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哲学・宗教質問箱

1:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?

435あがるま:2010/01/15(金) 04:56:20
認識論は心理学で
存在論は論理学です
バークレー僧正が『存在esseとは知覚されるpercipiことだ』と云つたことはご存知でせう。
存在を『がある存在』DaSeinと『である存在』SoSeinに区別するのは和辻哲郎以来だと思ひますが、それを適用すれば認識論は『である』であり存在論は『がある』になります。
アリストテレス以来の伝統では両者の区別はなく主語(基体)に述語を結合させた命題でもつて事態を端的に表現して居ました。
『存在は本質的に論理的であり、論理は単に主観的な心理現象ではなく、あくまで客観的な実在の表現』です。
ニコライ・ハルトマンはカントの存在論的解釈で『我々の認識が物自体の認識ではないならばそれは認識と云ふ事柄自身に撞着する』と云ふ訳です。
カントが『存在とは実在的な述語ではない』とか『観念論論駁』や『可能性の条件』と云ふのは心理学的解釈を擁護した訳ではありません。

436M.N:2010/01/15(金) 10:48:59
認識論と存在論
お二人に感謝します。ありがとうございました。

437あがるま:2010/01/26(火) 12:46:36
村上靖彦がブロッグで
滞日中のパトチカ(パトチュカ)の1月23日の講演に触れて居る。
彼に特徴的な現出と意味と存在の区別が不明確な『ノエマの現象学』が、フィンクの『自体的に現出する世界遊戯』に由来することは夙に新田義弘が指摘して居るが、クリマとパトチカの仏訳者が同じなのは重大な意味があるのだらう。

438あがるま:2010/01/26(火) 12:50:21
訂正
滞日中なのはプラハカレル大学のカレル・ノヴォトニKarel Novotnyです。
彼もクリマを読んで居るだらうから、今にクリマについても語りだすかも知れない。

439Sekko:2010/01/27(水) 20:08:08
分りませんよ
 エリカは年末ずっとプラハで、学会記録の翻訳チェックをしていたんですが、パトチカの専門家と同室に詰めていて、彼女の発行したクリマの本が書架にあったに関わらず、彼らは全く本の存在すら知らなかったそうです。でも、年末の滞在で、ずっと探していたクリマの文章が一つ見つかったそうで、収穫はあったようです。今この瞬間にクリマに興味を持っているのは、世界でエリカと私とあがるまさんくらいですよ、きっと。エリカはクリマの思想ついてあれこれ考えているのは自分の他は私だけだと言ってましたから。

440あがるま:2010/02/06(土) 22:33:18
クリマ、パトチカ、未知動物、神
このサイトの主催者が亡くなつたことをお聞きし非常に残念です!

<クリマ>は哲学者ではなくて売れないジャーナリスト兼小説家だつた − その小説も(まだ読んで居ないが)ポルノに近いものらしいから、哲学者からは相手にされなかつただらう。

<パトチカ>の履歴を出版社の頁で見て居たら、彼は若い頃デルプフェルト − 外科医のトワルトと同様シュリーマンの協力者で、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿とエレクティオンの間にある旧アテナ神殿跡(今ではDoerpfeld-Fundamentと呼ばれる)の発見者 − に従つて考古学を研究して居たらしい。

<未知動物>
以前史的イエスの研究者のブロッグで文書による史的イエスの研究と一角獣の研究の何処が違ふのか質問した覚えがある、彼が何と答へたか忘れたが、私は同じ様に根拠のないもの − 将来一角獣の骨か化石かイエスの骨が発見された時のためには役立つかもしれないが(とクリプキが云つてた) − と今でも思つて居る。

441あがるま:2010/02/06(土) 22:36:11
クリマ、パトチカ、未知動物、神
このサイトの主催者が亡くなつたことをお聞きし非常に残念です!

<クリマ>は哲学者ではなくて売れないジャーナリスト兼小説家だつた − その小説も(まだ読んで居ないが)ポルノに近いものらしいから、哲学者からは相手にされなかつただらう。

<パトチカ>の履歴を出版社の頁で見て居たら、彼は若い頃デルプフェルト − 外科医のトワルトと同様シュリーマンの協力者で、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿とエレクティオンの間にある旧アテナ神殿跡(今ではDoerpfeld-Fundamentと呼ばれる)の発見者 − に従つて考古学を研究して居たらしい。

<未知動物>
以前、史的イエスの研究者のブロッグで文書による史的イエスの研究と一角獣の研究の何処が違ふのか質問した覚えがある、彼が何と答へたか忘れたが、私は同じ様に根拠のないもの − 将来一角獣の骨か化石かイエスの骨が発見された時のためには役立つかもしれないが(とクリプキが云つてた) − と今でも思つて居る。

442Sekko:2010/02/16(火) 06:46:28
クリマは哲学者として認識されてましたよ。
 クリマの小説には確かにSMやスカトロジーのシーンが出てきますが、彼のソリプシスムと明らかに連動してる哲学小説の面があります。社会主義政権が倒れた後すぐにプラハのある出版社がクリマの小説を他の匿名小説と共にキッチュな小説として出しました。それで誤解を招いているのかもしれません。
 エリカのお勧めは1909年に彼が自分が神であるという啓示を得たときと並行して書かれた『チェコ物語』で彼の父親がモデルになっているようですが、その政治家のインセストシーンなど出てきます。でもその主人公は独我論にたどり着くのです。ストイシズムとマゾヒズムは同根で、神の創造の業はマゾヒズムの一種であり、クリマのソリプシズムも苦しみの中から生まれた、とエリカは言っています。『チェコ物語』は発見されている断片の半分くらいがチェコで出版されていますが、残りはエリカが持っているということです。
私は全集に入っている仏訳の Le Grand Roman を読みかけています。なかなか途方もないものです。

443金太郎とまさかり:2010/03/06(土) 21:17:27
(無題)
はじめまして、金太郎とまさかり、と申します
ハンドルネームで「申します」もないとは思いますが・・・

つい最近になって個人的事情によりキリスト教とものみの塔について調べていた時
竹下さんの「知の教科書 キリスト教」を書店で少し立ち読みしまして印象に残り
今は「カルトか宗教か」を拝読している最中です

著書の中の「人がカルトから離れるとき」の件で「エホバの証人」
と書かれているのですが「ものみの塔=エホバの証人」とはやはりカルトなのでしょうか?

私はものみの塔に関係している人間ではありません
古い知り合いが5,6年前からものみの塔に自ら入信し、活動に参加しています
その事はつい最近知ったのですが
話を聞くと社会生活からどんどん離れていってしまうようで心配でしょうがありません
今の今までものみの塔はカルトっぽいなと思っていましたがよく分からなかったし
とは言え、家族でもない自分のようなものが脱会のすすめなど到底出来ません
出来る事と言えば竹下さんの仰るとおりに自分のささいな日常を一方的にメールしていたくらいです
知人の親御さんは伝道を聞かない代わりに自由にさせているようです、話しを聞いた限りですけど

どうすればいいんでしょうか?
本音としては脱会してもらいたい
でも5,6年も教団の教えや仲間とのつながりの中で生きてきたわけですから
もう知人の血肉の一部になっていると思うんです

ひょっとして竹下さんにご相談する事ではないのかも・・・
もっとしかるべき機関に相談するべきなのでしょう
もう少し時間がたてばひとりでも今よりは冷静に考えられるとは思いますが

不適切な書き込みと思われましたらお手数ですが削除お願いいたします
では失礼いたします

444Sekko:2010/03/07(日) 07:22:16
難しい問題ですね、
 こればかりは万人向けの回答はありませんね。
 私の親戚にも、知り合いにも「エホバの…」信者はいます。日本にもフランスにも。
 私の知っているケースでは、大人の入信はそれなりの心理的社会的理由が想像できて、そのような布教の仕方には異論があるのですが、そのまま何十年も、それなりにいろいろな面で折り合いをつけてやっているようですので、もしも分岐点で他の道を選んでいたらその人にとってもっとよい人生が送れていたのかどうかはなんとも言えません。ただ、家族を巻き込むことでの葛藤は多く、「エホバの…」の家庭でまれて育った子どもたちは、かなりつらいと思います。私の音楽仲間で親友といっていい人物の場合、大騒ぎの末、今は社会的にも私生活的にも自立と平安を得ています。彼の両親も心の底では「神よりも共同体よりも自分の子がかわいい」と思っているらしく、今はなかよくやっていますが、両親がずっとエホバにとどまっている現実は変わらず、一番つらくて心を蝕むのは、仲の良さにおける「偽善性」のようです。裏切りの感覚や罪悪感もそうです。これはもうどうすることもできませんが、たとえそのような問題がなくとも、人はそれぞれ、貧困だとか暴力とか痛みとかいじめとか病気とか障害とか家族の死,事故、などそれぞれの問題をそれぞれの感受性で生きているのですから、特定の宗教だの共同体だのによる「犠牲」だけを特化して糾弾してもしょうがないと思います。全体としては人権や自由や尊厳を侵すようなグループやイデオロギーを批判していき、個別には、理解して寄り添い、その人から疑いや弱さのサインがあった時に見逃さず、変わらぬ信頼を表明するのがいいんではないでしょうか。
 どこかの自治区みたいなところに隔離されて「出家状態」になるようなタイプの共同体なんかよりはかなりましだと思います。
 私は一般的に終末論的な脅しをかけたり恐怖を煽るタイプの宗教が苦手で、アメリカ系の比較的新しいプロテスタントによくあるわけですが、なんで日本のようにキリスト教文化でもない社会にいる人がわざわざそんなものにはまるのかた不思議です。アメリカ文化の受容のヴァリエーションなんでしょうか。
 先頃のハイチの地震の後で、フランスの「エホバ…」グループの医療班がボランティアで現地に入って活躍し感謝されているドキュメンタリー番組を見たんですが、確かにすごく熱心で頭が下がるんですが、その中心にいる医師が堂々と、これは世界の終りの徴しだ、神の怒りだ、悔悛が大事だみたいなことを口にするのです。サイエンxトロジーとか福音派とか、終末論的なカルトとか、もうハイな状態で、被害者をカトリックから改宗させたりしてました。4人の子を失った母とかに、一人残ったのは神のご加護とか言ってるんです。医療施設を回って、片脚切断された女の子に、もう片脚が残ったのを神に感謝しろとか言ってるんです。切断された方のは神罰だとでもいうのでしょうか。
 とにかく、心身の試練にいるさなかの人に宗教勧誘しちゃいけないというのはフランスなどでは法令化しています。子供にも。学校、病院、高齢者施設などの内部や近辺での勧誘禁止です。逆に、公立の病院にはチャペルがついてます。祈りたい人や宗教サービスを受けたい人は使えますが、信者でない人に働きかけることは一切禁止です。マザー・テレサの施設も、奉仕のみでいわゆる布教宣教はありませんでしたね。外部的にはひたすら奉仕だけ、という修道会はたくさんあります。
 でも、つらい時、怖い時、絶望した時に、宗教を求めるのは人の常だし、ハイチでも、とにかく(カトリックだろうと福音派だろうと一応デフォルトがキリスト教なんで)、みんなイエスの名を叫んでいたそうで、そういう表現の手段があるのはいいなと思います。こういう時に、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になる人より、神にすがる人の方が圧倒的に多いのって、そういうタイプの自衛反応をする人間の方が生き残って子孫を残してきたという進化論の自然選択と淘汰の結果なんでしょうか・・・

 でも、痛い人、苦しい人、つらい人が神の名を口にするのはいいけど、救助に来てくれる人、世話をしてくれる人は、心の中で祈っておいてほしい、と私はなんとなく思います。

 あまり答えにはなっていませんが、アメリカ系終末論系の新宗教ヘの対策は、やはり餅は餅屋ということで、キリスト教老舗のプレーンがついているNPOに相談した方が、単なるしろうとの互助組織より信頼できて有効かも、と考えます。お友達の宗教活動が、何らかの個人の危機の解決法だったのか、あるいは「金太郎とまさかり」さんから見て、明らかに世界を狭めてネガティヴに変わったように見えるのか、そのへんもよくお考えください。

445金太郎とまさかり:2010/03/08(月) 00:14:38
(無題)
竹下さん、訳のわからない書き込みに早速お返事頂いて
本当に感謝致します
何度も読み返しています

今日友人ふたりにも話しを聞いてもらい
大分落ち着きました
そのうちのひとりはギリシャ正教やカトリック、プロテスタントに触れてきた人で
やはりものみの塔の事は良く思っていないようです
家族も巻き込むしね、と
竹下さんの仰るとおりに、カルトな宗教から奪還?させるような団体に相談してみたら?とその友人にも言われました
家族でもないのにそんな権利はないと思うとか信仰も古くからの知人の一部になっているから無下に出来ないとか本当にいろいろ話しました

そして話し合った末、当分の自分のスタンスとしては
キリスト教やものみの塔の組織の仕組みなどの知識を増やしつつ
古くからの知人が教団に飽きたり、疑問を持って辞めたりした時に(そうなるかどうかは皆目見当がつきませんが)
受け入れられる体制を作りたいと思います
私が根負けしないように、マイペースで行きたいと思います

今後もこちらのホームページは継続されていくのでしょうか?
何かあればまた寄らせて頂きたい所存です

446迷える大羊:2010/03/10(水) 22:09:36
教会との相性
 まだ、こちらの掲示板は「生きて」いますでしょうか?ワケあってキリスト教の世界に関わって数年。しかし、未だに受洗はしておりません。別にキリスト教とかイエスが嫌いとか賛成していない、というわけではありません、疑問はいろいろありますが・・。

 その理由(受洗)しない理由の一つは、合う教会がないってことがあります。私の経験、見聞の範囲では、老舗の教会、大手の教派というのは理性的。怪しげな要素も私的にアレルギーを催す要素はほとんどないのですが、概して形式的でお役所チックな面が多く、平たくいってしまうと「つまんない」。

 では、活気があって「楽しい」教会ならいいのか、といえば、そういうところは信仰面では恐ろしく保守的な場合が多く、たとえば、他宗教、日本文化に対し妙に排他的(お焼香は絶対できません、とか・・)、聖書を一字一句信じて、疑わない、やたらと神聖視する、とかでちょっとついていけない、と思わされる場合が多々ある。
 特に害がなく楽しければいいんじゃない、という意見もありそうですが、自分の宗教観や考えからあまりにかけ離れているのでは、周囲に合わせるのがつらいところ。

 「現役」のクリスチャンの方はこの辺り、どのように考えていらっしゃるのでしょうね?どこで妥協し、どこで譲らないのか?考えを聞いてみたいところです。

447Sekko:2010/03/11(木) 21:37:50
教会の選び方
 って・・・

 受洗によってある共同体に参加することは、ボランティアグループや趣味の同好会と違うのですからいろいろ比較検討して最適なものを選ぶというコトニハかにらずしもならないと思います。
 まず「出会い」だし、差し出されるものだし。

 また、社交クラブでもないのですから、楽しいとかつまんないとかの基準というのもまずいでしょう。それなら「サービス機関」として魅力的な営業努力をしているところが有利ですが、もうそれだけで、他の人(コミュニティの内外にかわらず)に心を寄せるという精神から離れそうです。

 とりあえずは、身近な教会に、人間として尊敬できて信頼できる先輩か指導者がいるかどうかが大切ではないでしょうか。また、今の迷っている心境を話した時に、真っ先に、他教会を批判したり貶めたり、間違っていると決めつけるような態度に出る人たちがいるの避けた方がいいでしょう。また、今の自分の状況にだけ照らし合わせるのではなく、たとえば将来育てるかもしれない子供たちによりよい世界観を与えてくれるかどうか、困難に出合った時に信頼できるか、とかも視野に入れればどうでしょう。

 それでも、「判断の誤り」はありますし、向こうも人間の集まりですから、カラーが変わったりすることもあるでしょう。今の、そして、今までの大羊さんの誠実な探求の姿勢を見る限り、たとえ、選択を誤っても軌道修正はできると思うし、ほんとうの意味でのキリスト者として成長し続けていかれると思います。

 参考に『自由人イエス』
 http://shop-pauline.jp/?pid=17548299

 をぜひお読みになってください。

 掲示板は不可抗力以外は、今のところ続けます。場所を改める時はここと、ブログでお知らせします。

448marie:2010/03/12(金) 09:14:41
土居健郎氏の場合
「甘えの構造」で有名な土居健郎氏が「信仰と『甘え』」春秋社をだしています。そのなかに学生時代の信仰遍歴が見事に書きだされています。土居先生は最初はプロテスタントでしたが、無教会の矢内原先生の門下生となり、最後にホイベルス神父に出会いカトリツクになります。その過程が「キリスト教と私」に書かれています。また内村鑑三の信仰遍歴の記述も見事です。大羊さんの迷いは「あれか、これか」ですよね。信仰はその二分法が崩れたところから発生します。そこで出会う人が本当に信頼できるかどうか、ここが鍵でしょうね。信頼できれば、飛び込めます。信頼できなければ、まだ遍歴をくりかえすのがいいでしょう。土居先生は遍歴の果てにたどりついたカトリツクから生涯離れることはありませんでした。ホイベルス神父のいう「懐かしき神」に生涯ひかれておられたことが他の本でもよみとれますし、70歳以後、信仰問題をどしどし発表されていますが、「本来の面目」といえるものがそこに脈をうつて、つたわつてきます。
信仰は毎日、しらぬうちに育つもので、その育ちにアツと気がついたとき、貴方は「神の国」にいることでしょう。

449Sekko:2010/03/12(金) 19:49:20
信頼
 marieさん、ありがとうございます。

 私の体験だけで言うと、私の信頼感をそそる人たちは、全然排他的でもなく、「自分の宗教」に私も入信すればいい、と誘うようなことは言われたことがありません。また、私は個人的にあらゆる種類の「勧誘」が好きではないので、誘われると引いてしまうし、信頼感も薄れます。宗教の中には一定の様式の宣教や布教やある種の実践を一般信者にノルマとして課しているものもあり、そういうのも私は苦手です。「信じなければ不幸になる」「信じれば幸せになる」というタイプの説得もいやです。

 しかし、周りのだれも助けてくれない時に、そういうグループだけが手を差し伸べてくれるという状況の人もいるわけで、その問題は大きいと思います。結局、「所属している共同体」に関わりなく、「自分よりも困難な状況にいると思われる人たちが必要としていることを少しでも提供できないか」について各自が意識することが大切なのではないでしょうか。

 何々派はここがよくて何々派はここが悪いとか比較検討し始める時点で、何か本質的なものを見失ってしまうかもしれません。

450迷える大羊:2010/03/13(土) 23:16:24
すみません、よくわかりませんでした
 お相手ありがとうございます。「つまんない」とか「楽しい」というのはちょっと語弊がありましたね。もちろん、同好会などと同等のレベルでそんなことをいったのではなく、なんていったらいいのか、「得るものがあった」という歯ごたえというか、出会いというか、うーん、私の乏しいボキャブラリーではちょっと表現が難しいです。

>最適なものを選ぶというコトニハかにらずしもならないと思います。
 まず「出会い」だし、差し出されるものだし。

 せっかくお答えいただいたのに申し訳ないのですが、この辺りがよくわかりませんでした。そんなものは、それこそ神様が決めること、自分の頭で考えたり、吟味してみるという行為は、神様に対して「無礼」というか、おこがましい行為ってことなのでしょうか?。
 確かに教会でも、職場でも自分の希望とか考えとか要望とかなどと、100%合うところなんてありえないよ、ということ、理屈でどうのこうのいう世界ではないよ、ということくらいはわかりますが・・。

>今の迷っている心境を話した時に、真っ先に、他教会を批判したり貶めたり、間違っていると

 あからさまにそのようなことをする教会とか信徒とかに出会ったことはありませんが、遠回しにはあります。また、身内がクリスチャンってことで、私がクリスチャンになることは当然、そうでないとうまくいかないよ、みたいなことを言われ、反発を覚えたことはありますね。逆効果っていうか、却って意地でもキリスト教など近づかない、少なくともこの教会には関わらない、と思ってしまいました。

 >信頼できる人

 これも、難しいですね。人柄的にはいい人、見習う点も多い人だけど、信仰面ではとてもついていけない、ってことはありました。具体的には、すでに何度かお話しているかと思いますが、他宗教とか日本の風習についてあまりに排他的で、七五三などはもちろん否定、「仏式の葬儀にはなるべく出ないで済むようにする」とか「神社仏閣に行くと気持ち悪くなる」なんて話を聞いたときには、あまりの感覚の違いに頭がクラクラする思いでした。それなら、クリスマス(元はローマの異教の祭り)も止めたら?といいたくなる衝動を抑えるのに苦労したものでした。
 自分は別に仏教や神道とは何の関わりもシンパシーもないのですが、どうにもこういう考えとか感覚にはアレルギーがありますね。

>子供たちによりよい世界観

 私自身、大した世界観なんてもっていませんので、これも考えてしまうところです。ただ、「神社仏閣に入ると気分が悪くなる」みたいな感覚だとか「聖書に書いてあることは絶対正しいんだ、創造説を学校でも教えろ」みたいなことを自分の子供に吹き込まれるのは、頼むから勘弁して、とは思いますね。

 どうも、言われていることが今一つピンと来ず、私にとって、まだ信仰の世界というのはよくわからないもののようです。ところで、世間一般的に宗教とか信仰、というと、「何か不幸に遭ったのか?、つらい目にでも合ったのか?」と思われることが多いし、実際、そういう人の心のスキマにつけ込む怪しげな団体も多々あるのは事実。

 で、私として、実際に信仰を持たれている方にお尋ねしてみたいのは、信仰を持つきっかけとして何か「不幸なこと」に遭われたのですか?ということ。やっぱり、そういう目にでも遭わない限り信仰の世界というものは理解できないものなのかな?と思ったりもしますね。プライバシーにもかかわりますし、聞き方によっては、ある意味失礼かもしれないので、面と向かってはなかなか聞けなかったりするのですが・・。

451Sekko:2010/03/16(火) 09:10:10
こちらこそ
 分かりにくくてすみません。

 確かに、生まれ育った環境で自然に家族や地域の信仰となじみがあればすんなりいくんでしょうが、大人になってから、そういう絆のない宗教と関わるというのは、「自然」ではないのかもしれません。
 若くて元気で人間関係にも金銭的にも物質的にも不自由してない人は、とりあえず宗教とか信仰とか、「必要ない」かもしれません。「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。

 ただ、だれでも、いつまでも若くて元気でいることは不可能ですし、事故、災害、大病を避けられたとしても老いや死は絶対来るわけで、自分だけでなく、親や子や連れ合いを亡くすことだってあるわけです。そういう局面において突然、宗教に勧誘されたりしたら、藁をもすがるって心境になるかもしれないし、病気の治癒に関しても、変な薬や代替医療やあやしい祈りや信心グッズに騙されるかもしれません。そういうことを避けるためにも、元気なうちに危機管理ということで、信頼のおける宗教と冷静に関わっておいて、それを周囲にもそれとなく言っておくのがいいと私は思いますが。

 たとえば両親が交通事故で同時に死んだ場合に、宗教がばらばらだと子供たちが困るだろうからそろえとくとか。別の例で、子供がいつもマジョリティの立場にいるのは教育によくないからあえて日本ではマイノリティなキリスト教のコミュニティに入れたという人もいます。反対に、フランスの日本人で、マイノリティで異文化だということで周囲に溶け込めないのがハンディだからマジョリティのカトリックの洗礼を受けたという人もいます。日本の女性ではやっぱりミッション・スクールに通って影響を受けたという人が多いのではないでしょうか。でも、全然関係ない普通の高校で、文化祭の時に何かの道具を借りに近くの教会に寄って、それが縁でついにシスターになってしまったという方もいらっしゃいます。

 まあ、この話は、内的な信仰の問題と宗教コミュニティの選択の問題が混ざっているので、人生の危機管理として、両方ともに、割り切って考える必要があります。家族代々の宗旨でも、今は共同体が崩れて、葬儀の時は葬儀ビジネスに取り込まれて悲しみに付け込まれて搾取される、ってこともありますし。私は自分の親が、自分たちの信仰は押しつけませんでしたが隠しもせず、葬儀の形とかも全部決めて置いてくれていたので、すごく気が楽でした。見送る方から見て、病気や死に向き合う家族が「信仰があるから」と言ってくれるのって、それこそ救いですよ。

 ただ、大羊さんの問題は、これまでの経緯から想像しますと、奥さまがかなり熱心な共同体活動をしていてそれが生活の一部になっていて、大羊さんが、少なくとも同じ神を信じてくれないと完全に一体化できないというか落ち着かないというか、ということで、プレッシャーがあるのかもしれません。

 でも今の日本では、夫婦が別の宗教でうまくいっているところもいくらでもありますし、片方の宗教が閉鎖的な場合は、バランスをとったり、いざという時の受け皿としてもう一方はアバウトで寛容な共同体を選んでおく、というのがいいかもしれません。そもそも大羊さんが奥さまの宗教に無批判に飛び込むのが可能なタイプであれば、もうとっくに入信して二人で何の疑問もなく熱心に活動してるはずです。これだけいろいろ迷っているということは、「かなり無理」があるんじゃないでしょうか。でも、今大羊さんが、奥さまの宗派から敵とみなされているような宗派に入ってぎくしゃくするか、奥さまが最終的に今の宗派から距離を置いてもらえるか、あるいはいっそギリシャ正教とかロシア正教とかの方が緊張が緩和するとか…今のお二人の信頼関係が宗教についてどういう感じなのかよくわからないので、なんとも言えませんが、とにかく互いに互いを尊重し合えて、譲歩もし合えるのが大切で、支配関係や依存関係にならないように注意しなくてはなりませんよね。愛し合っていっしょになられたお二人の仲を気まずくさせるような神さまなんて意味ない気がします(すみません)。

 少なくとも、家庭内政治判断が困難で迷っている間は無理に決めなくてもいいんじゃないでしょうか。私には、正直言って、今のところ「不幸にも遭わずつらい目にもあってない」大羊さんが「信仰が分からない」というのは、別にそれはそれでいいと思いますが。他の人間とどう関わってどう生きるかのほうが大事ですよ。

452迷える大羊:2010/03/16(火) 22:39:27
またまた、すみません
 いつも、答えづらそうな質問に丁寧に対応いただき恐れ入ります。ちょっと、くどくなるかもしれませんが、キリスト教とか信仰の世界をまったく否定的にみている、なんてことは決してありません。キリスト教にしたって文化とか思想としては大いに肯定しています(本当ですよ)。

 また、「不幸云々〜」などという話を他人事のようにお話しましたが、私だって悩みもあれば劣等感もありますし、人生の上で大失敗、失策も数多くしでかしてますし、自分の力だけで人生を切り開いてきた、なんて自惚れているわけでもありません。
 遠藤周作氏の信仰、キリスト教エッセイ「私にとって神とは」は非常によく理解できましたし、だから、「信仰」に頼る人々の気持ちが100%全くわからないわけではないとは思っていますが・・・。

>病気や死に向き合う家族が「信仰があるから」と言ってくれるのって、それこそ救いですよ。

 ちなみに私の母親はとある仏教系の宗教団体の信徒です。別に彼女は信仰を私に押し付けたりしません。だからこそ、単なる私自身の好き嫌いではなくキリスト教でも、あまりに他宗教への考え方が排他的すぎる教会とか教派は困るのです。

>夫婦が別の宗教でうまくいっているところもいくらでもありますし

 私もそう思うんですが、保守的なキリスト教会とかクリスチャンはそうは思わない、クリスチャンファミリーの形成に熱心な方が多いみたいで、彼女の母教会が所属する団体から、「クリスチャンでない家族を持つ女性へ」(特定の団体についてあれこれいうことが目的ではないので、題名はぼかしてます)なんて本が出てまして・・。要は身内がノン・クリスチャンである、ということは彼らには「試練」らしいんですね。思ったほどには独りよがりな内容ではなかったですが、やっぱりよくわからない感覚で、そんな、家族、夫婦といえど、心の内面まで同じにできるわけないじゃないか、自分に合った信仰を選ぶ(「選ぶ」って不遜ですかね?)より他ないじゃない、というのが私の感想でした。

 実際、私がクリスチャンになったからといって、同じような「信じ方」をするとは限らないし、なまじ同じ神様を信じてる、ということで却ってその「違い」が目についてしょうがない、ってことになりそうな気がしないでも・・。
 実際、私の見聞、独断と偏見ではクリスチャンとかキリスト教徒といっても、「イエスを救い主とする」「使徒信条の内容を肯定する」以外には皆、信仰面でも政治面でも右から左までバラバラ、(非クリスチャンと比較して)特別な要素は何もないと思いますし、皆、クリスチャンになればうまくいくってことなら、世界の三分の一(クリスチャンの世界人口比)は平和で離婚もないってことかい?とシニカルなことを思ってしまいますね。

 あと、もう一つ、ご質問してみたいと思うことに「信仰を持つ」ってことは(神とか聖書とかイエスに対し)「疑う」とか「自分で考える」ってことをやっちゃいかんのかなぁ?ということですね。それこそ、自分の目で冷静に各教会を比較してみたり(別に優劣を比較しているわけではないですよ)、こちらの質問箱でもたびたびしたような、聖書の矛盾点とかトンデモない部分について質問したり(ちなみに彼女はこれやるとイヤな顔、というか「キリスト教批判」と受け取るみたいで、こちらは困惑するのですが・・・)するってことは「神への冒涜」になるんですかね?

 聖書に書かれていることなら(現代の感覚、常識、非クリスチャンからして)どんなに無茶苦茶だったり、奇異に感じられることでも、「これは意味のあること」「誤りなき神のみことば」と信じることが「良き信者」なのですかね?
 なんていったらいいのか、その辺りの感覚も私にはなかなか分からない点でもあります。

453Sekko:2010/03/18(木) 06:56:07
信じること
 信じることとは、何かを字義どおりに刷り込むことではなくて、それによって生き方の変容になるとか世界の見方が変わるとか行動の指針になることだと思うんですよね。変な例えですが、小さい子供がいる家族がクリスマスにサンタクロースがプレゼントをくれると思ってわくわくしているのを見る両親が、サンタクロースなんていないんじゃないか、とか、一家で初詣とかお宮詣りに行く人が、ひょっとしてここに神様なんていないかも、と疑問に思う必要はないと思うんですね。ま、クリスマス禁止とか神社参拝禁止って宗派もありますけど。

 何かを自由意思で信じることによって、自分が他者に対しての公正だとかやさしさだとかに迎えるのなら、真偽なんて優先しないこともありますし、逆に、「何々」を頭から信じるかどうかによって人を裁いたり排除したりするようなシステならは、それはただの「何々」への偶像崇拝じゃないかと私は思います。

 大羊さんが今抵抗を覚えているということは、その「何々」を信じる、認めることが第一義かのようにふるまう人がいるからじゃないでしょうか。

 イエスは、天国に行けるのは洗礼を受けた人だとか自分を信じる者だとか言わず、飢えた人に食べさせ、渇いたいた人に飲ませた人だと行ってるし、何よりも偽善や形式主義を嫌ってたと思います。

 今の時代にキリスト教のドグマをどう考えるかということについて、4月10日発売のカトリック生活5月号で私の考えを書いてますので、チャンスがあればお読みください。

454迷える大羊:2010/03/20(土) 22:21:30
自然が一番ですね
 お忙しいところ恐れ入ります。

>小さい子供がいる家族がクリスマスにサンタクロースがプレゼントをくれると思ってわくわくしているのを見る両親が、サンタクロースなんていないんじゃないか、とか、一家で初詣とかお宮詣りに行く人が、ひょっとしてここに神様なんていないかも、と疑問に思う必要はないと思うんですね

 そういう力の抜けた自然な信仰なら、ああいいよね、と思うんですけどね。お焼香がどうのこうの、という話も別に何が何でも世間一般に合わせろって思ってるわけじゃないですよ。江戸時代の「踏み絵」だとか戦時中の神社参拝みたいに、明らかに信仰を試す意図がある、キリスト教信仰にケチをつける目的があるものなら、そりゃ拒否するのもやむなし、とは思いますよ、私だって。
 でも、そういう意図が全くない、こちら(クリスチャン側)がどう思おうが、あちらは単なる習慣、文化としか思っていないことにまで、やれ異教がどうのこうの、だの偶像崇拝云々なんて感覚はやってられないし、率直にいうとええ加減にしてくれよ、という感想しか湧いてこないです。

>何かを自由意思で信じることによって、自分が他者に対しての公正だとかやさしさだとかに迎えるのなら、

 そうですね、そんな「信仰」が見つけられるといいですね。私の場合は、公正さとか優しさももちろんですが、「強さ」も欲しいです。もちろん、権力とか地位、という意味ではなく、なんていったらいいのか、困難や理不尽にめげない、うろたえない精神力というか、そういったものですが。

 話が脇道にそれますが、今の職場の上司はクリスチャンみたいですが、別に「イエスの精神を体現した」「立派な人物」か?というと、それははなはだ疑問(笑)、どちらかといえば、面倒は部下に押し付けるタイプで「ちょっとあんた、神様はなんでも赦して下さる」なんて開き直ってるんじゃあるまいな?、と思わされることが・・・(笑)

455迷える大羊:2010/04/10(土) 18:13:54
多子とカトリック
 最近、少子化に関する論議がかしましい日本ですが、その逆、つまり人口増加、子沢山が問題となる国々について。
 先進国と違い、発展途上国というのは多子とか過剰な人口増に悩む国々が多いわけですが、多子と宗教ってどのくらい関わりがあるものなんですかね?たとえば、フィリピンあたりなど、宗教がカトリックで、カトリックでは避妊・中絶厳禁であるために、多子となりがち、などという説明がされますが・・。

 でも、一方で、カトリックの本家本元、ヴァチカンのおひざもとのイタリアは世界的に出生率が低い方に属しますし、フランスについてもかの国が爆発的な人口増加に悩んでいる、などという話は聞いたことがありません。
 あと、カトリックだからすべて避妊反対、中絶反対というとそうでもなく、10年位前、米国大統領選でブッシュの対抗馬であったケリー候補はカトリックでしたけど、確か中絶容認派でしたし・・。
 こうしてみると人口問題とか少子化、多子化に宗教、信仰はあまり関係ないのかな?と思ったりもしますが。
 実際のところ、家族計画とか問題に宗教、信仰というのはどこまで関係があるものなのでしょうか?
 さらに、実際のカトリック信徒にとってヴァチカンの動向、方針というのはどれほどの影響力をもっているものなのでしょうか?個人的な見聞の範囲ではあまり関係なさそうな感じもしますが・・。

 それにしても、現教皇は私の知る限り(カトリック信徒には)不人気ですね〜。思想とか信仰面では前任者(ヨハネ・パウロ?)も現教皇も大して変わらない気がしますが、やはり空気を読むというか、人の気持ちをつかむ能力面が人気の差なんでしょうかね?

456迷える大羊:2010/04/10(土) 19:15:19
現世利益
連続投稿失礼します。

 >「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。

 以前のご質問で御回答の中に、上のようなお言葉があり、ちょっと気になりました。教会なんかに行くと、確かに「キリスト教は現世利益を追求する宗教ではない」とよくいいますし(まあ、普遍宗教はみなそうだと思いますが)、それを誇りにしてますよね。
 そりゃ私だって、年がら年中「金儲けたい」とか「病気退散」みたいなことを露骨にいってる宗教って「胡散臭いな」とか「下品」で宗教としてレベル低いんじゃないの?思ったりします。
 でも、一方でそういった(現世利益)を全く気にしない、そんな「煩悩」とは100%無縁に信仰を得られる「立派な人」って一体どれくらいいるんだ?という疑問が・・。

 天国に行けるとか、(たとえ気休めであっても)安心が得られる、というのも立派な「御利益」じゃ?と思ったりもしますし、100%「御利益」というものを心の底から否定できる「立派な人」ならそもそも宗教とか信仰なんてはじめから必要ないんじゃないの?と思ったりします。
 つまり、よほど立派な、強い人間でない限り、ある程度は宗教とか信仰に「御利益」を期待してしまうのは人間の性みたいなもんで、それはそんなに悪いことなのかな?(もちろん、度を過ぎているのはバツですが)、という疑問がわきます。
 実際、聖書とかキリスト教が全くそういう現世的なことを軽んじているのか?というとそうでもないような・・。たとえば、ルカの福音書などカネの絡んだ話が結構多いし(無くした銀貨を見つける話とか、塔を立てるために費用を見積もる話とか、遺産を使い込んだ放蕩息子の話とか、借金をごまかした不正な管理人の話とか)、主の祈りでは「日毎の糧を私たちにお与えください」としっかり祈りますし。

 宗教改革、というかルターのカトリック告発のきっかけとなった有名な「免罪符の発行」も見方を変えれば「(罪からの解放、救いを手軽求める)一般大衆のニーズ」に応えていた、という面も無きにしもあらずかも?と思ったりします(いいのか?こんなこといって)

 話をまとめると、現実のクリスチャンの皆さんは本音部分で誰もが期待すること(御利益というか自分の個人的な幸せ、救い、安心の追求)と、なんていったらいいのか?キリスト教の理想の部分とをどのようにしてバランスをとってますか?
 また、本音の部分で「神様、仕事うまくいきますように、給料上がりますように」なんて祈るのは「悪いこと」ですかね?まあ、あまり露骨なのはキリスト教云々に関係なく、下品だ、とは思いますけど。

457Sekko:2010/04/11(日) 01:18:46
子沢山の問題
 子沢山の問題は、昔はともかく今は、貧困の問題が大きいでしょう。医療が発達して、平和で、生存チャンスの大きい国では、普通子供の数は減りますよ。そういう国ではむしろ有産階級が既得権を継承させるために子沢山のような。アフリカの一部なんかでは、今も、少女が12歳くらいから毎年のように子供を生み続け、その多くは破傷風やマラリアのために育たず、母親は30歳くらいで消耗して死んでしまうというケースはあります。エイズの蔓延ももちろん。

 そういう国を救うのは女子に教育と保護と現金収入を得る労働を与えることです。これで出生率は下がります。

 アフリカで活動していたカトリックのシスターは避妊具を配布していました。エイズの予防のために、バチカンが避妊具禁止を目立って唱えないという具体的な合意も前教皇との間にできていて、その後ではノーコメントが続きました。それなのに、B16は、「避妊具は解決法ではない」とコメントしたことに尾ひれをつけられて大騒ぎになっています。避妊具禁止といったわけではなかったのですが。脇が甘いのは確かです。彼がなぜメディア受けしないのかというのを分析した本も出てるほどです。

 フランスの司教会議(フランスカトリックの最高決議機関)なんかではエイズ予防の避妊具OKでしたし、それも、しょせん多数決の決定。ヴァティカンの見解も多数決ですよ。直接ドグマに関わることじゃなければ当然政治的力関係で決まったりします。いわゆる一般信者と言えば、カトリックがデフォルトの村とかで、子供の作り方を教会にきく人なんてもちろんいませんよ。

 でも、ほしくなかった子供が生まれて育てざるを得ない状況の人とか、社会の犠牲になる子供たちとかがいる場所で、「新しい命」は無条件に尊い、と言いきってくれる宗教の首長がいるのはいいことだと個人的には思います。

458Sekko:2010/04/11(日) 02:00:04
ご利益
 >「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。

 と前に書いたのは、別にキリスト教系で拝みに行かなくても手近なところがたくさんあるのだから、という意味で、キリスト教がご利益を否定してるという意味じゃありません。まあ、その出発点においては呪術否定、偶像崇拝を否定してる宗教ですが、前ヨーロッパでキリスト教がデフォルトになった時点で、これはもう何でもありに向かうのは当然で、早い話がすべての巡礼って、「奇跡」という名の「ご利益」を期待してると思います。ご利益を得たお礼の巡礼もありますが。
 つらい時にそこから解放されたいのは自然ですし、イエスも治療者として崇められていましたし、それにあやかりたいのは必ずしも誤りじゃないと思います。福音書の中のカネテーマはまあ、例えだと思います。やはりそういう例えが一番人々の実感に訴えたんでしょう。免罪符の乱発は、確かに信者のニーズに応え、封建領主でもあった教会の財政対策だったんでしょう。今でも、どこそこに巡礼したら罪が軽減されるとかちゃんと書いてありますよ。今はそれで金もうけしてないし、詐欺にもなりかねない奇跡や成功の保証じゃなく、教会の守備範囲の「免罪」なんだから、無害な「ご利益」だと思います。

 ご利益を求めるのは人情でも、「他人の不幸」を願うのはペケで、自分の幸せが他人の不幸と連動しているような「ご利益」を願うのは間違いで、それに応えるのも間違いだと思います。だから、病気平癒を願ったりするのはOKで、戦勝祈願とか優勝祈願とか、敗者を必要とするものは基本的におかしいし、入試なんかの合格祈願っていうのも微妙だなあと思います。
やっぱり平和を祈ったり、試合や入試の時期に風邪ひいたり故障のないことを願ったり、実力を発揮できますように願ったりすべきですよね。ジャンヌ・ダルクが一方的に「イギリス軍出て行け」って、神の名のもとに軍を率いたのも、歴史の文脈の話であって、キリスト教の本質的にはかなり「それでいいのか?」っていう気がします。

 私は個人的には「本音の部分」で自分の幸せを祈るってことはないです。本音をすなおに探ると、神さまが私のような中途半端な人間の願いとか気にとめるわけないだろ、と思うからです。絶望的な状況で必死に祈っている人々を有名教会で見かけると、ほんとに、私なんかはスル―していいから、この人たちをなんとかしてあげてって、気はします。その時に、「この人たち、本気で奇跡が起こると思っているのかなあ、単純すぎ」とかは思いませんね。ただ、本気で祈る人を見ていると、ますます、私のようなヌルさでは自分のことは祈るのも無駄、って思います。

 大羊さんの前途に聖霊のお恵みがあって、大泉さんにとっての世界がクリアに見えてくるようにとお祈りします。(これでも人のためにはすなおに祈れるんですよ、ま、私のフォローなんてそれこそご利益なさそうだけど)

 あと、私のためにいつも祈ってくださるという型が複数いらっしゃって、それを聞くたびに元気がでます。ありがとうございます。これが私にとってほんとうのご利益です。

459迷える大羊:2010/04/11(日) 22:32:01
人の為に祈る
 というのはいうまでもなく、キリスト教とか普遍宗教の良き部分ですよね。ええ、それは十分認めます、わかります。でも、議論を仕掛けたり、ケチをつけたりするつもりはもちろん、全くないのですが、「本当に心の底からそんな心境になるものなのですか?」という疑いが抜けない、というか信じられない感じですね。

 うーん、私などは自己中ですから、口では「〜さん、祈ってますよ」といっていても、本音部分では「自分の願望、都合」優先になってしまいそうです。というか、そんな「立派な人々」に囲まれていては、「罪深き私ごときが同席してよろしいのかしら?」ってことで却って落ち着かないことこの上ないような気も・・・。

 あと、私の知るクリスチャンってそんな立派な人ばかりだったかなぁ?つい先月まで、私の上司だった方もクリスチャンだったけど、責任回避が得意技でおよそ人の為に祈る、というタイプではなかったような・・(笑)。洗礼、といっても人格改造とか洗脳とは違うわけですし、水かぶったくらいで都合よく変われりゃ苦労しないよ、とシニカルなことを思ったりもします。

 現教皇は、独断と偏見でいえば、実際に現場で実務で信徒と触れ合ったり、向きあったりした経歴・経験が少ないのが、KYだったり脇が甘かったりする原因の一つかも?と思ったりしますね。学校で教えている方が向いているような感じも。意外と本人も「(教皇に)向いていない」と悩んでいるんじゃないかな〜、なんて思ったりします。

 あと、蛇足ですけど、このサイトでフランス事情についてもいろいろご質問させていただいたものですが、本日、教会で初めて「リアル」のフランス人と話しましたね。日本語はペラペラでした。バイトをしつつ日本とフランスを往復だそうで、なんか自由人してていいなぁ〜、若いっていいよねぇなんて思ったものでした。
 国籍を問わない知人のネットワークが広がる、というのもキリスト教はじめとする「普遍宗教」の「御利益」、ですかね。

460Sekko:2010/04/12(月) 05:50:52
人のため
 「情けは人のためならず」って言葉を間違って解釈する人が多いって話を聞きますが…なんていうか、「人のために祈る」方が「効く」ような気がするんですよ。きれいごとは別として、自分より大切な人のために必死で祈るというのは、見ていても感動しますし。
 大羊さんは時々、「立派な人たち」に対する違和感を表明なさいますが、そんな「ぼくたち立派な人」オーラを出している人たちが周りにいられるんですか? そんな清らかな自信に満ちているグループがあれば、私はすぐうさんくさく思ってしまいます。それだけでありがたみが消えますよ。

 でも、私のために祈ってくれるという人には、すなおに感謝です。ほんとに私が自分で祈るより「効く」気がします。毎日の幸せ度だって、何か自力で「立派なこと」や「満足のいくこと」をすることより、ひとからちょっと優しい声をかけてもらったり、気にかけてもらっていたり、ということの方がじーんときます。私には「神と私」みたいな関係性ではだめなんです。人を介在させないと、自己中というより自家中毒起こしそうで。立派でなくとも自分のできることで人とつながっていればいいんじゃないでしょうか。私がここでこれを書いているのもそのためです。少なくともこれを書いている瞬間は、私の中の優先順位は、仕事よりも家庭よりも大羊さんです。特に立派でなくとも、みんなが、だれかから声をかけられた時に少しでも、ちゃんと振り向いて時間を分け合う、っていうのが、多分、一番たいせつなことです。

461迷える大羊:2010/04/12(月) 22:59:13
なるほど
 いつもながら、お忙しい中、お相手すみません。

>立派でなくとも自分のできることで

 なるほど、これなら理解はできますね。いきなり、マザー・テレサだのコルベ神父並みの利他精神を発揮せよ、などといわれたらそりゃビビりますし、多分自分は死ぬまで無理だろうって思いますが。
 まあ、周囲に「ぼくたち立派な人オーラ」を発する人はいないけど、クリスチャンという立場をやたらと強調する、特別視する人は確かにおりますね。何かというと「クリスチャンとして〜」みたいな枕ことばがでてくるみたいな・・。

 聖書にもありましたね、確かヨハネ福音書だったか「新しい戒律を与えよう、お互いを愛せというものだ」とありましたね。しかし、単純そうで、実はそれが実行が一番難しかったりすることを日々実感する毎日です、私にとっては。やっぱり、好き嫌い、ねたみ、ひがみ、嫉みといった煩悩とか罪からはなかなか自由にはなれないものですね。

462:2010/04/17(土) 08:51:52
悪魔祓いについて
竹下節子様
はじめまして。竹下さんの著書をいくつか拝読させていただいています。特に「聖女の条件」が面白かったです。今回お尋ねしたいことは、悪魔祓いについてです。といっても唐突なんですが、私の親友の日系ブラジル人女性は、日本で就労している日系ブラジル人たちの間で雨後のたけのこのように乱立している福音派教会に出入りしているのですが、どうもそうした教会では、牧師さんがひんぱんに悪魔祓いをするようなのです。先週その友人が、個人宅でおこなわれる祈祷会に参加しました。彼女自身は、いつも悪魔祓いについては私に詳しく語ってくれたことがありません。ただ、牧師さんが彼女の頭に手をのせて祈られると、その場に倒れてしまうと、私に語ったことがあります。で、その祈祷会には、彼女の息子と娘(21歳と19歳)も参加して、娘さんが私に、祈祷会でのできごとを語ってくれました。やっぱり悪魔祓いで、息子さんが牧師さんに祈ってもらうと、息子さんは人がかわったようになってうなり声をたてたりし始めて、最後には飛び跳ねたかと思うと床に倒れた、というのです。悪魔祓いはカトリック教会でも昔はおこなわれていたけれど、今では大部分の神父が無関心か無知かまったくその分野は廃れてしまったが、プロテスタント教会のある派では成功を収めていると、読みました。(ガブリエル アモース神父の、エクソシストは語るという本です。この本を読んでもまだ当惑しているのですが。)ブラジルはどうも、交霊術なんかがさかんな土地らしく、悪魔祓いにも違和感なく彼らは応じているようなのですが、日本人の私には一種のカルチャーショックで、いったいどうとらえていいのかわからないのです。悪というのは確かに私たちの心の中にある、原罪というか、自己中心性、嫉妬とか優越感とかいろいろあると私は思うのですが、友人のブラジル人は、悪霊とか悪魔という言葉を頻繁につかいます。実際には悪魔そのものを意味するdiaboとは言わず、敵を意味するinimigoを使うのですが。それは、例えば精神病とか貧困とか逆境とかの原因という意味のようです。私には、悪を、悪魔と悪霊につなげる思考回路が欠けているのか、彼らブラジル人の厳しい現実(失業、将来の見通しがたたないことなど)と悪魔祓いはセットにして考えるべきなのか、私の頭の中では整理できていないのです。カトリック教会でも聖霊刷新運動がありますが、悪魔祓いはその聖霊による癒しと同じレベルのことと考えればいいのでしょうか?

463Sekko:2010/04/17(土) 20:18:34
セニョーラさま
 衛星放送で、福音派のミサの度の悪魔祓いのシーンを延々と流している番組を見て驚いたことがあります。按手されるだけで、叫ぶ人もいるけれど、とにかくみなが、意識を失って(と私には見える)後ろにまっすぐ倒れるので、背中を支える人が必ずついていました。で、みんな一列に並んで、はい、次、はい、次、という感じでバタバタ倒れるので、なんだか師匠に受け身の稽古をつけられてるみたいな感じでした。

 キリスト教だけでなく、シャーマンの修行にも似たようなのはあるし、ヤマOシとかでも、他の宗教のイニシエーションでも、とにかく、いわゆる「変性意識状態」、トランス状態を作り出すノウハウやプロセスはいろいろあります。ある種の代替医療もそうですし、心身症には自己暗示が効くかもしれません。

 いいか悪いかは一概に言えないと思います。宗教ではそういうのと、浄不浄とか罪の意識とかを合わせられることが多いので、マインドコントロールにつながりやすく、リスクは大きいと思います。特に、子供や若い人は、近付かない方がいいと私は思いますが、ケースバイケースでしょう。カトリックの洗礼式でも悪魔祓いが込みですが、ドラマティックなことはおこらず、普通のお祈りといった感じです。カトリックの今のエクソシストは精神科医や心理学者とも連携してますし、演出によってショック療法をするというのはもうないでしょう。ただし、ブラジルなんかでは、福音派の派手なパフォーマンスで信者を失いはじめたカトリック側が、同じようにいろんな面で派手な演出をして人心を取り戻すという動きもあります。

 まあ、シエナのカタリナとか、やはり聖体を口にするだけで毎回失神していた聖女もいるので、どんな状況でも「入れ込んでしまう人」とか体質はあるんでしょう。それは必ずしも「聖女の条件」じゃないですけれどね。

 大人が、他に弱みを付け込まれて洗脳されるという状況ではなく、自分の意思で何か(セラピーとか儀式の参加)を選択するのは自由だと思います。でも、それによって家計が圧迫されたり、社会生活や家族関係に支障をきたすようなのは要注意だと思います。

 ブラジルのように、一定の文化やメンタリティのもとに、経済や政治の問題が加わって、多くの人が極端に流れるというのは、また別の大きな問題があって単純ではありません。悪を特定のだれかに託して、スケープゴートのように葬ったり、軍事攻撃をしかける、などというよりはまだ、抽象的な「悪魔」とか「敵」とかに託して「祓う」方が、害は少ないと思います。

 でも、とにかく、今現在、生き難さを感じている人に「それ、おかしいだろ、目を覚ませ」とかいうのは、それこそ代替案なしには無責任なことで、とりあえず「悪魔祓い」の必要を感じないで生きていける余裕のある人間が、彼らの状況の改善に向かってささやかでも連帯することしかないんじゃないかと私は考えます。

 そういうことを視野に入れながら、親友の方の生活上の困難に力を貸してあげ続けていれば、ほんとうの信頼関係は、少しずつ築かれると思います。悪を祓うより、善意の輪を育てる方が、最終的には、きっと強いですよ。

 セニョーラさんのような方たちが、日系ブラジル人のコミュニティと連帯して問題解決のための何かをやっていくようなNPOも、ひょっとしてもうあるかもしれませんね。

464セニョーラ:2010/04/19(月) 08:08:33
Sekkoさま
お忙しい中、お返事ありがとうございました。お返事いただいて、少し頭の中が落ち着きを取り戻したように思います。親友の日系ブラジル人k子の出入りする福音派教会は、「カルトか宗教か」で教えていただいたような、カルトに値するようなところは今のところは見受けられません。悪魔祓いを別にしてひとつ気になることは、心療内科に通うk子は双極障害と診断されて服薬を続けていたのが、教会に行きだしてから「私はもうイエスに癒されたの。だからもう薬なんて必要ない」と勝手に服薬をやめてしまって、お医者さんが困惑されていることでしょうか。病気が病気なので、いつ彼女の症状が元にもどってしまうか、私も正直はらはらしているのですが。ただ彼ら福音派教会の、同胞に対する連帯意識は本当に見ていて感心させられることも多いのです。おととしからの経済危機で、困窮しながらも滞日を希望する人たちに対して、物心両面での貢献には目を見張るものがあります。もちろんそれは、彼らの教会のもつ豊富な資金力のなせるわざだと言えばそれまでなのですが。悪魔祓いに関しては、竹下さんが言われた、他国を悪とみなして攻撃するようなメンタリティに比べれば、はるかに害が少ないということを忘れずにいたいと思います。そして、ブラジルの宗教事情を理解することは容易でないということも。このことを忘れずにいれば、私も彼らの悪魔祓いに対してうろたえずに一定の距離をもって見つめることができるような気がします。日系人向けのNPOは少しずつですがいろいろ生まれているようです。私はそんな大したことはできていませんが、個人的には微力ながら格安でのちょっとした書類の翻訳とか医療通訳をしています。でも日本の社会ではその存在が忘れられがちな彼らへの援助だけでなく、連帯をこれからも模索していきたいです。ありがとうございました。

465:2010/05/08(土) 18:31:46
宗教という機関について
Sekkoさん(は竹下節子さんでいいんですよね…?)の著書は、色々と読ませていただいています。最近は2ターン目を読んでいます。
この掲示板もみなさん、すごく深いことを色々と知ってるんだなぁって驚いてます。

どの箇所かは正確にはわからないですけれど、Sekkoさんが書いておられた「宗教とは人を神(真理)へといざなうサービス業、旅行代理店の様なもの…」という部分に、うーん…そうだなぁ… とすごく納得させられています。宗教が真理そのものではなくて、そこへ人を向けてくれて同行してくれるってイメージでしょうか?
そう思うと色んな宗教サービスがあっても(深いところでは)矛盾はしないんだと思います。
山頂は一つでも、その道順はいくつもある、っていう言い方はよくされますよね。

今日、バスに乗っていて、ふとバスの中を見渡すと、高校生や中学生くらいの人たちがいたんですけど、楽しそうにおしゃべりをしたり、ケータイいじってたり、音楽聴いたりで
なんか、そういう雰囲気と接していると、宗教ってとくに絶対必要ってわけじゃなさそうにも見えたりしてきました。

その後、バスを降りて帰りながら考えたことは、その人の居場所(この場合学校とか)の中で、マジョリティーでいられる時は、散文的な日常生活が宗教無しにも送れるのかなぁということです。公園で遊んでる小学生なんかを見るともっとそんな気分です。

でも、だんだん、それぞれにその人の興味や特性なんかが育っていって、それぞれの道を歩く時、いつもいつも、安心なマジョリティーの中にいるってことは、できなくなる事があるかもしれません。そして、それが深刻な事の場合だってあると思います。
宗教ってそういう時に、人の悩み生き方の指針として、寄り添ってくれるものなのかなぁと思いました。 独りになった時なんて特に…

だから、「いざという時のために宗教と馴染んでおいたり、親しくなっておいた方がいい」、こういう事もたしかSekkoさんが言っておられたと思います。
ぼくも最近、この事をしみじみ、そうだなぁって感じています。
こういう頭のひらめきが光るようなことが、Sekkoさんの著書などを読んでいると時にあります。
Sekkoさんには、その貴重な知識と理性と体験を、手に取って読める本やネットなどで分かち合って下さってることに本当に感謝しています。

長くなりましたけれど、最後に、
実は今、自転車で15分くらいの所にあるカトリック教会に、行ってみようかなぁ…どうしようかなぁ…って、迷ってる自分がいて、それの整理のためにもここに書かせてもらいました。(すいません)
その教会のHPに載っていた主任神父さんは、大学教授でもあるみたいで、ちょっとこわもてなカンジがして、それにもちょっと勇気がいります…(笑)

いつも、夕方6時には、その教会から鐘の音が遠く聞こえくるんです。山をバックにしたそんな夕方の風景がぼくは好きです。

466:2010/05/08(土) 19:59:10
(無題)
憧れのせっこ先生
洗礼を受けたくてまっしぐらに教会にいき
そこにいたのが ブルカルト アンデレ  しんぷ
わかいとき純真会をたばね  管区長もなさっていたり  スクルス神父 ともに純真会で
らてらん  バチカンの父  ともいわれてるきょうかいでも はたらかれ

そして もうすぐ神父になる  オノレブラザー  3人にまもられ
千里ですくすく  これたわたしは
ベルギー  のごえんがあり  フランス語が ただただ大好きであっただけなのに
フランコフォン 聖職者  に人生でであえたよろこびは  本当に大きいです。

しかし 7年目のして
なぜか  教会離れのあり
重い空気 がきょうかいにながれ まだ わかめの私と同年代の方が少なく
友達  ができにくいとか  あまり  合う ひと 話せる人がいないと思ってしまっているのか  少しとうのいてきています。
神父様に  共同で祈るということで ま、ま  お友達さがしは う〜ん
と言われ  つきひがながれ
ただ  宗教も出会い のひとつで  いきたいときに行けばいいのでないかと思う私目は
不謹慎ですか? 静かに家で祈る方が集中できるのです。お祈りが趣味です
とうしょう詩篇 を謡わせていただける お年寄りの方が喜んでくり
歌ことが好きになり  声楽まで  習いに行くようになって

これもおおきな めぐみ 幸せをもつけました、いきがいになりそうです。人生の
わたしはとっても  この宗教に出会えてよかったです。
ただ
ずばらで
ひとりでマリア様の前で ひざまずき お祈りを日に何度も するのがだいすきです

こんあんでもよいですか?

467Sekko:2010/05/10(月) 03:57:12
くうさんへ
 ご愛読ありがとうございます。励みになります。

 そう、マジョリティに落ち着いている時って、一見救いとか必要ないような感じなんですが、そのこと自体でマイノリティの人とか、自分の部分の弱い部分にも目をつぶってしまうことがあると思うんです。今無心に遊んでいる子供や若者でも、やはり自分や他人の弱い部分に対してのやさしさみたいな感覚をちゃんと養っていかないと、自分だけじゃなく家族や友人などのちょっとした事故とか病気とか人間関係の齟齬や失望や失敗とかに出会ったときに、自分にも人にもやさしくなれないかもしれません。こういうのって心配性でネガティヴかもしれませんが、私自身も、そういうやさしさに救われ続けました。まあ、自分に関しては甘やかしかもしれないんですが・・・
 小学生だって、小動物を飼って世話するとか、自分を必要とするなにかとの関係が必要だと思います。
 教会でいい出会いがあるといいですね。神父様とか大学教授って、お山の大将になりやすいポジションだから、ひょっとしてエラそうに見えるってこともあるかもしれませんが、これはもう人柄の問題かもしれません。教会がサービス機関だとしても、そこに行く人はクレーマー消費者の心は持たない方がいいと思います。そういうところとは反対の無償の世界につながっているということを感じられるといいですね。

468Sekko:2010/05/10(月) 05:35:00
marie josephine さん
 声楽をなさったり、お年寄りに喜んでもらえたり、すてきですね。

 スクルス神父さまたちと出会われたのもよかったですね。私が最初に会ったfrancophone
の神父さまは1970年代、アテネフランセのアヌーイさんでした。フランス語がうまくないのにフランス語で卒論を書かなくちゃいけなくて、だれも見てくれるあてがなかったので、突然アヌーイさんにタイプ原稿を持っていったんです。教会はもちろん個人的な関係はまったくなかったのに。私がよほどおどおどしていたらしく、サンタクロースのような風貌のアヌーイさんは、原稿を受け取ると、にっこり笑って、「もう大丈夫、僕がいるからもう大丈夫」と言ってくれました。忘れられません。

 あと、楽器演奏なんかそうなんですが、いくら練習しても、あるところまでいってどうしても壁に突き当たる曲とかがあります。そんなとき、無理強いしないでちょっと休んで他の曲とか弾いていて、しばらくぶりに前の曲を弾くと、練習していないのに、壁を超えていることがよくあります。私たちはこれを「熟した」と表現するんですが、多分かってに熟したんじゃなくて、練習してなかった期間にも、頭の中でその曲を反芻していて、それが「聞こえてくる」のをキャッチしようと自然に耳をすませていたのかもしれません。

 信仰の形とか共同体との付き合い方とかにもそういう面があるのではないでしょうか。今の形にこだわらなくとも、耳をすませていれば、また「熟した」形で自然に共同体と連帯できる日も来るかと思います。

 神父さまたちはきっと祈っててくださってますよ。

469:2010/05/10(月) 19:04:55
(無題)
大好きなせっこ先生

ヨセフのひにうまれ
クリスチャン である  神の道、、、   ブルカルト神父  がだいすきで
みんな しんぷさまがたがすきです。
守られてて あい  を感じます。清らかな   あい
祈っていただいてること感謝でいっぱいです。
引きつずき
お歌  でお人に喜んでもらえるよう  生きがいとして邁進します。
スクルス神父様は せっこ先生の大ファン
父であるヨセフ
の御本  すばらしいでした。
才女 のせっこ先生が  そんなときがあったんですね。
また
素晴らしいアドバイス よろしくお願いたします。

神に感謝

470:2010/06/03(木) 22:43:01
純粋理性批判 序論
純粋理性批判を、光文社の中山元訳で読み始めたところです。

「005アプリオリな認識と純粋な認識」の項に以下の記述(A)があります。
『そして、アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう。だから、たとえば、「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。』

また、
「007アプリオリな純粋判断の実例」の項には次のような記述(B)があります。
『人間の経験のうちには、このように必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断が実際に存在することを示すのは、たやすいことだ。【自然科学からその実例を引き出すとすれば、数学のすべての命題がその好例となる。】日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。』

素人目には、ひとつの命題に対して「A-純粋命題ではない」「B-純粋命題である」と、異なる記述がなされているような印象を受ける、つまり、上の2つの記述は矛盾しているように感じるのですが、納得させていただけないでしょうか。

471あがるま:2010/06/06(日) 14:25:31
因果律が
アプリオに演繹可能(つまり原因から誤謬なしに結果を導出)な純粋命題であるか、それてとも経験則(結果から原因に遡る)てあるのか?と云ふことですが、如何にして純粋思考の形式(純粋悟性形式=カテゴリ)を経験の対象に適用できるのかにはカントも苦労し法律家の論理を適用するしかなかつた。
ヒュームにより経験則としての因果律が否定され、しかし外界の存在を肯定するのは経験・感性しかないのですから、カテゴリーとしての因果律は慥かに成立し、しかしその対象の実在は感覚・経験が証明するといふ二重構造になるのでは。

472あがるま:2010/06/10(木) 12:09:31
セッコさんがクリマの
『ル・グラン・ロマン』を読み始めたと聞いて『細かい活字で大判600ページもあるあんな長い小説を良く読む気になる』と呆れましたが、4月にパリに寄つた時にrue des ecolesの私が必ず行くGalerieDeLaSorbonneなどで半値で新しいものを手に入れました。
改訳全集が出るので20年ほど前の本が安く手に這入るのだと納得。
気になるのは1904年の哲学上の主著と見られる『意識と無としての世界』ですが200頁ほどのこの本はネットで見ても20ユーロと結構高い。
一年前の1903年には同じオーストリ・ハンガリー帝国ではO.ワイニンガー『性と性格』も出版され著者のピストル自殺にもより600頁もある大著なのに世界的大ベストセラーとなりました。
ウィーンに行つてフロイトの診療所とワイニンガーが自殺したベートヴェンの部屋は同じ大通りに面し距離も2ブロックほどだつたので驚きました。
新宮一成『夢分析』と言ふ新書本を見てゐたら『我々は実際に夢を見るから万能感と世界創造感を得られる』とありました。
11.01.10

473:2010/06/17(木) 17:04:41
あがるまさん、ありがとうございました。
お陰さまで腑に落ちたように思います。
また質問させていただくと思いますが、その際にはよろしくお願いいたします。

474Sekko:2010/06/17(木) 19:13:05
留守にしていてすみません。
 huyuharuさん、あがるまさん、留守にしていて失礼しました。

 気にしていたんですが、コンサートと、日本に行く前に片付ける仕事とで、手いっぱいでした。その上にネコの介護をしているんです。末っ子が、乳癌の手術をして、うまくいったんですが、目が見えなくなりました。ストレスなのか、脳転移なのか分らず・・

 この質問には、あがるまさんが回答してくれるだろうなあって、ちょっと期待してたんで、助かりました。ありがとうございます。

 この質問箱は、別に哲学の問題について教科書的な解説やオールラウンドな質問を受けているわけではなく、なんていうか、私の経験や知識とかで役に立つことがあればお返事しますということなので、特に信仰とか死生観についての話なら役に立てます。

 それに、カントと比べるわけじゃないですが、私の自分の本でも、同じ本の中でも別の本でも、同じことなのに一見して矛盾している記述があり、それは、文脈によるもの、自分の意見が進化したもの、逆説的なもの、など、いろいろな場合があります。カントのこの部分も、考えていくといろいろ厄介で、簡単に答えられないんです。最近講談社の広報誌『本』5月号で、野矢茂樹さんの『自由という相貌』という記事を読み、そこでも、因果律について、自由と決定論は両立するカという、非常に面白い話が展開していました。論理だけでなく、そこに相貌や物語という考えを導入するのはすごく納得がいきます。

 あがるまさん、クリマに引き続き興味を持ってくださってありがとうございます。必要なら、エリカに直接コンタクトされた方が早いです。私が転送しますよ。英独仏語(もちろんチェコ語も)OKです。

475あがるま:2010/06/20(日) 02:41:16
Jan Nepomucen Potocki
お蔭様でパトチカならぬポトツキ伯爵(1761− 1815)と云ふ奇人を知りました。
彼がフランス語で書いた『サラゴサ手稿Le Manuscrit trouve a Saragosse』は映画にもなつてるさうですね!
パスカル・キニャールを知つたのも最近です、マラン・マレとサント・コロンブの話も面白さうですね − DVDも千円程度なので機会があれば。

476:2010/06/23(水) 16:51:23
人間の感性について
初めてメールします。東京で宗教や哲学など素人の立場で学んできた者です。多くの課題がありますが、じょじょにお尋ねできればと思います。先生の「無神論」の著書は、未だ深読みしていませんが、私は有神論の立場です。そこで、先生は歴史的に無神論の系譜をたどっておられるのですが、人間は根本的に何故目に見えない存在に対して、2つの系譜が出てきたと思われますか?聖書的に考えれば人間は堕落して、神との関係が切れたからと言えるかも知れませんが、それではまだまだ抽象的かと思います。世の中には、霊感性に優れた人がいますが、何故そんな人やそうでない人がいるのでしょうか?私もそうした霊的感性が開かれなければ、霊界の存在も分からないし、益して神の存在ははるか遠くの課題かと思います。尤も、最近はご存知のようにID理論が出てきて、有神論に力を加えているかと思います。竹下先生は、中立的立場かと思いますが、本の最後に、神が人間を信頼できる場所を人間の心の片隅に開けておく時代になっても良いのでは・・・と書かれています。そう思います。そうした態度に加えて、やはり人間の感性的無知や霊感性が問われるべきかと思いますが如何がお考えでしょうか?

477Sekko:2010/06/25(金) 01:59:32
中島さま
 ご愛読ありがとうございます。

 私は人間のあり方は、どんな人でも、自分を超えた世界、つまり自分の以前にあったものとか自分の後に来るものとか、あるいは同時代的でも会ったことのない人や見たことのない場所とつながっていると思います。それがはっきり感じられるとか、亡くなった人や別の世界とチャネリングできるようなこととは別に。

 見ないで信じるものは幸いである、というように、見たり聞えたり感知できなくても信じられることはあるし、逆に、見たり聞えたつもりでも錯覚や勘違いや自分の願望の反映や病気ということもあるし、また、信じられなくても期待はしたい、ということもあると思うんですよ。

 特に、見えない世界に善意とか肯定的なもの(信じれば救われる、とか、誰かに愛されているとか・・)を期待できれば「だめもと」で信じようかってことになるし、反対に、見えない世界に悪意とか否定的なもの(信じなければ罰が当たる、とか、誰かに呪われてるとか)を見て怖れれば、危機管理的に信じようかってことになるかもです。

 私は甘言も警戒しますが、脅しの言説がさらに嫌いなので、「信じなければ大変なことになりますよ」とか言われるのは、私にとっての「神」のイメージではないですね。人生で自分で対応できない出来事の前で「怖れなくなる」というのは、信仰の一番のポイントだと私には思えます。
 それに比べたら、霊感があるかどうかなんて、体質みたいなもんです。いや、この世を生きてるうちは、そういう感性は、普通、ある程度封印しているようにできているんだと思いますよ。そういう感性をちゃんと管理できて人のために役立てられるような能力はまた別で、普通の人は、堅実に、別の具体的な形で大きな善意とつながった方がいいと思います。

 霊感は多くの場合一種のアクシデントみたいなもので、それがある人はいい方向に養い、ない人は「ある」と公言する人の言説にあまり惑わされない方がいいと思います。これは私が『カルトか宗教か』以来追求してきたテーマでもあり、7月8日には、その系列で、ベスト新書で『陰謀論にダマされるな!』という本を出しますので、ご一読下さい。私の中では『無神論』とセットになっているんですよ。でも新書だし読みやすいです。またご感想をお聞かせ下さい。

478Sekko:2010/07/06(火) 08:49:08
おしらせ
 ようやく新しいサイトができました。まだ工事中の部分もありますが、このサイトの記録はほとんど残します。新刊のお知らせもあります。
この掲示板にはForum2というところからいままでどおりリンクできますので引き続きお使いください。 新しいアドレスは

http://setukotakeshita.com/ です。

479T.M:2010/07/30(金) 10:19:10
(無題)
ニーチェの言う権力は結局人間的なものとうけとれるのですが、
フーコーの言う権力とは何ですか。簡略に示していただけないでしょうか。

480sekko:2010/08/02(月) 11:23:41
申し訳ありませんが、
このような形のご質問にはお答えできません。他の質疑応答サイトをご利用ください。教科書的なもの、哲学のレポートなどの参考になるような答えはネット上で検索すればいろいろ出てくると思います。ここでは、いろいろ当たった末でどうしても自分はこう思うけれど私の意見も聞きたい、一緒に考えてほしいというタイプの質問のみ受け付けます。タイトルの下の説明文を参考にしてください。

481:2010/08/03(火) 15:20:21
竹下節子さんについて
竹下節子さんについて質問します。
marie josephineさんの書き込むを見ましたら、
竹下節子さんは、カトリック千里ニュータウン教会の信者らしいですが、
本当ですか?

482Sekko:2010/08/03(火) 15:30:11
ここは
そういうプライヴェートな事実関係の質問の場所ではありません。
ご理解ください。

カトリック千里ニュータウン教会には行ったことがありません。

どこそこの所属とかの枠で縛られる人間関係はできるだけ避けているのでよろしくお願いします。

483グドウシャ:2010/09/06(月) 20:47:56
信仰するとは
宗教を、あるいはある特定の宗派を信仰するとはどういうことでしょうか。
たとえば、キリスト教を信仰するとはどういうことでしょうか。「キリストを善美な人間の理想と掲げ、この理想に沿うこと、あるいはそのキリストに倣う生き方をするために、それまでの自己を否定することを求めること」という人がいます。そのほかにも、イエスを救い主と信じることとか、神と信じるとか、三位一体を信じるとか、復活を信じることとか種々聞きますが、sekkoさんが説明してくれるとしたら、どのようにしていただけますか。
自分はキリスト教に関心がわき、近づきたいと思っていますが、どうも信仰するということがわかりません。また、キリスト教には東方正教・カトリック・プロテスタントなどあり、なにかそれぞれから見ると、それぞれが異端ではないのかといっているような感じがあります。
宗教を信仰するとはどういうことか、キリスト教を信じるとはどういうことか、なぜカトリックを信仰するのか、なぜプロテスタントを信仰するのかなどわかるような書物はありますか。

484グドウシャ:2010/09/06(月) 21:06:40
信仰するとは02
自分としては、「この世が苦しく、来世というものがあり、そこでは苦しみなく平安に暮らせる」とか、楽観的にある宗教に没入することで現在でも「すでに救われている」状態になることかと思ったこともあります。
また、聖書はどの訳を読んでいけばいいでしょうか。よほど詳細な注釈とかがなければそうそう簡単には読み進めないと思われるのですが。日本の古典文学で、文庫本でも詳細な註がついているのですから、日本聖書協会訳ではまず無理ではないでしょうか。

485Sekko:2010/09/07(火) 01:50:04
グドウシャさま
 まず、宗教としてのキリスト教を信じるとはどういうことかについて。

 私が合意する見解は次のようなものです。

 唯一創造神が万物を造った。
 ナザレのイエスが生きて十字架上で殺され、復活した。
 ナザレのイエスが救世主である。

 このみっつを信じて受け入れることでしょう。これが宗教としてのキリスト教の必要最低限の根幹だと思います。
 後は、教義(とそこから派生する典礼)の違いによって宗派の違いがあります。それは歴史的、時代的、文化的、民族的、地政的ないろいろな要因によって形成されてきたり分かれてきたものなので、どれが正しいとか異端とか言えるものではないと思います。

 三位一体の教義は、わりと本質に迫ると私は感じます。神が人となったとか、復活による永遠の命とかいうニュアンスを理解するためにはなかなかすぐれものだと思います。

 後は、いわゆる信仰共同体というものの問題があり、普通の人は多かれ少なかれ「家の宗教」や「地域の宗教」の土壌や習慣の中で生まれ育つわけで、それは特定の宗派や人間関係や、多分権力関係とか、支配従属関係と無縁ではないでしょう。そういうものとどう折り合って、ほんとうに納得のいく「救い」を求めるのか、別の共同体を探して模索するのか・・・あるいは宗教書や人生読本を読んで自分の安心立命を得るのか、どの宗教でも尊敬できる師のような人と出会って私淑するのか、いろいろな場合があると思います。

 私がキリスト教が好きなのは、創造主とか復活がどうしたというところは、まあ、判断できないというか考えてもしょうがないのでスルーなのですが、自力本願や修行とか悟りとか解脱とか、自助努力、刻苦精励、進歩向上系が個人的に苦手なので、「えっ、偉いはずの神さまが辱められて抵抗されずに殺されたんだって???そんなんでいいのか・・・」というナザレのイエスのラディカルな悲惨さに惹かれるからかもしれません。だから、復活というミステリーが光ります。いったい何が起こったんでしょう・・・卑怯だった弟子たちがそれで一転して「福音」を述べはじめたのですから。

 偉い神さまや仏さまがいても、それは弱い衆生とは所詮別世界、その偉い神仏の助けを得るにはそれなりのプロの仲介者を経て、規則を守って精進しなくちゃいけない、というシステムは、ある程度自信があって元気でないときついものがあるような気がします。

 救われる条件らしきものをイエスが言ったのは、とりあえず自分より困っている人や弱い人の役にたつようにしなさい、ということなので、それを心がけるくらいならなんとかできるかなあ、という感じです。

 で、この、弱い者の側に常に立ってればいいことや、自分は弟子たちからも一度は見捨てられてしまったイエスが救世主だという逆説的な教えのおかげで、キリスト教は本質なところで弱さの中での「神人一如」の部分があって、親しみが持てます。すごーく立派なリーダーやカリスマを崇め奉らなきゃいけないというのも苦手なもので。

 あ、もちろん、キリスト教の中にも禁欲苦行する人とか自分に厳しい人たちもたくさんいるわけで、人のタイプや文化や時代によってどの宗教でも似たようなヴァリエーションがあるのも事実です。

 そんなわけで今のところ私自身は精神的にはあまり悩んでないので、その余裕の部分でどなたかのお役に立てることがあればいいと思ってこのコーナーを存続させています。

 聖書の読み方ですが、私の体験では、気にいっている著者や研究者や宗教者や雑誌などが、その都度、トピックを解説してくれるようなものが好きです。自分で読んでいるだけでは全然見えないことが見えてくるし、語句もそうですが、前後の文脈によって納得のいくこともあるし、文字通り「目から鱗」の説教や解説にもたくさん出会えました。

 聖書の中で好きなところや気になるところについて、解説書を読み比べて見て、いちばん共感の持てるものを選んで他の部分も読んでいかれたらどうでしょう。翻訳の問題の深みにはまってあれこれ考えるより、魅力的な先人が幸いたくさんいるのでいろいろ参考にしたほうが楽しいと思います。聖書だけいきなり一人で読んでも見方によっては突っ込みどころが多すぎると感じるだけになりかねませんから・・・

 自分の言葉でちゃんと語ってくれる解説がいいですね。また、それこそ「神も仏もあるものか」って状況(十字架上のイエスもそうだったかもしれません)にある人が聖書を生きるよりどころにしている場合の文章には心を打たれます。

 無料で敷居の低い「聖書勉強会」などでもすばらしいものもあるようです。私は若い頃に日本にいた時は「聖書研究会」なんて言われると即カルトの勧誘かと警戒しましたが、あるいはジョークの通じない悩める人たちの集まりかと敬遠しましたが、いい場所でいい人に出会えれば、一人で本を読むよりも豊かな経験ができると今は思います。

 グドウシャさんが「道」を見つけられることをお祈りします。

486:2010/09/07(火) 05:02:08
キリスト教の受難と復活は捏造?
「2000年の歴史があるキリスト教ですが、
イエス・キリストは実在していましたが、
受難と復活の出来事は、
古代エジプトなどの太陽神を真似て作られたそうです。」


キリスト教は捏造? から引用しました。
http://nowsmartsoft.blog121.fc2.com/blog-entry-48.html

イエスと同時代に流行っていた「ミトラ教」とキリスト教には非常に多くの類似点がある事は最近知ったばかりなのですが、この動画内でも述べられています。さらに、エジプトの「ホルス神」との類似性についても述べられています。類似性があるというより、その「複製(コピー)」だとか?

処女受胎した聖母から生まれ、12月25日の三日前(?)に死んで、その三日後に復活するというような話は、キリスト教以前の他の多くの宗教と共通しているそうです。そしてなぜそのような共通点があるのかという事に関しては、天文学的に12月22日に太陽が出ている時間が最も短くなった後、22日,23日,24日は、「停滞し」、25日以後、一度づつ太陽の位置が回復していくとか、そんな感じのことが言われています(一度見た記憶だけに頼って書いており、曖昧です)。この時の 22,23,24 の三日が復活前の三日間に相当するのだとか。

オリオン座の腰の三つ星とシリウスとが載っている直線と地平線が交差する位置に太陽が昇る日が丁度12月25日で、シリウスが新約聖書のイエス生誕の日に出てくる有名な星で、オリオン座の三つ星が、「三博士」、太陽がイエスを表している。つまり、キリスト教は太陽信仰に他ならないとか。ちなみに、ホルス神も太陽神なので、キリスト教がホルス信仰の複製なのだとすれば当然なのですが。

ほかにもイエスが行ったとされる奇跡と同じ奇跡が、やはり、キリスト教以前の宗教の伝説にも存在していたとの事。

キリスト教のシンボルの十字架は「南十字星」から来ているとのこと。これに関しては、イエスが処刑されたとき、イエスが張り付けにされたのは単なる一本の棒であり、二本の棒(複数本)であるところの十字架ではあり得ないという説を聞いたことがあります。


ツァイトガイスト パート1(動画を見て下さい)
http://video.google.com/videoplay?docid=1431037135738418803&ei=2t3KSvWhDI3-wQPj-MmYAw&q=%E3%83%84%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88+%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%881#

487グドウシャ:2010/09/08(水) 05:27:06
Sekkoさま
Sekkoさま、親切なご回答をありがとうございました。とくに、ご回答の中にもありました地縁の影響を再考し、見聞など他者との出会いの中で自分の関心をさらに推し進めていくかを考えていきたいと思います。

聖書の読み方についてもたいへん参考になります。ありがとうございます。

このサイトが続いていくことを願っています。

488Sekko:2010/09/10(金) 01:44:08
神話や宗教
 スルーしようと思いましたが匿名希望様にひと言。

 私が「復活が不思議、何が起こったんでしょう・・・」と書いたのは、復活についてのその後の言説や教義のいろいろな面における他の宗教との影響などとは何の関係もありません。

 キリスト教はユダヤ教と同じくエジプトやバビロンの宗教の神話や典礼の影響を受けていますし、キリスト教が成立するにあたって、別の宗教との置き換えを意識して典礼暦を整えていったのもよく知られた事実です。
 キリストの誕生日を冬至に合わせることに決めた時には、太陽暦の修正法が確立していなくてすでにずれていて、それを修正したにもかかわらず、冬至が21日になっている現在との日付の差は残ったし、夏至も確か同じ理由で聖ヨハネの祝日などがずれたと思います。比較宗教史学はいろいろな興味深い研究がありますから、ネットで拾った安易な「真実」みたいなものは、一人で楽しむだけにしてください。

 歴史研究とか比較研究とか、考古学とか文献考証学とか、何世紀も何世紀も、碩学の先人が積み上げていますが、ある特定の宗教への帰依とか信仰の真実というものは、それらとは別の地平にあるものだと思います。

 キリスト教について言えば、「唯一神がすべてを造り、人は復活して永遠に生きるキリストの体として一体である」というぎりぎりのところを押し詰めれば、キリスト者の使命とはすべての人の兄弟となることだ、と理解できるようになったという神父がいます。こういうシンプルさは大好きです。ここでいう兄弟とは、互いに相手の必要に応じて助け合う存在、という意味でしょう。

誰でも、どこか痛い時には、疾患や療法についての知識の披露を聞くより、痛いところにそっと手を当ててもらうとか優しい言葉をかけてもらうことを望んでいると思います。ここはどちらかというとそういう場所にしたいです。

489あがるま:2010/09/18(土) 03:09:21
<松井冬子「痛みが美に変る」>
日本での学位論文だと云ふ今村純子『シモーヌ・ウェイユの詩学』(慶應大学出版会)にも同じやうなテーゼがありました。
どうやら美女にとつては不幸は美に繋がつてゐるらしい
<認識を阻む不幸の直中で美的感情が溢れ出るところに至高の自由が開かれてゆくウェイユの形而上学において、詩といファクターに着目するならば、私たちは、創造的想像力が構築した『架空の世界』を、すなはち、けつして経験してえない、『無』、『真空』、『ないもの』を、現実の非実在性として認識してしまつてゐるといふ『不思議さ』のうちにある。p.26>
この引用文では難解のやうですが、この本はとても読み易くて博士論文としてのアカデミックな骨格が不足してゐやうにも思はれます。

490:2010/09/18(土) 05:51:38
竹下節子さん
節子さんの本「無神論」を読みました。
具体的に色々書かれていました。
竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、
無神論という本を書かれたのですか?

491Sekko:2010/09/19(日) 00:39:46
無神論の本について
「匿名希望」さま

>竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、無神論という本を書かれたのですか?

そんなことはまったくありません。そう読めたとしたら、私の力不足です。

キリスト教の歴史の中でも、他の宗教もそうですが、どうしても人は「自分」や「自分の家族」や「自分の共同体」の損得や都合によって、神も宗教も変質させていく傾向があり、けれども、それに対して、いつの時代にも、エゴイズムを離れた刷新の力もまた生まれるもので、それによって、「既成宗教」もまた、自分を見直していく、そういう繰り返しだと思います。

キリスト教の中には、人と人が支配関係や依存関係を維持するのに都合よく作られた偶像を破壊する力があると私は思います。(別に他の宗教にはその力がないという意味ではありませんが。)

逆に、キリスト教と称していても、キリスト教信者と称していても、弱い立場の人を従属させたり依存させたり無視したりする個々のケースはあるわけで、そういう場合は、名前が「キリスト教」だからといっても、本質は遠いところにあると思います。たとえ「無神論者」と称している人でも、今目の前に倒れている知らない人をすすんで助けるとしたら、倒れている人にとっては、道路の反対側に渡ってしまうキリスト教信者よりも、「隣人」ですよね。福音書にあるとおりです。

結局は、一人一人が、実際にどうやって他者とかかわって行くかという毎日の実践が問われていると思います。

その意味で、「キリスト者」だと言われるかどうかよりも「隣人」だと言われるように生きたいですが、難しいですね。

492arikui:2010/09/24(金) 23:50:54
司祭になることについて
はじめまして。
フランスの事情に詳しい竹下節子さまに伺いたいことがあります。
最近テレビでフランスでカトリックの司祭・修道女への志願者が激減していて
教区でミサを行い続けるためにアフリカから司祭を招いているというニュースを見てびっくりしました。
世界全体の潮流とはいえ、フランスでさえそうなのか・・・という感じです。
かつては一家から聖職者を出すことは「誇り」のようにとらえられていたと思うのですが(或いは貧しい家庭の秀才にとっては勉強を続けるチャンスという)今のフランス人家庭にとって子供が司祭・修道女を目指すということはどういうとらえ方なのでしょうか?

493Sekko:2010/09/25(土) 23:48:08
arikuiさま
 そうですね。でも、「司祭が足りないから、アフリカから招く」という単純なものでもないです。人口に対する司祭の割合は今でも、フランスはアフリカよりも多いです。
 カトリックでは司祭に叙階される時、特定の司教区か修道院などの所属が決められます。Incardination といいます。五年間以上別のところで働いたら変更も可能だそうです。で、昔はどの小教区にも、所属の司祭がいたんですが、今は、老齢化して、フランスの小教区所属司祭の半数以上が75歳以上です。75歳が一応定年なのですが、司祭不足なのでその半数は現役です。というより、健康状態が許す限りみな続けるようです。
 Pontoiseの例で、181人の司祭のうち、62人がincardineされた人、68人が、他の司教区所属の人(たとえば別の場所の修道会に所属しているとか、企業で言えば出向 立場)、51人が外国人司祭となっています。
 アフリカ人が多いのは、たとえばコンゴなど旧ベルギー領のカトリックがマジョリティの国とかでは、フランス語が公用語だし、フランス語系修道会が根強いので、フランスやベルギーの神学校に入って司祭になる人も多いからです。つまり、言葉を含めて歴史的に関係が深いからです。
 後は、EU拡大で、ヨーロッパ同士の行き来が自由化したこともあり、司祭の数の多いポーランド人司祭がたくさん来ています。人口の規模からいっても、ポーランド人司祭が外国人司祭の中でも多いようです。

 確かに昔は、教育の質のために神学校に行く人も少なくなかったし、一家に一人は聖職者を、という傾向もありました。カトリックの聖職者は独身なので、甥や姪たちにとって持続したスーパーバイザーとしてよりどころになったという側面もありました。

 今はブルジョワのカトリック家庭の子女のグループなどをのぞいて、若くしてカトリックに深くかかわる青年は少ないです。全体として精神的な危機にあたって救いを求める若者はカルト宗教や福音派などマーケッティングがうまいか積極的なグループへと向かいますし、カトリックでも教条主義的なグループとか、「キリスト軍団」のような使命感に燃えたタイプのグループに近づくことが多いです。
 これは、カトリックだけが衰退したということではなくて、今は情報も多く、若者のモラトリアムが許される時代でもあり、すべてについて、昔のように若いうちに「社会での立ち位置を決めて引き受ける」という傾向が減ったことの一部でもあと言われています。昔はたとえば、労働組合の所属は基本のひとつでしたし、結婚も標準でした。今のフランス人は子供は作っても、結婚率はすごく少なくなってます。組合参加率も。

 でも、ある意味で、長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になるとか、自覚的な選択が可能なのは悪いことばかりではありません。
 親が子供の選択をリスペクトする率は日本より高いと思います。

494arikui:2010/10/11(月) 06:49:08
御礼が遅くなりました
Sekkoさま
御礼が遅くなり誠に申し訳ありません。丁寧なご回答ありがとうございました。

>長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になる
ことのベネフィットについては同感です。
問題は「受け入れる」カトリック教会の組織の柔軟性ですよね・・・

495迷える大羊:2010/12/16(木) 22:21:44
東京都「青少年健全育成条例」
 以前から、現都知事が熱心に制定を推進していたこの条例、ついに今月可決されました。それと、キリスト教、宗教に何の関係が?ということは後述するとしまして、とりあえず、この条例がなんなのか?と申しますと・・・。

『非実在青少年』(18才未満の登場人物)の性行為をみだりに性的対象として肯定的に描写した漫画など」を「自主的な区分販売」とし、成人コーナーにしか置かないようにするよう自主規制、です。

 この「非実在青少年」というのが基準があまりにあいまい、との反発をマンガ家、出版社側から受け、「非実在青少年」の言葉が削除し、「刑罰法規に触れる性行為や、婚姻を禁止されている近親者間の行為を、不当に賛美・誇張して描いた漫画など」の表現が加え修正、めでたく?今月条例成立と相成ったわけです。

まあ、この条例については賛否両論いろいろあるでしょうが、その辺はとりあえず脇に置いといて・・。

 個人的に気になるのは、この条例によれば、旧約聖書の「マンガ化」はアウト、思いっきり「成人指定」の範疇に入ってしまうんじゃないのか?近親相姦、ノゾキ、レイプ、親子どんぶり・・などなど、「健全な青少年の育成」に「有害」な要素がテンコ盛りやないか!とふと考えてしまったのですが・・。

 これから東京都下のキリスト教書店などにおいてもマンガ化された聖書本は、一般の神学本、エッセイとは隔離して「成人コーナー」に置かないとならなくなるんですかねぇ?あと、日本を代表する古典文学「源氏物語」も相当にヤバいんじゃ?
 これも、マンガ化されたものは今のように呑気に一般の受験本と並べて陳列、っていうのはダメなのでしょうかね?

 あと旧約聖書が日本・東京で「成人指定」を受け、エロ本扱いされた場合、イスラエルあたりを筆頭に世界の一神教の国々がどのような反応を示すかも気になるところですね。

 しかし、個人的には「青少年健全育成」(偽善ぽくて嫌いです、この言葉)に「有害」なコンテンツは他にいくらでもあるだろうに、なんでマンガ、アニメなんでしょうね?とりあえず、叩きやすいところから叩いてるとしか思えないんですが・・。そもそも、エロマンガの流通と「青少年健全育成」だの、実際の性犯罪だのに本当に何か関係あるんですかね?

 旧約聖書についても、やれ性的に乱脈だとか、矛盾しとるやないか、と散々ツッコミを入れてきましたが、あれが、やたらと「清らか」で「健全」で単純な「勧善懲悪」な話ばっかりだったら・・・。確かに理解はしやすいかもしれないけども、恐ろしく単純で図式的な、感動的ではあってもどうにも底の浅い、それこそ「マンガチック」な有様にとっくに飽きがきて白けきってるかもしれませんね。

 先生はじめ、皆さんはどうお考えでしょうか?

496異邦人ヨハネ:2010/12/18(土) 17:41:59
迷える大羊さん、心配不要では
確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。

497迷える大羊:2010/12/19(日) 13:03:37
(無題)
>確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。

確かにレビ記では主はモーゼに近親相姦はダメって言ってますね。でも、あからさまにそのタブーを犯している連中(サラはアブラハムの妻であると同時にアブラハムの父テラの妻でもある)に何のおとがめもないですし、親子で交わったロト父娘に対しても主より非難やお仕置きが加えられた形跡は・・。
 それどころか、「オナニー」で有名なオナンが交わるべき相手は兄貴の嫁さんですし。ダビデなど部下の妻に横恋慕し、風呂をノゾき、ものにして、旦那は職権でもって最前線の戦場に送りこみ戦死させ・・、鬼のような男ですね(でも、マタイの福音書ではイエス様のご先祖)。ダビデに対しては一応、お仕置きはあるにはあるんですが、何にもやってないヨブが悲惨な目にあわされていることを考えると、随分、罰が軽いっていうか、エコひいきされているよな、やっぱり、アウト、まずいなぁと個人的には思います。

 まあ、「マンガ」にしなけりゃいいんですけどね。しかし、エロマンガ、エロアニメ、その他エロ本の流通と青少年の「健全」な育成だのって本当に何か関係あるんですかね?
 こんな「聖典」を常日頃読んでるクリスチャン、ユダヤ教徒、ムスリムは「変質者予備軍」なんでしょうか?

 大体「肯定的に描写」しているかどうか?なんて誰が何の基準を元にして判断するつもりなんですかね?
 そもそも、条例でいう「健全な青少年」というのがどういう定義なのかわかりませんが、条例の内容を鑑みて、とりあえず性犯罪を犯さない青少年、と定義することにして、未成年の性犯罪ってそんなに増えているのか?統計、データをあたってみましたが、そんな傾向は全然見当たらない、むしろ近年はえらい勢いで減ってますけどね。

http://www.npa.go.jp/toukei/keiki/hanzai_h21/h21hanzaitoukei.htm
(平成21年の犯罪(警察庁))

http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Rape.htm
(少年によるレイプ統計、未成年の強姦犯検挙人数と少年人口(10歳〜19歳)10万人あたりの比率、元ネタはやはり警察庁統計書)

 ただ、これらのデータは日本国全体を対象にしたデータで、「東京都のみ」に絞ったデータは発見できませんでした。また、エロマンガ、エロアニメとの因果関係を調べたデータも今のところ発見しておりません。
 東京都側、現都知事側でそういうデータを持っているのかもしれませんね(棒読み)。

498Sekko:2010/12/20(月) 07:23:17
この話、
東京都の条例って言うところが、知事さんのキャラやキャリアから考えてなんだか、笑える感じがしますね。彼の昔の小説なんかは映画化はされてましたけれどマンガやアニメはなかったんですね、きっと。

そう言えば私は前に、旧約聖書のマンガ化について監修などのお話を相談されたことがあります。でも、そういう細かいこと考えつきませんでした。

よく猥褻物の基準として「劣情を刺激」というのがありますよね。あれもなんだか笑えますね。別に肯定的とか賛美とかじゃなくとも、否定的でも「劣情を刺激される」ことはシチュエーションによってあるでしょうけど。

そういうことを言い出したら、なんでも、マンガとかアニメでビジュアルに表現してしまったら、想像の余地は減ってしまって、タブーの持つ刺激も少なくなるんじゃないかなあ。

まあ、年齢やシチュエーションによってはもう何をどのように見ても聞いても読んでも劣情を刺激されちゃう人もいるでしょうし、そんな心配をするなら、青少年の鬱病や自死の問題の対策を立てる方が急務のような気もします。

後、キリスト教圏の人がどうこう言うよりも、すごく正直に言って、劣情を刺激するだけの表現テクニックなら日本人の方がはるかに進んでると思いますよ。屈折しているのかなあ。ラテン系の人とか一般に単純だと思う。普通のフランス艶笑ジョークとか、日本人には全然おかしくないと思うのは私だけなのかなあ。もちろん頽廃的で倒錯的なすごい文学もフランスにはあるわけで、あくまでも平均レベルの話ですけど。

個人的には、あまりにも進化した日本製のひどいマンガやアニメがフランスに入ってくるのは嬉しくないですし、私がもし、妻とか娘とか恋人とかを愛する男だとしたら、ものすごく嫌だと思います。そういうものがあるからこそ、何が嫌なのか、とか、自分が大切にしたいのは何なのかとかを気づかせてくれるという面もありますね。

499迷える大羊:2010/12/20(月) 22:43:31
「健全」って何?
 お断りしておきたいのですが、別に私だって「いかにも」といったキャラが性器むき出しでナニをしているシーンが露骨なエロアニメ、エロマンガのあからさまな氾濫を肯定しているわけではないですよ。倫理というよりは趣味の問題ですけど。

 でも、この手の問題って結局のところ客観的な基準を設けることが難しい、というか不可能じゃないですか。それにそういったものを不自然に排除した社会が本当に「健全」なのかどうか?はなはだ疑問で。

 それに「青少年の健全な育成」とはいうけれど、自分の子供時代を省みても、大きなお世話っていうか、子供をあまりにバカにしすぎてないですか?という疑問もありますね。

 日本製のアニメやマンガがどうして世界でどうしてウケたのか?というと、いろいろ理由があるけれど、子供だからこの程度でいい、といった「手抜き」がないことがあると思います。つまり、日本製アニメやマンガの登場以前、世界の大抵の国々でマンガやアニメといえば「子供向き」、子供相手だから、この程度の話、なるべく「健全」で「当たり障りのないもの」という呪縛にとらわれていたところが多かった。でも、子供は大人が勝手に考えるほどに世間知らずでも、ものを考えていないわけでもない、自分自身の子供時代を省みても、そういう「手抜き」とか「偽善」は意外とわかっちゃいます。

 そんな中、そういった呪縛に囚われない、子供相手だからといって「手を抜かない」ストーリーやクオリティで作り込んだ日本製アニメがタイミングよく出てきた、というところが大きいと思うのです。
 例えば、40代以下の日本人、特に男性なら大体名前くらいは知っているアニメに「機動戦士ガンダム」なんてのがあります。ロボットがドンパチを展開するアニメ、ってことで内容を知らないと子供向けそのものに見えますが、宇宙植民地の独立闘争とか、人類の進化とか、中間管理職の立場の苦しさ、あと、なんといっても勧善懲悪ではなく、敵側にも彼らなりの正義とか理想があるし、主人公の側にもずる賢い人物が結構いて、一筋縄ではいかないキャラクターばかり、どうみても大人にならないと理解できそうにないストーリー(少なくとも一部のおバカなハリウッド製アクション映画よりは、はるかに「大人」な内容)にも関わらず、子供たちにバカ受けし、関連商品のプラモデルはデパートで奪い合いになるような大ヒット。
 初回放送から三十年経った今も人気は廃れず、「国民的アニメ」になってます。あれが、明るくて「健全」な少年が主人公が「悪い」敵をやっつける内容なら・・、例え子供時代でも観る気なんておきませんね。
 今回の規制が東京都限定とはいえ、日本のマンガ、アニメの衰退のはじまりにならなきゃいいけど、と思う次第。日本のマンガが「スーパーマン」みたいな単純、無難きわまりない、「健全」な「勧善懲悪」ものばっかりになるなんて、考えただけでゾッとします。

 ここで引き合いに出した、旧約聖書にしたって、いろいろツッコんできましたが、あれが「健全」な内容だったら、さぞかし「つまらない」代物だと思います。聖書解説本の中には旧約聖書(新約もだけれども)の毒毒しい部分はカットして、見て見ぬふりをして、当たり障りのない、誰にでも理解できる道徳的な部分しか紹介しないものがありますが、一体、何を考えているんだろう、と思ったりします。実際、それではキリスト教、ユダヤ教は単なる「道徳」とは似て非なるもの、という本質的なところがわからなくなるんじゃないでしょうか?

 

500りゅう:2010/12/23(木) 08:29:52
聖Sekkoによる救い?
カトリック生活1月号の「カトリック・サプリ」を読ませていただきました。
よくわからない点があったので質問させてもらいます。

「でも、神の愛が永遠だとしたら、やぱり永遠の地獄などない。一人で這い上がれなくても、誰かがきっと手を差し伸べてくれる。地獄にいるときはその手をつかむ勇気をもとう。天国にいるときは手を差し伸べる勇気をもとう。」(カトリック・サプリ 最後の段落)

これは、まだ生きている状況のことを言っているのでしょうか。
それとも、死後の話をしているのでしょうか?

死後の話だとすれば、これは完全に異端説になると思います。
神が救ってくれないなら、わたしたちが救おうと言っているように見えます。わたしたちに人を救う力があると言っているのでしょうか。
人を救えるのは神のみで、わたしたちはそのお手伝いをするだけでしょう。
また、地獄に落ちてしまったなら、それを神の意思として受け入れるのではなく、天国にいる神ではない誰かに助けを求めようと言っていますね。

つまりは、
「救いに関しては、もう神様など関係ない。わたしたちで勝手にやりましょう!」
と言っているように見えます。


上のカトリック・サプリの文章は、とても優しい文章に見えて、実は神不在のまま救いを進めようとしている、とても恐ろしい異端説に思えます。
わたしたちの救いはイエスからのみでしょう。
それとも、主イエス以外にも、「聖Sekkoとその仲間たち」による救いも別にあると説いているのでしょうか?

解説をお願いします。

501Sekko:2010/12/24(金) 04:16:06
りゅうさまへ
誤解を与えてすみません。

死後のことは私には分からないので、とりあえず、ここでは、生きているうちに「天国にいるような気分だ」とか「地獄にいるような気分だ」とかいう精神状態の意味だと考えてください。

その前のところで、神の愛の関係性においては生と死とか時空は関係ないと書いたので、死後だとか生きているうちだとか限定しなかったのです。


実はこの部分を書いていた時にははっきりと、LYTTA BASSET という女性牧師で神学者が人間の脆弱さとキリスト教について書いたエッセイが頭にありました。

『LA FRAGILITE faiblesse ou richesse? 』(ALBIN MICHEL)

この人のことは前にも『カトサプ』で書いたことがあるのですが、息子さんが自殺した後でどのように喪を生き、生き続けたかという貴重な体験を語ってくれる人です。

その中で彼女は、ラザロが死んで悲しみにくれているマリアとマルタの姉妹の様子が描かれた福音書のシーン(ヨハネ11)について解説しています。

姉妹はラザロが病気なのでイエスのもとに使いをやって助けを求めたのですが、イエスはすぐに動かず、ラザロは死んでしまいます。姉妹は絶望します。

埋葬後四日も経ってからようやくイエスが到着するのですが、その知らせを聞いて、マルタの方は、すぐに迎えに行きます。ところがマリアは家に引きこもったままです。絶望のあまり、イエスの到着の知らせも耳に入っていなかったのでしょう。

で、先にイエスに出会ったマルタがうちに戻り、マリアを呼んで「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちします。これを聞くとマリアはすぐに立ち上がってイエスのもとに行くのです。

このことからリタ・バセは、人は愛する人を失った絶望の中にいる時には、主の呼びかけも聞こえないことがあるが、そんな時でも、他の人が手をさしのべてくれると起き上がれることがあるのだ、と言っています。マリアが立ち上がることができたのは、自分の意志ではなく、マルトが耳打ちしてくれたからなのです。

愛する人を失うような絶望のどん底で、神の声がきこえない、というのはいわば「地獄」の状態で、そんな時には人はなかなか自力で脱出できません。でも、知らせにとびついて先に駆けつけてイエスの声を聞けたマルタが耳元でささやいたことでマリアに知らせが届いたように、知らせに耳をすましているような幸せな人に助けてもらえれば、誰でも絶望から脱することができるかもしれない、という話です。

思えば、聖人と呼ばれる人たちは、まさにその役目を果たしてくれる方たちなのでしょう。

いわゆる崇敬の対象になる聖人たちはキリスト者の生き方の模範として推奨されているわけです。でも、誰でも、生きているうちに、周りの人よりは元気があるとか余力があるとかいう人、恵み感じているような人は、自分の周りで苦しんでいたりぐったりしたりしている人に声をかけたり助けたりしなさい、と言うことだと思います。それは地獄にいる人を救えるとか救いなさい、という話ではありません。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と、取り次ぎをしなさいという話で、誰でもその役目に招かれているのだと思います。

リタ・バセは、人は毎日寝て起きるように、そうやって、小さな死、喪失を経験しながら、それでも、呼ばれ、陽に照らされ、再び目を覚まし、生き始めるのだとも言っています。(彼女を息子の死という「地獄」から出るようにと導いてくれたのは、聖母マリアでした)

私も、毎日少し落ち込んだりしていても、究極の救いに信頼を置いている人たちのメッセージには励まされて、そのうち、また起き上がることができます。

連載では言葉が足りなくて申し訳ありませんが、この文を補足させてくださってありがとうございました。りゅうさま、みなさま、メリー・クリスマス!!!

502りゅう:2010/12/25(土) 00:05:55
解説ありがとうございました
解説ありがとうございました。

カトリック・サプリの中盤くらいに、個人的に異端だと思っているテイヤール・ド・シャルダンの引用があったり、ニーチェが出たりと、かなり疑いながら読んでいました。
ド・シャルダンが否定している地獄は、間違いなく「死後の地獄そのもの」でしょう。

また、解説を受けた今も「神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などない」の表現は良くなかったと思います。

辛いことや悲しいことを経験すると、自分の人生を『永遠の地獄』と思い込むこともある。そのような時「天国の状態にある人」は手を差し伸べる勇気を持とう。
解説を読んだ今は、そのように受け止められます。

しかし、ド・シャルダンの引用があり、その後に『神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などはない。』と言われると、死後の地獄を想定すると思います。

ここで解説してもらえて安心しました。
質問をしたおかげで、新たな良いお話も読めて、カトリック・サプリを二度楽しむことができました(^ー^* )♪

メリー・クリスマス♪

503迷える大羊:2010/12/31(金) 08:55:50
アカのイエス?
 聖書読んで、イエス様のお言葉について、いつも気になるのは、どこまでが本気?どこまでが冗談?どこまでが譬え?どこまでが挑発、皮肉?なのかが今一つ判然としないこと。

 その中でも、特に気になるのは「金持ちの青年」の話(マタイ19章16−30、マルコ10章17-31、ルカ18章18−30)

 何がか、というとイエスって私有財産制を否定しているのかな?今でいうところの共産主義者(それも過激な)なのか?ってこと。
 それも財産だけならまだしも、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑、みんな捨てろ、といっているのだから穏やかではないですよね。

 字句通りに読むなら、共産主義的な平等社会を理想として、しかも、出家のような形で教団みんなが加わることにより実現しようとした、ととれますが。

 しかし、出家っていうとオウム(現アレフ)の「出家信者」を連想してしまって、どうにも落ち着かないです。個人的に・・。あと「親兄弟を捨てろ」のくだりは、スターリン政権下のソ連や文化大革命中の中国といった旧共産圏で、「反党分子」は親兄弟であっても告発、密告した歴史を思い浮かべてしまい、ぎょっとします。
 もしかして、イエスが処刑されず生き延びていたら、スターリンや毛沢東ばりの独裁者になっていたんだろうか?と失礼かつ恐ろしい想像すらしてしまいます。

 それとも、現実には不可能であることは承知で、あえて弟子や、弟子志願の青年の「覚悟」を試す意味で「言ってみた」だけなのか?どう解釈すればいいんでしょうね?

 字句通り解釈すれば、高額所得者、セレブのクリスチャンは「あり得ない」話ですし、クリスチャンは全財産を捨て去り、無一文にならなければならないことになりますね。
 これですと、十一献金どころの話、騒ぎではなくなってしまいますが・・

504迷える大羊:2010/12/31(金) 09:11:18
ダビデへのエコひいき
 連続投稿失礼します。旧約聖書を読んで思ったことなんですが・・。主はどうして、ダビデに「甘い」んでしょうか?
 これまでに何度か触れましたけど、トンでもない男ですよね。

 人は殺しまくり、部下の妻、人妻の風呂を覗いて、横恋慕して、ナニをして、旦那は最前線の戦場に送り込んで亡き者にして・・・、鬼畜の如き所業。この哀れな旦那の他にもダビデに殺戮された者は数知れず・・。

 一応、主も彼にお仕置きはしているんですけど(寝取った部下の妻パテシバとのの赤ん坊は亡くなったり、領民が殺されたり)、彼が行ってきた殺りく行為、レイプの数々と比較して、どうにも軽い感じがするのは否めない、なんといっても彼自身は無事だし、と思うのは私だけでしょうか??

 なんといっても主、神様がおかしいのは、後世の王様を残酷な目にあわせるとき、いつも、都合よくダビデの所業を忘れて

 「しかし、我が僕ダビデが私の戒めを守り、心を尽くして、私に従って歩み、私の目にかなう正しいことだけを行った・・」(列王記上14章8節、新共同訳聖書より)

 あまり、主に向かってこんなこといいたくありませんが、「アホですか?どこに目をつけてるんですか?」といいたくなります。
 一体、ダビデのエピソードで旧約聖書の記者はどんなメッセージを送りたいんでしょうか?主の御贔屓にあずかれば、どんな悪さをやってもOKとか、世の中力がすべて、という身もフタもない不条理な教訓しか読み取れませんが・・。

 それにしても、私もダビデのように主の御贔屓にあずかれればなぁ、と思う次第。

 よい御年を。

505Sekko:2011/01/06(木) 06:58:48
謹賀新年
年末年始でバタバタしていてお返事遅れてすみません。

まず最初の話。

金持ちの青年の救いの話の方ですが、これについてはいろいろな人が解説しているし、説教も読めるので、ネットで検索してみてください。

ポイントは、後半にあるのだとは言えます。

つまり、金持ちが天の国に入るのはほとんど不可能(だってらくだが針の穴を通る方より難しいんですからね)なのですが、そういういろいろな掟だの条件を超えて、

「人間にできることではないが、神には何でもできる」

というところであって、人間が掟をあげつらって完全になるとか天国に行くとかについて仕分けすることはできない、というのが分かります。

確かに初期キリスト教会はかなり原始共産制に近かったですが、それはイデオロギーではなかったし、支配のツールでもなかったわけです。

次のダビデの依怙贔屓ですが、これはもう、キリスト教的には、ナザレのイエスが人と神との新しい関係に入って行くにあたって、どのような文化的、歴史的、宗教的な文脈に現れたのかということを知るための大きな流れとして読んでいくしかないですね。

まあ、政治や権力を担う人を宗教のリーダーになる、あるいは、宗教のリーダーが政治や軍事のリーダーになると、いつの時代も結局は大変なことになるわけで、だからこそ神はついに自分の独り子を武器を持たさずに送りこんだということになるのかもしれません。

ダビデというと、去年の夏に広尾の山種美術館に行くために恵比寿から歩いて行くとミケランジェロの巨大ダビデ像の型どりコピーが道路沿いに立っているのでびっくりしたのを思い出します。ゴリアトを投石で殺した若きダビデはそれなりにオーラがありますが・・・

アメリカのメガ伝道師たちは、アブラハムもダビデもソロモンも経済的に恵まれていたのだから宗教的指導者が経済的に恵まれることは望ましいのだと堂々と言ったりしているようなんですが、これはもう、キリスト教と違いますよね。

キリスト教のメッセージで何が本質的なのかというのは、素直に読めばキャッチできると思います。多分大羊さんも分かっていらっしゃるのでしょうが、どうしてもダビデの所業やその評価なんかが気になるあたり、それは、ひょっとして、別のレベルの不信感が形を変えて現れているような気がします。まあ、今年もぼちぼち行ってください。

506迷える大羊:2011/01/06(木) 22:06:32
明けましておめでとうございます
 いつも、御世話になります。不快な表現もあるかもしれませんが、これでも、聖書は私なりに真面目に読んでいるつもりですし、キリスト教についても真剣に考えているつもりです。信じていただけないかもしれませんけど・・。というか、真面目に、真剣に聖書を読んだり考えたりすると、却ってワケわかんなくなりますね。
 まあ、単に察しが悪いだけかもしれませんが・・。そういえば、ペテロも察しが悪いというか、いまいち空気が読めないところがあって、イエスによく叱られる印象がありますね。なんていうか、絶妙なボケとツッコミというか・・。

>だからこそ神はついに自分の独り子を武器を持たさずに送りこんだということになるのかもしれません

 しかし、現実にイエスについてきたのは、どう考えてもダビデタイプの救世主を期待しているユダヤ民族主義者が大部分で・・。なんでまた、イエスってこんな過激派を連れて歩いたんでしょうね?いずれ、彼らの怒りやら憎しみやらを買い、裏切りを招くことはわかりそうなものなのに・・。また、どうして自分は旧約でいうところのメシアとは違うってあっさり認めなかったのかな?とも。

>ゴリアトを投石で殺した若きダビデ

 重箱の隅をつつくわけじゃないんですけど。私は以前、ダビデは投石一発でゴリアテを殺した、とばっかり思いこんでいたんですが、聖書を真面目にじっくりと読んでみると違いました。
 確かにダビデの投石はゴリアテの額に命中するんですが、致命傷にはなっておらず、戦闘不能に陥らせただけ。そこから、ダビデは倒れたゴリアテに駆け寄り、ゴリアテの腰に差している剣を奪い、とどめを刺し、首をちょん切って絶命させた・・、というのが聖書の記述ですね(新共同訳聖書 サムエル記上17章49〜51節)。
 聖書を真面目に読んでみると、聖母マリアとかイエスの誕生(馬小屋で云々)とか、教会や一般的に信じられている伝承と実際の聖書の記述って微妙に、あるいは全然違っていることが多くて、なんだか戸惑ってしまうことが多いです。

 それにしてもなぁ、ダビデに関してはやっぱり納得がいかない、どう考えても神様を一番ナメている人物としか思えないんですが・・・(笑)。

507今紫:2011/01/08(土) 23:49:46
謹賀新年
 竹下先生、明けましておめでとうございます。そしてお久しぶりです。

 昨年は複雑な年でした。サタンが勢力を伸ばしているようです。
さて、先生の著書である『陰謀論にダマされるな』を拝読しました。確かに事件やスキャンダルの裏には陰謀が存在するといわれますが「陰謀論」になりますと、却って物事の判断を誤らせる危険性があることを知りました。私は中丸薫氏やベンジャミン・フルフォード氏の著書やサイトを拝読することがありますがこれも決して惑わされないようにすることが大切なのですね。
 おしまいに著名なエクソシストのアモルス師の言葉で覚えている箇所があります。
 「オカルトの木は真の信仰が翳ると育つ」
 イエス様が「偽預言者には警戒せよ」とおっしゃっているのと同じです。真の信仰をゆるがせる「陰謀論」「カルト」「ニューエイジ」「マシューブックス」に対してどの様に接したらよろしいのでしょうか?
 『聖者の宇宙』も拝読しました。改めて聖人の世界を味わうことができました。どんな英雄や偉人、新宗教(カルト)、各宗教の原理主義も彼らには敵わないでしょう。本年の活躍を期待いたします。

508迷える大羊:2011/01/09(日) 12:41:06
不信感
 >不信感

 ああ、これはですね。まあ、以前から抜けない疑問、でこちらでも何度かお話しさせていただいてはおりますが、キリスト教やクリスチャンの世界では、聖書にどんなに理不尽な話、明らかにひどい話があっても、「これは何か意味があるに違いない」「いや、聖書は侵略、略奪行為を正当化などしていない」なんて無理やり思いこまなければいけないんですかねぇ・・ってことですね。

 正直、私、旧約聖書にはどうにもついていけないものを感じることが多くって。ダビデの話なんてまだいいんです。どうにも個人的に「これは問題だ」と思わざるえないのは、ヨシュア記。

 神様はイスラエルの民に「足の裏が踏むところすべてをあなたたちに与える」と約束。しかし、そこにはすでに異民族が居住。で、主はどうしたか、っていうと、城門を閉じて抵抗する(当たり前ですね)現地人(異民族)への攻略方法をイスラエル人に指南した上、略奪行為に「お墨付き」を与えているのですから恐れ入ります。
 とにかく、イスラエル人に占領された異民族の街は男も女も若者から老人に至るまですべて抹殺されたのだからすさまじい限り。

 これ読むと、「ああ、道理でパレスチナ問題は解決しないはずだ・・」とため息が出てきますね。第三者や非ユダヤ教徒、非クリスチャンからすると「超勝手」「自己中」、としか言いようがない理屈、所業でも、イスラエルの民、ユダヤ教徒からすれば「主のご命令」だし、占領地は「約束の地」なのですから、話がかみ合うわけないですし。

 でも、私がわけあって関わっている教会(プロテスタント)の牧師さんなんかは「聖書は侵略、略奪行為を決して正当化していない」って言い張るんですよね。察しが悪く、素直でもない私などは「ええ??どこをどう読んだらそんな風に解釈できるんだ〜??」と頭を抱えざるえないんですが・・・。
 ていうか、クリスチャンの世界じゃ、たとえ聖書でもおかしい個所はおかしい、っていったり考えたりしたらいかんのかなぁ、という疑問と、何か必死に自分の理論を正当化しようとして、歪曲に歪曲を重ねている姿が見えてくるようで、白けてしまいました。

 どうも、聖書の過剰な神聖化は考えものだなって思うのと、別にカトリック関係者のサイトだからいうわけではないのですが、聖書に対する接し方とか距離の取り方はカトリックの方が「健全」かもなぁ、と思った次第です。

 あと、私のイエスやキリスト教についての考え方っていうのは、時に過激なこと、首を傾げたくなるようなことも言ったりやったりする、胡散臭いところもあるけれど、でも、その教えや生きる姿勢には共鳴するし、この社会において様々な良き部分を担ってきた、特にあまり目に見えない部分での良き部分を担ってきた、その存在が世の中や自分を良い方向に変える可能性を信じます、といったもの。

 しかし、「この程度」ではクリスチャン失格みたいなんですね。「それじゃ、ガンジーなど、一般の偉人と同じなんです、信仰にはならないんです」のだそうです。さらに「イエス様がこの世に来られたのは人が虫けらになったことに匹敵するすごいことなんです」なんて熱く語られてしまいました。
 キリスト教にシンパシーはこれでもあるんですが、そこまで「強烈」に「信じる」ことを求められるんじゃ、厳しいな、と思った次第。

 ところで、うまく言葉で言えないんですが、先生やこちらに集う皆さんの信仰の「度合い」ってどの程度のものなのでしょうか?やはり、私程度の「信仰」は「甘すぎる」「生ぬるすぎる」ものなんですかね?

509Sekko:2011/01/10(月) 07:21:46
今紫さま
ご愛読ありがとうございます。

確かにキリストも釈迦も、呪術的な世界から人々を解放しようとしているのはすばらしいと思います。

それでも人は自分や大切な人の老病死などを前にすると、どんなあやしいものにでもすがってしまいますし、神仏も願いをかなえてもらう取引相手のように見てしまったりします。最悪の場合は、自分や自分の大切な人以外の利益や安全は損なわれてもいいくらいの気にもなりかねません。だとすると、「サタン」はきっと私たち一人一人の心に潜んでいるのでしょう。それを飼いならし、すべての人にとってそれぞれ一番いい道が開けるようにと願うばかりです。

今紫さんにとって今年が充実したものとなることをお祈りします。

510Sekko:2011/01/10(月) 08:24:56
大羊さま
まず最初に、これは、「善意の近所のおばさん」程度のスタンスでのお答えなんで、それ以上のものではないことをお断りします。

大羊さんが、もし、そんなに、

「聖書についてみんなと同じように考えるのでなくてはうちの共同体の仲間に入れてやらないよ」

だとか

「うちの仲間になるのなら、うちの考え方に完全に合意しなくてはならないよ」

というタイプの共同体と関わっているとしたら、大羊さんが向こうを変えることは絶対にできないと思うし、よほど洗脳されない限り納得できることもないと思うので、細部にこだわって悩むのは時間の無駄だと思いますよ。

キリスト教は旧約部分を聖典に取り入れることでキリスト教が歴史的にどう位置付けられてユダヤ教を普遍宗教として仕上げるに至ったかを明らかにしているわけですが、

民族宗教であるユダヤ教の文脈では神さまは明らかに民族神であり、氏神みたいなものですから、他民族の利益なんて眼中になくても自然な感じがします。

でも、多神教が一般だった世界から、「私だけを拝め」とオンリーワンの方向に進化したユダヤ教の一神教体質のおかげで、地縁血縁を超えたすべての人がキリストの名のもとで救われるという普遍宗教が誕生したのだから、普遍主義擁護の私の立場としては感謝です。

イエスもユダヤ人によるバイアスのかかりまくっていたユダヤ教を普遍的な隣人愛に敷衍ししてくれましたし、神との契約や律法を解釈する人々の恣意性を批判しました。それに続く人たちも、人種民族性別立場の差を超えて誰もがキリストの体の一部として永遠に生きる有機体を構成しうるというイメージを与えてくれたので、その連帯生命力の可能性の前では、旧約のヘンなところのごり押し正当化など、無意味というよりマイナスととられても無理ないですね。

普通のキリスト教シンパの人は、ただ、自分より弱い者や小さい者を気づかう、大きくて強いものより小さくて弱いものを優先する、という教えだけ、実践をできるだけ心がけるだけでよく、キリストやキリスト教の名のもとにそういうことを実践している人を助けたりリスペクトするだけでいいと思います。

もちろん他の宗教でも同じような利他の勧めはありますし、それは結局、あまりもの極端なエゴイストは人間の歴史の中で結局自然淘汰されて、ある程度の利他に価値を認める遺伝子が生き伸びて社会を構成してきたからだと思います。そういう意味で利他には普遍性があります。

もちろん、強いものが弱いものを縛り支配するという社会もいつの世にもあるわけですが、そんな時に、いつも勇敢で身を賭しても弱い人を救ってきた宗教者や信仰者は出ましたし、その価値は測りきれません。

キリスト教の場合、イエスを偉人として見ているだけではなく、その復活と聖霊降臨の場面で何かが起こったことによる信仰が核になっているので、それに関しては、その意味がインスパイアされるかどうか、または「回心」に至る歩み方は、人それぞれだと思います。

大羊さんの場合、大切な奥さまの関わる共同体ということで、どうしても「理解したい」と思われるのかもしれませんが、

じつは、最近ついブログ http://spinou.exblog.jp/15742118/
に書いちゃったんですが、他宗教とのすごく楽で平和な共存方法は、その共同体のことを宗教だと思わずにカルチャーだと思えばいいのではないでしょうか。

もちろん、信じている人たちにとっては宗教であるのですから、それを否定するわけではありません。でも大羊さん自身はまだ宗教を求める心になっていないし帰属欲求もない、だからその共同体を「大羊さんにとっての宗教」として吟味する必要もないということで、カルチャーとしてリスペクトすればいいのでは?

夫婦に別々の愛読書があったり、別ジャンルの音楽が好きでも、互いにけなしたり強要したりしなければ、理解をしあって棲み分けたり、たまに相手の好きなコンサートにつきあったりと、平和で豊かな関係が築けるのと基本的には同じだと思います。

本当に内面的な神との関係などは別でしょうが、所詮人間が集まって作る共同体には、その時々の組み合わせで特殊な展開をすることは大いにあると思います。

大羊さんのように健全な批判精神と奥さまを思いやる心があれば、きっといい方向に行くと思いますよ。今年がいい年でありますように。

511迷える大羊:2011/01/13(木) 04:43:34
聖書に従う、とは??
 いつも、お忙しい中、御丁寧に恐れ入ります。ところで、どうして私は、「それは聖書にいかに書いてあるかで判断します」とか「聖書は誤りなき神の御言葉」なんていっている人々をみると、イライラして、聖書のヘンなところをいろいろあげつらいたくなるのだろう?とあれこれ考えてみました。もちろん、聖書とか神だとかイエスだとかを貶めているわけでもなければ、バカにしているわけでもありません。

 で、結論としては、その「ウソっぽさ」もさることながら、自分の意見や自分の好き嫌いにすぎないものを「聖書の権威」を借りて正当化したり、自分の意見に対して自分自身で責任を持とうとしないその姿勢(それは神の御意志ですとか、聖書に書いてあるからとか)に苛立ちを感じるんだ、と気付きました。

 例えば、キリスト教の世界では同性愛者に大抵否定的です。で、同性愛者に否定的なクリスチャンは大抵、「聖書に罪と定めてある」と、聖書を引き合いに出します。これが、私からすると、非常に「ウソ臭く」感じてしまうのです。じゃあ、そんなことをいっている人々、そのように言うクリスチャンって、本当に聖書に定めたとおりの生き方をしているのか?って話です。

 確かに「同性愛者は死ななければならない」(レビ記18章22節、20章13節)と聖書にありますが、同じように、「反抗的な息子は殺せ」(申命記21章18節以降)と書いてありますし、また、「結婚している兄が死んだら、家系を絶やさぬように、弟が兄の妻と再婚しろ」(参照:申命記25章5節以降)とか、その他、面白いのとか過激なのとかが、いろいろありますが、そういった掟を全部守っているクリスチャンがいるかと言えば、そんな人は世界中探しても、まずいないでしょう。

 にも関わらず、同性愛の禁止(とか自分の個人的な主張、趣味趣向に沿う部分)に関してだけは敏感になって「聖書に書いてある」と言い出す人がいるわけです。
 自分が守ってもいないし、従ってもいないくせに、その聖書を盾に自分の主張を正当化する、聖書を自分の目的のために都合よく利用する、という根性が気に食わないのです。

 こういうことを言いだす人々って、聖書の記述で、自分が守り切れない、あるいは納得できないものは「神はこのような不完全な私をも赦してくださいます」などと言って逃れ、
 自分が守る必要を感じないものについては、「これはユダヤ教の律法であって、キリスト教はこれを克服した」などと言ってスルーし、 自分でも守れるな、これは、と思ったものについては順守を頑固に主張する、と・・。

 要するに、判断をしているのは自分の主観であって、聖書はそれに後から理由をつけるために都合よく利用しているだけだろ、と言いたくなってくるのです。自分の主観に過ぎないものを、神の意志、聖書の意志であるかのように称するのは、自分で判断したことや発言したことに対して自分で責任を取らない事にもつながるんじゃないの?それってある意味、聖書やイエス、神に対する冒涜なんではないの?と思うのですが・・。

 まあ、キリスト教に限らず、信仰にはこういった独善に陥る危険性は多かれ、少なかれ付きものだと思いますが、このような独善に対しては、どのように対処、あるいは自制すべきなのでしょうね?

512arikui:2011/02/14(月) 21:31:34
ようやく
質問ではないのですみません。ようやく日本でも「神々と男たち」が見られることになりました。お蔵入りかと心配していたのですがシネスイッチ銀座で3月5日から公開されます。ブログを拝読して興味を持っていたので楽しみです。

513:2011/02/19(土) 23:54:37
ルカの福音書第16章
ルカの福音書第16章は聖書中の最難関といわれています。不正な管理人のたとえが記載されています。

イエスは、弟子達にいいました。

主人に一人の会計管理人が雇われていました。この男は主人の財産を無駄使いしていると告発する者がいました。主人は会計管理人を呼んでいいました。

「あなたのことについて聞いていることがありますが、本当はどうなのですか。会計の報告を出しなさい。管理を任せておくわけにはいきません」

会計管理人は考えました。

(どうしようかな。主人は私から会計の仕事を取り上げようとしている。土方をする力もないし、乞食をするのも恥ずかしい。そうだ、いい考えがある。会計の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような人を作ればいいんだ)

そこで会計管理人は主人に借りのある人を呼んで、最初の人に

「私の主人にいくら借りがあるか」

と聞きました。

「油100缶だ」

というと、会計管理人は

「これがあなたの証文です。急いで50缶と書き直しなさい」といいました。

また、別の人に「私の主人にいくら借りがあるか」と聞きました。

「小麦100俵だ」というと会計管理人はいいました。

「これがあなたの証文です。80俵に書き直しなさい」

主人はこの、不正な会計管理人のやり方をほめました。

「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らより賢くふるまっています。不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば金がなくなったとき、あなたはがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえるでしょう。ごく小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実です。ごく小さなことにも忠実でない人は、大きなことにも忠実ではありません。だから不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当の価値あるものをまかせるでしょうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたのものを与えてくれるでしょうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を軽んじるか、どちらかです。あなたがたは、神と富に仕えることはできません」

この「主人」は原典では、ルカがイエスにだけ使用した「ホ・キュリオス」となっていますので、通説では「主人」はイエス自身であるとされています。また、このたとえは弟子達に話されています。

イエスの会計管理人は、ユダですので、これはユダへの皮肉なのかもしれません。ユダは横領の疑いをかけられていたのかもしれません。

俗説では、「富の追求の批判である」とか、「唯一無二の主人であるべき神への忠誠の勧めである」などといわれていますが、はっきりしないように思います。教会の関係者に聴いても、明瞭な解釈を示してくれた人はいません。直後に、この話を聞いていた金に執着するファリサイ派の人々が、イエスを嘲笑ったと書かれています。

禅問答のようなこのルカの福音書第16章ですが、聖書というテキストの奥深さを感じさせてくれる一章だと思います。

ルカの福音書第16章について、どのようにお考えでしょうか。長年の課題ですが、まだ、はっきりした結論がだせないでいることの一つです。

514Sekko:2011/02/20(日) 20:53:46
ルカ16章
いいテーマですね。

私はイエスのたとえ話の中でこの手の、説教者が「・・・」となってしまいがちなものが好きです。初期教会の頃から、「不都合なエピソード」を削除するチャンスがいくらでもあったと思うのにちゃんと残しちゃうのが、かえって本物っぽい感じがするからです。

「神からのお告げ」というのは言葉にした途端に何らかの解釈や恣意が入りそうですが、周りの人と同じ言葉を使って話していたイエスの言葉の聞き書きって、もちろん伝聞の不確かさはあっても、「ちょっと変」なものを残しているところが誠実な感じがします。

特にこの話は、

「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らより賢くふるまっています。」

と、明らかに、信者にとって一見「不都合」な対比がありますからね。

まあ、いろいろなこじつけに近い解釈がたくさんあり、一番まともそうなものは、その前の「失くした銀貨の話」や「放蕩息子の話」の流れで読むことで、神の前では数字の多寡などこの世の物差しは関係ないという風に読むものです。また、「金を作るより友達を作ることの方が大事」という意味だとか、「ここでの『金』とは愛のことで、愛を独り占めにするとよくないので他の人にも大盤振る舞いをすることで赦されるのだ」とか、「誰でも自分の罪を十字架のキリストに背負わせて購ってもらうので、その手続きを罪人が他の罪人にしてもいいのだ(つまりここでは、横領していた人が、勝手に別の人の借金も軽くする)」という意味だという人もいます。

私は、今のネオリベラル経済の世界の中での格差の問題とアラブ社会で次々と起こりつつある民主主義革命との関係を見ていると、このエピソードがよく分かります。

いや、このエピソードが「よく分かる」というより、このエピソードを通して見ると現実世界の状況がよく見えてくる、といった方がいいでしょう。

聖書の「?」な箇所、特に「科学的に見て『?』な箇所」の取り扱いには、一つは非神話化というか、ここはシンボリックな意味であり実はこういう意味なのだ、という風なやり方があります。でも、聖書の記述を無理に「リアル」に合わせるよりも、「リアル」の出来事を、聖書の記述を通してシンボリックに解釈していく方が、目が開かれることがあると思います。

長くなるので私の見方については別のところでまた書いて、あらためてここでお知らせします。

http://setukotakeshita.com/

515:2011/02/21(月) 00:16:18
マタイの福音書第8章
子供の頃、カトリック系の学校に通っていたため、聖書は、若い頃から比較的よく読んでいました。処女受胎や復活の奇蹟話は、古代人の牧歌的な物語だと思っていました。それでも、イエスの言説には、いくつか興味深いところがありました。例えば、マタイの福音書第8章のローマ軍の百人隊長の僕の病気を直すところなどです。

当時のエルサレムは、戦後の日本がアメリカの属国だったのと同じようにローマの支配下に置かれていて、ローマ軍が街を闊歩していました。そうした中でこの事件は起きたものだと思います。

民衆の中にいたイエスは、ローマ人の百人隊長から「部下が中風で寝こんでいるんだ。何とかしてやってくれ。そいつの家に行かなくたってお前ならできるだろう。俺だって別に動かなくても、手下の兵隊どもに行けといえば、行くし、来いといえば来るのだから、お前ほどの力があれば、部下のところに行かなくても、ここでできるだろう」といわれます。

百人隊長の手下達は、面白おかしくイエスを嘲笑したかもしれません。

この時、イエスは、ユダヤの民衆に向かって毅然とこういいます。

「皆さん、お聴きになりましたか、この隊長さんは本当に素晴らしい方です。イスラエル中探してもこの方ほど信仰に厚い方はいないでしょう。そう、いつの日か、東西から大勢の異国の方々がやって来て、天の国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくでしょう。隊長さん、お帰りなさい。部下の方の病気はもう直っています」

子供心に、この状況下で、とっさにこの対応をしたイエスという男を心底すごいと思ったのですが、カトリックの教会関係者に聞くと、この話は、最初からすごく熱心なイエスの信者だったローマの百人隊長が、懇願してイエスに部下の病気を直してもらった奇蹟話だと、皆、一様に主張します。

マタイの福音書第8章についてどう思われますか。長年の懸案の一つです。

516Sekko:2011/02/21(月) 01:33:40
百人隊長の話
ここのところはそんなに不思議だとは思いません。

百人隊長は別にそんなに挑発的な態度をとったのではなくて、むしろ懇願していたのでは?

「自分はあなたにふさわしいものではないですが頼みます。」と謙虚なイメージもあります。

ここのところで私がすぐ思い出すのは前に訳した『聖骸布の仔』(中央公論新社)の中で(p157)、主人公がこのくだりを思い出して、「自分はとてもあなたをうちに迎えられるようなものではありませんがひと言だけ言ってください」と願うシーンです。
ローマ人の家にユダヤ人が入れないという事情を差し引いても、ここは、「直接に触れていただくのは無理ですがひと言だけでも・・・」という切羽詰まった気持ちが背景になっています。このエピソードはルカやヨハネにも類似のものがあるので比べて見てください。

あ、今、日本語で検索してみましたら、こういう分かりやすいものがありました。

http://gnarly.at.webry.info/201009/article_7.html

ご参考に。

この話で私にとって面白いのは、「遠隔治療ができるかどうか」というテーマです(すみません、信仰とあまり関係がなくて)。

触ってもらうのはもちろん、言葉をかけるだけとか、後ろから衣に触れるだけで癒されるとか、いろんなイエスの「奇跡」がありますが、

「あなたの信じたとおりになりますように」という言葉がもらえるのは最高ですね。

日本にキリスト教宣教師が来た時も、加持祈祷の僧たちは病人のそばにつきっきりで平癒祈願をしたのに効かなくて、宣教師たちは「自分ちで祈って治した」ので感心されたというようなエピソードもあるようですが、今のカトリックの聖人システムにおける「奇跡の治癒」も、その伝統にあるんでしょう。

まあこのエピソードのヨハネ・バージョンではイエスも「不思議なわざを見なければ決して信じない」というのはいかがなものか、という態度を見せていますが・・・

「遠隔治療」は今でも「実はよく聞く話」でもあるので、すごく興味があります。

その治癒を本人か近くの人が必死に望まないと「ひと言」は伝わらないのかもしれません。される方が望まないのに遠隔操作できたら呪いだってかけられてしまいそうで怖いです。

日本でミッションスクールに行かれていた方たちは、みなそれぞれに聖書の一節などにいろいろな思い出や思い入れもおありなんでしょうね。回りとちょっと切り離されているから独特な感じで残るのかも・・

http://setukotakeshita.com/

517:2011/02/22(火) 03:37:15
イエス・キリストの本質
外典のトマスの福音書には次のような記載があります。

あるとき、イエスが村の道を歩いていると、一人の少年が走ってきてイエスの肩にぶつかった。イエスは腹を立て、「この道を二度と歩けないようしてやる」と言い放った。すると、その子はすぐに死んでしまった。その子の親は、驚き、怒り、イエスの父であるヨセフの家にやってきて文句を言った。「こんな恐ろしい子と同じ場所に住むことはできない。この子を連れて、村を出て行くか、それとも、このような呪いの言葉を二度と口にしないよう教育することだ」と。ヨセフは、イエスを呼び、叱ったが、イエスは次のように答えた。「お父さんの気持ちもわかりますから、そのようなことは口にしないようにします。でも、あの人たちは、必ず罰を受けることになりますよ」まもなく、イエスを訴えた人たちは、みな目が見えなくなった。それを知った人々は怖れおののき、イエスが口にすることは、善いことも悪いことも、必ず成就すると言い合った。

また、正典のマタイの福音書第21章には、次のような記載があります。

「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかに何もなかった。そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』といわれると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」

神の子イエスの悩み、苦しみの原点は、こうした事象の積み重ねのなかから形成されてきたものなのではないかと思います。

「山上の垂訓」はイエスのオリジナルではなく、エッセネ派のテキスト死海文書にその原型を見ることができますが、イエスの伝えるところに奇妙な説得力があるのは、だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向け、下着を取ろうとする者には、上着も取らせないと、その者達が、いちじくの木のように死んでしまうためなのではないか、そういう懸念を常時、持つなかで培われてきた思考なのではないかと思うわけです。

反対に、神の子イエスを信じ、敬愛する者には、様々な神の恩恵とご加護がもたらされています。キリストの復活の奇蹟により、その効力は、2000年以上たった今も健在で、数多くのキリストを敬愛する人々が、今も、その恩恵に預かっているのではないか。エトワールの素朴なキリスト教観は、以上のようなものです。

間違っているかもしれません。

遠隔治療についてですが、パソコンを通じてのネットでのボードゲーム対戦(囲碁、将棋、チェス、オセロ、バックギャモンなど)の経験がある方であれば、思いあたるのではないかと思うのですが。パソコンの向こう側にいる相手からパソコンを通じて強烈な気を感じることがあると思います。相手が強者の場合、それは、まだ、何の情報も伝わっていない開戦前の対面の時から不思議と分かるものです。この原理を応用すると、遠隔治療も可能であろうと思いますし、例えば、絵画、書、彫刻などを通じての時間を超えた治療というものも行えるのではないかと思います。

これも、間違っているかもしれません。

新約聖書は、繰り返し読んでいますが、特に誰かに教えてもらったり、解説書を読んで、定説の解釈を覚えたりしたことはありません。あるがままに自分自身が、テキストから読み取れた内容について、時間をかけて考えているだけです。もちろん、キリスト教徒ではありません。それでも、この思想は、非常に魅力的な古代の思想であり、また、有効なものだと思っています。

518Sekko:2011/02/22(火) 04:10:06
本質ですか・・・
そんな大仰なタイトルでへんな話を振らないでください。どうフォローしていいか分かりませんから。

この外典の話は確か、その後で、少年イエスに呪われた人たちは全員あっさり癒されるんですよ。
イチジクの話は何となく笑えます。このことについて、パレスチナ出身の人がイチジクの季節を知らなかったはずがない、これはイエスが青森出身の日本人だった証拠の一つ、っていう変な議論を読んだことがあるのも思い出しました。

まあ、深入りしても意味のないものはスル―してください。

これ以上お答えできないのでForum3の雑談に移動してください。

ネットゲームなどで相手の気みたいなのが感じられるとか、あるいはPCそのものがある時点でやけにパーソナルな反応をするというのは私も聞いたことがあります。おもしろいですね。死んだ人が電話とかテレビとかパソコンとかの回線を使ってコンタクトしてくるとかいう話もありますね。死んだら実験したいです。実はこういう実験をしようねとある人と約束していたことがないでもないんですが、実際は、怖くて怖くて・・・
自分が死んだらやってみたいですが、こちら側でキャッチするのは怖くて嫌です。

http://setukotakeshita.com/

519:2011/02/26(土) 08:55:29
ヒルデガルド・フォン・ビンゲン
こちらのサイトにあるヒルデガルド・フォン・ビンゲンに関する記載を大変興味深く拝見しました。

オーストリアの軍医ヘルツカによって紹介された薬草(ハーブ)研究家のヒルデガルドと中世の無伴奏ボーカル曲の作曲家ヒルデガルドが同一人物だということを初めて知りました。

彼女の挿し絵は、カール・グスタフ・ユングの象徴図(マンダラ)や仏教の曼荼羅によく似ています。また、幻視体験(ヴィジョン)の記述は、大乗仏教の仏典「無量寿光量経」と似ているように思います。

中世ヨーロッパ最大の賢女と言われているのもうなずける気がします。

バーバラ・ニューマンの「ヒルデガルト・フォン・ビンゲン 女性的なるものの心理学」(村本詔司訳 新水社)がよい研究書といわれているようですが、他にも、ヒルデガルドに関することが記載されているよい邦訳本はあるものでしょうか。

少し、研究してみたいと思っています。

520Sekko:2011/02/27(日) 07:35:20
ヒルデガルド
彼女のことは是非まとめたくて、サイトに少しずつ書いていこうとしていたのですが、後回しになっています。

日本語では種村季弘さんの『ビンゲンのヒルデガルトの世界』を読んだことがありますが、私的には今一つでした。フランスにはいろんな切り口のものがあります。
私もいつかは挑戦したいです。

http://setukotakeshita.com/

521:2011/03/04(金) 03:10:50
エフライムの木
旧約聖書のエザキエル書第37章に次のような記載があります。

主の言葉がわたしに臨んだ「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上にユダおよびその友であるイスラエルの子孫のためにと書き、また、一本の木を取って、その上に、ヨセフ及びその友であるイスラエルの全家のためにと書け。これはエフライムの木である。あなたはこれを合わせて、一つの木となせ。これはあなたの手で一つになる」

日ユ同祖論の根拠とされる旧約聖書の記述です。


旧約聖書の系図です。

アブラハム = サラ
     ↓
イサク = リベカ
     ↓
エサウ(兄)
ヤコブ(弟) = レア(姉)
        = ラケル(妹)
        ↓
       ユダ他
       ヨセフ = アセナテ
           ↓
          エフライム


古事記の系図です。

スサノウ = アマテラス
      ↓
オシホミミ = トヨアキツシヒメ
      ↓
ホアカリ(兄)
ニニギ(弟) = イワナガヒメ(姉)
        =  コノハナサクヤヒメ(妹)
        ↓
       ホデリ他
       ホホデミ = トヨタマヒメ
            ↓
       ウガヤフイアエズ

この二つの系譜の構造はそっくりです。

1 エサウもホアカリも毛人といわれていました。

2 コノハナサクヤヒメとリケルは絶世の美人で、レアとイワナガヒメは今一つの容姿です。ニニギとヤコブは、この姉妹をいずれも妻にします。

3 ホデリ(海幸彦)は、ホホデミ(山幸彦)が釣り針を失くしたことを責めて海人の国へやります。そこでホホデミはトヨタマヒメと出会います。ヨゼフは、兄達にいじめられ、エジプトへ売られて行きます。そこでアセナテと出会います。

ウガヤフキアエズとその妻タマヨリヒメの子供が神武天皇ですので、この系譜の一致は、とても不思議なことだと思います。

個人的には、8世紀の創作物である古事記に、聖徳太子の厩戸伝説などとともにネストリウス派キリスト教(景教)の影響が色濃く反映されたものなのではないかと思っていますが、長年の関心ごとの一つです。

エフライムの木=古事記と旧約聖書の系譜の構造の一致について、どう思われますでしょうか。

522Sekko:2011/03/05(土) 01:18:53
相関?
一定以上の情報量のあるcorpusを比較して、「似ている部分」を取り出して並べて「偶然とは思えない相似」と驚かせる手法や「トンでも説」は山のようにあります。

その手際に感心させられることもありますが、その意図とかねらっている効果とかに警戒心を抱かされることも多いです。

宗教や民族に関する言説でそういう話をするのは誤解のもとなので、コメントしません。あしからず。

http://setukotakeshita.com/

523:2011/03/09(水) 23:37:33
構造主義
学生の頃、構造主義が流行していて、邦訳で、ソシュールの「一般言語学講義」やレヴィ・ストロース、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ミッシェル・フーコーなどのテキストを読んでいました。言語、親族の構造、神話などから始まった構造は、その後、商品、貨幣、資本、無意識、狂気、囚人などへ対象範囲を広げ、さらには、料理、服飾、文学、チェス、サーカスなども構造主義の対象となり、ロラン・バルトにいたっては、プロレスまで構造主義の対象にしてしまいました。自分では、その頃、彼らを、皮肉をこめて「構造主義の達人」と呼んでいました。

ポスト構造主義については、よく知りません。

現在、構造主義は、フランスで、どのように評価されているのでしょうか。また、フランスの人々は、今でも、構造主義のテキストを読まれているのでしょうか。

ルイ・アルチュセールのテキストを一番熱心に読んでいましたので、1980年11月におきた不幸な事件には、ひどくショックを受け、その後、構造主義のテキストをあまり読まなくなりました。今でも、新聞報道を読んで、とても驚いた時のことを、思い出すことがあります。構造主義のテキストから、いろいろなことを学びましたが、自分では、まだ、完全には整理しきれていない感じです。

524Sekko:2011/03/10(木) 07:10:32
ポスト構造主義など
私も学生時代が構造主義全盛でした。なつかしいですね。
まあ構造主義がその後どのように展開したかなどはネットで検索するか別の一般質問掲示板にでも問い合わせてください。

私は日本で構造主義を知り、その後フランスに住んでいる者としての印象だけ言います。

言語構造主義が人類学や民俗学や比較宗教などに応用された時、それまで、日本にいて「欧米思想」を学んでいた人たちにとって、

東西の文化の差などは表面に現れた差であってその底には人類共通の語りの構造だの、普遍的な概念図式だのがある、と言われたのはちょっとしたグローバリゼーションというか、自分たちの言葉で自分たちの文化から構造を抽象してグローバルに語るという快感があったような気がします。

同時に、ほぼ並行して、すでにポスト構造主義のデリダの脱構築のような言説も入ってきました。「文化的差異の奥には普遍的な隠れた構造がある」というのはいわば理神論や無神論のヴァリエーションであり、一神教的ヨーロッパに中心となる視座をもつものである、という批判のもとに、構造が解体された中心なき相対主義が流行ることになったわけです。
文化や社会現象の意味は多様であって、構造主義の「構造」をなしていた二元主義的価値観の要素は否定され、すべてはグラデーションをなしているかのようでした。

この構造主義からポスト構造主義への推移は、常に疑似科学的な衣をまとっていました。キリスト教的自由意思を駆使したリベラルなユマニズムにおける人間主体の世界観から、非宗教的で中立的で普遍的な価値を探ろうとしたわけです。

そこにアメリカ的なコミュニタリアニズムだとかマイノリティの尊重などの流れも加わったので、日本では

「欧米中心主義の時代は終わったよね、今はアジアが面白いよね」

という動きも生まれまして、その一部は内向きになり、縄文文化礼讃とかナショナリズムにまで向かったように思います。

フランスではアングロサクソンの共同体主義に対抗する普遍主義の伝統があるので、「普遍主義の中での相対主義」という構造主義的立場が今でも根強くあります。
「普遍=絶対」ではないわけで、相対主義は、普遍主義が全体主義に向かわせない有効な歯止めとなっています。

それは思想のトレンドなどではなく、政治理念として残っているわけです。

今の世界は全体としてはまだまだ蒙昧や宗教原理主義や狂信や人権無視がはびこっていますから、過去にそれらに対する最も有効な防護策として登場した「普遍理念」自体を脱構築的に相対化して有名無実にしてしまうのは100年早いと私は思います。

フランス人の一般がどうとかは分かりませんが、

「理念や価値観というのは、個人や社会にとって、具体的な行動の規範になる選択を倫理的に決断したものであるべきだ」

と考えている人たちが確実にいて、私はその一人です。

今のアラブ世界の民主「革命」を見ていて、自由とか民主主義というものがただのスローガンなのか、どの程度の普遍性と実効性があるものか、それらは果たして民族や文化によってヴァリエーションがあるものなのか、などについて考えています。

日本にとって「舶来」の自由とか民主主義は常に「言葉」であって、倫理的に決断して選択した行動規範ではなかったと思います。アメリカが持ってきたものも「言葉」で、彼らの行動は一貫してパワーゲームでした。

この辺の事情について今いろいろ考えているところです。

http://setukotakeshita.com/

525:2011/03/17(木) 23:04:58
普遍主義
3月11日に発生した大地震の被災地に在住していましたので、パソコンが不通になり、返信が遅れてしまいました。

とても丁寧な回答をいただきましてありがとうございました。何度も繰り返し、丁寧に読み返しました。

「理念や価値観というのは、個人や社会にとって、具体的な行動の規範になる選択を倫理的に決断したものであるべきだ」

という考え方は、自己の無意識に忠実に粗野に生きている自分自身には、縁遠い感じの生き方のように思いましたが、そういう風に過ごすのが、本当は一番よい生き方なのではないかと思いました。

構造主義以外にも、カール・グスタフ・ユングの集合的無意識、チョムスキーの生成文法、ジョルジュ・バタイユの蕩尽、カール・ポランニーの経済人類学、マイケル・ポランニーの暗黙知など、1970年代〜1980年代に流行した思想は、普遍主義を元にしたものが多かったように思います。

例えば進化論にしても、日本には今西錦司教授の今西進化論が、多くの支持を集めていましたし、吉本隆明の共同幻想、廣松渉の物象化論なども、広義の意味での普遍主義に位置付けられるのではないかと思います。

デカルト、べーコン以降、近代の主流となっていた「主観−客観」図式(二元主義的価値観)から、ハイデッカーの「世界−内−存在」図式の出現を踏まえ、ベトナム戦争、ドルショック、オイルショック、公害、オカルトブームなど1970年代に起きた様々な事象から「近代の終焉」とか「近代の超克」というテーゼが、掲げられていた頃のことです。

これらの思想潮流が十分総括されないうちに、ベルリンの壁が崩れ、ソ連が崩壊し、オウム真理教の一連の事件が起き、世紀末を迎え、9.11が起き、イラク戦争を経て、今日を迎えています。

今は、思想的にも、とても混乱した中にいるような気がします。シンプルで分かりやすい明瞭な新しい思想潮流が現れることを期待しています。

そうしたもので、何かご紹介いただけるよい知らせはないものでしょうか。

526:2011/04/06(水) 21:19:25
現象学について
現象学の定義がよくわかりません。
? ある本には、"主観と客観の融合"であるとか、ある本では"実在の予想に基づく態度を排除し、ありのままの「事象そのもの」を明らかにするもの"とか本によってさまざまです。わかりやすく簡潔にお願いします。

メルロ・ポンティについて
(1) 彼によると、"私たちは身体によって他者や世界と関わっている"(身体図式)ということですが、これは物事を認識するにあたって、身体で感じるもの、身体に触れるものでなければ、認識できてないという解釈でよろしいでしょうか?
もし間違いであれば、ご教授願います。
(2) 彼の"身体図式"の説は、どういうところが"現象学"と呼べるのでしょうか??と関連して、お願いします。

527:2011/04/06(水) 21:20:40
フッサールについて
本に、"自然的態度を変更し、世界の存在を括弧にいれて(判断中止=エポケー)、そこにあらわれる志向性を有する自我意識を観察すると、世界の意味がわかってくる"とありましたが、
(1) 彼のいう「志向性」とは、人間がもっている"思い込み"と解釈してよろしいでしょうか?
もし違うのであれば、ご教授願います。
(2) "世界の存在を括弧にいれて"とは、どういうことでしょうか?
(3) これは、「あす事象がある」という前提をいったん保留して、ある程度自分のもっている知識や情報をもとにある認識を解明すると、その意味が確信できるという解釈でよろしいでしょうか?
もし間違いであれば、ご教授願います。
(4) 彼の説のどういうところが"現象学"と呼べるのでしょうか??

528:2011/04/06(水) 21:22:03
現象学
「実存主義者である、ハイデッカーやサルトルも、文献によれば現象学の部類に入っています。
彼らの説のどの部分が、現象学なのでしょうか?

529Sekko:2011/04/11(月) 07:53:42
現象学について
エクリチュール千代丸さまへ

哲学質問箱と言った言葉で検索してここにたどり着かれたのかとお察ししますが、申し訳ありませんが、ここは一般的なあるいは教科書的なお答えをする場所でないので、別の質問サイトや、あるいはキイワードの検索でお調べください。

ここを見ていらっしゃる私の読者のみなさんのためにひとこと付け加えておきますと、私は、カトリック神学と現象学の関係に非常に興味を持っています。

フッサールの弟子だったエデイット・シュタインが現象学を捨てて神学に向かったのとは反対に、後にヨハネ=パウロ2世となるカロル・ヴォイティラ(以下JP2)は、神学と現象学(これもシュタインと同じくフッサールの弟子でユダヤ系でカトリックに改宗したマックス・シェーラーの価値倫理学がJP2の学位論文)を統合しました。スコラ哲学のトマス・アクィナス神学を現象学によって読み替えたのです。トマス神学では、神にのみ絶対の権利を認め、人間同士の権利や義務は相対的な関係性にあるという立場でしたが、JP2は、倫理や価値は人間の外にあるのではなく人間の自己像という意識化と切り離せないものだと考えました。
私が行動を起こす、という能動と、何かが私の中で起こる、という受動の二つが、内在性と超越性というものが同時に作用しあうという意味で、自己表現に結実すると考えたのです。(Personne et Acte)

まあ簡単には説明できませんが、結論から言うと、現象学的倫理学に依拠するカトリック神学を模索した結果、JP2は「基本的人権は共同体に優先する」という方針に至ったわけです。それまでのカトリック教会は、そこのところが曖昧というか、自分たちも共同体優先だったので、20世紀の全体主義や全体主義的共産主義に対して明確な弾劾ができなかったのです。
ところがJP2はトーミズムの現象学的再考によって、むしろ福音書のイエスに近いラディカルな平等主義、個人の尊重、共同体の縛りからの解放、自律としての自由を志向したので、あれほど徹底した社会主義陣営との戦いを展開できたわけです。

これらについては今準備中の本でもう少し分かりやすく解説するつもりです。

ここではこのテーマは打ち切りですのでよろしく。

http://setukotakeshita.com/

530:2011/06/05(日) 15:24:17
post modern
竹下さんお久しぶりです。小谷野敦です。震災以来、まともな知性の持ち主まで陰謀論にはまっていて困って竹下さんの本を見てみました。すると「ポストモダン」という語が出てきたので気になりました。私はポストモダンというのは建築の用語以外には使えないと考えていますが、竹下さんはどういう定義で使っておられるのでしょうか。

531Sekko:2011/06/05(日) 23:14:22
ポストモダン
私の『陰謀論にダマされるな!』(ベスト新書)で使われているのは、陰謀論を解説する心理学者が使っているという文脈だと思いますが、そこでは、ごく普通に、つまりWikipedia なんかで出てくる程度の意味です。「大きな物語」の終焉とあるように、リオタール風の意味でもあります。世界は民主主義と人権主義、自由平等、という方向に向かって「進歩」していくはずだし、進歩しなくてはならないという確信に基づいた歴史観があって、それに基づいたシナリオが構成されていたのが「西洋近代」であり、ポストモダンとは、その西洋中心史観が崩れて脱中心、相対主義が基本になった、という意味です。歴史の流れを説明する教科書的権威が否定されたので、そこに陰謀論が繁殖する土壌が用意されたという感じでしょうか。

私個人的には、「西洋近代」とは、キリスト教的理念の非宗教化、世俗化ととらえているので、ポストモダンとは、「西洋近代」の基盤をなす世俗化されたキリスト教的理念の否定だと考えています。「西洋近代」は反教権的イデオロギーの理神論に拠って打ち立てられたもので、ポストモダンは、さらにそのイデオロギーを否定したものであり、そのままでは「非キリスト教社会」の文化の文脈には組み込めないものだと考えています。つまり、20世紀後半にフランス構造主義などによって広く共有された近代批判とは区別して考えています。
『陰謀論に・・・』は、その前の『無神論』とセットになって構成されたものです。

これについて話し出すと長くなるので、ここではこれだけで失礼します。

http://setukotakeshita.com/

532:2011/06/06(月) 12:59:34
小谷野敦
どうもありがとうございます。リオタールの使い方はヘーゲルを前提にしたもので、竹下さんはポパーに言及しているので、ヘーゲルを踏襲するのは変だなと思ったのです。また、私の考えでは、人権・自由・平等といった理念は未だ全然否定されていないので、ポストモダンはおかしいだろうと思ったのです。

533迷える大羊:2011/06/15(水) 22:13:56
サムライとキリスト教
 先日、新聞の中の方をペラペラサクサク見ておりましたら、2013年のNHK大河ドラマは、新島襄の妻・新島八重を主人公とした描き下ろしドラマに決定とか。

 新島襄はいわずと知れた、明治6大教育家の一人であり、クリスチャンであり、彼の創設した同志社大学はいわゆるミッションスクールです。その新島襄は安中藩士の家に生まれていますし、「武士道」で有名な新渡戸稲造(は盛岡藩士の息子、津田塾大学の津田梅子は旧幕臣の娘、内村鑑三(高崎藩士の家)、坂本竜馬の甥の坂本直寛・・、といった具合に、今さら何を、と思われるかもしれませんが、幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね?

 ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。
 個人的には、元新撰組で、坂本竜馬を斬った疑いが濃厚な今井信郎氏とか、元新撰組なのかどうかはあやふやですが、結城無二三とかに興味ありますね。単純にあの斬ったはったの血で血を争う抗争に明け暮れた日々からクリスチャンというのはなんともすごい転身、いろいろな紆余曲折、第三者からみると面白い人生を歩んだんだろうな、と思いますし。

 ところで、サムライといえば、海外では未だに日本のステレオタイプの主要な位置を占めているようですが(こんな動画がネット上に腐るほどありますし)、

http://www.youtube.com/watch?v=1-C40DliUTI&feature=player_embedded

 そのイメージは肯定的なものなんでしょうか?それとも否定的なものなんでしょうかね?
ただ、いずれにしても有名なのは戦士、軍人としての部分で、こういう側面(宗教家、教養人)はあまりしられていないんだろうなぁ、とは思いますが・・。
 

534Sekko:2011/06/16(木) 06:17:59
明治のクリスチャン
>幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね?

>ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。

やはり、当時の知識人階級が「洋学」を吸収するのとセットとなって入ってきたからではないでしょうか。いくら「和魂洋才」といっても、19世紀後半にピークに差しかかっていた西洋近代進歩思想は、特にプロテスタント国やWASP文化と結びついていたから、洋「才」を学んだエリートが洋「魂」にも染まったのは不思議じゃないと思います。

それに比べてフランスなどカトリック国は、その時代、もうがちがちの政教分離へと向かっていたので「洋魂」部分はかなりパーソナルなものになっていたかと思います。

もちろんフランスのパリ外国宣教会などは、開国した日本に宣教師を送っていましたが、17世紀に壊滅したはずの幻のキリシタンの子孫を見つけようといったところにロマンを見出していたような気もします。

要するに、カトリックは16世紀にイエズス会とかフランシスコ会とかが、かなりがんばって日本で布教したのに弾圧されて大量の殉教者を出して、一度、ストーリーが終わっていたわけです。それでも、それに対するノスタルジーみたいなのはずっと語り伝えられていたわけで、そのこだわりはなかなかでした。隠れキリシタン発見の感動ストーリーなど有名ですね。

16世紀末から17世紀はじめにかけての大量殉教者と武士道との関係を述べる人もいますよ。
あの頃すでに戦略として大名が宣教されたこともありますし、家長が改宗したら一家郎党全員改宗という感じだし、一度改宗したら後でいくら迫害されても「節を曲げない」というのも武士的美学のうちだし、それなりの相性はあったのかもしれません。

サムライは、カミカゼとテロリストが結びつけられて以来かなりイメージが微妙ですが、今でもフランスでは柔道や合気道のスポーツクラブによくついている名前だし、ネガティヴではないと思います。ま、教養人というよりはやはり体育会系のイメージですけれど・・・

http://setukotakeshita.com/


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