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古代科学史掲示板
413
:
吾亞風
:2020/03/12(木) 11:12:20
「埋めるという行為」の意…『分水嶺』とは何かを知っていますか?
土圭:…時打ち装置をもつこの時代の時計は自鳴鐘と呼ばれた。時辰儀,土圭なども時計の古い呼名である。
「厓ガイ」 <がけ・地のはて>
解字 「厂(がけ)+圭ケイ(土のかさなり)」 の会意形声。土が重なって層になっている所が露出しているガケ。のち、山をつけて崖、水をつけて涯の字に分化した。また、切り立ったガケは地の果てと考えられた。
意味 (1)がけ。(=崖) (2)きし(岸)。みずぎわ。(=涯) (3)果て。かぎり。(=涯)
イメージ 「がけ」 (崖・涯)
地の 「はて」 (睚)
みずぎわ。(=涯)… 銅鐸…
圭(かどだつ)…
「圭璋ケイショウ」(儀式用の貴重な玉器)
畦 ケイ・あぜ 田部
解字 「田(耕地)+圭(かどだつ)」の会意形声。耕地を区切る角立ったあぜ。
窪 ワ・ア・くぼむ 穴部
解字 「穴(あな)+氵(水)+圭(ワ)」の形声。水がわくくぼんだ穴をいい、圭(ワ)は発音をあらわす。
穴(あな)…埋める…甦り…くぼみ…
大理石に4分の1球面のくぼみをあけ、この球面に沿って、上方から放射状に目盛り線を引く。中心角で15度間隔で目盛りを引くと指針の影は太陽の時角の変化に伴い、1時間ごとにこの目盛り線を通過する。これが古代の日時計である。
日土圭(ひどけい) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
太陽の日周運動を利用し、太陽の時角の推移から時刻を定める器械。太陽は24時間で全円周360度の回転を繰り返すので、1時間当りの時角の変化は15度である。
集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める−埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。…
恩智銅鐸出土地−大阪府八尾市
3/9八尾市の恩智銅鐸の出土地を訪れた。
AM中、八尾市歴史民俗資料館で跡部銅鐸と恩智都塚山の銅鐸を見て、PM、現地へ向かう。恩智の銅鐸出土地は生駒山系から舌状に突き出した小丘陵−垣内山で標高は97〜123m(写真1/写 真中央の家の背後が出土地)。現在安養寺の毘沙門堂背後の97mピークに「銅鐸出土之山」の石碑(写真2)が立っているが、ここは出土地ではない。1921年(大正10)の出土地点は安養寺の背後−垣内山の北側斜面とされる。
梅原末治『銅鐸の研究』によれば、「山の尾の北西端に大師堂がある。堂から東へ13間(25m)で山腹の上部に山崩れのある部分に達するが、それが鐸の発見地点なのである」と書かれている。現在、大師堂(標高約80m)の東へ小径が続いているが山崩れの痕跡は既にない(写真3)。小径は垣内山の北側の谷奥まで伸びて、谷奥には井戸がある。恩 智垣内山では、1949年(昭和24)にも銅鐸が発見されている。こちらは都塚山銅鐸と呼ばれているが、大正の出土地点と同じ丘陵の尾根続きの123mピーク(ここが都塚山か?)から少し北に下った地点らしい。正確な地点は今回確かめられなかったが、垣内山の北側の谷を東へ40m程登った地点に当たる。恩智の銅鐸出土地は、同じ丘陵の少し離れた地点から銅鐸が出土した「近接埋納」の事例として注目される。垣内山には発見されずまだ眠っている銅鐸があるかもしれない。
近鉄恩智駅への帰りに「天王の杜」に寄った。ここは弥生中期を中心とする恩智遺跡のあった場所で、銅鐸発見当初から銅鐸埋納と関連がある集落と推定されている。確かに天王の杜から垣内山を見ると、生駒山系をバックに垣内山が三角形の形で浮かび上がって見える。集落と垣内山の距離は約500m。天王の杜から見て気づいたのだが、銅鐸の埋納地点そのものは集落からはちょうど山の影になり見えない。銅鐸埋納地点は眺望がよくない場所−眺望がよい山であるにもかかわらず、あえてよくない地点を選んで埋めている−ことが多いが、恩智の場合、さらに集落から見えない場所という理解ができる。集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める−埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdoutaku.cocolog-nifty.com%2Fblog%2Fcat15615189%2Findex.html
…「こんなところで?」という感じの場所だった。…
悪ヶ谷銅鐸の実物は東京国立博物館に展示されている。谷奥の支谷−才四郎谷では、89年に銅鐸研究家の羽間義夫さんが金属探知器で銅鐸を発見している。どんなところか非常に興味があったのだが、出土地点は「どうたく公園」という道路沿いの小公園 として整備されている(写真2)。覆屋の下にレプリカの銅鐸で出土状態が再現されている(写真3)。現地はなんの変哲もない道路脇の斜面で特に削平されてもいない。「こんなところで?」という感じの場所だった。
…「こうした埋納地の共通性は、銅鐸が水に関する祭器であること、川神や水神をまつる農耕儀礼に使われた祭器であり…」と書かれているのを知った。辰巳さんは引佐町の天白磐座遺跡など古墳時代・井伊氏による水(井泉)の祭祀の研究で知られるが、銅鐸についてはその後何故か言及されていない。
銅鐸が水に関する祭器…
…銅鐸出土地点の東西から平形銅剣5本(A地点4,B地点1)が出土しており、我拝師山北麓もいわゆる近接埋納地として注目される場所。同行のGさんはミカン畑で弥生土器片を見つけたがここも広義の高地性集落と重なっているらしい。水分神社や大塚池の存在から我拝師山の青銅器出土地も湧水との関係が指摘されているが(※前記松本豊胤論文、大野勝美 1994『銅鐸の谷』)、湧水だけでなくその背後の我拝師山の存在も無視できない。これは瓦谷遺跡の背後の大麻山も同様で、民俗学でいうところの「山当て」的な意識を感じる。…
源氏ヶ峯の南方、三木町の白山(写真3)からも銅鐸が出土しているが、ここも山頂部に散布地、山麓丘陵上に弥生集落跡が確認されている(銅鐸は集落跡に近い見通しのきかない谷頭から出たらしい)。白山も秀麗な神奈備型の山だが、飯野山と白山の山頂部散布地は集落跡ではなく“祭祀的”な遺跡ではないかとみられている。これについては、後で松本武彦さんが興味深い説を出雲の田和山遺跡の講演会で述べられているのを知った。
>「高地に所在する祭祀遺跡で環壕を巡らせた例はまだ見つかっていないが、香川県の飯野山(讃岐富士)と白山では、山頂で弥生中期の祭祀土器がみつかっており、今後もし環壕などが発見されれば、田和山タイプの祭祀遺跡への認識は深まるだろう」
高地性集落が弥生時代祭祀とどう関わってくる遺跡なのかまだわからないが、従来言われてきた「戦争との関係」ではない側面があることを青銅器出土は伝えているのだと思う。
山頂で弥生中期の祭祀土器が…
…旅行中入手したパンフ類を整理していたら「天霧城跡」のパンフの地図に「水場」のマークを見つけた(水場はどんな渇水時にも枯れたことがなく、常に岩の間から真水が湧出する場所だという)。ここは弥谷寺の平形銅剣(写真4)の出土地に当たる。弥谷寺の銅剣の出土地は厳密には特定できないし、三豊平野〜丸亀平野を結ぶ峠に注目する説−いわゆる境界祭祀説−もあるようだが、弥谷寺・弥谷山との関係は無視できない。やはり「湧水」は銅鐸だけでなく、広く青銅器埋納地点共通の“キーワード”になりそうである。…
甲武信ヶ岳と雲取山・金峰山・瑞牆山の4つの百名山と、多摩川・荒川・富士川・千曲川の4つの分水嶺を3日以内に縦走するというタフな大会があるんです。それが『分水嶺トレイル』。
…周辺は草地で、目の前に笠取山の山頂があり、富士山の眺望も抜群! 撮影スポットとしても人気です。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyamahack.com%2F2471
分水界…
分水界(ぶんすいかい、drainage divide)とは、異なる水系の境界線を指す地理用語である。山岳においては稜線と分水界が一致していることが多く、分水嶺(ぶんすいれい)とも呼ばれる。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
水は高いところから低いところへと流れる。したがって稜線のどちら側に降るかで流れ込む川が変わり、注ぐ海が変わってくる。山岳においてはこのような違いが大変明瞭なかたちで現れてくるが、一見平坦な地形のところでもこのような営みが行われている。たとえば、広島県安芸高田市向原町戸島の「泣き別れ」は平坦な水田の中にある。これより北側は江の川に流れ込んで日本海へ注ぎ、南側は太田川に流れ込んで瀬戸内海に注ぐことになる(安芸高田市には八千代町上根峠にも平坦地での分水界がある。これは日本における河川争奪の代表的な例である)。
もうひとつ平坦な地形での分水界の例を示す。それは武蔵野台地の場合である。武蔵野台地では残堀川や野川、仙川など多摩川水系の河川と、黒目川、柳瀬川、空堀川など荒川水系の河川とが流れている。当然双方の水系の接するところ、すなわち分水界が存在するわけだが、玉川上水がほぼそれにあたる。最も高いところに上水を通すことで分水を自然に流下させることができ、灌漑面積を効率的に拡大できるのである。
日本の分水界
世界との比較をするなら、日本は島国でありかつ山国でもあることからその分水界は小規模である。古くは水分(みくまり)とも呼称した。
中央分水界
中央分水界(中央分水嶺)とは、日本の太平洋側と日本海側とを分かつ分水界である。ただし、例えば津軽海峡などのような、太平洋と日本海の境界にある海域をどちらの海域として扱うかによって結果が異なる。
末端以外の中央分水界で最も高度が低いところは、本州では兵庫県丹波市氷上町石生(いそう)「石生新町」交差点付近の標高95m[1]である。この最低点の東800m付近に「水分れ(みわかれ)公園」があり、公園内で水路が加古川(瀬戸内海/太平洋)側と由良川(日本海)側とに分かれている。日本列島全体では、日本山岳会により中央分水嶺踏査事業[2]が進められた結果、北海道の新千歳空港付近を標高13.7mの中央分水界が通っているとされた[3]。一方、最高点は乗鞍岳の 3026m である。
国境としての分水界
律令制に基づいておかれた令制国の境はその多くが分水界となっている。尾根筋を国境(くにざかい)とすることが多いから当然といえば当然ではあるが、尾根を境に気候や植生が変わり文化が変わるのだから、合理的な分割法ということもできる。中世において伊賀国が、隣の近江・大和両国と国境紛争を起こした際には分を境目とする裁断が下されている。
分水界が国境というのは日本国内に限ったことではない。ヨーロッパにおいても尾根が国境とされることが多いため、アルプス周辺では分水界と国境がほとんど一致している。
平野部の分水界
分水界泣き別れ。線路沿い左側の白い柱が分水界を表す。
山岳部では稜線とほぼ一致するが、下流の平野部(特に大平野)では分水界が不鮮明である。これは増水する度に河川が流路を変更するためである。このことは古代から近世にかけて、為政者にとって最大の悩みであった。そのため古代の入植は、新田や耕作地の開発のし易さから山際近くで開始されている。そして近世になるにつれて、低地や川際へと開発が進んだ。
近代以降は土木技術の進歩で河川整備が進み、河川の流路が変わらなくなっている。
さかい〔さかひ〕【境/▽界】
土地と土地との区切り。境界。「隣との―」「県―」
2 ものとものとが接する所。また、ある状態と他の状態との分かれ目。区切り目。境目。「空と海との―」「生死の―をさまよう」→境する
3 ある範囲の内。地域。場所。また、境遇。
「身体を安逸の―に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は」〈漱石・明暗〉
4 心境。境地。
「―に入りはてたる人の句は、此の風情のみなるべし」〈ささめごと〉
「竟キョウ」 <長い祭祀がおわる> /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Ffeb52fe621e68813104f061886685404
解字 甲骨文第1字は、「冠の形+兄キョウ(神に祈る人)」 の会意形声で、冠をつけた貴人が祭祀(祖先や神をまつる)をおこなっているさま。(兄は音符「兄キョウ」を参照)。甲骨文第2字は、冠の略体(▽)をつけた形。意味は、?祭祀名。?人名だという(甲骨文字辞典)。金文も甲骨第1字を踏襲しているが、篆文から、冠⇒辛、口⇒曰、人⇒儿に変化し、現代字は、「音+儿」の竟になった。意味は、祭祀が長きに「わたる・つづく」、祭祀が「ついに、おわる」こと。また、おわった所が「さかいめ」の意がある。
意味 (1)わたる。つづく。「竟日キョウジツ」(一日中)「竟夕キョウセキ」(夜どおし) (2)ついに(竟に)。「畢竟ヒッキョウ」(つまるところ)「竟成キョウセイ」(ついに成る)「有志竟成ユウシキョウセイ」(志の有る者は事をついに成し遂げる) (3)おえる。おわる(竟わる)。「竟宴キョウエン」(祭事のおわった後に開く宴会) (4)さかいめ。「竟内ケイダイ」(区域のうち。=境内)
「わたる・おわる」(竟)
終わったところが「さかいめ」(境・鏡)
音の変化 キョウ:竟・境・鏡
さかいめ
境 キョウ・ケイ・さかい 土部
解字 「土(とち)+竟(さかいめ)」の会意形声。土地のさかいめ。
鏡 キョウ・かがみ 金部
解字「金(金属)+竟(さかいめ)」の会意形声。金属をみがいて境目を反射させるようにした鏡。
鏡…
鏡山 (北海道) - 北海道北斗市にある。標高330m。
鏡山 (山形県) - 山形県村山市と最上郡大蔵村の境にある。標高1097m。
鏡山 (福島県・新潟県) - 福島県耶麻郡西会津町と新潟県東蒲原郡阿賀町の境にある。標高1339m。
鏡山 (岐阜県) - 岐阜県揖斐郡揖斐川町にある。標高1086m。
鏡山 (滋賀県) - 滋賀県蒲生郡竜王町と野洲市の境にある。標高385m。
鏡山 (島根県) - 島根県浜田市にある。標高69m。
鏡山 (福山市) - 広島県福山市にある。標高150m。
鏡山 (東広島市) - 広島県東広島市にある。標高335m。周辺は鏡山公園になっている。
鏡山 (愛媛県) - 愛媛県今治市の大三島にある。標高212m。
鏡山 (佐賀県) - 佐賀県唐津市にある山。
鏡山 (小城市) - 佐賀県小城市にある。標高134m。
鏡山 (人吉市) - 熊本県人吉市にある。標高590m。
鏡山 (熊本県・宮崎県) - 熊本県上益城郡山都町と宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町の境にある。標高917m。
鏡山 (芦北町) - 熊本県葦北郡芦北町にある。標高730m。
鏡山 (球磨村) - 熊本県球磨郡球磨村にある。標高551m。
鏡山 (玖珠町) - 大分県玖珠郡玖珠町にある。標高675m。
鏡山 (宮崎県) - 宮崎県延岡市にある。標高645m。
鏡山村 - 滋賀県蒲生郡にかつて存在した村。1955年に苗村と合併して竜王町となった。
鏡山 (香春町) - 福岡県田川郡香春町にある地名。
鏡山…真南に位置…会越国境に位置…
西会津町北部の会越国境に位置する。鏡山という山名は全国に多く見られ
るが、その中でも標高が最も高いのではないだろうか。飯豊連峰の一角で
飯豊山のちょうど真南に位置する。
飯豊連峰の展望台と称されることが多い鏡山だけに、山頂からのパノラマは圧巻である。 北西に大日岳、北側には御西岳、飯豊山、北東には種蒔山、巻岩山、疣岩山、三国岳。 東側には吾妻連峰、南東には磐梯山。 この日の飯豊連峰は昇竜のような白雲に山頂部が少々隠れていたが、十分にその迫力ある絶景を楽しめた。
【佐賀・唐津】鏡山展望台から唐津を見渡す。
鏡山展望台
唐津城からは車で10分ほど。
虹の松原の南にある展望台です。大きな赤い鳥居が入り口の目印。
北には海、そこに流れ込む大きな松浦川、周りはのどかな田園風景、そして正面には虹の松原の存在感。遠くには唐津城も見えます。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fak-kyushu.com%2F2017%2F08%2F08%2Fsaga-kagamiyama%2F
滋賀県鏡山と伊勢遺跡 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flutera.org%2F
鏡山の北麓に鏡神社という社がある。
御祭神は新羅から渡来したと伝えられている天日槍(アメノヒボコ)で、相殿は天津彦根命(アマツヒコネノミコト)と天目一箇神(アメノヒトツノカミ)。
『日本書紀』によると、第11第垂仁天皇3年、新羅の王子・天日槍は陶芸、金工集団を引きつれて渡来し、近江・若狭を経て但馬の出石(兵庫県)に定住した。また近江の鏡村谷の陶人は天日槍の従者であるという記述がある。
地元の伝承によると、鏡山という名前は、かれが渡来したときに持参した、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種の神宝のひとつである鏡を山中に埋めたことに由来するという。
実際に鏡山に登ってみると、正面に野洲町の三上山が見える。
三上山は近江富士の名のとおり、美しいピラミット型の稜線をもつ。古代から信仰の対象とされていて、山頂には奥津磐座、麓には天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある。
天照大神の孫(天津彦根命の子)にあたる天御影命は物部氏と縁が深く、その娘の息長水依比売(オキナガミズヨリヒメ)は、九代開化天皇の皇子にして崇神天皇の弟にあたる日子坐(ヒコイマス)王と結婚している。ちなみに日子坐王は丹後の鬼退治伝説で知られている。
さらにおもしろいのは、邪馬台国三上山説というのがある。
その根拠となったのが滋賀県守屋市伊勢町で発掘された『伊勢遺跡』。守屋市の教育委員会は、伊勢遺跡がつくられたのは1世紀末〜2世紀末。建物跡の調査の結果、国内最大規模の大型竪穴建物であることから、有力者の住まいであった可能性が高いと発表しているんだよね。それも集落の形状からいって、住居というよりも大規模な祭祀場であった可能性も高いとのこと。この伊勢遺跡から東に3キロほどいったところに三上山がある。
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