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古代科学史掲示板

1管理人:2018/05/08(火) 19:42:26
赤井川・ウトナイ湖・幌満隕石ルート
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000001M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000001_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000001_3M.png

連休中は、北海道各地のクレーター探索をしていました。

今回は、一昨年掲示板で論議して、先の会報7号にも掲載した北海道各地のクレーター落下ルート(図1参照)のうち、岩淵先生ご指摘の赤井川のクレーター状地形を起点として、ウトナイ湖、幌満・様似(隕鉄の採れる鉱山がある)へと伸びるラインを探索してきました。

詳細なルートについては、また後日お知らせしますが、図2のようになります。図3はウトナイ湖です。

概ね25度前後のラインとなり、地軸の傾斜角から年代を推定できると思います。

それで、先日も指摘したのですが、ウトナイ湖も、支笏湖同様に、半月型のクレーターです。

なぜ、隕石の落下の際に、円形ではなく、半月型のクレーターとなるのかが課題でしたね。

この件を物理学的に解明したいと思います。



334 史実探偵: 平 素人:2019/12/18(水) 01:36:01
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000339M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000339_2M.jpg

http://houshizaki.sakura.ne.jp/tuboseyama.htm



335青面金剛:2019/12/19(木) 13:30:44
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> > >「この銅鐸の有る無しを確かめるのに・論はいらない」がぬけていました。
> 「総社市岩屋に、大量銅鐸の有る無し <だけ> を確かめるのに・論はいらない」
> その<だけ>の言葉がぬけていました^^!。・それに行動力もぉ^^?(滝汗〜〜)
・・で、より多くの誰かさんに、託したいと思い、咎(デメリット)を承知でそのピンポイントの発表にうつりました。  ・・・で、より多くの参加者・共立者を募りませんか^^?
>????はい。出雲にも、行ったことがありません。
> 坪背山(壷背山)(つぼせやま)島根県出雲市

★ 禁足地での発掘申請には、よりハードルの高い「論」が必要とされ、それすら無いのでは、係官が申請書を一瞥しただけで、却下されてしまうのがオチです。

★ 総社市岩屋の方では「実行」と「行動力」を力説する人が、坪背山には行こうともしない。言っている事と、やっている事が正反対の人が、参加を呼び掛けた処で、誰も付いて行きません。

★ 管理人さんが、この次に、出雲へ行く時に、連れて行ってもらうのが、好いかも知れません。主な観光コースも巡っていないのでは、命主社と出雲大社(素鵞の社)、日御碕神社と伊奈西波岐神社を廻った後に、最後に坪背山を通るのが好いかも。

 私は一昨年に日御碕灯台の上まで登ってきました。平さんは無理かも知れません。

336管理人:2019/12/19(木) 22:45:26
鬼の岩屋
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000341M.png

https://www.jalan.net/kankou/spt_33208af2172073698/#basicInfoArea



337 史実探偵: 平 素人:2019/12/20(金) 07:03:44
Re: 鬼の岩屋
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000342M.jpg

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201607.html



338 史実探偵: 平 素人:2019/12/20(金) 23:36:31
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-10.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



339青面金剛:2019/12/21(土) 06:50:03
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>  今後、それらが出土してから騒ぐか、素人の欠ける部分を補完されて楽しむかは、先さまや、この掲示板をご覧になっている皆さましだいです。
> (註)(?マーク)は、予想した埋封(まいふう;筆者の造語)場所で、未だ未掘です!

★ 結局、平さんは、自分が立てた説にも拘わらず、自分からは一切動かずに、他人に、けし掛けて居るだけの人。

>↑犬墓山石碑(この上にオニの生首をか?)
★ 平さんの文中には、地元の方々への配慮が見られません。

おかやま桃太郎ものがたり 吉備津彦と温羅
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fokayama-kanko.net%2Fdigitalbook%2F_SWF_Window.html

☆ この紙芝居にも描かれている様に、温羅は製鉄の技術力を以って、農機具や漁具や狩猟器具を広め、豊作や豊漁を地元にもたらしました。岡山では毎年、「ウラジャ」の踊りを若い方々が舞って、吉備津彦に敗れた「温羅と仲間たち」の功績を讃えています。

★ 発掘許可申請者が、「地元の方々へ配慮が出来る人物かどうか」、も許可の判断材料の一つです。平さんの無神経さでは、地元の方々とのトラブルを引き起こしてしまい兼ねない、と敬遠されてしまいます。

☆ 先祖から数十世代をも経て、奇跡的に繋がってきた、古伝承以外は、平さんの勝手な盲説でしかなく、平さんの人生と共に終わるだけ。
 「先祖からの言い伝え」を最初からオープンにして、各方面に持ち掛けていれば、何人かの専門家も動いた筈です。

★ 釜石まで遠出できたのなら、近場の出雲には、容易に行けるでしょう。平さんが「坪背山の現地レポート」をここに書き入れる時まで、この議論は、しばらく休止とさせて頂きます。


340青面金剛:2019/12/23(月) 02:38:39
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
?? 史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>  今後、それらが出土してから騒ぐか、素人の欠ける部分を補完されて楽しむかは、先さまや、この掲示板をご覧になっている皆さましだいです。
> (註)(?マーク)は、予想した埋封(まいふう;筆者の造語)場所で、未だ未掘です!

★ 結局、平さんは、自分が立てた説にも拘わらず、自分からは一切動かずに、他人に、けし掛けて居るだけの人。古い坑道や竪坑が沢山残っている、危険の高い坪背山の探索を、他人に頼るのは、無責任極まりない。各方面から無視されて当然です。

>↑犬墓山石碑(この上にオニの生首をか?)
★ 平さんの文中には、地元の方々への配慮が見られません。

おかやま桃太郎ものがたり 吉備津彦と温羅
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fokayama-kanko.net%2Fdigitalbook%2F_SWF_Window.html

☆ この紙芝居にも描かれている様に、温羅は製鉄の技術力を以って、農機具や漁具や狩猟器具を広め、豊作や豊漁を地元にもたらしました。岡山では毎年、「ウラジャ」の踊りを若い方々が舞って、吉備津彦に敗れた「温羅と仲間たち」の功績を讃えています。

★ 発掘許可申請者が、「地元の方々へ配慮が出来る人物かどうか」、も許可の判断材料の一つです。平さんの無神経さでは、地元の方々とのトラブルを引き起こしてしまい兼ねない、と敬遠されてしまいます。

☆ 先祖から数十世代をも経て、奇跡的に繋がってきた、古伝承以外は、平さんの勝手な盲説でしかなく、平さんの人生と共に終わるだけ。
 「先祖からの言い伝え」を最初からオープンにして、各方面に持ち掛けていれば、何人かの専門家も動いた筈です。

 平さんが、過去30年間に各方面へ、約2000通の調査依頼の手紙を出した、その切手代だけでも、出雲へ10回も行けた筈で、出雲の地を一通り廻れてた事でしょう。平さんが、やっている事は、本末転倒した事ばかりで、馬鹿らしく成ってきます。

★ 釜石まで遠出できたのなら、近場の出雲には、容易に行けるでしょう。平さんが「坪背山の現地レポート」をここに書き入れる時まで、この議論は、しばらく休止とさせて頂きます。



341 史実探偵: 平 素人:2019/12/23(月) 02:51:48
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
http://houshizaki.sakura.ne.jp/tuboseyama.htm

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



342青面金剛:2019/12/23(月) 22:23:07
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人さんへの返事です。

>  わたし一人がそこへ行っても「無駄足」になるだけ。

★ 詐欺師! 平さんが、ここの掲示板に、いい加減な説を繰り返し掲げて、自分一人では絶対に現地に行かないのは、別な目的で、参加者を集める「釣り」として、利用しているから。

★ 平さんが、自分の住んでいる町の名前すら教えないのは、別の目的が有るから。

★ 勾玉を「ポケットに忍ばせて持っていきたい。」と以前、書き込んでいた様に、発掘物を転売する、盗掘集団の客寄せ役だから。

★ 参加者から、旅費を借りた後に、トンずらする、旅費サギを目的としているから。

★ 参加者の金品を掠めるのが、目的だから。

★ 平さんは犯罪者集団の客寄せ役と疑わざるを得ない! 「先祖からの伝承」も全くの嘘で、作り話でしかない。平さんのHPも「釣り」。


343 史実探偵: 平 素人:2019/12/24(火) 03:03:12
人身供儀・その歴史、忘却の彼方に!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-9.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



344 史実探偵: 平 素人:2019/12/25(水) 21:33:53
続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-4.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



345青面金剛:2019/12/26(木) 06:06:23
Re: 続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>『ひと山こえてぇ〜、ふた山こえて、み山(三上山)の前でぇ〜、た〜ぬきさん、狸さん踊ろじゃないかぁ』
>  この鞠つき童唄には、おそろしいまでの秘密が隠されていた。

>     岩の付く地名その西方????約1里・二山越え   西、及び荒神の付く地名
> <出雲> 岩倉           大黒山・仏教山    神庭荒神谷・西谷(さいたに)
> <吉備> 岩屋?(総社市)    *山 ・経山      黒尾地区 西谷?(にしたに)

>   人里から程よく離れた山の中腹、        ほぼ西南方で辺ぴな谷奥の南向斜面
>野洲町三上山から始めた謎解きでしたが、最終的には「この手鞠唄」が決定打となりました。大量の銅鐸の埋め場所の大岩山から、ふた山越えた、三つ目の山が三上山でした。一方、出雲の方を調べると加茂岩倉から西へ、大黒山ともう一つの山を越えた三つ目の山が仏教山で、これも△の山姿をしています。その<前>の斜面に大量の銅剣が埋めてあったことに、驚きを禁じえませんでした。

>  卑弥呼は「稚児を殺めた銅剣を、二度とその剣、その荒神に持たせてはならない!」

★ 前にも指摘した様に、銅剣の×印は、東出雲王家の富家の紋である、銅矛が交差した紋を示す、王権の象徴を意味します。
 一度指摘しても頭に入らなく、地元の方々に無神経な勝手な説を繰り返すから、地元の方々に白い眼を向けられるのが、平さん一人ならば兎も角、そのとばっちりを被りたく無いから、平さんとは歩きたくも無い。

◎ みやすみやまの おんばあと、たぬき

 西本昭子・作 末吉陽子・絵 新風舎 2006.10.25 刊

 岡山弁でつづる 「三休山」(みやすみやま) を背景にした いたずら好きのたぬき親
 子と おんばあ の おはなし。

 ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪ ひとやまこえて ふたやまこえて みやすみやまの うえで ♪たぬきさん たぬきさん ♪あそぼじゃないか いま ごはんの まっさいちゅう ♪おかずは なあに うめぼし こうこ ♪ひときれ わたしにくださいな ♪あかちょこ べっちょこ いやしんぼう♪

 と たぬきさんが まりつきを・・。ほんに 近くに聞こえてくるような。

☆ 三休公園民話村 岡山県久米郡美咲町西川上400-11
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.okayama-kanko.jp%2Fspot%2F11880

岩倉山:標高394.2m 岡山県加賀郡吉備中央町上田西
岩倉公園  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.okayama-kanko.jp%2Fspot%2F11923

☆ 平さんが、その説を唱え続けたいなら、絶版本なので、図書館の館員に探してもらう事。三休公園民話村にも行った事が無いんじゃないですか?

三休山のおんばあと、たぬき 西本 昭子 作 末吉 陽子 絵

新風舎(ティルコーポレーション)2006/10 発売 (A5) ISBN:9784289007738
価格:1,210円??(本体:1,100円)

☆ 三休公園民話村から、岩倉山山頂へは、ほぼ南方向に有ります。荒神谷から賀茂岩倉の方向は、東南の方角で、神の通り道(神門)の方向です。




346 史実探偵: 平 素人:2019/12/28(土) 00:52:42
Re: 続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
青面金剛さまへのお返事です。
 コメントありがとう御座います。・・もう下さらないと思ってたのですがぁ〜^-^?
わたしの意とすることは『 ここ掘れ、ワンワン^^』 先様のコメントはありがたいのですが、辛口コメントも、度を過ぎたモノはいかがかと思います^~! この先、その出土までには時間がかかると思います。それ等が出土しなければいいのですが、(もし?)素人の予見した場所に、予測した形でその坑道窟や大量の銅鐸が出土したらまずいことが世に残りますよね(^^)

> >  卑弥呼は「稚児を殺めた銅剣を、二度とその剣、その荒神に持たせてはならない!」
> ★ 前にも指摘した様に、銅剣の×印は、東出雲王家の富家の紋である、銅矛が交差した紋を示す、王権の象徴を意味します。

 先さまのご指摘のすべてを記憶している分ではありませんが、出雲には<富・とび>という地名(国土地理院)がありました。何故、これをトビと読むのか不思議でなりませんでした。飛び? 鳶?そのすべては思い出せませんが。加茂(カモ?)や、鷺峠をはじめとして、出雲には鳥の地名が他の地に比べて多いのが気になっていました。×印は、歴史の流れを考えると、「富家の家紋」が先にあったのではなくて、卑弥呼の封印の方が先であり「この剣、二度と使わじ」とした不使用の意や、封印の意があるのではないでしょうか。今では封書を閉じるとき×印を書く人は少なくなりましたが。この×は封をするって意味ですよね。その剣の茎(なかご)に無印のものが幾つかありましたが、これは素人の謎解きでおおいに参考になりました。つまり、それは使用しなかった新品・予備剣かと!! このように考えて歴史をさかのぼれば「富家」は由緒ある家筋になります・・^^。

> ◎ みやすみやまの おんばあと、たぬき
>  ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪ ひとやまこえて ふたやまこえて みやすみやまの うえで ♪たぬきさん たぬきさん ♪あそぼじゃないか いま ごはんの まっさいちゅう ♪おかずは なあに うめぼし こうこ ♪ひときれ わたしにくださいな ♪あかちょこ べっちょこ いやしんぼう♪
>  と たぬきさんが まりつきを・・。ほんに 近くに聞こえてくるような。

 またまた、貴重な情報をありがとうございます。
わたしは「二山越えて、三山の前で、狸さん・・」の狸さんが推めていませんでした。「なぜ、それが狸さんなのか?」狐ではだめなのかと?「ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪」 そうです。この形容は。狸の皮太鼓をたたく音だったのです! 「おんばあ」は卑弥呼です。一般に卑弥呼は美娘として描かれていますが、わたしは、そうと考えていません。娘時代と老期とはちがうでしょうが、史記には「千人の傍女にかしずかれ、その姿見たものなし」とあるようですが、女子は長髪が一般的な世の中。老期の卑弥呼は、幼児期に削がれたその耳を隠すおかっぱ頭。目の周りには歌舞伎役者のようなクマドリ。そしてお歯黒の歴史があることから、前歯の全てを抜いていたと推定しています。倉敷市・船穂町の里木貝塚では前歯を意識的に抜いたのでは?とする遺骨がでたとか。その遺骨が卑弥呼だとはしませんが、「お歯黒」は江戸時代まで残っていたようですから、巫女さんにおいては、同様なことが拡散したのではないでしょうか。

卑弥呼は、狸皮太鼓(鼓・つづみ)をたたき、その大量の銅鐸や銅剣を封印している。

卑弥呼の本拠が(自分の知識では)どことはいえないが、その<埋封・まいふう筆者の造語>のため、出雲・吉備・姫路・野洲へと移動している。でなければ「姫路」の地名は残ってはいない。興し(おこし)に乗って移動している。このシキタリは、浜松の姫街道(国土地理院)。地方によっては、今でも花嫁行列や、葬儀列として残っているのは皆さまの知るところです。このように。今の私たちが「何をしているか」から手繰っていくのが素人探偵のやり方です。みやまの前か?上か?の問題は残ります。青面金剛さま>ありがとうございました。

> ☆ 三休公園民話村 岡山県久米郡美咲町西川上400-11
> 岩倉山:標高394.2m 岡山県加賀郡吉備中央町上田西
> 岩倉公園

 行ったことも聞いたこともありません・・(滝汗〜^^!)。
こういった遺跡に桜の植樹は珍しくありません。今でこそ桜は観光木ですが、その昔をさかのぼれば「農事呪縛の木」であったことは、先さま方の知るところです。逆に「桜」の植樹があれば、その歴史の拡散かと(神戸・桜が丘)疑ってみるのも楽しいことです。「みやすみやま」にしても「宮山・みやま」にしても珍しくありません。今でも、里山に神社があればそれ等は「みやま」の呼称で呼ばれているのではないでしょうか? 「共通の文化があれば共通の事象あり」 何故、それが「三・み」なのか? 今では、その追求を、すっかり忘れていることが大きな問題だと考えています。

> ☆ 平さんが、その説を唱え続けたいなら、絶版本なので、図書館の館員に探してもらう事。

 図書館へいけば、そのネットワークをとおして、読みたい本を他の図書館から取り寄せてくださるのは知っていますが、只今は「 終活中^^!」そのエネルギーは残っていません。ので、ので・・・

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



347青面金剛:2019/12/28(土) 05:41:47
Re: 続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
??忘却探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> わたしの意とすることは『 ここ掘れ、ワンワン^^』 先様のコメントはありがたいのですが、辛口コメントも、度を過ぎたモノはいかがかと思います^~! この先、その出土までには時間がかかると思います。それ等が出土しなければいいのですが、もし?素人の予見した場所に、その坑道窟や大量の銅鐸が出土したらまずいことが残りますよね(^^)

★ 結局、現地に一度も行かず、他人に、けし掛けて居るだけの人が、度が過ぎて、ふざけた事を書き込んでいれば、疑われるのも仕方ないでしょう。
 図書館にも行かず、地元の新聞も読まず、地元のテレビも見ず、地元のラジオすら聞かない人が、勝手に描いた説など、専門家が候補地に加える事は有りません。


> 加茂(カモ?)や、鷺峠をはじめとして、出雲には鳥の地名が他の地に比べて多いのが気になっていました。×印は、歴史の流れを考えると、「富家の家紋」が先にあったのではなくて、卑弥呼の封印の方が先であり「この剣、二度と使わじ」とした不使用の意や、封印の意があるのではないでしょうか。今では封書を閉じるとき×印を書く人は少なくなりましたが。この×は封をするって意味ですよね。その剣の茎(なかご)に無印のものが幾つかありましたが、これは素人の謎解きでおおいに参考になりました。つまり、それは使用しなかった新品・予備剣かと!! このように考えて歴史をさかのぼれば「富家」は由緒ある家筋になります・・^^。

★ 卑弥呼は、18代続いた出雲王国を侵略した側である、物部王国の同盟国側ですので、富家の方が先です。

 卑弥呼が祀られているのは、宇佐神宮の本殿・二之御殿に比売大神として祀られています。
宇佐神宮  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.usajinguu.com%2Fguide%2F

 鹿児島神宮の北東側に卑弥呼神社も有りますから、ここも祭祀の場の一つと考えられます。
鹿児島神宮  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkagoshima-jingu.jp%2Faccess.php

 日御碕に隠が丘という小高い丘が有り、出雲王朝の閉朝後に、三代続いた、物部方の王の墳墓では無いか、と言われています。

隠が丘  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izumo-enmusubi.com%2Fentry%2Fkakuregaoka%2F

☆ 日御碕の遊歩道を歩いてみれば、岬の先に、「経島(ふみしま)」が見え、太陽の祭祀を行うならば、この場所だと実感します。
 この島は日御碕神社の神域として神職以外の一般の立入りは禁止されており、年に一度8月7日の例祭の時のみ、宮司だけがその島に舟で渡ることができます。
 別名夕日の祭りといわれ、刻一刻と日が沈む中で執り行われる様子は神々しさが漂います。

経島(ふみしま) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izumo-kankou.gr.jp%2F370

日御碕神社  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izumo-kankou.gr.jp%2F678


>  卑弥呼は、狸皮太鼓(鼓・つづみ)をたたき、その大量の銅鐸や銅剣を封印している。
> 卑弥呼の本拠が(自分の知識ではどことはいえないが、その<埋封・まいふう筆者の造語>のため、出雲・吉備・姫路・野洲へと移動している。
>みやまの前か?上か?の問題は残ります。

☆ 出雲から、難波や大和に向かうには、美作の出雲街道を通ります。

☆三休公園民話村 岡山県久米郡美咲町西川上  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.okayama-kanko.jp%2Fspot%2F11880
岩倉山:標高394.2m 岡山県加賀郡吉備中央町上田西
岩倉公園  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.okayama-kanko.jp%2Fspot%2F11923

☆ 吉備中央町の岩倉山の周辺には、加茂や神の名の付く地名が残る事から、祭祀の場が有った事が伺えます。

>  行ったことも聞いたこともありません・・(滝汗〜^^!)。

★ 地元の人間に、遠方の人が観光案内しなきゃならないのは、本当に馬鹿らしく成ってくる。

> こういった遺跡に桜の植樹は珍しくありません。今でこそ桜は観光木ですが、その昔をさかのぼれば「農事呪縛の木」であったことは、先さま方の知るところです。逆に「桜」の植樹があれば、その歴史の拡散かと(神戸・桜が丘)疑ってみるのも楽しいことです。「みやすみやま」にしても「宮山・みやま」にしても珍しくありません。今でも、里山に神社があればそれ等は「みやま」の呼称で呼ばれているのではないでしょうか? 「共通の文化があれば共通の事象あり」 何故、それが「三・み」なのか? 今では、その追求を、すっかり忘れていることが大きな問題だと考えています。

☆ 「みやすみやま」=宮住み山
 つまり、出雲王家の親族か、美作後南朝の宮様の、どちらかが住んでいた宮が有った、と思われます。久米郡の久米は、天皇・大王家の警護役の意味が有ります。

美作後南朝  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpasocon-salon.floppy.jp%2Fakihisa01.html

>  只今は「 終活中^^!」そのエネルギーは残っていません。ので、ので・・・

★ 知らん! 釜石まで行けた体力が有るなら、次の桜の季節に、宮住公園と岩倉公園と、命主社と日御碕へ行ってこい!

 これだけ、教えてあげたのだから、もう、十分でしょう。後は、管理人さんと、Dr・いずも氏に頼みなさい。先祖からの伝承が本当に有るなら、書き残さないと、何も残りません。(終)


348 史実探偵: 平 素人:2019/12/30(月) 15:25:12
Re: 鬼の岩屋
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



349鳩摩羅童子:2019/12/31(火) 21:10:07
発音付きチベット語オンライン辞典
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Tibet_dic.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



350鳩摩羅童子:2019/12/31(火) 21:30:53
言語道断 は、タミル語にある。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_17_1.html#n.532

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



351管理人:2019/12/31(火) 23:18:36
今年もお世話になりました
平さん、童子さん、またわかちあいありがとうございました。

鬼ノ城は、以前もライン面で分析したかぎりでは、神籠石ですね。山城説もありますが、神域説もあり、その石積みの低さが問題となっています。水門の活用法も考えどころですね。

細かいところは、また正月休みあたりで、ゆっくり拝読させていただきますね。

今年もお世話になりました。



352 史実探偵: 平 素人:2020/01/10(金) 00:07:23
あおさぎ・鳥祖卵生!
  年がかわりました。管理人さま、皆さま。 本年もよろしくです^^。

12/31 本日の夕方のことです。車での帰り道ライトのなかに、なにやらが? ブレーキを踏むと、アオサギでした。こんなことは初めてです。私の見るアオサギは昼夜は問いませんが、川の中かその岸辺にじっと佇み、魚を待つ姿しか見たことが有りません。何時捕食しているのかと疑うほどじっとしています。そのアオサギが道の真ん中に。スピードがでてないとはいえ危うく轢いてしまうところでした。停車すると。かの鳥は飛び立つでもなくゆっくりと道を譲ってくれました。私は近時「鳥祖卵生」という言葉をしりました。大まかにいえば人間の祖先は鳥であったという考えです。この中でアオサギは、その漂々とした佇まいと灰色をしていることから、死灰のなかから蘇る鳥とされているようです。萎えることなく絶えることなく続いてきた「この想い」にも存命中はむりとの思いが勝るようになった今日この頃ですが、水辺でもない道の真ん中に、車行き交う私のライトの前に何故いたのでしょうか。わたしには「急くことなく道を譲っておきなさい」とでも言いたかったように思えてなりません。こういった極大論(巨大隕石と大津波)は没後に認められるが世の常。「これでもか。これならば、」と広報を重ねてきましたが本懐にいたるまでには50年100年はかかるかもしれない。これがあなたに伝わらないのは、その史実がなかったからではない。わたしの論述がいたらないからだ。 年の節目に、□

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



353 史実探偵: 平 素人:2020/01/30(木) 09:25:35
Re: 神籠石
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354管理人:2020/01/04(土) 18:17:31
Re: 神籠石
平さん、あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします。

神籠石についてご意見ありがとうございます。特に水門の存在は用途解明のキーポイントになりそうですね。

平説は、そうすると現在言えばダムのような役割を果たしていたことになるでしょうか。土砂崩れ止めの土塁ともいえそうですね。


神籠石の原型については、個人的には沖縄のグスクとの関係を模索していますが、そのグスク自体は山城と神殿の組み合わせとなりますから、その神籠石の構造がグスクと重なれば、立証できるのではないかと感じます。

その際に、水門の是非や、その位置などが同じかどうかも気になるところです。

また聖域の構築方法に共通性がないかどうかも調べる必要がありそうです。

先ほど、沖縄特集の番組をみてましたが、御嶽という聖域の紹介があり、洞窟や岩の重なり合う地点と、日の出の方角との関係性について触れていました。

また水流という点では、沖縄でも水田が造られていたそうで、湧き水の利用もなされていたそうです。水を通しやすい上層の石灰岩と通しにくい下層の泥岩との組み合わせで、そのような湧き水が流れ出るようになるそうです。

平さん的には、神籠石と貯水、流水の関係があると考えておられるのですよね。その辺、もう少し掘り下げてみてもよいかもしれません。





355 史実探偵: 平 素人:2020/01/05(日) 08:32:12
Re: 神籠石
管理人さまへのお返事です。ご丁寧なコメントありがとうございます。
  皆さまにとって本年も益々のお年になりますように^^。

> 神籠石についてご意見ありがとうございます。特に水門の存在は用途解明のキーポイントになりそうですね。

 今までは「神籠石」のことば自体を知らなかったのですが、祖先がその石列を何故、「籠・かご」の字をあてているのかに興味をもつようになりました。ご存知のように、竜は雨降らす水の神であり、その神に人里近くで天にも近い山頂で「雨降らせ給へや!」の祈りがあったのではないでしょうか。山城説のそれはその時期の解明で大切なことなのでしょうが、歴史的知識のない素人には卑弥呼以前の代に的をしぼっています。
地形的干天から瀬戸内沿いでは雨乞いが発達していたようで、管理人さまが特視?される北九州には「岩屋」の地名が数多くあるのには驚かされています。それに名前は思い出せませんが「〇〇平」は龍神への食台(myぶろぐ)だとしたこともありました^^!。

> 平説は、そうすると現在言えばダムのような役割を果たしていたことになるでしょうか。土砂崩れ止めの土塁ともいえそうですね。

 そうですね「ダム」と云うと水利の意がつよくなりますが、水田への水利にしては貯水量が小さすぎるので「呼び水儀式のための貯水」ではないかと考えています。そして、神籠石は「境界決め」の意が強いのではと思うようになりました。

> 神籠石の原型については、個人的には沖縄のグスクとの関係を模索していますが、そのグスク自体は山城と神殿の組み合わせとなりますから、その神籠石の構造がグスクと重なれば、立証できるのではないかと感じます。

 沖縄の「城・グスク」については全く知識がないのですが、以前、管理人さまの調査で「さいごはやはり現地調査で・」のことばがつよく残っていますし、私も、そのように思います。

> その際に、水門の是非や、その位置などが同じかどうかも気になるところです。
> また聖域の構築方法に共通性がないかどうかも調べる必要がありそうです。

そうですね! それが「雨乞い施設」だとの認識を得るには 学者の論理と解明が是非とも必要です。「水門の是非や、その位置!!」の追求には同感です。わたしは、以前「その海水や湖水(琵琶湖)の水を天にあげて雨水に変えて頂けませんか」と、ご先祖さまは祈ったのではとしたことがありました(笑い)。

> 先ほど、沖縄特集の番組をみてましたが、御嶽という聖域の紹介があり、洞窟や岩の重なり合う地点と、日の出の方角との関係性について触れていました。

わたしが、管理人さまや、先様方に強く願っているのはその件です。正月の番組で伊勢の夫婦岩のあいだからダイヤモンド富士が遠くにある映像をみました。祖先は 正月(≒冬至)の日の出に強い興味をもっています。但し、地球の歳差運動でその方向に変化ありとは先様がたが識るところです。今<渡来人>会報をみていて、私たちが神社にある盤石が山のどの位置(方向)にありかを知ることは先祖の考えをしるうえで大切と考えるようになりました。

 今、私たちが両の手を合わせたスリットや 盤石二つの間から初日ノ出がのぼってきました。わたしには、その強い日差しが四千年まえの巨大隕石が発した'<閃光>千光寺' 信仰の源に思えてならないのです。

> また水流という点では、沖縄でも水田が造られていたそうで、湧き水の利用もなされていたそうです。水を通しやすい上層の石灰岩と通しにくい下層の泥岩との組み合わせで、そのような湧き水が流れ出るようになるそうです。

山や、巨岩の隙間から、干天においても涸れない湧き水を聖水としてあがめることは 各地にもあるようです。沖縄と同様な石灰地に中米のセノーテがあるのは先さま方のしるところです。

> 平さん的には、神籠石と貯水、流水の関係があると考えておられるのですよね。その辺、もう少し掘り下げてみてもよいかもしれません。

 管理人さまぁ〜〜 素人の中坊的発想や論説ではどうにもならんとですよぉ〜〜
 それにボケが加わってきてますしぃ〜〜 (会報のほうに移りたいのですがぁ^^!)

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356 史実探偵: 平 素人:2020/01/06(月) 04:09:12
渡来人会報「吉備・四国」を読んで
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm

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357 史実探偵: 平 素人:2020/01/07(火) 15:09:57
Re: 渡来人会報「吉備・四国」を読んで
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm

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358管理人:2020/01/08(水) 03:02:19
Re: 渡来人会報「吉備・四国」を読んで
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへ??&; 皆さまへ>
>
平さん、お返事遅れてすいません、別件でかかりっきりになってしまいまして・・・・。

ぜひ、吉備のほう、平さんのほうでも、現地への探索結果出てきましたら、よろしくお願いします。

なかなか吉備までは足を運びにくくなりました・・。

359鳩摩羅童子:2020/01/09(木) 22:27:38
稗田阿礼(ひえだのあれ) は、サンスクリット語 カモ。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_17.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



360 史実探偵: 平 素人:2020/01/11(土) 03:54:32
徐福達が日本史に与えた影響、その?〜?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-13.html

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361管理人:2020/01/12(日) 01:36:35
印欧祖語と日本語との関係
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000366M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000366_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000366_3M.jpg

童子さん、平さん、今年もよろしくお願いします。

やはり印欧祖語が日本語とどうかかわっているのかがきになってきますね。

古代史掲示板でもお話してますように、インダス・シュメール、そして印欧祖語との関わりは、縄文時代後期に見えてくるような気がしてますが、言語面でどうみえてくるかが課題です。

縄文人がすでに圧倒的多数でいたでしょうから、そこに少数者が移住してどのくらい影響を与えれたかが課題ですが、津軽弁とかそのあたりに、仮に上記の要素がみえてくると面白いかもしれません。

東北方面の語彙は、やはり縄文人とのつながりが残っていることは、その分布図などからも明らかなようです。

図1,2,3は、小泉保『縄文語の発見』からの引用です。ご参照ください。



362 史実探偵: 平 素人:2020/01/12(日) 07:55:06
Re: 印欧祖語と日本語との関係
管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います。

昨年は、大変お世話になりました。こちらこそよろしくお願いいたします。
資料をそえての早速のお返事ありがとう御座います。お手数をおかけしました
自分にとっての徐福は、Dr.いずも氏>の感化が大きいのですが、そのやりとりをピックアップしようと思うのですが、いまさらながら自分の長駄文にうんざりして、どこに何を書いたのかすら覚えがなくて・・、読み返しの苦戦をしています。

> やはり印欧祖語が日本語とどうかかわっているのかがきになってきますね。
> 古代史掲示板でもお話してますように、インダス・シュメール、そして印欧祖語との関わりは、縄文時代後期に見えてくるような気がしてますが、言語面でどうみえてくるかが課題です。

渡来人については、祖語やら、DNAやら、気象変動やら、突発的災害や、流行病、勢力拡大等の様々な要因がからんでくるのですね。わたしにとってはレベルが高すぎて考えがおよびません。なかでもDNA分布の研究は最先端になるのでしょうか・・・?? 

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363管理人:2020/01/13(月) 01:23:55
Re: 印欧祖語と日本語との関係
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います。
>
> 昨年は、大変お世話になりました。こちらこそよろしくお願いいたします。
> 資料をそえての早速のお返事ありがとう御座います。お手数をおかけしました

> 渡来人については、祖語やら、DNAやら、気象変動やら、突発的災害や、流行病、勢力拡大等の様々な要因がからんでくるのですね。わたしにとってはレベルが高すぎて考えがおよびません。なかでもDNA分布の研究は最先端になるのでしょうか・・・??


平さん、今年もよろしくお願いします!

言語やハプロの話は、確かに理解しにくいことかと思いますが、古代史掲示板のほうに、平さんのメインテリトリーの話を書き込んでおきましたので、よろしくご参照ください。ご指摘の2000年前の大津波の実証可能性が見えてきてます!

364 史実探偵: 平 素人:2020/01/13(月) 20:51:25
Re: [10702] 4大文明と津波地層
管理人さまへのお返事です。
   古代史掲示板[10704]の投稿分をこちらへもコピペします^^!。

> ご指摘の(BC.)2000年前の大津波の実証可能性が見えてきてます!

   ありがとう御座います。うれしいです。

↓( コピペ^^!)
短日間のうちにすごい量の情報量ですね。それ等を四大文明にからめてのご考察、大変参考になります。じっくりと消化したいと思います。ありがとうございます。

岩淵先生や平の名前を出して頂きましてありがとう御座います。二人は、「四千年前の東北巨大隕石説」を持っているのですが、先さまも挙げられている、ミドルインパクトによる地球規模の気温降下、地震や巨大津波、そして火山の誘発等、人類を含めた生物への影響は多大なものがあります。それの一番身近なものである4000年前のものにしぼって喚起を願っているのですが未だ日の目を見ていません。

中で、世界共通の“地球規模の事象”として論じ合えることは、隕石の冬がおこす “海水位の後退” があります。わたしは推量値で、約1.6mの後退。気温ではおよそ13℃(〜16℃)の降下とみています。これが短期2〜3年のうちに変動することに大きな問題があります。生物相の変化移動はもちろんですが、稲作文明を持つ大陸では大きな影響が考えられます。そして浅海化がありますので魚介類の変移等を地球規模で「共通の論題」として論じあえたらいいなと思っています。ありがとうございました。

追記 「年代の決定合意の難しさ?」
 こういったものを論じ合うとき、何時の場合もその年代の食い違いが出ることがあります。巨大隕石の衝突という“一瞬のできごと”でも、何がしかの補正があったり、堆積する地層についても “巨大津波” の発生によって経年の異なるものが混ぜ合わされたり、津波が第二波、第三波・・による堆積状をていすることから、一般的な斉一説をとれない難しさがあります。そして、現科学の多くは、巨大津波が内陸奥深くまで運んだ貝やサンゴ類を『かつてここは海だった!』とする考えが定着しており、この考えを取り除くのは至難です。

 十年以上前だったと思います。九州大の女先生が貝類の年代測定に着目されたことがありました。ご存知のように貝類の生息地はあまり移動しません。ところが巨大津波の性質として、それ等を根こそぎして津波の端部や、先端部へ置き去ることがあります。これはすべての事象に当てはまることですが『流体が媒体となって各々の物質を運ぶ時、それ等は非常に効率よく似たものは似たもの同志で分別される同似集合の原理・作用(筆者提唱)』があります。この考えは現科学が巨大(orミドル)隕石と、それによって生じる巨大津波へ、シフトしないかぎり難しいと考えています。(そこで素人的ヒラメキ^^!、人のDNA調査は著しく進歩しているが貝やサンゴのDNAは変わらないのかな??、汗~~!)

 そして、津浪についても一元的な論じ方がされていることに問題があります。津波の波高は、地形・地勢によって 震源地の直近にあっても大きく変わります。津波のやつはズルい^^!から抵抗の少ない方へ方へと移動します。「津波は川を上る」といわれますが、これは川が遠浅状になっていて津波は楽に登れるからだと申し上げたことがありました。□

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365管理人:2020/01/15(水) 00:01:20
Re: [10702] 4大文明と津波地層
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。


>
>
> 追記 「年代の決定合意の難しさ?」
>  こういったものを論じ合うとき、何時の場合もその年代の食い違いが出ることがあります。巨大隕石の衝突という“一瞬のできごと”でも、何がしかの補正があったり、堆積する地層についても “巨大津波” の発生によって経年の異なるものが混ぜ合わされたり、津波が第二波、第三波・・による堆積状をていすることから、一般的な斉一説をとれない難しさがあります。そして、現科学の多くは、巨大津波が内陸奥深くまで運んだ貝やサンゴ類を『かつてここは海だった!』とする考えが定着しており、この考えを取り除くのは至難です。
>
>  十年以上前だったと思います。九州大の女先生が貝類の年代測定に着目されたことがありました。ご存知のように貝類の生息地はあまり移動しません。ところが巨大津波の性質として、それ等を根こそぎして津波の端部や、先端部へ置き去ることがあります。これはすべての事象に当てはまることですが『流体が媒体となって各々の物質を運ぶ時、それ等は非常に効率よく似たものは似たもの同志で分別される同似集合の原理・作用(筆者提唱)』があります。この考えは現科学が巨大(orミドル)隕石と、それによって生じる巨大津波へ、シフトしないかぎり難しいと考えています。(そこで素人的ヒラメキ^^!、人のDNA調査は著しく進歩しているが貝やサンゴのDNAは変わらないのかな??、汗~~!)
>
>  そして、津浪についても一元的な論じ方がされていることに問題があります。津波の波高は、地形・地勢によって 震源地の直近にあっても大きく変わります。津波のやつはズルい^^!から抵抗の少ない方へ方へと移動します。「津波は川を上る」といわれますが、これは川が遠浅状になっていて津波は楽に登れるからだと申し上げたことがありました。□


津波の移動詳細については興味深いですね。

南海トラフの件を先ほども調べていたんですが、そろそろ近いようです。
固着域が外れはじめると、ちょうどやねの雪が落ちるようにして、一気にはがれるようです。・・・と雪国の人しかわからないかな・・。

それで津波ですが、複数の震源から複数の波が生じて、重なりあうことで、巨大化するようです。

今回の南下トラフだと8つ?くらいの震源域と津波が重なるようですが、隕石落下の津波の場合は1つか、あるいは複数の落下かでも大きさが変わりそうですね。

そして、津波がどこまで内陸へと向かうのか、ここがご指摘のとおり重要なポイントです。

通常の津波だとせいぜい沿岸だけですが、巨大化すると河をさかのぼることができるかどうか、そのメカニズムも解明が必要です。

黄河とか長江クラスの大河だと、傾斜が緩い分、内陸まで向かえる可能性もあるのではないですかな。

以前テレビで満月の日に、大河をさかのぼるシーンがありましたね。どこだったかな・・。

これこれ。黄河逆流。

/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.cnta-osaka.jp%2Fspot%2Fnature%2Fqiantang-river
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DjjoKcGytrUg

これで黄河文明が一度に滅んだとするとどうなるだろう・・・。



366 史実探偵: 平 素人:2020/01/16(木) 01:44:14
Re: [10702] 4大文明と津波地層
http://www.cnta-osaka.jp/spot/nature/qiantang-river

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367管理人:2020/01/19(日) 20:24:31
Re: [10702] 4大文明と津波地層
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへのお返事です。
>

> 巨大隕石とプレート圧の開放で起きる、地震の規模と津波の波高は全く異なります。わたしは、それを巨大隕石は風呂の湯面を拳でたたいた時の波立ちであり、プレート圧の開放では、同じ力で湯中で拳を動かした時ほどの波高差があると例えています。私たち素人は陸地を巨大な一塊の巌(いわお)と考えがちですが、岩淵先生(分散説)私(主核説)の違いはありますが、提唱している小天体クラスでは、陸地も波状化して破砕(出雲半島)したのではと思っています。
>
> > そして、津波がどこまで内陸へと向かうのか、ここがご指摘のとおり重要なポイントです。

>?? ありがとうございます。 大潮で起こる逆流でさえ、中国では大迫力がありますね。よく観察すると、直角の波止に突き当たる津波が角奥(=湾奥)へいくほど斜状に高くなっていたり、川岸のほうが濁泥色になっているのが認められます。濁泥を持った“沿岸津波”ほど怖いものはありません。石が石をウガチその破壊力は格段に増していくからです。
> 四千年まえの東北に衝突した巨大隕石が発した巨大津波は、その比ではありません。岩淵先生は、その時の巨大津波が良渚文明を滅ぼしたとし、わたしは、その津波は内陸の「天津」まで届き、その様は「竜因」のようであったと地名に遺しているとしました。そして、朝鮮半島の東海岸には「方魚津・パンオジン」とか、「方津」の地名があります。その巨大津波は「朝方に大量の魚を持って来た」といっているのでしょうね。きっと^^! 半島にも詳しい管理人さまは、もっともっと津波に関係した地名が見つかると思います。
>?? 尚、津波のメカニズムですが、通常の波が風で起こる同位置での上下動に対し、津波の波は押し波移動だと解すればさほど難しいことではありません。数学にも秀でた先さまでは、風でおきる最大波高は水の重力により約38mだと導きだすのは難なきことだと思います。?? ちなみに<3/11地震>のときの津波最高到達地点は40m弱でした。
> そして、この動画を見てもう一つ気付いたことがあります。川の両岸で津波の力を散逸させない構造になっていることです。 ありがとう御座いました。


お返事遅くなりすいません!
津浪のメカニズム、気になるところですね。

津浪の威力の計算が知りたいところです。東日本大震災のときの津浪の数倍ある津浪が、2000年前に起ったようです。三連動型の東南海地震によるものと考えられているようですが、スマトラ沖地震クラスの威力だったのではないかと感じます。あのときは、はるばるインドまで数mの津浪が奥地にまで入り込むほどの威力がありました。

次回の南海地震もそのクラスになる可能性があり、どこまで内陸へと入り込むのかは、過去の津浪地層を追う事である程度予測できるかもしれません。

早急に迫られた課題のように感じますが、またお気づきの点ございましたら、宜しくお知らせください。

368 史実探偵: 平 素人:2020/01/21(火) 00:25:07
Re: [10702] 4大文明と津波地層
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369管理人:2020/01/22(水) 23:44:59
Re: [10702] 4大文明と津波地層
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。


>
>   津波の理論上の計算式は、(ご存知とは思いますが^^)
> 津波の波高hは、水路幅wに比例し、水深dの四乗根に反比例することが知られています。
>              1
>  h = w × −−−−−−−−−
>            4√ d
> 津波は港に入った波という意味で、沖合ではたいしたことがなくても、V字状の湾奥では猛威をふるいます。津波警報が出た時、船が沖合に避難するのはこのためです。わたしは、水路幅のほうはロートを水平に切った状態であり、水深は垂直に切った時を思い浮かべています。実際にはロートの中心線上からの進入か、それを外れての進入かでも違いますし、海底地形による抵抗や溢水があれば計算式より少な目になるのかな^^? そして、理由は判らないのですが岬でも高くなることが観測されています。
>
>

なるほど、こういう計算式があるんですね!


> >東日本大震災のときの津浪の数倍ある津浪が、2000年前に起ったようです。
>
> 管理人さまぁ〜 わたしはそれが分らんのですよぉ^^! 私と岩淵先生が論じる東北巨大隕石が4000年前。先さまが云われる大インパクトが2000年前。岩淵先生はアッシャー博士との話し合いで東北のそれはエンケ彗星のデブリ(破砕分体)だろうにおちついたようです。とすると、エンケ彗星の母体(本体)は、2000年周期で太陽を周回か?の疑いがあります。人々が、こっから先を紀元だとするには単なる一学者の論説ではなく、多くのひとが同意する何かの巨大インパクトがあったのではないでしょうか。ご存知のように、欧州には、巨大隕石?によるメシア願望があります。それに、海が割れたとか、ノアの方舟伝説とかもありますから、ローマあたりに巨大津波を伴うような巨大隕石があったのではと^^??? 根も葉もない妄想をしています(^-^!)



いえいえ、2000年前のは、プレート型津波です。三連動でしょう。

4000年前と4700年前のは隕石落下と睨んでいます。

あと、3700年前ごろにも、世界的な転機があります。ここにも津波地層があるのですが、ここでも隕石落下があった可能性を考えてます。



370 史実探偵: 平 素人:2020/02/04(火) 22:52:23
Re: [10702] 4大文明と津波地層
管理人さまへのお返事です。
   お返事ずいぶん遅くなりゴメンナサイ!(><)!。

> いえいえ、2000年前のは、プレート型津波です。三連動でしょう。
> 4000年前と4700年前のは隕石落下と睨んでいます。
> あと、3700年前ごろにも、世界的な転機があります。ここにも津波地層があるのですが、ここでも隕石落下があった可能性を考えてます。

 人類が「世界的な転機」を起こすには想像を絶するようなインパクトがあったのですね。先さまは、2000年前のはプレート型と推んでおられるのですね。プレート型と巨大隕石が起こす事変の大きな違いは「隕石の冬」が有るか無いかにあります。又、巨大隕石が陸部への衝突か、深さ3700mの海部への衝突かによっても、ずいぶんとその様相は変ると思います。つまり、水蒸気をあげれば早くに爆雨となって終息するし、陸部であれば成層圏へまで粉塵を舞い上げるので、その “微小の” 全てが地上に降りるまでは相応の時間がかかります。そして、火山活動を誘発するかしないかの影響もあると思います。

 わたしは、「地球の温暖化」は、CO2の増加とするのが世界のすう勢ですが、それより大きいサイクルは、巨大隕石(その規模にもよります)が舞い上げた粉塵が時間をかけてゆっくりと空気が澄んでいくからではないのかとみています。これを言葉にすれば、地球の温暖化の一番大きな原因は『濁り水(=濁り空気)の沈殿化だ!』と思っています。もちろん先さまが以前に揚げられた天体の運動も関係ありとは思いますが・・・^^!

 巨大隕石、又はプレート型地震が起こす巨大津波について、ですが、大きくは、大西洋、インド洋、太平洋の三つと考えています。津波の力は摩擦熱での消費がほとんどないから大洋ではずいぶん遠くまで運ばれます。(チリ沖津波が日本に届いた)しかし、津波の奴(力)は、ズルいから東南諸島や、中南米で邪魔されると、そこで力をそがれて大きくは越えられないのではないでしょうか??。thanks^^。

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371 史実探偵: 平 素人:2020/02/05(水) 14:46:41
此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000376M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000376_2M.jpg

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372 史実探偵: 平 素人:2020/02/08(土) 05:12:27
触らぬ神(暴論)に祟りなし^^?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000377M.jpg

https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-31.html



373青面金剛:2020/02/08(土) 05:15:26
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
??机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>   出土した!あとになって「忙しかった」との言葉は聞きたくないものです^^!
>此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
> <岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
>吉備・総社市岩屋・未掘の銅鐸23個が埋めてある岩屋寺金堂とその上斜面
> その祟りがあっても、当方、一切の責任をおいかねますので、自己責任でよろしくお願いいたします。
> 埋蔵金を探し出すよりいとも簡単。あなたは、わたしの予言する所へ足を運べばいいだけだ!
> 但し、その封印を解くと、震えが止まらない程の 恐ろしい祟り(タタリ)があるかもヨ! (笑)
>  遺物が出土してからでないと動けない動かない。物証至上主義も美学だが、考古学をそんな
>   魅力のない学問にしたくない。推理好きで遊び好きの貴方の参加を是非に希望します。

>    (大量の銅鐸と銅剣の出土とその推定場所)
> <出雲> 岩倉             神庭荒神谷・西谷(さいたに)
> <吉備> 岩屋?(総社市)       黒尾地区 西谷?(にしたに)

★ 前にも指摘した様に、吉備津彦と温羅の決戦の場である、古戦場にある寺の御堂は、大勢の戦死者を追悼する為に、有る訳ですから、金堂の裏側の丘が立ち入り禁止ならば、そこは戦死者の埋葬地です。

★ 吉備津彦の温羅退治は、西暦174年後半で、吉備津彦の出雲侵入は、その約10年後の185年ですので、「出雲と同じやり方で埋めた」とする平さんの説は成り立ちません。

 吉備津彦温羅退治  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmb1527.thick.jp%2FN3-18-6urataiji.html

 古代史の復元  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmb1527.thick.jp%2Fmokuji.htm


★ Googleマップの検索欄に「岡山県 岩倉、荒神、西谷」を入れて地名検索を掛ければ、
 岡山県 吉備中央町岩倉山、倉敷市岩倉神社、井原市岩倉山神社。

 荒神は20ヶ所程も出てきます。西谷も数か所ヒットします。これらの地を一通り廻る事無しに、思い付きレベルで、勝手に決めつけた所で、全く根拠が有りません。

 更に、平さんの文中には、地元の方々を激怒させる無神経な表現が多々見られます。そんな罰当たりの説を、誰も受け継ぎたくないのは当然でしょう。


★ 考古学者のシュリーマンが、発掘に関するルールを定めていて、
『発掘候補地が、探索に危険な場所だったり、死者の埋葬地で霊障や祟りが懸念される土地である場合は、発掘提唱者の人生の枠内で収める事』があります。

 平さんは、机とパソコンの前という、安全地帯から、他人に、「危険な所に行ってくれ!墓を掘ってくれ!」と無責任に嗾けているのは、発掘のルールに反します。

 まだ軽トラックを運転できるのなら、吉備中央町の岩倉公園や三休山へ、日帰りで行って来れるのでは無いですか。
 後は、管理人さんがドローンの操縦に慣れておられる様なので、「坪背山にドローンを飛ばしてもらえませんか?」と頼むと好いかも。ドローンなら、古い坑道に落ちたり、マムシに咬まれるリスクも無いでしょうから。


374 机上探偵: 平 素人:2020/02/09(日) 00:37:37
此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
青面金剛さまへのお返事です。
 レアなコメントありがとう御座います^^。この掲示板へ訪れるお人はたいてい「古代史掲示板」へもお出でる人だから1人/160人?ぐらいの希少価値があります^^。それを思うと有難い思いでいっぱいです。

>
> ★ 前にも指摘した様に、吉備津彦と温羅の決戦の場である、古戦場にある寺の御堂は、大勢の戦死者を追悼する為に、有る訳ですから、金堂の裏側の丘が立ち入り禁止ならば、そこは戦死者の埋葬地です。
> ★ 吉備津彦の温羅退治は、西暦174年後半で、吉備津彦の出雲侵入は、その約10年後の185年ですので、「出雲と同じやり方で埋めた」とする平さんの説は成り立ちません。
>
>  後は、管理人さんがドローンの操縦に慣れておられる様なので、「坪背山にドローンを飛ばしてもらえませんか?」と頼むと好いかも。ドローンなら、古い坑道に落ちたり、マムシに咬まれるリスクも無いでしょうから。
>

 先さまの色々なアドバイスや情報の提供は嬉しいのですが、私の元々は「南極大陸が大隕石→四千年前の東北巨大隕石→卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」のような現科学にないアウトレット論が売り^^ですから先さまが、専門家が、現史学からなんと云われようと「それを」ゆずる分けにはいきません。

 先さまは、拙論を「机上論」とさげすまれておられるようですが、 「中坊程度の机上論」でも解ることに “大きな意味” があります。皆さまが「何だぁ”そうだったのかぁ」と気づけばいいだけです。幾度も言いますが「これが、先さま方に伝わらないのは、その史実が無かったからではなく素人の論説法が拙いから」です。もちろん部分的には、誤りもあるとは承知しています・・・、

もとはと言えば「子ども心と遊び心」で始めたこと。卑弥呼については「十人十色」いろいろに論じるのも楽しいではありませんか。それが出土しなければガックリですが、もし出土したら・・ですよね^^?

尚、
★坪背山の「坑道排出ズリの確認」は猪ノ目茶屋跡から散策道を7分ほど登った右手の分かれ道の突き当り下斜面と推んでいますから、ドローンはいりません。ただ積雪を考えなければ、通常の注意で充分と思いますが??

★岩屋寺金堂の裏斜面の「23個銅鐸推定地」は下方に金堂が見える位置であり、この時期雪もなく、マムシはもちろん居ません。ただ散策道を外れた私有地か社有地かも知れないので、その<許可さえ>得られれば大して難しいとは思いません。但しこの時期、凍みていたり、落ち葉で滑りこけないように注意しなければなりません。(ゴメン、啓蟄すぎて道にシマヘビがぁ^^!)

 私ですかぁ^^? これからは全て成り行きで・・・、
30年あまりの広報をしてきました。それ等を受け取る受けとらないは現学や先さま方の自由! 当方少々ボケも入ってきました。わずらわしいことは嫌です。残り少ない人生。たのしまなくっちゃーね。「四国真ん中スイーツ電車」にいってきまぁす^^。

<評価の歩み>↓ どれか一つでもなれば、根ほり葉ほり調べられるのも嫌ですよね^^!

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-10.html



375机上探偵: 平 素人:2020/02/11(火) 10:16:47
大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
 卑弥呼の時代、今から1700年ほど前、土地の私有化が進んでいない時、その大量の銅鐸を封印する土地を選ぶには、「どこでもいいや」という分けではなく、”何かの決まり”があるはずだ。

<銅鐸の出土>
多少のズレはあるが銅鐸がまとまっての出土は、出雲が39個、吉備の予測数(23個)、神戸14個、野洲で24個が出土している。後々ではあるが四国や淡路島、静岡?、それに北陸地方でも発見かっているようだ。
静岡での全斜面探査?以外は、何かの偶然からの出土であり、出雲岩倉では山斜面の道路新設中、野洲大岩山は新幹線施設の計画前?、神戸神岡(かむか)では住宅建設?? 時で、あり現状はとどめていない。
単品の発見でも、何かの工事中とか、鯉のぼりの竿立て穴とか、子供が持ち遊んでいたとかの発見であり、予測しての発見はまったくない。予測しての発見は史学者のゆめのようです。(笑い)

このように、何かの偶然からの現状破壊がほとんどであり、まとめての出土の場合は「山の中腹に」がわかっている。それも比較的浅い場所からと推測され、筆者は、当時の男性の平均身長を五尺余として、その埋め底を「四尺」とした。これ以上掘ると顔に土がかかり掘りずらいから(^^!)だとしました。土葬の場合もほぼこの深さであり、「四」=「死」の考えからの発生かと思います。

「山の中腹」だと聞いて、新幹線の途中下車ではあるが、野洲の銅鐸博物館、神戸の考古館?へ出向いたことがある。野洲では記憶に薄いが移転地であり峠状の道路脇だったかな。神戸では、ご親切にも地図でのコピーまで頂いたのに分からずじまい^^!。

「埋め地の方角は?」
人里から程よく離れた奥山で、片道3時間以内。これ以上かかると祀りごとをして、その日うちに帰ってこれなくなると推んだ。そして、「山の山頂からの方位は?」東西南北どこでもいいはずなのに、「どこでもいいや!」とはしていない。筆者は、それを東から東南までの間と推定した。理由は、冬至の旭光に由来しているとは前述しています。

「人里から程よく離れた所」
祖先は、人里から程よく離れた場所を「境内・けいだい」と定め、そこを冒してはならない聖域として一般の人々の立ち入りを禁止した。そこで雨乞い生け贄のための幼子を隔離して育てていたとしたのが(別紙)の「鬼ノ城・きのじょう」であった。総社市岩屋は、それよりさらに奥の「奥坂」にある。地名に「奥」の字がつけば人々の生活圏から外れていることを意味する。日本人には、戸障子はおろかロープ一本の「境界」でも、侵してはならないとする考えが潜在している。この考えは、中国の客家、欧米の鉄格子で遮る考えからは、とうてい理解できない。

総社市奥坂岩屋の「金堂」ですが
 金堂とは冬至の極光が射し「ひかり輝く」ことを意味する。全国の名ある社(やしろ)の向きが東から南までの間にあれば、あながち、この考えが当たっていないとは言えない。蛇足ながら、差し矢の風習はこのことから来ていると思っています。
岩屋寺・金堂には、この下方に真宗か真言宗の社寺らしき社屋はあるが、金堂に連なる社屋はない。そして、土壇の上に立つ建物の足が異常に高い。これは、そこに〇〇の神さまがおわすのではなくて、金堂裏の山体が重要であることを意味する。そしてこの社屋は前部の格子戸だけで周りは囲まれていた(?)、と思うが正確には思い出せない^^!。中に小さな毘沙門天の木彫が飾られていた。これは、「その射し矢=冬至の旭光=荒神さま」の御来光を阻み、この社屋の後ろに埋めた23個の銅鐸に“乗り移つらせないため”だと謎解きしました。

「お宮の前面が格子戸になっているのは何故??」
子どもの頃、このように考えたお人は、きっとあるはずだ。その子供心を思い出し、深く追求しなければ「この祖先からのメッセージ」は貴方には伝わらない。(ちょっと言葉が過ぎました^^!)このように、今の史学がその銅鐸を謎の遺物と呼び、その歴史をすっかり忘れてしまっていることが問題なのだ!。その前面を塞いでしまえば、その光神さまは入れないし、あらぬ所へ飛び散り、取り付いて悪さ(災い)をもたらすかも知れないと思ったのかな(^-^!)。
 この金堂の裏手の岩壁の下に、「溜井」のような跡があったのが気になっています。
 国土地理院・岩屋・金堂の地図を載せようと思っているのですが、手間取っています^^!

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



376青面金剛:2020/02/12(水) 08:37:33
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> <銅鐸の出土>
> 多少のズレはあるが銅鐸がまとまっての出土は、出雲が39個、吉備の予測数(23個)、神戸14個、野洲で24個が出土している。後々ではあるが四国や淡路島、静岡?、それに北陸地方でも発見かっているようだ。
> 「埋め地の方角は?」
> 人里から程よく離れた奥山で、片道3時間以内。これ以上かかると祀りごとをして、その日うちに帰ってこれなくなると推んだ。筆者は、それを東から東南までの間と推定した。理由は、冬至の旭光に由来しているとは前述しています。

★  荒神谷遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.kojindani.jp%2Fiseki%2Findex.html

 銅剣358本と銅鐸6個と銅矛16本
「遺跡は『出雲国風土記』記載の出雲郡(いずものこほり)の神名火山(かんなびやま)に比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭(かんば)西谷にあります。銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、昭和60年には、その時点からわずか7m離れて銅鐸(どうたく)と銅矛(どうほこ)が出土しました。」

   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.kojindani.jp%2Fpark%2Fpark.html


> 「人里から程よく離れた所」
> そこで雨乞い生け贄のための幼子を隔離して育てていたとしたのが(別紙)の「鬼ノ城・きのじょう」であった。
> 総社市奥坂岩屋の「金堂」ですが、金堂とは冬至の極光が射し「ひかり輝く」ことを意味する。
> 岩屋寺・金堂には、この下方に真宗か真言宗の社寺らしき社屋はあるが、金堂に連なる社屋はない。そして、土壇の上に立つ建物の足が異常に高い。これは、そこに〇〇の神さまがおわすのではなくて、金堂裏の山体が重要であることを意味する。中に小さな毘沙門天の木彫が飾られていた。これは、「その射し矢=冬至の旭光=荒神さま」の御来光を阻み、この社屋の後ろに埋めた23個の銅鐸に“乗り移つらせないため”だと謎解きしました。

★ 「中に小さな毘沙門天の木彫が飾られていた」事から、「お宮」では無くて、仏教の『お堂』です。銅鐸の時代に仏教は未だ渡来していません。

★ 百済の王子である温羅は、製鉄の技術で、農機具や漁具を地元に広め、豊作と豊漁を貰らした事で、地元民からの信頼を得て、地元の娘と結婚しました。

> 「お宮の前面が格子戸になっているのは何故??」

★ 「お堂」の前面が格子戸になっているのは、御供え物が、カラスやキツネなどに荒されない為。


☆ 荒神谷博物館も加茂岩倉遺跡ガイダンスも、古代出雲歴史博物館も訪れる事なしに、勝手な妄想を描いてるだけです。
 荒神谷も加茂岩倉も、近くに出雲王家の重要な祭祀の場が有りました。総社市奥坂岩屋は、出雲王家とは関係ないです。

 加茂岩倉遺跡ガイダンス
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkamo-iwakura.amebaownd.com%2Fpages%2F1404761%2Fpage_201711071032

 島根県立古代出雲歴史博物館  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izm.ed.jp%2F

 島根県立八雲立つ風土記の丘  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.yakumotatu-fudokinooka.jp%2F

 出雲弥生の森博物館
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.city.izumo.shimane.jp%2Fwww%2Fcontents%2F1244161923233%2Findex.html

 島根県立埋蔵文化財調査センター  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.pref.shimane.lg.jp%2Fmaizobunkazai%2F

 島根大学ミュージアム  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmuseum.shimane-u.ac.jp%2Findex.html



377机上探偵: 平 素人:2020/02/14(金) 02:06:56
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
https://kamo-iwakura.amebaownd.com/pages/1404761/page_201711071032

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



378青面金剛:2020/02/15(土) 10:11:50
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 出雲の「仏教山」、吉備の「経山」、神戸に荒神山と大月荒神谷、野洲に三上山と「妙光寺山」があります。これ等の山は大量の銅鐸の出土地から<二山越えの三山の前>あたりにあります。そして、不思議なことに、直線、曲線(徒道)を問わなければ、ほぼ3km〜4kmであり。すなわち<1里 = 1離>ほど離れた場所にあります。
>  何故に仏教に由来する山名がついているのか、今だに解りませんが、四ヶ所の内三ヶ所までが<二山越えて一里離れた所>にあるのか不思議でなりませんでした。特に出雲の「仏教山」と吉備の「経山」は酷似しています。
> 出雲の仏教山を、「カンナビ山に否定する」がありますが、私は、カンナビ山の山姿は、ブログ「いずものこころ」で、その山頂は「丸くてなだらかな形をしている」と得ていたので剣山型の仏教山がカンナビ山であれば、その考えを変えなければなりません。出雲にカンナビ山は四山あり、その囲まれた中に宍道湖・中海があり、「四方の風を呼び八方の雨雲を呼び寄せ中海に慈雨を!」とも得ていました。
>  「仏教山 = カンナビ山(?)」から、妄想した^^!)のですが、仏教系の山名のまえに何か、ほかの山名(通称は何?)が付いていたのではないかと疑るようになりました^^?。
> その地元には史学で云われない「言い伝えやいわれ」があり、それ抜きでその地の歴史を論じてはならないと強く教示されています。『地元のことは地元にきけ!』

☆ 『出雲の仏教山を、「カンナビ山に比定する」』元は『神の山』『神奈備山』と呼ばれ、後の征服側が、出雲での神奈備信仰を隠蔽させるために仏経山と呼び名を変えてしまいました


> 伊奈西波岐神社に奥の院あり(勾玉・銅戈を打付けて竜の首根っこの縛り付け場所)が判明。
> タクシー運転手も避けるから(猪の目峠に隠された坑道・天岩戸あり)を確信した。

> 加茂岩倉遺跡ガイダンス <大量の銅鐸の埋めてあった場所は、>
> 狭く長い谷の最奥部である。そして奥の南側に張り出した丘陵の南東斜面に埋められていた。銅鐸出土地からの眺望はあまりよくない。
> 『狭く長い谷の最奥部南東斜面に(吉備では東向き斜面)、銅鐸出土地からの眺望はあまりよくない』多少の違いはありますが、筆者が23個の銅鐸ありと推定した岩屋の金堂の裏斜面に酷似しています。厳密にいえば金堂裏の上方斜面には南北50〜60歩の均地(なるち)があり、ここで封印のための祈祷儀式がされたと推みました。
> 『眺望はあまりよくない』が、その谷の先にある山と山との谷あいに1700年前の冬至の太陽が昇り旭光が射しこむ位置にその銅鐸が埋められていたのであれば最高ですよね。尚、その所に、光道(こうど)に類する地名や、いわれ・言い伝え、そして射り矢、入谷(いりや)に関する歴史があれば、「総社市奥坂岩屋に大量の銅鐸があり」は確定します。

☆ 『海風想』のHPに加茂岩倉遺跡の地形図に方位が示されてますが、加茂岩倉遺跡ガイダンスの建物と平行した、南南東向きの斜面に在り、「冬至の太陽が昇り旭光が射しこむ」のは、日の出からだいぶ時間が経過した、太陽の角度が可成り高く成らないと無理です。

『海風想』加茂岩倉遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fizumo-3-kamoiwakura.html


> 「加茂岩倉」の地名の由来はなんですか?? どこにその『岩はあるのですか?』総社市岩屋に鬼の差上げ岩と呼ばれている巨岩があるのはもちろんですが、その旭光を止める屏風岩や、山頂に重しの役目とみる大きな露岩があれば、加茂岩倉と総社市岩屋には大量の銅鐸を寝かせて(伏せて)埋めるという共通の文化があります。

☆ 同じページの下方に加茂岩倉遺跡の第一駐車場から見る岩倉の写真が有ります。また、加茂岩倉遺跡の北北東の約400メートルのに「矢櫃神社跡」があり、その奥側斜面には食いつくように大きな岩が座している。この大岩も、「磐座(いわくら)」として古くから祭祀が行われた場所であるといえる。
 うんなん旅ネット 加茂岩倉遺跡 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.unnan-kankou.jp%2Fcontents%2Fspot%2F274

☆ 『海風想』の磐富一馬氏は、同じページの更に下方で、加茂岩倉遺跡のガイダンス(資料館)に掲示されている航空写真を基に、『出雲タケルの姿』を示しています。

              西谷墳丘墓群(頭)

                            荒神谷遺跡(左腕)

         加茂岩倉遺跡(剣を腰に付ける位置)



  夜都米佐須伊豆毛多祁流賀波祁流多知都豆良佐波麻岐佐味那志爾阿波禮

 「出雲タケルさまが身につけていらっしゃる太刀。
    つる草のごとくたくさん巻き付けて、その身だしなみに感動する」(磐富一馬氏の口語訳)
  『海風想』  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fizumo-3-kamoiwakura.html

☆ 磐富一馬氏の説に補足するならば、右足の場所には、武内宿祢の墓が有る『神原神社』、
左足には『佐為神社(さいじんじゃ)』、右腕には『草枕山(酔ったオロチが枕に眠った山)』


               西谷墳丘墓群(頭)

   草枕山(右腕)                    荒神谷遺跡(左腕)

         加茂岩倉遺跡(剣を腰に付ける位置)


    神原神社(右足)                  佐為神社(左足)


☆ これが平さんの先祖からの伝承である「命主社と同じ様に『大の字』に埋めた」の意味では無いでしょうか。

☆ 日御碕での太陽信仰を、太陽の運行(冬至・春分・夏至・秋分)を基に分析した論文は、既出ですが、日の出日の入りの角度は、下記のブログで、

 蘇える出雲王朝  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyomiagaeru.exblog.jp%2F27467502%2F


 日御碕神社 海底遺跡
「日御碕神社の宮司さんから、経島で行われている夕日の神事が、昔は沖にある「タイワ」の瀬で行われていたという言い伝えを聞いたそうである。もし、経島ではなく、その海底遺跡で神事が行われていたのなら、夏至の沈む方位線もまた別のところに向かって引かれることになる。」


☆ 鯉喰神社は卑弥呼の墳丘墓の上に建てられて居る様ですが、足守川を挟んだ東岸が「加茂」の地で、上賀茂神社と賀茂神社が有ります。
 加茂氏は、祭祀を毎日司る役目ですので、祭祀の場に近い場所に住まねば成りません。片道3時間も掛けるのは、王家の方々が行事の時に、歩いて行ける距離です。
 吉備中央町の岩倉山の周辺には、加茂、賀茂の地名が残る事から、直ぐ近くに賀茂氏が住んでいた事が伺えます。

☆ 磐富一馬氏の『海風想』では、屏風折れの石垣は、太陽信仰の祭祀場と推察しています。

「石垣の上は大きな建物を造れるほどの広さは無く、幅は大股歩数で約10歩程度しかありません。
  方位を測ってみますと、舌状の突き出し方向は真東です。そうすると、この舌状に突き出した石垣の上から突き出し方向を見ますと、日の出地点は突き出しを中心に置いて右に左に日を振ります。
 すなわち、この高石垣は日の出を観測して農業の時期を知る、太陽信仰の祭祀場だったのではないでしょうか。どうりで豪華です。」

   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fkougoisi-kinojyou-1.html



379机上探偵: 平 素人:2020/02/16(日) 07:50:08
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
青面金剛さまへのお返事です。
 早速のコメント有難うございます^^。
  昨日、「四国まんなか千年ものがたり」に行きました。息子たちが呼んでくれた
スイーツ電車ですが、まるで通常を離れた別の時空に入ったような時を楽しんでまいりました。
車に弱い私、帰りの特急南風に車よいしましてパタンキューです^^!。

 一読ですが・、コメントやその情報には大変興味を^^ひく個所が目に入っています。
 しかし、今は頭が鳴りふかく考えることが出来ません。時間をください・・・。

 冬至の入光は、かなり時間がたってから・、総社でもそのような気がしていました?
 加茂岩倉から、荒神谷へ行く旧道・徒歩道がある・・☆
 文面に、岩・盤座、矢の字等々をみかける・・・・???

あとで、熟読します・・・ありがとうございました・・・後々に・・、

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



380机上探偵: 平 素人:2020/02/17(月) 06:59:45
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
http://kaifuusoo-575.sakura.ne.jp/izumo-3-kamoiwakura.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



381青面金剛:2020/02/17(月) 20:00:01
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> しかし、射光・射的の考えは絶対に外すことは出来ないと考えています。
> 例えば、その埋め場所を低い位置に変えれば、日の出からの時間はかなり経過しますし、その位置をだんだん高くしていくと、日の出の時間に近くなってきます。
>  次に、「入光・入谷(いりや)」の考えがあります。
> 本坑と偽坑の位置の関係を知りたいと思います。
>  この話は、1700年前のはなしですから、現在は歳差により日の出の方向が72年に1度角、少しずつ時計回りにずれていますからそれを考慮しなくてはなりません。いずれにしても、先さまが強くもとめるように最後は実地検証が大切かと・・・^^!、

★ そこまで強い拘りを持っているならば、自分で直接、賀茂岩倉へ行って確認してこい!

☆ ”金鶏伝説”
 「加茂岩倉地区には、昔から「元旦の朝、初日の出が差し込む”大岩”の下に金の鶏がいて、年に一度この時だけ鳴く。その下を掘ると宝を授かる。だが、それを他人に話してはならない。」との”金鶏伝説”があった。」 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fuser.kkm.ne.jp%2Ftatetani%2Findex.html

「元旦に岩の中にいる金の鶏の鳴き声を聞いた人は幸せになるという金鶏伝説の大岩もあります。」
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.monaka-data.net%2Fdoutaku-monaka%2F


☆ 荒神谷・加茂岩倉遺跡及び『出雲国風土記』から推理する 古代出雲の測量法   吉 田??薫

「両遺跡の位置関係を知るため地図上(図-1.1)で線を引いてみると、両者 は不可分の関係にあることが一目瞭然である。まず、大黒山(315m)と高 瀬山(314m)を結ぶ線と、両遺跡を結ぶ線は直交する。さらに、大黒山と 両遺跡、高瀬山と両遺跡は等距離である。すなわち、底辺を共有する二等辺 三角形が描けるのである。 」

「ブロンズサークル??銅剣の数 358 本は年 365 日を想起させること、加茂岩倉遺跡から眺めると 荒神谷遺跡の方向は冬至の日没方向であることをヒントに、ストーンサーク ル(秋田県大湯環状列石:約 4000 年前の縄文時代後期の遺跡など)になら い、三種類の青銅器を環状に並べてみる。」

/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpeshimane.net%2Fwp%2Fwp-content%2Fuploads%2F2015%2F02%2F2014-25

☆ 全国遺跡報告総覧 加茂岩倉遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsitereports.nabunken.go.jp%2Fja%2F2618

☆ 全国遺跡報告総覧 出雲神庭荒神谷遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsitereports.nabunken.go.jp%2Fja%2F13824

☆ 真幸ヶ丘公園の六角形の建物は『展望台』です。

☆ 鯉喰神社の南東の『王墓の丘史跡公園』にある真宮神社から南東へ約400m程に『岩倉神社』が有ります。倉敷市日畑203
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jinja-net.jp%2Fjinjacho-okayama2%2Fjsearch3okayama.php%3Fjinjya%3D28635

☆ 「ドローンは要りません」と言い、場所を搾り込んでいるならば、平さんが自分で行くしか有りません。 念のために、登山用品店などで売っている非常用のホイッスル(100均ショップにも探せば有るかも)と、クマ除けの鈴(マムシは金属の擦れる音を嫌うので。自治体で無料で貸し出してる場合もある)を付けて行くと好いでしょう。







382荊の紀氏:2020/02/19(水) 00:18:44
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

??????????????参考に成れば幸いです。

 N34度44分 E133度45分 ?
<岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
N34度44分 E133度45分 ?

<岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
N34度43分   E133度46分 48″
十進数 34.718482 133.779913

荒神谷遺跡ー奥坂岩屋寺金堂
方位角 130.64477度(東南に40.64477度)
距離111.84885?

40.64477度ー40.908417=0.263647 (差 約0.26度)

古津路遺跡ー五斗長垣内遺跡
方位角 40.908417度
距離40.179686?

弥生時代の古式銅鐸ばかりが発見される淡路島の銅鐸を象徴しています。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkuniumi-awaji.jp%2Fheritage%2F01nakagawara%2F
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)は、兵庫県淡路市黒谷にある弥生時代の遺跡。
北緯34度30分18.4秒 東経134度54分30.3秒
十進数34.505111, 134.908417

北緯35度22分35.4秒 東経132度51分8.7秒
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡
十進数 35.3765, 132.852417

荒神谷遺跡ー古津路遺跡
方位角 123.93394度(東南に33.93394度)
距離 207.305791?

荒神谷遺跡ー五斗長垣内遺跡
方位角 116.748485度(東南に26.748485度)

古津路遺跡ー五斗長垣内遺跡
方位角 40.908417度
距離40.179686?

五斗長垣内鍛冶工房遺跡のこと そして 同じ頃 出雲で起こった大量の埋納銅鐸・銅剣出土のこと。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.infokkkna.com%2Fironroad%2F2015htm%2Firon11%2F1506doutaku00.htm

古津路銅剣 | 淡路島日本遺産kuniumi-awaji.jp/heritage/06kotsuro/
多数の銅鐸が発見された慶野松原近くの古津路遺跡から見つかった銅剣で、14本が確認されています。



> 久しく休止していた送信活動を再開し、次の文面を各機関に送ります。
>   出土した!あとになって「忙しかった」との言葉は聞きたくないものです^^!
>
>                           ( Feb.05, 2020 )
> 〔極秘〕 ↓此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
>             You must dig here. bow wow^^.
>     <岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
>    N34度44分 E133度45分 ? この掘り上げ 場所の推定を、1mと違えてはならない!
>  ※探知機を持ち込めばいいのだが、それでは 「予測できる・した」 という意味が半減する!!
>
>    古代史掲示板 [332] 投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年12月 4日(水)
>   この記事は、地域・地主様へのご迷惑や歴史破壊を考えて近時まで〔極秘〕として
>   いましたが、何方さまからも相手にして頂けないので、 咎を承知で再度掲載します。
>      (それを待っていたら、こっちの頭も命も持たない^^! 。(ので只今、終活中です。)
>
>          写真1金堂の裏斜面 & 写真2岩屋寺金堂
>
>       ↑吉備・総社市岩屋・未掘の銅鐸23個が埋めてある岩屋寺金堂とその上斜面
> ※写真の場所は散策コースを外れております。(散策道は所有者のご協力からなっており)コース外の
> 探索はくれぐれも、その許可をとってからになさって下さい。そうしないと立ち入りさえ出来なくなって
> しまいます。【厳重注意】
>  尚、それがわずか 四尺下の土中 なのに今の今迄盗掘されなかったのは「墓泥棒も恐れるほどの荒神」を強力な法力で封印しているからだ!」 その祟りがあっても、当方、一切の責任をおいかねますので、自己責任でよろしくお願いいたします。  史実探偵: 平 素人 、拝□
>
>   さて、あなたさまは、つぎの三択どうされますぅ・・・^^?
> 1.実績のない素人の妄想・戯言として 無視する。 →が、出たらさわぐ~~?
> 2.その銅鐸の掘り上げに携わり、古代史に風穴をあける。→祟りがあるかもよ~~!
> 3.卑弥呼が、その銅鐸が出土しようがしまいが「今のワシにゃあ関係も 興味もねぇ(笑い)」
>
>  <その銅鐸が“何故23個”なのか?>この詳しくは、こちらへどうぞ(^-^!)
>       関連記事: /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ffujorinokuukan.blog108.fc2.com%2Fblog-entry-1.html
>
>  卑弥呼は、それまで永々と続いた「銅鐸生け贄文化を銅鏡身代わり文化へ変えようと」魏から得た
>  100枚の銅鏡に換えて、出雲と “同じ決め事”で持ち寄った銅剣と銅鐸を “セット”で封印している!
>
>  卑弥呼が埋めた・させた“大量の銅剣”を発見ける事は、有るか無いかも分からない徳川の
> 埋蔵金を探し出すよりいとも簡単。あなたは、わたしの予言する所へ足を運べばいいだけだ!
> 但し、その“封印”を解くと、震えが止まらない程の 恐ろしい祟り(タタリ)があるかもヨ! (笑)
>  出雲・野洲・神戸には、大量の銅鐸を寝かせてヒレ伏して埋める という「共通した文化」がある。
>
>           “ 共通の文化には、共通の事象あり!”
>   その出雲で大量の銅剣類が出土している。共通の文化には、共通した事象があるならば、
>  「野洲や神戸にも」(そして吉備にも)、出雲と全く同じような関係場所に、100%の確率で
>  “大量の銅鐸や銅剣類” がセットされて、1700年余の眠りに就いている!!!
>  遺物が出土してからでないと動けない動かない。物証至上主義も美学だが、考古学をそんな
>   魅力のない学問にしたくない。推理好きで遊び好きの貴方の参加を是非に希望します。
>                          Blog: since 2007  June 22,
>
> 大量の銅鐸と銅剣の埋め場所は、
>        以下(青色)のような “相関関係と、共通性” がある。
>
>    (大量の銅鐸と銅剣の出土とその推定場所)
>         <大量の銅鐸>                  <大量の銅剣>
>   人里から程よく離れた山の中腹、           ほぼ西南方で辺ぴな谷奥の南向斜面
>     岩の付く地名→   その西方;約1里・二山越え→   西、及び荒神の付く地名
> <出雲> 岩倉           大黒山・仏教山△姿   神庭荒神谷・西谷(さいたに)
> <吉備> 岩屋?(総社市)     *山 ・経山△姿    黒尾地区 西谷?(にしたに)
> <神戸> 桜ヶ丘(古名;神岡かむか) * (荒神山△姿)  地獄谷 or  大月地獄谷?
>          (いわやの駅名あり)
> <野洲> 大岩山          *山 ・妙光寺山  と、三上山との谷間・(地名?)
>   (註)(?マーク)は、予想した埋封(まいふう;筆者の造語)場所で、未だ未掘です!
>
>
> <大量の銅鐸・(銅剣)の現在迄の出土数と予測数>
>  ↓赤字は,未出土の大量の銅鐸・銅剣の出土予測数
> <出雲>  岩倉         39個       神庭荒神谷・西谷    358本
> <吉備>  岩屋 出土予測数  (23個)    黒尾地区 西谷 目安予測数(200本?)
> <神戸> いわや,神岡(古名;かむか)14個 地獄谷or大月地獄谷?目安予測数(120本?)
> <野洲>  大岩山        24個       三上山との谷間  目安予測数(200本?)
>      銅鐸&銅鏡のそれぞれの<合計> (-1卑弥呼の手持ち分^^?)
>        100個 = 出雲39個 +(吉備23個) + 神戸14個 + 野洲24個
> 卑弥呼が銅鐸との交換に使った銅鏡の数( = 魏から得た銅鏡数100個(^-^)
> 註)銅剣で・目安予測数としているのは、出雲の銅鐸1個に対する銅剣数を(358÷39=9本)として算出した数であり、これは、あくまで目安としての数です。(減る傾向ありか?)
>    ↑ Myブログ、月別アーカイブ 2011/1月&;2月<銅剣銅鐸探査のあれこれ!>より、
>      /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ffujorinokuukan.blog108.fc2.com%2Fblog-date-201101.html

383机上探偵: 平 素人:2020/02/19(水) 08:45:14
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
荊の紀氏先生へのお返事です。

 せんせいぃ〜ぃ^^!??どうされてたんですかぁ心配してました。
 御自分の掲示板には毎日ご記事をあげているのに、「なぜ?」の思いがありました。

ルーツさんとのやり取りで、「うちのキシがごめいわくをかけています」がありました。
紀氏先生は、管理人さんにとって、身内のようなものかな^^?
先生にはせんせいの多くのファンがいるはずです。復帰をのぞみます。
(・・、でも管理人さまのいうこともすこしはきいてね^^!)
この掲示板は管理人さまの度量でなりたっているのは、先生もよくご存知のはず^^!

わたしのほうは衰えもあり、根がつづきません。今は青面さまで手一杯です^^!。
>?????????????? 参考に成れば幸いです。
先生のは、私にとってむつかしそうですが、あとでゆっくり考えたいと思います。
今後のご指導をよろしく、お願いいたします。  早々、

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



384机上探偵: 平 素人:2020/02/19(水) 10:51:24
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
続、キシ先生へのお返事です。

淡路島の件は、最近のニュースであり、センセ>も揚げられていましたね。
わたしは、この件をつぎのように考えています。

卑弥呼が銅鐸に換えて分け与えた銅鏡の数は100枚であり、前述している「出雲と吉備と神戸と野洲」に、その100個を分け与えればなくなってしまいます。ご存知のように銅鐸を使用しての文化は約500年の永きに渡っています。銅鐸は「荒神を呼び寄せ乗り移らせる媒体」と最終的に結論づけましたから、二体を越えると荒神同士はケンカを始めるので、少なくとも3体以上まとめて埋められているは、卑弥呼が提唱した「主神(銅鏡)は太陽であり、従来の荒神(銅鐸)は従神だ」との考えが <波及した以後> のものと考えています。

↓MYブログより^^!
<なぜ、“大量の”銅剣や銅鐸が埋められたのであろうか?>
 銅鐸は、大量にまとめて埋められた以前にも、必要時以外は個々に(土中保管説)埋められていた。 話は、これを大きくさかのぼり、「BC.2001年の12月25日、未だ暗い朝の6時頃、地球を半周した彗星が、龍飛崎の上空を通過し、三陸地方に巨大隕石となって光臨した!」
祖先はその赤く輝いた巨塊を、その風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして、犠牲を強要する荒神となって “人々の心の中” に入り込んだ。神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。 この荒神様は、慈雨との交換に赤い血を欲しがる。

 生け贄の歴史は、最初の小動物からエスカレートして、 ついには 「私達には、これ以上に大切なものは有りません。 この幼子を煙に変えますから、 どうぞ、この海水を、この幼子の煙を雨雲に換えて下さい」 と迄になる。 “その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!”  それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。 朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった! 又来るあの大事変が!!
  人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。
 「やがて、あの星は全天を覆うだろう。 私がその難を逃れるお祈りをしてあげる」と、
   結果的に、この彗星はニアミスに終わり、人々は大きく安堵した。

 火巫女は説いた。「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。 その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」 元は、と云えばヒミコは、一般の子と区別するために、その削がれた耳を、おカッパ頭で隠し、人里離れた境内で “人身供儀用”として、大切にそだてられていた三歳〜七歳までの幼子のうちの1人であったが、その口寄せが 「よく当たる」 ことから、その厄を逃れていた。
 この一件でカリスマ性を増した卑弥呼は、銅鐸を中国・魏から取りよせた銅鏡に替えさせた。初めて見る銅鏡に修厳者達は驚愕した。並みの驚愕ではない。太陽の光を反射するその鏡は直視することが出来ない。 目を閉じて地に‘ヒレ伏’した。

 日巫女さまの云うことに間違いはない! 早朝の戸口に白羽の矢を立てられれば、否でも愛児を差し出さねばならない社会制度。 雨乞いや厄災時には“その命”神が召すのだと! 稚児たちを殺めた。 一度使った刃は二度と使いたくない。出雲の大量の銅剣は、犠牲者の数だ。 このような「衆生雨乞いのための社会制度」に、不満がくすぶっていたから、卑弥呼の提唱する“銅鏡象徴文化”へと、容易に変わっていく。 しかも、ヒミコさまは、その銅鏡を下さると云う。 荒神・銅鐸文化が発達し、卑弥呼(銅鏡)文化へと変わった所には、 「その神二度と起こしてはならない! その剣二度と持たしてはならない!」と、 不使用にした銅鐸と銅剣が持ち寄られ、それぞれが 別離させて“封印”されている。□

ゴメンナサイ、
 方位学や、十進法・複進法、円弧・距離法、等々は私には難かしくて・むつかしくて^^!、 それから、お返事を書く時、「その人の文>を長く張るのは止めましょう」と、
 管理人さまが仰っていましたよね(汗〜^^!)

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



385青面金剛:2020/02/20(木) 05:29:03
Re: 此処に銅鐸が眠っている
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 銅鐸は「荒神を呼び寄せ乗り移らせる媒体」と最終的に結論づけましたから、二体を越えると荒神同士はケンカを始めるので、少なくとも3体以上まとめて埋められているは、卑弥呼が提唱した「主神(銅鏡)は太陽であり、従来の荒神(銅鐸)は従神だ」との考えが 波及した以後 のものと考えています。
>その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!
>出雲の大量の銅剣は、犠牲者の数だ。


☆ 荒神谷遺跡の銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本と加茂岩倉遺跡の銅鐸39個の表す意味については、Dr・イズモ氏のHPの解釈と分析が、一番的を得ている、と思われます。

 出雲文化探訪  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2Findex.html

 出雲文化について 風葬文化と青銅器
  5.風葬と青銅器(2)  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2Findex98-4.html

 太陽崇拝族と銅鐸で知る冬至祭祀

『「 弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました」の部分と「古代日本にだけ出土する遺物として有名な銅鐸について、型持ち穴が二至の太陽の日の出線の向きを示しているのではと指摘した方もあったようです」の部分である。 』

 神在祭の起源  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F1999-2.html

?荒神谷遺跡が高瀬山と大黒山から等距離にあるという事実
?荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡が夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ直線上にあるという事実

『 この2つの事実は各青銅器の特徴から考えて、「一連の青銅器、銅剣、銅鐸、銅矛を用いて測量した結果、導き出されたもの」である可能性が高い。』

「次に銅矛である。銅矛の特徴として研ぎ分け処理が挙げられる。研ぎ分けとは刃部の最終段階の研磨の際に、意識的に砥ぐ方向を変える磨き方法のことである。
 荒神谷の16本の銅矛も、そのうち7本に研ぎ分け処理がなされているのが確認されている。研ぎ分けは光の反射を計算されたものである。これは点滅信号にも似て、遠距離でも判別をつけやすくするのに都合がよい。
 これらの銅鐸と銅矛を使用し、二等辺三角形のポイントを定めるとき、銅鐸の鐘を鳴らす構造が活きてくる。」

「 実は銅剣が目盛の役割を果たしていると考えると、その特徴は理解しやすい。」

「 実は、これらの青銅器を使用して荒神谷遺跡を決定するのに理想的な数量を示しているように思える青銅器群が既に荒神谷の付近(およそ20km)で発見されている。
 鹿島町佐陀本郷の志谷奥遺跡出土青銅器の銅剣6本と銅鐸2個である。銅鐸1個につき銅剣3本で目盛2個分を作り出すことができるので、銅剣を計りたい方向に1本ずつ抜き差しすれば、目盛を等間隔に移動させることができる。よって銅剣3本で十分目盛の役割は果たせるように思える。 」

「 銅鐸孔が太陽の年軌道を表したものならば、その内角の往復分で1年間の太陽の動きを表しているから、そのことを考慮に入れて目盛を数えてみると銅剣179本は興味深い数字をはじき出す。銅剣が作り出すその目盛数は月の満ち欠けによる一年周期、つまり太陰暦354日と一致するのである。」
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F1999-2-2.html

 358本(銅剣の本数)/2=179本(銅鐸一個分に使用されたと考えた場合の銅剣数)

 179ー1=178(銅剣で目盛を作ったときの数)

 この数が銅鐸孔が作り出す内角の目盛であるとするなら、往復分は2(178ー2)+2=354
(両端は1回、他は往復するので2回である)

これは純太陰暦で一年を数えた場合の年周期数
(ただし実際は354.36706といった端数がある)である。

「 それでは再び荒神谷遺跡に着目しよう。銅剣の配列状況を見ていただきたい。」
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F1999-2-3.html

『 正面右側から1列目93本、2列目120本、3列目111本、4列目34本である。私はこの中で特に1列目の本数で作り出す目盛数が春分から夏至までの日数と一致することを重要視したい。』

「 銅剣数が作り出す太陰暦を太陽暦と一致させるために、その基準数である春分から夏至までの日数を1列目に配置したならば、2列目、3列目も意味ある数字である可能性が考えられる。
 この仮説だと絶対数が358本しかないため、どうしても4列目には意味ある数字を配置出来ない。それと比べれば2、3列目、特に1列目と同じ向きの2列目は意味ある銅剣数である可能性が高い。
 これにより現在の太陽暦に合わせた日付を推測することが可能である。
 2列目の一番手前の銅剣は夏至から数えると10月20日、3列目の一番手前の銅剣は2月8日を表している可能性が高いことになる。 」

 青銅器と神在祭の関係  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F1999-2-4.html

『 ところが文献には見られないが、今尚残っている民俗行事で、もっともよくこの暦の作成及び修正を表しているものが存在する。それが「神在祭」である。』

『 もし「神在祭」で示されているように出雲だけで暦の修正が行われていたのならば、暦を修正できる人々がいなくなると各地で青銅器を使用する必要はなくなる。ここに青銅器文化が滅びてしまった直接の原因があるように思える。』

 志谷奥遺跡のシンプルさについて  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F5-8.htm

『 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間(これが重要である!!)に位置する。銅剣6本、銅鐸2個。
 ひっそりと静まりかえった谷にこんな青銅器があると誰が気付いたであろう。場所は「風土記」でいうところの「恵曇(えとも)のつつみ」を見下ろす場所で、地下2、30cmの所に青銅器は眠っていた。』


☆ 全国遺跡報告総覧 志谷奥遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsitereports.nabunken.go.jp%2Fja%2F2329

☆ 志谷奥遺跡で奇跡の出会い
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fkuma050422%2Fdiary%2F201806200000%2F

「 でも、荒神谷遺跡の剣はボロボロになっていて、保存するのに苦労したと聞いた。ここの剣や銅鐸はしっかりしていた。私なんかは、ホンモノでカネをついた。いい音がしたよ。考古学関係の人はここはすごい遺跡と言われるんだけど、今は忘れ去られている。」
「 荒神谷にしても、加茂岩倉にしても、そしてこの志谷奥にしても、全て見晴らしの悪い谷の中腹に埋納している。」

 松江市鹿島町志谷奥(しだにおく)遺跡 3号銅鐸の破片を公開
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izm.ed.jp%2Fcms%2Fnews.php%3Fmode%3Dyoyakuadd%26id%3D1625
「 今回判明した3号銅鐸の破片は、志谷奥遺跡1・2号銅鐸、銅剣6本とともに古代出雲歴史博物館 常設展で展示公開します。」

※ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対照的な位置にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。

 弥多仁神社 彌多仁社(みたにのやしろ)深谷(みたに)にある神社。
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jinja-net.jp%2Fjinjacho-shimane%2Fjsearch3shimane.php%3Fjinjya%3D29596








386史実探偵: 平 素人:2020/02/20(木) 07:04:09
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000391M.jpg

続・荊の紀氏先生へのお返事です。

> 参考に成れば幸いです。

<岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
素  人の予測地>  N34度44分?   E133度45分 ?
紀氏先生の予測値>  N34度43分    E133度46分 48″

 上記のように少しのズレがあります。
わたしが(?)印を付けているのは、未だに迷いがあるからです。金堂のすぐ上部に、はっきりとは思い出せないのですが、南北50・60歩、東西20・30歩の均地(なるち)上写真がありました。最初はこの中心部か? と思ったのですが、まてよ!、平地であれば容易にその上を歩けてしまいます。バチあたりにも荒神が乗り移る銅鐸の上を歩いて、その足音でその荒神を起こそうものなら大変なことになります。・・で、この件では「斜面」というキーワードが重要視されていまので、斜面であれば容易にその上を歩くことが出来ません。そこで、その平地に連なる斜面を考えたのですが、その斜面が3mたらずの斜面であり、その上部は簡単に歩行できるなだらかさになっています。はたして、3m足らずの斜面に23個?の銅鐸が埋められるものか? の疑問がありました。

先生の予見値を国土地理院図や、Google Earthで探してみているのですが、なかなかヒットしません。それに、地理院でもGoogleでも以前と検索の方法が変わってきていて、好きな倍率や方角が簡単に選べずとても苦労します。ご存知のように、磁北やら修正の問題を合わせて考えると、他の地も含めての地図からの探求は素人の手にはおえません。

・・で、先生の予測値をみると、当方の斜面とした予測地より、少し南と東へズレています。ということは斜面ではなく<均地>のほうになるのでしょうか^^? いずれにしても、レイラインや、数理だけで、その埋め地を絞り込めることは素晴らしいことであります。

 他の大量の<銅鐸の埋め地>のすべてが重機で破壊されている現在、その現状をとどめているのはこの岩屋だけ(?)です。現状のままで保存したい。探知機が進化した現在、それを掘り上げることなしに何かレントゲンのような探知機でその姿をみることはできないですかね。金属探知機を持ち込んで辺り一面を捜せばその有無を調べるのは簡単ですが、それをする前に、<何故、祖先はそこに大量の銅鐸を埋めた>のかの思いをさぐることの方がはるかに大事と考えています。
「出土した結果より、その埋め場所を予測・予見できることの方がはるかに大事なのだ」
  ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



387荊の紀氏:2020/02/21(金) 09:01:28
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>何故、祖先はそこに大量の銅鐸を埋めた>のかの思いをさぐることの方がはるかに大事と考えています。
>「出土した結果より、その埋め場所を予測・予見できることの方がはるかに大事なのだ」

銅鐸の鐸は飛鳥時代に寺院などにぶら下げられていた木鐸や金鐸などの風鐸(風鈴)から付けられた名です。
風鐸に似ていることにより鐸の名になってしまったという由来があります。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fizumo-3-kamoiwakura.html
…ぶら下げられていた…メドゥーサの首…
天上のペルセウスは、右手に剣、左手にはメドゥーサの首を持っている。
ペルセウス ベテルギウス
ペルセウスのメドゥーサ退治では、姉のステンノと同じく不死身であったため、首を刎ねられることはなかった。 同名の別人? ある物語によると、オリオンの母と言われているが、その場合はクレタ島の王ミノスの娘とされている。
同名の別人?
ある物語によると、オリオンの母と言われているが、その場合はクレタ島の王ミノスの娘とされている。エウリュアレは海神・ポセイドンとのあいだに英雄・オリオンを生んだ、となっている。

オリオン座の肩に異変 ベテルギウス、爆発の前兆? /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.nikkei.com%2Farticle%2FDGXMZO55383030X00C20A2MY1000%2F

ベテルギウス…剣
銅鐸 銅剣(経緯)…現在…測量用品 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs

ある時刻での天体の天球上での高度角,時角,方位を観測することによって,その観測地点の経度,緯度,方位角を求める測量。天文測量でその位置を決定した地点を天測点という。経度などは天球上の位置が正確にわかっている星や太陽の見える方向から計算することができる。
天文測量 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F

…予測・予見の為に励みましょう。



> 続・荊の紀氏先生へのお返事です。
>
> > 参考に成れば幸いです。
>
> <岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
> 素  人の予測地>  N34度44分?   E133度45分 ?
> 紀氏先生の予測値>  N34度43分    E133度46分 48″
>
>  上記のように少しのズレがあります。
> わたしが(?)印を付けているのは、未だに迷いがあるからです。金堂のすぐ上部に、はっきりとは思い出せないのですが、南北50・60歩、東西20・30歩の均地(なるち)上写真がありました。最初はこの中心部か? と思ったのですが、まてよ!、平地であれば容易にその上を歩けてしまいます。バチあたりにも荒神が乗り移る銅鐸の上を歩いて、その足音でその荒神を起こそうものなら大変なことになります。・・で、この件では「斜面」というキーワードが重要視されていまので、斜面であれば容易にその上を歩くことが出来ません。そこで、その平地に連なる斜面を考えたのですが、その斜面が3mたらずの斜面であり、その上部は簡単に歩行できるなだらかさになっています。はたして、3m足らずの斜面に23個?の銅鐸が埋められるものか? の疑問がありました。
>
> 先生の予見値を国土地理院図や、Google Earthで探してみているのですが、なかなかヒットしません。それに、地理院でもGoogleでも以前と検索の方法が変わってきていて、好きな倍率や方角が簡単に選べずとても苦労します。ご存知のように、磁北やら修正の問題を合わせて考えると、他の地も含めての地図からの探求は素人の手にはおえません。
>
> ・・で、先生の予測値をみると、当方の斜面とした予測地より、少し南と東へズレています。ということは斜面ではなく<均地>のほうになるのでしょうか^^? いずれにしても、レイラインや、数理だけで、その埋め地を絞り込めることは素晴らしいことであります。
>
>  他の大量の<銅鐸の埋め地>のすべてが重機で破壊されている現在、その現状をとどめているのはこの岩屋だけ(?)です。現状のままで保存したい。探知機が進化した現在、それを掘り上げることなしに何かレントゲンのような探知機でその姿をみることはできないですかね。金属探知機を持ち込んで辺り一面を捜せばその有無を調べるのは簡単ですが、それをする前に、<何故、祖先はそこに大量の銅鐸を埋めた>のかの思いをさぐることの方がはるかに大事と考えています。
> 「出土した結果より、その埋め場所を予測・予見できることの方がはるかに大事なのだ」
>   ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。

388机上探偵: 平 素人:2020/02/22(土) 01:34:20
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
荊の紀氏先生へのお返事です。

?? 重ねての情報ありがとうございました^^。

銅鐸=測量器具は、最新のニュースであり、センセも以前にあげられてましたよね。
銅鐸といっしょに<カギフック>が出たことから、そのように考えられたのでしょうね。

それと、認めると素人^^!の「荒神乗り移り媒体説」と、相容れず、いままて積み上げてきた謎解きがまったく成り立たなくなります。銅鐸は未だに諸説墳分^^で「鳴り具」以外は、確たる答えはでていないようです。色々に論じることは大切ですが、測量器具とした場合。「大量にとかマトメテ」というワードが解らなくなります。わたしの場合も<粗雑>に開けられた穴の具体的な使用法がヨメていません^^!。

またまた、当方の拙文をながく張って頂きました。古代史版では張れなくなりました。関連記事が近くにある場合はその要がないのでは^^?  ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



389青面金剛:2020/02/22(土) 05:53:56
Re: 此処に銅鐸が眠っている
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 測量器具とした場合。「大量にとかマトメテ」というワードが解らなくなります。

☆ 卑弥呼の同盟国である物部国が、西出雲王国を軍事制圧し、西出雲王家である神門臣家が、降伏した後、出雲での統治権を失った為に、出雲での暦の修正が、行なえなく成りました。神門臣家は大和の葛城の地に移住します。

 神門臣の拠点はどこだったか?  (4) 西出雲王国 滅亡の時
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyomiagaeru.exblog.jp%2F24321149%2F

「最後に西出雲王家が支配権を失う形で、講和となった。講和を締結したのは、出雲王朝最後の主王・山崎帯(たらし)であった。」

【古代賀茂氏の足跡】大倭の葛木山の峯
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fchiangmai1971%2Fentry-12338911734.html

『葛城の地に「賀茂建角身命」や「八咫烏」を祀る神社は無く』
『葛城の鴨社は、全て出雲系の神を祀っています。』

☆ 出雲族原点の巨岩割れ目岩信仰の「女夫岩」とその周辺の神社、古墳を訪ねる
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fyochanh1947-kodaiizumo%2Fs%2F

 古代出雲族信仰の社には、「おはせ石と ほと石」があり、子孫繁栄、五穀豊穣を願う女夫石なのが分かります。子宝を願う出雲の信仰には、「稚児を犠牲にする」発想は有りません。

☆ 子宝の御利益の有る八重垣神社には、分かり易い山神様が
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnishimagome.link%2F2017%2F06%2F03%2Fen-musubi-yaegaki%2F

☆ 加茂岩倉遺跡の駐車場からガイダンスへの遊歩道の脇には、水量の豊かな水が流れています。加茂岩倉遺跡の元地は、田んぼで、此処の水は鉄分が多く飲料には適さないものの、稲作には十分であります。つまり、加茂岩倉の地では、雨乞いは必要ないのです。斐伊川と赤川が合流する地で湧き水が豊富だからです。

☆ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対称的な位置に有る、弥多仁神社周辺にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。
 昔、弥多仁神社の西方200メートル程に、潮の湧き出る場所が有ったとされます。
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftrelaalegre.amebaownd.com%2Fposts%2F1060655

 弥多仁神社の南方には、丹花庵古墳や古曽志大塚1号墳などがある、古墳の丘古曽志公園と、島根県埋蔵文化財調査センターも有ります。

 古墳の丘古曽志公園〜島根県松江市〜 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.uraken.net%2Frail%2Ftravel-urabe183.html

 島根県 埋蔵文化財調査センター  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.pref.shimane.lg.jp%2Fmaizobunkazai%2F


 

390机上探偵: 平 素人:2020/02/22(土) 21:41:31
Re: 此処に銅鐸が眠っている
青面金剛さまへのお返事です。

 コメントありがとうございます。

> ☆ 加茂岩倉遺跡の駐車場からガイダンスへの遊歩道の脇には、水量の豊かな水が流れています。加茂岩倉遺跡の元地は、田んぼで、此処の水は鉄分が多く飲料には適さないものの、稲作には十分であります。つまり、加茂岩倉の地では、雨乞いは必要ないのです。斐伊川と赤川が合流する地で湧き水が豊富だからです。

 1700年前の昔に加茂岩倉周辺で水稲栽培をしていたとは思いませんが、仰るように水稲は意外と少しの山水でも栽培が可能なようです。水稲の発達拡散が何時頃か、その時の気候がどうだったか、又、海進、海退(沼地)等々の歴史は、私には分かりません。出雲、山陰地方では雨乞いの要は少ないと思いますが、瀬戸内のほうでは干天が多く溜池が多いのが特徴です。

<雨乞いに関係する地名>
松江市だったかな。<茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、出雲に雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。ちなみに、茶臼山は列島の山名のなかで一番多い山名と聞いたことがあります。そして<丸山・円山>がそれにつづき、 さらに<竜・龍がつく山名>を加えれば、雨乞いとはかぎりませんが何か厄災時があれば、慈雨や平癒を願った儀式が、そこであったと理解しています。島根半島には<竜山>の地名があります。

> ☆ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対称的な位置に有る、弥多仁神社周辺にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。

 弥多仁神社周辺で、銅鐸や銅剣・銅矛が予見予測して発見かればいいですね^^。

「銅鐸文化から、銅鏡文化への移行は何人も否定できず、その変換点に魏からの銅鏡100枚があり卑弥呼がいる!!」 myブログ「この指とまれ」より、
 

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



391青面金剛:2020/02/23(日) 04:10:59
Re: 此処に銅鐸が眠っている
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> <雨乞いに関係する地名>
> 松江市だったかな。<茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、出雲に雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。
>そして<丸山・円山>がそれにつづき、 さらに<竜・龍がつく山名>を加えれば、雨乞いとはかぎりませんが何か厄災時があれば、慈雨や平癒を願った儀式が、そこであったと理解しています。島根半島には<竜山>の地名があります。

☆ 松江市山代町の茶臼山は昔、神名樋山と呼ばれていました。南側に眞名井神社が在ります。
 嫁ヶ島にはいくつかの伝説が残っていますが、一番有名なのは嫁いびりにあった女性がなくなった際に水神様が島を浮かび上がらあせたというものです。
「姑にいじめられた若嫁が寒さに凍った湖上を実家に帰る途中、氷が割れて水死し、それを哀れんだ湖の神様が一夜にして島を浮かび上がらせてできた島を「嫁ヶ島」と呼ぶようになったそうです。 」
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frtrp.jp%2Farticles%2F36256%2F

 松江大橋 源助柱  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.japanmystery.com%2Fsimane%2Fgensuke.html

 小泉八雲の『Glimpses of Unfamiliar Japan(日本の面影)』松江城の人柱伝説
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftabi-and-everyday.com%2Farchives%2F11906


> 「銅鐸文化から、銅鏡文化への移行は何人も否定できず、その変換点に魏からの銅鏡100枚があり卑弥呼がいる!!」

☆ 加茂岩倉遺跡から南東1.9キロに神原(神財)神社が有ります。其の脇の古墳からは、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡などが1972年に出土しました。卑弥呼の鏡との説も有る三角縁神獣鏡は、古代出雲歴史博物館(現在リニューアル中)で展示されています。


 神原神社と神原神社古墳 島根県雲南市加茂町神原
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.yatsu-genjin.jp%2Fsuwataisya%2Fjinja%2Fkanbara.htm

 神原神社古墳  三角縁神獣鏡
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwi12000.starfree.jp%2FforGmap%2Fhtml%2Fkanbarajinjya.html%23kanbarajinjya

 全国遺跡報告総覧 神原神社古墳  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsitereports.nabunken.go.jp%2Fja%2F2419


☆ 神原神社のある加茂中の地も松江市も、度々、豪雨による水害に見舞われています。斐伊川などの河川の氾濫と、宍道湖の増水による水害を、『八俣の遠呂智』伝説に重ねてるところも在ります。


392机上探偵: 平 素人:2020/02/24(月) 08:39:56
人身供儀・その歴史、忘却の彼方に!
青面金剛さまへのお返事です。

>  古代出雲族信仰の社には、「おはせ石と ほと石」があり、子孫繁栄、五穀豊穣を願う女夫石なのが分かります。子宝を願う出雲の信仰には、「稚児を犠牲にする」発想は有りません。

そうですね^^。出雲大社は、縁結びの神さまとわたしも認識しています。以下myブログからの拾い読みで恐縮なのですが「人身供儀」にかんしての当方の考えを述べてみたいと思います。

<以下myブログより>
『海の見える高台で、赤き血を源流にそそぎ、その遺骸を煙りに変え、「どうぞ、貴方様のお力で、この煙を雨雲に変えて下さい」と、その人里に慈雨を願う!』 その底流には、四千年前の大事変 がもたらした慈雨(大雨)と、生け贄(厄災)との “交換思想” が根幹にあり、その生け贄はエスカレートして、「私達には、これ以上大切なものはありません!」と、3才〜7才の稚児に変わっていった。 そして、その 因習を止めさせようとした のが卑弥呼であるとも謎解きした。

 その 「雨乞いは」、村人こぞりて行う大行事であり、その埋め場所は “衆知の事実” なのに、その銅鐸や銅剣が、ごく近時まで盗掘の被害に遭わなかったのは、墓泥棒も恐れるほどの “祟り”があったからだ。(今は、すっかり忘れられていますが^^!)
 しかし、銅鏡にかえても欲しい雨は降るとばかりは限らない。 「やっぱり荒神様は、生娘を欲しがっているのだなぁ〜」と歴史は続いていく。、、、□

 わたしたちは、今に、子宝をさずかり、一歳のお宮参りをします。そして女児と男児では歳が異なるようですが、「七・五・三」の紐落としとかのヤク明けとかの厄払いをします。なぜこのような習慣が残っているのでしょうか。
以前にも申し上げていますが「早朝の戸口に白羽の矢が立てられれば、否応なしに “衆生のため” として三歳から五歳の子を神に差し出さなければならない社会制度」がありました。これに類する伝聞や伝承は「昔話」として処々に語られてきましたが、ゲームが発達した今、まったくと言っていいほど子供たちに語られなくなろうとしています。

<その社会制度とは、どんな社会制度でしょうか>
 「通りゃんせ、通りゃんせ、ここは何処の<細道>じゃ、<天神>さまの細道じゃ、ちょっと通してくだしゃんせ、この子の<七つ>の<お祝い>に、<お札>を納めにまいります。行きはよいよい帰りはこわい、怖いながらも通りゃんせ、々せぇ」

<その昔には、この童唄のような社会制度があった>
生まれて<一歳>の誕生日を迎えると<登録>のための宮参りをする。
人里離れた細道をとおり隔離された山奥に<境内>を定め天神さまに登録していた。
人々、『おお困りの時は、その命、神が欲しがっているのだ』として、その登録された三歳から七歳(男児・女児・地域によってその歳は異なるかも知れません)までのなかから一人(?)を選び、荒神への人身供儀用の<神子・巫女>として育てていた。

「ヤク」で検索すると、「厄、焼く、役、養久」がでてきます。
 一歳でお札を受けにいく。そして、そのお札を年神(牛神)さまへ供えておく。
一歳児では養育難なので三歳から役目が生じ、五歳・七歳でその役目が解ける。
 万一、間違って我が家に白羽の矢が立てられても、うちの子はその内ではありません!と言い訳できる。当時は土葬が一般的で「死んでからも熱い思いはさせたくないよぅ」の思いから火葬は例外であった。火葬にするのは「この煙、どうぞ雨雲に!」と、前述しています。

 五歳・七歳で、その役目が解けましたと報告にいく。
それを「厄払い」とか、「紐落とし」とかいっているのだ。そう云われれば、時代劇で幼児の髪がてっぺんで結わえられていましたから、「紐落とし」とは、その歳を境にその紐で結わえなくてもいいということでしょうか。

その天神さまの役を、今では<役場>が担っている。
総社市・鬼ノ城で、“硯・すずり”が出土して話題になったことがありました。これは、そこで<個々の歳を記録>するという今の役場の意味をもっていたのだ。その歴史の移り変わりの一時期だけを切り取って断じてはならない。このように、童唄から、その民話・伝承から、今、私達が神仏に対して「何」をなしているかの意を探るのが素人探偵のやり方です^^!。

 コメントありがとうございました。鷺峠の「大の字^^!」国土地理院図で、その「お又」の所に小さな「水流」の印が記されています。ふつう、こんな小さな流れは図に描かれないと思います。何かのイワレありかと思っています。「命出る源流」のイワレがあれば^^・・・、こんなことは地元の人しか知らないのでは・・・(^-^)。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-0.html



393青面金剛:2020/02/24(月) 12:32:59
日巫女も生贄であった
人身供儀探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 『海の見える高台で、赤き血を源流にそそぎ、その遺骸を煙りに変え、「どうぞ、貴方様のお力で、この煙を雨雲に変えて下さい」と、その人里に慈雨を願う!』 その底流には、…、その生け贄はエスカレートして、「私達には、これ以上大切なものはありません!」と、3才〜7才の稚児に変わっていった。 そして、その 因習を止めさせようとしたのが卑弥呼であるとも謎解きした。

★ 昨年大ヒットしたアニメ映画『天気の子』の主人公である娘さんが、「晴れ女」として祈り続けた結果、人の世界には戻れなくなってしまう、巫女としての「いけにえ」の側面が描かれています。
 地方によっては、巫女は三年ごとに交代する、決まりを定めている所も在るようです。「それ以上は、人の世界に戻れなくなる恐れ」が在るから。

 天気の子  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.tenkinoko.com%2F

★ 卑弥呼の亡くなる前年247年3月と亡くなる年の248年9月5日に、皆既日食が起きている事がわかっています。
 邪馬台国 九州説の場合、不吉な日食の責任を取らされて卑弥呼は殺された。

 卑弥呼と皆既日食
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fikejun_2018%2Fe%2Fbd34d530b4f8456928a56c7b50be0d31


> 「早朝の戸口に白羽の矢が立てられれば、否応なしに衆生のため として三歳から五歳の子を神に差し出さなければならない社会制度」がありました。
>  「通りゃんせ、通りゃんせ、ここは何処の<細道>じゃ、<天神>さまの細道じゃ、ちょっと通してくだしゃんせ、この子の<七つ>の<お祝い>に、<お札>を納めにまいります。行きはよいよい帰りはこわい、怖いながらも通りゃんせ、々せぇ」
その登録された三歳から七歳までのなかから一人(?)を選び、荒神への人身供儀用の<神子・巫女>として育てていた。
> 「ヤク」で検索すると、「厄、焼く、役、養久」がでてきます。

★ 日本列島に稚児を人身御供として捧げる、考えを持ち込んだのは、秦氏である徐福と軍事職能集団の物部勢力です。
 徐福は子供達約3千人を、遠く離れた異国の日本に移住させましたが、秦の始皇帝の時代で、万里の長城や王宮や始皇帝陵の建設に、延べ約百数十万人を強制的に苦役させている事から、その子供たちも親元から強制的に引き離し、連行した形で集めたものと伺えます。
 なぜ子供ばかりなのか、と分析するならば、子供では、物部の兵に楯突く事も出来ず、従順に洗脳し易いからです。
 「不老長寿の薬を探すため」とは、建前の方便で、実際は金丹(水銀)を求めてです。始皇帝陵には、大量の朱砂が埋められています。朱砂(水銀)は金の精錬にも防腐剤としても高価で貴重でした。

★ 出雲には元々、「荒神」と言う神は無く、夫婦和合の幸の神である『クナトの大神』と『アラハバキの女神』が信仰される、宗教国家でした。物部勢力の出雲への侵略後に、この神々の信仰は禁止され、道祖神や荒神の小さな祠に代えられてしまいました。「荒神」というのは仏教や道教が伝来した後に付けられた名です。

 客人社と荒波々幾神を祀る神社一覧  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkamnavi.jp%2Fjm%2Farahaba.htm


> 総社市・鬼ノ城で、硯・すずりが出土して話題になったことがありました。これは、そこで<個々の歳を記録>するという今の役場の意味をもっていたのだ。

★ 百済の王子である温羅は、律令制度の経験を持つ事から、記録としての硯は用います。製鉄の為に、大量の木材が必要とされ、その搬出と植林も行わねば成りません。
 硯は、水を入れると、鏡の役目もします。和硯では神代文字で神を表す事も出来ました。
 鬼ノ城跡から南東に2キロの地に、温羅の妻、阿曽姫が巫女をしていたと言い伝えられる阿宗神社が在ります。製鉄の地から「鉄鐸が出る」と言うならば、未だしも、銅鐸とする根拠が薄弱過ぎます。

★ 「稚児を殺めた〜〜」と平さんの居住地から離れた土地には、根拠も不十分なのに拘らず、リアルに描写し、平さんの近所である鬼ノ城には、サラッと触れるだけ。これは、民俗学を語る上でのルールにも反し、他の地域の方々からの顰蹙と反発を買うばかりです。

★ 総社市の高梁川を挟んだ左岸に、秦の地名と「石畳神社」御神体の磐座も在り、その西南西には、備中国最古之社と伝えられる「麻佐岐神社」と磐座が鎮座しています。
 「石鎚大権現」と「城山金刀比羅神社」の間には、平さんが力説している「茶臼嶽」とあり、崖の傍に祠が祀られています。此処が稚児を殺めた現場では無いのでしょうか?

 石畳神社〜正木山登山日記
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmarchan.e5.valueserver.jp%2Fcabin%2Fmntn%2Fokay%2Fmasakiyama%2Fmasakiyama1.html






394机上探偵: 平 素人:2020/02/25(火) 01:30:34
人身供儀、その歴史!?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-2.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-0.html



395青面金剛:2020/02/25(火) 06:04:52
民俗学のルールは自分の県内から
生贄探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 日食はその大小を問わなければ通常に起こる自然現象ですし、
> 全天を覆うほどの彗星がニアミスしたら、それは畏怖を感じるでしょうね。その恐ろしさは、妙なる光としてが発生したと前述しました。

★ 日弥呼の時代に日食が「通常に起こる自然現象」とは知られていなかった、と思います。「妙見信仰」は、北極星への信仰です。

> その雨欲しいと生け贄をささげ、お願いする交換文化がありました。その(銅鐸)文化が永々とつづいている時に、徐福集団はやって来ました。
> そして、徐福が伴った「武人集団」は、列島の「生け贄文化」を知り、自分達を神と思う列島人に、その幼子を捧げよと云いました。

★ 平さんは、勝手な思い込みと決め付けで言ってるだけで、何らの立証にも成っておらず、検証の手順も踏んでいません。

> 自分達が連れて行った、行かせた児が長らえて帰れば、これに勝る実証はない!!
> 広い国土と、桃源郷、殺生与奪まで、欲しい物のすべてを得た始皇帝が、そんな徐福の甘言にやすやすと騙されるでしょうか?。

★ 徐福は一度、秦に帰国した際、始皇帝に「鯨に邪魔されたので、鯨打ちの達人を揃えたい。」と
甘言で逃げています。大量の朱砂を持ち帰った功労が有るので、大目に見られたのでしょう。
 徐福は、日本列島に戻った後は、もう大陸に帰る事は有りませんでした。始皇帝の寿命は間もない、と読んでいるからです。

>??先さまは、主題の場所に「卑弥呼云々」は別として、大量23個の銅鐸が埋められている(orかも知れない)と、お考えですか? それとも「無し」とお考えなのでしょうか^^???私は、先さまから、この答をまだ伺っていません。

★ 鬼ノ城跡に銅鐸など有る訳ないでしょう。鬼ノ城跡の一角に、岡山県の重要文化財に指定されている「皇の墓」が在ります。温羅と、その家族・親族の墓でしょう。
 毘沙門天の仏像が納められている金堂(毘沙門堂との記述もあり)の裏地の禁足地は、温羅の家臣と兵達の埋葬地と考えます。

 2019年 「鬼ノ城 &; 岩屋」散策  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fgon.mbsrv.net%2F2019kinojyo05.html

> <茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、…雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。
> >「石鎚大権現」と「城山金刀比羅神社」の間には、平さんが力説している「茶臼嶽」とあり、崖の傍に祠が祀られています。此処が稚児を殺めた現場では無いのでしょうか?
>あとでゆっくり^^!
>そして「稚児の殺め」ですが、富山県氷見市に<船塚> 岡山県総社市に<高塚> 静岡県浜松市に<〇塚 浜松市には「姫街道」もあります。

★ 茶臼山を人身供儀の場だと強弁して於きながら、平さんの近場にある「茶臼嶽」稚児虐殺現場を指摘されると、答えを先送りして逃げ回る。そんな卑怯な応答を用いる輩が、「人身御供」や「生贄」などの、地元民感情にデリケートなテーマを扱う資格も無い、と言わざるを得ません。

 「石畳神社」から、「麻佐岐神社」へ向かう登山道脇には、夥しい数の石仏が並んでいますが、これらは犠牲者の数と見做されるのでしょう?
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmarchan.e5.valueserver.jp%2Fcabin%2Fmntn%2Fokay%2Fmasakiyama%2Fmasakiyama1.html

> 『海の見える高台で、赤き血を源流にそそぎ、その遺骸を煙りに変え、「どうぞ、貴方様のお力で、この煙を雨雲に変えて下さい」と、その人里に慈雨を願う!』 その底流には、…、その生け贄はエスカレートして、「私達には、これ以上大切なものはありません!」と、3才〜7才の稚児に変わっていった。

★ この平さんの描写は、まさに「石畳神社」磐座から荒平山・石鉄山を経て、「麻佐岐神社」磐座へ向かう、山道の途中にある崖上から突き落とされた、惨劇を描いています。

★ 「岡山県 茶臼」で地名検索すると、10軒ほど見つかります。民俗学のルールでは、『地元民感情にデリケートなテーマを扱う場合は、先ず自分の県内から』が鉄則です。
 それを踏み外す輩には、「御宅の近場の此の場所も、その場所でしょう!」と後々、指摘されてしまうブーメランが返って来るからです。

 民俗学の入門書や、民俗学の先生方の講演会やセミナーを何回か聴きに行ってれば、民俗学のルールについて説明されます。
 「地元民感情にデリケートなテーマを扱う場合ほど、地道な事実関係の積み重ねを要します。」

 平さんの論法は、その積み重ねが全くなく、勝手な思い付きと決め付けによる、妄想が先んじています。平さんのやってる事は、興味本位の怪奇ホラーサイトの寄せ集めレベルでしか有りません。




396史実探偵: 平 素人:2020/02/25(火) 08:48:42
Re: 民俗学のルールは自分の県内から
青面金剛さまへのお返事です。

??コメントありがとうございました。

「 問 」
>??先さまは、主題の場所に「卑弥呼云々」は別として、大量23個の銅鐸が埋められている(orかも知れない)と、お考えですか? それとも「無し」とお考えなのでしょうか^^???私は、先さまから、この答をまだ伺っていません。
「答え」
★ 鬼ノ城跡に銅鐸など有る訳ないでしょう。鬼ノ城跡の一角に、岡山県の重要文化財に指定されている「皇の墓」が在ります。温羅と、その家族・親族の墓でしょう。
 毘沙門天の仏像が納められている金堂(毘沙門堂との記述もあり)の裏地の禁足地は、温羅の家臣と兵達の埋葬地と考えます。

『鬼ノ城跡に銅鐸など有る訳ないでしょう』
鬼ノ城跡と岩屋は〇kmほど離れていて同一遺跡内ではありませんが、私と先さまは、いちばん大切な部分に相違があります。私が反論を請うているのは、自論の不備や誤りを正したいからです。
先さまが持論を掲示されるのは自由ですが、数々の反論に加え、いちばん大切な部分に決定的な相違があれば、いつまでたっても歩み寄ることは出来ません。しばらく平行線のままで時をおくことにしましょう。
 わたしは、残念ながら管理人さまや、キシ先生のように<度量のおおきい>人間ではありません。礼を欠いた先さまへの返答は大変つかれます。ごめんなさい。しばらくのあいだ先さまへの返答は保留とします。□

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397史実探偵: 平 素人:2020/02/27(木) 00:07:52
大量の銅鐸・銅剣、地名(青字)繋がり!
"共通の文化には共通の事象(地名)あり"
 <出雲>     <吉備>      <神戸>       <野洲>
銅鐸39銅剣358   (未出土)     銅鐸14銅剣(未出土)  銅鐸24銅剣(未出土)

 加茂岩倉      岩屋       いわや駅       大岩山
 荒神谷・西谷    西谷        ( ? )         ( ? )
 仏経山△      経山△     坊主山・荒神山△   妙光寺山・三上山△
 三宝荒神     山王神社(さんおう)
 砂川       砂川         ( ? )        蛇砂川
  赤川      ☆血吸川

現学は、地名を不確かなものとして、いっとう下にみるが、
『地名は祖先からの、一番確かに(合意された)合意伝言である』 史実探偵: 平 素人
さて、あなた様は、史学は、・・・を何んとよむ・・・^^!

追伸:
出雲と吉備は近くでもあり、何からかにから一番よく似てると思うのですがぁ(笑い)
 詳しくはmyブログ「出雲地方」「吉備地方」へ、どうぞ・・・^^!。

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398荊の紀氏:2020/02/27(木) 17:21:59
荒神谷ー奥坂岩屋寺金堂裏斜面ー松帆銅鐸…ライン?
淡路・松帆銅鐸
出雲と同じ兄弟銅鐸 共通の工人集団判明   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmainichi.jp%2Farticles%2F20161027%2Fk00%2F00m%2F040%2F016000c
昨年4月に兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった弥生時代前期末〜中期初め(紀元前3〜前2世紀)の松帆銅鐸(どうたく)(7個)のうち5号銅鐸が、島根県出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡(6個、国宝)の6号と同じ鋳型(同笵=どうはん)で作られた兄弟銅鐸だったことが分かった。南あわじ市教委と奈良文化財研究所が26日発表した。松帆3号と、同県雲南市の加茂岩倉遺跡(39個、国宝)の27号との兄弟関係も既に判明しており、淡路と出雲が共通の工人集団や銅鐸の流通で広域につながっていたことも明確になった。
 一部破損して発見された松帆5号(高さ23.5センチ)と、荒神谷6号(同23.7センチ)は「外縁付き鈕(ちゅう)1式」に分類される古い銅鐸。奈文研の難波洋三・客員研究員が目視で分析し、つり手と胴体の文様構成や鋳造時に付く複数の笵傷の一致を確認した。松帆5号の方が傷が少なく、先に作られた初期の鋳造の可能性が高いという。


399史実探偵: 平 素人:2020/02/28(金) 21:33:33
Re: 荒神谷ー奥坂岩屋寺金堂裏斜面ー松帆銅鐸…ライン?
荊の紀氏先生へお返事です。情報ありがとうございます。
 出雲荒神谷ー出雲岩屋寺金堂ー淡路・松帆銅鐸ラインがあるのですね。

>淡路と出雲が共通の工人集団や銅鐸の流通で広域につながっていたことも明確になった。

 わたしは、銅鐸の拡散について、つぎのような考えを持っています。
銅鐸が荒神を呼び寄せ、乗り移させる媒体だとは、先にもうしあげました。銅鐸の拡散は徐福達が、童男童女3000人かその児たちを含む3000人かは分かりませんが「不老不死の仙薬」を探しに列島に渡来しました。その船団がヨーイドンと横一列に出発するわけではなく、徐福を旗艦として、例えばの話しですが、60人乗りとしても50艘となり、それ以下だったらもっともっと艘数は増えます。徐福達の陣容を見ると、操船に苦手なだろう百工・子供・婦人も含んでいます。武人ならまだしも、操船できる人達の数は制限されてきます。

 その推力の弱い分船団が海流の速い津島海流を横切るわけですから、千々に流され海の藻屑となり、これも例え数ですが半分の1500人が漂着したとしましょうか。徐福の乗っている船は旗艦ですから、当然、屈強な男たちが乗っていますから、列島の一番西に着岸します。それを出雲としておきましょう。以下、分断しながら流されて、石川、富山、新潟、・・・とします。この人達は生活に落ち着きができると、必ず西進して合流しながら、徐福のもとへ集合します。このことは結果的に幸いして、米大陸西部へと宿場街がなったように一日あたりの航路のところに船着き場所がなってきます。この意味において日本海側の文明遺跡が先んじて発達していったと云われるのが頷けます。この詳しくはDr.いずも氏>
とmyブログで・・・^^!

 集合したこの人達は「再開を歓び酒を酌み交わした」との神話になったのかな^^? 徐福はそれぞれの情報をもとに再編し、出雲を本社とし、それぞれを支所として薬石の蒐集にあたらせました。有益な情報があれば、徐福みずからも出張ったとは別紙でのべました。このような経過をへて、だんだんと航路・徒道のインフラが整備されていきます。

 徐福は「年一に出雲へ集まること」を指示した。ここで、管理人さまや、キシ先生がいわれる、高度な方位測量術が役にたってきます。つまり、やみくもに列島を探索するのではなく、一定のきまりによって往来すれば、新しい人に伝える場合でもより易く動けるからです。その目印として△姿の山や既存の集落を選びました。この時大事なことは、列島住民がすでに付けている山名や地名を利用しました。そのほうが道に迷った場合でも住民に聞くことができるからです。東北地方は人口密度が少なかったのでしょうか。徐福たちが付けたと思われる数字のつく地名が目立ちます。

 徐福は、中国本土へとりあえず蒐集した珍宝を中国の正月(着に)間にあうように10月の神無月に集まるように指示しました。出雲大社への神門で地方から寄った人たちは泊り会い人数が集まってから年末会議と次年度の活動方針やらを合議しました。集めた物品は出雲から沿岸航路沿いに西進し、唐津港から大陸へと出帆したと思われます。この場合長崎の方が大陸に近いのですが、旅行きの準備やら食料の調達は、平地の広い北九州のほうがだんぜん有利です。

 <銅鐸の拡散が最後になりましたが>
「不老不死の薬石探し」は、その情報や住まいや、船の建造修理等々に人手もいることだし、住民と事を構えて争いをするより、加治(治療)をして、その人たちの力を借りるほうがだんぜん有利です。なかでも部族の長たちが欲しがる銅製品(銅鐸)との交換にそれ等を得たことは容易に考えられます。列島人は、銅製品(銅鐸)を受け取りに随行します。銅製品の制作は、出雲半島の<別所>市内の<別所>でしたと前述しています。

 各郡(こおり)の大夫(イタコ・シャーマン)さん達は、より立派な銅鐸が欲しくなってゆくのが当然のなりゆき^^。最も立派なものは野洲にあったかな。徐福たちの根幹は、その薬石にあるのは前述したとおりですが、始皇帝や、徐福や、それを知る人も亡くなり、その<縛り>も、時と共に薄れていったと思います。そして、徐福達がなした足取りは、航路を主幹に内陸へのインフラが進んだことにより、銅鐸は<商取引の交換品>として拡散していったのではないでしょうか。

「徐福は列島支配」とみるのが史学のおおかたですが、筆者はそうは思いません。「徐福は広澤(広い沢)の王となり帰らなかった」というのは、大陸の人がやっかみを含めて云う言葉であり、支配者ならば顕示欲が強いので「俺は除福だ」と云ってもいいはずなのに、日本の史書にはそれがありません^^!  しょせん「不老不死の薬石」などあろうはずもなく、始皇帝が亡きあとも、大資を受けたてまえ、おめおめと帰ろうものなら人々に何を云われる分からない。それよりなにより、徐福は、火を噴く山ありの列島に神秘性を感じ『その薬、必ずあり』として、列島のどこかで果てたのではないのでしょうか。その「片道切符をもって!!」

 このように考えると、淡路島の出雲と同じ鋳型の銅鐸の件や、まとめて埋められた銅鐸の大小や年代が異なることも解けるのではないでしょうか。蛇足ながら、この話は卑弥呼より、約400年も前の古墳代や神話代より前の話しですから念のため(^-^!)

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400荊の紀氏:2020/02/28(金) 23:59:07
Re: 人身供儀、その歴史!?
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

徐福もユダヤ人か …
ユダヤ新年は10月2日
>徐福は、中国本土へとりあえず蒐集した珍宝を中国の正月に間にあうように10月の神無月に集まるように指示しました。
10月の神無月に…
西暦で言うところの2016年のユダヤ新年は10月2日(日)の日没から4日(水)の日没まで(ちなみに2017年のユダヤ新年は9月20日から22日)。ユダヤ歴では1日は日没から始まり、次の日の日没に終わるというのも特長です。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftokuhain.arukikata.co.jp%2Ftelaviv%2F2016%2F10%2Fjewishnewyear.html
ユダヤの新年は、西暦の9月か10月に2日間祝われます。 家族や親戚が集まり新年を祝います。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.arukikata.co.jp%2Fcountry%2FIL%2Finfo%2Fholiday.html

徐福もユダヤ人か 秦始皇帝がユダヤ人、もしくは失われたイスラエル10支族の血を引いていたとすると、気になるのは徐福(じょふく)である。前章で見たように、秦始皇帝と徐福は同族であったwww.rui.jp/ruinet.html?i=200&;c=400&;m=289816
秦始皇帝と徐福は同族であった。徐福の祖先、徐氏(じょし)の始祖は秦始皇帝の祖先と同じく羸氏(えいし))であった。
 羸(えい)という姓は舜帝(しゅんてい)から伯翳(はくえい)が賜ったものとされるが、これは漢民族が中原(ちゅうげん)の覇権を握った後に体系化された中国神話によるものである。漢民族は自らの血統の正統性を主張するために自らの始祖を象徴的に黄帝(こうてい)という名で呼び、神話のなかで最高位の存在に仕立てあげた。その際、非漢民族は直系ではなく、あくまでも傍系という形で出自を黄帝に結びつけたのだ。したがって、秦始皇帝及び秦王家のルーツが黄帝であり、漢民族と同視であると考える必要はない。




> > 徐福は子供達約3千人を、遠く離れた異国の日本に移住させましたが、秦の始皇帝の時代で、万里の長城や王宮や始皇帝陵の建設に、延べ約百数十万人を強制的に苦役させている事から、その子供たちも親元から強制的に引き離し、連行した形で集めたものと伺えます。
> >  なぜ子供ばかりなのか、と分析するならば、子供では、物部の兵に楯突く事も出来ず、従順に洗脳し易いからです。
>
任侠伝にある、札所、札差、札場も、その流れの変形したものかと思います^^?

401史実探偵: 平 素人:2020/02/29(土) 22:30:27
徐福もユダヤ系か!?その影響で太陽主神説へか??
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402史実探偵: 平 素人:2020/03/20(金) 07:07:04
「銅器の拡布・制作地について」の思いつき^^?
下記〔 〕を編集していて思いついたことがあります^^!

徐福たち大陸系人が、銅器の制作を遅くまで(奈良時代の大仏銅材の寄進)専売にしていたか(?) とは前述しました。

では、どこでそれを制作していたのでしょうか?
素人は、出雲半島に<別所>というところがあり、そこでしていたと思います。なぜなら、別所とは、特異な地名でありなにやら秘密的なにおいがします。これは、わたしが傾注するDr.いずも氏からうかがったことですが、出雲半島は「破砕半島」ともいわれ、仔牛ほどの大きさの銅鉱がゴロゴロしていたと聞いています。列島探査の徐福たちがこれを見逃すはずがありません。

では、なぜ専売にしたのでしょうか?
銅は鉄に比べて融点が低いのですが、その精錬はたいへん難しいようです。加えて、銅器に対する思いは、列島人と大陸人とではまったくちがいます。前者は、銅がアカから緑青にかわることに神秘性を感じ、(今でも社殿の屋根には銅材をつかっています)それを祭祀用具とみているのに対し、大陸人は銅材が兵器用から発展したものであり、もし、列島人がその製法をしり、兵器として使用されると困ります。そして、銅鐸が列島人が欲しがるものであり、自分達が欲しいものとの格好の商の交換品でもあったからです。

島根半島にある「別所」は、大変へんぴな所^^!
おそらく、おそらくですが^^! 島根県の人もその存在を知ってる人ばっかりでは^^?  半島の中ほどで水田もすこしあるようですが、当時の島根半島が陸続きであったかどうかは分かりませんが、ここなら銅鉱もあることだし格好の隠れ場となります。近くに、泊りがけでの行き来があったのでしょうか、これまた小さく^^!<旅伏>の地名もあります。

出雲市の市街地にも、<別所>の地名が残っています。
時がたち、半島の別所では、その行き来が不便だから、その制作を「こちらに移そうや」になったのでしょうね^^。島根県では、今でも歴史ある精密鋼関係の会社があると聞いています。先のDr.>から^^。

この「思いつき」の正否を確かめる二つの方法があります。
?半島の「別所」で銅器制作に関する“遺跡”イワレ・氏名(うじ)が残っていないか?
?市内の「別所」の近くの神社のイワレ。そして、その関係と思われる氏名(うじ)。

今の時期寒いので、半島のほうの遺跡探索はお勧めできませんが、「氏、さがし」のほうなら電話帳で捜すことも可能かと^^! その電話帳は、図書館へいけばあるかもです。
「なぜ、それをあなたが、しないのか?」ですってぇ> ・・つかれました^^!

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403荊の紀氏:2020/03/31(火) 09:05:30
参考 陶磁器の鐸
銅鐸祭祀の源流 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fisaq2011%2Fe%2Fdf467d7e0dbb6be9d4e3b609833a6029
 先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
 「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。(考古用語辞典)
 祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。そして、湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。
 さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
 『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
 同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江下流域の呉と越に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。(2006年3月7日付朝日新聞)


404史実探偵: 平 素人:2020/03/04(水) 08:35:45
Re: 参考 陶磁器の鐸
https://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/df467d7e0dbb6be9d4e3b609833a6029

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405青面金剛:2020/03/06(金) 04:23:30
民俗学では創作を資料に加えるのは厳禁です
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 素人は、出雲半島に<別所>というところがあり、そこでしていたと思います。出雲半島は「破砕半島」ともいわれ、仔牛ほどの大きさの銅鉱がゴロゴロしていたと聞いています。

★ 以前紹介した、「韓竈神社」の在る、出雲市唐川町は別所の西隣です。
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F4travel.jp%2Ftravelogue%2F10567156

> それを祭祀用具とみているのに対し、大陸人は銅材が兵器用から発展したものであり、もし、列島人がその製法をしり、兵器として使用されると困ります。
> 島根半島にある「別所」は、大変へんぴな所^^!
>これまた小さく^^!<旅伏>の地名もあります。

★ 出雲王国の時代に、銅の精錬も製鉄技術も導入済みです。出雲王国が物部勢力に敗れた要因の一つとして、出雲では、鉄を武器に用いる発想が無く、農機具や漁具中心に使われていたからです。

  始皇帝陵の刀剣は、錆びる事無く、まるでクロームメッキを掛けた様に、其のまま物を切る事が出来ましたので、「隕鉄」を用いている、と思われます。つまり、物部の兵士達には、普通の鉄剣、武将には、隕鉄の鉄剣を持たせていた、と考えられます。

> 出雲市の市街地にも、<別所>の地名が残っています。
> 「こちらに移そうや」になったのでしょうね^^。先のDr.>から^^。
> ?半島の「別所」で銅器制作に関する“遺跡”イワレ・氏名(うじ)が残っていないか?
> ?市内の「別所」の近くの神社のイワレ。そして、その関係と思われる氏名(うじ)。

☆ 物部勢力の出雲侵攻後に、物部方の行政機関や寺を建てる為に、そこに住んでいた人々を強制的に移住させた移転先を「別所」と呼びます。唐川町では茶と柿の栽培が盛んです。
 唐川町は、ほとんどが荒木という姓です。これは、「韓竈神社」の岩倉の隙間が産道に成っている事から、古代出雲の女神「アラハバキ神」を基にしたのでは、と思われます。
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F4travel.jp%2Ftravelogue%2F10567156

☆ 1998年に、佐賀県の吉野ケ里遺跡で出土した銅鐸が、出雲で出土したと伝わる「伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)」と、同笵(どうはん、同じ鋳型で作られたもの)であることが、明らかになりました。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.matsue.shimane.jp%2Fjumin%2Fshisei%2Fkouhou%2Fshihou_matsue%2F1808%2Fbunkazai.htm
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Faomatsu123.blog.fc2.com%2Fblog-entry-158.html

★ 平さんが「鬼ノ城跡で雨乞いの人身御供の儀式が行われていた。」と推測する前提を進めると、岩屋の毘沙門堂の裏の禁足地に埋められているのは、銅鐸ではなく、出てくるのは「稚児の骨」です。


☆ 民俗学の手法は、地道なフィールドワーク『現地を廻りながら、様々な資料(聞き取りや伝聞含む)の積み重ね』の集大成であり、平さんの様に「机の前で地図を見ながら勝手な妄想を重ねる。」のは邪道の極りに他なりません。

☆ 民俗学では、資料に勝手な「創作」を加えるのは厳禁です。資料の捏造に当たり、検証から外れてしまいます。「創作」を一つでも加えようものなら、それは、「低俗な、覗き趣味の代物」に落ちぶれてしまいます。

☆ 民俗学では、丁寧な論理の積み重ねが基本であり、論理の飛躍した「暴論」や「勝手な思い込み」や「こじ付け」や「曲解」は許されません。
 平さんも鎌の刃を研ぐのは「稚児を殺める為」では無いでしょう。「〜と確信した」も勝手な思い込みと決め付けに、他なりません。

☆ 民俗学のルールを理解しない学生や若手研究者には、厳しい指導が行われます。民俗学の入門書すら読まず、地元の研究者方の話も聞かずに、独学で進めると、道を踏み外す事に成ります。

 岡山民俗学会  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fokayamaminzokugakkai.web.fc2.com%2F

 山陰・出雲の郷土出版のハーベスト出版  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.tprint.co.jp%2Fharvest%2Findex.html



406史実探偵: 平 素人:2020/03/07(土) 01:41:09
コメントに感謝します。
青面金剛さまへのお返事です。

> Re: 民俗学では創作を資料に加えるのは厳禁です

 コメントありがとうございました。当方、「併進で行きましょう!!」とかいたからもう関わって下さらないものと思っていました。只今、こうしてコメントを下さって居るのは「卑弥呼・・」を掲げまして20年・2千通をこえると思いますが、キシ先生と先さまのたったふたりです。それを思うととてもありがたいことです。

わたしのやっている事は、『ここ掘れワンワン』のワンコです^^!。爺さま(専門家)ではありません。それの有る無しを決めるのは先さま方であり、学問の探求ではありません。南極大陸大隕石、東北地方巨大隕石、卑弥呼と大量の銅鐸銅剣の、これ等はそれに気づいて下されば中学生程度の学識でもわかること。なにしろ当のわたしがその程度の知識しかありませんから^^。

しかしながら、このような??“現学をはずれた” アウトローを世に伝えるには、先さまの仰るような轍を踏まなければならないのは今までの広報の中で充分に経験しています。それが成らないから苦労しています。・で今は存命中は無理と諦めました。.

 昨年の10月、台風19号を押して釜石にいったのは、自分の力の限界と思考・根気の衰えがあり、恩ある方々へのお礼をいって <区切り>をつけておきたかったからです。「総社市岩屋」の件は歴史的遺産を荒らしてはならない思いもあり、近年まで公表を避けてきましたが、どっちみち相手にしてくれないのだから「まっ、いいかぁ^^!」と公表に踏み切りました。そして、そのレポートを各機関に <送っておく>つもりでしたが、「卑弥呼云々に関しては」多々のコメントを下さっている先さまさえ懐柔できないのに、今まで無視されて来た機関や人達に送っても無駄かと^^? 思って未だに送付していません。・・今後のなりゆきで(^-^!)

 先さま情報の「総社市・秦(はた)」をみていましたよ^^。

<それから、先さまに誤解があるようです>
岩屋の金堂辺りは「禁足地=宗教的」ではなくて、遊歩道以外の「立ち入り禁止」の立て札がありました。
「金堂」の中はがらんどうで、粗末な台のうえに、これも申し訳ていどに小さな(2・30cm)毘沙門さまだけが置かれていたように記憶しています。鬼の城の近くに山王神社があるのですが、過疎から御本尊は足守の方へ移されているとかで、おそらく、金堂もそのようになっているのかも知れません?? そして、お寺の造りを調べたのですが、拝殿の両脇の柱の上は雲型であり、この金堂の写真では竜型になっています。

それから、わたしの言っているのは卑弥呼以前のことであり、その後の古墳代、神話代、出雲族・物部族の歴史をまったく識りません。先さまとは時代的なズレがあるように感じています。コメントありがとうございました。□

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-categor2y-0.html



407青面金剛:2020/03/07(土) 07:39:10
岩屋寺の住職さんに尋ねなさい
隠居探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 岩屋の金堂辺りは「禁足地=宗教的」ではなくて、遊歩道以外の「立ち入り禁止」の立て札がありました。
> 「金堂」の中はがらんどうに近く、粗末な台のうえに、これも申し訳ていどに小さな(2・30cm)毘沙門さまがお線香立てもなく置かれていたように記憶しています。
>過疎から御本尊は足守の方へ移されているとかで、

☆ 真言宗御室派 岩屋山 岩屋寺  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbitchu-iwayaji.com%2F
              所在地:〒701-1465 岡山県岡山市北区上土田480
               お電話でのお問い合わせ 電話番号:086−295−0466

※ 岩屋寺の住職さんは不在の時が多いので、事前に電話で予約してから行く事。
「岩屋寺の奥の院である、毘沙門堂の裏手にある小高い丘が、立ち入り禁止に成っているのは、どの様な由来からなのかを、お尋ねしたいのですが。」と尋ねると好いでしょう。

 奥坂穴観音保存会  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fokusakaanacanon.jimdofree.com%2F

 岩屋物語  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkphodou.web.fc2.com%2Ftiraku%2Fblog-4%2Fpage40.html

> それから、わたしの言っているのは卑弥呼以前のことであり、その後の古墳代、神話代、出雲族・物部族の歴史をまったく識りません。

★ 「まったく識りません。」と言う人が、出雲の方々に失礼極まりない、決め付けた様な書き方を繰り返すのは、噴飯ものでしかなく、強い反発をくらうのは、当然の事です。

☆ 岩屋寺に関する事は、地元の郷土誌研究家が残した資料が、足守図書館や足守文庫に残されている、と思いますので、それすら調べる気が無いなら、このテーマは終わりとすべきです。


> そして、そのレポートを各機関に <送っておくつもり>でしたが、今まで無視されて来た機関や人達に送っても無駄かと^^? 思って未だに送付していません。・・今後のなりゆきで(^-^!)

★ 「人身御供」「生贄」という最も忌まわしいテーマを、多々綴った発掘話を、平さんは、自らの手を汚さず、人に丸投げしよう、との考えが、迷惑極まりない。

 『民俗学のルール』を幾つも破って書かれた平さんの駄文は、受け取った側が取り上げた場合に、その研究者までもが、『民俗学のルール』違反を指摘されてしまい、岡山民俗学会などの会員資格を取り消される恐れが生じますので、平さんが送付しても、相手側が取り上げる事は有りません。

 平さんの「悪しき駄文」は、平さんの人生の枠内で終わりとすべきです。




408史実探偵: 平 素人:2020/03/07(土) 17:42:43
広報活動30年2千通^^! その -1例^^!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-72.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-categor2y-0.html



409青面金剛:2020/03/08(日) 00:51:12
みやすみやま
隠居探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 2.岡山県埋蔵文化財センター様
> 4.総社市長 様 侍史、文化課文化財係様
> 5.岡山県岡山市足守岩屋寺御住職様
> 祖先は、「一山越えて、ふた山越えて、み山の前でぇ、狸さん、たぬきさん踊ろじゃないかぁ」 と、
> 毬付唄で、その埋め場所を教えてくれている。 □□岩屋 〇〇さま宛て(同封)の同意が頂ければ 『 スコッフ片手に、ツルハシかついで^^!』 の暴挙にうつります^-^!。

★ 岩屋寺の寺領なのに、住職さんの話も聞かずに、一方的な文書を送り付けた処で、返事が返って来なかったならば、「全くの見当違いです。」の意味です。

 神社のお宮の裏地は祭祀場であっても、寺の御堂の裏地は「お墓」が相場です。

☆ 『みやすみやま』と『岩倉山』なら童謡とピッタリで、美咲町と吉備中央町の町興しにも成るし、20通送るだけでも、岡山県埋蔵文化財センターの方々も、候補地の一つに加えて貰える、可能性は十分にある、と思いますが、温羅の製鉄の場に銅鐸などと、辻褄の合わない事を繰り返した所で、無しのつぶてです。

 今までに、発掘ボランティアの経験も無い人に、許可出す訳無いでしょう。



410史実探偵: 平 素人:2020/03/09(月) 22:13:58
中国人と日本人、贈り物の考え方の違い!!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-3.html

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411吾亞風:2020/03/11(水) 06:47:25
銅鐸で測量 - かごめかごめの真実とは…銅鏡反射を利用…
??巴形銅器も有鉤銅釧も銅鐸も共に測量器具でした!span>https://blog.goo.ne.jp/kagome1248/e/93049637f794c47a3d5ed29bab778dbc

銅鐸 剣 鏡 ・・これらは古代の測量機器でした
太古の昔から、我が国に精密な測量技術を持ち得ていた優秀なご先祖様達が居たという事実に、驚かされるばかりです。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fkagome1248%2Fe%2F464eaf43d7481391b26ae1af1edb72f7

かごめかごめ /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1781
亀は六芒星
「鶴と亀が統べった」
千家
「武者小路千家HP 官休庵」 『茶道用語』利休梅 ... 竹などで編んだ簡単な柵、垣根のようなもの)、その籬の亀甲模様または六芒星、五芒星、網干し、鳴子、川、その水辺の水鳥などなど境界線、結界を現すものがとても多いのです。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyamasakuran.seesaa.net%2Farchives%2F200703-1.html
籠目や亀甲型の六角形は魔除の力があるとも言われます。

その名も「赤染氏」 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2789
かごめかごめ都市伝説 鶴と亀はすべったの意味 M君
「かごめ」が籠目の意味だとすると、籠の中には龍がいる。龍は空を飛ぶから、籠の中の鳥と言っても良いだろう。鳥はとーりーいは鳥居日本を意味するという説もある。かごめかごめの鶴とカメ。亀甲紋と六芒星。鶴の折り紙から五芒星。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww7a.biglobe.ne.jp%2F%7Emkun%2Fnazo%2Fstar56.htm

亀甲 紋(キッコウ) ... 亀甲紋使用家は「見聞諸家紋」に、二階堂・小田・浅山・藤民部・宇津木・中村・湯浅とある。 ... その氏子総代である野田醤油の祖先は、それにあやかって亀甲に萬の寺を家紋とした。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fhomepage2.nifty.com%2Fpapion%2Fpages%2Ffamilycrest%2Fkikkou.html

家紋の由来_鶴 紋
鶴紋. もともと鶴は霊鳥とされてめでたく、亀とともに長寿の印だった。 鶴の瑞祥にあやかって、鶴は昔から文様や紋章にさかんに用いられた。 ... 源氏系では柳沢、森、諏訪、室賀の諸氏が「鶴紋」を用いている。 降り鶴の丸. 光琳鶴. 三光琳鶴 ...
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.harimaya.com%2Fo_kamon1%2Fyurai%2Fa_yurai%2Fpack2%2Fturu.html
厳島神社の「平家納経」の表紙にも鶴がみられ「北野天満宮絵巻」にも同様の鶴が見られる。これらの紋はやがて家紋に転化していった。(対い鶴)

亀甲紋は出雲大社、厳島神社、香取神宮

安芸の厳島神社が「三つ盛亀甲に剣花菱」、

八角円堂
京都の最古の寺院建築である広隆寺は聖徳太子から秦氏に賜れた仏像を本尊に創建されましたが、境内に 桂宮院と言う、鎌倉時代の八角円堂があり、聖徳太子像が安置されています。 ... 八角円堂としては他に、興福寺北円堂(藤原不比等の一周忌に創建され、
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Forion.fken.ise.osaka-sandai.ac.jp%2Forion%2Fjap%2Fhstj%2Fnara%2Fhoryuji3.html

739年、僧行信らによって創立された別院上宮王院の仏殿。聖徳太子の供養塔でもあります。八角円堂で屋根に舎利塔である宝瓶を中心とした<露盤宝珠>を置いています。 組み物は簡素な三斗組、肘木は長く天平前期の特色がでています。
現状は鎌倉時代に斗を一段加えて高くし、軒の出も長くされています。
京都の最古の寺院建築である広隆寺は聖徳太子から秦氏に賜れた仏像を本尊に創建されましたが、境内に 桂宮院と言う、鎌倉時代の八角円堂があり、聖徳太子像が安置されています。
八角円堂としては他に、興福寺北円堂(藤原不比等の一周忌に創建され、1210年再建)、三聖寺愛染堂(室町時代建立、禅宗様。東福寺山内)などがあります。
六角円堂と言うのもありますが、その例は少なく、鹿苑寺地蔵堂(岐阜県美濃市。室町時代後期建立。小規模)、長光寺地蔵堂(愛知県、1510年)などがその例です。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Forion.fken.ise.osaka-sandai.ac.jp%2Forion%2Fjap%2Fhstj%2Fnara%2Fhoryuji3.html

銅鏡は方位盤 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2905

太陽光の銅鏡反射を利用
「卑弥呼が、瀬戸内海一帯にはりめぐらした山上の物見や通信台からの情報で、明日の天気を予見を予見すると、それは太陽光の銅鏡反射を利用し、ピカピカピカッという信号で中継通信基地、焼山寺山がうけ、それを四方に信号で」おくるという一種の光通信が行われていたという主張がある(焼山寺山は標高九三〇メートル、阿波の他の山々からの見晴らしがよい地点にある)。魏からもたらされた銅鏡百枚はこの反射信号に使われただけでなく、舟と陸上との連絡、舟と舟との連絡にも用いられた実用品だった。また、銅鏡ばかりでなく、自然の鏡石を利用した古代の灯台もあったという。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmerulog.jp%2Fhal9000kamt%2FU4D6kyuyinJF

日本史のブラックホール・四国 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2660


412史実探偵: 平 素人:2020/03/12(木) 05:06:20
Re: 銅鐸で測量 - かごめかごめの真実とは…銅鏡反射を利用…
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1781

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413吾亞風:2020/03/12(木) 11:12:20
「埋めるという行為」の意…『分水嶺』とは何かを知っていますか?
土圭:…時打ち装置をもつこの時代の時計は自鳴鐘と呼ばれた。時辰儀,土圭なども時計の古い呼名である。

「厓ガイ」 <がけ・地のはて>
解字 「厂(がけ)+圭ケイ(土のかさなり)」 の会意形声。土が重なって層になっている所が露出しているガケ。のち、山をつけて崖、水をつけて涯の字に分化した。また、切り立ったガケは地の果てと考えられた。
意味 (1)がけ。(=崖) (2)きし(岸)。みずぎわ。(=涯) (3)果て。かぎり。(=涯)
イメージ  「がけ」 (崖・涯)
       地の 「はて」 (睚)
みずぎわ。(=涯)… 銅鐸…
圭(かどだつ)…
「圭璋ケイショウ」(儀式用の貴重な玉器)
畦 ケイ・あぜ  田部
解字 「田(耕地)+圭(かどだつ)」の会意形声。耕地を区切る角立ったあぜ。
窪 ワ・ア・くぼむ  穴部
解字 「穴(あな)+氵(水)+圭(ワ)」の形声。水がわくくぼんだ穴をいい、圭(ワ)は発音をあらわす。
穴(あな)…埋める…甦り…くぼみ…
大理石に4分の1球面のくぼみをあけ、この球面に沿って、上方から放射状に目盛り線を引く。中心角で15度間隔で目盛りを引くと指針の影は太陽の時角の変化に伴い、1時間ごとにこの目盛り線を通過する。これが古代の日時計である。
日土圭(ひどけい) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
太陽の日周運動を利用し、太陽の時角の推移から時刻を定める器械。太陽は24時間で全円周360度の回転を繰り返すので、1時間当りの時角の変化は15度である。

集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める−埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。…
恩智銅鐸出土地−大阪府八尾市
3/9八尾市の恩智銅鐸の出土地を訪れた。
AM中、八尾市歴史民俗資料館で跡部銅鐸と恩智都塚山の銅鐸を見て、PM、現地へ向かう。恩智の銅鐸出土地は生駒山系から舌状に突き出した小丘陵−垣内山で標高は97〜123m(写真1/写 真中央の家の背後が出土地)。現在安養寺の毘沙門堂背後の97mピークに「銅鐸出土之山」の石碑(写真2)が立っているが、ここは出土地ではない。1921年(大正10)の出土地点は安養寺の背後−垣内山の北側斜面とされる。
梅原末治『銅鐸の研究』によれば、「山の尾の北西端に大師堂がある。堂から東へ13間(25m)で山腹の上部に山崩れのある部分に達するが、それが鐸の発見地点なのである」と書かれている。現在、大師堂(標高約80m)の東へ小径が続いているが山崩れの痕跡は既にない(写真3)。小径は垣内山の北側の谷奥まで伸びて、谷奥には井戸がある。恩 智垣内山では、1949年(昭和24)にも銅鐸が発見されている。こちらは都塚山銅鐸と呼ばれているが、大正の出土地点と同じ丘陵の尾根続きの123mピーク(ここが都塚山か?)から少し北に下った地点らしい。正確な地点は今回確かめられなかったが、垣内山の北側の谷を東へ40m程登った地点に当たる。恩智の銅鐸出土地は、同じ丘陵の少し離れた地点から銅鐸が出土した「近接埋納」の事例として注目される。垣内山には発見されずまだ眠っている銅鐸があるかもしれない。
近鉄恩智駅への帰りに「天王の杜」に寄った。ここは弥生中期を中心とする恩智遺跡のあった場所で、銅鐸発見当初から銅鐸埋納と関連がある集落と推定されている。確かに天王の杜から垣内山を見ると、生駒山系をバックに垣内山が三角形の形で浮かび上がって見える。集落と垣内山の距離は約500m。天王の杜から見て気づいたのだが、銅鐸の埋納地点そのものは集落からはちょうど山の影になり見えない。銅鐸埋納地点は眺望がよくない場所−眺望がよい山であるにもかかわらず、あえてよくない地点を選んで埋めている−ことが多いが、恩智の場合、さらに集落から見えない場所という理解ができる。集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める−埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdoutaku.cocolog-nifty.com%2Fblog%2Fcat15615189%2Findex.html
…「こんなところで?」という感じの場所だった。…
悪ヶ谷銅鐸の実物は東京国立博物館に展示されている。谷奥の支谷−才四郎谷では、89年に銅鐸研究家の羽間義夫さんが金属探知器で銅鐸を発見している。どんなところか非常に興味があったのだが、出土地点は「どうたく公園」という道路沿いの小公園 として整備されている(写真2)。覆屋の下にレプリカの銅鐸で出土状態が再現されている(写真3)。現地はなんの変哲もない道路脇の斜面で特に削平されてもいない。「こんなところで?」という感じの場所だった。

…「こうした埋納地の共通性は、銅鐸が水に関する祭器であること、川神や水神をまつる農耕儀礼に使われた祭器であり…」と書かれているのを知った。辰巳さんは引佐町の天白磐座遺跡など古墳時代・井伊氏による水(井泉)の祭祀の研究で知られるが、銅鐸についてはその後何故か言及されていない。
銅鐸が水に関する祭器…
…銅鐸出土地点の東西から平形銅剣5本(A地点4,B地点1)が出土しており、我拝師山北麓もいわゆる近接埋納地として注目される場所。同行のGさんはミカン畑で弥生土器片を見つけたがここも広義の高地性集落と重なっているらしい。水分神社や大塚池の存在から我拝師山の青銅器出土地も湧水との関係が指摘されているが(※前記松本豊胤論文、大野勝美 1994『銅鐸の谷』)、湧水だけでなくその背後の我拝師山の存在も無視できない。これは瓦谷遺跡の背後の大麻山も同様で、民俗学でいうところの「山当て」的な意識を感じる。…

源氏ヶ峯の南方、三木町の白山(写真3)からも銅鐸が出土しているが、ここも山頂部に散布地、山麓丘陵上に弥生集落跡が確認されている(銅鐸は集落跡に近い見通しのきかない谷頭から出たらしい)。白山も秀麗な神奈備型の山だが、飯野山と白山の山頂部散布地は集落跡ではなく“祭祀的”な遺跡ではないかとみられている。これについては、後で松本武彦さんが興味深い説を出雲の田和山遺跡の講演会で述べられているのを知った。
>「高地に所在する祭祀遺跡で環壕を巡らせた例はまだ見つかっていないが、香川県の飯野山(讃岐富士)と白山では、山頂で弥生中期の祭祀土器がみつかっており、今後もし環壕などが発見されれば、田和山タイプの祭祀遺跡への認識は深まるだろう」
高地性集落が弥生時代祭祀とどう関わってくる遺跡なのかまだわからないが、従来言われてきた「戦争との関係」ではない側面があることを青銅器出土は伝えているのだと思う。
山頂で弥生中期の祭祀土器が…
…旅行中入手したパンフ類を整理していたら「天霧城跡」のパンフの地図に「水場」のマークを見つけた(水場はどんな渇水時にも枯れたことがなく、常に岩の間から真水が湧出する場所だという)。ここは弥谷寺の平形銅剣(写真4)の出土地に当たる。弥谷寺の銅剣の出土地は厳密には特定できないし、三豊平野〜丸亀平野を結ぶ峠に注目する説−いわゆる境界祭祀説−もあるようだが、弥谷寺・弥谷山との関係は無視できない。やはり「湧水」は銅鐸だけでなく、広く青銅器埋納地点共通の“キーワード”になりそうである。…

甲武信ヶ岳と雲取山・金峰山・瑞牆山の4つの百名山と、多摩川・荒川・富士川・千曲川の4つの分水嶺を3日以内に縦走するというタフな大会があるんです。それが『分水嶺トレイル』。
…周辺は草地で、目の前に笠取山の山頂があり、富士山の眺望も抜群! 撮影スポットとしても人気です。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyamahack.com%2F2471
分水界…
分水界(ぶんすいかい、drainage divide)とは、異なる水系の境界線を指す地理用語である。山岳においては稜線と分水界が一致していることが多く、分水嶺(ぶんすいれい)とも呼ばれる。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
水は高いところから低いところへと流れる。したがって稜線のどちら側に降るかで流れ込む川が変わり、注ぐ海が変わってくる。山岳においてはこのような違いが大変明瞭なかたちで現れてくるが、一見平坦な地形のところでもこのような営みが行われている。たとえば、広島県安芸高田市向原町戸島の「泣き別れ」は平坦な水田の中にある。これより北側は江の川に流れ込んで日本海へ注ぎ、南側は太田川に流れ込んで瀬戸内海に注ぐことになる(安芸高田市には八千代町上根峠にも平坦地での分水界がある。これは日本における河川争奪の代表的な例である)。
もうひとつ平坦な地形での分水界の例を示す。それは武蔵野台地の場合である。武蔵野台地では残堀川や野川、仙川など多摩川水系の河川と、黒目川、柳瀬川、空堀川など荒川水系の河川とが流れている。当然双方の水系の接するところ、すなわち分水界が存在するわけだが、玉川上水がほぼそれにあたる。最も高いところに上水を通すことで分水を自然に流下させることができ、灌漑面積を効率的に拡大できるのである。
日本の分水界
世界との比較をするなら、日本は島国でありかつ山国でもあることからその分水界は小規模である。古くは水分(みくまり)とも呼称した。
中央分水界
中央分水界(中央分水嶺)とは、日本の太平洋側と日本海側とを分かつ分水界である。ただし、例えば津軽海峡などのような、太平洋と日本海の境界にある海域をどちらの海域として扱うかによって結果が異なる。
末端以外の中央分水界で最も高度が低いところは、本州では兵庫県丹波市氷上町石生(いそう)「石生新町」交差点付近の標高95m[1]である。この最低点の東800m付近に「水分れ(みわかれ)公園」があり、公園内で水路が加古川(瀬戸内海/太平洋)側と由良川(日本海)側とに分かれている。日本列島全体では、日本山岳会により中央分水嶺踏査事業[2]が進められた結果、北海道の新千歳空港付近を標高13.7mの中央分水界が通っているとされた[3]。一方、最高点は乗鞍岳の 3026m である。
国境としての分水界
律令制に基づいておかれた令制国の境はその多くが分水界となっている。尾根筋を国境(くにざかい)とすることが多いから当然といえば当然ではあるが、尾根を境に気候や植生が変わり文化が変わるのだから、合理的な分割法ということもできる。中世において伊賀国が、隣の近江・大和両国と国境紛争を起こした際には分を境目とする裁断が下されている。
分水界が国境というのは日本国内に限ったことではない。ヨーロッパにおいても尾根が国境とされることが多いため、アルプス周辺では分水界と国境がほとんど一致している。
平野部の分水界
分水界泣き別れ。線路沿い左側の白い柱が分水界を表す。
山岳部では稜線とほぼ一致するが、下流の平野部(特に大平野)では分水界が不鮮明である。これは増水する度に河川が流路を変更するためである。このことは古代から近世にかけて、為政者にとって最大の悩みであった。そのため古代の入植は、新田や耕作地の開発のし易さから山際近くで開始されている。そして近世になるにつれて、低地や川際へと開発が進んだ。
近代以降は土木技術の進歩で河川整備が進み、河川の流路が変わらなくなっている。
さかい〔さかひ〕【境/▽界】
土地と土地との区切り。境界。「隣との―」「県―」
2 ものとものとが接する所。また、ある状態と他の状態との分かれ目。区切り目。境目。「空と海との―」「生死の―をさまよう」→境する
3 ある範囲の内。地域。場所。また、境遇。
「身体を安逸の―に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は」〈漱石・明暗〉
4 心境。境地。
「―に入りはてたる人の句は、此の風情のみなるべし」〈ささめごと〉
「竟キョウ」 <長い祭祀がおわる> /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Ffeb52fe621e68813104f061886685404
解字 甲骨文第1字は、「冠の形+兄キョウ(神に祈る人)」 の会意形声で、冠をつけた貴人が祭祀(祖先や神をまつる)をおこなっているさま。(兄は音符「兄キョウ」を参照)。甲骨文第2字は、冠の略体(▽)をつけた形。意味は、?祭祀名。?人名だという(甲骨文字辞典)。金文も甲骨第1字を踏襲しているが、篆文から、冠⇒辛、口⇒曰、人⇒儿に変化し、現代字は、「音+儿」の竟になった。意味は、祭祀が長きに「わたる・つづく」、祭祀が「ついに、おわる」こと。また、おわった所が「さかいめ」の意がある。
意味 (1)わたる。つづく。「竟日キョウジツ」(一日中)「竟夕キョウセキ」(夜どおし) (2)ついに(竟に)。「畢竟ヒッキョウ」(つまるところ)「竟成キョウセイ」(ついに成る)「有志竟成ユウシキョウセイ」(志の有る者は事をついに成し遂げる) (3)おえる。おわる(竟わる)。「竟宴キョウエン」(祭事のおわった後に開く宴会) (4)さかいめ。「竟内ケイダイ」(区域のうち。=境内)
 「わたる・おわる」(竟)
  終わったところが「さかいめ」(境・鏡)
音の変化  キョウ:竟・境・鏡
さかいめ
境 キョウ・ケイ・さかい  土部
解字 「土(とち)+竟(さかいめ)」の会意形声。土地のさかいめ。
鏡 キョウ・かがみ  金部
解字「金(金属)+竟(さかいめ)」の会意形声。金属をみがいて境目を反射させるようにした鏡。
鏡…
鏡山 (北海道) - 北海道北斗市にある。標高330m。
鏡山 (山形県) - 山形県村山市と最上郡大蔵村の境にある。標高1097m。
鏡山 (福島県・新潟県) - 福島県耶麻郡西会津町と新潟県東蒲原郡阿賀町の境にある。標高1339m。
鏡山 (岐阜県) - 岐阜県揖斐郡揖斐川町にある。標高1086m。
鏡山 (滋賀県) - 滋賀県蒲生郡竜王町と野洲市の境にある。標高385m。
鏡山 (島根県) - 島根県浜田市にある。標高69m。
鏡山 (福山市) - 広島県福山市にある。標高150m。
鏡山 (東広島市) - 広島県東広島市にある。標高335m。周辺は鏡山公園になっている。
鏡山 (愛媛県) - 愛媛県今治市の大三島にある。標高212m。
鏡山 (佐賀県) - 佐賀県唐津市にある山。
鏡山 (小城市) - 佐賀県小城市にある。標高134m。
鏡山 (人吉市) - 熊本県人吉市にある。標高590m。
鏡山 (熊本県・宮崎県) - 熊本県上益城郡山都町と宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町の境にある。標高917m。
鏡山 (芦北町) - 熊本県葦北郡芦北町にある。標高730m。
鏡山 (球磨村) - 熊本県球磨郡球磨村にある。標高551m。
鏡山 (玖珠町) - 大分県玖珠郡玖珠町にある。標高675m。
鏡山 (宮崎県) - 宮崎県延岡市にある。標高645m。

鏡山村 - 滋賀県蒲生郡にかつて存在した村。1955年に苗村と合併して竜王町となった。
鏡山 (香春町) - 福岡県田川郡香春町にある地名。
鏡山…真南に位置…会越国境に位置…
西会津町北部の会越国境に位置する。鏡山という山名は全国に多く見られ
るが、その中でも標高が最も高いのではないだろうか。飯豊連峰の一角で
飯豊山のちょうど真南に位置する。
飯豊連峰の展望台と称されることが多い鏡山だけに、山頂からのパノラマは圧巻である。 北西に大日岳、北側には御西岳、飯豊山、北東には種蒔山、巻岩山、疣岩山、三国岳。 東側には吾妻連峰、南東には磐梯山。 この日の飯豊連峰は昇竜のような白雲に山頂部が少々隠れていたが、十分にその迫力ある絶景を楽しめた。

【佐賀・唐津】鏡山展望台から唐津を見渡す。
鏡山展望台
唐津城からは車で10分ほど。
虹の松原の南にある展望台です。大きな赤い鳥居が入り口の目印。
北には海、そこに流れ込む大きな松浦川、周りはのどかな田園風景、そして正面には虹の松原の存在感。遠くには唐津城も見えます。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fak-kyushu.com%2F2017%2F08%2F08%2Fsaga-kagamiyama%2F

滋賀県鏡山と伊勢遺跡 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flutera.org%2F
鏡山の北麓に鏡神社という社がある。
 御祭神は新羅から渡来したと伝えられている天日槍(アメノヒボコ)で、相殿は天津彦根命(アマツヒコネノミコト)と天目一箇神(アメノヒトツノカミ)。
 『日本書紀』によると、第11第垂仁天皇3年、新羅の王子・天日槍は陶芸、金工集団を引きつれて渡来し、近江・若狭を経て但馬の出石(兵庫県)に定住した。また近江の鏡村谷の陶人は天日槍の従者であるという記述がある。
 地元の伝承によると、鏡山という名前は、かれが渡来したときに持参した、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種の神宝のひとつである鏡を山中に埋めたことに由来するという。
 実際に鏡山に登ってみると、正面に野洲町の三上山が見える。
 三上山は近江富士の名のとおり、美しいピラミット型の稜線をもつ。古代から信仰の対象とされていて、山頂には奥津磐座、麓には天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある。
天照大神の孫(天津彦根命の子)にあたる天御影命は物部氏と縁が深く、その娘の息長水依比売(オキナガミズヨリヒメ)は、九代開化天皇の皇子にして崇神天皇の弟にあたる日子坐(ヒコイマス)王と結婚している。ちなみに日子坐王は丹後の鬼退治伝説で知られている。
さらにおもしろいのは、邪馬台国三上山説というのがある。
その根拠となったのが滋賀県守屋市伊勢町で発掘された『伊勢遺跡』。守屋市の教育委員会は、伊勢遺跡がつくられたのは1世紀末〜2世紀末。建物跡の調査の結果、国内最大規模の大型竪穴建物であることから、有力者の住まいであった可能性が高いと発表しているんだよね。それも集落の形状からいって、住居というよりも大規模な祭祀場であった可能性も高いとのこと。この伊勢遺跡から東に3キロほどいったところに三上山がある。


414史実探偵: 平 素人:2020/03/14(土) 02:53:16
Re: 「埋めるという行為」の意…『分水嶺』とは何かを知っていますか?
吾亞風(何と読むのですか^^?)さまへ、
 数々の情報 &ご教示ありがとう御座いました。大変勉強になります。
 このような説明を上げないから<専門家>には伝わらないのですね^^1

 銅鐸を「埋めるという行為」についての説には色々とあるようですが、
 わたし素人は、まとめて埋めるは別として「土中、一時保管説」を支持しています。

<大事変のシナリオ>
 今から4千年前地球を半周した巨大隕石が東北に降臨しました。その時発生した大地震・津波・直後の爆雨・雷、等々、の天変地変は、今の私達が想像すら出来ないものでした。巨大隕石の衝撃はその規模にもよりますが、私達が知り得ている地震や津波の比ではありません。なぜなら、地殻内で起きる地震に対し、その地表を叩くエネルギーの絶対量が表層地震に変るからです。即ち『力は抵抗の弱い方へより強く作用する』からです。
その時を想像しますと、高層建築のない当時ですが、揺れるとか倒れるとかの表現ではなく“豆粒やゴマ粒がハゼル如く”であったと思います。列島の住人は、多少の地域差はありますが、お互いが離れていてもこの大事変を共通の<荒神>と認識するようになりました。大陸や西洋では “この大事変、東洋にあり!” として後々の探索航海に出でていることは皆さまの知るところです。

 列島では、その荒神を災いと慈雨の両方をもたらす神として定着しました。列島住人は大陸からの銅器・赤色(あか)から毒性をもつ緑青(アオ)に変色する銅鐸に発展させ、その銅鐸に、その荒神様を呼び寄せ、慈雨や災いの鎮静化をおねがいしたと前述しています。そして、その大事変の発生源が東北であったことから、“西方へ行く”地震や津波をみて、「西方浄土」の考えが生まれました。ちなみに、大陸では東方に「神仙思想」、半島の「東方神起」の考えがあるのは皆さまの識るところです。

<銅鐸を単体で埋める場合>
> 集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める−埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。…

 このような荒神様ですから、その扱いには注意を要する。「困ったときの神頼み^^!」呼び寄せた時以外は帰っていただく。銅鐸、以外のどこかしこに取り憑いては困る。そして、その銅鐸も、地中や、裏山の人目に付かない所に一時的に隠しておこかとなった。(笑い)そんなとこに隠してもねえ^^! 地中に埋めるのは深く埋めたのでは再度取り出しにくいし、浅く埋めたのでは見つかりやすい。のでので・・「四尺=死尺」にしとこかとなった。これはスコップで掘り進めて肩までの高さであり、それ以上深く掘ると顔に土がかかります^^!。よっぽど怖いことがあったのでしょうか。その倍の深さに埋めたが「未だ、その声鳴りやまず!」という文面をみたことがあります。今でも、地方によっては、この銅鐸は、"五色の??御幣??"に変り、貴方さまの住む "里山" の目のつかないところへ隠されているかもよ^^?

「歴史会」の会合で講師の先生が「その銅鐸を見つけるのが私の夢です」と仰っていましたが(^-^?) ヒントは、『雨乞い文化』のある所で「悪ヶ谷」とか、荒神谷とか、西谷、(さいたに・才谷、晒谷)、奥谷、黒谷、とかの暗いイメージの地名から始めるといいかもですね。
 「ここ掘れワンワン!!」がわたしの得意分野です^^!。
  ・・っていうか、それ以外はありません^^! Give me a job^^.(史実探偵局より)

> 悪ヶ谷銅鐸の実物は東京国立博物館に展示されている。谷奥の支谷−才四郎谷では、89年に銅鐸研究家の羽間義夫さんが金属探知器で銅鐸を発見している。・・「谷奥・才四」

<銅鐸をまとめて埋める場合>
これは、「その銅鐸、二度と使わじ!!」として、封印している。と前述しているので省略します。こちらの方は、「出雲に習えばいい^-^♪」

<分水嶺と分水界の問題に思うこと>
わたしの知るところでは、長野県だったかな?「この〇〇峠は、日本海と太平洋へ流れるかの分岐点です」といわれたわりに"平な感じ"がしたのが思い出されます。拙「報告書」では、岩手県だったかな、水界峠。出雲平野では、神戸川と蛇砂川。ここは高低差が少なく、地図だけでは分水界は分かりませんでした。吉備では、高梁川分と東の足守川分の分かれ目に吉備津神社があり、松林が植えられ「境」の地名が残っていました。又、出雲半島の鷺峠の坪背山への山道に「灌流標」があつたのが気になっています。ここは、北の日本海側と南の大社側への分水嶺となっていますから、何か雨水に関係するお祈りごとがあったかと思案中です。このように、分水嶺を境に、或いはそれを模した亀の甲羅の右左に自分達の住む里の方にその雨欲しやの占いやお願いの歴史があったのではないでしょうか。

 今ではダム不要論まで出るさまですが、極々、近時まで、干天には悩まされて来ました。水争いの詳しくは知りませんが、水稲栽培への移行につれ雨水の必要性は死活問題であったと容易に考え知ることが出来ます。今でも水利権は小さな小川や小溝にいたるまで不文律があり、その管理と利権はくわしく定められているようです。曲がりくねった小川でも田地整理で区画されていない所をみかけます。特に川底の高低改修は簡単に変えることはできないのかな?? 昨今は宅地造成で地上げをすることが多いのですが、私は、その川底をみて、かつての海からの高さを想像しています。特に、出雲平野の「蛇砂川」は、周りがきれいに区画整理されているのに「くねくね」と曲がっているのには異様感を覚えました。

 <蛇砂川> ⇒ <砂川> の誤りでした^^!訂正してお詫びいたします。
又、神戸川は、斐伊川の放水路で繋がれてはいますが別水系のようです。
そして、現在は<砂川>は名のみが残っており川は流れていません。砂川の地名は出雲平野のほぼ中央にあり、北の新川と南の五右衛門川にはさまれて、かつての川に民家だけがくねくねと曲がって建っています。斐伊川町併川(あいかわ)の地名がありますから神立あたりで斐伊川の分流として流れていたが、水田整備のために北の新川と南の五右衛門川が新設されて、今は宅地化し<砂川>の川名だけが残ったようです。済みませんでした。ちなみに、総社市の鬼ノ城から流れ出る川が<砂川>でした。

≪ > 鏡… ≫
> 鏡山 (北海道) - 北海道北斗市にある。標高330m。
> 鏡山 (山形県) - 山形県村山市と最上郡大蔵村の境にある。標高1097m。
> 鏡山 (福島県・新潟県) - 福島県耶麻郡西会津町と新潟県東蒲原郡阿賀町の境にある。標高1339m。
> 鏡山 (岐阜県) - 岐阜県揖斐郡揖斐川町にある。標高1086m。
> 鏡山 (滋賀県) - 滋賀県蒲生郡竜王町と野洲市の境にある。標高385m。
> 鏡山 (島根県) - 島根県浜田市にある。標高69m。
> 鏡山 (福山市) - 広島県福山市にある。標高150m。
> 鏡山 (東広島市) - 広島県東広島市にある。標高335m。周辺は鏡山公園になっている。
> 鏡山 (愛媛県) - 愛媛県今治市の大三島にある。標高212m。
> 鏡山 (佐賀県) - 佐賀県唐津市にある山。
> 鏡山 (小城市) - 佐賀県小城市にある。標高134m。
> 鏡山 (人吉市) - 熊本県人吉市にある。標高590m。
> 鏡山 (熊本県・宮崎県) - 熊本県上益城郡山都町と宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町の境にある。標高917m。
> 鏡山 (芦北町) - 熊本県葦北郡芦北町にある。標高730m。
> 鏡山 (球磨村) - 熊本県球磨郡球磨村にある。標高551m。
> 鏡山 (玖珠町) - 大分県玖珠郡玖珠町にある。標高675m。
> 鏡山 (宮崎県) - 宮崎県延岡市にある。標高645m。

> その他あり、等々

「鏡山」の存在は全く知りませんでした。
これを<同一文化圏>とみると圧巻ですね。ご調査のご苦労に感謝します。
徐福隊の考えをくむ人達が関係したかとうかがい知ることが出来ますが、北海道にまであるのは驚きです。登るのに手ごろな場所と高さがいいですね。大字名をみると比較的時代がさがったような感じがします。なにはともあれ、「鏡山」という単純地名の統一は「誰が?」「どように」広げていったかの具体性が最大の謎です。

>  地元の伝承によると、鏡山という名前は、かれが渡来したときに持参した、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種の神宝のひとつである鏡を山中に埋めたことに由来するという。

「鏡を山中に埋めた」のですかぁ。古墳に埋めたのなら分るのですが、山にねぇ???
銅鏡を埋めれば錆びて使えなくなるし、簡単に盗掘される^^! そして、一つの山に一つづつとは思えず測量目的なら携帯して移動した方が良いようにも思えます。又、朝夕の斜光時の申し合わせが要ります。しかし、現存する「鏡山名の分布」は、否定できないのが難しい問題です!! 鏡山の名が定着するには、住民にかなりのインパクトを与えたか、継続して使用していたかの要件がいります。何か、それに関係する伝承は残っていないのでしょうか??

>  実際に鏡山に登ってみると、正面に野洲町の三上山が見える。
>  三上山は近江富士の名のとおり、美しいピラミット型の稜線をもつ。古代から信仰の対象とされていて、山頂には奥津磐座、麓には天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある。
>
> さらにおもしろいのは、邪馬台国三上山説というのがある。
> その根拠となったのが滋賀県守屋市伊勢町で発掘された『伊勢遺跡』。守屋市の教育委員会は、伊勢遺跡がつくられたのは1世紀末〜2世紀末。建物跡の調査の結果、国内最大規模の大型竪穴建物であることから、有力者の住まいであった可能性が高いと発表しているんだよね。それも集落の形状からいって、住居というよりも大規模な祭祀場であった可能性も高いとのこと。この伊勢遺跡から東に3キロほどいったところに三上山がある。

 滋賀県に「伊勢」という地名があるのは知っていましたが、興味がありながらも「何故?」かが分かりません出でした。北海道なら、「伊勢の衆とか、〇〇から移住した人達が」住んでいたところと解することが出来るのですが・・、お伊勢さまには飛び地の行政区があります。出雲には熊野神社がありました。大分には「小京都」があるのは先様方の知るところです。このような飛び地の歴史と、それに至ったいきさつを考えるのも楽しいですね。ありがとう御座いました。□

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415史実探偵: 平 素人:2020/03/19(木) 08:13:20
Re: 「おかげさまで」に潜む謎!?
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416荊の紀氏:2020/03/19(木) 09:10:51
兵庫県は銅鐸文化の中心地…北緯35度、東経135度…
>それとおぼしき所、<北緯35度3分31秒、東経135度2分23秒→27秒に訂正>を予測している。

史実探偵: 平 素人さん 情報ありがとうございます。
私も管理人さんも「古代測量」に魅入られています…

東経135度…
最北子午線塔
日本標準時子午線の最北の地である証の「最北子午線塔」は七竜峠へ向かう海岸の道路沿いにあります。東経135度、日本標準時子午線の最北地に建つシンボルで、日本と世界の標準時刻を表示しています。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kyotango.gr.jp%2Fsightseeing%2F691%2F

北緯35度0分0秒 東経135度0分0秒
岡ノ山古墳はその山頂に築かれた西脇・多可地域で唯一の前方後円墳(全長57.6メートル)
岡の山古墳
古墳時代前期(4世紀代)の築造と推定されます。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.nishiwaki.lg.jp%2Fkakukanogoannai%2Fsoumubu%2Fhisyokouhouka%2Ffurusato%2F1359693525351.html

日本へそ公園(にほんへそこうえん)は、兵庫県西脇市上比延町にある都市公園(総合公園)である[1]。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
兵庫県は銅鐸文化の中心地とみなされる。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F

先史・古代 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
先史時代の遺跡は県下各地に発見されるが、縄文式土器のもっとも古いものは香美(かみ)町のタツが平(なる)遺跡で出土している。縄文前期のものとしては、神戸市垂水(たるみ)区西舞子(にしまいこ)の大歳山(おおとしやま)遺跡があり、1万近くの石器および弥生(やよい)時代の住居跡が保存されている。縄文後期のものでは神戸市西区の元住吉山遺跡があり、石鏃(せきぞく)、石斧(せきふ)が多い。兵庫県には高地性遺跡として芦屋(あしや)市の会下山(えげのやま)、城山(しろやま)や神戸市東灘(ひがしなだ)区の保久良(ほくら)神社の遺跡があるが、なかでも弥生後期の典型的な遺跡として神戸市灘区の桜ヶ丘遺跡がある。ここでは1964年(昭和39)に銅鐸(どうたく)14点、銅戈(どうか)7点が出土した。県下にはその他の遺跡からの出土も多く、兵庫県は銅鐸文化の中心地とみなされる。弥生後期では1965年に発掘された田能遺跡(たのういせき)(尼崎(あまがさき)市)がある。弥生土器が主体で、当時の生活様式を知る重要な遺跡である。また県下には多くの古墳がみいだされる。条里遺構は川辺(かわべ)郡の猪名(いな)川、武庫(むこ)川の平野、明石川、揖保(いぼ)川流域のほか但馬(たじま)の河岸平野でも確かめられている。
 古代から海上交通の基地となったのは、東から河尻(かわしり)(尼崎市)、大輪田(おおわだ)(神戸市)、魚住(うおずみ)(明石市)、韓(から)(姫路市)、生(むろう)(たつの市室津(むろつ))の五泊で、各港の間はそれぞれ約1日の行程であった。741年(天平13)全国に国分寺・国分尼寺が配置建立されたが、兵庫県下では、播磨国分寺・播磨国分尼寺、淡路国分寺、但馬国分寺、但馬国分尼寺が置かれた。現在に至るまで法燈(ほうとう)を伝えているのは、播磨国分寺(姫路市、国の史跡)で、天正(てんしょう)年間(1573〜1592)に兵火にあったが、現在、高野山真言(こうやさんしんごん)宗の牛堂山(うしどうざん)国分寺と号している。こうして県下には飛鳥(あすか)、奈良時代の仏教文化が早くから伝えられたが、平安末期ごろからは播磨を中心に寺院の創建、あるいはそれ以前に建造されていた堂宇の再建などが進められた。太山(たいさん)寺(神戸市)、鶴林(かくりん)寺(加古川市)、斑鳩(はんきゅう)寺(太子町)、浄土寺(小野市)、一条寺(加西(かさい)市)などがそれで、堂塔は国の重要文化財に指定されたものが多く、仏教文化の隆盛を伝えている。
 律令(りつりょう)体制の崩壊する平安末期には、主要荘園(しょうえん)は寺社領となった。598年(推古天皇6)播磨揖保郡鵤荘(いかるがのしょう)(太子町)は法隆寺領となったが、当時の荘園の範囲を示す示(ぼうじ)石が現在も保存されている。また、摂津川辺郡猪名荘(尼崎市)や播磨加東(かとう)郡大部(おおべ)荘(小野市)は東大寺領となり、重源(ちょうげん)により小野に浄土寺が建てられた。丹波多紀(たき)郡大山荘(篠山(ささやま)市)や播磨国矢野荘(相生(あいおい)市)は東寺領、揖保郡福井(ふくい)荘(姫路市)は神護寺領となった。その後、武家の手に渡る寺領もあり、県下では源満仲(みつなか)など多田源氏が摂津国多田荘を領有した。また、播磨守(はりまのかみ)に任ぜられた平清盛(きよもり)は、摂津福原(ふくわら)荘などを所領した。清盛は大輪田泊(おおわだのとまり)に経ヶ島を築き、日宋(にっそう)貿易の拠点とした。さらに港の背後に福原京の建設を構想したが、1181年(治承5)に六波羅(ろくはら)で死去し、実現しなかった。一ノ谷の戦いなどで源氏に敗れた平氏は壇ノ浦の戦いで滅亡した。[藤岡ひろ子]

日本標準時の基準となる東経135度子午線は、明石市を含む12市を通っています。
北から京丹後市、福知山市(以上京都府)、豊岡市、丹波市、西脇市、加東市、小野市、三木市、神戸市西区、明石市、淡路市(以上兵庫県)、和歌山市(和歌山県)です。
それぞれの町には、目には見えない子午線を表示する標識やモニュメントが建っています。
東経135度子午線をとおるまち /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.am12.jp%2Fshigosen%2Ftoukei135.html


417史実探偵: 平 素人:2020/03/19(木) 23:22:08
Re: 兵庫県は銅鐸文化の中心地…北緯35度、東経135度…
https://www.kyotango.gr.jp/sightseeing/691/

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-categor2y-0.html



418吾亞風:2020/03/20(金) 03:14:27
士師(しし、英語: Judge、ヘブライ語)…土師氏?
小槻大社(おつきたいしゃ[1][2]/おつぎたいしゃ[3]/おづきたいしゃ[4])は、滋賀県栗東市下戸山にある神社。式内社で、旧社格は郷社。神紋は「下り藤」・「真向の兎」[2]。

東経135度59分32.85秒??北緯35度0分24.42秒
別称として「小杖社(おづえしゃ)」・「小杖宮」・「小杖大明神」とも /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
社伝では、古代に栗太郡(現在の草津市・栗東市一帯)の豪族の小槻山君(小月山公)が、祖神として於知別命を祀ったのが創祀とする。
小槻山君は栗太郡の古代豪族で、朝廷に采女も献上したという。小槻大社内には小槻大社古墳群が残るほか、周辺には下戸山古墳・地山古墳・岡遺跡(栗太郡衙跡)が残り、これらは小槻山君の関係史跡とされる。これらから小槻山君は栗太郡郡司クラスの家柄であったと推測されている。小槻山君は貞観15年(873年)[原 1]に京に居を移し、のち小槻氏(官務家)として朝廷に仕えた。
国史では「小杖神」・「小丈神」・「少杖神」などの神名で、貞観5年(863年)[原 2]に神階が従五位下、貞観7年(865年)[原 3]に従五位上、延喜11年(911年)[原 4]に従四位下に昇叙された旨が記されている[1]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では近江国栗太郡に「小槻大社」と記載され、関係社の小槻神社(草津市青地町)とともに式内社に列している[1][6]。社名の読みは「ヲツキノオホヤシロ」と振られる[1]。また、平安時代の11世紀初頭の作になる木造男神坐像2躯(国の重要文化財)が現在に伝わっている。
下戸山古墳??4世紀末-5世紀初頭…
滋賀県栗東市下戸山
座標: 北緯35度0分32.08秒 東経135度59分21.12秒
円墳(一説に前方後円墳)

小槻氏(おつきうじ/おづきうじ)は、「小槻」を氏の名とする氏族。
第11代垂仁天皇の皇子を祖とする皇別氏族で、平安時代から小槻宿禰姓を称した。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
平安時代から明治維新まで朝廷に仕えた下級公家の一族である。太政官弁官局における事務官人の家柄として左大史を代々務め、そのほかに算博士・主殿頭といった官職を世襲した。
一族の代表者である氏長者(小槻氏の場合「官長者」とも)は弁官局の下級官人を取り仕切り「官務」と呼ばれた。そのため小槻氏は「官務家」とも呼ばれる。同様に少納言局を取り仕切り「局務」と呼ばれた清原氏・中原氏(のち中原氏のみ)と合わせて「両局」と呼ばれた。両局は地下家の筆頭格として地下官人全般を統率した。
官務を継承する嫡流は鎌倉時代に壬生家と大宮家に分かれた。戦国時代に大宮家が断絶した後は壬生家が明治維新まで官務を継承した。近世以後「両局」は壬生家・押小路家(中原氏嫡流)・平田家(中原氏庶流)の3家から成る「三催」の体制に変わって地下官人を統率した。明治維新後壬生家は男爵となり華族に列した。
この嫡流のほか、戦国時代の下野国武家・壬生氏が小槻氏後裔を称した。
壬生氏
戦国時代の下野国武家。壬生晴富弟の胤業を祖とするとし[10]、本姓に小槻氏を称している。胤業は毛野氏族の壬生氏(壬生公)の後裔で小槻氏を仮冒したとする説[11]があり確証はない。栃木県下都賀郡壬生町には現在、壬生氏が大津市の雄琴神社から勧請を受けたとされる同名の雄琴神社が残り、同じく氏祖として今雄宿禰を祀っている。
青地氏
戦国時代までの間、近江国栗太郡を拠点とした武家。小槻山君(小槻氏前身)が平安時代中期に居を移したのちから文献に散見され、小槻山君氏神の小槻大社・小槻神社に対する寄進を重ねている。このことから、青地氏は改名した小槻氏一族もしくは小槻氏の在地領主と考えられている[12]。但し鎌倉時代に馬淵氏(佐々木氏一族)から基綱が養子に入って以降、源氏を本姓としている。

壬生氏は皇子の資養を目的として設立された壬生部の伴造の氏族で、宮城十二門には「壬生門」(美福門)があるところから、門部的な職掌についていたとも考えられる。『新撰姓氏録』「河内国皇別」には大宅臣の同祖とする壬生臣氏、「河内国未定雑姓」には御間城入彦天皇(崇神天皇)の後裔とする上毛野氏系統の壬生部公氏が存在し、日本各地に壬生氏・壬生部氏が分布している。
『日本書紀』巻第三十によると、持統天皇10年4月(684年)、物部薬(もののべ の くすり)とともに追大弐の位階を授けられ、合わせて、各人に絁(あしぎぬ)4匹、糸10絇、布20端>、鍬20口、稲千束、水田4町を与えられ、戸の調役を免じられている。
とある[1]。恐らく、天智天皇初年の百済救援戦で捕虜にされたものと推測されるが、彼らがいつ唐の捕虜から解放され、帰国したのかは不明である。
物部 薬(もののべ の くすり)は、飛鳥時代の人物。位階は追大弐。
伊予国風早郡(現在の愛媛県北条市)の人。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
『日本書紀』巻第三十によると、持統天皇10年4月(684年)、壬生諸石(みぶ の もろし)とともに追大弐の位階を授けられ、

許勢部 形見(こせべ の かたみ)は、飛鳥時代の人物。姓はなし。筑後国山門郡(やまとぐん、現在の福岡県柳川市とみやま市)の人。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
白村江の戦い(はくそんこうのたたかい[2][3]、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」とも読まれる。
大槻文彦の『大言海』では「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。
倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出である。『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。
倭国の情勢
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。
新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
遣唐使
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。
蝦夷・粛慎討伐
斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。
高句麗の滅亡
白村江の戦いと並行し、朝鮮半島北部では唐が666年から高句麗へ侵攻(唐の高句麗出兵)しており、3度の攻勢によって668年に滅ぼし安東都護府を置いた。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。高句麗の滅亡により、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった[21]。
渤海の建国
698年、靺鞨の粟末部は高句麗遺民などと共に満州南部で渤海国を建国した。建国当初は唐と対立していたものの、後に唐から冊封を受け臣従するに至った。また日本は新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは新潟や北陸などの日本海側沿岸での交流を深めていった。
唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整備・改革され、天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。
白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている[22]。
戦後交渉および唐との友好関係の樹立

捕虜の帰還…遣唐留学生であった土師宿禰甥(はじのすくねおい)
『続日本紀』巻第一には、文武天皇4年(700年)の大宝律令撰定の功で、刑部親王以下19人が禄を与えられたが、この中に「土師宿禰甥」の名前も、前述の白猪骨らと共に位階「勤広参」(従六位上に相当)で記載されている[8]。
『日本書紀』によれば、白村江の戦いの後の671年11月に、「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人上陸した。この中には、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の4人が含まれており、捕虜返還を前提とした上での唐への軍事協力が目的であったとされる[26]。
684年(天武13年)、猪使連子首(いつかいのむらじこびと・筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)が、遣唐留学生であった土師宿禰甥(はじのすくねおい)・白猪史宝然(しらいのふびとほね)らとともに、新羅経由で帰国したのが、記録に現れる最初の白村江の戦いにおける捕虜帰還である。
690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元宝(ゆげのむらじげんぽう)の児[27]の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた[28]。幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。
707年、讃岐国の錦部刀良(にしこりのとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部形見(こせべのかたみ)らも帰還した[29]。このほかにも、696年に報賞を受けた物部薬(もののべのくすり)、壬生諸石(みぶのもろし)の例が知られている[30]。

土師 甥 (はじ の おい)は、飛鳥時代の官吏。姓は宿禰。土師根麻呂の子。冠位は勤広参。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
土師氏は朝廷での土器製作・喪葬に奉仕した氏族で、『書紀』巻第一、神代上によると天穂日命を祖先としており、出雲臣と同祖である[1]。『書紀』巻第六によると、14代目の野見宿禰の時に「土師臣」氏を名乗った。元の姓は臣、のち連で[2]、土師連一族は、天武天皇13年(684年)の八色の姓で、宿禰を賜姓されている[3]。
金物儒(こんもつぬ)…

純粋な金属として人類が最初に知った金属の一つであると考えられている。 金の原子記号Auはラテン語のaurumによるものであり,これはヘブライ語の〈光〉を意味するorまたは〈赤色〉を意味するausからきたものとされ,フランス語でもorである。
…女真が満州,内モンゴル,華北に建てた王朝(1115〜1234)。生女真のワンヤンアクダ(完顔阿骨打)が女真を統一,収奪の激しい遼と戦い,収国1(1115)年独立して帝位につき,太祖と名のって,金と号した。

金(きん)は、漢姓の一つ。中国・朝鮮などに見られる。とくに朝鮮民族の姓の中では最大の姓となっている。中国では、漢民族・回族・満州民族などが多く称している。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
伝説
五帝の一人少昊(金天氏)の子孫は、「金」を姓とした。
賜姓
前漢の武帝の時、匈奴の休屠王の子・日?らが捕えられ「金」の姓を与えられた。
明のとき、モンゴルの王子・也先土幹や、額森図克、阿爾哈特実哩らが降伏し、「金」の姓を与えられた。
清の乾隆帝は台湾原住民(高山族)に7つの姓を与えた。その一つが「金」であった。
改姓
五代十国の呉越で、劉氏が「金」に改姓した。
他民族の漢化
羌族 - 南北朝時代、羌族の中で金姓を称するものがあった。
ユダヤ人 - 12世紀初期の北宋徽宗の治世、中国に移住・定着して商業を営んだ。漢姓として金・李・俺・艾・趙・張など17の姓を称した。中国のユダヤ人については、開封のユダヤ人参照。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
朝鮮民族(朝鮮族)、満州族 は別項参照。
劉氏…
中国では漢、蜀漢、前趙、南漢、北漢などの王族の姓である。現代の中国でも5大姓の一つで非常にポピュラーな姓。

古代中国には、漢民族は存在せず、モザイク状の多民族国家だった。
支那に渡来したユダ /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fbewithgods.com%2Fhope%2Fdoc%2F1-32.html
漢王朝(前202年〜)に、ユダヤ人がインド経由でやって来たと記述されている
…1663年清真寺の再建記念石碑では、ユダヤ教と孔子の儒教が、同一だと主張しています。
漢=カンの語源は、カナンもしくはカインだと思われます。
 また、KAIN→訛ってKAN→漢(もしくは、KANAN→訛ってKAN→漢)で、漢民族の正体は明らかで、漢字を自在に操るイスラエル人の知恵がその出自を呼び名として残したのです。

劉氏(りゅうし)は、中華圏の姓の一つ。現代中国において最も数の多い五大姓(王・李・張・劉・陳)の一つに数えられる。歴史的には漢(前漢、後漢、蜀漢、漢趙(前趙)、五代の後漢、十国の北漢、南漢)と漢王朝以外の劉宋、劉夏の国姓である。
起源…姫姓と祁姓はともに黄帝を祖としている。
堯の子孫である祁姓(中国語版)の劉氏。堯の嫡流(堯の嫡男の丹朱、堯の長男の祁監明の子の祁式、堯の九男の祁源明の説がある)の子孫が劉邑に封じられ、以来その地名を氏としたという。
祁姓劉氏からは、夏孔甲の代に龍を御する名手として劉累が現れている。龍の病死後、劉累は家族を伴って魯陽(現在の河南省魯山)に逃れた。これが河南劉姓の起源とされる(一説には、劉累の故地は河南偃師であったともいう)。
劉累の子孫からは、龍使いの職業を氏とした御龍氏、周初の「興滅継絶」の時期に堯の故地の唐を氏とした唐氏、周の成王が劉累の子孫を杜に移した杜氏、杜氏の杜伯(中国語版)の子の隰叔(中国語版)が晋に移り、士師に任じられたことから、官職を氏とした士氏(中国語版)、晋の士会(范武子)が范に封じられ、封地を氏とした范氏の各氏が出た。
周王室の一門である姫姓の劉氏。成王が曾祖父の季歴の子孫を劉(現在の河南省偃師)に封じたが、後に男子がなく絶えた。後に定王が弟の姫季子を劉(中国語版)に封じて、季子は康公(中国語版)と諡された。ただし戦国時代になると没落し、子孫は劉氏を称した。漢趙の劉殷はその子孫といわれている。
なお、姫姓と祁姓はともに黄帝を祖としている。
士師…
士師(しし、英語: Judge、ヘブライ語: ???????, ラテン文字転写: shaphat、古代ギリシア語: κριτάς)は、ヨシュア以後の王国時代の前から預言者サムエルの間まで、古代イスラエルを裁いた人々であり、旧約聖書『士師記』に描かれる指導者を指す。原語の意味は「治める者」あるいは「裁き人」。「士師」という呼び方は中国語聖書に由来する。
士師の支配地域は一部の部族とその周辺に限定されている地方分権で、王政とは違い世襲制ではなかった。大士師と小士師に分けられ、前者は他民族からの圧迫から民を救う英雄であり、後者は外敵の攻撃とは直接関係しない裁判人や仲裁者を指す。
堯…伝説上の聖王である堯に当てられる…
尭[堯] ギョウ  土部
解字 甲骨文は、ひざまずいた人の上に土のかたまりが二つある形。篆文第一字(古文)は、二人の人がそれぞれ土を上にのせている形で、土を運んで細工をする陶工を表していると思われる。ここから、古代の聖王のひとりが、陶唐という姓で陶器作りの祖であるという伝説と結びついてこの字が聖王「堯ギョウ」を表す字として使われたものと考えられる。
 篆文から、「垚(土三つ。うずたかい)+兀(ひと)」の堯に変化した。垚は陶工(兀)がつくった器をうず高く積んで乾燥させたり、焼くために窯に積んでいるさまと思われる。中国では、新石器文化期に窯の使用を開始しており、これにより高火度・長時間焼成が可能となり、より硬質のやきものが生産されるようになった。窯はかなり広いため、成形した器をそのまま積み上げたり、貴重なものは匣鉢(さや)に入れてから積み上げて焼成した。堯は、うずたかく積み上げることから、たかい意となる。また伝説上の聖王である堯に当てられる。堯は新字体に準じて上部の垚⇒卉に変化した尭が通用する。
意味 (1)たかい(尭い)。気高い。「尭尭ギョウギョウ」(高いさま) (2)中国古代伝説上の王の名。治水に舜シュンを起用しのちに彼に位を譲った。「尭舜ギョウシュン」(尭と舜は古代の聖王で、徳をもって天下を治めた古代の理想的帝王として並び称される)
イメージ  陶工が成形したのち乾燥させたり、焼くために窯にいれた「つみかさねた器」、うず高く器を積んださまから「ゆたか」のイメージがある。
  「つみかさねた器」(尭・焼・暁・橈・撓・蕘・遶・蟯・繞)
  「ゆたか」(饒・驍)
  「同音代替」(僥)

兀(ひと)…π(ペー)?
…土のかたまりが二つある形…圭?…
圭は、土が二つ重なったように見えるが、玉を紐で貫きとおした形である甲骨文の玉から変形したかたちと思われる。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F1a660000c8239e82ee68e0313906d764
玉を紐で貫きとおした形…φ(ペー)?
π(ペー)、φ(ペー)、χ(ケー) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

「串カン」  <つらぬく>
解字 ものを串ざしにした形の象形。つらぬく意を表わす[字統]。篆文の字形は患から復元した。
意味 (1)つらぬく。うがつ。
角のある玉器…畦ケイ。区切りの道)…
珪 ケイ・たま  王部 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F1a660000c8239e82ee68e0313906d764
解字 「王(玉)+圭(角のある玉器)」の会意形声。圭はもともと玉圭の意。王(玉)をつけて意味を明確にした字。
意味 (1)たま(珪)。圭の意味(1)と同じ。
娃 アイ・ワ  女部
解字 「女(おんな)+圭(=佳。美しい)」の形声。美しい女。
意味 (1)うつくしい。みめよい。 (2)美人。「宮娃キュウアイ」(宮女) (3)(発音のワが、赤ちゃんの泣き声に通じることから)赤ん坊。「娃娃ワワ」(?赤ん坊。?人形)
角だつ
畦 ケイ・あぜ  田部
解字 「田(耕地)+圭(かどだつ)」の会意形声。耕地を区切る角立ったあぜ。
意味 (1)あぜ(畦)。耕地のくぎり。「畦道あぜみち」 (2)うね(畦)。作物を植えたり種をまくため、土を平行に盛り上げたところ。
街 ガイ・カイ・まち  行部
解字 「行(通じている)+圭(=畦ケイ。区切りの道)」の会意形声。街は、土地を区画する道が縦横に通じているまち(街)。
意味 まち(街)。まちすじ。まちなか。ちまた。「街頭ガイトウ」「街道カイドウ」「街路ガイロ」「花街カガイ・はなまち」

>Ψ, ψ(プサイ、プシー、古代ギリシア語: ψε? プセー、ギリシア語: ψι プシ、英: psi)は、ギリシア文字の第23番目の文字。数価[1]は700。音価は/ps/。
>キリル文字の?(現在は使われていない)はこの文字を起源とする。
盛りあがる
墳 フン・はか  土部
解字 「土+賁(盛り上がる)」 の会意形声。大きく盛りあがった土の墓。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F829d327aa24eaed5cab9ddad278a9a80
意味 はか(墳)。土を盛り上げてつくった墓。「古墳コフン」「墳墓フンボ」「円墳エンフン」

>下戸山古墳??4世紀末-5世紀初頭…


419吾亞風:2020/03/20(金) 04:23:37
「神の粒子」ヒッグス粒子…放物線と直線…
目に見えているような光はフォトンによって伝えられています。koto-science.hatenablog.com/entry/素粒子

神は云った。「光あれ」。すると光が出来た。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikiquote.org%2Fwiki%2F
古代ギリシャでは天空を神の領域と考えアイテールと呼称した。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.hatenadiary.jp%2Fentry%2F2018%2F07%2F14%2F000000
哲学者アリストテレスは、この世界が火、空気、水、土の四元素で構成される地上と、アイテール(第五元素)で構成される天空から成ると考えた。また宇宙はアイテールで満たされており、アイテールによって天体が地球の周りを円運動すると主張した。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.hatenadiary.jp%2Fentry%2F2018%2F07%2F14%2F000000
ローレンツ収縮仮説とは、エーテルに対して移動する物体は進行方向に長さが縮むという仮説のこと。この仮説は物体が縮むことでエーテルの風の影響が相殺されてしまうため、光の速度差が観測できなくなり前述の実験と辻褄が合う。
移動する物体は進行方向に長さが縮む…
直径記号は「マル」…
エーテル (aether, ether, luminiferous aether)[1] とは、光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質を言う。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
光の波動説…波動関数…
オイラーのφ関数 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
φ
Φ・φが「フィ」、Π・πは「ピ 」です。
円周率やπの文字がないのに、パイとは円周率のことだとの回答をお寄せくださった方がおられます。 これは音が同じだから、食べ物のパイのことだと回答するに等しいと思いますがいかがでしょうか。 パソコンで変換されるφは、直径を表す記号の代用でしかなく、あくまで記号の代用φファイが、本来の記号の呼び方になっていったんですね。
JIS規格の前身、戦前からのJESで、直径記号は「マル」と読む事が規定されています。
今に至るまで延々と続いているわけですが、「パイ」だの「ファイ」だのと誤読する人が多く、ついにJIS規格は外国の文字であるΦ・φと同じ読みの「ファイ」を認め、改訂してしまいました。
パイは円周率=3.141592653・・・の事ですから、直径記号を「パイ」と言ったら、機械技術者からは確実に馬鹿にされます。
おまえは何でもかんでも直径は3mm少々なのかよ!って訳です。
ギリシア文字のパイはフェニキア文字を起源とし、キリル文字などの基になったものですから、
パイやファイってのは歴史も古く、間違ったらとても恥ずかしいと思います。
ギリシア文字以前には、線文字B、またはミュケナイ文字と呼ばれている文字体系の使用もみられるが、これは仮名文字と同じく音節文字で、音節構造の複雑なギリシア語の表記には必ずしも適さないものであった。ギリシア文字の案出は、紀元前9世紀頃まで遡ると考えられている。その元となった、セム語派のフェニキアが使用していたフェニキア文字はアブジャドであり、文字は子音ばかりの22文字であった。これは、セム諸語が子音に言語の核を置き、母音は補助的な役割しかもたないためである。一方、ギリシア語においては、母音は極めて重要な位置を占める。そこで、ギリシア語発音にはない音価を持つA、E、O、Y、Iの5つのフェニキア文字を、母音を表す音素文字に転用する[1]など、さまざまな改良が加えられた。この改良によってギリシア文字は母音と子音がそれぞれ文字を持つ、いわゆるアルファベットとなった。文字表はフェニキア文字(最後の文字は「Τ」)の後ろに、Υ /u/、Φ、Χ、Ψ、Ω を追加している。またギリシアの地域により一部異なる音素文字・字体が使われた。イオニアやアッティカ、コリントスなどのギリシア本土の大部分や東方諸地域全般においては現代のギリシア文字体系につながる東方ギリシア文字が使用されたが、一方エウボイア島やクマエを中心とするイタリア半島のギリシア植民市など、ギリシア世界の西方においては西方ギリシア文字(エウボイア文字、クマエ文字)が使用された。この西方ギリシア文字はイタリア半島の諸民族に伝わってエトルリア文字やラテン文字などの古イタリア文字群の原型となったが、紀元前4世紀ごろにはイオニア式のアルファベットに吸収されて姿を消した。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ギリシア文字においては、フェニキア文字の6番目である??ワウを分化させ、そのまま [w] を表す場合と [u, u?][4]を表す場合とで異なる字形とし、字母表上は前者(?、ディガンマ)をフェニキア文字と同じ6番目の位置に置き、後者(Υ)を「Τ」の後に置いた[5]。「Υ」より後の「Φ・Χ・Ψ」の起源については議論が分かれる[6]。「Φ・Χ・Ψ」および「Ξ」は地方によって音が異なり、東方ではΞ [ks]、Φ [p?]、Χ [k?]、Ψ [ps] であったが、西方では Φ [p?]、Χ [ks]、Ψ [k?](Ξは使用せず、[ps] はΦΣと書く)であった[7]。
線文字B…
線文字Bを記した粘土板は、ギリシア本土のピュロス、ミケーネ、テーバイ、ティリンス、およびクレタ島のクノッソスとハニアから発見されている[2]。線文字Bは、書簡や論文などには使用されず、また、文字が書き留められた粘土板は、人為的に焼成されていないことから、単純に記録を伝えるためだけに用いられたものと考えられている。文学はなく、人名と職業が書かれた帳簿、物品目録、宮廷内の単なる事柄が記録されていた[3]。
多くの場合、粘土板の上に横に罫線を引き、その上に左から右へ字が書かれる。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

東地中海頑で使用が始まった表音文字。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.y-history.net%2Fappendix%2Fwh0102-025.html
 はじめカナーン人がつくりだした表音文字をもとに、フェニキア人が現在のアルファベットのもとになる文字を使うようになった。前8世紀半ばごろから、地中海でフェニキア人と接触するようになったギリシア人に伝わったと考えられる。ギリシア人はかつてミケーネ時代には独自の文字(現代では線文字Bと言われる)を持っていたが、暗黒時代にすっかり忘れてしまっていた。
 ギリシア人は子音しか表せなかったフェニキア文字に、5つの母音(アルファ=Α、エプシロン=Ε、イオタ=Ι、オミクロン=Ο、ユプシロン=Υ)を加える改良を行い、ポリス形成期(アーカイック時代)以降は現在みるようなギリシア・アルファベットが用いられるようになった。最終的な24文字の最初の2文字、A、α(アルファ)とB、β(ベータ)からアルファベットといわれるようになった。 → 文字 シナイ文字 アラム文字 ローマ字 カロリング小字体

フェニキア文字 ? (ベート)に由来する。
数学で、ベータ関数を表す。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
高校数学などで、αと組になる2次方程式の解、また角度を表すのに用いる。

数学において、ベータ関数(ベータかんすう、英: beta function)とは、ルシャンドルの定義に従って第一種オイラー積分とも呼ばれる特殊関数である。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
放物線と直線で囲まれた部分の面積を求める有名公式 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmathtrain.jp%2Fbeta


420荊の紀氏:2020/03/29(日) 07:59:32
θは極角φは方位角
θは極角φは方位角
球座標の偏角の名称を教えてください. /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F2527930.html
普通,θは極角,φは方位角,と呼んでいます.

>Φ・φが「フィ」、Π・πは「ピ 」です。
円周率やπの文字がないのに、パイとは円周率のことだとの回答をお寄せくださった方がおられます。 これは音が同じだから、食べ物のパイのことだと回答するに等しいと思いますがいかがでしょうか。 パソコンで変換されるφは、直径を表す記号の代用でしかなく、あくまで記号の代用φファイが、本来の記号の呼び方になっていったんですね。
JIS規格の前身、戦前からのJESで、直径記号は「マル」と読む事が規定されています。
今に至るまで延々と続いているわけですが、「パイ」だの「ファイ」だのと誤読する人が多く、ついにJIS規格は外国の文字であるΦ・φと同じ読みの「ファイ」を認め、改訂してしまいました。
パイは円周率=3.141592653・・・の事ですから、直径記号を「パイ」と言ったら、機械技術者からは確実に馬鹿にされます。

極角の 0 は、オブジェクトのローカル Z 軸の方向です。極角は 1 〜 180 の範囲の値とすることができ、180 の場合は完全な球になります。φ (ファイ) を方位角といいます。方位角は経度を表します。方位角はφ = atan(y/x) と定義できます

ディテクタ (極) オブジェクトには、NSC 光源から到達した光の強度データが保存されます。このディテクタ (極) の形状は球面ですが、角度の関数としたデータ分布は 2D で表示されます。この表示方法が混乱の原因となることがあります。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fforum.zemax.com%2F13998%2F
ディテクタに関する説明
ディテクタ (極) の形状は、オブジェクト座標の原点を中心とする球面の一部をフェーセットで近似したものです。
ディテクタ (極) では、次のような極座標を使用します。
θ (シータ) を極角といいます。極角は緯度 (高さ) を表します。極角の 0°は、オブジェクトのローカル Z 軸の方向です。極角は 1° 〜 180°の範囲の値とすることができ、180°の場合は完全な球になります。
φ (ファイ) を方位角といいます。方位角は経度を表します。方位角はφ = atan(y/x) と定義できます。0°は +X 軸の方向であり、そこから反時計方向に最大 360°まで増加します。方位角の上限は必ず 360°です。


421史実探偵: 平 素人:2020/03/30(月) 02:01:47
不条理の大因は !? = 答えの無い問いかけ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000426M.jpg

不条理の大因は、
       d = 0.π × D  にあり?   (平 素人)
       ?? (じし)                       (ひかりし)
  d = 磁子:破壊性粒子の直径  D = 光子: 生産性粒子の直径

Dが1の時、dはその1/10πであり、これは直径という実数とπという虚数が、あり得ないイコールでつながるということである。別の見方をすると、大球と小球の接触点は限りなく近づいていくということであり、それが“時間”である。

 その関係(不条理のπ空間-筆者命名)は;
直径D=1の球体4個が密着する空間に入る小球の最大直径dは、大球直径Dの 1/10×π である!?

 どなた様か、これを数学的に計算解明して頂けませんか^^?

但し、大直径Dの球体4個は互いに接着しようとする力が働いており、その中に入っている小球体dは、(同似集合の原理・作用 - 筆者命名)が働いて、自分と同じ性質を持つ小球体を求めようと “外部に出たがっている” ものとする^^!。 (my絶版報告書「巨大隕石と大津波」より、)

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-categor2y-0.html



422荊の紀氏:2020/03/30(月) 18:34:07
Re: 不条理の大因は !? = 答えの無い問いかけ
史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

不条理と理不尽の違い /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftrue-buddhism.com%2Fteachings%2Fabsurdity%2F
普通、不条理というと、単に世界に意味がないことのように思います。
実際に、哲学では、世界にも人生にも意味が見いだせません。
ところがカミュはもう少し深く考えて、「人間が心の底から狂おしいほど世界の意味を知りたいのに、世界に意味が見いだせない」ことを不条理と言っています。
…不条理を解消するには、本当の生きる意味を知って、「人間に生まれてよかった」という喜びの身になればいいのです。
理不尽…
「理不尽」という言葉は、物事の道理を「おかしい」と感じたときに使う言葉です。「理不尽」には「筋が通っていないこと」という意味があります。
人や企業などの考え方や対応に納得がいかず、その理由が「一般的に考えて筋道が通っていない」と感じたときに、「理不尽」という言葉が当てはまることが多いようです。
理は「筋道」、不は「〜しない」、尽は「終わる」という意味で、「筋道を終えられない」という意味があり、日常では「筋道が通らない」と解釈して使われています。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbiz.trans-suite.jp%2F19009
「理不尽」という言葉は、人や物事の言動ややり方に納得がいかず、不満を持つ状態を表す言葉です。「理不尽」を使えば、ネガティブな感情を一つひとつ言葉にすることなく、筋道に外れていることに憤りを感じている、という負の感情をコンパクトに表すことができます。ぜひこの機会に「理不尽」を語彙に含めて、筋道に合っていないと感じる人や物事を「理不尽」という言葉で表してみましょう。



> 不条理の大因は、
>        d = 0.π × D  にあり?   (平 素人)
>        ?? (じし)                       (ひかりし)
>   d = 磁子:破壊性粒子の直径  D = 光子: 生産性粒子の直径
>
> Dが1の時、dはその1/10πであり、これは直径という実数とπという虚数が、あり得ないイコールでつながるということである。別の見方をすると、大球と小球の接触点は限りなく近づいていくということであり、それが“時間”である。
>
>  その関係(不条理のπ空間-筆者命名)は;
> 直径D=1の球体4個が密着する空間に入る小球の最大直径dは、大球直径Dの 1/10×π である!?
>
>  どなた様か、これを数学的に計算解明して頂けませんか^^?
>
> 但し、大直径Dの球体4個は互いに接着しようとする力が働いており、その中に入っている小球体dは、(同似集合の原理・作用 - 筆者命名)が働いて、自分と同じ性質を持つ小球体を求めようと “外部に出たがっている” ものとする^^!。 (my絶版報告書「巨大隕石と大津波」より、)

423史実探偵: 平 素人:2020/04/10(金) 01:36:02
Re: 不条理の大因は !? = 答えの無い問いかけ
荊の紀氏さまへのお返事です。

 コメントありがとう御座います^^。
 キシ先生へご返答する時、大変戸惑うことがあります。そのご記事の「文」が先生ご自身の書かれたものか、それとも引用文なのか、或いは教示のための参考文なのか、それとも、時事のトピックスなのか、それとも他文をかりて御自分の意を述べていらっしゃるのか。余りにも先生の添え文がすくないために、その意を推しかねて “誰に(カミュ氏? キシ先生? ブロガー?)向かって” 返答すればいいのか、その相手が定まらなくて・・(^-~!)、

<わたしがいう不条理とは>
  うまく自身の中坊的思い (=中二症^^) が書ける自信はないのですが^^!
私が不条理として使っている「条理」とは「節理」に近いかも知れません。節理というと< 人間の思いを排した>「自然の摂理」という言葉があります。条理というと少し人間の思いも入るのでしょうか^^?
 わたしの考え方の根底には、「自然界は人間だけのために有るのではない」との思いがあります。そういった意味では、東洋的な『平等施一切』があたっているかも知れません。わたしの探求は、「現存する森羅万象」のすべてを肯定することから始めるように努めています。叶わないことではありますが努めるというのは、できるだけ多くを知り得て間違いの部分を少なくしたい思いからです。

 少し話が飛びますが、中学生の時、理科の先生が「1 + 1 = 2 ではないよ」と云われたことが有りました。アルコール1?と、水1?を足すと2?にはならないと云われました。忘れましたがどちらかの分子がどちらかの分子に入り込んで2?より少なくなるそうです^^。未だにこの思いをひきずっています^^!。

「1 + 1 = 2」は、2でしょうか? 否、違います。
「1」とは、学問上で人間が “定めた” 数であり、自然界には「1」という数字は実存しません。全ての物質は「時間という動きの中」にあります。例えば、この私が今日はけだるいから家の中から一日中出んことにしょうと思っても赤道上にあれば一日4万kmも移動しています。さらに地球は・・・^^。もし、1 + 1 が 2 であれば、そこで動きは止まり “自然界は閉じて” 今の認識すらなくなってしまいます。<「1」< なら存在しますが、それは「1」少なり、から「1」大なり、或いは、その反対もありますが、それらの移行点であり、それと言葉にした瞬間から「1」より、多くなったり小さくなったりしています。例えば、車に付属品を増していっても一台は一台。このわたしが息を吸った吐いたそれでも一人は一人^^!。それでは便利がわるいから、波動の頭の部分を「1」とか「2」とかに学問として決めてかかると「事」がうまくいきますよね^^!。
  1 + 1 の正解は 「1 + 1 ≒ 2」なのです。

このような思いの延長に、自然界には「答がない」数理があるのではないかと目を付けたのが「π」です。これは、スパコンの性能競争になっているのはご存知のとおりです。・・中略(絶版報告書)して、・・行きついたのが下の数式です。

   不条理の大因は、
          d = 0.π D  にあり?

 この数式は、一度は落胆して取り下げましたが、その思いを消し去ることが出来ず、再度掲げています。答案用紙に答えだけ書いて「式」が書いていない。解けないでは話にならない^^!。どこの試験官からもそれでは〇は頂けませんよね(笑い)。だから・・(^-^!)


> 「理不尽」という言葉は、人や物事の言動ややり方に納得がいかず、不満を持つ状態を表す言葉です。「理不尽」を使えば、ネガティブな感情を一つひとつ言葉にすることなく、筋道に外れていることに憤りを感じている、という負の感情をコンパクトに表すことができます。ぜひこの機会に「理不尽」を語彙に含めて、筋道に合っていないと感じる人や物事を「理不尽」という言葉で表してみましょう。


「理不尽」とは、きわめて人間的な言葉ですね^^!。他の生物には使わないですからね。私は、前述したように「理」という言葉が人間界の理なのか、自然界の理なのかを分けて考えるようにしています。私が、わたしの論をかたるように、先様方の論説を否定はしません。何故なら自然界には、必ず大流と亜流・傍流が用意されており、主流のみが正しいとは言い切れないからです。
 『大河の流れも、蟻の一穴から^^!』・・・ありがとう御座いました。□

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424管理人:2020/04/10(金) 00:07:31
今年も
会報、ようやく発行しました。2年分ですが、一部だけですが、平さんや、キシさんのアイデアも紹介掲載してあります。キシさんには明日発送しますが、また送料込みで2000円となりますが、本でほしい方いらしたらお知らせください・・・。

また、前回の会報で取り上げた惑星・素粒子物理系の話も、今年はもう少し発展させたいところですね・・・。

425史実探偵: 平 素人:2020/04/10(金) 21:51:37
「中二症的、A>B>C 問題」
管理人さまへのお返事です。
 コロナウイルス、大変なことになっています。北海道では、先手対策で第一波は押さえつつとはあるものの、第二波感染には予断が許されないとのことで心配です。

> 会報、ようやく発行しました。2年分ですが、一部だけですが、平さんや、キシさんのアイデアも紹介掲載してあります。キシさんには明日発送しますが、また送料込みで2000円となりますが、本でほしい方いらしたらお知らせください・・・。
>
> また、前回の会報で取り上げた惑星・素粒子物理系の話も、今年はもう少し発展させたいところですね・・・。

 会報の御出版、おめでとう御座います^^。また、拙論を紹介とのこと恐縮します。「歴史版」のほう、度に覗いてはいるのですが「方位学」。私には難しくて・・^^! 徐福がらみかとは思っているのですが、それ以前の三内丸山遺跡もレイラインのうちに有るとのことですので・・よけいに(^-^!) 「 前報の7号」も、関係するところを二度三度と読み返してはいるのですがレベルが高くて・・・^^!

「惑星・素粒子物理系の話」
もう一度、ひろげなおしてみます^^!。ところで、12/3/日? 「ABC予想」がニュースになりましたね。ノーベル賞、二・三個分の快挙とか^^?  とある数学の先生が中坊向けに「 e = m c二乗」を美しいとまで表現し、「数学者は数学でモノを考えない。数学は解析の方法だ」と云われたことを思い出します。・・・で、1+1=2 にあらず等というものだから・・・^^! 「理不尽を知りなさい」と云われました。あまり深読みし過ぎてもねえ「過ぎたるは及ばざるがごとし」(笑い)

 中坊の「中二症的、A>B>C 問題」
なぜ惑星に回転が生じるのか^^? を考えたことがあります。(ABC予想とは関係ありません)
A>B>C の互いに大きさの異なる球体が、AC>BC>AC の関係位置にあるとき、AとCは、直線的にぶつからず、Bの引力を受け Bよりにぶつかる。結果 Aに回転が生じる。今に思えば極々当たり前なはなしですよね^^!  あとで図をいれます^^!
  (絶版報告書 第三章 小惑星の衝突と合体より) 

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426管理人:2020/04/12(日) 01:18:10
コロナウイルス
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000431M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000431_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000431_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/コロナウイルス



427史実探偵: 平 素人:2020/04/12(日) 07:04:22
Re: コロナウイルス
管理人さまへのお返事です。

御多忙の中、さっそくのお返事ありがとうございます。そうですね、お会いできる日がくるといいですね^^。

>
> それで、ご指摘の惑星形成に際しての重力の問題がありましたね・・。
> 先ほどコロナウイルスの増殖の仕組みについて調べていて、似たような現象を見たような気がします。

 コロナウイルスの掲載図、一瞬、惑星衝突図かと見まがいました^^!。以前に先さまが上げられた「惑星衝突図」と、たいへん似てたものですから^^。先さまは、興味がわくと徹底的におしらべになるのですね。わたしには、あまりにも専門的でとても無理無理^^!。
世の中の具象、超極大から超極小まで異種間をとわずよく似ているものですねえ。「地球は生命体」隕石の衝突は食餌行動という学者がおられました・・・。

 ところで、昨日(4/11)の5時代のNHK? で「古墳番組」がありました。そのすべてを観たわけではないのですが、北日本部(?)にあった前方後方墳は平成調査。そのきっかけは土器の欠けらからとか。その復元には盗掘もなかったことで、その詳細と規模の大きさとドローンでの映像も圧巻。銅鏡も20枚以上(??)あったとか。古墳名、覚えてないのでゴメンナサイ^~!。

以前「魔鏡」と呼ばれるもので裏の図が鏡面に透け出るはなしは聞いてはいたのですが、銅鏡のレプリカで、実際に映像でみるのは初めてです。神秘的!!  鏡面加工のとき、裏の肉厚の違いが砥石圧に影響して鏡面に微小な凹凸ができるそうですね。これも初めて識りました。

はなしに根がつづかず、散文的になって大変申し訳ないのですが、
以前に管理人さまが「ぶらタモリ」で、東北、山形?秋田?の<タール油田>の話しをあげられていましたね。私も見ましたがとても "気に残って"います。その「標高」で6500万年前の巨大津波が運んだ生物体が釧路平原の “奥まったと所と河口海底” に眠っているのではと・・・^^。植物のほうは河口に流れ出て「釧路炭田」となっていますからね。これ 極秘ですよ(笑い)

ところで、ところで、「歴史版」のほうの訪問者数半減しましたねえ^~!。キシ先生のファンがなくなったのか、それともルーツさんとのバトルがなくなったのか、はたまた、いまの話題が難しいのかは分かりませんが、ちょっと寂しいです・・・。コロナの関係で講演のご依頼もキャンセル^^?? 「ピンチをチャンスに」という人がいます。自宅でパソコンをみる時間と人がおおくなっています・・・^^。

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428荊の紀氏:2020/04/12(日) 12:16:20
>北日本部(?)にあった前方後方墳は…
前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)は、古墳の墳形の一種であり、特に東日本の前期古墳に多く存在する。また、中国・四国地方にも多く存在し、中でも出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて築かれていた。その起源は、方形の墳丘墓への通路が変化し、突出部へと代わっていき成立したと推測されている。東日本の出現期古墳の多くは、前方後方墳であることが分かってきた。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
古墳時代…
日本の考古学上の時代区分。弥生時代に続く時代で、ほぼ三世紀中頃から六世紀末頃までをいう。国家としての統治形態が形成されつつある時代にあたる。古墳そのものは七世紀まで造られている。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
一般的な意味で古墳とよびうる墳墓は,世界各地において国家的統一の初期に出現している。日本では弥生時代につづく時代に,古墳の築造が盛行したので,その時代を古墳時代とよんでいる。そこであらためて,古墳という語は,世界中に通用する普通名詞であるのか,日本の古墳のみをさす固有名詞に近いものか,という問題が生じてくる。…

朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、当時の日本列島と朝鮮半島の政治的・経済的・文化的関係を表す事例として注目される。
朝鮮半島南部の前方後円形墳 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
…栄山江流域は日本列島と連続する地域ではないほか、一帯では列島からの大量移住の形跡もなく、各前方後円形墳自体も1世代のみで築造を終焉するため、このような列島系の墳形が築造された背景は依然詳らかでない。現在も、被葬者としては在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続くトピックになる。

支石墓…中東では、イラン高原やゴラン高原(現イスラエル)で支石墓が営まれたとされる。
インドには古代の巨石遺跡が約4000箇所ほどあるが、明確に支石墓と見られるものは、紀元前1000年頃の南インドに出現した。
その他、インドネシア・南アメリカ・北部アフリカに見られる。
東アジアの支石墓は、紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、その周辺(現在の中国吉林省付近)へ広まった。当初は、地上に支石を箱形に並べ、その上に天井石が載るというテーブル状形態を示しており、天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていた。中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に分布する。紀元前400年頃から次第に支石が低くなっていき碁盤式といわれ、朝鮮半島西側の中南部と北部九州に見られる。また、青銅器(銅剣など)の副葬も見られ始めた。
朝鮮半島では紀元前500年頃(無文土器時代)に見られ、遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。北方式と南方式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。 朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、2000年には高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された。朝鮮半島の南部には、支石の低いごばん状支石墓(南方式支石墓)があり、北部には支石が高い卓上支石墓(北方式支石墓)が分布している。
日本には縄文時代晩期の長崎県に出現しており(原山支石墓群や大野台支石墓群など)、同県のものに持徴的な屈葬や箱式石棺を伴うことなど、一定の独自性も認められる。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている。
朝鮮において水稲作が開始した無文土器時代に支石墓が現れることなどから、支石墓の担い手は日本列島、朝鮮半島へ水稲栽培をもたらした(ハプログループO1b2 (Y染色体))[3]と推定される。

日本最古最大の支石墓群はこの島原の山の上に眠っている。立て札には紀元前4世紀頃(繩文時代晩期)この支石墓を築造した「原山人」がいたと書かれている。
…縄文時代晩期終末には、支石墓と呼ばれる墓制が朝鮮半島から伝来しますが、縄文時代晩期中頃の礫石原遺跡はその直前の墓制の様相を示していると言えるでしょう。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fartworks-inter.net%2Febook%2F%3Fp%3D2894
…櫛目文土器文化(くしめもんどきぶんか)は、新石器時代のヨーロッパ北東部、現在のヨーロッパロシア北部とフィンランドを中心とする地域に広まった文化である。
簡単に言えば、北極に近いロシアとヨーロッパあたりがその文化の大元といえるようだ。
…縄文時代中期の三内丸山遺跡の事もあり、ロシアが東北地方に大きな影響力があったことは容易に推測される。

大安場古墳群(おおやすばこふんぐん)は、福島県郡山市田村町にある古墳時代前期後半頃の築造と推定される前方後方墳1基、円墳4基からなる古墳群。1号墳は東北地方最大の前方後方墳で、国の史跡に指定され、周辺は大安場史跡公園として整備されている。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
北緯37度21分25.61秒 東経140度23分58.32秒
1号墳は、阿武隈川流域では最大級の古墳であり、また前方後方墳としては東北地方全体で最大規模の古墳である。同じ福島県内でも、会津地方では前方後円墳が卓越しているのに対して、中通り地方に所在する本古墳は前方後方墳であり、前方後方墳をさかんに築造した下野国那須地方との関係がうかがえる。
築造時期は、出土遺物と築造方法などから、4世紀後半頃と推定される。
4世紀後半…
5世紀末東山道征圧・・・?
大和朝廷は4世紀後半「日本武尊」東征、5世紀初頭東海道、5世紀後半吉備(雄略)、5世紀末東山道、6世紀前半磐井の乱、6世紀末北陸道を征圧した! 武光誠『「古代日本」誕生の謎』「第2章」(その5)
Cf. 大和朝廷は4世紀初め320年代邪馬台国併合、4世紀中葉に出雲制圧、日本武尊東征後、5世紀初頭に東海道征圧、5世紀から大和朝廷の本拠が河内へ、5世紀後半に吉備服属(雄略天皇)、5世紀末東山道征圧、6世紀磐井の乱(527-8)の鎮圧後、北九州支配強化!6世紀末、ようやく北陸道征圧!
(1)-3 大和朝廷が北陸道を支配下に置いたのはようやく6世紀末(500年代末)だ!
…C 大和朝廷の勢力伸長を助けた有力豪族は、北陸道にいない。大和朝廷が北陸道を支配下に置いたのはようやく6世紀末(500年代末)だ。

3世紀末-4世紀初頭…
東北地方で最古に位置づけられうる古墳として知られる。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
杵ガ森古墳(きねがもりこふん)は、福島県河沼郡会津坂下町にある前方後円墳。宇内青津古墳群を構成する古墳の1つ。福島県指定史跡に指定されている。

縄文から弥生への移行が平和のうちに連続して行われたことを示している。…
…大和朝廷の支配下???
古墳時代call-you.sakura.ne.jp/CCP031.html
 AD300年代になると、会津板下町杵ゲ森古墳、会津若松市会津大塚山古墳、会津板下町亀ヶ森古墳など、会津全域に古墳が造られ、会津地方を支配した豪族が現れ、大和朝廷の支配下にあったと考えられています。


429管理人:2020/04/13(月) 15:45:47
掲示板の題名変更
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000434M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/魔鏡



430史実探偵: 平 素人:2020/04/15(水) 06:13:36
Re: 掲示板の題名変更
管理人さまへのお返事です。

古代化学掲示板・いいネーミングですね。気に入りました^^。
方墳・銅鏡について、ていねいな解説ありがとう御座います。勉強になります。

>
> > はなしに根がつづかず、散文的になって大変申し訳ないのですが、
> > 以前に管理人さまが「ぶらタモリ」で、東北、山形?秋田?の<タール油田>の話しをあげられていましたね。私も見ましたがとても "気に残って"います。その「標高」で6500万年前の巨大津波が運んだ生物体が釧路平原の “奥まったと所と河口海底” に眠っているのではと・・・^^。植物のほうは河口に流れ出て「釧路炭田」となっていますからね。これ 極秘ですよ(笑い)
>
> どうなんでしょうね・・・。そもそもどうして湿原になっているのですかな・・・。

津波(流体)というものは、似たようなものを分別し、それぞれのモノをそれぞれの場所に集め収めおく性質があります。これを知り得たのは中学生のときでした。洪水で流木が川面一面に広がって流れないでまとまって流れているのに不思議をおぼえました。以前にも上げたかと思いますが、津波の流れは上下流が逆なだけで、川の流れの上流域から河口域までの様相によく似ています。

釧路平原には早くから石油ありと睨んでいましたが、ここでの津波の高さ(標高)が推めていませんでした。北米の同緯度あたりのロッキーの山すそに油田があります。しかしながら北海道では情報量がすくなく、その高さが分かっていませんでした。・・で、それを(ぶらタモリ)で知ったわけです。釧路平原には北極からの逆流もあり、その絞込みはこれからになりますが、いまだ着手していません・・・^~!

「どうして湿原 ?」
新しい課題を頂きました。どうしてなんでしょうね? これから考えてみます・・・
ありがとう御座いました。□


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431荊の紀氏:2020/04/17(金) 10:33:54
ピラミッドと黄金比…
北緯33度13分41秒 東経131度07分59秒
正5角形の対角線はすべて互いに「黄金比で切断」している…
古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
(日本経済新聞より抜粋)
古代の方位測定法 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhayabusadandy.wixsite.com%2Fshimeha%2Fblank-3
…いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6〜8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10〜15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
 次に思いつくのは、北極星を測ることでしょう。現在の北極星(ポラリス=こぐま座α星)は真北にかなり近い位置にありますので、これを利用するのが真北の測定法としてはもっとも簡便です。実際、古代にも北極星で真北を求めたと主張する人がいます。
 ところが、北極星はずっと同じ位置にあったわけではありません。コマが首を振るように、地球の自転軸は約25,800年の周期で動いており(歳差さいさ運動)、現在の北極星が北の指標となったのは大航海時代(15世紀)以降といわれています。それ以前は、紀元前1,100年頃にコカブ(こぐま座β星)、紀元前2,800年頃にはトゥバン(りゅう座α星)が北極星の役割を果たしていました。しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。
 ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。日本へは、そうした書物や朝鮮半島からの渡来人をつうじて伝えられたのでしょう。…
【スタジア測量】《stadia》視距儀の接眼部にある2本の線が挟む標尺の目盛り数(長さ)と高度角を読み取り、標尺までの水平距離と比高を計算する測量法。
例えば問題 測量士補試験から<H17-4-A:問題>
アリダードによるスタジア法において、2点A、B間の距離を測定するためにA点に平板を整置し、B点に鉛直に立てた上下間隔2mの目標板を視準して、上方目標板の読定値十3.2、下方目標板の読定値−1.5の値を得た。2点A、B間の水平距離はいくらか。
 問題文を図に描くと次のようになる。…
アリダードの前視準板の目盛(分画)は、アリダード全長の1/100である。また、水平線を境にできる上下三角形が相似形であることを考えると、次の式により、水平距離Sを求めることができる。
100 : {+3.2 − (−1.5)}= S : 2m
∴?? 4.7S = 200m???? よって、S = 42.553m

測量のはじまり /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fuenishi.on.coocan.jp%2Fj032kodai.html
…古代には砂漠や草原の広大な地域を移動する遊牧民や隊商は道筋に石などを積み上げ道標としたり高い山などを目標としました。しかし地上の目標物のないところでは太陽の方角、日中の影の方位、夜は北極星などの天体によって進む方向を知りました。日本では草原や砂漠はなく狭い範囲で人々の移動も少なかったのですが、やはり周囲の特徴のある山や川などの地物を目印に移動していたと思われます。海上でも天体を利用し沿岸部では高い山や島を目標物として航行しました。このように人の移動にともなう目的地や自身の位置を知るために自然の地物や天体を利用するナビゲーションから「測量」がはじめられたと考えられます。
中国の「十八史略」によれば古代伝説上の帝王である黄帝の時代(紀元前2500頃か)に戦場で方向を定めるため「指南儀(車)」がつかわれたと記述されていますが、そのしくみは磁石を応用したのか、太陽などの天体を観測して決めたのかは不明です。しかし測量に専用の道具を用いられたのはこの例が初めてのようです。農耕や牧畜とともに定住生活が進展すると測量、地図、暦などが必要になってきます。たとえば中国では黄河の治水のため大規模な工事が行われ、同様に古代エジプトでもナイル川の治水、ピラミッドのような大規模工事が行われ当然、方位だけでなく数学や天文学を応用した高度な測量にもとづく土木工事が行われていたことがうかがえます。古代エジプトの測量の様子は壁画としても残存しています。1998年(平成10)にエジプトで発行された測量局発足100周年記念切手には紀元前1300年頃、ルクソールの西岸、貴人メナ(Menna)の墓の壁画が表され測量風景が描かれています。農地を背景として先頭は巻尺(ロープ)を延伸する測量師、ついで測量隊の権威を表わす柄の長い錫杖のような杖を持つ監督者、杖は河の氾濫で土中に埋没した標石を発掘する道具としてもつかわれたか、そのほか測量記録または地図の巻紙を持つ記録者などがわかります。このように農地の測量から面積を算出し、収穫を予想して課税にも活かしたことが想像できます。[Joel F. Paulson:Surveying in Ancient Egypt FIG Working Week Cairo 2005 p1−12]、[アルベルトシリオッティ・矢島文夫訳:王家の谷 河出書房新社 1998 p154]
地図についてはメソポタミアやヨーロッパ地域では紀元前に地図が描かれた粘土板や洞窟壁画が、エジプトでもパピルスの巻物などの地図が発見されていますが、どのような目的に利用されていたかわかりません。いずれにしても日本ではこの時代の測量や地図の遺跡はありません。
ギリシャ・ローマ時代になると数学や天文学が盛んになり三角法を利用したり地球の円周といった実測が困難な地物の大きさの算出も行われ実測量に想像を加味した世界図も作成されました。紀元前後には人々の移動も増加しローマ人は位置と距離を表す里程標も設置したようです。紀元前550年頃以降、ピタゴラスによる大地の球形説、ヘロドトスによるヨーロッパ・インド間の世界図、アルキメデスの地球周囲の算出、ヒッパルコスの三角法、エラストテネスの地球弧長測定、シーザーによるローマ帝国の地籍測量、また中国では秦の始皇帝時代に精密な地域図などの制作が行われています。紀元150年頃にはギリシャのプトレマイオス(Claudius Ptolemaeus 83年頃 〜168年頃)が世界図の作成をはじめ、三角法の利用、経度の表現などで地理学、測地学に業績を残しました。中国でも紀元後、漢の時代に天文学者の張衡(ちょうこう 78〜139、著作に天文書「霊憲」)が経緯度座標を地図に応用したり天文観測機器である水力渾天儀(こんてんぎ)の考案をしました。
日本では縄文、弥生時代には聖地にあたる弥盛地(いやしろち、祭祀場)の位置決定は夏至や冬至、春分や秋分の日の出や日の入の方位によったり北極星を基準にしたり、高い山や岬などを結んだ線上におかれたりしました。古代の祭祀場が方位にもとづき設置されている多数の事例が遺構に見られます。このなかには日本でのみ出土する銅鐸の埋蔵遺跡では銅鐸の「ひれ」の向く方位と直角の方位が冬至の日の入方向であったという事例もあります。中国との交流がすすむと山川や水流などの様子によって都城、住居、墳墓の位置を決める「風水思想」も導入されてきたようですから、これらの事例が現代でいう三角法や交会測量法などを応用した測量によって決められた遺跡であるとはいえません。なかには方位を意識せず設置された場合でも結果として偶然、方位との関係が緊密になってしまった事例もあるように思われます。[堀田総八郎:神々のメッセージ 中央アート出版社 1995 p21−85]、[森下年晃:星の巫(かんなぎ)リベルタ出版 2009 p140−147] 、[布施泰和:竹内文書と平安京の謎 成甲書房 2015 p16−23]
3〜4世紀になると墳墓や陵墓が築造され、いまも堺市に仁徳陵、羽曳野市には応神陵など巨大な古墳が残存しています。これらは築造の過程でかなり精密な測量が行われたことがうかがわれます。4〜5世紀には仏教の伝来とともに大陸の文化、技術も人材とともに渡来しました。農地、交通要路、用水路など測量や土木の技術が不可欠な構築物が遺跡となっています。古代朝鮮の百済からは秦氏(はたうじ)が渡来しています。現京都の山背国葛野郡太秦(うずまさ)を根拠にし多人数が各地に土着して治水、灌漑などの農業土木や養蚕、機織などの技術を普及しました。農業土木には当然、測量も含まれていたと思われます。
4世紀頃から大王(おおきみ)による支配と国家体制の整備とあいまって地方豪族の勢力範囲、いわゆる縄ばりを決める必要がでてきました。日本書紀によれば3、4世紀頃(成務天皇5年)のところでは
五年秋九月(ながつき)、諸國に令(のりごと)して、国郡(くにつきと)に造長(みやつこ)を立て、縣邑(あがた)に稲置(いなき)を置き、並びに楯矛(たてほこ)を賜ひて表(しるし)と爲(し)、山河を隔(さか)ひて國縣を分ち阡陌(たたきのみちよこさのみち)に随(まにま)、邑里(むら)を定め給ひき。 [武田祐吉編:訓読 日本書紀 臨川書店 1988 p173]

【測量技術の歴史】測量は紀元前3000年のエジプトから存在して ... /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.thg.co.jp%2Fdouyo%2Fshikaku%2Fsokuryoshiho%2Fsurveying-technique-history%2F

続・古代の直線測量の新事実(巨大古墳の謎に迫る) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsimomura-nobuo.blogspot.com%2F
…測量技術は国家機密だった? /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsimomura-nobuo.blogspot.com%2F2014%2F06%2Fblog-post_11.html
…古代の道が地形をほぼ無視して真っ直ぐに造ったのに対して、中世の道は微妙な地形を考慮したり、もとにあった道筋を利用したりして、造られたように思われます。
 つまり古代から中世へと、直線を測量する技術が引き継がれなかった可能性が考えられるのです。
古代人が日本中を測量しまくっていた事実 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsimomura-nobuo.blogspot.com%2F2014%2F05%2Fblog-post.html
さきたま古墳群に見る規則性
空中写真で見るさきたま古墳群 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsimomura-nobuo.blogspot.com%2F2013%2F11%2Fblog-post_15.html
 筑波郡衙(平沢官衙)の総柱の建物群の図面である。大雑把に見るとほぼ東西南北のラインに沿って建てられたのと、角度を持って何かの基準線に合わせて建てられたのに分かれる。
 角度を持った基準線を引いたのが、ピンクの直線だ。この角度は約17度で、真北から西に振れている。
 この角度が、飛山城址を起点に郡衙が一直線に並ぶラインの角度と一致している。
約16.5度の角度で真北真南ラインから斜めになっています。
巨大古墳には驚くべき事実が隠されていた
前方後円墳の形は丸い部分と台形状の部分を合わせたようになっています。この中で前方部の墳頂つまり台形状部分の高くなった場所の経度が、ほぼ正確に揃うものがあるのです。
国土地理院の地図に経度と緯度が表示されているので、それで確認してみましょう。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsimomura-nobuo.blogspot.com%2F2016%2F04%2Fblog-post.html

? 中国と日本の銅鐸(どうたく) 銅鐸(どうたく)も青銅器。 渦模様、黄金比、ジグザグ模様が見られるので、ニンギシュジッダ作。
宇宙の起源 4章(21) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fmotoharu567%2Fentry-12489743618.html
黄金比…
> 図5 加茂岩倉遺跡の同笵銅鐸・・・ 18度 36度 72度 108度?
>
> 18°,36°,54°,72°の三角比(sin cos)
> 2006年11月27日 - 360÷5=72度ということは各辺に3つずつある合計15個の円周角は全部36度. この円 周角が2つ集まる角が72度で,3つ集まる5角形の内角は108度となる. 5角形 対角線 BEと辺CDはそれを横切るCEが錯角の位置で36度になるので,平行 ... /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkurobe3463.blogspot.jp%2F2006%2F11%2Ftriangular-ratio-of-18-36-54-and-72-sin.html
> 「正5角形の対角線と辺の比」が有名な黄金比で,正5角形の対角線はすべて互いに「黄金比で切断」している.
18°,36°,54°,72°の三角比(sin cos) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.uja.jp%2F2006%2F11%2Ftriangular-ratio-of-18-36-54-and-72-sin.html

フィボナッチ数列との関係等,黄金比に は,他にも面白い性質が沢山ある.
黄金比について(1) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.rikou.ryukoku.ac.jp%2Fimages%2Fjournal66%2FRJ66-02.pdf

フィボナッチ数列 五角形の画像 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%25e3%2583%2595%25e3%2582%25a3%25e3%2583%259c%25e3%2583%258a%25e3%2583%2583%25e3%2583%2581%25e6%2595%25b0%25e5%2588%2597%2B%25e4%25ba%2594%25e8%25a7%2592%25e5%25bd%25a2%26qpvt%3D%25e3%2583%2595%25e3%2582%25a3%25e3%2583%259c%25e3%2583%258a%25e3%2583%2583%25e3%2583%2581%25e6%2595%25b0%25e5%2588%2597%25e3%2580%2580%25e3%2580%2580%25e3%2580%2580%25e4%25ba%2594%25e8%25a7%2592%25e5%25bd%25a2%26FORM%3DIGRE
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「天円地方(てんえんちほう)」… /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

天円地方(てんえんちほう)とは、天は円く、地は方形であるという古代中国の宇宙観である。 中華文化圏の建築物や装飾のモチーフとして用いられる。天が円で表されるゆえんは、星の運行が円運動で表されるためである ...

前方後円墳という形状の由来のひとつとして、天円地方(てんえんちほう)という思想が影響しているという説があります。 天円地方とは、古代中国の思想のひとつで、円形は丸い天をあらわし、方形は地を意味してるというものです。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.daremomiteinai.com%2Fentry%2F2018%2F06%2F21%2F235935
実際に多くの前方後円墳の墓所は後円部の頂上の設置されているそうです。亡くなった前代のリーダーを弔う次代のリーダーは、地である方形の支配者に、ということのようですね。
地である方形の支配者…
四大天使とは?
四大天使について、名前や役割、司る方位や色などをご紹介していきます /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkirari-media.net%2Fposts%2F6542

錐体の体積は「底面積×高さ÷3」。なぜ3で割る? /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1178514666

立体の三角錐 これら全部、間違いなのではないかと、直感でそんな気がしました。 円形も、八葉形もみんな想像の産物に過ぎないかもしれないなと、思ってしまいました。 その理由は、八咫鏡の名前を解読すると、分かってきます /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftacchan.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F03%2F19%2F003222

方格規矩四神鏡の鏡背面の文様は、古代中国人の、大地は方形(ほうけい)で天はそれをドームのように覆(おお)っているという、「天円地方(てんえんちほう)」の世界観(せかいかん)に基づいて、宇宙の構造を模式的(もしきてき)に表現したものです。具体的には、中央の鈕(ちゅう、紐〈ひも〉を通して持つための装置)のまわりの正方形の区画(方格)は大地、周縁(しゅうえん、鏡背面の縁〈ふち〉の厚みのある部分)は天穹(てんきゅう)、方格の四辺の中央から外へ突出(つきだ)したT字形は天を支える柱と梁(はり)、周縁から内側へ突出(とっしゅつ)した逆L字形とV字形は天をつなぎとめる装置、をそれぞれあらわしたと考えられるのです。そして、鈕と周縁の間にはさまざまな動物などが鋳出されていますが、そのうち、中心となるのは、青龍(せいりゅう)・白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく、鳳凰〈ほうおう〉のたぐい)・玄武(げんぶ、亀と蛇が絡〈から〉んだ像)です。四神(ししん)とよばれるこれらの霊獣(れいじゅう)は、天の東西南北を代表する星座を表現しています。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kyohaku.go.jp%2Fjp%2Fdictio%2Fkouko%2Fhoukaku.html

墓は『仏舎利塔を原型に江戸時代にできたといわれています。土台を2段に重ね、その上に棹(竿)石と呼ばれる縦長の石が載っています。石は上から「天(家庭円満)」「人(人望)」「地(財産維持)」を表しています。』だそうですから、元々が仏舎利塔、つまり世界樹がモデルということになります。
ならば、竿石はリンガであり、四角の土台はヨーニであって、リンガ・ヨーニです。でもって、墓の「天人地」は天上、中間世界、地下であって、リンガや崑崙山の概念と全く同じです。
瀬織津姫 & クンダリーニ…No.221https://ameblo.jp/8484yogi/entry-12189262055.html

五輪塔とは 読み方 ごりんとう 五輪塔とは、上から宝珠、半月、三角、丸、四角の五つの石を組み合わせた供養塔のことです。

円周率と黄金比cosmos.art.coocan.jp/sp/sp53.htm
円周率と黄金比を構成する式を示す。両者は10とも密接な関係を持っている。

【ピラミッドと数学】 - 円周率や黄金比の関係を紹介!
ピラミッドと円周率の関係
観光地として人気の高いエジプトのギザの三大ピラミッド。このピラミッドは数字と大きく関係しています。
ピラミッドには円周率を表わすπが隠されていると言われています。クフ王のピラミッドの一辺の長さをピラミッドの高さを半分に割ると、πの値に極近い数字が算出されます。古代のエジプト人は円周率のことを知っていたのでしょうか。
ピラミッドと黄金比
黄金比は黄金分割とも呼ばれ、古代ギリシャで発見されました。私たち人間にとって最も美しく安定した比率で、美しく見せるための基本的な条件とされています。
ピラミッドには、この黄金比が使われていると言われています。クフ王のピラミッドを例に挙げると、ピラミッドの高さと底辺の長さの比率がだいたい1:1.6になります。これは黄金比と呼べる特別な比率になります。
ピラミッドと地球 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.pyramid-trip.com%2Fmystery%2Fnumber.html
ピラミッドの大きさが地球の大きさと深い関わりがあると言われています。地球を東西と南北へ360度ずつ区切っていく地理度というもので見ると、クフ王のピラミッドの一辺がその地理度の1分の1/8と同じで、辺心距離はこの地理度の1分の1/10と同じになります。また、クフ王のピラミッドの高さが地球と太陽の一番近い距離の1/10億になります。
要は、大ピラミッドの高さを10億倍すると、地球から太陽までの距離の1億4700万キロになるということです。同じくピラミッドの高さを43200倍すると地球の半径になります。そして、ピラミッドの総重量の100兆倍が地球の重量と同じです。

ピラミッドの高さと底辺の長さの比率がだいたい1:1.6になります。これは黄金比と呼べる特別な比率…
黄金比…
 石柱のハンドバックの上下に、ジグザグの模様が見られる。
これと同じものはシリアの目の女神像や、紀元前2000年頃から日本と中国で見つかる銅鏡や銅鐸(どうたく)に見られる。
銅鏡や銅鐸(どうたく)には黄金比の曲線や渦模様が見られることから、これもニンギシュジッダによるもの。
…1つ上の銅鐸(どうたく)の画像の黄金比の渦模様の下に彫られている動物もイノシシで、つまりそれはニンギシュジッダのシンボルということ。

…銅鐸の姿を底辺の長さ・高さ・底辺と肩の長さ等を測定しギリシャ人の発見した黄金比 1.618 ( 0.618) を適用し て考察した。
古事記と銅鐸
古事記は銅鐸を記録している (2013/9) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsites.google.com%2Fsite%2Fkojikidotaku%2F
出雲風土記の記述から出雲の荒神谷遺跡(銅剣358本・銅矛16本・銅鐸6個の埋納)加茂岩倉遺跡(銅鐸39個埋納)を取り??巻まいて,延喜式神名帳の神社の中に多久社(鐸社)・宇智・宇治(打ち社)須美禰社(澄み音社)等と等ど呂ろ吉き社(轟き社)等銅鐸の?? 鳴る音を現した神社があることが分かった。
またこの神社に関連している神々の地名説話があり銅鐸の埋納地と出雲の神々が密接?? に結びついていることが分かった。従って出雲が銅鐸の母胎であることを新たに確認することが出来た。
…また加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸は6区袈裟襷文4個流水文9個で特に26個が4区袈裟襷文であり鐸身に3つの輪が刻まれている。
????既に明らかにしているように三輪の神には固有の神名がなく、大物主の名称は延喜式神名帳の大和城上郡に大神大物主神社が唯一つあるだけでありこの名称は古事記で初めて作られた太安万侶式名称と思われる。従って三輪の神は鐸身に3つの輪のある4区袈裟襷文銅鐸の愛称?? であったと考えられる。
????古事記には「海を光てらして依り来る神ありき。その神の言のりたまいしく、「よく我が前を治めば、吾能く共に相作り成さむ。若し然らずば国成り難がたけむ」??と言って御諸山に祭られたとあり、これは神ではなく祭器神であり小・中型銅鐸を示していると考えられる。
??従って大穴持命の時代は加茂岩倉遺跡?? から出土した流水文及び4区袈裟襷文の小型・中型銅鐸の製造された時期であったことが窺われる。
 … 終わりに銅鐸の姿を底辺の長さ・高さ・底辺と肩の長さ等を測定しギリシャ人の発見した黄金比1.618(0.618)を適用して考察した。
その結果日本の古代の人々も銅鐸の高さと科底辺の割合、底辺と銅鐸の肩の長さ及び頭部の円の直径の間に黄金比に近い値を見出していることが分かった。
これが銅鐸の素朴で美しい調和のとれた成形の簡単な根拠であり、古代の銅鐸製作者が無意識のうちに黄金比を感知していたことが分かる。
?? 同様に古墳の形と濠の形が銅鐸の頭部の形と縮図の上で重なるので、同様に黄金比的考察を行ったが古墳には黄金比の関係はなかった。
しかし銅鐸の縮図と古墳の縮図が重なり合うのは銅鐸の設計法を古墳の設計に利用していたのではないかと考えられる。

120.540571°…360°÷3=90°×4…
三垣(さんえん)とは、天球を天の北極を中心に3つの天区に分けた紫微垣・太微垣・天市垣の総称。またはその基準となった星座(古代中国では星官という)。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
紫微垣 - 中垣。北極星周囲の区画。
太微垣 - 上垣。北斗七星より南、星・張・翼・軫より北の区画。
天市垣 - 下垣。房・心・尾・箕・斗より北の区域。
星座としての三垣は、藩垣すなわち城壁の形を象ったもので、城門のある南北は開かれた形で左(東)の城壁と右(西)の城壁に分けられる。それぞれ囲っているのは、紫微が宮殿、太微が庭園、天市が市場とされる。
三垣を天球上の領域とするような考え方は『晋書』天文志の段階ではまだ見られない。その後、隋の丹元子作という星座詩『歩天歌』において北極を中心として星座が三垣に分類されている。以後、三垣二十八宿(三垣二十八舎とも)を天上世界の区域名として使うことが一般的となった。

謎の東経線…黄金分割線に存在した古代の日本ピラミッド! /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DkdSlWjSfaOM
地球上の有名な古代文明の場所がギザのピラミッドを起点として、黄金分割線上に存在する…。
ギザのピラミッド・ストーンヘンジ・
29° 58′ 45.03″ N, 31° 8′ 3.69″ E
十進数 29.979175, 31.134358

ストーンヘンジ(Stonehenge)
51° 10′ 44″ N, 1° 49′ 34″ W
十進数51.178889, -1.826111

ギザのピラミッドーストーンヘンジ
距離 3,429.958203?
方位角 319.832738°(40.16726°)

ギザのピラミッドーエルサレム
距離 502.505089?
方位角 80.373309°

40.16726°+ 80.373309°= 120.540571°


432管理人:2020/04/17(金) 22:58:32
西暦536年
ちょっと興味深い記事がありましたので、引用します。

/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fbatonz%2Fn%2Fnaeea8f9baee6

西暦536年の大噴火、気候変動をもたらしたのは、隕石落下だったと考えますが、この件についても再考したいところですね。

あと、平さんのおっしゃるお話は遠心分離機の原理ですね。

その津浪の蛇行が、周辺の地層に変化をもたらすとすると興味深いところです。

433史実探偵: 平 素人:2020/04/18(土) 04:48:35
Re: 西暦536年
https://note.com/batonz/n/naeea8f9baee6

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-categor2y-0.html




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