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素朴な疑問
1901
:
顕正居士
:2005/02/05(土) 20:59:20
身延山の位置は今日でも山梨県の辺境です。鉄道(身延線)があるから行けはするが。日蓮が示寂した後
六老が交替で祖廟を守ると決めたが昭朗持頂の四老は多忙で来られない。甲斐出身で甲駿に教線を張る
日興が常駐することになってしまった。しかし日向だけは来た。そして波木井日円は日向と仲が良くなった。
当時の寺院は大名小名が土地、資金、軍事力を出資することで新設された。領民の文化向上による領地の
安定を目指してだろう。次代以降の住職はその大名小名の男子の一人が出家して継ぐ。日興は日円と関係
の改善を計ったが、すでに日円の志は日向に傾いている。身延山は門弟を繁茂させるには不便な位置でも
ある。駿河への転地の計画を構想したでしょう。構想は実って南條氏の寄進により大石寺の基いができた。
しかし二年後には更に将来性がある石川氏の出資により重須に移って、本門寺根源と称することになった。
日向は学問が優秀であったのかも知れない。非常に永い目で見れば身延山は繁栄すると予想したのかも
知れない。対していえば日興のほうは経営の感覚が優れていた。重須への転地は南條氏の了解と支援の
もとに行われた。ここで日興の門徒は大石寺(南條氏)と本門寺(石川氏)に分張した。大石寺を継承した
日目は南條氏ではなく縁戚の小野寺氏であり、その寂後には日道(小野寺氏)と日郷(南條氏が支援)との
寄進地継承抗争が勃発した。結局、日郷は大石寺を離山し、又、日興の後を継いだ日代は当代の石川氏
と合わず重須を離山して西山に(真実の)本門寺根源を開いた。富士派は骨肉の抗争によってむしろ発展
した。他門徒もそうであろう。競争原理の効果といおうか、六老に序列を付けないと宣言した日蓮の先見の
智慧か。土地を獲得し小作収入を増やし、本山参詣による商業を推進し、かつは軍事力を養成して戦国に
覇を唱えるという宗教勢力発達の方規は比叡山を見習ったが、その山科本願寺は京都日蓮宗の民兵に
よって滅ぼされ、その京都日蓮宗二十一箇寺は比叡山山兵に焼かれ、比叡山は織田信長の軍隊によって
破却された。徳川家康がオランダ大統領に送った書簡にはわが国と貴国とはともに宗教戦争を終焉させた
共和国であるから万里の波濤を越えて軍事同盟を結ぼうと提案された。経済力も軍事力もなくても学問が
できる環境があれば勢力を伸張できる江戸時代になってはじめて身延山久遠寺が誕生したといえましょう。
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