された。
 昭和四十五年三月十九日、この御本尊は観妙院上人の手により総本山に奉納された。
 また、同年四月一日には、明治三十七年一月、日鷹上人の紹介により永井藤蔵氏が奉蔵していた「弘安三年太歳庚辰二月 日」御図顕の御本尊も総本山に納められた。
 現在、両御真筆御本尊は、総本山の毎年の御虫払大法会に披露されている。

以上、本文より。

ただ、私が古い法道院の幹部に聞いた話では、「当時、質屋にあったのを信徒が見つけ、皆でお金を集めて購入した。」と聞いています。

1825犀角独歩:2004/10/29(金) 20:27

きゃからばあさん、明治44年、すなわち熊田葦城『日蓮上人』発刊に相前後している辺り、実に興味が惹かれました。

1826きゃからばあ:2004/10/30(土) 10:41

板漫荼羅の相貌について、柳沢宏道さんの『石山本尊の研究』によると、「熊田葦城さんの『日蓮上人』の写真をA0版まで拡大して」とありましたが、私自身、A0版は無理ですが、精密なスキャナーで読み込み、パソコン内で拡大してみたところ、まったく判断できませんでした。
よって、正確な相貌は判断できませんので分かりませんが、以前、日顕さんが「久成坊の御本尊は大御本尊の写し」と言われたので、久成坊の御本尊を拝見してみました。

久成坊御本尊の相貌(ただし主題・日蓮在御判・四天王・不動・愛染は除く。)

すべて内側より。
(1段目)
(右側)
南無多宝如来
南無上行菩薩
南無無辺行菩薩
(左側)
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

(2段目)
(右側)
南無文殊師利菩薩
南無弥勒菩薩
南無舎利弗尊者
大梵天王
第六天魔王
大日天王
(左側)
南無普賢菩薩
南無薬王菩薩
南無大迦葉尊者
釈提桓因大王
大月天王
大明星天王

(3段目)
(右側)
鬼子母神
南無龍樹菩薩
南無天親菩薩
南無妙楽大師
(左側)
十羅刹女
南無天台大師
南無章安大師
南無伝教大師

(4段目)
(右側)
天照太神
(左側)
八幡大菩薩

(一番下)
(右側)
佛滅度後二千二百二十余之間
一閻浮提之内未曾有代漫荼羅
(左側)
七十七歳 日精花押


なぜか『石山本尊の研究』の相貌とは違いました。
阿修羅王・転輪聖王・提婆達多などが無く、また薬王・弥勒が逆、天台・妙楽も逆、天親・章安が加えられ、かなりの相違があった。
もちろん日蓮さんの漫荼羅には多くの相違があるので構わないのだが、なぜ、日顕さんはこれを大御本尊の写しと言ったのだろうか?
さらに注目するところは「第十七世」ではなく「七十七歳」としているところ、
また「一閻浮提之内未曾有代漫荼羅」の次に「也」が無い。
日蓮さんの漫荼羅はこの「也」にも大きな特徴があるのだが。
不思議なことばかりです。

1827れん:2004/10/30(土) 18:23
きゃからばあさん、初めまして。弥四郎彫刻曼陀羅の相貌は、柳沢宏道師の「石山本尊の研究」や荒木清勇師の「聖教の正義」収録の写真を見るかぎり、柳沢師の解読した座配図は至当と思われます。久成房の曼陀羅、精師のものでしたか。諸尊の座配の位置に多少の相違はあるものの、精師の曼陀羅は概ね興師や有師のものと同じですね。但し、図顕讃文が三十ではなく二十であるのは以外でした。また也がないのは御筆誤でしょうか。石山歴代にしては珍しいですね。日精花押七十七歳…、石山歴代書写曼陀羅の内手元に御筆写真がある開山興師から九世有師までの曼陀羅を見ますと、〇世と言う添え書きがありません。署名の横に年令を記すのは興師目師に見られますので、精師の書写様式は概ね上代石山歴代の書写化儀に則っていることがわかりました。参考になりました。有難うございました。なお、お示しの顕師の御発言は精師の曼陀羅を指すのでしたら、多分記憶違いではないでしょうか。

1828犀角独歩:2004/10/31(日) 08:49

れんさん、横レス失礼します。

> 柳沢師…座配図は至当

わたしは先の現宗研の講演でこの点に論及しました。
禅師授与漫荼羅の座配は、この柳沢図と全同でした。また、昇師書写授与の(板に改めて物議を醸した)学会本部常住本尊座配(これまた柳沢図で見る限り)は、釈提桓因が帝釈になっていること、「若脳乱」云々の讃文があること、「二千二百三十余年」となっていることを除けば、やはり全同です。

柳沢図を信じる限り、昇師は彫刻本尊を座配を写したうえで、石山の漫荼羅書写の流儀に従って、以上の書き換え・書き足しを行い学会常住本尊と書写したと考えられます。(もちろん、この座配は学会常住本尊に限ることでないことはことわるまでもありません。顕師書写ではご丁寧に「釈提桓因」としているものもありました)

禅師授与漫荼羅の中央題目・四大天王・日蓮花押を臨模したうえで、不動愛染を作為、さらにその諸尊座配は同漫荼羅に拠って作為したという制作過程が看て取れるようです。
そして、その彫刻漫荼羅をまた‘近代’石山住職は参考にしているという脈絡かと想像できます。

1829れん:2004/10/31(日) 18:27
犀角独歩さん、レス有難うございます。
禅師授与曼陀羅は柳沢図と全同…、独歩さんのご指摘の如く、彫刻曼陀羅の原本が禅師授与曼陀羅であることは彫刻曼陀羅自身の相貌が示していますから、予想はしていましたが、やはり…といったところですね。
禅師授与曼陀羅…臨模…不動愛染を作為…、彫刻曼陀羅の製作過程は独歩さんの仰る通りと存じます。
石山歴代住職の書写曼陀羅を見ますと、上代(目師〜有師)では書写曼陀羅の原本は興師書写曼陀羅ですね。主師文献(譲座本尊示書、条々事示書、ただし一次資料‐御筆写真が公開されてないのであくまで参考資料ですが)によるかぎり早ければ主師・遅くとも精師の代までには禅師授与曼陀羅を原本として彫刻曼陀羅成立、近代に至り、彫刻曼陀羅の存在が広く宣伝されるに伴い、石山住職は彫刻曼陀羅を曼陀羅書写の参考にするに到ったのだろうと、独歩さんのご教示をもとに推考いたします。

1830通りすがり:2004/10/31(日) 22:55
http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp2801.html
本物の宗祖日蓮大聖人御本尊が出品されるのは驚き

1831れん:2004/10/31(日) 23:44
通りすがりさん、早速拝見しました。日因代云々の581はケイタイからは閲覧不可、本圀寺云々の582 は蓮師筆に似ていますが、安国会の御本尊集に収録された弘安の蓮師真筆曼陀羅には無い諸尊の座配であり、真偽については、なお検討を必要とするでしょう。583は明らかに他筆で蓮師の書ではありません。以上ご参考までに。

1832れん:2004/10/31(日) 23:59
失礼しました。580が閲覧不可。581 が弘安で真偽要検討、581が文永で、多分写本と思います。583が明らかに他筆でした。

1833通りすがり:2004/11/01(月) 00:23
580番の二幅は堺の妙○寺にある、真筆御本尊ですね、御本尊集に収録されて
いる御本尊様をオークションに出品する所を見ると、ただ驚愕するばかりです。
多分、相当な高値が付くと思いますね。一般の方じゃ手が届かない金額が予想
されます。

1834勉強中:2004/11/01(月) 02:13

本当ですね。妙国寺さんでは何かあったのでしょうか。
こんな什宝を手放すとは考えられませんね。

ひょっとしたら復刻版じゃないでしょうか。最近日蓮宗で下付されている臨滅度時の御本尊の復刻版もかなりリアルに復元されていると思いますし。
法華宗の「日春授与の御本尊」復刻版もかなりリアルですね。やはり印刷技術の進化によるものでしょうか。そういえば柳沢師のところの日目授与曼荼羅の復刻版もそうですね。

業者の入札価格が真偽の判断材料になるかもしれませんね。

1835通りすがり:2004/11/01(月) 09:23
 妙国寺の真筆本尊が、出品されるのは宗寶に指定されていますので、真偽は
兎も角、日蓮宗宗務院がこの事実を認知しているかが問われます。
 それとも剥離本尊なのでしょうか?他の宗祖の御本尊と言われる物は、一幅
の形木本尊を除いて研究の余地がありますね。
 堺妙国寺は日蓮宗の四十七ある本山の一つに列を置き、由緒寺院になってます。
勉強中さんの言われる業者の入札価格が真偽の判断材料になるでしょう。

1836通りすがり:2004/11/01(月) 19:07
 どうも妙国寺さんも、事実を調査中という事で、宗務院も水面下で動き
事態の深刻さを感じているみたいです。

1837頭角無類:2004/11/02(火) 18:27
きゃからばあさん、
法道院100年史の引用ありがとうございました。

犀角独歩さん、
私もひょんなところで、北山の日禅師授与の本尊の写真を見る機会がありました。
 確かに、経の旁が「一/リ/エ」になってますね。その他にも首題の筆運びですが、大聖人の筆運びとしては決定的に違うところが一点ありますね。
 違いはお分かりと思いますので詳しくは書きませんが。大石寺の日禅師授与本尊の真偽はさておき、北山のものは、個人的には御真筆とは言い難いと思います。
http://toukakumurui.hp.infoseek.co.jp/zenshi_kita.htm
 諸賢のご意見はいかがでしょうか?

1838れん:2004/11/02(火) 19:40
頭角無類さん、初めまして。私は諸賢の内には入る者ではありませんが、少々私見を述べますと、北山蔵の日禅授与曼陀羅の写真については、私はケイタイですので、富士門ネットの不鮮明な写真でしか判断できませんが、私には、経の旁は「―/│リ/エ」の様に見えます。北山蔵が真筆か否かは、北山蔵並びに石山蔵双方の鮮明な写真が公開されなければ私には判断出来かねます。かの安永師は「板本尊偽作論」おいて沼津妙海寺蔵の弘安三年五月八日の蓮師図顕曼陀羅を石山彫刻曼陀羅を原本と推定し、犀角独歩さん、また石山当代顕師は弘安三年五月九日の禅師授与曼陀羅を彫刻曼陀羅の原本と推定されたように、石山彫刻曼陀羅は弘安二年の蓮師曼陀羅の特徴は備えておらず、むしろ弘安三年の、しかも五月中に蓮師が図顕された曼陀羅の特徴を備えていることは彫刻曼陀羅自身が示しており、彫刻曼陀羅の原本は弘安三年五月の蓮師図顕曼陀羅と見るのが至当と存じます。犀角独歩さんの御研究を踏まえて考察しますと、彫刻曼陀羅は現存蓮師図顕曼陀羅の中では禅師授与曼陀羅にもっとも近似していますから、現存の彫刻曼陀羅の原本は禅師授与曼陀羅である可能性が一番高いということですね。でも一つ気になるのは、やはり現存彫刻曼陀羅と完則図との相違ですね。

1839犀角独歩:2004/11/03(水) 00:48

頭角無類さん:

これは見紛うことなき、北山禅師授与漫荼羅ですね。どこから流出したのでしょうか。
わたしが所有する写真とは違うものです。

> 北山のものは、個人的には御真筆とは言い難い

この写真が流出した以上、この点に触れざるを得ないでしょうね。
わたしは拙書では以下のように語彙の使い分けています。

「日蓮聖人の御筆大漫荼羅のみを「大漫荼羅」と呼称し、真偽未決分は、単に「漫荼羅」、それを基にした書写、もしくは彫刻その他は「本尊」と呼び、これを区別しました」


れんさん:

> 完則図との相違

ええ、これはもちろんです。あと、何点か考慮すべき図もあります。さらにその図と比較してみるべきものがあります。

1840犀角独歩:2004/11/03(水) 01:11

そうそう、れんさん、「―/│リ/エ」とご覧になったのはさすがですね。
旁3画〜6画の1画の「│」は実は「華」の縦棒が經の旁を貫いたものです。
重要な点は、これが彫刻本尊の「ツ」の1画の位置とほぼ一致すると言うことです。また、日教研で質問した石山僧の言葉を借りれば、彫刻本尊の写真は熊田氏がなぞっているそうで、となれば、「│リ」を「ツ」となぞった可能性はないとは言えません。まあ、これは類推の範囲ですが、彫刻本尊の写真の薄く残る元の線と目せる白線は、実に多くを語っています。

1841犀角独歩:2004/11/03(水) 01:16

【1840の訂正】

誤)旁3画〜6画の1画
正)旁2画〜4画の1画

1842頭角無類:2004/11/03(水) 05:56
れんさん

はじめまして、貴重なご意見ありがとうございます。

>北山蔵が真筆か否かは、北山蔵並びに石山蔵双方の鮮明な写真が公開
>されなければ私には判断出来かねます。

どちらかが、本物であるという前提に立てばその通りだと思いますが、場合によっては両方とも偽物であるという可能性もあり、北山蔵は少なくとも偽作だと思います。

>彫刻曼陀羅は現存蓮師図顕曼陀羅の中では禅師授与曼陀羅にもっとも
>近似しています。現存の彫刻曼陀羅の原本は禅師授与曼陀羅である可
>能性が一番高いということですね。

 北山蔵は、一見御真筆かと思わせるほどのものはあるのかもしれませんが、細かく見ていくとどうしても真筆とはいえない部分があります。これははっきり言って制作者の「うっかりミス」です。

 さらに言えば、『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』で詳細を調べてみようと思いますが、北山蔵の「決定的におかしな点」は、「日蓮門下全般の諸師にも、このような筆法で曼荼羅書写した方が未だかつて居なかったのではないか」というほど決定的です。私でも分かるのですから、誰でも分かると思います。

 ですから、もし大石寺蔵と北山蔵が同じであった場合、どちらも「彫刻曼陀羅の原本」とはなり得ないのではないか。という気がしています。なぜなら、犀角独歩さんの『仏教再考』に掲載されている彫刻曼荼羅は、写真で見る限り、この「おかしな点」がないように感じられるからです。
 「本門戒壇本尊」が本物ではなかった場合、制作者は「おかしな点」に気づいていたことになります。果たして原本になりえたでしょうか。

1843頭角無類:2004/11/03(水) 06:08
犀角独歩さん、

いつもご丁寧なレスをありがとうございます。

>日教研で質問した石山僧の言葉を借りれば、彫刻本尊の写真は熊田氏がな
>ぞっているそうで

 私もこの点はそうだと思います。私の記憶では、熊田氏の『日蓮上人』は版によって線がハッキリしているものとそうでないものがあったような気がします。また、本来あるはず線が、ブッツリ切れていたり、と原本にどれだけ忠実に再現されているのか・・。その点の検証も是非お願いします。
 一日も早い上梓を心よりお待ちしております。

1844愚鈍凡夫:2004/11/03(水) 08:42

>>1837:

頭角無類さん紹介の北山蔵「日禅授与漫荼羅」、石山の「戒壇之本尊」と似ていますね。ただ、「華」と「經」、花押の違いが面白いですね。

「日禅授与漫荼羅」自体が他筆である可能性は問題にならないのか(正筆であると証明されているのかという意味)、という素朴な疑問が湧いてきますね。
一機一縁である以上、一舗ごとに心理状態も異なり、漫荼羅のイメージも異っていたのかも知れません。したがって筆の運びや字体にも違った工夫が見られるのかも知れませんね。
いずれにせよ、2舗の「日禅授与漫荼羅」も、「戒壇之本尊」とともに科学的検証をお願いしたいと思います。

1845犀角独歩:2004/11/03(水) 11:04

頭角無類さん:

れんさんへの問いかけも含んで記させてください。

> もし大石寺蔵と北山蔵が同じであった場合…「彫刻曼陀羅の原本」とはなり得ない…彫刻曼荼羅は、写真で見る限り、この「おかしな点」がない

これはどの点を仰っておられるのかわかりませんが、わたしは違う見解を懐いています。北山禅師授与漫荼羅と彫刻本尊を比較すると、籠抜きで写したのかと思うほどピタリと重なる部分(妙旁「ノ」と法のさんずい、蓮華の2字)があるかと思うと模写(籠抜きと別)というほど正確に写そうとしながら微妙な相違を示す部分(無の字など)また、明らかに作為と見られる部分(經旁)を孕み、単に臨模・作為のどれかと決めがたい側面を持っています。

また、サイトでも記したとおり、愛染の筆法は他筆以外の何物でもなく、この一点をとれば、彫刻本尊の「下書き」は間違いなく他筆です。また、原本は禅師授与漫荼羅ばかりではなく、『河邊メモ』にあるように諸尊勧請などは時師、もしくは有師の筆を採用しているのかも知れません。また、花押などは制作当時の責任者(たとえば石山住職)が自ら積極的に臨写しこれを据えた可能性もあろうかと思います。わたしが今回、鑑別に挑んだのは中央題目・日蓮花押・四大天玉・愛染不動です。このなかで、中央題目、四大天玉は臨模、不動愛染は線の一部を使いながら作為というのが結論です。

諸尊勧請の一々と讃文はたぶん禅師授与と全同であろうと想像しながら、しかし、腰書きにいたっては「造立・敬白」の文がある以上、彫他筆であることは当然のことです。すなわち、「本門戒壇」の4字は他筆であり、相貌欄外に記されたものであれば、漫荼羅相貌本体に「本門戒壇」の4字が記されたその意義を添加されたこととはまた別の真偽論がここにあります。

> 「本門戒壇本尊」が本物ではなかった場合、制作者は「おかしな点」に気づいていたことになります。果たして原本になりえたでしょうか。

この発想は山中喜八師が『本尊集』を発刊したのちの論理であって、わたしは気付かないであろうと考えます。一例を挙げれば、れんさんがご指摘くださったとおり、石山六壺本尊は興師に仮託した偽物であるのに、石山信徒のほぼ全員があれを本物と信じています。中世の石山歴代、もしくは学僧と言っても、一生涯で拝謁できる御筆漫荼羅はほんの数体であったでしょう。また所属寺院で蓮師真筆と言われた本尊を偽物と疑う自由発想は持ち得ないのが信仰者の火坑です。わたしは彫刻本尊全体を見るに付け、この制作者は、蓮師御筆大漫荼羅種々の特徴のなんたるかを知らずに作為に走ったと溜息を禁じ得ません。それは換言すれば、この制作者とその時代背景はいま我々が知り得る大漫荼羅筆法の知識よりかなり劣っていることを物語っています。だからこそ、禅師授与漫荼羅を原本として採用したのでしょう。

>> 彫刻本尊の写真は熊田氏がなぞっている
> 私もこの点はそうだと思います

ただし、石山僧が「熊田氏のセンスで、主題と花押と、あと不動、愛染、四大天王等について修正が加えられている」という点には大いに異論があります。わたしが彫刻本尊に北山禅師授与漫荼羅の輪郭を重ねた限り、大部はほぼ重なったわけです。そうなると、熊田氏はほぼ禅師授与の如くに「氏のセンスで…修正が加え」たことになります。しかし、このようなことは不可能です。なぞった線が禅師授与漫荼羅の輪郭と一致すると言うことは、元の写真が禅師授与と相似の関係にあり、それをまた熊田氏はかなり正確になぞったことを意味します。

その意味において、彫刻本尊の写真は熊田氏のなぞった線で元のものとは違うという考えは説明として成り立ちません。

殊に愛染の筆法について、他筆である点、これは本にも写真を明示してはっきりと記しますが、あの異常な筆法を示す愛染の書き方を達師は正本堂建立時点で書写本尊に採用しています。わたしは当初、この愛染こそ、熊田氏の作為と疑ったのですが、達師書写本尊の筆法を見たとき、振り返って彫刻本尊の有り様がそうであったが故に達師はそのように記したのだと考えざるを得ない結論となりました。

全体の相違はまさに愚鈍凡夫さんが仰る意見にはわたしは賛成です。
「筆の運びや字体にも違った工夫が見られる」とまさに感じた次第です。

1846亮太:2004/11/03(水) 12:10
大石寺執事・小川只道師に取材。小川師は、「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。
ですが、幾度(いくど)も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに「経」の字の違いはハッキリわかります。
また、ことに違うのは、「日蓮」の御署名と御花押の部分ですね。大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに認(したた)められています。また、大御本尊は御著名の「日」文字と御花押が離れて認められていますが、日禅師授与の御本尊は「日」文字の上に御花押の上部が重なっていますし、御花押全体の形態もかなり追っています。これらの違いは、
御虫払いの時に気をつけて拝していだだけれぱ、一目で判るはずです。
大石寺執事の発言は、真筆本尊を間近で見ているので上記の投稿諸氏の内容を小川師に聞いて反論をしてもらいたいものだ

1847犀角独歩:2004/11/03(水) 15:09

> 上記の投稿諸氏の内容を小川師に聞いて反論をしてもらいたい

ええ、是非、図形入りで反論してもらいたいですね。
わたしは図形で問うているのですから、「こうなっている、ああなっている」と文章ではなく、図形を呈示して反論するのが筋です。大石寺からのそのほうなレスポンスは大いに期待します。

なお、弘安2年10月と弘安3年5月では、その相貌は著しく違うのであって、それが同じ蓮師漫荼羅だから似ているのは当たり前だなどという反論はやめるべきです。
この点は以下のサイトで、既にわたしは発表しています。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

真筆本尊はネットでアップされています。
弘安2年10月と弘安3年5月がどれほど、違うか、各人確認されれば一目瞭然です。

弘安2年10月第67
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/067.html

弘安3年5月
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/093.html

1848れん:2004/11/03(水) 18:33
頭角無類さん、私としては日禅授与曼陀羅を偽作とは思いません。北山蔵・石山蔵の双方ともに、あるいは写本の可能性はありますが、いわゆる偽作ということではないと思います。
犀角独歩さん、禅師授与本尊の…経の旁3画〜6画の1画の「Ι」は実は「華」縦棒が経の旁を貫いたものです…富士門ネットの写真を見ましたら確かにそうですね。ご教示有難うございます。しかし、彫刻本尊の「あの異常な筆法を示す愛染の書き方」は何なんでしょうか河辺メモで言う時師・有師書写曼陀羅にもあのような愛染の筆法がないので訝しく思います。但し、鎮師〜宥師の書写曼陀羅については未見ですので、この間の貫首の書写曼陀羅に彫刻本尊の愛染に近似するものがあるかも知れませんね。私も(彫刻本尊と日禅授与曼陀羅との)「全体の相違はまさに愚鈍凡夫さんが仰る意見に『筆の運びや字体にも違った工夫が見られる』」ものと思いますが、やはり全体の結構から見れば、彫刻本尊が示す特徴から、主に禅師授与曼陀羅を参考にして彫刻本尊が偽作されたことは動かないと存じます。以上のことから私も犀角独歩さん・愚鈍凡夫さんのご意見に賛同するものです。

1849顕正居士:2004/11/03(水) 18:34
以前からいだいている疑問

なのですが、富士派で板曼荼羅が寺院本堂の本尊として標準になるのはいつの頃からなのでしょうか?

大石寺の寺宝「戒壇本尊」の「真偽論」というのは、板曼荼羅なのであるからそれ自体の聖筆、偽筆という
論ではなく、原本の紙幅がかつて存在したか否か、現本があったとし、「戒壇本尊」と称するに至った縁起
の教義的背景が妥当であるか否か、ということであろうとおもいます。

伝説では題経寺の板曼荼羅は日蓮聖人がみずから刻んだ、戒壇本尊は日法師が刻んだといっております。
日法彫刻説は墨の部分を刻んだから原本はもう存在しない意味でしょうが、原本は戒壇本尊と同じ大きさで
あったことになります。日法彫刻説は曖昧でかつ富士派の教義にも合わないところがあるから、日蓮聖人が
自刻したという人もいれば、原本がいずれかに存在したはずと信ずる人もいるようです。日禅授与の曼荼羅
が原本であったなら、それなりの由緒が確認されたことになります。脇書に「弘安2年」とある意図は何なのか
が問題になりますが、脇書は後世に誰かが付加した可能性があります。

その場合、脇書を加えた人は板曼荼羅が宗祖の在世から存在した証拠にしたかったのではないでしょうか?

1850犀角独歩:2004/11/03(水) 19:16

れんさん、ご賛同有難うございます。
わたしも禅師授与漫荼羅の真偽については、もう少し熟考しようと考えております。
愛染の異常な相貌、それにしても何故、これまで誰も問題にしてこなかった甚だ不可思議です。仰るとおり、歴代書写本尊を当たり、あのように書き出した以降が、彫刻本尊造立時期を探る鍵になると思います。


顕正居士さん、本尊・戒壇・題目が、やがて、本門戒壇漫荼羅本尊という独自の発展を遂げた…、ということは石山に泥んでいると、ややもすれば見落としてしまう一点ですね。
そうなのです。既に記したことですが、弥四郎国重は本門戒壇願主であったのが、いつの間にか本門本尊願主の扱いになってしまっています。これはつまり、戒壇本尊というまったく新しい蓮師とは何の縁もゆかりもない新義の発生があったればこそ、可能なことであったわけです。

言葉尻を言うわけではありませんが、戒壇本尊があれば戒壇題目がなければならず、そうなれば、戒壇戒壇もあることになります。そもそもこの3つは別立てに教義を構成したのが蓮師であったのに、漫荼羅が本尊と定まり、事檀論が取り沙汰される歴史的流れのなかで、あたかも戒壇専用の本尊、それも漫荼羅本尊が捏造されるに至る流れは、実に複雑怪奇と思えるのです。図形的に納得が行くところまで来たら、またこの点を考えなければならない、全く以て厄介な存在であるとつくづく思います。

1851亮太:2004/11/03(水) 20:24
柴又帝釈天(経栄山題経寺)の板曼陀羅は、帝釈天の姿が浮き彫りになっていて、
曼陀羅本尊の部分は、裏面にでも刻んであるのでしょうか ?
余談ですが、日蓮正宗の僧侶であった、北原徳善師は戒壇本尊の疑義を大村日統
能化(宗務院教学部長)と論戦し、宗門を去り逸早く宗祖根源たる妙法蓮華経の
五字の帰依を説いています。

1852犀角独歩:2004/11/03(水) 23:08

亮太さん、はじめまして。


> 北原徳善師…大村日統…論戦

この話は初耳です。もう少し詳しくお聞かせいただけないでしょうか。

1853亮太:2004/11/04(木) 00:57
犀角さん 初めまして
北原徳善師は現在82歳になると思います、戦前は法華宗本門流の僧侶でしたが、
戦後復員してから、淳師を師範として改宗されてからは、大杉山有明寺復興時
に住職、その後に伊豆長岡町の慈光寺初代住職になり、宗創問題に本山の姿勢
を糾されて、それが基になり大村師と論戦されたが、最初から戒壇本尊を否定
していた訳ではなかったそうです。
離宗後も師僧たる淳師・達師の恩を大事にされ本尊問題に悩まれたそうです。
奥さんもそれ以上に悩み、唱題を重ねるうちに様々な研鑚もされたと・・・・
戒壇本尊の疑いを持つようになったのは、河辺メモが流出する以前から故山口
師から、日禅授与の本尊の首題と花押が一致する不自然さを聞いていたそうです。
本来、人類の幸福と寺門興隆の繁栄を旨とする北原師には、宗門という封建体質
極まりない組織よりも、宗祖のご妙判を声として信仰をされています。
私は、北原師の説く宗祖根源の妙法蓮華経の五字の帰依こそが根本だと信じてい
ます、余談ですが大村能化に「一念三千法門」からの一説を問い糾したそうです
「妙法蓮華経と唱ふると時心性の如来顕はる。耳にふれし類は無量阿僧祇却の罪を滅
す。一念も随喜する時即身成仏す。縱ひ信ぜずとも種と成り熟と成り、必ず之によっ
て成仏す」この一文に板本尊とは説かれてもいないし、他のご妙判も同一に妙法蓮華
経の大事は説かれているが、この辺りはどう説明するか、僧侶として論理的に分かる
よう迫ったが、何一つまともに話にならなかったみたいです。

1854亮太:2004/11/04(木) 01:10
追加です。
現在は隠居され、宗祖弘安五年の真筆天目上人に授与された本隆寺の本尊を製版印刷
された御本尊を修行の本尊として安置されています。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/120.html

1855犀角独歩:2004/11/04(木) 01:22

亮太さん、レス、有り難うございます。
お記しくださったお話は、わたしは感涙を押さえがたいお話です。
亮太さん、また、北原徳善師がご存命であれば、一度、是非お会いしお話を伺いたいと切望します。
深く御礼申し上げます。

1856亮太:2004/11/04(木) 12:54
 私も一度だけ、隠居されし北原師と会い種々のお話をお聞きしました。
信仰における謙虚さは、他の僧侶と比較にならない程、実直という言葉
が当て嵌まる方です。特に有明寺在任中は朝勤に力を入れていたらしく
部落の方が、唱題の際に叩く太鼓で目を覚ますなんてあったそうです。
報恩を大事にされる師は、草木にも佛性があり、父母の恩、師の恩、出会
われた人達の恩、先祖の恩を独自の観念文に取り入れていました。
私も機会があったら、お手紙を出して伺いたいと念願しています。

1857れん:2004/11/05(金) 08:35
亮太さん、初めまして。
北原徳善師…故山口師から日禅授与の本尊と題目・花押が一致する不自然さを聞いていた…。以前故山口師に手紙を出しまして、その御返事には彫刻本尊は真筆と書いておられましたが…。
犀角独歩さん、「大石寺教学の研究」の著者直人氏のHP「興門所伝考」に鮮明な北山蔵日禅授与曼陀羅が掲載されてましたので、じっくり見てみました(笑)。禅師授与は、首題の妙字は妙海寺蔵、蓮字は日華師授与に似てますね。全体的にみて、禅師授与そのものは弘安三年五月の蓮師図顕曼陀羅の諸特徴を備えており、少なくとも偽作・贋作の類ではないことは確認しました。感想としては愚鈍凡夫さんと同じように感じました。直人氏は禅師授与を彫刻本尊の原本とする説を否定してますが、私としては直人氏の彫刻本尊を興師造立とする説の方が信憑性に欠けるように思います。彫刻本尊の鑑別の難しさは、全体的には禅師授与をパッチワークしながらも、あの異常な愛染の筆法・佛滅度後を佛滅後とするなど彫刻本尊作成者による作為・改作が認められるところでしょう。何れにしましても、独歩さんの近刊書籍の一日も早い上梓を楽しみにしております。

1858オスカー:2004/11/05(金) 09:53
れんさん、初めまして
山口範道師からも、私も同じ事を手紙でいただきました。
山口師は戒壇本尊を否定はしていませんが、どうも不自然さが感じると
一部の僧侶には語っていたみたいです。堀上人も富士日興上人詳伝の中
で、板本尊については研究の余地があると示しているように、石山の日
禅授与の本尊の公開が望ましいものです。

1859犀角独歩:2004/11/05(金) 13:57

れんさんのあまり記されない(笑)に「!」と目を惹かれました。

> 禅師授与…弘安三年五月の蓮師図顕曼陀羅の諸特徴を備

ええ、仰るとおりですね。
けれど、ある方は「妙海寺漫荼羅を原本にした臨模じゃなかろうか」と仰っていました。ご意見としてはものすごく面白いですね。

それにしても、ようやくと、北山禅師授与がネットで流通が始まりましたか。
れんさんはご覧になり、どのような印象を懐かれましたでしょうか。

わたしのほうは、本日、先だっての講演内容を載せた出来上がります。
カラー版、50頁足らずです。来週月曜にはプレリリース版、こちらは120頁ほどで白黒版です。本番リリースは、そっちにかまけている間にまた少し遅延しています。
本を出すというのは本当にたいへんです。

“いまの”彫刻本尊は禅師授与漫荼羅の臨模作為が原本…、まあ、これは「図形から見た」という着想ですから、文章で違うと言われると困ります(笑)

わたしは勝手発想で記せば、中世は完則師図に見られる如く「在御判」の入ったもの。憲師実見の段階でも別物。それより以前は、第82でそれに充てた、腰書きが付いたのは台座に据えられたであろう精師段階、御影堂から宝蔵に遷されたとき。けれど、この段階ではまだ‘いまの’ではなかったろうと。寛師がいう「本門戒壇本尊」も案外別物ではないのかと思っています。それは寛師の諸尊勧請からそう思うわけです。なにせ「奉書写之」ですから。なんてあれこれ、考えています。

以下、さらに雑談。案外、禅師授与漫荼羅の宣伝効果を狙った『誑惑顕本書』に上手く操られ、さらに幕末の火事で燃えてしまった代わりを造るのに使われたのが禅師授与漫荼羅なんてストーリーだとすれば、いまのは150年ばかりのもの…。それも正本堂で修繕の折ですり替わり、いまのはもっとも新しいなんていう方もいらっしゃりますが。まあ、これは諸説の紹介で、書籍にまとめた内容とは、ぜんぜん別の自由発想ですが。

いずれにしても、興師に由来すれば弘安2年漫荼羅は「二千二百三十余年」である点は動かないと、これは文献的に思います。また、その時点で「本門戒壇漫荼羅本尊」などという発想自体、抑もなかったろうと思います。その発想が生じるのはいったいいつ頃であるのか、いずれにしても戒壇院は天皇受戒の場ですから、そうなれば、紫宸殿本尊の如き発送が生じるのも当然と思えます。天皇用の漫荼羅本尊が戒壇院マンダラでなければ、整合性は採れないことになります。けれど、本尊が仏像であれば、、その造立はもちろん天皇ご本人となるのでしょうね。

1860ワラシナ:2004/11/05(金) 19:09
亮太さんへ はじめまして。戒壇本尊真偽問題に関心を持っている者です。
ぶしつけなお願いですが。北原徳善師にお話を伺う前に亮太さんご自身と先ずお会いしてお話を伺いたいと思っております。
どこかで会っていただけないでしょうか。

1861れん:2004/11/05(金) 19:31
オスカーさん、初めまして。
山口師…どうも不自然さを感じる…。さすがは富士門の古文書を長年研究されてきた方ですね。山口師のこのご意見は傾聴に値します。私も石山の日禅授与曼陀羅の公開を望みます。
犀角独歩さん、ご本の出版準備でお忙しい中、返レス誠に有難うございます。
中世は完則図の如く…さらに幕末の火事で燃えてしまったかわりを造るのにつかわれたのが禅師授与曼陀羅…寛師がいう「本門戒壇本尊」も案外別物…。
私も虚心坦懐に資料を眺めてみて、流れからみてそれが事実だろうと思いました。改めて独歩さんのご考察に賛同いたします。
興師に由来すれば弘安二年曼陀羅…けれど(戒壇院)本尊が仏像ならば、その造立は天皇ご本人となるのでしょうね。
私も今ではその様に考えています。
北山蔵日禅授与曼陀羅を見た印象としては、本能寺曼陀羅と妙海寺曼陀羅を足して二で割った感じと言いましょうか。ある方は妙海寺曼陀羅を原本にした臨模じゃなかろうかと仰ったそうですがそれも無理はないと思いました。何れにしても現在の彫刻曼陀羅の底本は富士門伝承の曼陀羅の中では、独歩さんが図形から考察されたように禅師授与曼陀羅であることは間違いと存じます。

1862亮太:2004/11/05(金) 19:34
 いいですけど、只今引越しの準備で忙しいので、来月に入ってからなら
時間が取れると思いますので、その時にでも御返事願います。
 その際に待ち合わせ場所、時間を決めましょう。

1863愚鈍凡夫:2004/11/05(金) 19:57

う〜ん、しつこいようですが(ほんま、しつこい)。 (;^_^A アセアセ…
ところで、大石寺奉安堂の「戒壇之本尊」は何代目なんでしょうかね?
あの台座の上の蒲鉾状の半丸太は、直に彫刻してあって、板漫荼羅を貼り付けるようなまねはしていないのでしょうか・・・・・・。

不思議に思うのは、何故、板ではなく、半丸太なんでしょうか。みんな正面からしか見ないわけですから、わざわざ半丸太に彫刻しなくても良さそうなものですが・・・・・。言わなければ、ほとんどの人は半丸太か板か分からないわけですからね。

1864ワラシナ:2004/11/06(土) 09:03
亮太様へ、早速のご返信ありがとうございます。その時になりましたら連絡用のメールアドレスをここに記します。

1865通りすがり:2004/11/06(土) 14:34
 戒壇本尊を直接に拝見出来なければ、もう一つ別の手段がありますが、
 可能性は無いに等しいですけど・・・・
 大阪北野の蓮華寺に御会式に奉掲される、写しの本尊を拝するしか方法
 はありませんね、諸菩薩が若干のズレがあるみたいですが、首題、花押
 四天王、梵字は板本尊とそのままみたいなので、一度参詣して直に拝す
 るしか手段がありませんからね。
 信徒以外でも参詣出来る筈なので

1866通りすがり:2004/11/06(土) 14:35
可能性とは、写真撮影が出来るかの可能性です。

1867通りすがり:2004/11/06(土) 14:53
 大石寺の末寺で、比丘日禅師授与の形木本尊を所持されている寺院も
 あります。その寺の総代の邸宅に今も現存していますが、プライベート
 の事もありますので、名前は「妙光寺百年史・第二編 資料164ページ」
 に所持されている方の名前が書かれていますので、連絡をしてみて拝見
 させて貰えればいいんじゃないですか。
 石山の今の体質じゃ、後二十年ぐらいかかりますよ。

1868単己:2004/11/06(土) 16:08
愚鈍凡夫さん、半丸太の意味は相貌が彫られている面が反ったり、ひび割れしないようにと「大聖人様の甚々のご配慮」と雑談の中で聞いたことがありますが。違っていたらごめんなさい。

1869れん:2004/11/06(土) 18:18
通りすがりさん、大阪北野の蓮華寺の御会式に奉掲される移しの本尊…たしかに大石寺奉安堂の彫刻本尊が一般に公開されてない現在においては、たとえ‘写し’であっても、実地調査して実見すれば、あの不鮮明な写真よりかは多くの情報が得られると思います。その‘写し’の鮮明な写真の公開も今後の課題でしょうね。
愚鈍凡夫さん、犀角独歩さんのご考察を踏まえて考えますと、石山にては精師の家中抄において彫刻本尊の存在が明記されますが、憲師文献・完則図・現在の彫刻本尊はそれぞれ相貌が違いますから、精師以後に限っても、相貌から判断すれば、今の彫刻本尊は少なくとも三代目?位ではないでしょうか。独歩さんの仰る通り、道師文献から弘安二年に「二千二百三十余年」と讃文のある「日興上人」と蓮師が授与書きされた御筆曼陀羅の曽存が推測されますが(これが事実とすれば、恐らく熱原法難勃発後弘安二年九月下旬に図顕されたと思われます。三十余年とあるのは弘安二年中では九月図顕の御本尊集第六六番が下限だからです)、その曽存御筆曼陀羅は興師宛てで、熱原の農民信者の無事を祈念するものであるとしても、いわゆる本門の戒壇(本門寺の戒壇・事戒壇思想)とは無関係のものだったと思います。

1870れん:2004/11/06(土) 18:20
訂正
誤→移し。正→写し。

1871犀角独歩:2004/11/06(土) 20:31

寝る間もない程、忙しいのですが、れんさんのご投稿はあまりに刺激的です(笑)
つい、わたしの心中、投稿の虫が疼きます。

> 弘安二年…三十余年…「日興上人」と蓮師が授与書き

れんさん、わたしはこの大漫荼羅は、興師への「上人」号を与えるためのものであったと想像しています。その際に秀・弁2師にも上人号を下されたという「おまけ」がつくのではないでしょうか。以前、わたしは漫荼羅授与、允可、免許の意味があったと憶測を記したことがありましたが、興師授与「上人」号下賜の意義を具えた弘安2年漫荼羅、その当時として、際立った「三十余年」で、その讃文を受け取ったことを名誉・埃と考えられた興師とその一門であれば、あのような北山文書が次々と生まれていったのではないでしょうか。

1872犀角独歩:2004/11/06(土) 20:35


>1871

急いでいたので、ひどい打ち間違いです(自嘲)
どうして肝心の所でやってしまうのでしょう。

誤)名誉・埃
正)名誉と誇り

1873れん:2004/11/06(土) 21:56
犀角独歩さん、寝る間もない程忙しい最中に、私の投稿で失礼いたしました
>この大曼陀羅(ケイタイではマンダラのダの字が蓮師の使用されている字に変換できないのでこの表記でご容赦ください)は興師への「上人号」を与えるためのものと想像…
私も同じように考えます。曼陀羅授与書に「日興上人」と記して上人号を与えた一つの傍証が弘安二年十月十七日付けの興師宛ての蓮師書状「聖人等御返事」(興師写本北山蔵、御筆写真・興風第11号263ページ収録)と考えた方が自然ですね。
>興師授与「上人号」下賜を具えた弘安二年曼陀羅、その当時として際立った「三十余年」で、その讃文を受け取ったことを名誉と誇りと考えられた興師とその一門…
私も、二箇相承や本門寺額をはじめとする北山文書が次々と生まれた背景は、まさに犀角独歩さんのご考察の通りと思います。なお熱原法難時の蓮師書状には「伯耆殿日秀日弁等下」「下伯耆房」と蓮師が記してますがこの「下」字について興師は「六人御弟子中ニモ下字給たるハ日興外仁無之」と非常に誇らしげに記しているのが印象的です。熱原法難時における蓮師よりの興師宛て曼陀羅による上人号授与と興師宛て書状における「下」字の使用に、興師は生涯名誉と誇りを持たれておられたことと思います。

1874愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 00:53

横レス失礼します。
上人号下賜というのは、日蓮一門の中でのことですよね。台家に行ったら「何それ」って言われそうですが。 ( ̄Д ̄;;
蓮祖としては法華宗の一派としての自覚はあったかも知れませんね。そういう意味ではイエスと似ているのかも知れません。結果的にキリスト教を興したのは弟子たちですから。蓮祖の弟子たちは、一宗を興された上での下賜と受け取っていたのでしょうね。宗祖日蓮から賜った「上人号」であると信じていたから誇らしく感じたのかも知れません。

1875愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 01:13

>>1868:単己さん、初めまして。
レスを頂いたのに読み飛ばしていました。 m(_ _;)m ゴメン!!

> 半丸太の意味は相貌が彫られている面が反ったり、ひび割れしないようにと「大聖人様の甚々のご配慮」と雑談の中で聞いたことがありますが。

反りやひび割れを心配するのであれば、半丸太よりも角材を選ぶと思います。何十年も掛けて自然乾燥させた角材は、癖が全部出切ってしまいますからそれ以上変形する事はありません(故意に多量の水分を含ませない限り)。メンテによりますが、その角材を削って板にすれば、少なくとも千年は保つでしょう。200㎏を優に超えると思われる半丸太よりも、板のほうが扱いやすいし、重機やトラックのない時代ですからね・・・・・。もし蓮祖が認めたとしたら、日興師は一人でどのような手段を労して身延の山奥から大石ヶ原まで運んだのかといった問題をクリアしなければなりません。

1876単己:2004/11/07(日) 05:25
>単己さん、初めまして。

こちらこそ、初めまして。

>反りやひび割れを心配するのであれば、半丸太よりも角材を選ぶと思います。

そうですか。無知でした。保存という意味からでは無いのですね。多少安定性がいいくらいで何のメリットがあるのか分からないですね。
半丸太か板状かについて確か細井管長が半丸太と言っただけで、他の僧などにはこういう発言はなかったように記憶してます。
実際のところ半丸太状というのはどうなんでしょうね。

1877通りすがり:2004/11/07(日) 17:10
犀角さんの、所持されているある程度鮮明な写真とは、頭角無類さんがアップ
された写真なのですか?首題・花押・四天王・梵字はクッキリ分かりますけど
書写年月日や勧請されている諸菩薩はボケていて今一つ実感がわかないですが
全くの別物になるのでしょうか。

1878犀角独歩:2004/11/07(日) 17:45

通りすがりさん、わたしが所持している写真はカラーです。
同じ漫荼羅を撮影したことはわかりますが、別の写真のような…。
頭角無類さんがアップされた画像はアミ版が掛かっていますから、印刷物に掲載されたものをスキャンしたものではないでしょうか。わたしが所持するものは、現物を撮影したものを、そのまま出力したものです。
取材上の守秘義務があります。これ以上は勘弁してください。

1879愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 19:43

単己さん、どうも。
半丸太の素性が分かれば、現在の「戒壇之本尊」誕生の経緯がはっきりすのでしょうが・・・・。
確か、奉安殿から正本堂に遷座するときに「戒壇之本尊」を担いだ人の話が出ていましたね。その人の証言でも「戒壇之本尊」は、半丸太だったとのことでした。
これは以前、犀角独歩さんが投げかけた疑問であったと思いますが、「戒壇之本尊」に関する文献の記述に「厚二寸二分(約6.6㎝)」とあるのはどういう意味でしょうね。
この記述は「戒壇之本尊」が板であるからこその表現であると思われます。
ならば、いつ頃板から半丸太にすり替わったのか? その理由は何か? そして、プロデューサーは誰か?
この半丸太の漫荼羅は、数ある板漫荼羅との差別化を図るために半丸太に加工されたのかも知れないと思ったりしています。

1880通りすがり:2004/11/07(日) 20:47
犀角独歩さん
有難うございました。

1881単己:2004/11/08(月) 11:31
愚鈍凡夫さんゴミレスに丁寧にありがとうございます。

>その人の証言でも「戒壇之本尊」は、半丸太
>文献の記述に「厚二寸二分(約6.6㎝)」とある

仰るとおり、これらから当初板だったものが半丸太にすり替わったと類推するのが自然ですね。

以下は独り言ですが......

大石寺歴代住職の漫荼羅に対する信仰心は一体どうなっているのか、といつも思わせられます。
今の阿部管長にしても「戒壇本尊」が偽作という事実を知っているようですし。
大石寺の漫荼羅信仰をしたことのある人なら学会、法華講、顕正会など組織は違っても蓮師の漫荼羅を偽作するなんて大謗法・狂気の沙汰としか言えないのでは。
それでも彼らは信仰者として、釈尊・蓮師に羞じない仏弟子として自らの成仏を確信できたのでしょうか。それとも、寺院運営のプロとして漫荼羅などただの道具として扱っていたのでしょうか。
そんなことを思うにつけ、「戒壇本尊」を新規に作成し何度もすり替えていった人達の真情はどうだったのかと興味が湧きます。

もっとも、大石寺より「伝統」もあり「由緒正しい」延暦寺などは、それこそ政争の具として戦国大名を圧倒する武装勢力だったわけで、皇族の腰掛けに用意されていた天台座主の信仰心(法華信仰のために殉教する覚悟とか)など問題にならないわけですが。

1882通りすがり:2004/11/08(月) 23:47
頭角無類さんの、アップした日禅授与の本尊の写真が見られないみたいです。
石山の僧侶の間でも、ここのページが話題になっているのは実に光栄な事だ
と思います。日蓮正宗教学部や提議のある僧侶の意見を聞いて見たいもんです。

1883勉強中:2004/11/09(火) 00:32

通りすがりさん、はじめまして。

「大石寺教学の研究」の著者であるHN直人さんのHPでも写真が出ています。

http://www.sincere.ne.jp/~naohito/kaidan_zenshi.html

直人さんは、本門戒壇の大御本尊が日禅授与曼荼羅を原図としていることには異論があるようです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3171/1080352245/37

また大石寺の御僧侶方がご覧との事ですが、是非大石寺蔵の日禅授与曼荼羅の鮮明なお写真と、本門戒壇の大御本尊の鮮明なお写真の公開をお願いしたく存じます。

1884犀角独歩:2004/11/09(火) 14:06

>1882

リンク先を拝見しました。
要するに、いちばん、肝心の2点、アプローチの仕方がわたしと違うわけです。

(1)並べられる写真のサイズをまず、「南」〜「經」で同一にして比較すること

こうしませんと文字の比率の差がよくわかりません。同一サイズにすると、けっして「南」字は小さくありません。
「華」も輪郭を重ねると、ほぼ相似形をしています。字画・光明点の伸びる角度まで一致しています。
「經」旁‘リ’‘ツ’の相違は、もちろん現宗研の講演で考証しています。
「ツ」1画目「ノ」の位置に「華」の縦棒が一致しています。この点で彫刻本尊では作為があるというのがわたしの考えです。その他の部分でも、字画運筆がぴたりと重なります。

(2)パッチワークであることを意識すること

彫刻本尊の制作過程を木下日順師は「よせもの」と称しました。稲田海素師の「4部構成」説もいうべき考えを踏襲したものです。ですから、文字一字々々は似通っていながら、その‘置かれる位置’にズレがあります。その理由は

 a:原図から持ってきた字を板面でパッチワークして、再構成している
 b:北山蔵と石山ではレイアウトの相違がある

などの点によるとわたしは考えています。

以上、サイズとパッチワーク、この点を外して、原本と模刻は縦横・配置まで、ピタリと同じはずだという固定観念は事実を見落とす先入観であることを意識しなければならないというのが考証段階におけるわたしの発見と反省でした。
たぶん彫刻本尊は複数原本の臨模、さらに制作者の作為という複雑な要素が絡んでいることを考慮しなければ事実は見えてきません。

ところで頭角無類さんアップの写真、もう消えてしまったんですね。

1885犀角独歩:2004/11/09(火) 19:14

れんさん、
勉強中さん

お二方が同じHPを紹介されており、それがどうやらわたしへの反論か疑義?のご紹介ようなので、弁明という、立証のために、一つだけ画像をアップします。

この手の画像は出版して著作権が確立してから、ネットへ公開したいのですが、ご参考に未発表ですが、比較画像を紹介します。

種々ご教導をいただているお二人ですから、礼節に従った次第です。

これはご紹介のページにアップされた画像を同一サイズとして、平行線を引いて、大きさを比較したものです。ここまで一致するのに、原図ではない、「南」字の大きさが違うという「説」を立てる理由がわかりません。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/ookisa_hikaku.jpg

1886通りすがり:2004/11/09(火) 19:36
ん、見られませんね、何か技術的に問題でもあるのかな
準備中になっています。

1887犀角独歩:2004/11/09(火) 19:37

自己レスです。
1885のジャンプ、何故か飛びません。
けれど、コピペすると飛びます。
ご面倒ですが、そのようになさって、ご高覧ください。

1888れん:2004/11/09(火) 20:14
犀角独歩さん、アップされた画像を拝見いたしました。ケイタイからですと、残念ながら首題の経字までしか見られませんが、禅師授与曼陀羅と彫刻本尊・同じ大きさにしますと、首題だけ見てもよく一致してますね。現在の彫刻本尊は首題・日蓮花押・四大天玉・不動愛染だけみましても、おもに禅師授与曼陀羅をパッチワークしたものである(勿論ところどころに製作者による作為が見られる)ことは間違い無いと私も思います。直人さんの誤解?は、独歩さんのご指摘の点とともに、現在の彫刻本尊を興師直造と考えていることでしょう。日憲文献・完則図・明治期に公開された写真とで、彫刻本尊の相貌が異なっていて、彫刻本尊は一枚岩ならぬ一枚‘板’ではなくて、複数の‘存在’が認められることを看過していることですね。
それから、御教導戴いているのは私の方です。犀角独歩さんをはじめ皆さんのご教示のおかげで、大分頭のなかの整理がついてきました。独歩さんをはじめ皆さんの御学恩に深く感謝申し上げます。

1889れん:2004/11/09(火) 21:06
訂正
誤、アップされた画像
正、アップされた比較画像

1890犀角独歩:2004/11/09(火) 21:13

れんさん、過分なお言葉恐縮です。こちらのほうこそ、感謝申し上ておりげます。

周囲のレスなのですが、なにかわたしが模写=原図であるといっているような周囲のレスがありますね(笑)
わたしはそんなことを言っていません。臨模・作為混合であると言っています。
中央題目についてもそれは同様で、ただ、各文字が相似している、殊に各文字同士の大きさ・字画長等の比率が合っている点に注目しているわけです。これらの点が一致すれば、模写であれ、臨写であれ、作為であれ、(参考にした)原図には違いないという認識です。

なお「南」字の‘冂’画はたしかに彫刻本尊のほうが細く見えます。また‘┐’の部分、より終点に向かい内側に入っている点で相違しているように見えます。しかしこれは原本ならざる決定打にはなりませんでしょう。他の部位があまりにも類似、相似形にあるからです。故に「華」「經」についても、これは同様に考えております。

あと「經」光明点が彫刻本尊にはないということですが、これはたぶん写真の関係ではないかと類推します。もしなければ、それだけでも、この「南」字は他筆と断定できることになりますね。そんな筆法は他に例がないからです。ですから、写真では確認できなくても、わたしはこの線はあるはずだと考えています。

仮にこの原図が臨模作為であっても聖筆を真似る気があれば、そんな初歩的な書き間違いをするわけもないからです。ですから、これを「ない」と断言する勇気には、多少ならずとも驚かされました。

1891勉強中:2004/11/10(水) 00:14

犀角独歩さん、出版前のご多忙な中を申し訳ありません。
私のレスが結果的にお手を煩わす結果となってしまいました。
私はれんさんはじめ、こちらの諸先輩方と違い、何の真新しい投稿もできていません。
ただ虫干などでみたまま、聞いたままを報告したまでで、誠に皆様の学恩に授かっているに過ぎません。

そして直人さんは、なんといってもお若い。未来があり将来有望な方であることは間違いないと思う次第です。

ともかく私の出すぎた投稿で、お二人の学匠の貴重なお時間をさいてしまったことに陳謝いたします。

1892通りすがり:2004/11/10(水) 00:15
 戒壇本尊の正鵠な写真が中川日史と言われる方の書物に掲載されていると言う
 話を宗内僧侶から聞いた覚えがあるんですけど、書名は分かりませんが
 あと、正本堂の取り壊しの後に一時的に安置された奉安殿や現在の奉安堂でも
 カメラ付携帯電話で堂々と撮影している法華講員が多数いるそうです。
 四月の虫干法会の際に奉掲される宗祖御本尊の内のなかで御本尊集に未収録の
 本尊は偽筆?の可能性はあると本山僧侶の方が語ってくれたのは驚きました。
 山中氏は、そのあたりを憂慮せられあえて収録されなかったのでは無いでしょ
 うか。

1893きゃからばあ:2004/11/10(水) 11:13

面白いものを見つけた。

『弘安二年 大曼荼羅と日興師』昭和五年十月三十日発行・松本佐蔵(道本)著

「尚又此御本尊の裏に閻浮提云云と御下附の由來が書記せられてあるとの噂を耳にしたことがあるが併し之は裏と云ふのであるから只だ噂として到底其實否を確めることは出來ない 本來我々が拝すのは内拝であって広宣流布の暁でなくば公然拝すべき筋のものでないと石山では昔よりの云ひ傳へであるから容易に拝すことを許されない事になって居るが道本が子供の頃はこの筆法で信仰を認めなければ金を積んでも拝ませなかったが最近では金で拝ませるかどうか」

「明治四五年の頃この大本尊に対し甚だ恐れ多いことがあった 夫は時の政府が全国の神社仏閣の本尊を取調べ神仏混交を許さずとあって各々其本尊を取調べ疑点ありとするものは皆引上げられたことがあった この噂を聞き石山でも大に驚きこれに限り疑ひありなどと批難さるゝ気支ひはないが併しどんな口實を以てか假令一時たりとも引上げらるゝ様な事があっては恐れ多い迚時の法主(石山五十一世日英師が其時機に當る)は東京芝區の強信者山田善兵衛氏(道本の親戚)を招かれ諮議の上法主は正本尊大の紙幅に模写しこれを本尊に仕立てゝ正板本尊は山田氏等数人が供奉し夜中を選み出京して本郷の加秔邸に旨を傳へ同邸の倉庫へ窃かに預け置き暫時世間の状況を見定め最早安全なりと認められて同邸より取戻し元の如く石山寳庫に安置せられたのである又假りの代品本尊は東京に持來り数十年後深川區の法道院と云へる教會に於て日應師山田氏等立會の上焼却し終った(法道院は大正十二年の大震火災に全焼せり)又山田氏は今尚芝區本郷町にて山田善之助迚立派に相続して居る此事は道本も子供の頃に之れを聞き記臆して居る 此経緯を誤り伝へて石山の本尊は偽物なりなどと飛んでもない噂さを世間でしたそうだが事實は右の通である」

はたして、本物が取り上げられるのを恐れたか?
または、偽者とバレるのが怖かったのか?
いずれにせよ、一時的に板漫荼羅が大石寺より東京の信徒の倉庫に保管されたとある。
もしかして、今の奉安堂の板漫荼羅も、仮本尊だったり?
やはり、うさんくさい。

1894管理者:2004/11/13(土) 23:18

頭角無類さん

犀角独歩さん

>1884  ところで頭角無類さんアップの写真、もう消えてしまったんですね。

管理者の独断で、頭角無類さんアップの写真、リンク集に収納させていただきました。もし、不都合が有れば消します。仰ってください。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

1895平和創価:2004/12/11(土) 16:28
私は今、までいつも思っていたのですが、蓮祖の御両親は一体何歳で亡くなったのでしょうか。
父の妙日尊霊は正嘉2年2月14日、母の妙蓮は文永4年8月15日です。

日蓮正宗過去帳に没年齢が書かれていないので、不思議ものと思われます。

1896通りすがり:2004/12/13(月) 02:51
> 1895
実の親の事?育ての親?
妙日・妙蓮尊霊がどちらかは不明ですがね。
育ての親という説もありますしね。
実親は、高貴な…(笑)。

1897れん:2004/12/13(月) 07:13
たしか、石山代々法華の方々の間では、妙蓮・妙日尊霊は育ての親で、実の親は高貴な…という伝承だそうですね。ただこの説にかんしては石山五十九世堀日亨師は「但し確実なる資料が無い」(杉谷師筆録の日亨上人講述)と疑義を呈していますし、文献のうえでは蓮師門下最古の蓮師伝記である大石寺四世日道師の「御伝土代」では「日蓮聖人は本地是地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は則安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり」とあります。また後世の文献ながら富士の相伝書の産湯相承でも三国大夫・梅菊夫婦が実親とされてますからいかがなものでしょうか?

1898真実 探求者:2005/01/25(火) 20:07:11
失礼、。 素朴な疑問、、?  は誰しも抱くものでしょうか、。 そのヒトツに「、、どうして日興師」が「、身延山」を下山するに至ったのでしょうか?  日蓮聖人が「身延は聖地なり、、?」と断じた?ようですが、。 日興師は、?ではないでしょうか、。 本当は「、ご供養の激減、?」による「、弟子などの育成、?」の点で「、イワユル、、ゼニの問題、?」と存じますが、? 世の中「キレイ事」では通じ無いことが多数あるようです。ダマシ?は、後日、999%
見破られるようです、。 早々。

1899祝8郎:2005/01/26(水) 01:51:36
>1898
身延離山は日興師の前に昭師朗師持師頂師が不参というかたちで行なっています。
当時の身延は波木井の領地であって、かりに久遠寺があったとしてもそれは波木井の所有にかかるものと考えられます。
日蓮聖人や日興師に対して「身延の沢」「草庵」「久遠寺」などを波木井が寄進したという事実もありません。
日蓮聖人在世当時から波木井による「御供養」などほとんど無きに等しかったと考えられます。
やはり波木井の不信心が大きな要因だと思われます。

1900真実 探求者:2005/01/29(土) 22:13:31
、、ご免下さい。 当時は、人は、どこかの寺院に必ず所属する義務??があったようです? まー、それが幕末まで続いた「徳川政策、、」であった、、。 その中での「、、日蓮さん無き後の、布教の対策?」に日興さんも苦慮されたでしょう、、。 「昭、朗、持、頂師方」が身延の日蓮さんの墓参もしなかった、ようですが、、これは、、「、、日蓮さんへの不信の確定犯、??、」とも、? 言えないでしょうか、、??  あまりにも、厳しい折伏に「、、五他僧が、内心は日蓮さんに反感を抱いていた、??、」という、事も考証可能でしょうか、?  ならば、日蓮さんは「弟子方、、」に高い確率で当時から「、、裏切られて居た、、??」ようでしょうか、、?  でも真実は、、「、、弟子方か、、?  日蓮さん、、か、、?、、」かは、後世の我々の範疇でしょうか、、?? 早々、。
早々、。

1901顕正居士:2005/02/05(土) 20:59:20
身延山の位置は今日でも山梨県の辺境です。鉄道(身延線)があるから行けはするが。日蓮が示寂した後
六老が交替で祖廟を守ると決めたが昭朗持頂の四老は多忙で来られない。甲斐出身で甲駿に教線を張る
日興が常駐することになってしまった。しかし日向だけは来た。そして波木井日円は日向と仲が良くなった。
当時の寺院は大名小名が土地、資金、軍事力を出資することで新設された。領民の文化向上による領地の
安定を目指してだろう。次代以降の住職はその大名小名の男子の一人が出家して継ぐ。日興は日円と関係
の改善を計ったが、すでに日円の志は日向に傾いている。身延山は門弟を繁茂させるには不便な位置でも
ある。駿河への転地の計画を構想したでしょう。構想は実って南條氏の寄進により大石寺の基いができた。
しかし二年後には更に将来性がある石川氏の出資により重須に移って、本門寺根源と称することになった。
日向は学問が優秀であったのかも知れない。非常に永い目で見れば身延山は繁栄すると予想したのかも
知れない。対していえば日興のほうは経営の感覚が優れていた。重須への転地は南條氏の了解と支援の
もとに行われた。ここで日興の門徒は大石寺(南條氏)と本門寺(石川氏)に分張した。大石寺を継承した
日目は南條氏ではなく縁戚の小野寺氏であり、その寂後には日道(小野寺氏)と日郷(南條氏が支援)との
寄進地継承抗争が勃発した。結局、日郷は大石寺を離山し、又、日興の後を継いだ日代は当代の石川氏
と合わず重須を離山して西山に(真実の)本門寺根源を開いた。富士派は骨肉の抗争によってむしろ発展
した。他門徒もそうであろう。競争原理の効果といおうか、六老に序列を付けないと宣言した日蓮の先見の
智慧か。土地を獲得し小作収入を増やし、本山参詣による商業を推進し、かつは軍事力を養成して戦国に
覇を唱えるという宗教勢力発達の方規は比叡山を見習ったが、その山科本願寺は京都日蓮宗の民兵に
よって滅ぼされ、その京都日蓮宗二十一箇寺は比叡山山兵に焼かれ、比叡山は織田信長の軍隊によって
破却された。徳川家康がオランダ大統領に送った書簡にはわが国と貴国とはともに宗教戦争を終焉させた
共和国であるから万里の波濤を越えて軍事同盟を結ぼうと提案された。経済力も軍事力もなくても学問が
できる環境があれば勢力を伸張できる江戸時代になってはじめて身延山久遠寺が誕生したといえましょう。

1902犀角独歩:2005/02/07(月) 20:17:08

デルトロさん、はじめまして。
書き込みをされたスレッドは『スレッドテーマ提案用』なので、その後に続けて投稿するわけに行きませんから、仮にこちらに書き込みことにしました。

わたしは52に投稿される如き、率直な感想には賛同します。

「広宣流布」とは、(法を)広く宣(の)べ流布することでしょうね。原義的には、まあ、信仰者は怒るかもしれませんが、広宣流布にいちばん近い現代語は、広告宣伝・流通(広く告げ・宣(の)べ伝える・流通する)であろうと思っています。もちろん、これは商業用語になっていますが、法であるか、商品であるのかの差異はあるにせよ、類似形態であると考えてきました。

ただ、その広宣流布は、衆生の三割(舎衛三億の喩え)であるとは、万民一同であるとか、その流布の割合は区々に言われ、その結果社会をまた、意味するところに語彙は拡大解釈されるにいたり現在に及んでいるのでしょうね。

日蓮門下としては『如説修行鈔』の

「法華折伏、破権門理の金言なれば、ついに権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗となりて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれ(壞)をくだかず、代はぎのう(義農)の世となりて、今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人、法共に不老不死の理を顕さん時を各各御らん (覧)ぜよ。現世安穏の証文疑ひあるべからざる者なり」

を、その具体的イメージとして懐いてきたのでしょうね。
まあ、しかし、わたしにはリアリティがありません。

1903犀角独歩:2005/02/07(月) 20:19:01

> 1902

失礼、52とは、『スレッド提案用』の52のことです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014121584/52

1904愚鈍:2005/02/07(月) 21:15:46

広宣流布は、悲しいかな「virtual reality」ではありませんか。
天災も人災もない世の中なんて信じられませんし、あり得ないことでしょう。
地震・台風・津波を止める術なんてないですよ。
去年の中越地方がいい例だと思います。台風による水害、その後が大地震、そして記録的豪雪です。まるで、踏んだり蹴ったりを絵に描いたようなものです。
どうせ、カルト教団では罰がどうしたこうしたと言ってるんでしょうけど。 ムカ…(;-_-メ)>

1905愚鈍凡夫:2005/02/07(月) 21:22:33

>>1904:は小生のレスです。 m(_ _)m
世の中が創価学会・法華講・顕正会の会員で溢れていても、理想郷とはほど遠い社会になっているのじゃないですか。どうせ新たな敵を見つけて攻撃してるでしょうから。

1906デルトロ:2005/02/07(月) 21:49:50
独歩さん はじめまして
私のような拙い質問にお応えいただいて恐縮です。
一見されてよくおわかりかと思いますが、
私は教学は苦手でして、普段御書を開くこともあまりありません。

ただここの掲示板に縁ができて、少し学んでみたいという欲求が
湧いてきました。
これは私の感想なのですか、一般の信徒のかたで、日々教学について
研鑽されているかたは少ないと思います(これはあくまでも主観であり、
証拠を示すことはできませんが 笑)
ただそのような信徒にも、積極的に御書を学んでいきたいと
感じさせられるような掲示板だと思っています。
その一点においても、かなり有意義だと感じさせられました。

疑問のひとつとして、流派はいろいろあれ、大聖人の仏法は信じるに
足りるものなのでしょうか?
おそらくこれは聞いてはいけないことなのかもしれませんが、

分裂した流派は否定するが、大聖人様は肯定できる。のか。
あるいは分裂するような流派を元々作った人間に問題があるのか、
(継承した人間がどうだったかという問題はおいておいて)
もっといえば日々リアルな生活を送っている人間に
大聖人様の仏法は必要であるのか。

このへんてどうなんでしょうか。
これも上記と同じく個人的感想なので証拠はないのですが
大聖人様の仏法の入り口には「現世利益」という
いいかたはよくないかもしれませんが俗さがあるような気がします。

現世利益がなくなってしまうと、たぶんほとんどの人が
この信仰を捨ててしまう気がします。
(他の宗教でもほとんどが現世利益を売りにして、それなりの利益は
あるのかもしれませんが、ならどの宗教でもいいということになってしまい、
長年正宗の信仰に関わってきた人間はジレンマに陥る)

なんかうまくまとまってないですが、
(御書の件とも自己相違してしまうかもしれませんし)
正直、正しくて現世利益があるのならばもっと勉強していきたい
けど、根本が崩れているならやりたくないと、いうのが
本音かもしれません。

どう思われますか?
甘えているのかもしれませんが、アドバイスがいただけると
助かります。
幼稚な文章ですみません

1907デルトロ:2005/02/07(月) 22:00:38
続けてすみません。
愚鈍凡夫さん こんにちは
新たな敵をみつけて攻撃っていうのはまったく
その通りですね。
まったく敵がいなくなった状態というのも
どんな状態なのか想像つきません(それが広宣流布というならば)
全体主義のような社会なのか、あるいは差別格差が大きくなっている
社会なのか。
どちらにしろ歪みは出てくるような気がしてきます。
歪みのない社会を作ることが新しい歪みを作るというのは、
なんとなく理にかなっているような気がするのですがどうでしょう?

はじめから絵に描いた餅だったんですかねえ
やっぱりちょっとショックかもしれません

1908犀角独歩:2005/02/07(月) 22:08:23

デルトロさん、どうも。

なんか、自分でも不思議なのですが、デルトロさんの疑問と言うか、感性は、わたしは実にすとんと腑に落ちるのです。まあ、わたしが御書・富要オタク(ほかは弱くて、れんさんにお叱りを受けたり、顕正居士さんに補っていただいたり、暴走は愚鈍凡夫さんがかっこよくフォローしてくれたりですが)で、まあ、蓮師文献は好きです。御書はあまり開かない…、けれど、何かを言い張るわけではないので、別段、それはいいでしょう。

> 大聖人の仏法は信じるに足りるものなのでしょうか?

この点は、わたしも実に興味があります。
正直、申し上げ、大乗経典の一切は後世の創作物語、漢訳仏典は致命的な違訳・意訳の山、天台も「うーーん」と唸るところも多く、御書に至っては半分は真偽未決、中世、相伝は信じるに足らず……。しかし、信者さんのなかに功徳の体験を熱く語る、このパラドクスは如何に?というところでしょう。

現世利益(功徳)は…、「うーん」ですね。
これはわたしが高校生のとき、キリスト教の友人と72時間の長期激論をしたときのことです。
わたしが「利益も出ないような信仰は力がない!」と、まあ、創価学会で教えられたことを「確信」を持って語ったわけです。
友人いわく、「キリスト教では、利益を考えてやる信仰を貧しい信仰であるという。功徳があろうがなかろう、ひたすらに神を信じること、それが見返り、損得を考えない純粋な信仰だろう」とやり返されました。実は、そのときから、30有余年、この点について、腕組みをしたまま、今でも考え込んでいます。

難しいご質問を投げかけられますね。

1909デルトロ:2005/02/07(月) 22:43:03
独歩さん すみません。
くだらない質問で。
利益を考えてやる信仰は貧しい信仰といった
キリスト教の人の意見もわからなくはないんですが、
でもそれだと限りなく自己満足の信仰な気もするんですよ。
もっというと、
「得もないのに、なんで信仰やってんの?
自分が高尚なことしてるって思い込みたいだけでしょ?」
と、キツイいいかたですが、あります。
キリスト教の人はあまりにも高すぎる理想と、
等身大の自分にギャップが出て苦しむ人が多いようですね。
そんな自分を封じ込めるような気がします。

でもこれはこちらの視点であり、キリスト教からしてみれば
排他的で罰論ばかり、脅かしの宗教だって感じるんでしょうね。
スイマセン。話それましたが。

広宣流布がリアリティなくなってしまうと、
大聖人の仏法にリアリティがなくなってしまうんでよ。
けど罰や功徳にはリアリティがある(かもしれない)
罰や功徳の判断はあくまでも主観でしかない。
けど信仰している人間はほぼ全員といったら言い過ぎかも
しれませんが、現世利益を求めている。
あれが欲しいこれが欲しい。ああしたいこうしたいと。

では罰ってなんだ功徳ってなんだ
大聖人って正しいのか正しくなにのかって
どんどんジレンマに陥るんです
これを解決できるものが仏法だと信じていたわけで、
かなり混乱しています。

1910犀角独歩:2005/02/07(月) 23:01:04

デルトロさん、くだらない質問とはぜんぜん、思わないですよ。
根源的、かつ直截な疑問点であると思います。
こちら側からのキリスト教の見方、また、向こうから見方。かなり適切にとらえられていると思います。

> では罰ってなんだ功徳ってなんだ

ここら辺について、クラックを埋めるのが「即」ということなんでしょうね。たとえば「罰即功徳」とかね。類型的に言えば、「変毒為薬」なんていうのもあるでしょうね。


デルトロさんの今のような状態、立ち止まって考えあぐね、堂々巡りに陥っているとき、その突破口となり、罰であれ、毒であれ、悪であれ、それを一切合財、いい方向に転換し、前向き、上昇に切り替えることができるとするのが、力ある仏教なんていうとらえ方なのでしょうね。「不可能を可能にする」「妙とは蘇生」なんていうのも、その類じゃないでしょうか。

現実問題、祈って、人生を切り開いてきた人は上述を、もっともだと思うでしょうね。
反面、端で見ている人から、「あいつ、拝んでいるだけ」「拝むことが目的になっている」「宗教をやっている自分に酔っている」なんていう辛辣なご意見を飛び交うかもしれません。

わたしは、最近、こういう功利性を、説明原理として、御書、経典を引くのが仏教の在り方で、阿弥陀さんのお陰にするのが浄土念仏、神様への感謝となればキリスト教で、そうやって感謝させながら、人々を労するのが宗教団体・指導者…、でも、そういう潜在能力は、実は人間本来の、個人的な能力ではないのかと考え直すようになってきています。オフ会スレッドで書いた如くです。

…答えになっていないかもしれませんが。

1911愚鈍凡夫:2005/02/08(火) 00:27:22


>>1907:デルトロさん、初めまして。

「絵にも描けない美しさ」なんちゃって。

「だから、なに・・・・・。」 (-.-;)y-゚゚゚

まず、幾多の宗教が同じテーブルに座って、神や仏、そして信仰について話し合う機会を作ることから世界平和は始まると思います。
イラクでも同じイスラム教のスンニ派とシーア派が対立しています。イラクほど深刻ではないにしても、日蓮宗(富士門も含めた意味で)の統率力のなさを、他人事とは思えません。元を正せば日蓮その人が、謎だらけの人物であるからかも知れません。
歴史書にその存在を探し求めても見つからない人物、それが日蓮、その人でもあります。
先日、聖徳太子と親鸞聖人について犀角独歩さんとお話させて頂きましたが、何を隠そう、「日蓮聖人は架空の人物である」なんて論文が出てくると面白いかもと個人的に思ったりしています。

「祟りがありませんように・・・・・」 ちーん Ωヽ(-"-;)南無南無。。。。

ただ小生は、ピュアな心を保ち続けることができるのなら、今でも創価学会員であり続けたかも知れません。しかし、残念ながらその願望は打ち砕かれ、現在に至っております。
(-""-;)

1912犀角独歩:2005/02/08(火) 00:50:30

愚鈍凡夫さん、横レス失礼。
ピュアな心を持ち続けたからこそ脱会したというのも、あるんじゃないでしょうかね。

1913デルトロ:2005/02/08(火) 01:50:08
こんばんわ。
難しいですねえ。ピュアな気持ちを持ち続けられて
盲信ではなくかつ利益も欲しいとは、
本来からして欲張りな考えなのかもしれませんねえ。

私も二元論でとりあげてるのかもしれませんね。
しかし宗教に葛藤がつきものというのは
常みたいですね。
それをどう捉えていくのかの判定基準というのが
主観なのか客観なのかもわからなくなっているんで、
単純に正邪が欲しくなってしまう。
その心理もあるのかもしれません。

私は宗門と学会が決別してしまった時に、
そのタイミングで組織とは違う個人的なことも
重なって、御本尊様をカッターでズタズタに裂くということを
してしまいました。それも二度もです。
狂ったから御本尊に手をかけたのか、御本尊に手をかけたから
狂ったのか、精神病院の入退院を繰り返していました。
閉鎖病棟の保護室という場所に監禁され、手足もすべて
しばりあげられ、まさに地獄でした。
どこかのスレで、似たような体験のURLを開きましたが、
「これ自分だ」って。逆にいえば、自分だけじゃなかったんだ。
とも思いました。

今は薬もよくなっているんでしょうが、当時の副作用は
とても強く。退院してきてもほとんど廃人に近い状態でした。

1914デルトロ:2005/02/08(火) 01:50:54
もちろん信仰につけるはずもなく、日々自殺だけを考え、
廃人ライフを送ってきました。というより、こんなこと
しでかしといて生きていこうなんて虫がよすぎるなあと感じていました。

それからしばらくして宗門の信仰につきました。
(もちろんこんなことがあったなんて誰にも話せない)
自分の謗法の強さを自覚していたので、常に懺悔の日々です。
今では奇跡的に回復し、普通の日常生活も送れるようになったのですが、
今でもたまにふと思うんです。

あの時自分が御本尊様に手をかけていなかったならば、どんな人生だったんだろうと。
仮定は意味のないことかもしれませんが、
やっぱり考えてしまいます。違う人生があったのか、それとも自分は最初から
こうなるようになっていたのかと。
しっかり信心をして功徳をいただいた気もするし、そうじゃない気もする。
今こうして生活ができていること自体大きな功徳ではあるとは思うのですが
本当にそうなのかと思う自分も同時にいるわけです。
(ものすごく恐ろしいことをいっている気もします)

自分は罪業が深い。これだけは間違いない。
何かひどい目にあっても、それは自分のしでかしたことが原因だからと
考えやすくなってしまう傾向もある。
これが呪縛による神経症のようなものなのか。
あるいは違うのか。
呪縛からとき離れるべきか、背負っていくべきか。

1915デルトロ:2005/02/08(火) 01:51:30
私はこの信仰をずっと続けていこうと思っています。
しかしもしそれが、根源である日蓮大聖人から否定されるべきものなので
あれば、流派うんぬんなどまったくの瑣末なことであり、大げさにいえば
自分の人生の否定にもなってしまいます。

しかし否定されることが怖いわけではなく(もちろん恐怖ではありますが)
今後、どのように曼荼羅と向き合っていったらいいのかとの葛藤です。
信仰を捨てるのか否か。あるいは保つのか否か

日蓮大聖人が間違っているのであればこの呪縛からとき離れたい
(もちろん思っているより簡単なことではないでしょうが)
しかしこの仏法が正しいのであればこのままずっと罪障消滅を祈っていきたい。

これは正か邪かの二元論ではなく選択だと思っています。
独歩さんはどうお考えになるでしょうか?
独歩さんの答えはいつもリアリティがあってとても好きです。
失礼になりますが、ここで独歩さんの話を聞いても、おそらくすべてを委ねるようなことはないでしょう。
(かといって真剣に耳を傾ける姿勢は変えないつもりです)
またこれから先、どっちを選択しても葛藤からは逃れられないのも
わかっているつもりです。

ただ、もしみなさんの通ってきた葛藤と私の葛藤に何か通じるものが
あれば、アドバイスをいただきたく思います。

1916犀角独歩:2005/02/08(火) 13:38:21

デルトロさん:

辛い日々を送られたのですね。
わたしは25年前に倒れました。
それからは自分を苛む日々でした。
そんな当時の心象風景が、いまあなたの投稿と重なります。
辛い日を送りました。こんな掲示板は勿論ありませんでした。
カルトという言葉すらありませんでした。
生まれながらの日蓮正宗・創価学会であったわたしは、答えを、そこ以外に求めませんでした。
答えはすべて仏法のなかにあるとも思い込んでいたからです。

> 何かひどい目にあっても、それは自分のしでかしたことが原因

このような考え方を「自罰性」と言いますね。
『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)でハッサン師は

「自己処罰に積極的に参加する人は、やがて自分がその罰に値するのだと信じるようになる」(P116)
「無意識のレベルで、このグループに加わることで自分の『罪』を罰していた」(P292)
「(あるメンバーは)やめると気が狂うという観念を(略)埋め込まれていた。驚いたことに、彼はやめたあと本当におかしくなった。両親は彼を病院へ連れていった。医師たちの意見では、彼はたしかにおかしい、実際分裂症だ、というのだった。青年はこの診断を、自分のリーダーが正しかった証拠だと解釈した」(P306)
「(あるメンバーは)もしグループをやめようものなら自己破壊を起こすのだと条件づけられていた。そして実際やめてみると、まさにそのことが起こりはじめたのだった−−救出カウンセリングに出会うまでは」(P307)

わたしは、この本の、上述の記述に出会うことによって、それまでの自罰的生活が脱却することが出来ました。その後、わたしは優秀な学者、カウンセラーに出会うことが出来、今に至っております。

わたしが創価学会にいたとき「御本尊を破ると、同じように自分もバラバラになって死ぬ」などと脅かされたものでした。たぶん、こんな呪文は顕正会をはじめ、石山教義への強い信念体系下では今でも語られていることでしょう。しかし、実際のところ、昭和20年代より創価学会の中堅幹部を務めた親の元で育ったわたしは、ゴミ捨て場に捨てられたり、壁に貼り付けられたり、破却されたこと、燃やされたことなど、たくさんの事実を見聞しています。その実行者も多く知っていますが、特に、それに見合う「罰」が当たるものでもありませんでした。

上古を探れば、蓮師の御筆漫荼羅ですら、信者が亡くなるとともに埋葬された事実は散見でき、また、漉き返しにしたことも窺えます。

1917犀角独歩:2005/02/08(火) 13:38:45

―1917からつづく―

漫荼羅のこと、この世で、それをもっとも廃棄している者があれば、それは印刷業者でしょう。
現在、石山、学会ともに、漫荼羅本尊は、印刷製版で作製されていますね。
「試し刷り」という行程があります。印刷機にインクが馴染み、綺麗な印刷が出きるまで、時には何百枚もの紙を無駄にして輪転機を回し続けます。本刷りではない多量の漫荼羅は、当然、その後、廃棄処分されるでしょう。また、石山には返却されてくる大量の印刷漫荼羅を処分する専用の焼却炉があることを、学会に移った僧侶が暴露したことがありました。焼却効率を上げるためか、軸の部分は破り取ることが怖かったなどと体験を載せていた記憶があります。
つまり、本尊の破却は、実はその発行元でこそ、もっとも行われているということです。
しかし、印刷会社が火事になったとか、石山で焼却作業をした僧侶が焼け死んだなどという話は聞いたことがありません。

何より、漫荼羅とは、蓮師がいうところの、本当の本尊なのでしょうか。
「観心本尊」という言葉があります。実はわたしは、この言葉に蓮師の(漫荼羅観ではなく)、本尊観が籠もっていると思います。漫荼羅とは、その本尊を観(み)る具である、といまのわたしは考えています。護札、勧請札の意味合いもあったのかもしれません。

チベットの砂マンダラをご存じですか。緻密に丁寧に制作しても、しばし時間で風が一切を消し去ります。蓮師御自身、常に楮紙を用いて漫荼羅を墨で図示した以上、その耐久度が尽き、やがて朽ち果てる日が来ることは当然、意識していたと思います。反面、霊的、かつ密教的な要素を強く持つ蓮師は、その漫荼羅、呪力、霊力が具わっているという確信もあったでしょう。

しかし、その漫荼羅「本尊」が功徳を与えるのも、またただ紙墨と見るのも、人間です。わたしが蓮師漫荼羅を通じて、垣間見るのは、日蓮聖人御自身の、そが己中に観た本尊の相貌(すがた)です。

漫荼羅が真実か、本尊が真実か…と問う前提として、それよりもっと根元的なことがあるでしょう。

そもそも、自分が教えられた日蓮聖人の教えは、本当に日蓮聖人の教えなのかということです。
少なくとも、いまの各集団がいう日蓮(仏法)像は、日蓮その人とは、かなり大きくかけ離れているように映じます。

まあ、あまりせっぱ詰まらず、ゆったりと鷹揚に構え、上述の点を咀嚼してみてください。
いずれにしても、元来、仏法の教えとは、人を治罰したり、裁いたりするものではないでしょう。
聖書神話の世界ではあるまいし、子羊のように言うことを聞く人ばかりの永遠の救いを与え、聞かなければ裁き・地獄に堕とす存在ではありません。そんな罰論の混入は、バラモン教への先祖帰り、西の影響を受けた改変仏教の有様であると、わたしは思えます。もっとも蓮師もそのような強迫観念に生きた人であったでしょう。しかし、そのような部分まで、全部が全部、引き受ける必要はありませんでしょう。

二元論、奇しくもそうお書きになっておられますが、まったくそのとおりで、善いところは採り、不要なところ用いない、信が真っ白で、不信が真っ黒とすれば、その間に無段階の無数の灰色が広がっています。そのグラデーションの一切合切もまた真実であると言うことでしょう。そのどちらかに偏ることを戒め、中道を説いたのがシャキャムニの教えと解釈される後継者の英知にわたしは頷くものです。

1918吉祥仙人:2005/02/08(火) 18:41:36
 デルトロさん失礼しました。
 
 以後こちらに書き込みます。

1919デルトロ:2005/02/08(火) 18:54:33
独歩さん。真摯に答えてくださってありがとうございました。
何度も読み返しました。おそらく、自分の中でもすぐに解決していく
問題ではないのでしょう。
いまだじくじくと傷口が膿み、血が流れているのは感じます。
ただ、独歩さんのお言葉が、瘡蓋を作っていくひとつの縁になるかも
しれないとは思いました。
すぐにすべての葛藤から開放されるとは思っていませんが、
ただもう一度、色んなことを見つめなおすいい機会だとは思っています。

ところで、もう少しお話してもいいですか?
他のスレッドにある文章を引用するのがいいことなのか
よくわからないんですが。独歩さんの

<非常に極端な言い方になるかもしれませんが、「本門戒壇の大御本尊」によって功徳があったのではなく、その功徳によって「本門戒壇の大御本尊」たらしめていたのは、実は信者(学会で言えば、その会員)であったという事実を、ここに、わたしは確認しました。

強い信仰心があれば、聖地・器物、もっと言えば石山僧(殊に「御法主上人猊下」)がなくても、たしかに功徳の体験があり、さらに「生命力が涌く」実感もあるわけでしょう。

という意見は面白い見方だなあと思いました。
これって野球チームやJリーグのファンみたいなもんなのかなと。
たとえば日蓮リーグというのがあり、各流派の人間たちがこぞって自分たちの流派をスタンドから応援しているわけです。
お互いに野球を愛している気持ちは変わらねど、自分のチームこそが最高と信じきっているわけだから
互いに攻撃的なわけです。互いのスタンドは常にまっぷたつに割れていて、相手チームのファンが自軍のスタンドに
まぎれてきてしまったらそれこそ大騒ぎで吊るし上げられます。
ファン同士の争いは自分の応援するチームを最高だと常に信じて疑わないわけだから、
当然そこに正も邪もない。けれどみんな野球を楽しんでいる。と同時に憎んでもいる。
一度スタンドに入ってしまった以上は、たとえ本当はどこのチームも応援したくなくなっても、
応援し続けないと士気が下がるし、みんなに迷惑がかかるので続けなければいけない。
もし翻って相手チームの応援団に入ってしまったら元の応援団チームからは罵倒し続けられる。
たとえ連敗続きでも、貧乏球団でも金持ち球団でも、みんな愛され続けてなくなることはない。
応援をしていると、どんどん気持ちがよくなってきて、自分のチームの利点だけみつけ、
相手チームの欠点を罵倒する。とにかく自分の応援しているチームは最高のチームだと、
みんなが各自信じて疑わない。いつか自分のチームを世の中の人全員が応援してくれる日がくると、
信じて疑わない。球団は、彼らがどんな問題を起こしたとしても、
単なるファンの集いなので、当然責任を問われることなどない。
他にもキリストリーグ、天台リーグ、その他無数のリーグがあり、
リーグ内は常に争っている。

この比喩が当たっているのかはわからないし、私の思い込みみたいな部分もあるのかもしれないけど、
なんか宗教って広い視野でも狭い視野でも、単なるゲームなのかなって気もします。


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