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素朴な疑問
1917
:
犀角独歩
:2005/02/08(火) 13:38:45
―1917からつづく―
漫荼羅のこと、この世で、それをもっとも廃棄している者があれば、それは印刷業者でしょう。
現在、石山、学会ともに、漫荼羅本尊は、印刷製版で作製されていますね。
「試し刷り」という行程があります。印刷機にインクが馴染み、綺麗な印刷が出きるまで、時には何百枚もの紙を無駄にして輪転機を回し続けます。本刷りではない多量の漫荼羅は、当然、その後、廃棄処分されるでしょう。また、石山には返却されてくる大量の印刷漫荼羅を処分する専用の焼却炉があることを、学会に移った僧侶が暴露したことがありました。焼却効率を上げるためか、軸の部分は破り取ることが怖かったなどと体験を載せていた記憶があります。
つまり、本尊の破却は、実はその発行元でこそ、もっとも行われているということです。
しかし、印刷会社が火事になったとか、石山で焼却作業をした僧侶が焼け死んだなどという話は聞いたことがありません。
何より、漫荼羅とは、蓮師がいうところの、本当の本尊なのでしょうか。
「観心本尊」という言葉があります。実はわたしは、この言葉に蓮師の(漫荼羅観ではなく)、本尊観が籠もっていると思います。漫荼羅とは、その本尊を観(み)る具である、といまのわたしは考えています。護札、勧請札の意味合いもあったのかもしれません。
チベットの砂マンダラをご存じですか。緻密に丁寧に制作しても、しばし時間で風が一切を消し去ります。蓮師御自身、常に楮紙を用いて漫荼羅を墨で図示した以上、その耐久度が尽き、やがて朽ち果てる日が来ることは当然、意識していたと思います。反面、霊的、かつ密教的な要素を強く持つ蓮師は、その漫荼羅、呪力、霊力が具わっているという確信もあったでしょう。
しかし、その漫荼羅「本尊」が功徳を与えるのも、またただ紙墨と見るのも、人間です。わたしが蓮師漫荼羅を通じて、垣間見るのは、日蓮聖人御自身の、そが己中に観た本尊の相貌(すがた)です。
漫荼羅が真実か、本尊が真実か…と問う前提として、それよりもっと根元的なことがあるでしょう。
そもそも、自分が教えられた日蓮聖人の教えは、本当に日蓮聖人の教えなのかということです。
少なくとも、いまの各集団がいう日蓮(仏法)像は、日蓮その人とは、かなり大きくかけ離れているように映じます。
まあ、あまりせっぱ詰まらず、ゆったりと鷹揚に構え、上述の点を咀嚼してみてください。
いずれにしても、元来、仏法の教えとは、人を治罰したり、裁いたりするものではないでしょう。
聖書神話の世界ではあるまいし、子羊のように言うことを聞く人ばかりの永遠の救いを与え、聞かなければ裁き・地獄に堕とす存在ではありません。そんな罰論の混入は、バラモン教への先祖帰り、西の影響を受けた改変仏教の有様であると、わたしは思えます。もっとも蓮師もそのような強迫観念に生きた人であったでしょう。しかし、そのような部分まで、全部が全部、引き受ける必要はありませんでしょう。
二元論、奇しくもそうお書きになっておられますが、まったくそのとおりで、善いところは採り、不要なところ用いない、信が真っ白で、不信が真っ黒とすれば、その間に無段階の無数の灰色が広がっています。そのグラデーションの一切合切もまた真実であると言うことでしょう。そのどちらかに偏ることを戒め、中道を説いたのがシャキャムニの教えと解釈される後継者の英知にわたしは頷くものです。
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