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古代科学史掲示板
399
:
史実探偵: 平 素人
:2020/02/28(金) 21:33:33
Re: 荒神谷ー奥坂岩屋寺金堂裏斜面ー松帆銅鐸…ライン?
荊の紀氏先生へお返事です。情報ありがとうございます。
出雲荒神谷ー出雲岩屋寺金堂ー淡路・松帆銅鐸ラインがあるのですね。
>淡路と出雲が共通の工人集団や銅鐸の流通で広域につながっていたことも明確になった。
わたしは、銅鐸の拡散について、つぎのような考えを持っています。
銅鐸が荒神を呼び寄せ、乗り移させる媒体だとは、先にもうしあげました。銅鐸の拡散は徐福達が、童男童女3000人かその児たちを含む3000人かは分かりませんが「不老不死の仙薬」を探しに列島に渡来しました。その船団がヨーイドンと横一列に出発するわけではなく、徐福を旗艦として、例えばの話しですが、60人乗りとしても50艘となり、それ以下だったらもっともっと艘数は増えます。徐福達の陣容を見ると、操船に苦手なだろう百工・子供・婦人も含んでいます。武人ならまだしも、操船できる人達の数は制限されてきます。
その推力の弱い分船団が海流の速い津島海流を横切るわけですから、千々に流され海の藻屑となり、これも例え数ですが半分の1500人が漂着したとしましょうか。徐福の乗っている船は旗艦ですから、当然、屈強な男たちが乗っていますから、列島の一番西に着岸します。それを出雲としておきましょう。以下、分断しながら流されて、石川、富山、新潟、・・・とします。この人達は生活に落ち着きができると、必ず西進して合流しながら、徐福のもとへ集合します。このことは結果的に幸いして、米大陸西部へと宿場街がなったように一日あたりの航路のところに船着き場所がなってきます。この意味において日本海側の文明遺跡が先んじて発達していったと云われるのが頷けます。この詳しくはDr.いずも氏>
とmyブログで・・・^^!
集合したこの人達は「再開を歓び酒を酌み交わした」との神話になったのかな^^? 徐福はそれぞれの情報をもとに再編し、出雲を本社とし、それぞれを支所として薬石の蒐集にあたらせました。有益な情報があれば、徐福みずからも出張ったとは別紙でのべました。このような経過をへて、だんだんと航路・徒道のインフラが整備されていきます。
徐福は「年一に出雲へ集まること」を指示した。ここで、管理人さまや、キシ先生がいわれる、高度な方位測量術が役にたってきます。つまり、やみくもに列島を探索するのではなく、一定のきまりによって往来すれば、新しい人に伝える場合でもより易く動けるからです。その目印として△姿の山や既存の集落を選びました。この時大事なことは、列島住民がすでに付けている山名や地名を利用しました。そのほうが道に迷った場合でも住民に聞くことができるからです。東北地方は人口密度が少なかったのでしょうか。徐福たちが付けたと思われる数字のつく地名が目立ちます。
徐福は、中国本土へとりあえず蒐集した珍宝を中国の正月(着に)間にあうように10月の神無月に集まるように指示しました。出雲大社への神門で地方から寄った人たちは泊り会い人数が集まってから年末会議と次年度の活動方針やらを合議しました。集めた物品は出雲から沿岸航路沿いに西進し、唐津港から大陸へと出帆したと思われます。この場合長崎の方が大陸に近いのですが、旅行きの準備やら食料の調達は、平地の広い北九州のほうがだんぜん有利です。
<銅鐸の拡散が最後になりましたが>
「不老不死の薬石探し」は、その情報や住まいや、船の建造修理等々に人手もいることだし、住民と事を構えて争いをするより、加治(治療)をして、その人たちの力を借りるほうがだんぜん有利です。なかでも部族の長たちが欲しがる銅製品(銅鐸)との交換にそれ等を得たことは容易に考えられます。列島人は、銅製品(銅鐸)を受け取りに随行します。銅製品の制作は、出雲半島の<別所>市内の<別所>でしたと前述しています。
各郡(こおり)の大夫(イタコ・シャーマン)さん達は、より立派な銅鐸が欲しくなってゆくのが当然のなりゆき^^。最も立派なものは野洲にあったかな。徐福たちの根幹は、その薬石にあるのは前述したとおりですが、始皇帝や、徐福や、それを知る人も亡くなり、その<縛り>も、時と共に薄れていったと思います。そして、徐福達がなした足取りは、航路を主幹に内陸へのインフラが進んだことにより、銅鐸は<商取引の交換品>として拡散していったのではないでしょうか。
「徐福は列島支配」とみるのが史学のおおかたですが、筆者はそうは思いません。「徐福は広澤(広い沢)の王となり帰らなかった」というのは、大陸の人がやっかみを含めて云う言葉であり、支配者ならば顕示欲が強いので「俺は除福だ」と云ってもいいはずなのに、日本の史書にはそれがありません^^! しょせん「不老不死の薬石」などあろうはずもなく、始皇帝が亡きあとも、大資を受けたてまえ、おめおめと帰ろうものなら人々に何を云われる分からない。それよりなにより、徐福は、火を噴く山ありの列島に神秘性を感じ『その薬、必ずあり』として、列島のどこかで果てたのではないのでしょうか。その「片道切符をもって!!」
このように考えると、淡路島の出雲と同じ鋳型の銅鐸の件や、まとめて埋められた銅鐸の大小や年代が異なることも解けるのではないでしょうか。蛇足ながら、この話は卑弥呼より、約400年も前の古墳代や神話代より前の話しですから念のため(^-^!)
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-categor2y-0.html
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