したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

古代科学史掲示板

378青面金剛:2020/02/15(土) 10:11:50
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 出雲の「仏教山」、吉備の「経山」、神戸に荒神山と大月荒神谷、野洲に三上山と「妙光寺山」があります。これ等の山は大量の銅鐸の出土地から<二山越えの三山の前>あたりにあります。そして、不思議なことに、直線、曲線(徒道)を問わなければ、ほぼ3km〜4kmであり。すなわち<1里 = 1離>ほど離れた場所にあります。
>  何故に仏教に由来する山名がついているのか、今だに解りませんが、四ヶ所の内三ヶ所までが<二山越えて一里離れた所>にあるのか不思議でなりませんでした。特に出雲の「仏教山」と吉備の「経山」は酷似しています。
> 出雲の仏教山を、「カンナビ山に否定する」がありますが、私は、カンナビ山の山姿は、ブログ「いずものこころ」で、その山頂は「丸くてなだらかな形をしている」と得ていたので剣山型の仏教山がカンナビ山であれば、その考えを変えなければなりません。出雲にカンナビ山は四山あり、その囲まれた中に宍道湖・中海があり、「四方の風を呼び八方の雨雲を呼び寄せ中海に慈雨を!」とも得ていました。
>  「仏教山 = カンナビ山(?)」から、妄想した^^!)のですが、仏教系の山名のまえに何か、ほかの山名(通称は何?)が付いていたのではないかと疑るようになりました^^?。
> その地元には史学で云われない「言い伝えやいわれ」があり、それ抜きでその地の歴史を論じてはならないと強く教示されています。『地元のことは地元にきけ!』

☆ 『出雲の仏教山を、「カンナビ山に比定する」』元は『神の山』『神奈備山』と呼ばれ、後の征服側が、出雲での神奈備信仰を隠蔽させるために仏経山と呼び名を変えてしまいました


> 伊奈西波岐神社に奥の院あり(勾玉・銅戈を打付けて竜の首根っこの縛り付け場所)が判明。
> タクシー運転手も避けるから(猪の目峠に隠された坑道・天岩戸あり)を確信した。

> 加茂岩倉遺跡ガイダンス <大量の銅鐸の埋めてあった場所は、>
> 狭く長い谷の最奥部である。そして奥の南側に張り出した丘陵の南東斜面に埋められていた。銅鐸出土地からの眺望はあまりよくない。
> 『狭く長い谷の最奥部南東斜面に(吉備では東向き斜面)、銅鐸出土地からの眺望はあまりよくない』多少の違いはありますが、筆者が23個の銅鐸ありと推定した岩屋の金堂の裏斜面に酷似しています。厳密にいえば金堂裏の上方斜面には南北50〜60歩の均地(なるち)があり、ここで封印のための祈祷儀式がされたと推みました。
> 『眺望はあまりよくない』が、その谷の先にある山と山との谷あいに1700年前の冬至の太陽が昇り旭光が射しこむ位置にその銅鐸が埋められていたのであれば最高ですよね。尚、その所に、光道(こうど)に類する地名や、いわれ・言い伝え、そして射り矢、入谷(いりや)に関する歴史があれば、「総社市奥坂岩屋に大量の銅鐸があり」は確定します。

☆ 『海風想』のHPに加茂岩倉遺跡の地形図に方位が示されてますが、加茂岩倉遺跡ガイダンスの建物と平行した、南南東向きの斜面に在り、「冬至の太陽が昇り旭光が射しこむ」のは、日の出からだいぶ時間が経過した、太陽の角度が可成り高く成らないと無理です。

『海風想』加茂岩倉遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fizumo-3-kamoiwakura.html


> 「加茂岩倉」の地名の由来はなんですか?? どこにその『岩はあるのですか?』総社市岩屋に鬼の差上げ岩と呼ばれている巨岩があるのはもちろんですが、その旭光を止める屏風岩や、山頂に重しの役目とみる大きな露岩があれば、加茂岩倉と総社市岩屋には大量の銅鐸を寝かせて(伏せて)埋めるという共通の文化があります。

☆ 同じページの下方に加茂岩倉遺跡の第一駐車場から見る岩倉の写真が有ります。また、加茂岩倉遺跡の北北東の約400メートルのに「矢櫃神社跡」があり、その奥側斜面には食いつくように大きな岩が座している。この大岩も、「磐座(いわくら)」として古くから祭祀が行われた場所であるといえる。
 うんなん旅ネット 加茂岩倉遺跡 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.unnan-kankou.jp%2Fcontents%2Fspot%2F274

☆ 『海風想』の磐富一馬氏は、同じページの更に下方で、加茂岩倉遺跡のガイダンス(資料館)に掲示されている航空写真を基に、『出雲タケルの姿』を示しています。

              西谷墳丘墓群(頭)

                            荒神谷遺跡(左腕)

         加茂岩倉遺跡(剣を腰に付ける位置)



  夜都米佐須伊豆毛多祁流賀波祁流多知都豆良佐波麻岐佐味那志爾阿波禮

 「出雲タケルさまが身につけていらっしゃる太刀。
    つる草のごとくたくさん巻き付けて、その身だしなみに感動する」(磐富一馬氏の口語訳)
  『海風想』  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fizumo-3-kamoiwakura.html

☆ 磐富一馬氏の説に補足するならば、右足の場所には、武内宿祢の墓が有る『神原神社』、
左足には『佐為神社(さいじんじゃ)』、右腕には『草枕山(酔ったオロチが枕に眠った山)』


               西谷墳丘墓群(頭)

   草枕山(右腕)                    荒神谷遺跡(左腕)

         加茂岩倉遺跡(剣を腰に付ける位置)


    神原神社(右足)                  佐為神社(左足)


☆ これが平さんの先祖からの伝承である「命主社と同じ様に『大の字』に埋めた」の意味では無いでしょうか。

☆ 日御碕での太陽信仰を、太陽の運行(冬至・春分・夏至・秋分)を基に分析した論文は、既出ですが、日の出日の入りの角度は、下記のブログで、

 蘇える出雲王朝  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyomiagaeru.exblog.jp%2F27467502%2F


 日御碕神社 海底遺跡
「日御碕神社の宮司さんから、経島で行われている夕日の神事が、昔は沖にある「タイワ」の瀬で行われていたという言い伝えを聞いたそうである。もし、経島ではなく、その海底遺跡で神事が行われていたのなら、夏至の沈む方位線もまた別のところに向かって引かれることになる。」


☆ 鯉喰神社は卑弥呼の墳丘墓の上に建てられて居る様ですが、足守川を挟んだ東岸が「加茂」の地で、上賀茂神社と賀茂神社が有ります。
 加茂氏は、祭祀を毎日司る役目ですので、祭祀の場に近い場所に住まねば成りません。片道3時間も掛けるのは、王家の方々が行事の時に、歩いて行ける距離です。
 吉備中央町の岩倉山の周辺には、加茂、賀茂の地名が残る事から、直ぐ近くに賀茂氏が住んでいた事が伺えます。

☆ 磐富一馬氏の『海風想』では、屏風折れの石垣は、太陽信仰の祭祀場と推察しています。

「石垣の上は大きな建物を造れるほどの広さは無く、幅は大股歩数で約10歩程度しかありません。
  方位を測ってみますと、舌状の突き出し方向は真東です。そうすると、この舌状に突き出した石垣の上から突き出し方向を見ますと、日の出地点は突き出しを中心に置いて右に左に日を振ります。
 すなわち、この高石垣は日の出を観測して農業の時期を知る、太陽信仰の祭祀場だったのではないでしょうか。どうりで豪華です。」

   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fkougoisi-kinojyou-1.html




新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板