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おしゃべりルーム

1032若生敏由:2021/11/01(月) 15:06:27
『リバティ・バランスを射った男』について
『リバティ・バランスを射った男』の紹介を、興味深く読ませていただきました。

<<「サボテンの花」がアメリカの広大さと、東部と西部の異質さのシンボルのようになっているわけだ。>>

 このような理解、さすがだなとおもいます。

 私がこの映画を見たのは、14年前のことでした。見たのは、映画館ではなく大学の講義室ででした。県立高校の教員として、退職まであと数年という時期だったのですが、学校図書館の運営責任者となり、司書教諭の免許を取得したほうがよかろうというおもいで、夏休みを利用して地元の大学で必要な講座を受けることにしました。そのときの担当教員が多趣味な方で、講座の最後にこの映画を見せて、単位取得の条件として、レポートの提出を要求したのです。
 西部劇はそこそこには見ていたのですが、この作品の存在はそのときまで知りませんでした。鑑賞しながら、自由について柔軟に考え直す必要を感じたのを憶えています。
 印象深い映画作品を思い出させていただけたこと、竹下さんなりの見方に触れることができたこと、嬉しくおもいます。

 実は、かつて書いたレポートの原稿を読み直してみました。少々長めですが、一読していただければとおもい、おもいきって、ここに貼り付けさせていただきます。



『リバティ・バランス』という映画は、魅力的でありながら不思議さが残る作品だった。

 なによりもまず、悪役の名がなぜリバティ・バランスとされたのか。リバティは自由あるいは解放という意味だし、バランスは均整あるいは安定という意味だ。どちらも、普通は肯定的な意味でしか用いられない。ところが、あの映画のリバティは、まだ州として自治が確立する以前の西部の地で、どこかの牧場主に雇われている用心棒という風体で登場する。雇主からの給金だけでは満たされない欲望を、旅の途上の幌馬車を襲撃して金品を強奪するという手口で充足させている。どう見ても、その挙動は無法者であり、ならず者というという枠組みにしか収まらない。作品の舞台であるシンボーンという町の住民は、その名を耳にしただけで恐れをなし、その姿を見れば震えあがって静まりかえってしまう。そういう役柄にリバティ・バランスという名が与えられている。

 脚本家の狙いは何なのか。なにもかもは分からない。そこで精いっぱい推測をはたらかせることにした。確信は持てないが、リバティに対抗する主人公ランスの別称を手掛かりにしてみた。

 映画のなかで、主人公を取り巻く人間のほとんどは、当人をそのままランスと呼んでいる。ただ、度胸のよさと銃さばきでリバティにも一目置かれているトム・ドニフォンだけは、ランスをなぜか「ピルグリム」と呼びかけていた。字幕では、それを「先生」と訳していた。おそらく、その役柄を意識して「弁護士先生」とでも捉え直したのだろう。捉え直しが悪いわけではないが、それでは原語のもつ含みが薄まってしまう。おそらく脚本家の念頭には、「ピルグリム・ファーザーズ」という言葉が去来していたはずだ。そうおもうのは考えすぎだろうか。しかし、西部の地にアメリカの良心を体現する人物を赴かせるとなれば、「新世界」の原点でもある言葉は、少々からかい気味の言い方がなされていても、やはりその属性をこめて用いられているだろう。

 ピルグリム・ファーザーズを、まだカタカナ表記にためらいがあった時代の日本の教科書では「巡礼始祖」と訳していた。その訳語には、使命感を抱いていた移住者たちが清教徒であったということで、多分に宗教的な含みがとどまっていた。ピルグリムという語だけを取り上げるなら、「遍歴者」「放浪者」「旅人」としても用いられる。このようなことを背後に置くと、あの映画の主人公は、旅人は旅人でも「理念や信念を持った旅人」という存在として見えてくる。さらに、ランスが弁護士であるということを踏まえれば、西部の事情をよく知るトムからピルグリムと呼ばれるのにもそれなりの根拠があったのだともおもわれる。

 ランスという名は、「槍」を意味する。またその名に近い「ランスロット」という言い方になると、アーサー王物語の円卓の騎士のなかでもっともすぐれた騎士の名になる。すると、ランスという名は、直接的には武具を意味して必ずしも肯定的ではないが、そこにピルグリムという属性が加わると、肯定的な含みが際立ってくる。ランスという主人公は理念の実現のため、あるいは未熟な理念を鍛えるために、ひたむきにたたかうという建設的な使命を担う存在だったのだろう。

 そうすると、ランスとリバティ・バランスの対抗関係はどうなるか。リバティは、名前は肯定的であるとしても、そのなりふりは否定的で、恐怖そのものの役柄を与えられている。それは自由という理念が無法と変わらないありかたにとどまっていることの象徴ともとれる。無法者が求める秩序は、暴力による威圧的な均衡状態(バランス)以外にはない。そこに「理念と信念を持った旅人」(ピルグリム)が現れ、あえて武器に手を出す役柄(ランス)を引き受け、威圧による秩序ではなく法による秩序を形成するいとなみにいのちを賭ける。映画の展開は、ランスの働きかけによって、シンボーンの町が、おそるおそるの歩みながらも、どうにか自由の秩序を定着させていく流れになっている。それは、悪漢リバティの無法状態を克服し、理念にもとづく安定した(バランスのある)コミュニティを実現していく過程である。もっと言うなら、リバティとバランスという言葉が本来の肯定的な意味に生まれ変わっていく過程でもあるだろう。同時にそれは、自由であることが肯定的な理念であるためには、法による保証を不可欠とするのだということが了解される過程にもなっている。リバティ・バランスは、そのような過程が現実のものとなるために、意味ある障害を体現する悪役だったのだ。言い換えるなら、その役柄は、自由が恣意的なありかたにとどまっていて、正義を望む声が法を引き寄せる以前の段階の無法者であり、その威圧力に永続性があるわけではないという証しなのだろう。

 言わずもがなだが、自由とは何でもありということではない。特定の生き方や一様の価値や権威にとらわれることなく、それぞれの人が個人的によき生き方を求める条件こそが、自由の出発点になる。つまり自由は求めるものではなく、むしろ守るべきものなのだ。したがって、守る手立てのないところには自由はありえず、よき生活も望めない。

 では、自由を守るものは何なのか。それぞれの人が求めるよきあり方が対立したり矛盾したりしないような配慮の必要を保証する力が自由には欠かせない。そうした力といえば、やはり多くの人々が納得する妥当な理念にもとづく法になるだろう。

 法を制定すれば、いつでも秩序が安定するわけではない。その次には、法を共同社会に定着させる工夫が問われる。『リバティ・バランスを射った男』という映画は、その工夫の必要な現実と、その現実を生きる人間の多様なありかたを、説得力のあるやりかたで描いてみせた。その際、一方的に理念を振りかざすのではなく、苦悩を強いられながらも、地道に学び合う人間関係を結ぼうとすることが理念をはぐくみ、さらには法を根付かせていくのだというような展開がとりわけ好ましかった。


 だらだらとして、迷惑だったかもしれません。
 失礼しました。









 




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