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古代科学史掲示板

390机上探偵: 平 素人:2020/02/22(土) 21:41:31
Re: 此処に銅鐸が眠っている
青面金剛さまへのお返事です。

 コメントありがとうございます。

> ☆ 加茂岩倉遺跡の駐車場からガイダンスへの遊歩道の脇には、水量の豊かな水が流れています。加茂岩倉遺跡の元地は、田んぼで、此処の水は鉄分が多く飲料には適さないものの、稲作には十分であります。つまり、加茂岩倉の地では、雨乞いは必要ないのです。斐伊川と赤川が合流する地で湧き水が豊富だからです。

 1700年前の昔に加茂岩倉周辺で水稲栽培をしていたとは思いませんが、仰るように水稲は意外と少しの山水でも栽培が可能なようです。水稲の発達拡散が何時頃か、その時の気候がどうだったか、又、海進、海退(沼地)等々の歴史は、私には分かりません。出雲、山陰地方では雨乞いの要は少ないと思いますが、瀬戸内のほうでは干天が多く溜池が多いのが特徴です。

<雨乞いに関係する地名>
松江市だったかな。<茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、出雲に雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。ちなみに、茶臼山は列島の山名のなかで一番多い山名と聞いたことがあります。そして<丸山・円山>がそれにつづき、 さらに<竜・龍がつく山名>を加えれば、雨乞いとはかぎりませんが何か厄災時があれば、慈雨や平癒を願った儀式が、そこであったと理解しています。島根半島には<竜山>の地名があります。

> ☆ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対称的な位置に有る、弥多仁神社周辺にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。

 弥多仁神社周辺で、銅鐸や銅剣・銅矛が予見予測して発見かればいいですね^^。

「銅鐸文化から、銅鏡文化への移行は何人も否定できず、その変換点に魏からの銅鏡100枚があり卑弥呼がいる!!」 myブログ「この指とまれ」より、
 

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html




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