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古代科学史掲示板

414史実探偵: 平 素人:2020/03/14(土) 02:53:16
Re: 「埋めるという行為」の意…『分水嶺』とは何かを知っていますか?
吾亞風(何と読むのですか^^?)さまへ、
 数々の情報 &ご教示ありがとう御座いました。大変勉強になります。
 このような説明を上げないから<専門家>には伝わらないのですね^^1

 銅鐸を「埋めるという行為」についての説には色々とあるようですが、
 わたし素人は、まとめて埋めるは別として「土中、一時保管説」を支持しています。

<大事変のシナリオ>
 今から4千年前地球を半周した巨大隕石が東北に降臨しました。その時発生した大地震・津波・直後の爆雨・雷、等々、の天変地変は、今の私達が想像すら出来ないものでした。巨大隕石の衝撃はその規模にもよりますが、私達が知り得ている地震や津波の比ではありません。なぜなら、地殻内で起きる地震に対し、その地表を叩くエネルギーの絶対量が表層地震に変るからです。即ち『力は抵抗の弱い方へより強く作用する』からです。
その時を想像しますと、高層建築のない当時ですが、揺れるとか倒れるとかの表現ではなく“豆粒やゴマ粒がハゼル如く”であったと思います。列島の住人は、多少の地域差はありますが、お互いが離れていてもこの大事変を共通の<荒神>と認識するようになりました。大陸や西洋では “この大事変、東洋にあり!” として後々の探索航海に出でていることは皆さまの知るところです。

 列島では、その荒神を災いと慈雨の両方をもたらす神として定着しました。列島住人は大陸からの銅器・赤色(あか)から毒性をもつ緑青(アオ)に変色する銅鐸に発展させ、その銅鐸に、その荒神様を呼び寄せ、慈雨や災いの鎮静化をおねがいしたと前述しています。そして、その大事変の発生源が東北であったことから、“西方へ行く”地震や津波をみて、「西方浄土」の考えが生まれました。ちなみに、大陸では東方に「神仙思想」、半島の「東方神起」の考えがあるのは皆さまの識るところです。

<銅鐸を単体で埋める場合>
> 集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める−埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。…

 このような荒神様ですから、その扱いには注意を要する。「困ったときの神頼み^^!」呼び寄せた時以外は帰っていただく。銅鐸、以外のどこかしこに取り憑いては困る。そして、その銅鐸も、地中や、裏山の人目に付かない所に一時的に隠しておこかとなった。(笑い)そんなとこに隠してもねえ^^! 地中に埋めるのは深く埋めたのでは再度取り出しにくいし、浅く埋めたのでは見つかりやすい。のでので・・「四尺=死尺」にしとこかとなった。これはスコップで掘り進めて肩までの高さであり、それ以上深く掘ると顔に土がかかります^^!。よっぽど怖いことがあったのでしょうか。その倍の深さに埋めたが「未だ、その声鳴りやまず!」という文面をみたことがあります。今でも、地方によっては、この銅鐸は、"五色の??御幣??"に変り、貴方さまの住む "里山" の目のつかないところへ隠されているかもよ^^?

「歴史会」の会合で講師の先生が「その銅鐸を見つけるのが私の夢です」と仰っていましたが(^-^?) ヒントは、『雨乞い文化』のある所で「悪ヶ谷」とか、荒神谷とか、西谷、(さいたに・才谷、晒谷)、奥谷、黒谷、とかの暗いイメージの地名から始めるといいかもですね。
 「ここ掘れワンワン!!」がわたしの得意分野です^^!。
  ・・っていうか、それ以外はありません^^! Give me a job^^.(史実探偵局より)

> 悪ヶ谷銅鐸の実物は東京国立博物館に展示されている。谷奥の支谷−才四郎谷では、89年に銅鐸研究家の羽間義夫さんが金属探知器で銅鐸を発見している。・・「谷奥・才四」

<銅鐸をまとめて埋める場合>
これは、「その銅鐸、二度と使わじ!!」として、封印している。と前述しているので省略します。こちらの方は、「出雲に習えばいい^-^♪」

<分水嶺と分水界の問題に思うこと>
わたしの知るところでは、長野県だったかな?「この〇〇峠は、日本海と太平洋へ流れるかの分岐点です」といわれたわりに"平な感じ"がしたのが思い出されます。拙「報告書」では、岩手県だったかな、水界峠。出雲平野では、神戸川と蛇砂川。ここは高低差が少なく、地図だけでは分水界は分かりませんでした。吉備では、高梁川分と東の足守川分の分かれ目に吉備津神社があり、松林が植えられ「境」の地名が残っていました。又、出雲半島の鷺峠の坪背山への山道に「灌流標」があつたのが気になっています。ここは、北の日本海側と南の大社側への分水嶺となっていますから、何か雨水に関係するお祈りごとがあったかと思案中です。このように、分水嶺を境に、或いはそれを模した亀の甲羅の右左に自分達の住む里の方にその雨欲しやの占いやお願いの歴史があったのではないでしょうか。

 今ではダム不要論まで出るさまですが、極々、近時まで、干天には悩まされて来ました。水争いの詳しくは知りませんが、水稲栽培への移行につれ雨水の必要性は死活問題であったと容易に考え知ることが出来ます。今でも水利権は小さな小川や小溝にいたるまで不文律があり、その管理と利権はくわしく定められているようです。曲がりくねった小川でも田地整理で区画されていない所をみかけます。特に川底の高低改修は簡単に変えることはできないのかな?? 昨今は宅地造成で地上げをすることが多いのですが、私は、その川底をみて、かつての海からの高さを想像しています。特に、出雲平野の「蛇砂川」は、周りがきれいに区画整理されているのに「くねくね」と曲がっているのには異様感を覚えました。

 <蛇砂川> ⇒ <砂川> の誤りでした^^!訂正してお詫びいたします。
又、神戸川は、斐伊川の放水路で繋がれてはいますが別水系のようです。
そして、現在は<砂川>は名のみが残っており川は流れていません。砂川の地名は出雲平野のほぼ中央にあり、北の新川と南の五右衛門川にはさまれて、かつての川に民家だけがくねくねと曲がって建っています。斐伊川町併川(あいかわ)の地名がありますから神立あたりで斐伊川の分流として流れていたが、水田整備のために北の新川と南の五右衛門川が新設されて、今は宅地化し<砂川>の川名だけが残ったようです。済みませんでした。ちなみに、総社市の鬼ノ城から流れ出る川が<砂川>でした。

≪ > 鏡… ≫
> 鏡山 (北海道) - 北海道北斗市にある。標高330m。
> 鏡山 (山形県) - 山形県村山市と最上郡大蔵村の境にある。標高1097m。
> 鏡山 (福島県・新潟県) - 福島県耶麻郡西会津町と新潟県東蒲原郡阿賀町の境にある。標高1339m。
> 鏡山 (岐阜県) - 岐阜県揖斐郡揖斐川町にある。標高1086m。
> 鏡山 (滋賀県) - 滋賀県蒲生郡竜王町と野洲市の境にある。標高385m。
> 鏡山 (島根県) - 島根県浜田市にある。標高69m。
> 鏡山 (福山市) - 広島県福山市にある。標高150m。
> 鏡山 (東広島市) - 広島県東広島市にある。標高335m。周辺は鏡山公園になっている。
> 鏡山 (愛媛県) - 愛媛県今治市の大三島にある。標高212m。
> 鏡山 (佐賀県) - 佐賀県唐津市にある山。
> 鏡山 (小城市) - 佐賀県小城市にある。標高134m。
> 鏡山 (人吉市) - 熊本県人吉市にある。標高590m。
> 鏡山 (熊本県・宮崎県) - 熊本県上益城郡山都町と宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町の境にある。標高917m。
> 鏡山 (芦北町) - 熊本県葦北郡芦北町にある。標高730m。
> 鏡山 (球磨村) - 熊本県球磨郡球磨村にある。標高551m。
> 鏡山 (玖珠町) - 大分県玖珠郡玖珠町にある。標高675m。
> 鏡山 (宮崎県) - 宮崎県延岡市にある。標高645m。

> その他あり、等々

「鏡山」の存在は全く知りませんでした。
これを<同一文化圏>とみると圧巻ですね。ご調査のご苦労に感謝します。
徐福隊の考えをくむ人達が関係したかとうかがい知ることが出来ますが、北海道にまであるのは驚きです。登るのに手ごろな場所と高さがいいですね。大字名をみると比較的時代がさがったような感じがします。なにはともあれ、「鏡山」という単純地名の統一は「誰が?」「どように」広げていったかの具体性が最大の謎です。

>  地元の伝承によると、鏡山という名前は、かれが渡来したときに持参した、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種の神宝のひとつである鏡を山中に埋めたことに由来するという。

「鏡を山中に埋めた」のですかぁ。古墳に埋めたのなら分るのですが、山にねぇ???
銅鏡を埋めれば錆びて使えなくなるし、簡単に盗掘される^^! そして、一つの山に一つづつとは思えず測量目的なら携帯して移動した方が良いようにも思えます。又、朝夕の斜光時の申し合わせが要ります。しかし、現存する「鏡山名の分布」は、否定できないのが難しい問題です!! 鏡山の名が定着するには、住民にかなりのインパクトを与えたか、継続して使用していたかの要件がいります。何か、それに関係する伝承は残っていないのでしょうか??

>  実際に鏡山に登ってみると、正面に野洲町の三上山が見える。
>  三上山は近江富士の名のとおり、美しいピラミット型の稜線をもつ。古代から信仰の対象とされていて、山頂には奥津磐座、麓には天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある。
>
> さらにおもしろいのは、邪馬台国三上山説というのがある。
> その根拠となったのが滋賀県守屋市伊勢町で発掘された『伊勢遺跡』。守屋市の教育委員会は、伊勢遺跡がつくられたのは1世紀末〜2世紀末。建物跡の調査の結果、国内最大規模の大型竪穴建物であることから、有力者の住まいであった可能性が高いと発表しているんだよね。それも集落の形状からいって、住居というよりも大規模な祭祀場であった可能性も高いとのこと。この伊勢遺跡から東に3キロほどいったところに三上山がある。

 滋賀県に「伊勢」という地名があるのは知っていましたが、興味がありながらも「何故?」かが分かりません出でした。北海道なら、「伊勢の衆とか、〇〇から移住した人達が」住んでいたところと解することが出来るのですが・・、お伊勢さまには飛び地の行政区があります。出雲には熊野神社がありました。大分には「小京都」があるのは先様方の知るところです。このような飛び地の歴史と、それに至ったいきさつを考えるのも楽しいですね。ありがとう御座いました。□

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