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近現代史綜合スレ

6とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46

http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1041730592.html
戦後の日本歴代政権の評価
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/05(日) 10:36

サンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復した
昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日以降の
日本歴代政権の政治を評価してみましょう。
ただし現政権は除きます。

8 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/13(月) 17:49
確認

吉田茂内閣 昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日から昭和二十九年十二月十日まで
鳩山一郎内閣 昭和二十九年十二月十日から昭和三十一年十二月二十三日まで
石橋湛山内閣 昭和三十一年十二月二十三日から昭和三十二年二月二十五日まで
岸信介内閣 昭和三十二年二月二十五日から昭和三十五年七月十九日まで
池田勇人内閣 昭和三十五年七月十九日から昭和三十九年十一月九日まで
佐藤榮作内閣 昭和三十九年十一月九日から昭和四十七年七月七日まで
田中角榮内閣 昭和四十七年七月七日から昭和四十九年十二月九日まで
三木武夫内閣 昭和四十九年十二月九日から昭和五十一年十二月二十四日まで
福田赳夫内閣 昭和五十一年十二月二十四日から昭和五十三年十二月七日まで
大平正芳内閣 昭和五十三年十二月七日から昭和五十五年七月十七日まで
鈴木善幸内閣 昭和五十五年七月十七日から昭和五十七年十一月二十七日まで
中曽根康弘内閣 昭和五十七年十一月二十七日から昭和六十二年十一月六日まで
竹下登内閣 昭和六十二年十一月六日から平成元年(一九八九年)六月三日まで
宇野宗佑内閣 平成元年六月三日から平成元年八月十日まで
海部俊樹内閣 平成元年八月十日から平成三年十一月五日まで
宮沢喜一内閣 平成三年十一月五日から平成五年八月九日まで
細川護煕内閣 平成五年八月九日から平成六年四月二十八日まで
羽田孜内閣 平成六年四月二十八日から平成六年六月三十日まで
村山富市内閣 平成六年六月三十日から平成八年一月十一日まで
橋本龍太郎内閣 平成八年一月十一日から平成十年七月三十日まで
小渕恵三内閣 平成十年七月三十日から平成十二年四月五日まで
  森喜朗内閣 平成十二年四月五日から平成十三年四月二十六日まで

7とはずがたり:2004/01/15(木) 18:49
その他の関連スレッド

第四十回衆院選後の政局を振り返る
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1039260401/l30

大日本帝国憲法改正新憲法制定
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1042000975/l30

8とはずがたり:2004/01/15(木) 18:52
>>5
幕末の激動から帝国主義,現代史と面白い話題は満載なのに余り盛り上がらないので統一スレッドを建てました。
『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』でも読んでみようかなあ。

9おりーぶの木:2004/01/15(木) 19:09
>>8
「世に棲む日々」をまだ読了してないのでそれを読もうかなあと思ってます。

10とはずがたり:2004/01/15(木) 19:14
恥ずかしながら司馬遼太郎,なぜか(メジャー過ぎてかな?)まだ一冊も読んでないのです…。

時間が出来たら読んでみたいがどの辺から読んだらいいかな?

11おりーぶの木:2004/01/15(木) 19:30
>>10
やっぱ「竜馬が往く」でしょう。基本ですね。「関が原」もイイッすよ。

12とはずがたり:2004/01/16(金) 17:39
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1068688996/288
>1947年に日本進歩党が民主党(芦田均、犬養健ら)に衣替えしたときは、
>市場原理を重視する「日本自由党」と、弱者救済のために市場への国家介入を主張する「民主党」という、
>当時の感覚では保守右派と保守左派、今日で言う保守とリベラルに対応する分類になっていました。

この辺の話しですな。

(1945頃)   (1947-8頃) (1950)   (1952)  (1954)    (1955)       
日本自由党─┬民主自由党─自由党─────────┬─┬┐
______↓___↑___________日本自由党┤├自由民主党―→
日本進歩党―民主党─┴─国民民主党─改進党─日本民主党┴┘
_____________↑
日本協同党─国民協同党──┘

民主党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minsyutou
民主党は「進歩党で、幣原総裁に批判的な若手議員らを中心に、自由党内で吉田首相と対立していた芦田均を引き抜く形での新党結成が計画され、1947年3月31日、進歩党を母体に、自由党離党の芦田らに国民協同党や無所属の議員も加えて結成。修正資本主義的な中道政党の立場をとった」

民主自由党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minjitou
1948年3月15日、日本自由党①119名と民主党①を離党した幣原派らで作る民主クラブ36名、無所属その他4名が合同して結成(翌日6名脱党)。

13憲政擁護者:2004/01/17(土) 14:24
>>12
おお、早速こちらに議論を移して下さいましたか!まさしくその辺の話です。
反吉田派保守政党については、民主党スレからの以下のコピペをご参照下さい。

>仰る通り、大日本政治会系政治家が集った日本進歩党(1945-47)、戦前派政治家が復帰して生まれた改進党(1952-54)、
>脱吉田路線を掲げた日本民主党(1954-55)は、国家主義的傾向が見られました。
>しかし、進歩党は戦前派政治家の大量公職追放で壊滅的打撃を受けたため、路線転換を図り、
>後継政党たる民主党(1947-50)、及び国民協同党との合同で生まれた国民民主党(1950-52)は保守中道路線だったのです。
>また、立憲政友会と立憲民政党が政権を争った昭和初期は、むしろ政友会が国家主義的で、民政党が国際協調派でしたね。

14とはずがたり:2004/01/17(土) 15:34
上の議論の引用とかの便もありますし一応民主党スレで議論は続けましょうか。
向こうでの議論が一段落したらこっちへリンク貼っつけときます。

15憲政擁護者:2004/01/18(日) 11:21
民主党スレの戦後史論も、第2保守党から吉田茂個人の話に移っています。
そこで、こちらで吉田の話をしたいと思います。

吉田は根っからの自由主義者であり、自由主義路線こそが日本の政治・外交の進むべき道と確信していました。
国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
また、吉田は自由主義の強い英米との協調によってこそ、日本の自由主義が達成されると考えていました。
それ故に戦前は日英同盟の復活を熱望し、戦後は首相として日米安保条約を締結したのです。
とはいえ、決して米国追従の政治・外交を志向していたわけではありません。
現に首相在任中、GHQとは何度も渡り合っています。

吉田は自由主義者として、極右・極左両方の全体主義を毛嫌いしていました。
戦時中に終戦工作をして憲兵に捕まったり、マッカーシー旋風に併せて共産党幹部を公職追放したのです。
因みに、吉田は広田弘毅内閣で外相に起用される予定が、自由主義者故に軍部に話を潰されました。

ただ、吉田は自由主義者ではあっても、議会軽視と批判されるなど、民主主義者ではなかったと言われています。
古典的な自由主義者として、「民主政治は無知蒙昧な大衆による衆愚政治を招く」と考えていたようです。
ですから、吉田を「自由主義者」ではなく「リベラリスト」と書くと、今日の感覚では間違っていることになります。
またそれ故にエリート嗜好で、池田勇人や佐藤栄作に代表される官僚を次々と議会に送り込んで登用し、
大衆迎合的で政治理念がないとして戦前派党人政治家をこよなく嫌っていました。
因みに、河野一郎が吉田に嫌われた筆頭格でしたが、孫の麻生太郎が河野の息子・洋平の側近となったのは皮肉ですね。

一方で吉田は明治人の気風を持ち、日本の伝統を愛する民族主義者でもありました。
これは実父が土佐藩士で自由民権運動に携わったことと、大久保利通の次男・牧野伸顕が岳父だったことが影響しています。

吉田はよく、「軽武装経済優先路線」を築いたと言われますが、吉田本人の意図は違ったといわれています。
つまり、日本に共産主義革命が起こらない様にするために、当面は民生の安定が最優先であり、再軍備の余裕はないが、
それ相応の経済力を持つに至った場合には、専守防衛のための軍隊を持つべきである、と考えていたようです。
これは数々の国会答弁では触れていないので、そういう誤解も無理ないでしょう。

因みに私の思想は、吉田茂に関する著作を読み漁ったことが大いに影響しています。

16とはずがたり:2004/01/18(日) 11:37
> 国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
まあこの辺は賛成ですね。経済繁栄すればこその弱者救済も可能と思ってますので,自分の中で左翼と自由競争は矛盾しません。

民主政治が衆愚政治に堕する危険もよく理解できますが(ばらまきの自民党政治がだらだら続く様はまさに),有権者の見識を期待しております。

17憲政擁護者:2004/01/19(月) 00:54
>>16
これは「参加民主政治論」の受け売りですが、
有権者の見識というのは、やはり政治参加の教育効果によって得られるものだと思います。
しかし、専門知識の多い国政レベルでの直接的政治参加には難があるので、
生活に身近で、一般有権者の判断し易い、基礎自治体レベルから始めるべきでしょう。
戦後日本は民主化が進んだと言っても、まだまだこの点で遅れていると思います。

18とはずがたり:2004/03/04(木) 21:23
http://www2.asahi.com/senkyo2003/localnews/kagawa/OSK200310140025.html
《検証 香川の総選挙史:上》小選挙区制で「自民王国」

 香川は、3つある衆議院小選挙区を自民が独占し、他党の国会議員がいない「自民王国」だ。しかし、かつて70年代には、県知事と高松市長が「革新」で、野党勢力を勢いづかせていた。どこにターニングポイントがあったのか。政権交代を問うといわれる今回の総選挙を前に、香川の選挙史を振り返る。まずは革新の動きから。

 「前川さんをかつぎ出した社会、共産、公明、民社各党幹部のどの顔もゆるみっ放し。そこへかけつけた革新の脇信男・高松市長と『新しい地方政治をやろう』とがっちり握手した」(74年8月27日付朝日新聞)

 元香川大学長の故前川忠夫氏(09〜88年)は野党4党に推され、この年の知事選で7選を目指す現職を破って初当選した。

 元社会党衆院議員の三野優美(よしみ)さん(72)は振り返る。「このころは『政権が取れる』という情熱にあふれていた」

 この時代、香川の革新の「看板」は、三野さんが秘書としてつかえた故成田知巳氏(12〜79年)だ。香川郡多肥村(現高松市多肥上町)生まれ。東大から三井鉱山などを経て、47年に旧香川1区で初当選。以後76年まで12回連続当選し、社会党委員長に上り詰めた。

 故脇信男氏(19〜97年)は、成田氏の秘書から高松市長になった。71年に社共共闘で初当選し、連続6期。全国革新市長会長も務めた。

 前川氏の知事当選は、脇氏の初当選から3年後のこと。「社会・公明・共産・民社」の4党共闘は当時でも珍しかった。以来3期12年、憲法擁護を看板に掲げて県政を担った。

 81年9月の朝日新聞に掲載された「新人国記」で、前川氏は「香川の革新の強さ」をこう語った。「琴平などは早くから全国の人が集まって都会化し、進歩的な人が多かった。農民運動も昔から盛んだった」。こんぴらさんに代表される「都会」としての活気が、革新を支えたという見方だ。

 それがなぜ、30年の時間の中で「自民王国」に変貌(へんぼう)したのか。

 三野さんは「小選挙区制のためだ」と憤る。三野さんは86年、90年、93年と旧香川1区で3期連続当選し、成田氏以来の社会党の議席を守った。

 しかし、与党となった細川政権時代の94年1月、小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革4法が成立。三野さんは党議に従わず、本会議で反対票を投じたが、流れは変わらなかった。

 一方、共産党県委員会の田村守男委員長(54)は「最初は『反自民』で県政をつくったのに、前川さんの引退後、社会党は自民と手を握った」と社会党を批判する。

 政権が取れると思った時代に取れず、取ったと思えば流れが急転する。自社さ政権が誕生すると、社会党は衰退。96年の選挙で、自民が香川の3小選挙区を独占。その時、社民党(旧社会党)は、四国全体で議席を失っていた。
 (10/12)

19とはずがたり:2004/03/04(木) 21:23
http://www2.asahi.com/senkyo2003/localnews/kagawa/OSK200310150039.html
《検証 香川の総選挙史:下》「大物」消えて調整の時代

 香川の革新・中道勢力は、成田知巳氏や、旧民社党を結成した西尾末広氏(1891〜1981)らを生んだ。

 一方で保守勢力も、総選挙中に急死した総理大平正芳氏(10〜80年)や、保守合同による自民党誕生に一役かった三木武吉氏(1884〜1956)といったそうそうたる面々が活躍した。

 しかし、こうした重鎮が舞台を去った80年代以降、政党や派閥の「大物」は生まれていないといっていい。

 「最近、口角泡を飛ばしておらぶ(叫ぶ)ような演説会がなくなったね。候補者に熱意がなくなった」。自民党県連の木村嘉己幹事長(74)は、そう話す。「落ちる心配がないからかな」という声もある。

 中選挙区時代、旧香川1区は成田知巳氏が長い間議席を確保。残る2議席を自民の木村武千代、福家俊一、藤本孝雄の3氏が激しく争う時代が続いた。旧2区も、70年代の初めごろまで福田繁芳、加藤常太郎、大平正芳の3氏によるつばぜり合いが展開されていた。

 総選挙となれば「自民の敵は自民」。自民の県議でも、代議士の系列が違うと選挙中は口をきかないとまでいわれた。その激しさが大物を生む素地にもつながった、と木村氏は言う。

 しかし、1選挙区で1人しか当選しない小選挙区制度が導入されると、選挙前の調整で「勝負」がつくようになった。旧2区でライバルだった大野功統氏(67)と森田一氏(69)は、森田氏が比例ブロックに回ることで折り合いがついた。前回、無所属で出馬した平井卓也氏(45)と現職藤本孝雄氏(72)の争いも、平井氏が当選して自民入り後、藤本氏が比例に回って収まった。

 この安定感をどう崩すか。近づく解散に備え始めていた連合香川の幹部はこの6日朝、新聞各紙を読み比べて顔をしかめた。「民主・自由の合併大会」が1面トップと思ったのに、若い石原国交相の「道路公団総裁を更迭」に押しのけられていた。幹部はうなった。「小泉内閣はうまい」

 小選挙区制は、中選挙区制よりも政権交代の可能制が高まるともいわれる。その中では、政治家個人よりも政党のイメージをどうアピールするかが重要な鍵を握る。

 一方で、「個」が政治に大きな波紋を投げかけるケースが地方から起きてもいる。そのひとり、田中康夫・長野県知事は民主党の立候補予定者を応援するため訪れた高松市で講演し、こう話した。

 「小異を捨てて大同につくという言葉がある。私はこれはあまり好きじゃない。小異を捨てる必要はない。小異を抱えながらも大同につくっていうことです。それは自分を捨てるってことじゃないです」
 (10/13)

20とはずがたり:2004/06/21(月) 02:00
杉原千畝記念館入館10万人!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040620-00000007-cnc-l21

八百津町八百津の「杉原千畝記念館」の有料入館者数が19日、10万人を突破し、10万人目の愛知県の男性と前後の2人に、記念品が贈られた。開館4周年を前にしての達成となった。

 記念館は、第2次大戦中に“命のビザ”を発給して多くのユダヤ人を救った同町出身の外交官・故杉原千畝氏の功績を伝えようと、2000年7月に開館。ビザや写真、肉声テープなどを展示している。

 10万人目となったのは、愛知県半田市の無職古川正春さん(92)。1人前は、三重県鈴鹿市の主婦豊田久乃さん(30)、10万1人目は名古屋市の会社役員桑原恵子さん(65)。

 赤塚新吾町長らと一緒に記念館前でくす玉を割って節目を祝した後、記念品として八百津せんべいやみそ漬けなど町特産品のセットが贈られた。古川さんは、「杉原さんの足跡を以前から見てみたいと思っていた。(10万人目となって)感無量です」と喜んでいた。

 町によると、最近は県内や愛知県の中学や高校の見学も多く、イスラエルからの来館者も増えているという。(中日新聞)
[6月20日11時24分更新]

21とはずがたり:2004/07/05(月) 20:50
下山事件で浮上、「ライカビル」解体 姿消す戦後史舞台
http://www.asahi.com/national/update/0705/019.html

 昭和史上最大の謎とされる下山事件が5日で55年を迎えた。連合国軍総司令部(GHQ)直属の日本人情報機関のアジトがあった通称「ライカビル」(東京都中央区日本橋室町3丁目)の解体作業が始まった。米軍将校や右翼関係者が出入りし、同事件の「謀略の拠点」として当時の東京地検も注目した。自他殺の結論が出ないまま半世紀がすぎて老朽化が進み、「戦後裏面史の証人」は姿を消す。

 戦前から残るビルはれんが壁の5階建て。「日本に3台しかない」と記された蛇腹式扉のエレベーターのほか、4階に巨大な金庫もあった。石造りの階段の床面はすり減っていた。

 事件が起きた1949年当時、1階にカメラのライカを取り扱うシュミット商会があり、「ライカビル」と呼ばれた。2〜4階は貿易会社「亜細亜産業」。GHQ直属の謀略機関「キャノン機関」につながる日本人情報機関の役割を担った、とも言われる。

 事件のあった7月5日午前9時半すぎ、国鉄総裁の下山定則氏が消息を絶った三越はビルの南約200メートル。ビル隣の建物にある地下鉄出入り口は地下道で三越につながっており、疑惑を深めた。

 下山総裁は翌日未明、足立区内の常磐線の線路上で轢死(れきし)体で発見された。衣類にぬか油と塩基性の特殊な染料が付いていた。朝日新聞が入手した東京地検の内部資料には、東京工業薬品染料協同組合名簿から63社がリストアップされ、ライカビルだけ「×」印があった。

 キャノン機関ナンバー2で米バージニア州に住むビクター松井氏(当時76)は99年秋、朝日新聞の取材に「キャノン機関は事件にはかかわっていないが、私もライカビルへは出入りした。右翼や大陸浪人、GHQ関係者らが交わるサロンのような存在で、キャノン専用の小部屋もあった」と証言していた。

 亜細亜産業は東南アジアから生ゴムを密輸したり、北朝鮮との密貿易で共産圏の情報を収集したりしていたという。同社は事件後に閉鎖され、社長は98年に死亡した。

 庶務課長を務めたことがある社長の弟(83)は「兄がどういう仕事をしていたかは知らない。ビルが取り壊されるのは寂しいけど、歴史ということだね」と話す。

 昨年、ビルを購入した不動産会社は「昭和史の裏舞台だったとは知らなかった。レトロな雰囲気にひかれたが、老朽化が激しかった」。6月下旬から解体を始めた。再開発計画は白紙だ。

 〈下山事件〉 国鉄が約3万人の人員整理を発表した翌日の1949年7月5日、下山定則・初代国鉄総裁が自宅を出たあと、東京・日本橋の三越に入ったまま行方不明になった。翌6日午前0時20分ごろ、足立区の五反野付近の国鉄常磐線北千住―綾瀬間の線路で遺体で発見された。東大の鑑定は「死後轢断」と他殺説の根拠となる結果を出した。しかし自殺説の根拠となる「生体轢断」との主張も他の法医学者から出され、米情報機関による謀略説も取りざたされた。 (07/05 16:04)

22とはずがたり:2004/08/06(金) 01:02

おいおい。凄いねぇ。血盟団事件ってのはまだ現代史なんか?!

歴代首相指南役、四元義隆氏が死去…血盟団事件で服役
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040805-00000512-yom-soci

 戦後、歴代首相の指南役と言われた四元義隆(よつもと・よしたか)元三幸建設工業社長が6月28日、老衰のため、神奈川県鎌倉市内の病院で死去していたことが5日、わかった。96歳だった。

 告別式はすでに、親族だけで済ませた。

 四元・元社長は、東大在学中の1932年、井上準之助・元蔵相らが暗殺された「血盟団事件」にかかわったとして、殺人罪で実刑判決を受けて服役。その後、近衛文麿、鈴木貫太郎両元首相らの秘書を務めて政界とのつながりを持ち、戦後、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら歴代首相と親交があった。中曽根康弘・元首相の在任中には「ご意見番」と呼ばれ、その後も、政治の舞台裏で活躍した。

 55年に三幸建設工業(東京都中央区)の社長に就任。2000年から会長となり、昨年4月に退任した。(読売新聞)
[8月5日21時53分更新]

23さむらい:2004/08/16(月) 23:38
戦後の日本は日本国憲法に守られたのではありません。
自衛隊、在日米軍、日米安保、
核の傘
つまりもし他国が日本を攻撃したら
アメリカは核(在日米軍基地に恐らく配備されているであろう核)を
使うかもしれないぞというプレッシャー
があったからこそ守られたのです。
実際これらの力の空白の生じた
南樺太、千島列島、歯舞諸島、色丹島、竹島
も侵略されてそのままになってますしね。
(樺太、千島守備隊がいましたが一旦武装解除しましたし
 南樺太、千島列島、歯舞諸島、色丹島を守るという意味では
 大量のソ連軍には無力でしたからね。
 あれだけの軍隊あのような補給等の状態から
 ソ連軍の北海道上陸を阻止したことはすごいことだと思いますが。 )
確かに吉田茂の軽武装主義で国防費の負担が少なくなり
経済復興、経済発展を成し遂げましたが。

24とはずがたり:2004/08/26(木) 00:34
AFPが復活60周年 パリ解放5日前、奪還秘話を配信 
http://www.asahi.com/international/update/0823/006.html

 フランス通信社(AFP)が20日に「復活60周年」を迎えた。1944年8月の「パリ解放」5日前、ドイツ監視下にあった仏情報公社(OFI)を元記者らのレジスタンスが自力で奪い返した。

 AFPは、1835年にできた世界初の情報配信サービス業、アバス通信が前身。1940年にフランスを占領したドイツは同通信をOFIに改め、対独協力政権の宣伝メディアにした。

 AFPが18日に配信した「奪還秘話」によると、44年8月20日朝、アバス時代の社員ら約10人がパリのOFI本部に自転車で乗りつけ、内部に突入した。驚く10人ほどの編集部員を前に、演説を始めたのは実行グループの最年長で、後に初代社長となるマルシャル・ブルジョン氏だ。

 「動かないで。みなさんは今後、ドイツ人のためではなくフランスのために働くことになる」

 ドイツの検閲官をみんなで地下室に閉じ込め、この日を待ちわびていた新聞人たちに電話した。

 記念すべき初配信は同日午前11時30分。「自由な新聞が続々と生まれそうだ。フランス通信はそのために初の配信を始める」。記事はタイプで打たれ、レジスタンスや地下新聞の拠点に自転車で届けられた。AFPの名もこの時からだ。

 現在、165カ国に取材拠点を持ち、ロイター通信(英)やAP通信(米)と並ぶ大手。欧州のほか中東やアフリカなどに濃密な情報網を築いている。

(08/23 19:18)

26とはずがたり:2004/10/13(水) 17:21
あった無かったの水掛け論は不毛だと思うが…

抗議受け漫画休載 南京大虐殺めぐり集英社
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041013-00000094-kyodo-soci

 「週刊ヤングジャンプ」で連載中の漫画「国が燃える」(本宮ひろ志氏作)に登場した南京大虐殺の描写に対し、地方議員グループが「歴史を歪曲(わいきょく)している」と抗議したのを受け、発行元の集英社は13日、28日発売号から当分、この漫画を休載することを明らかにした。
 集英社は「描写の参考にした写真は『ねつ造された』との指摘もある。そういう資料を使ったのは不適切だった」としている。
 「国が燃える」は昭和初期の官僚の半生を描いたフィクションで、2002年11月から連載。9月16日発売号と22日発売号で、旧日本軍が南京で市民らを殺害する様子を描いた。
(共同通信) - 10月13日12時39分更新

27とはずがたり:2004/10/16(土) 12:21
大町に疎開の「木崎会」が最後の里帰り
http://mytown.asahi.com/nagano/news02.asp?kiji=4755

 第2次世界大戦末期に東京都世田谷区から大町市の木崎湖畔に疎開した児童でつくる「木崎会」(約80人)が結成20周年を迎え、32人の会員がこのほど、大町市などに12回目の「里帰り」をした。里帰りのたびに老人ホームへの慰問や祭りへの参加を続け、世田谷区の区民まつりに同市の特産品の出展を持ちかけるなど、自治体を結ぶ橋渡し役も果たしてきたが、会員の高齢化などを理由に会としての里帰りは今回が最後になるという。

 木崎湖畔には44年8月から45年11月にかけて、世田谷区の多聞、祖師谷、塚戸、砧の4国民学校の児童延べ500人近くが九つの民宿に分宿する形で疎開していた。木崎会は84年、「40年ぶりの里帰り」を機に発足し、おもに隔年で里帰りを続けてきた。

 里帰りのたびに、「当時お世話になった感謝の気持ちを表そう」と、市内の養護老人ホーム「鹿島荘」を慰問し、寄付金を贈ったり、会員がダンスを披露したりするなどして交流を進めてきた。寄宿先の民宿は代替わりがあるものの、同世代の経営者やおかみさんたちと旧交を温めている。

 先月末の2泊3日の里帰りでは、結成当初の高橋恭男元市長や市幹部らを招いて、湖畔の温泉施設で20周年記念パーティーを開いた。席上、腰原愛正市長から「市と区の橋渡し役に尽くした」などとして、感謝状などが贈られた。45年5月から第3次の疎開先になった北安曇郡白馬村の旧神城国民学校(現白馬南小学校)なども巡った。

 会は、当時の6年生らが中心になって結成され、70歳前後の人たちがほとんどという。会長の阪上順夫・東京学芸大名誉教授(72)は「私たちもいつの間にか老人ホームにお世話になる世代になった。会としては最後だが、元気な者同士、声を掛け合って里帰りを続け、区と市の交流も続いてほしい」と話した。

 疎開当時、砧国民学校5年生だった浜砂和子さん(70)は「冬に軒先のつららがどんどん大きくなるのにびっくり。ガラス戸のない破れ障子から吹き込む風が冷たかったけど、全面結氷した湖面でげたスケートをしたり、氷がせり上がる御神渡り現象も見られたりして楽しかった」などと、思い出話に花を咲かせていた。

(10/15)

28とはずがたり:2004/10/17(日) 23:38
対米開戦通告の遅れ、最終電文修正が一因 元大使が新説

 昭和十六年の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れたのは、軍部と外務省本省による工作があったからだとする研究報告が十六日の日本国際政治学会で発表された。真珠湾攻撃が米国から「だまし討ち」と非難された原因が、駐米日本大使館の怠慢にあったという通説の見直しを求めるもので、米大統領から昭和天皇にあてた親電を軍部と本省が差し止めて最終電文を修正したことが通告遅れにつながったと指摘している。
 兵庫県東浦町で開かれた同学会で、元ニュージーランド大使の井口武夫・尚美学園大教授(日本外交)が発表した。
 昭和天皇あてのルーズベルト大統領親電が東京電報局に届いたのは開戦直前の十六年十二月七日正午。井口氏は、親電の暗号が平易だったため午後三時ごろには、親電の解読を終了していたと推論。午後五時に、十四部構成のうち駐米日本大使館への打電が保留されていた最後通告部分の「十四部」を東京電報局から発電した。このため、「時間的には符合する」として、親電解読と最後通告修正の関連性が認められると指摘している。
 十四部は電文の十三部までが打電されたあとも本省で約十五時間保留されていたが、軍部の圧力を受けた本省が大統領親電を解読し、この内容を検討して十四部に修正を加える必要があったからだと初めて指摘。また軍部と本省が大統領親電を解読していた根拠として次の状況を挙げる。
 グルー駐日米大使が東郷茂徳外相に外相公邸で大統領親電を手渡したのは八日午前零時半。この後、東郷外相が首相公邸で昭和天皇への上奏文を東条英機首相に見せたのが午前二時。移動時間(十五分程度)を差し引けば、わずか一時間十五分で昭和天皇への上奏文を外相が決裁したことになる。井口氏は「事前に親電を解読し、要約を作成していたから可能だった」と推論する。
 大統領親電が一見和平を呼びかけながら仏印からの全面撤退を要求する強硬な内容だったため、軍部の開戦決意は一層不動のものになった、と井口氏は分析している。
 結局、十四部は原案で「合衆国政府が現在の態度を持続する限り今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」と条件付きで交渉を打ち切る内容だったが「合衆国政府の態度にかんがみ今後交渉を…」と単刀直入に交渉を打ち切る文面に修正されていた。井口氏は「親電内容が判明した時点で修正を加えたもので最終的な通告の遅れにつながった」と指摘している。
 波多野澄雄筑波大教授(日本外交史)「軍部の圧力の有無は立証が不十分で、さらに検討が必要だ。ただ解読した大統領親電を最後通告の十四部に反映させた可能性は十分あり、通告遅れの責任を現地の日本大使館だけに押し付けるのは無理があろう」
(産経新聞) - 10月17日3時9分更新

29とはずがたり:2004/10/18(月) 19:52
>>28
ソース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041017-00000001-san-soci

30とはずがたり:2004/11/30(火) 23:11
宮崎の人でしたか。

小村寿太郎しのび、墓前祭−−日南 /宮崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041130-00000165-mailo-l45

 日南市飫肥出身の外交官、小村寿太郎(1855〜1911)の命日の26日、同市楠原の墓地で墓前祭(小村寿太郎侯奉賛会主催)があった。市や地元関係者、遺族ら約20人が墓前に玉ぐしを供え、「誠(まこと)の人」の遺徳をしのんだ。
 来年は小村寿太郎の生誕150年、小村が日本全権を務めた日露講和条約締結100年。市や県、民間で各種の記念事業が計画されている。遺族の小村幸子さん(75)=飫肥2=は「侯の誠、正直を子供たちに伝える機会になれば」と話した。

11月30日朝刊 
(毎日新聞) - 11月30日17時50分更新

32とはずがたり:2004/12/08(水) 19:08
ほう,これは興味深い。>>31
個人的に更新による情報散逸は悲しむべきものだと思ってましたから。HPは基本的に雑誌みたいなものだし読み捨ての部分も大きいけど図書館は一部の雑誌はちゃんと保存の対象にしてますしねぇ。
「選挙でGO」の過去の履歴などどっかに全部残しといて欲しいものでした。

あとスレ違い等は余り気にせず書き込んで下さいな。俺が適当なところに貼り付け直したりしますし。

33とはずがたり:2004/12/14(火) 15:08
旧三井御三家だけに新御三家,物産・銀行・不動産辺りがカネ出すべきか?

「三井港倶楽部」が閉館 炭都繁栄の象徴 所有の三井鉱山 売却先募る 大牟田市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041214-00000075-nnp-kyu

 産業再生機構の支援を受けて再生中の三井鉱山(本社東京)は十四日、福岡県大牟田市西港町に所有する明治建築の洋館「三井港倶楽部(くらぶ)」を売却したい考えを明らかにした。港倶楽部は三池港に出入りする外国航路の上級船員の宿泊所として建てられ、三池炭鉱で栄えた「炭都」の歴史を今に伝える建物。九州を代表する洋館でもある。現在、同社は結婚式場やレストランとして活用しているが、営業は二十五日で終了する。「現在の形のまま維持してくれるところがあれば」と引き受け手を募っている。

 港倶楽部は一九〇八(明治四十一)年に建てられ、三池炭鉱の主力坑・三川鉱の東隣に位置する。木造二階建てで、木組みの幾何学模様が白い外壁を飾る「ハーフティンバー」様式が特徴。三井系企業の社交場としても使われ、かつてはビリヤード室やボーイ部屋もあった。

 三井鉱山は昨年、同機構の支援が決まって以来、石炭やコークスの輸入販売・製造など主力事業以外の業務の整理に着手。今年八月には港倶楽部を管理運営してきた子会社の株式を売却し、倶楽部の経営は三井鉱山が行ってきた。倶楽部の営業は二十五日のランチが最後となる。

 同社は「社内でも閉館を惜しむ声は強い。公共性と歴史のある建物として今後も活用してほしい」と話している。
(西日本新聞) - 12月14日14時32分更新

34とはずがたり:2004/12/15(水) 12:36
こんなページみっけた。

昭和の注目の選挙区
http://www.geocities.jp/showahistory/history3/58e.html

35とはずがたり:2004/12/15(水) 14:52
こんなページも
むしろ面白かったのは筆保書記長の本音トークの部分。

救国のキリストか銀座のドンキホーテか
愛国党総裁 赤尾敏 24時間密着取材!
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/right1.htm

 しばらく、立ち話をした。私が、大喪の礼の日に見かけた金ピカ右翼の話をすると、「ああ、いいところに気づきましたね」と、腹にすえかねているものを吐き出すかのように、喋りはじめた。
 「今の右翼はもう、任侠右翼ばっかりですよ。ヤクザが右翼のふりをしている。だから、世間の右翼に対するイメージがどんどん悪くなっていく。真面目に政治活動やっているものが迷惑してるんです。だいたい、任侠の連中のやっていることは、要するに恐喝、ゆすりたかりだからね。街宣車買うと、頭金だけ払って残りは払わないし、マンションに事務所を構えると家賃を払わず、結局、大家がカネを積んで出ていってくれと頼むまでいすわる。そしてそのカネを握ると、その後もよそへ行ってまた同じことをやる」
 戦前の右翼と戦後の右翼を大きく分かつのは、一つは資金源の問題である。戦前は軍部と財閥が大きな資金源だった。戦後はそのルートが絶たれ活動は低迷するが、岸政権の時代の前後から、自民党と財界が左翼つぶしのために新たに資金を提供するようになる。その地下水のようなカネの流れのメカニズムは、ロッキード事件で児玉誉士夫が摘発され、一端が明るみに出たが、その後も日を追って街宣車の数が増えてゆくのを見ると、ガソリン代を提供するパイプはますます太くなりつつあるらしい。
 「街宣車が急に増えたのは、ロッキードの頃でしょう。あの頃、『田中打倒!』ってやってたら、公安じゃなくてマル暴の捜査四課が出てきて、『お前らが田中内閣打倒とか、自民党攻撃とは何事だ!』と言って取り締まりしてましたよ。警察はもう、自民党べったりだから。『お前ら右翼は、日教組と共産党だけ攻撃してればいいんだ』と、はっきり言う警察署長もいますしね」
 「この頃では、右翼というのが本来、純然たる政治活動だということがわからなくて、ただのシノギの一種だと思ってるヤクザも多いんですよ。愛国党でも、地方の支部なんかは地元のヤクザに嫌がらせをされて、迷惑してるんです。ここは俺たちの縄張りだからカネを出せって。政治活動に縄張りなんかあるわけないでしょう。それで断ると『覚えとれよ』と。広島や福山では、ウチの党員が地元ヤクザにバットでめった打ちにされたり、包丁で背中を刺されるという事件も起きてるんです。その後? いやこれは刑事事件ですから、警察に処置を頼みましたけど……任侠右翼とまともに正面からぶつかったら……やはり損でしょう……」
 「世の中、いったいどうしちゃったんだろうねえ……。70年安保の頃までは政治に熱気があった。左も右も人をひきつけたものだけど。昔は、街宣やってても人が集まったんですよ。何百人という人が赤尾総裁の演説を聴いてくれた。演説が終わると拍手がわきおこってね。新聞売るのでも、人が殺到してさばききれなかったくらい。それも安保がすぎたら、ぴたーっと人が集まらなくなった。この5年くらいは特にひどい。一人も聴衆がいないときもる。本当にどうしちゃったんだろう……ねえ……」
 私たちをぼんやり照らしだす、街頭の白い酷薄な光を、筆保は嘆息とともに見上げた。
 でも、と私は言った。天皇の御不例から崩御、大喪の礼に至るまでの国民の反応を見て、右翼は活気づいたんでしょう? あの記帳者の列を見て、体勢は我らにありと自信を深めたんじゃないですか?
 「いや、そうでもない。みんな困ってる。こうれからどうしたらいいのか……。もう国民に訴えかけるテーマがなくなってしまったでしょう。右翼はみんな困ってますよ。仕方ないからこれからは「切り取り」、企業を攻撃してカネをむしりとることですけど、それに専念しようって言ってるのもいますよ。任侠右翼の連中は特に、カネがかかるんですよ、接待で。大喪の礼の時も全国から集まってきたから、接待が大変だったらしいですよ。銀座とか赤坂とかで。ビラ貼りしてると、よく会いますよ。あいつらはビラ貼りなんて、こんな面倒で地道なことしないからね。飲んでるときに私の顔を見ると、照れくさそうな顔をする。『ごくろうさん』なんて言ってね」

36とはずがたり:2004/12/18(土) 13:24
みんなの国有地が税金を払わなくて良い宗教法人の元に。。どーなの?
時効も国に拠る接収も関係ないんだねぇ。
アイヌ人よ立ち上がれ!北海道からシャモ(和人)を全員追い出せ!(笑)
(magentaさんすんません,冗談です)

2004年12月17日(金)
富士山8合目以上の土地所有権、国から浅間大社に
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20041217/K2004121702890.html

 富士山の8合目から頂上にかけての土地の所有権が17日、国から富士山本宮浅間大社に移った。東海財務局が同日、土地の譲与決定を大社側に知らせたもの。所有権を巡っては、国側と大社の間で訴訟に発展し、74年の最高裁判決で大社側の所有が認められていたが、実際に所有権が移るまでに30年かかったことになる。同財務局は「静岡、山梨の県境が確定しておらず、登記手続きなどが取れなかった」と説明している。

 また、8合目から上が大社の私有地になるが、「登山客からの入山料は取らないと聞いている」(同財務局)という。

 富士山8合目以上の土地は約400万平方メートル。徳川家康が大社に寄進したとの記録があるが、明治維新後に国有地とされた。神社の施設などがある約16万平方メートル分については52年に大社側に譲与されたが、富士山頂が返還されなかったため、大社側が国を提訴し、最高裁まで争った。

 今回譲与されるのは、富士山測候所や県道用地などをのぞいた約385万1000平方メートル。

富士山頂付近の土地、浅間大社に譲与 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/society/story.html?q=18yomiuri20041217i112&cat=35

 徳川家康から寄進されたことを示す古文書が残されており、最高裁が1974年に、浅間大社の所有地と認定してから30年。財務省東海財務
局が同日、譲与通知書を大社に手渡し、所有権問題が決着した。

 譲与されたのは、8合目以上の土地(約405万平方メートル)のうち、すでに大社奥宮の境内地となっている約16万平方メートルと、富士
山測候所敷地や登山道など計約3万5000平方メートルなどを除く約385万平方メートル。

 山頂付近では静岡、山梨の県境や、地元市町村の境界線が定まっていないため、土地登記ができないなどの理由で、最高裁判決後も国が所有し
てきた。

 大社は1999年ごろから譲与通知の早期発行を国に働きかけており、財務、環境省などと協議を重ねた結果、譲与が決まったという。
[ 2004年12月18日1時40分 ]

37とはずがたり:2004/12/18(土) 13:40
意外と(?)ケチだったんだねぇ。

税務署と「わが闘争」?ヒトラー8億4500万円滞納 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/world/story.html?q=18yomiuri20041218i504&cat=35

 ナチス・ドイツ総統ヒトラーが、1933年に権力を掌握するまで税金逃れに奔走し、40万5000ライヒスマルク(現在の貨幣価値で約800万ドル=8億4500万円)を滞納していたことが17日、独研究者の調査で分かった。ヒトラーは首相就任後に支払いを免除されたという。

 税務専門家がミュンヘンの文書館でヒトラーの納税記録を発見。それによれば、ヒトラーは33年、アーリア人の人種的優越を説いた著書「わが闘争」の売り上げで123万ライヒスマルクの収入を得、うち60万ライヒスマルクについて納税義務が生じたが、納付しなかった。

 ヒトラーは記録には「著述業」と記載され、ほかにも新車のメルセデスを「社用車」として資産から差し引くよう試み、机の購入費などを他の「必要経費」と共に控除対象にしようと画策していた。

 ミュンヘンの税務署は33年以降、所得税免除などの措置を相次いで実施。税務署長はヒトラーに納税免除を提案後に、独税務当局のトップに昇進した。(ロイターES時事)

[ 2004年12月18日13時6分 ]

38magenta:2004/12/18(土) 15:19
>>36
実は私、元参院議員の萱野茂氏の主張にはかなり共感しているんですね。
(二風谷ダム問題など)
排除の論理に陥らず独自の文化を残していくのが望ましいというのが主張の中にあったはずです。

39名無しさん:2004/12/18(土) 17:45
>>36,38
北海道は日本の「植民地」ですから…
アメリカインディアンやアボリジニらと同様に、
収奪した土地に対して返還や補償をするのが本来はスジなんでしょうけどね。

40とはずがたり:2005/01/05(水) 18:45
安全保障スレや政治思想スレにも関連しそうだが取り敢えず現代史と云う事でこちらに。

【南京大虐殺関連資料】

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/535/1038323808/405-406
カマヤンさんとこから転載

405 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 05:48

↓このサイトを作った方を、褒め称えます。すげえ大変なんだ、こういう作業は。

南京事件資料館
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/
★このホームページの目的
* 「南京事件はでっちあげ」という主張を,一次資料に基づいて検証します。
* 「歴史修正主義」に反対する人に,一次資料を提供します。
* 「自由主義史観」が欧米の「歴史修正主義」の日本版に過ぎないことを検証します。

資料一覧
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/sub1.html

南京事件論争史
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/ronso_history.html

南京事件FAQ
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/nankin_faq.html


406 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 06:15

南京事件の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ  

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/

41とはずがたり:2005/01/05(水) 19:03
>>40
厳然として日本軍の虐殺はあったのだ。
大東亜戦争中のアメリカの日本市民への無差別空襲や広島と同じく。

中国や朝鮮が謝罪と賠償を要求し続けるのはただ一つ自民党政治家が戦後続けてきた妄言のせいであるに尽きる。
なんであんな昔の事でギクシャクしなければならないのか,国益を損ねる莫迦な発言を発信し続けた売国奴・国賊の自民党政治家どもの猛省を促したい。

42とはずがたり:2005/01/14(金) 10:11
おお,鮎川義助の孫!名門鮎川家の御曹司が44迄独身でいいんかね?×1?

杉田かおる極秘挙式で逆転勝ち
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050114-00000031-nks-ent

 自称「負け犬女の代表」が、チョ〜玉のこしに乗っちゃった。女優杉田かおる(40)が、日産グループ創始者、故鮎川義介氏の孫で投資会社「テクノベンチャー」の鮎川純太社長(44)と電撃結婚していたことが13日、分かった。ファクスで、11日に入籍を済ませたと報告。12日夜には都内で挙式・披露宴も行った。男と酒が大好きで借金持ち…大胆奔放な発言で世間を楽しませてきたが、名家の御曹司を射止めて人生を一発大逆転した。
 杉田は、結婚発表ファクスに「ウソのような本当の話」とつづった。「今までも、ドラマチックな人生を歩いてきた、私らしいと受け止めていただけましたら幸いです」。文面から、御曹司との結婚に、自分も驚いている様子が浮かんだ。
 あけっぴろげなキャラだが、人生最大の勝負のとき。慎重にコトを運び、見事着地させた。公には結婚話は12日に浮上。杉田はほとんど姿をみせず、珍しく沈黙を守った。杉田の母親も13日、都内の自宅でインターホンで「はっきりしたら娘が説明すると思います」と話しただけ。夕方にファクスを流したが、会見予定もない。鮎川氏も12日から、取材対応せず。テクノベンチャー社も「連絡がつきません」と繰り返した。
 しかし、2人は、杉田が11日朝に週刊誌の直撃取材を受けると、その日のうちに入籍。12日夜には都内でごく内輪だけで挙式・披露宴を行っていた。披露宴のもようを撮影したTBS「中居正広のキンスマ」によると、杉田や妹が号泣し、鮎川氏は「これまで本当に頑張ってきたこの3人の家族ですが、これからは自分が加わり、4人でやっていきます。どうぞよろしくお願いします」とあいさつしたという。くしくも同番組のスポンサーの1つは日産自動車。
 関係者によると、昨年8月、杉田が100キロマラソンに挑戦した日本テレビ「24時間テレビ27 愛は地球を救う」の打ち上げに、鮎川氏の姿があり、ワインを持参して、完走を祝っていたという。ちなみに同番組のスポンサーの1つも日産自動車。
 杉田なりに、世間への地ならしはしていた。昨年12月、著書「杉田かおる語録」の発売イベントでは「新しくできた恋人と別れました」と発言し、“その男性”とは100キロマラソン走破直後の昨年9月から交際し、3カ月で破局したと説明。一方で「来年は玉のこしに乗ります。今年で負け犬は終わり。来年は勝ちに行きます! 」と宣言していた。3カ月で破局したと言った相手が実は鮎川氏だったのでは、とも言われている。
 波瀾(はらん)万丈の半生だった。名子役として国民的人気になる一方で、私生活は10代から荒れた。両親の離婚、借金地獄も味わった。酒におぼれ、けんかを繰り返し、仕事もうまくいかず、恋も成就しなかった。しかし、30代半ばからはそれを逆手に取って「負け犬」になりきり、再び上昇機運に乗った。昨秋には、母親、妹と暮らしていた郊外から、都心の高級マンションに転居。事務所の倒産で抱えた借金も、返済のめどがついたといわれる。
 そしてついに負け犬人生と決別。杉田は結婚後も仕事を続ける。今度はどんな顔をみせるのか。セレブ・キャラに変身しちゃうのか。まだまだ楽しみだ。
(日刊スポーツ) - 1月14日9時23分更新

43とはずがたり:2005/01/14(金) 18:09
2005年01月13日(木)
杉田かおる玉の輿、日産コンツェルン御曹司の評判
http://news.goo.ne.jp/news/fuji/geino/20050113/20050113-f-21.html?C=S
(夕刊フジ)
 大ヒット曲「鳥の歌」をリリースし、最近は“負け犬”キャラとして人気の女優、杉田かおるさん(40)の結婚話が急浮上してきた。お相手は日産グループ創始者、鮎川義介氏の孫というのだから仰天だ。事実なら、それこそ“玉の輿”だが、財閥創業者の直系に当たる御曹司の評判は−。

 「義介氏は昭和初期の超大物です。そのお孫さんが、杉田さんと結婚ですか?! 最近は、鮎川一族の話など聞いたことがないから、大物の亡霊が出てきた感じだ」。財界関係者は驚く。

 杉田さんの結婚情報を“仰天スクープ”として掲載した週刊文春が「超玉の輿婚」と報じた相手は、ベンチャー企業向け投資などを行う『テクノベンチャー』会長兼社長、鮎川純太氏(44)。

 同社は、東京・築地本願寺近くの10階建て雑居ビルの4階にある。周辺には米穀店や青果店が立ち並び、下町の風情が残る。受付電話で、純太氏に面会を求めたところ、女性社員から「社長は不在です」との答えが返ってきた。

 普段から多忙で、あまり出社しないという純太氏の社長としての仕事ぶりには、「守秘義務がありますので…」と口を閉ざした。

 杉田さんとの婚約話について、社員らは12日、初めて知ったといい、「マスコミの問い合わせが殺到しているが、答えようがない」と困惑を隠せない様子だった。

 一躍、脚光を浴びることになった純太氏は昭和35年、米ボストン生まれ。成蹊大学経済学部卒業後、ボストンのマサチューセッツ工科大学経営大学院を修了。平成元年に山一証券入りし、4年2月から現職を務める。

 純太氏の友人は「山一時代、M&Aを担当し、仕事はそつなくこなしていた。お坊ちゃまタイプでなく、芯のしっかりした男だった。米国にもハイレベルな人脈がある」と話す。

 同誌によると、「中肉中背で、端整な顔立ち」「趣味は狩猟と日本刀の収集」というから、一般人とはケタが違う。

 信用調査会社によると、同社は昭和24年創業。業界内全国2648社中928位、社員7人、昨年12月期の売り上げは6億円と、それほど大きな会社ではない。

 だが、「超玉の輿」とされるのは、理由がある。純太氏は、日本史の教科書にもその名前が載っている「日産コンツェルン」を一代で築いた鮎川義介氏の孫に当たる超一流の大御曹司なのだ。

 「最近は、経団連で、ベンチャー投資の講演で講師として招かれるなどの活躍もしている」(関係者)。同社の大株主にも新日鉱ホールディングス、日立製作所、日産自動車など、かつてのコンツェルン内企業がズラリと並ぶ。

 祖父・義介氏の長男が、純太氏の父、弥一氏にあたり、弥一氏の弟は参院議員も務めた鮎川金次郎氏。「弥一氏が本邦初のベンチャーキャピタル企業としてテクノベンチャー社を創設し、純太氏が後を継いだ」(同)

 義介氏の大叔父は井上馨元外務相、純太氏の母方の祖父も宮内庁の侍従長を務めた人物。親族には日立製作所の創業者らがおり、家系は折り紙付きだ。

 そもそも、日産コンツェルンは日本15大財閥の1つ。第一次世界大戦後から昭和初期までに台頭した新興財閥で、日窒や理研などとともにコンツェルンと呼ばれた。

 不況で経営危機となった久原財閥を引き継ぐ形で誕生した日産コンツェルンは昭和13年、政府の要請もあって満州に移転。満州重工業開発株式会社として、満州鉄道に代わる重化学工業をほぼ独占支配した超大物企業だった。

 「戦後の財閥解体でコンツェルンは解散されたが、その後も日産や日立などグループ企業の結びつきは強く、『春光懇話会』という親睦・情報交換会があります」(財界関係者)

 12日、結婚話について口を閉ざした杉田さん。昨年末は、「負け犬は今年で終わり。来年は勝ちにいきます。玉の輿を狙います」と宣言していただけに、2人の今後が注目される。

44とはずがたり:2005/01/21(金) 00:21
日本との断交も視野 朴大統領暗殺未遂で韓国が文書公開
http://www.asahi.com/politics/update/0120/004.html

 韓国外交通商省は20日、74年8月にソウルで朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(当時)が在日韓国人青年に銃撃された暗殺未遂事件(文世光事件)に関する外交文書を公開した。犯人が偽造の日本旅券で入国した上、日本の警察から盗んだ短銃が使われたため日韓関係は極度に悪化。韓国側が断交まで視野に入れて、日本側に特使派遣などを強く求めた当時の状況が明らかになった。

 文書は韓国政府の公電や日米との会談記録、捜査関連資料など計15件、約3000ページ。作成後30年たった外交文書を公開する情報公開原則に基づいて開示された。

 朴政権は対日世論の悪化を背景に、事件に対する日本の謝罪と韓国側捜査で関連が指摘された在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)など北朝鮮関係団体の取り締まりを強く日本政府に要求。佐藤栄作元首相、大平正芳元外相、椎名悦三郎元外相ら「大物級」特使が田中角栄首相の親書を持参するよう求めた。

 日本の国民世論を背に「謝罪特使と思われる」と渋る日本側に韓国の態度が硬化。同年9月5日には金東祚(キム・ドンジョ)外相が駐韓米大使代理と会い、「日本が誠意ある措置をとらなければ韓国としても国交断絶、大使召還まで含む措置を考慮せざるを得ないだろう」と述べ、「田中首相か木村(俊夫)外相に米側の関心を表明して影響力を行使できないか」と持ちかけた。

 だが、韓国の要求に対し米側は最後まで「等距離」を強調し、日韓に冷静な対応を促した。

 結局、椎名氏が特使を受諾。同年9月19日に訪韓して遺憾の意を表明するとともに田中首相の親書を朴大統領に手渡し、政治決着した。

   ◇

 〈文世光事件〉 74年8月15日にソウルで起きた朴正熙・韓国大統領暗殺未遂事件。偽造旅券で入国した在日韓国人の文世光・元死刑囚が、独立記念式典で演説中だった大統領に向かって短銃を発砲。大統領は無事だったが、壇上にいた陸英修夫人が被弾して死亡した。韓国政府は「北朝鮮の指令を受けての犯行」と発表した。元死刑囚は同年12月に刑を執行された。

(01/20 12:03)

45とはずがたり:2005/01/21(金) 00:23
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1043205301/772-780
日本植民地支配の徴用 「韓国政府が個人補償」 外交文書
日韓条約交渉文書、一部を初公開=韓国での個人補償問題に影響も
−日本と朝鮮半島関係資料集
など

46とはずがたり:2005/01/23(日) 00:31
日本側の朝鮮総連への腰の引けた態度が目に付く気がするが。。
しかし王道楽土の社会主義建設を進めていた北朝鮮と軍事クーデターで政権簒奪の韓国ではねぇ。

文世光事件:韓国政府・外交文書公開 日韓捜査に食い違い
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20050121ddm007030045000c.html

 ◇韓国側、不満あらわ−−「総連への捜査を忌避」

 【ソウル堀信一郎】20日公開された文世光事件の外交文書のうち、韓国法務省の資料で、両国の捜査結果の食い違いが浮き彫りになった。特に焦点の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の関与について韓国側は「日本は朝鮮総連の捜査を忌避している」と指摘し、日本側の捜査姿勢に不満をあらわにしている。事件発生から死刑執行まで、わずか4カ月。文書が公開されても、謎は残されたままだ。

 ◆指令があったか

 文元死刑囚がいつどのように犯行を決意したかについて、韓国側は「73年9月に朝鮮総連地方幹部が指令した」と断定。一方、日本側は「73年9月初めに在日本韓国青年同盟が8・15朴政権打倒のスローガンを掲げた時」とし、単独で決意したと結論づけている。

 ◆贈答の意図は?

 日韓とも文元死刑囚が朝鮮総連地方幹部から朝鮮ニンジン酒などを受け取っていたことを突き止めている。しかし、韓国側が同時に「革命のために努力しろというメッセージ」が伝えられたと明らかにしているのに対し、日本側は「異例なことではあるが、それ以上の関係は不詳」と結論付けた。

 ◆謀議はあったか

 韓国側は「朝鮮総連の指示により、地方幹部が文氏を扇動し、朴大統領狙撃や韓国政府転覆、共産革命を謀議した」と当時書類送検された朝鮮総連地方幹部との謀議を明確にしている。だが、日本側は「(同幹部による)狙撃教唆や陰謀の確証はない。同幹部を被疑者とみる捜査はできない」と共謀性を否定した。

 ◆資金協力は?

 韓国側は「74年5月中旬、文元死刑囚が朝鮮総連の地方幹部に犯行計画を報告し、7月25日に同幹部から現金80万円を受け取った」と断定した。日本側はこの地方幹部を資金提供者とは決めつけず、「マエダ」という名の正体不明の人物が75万円の犯行資金を提供したと推定している。

 ◆入院の理由は?

 文元死刑囚は74年2月に東京都内の病院に入院したが、韓国側は費用29万円を朝鮮総連の地方幹部から受け取り、「偽装入院した」と断定。「入院中に共産主義教育と狙撃要領の訓練を受けた」と結論づけた。日本側は入院費用の出所は不明としながら「病室は7人部屋のため、特別学習には適さない」と偽装を否定した。

 ◆万景峰号乗船の目的

 文元死刑囚は事件前、大阪港に停泊中の北朝鮮の万景峰(マンギョンボン)号に乗船していた。韓国側は「74年5月3日、文氏は朝鮮総連職員の案内で万景峰号に乗船し、北朝鮮の工作指導員から朴大統領の暗殺指令を受けた」と断定した。日本側は「日時は未確認だが、乗船したことは明白だ」としながらも、北朝鮮の指令伝達には触れていない。

47とはずがたり:2005/01/23(日) 00:32

 ◇米通じ対日圧力−−韓国

[ソウル堀山明子] 韓国政府が公開した文世光事件の外交文書では、朴正煕(パクチョンヒ)政権が朝鮮総連に対する取り締まりを日本に実施させるため、米国カードを使って圧力をかけようとする外交戦略の実態が浮き彫りにされた。事件の背後に北朝鮮の指示と朝鮮総連の協力があったとみる韓国は、朝鮮総連に対する規制を最大の外交目標にしていた。

 韓国外務省作成の狙撃事件特別外交計画案(8月26日〜9月15日)によると、韓国政府は、対日外交の重点として▽強制捜査の催促▽日本の陳謝▽犯罪人引き渡し▽朝鮮総連など反韓国団体の活動抑止−−と明記したリストを作成していた。

 さらに実行された項目の横には手書きで日付が書かれており、「日本側の態度に我々政府が納得できない場合、強硬な対日抗議を行うとの文書を発送」の横には椎名悦三郎自民党副総裁が特使として訪韓する直前の「9月14日」の日付があった。別の文書には日本が朝鮮総連に対する規制を取らない場合、国交断絶も含めた5段階の対抗策を講じるシナリオが記されており、こうした韓国政府の強い意思を日本側に伝えたとみられる。

 同計画案の対米課題には「米国政府要人を通じた対日圧力交渉」という項目があり、▽外相の訪米▽米国要人への直接説明▽駐米大使への特別訓令−−などのリストが挙げられ、9月中旬の日付が書かれていた。

 また、9月9日作成の対日交渉対策案によると、米国を通じて対日圧力をかけた経過について、▽外相が米国大使代理にわが国の理解と支持を求める(9・2)▽駐米大使に米国が対日影響力を行使するよう、交渉を指示(9・3)▽フォード米大統領、キッシンジャー米国務長官が訪米する日本の首相と外相に影響力を行使するよう、駐米大使に特別交渉を指示(9・3)−−と、日誌形式で掲載されている。

 日韓両国は当時、9月19日に再発防止のテロ対策で合意する方向で田中角栄首相の親書を作成中で、朝鮮総連規制をどこまで明記するかをめぐり攻防を続けていた。韓国政府は、田中首相が19日に訪米する計画である点に着目。米国を通じて、朝鮮総連への規制が具体的に確約されるよう働きかけていたとみられる。

 ただ、当時のフォード米政権は、日韓関係の悪化は北東アジアの安保体制を弱体化させると懸念しており、むしろ仲介役となって日韓関係改善を促していた。韓国の駐米大使から外務省への9月11日付公電は、米国務次官補から「韓日間の事態に深刻な関心を持っており、早く事態を収拾するよう要請された」と報告している。

 ◇最後に「バカでした」−−文・元死刑囚

[ソウル堀信一郎] 文世光元死刑囚は、1審(74年10月19日、死刑判決)、2審(同年11月20日、控訴棄却)とも起訴事実を認め、12月17日の大法院(最高裁)で上告を棄却され死刑が確定。12月20日に死刑が執行された。文元死刑囚は公判の中で自分の思想を語り、最後には「バカでした」と悔いながら死刑台に消えたという。

 韓国紙「朝鮮日報」出身の金泰浩(キムテホ)氏の著書「終わらない審判」(韓国・三民社)によると、文元死刑囚は「いつから共産主義思想を持ち始めたのか」との裁判官の質問にはこう答えている。

 「高校1年の時からだ。韓国人なので民族差別を受け、べっ視された。こうした民族的なコンプレックスを解消するために共産主義の本を読んだ」

 公開された外交文書「狙撃事件の真相と背景」によると、文元死刑囚は、高校在学中から「共産党宣言」「金日成(キムイルソン)選集」「毛沢東語録」など共産主義関係の本を読んだ。

 その過程で、日本の資本主義社会構造と、在日韓国人の不満を解消するには、全世界が共産主義社会になることだという考えに至ったという。高校2年で中退する際には「勉強すべきことは全部した。だからやめる」と話していたという。

48とはずがたり:2005/01/23(日) 00:33

 1審の判決公判によると、死刑の代価を払うことになった、国立劇場での狙撃はわずか7秒間の出来事だった。▽座席で銃を取り出そうとして1発目が誤発▽通路に移動して舞台に向かい、約20メートルの距離から撃った2発目は演説台に当たった▽舞台に近づいて発射した3発目は不発▽約18メートルの距離から発射した4発目が、陸英修(ユクヨンス)夫人に命中▽聴衆の足に引っかかって倒れながら発射した5発目は演壇後ろの国旗に当たった−−と明らかにされている。移動距離は約19メートルだった。

 死刑場には、たばこ、コーヒー、麦茶が用意されていた。「私はバカでした。韓国に生まれていれば、こんな罪を犯さなかった。朴大統領に心から申し訳ないと伝えて下さい。国民の皆さんにも申し訳なかったと伝えて下さい。(死亡した)陸女史と(流れ弾に当たって死亡した)女子学生の冥福をあの世に行っても祈ります。だまされて過ちを犯した私がバカで、死刑になっても当然です」

 死刑執行直前の言葉は、嗚咽で何度も中断したという。

 ◇事件の74年、南北朝鮮の対立が先鋭化−−韓国で民主化闘争、激しさ増す

 文世光事件が起きた74年は、南北朝鮮の対立が先鋭化する一方、韓国では朴正〓大統領の「維新体制」に反発する民主化闘争が激しさを増していた時期だ。

 韓国と北朝鮮は72年7月、自主・平和・民族大団結をうたった「南北共同声明」を発表した。しかし、南北分断後、初めて政府間レベルで行われた対話と交流は、統一への希望どころか双方の体制固めの転機になった。

 韓国は水も漏らさぬ北朝鮮の強力な統治体制に驚き、北朝鮮は韓国の発展ぶりに危機意識を募らせた。朴政権は「南北対話を進めるため総力体制を準備する」と非常戒厳令を宣布、国会を解散させ、同12月、維新憲法を公布した。強大な権限が大統領に集中し、言論・政治活動が厳しく制限された。

 一方、北朝鮮も新憲法を制定し、金日成氏が新設された国家主席に就任した。南北とも独裁的な支配が強まった。

 朴政権の強権政治は、日本社会も巻き込んだ。朴大統領の政敵、金大中氏は非常戒厳令宣布により、帰国を断念し、日本など海外で民主化闘争を展開したが、73年、滞在中の東京のホテルで、韓国の情報機関に拉致された。金大中事件である。

 同事件に絡め、北朝鮮は、南北対話を忌避する姿勢を鮮明にした。統一への展望が失われつつある中、韓国では学生運動が活発化し、維新体制撤廃運動が行われる。朴政権はこれに徹底した弾圧でのぞみ「政府転覆を企図した」として学生、知識人らを連行・起訴する「民青学連事件」(74年)が起きている。

 韓国政府は、日本で「金大中救援運動」など「反朴運動」を展開していた在日韓国人組織に対しても敵意をむき出しにした。「日本が北朝鮮の対南工作の中継基地」と警戒心を強め、在日韓国人留学生や研修生を次々とスパイ容疑で逮捕した。「在日社会」では、朴政権の強権政治に動揺、危機感を深める在日韓国人青年が多かった。

 文世光事件は、金大中事件の翌年に起きた。当時の韓国・捜査当局の発表によると、文世光・元死刑囚も「金大中救援運動」を行っていた。

 70年代、朝鮮半島情勢は、南北共同声明の「明」から金大中事件、文世光事件へと暗転する。この二つの事件を機に南北朝鮮の対立は決定的になった。北朝鮮による日本人拉致事件が多発するのは、文世光事件から数年後のことだ。[薄木秀夫]

49とはずがたり:2005/01/23(日) 00:33

 ◇「北朝鮮の関与、不思議でない」−−小此木政夫・慶応大教授

 私は「文世光事件」が起きた1974年8月15日の朝、2年間の韓国留学を終えて帰国したのだが、当時は、朴正煕政権が厳しい国際情勢の中で必死に生き残りを図ろうとしていた時代だった。翌75年にサイゴンが陥落した時には「いずれ韓国も北朝鮮に解放されてしまうかもしれない」という危機感があふれていた。

 米ソ緊張緩和(デタント)の影響を受けた南北対話も73年には終わり、南北対立は激化した。南北は激しい体制間競争を行っていたし、同年の金大中氏拉致事件で韓国の国際的な評判は地に落ちていた。北朝鮮側には、朴政権を倒しさえすれば北朝鮮主導で統一できるという発想があったのではないか。韓国側捜査結果のように、北朝鮮がこうした事件を起こしたとしても不思議ではない。

 日本と朝鮮半島の関係では、韓国が65年の日韓国交正常化以降、日本の資金を導入して経済発展を始めていた。北朝鮮とすれば、日韓関係にくさびを打ち込み、韓国の経済発展をなんとか止めなければならないという発想があったのではないか。

 そうした観点から見れば、在日韓国人である文世光元死刑囚を使ったのは、暗殺に失敗しても日韓関係を壊せるという思惑があったかもしれない。その点では、ある程度成功したともいえる。

 事件後の日韓関係を悪化させた(「北からの脅威はない」という)木村俊夫外相の発言は、一種のデタントぼけだろう。当時の田中政権内のデタント派は「日中国交正常化の次は北朝鮮だ」程度の認識で、朝鮮半島で深刻な闘争が行われているとは考えていなかったのではないか。だから、朴政権が朝鮮総連取り締まりを要求しても、「それは行きすぎだ」という話になった。

 今回の外交文書からは、韓国側の認識を改めて確認できる。だが、韓国側の文書だけでは日本側の見方がはっきりと分からない。日本も早く関連文書を公開すべきだ。[澤田克己]

 ◆文世光事件関連の動き(すべて1974年)◆

 7・18 大阪市の派出所から拳銃盗まれる
 8・15 文世光事件。韓国大統領夫人が死亡
   16 大阪府警、偽造旅券取得に協力した疑いで日本人女性を逮捕
   17 韓国、北朝鮮工作員と朝鮮総連関係者に犯行を指示されたという「自供」内容を発表
      朝鮮総連、関与否定の談話発表
   18 「自供」で名指しされた朝鮮総連関係者が「韓国発表は根拠がない」と否定会見
   19 大統領夫人の国民葬に田中角栄首相出席
      日本、日韓首脳会談で捜査協力を約束
      北朝鮮、「事件は朴政権延命のための陰謀」と反論
   20 韓国首相が演説で「日本に責任ないと言えぬ」と主張
   27 韓国が捜査結果を発表
      韓国外相、国会答弁で対日政策で「最大の覚悟」と言明
   29 木村俊夫外相、参院での答弁で「(朝鮮半島において)北朝鮮からの脅威はない」と発言。この発言で、韓国の反日デモが激化
   30 朴正〓大統領、駐韓日本大使に「(事件は)日韓関係に重大な影響与える可能性ある」と通告
 9・ 6 デモ隊の一部がソウルの日本大使館に乱入
   19 椎名悦三郎・自民党副総裁が特使として訪韓
10・ 7 ソウル地裁で初公判
   19 ソウル地裁で文世光被告に死刑判決
12・17 上告棄却で死刑確定
   20 死刑執行

 ◆事件前後の国際情勢◆
1961・ 5    朴正〓少将が軍事クーデター
  65・ 6    国交正常化の日韓条約締結
  68・ 1    北朝鮮武装ゲリラがソウル侵入
  70・ 3    「よど号」ハイジャック事件
  71・10    中国が国連加盟
  72・ 2    ニクソン米大統領が訪中
      5    米ソが第1次戦略兵器制限条約(SALT1)調印
      7    統一に関する南北共同声明
      9    日中国交正常化
     12    韓国、大統領権限強化の「維新憲法」公布
  73・ 8    金大中氏拉致事件
      9    金正日氏が労働党書記に
  74・ 2    北朝鮮、金日成主席後継者に金正日氏指名
      8    文世光事件
  75・ 4    サイゴン陥落し、ベトナム戦争終結
      7    日韓外相会談で金大中事件に政治決着
  78年ごろから? 北朝鮮が日本人を拉致
  79・10    朴正〓大統領暗殺される
  83・10    全斗煥韓国大統領狙ったラングーン爆弾テロ事件
  87・11    大韓航空機爆破事件
毎日新聞 2005年1月21日 東京朝刊

50とはずがたり:2005/01/23(日) 00:37
【文世光事件】>>46-50

日本人の在日韓国朝鮮人への差別意識がこの事件の遠因にあるとするならば我々日本人は日本人の名誉のためにこういう差別意識を持った日本人同胞を莫迦にし差別せねばなるまい。。
・・って差別する方もなんらかのコンプレックスを抱いているのだろうし在日問題や同和問題は難しいですなぁ。差別と恨みの連鎖は何処かで断ち切らねばならないのに。。

51とはずがたり:2005/01/27(木) 22:15:02
困窮、岸田劉生…お金 必死に工面 大阪で手紙発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050127-00000024-san-soci
自分の絵 分割でいいから買ってほしい
 『麗子像』などで知られる近代日本の代表的洋画家、岸田劉生(一八九一−一九二九年)が、関東大震災で避難していた京都から大阪の知人にあてた手紙が二十七日までに、大阪市内の古書店で見つかった。自分の絵を分割でもいいから買ってほしいという切羽詰まった内容で、困窮ぶりがひしひしと伝わってくる。当時、関西には多くの文化人が震災を逃れて移り住んでおり、彼らの被災生活を知る貴重な資料だ。
 手紙は、大阪府東成郡田辺町(現・大阪市東住吉区)の久米利助という人物にあてたもので、大正十二年十月二十一日付、京都・聖護院局の消印が押されている。
 内容は「この前、春陽会に出した椿花篭の図(五百円)をもしよろしかったら二度払い位にてとって頂けませんか、今二百円、来年の正月頃あと三百円で」と、自作を分割払いで買い取ってくれないかと、申し入れている。
 後半では、自分の絵を買ってもらえない場合、自ら収集している葛飾北斎の浮世絵の購入についても打診。「北斎の富士三十六景の中十五、六枚、その中一枚二百余円のものあり。(中略)それらをまとめて五百円に」などと書いている。
 大正末の物価は、冷蔵庫約三十円、自転車約七十円、新聞の月決め購読料が一円の時代で、五百円は相当な金額になる。
 『劉生日記』によると、結局、この手紙の相手である久米利助は十月二十九日に劉生宅を訪れ、「麗子像」の素描を百円で購入しただけだった。
 関東大震災は大正十二(一九二三)年九月一日に発生、家屋の焼失などで死者・行方不明者約十四万人の被害が出、都市機能もマヒした。このため作家の谷崎潤一郎や直木三十五らが関西に避難した。
 当時、劉生は、神奈川・鵠沼(くげぬま)(現・藤沢市)に住んでいたが自宅が半壊し、名古屋を経て、十月三日に京都・南禅寺に転居。翌日、志賀直哉のところに借金を申し込みに行ったが断られている。
 岸田劉生の京都時代に詳しい高知県立美術館の篠雅廣館長は「劉生は着の身着のままで逃げてきたうえ、関東に住んでいたときから古美術の趣味があり、東洋画や浮世絵など相当高価なものをずいぶん購入していた。こうしたいろいろな要因が重なって、当時はかなりお金には困っていたのだろう。手紙には、お金を工面するときの劉生の細やかな性格などもうかがえ、価値のある資料」と話している。
 ■岸田劉生(きしだ・りゅうせい) ジャーナリスト、岸田吟香(ぎんこう)の4男として東京で生まれる。武者小路実篤と知り合い、柳宗悦、バーナード・リーチら『白樺』同人と交流。大正7(1918)年、長女の麗子をモデルにした制作を始めた。昭和4(1929)年、満州(現・中国東北部)旅行の帰途、山口県徳山で病に倒れ、急逝した。代表作には『麗子微笑』(東京国立博物館)、『切通しの写生』(東京国立近代美術館)がある。いずれも重要文化財。
(産経新聞) - 1月27日15時5分更新

52とはずがたり:2005/01/28(金) 17:45:55
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/179.html?c=0
岡山生まれ。司法官僚、政治家。父は津山藩士。明治21年(1888)東京帝国大学法科卒業。東京控訴院部長、大審院検事、司法省民刑局長等をへて44年(1911)司法次官。大正元年 (1912)検事総長。8年(1919)臨時法制審議会副総裁。10年(1921)に大審院長に就任。12年(1923)第2次山本内閣司法相となる。翌年貴族院議員に勅選、枢密顧問官に任命される。また同年から復古的日本主義を唱え、国本社を主宰。のち枢密院副議長、議長を歴任。昭和14年(1939)首相。戦後A級戦犯として終身禁錮刑となった。

平沼騏一郎
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/ww2/jinbutu/hiranuma.htm
 1867.10.2〜1852.8.22。 岡山県出身。
 1888年帝大法律学科卒業。司法省に入り判事。1905年大審院検事、06年民刑局長。日糖事件の摘発を指揮する。07年大逆事件を捜査。11年第2次西園寺内閣で司法次官。12年検事総長、14年にはシーメンス事件を総指揮。21年大審院長。23年第2次山本内閣で法相。24年貴族院勅選議員。枢密顧問官となり、また国本社を創立。26年枢密院副議長。27年の若槻内閣や30年の浜口内閣など政党内閣を攻撃する。この結果元老西園寺公望に嫌われ、首相候補に推挙されず。34年の帝人事件や35年の天皇機関説事件にも背後で関わったと見られる。36年枢密院議長、同年国本社を解散。この頃から新米英派と妥協するようになる。39年に大命降下で組閣。国民精神総動員運動を展開する。しかし8月、ソ連との関係が悪化している中で、突如独ソ不可侵条約が締結されると、総辞職。「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉は流行語になった。40年から41年に掛けて国務相。45年枢密院議長。ポツダム宣言受諾に反対した※。48年A級戦犯で終身禁固刑となり、52年病気仮釈放直後に死去。

※他の資料と矛盾するがこちらが誤りか。

53とはずがたり:2005/01/28(金) 17:46:43
http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm
「国体明徴運動」
 貴族院勅撰議員・美濃部達吉法学博士の学説「天皇機関説」に対して、貴族院における菊池武夫議員が提出した質問に美濃部が反論したことによって、発生した運動。
 本来美濃部の「天皇機関説」は政党政治に法的解釈とよりどころを与えるものとして一般に通説と解されてきた。また、美濃部の東大における師は、枢密院議長の一木喜徳郎であったから、西園寺公の秘書であった原田熊雄などは、
「大体において美濃部博士は当て馬であって、要するに一木枢密院議長攻撃が目的である」
 と考えていた。その動きを後ろで操っているのが、右翼団体「国本社」の総帥にして、かねてから枢密院副議長にとどめられて憤懣を燃やしていた平沼騏一郎であると原田は考えていたのである。
 ところが、この機関説攻撃に政党までが与するようになった。当時多数を握りながら野党に置かれて苦悶していた政友会は、山本悌二郎を中心として美濃部を攻撃。衆議院はついに国体明徴に関する決議を採択した。
 野にある退役軍人会もこれに呼応し、軍部、特に皇道派が機関説排撃に動き、美濃部と一木枢府議長はますます窮地に追い込まれた。四月九日、美濃部の著作が発禁処分を受けた。
 内閣は美濃部博士を訴追することを防ぎたかったので、美濃部が貴族院の議席を拝辞することを希望していた。また、特定の学説を排撃することも希望しなかったので当初は国体明徴の声明を出すことを拒んだが、陸軍内部はどうにもおさまらなくなり、陸相を通じて国体明徴を声明する要請がたかまった。八月三日、政府は国体明徴を声明。翌月十八日、ついに美濃部は貴族院議員を拝辞した。
 しかし翌日、新聞紙上で美濃部は、
「私が貴族院議員を拝辞したのは混乱を収めるためであって、学説を放棄したわけではない」
 と語り、紛議が再燃した。大角海相などは岡田首相に、
「(もう一度)声明をしてくれ、声明をしてくれないと何が起こるかわからん」
 と依頼した。閣僚らは、軍部の動きは政友会などの岡田内閣倒閣派と連動していることを見抜いていたから非常に憤慨したが、陸軍の代表者である陸相自身の腰が定まらないものだから、事態は紛糾し、十月十五日、「天皇機関説はわが国体に反する」旨を再度声明することになった。
 さきにのべたように、機関説は政党と政党政治を是認化する憲法学説であったから、政友会の行動はまさしく自らの足元を掘り崩したものだとしか言いようがない。

一木枢密院議長はこの運動の最中、何度も辞意を洩らしていたが、西園寺にそのつど止められ、果たせなかった。しかし今度は牧野伸顕内府が老齢の故を以て内大臣拝辞。この後任として斎藤実が就任したが、その斎藤はこの直後に起こった二・二六事件によって射殺されるのである。

54とはずがたり:2005/01/28(金) 17:47:08
>>53-54

「国本社」

国本社会長・平沼騏一郎 大正十三(1924)年発会し、昭和十一(1936)年解散した、右翼思想団体。
 主催したのは司法官僚の巨頭平沼騏一郎である。平沼は国本社創立に先立ち辛酉会を主催していたが、これを母胎とした。また、竹内賀久治が創刊し、流行の民本主義に対抗する雑誌「国本」を機関誌として発足した。
 会長には平沼が、副会長には東郷平八郎、山川健次郎が就任。役員は顔ぶれの変動はあるものの、ビッグネームだけ挙げれば司法官僚系では原嘉道、鈴木喜三郎、山岡万之助、塩野季彦ら。内務官僚では後藤文夫ら。海軍軍人系では加藤寛治、末次信正、小笠原長生、有馬良橘ら。陸軍軍人では宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、小磯国昭、四王天信孝らが加わっている。
 目的は社則に依れば、「国本を固くし国体の精華を顕揚する」ことであり、日本国粋主義を高々と標榜する右翼団体であった。機関誌「国本」も、そういった傾向を持ち、同時に反共・反欧米・反デモクラシー的な論文を掲載した。
 国本社自体の活動はともかく、その人脈は平沼騏一郎の政治運動の大きな一部であったと見なされている。
 特に政党内閣期とその後において平沼は幾度となく首相候補に挙げられ、それを官界・軍部におおきな影響を持つ国本社のメンバーが陽に陰に支援した。従って平沼を中心とする人脈の動きは常に元老西園寺公望とその周辺から「ファッショ」、国本社は日本ファシズムの牙城と目されて平沼は総理の座を逸し続けた。
 思想結社としての国本社の規模は、昭和十年に内務省警保局調査によれば全国道府県に三十九支部、会員数は一万七千人以上といわれる(翌年、内務省刑事局の調査によれば倍増どころではなく、十一万余といわれる)。
 昭和十一年二月、青年将校決起の二・二六事件が発生し、鎮圧されると宮中人事の刷新があり、一木喜徳郎枢密院議長が内大臣に転じ、平沼副議長の議長昇格となった。平沼はここで国本社会長を辞任、それにともない国本社自体も解散した。のちに西園寺は平沼を「エラスティックだからね」と評している※が、それはこのときに国本社解散を件を踏まえているからであろうか。

※戦争末期に終戦派として工作する等確かに実に柔軟ではあるな。

56とはずがたり:2005/01/28(金) 18:05:49
【平沼騏一郎特集】>>52-56

http://www.hiranuma.org/japan/
http://www.hiranuma.org/japan/talk.html
「平沼邸炎上す」
「父のこと」

なかなかドラマが有るねぇ。小説の題材に十分なりそうだ。
しかし右翼の巨頭としての平沼の姿は赳夫の目にはこう映っていたようだ。
> 西園寺公に、平沼は神がかりで、迷信家であると、嫌われた祖父。
>明治維新以後、西洋礼讃で、日本本来の姿が失われつつあるのを嘆じて、
>自ら国本社を興し当時のマスコミによりファッショの首魁とされていた祖父、
>この祖父のために弁解させてもらえば、騏一郎は、神がかりでも、ファッショでも、右翼でもない。
>強いて言うならば、神を信じ、神ながらの国日本を誇りとし、
>日本の伝統と文化をこよなく愛した愛国者だったのである。

>長年親交の深かったグルー米国防長官代理に一生懸命働きかけて、何んとか戦争になるのをくい止めようとしていたのであるが、
>これが軍に洩れ、「鬼畜米英に内通する国賊」とまでいわれ、その命をねらわれ、軍の意を体した右翼の神官が、
>騏一郎の郷里美作出身の代議士の紹介状を持って現れ、面談中の騏一郎めがけて、至近から、首から上をねらい、拳銃弾を浴びせかけ、五弾が顔面から首にかけて命中、騏一郎は瀕死の重傷を負った。
>七十歳を過ぎていたにも拘わらず、奇跡的に一命を取留めたのであるが、このことは平沼家にとっても一大事件であって、父にとっても大変なことであったと想像出来る。

平沼騏一郎は右翼の大物でしかも複雑怪奇と云って辞めた無能なイメージがあるが,開戦にも反対し,最終局面では無条件降伏派として活躍したのか,知らなかった。
それにもかかわらず戦争へ至る過程での指導的立場によりA級戦犯として服役したのか。。まぁ東京裁判の基準も全然公平なものではないだろうしね。

司法官僚のボスとしてまた観念右翼の大物として暗躍した姿と戦争回避に動く姿は被らないが,親米反共右翼だったと云う事なのか?それとも軍部と結んでの政党政治の排撃は権力闘争の一環であったか?
神憑りではあったが戦争が仕事の軍部と司法官僚出身者との違いが此処にあったのか?

57とはずがたり:2005/01/28(金) 18:56:12

http://www.t-kyoichi.com/Profile.htm
津島家系図

http://www.yosano.gr.jp/yosanoke/index.html
与謝野家の人々

http://www.mitsu-net.com/profile/grandpa.html
下条みつ
下条康麿・下条進一郎・石川一郎(初代経団連会長・元昭和電工株式会社社長)

http://www9.ocn.ne.jp/~senyou/keizu2.html#7
岸・安倍・佐藤・松岡

>>56
平沼家 <中川>恭四郎
 <飯田>包亮 ||――赳夫―広子・慶一郎・正二郎
<平沼> ||――節子
晋┬淑郎―広 (一家で騏一郎の養子となる)
  └騏一郎

http://www.hatoyamakaikan.com/family/index.html
鳩山会館

あと政治家で先祖自慢してた奴いたっけかやあ?

58とはずがたり:2005/01/28(金) 18:59:55
河野家

http://www.yohei-kono.com/profile/profile.html

河野太郎 長男 昭和38年1月10日生
河野 香 同妻 昭和40年2月25日生

河野二郎 次男 昭和39年10月26日生
河野典子 同妻昭和44年12月4日生

河野治子 長女 昭和43年11月2日生

故河野治平 (祖父:神奈川県議会議員、県議会議長)
故河野一郎 (父:衆議院議員、建設大臣、農林大臣、経済企画庁長官)
故河野謙三 ( 叔父:参議院議員、参議院議長)

田川誠一 (従兄弟:衆議院議員、新自由クラブ代表、自治大臣・国家公安委員長)
河野太郎 (長男:衆議院議員)

59とはずがたり:2005/02/07(月) 16:40:47
http://www.geocities.jp/since7903/
History of Modern Japan

60とはずがたり:2005/02/07(月) 17:49:53
箱庭的アジア植民地資料中心
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1429/colo/menu.html

61片言丸 </b><font color=#FF0000>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/02/11(金) 19:49:26
真珠湾攻撃 最後通告に相違 日米保管の文書、25カ所
http://www.sankei.co.jp/news/050207/sha037.htm

 昭和16年12月8日(米国東部時間7日)の真珠湾攻撃当日に、在米日本大使館の野村吉三郎、来栖三郎両大使が、米国のハル国務長官に渡した対米最後通告と、日本が保管している対米最後通告に、25カ所の相違があることが6日、分かった。米国が受け取った最後通告の中には、日本で保存している文書にはない単語が含まれている部分もあり、新たな議論を呼びそうだ。

 昭和史を研究している徳島県小松島市の米国パシフィック・ウエスタン大学名誉教授、茶園義男さん(79)が相違を指摘した。

 茶園名誉教授は、米国立公文書館に保管されている対米最後通告の写しを入手し、日本の外務省が外交文書として公表している最後通告と、開戦当時に日本が在米大使館に送った最後通告の暗号電文を米軍が傍受し解読した「マジック」文書の三つを比較検討した。

 その結果、アルファベットや数字の大文字、小文字、コンマなどを含め、25カ所の相違を確認。単語部分は21語で、活字数で83字の相違を数えた。数字以外の相違の9割は、日本が公表している文書と米国が保管している最後通告との相違で、日本の公表文書と米軍の「マジック」の間では、相違はわずかだった。

 日本から14部に分けて打電された最後通告の8部目には、米国が受け取った文書にだけあり、日本の公表文書や「マジック」にない単語も見つかった。日本政府として反論するため米国政府からの申し入れを引用した部分「両国政府が第三国と締結しているいかなる協定も−」の「第三国と」の表現が、日本の公表文書は「with any third powers」だったが、ハル長官が受け取った文書では「with any third power or powers」になっていた。

 茶園名誉教授は「日本が公表している最後通告と米国が受け取った最後通告は同じであるべきなのに、相違があり、一方で米軍が傍受したマジックとよく似ている。そのからくりを解く必要がある」と話している。

                  ◇

 ≪対米開戦の通告遅れ≫昭和16年12月8日(米国東部時間7日)、日本の最後通告が真珠湾攻撃より約50分遅れ、米国から「だまし討ち」と非難された。開戦約30分前に在米日本大使が米国務長官に最後通告を手渡す予定だったが、在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わなかった。その原因と責任の所在について、現在も議論が続いている。

【2005/02/07 東京朝刊から】

62とはずがたり:2005/02/12(土) 19:13:19
冷徹に現在の岐阜県出身と記述すべし。
親父の任地の旭川でたまたま生まれただけの井上靖が北海道出身になっているのは納得が行かないぞ,俺は!!


島崎藤村は何県出身?生地・長野の村は岐阜に越県合併
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050212-00000305-yom-soci

 長野県山口村が13日、県境を越えて岐阜県中津川市に編入合併される。

 同村出身でこれまで辞書などで長野県生まれと表記されてきた島崎藤村(1872―1943年)の出生地をどう表記するか。出版社や地元の人たちに、戸惑いの声も出ている。

 藤村が生まれたのは、当時の筑摩県馬籠(まごめ)村。同村の区域を含む筑摩県東部は1876年、長野県に統合され、馬籠地区は1958年の合併で山口村となった。藤村は、9歳で上京したものの、馬籠宿を舞台にした「夜明け前」など古里への思いが詰まった作品も数多く残しており、「信州人」という認識が定着している。

 岩波書店は広辞苑で長野県生まれと表記しており、改訂間近だけに対応に苦慮しているという。編集部は「岐阜県とした上で、旧国名や旧県名をカッコ書きする案もあるが、字数の都合や各人物が持っている雰囲気もあり、難しい問題」と話す。

 大辞林を出版する三省堂も「文化的なものには一般化された認識がある。いきなり(越県合併という)新しい状況を書いても理解されない」と、困惑気味だ。

 「長野県歴史人物大事典」など、藤村を扱う書籍を数多く出している郷土出版社(長野県松本市)は「藤村は信州人、という精神風土に合わせた表記が必要だが、改訂の際は、越県合併にも触れないわけにはいかないのでは」と話している。

 表記が変更される可能性について、山口村・馬籠宿にある「藤村記念館」関係者は「藤村自身はどう思うだろうか。越県合併しても、藤村が生まれたのは信州であることに変わりはない」と指摘する。

 藤村の孫の妻で、馬籠宿で土産物店を営む島崎黎子さん(68)は「藤村が信州を描いたのは確かだが、作品が変わるわけでもなく、馬籠も変わらない。(藤村が反対運動の象徴となった)昭和の合併のころとは、時代が違う。岐阜になるからといって、どうこう言う時代ではない」と話す。

 山口村教育委員長の小川洋一さん(71)は「藤村の古里が馬籠であることに変わりはない。信州の藤村でも岐阜の藤村でもなく、今や作品が外国語にも訳されている『世界の藤村』ですから」と話す。
(読売新聞) - 2月12日14時43分更新

63とはずがたり:2005/02/21(月) 17:10:18
クリック20世紀
http://www.c20.jp/index.html

64とはずがたり:2005/03/02(水) 10:40:52
http://www.rs.kagu.sut.ac.jp/~infoserv/museum/si/keisan.html
計算尺

http://www.concise.co.jp/store/rule/
CONCISE計算尺ネット販売

<計算尺>復刻へ 滋賀県職員がネットで呼びかけ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050302-00000025-mai-soci

 かけ算や割り算、三角関数などさまざまな計算に使え、技術者の必需品だった計算尺の復刻計画が進んでいる。電卓やコンピューターが普及し、教育現場から姿を消して30年余。40代以上でなければ見たことのない計算機だが、アナログ式の計算用具の魅力を知る人たちの間で、価値が見直されている。[西脇真一]
 インターネットで「計算尺愛好会」を運営する大津市の滋賀県職員、木村悟さん(43)が全国の愛好者に復刻を呼びかけた。木村さんは学校で計算尺を習わなかったが、中学時代に先輩の持つ計算尺にあこがれていた。10年ほど前に中古品を手に入れて以来、さまざまな機種を探し求め、現在300種類以上を所有。自分が携わる農業関係の仕事でも使うことがあるという。
 計算尺は、有効数字が3けたで、概算値を素早く知るには便利なため、電卓の登場まで盛んに使われた。日本商工会議所は54年から検定試験を実施し、最盛期の65年ごろは年間40万人以上が受験。学校に計算尺クラブができるほど普及していた。
 しかし、高校では70年、中学は77年に学習指導要領が改訂されて教育現場から消え、検定試験も82年を最後に終了した。
 木村さんらが復刻を依頼したのは、最盛期に年100万本以上を生産していたトップメーカーの「ヘンミ計算尺」(本社・東京)。同社は70年代に一般用の生産を打ち切り、特殊用途向けだけを扱っていた。木村さんが1月からネットで1本4500円で希望者を募集したところ、179本の申し込みがあり、200本を発注した。
 購入を希望する理由は、「懐かしい」「企画がおもしろい」がほとんどだが、「講義で使いたい」という大学教員もいる。木村さんは「若い人に計算する感動を味わってほしい。簡単な機能の子供用も作ってみたい」と語っている。
 純国産ロケット「H2」の生みの親で国の宇宙開発委員会参与、五代富文さん(72)の話 かつては計算尺や手回し計算機、そろばんを使い分け、ロケットの軌道や強度などの計算をしていた。計算尺は一目で概算値が算出できる。数学の面白さが分かるだけに、ぜひ残してほしい。
 ◇ことば=計算尺
 17世紀に英国で発明され、日本には明治中期に伝わった。一般的な形は、定規のような棒形で、円形もある。固定された上下二つの本尺と、真ん中をスライドする滑尺、表面上を動く縦のラインが入った透明のカーソルがついている。目盛りは対数スケールで、滑尺を移動させるとカーソル上に答えが出る仕組み。
(毎日新聞) - 3月2日10時17分更新

65とはずがたり:2005/03/05(土) 15:41:01
日本は帝国政府の官僚機構がそのままに横滑りなった。1940年体制と云われる由縁である。
一方,独逸は首都決戦を経験し帝都伯林は蘇連に依り解放され,ヒトラーは伯林の地下壕で服毒自殺を図っているが,その際海軍元帥デーニッツを後継に首相兼国防軍総司令に指名,ヒトラーの指名ではなく自らの意向で政府を組織し体裁を整え,総司令部をフレンスブルクに移して終戦交渉に当たる。ヒトラーの後継にしては戦後懲役10年で済んでいるのもの終戦時の斡旋が利いてるのか?
第二次大戦早々イギリスへ逃げた(?)ヘスが精神異常ながら終身刑を喰らってるのと比べてなんかアンバランスな感じがしなくもない。

http://www.uraken.net/rekishi/syusen10.html
第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月
本筋6:ドイツ降伏〜ヒトラー側近達のその後〜

http://www.geocities.jp/showahistory/history1/16c.html
ヘス謎の単機投降

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
第二次大戦資料館

http://members.at.infoseek.co.jp/hitler/
あまりにドイツ的、人間的な人物
アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/germany/ha/bormann.html
マルティン・ボルマン(官房長官)Martin Bormann(1900-45?)
 ベルリン陥落時にヒトラーの地下壕からの脱出に失敗して死亡したとされる。死体が発見されなかったため、南米への逃亡説も流れた。46年のニュルンベルク国際軍事法廷では欠席裁判で「住民と捕虜の殺害」などの罪で絞首刑の判決を受けた。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/germany/ha/himler.html
ハインリヒ・ヒムラー(全ドイツ警察長官) Heinrich Himler (1900-1945)
−第二次世界大戦でもっとも忌み嫌われた男−
 1934年7月に、突撃隊隊長レームとほとんどの幹部やシュトラッサーを筆頭とするナチス純理論派を粛正した親衛隊は、その後、突撃隊にとって代わり、ナチス党の軍事部門としての地位を確固たるものとした。ヒムラー自身も1934年には国家秘密警察長官(いわゆるゲシュタボ)に就任し、1936年には全ドイツ警察長官に就任。
 敗戦間際の1945年4月に、ヒムラーは自分の身と親衛隊を救うため、ヒトラーを見限ることを決め、西側連合国と単独交渉を計画し、スウェーデンの赤十字代表フォルケ・ベルナドッテ伯爵に接触した。西側連合国はこの申し出を拒否し、この背信行為ととも言えるこの行動をラジオ放送で暴露した。総統官邸の地下壕でそれを知ったヒトラーは激怒し、ヒムラーをナチス要職のすべてのポストから罷免する。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
カール・デーニッツ(最終階級:海軍元帥)Karl Doenitz(1891-1980)
−ヒトラーの後継者−

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
ヘルマン・ゲーリング(最終階級:国家元帥)
Hermann Goering(1893-1946)−国家元帥まで上り詰めた戦争政治屋−
39年、ヒトラーはゲーリングを後継者として指名し、40年には彼のために国家元帥の名称を創設した。しかし…40年の空軍力でイギリスを屈服させることに失敗したことを皮切りに、43年のスターリングラードで包囲されたドイツ軍への物資空輸作戦の失敗によって、ゲーリングの名声も権力の失墜も決定的となった。44年までにはナチス首脳部の実質的な決定機能から退き、絵画コレクションに傾倒するとともに、薬物への依存が高まり、常軌を逸していた。45年には再び野心を露わにし、ヒトラーの後継者としての立場を確かめる電報をヒトラーに送った。これが、マルティン・ボルマンによって裏切り行為としてヒトラーに伝えられ、激怒したヒトラーはゲーリングを逮捕、すべての地位を剥奪した。

66杉山真大 </b><font color=#FF0000>(sB4AwhxU)</font><b>:2005/03/31(木) 00:07:59
これを時代錯誤と言わずして何と言う!しかも何を考えているんだ民主党は!!!

4月29日を「昭和の日」に 今国会で祝日法改正へ
http://www.asahi.com/politics/update/0330/007.html
2005年03月30日23時42分

 「みどりの日」にあたる4月29日が「昭和の日」に、「国民の休日」とされていた5月4日が「みどりの日」に変わることになった。祝日法改正案が今国会で成立する見通しとなったためで、実際に変わるのは07年からになる。

 改正案については衆議院内閣委員会が30日の理事会で4月1日に採決することで合意。自民、公明、民主各党は賛成する方針で、今国会で成立する運びとなった。

 同改正案は過去2回、衆参両院のいずれかを通過しながら、衆院解散に伴って廃案になった。自民・公明両党が昨年の通常国会に共同で再提出し、衆議院で継続審議になっていた。

[My HP] http://politics.mtcedar.com/

67とはずがたり:2005/03/31(木) 13:17:22
戦争で中止、幻の1940年万博入場券 一宮の青山さんが保存
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050331-00000009-cnc-l23

[愛知県] 1940(昭和15)年に東京と横浜の2会場で開催予定だった「紀元2600年記念 日本万国博覧会」の抽選券付き回数入場券を保存している、一宮市西島町の織物業青山恭一さん(64)が、入場券の一宮市への寄贈を検討している。日本万博は日中戦争の影響で中止となったのに伴い、入場券の大部分が払い戻されており、博覧会協会によると回数入場券を1冊丸ごと残していた例は珍しいという。

 回数入場券は12枚つづり。1冊10円で、表紙の通し番号が抽選番号になっている。当時、東京に住んでいた青山さんの父・洋さんが購入したもので、万博中止後の44年、戦争激化に伴い一家で蒲郡市に疎開した後も、入場券はそのまま保管していた。

 70年の大阪万博の際、中止した日本万博の入場券と大阪万博の入場券の交換が可能となったため、洋さんは「家族で万博に行ける」と喜んだが、開幕前年の69年、念願を果たせないまま66歳で亡くなった。

 その後、入場券は名古屋市に住む青山さんの兄が保存していたが、愛・地球博(愛知万博)の開催に合わせて「愛知万博の盛り上げに利用できないか」と青山さんが譲り受け、一宮市への寄贈を打診中。

 既に、愛知万博の会場を訪れたという青山さん。父親が「大阪万博に行ける」と入場券を眺めながら喜んでいた顔を思い出したと言い、「父の夢がかないました。戦争で中止された万博から65年。無事開かれた万博に平和を実感した」と話している。 (広瀬和実)
(中日新聞) - 3月31日10時51分更新

68とはずがたり:2005/04/14(木) 21:11:04
ナチスがらみでは一儲けした印象のあるスイスの銀行だが。。

ナチス被害遺族へスイスの銀行は23億円支払え 米裁判
http://www.asahi.com/international/update/0414/009.html
2005年04月14日19時33分

 ナチスによる大量虐殺(ホロコースト)の犠牲者家族らが、UBSAGやクレディ・スイス・グループなどスイスの複数の銀行に対し、預けた資産を勝手にナチスに供出したなどとして起こした損害賠償訴訟をめぐって、ニューヨークの連邦地裁は13日、2人の犠牲者の遺族14人に対し2190万ドル(約23億円)の支払いを認めた。AP通信などが伝えた。同地裁は数千人のユダヤ人遺族らへの計15億5000万ドルの支払いを98年に命じており、その分配を特別の法廷に委託していた。

 同通信などによると、オーストリアの製糖工場の大株主だった犠牲者らは、ナチス・ドイツによる同国併合が迫ったため、株をスイスの銀行に移したという。銀行は合意なしに株を売却することはないと約束したものの、犠牲者やその家族が逮捕されたり、国外に逃亡したりした間に、圧力に屈してドイツの投資家に株を譲り渡したという。

 ロイター通信は、この訴訟をめぐってこれまで約3000件の支払いが認められたが、1件あたりの平均は12万9千ドル、としている。

69とはずがたり:2005/04/16(土) 11:49:51
日露戦争の真の功労者児玉源太郎特集

乃木希典なんて無能よ。

http://www.c20.jp/p/kgentaro.html
http://www.c20.jp/1904/12203ko.html
業を煮やした児玉源太郎は、乃木希典司令官からその指揮権を強奪し、わずか半日で二〇三高地の占領に成功した。 正確には、80分+30分で、だ。 そして、奪った二〇三高地を観測点として、この日のうちに旅順港内のロシア艦隊に砲撃を開始し、ほどなく壊滅的打撃を与えている。

http://www.jacar.go.jp/cloud_kodama.htm

http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/77.html?c=0

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kodama_ge.html

70とはずがたり:2005/04/16(土) 12:08:47
奉天会戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%A4%A9%E4%BC%9A%E6%88%A6

目先の勝利や戦争拡大の雰囲気に惑わされず、講和への道を開いた兒玉源太郎は、翌年7月、日露戦争に気力の全てを注ぎ込んだかのように脳卒中でこの世を去った。

71とはずがたり:2005/04/16(土) 12:19:35
児玉源太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%92%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E

なんと。。>菅直人元民主党代表の長男・源太郎は、彼にちなんで名付けられた。

72とはずがたり:2005/04/25(月) 20:48:53
こんな仕事というか芸能者がいたんですねぇ。昔なりの社会保障制度だったのでしょうか?

最後の越後瞽女・小林ハルさん、105歳で大往生
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050425-00000506-yom-soci

 最後の越後瞽女(ごぜ)として知られる新潟県黒川村の小林ハルさんが25日午前2時10分、老衰のため、同村内の特別養護老人ホームで亡くなった。105歳だった。

 告別式は28日午前10時から同県荒川町坂町1750の1、ベルホール会津屋荒川で。喪主はなく、特養ホームを運営する社会福祉法人「愛光会」理事長、高沢正樹氏が葬儀委員長を務める。

 瞽女は、三味線を抱え家々を巡り歩きながら、民謡や小唄などを披露する盲目の旅芸人。冬場の娯楽が少ない雪国の「越後瞽女」は名高く、一時は500人を超えたとされる。戦後、急速に姿を消した。

 新潟県三条市の農家に生まれ、生後100日で白内障のため失明。4歳で瞽女に入門し、8歳で初めて旅に出た。1973年まで各地を歩いた。78年、文化庁から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の技芸者と認定され、79年に黄綬褒章を受章。2002年には吉川英治文化賞も受けた。
(読売新聞) - 4月25日11時47分更新

73とはずがたり:2005/05/05(木) 01:17:25
>6月23日を「沖縄戦終結」、9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」
やべぇ,歴史好きを自認してる筈なのに一つも知らんわ。。昔から年号とか覚えるの苦手やったしましてや日付をや。
当日はgoogleに頼んでバナー変えて貰いましょうよ。

「銃後」「御真影」知らず 大学生、沖縄戦の日も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050504-00000084-kyodo-soci

 「銃後(じゅうご)」「御真影(ごしんえい)」といった言葉を知っている学生が減り、近代史に関する日付として6月23日を「沖縄戦終結」、9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」と正しく記憶している割合も低下していることが、教育史研究者の岩本努さんの調査で分かった。特に加害の歴史については理解不足が目立った。
 岩本さんは「中高校で近代史を十分教えず、マスメディアもあまり取り上げない。中国、韓国で反日運動が高まる中、歴史を正しく知らなければ、本当の意味の友好関係を築くことはできない」と話している。
 岩本さんの講義を受けている中央大の44人、法政大の79人を対象に4月に調べた。
(共同通信) - 5月4日16時41分更新

74とはずがたり:2005/05/08(日) 13:23:25
秀吉の朝鮮出兵「抵抗の碑」返還の可能性 調整本格化
2005年05月08日09時46分
http://www.asahi.com/politics/update/0508/001.html?t5

 20世紀初頭に旧日本軍の将校が朝鮮半島から運び去ったとされ、現在は東京・九段の靖国神社境内にある「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」が、朝鮮半島に返還される可能性が出てきた。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、地元の義勇軍が活躍したことをたたえた石碑で、韓国と北朝鮮が返還を求めるための調整を開始。日本政府も靖国神社側との仲介に乗り出す考えだ。同神社も「韓国と北朝鮮の調整がつき、日本政府から正式に要請があれば応じる」(社務所)としている。

 日本政府関係者によると、韓国の李海●(イ・ヘチャン)首相と北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)・最高人民会議常任委員長がジャカルタで4月下旬に会談した際、碑の返還方法や保管場所をめぐって意見交換した。これを受け、6日の日韓外相会談で、韓国の潘基文(パン・ギムン)外交通商相が「返還が実現すれば日韓関係のみならず、南北関係の改善にも寄与する」と要請。町村外相は「靖国神社側とよく話をしながら、誠意を持って対応したい」と応じた。

 この碑は18世紀初頭、現在の北朝鮮・咸鏡北道内に建てられた。義勇軍の子孫が韓国側に多いことから、返還する場合も、どちらに返還するか、韓国と北朝鮮の調整が必要とされていた。(●は王へんに賛)

75とはずがたり:2005/05/15(日) 00:01:38
米国防総省:ポーツマス条約ゆかりの海軍工廠も閉鎖
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20050514k0000e030026000c.html
[ワシントン及川正也] 日露戦争を終結させたポーツマス講和条約ゆかりの歴史的な米海軍基地が消える?−−。米国防総省が13日発表した国内基地統合・閉鎖リストの中に、今年で100年を迎える同条約調印の場所、ポーツマス海軍工廠(こうしょう)(米メーン州)が含まれた。

 同条約は1905年、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介で小村寿太郎、ウィッテの日露両全権代表の間で署名。米側が交渉場所として提供したのがニューハンプシャー州ポーツマス市の隣町にある同工廠「ビルディング86」の一室。

 交渉は8月8日に始まり1カ月後の9月5日に調印。ルーズベルト大統領はこの功績でノーベル平和賞を受賞。同ビルには交渉当時の写真を飾った記念室もある。

 同工廠は、ロサンゼルス級原子力潜水艦の整備などに使用されている。閉鎖により約4000人の基地従業員の職が失われるため、地元選出議員らが反発している。

 調印100年記念行事を計画している「ポーツマス講和条約記念委員会」広報責任者のステファニー・シーコードさんは「工廠は歴史を象徴する場所で、ポーツマスの人々も誇りに思っている。閉鎖は最終決定ではないし、議員らも反対している」と語り、基地存続を訴えた。
毎日新聞 2005年5月14日 11時00分

77とはずがたり(1/2):2005/05/26(木) 10:07:21

「クリスマス・プレゼント」と称して日本へ復帰
奄美群島 
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/japan/amami.html

旧アメリカ領
1946年2月2日 北緯30度以南の奄美諸島が日本の行政権から切り離され、米軍の統治下に入る
1952年2月4日 サンフランシスコ平和条約に基づいて、北緯29度以北(トカラ列島の十島村)が日本へ復帰
1953年12月25日 奄美諸島が日本へ復帰

2002年は沖縄返還30周年でマスコミなども特集を組んでいたが、2003年は奄美返還50周年。でも全国的にはあんまり話題にならないでしょうね。

沖縄はアメリカ軍の占領とともに日本から切り離されて米軍の統治下に置かれたが、翌46年2月2日には北緯30度以南の奄美諸島の行政権も日本政府から米軍へ移された。発表はわずか4日前。奄美諸島では戦時中に空襲は受けたが米軍が上陸したことはなかった。終戦から半年経って突如日本から切り離されるなんて、奄美の住民たちにとってはまさに晴天の霹靂だ。

ただしアヤシイ兆候は敗戦直後からあった。奄美大島にいた日本軍の武装解除にやって来た米軍が携えてきた降伏文書にはNorthern Ryukyu(北部琉球)と書かれていたため、日本軍司令官は「ここは琉球ではなく、九州・鹿児島県に属する奄美群島である」と署名を拒否。すったもんだの押し問答の末、米軍側はマニラの司令部と相談してAmami Gunto Kagoshima Ken(鹿児島県奄美群島)と文面を訂正し、ようやく日本軍が降伏手続きが行われるという一幕があったのだ。

奄美諸島は鹿児島県だが、もともと沖縄の文化圏で言葉は琉球方言だし、かつて琉球王朝の統治下に置かれた歴史もある。17世紀初めに薩摩藩が琉球を征服した時に薩摩の直轄領に移された。アメリカは沖縄上陸の前から「琉球人は日本人によって虐げられていた少数民族である」と分析し、米軍の占領が終わっても沖縄は日本へ返さず、韓国のように独立させることも検討していた。そこで奄美諸島も「もともとは琉球の領土」とみなし、日本から切り離して沖縄の一部に加えるのが当然と考えたようだ。

アメリカは軍政府の下に琉球人による民政府を作り、限定的な自治を行わせることにした。しかし沖縄本島は激しい地上戦で破壊され交通・通信は壊滅状態だったので、沖縄、宮古、八重山、奄美の4つの「群島」に分け、それぞれに自治政府を作った。

こうして奄美では46年3月に本土出身の「日本人」が公職から追放されて鹿児島へ強制送還され、10月に「奄美人」による臨時北部南西諸島政庁が発足、50年11月には奄美群島政府に昇格し、ちょっとしたミニ国家のようになった。米軍の指令によって、本土企業の支店や営業所は接収されて公営企業となり、大島中央銀行も誕生した。群島政府知事や群島議会の選挙に先駆けて、協和党や社会民主党などの独自政党が生まれ、地下組織として結成された奄美共産党は当初「奄美人民共和国の独立」を掲げた。

78とはずがたり(2/2):2005/05/26(木) 10:07:43
>>77-78

しかし、4つの群島知事選の結果はいずれも「日本復帰の実現」を公約にした候補が勝利したため、不愉快になったアメリカは51年4月、新たに琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止することを決定。翌52年4月に琉球政府を発足させた。琉球政府のトップである主席は公選ではなく米軍からの任命で選ばれ、親米派の元英語教師を主席に据えた。こうして奄美の行政は沖縄と一体化することになった。

1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約では、琉球列島(日本式に言うと南西諸島)は正式に日本から切り離されてアメリカの施政権下に置かれた。平和条約の調印を前にして本土復帰運動が急速に盛り上がったが、なかでも激烈だったのが奄美。復帰要求の署名運動では、14歳以上の住民のうち99・8%もの署名が集まり(沖縄本島では72%)、数千人規模で村ぐるみの断食祈願(つまりハンガーストライキ)が繰り返された。

なぜかというと、日本と切り離された打撃は沖縄より奄美の方が大きかったから。アメリカ統治が始まってから本土との往来は禁止され、後に緩和されはしたものの本土へ行くにはパスポートが必要になったし、渡航許可は那覇を経由して申請したので手続きに数週間かかる。本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられたため売れなくなり、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップしたうえ、アメリカからの援助は沖縄本島の復興が優先されたので奄美にはほとんどまわってこなかった。このため奄美住民の生活は困窮し、沖縄のように基地産業で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていった。

ところでその頃、すでにアメリカによる沖縄統治の目的は変わっていた。サンフランシスコ平和条約ではアメリカによる施政権を認める一方で、日本の潜在主権も認められ、将来的に琉球列島(南西諸島)が返還される道を残したものになった。アメリカが施政権を保持するのは、当初のような「少数民族である琉球人の独立のため」ではなく、朝鮮戦争以降の東西冷戦の中で東アジアにおける軍事拠点を確保するためになった。そうなると、基地がない奄美諸島を占領し続けてもアメリカにとってメリットはない。むしろ復帰運動が激しいことでマイナスになった。

かくして53年になると、アメリカは奄美諸島を日本へ返還する方針を明確にした。一時は沖縄に近い与論島と沖永良部島を除外する案も出たが、小中学生が血書の嘆願状を出したり、「奄美と一緒に返還されないのなら島民全員で移住する」と決議するなど激しい反対運動が起きたため、結局すべての奄美諸島を返還することに決定した。返還日は12月25日だったので、アメリカはこれを「クリスマス・プレゼント」だと自画自賛した。

奄美の人たちは本土復帰が決まって万事メデタシかと言えば、新たな問題も生まれた。沖縄で働いていた3万人の奄美人は、奄美復帰とともに琉球人から日本人、つまり法的には「外国人」になってしまった。沖縄で仕事を続けるためには居住許可が必要となり、政治的権利は剥奪され、公務員にもなれなくなり、また土地所有権の取得が認められないなど、沖縄に住む奄美人は様々な差別を受けることになったのだ。こうした「民族分断」がもたらす矛盾が解消されたのは、72年に沖縄が日本へ復帰して、本土人も沖縄人も奄美人もみんな同じ「日本国民」になってからのこと。

79とはずがたり:2005/05/27(金) 17:59:12

旧日本兵:「数十人生存」情報も 半数が帰国希望
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050527k0000e040098000c.html

ミンダナオ島ダバオ市北方50キロの山々。この山中に元日本兵が生きている可能性が高いという=昨年12月、寺嶋会長らの捜索隊が撮影

 フィリピンに出征した旧日本兵らでつくる「曙光会」の近藤敏郎さん(83)によると、昨年12月20日にフィリピンから帰国した厚生労働省の遺骨収集団から、ミンダナオ島のキバウエ東方で中内続喜(つづき)さん(85)=高知県明治村(現・越知町)出身=ら3人が生存しているとの連絡が入ったという。近藤さんは「3人は現地のモロ族という部族に保護されているらしい。同島には旧日本兵の生存者が57人おり、半数が帰国を希望していると聞いた」などと話した。

 ◇未帰還者は21人

 厚生労働省によると、戦死情報がなく家族などの話から判断した旧日本兵の未帰還者は今年4月現在、21人。中国16人、旧ソ連2人、樺太とビルマ(現ミャンマー)、ベトナムの各1人で、フィリピンはゼロとなっていた。ただ、ミンダナオ島については、旧日本兵26人が集団で住んでいるという情報があり、72年8月と73年11月に現地を捜索したが、確証が得られなかった経緯がある。
毎日新聞 2005年5月27日 15時41分

80とはずがたり:2005/05/27(金) 18:31:21
精鋭の豹兵団、80%が戦死…元日本兵2人が所属
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050527-00000305-yom-soci

 防衛庁防衛研究所や戦友会の戦跡記録によると、ミンダナオ島で生存していた元日本兵と見られる2人が所属していたとされる旧陸軍第30師団は、1943年(昭和18年)6月、朝鮮半島の平壌で編成された。

 「豹(ひょう)兵団」と呼ばれ、総員約1万6000人、20歳代前半の兵士が主力だったが、80%が戦死したという。

 当初は対ソ連戦に備えていたが、南方の戦局悪化により、44年4月、ミンダナオ島防衛のため出動を命じられた。

 2人が所属していたとされる同師団捜索第30連隊は、車両などを備えた約470人の偵察部隊。同年6月、同島に到着し、ジャングルや山岳地帯で活動したという。

 第30師団の戦友会「豹の会」会長の市川豪一さん(89)(大阪府東大阪市)によると、同師団は「豹兵団」と呼ばれた精鋭部隊だった。

 しかし、戦場は米軍の制空権の下にあり、各地で激戦となった。同年10月にはマッカーサーが北のレイテ島に上陸、第30師団からも主力部隊が投入されたが壊滅した。45年3月には米軍がミンダナオ島上陸を開始。部隊は散り散りとなり、ジャングルなどでのゲリラ戦に突入した。同師団の戦死者・生死不明者は1万2000人を超え、日本に帰還したのは3000人程度に過ぎなかった。

 豹の会の戦跡記録によると、捜索第30連隊は、上陸した米軍と速射砲などでの激しい戦闘となり、劣勢の中、切り込み作戦などで応戦した。大勢が決してからは、飢えと病に苦しみながらジャングルの中を進み、投降が始まったのは9月になってからだった。

 同連隊では、在籍473人中、287人が戦死したという。
(読売新聞) - 5月27日13時38分更新

81ぽんこ:2005/05/28(土) 00:05:52
今朝、ドイツのラジオで日本海海戦のことを言っていました。
それはニュースではなく100年前の今日の出来事と言った感じでした。
ドイツでは3紙のうち1紙のみウェブ上で取り上げていました。
しかし英米の新聞のウェブではどこもやっていないようでした。
かなりの大事件だと思うのですが、やはりロシア(あるいは欧米全体)にとっては恥で、その配慮があるのかもしれません。
http://www.asahi.com/national/update/0527/TKY200505270145.html
http://www.asahi.com/international/update/0527/013.html
http://www.welt.de/data/2005/05/27/723522.html?search=japan&amp;searchHILI=1

82とはずがたり:2005/05/28(土) 00:28:26
>>81
おお,情報提供感謝です。
そういえば対馬海峡での慰霊祭にロシアから初めて参加者がとか云うニュースもどっかで見ました。

白人が黄色人種に負けたという意味ではとてつもない衝撃的事件だったでしょうからねぇ。

83とはずがたり:2005/05/28(土) 00:30:34
日露戦争の日本海海戦100年 ロシアで水兵追憶の式典
2005年05月27日18時28分
http://www.asahi.com/international/update/0527/013.html

 日露戦争の日本海海戦から100年たった27日、ロシアでは海軍が「水兵追憶の日」として全艦艇で式典をするなど、各地で催しがあった。だが、海戦史上最大の敗北とあって、受けとめ方は様々だ。

 極東の太平洋艦隊ではこの日の朝、母港ウラジオストクに停泊中の全艦艇上で水兵たちが黙祷(もくとう)をささげた。海戦参加者の墓にも、艦隊の幹部らが献花をした。

 バルチック艦隊の本拠地だったクロンシュタット軍港に7月、海上自衛隊の練習艦隊が初めて友好訪問するなど、日ロの防衛交流も進んでいる。ザハレンコ海軍司令官代理は、最近訪ロした先崎一統合幕僚会議議長に「東郷平八郎連合艦隊司令長官を尊敬している」と語った。

 しかし、ロシアのメディアには、主力艦がほぼ壊滅した海戦にいろいろな評価が出ている。

 国防省機関誌「赤い星」は27日、海戦の敗因に「艦隊建設計画のずさんさ、砲撃力の弱さ」などをあげ、「いまも予算不足で老朽艦ばかり。状態は変わらない」と強調した。

 一方で、現代のロシアの歴史教科書は海戦を「戦史上、恥辱の一ページであり、民族の誇りに痛切な打撃を与えた」と位置づける。

 愛国主義的な志向を強めるプーチン政権下のロシアでは、海戦をタブー視する傾向もある。週刊紙モスクワ・ニュースは「忘れたい歴史でも、忘れると同じ失敗をする」と警告した。

84とはずがたり:2005/05/28(土) 00:35:10
ドイッチュ語じぇんじぇんわからん・・。

Aus dem Gedachtnis: Erster in Asien
http://www.welt.de/data/2005/05/27/723522.html?search=japan&amp;searchHILI=1

Vor 100 Jahren versenkten die Japaner bei Tsushima die russische Ostseeflotte. Gerade 40 Jahre hatte Japan gebraucht, um sich nach seiner Offnung durch die Flotte des amerikanischen Commodore Perry von einem isolierten, in uralten Traditionen verharrenden Land in eine moderne Macht mit entsprechenden Interessen zu verwandeln. Weil man in Tokio Einflusgebiete auf dem chinesischen Festland gewinnen wollte, kam es 1894 zum chinesisch-japanischen Krieg. Doch alle Siege fuhrten nicht zum gewunschten Erfolg, legte sich doch der russische Zarenstaat dazwischen. Er besetzte die Mandschurei, durch die die Transsibirische Eisenbahn verlief, und pachtete den Hafen Port Arthur.

Keine zehn Jahre spater fuhlte sich Japan stark genug, diese Scharte auszuwetzen. Am 9. Februar uberfiel seine Flotte das russische Ostasiengeschwader in Port Arthur. Zwei Tage spater erst erklarte es den Krieg.

Um die Niederlage auszugleichen, beschlos man im Juni 1904 in St. Petersburg, die Baltische Flotte nach Wladiwostok in Marsch zu setzen. Doch erst am 15. Oktober konnte sie unter dem Kommando von Admiral Roshdestwenskij aus Liebau auslaufen. 34 000 Kilometer lagen vor ihr. Es wurde eine Reise in den Untergang.

Viele der 36 Kampf- und neun Begleitschiffe waren veraltet, andere nicht im besten Zustand. So blieb die Marschgeschwindigkeit langsam. Auch muste, weil kein Land das Anlegen erlaubte, die Kohle auf See ubernommen werden - die Hamburg-Amerika-Linie sicherte sich den Auftrag, entsandte 60 Kohledampfer und konnte von dem Gewinn ihre Luxus-Schiffe "Amerika" und "Kaiserin Auguste Victoria" bauen.

Als der russische Verband in die Tsushima-Strase zwischen Japan und Korea einlief, erwartete sie dort bereits die japanische Flotte unter Admiral Togo mit Schiffen, sie schneller und starker gerustet als die russischen waren und taktisch besser gefuhrt wurden. Die Folge der zweitagigen Seeschlacht war eine Katastrophe. Lediglich drei kleineren russischen Schiffen gelang der Durchbruch nach Wladiwostok. Acht Schlachtschiffe, neun Kreuzer und die meisten Begleitschiffe wurden versenkt oder auser Gefecht gesetzt. Mehr als 4000 russische Seeleute kamen um, 7300 und drei Admirale gingen in Gefangenschaft. Japan verlor drei Torpedoboote und 116 Mann.

Angesichts dieser Niederlage akzeptierten der Zar wie der Meiji-Kaiser - Japan hatte sich finanziell ubernommen - das Vermittlungsangebot der USA, das am 5. September 1905 zum Frieden von Portsmouth (USA) fuhrte. Japan erhielt die Mandschurei, Port Arthur und Korea als Einflusgebiete. Damit war es als erste asiatische Nation zu einem weltpolitischen Faktor geworden. Peter Dittmar

Artikel erschienen am Fr, 27. Mai 2005

85とはずがたり:2005/05/28(土) 00:35:44
>>84
=Translated by Alta Vista=
http://babelfish.altavista.com/

From the memory: First in Asia
Before 100 years the Japanese sank the Russian Baltic Sea fleet with Tsushima. Straight 40 years Japan had used, in order to transform after its opening by the fleet of the American Commodore Perry of an isolated country remaining in age-old traditions into a modern power with appropriate interests. Because one wanted to win in Tokyo spheres of influence on the Chinese mainland, it came 1894 to the Chinese-Japanese war. But all victories led not to desired success, put nevertheless the Russian Zarenstaat between them. He occupied the Manchuria, by which the Trans-Siberian railway ran, and leased the port haven Arthur.

Japan did not feel ten years later strongly enough to out-sharpen this scharte. On 9 February its fleet attacked the Russian Eastern Asia squadron in haven Arthur. Later only it explained two days the war.

In order to adjust the defeat, one decided in June 1904 in pc. Petersburg to set the Baltic fleet after Wladiwostok in march. But only on 15 October it could run out under the command of admiral Roshdestwenskij from Liebau. 34,000 kilometers lay before it. It became a journey into the fall.

Many of the 36 combat and nine consort ships had become outdated, others not in the best condition. Thus the cruising speed remained slowly. Also had, because no country permitted the creation, which are taken over coal on lake - the Hamburg America line secured itself the order, sent 60 coal steamers and could from the profit her luxury ships "America" and "empress Auguste Victoria" build.

When the Russian federation ran into the Tsushima road between Japan and Korea, it expected there already the Japanese fleet under admiral Togo with ships, it faster and than the Russian were more strongly prepared and were tactically better led. The consequence of the two-day sea-battle was a disaster. The break-through succeeded to only three smaller Russian ships at Wladiwostok. Eight battle ships, nine cruisers and most consort ships were sunk or put out of action. More than 4000 Russian sailors died, 7300 and three admirals went into shank. Japan lost three torpedo boats and 116 men.

In view of this defeat accepted the Zar like the Meiji emperor - Japan had financially taken over itself - the offer of mediation of the USA, which led on 5 September 1905 to the peace of Portsmouth (the USA). Japan received Manchuria, haven Arthur and Korea as spheres of influence. Thus it had become as the first asiatic nation a world-political factor. Peter Dittmar

Articles appeared at the Fr, 27 May 2005

86とはずがたり:2005/06/05(日) 03:28:16
歴史教科書 扶桑社版の誤り指摘
高嶋琉球大教授 「沖縄戦など5カ所」
http://mytown.asahi.com/ehime/news02.asp?kiji=4926

 歴史教科書の問題に取り組んでいる琉球大学教育学部の高嶋伸欣教授が3日、県庁で会見し、県内の県立中学校などで使用されている扶桑社版の歴史教科書について、「記述の誤りが14カ所あり、(今春の検定に通った) 改訂版でも5カ所残っている」 と指摘した。また、今夏の中学校教科書採択に向けて「慎重に教科書を選んでほしい」 と訴えた。

 高嶋教授は教科書問題について講演するために来県し、これに先だって会見した。 沖縄の視点を採り入れた公民の教科書づくりに取り組んでいるほか、扶桑社版教科書の内容に反対する講演活動などをしている。

 高嶋教授は、扶桑社版の歴史教科書には 「太平洋戦争での沖縄戦の開始時期を45年4月と記述しているが、実際には3月下旬から始まっている」 など誤りが14カ所あると指摘。 02年に同社に対して指摘したが、今でも直っていないという。

 今夏の教科書採択の対象となる改訂版でも 「沖縄戦の記述などに誤りが5カ所残っており、扶桑社の教科書づくりに対する姿勢が問われる」と話した。同社の公民教科書(改訂版) についても「改憲が当然のテーマとして記述されている」 と、問題点を述べた。

 そして、「愛媛では誤った記述がある教科書で子供たちが学んでいる。 これは教科書を採択した社会の責任だ」 と訴えた。 高嶋教授は4日に県美術館(松山市堀之内) で、5日は歴史文化博物館(西予市) で講演する。

 一方、扶桑社版歴史教科書の執筆者の一人である拓殖大学の藤岡信勝教授や俳優で前衆院議員の森田健作氏が講演する 「歴史教科書シンポジウム」 (教科書を改める愛媛1000人委員会主催) が5日、県民文化会館(松山市道後町2丁目) で開かれる。
(6/4)

87とはずがたり:2005/06/05(日) 11:32:36
またぞろなんか言い出したぞ。。
どーでもいいけど「自由主義史観」って名前は不正確なんじゃないの?

「集団自決強要は虚構」 自由主義史観研
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050605-00000007-ryu-oki

[東京] 新しい歴史教科書をつくる会副会長の藤岡信勝拓殖大学教授が代表を務める自由主義史観研究会は4日、都内で緊急集会「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」を開催。5月下旬に座間味村、渡嘉敷村で実施した聞き取り調査などを基に「旧日本軍による集団自決の強要は虚構」として、教科書・教材から削除を求める決議を採択した。

 決議は(1)文科省に教科書検定方針を改め、「集団自決強要」の記述を削除する指導を求める(2)教科書会社やその他の出版社に、教科書や教師用指導書、副読本などから記述削除を求める―といった内容。
 藤岡代表は座間味村で海上挺進隊第一戦隊の梅澤裕隊長(当時)の伝令の役目をした男性、渡嘉敷村の集団自決で生き残った男性ら3人の証言をビデオにまとめて紹介し、「今回の調査で自決が強要されていないことが明らかになった」とまとめた。
 さらに「戦争の悲劇は忘れてはいけない。肉親の中で最も弱い者から殺された事件の重さに比べて、軍命は一割の比重かもしれない。しかし、自決を軍命とするのは、旧軍のみならず日本人、日本国に対する侮辱だ」と語り、聴衆に賛同を呼び掛けた。
 集会では横浜市内の中学校に勤める服部剛教諭が集団自決は軍命ではないとする考え方を導く、模擬授業を再現した。
(琉球新報) - 6月5日11時17分更新

88とはずがたり:2005/06/20(月) 17:50:08
国際法上は東京大空襲も原爆投下も明白な違反だよな。
日本が生産能力の85%を破壊されてもまだ戦い続ける狂った状態にあっとしてもだ。
勿論操縦士にも航法士にも何の責任も罪も無かろうが英雄でも無いことは確かだな。

広島原爆:
投下機の元航法士「自分の仕事をしただけ」
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050620k0000e040076000c.html

[オークリッジ(米テネシー州)國枝すみれ] 広島に原爆を投下したB29型爆撃機「エノラ・ゲイ」の元航法士、セオドア・バン・カークさん(84)は19日までに、毎日新聞との単独会見に応じた。「原爆は戦争終結を早め、多くの命を救った」と持論を繰り返す一方、「核兵器廃絶が理想だ」と話した。

 ジョージア州ストーンマウンテン在住で引退生活を送るバン・カークさんは、オークリッジで開かれた原爆開発計画「マンハッタン・プロジェクト」60周年記念行事に招かれていた。戦後60年たち、エノラ・ゲイの乗組員12人のうち、現在まで生存しているメンバーは、バン・カークさんを含め3人に減っている。

 −−原爆投下の瞬間の気持ちは。

 ◆うまくいった、よかった、と思った。不発だったらと心配した。爆弾を投下し、爆発した。作戦は成功だ。マンハッタン・プロジェクト全体も成功だと思った。これで戦争が終結する、少なくとも終戦が早まると思った。5年間の従軍で、戦いに疲れきっていた。家に帰りたかった。我々はみなプロの兵士集団というより、むしろ軍服を着た民間人だった。

 −−60年たって、同じ気持ちですか。

 ◆全く同じだ。変わりない。

−−原爆投下は必要なかったのでは。

 ◆原爆投下前の段階で、日本の生産能力の85%は破壊されていた。論理的な人間ならずっと前の段階で降伏していたはずだが、日本は最後まで戦うと主張し続け、多くの人々が連日死んでいた。日本本土への侵攻作戦が実施されていたらもっと犠牲は増えた。私は真実を知っている。原爆は戦争終結を早め、多くの命を救った。疑いの余地はない。

 −−核兵器についてどう思いますか。

 ◆核兵器は廃絶されるべきだと思う。誰もが核兵器を持っていない状態が最も理想だと思うが、もし他国が核を持っていたら、米国はそれより1つ多くの核を持っているべきなのだ。

 −−米国ではエノラ・ゲイの搭乗員を英雄視する向きもあります。

 ◆私の仕事は単に(太平洋西部の)テニアン島から広島に飛行機を飛ばし、爆弾を落とし、旋回して家に帰っただけ。自分を英雄だとは思わない。第二次大戦に参加した兵士は全員がそれぞれの役割を果たし、私も自分の仕事をしただけだ。
毎日新聞 2005年6月20日 15時00分

89とはずがたり:2005/06/23(木) 11:48:45
時効はないみたいですが収監されるとも限らないんですね。
ナチスもひどい事してたんだなぁと思いますが日本の三光作戦の実体と比べてどうなんでしょうかね?>村民560人の虐殺事件
更にはアメリカの空襲や原爆なども非戦闘員への無差別攻撃であって国際法違反である。新型爆弾に関しては知らないが空襲に関しては戦争中に日本政府はアメリカに抗議している。
勿論ソ連は日ソ中立条約の規定を破って参戦した上にシベリア抑留で日本兵は辛酸を舐めた。
我々は当時の気の狂った列強の行動をきちんと後世に伝えて行かねばなるまい。

61年前の村民虐殺で終身刑 元ナチス親衛隊10人
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20050623/20050623a3740.html
2005年 6月23日 (木) 08:45

[ローマ23日共同] イタリア・ラスペチアの軍事法廷は22日、1944年8月12日にトスカーナ州で起きたナチス親衛隊(SS)による村民560人の虐殺事件で、元隊員10人に終身刑を言い渡した。被告はいずれも80歳以上でドイツ在住。高齢のためもあって裁判には出廷せず、収監されるかどうかも未定。

長年ローマで埋もれていた関連書類が発見されて実行犯が判明したため、トスカーナ州など5団体が訴えを起こし、昨年4月に裁判が始まった。

判決によると、被告らは同州サンターナ・ディ・スタゼマ村で、農民などで組織された非正規軍であるパルチザンの隠れ家を教えるよう教会の司祭に要求。司祭が「パルチザンはいない」と答えると、村民のほぼ全員、560人を射殺しガソリンをかけて燃やした。10歳以下の子ども72人が含まれ、腹を割かれた妊婦もいたという。

90とはずがたり:2005/07/30(土) 04:42:36
宮脇(俺が宮脇と云ったら俊三の事である)の親爺さんは長吉という元軍人ながら軍部の増長を快く思ってなかったようだ。
黙れ事件という事件のの当事者だったらしい。
また宮脇の奥さんは彫刻家で離婚したらしい。本に出てくる奥さんは再婚相手か?二人ぐらい娘が居たと思ったがどっちとの子だ?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E9%95%B7%E5%90%89
宮脇長吉(みやわきちょうきち 1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の軍人・政治家。紀行作家宮脇俊三(1926年 - 2003年)の父。

香川県の農家の四男として産まれる。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家三土忠造(漢学者だった三土家の養子と
なった)、内務官僚として埼玉県や千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想し
た)がおり、地元では優秀な兄弟として知られていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E4%BF%8A%E4%B8%89
http://hamayan.livedoor.biz/archives/10775031.html
帝国議会「黙れ事件」
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/rare/rare-army-satoh.htm

Wikiの説明はなかなかつぼを心得てるね。宮脇の文章に慣れたら植村なんて不味くてとても読めたもんじゃねぇ。。
>地理や歴史の深い教養に裏打ちされた簡潔かつ格調高い文章、軽妙なユーモアにあふれた文章を書くことで知られる。熱心な鉄道ファンであ
りながら、鉄道ファン特有の嫌味さがほとんど無い飄々とした文体は多くの人々に受け入れられ、鉄道ファン以外にも多くのファンが存在す
る。「鉄道紀行」を文学の一ジャンルにまでした、と評されることもある(しかし、「鉄道紀行文学」で宮脇並みのレベルの作品を生んでいる
人物はその後誰もいない、とも言われている)。

91杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2005/12/17(土) 14:01:32
授業で「赤紙」配布 戦争拒んだ生徒に「非国民」 福岡
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1116734086/129

92とはずがたり:2006/01/07(土) 10:24:23
スクリュー音聞き分け 12歳“軍人”死と直面
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601060019.html
2006年01月06日

 「戦艦大和の犠牲のおかげで生き残った」。小学校を卒業したばかりで軍の極秘訓練を受け、12歳で戦争に投じられることを運命づけられた旧海軍「少年研究生」の一人は、自らの生還の経緯をそう振り返った。六十数年前の少年たちは、10代の大半を死と向き合いながら生きていた。

 「機雷学校少年研究生(給仕)」。神奈川県横須賀市に住む榊原勇さん(78)の海軍時代の履歴表には実態を隠すためか、したこともない「給仕」が加えられている。

 「海軍が研究生を募集するらしい。詳しくはわからんが、勉強もできるし手当も出るようだ」

 66年前、小学6年の2学期。担任教師の言葉は、経済的に余裕がなかった榊原さんには魅力的だった。2年の「研究」の後、高校や大学へ進学する夢もふくらんだ。

 現在の同市田浦町にあった海軍水雷学校で試験を受けた。合格した榊原さんら15人は翌春から、研究生と教官らしか出入りを許されない同校の木造2階建ての建物で生活し、訓練を受けた。

 2階の講堂にはピアノと、米国で発明されたばかりで当時の日本では非常に珍しかった電子オルガン。教官の軍人がそれらを弾き、少年たちに音階を答えさせた。

 「わからねえのか、これが。でくのぼうっ」。元研究生の一人、同市佐原1丁目の三上金次さん(78)は、答えられない研究生への教官の怒声を、よく覚えている。

 訓練はしだいに実践的になった。ビルの屋上から電車の音を聞いて音符で再現したり、録音した米海軍の空母や潜水艦のスクリュー音を聞き分けたり。榊原さんは「実験動物に対する過酷なテストのようだった。訓練の目的も、だんだん分かってきた。『訓練に大金が投じられている』とも聞かされ、軍人を目指さざるをえなくなった」と語る。

 少年水中測的兵となった研究生らは、太平洋戦争末期に海へ出た。榊原さんの乗った巡洋艦は、米軍の機雷で封鎖された北陸沖の海を強行突破。爆沈を免れた直後の45年春、絶体絶命の命令が下った。

 「米軍が上陸した沖縄に水上特攻する」

 榊原さんは死を覚悟したが、間もなく特攻は中止に。先に出撃した戦艦大和が途中で撃沈されたためだった。別の駆逐艦で沖縄に向かうはずだった同市上町4丁目の元研究生、高橋豊さん(78)は「大和の犠牲がなかったら、今ごろ私たちも海の底だった。助かったのは奇跡的だ」と話す。

 元研究生のうち2人は、台湾に向かう途中で船が撃沈されるなどして帰らぬ人となった。

93杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/01/11(水) 18:22:40
この辺りは興味深いですねぇ。現在の女性運動にも通じるところがあるか!?>「金銭感覚の違いなどから次第に違和感を覚えていった」

東条内閣蔵相と市川房枝氏の証言を公開へ 国会図書館
http://www.asahi.com/national/update/0110/TKY200601100390.html
2006年01月11日14時24分

 日米開戦時に東条内閣の蔵相を務めた故・賀屋興宣(かや・おきのり)氏と婦人参政権運動の最前線で活躍した故・市川房枝氏の証言の録音テープと速記録が、13日から国立国会図書館の憲政資料室で公開される。

 賀屋氏は東京裁判でA級戦犯として終身刑を受けたが、10年間の服役後に仮釈放されて政界に復帰。その後、法相や自民党政調会長などを務めた。

 自らの戦争責任について「当時の閣僚で、事実上の開戦・和平の決定機関であった大本営政府連絡会議のメンバーでもあり、日本人として最も重大な責任を感ずべき一人だ」と言及。東京裁判については「侵略戦争を罰するという国際法の概念がない中で、事後法による戦争裁判は不当きわまりない」と不満を述べつつも、「苦痛をなめた多数の日本人に対する道義的責任はあり、巣鴨に収監されることには納得していた」と語っていた。

 市川氏は、日本で最初の女性運動団体「新婦人協会」の結成から解散に至る苦労話に触れて、「一癖も二癖もある人が多くて、団体としてまとまって活動していくのが難しかった」などと述懐した。同協会を一緒に作った女性運動家の故・平塚らいてう氏についても、「金銭感覚の違いなどから次第に違和感を覚えていった」と話している。

 今回の証言は、現代日本政治史上、重要な役割を果たした10人を対象に、国会図書館が聞き取りをしたものの一つ。

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94小説吉田学校読者:2006/01/14(土) 12:18:44
>>92
音感で敵味方のスクリュー音って聞き分けられるんでしょうか?
昔は内燃機関も騒音でしたが・・・・
>>93
市川は、奥むめをの悪口も言ってるんでしょうか?祈全文テープ起こし。


それはそれ。
この「文芸春秋」記事、私も読みましたが、ただの観光記事でありました。元捕虜の怒りも当然。
でもなんで、ユダヤ人団体が?
あと、読売のロサンゼルス駐在記者の記事の悪文ぶりも酷い。「当地」ってロス?アリゾナ?紀尾井町?バターン?
なんで、上段では「月刊『文芸春秋』」なのに下段は「月刊誌『マルコポーロ』」
(「月刊文芸春秋」なんて雑誌はないぞ、あるのは「文芸春秋」)

「バターン死の行進」記事、ユダヤ人団体が文春に抗議
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060114i504.htm?from=main5

【ロサンゼルス=古沢由紀子】日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」についての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」として、ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は13日、当地で抗議の記者会見を開き、文春側に元捕虜らへの謝罪を求めた。
 記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。ジャーナリストの笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。
 行進を体験した元米兵でアリゾナ州立大名誉教授のレスター・テニーさん(86)は、文春側に抗議文を送付。会見で、「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」と批判した。
 同誌編集部は「抗議文などを見ておらず、現段階ではコメントできない」としている。
 同センターは1995年、文芸春秋社の月刊誌「マルコポーロ」の「ナチスのガス室はなかった」とする記事に抗議し、同誌は廃刊になった経緯がある。
(2006年1月14日11時3分 読売新聞)

95杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/03/01(水) 21:54:07
ちなみに「平和荘」はこちら → http://www.linkclub.or.jp/~k-nomura/retro/sumida/RIMG0513.jpg

大空襲の証人、取り壊し 東京のアパート平和荘
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060301/eve_____sya_____009.shtml

 一九四五年三月十日未明の東京大空襲で焼け野原となった東京都墨田区で、奇跡的に戦禍を逃れた鉄筋二階建ての建物が今春、取り壊される。空襲前は税務署だった建物に家を失った人々が住み始め、戦災被害者の願いが込められて「平和荘」と名付けられたアパートだ。

 建物を管理する財務省関東財務局東京財務事務所によると、二八年に建てられた。保存されている四一年の地図には、両国橋税務署と記録されている。

 鉄筋づくりで、当時としてはよい建物だった。戦中戦後の混乱で人々が逃げ込みアパートとして使われ始めたため、税務署は移転したとみられる。

 取り壊しのきっかけとなったのは、昨年十二月三十一日夜の火事。住民六人のうち二人が軽傷を負った。半焼だったが倒壊の危険があるため、住民らは親族に身を寄せたり、区の住宅に移り住んだりした。財務局は、今春にも建物を取り壊し更地にし、入札する予定という。

 火事で別のアパートに移った川崎忠雄さん(64)は、自宅を空襲で焼き払われ、たどり着いたのが平和荘だった。当時は三歳ぐらいだが記憶は鮮明だ。「荷車に家財道具を載せ小岩(江戸川区)から歩いてきた」。一面の焼け野原を父親が荷車を引っ張り、母親が後ろから押した。

 入居時には同じような境遇の家族五、六世帯が生活していた。その後、二、三十世帯に増えたが、東京五輪があった六四年ごろから公営住宅へ転出する人が増えた。周りに高層マンションが建ち始め、屋上から見えた隅田川の花火は、今はもう見えない。「取り壊しはやっぱり切ないね。六十年も住むと愛着が出る」と寂しそうだ。

 知人が住んでいたという東京空襲犠牲者遺族会の事務局長星野弘さん(75)も「保存して空襲の記念の場所にしたい、と言っていたのだが」と残念がっている。

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96杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/03/22(水) 16:16:17
偏っているのは被爆者の発言を偏っていると非難する学校教育の現場の方では?

「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋
http://www.asahi.com/national/update/0322/TKY200603220146.html
2006年03月22日12時52分

 長崎市の外郭団体・長崎平和推進協会(推進協)が証言活動をする被爆者に「政治的発言」の自粛を求め、波紋が広がっている。関係者は「言論の自由の侵害だ」と方針撤回を求めるが、推進協は拒んだままだ。

 1枚の文書が発端だった。タイトルは「より良い『被爆体験講話』を行うために」。推進協が1月20日、継承部会に所属する被爆者29人を集めた総会で手渡した。

 「意見が分かれる政治的問題についての発言は慎んでいただきたい」と記し、具体例として(1)天皇の戦争責任(2)憲法(9条等)の改正(3)イラクへの自衛隊派遣(4)有事法制(5)原子力発電(6)歴史教育・靖国神社(7)環境・人権など他領域の問題(8)一般に不確定な内容の発言(劣化ウラン弾問題など)の順で示している。

 危機感を抱いた被爆者らがつくった「被爆体験の継承を考える市民の会」は今月13日、推進協に方針の撤回を求めた。

 代表の舟越耿一(ふなこえ・こういち)長崎大教授(60)は「原爆は戦争という時代の中で落とされた。いま日本は戦争への準備を始め、核戦争の脅威も迫る。『政治』を抜きに語れない」。8項目を選んだ理由も不透明だと指摘する。

 推進協によると、以前から被爆者の証言について「話が聞きにくい」「主張が偏っている」という声が、学校などから寄せられていた。丸田徹事務局長(60)は「このままでは話を聞いてもらえなくなるし、中立性を保つことが必要だと考えた。文書は撤回しない」と話す。

 推進協は83年、原水爆禁止運動の分裂をきっかけに官民一体の幅広い組織を目指して生まれた。政治的に意見が違っても、核兵器の廃絶と平和の実現という「最大公約数」で団結しよう。今回の要請はその方針の再確認が狙いだったという。

 だが、推進協の設立に深くかかわった前長崎市長の本島等さん(84)は「一つの価値観への忠誠を強いて戦争へと突き進んだかつての道が現れた」と危機感を示す。

 88年12月に市議会で「(昭和)天皇の戦争責任はあると思う」と発言。90年1月、右翼団体のメンバーに市庁舎前で銃撃されて胸に重傷を負った。「民主主義は少数の意見も尊重し、議論を交わせること。社会全体が言論の自由を軽視するようになるのは心細く、寂しい」

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97とはずがたり:2006/03/25(土) 03:18:39

杉原氏の「懲戒処分なし」 政府、答弁書で表明
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/seiji/20060324/20060324a1490.html
2006年 3月24日 (金) 18:42

 政府は24日、ナチス・ドイツに追われたユダヤ人難民に日本通過査証(ビザ)を発給して約6000人を救い、「日本のシンドラー」と呼ばれた元外交官の故杉原千畝氏に関し、「定説」だった外務省による懲戒処分はなかったことを明らかにした。同日の閣議で決定した鈴木宗男衆院議員の質問主意書に対する答弁書で示した。

1940年に在リトアニアの領事代理だった杉原氏は、殺到するユダヤ人難民に独断でビザを大量発給。このため47年の帰国後、訓令違反として処分を受け退職に追い込まれたとされていた。

これについて答弁書は「(外務省の)指示要件を満たさない者にも発給した」と「違反」があったことは認めた。ただ外務省の保管文書で確認できる範囲では「懲戒処分が行われた事実はない」とした。

98とはずがたり:2006/03/25(土) 11:51:57
日中和平探った近衛文麿の自筆23枚、鏡台引き出しに
http://www.asahi.com/politics/update/0325/004.html
2006年03月25日08時02分

鏡台の鏡と台の間に引き出しがあり、その中に終戦工作の記録が隠されていた=東京都港区で

 太平洋戦争の末期、近衛文麿元首相(1891〜1945)が中国の蒋介石政権との間で和平交渉を模索したことを示す資料が見つかった。近衛が書き写し、家族の鏡台に隠していたもので、交渉の可能性を探るため北京で行われた会談の内容などが記録されていた。

 近衛の娘の山本斐子(あやこ)さん(74)が、昨年秋に発見した。母の縫子さんが使っていた三面鏡の、鏡と化粧台の間に外からは分からないように作られた引き出しに隠されていた。便箋(びんせん)23枚に万年筆で書かれていた。斐子さんら家族によれば、すべて近衛の筆跡だという。

 近衛家に伝わる文書類などの保存にかかわってきた東郷神社(東京都渋谷区)宮司の松橋暉男さんらが解読した。その結果、北京にあった燕京大のレイトン・スチュアート学長を仲介役にして、蒋介石政権と和平交渉ができないかを模索した記録とわかった。内訳は、スチュアートから近衛への手紙の訳文など39年のものが2点、近衛の側近がスチュアートの秘書と会談した45年5月の記録が2点。スチュアートはルーズベルト米大統領、蒋介石と親しいことで知られていた。

 45年5月の2点は、会談の内容が一問一答の形で記録されていた。「和平問題に蒋介石は自由に対応できるのか」と日本側が尋ねると、「直接全面和平は希望するところだが、日中和平は対米関係とは切り離せない」との回答。「中国を圧迫、侵略する必要も力も日本にはもうない。疑うのをやめてほしい」と日本側が話すと、「その通り。戦争をやめよう」と答えていた。

 戸部良一・防衛大学校教授(政治外交史)によると、交渉の存在は知られていたが、内容が明らかになったのは初めて。スチュアートは日本軍に拘禁されていたため、日本側が接触できたのは45年8月11日になってだった。すでに手遅れで、スチュアートにできたのはポツダム宣言の受諾を勧めることだけだったという。

 敗色が濃厚になった45年、軍部は終戦工作に警戒を強めていた。近衛が隠し場所を探していたので、鏡台のからくりを教えると、とても喜んだことを斐子さんは母から聞いていた。「憲兵隊の家宅捜索などに備えたのだろう」と斐子さんは思っている。

 発見された記録は松橋さんらが「近衛文麿『六月終戦』のシナリオ」(毎日ワンズ)としてまとめ、来月4日に出版される。

99小説吉田学校読者:2006/03/26(日) 06:53:13
蒋介石について「(日本にとって)忘恩の裏切り者」とか何だかんだ言っている人もいますが、
この記事読むと、満州事変の後には抗日戦は念頭にあったんだなと思う。国土統一に並々ならぬ野望が見てとれる。
北伐→国共→抗日というのが蒋介石のプランだったのではないかと私見。

「雪恥」対日戦へ決意の文…蒋介石日記、米大で初公開
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060325it05.htm

【パロアルト(米カリフォルニア州)=古沢由紀子】毛沢東と並ぶ現代中国の指導者、蒋介石(1887〜1975)が長年にわたってつづった日記の原本が24日、当地のスタンフォード大フーバー研究所で、初公開された。
 日中戦争の導火線となった満州事変(1931年)をめぐる心情や、当時の中国の最高実力者としての本音などがつづられており、中国近現代史や日中関係史の第一級資料として注目される。これまで台湾の研究者が日記の写しから一部を抜粋、引用してきたが、蒋介石自筆の原本が公開されるのは初めて。
 蒋介石が1917年から、75年に台湾で死去するまでつけていた日記は昨年、遺族から、台湾研究で知られる同大に寄託された。歴史資料としての価値が高いとして、大学が遺族に公開を要請したという。
 この日は、原本の一部が国民党関係者や研究者、報道陣に公開された。
 公開された日記は原本とコピーの計5日分。満州事変の約3週間後の10月7日の日記は、「雪恥」(恥辱をぬぐい去る)という2文字から書き始めている。「(対日関係は)戦争の勝敗にあるわけではなく、民族精神の消長と国家の存亡にある」「私が持っているのは、良心、人格、そして革命の精神主義だけだ」「もしも倭寇(わこう)(日本)が、わが政府を追いつめて、わが民族の独立と存続の余地をなくそうとするならば、もはや、勝敗や利益を考えている場合ではなく、自ら犠牲によって、国家の格を示し、民族精神を発揚しなければならない」などと記され、対日戦に向け徐々に決意を固める様子がにじんでいる。

100杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/04/01(土) 20:05:23
この種のリサイクルって結構昔から行われてたんですね。

明治期のレール大量発見、大阪三越の解体現場から
http://www.asahi.com/national/update/0401/OSK200604010053.html
2006年04月01日19時41分

 昨年5月に閉店した旧三越大阪店(大阪市中央区高麗橋)の解体現場から、明治時代に近畿一円の鉄道で使われたレール約500本が見つかった。1917(大正6)年に完成した7階建ての同店の建築時に、古レールを鉄筋として再利用したとみられる。日本最古で現存例が少ない「幻のレール」も数多く見つかり、各地の博物館や研究者から引っ張りだこになっている。(四倉幹木)

 大阪・北浜の堺筋に面した約1300平方メートルの敷地地下で、解体工事を進める長谷工コーポレーション(東京)によって発見された。

 同店は、れんが製土台に載せられた高さ約3メートルの鉄筋コンクリート製の基礎柱が、建物の骨組みとなる鉄骨を支える構造になっていた。基礎柱は全部で19柱あった。

 解体の技術顧問を務める柴山建築研究所(大津市)の高嶋三郎さんが調べたところ、それぞれのれんが土台の下にレール14本ほどが格子状に敷かれていたほか、基礎柱の鉄筋としても1柱当たり8〜10本が使われていた。レールの長さは2.5〜3.5メートルだった。

 さらにレールの刻印から約100本の製造者や製造時期が判明。大半が19世紀末の英、米、独などの外国製だが、20世紀初年に九州の官営製鉄所(後の八幡製鉄所)で生産されたものもあった。後に東海道線となる官設鉄道や旧山陽鉄道、旧関西(かんせい)鉄道など、近畿各地で明治期に開業した7路線以上の鉄道で使われたものらしい。

 三越の建設当時は鉄が貴重で高価だった時代。古レールは強度が高いため、三越でもすり減った古レールを集めて建築用に転用したとみられる。

 発見されたレールの3割ほどは、1870年代前半に英国でつくられた「双頭レール」だった。断面が上下同じ形のI字形で、一方が摩耗したら上下を逆さにして使う珍しい形状。双頭レールに詳しい「新日化環境エンジニアリング」(北九州市)の大石徹さんによると、初期のごく一部の鉄道にしか使われなかった「幻のレール」で、「こんなに大量に見つかる例はまれだ」という。

 このうち最も古いものは1870年製。1872年に日本で最初に営業運転した東京の新橋―横浜間か、続く74年開通の大阪―神戸間で使われたものに違いないという。

 レールはすでに交通科学博物館(大阪市港区)や八幡製鉄所の跡地にできる北九州産業技術博物館(北九州市八幡東区)=仮称・07年春開館予定=、日本工業大学工業技術博物館(埼玉県宮代町)などに贈られた。また、基礎柱1体も先月から大阪市立大学杉本キャンパス(大阪市住吉区)に展示されている。

 交通科学博物館の高井洋文課長は「諸外国製や国産の非常に早い時期のレールがそろっていて鉄道や製鉄技術の変遷をたどるのに十分な史料だ。詳しく調べたうえで公開したい」としている。

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101杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/05/14(日) 22:07:21
かの金大中も、李承晩の独立運動家としての功績を認めながらも後年親日派を登用し独裁政治に陥ったことを批判しているんですよね。こうした論争ができるようになった分だけ韓国も"戦後"が終わったということなんですかね。

李承晩をめぐる韓国学界の熱い論争
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/04/30/20060430000031.html

 現在韓国で巻き起こっている保守・進歩間で繰り広げられている論争は、より具体的に考察すると初代大統領、李承晩(イ・スンマン)をめぐるものといえる。特に昨年は「李承晩研究ブーム」が起こったという点で、その傾向は顕著だ。直接的な論争にはなっていないが、互いに違った立場から膨大な量の研究書を通じて論争を繰り広げている。

 まず左派進歩陣営の徐仲錫(ソ・ジュンソク)成均館大教授が昨年2月に『李承晩の政治イデオロギー』(歴史批評社)を出版した。左右合作路線を支持する徐教授は、李承晩の政治イデオロギーは当時の安浩相(アン・ホサン)文教部長官が主張した「一民主義」だとし、それはファシズムに似たものだとの自説を展開した。徐教授は李承晩の路線を「反共極右独裁」だったと評価している。

 昨年6月には呂運亨(ヨ・ウンヒョン)研究を専門とする木浦大の鄭炳俊(チョン・ビョンジュン)教授が、中間左派的な立場から李承晩を批判的に考察した『ウナム・李承晩研究』(歴史批評社)を出版した。これは徐教授の研究より実証的な分析が際立っていると評価されている。

 また西江大社会科学研究所のキム・スジャ研究員は、昨年9月に韓国建国当時の李承晩の政治姿勢を批判的に分析した『李承晩政権初期の権力基盤研究』(キョンイン文化社)を出版した。興味深いのは、李承晩を批判する側の理念的な傾向は左派で、みな韓国史学を専攻している点だ。

 これらに対する反撃は10月、元老政治学者の李庭植(イ・ジョンシク)慶煕大客員教授から始まった。李教授は長年の研究成果をもとに、『李承晩の旧韓末改革運動』(培材大出版部)を出版した。近代思想を率先して受け入れた改革派の政治家として李承晩を考察したものだ。南時旭(ナム・シウク)教授の研究は、李承晩に関する研究書という形ではないが、李承晩が「開化派第3世代」の代表的な人物であり、「韓国右翼保守勢力の始祖」という点を思想家的に立証したという点で、いわゆる「李承晩論争」の域を脱していない。

 2004年に出版されたが、日本統治時代の李承晩を考察した浦項工大の高珽休(コ・ジョンヒュ)教授の『李承晩と韓国独立運動』(延世大出版部)と、釜山の政治運動を新たに分析したジャーナリストのチョ・ヨンジュン氏の著書『大統領の無血革命』(ナナム)も、右派陣営の貴重な研究成果だ。ジャーナリスト出身の孫世一(ソン・セイル)氏が『月刊朝鮮』に5年間連載している「李承晩と金九」も、全9巻で出版が予定されている。

 李承晩体制をナポレオン体制と比較した論文で学位を取得した成均館大の金一榮(キム・イルヨン)教授(政治学)は、「現在の韓国政治勢力の大部分が民族主義から左右に分かれた時に生じた陣営に起源を発しているため、李承晩を取り巻く論争が激化している」とし、「これまでの実証的な研究もある程度終息しているため、今後は本格的な論争が起こるだろう」と見ている。

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102小説吉田学校読者:2006/05/14(日) 22:34:31
>>101
金大中は、日韓人脈に対する批判は凄かったですね。反共の下に、李承晩政権と日本右派(岸信介とか)の大同団結は朝鮮半島統一を妨げる、こういう文脈で親日派批判がなされていました。これはこれで一理あると思いますね。

103小説吉田学校読者:2006/05/20(土) 10:39:44
日本政府も辻政信の死亡を検証するくらいの度量が欲しい。

インド最大のミステリー ボース台北事故死の定説覆す
http://www.sankei.co.jp/news/060520/kok006.htm

 【シンガポール=藤本欣也】インドの独立運動の英雄、チャンドラ・ボース。第2次大戦終戦直後に台湾で飛行機事故死したことになっているが、同国の調査委員会はその定説を真っ向から否定する報告書をまとめた。日本で保管されている「遺骨」も「ボースのものではない」と結論付けている。ボースは死なずにどこに行ったのか。60年以上にわたり続くインド最大のミステリーに幕は下りそうもない。
 ボースは1945年8月18日、台北の松山空港で中国・大連に向かう際、搭乗機が離陸に失敗し炎上、全身火だるまになって病院で48歳の生涯を終えたとされる。遺体は台北で荼毘(だび)に付され、遺骨は日本に移送されたというのが定説だ。
 これに対し、1999年に組織された政府の調査委員会は今月17日、報告書を公表。(1)ボースは台北の飛行機事故で死亡しなかった(2)よって日本に保管されている遺骨はボースのものではない−と結論付けた。
 その理由として調査委員会は「しっかりとした状況証拠がある」と説明する。事故があったとされる45年8月18日とその前後に、台北で飛行機事故が発生した記録がないというものだ。調査委員長を務めたムケルジ元最高裁判事は、「台北市長(馬英九氏)と台湾の外交部(外務省)が確認した」とインドのメディアに語っている。
 これまでにも、政府の調査委員会が56年と70年に組織されたが、いずれも医師や事故の生存者の証言をもとに「ボースは台北の飛行機事故で死亡した」と結論付けている。初めて定説を否定した今回の報告書についてインド政府は、「細かく吟味したが、その結論には同意できない」とする異例の意見書を付けて、報告書とともに国会に提出した。今後、国会で論議を呼ぶ可能性もある。
(05/20 01:09)

104杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/05/24(水) 22:52:17
早速壺に屯しているネトウヨどもがファビョってますよ。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1148467283/

「百人斬り競争」訴訟、二審も本社などが勝訴
http://www.asahi.com/national/update/0524/TKY200605240390.html
2006年05月24日20時39分

 旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ名誉を傷つけられた」などと訴えた訴訟の控訴審判決が24日、東京高裁であった。遺族は毎日新聞社、朝日新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者を相手に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めていたが、石川善則裁判長は請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決を支持。遺族の控訴を棄却した。遺族側は上告する方針。

 焦点は「何が真実かをめぐって論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現が、故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害したか」だった。判決は、違法に侵害したと言える前提として「摘示された事実の重要な部分が全くの虚偽であることが必要」との基準を示した。そのうえで、それぞれの記述は全くの虚偽とは言えないと判断。遺族側の主張を退けた。

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105杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/06/08(木) 23:12:18
試しにググってみたら、当の中澤教授のエッセーが「萬晩報」に載ってました。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm

ネットで流行「アインシュタインの予言」、人違い?
http://www.asahi.com/science/news/TKY200606070141.html
2006年06月07日

 アインシュタイン博士が日本をべた褒めしたとされる「アインシュタインの予言」という文章が、ネットや一部の書籍で広まっている。だが実は、博士とはなんの関係もない言葉が孫引きで広まっただけだと、東京大学の中澤英雄教授(ドイツ文学)が主張している。調査でたどり着いたのは、シュタインという法学者の言葉とされていた文章だった。

 「神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」といったくだりがあるこの文章は、多少の相違はあるものの、1950年代から軍人や宗教家の書籍で紹介され始め、最近は日本文化を誇る「ちょっといい言葉」としてネットで引用されることも多くなった。

 だが出典が常にあいまいで、内容も博士の思想とは相いれないのではと疑問を持った中澤教授が、この言葉のルーツを追ってみた。その結果、アインシュタインの言葉として引用されている例として一番古いのは、56年の書籍であることがわかった。

 さらに戦前にさかのぼると、文意がよく似た文章が28(昭和3)年の『日本とは如何なる国ぞ』という本のなかに記されているのが確認できた。著者は、戦時中の日本の国体思想に大きな影響を与え、「八紘一宇」という言葉の提案者である宗教家の田中智学だった。

 ただし、この本では予言を語った人物はローレンツ・フォン・シュタインという明治憲法成立にも大きな影響を与えたドイツ人の法学教授だとされていた。

 中澤教授は、田中智学がこの言葉を知るもととなったシュタインの講義録などにも当たってみたが、該当する文章を見つけることはできなかったという。

 結局、起源はシュタインの言葉でもなく、田中智学が自らの思想をシュタインに寄せて語った文章の可能性が高いと中澤教授は見る。それが孫引きを繰り返されているうちに、どこかで「アイン」がついて、アインシュタインの予言だということにされてしまったらしい。

 中澤教授は「海外からみたらアインシュタインをかたってまで自国の自慢をしたいのかと、逆に日本への冷笑にもつながりかねない事態」と心配し、安易な孫引きにくぎを刺している。

 ■博士の言葉として流布「日本という尊い国に感謝」

 例えば、『世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰(せん)』(ごま書房、2005年)には、アインシュタイン博士の言葉として次のように記されている。

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴(いただ)いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

     ◇

 〈アインシュタイン研究者の板垣良一・東海大教授(物理学史)の話〉 この言葉は、アインシュタインのものではないと断言できる。彼はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、「神」にこだわらない人だった。日記や文献を詳しく調べてきたが、彼が天皇制について述べた記録はない。

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