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Japanese Medieval History and Literature
快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
>当初の平城京の設計が南北十条であったことが確定したわけです。
>猫殿
なるへそ。解説、どもです♪
>まるで調査した本人みたいにコメントしておきます(笑)
はっはっは。
なるほど!
>猫ひぢりさま
早速の詳しい解説をありがとうございました。自分がよくわかってなかったことも含めて(え)よくわかりました。すごい発見なんですね。
昨日6月14日付の産経新聞にも写真と地図入りで大きく取り上げられていました。
13日午前に撮影されたという写真の、真ん中で大きく手を広げて取材陣に解説している人物が気になるところです(笑)。
鎌倉遺文研究会第132回例会の御案内
例によって勝手に宣伝です。
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日時:6月28日(木)18:00〜
場所:早稲田大学文学学術院33-2号館(スロープ脇建物の2階)第2会議室
報告者:水野智之氏
題目:「『時元記』の基礎的考察−『平安遺文』・『鎌倉遺文』未収録文書の紹介と検討−」
[報告者の一言]
『時元記』(宮内庁書陵部所蔵)は室町期の小槻時元の記録で、このなかの下請符集という箇所に、平安・鎌倉期の年号をもつ文書がいくつか写されています。その内容は「禰家抄」(でいけしょう)という史料とほぼ同じ内容です。「禰家抄」は、大日本史料が刊行されている時期の文書は活字化され、紹介されていますが、大日本史料が刊行されていない時期の文書はまだ活字で紹介されていないように思われます。よって、このあたりの史料の翻刻・紹介と検討を加えてみようとするものです。
http://www.f.waseda.jp/ebisawa/top.html
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>筆綾丸さん
>「将軍家の仰せにより」
知人より関連する論文を紹介してもらったのですが、正確なタイトルを失念したため、確認後に書き込みます。
>如月さん
鎌倉幕府の為政者と宗教の関係を考える上で画期的な論文だと思います。
>井上さん
>猫ひぢりさん
>6月14日付の産経新聞
早速、確認せねば。
ありがとうございます。
自分の掲示板の書き込みに追われてなかなかこちらの掲示板には書き込みができず、申し訳なく思っておりますが、むらじさん、小太郎さん、どうもありがとうございます。
http://www.furugosho.com/
こういうものが・・・。
ご無沙汰をしております。
歴研では、相変わらず「弾けて」しまい、目下反省中なのでした。
ところで、隣国に「中世 夢が原」という、ものごっつい施設があります。
まだ行ったことはないのですが、参考までにお知らせしておきます。
あ、山龍さん、今後ともよろしくお願いいたします。
http://www.bao.go.jp/~yume/
馬庭のかどに生首絶やすな。
>kariさん
>「中世 夢が原」
これは、なかなかおもしろうそうですな。
でも、中世を完璧に再現してしまったら、武家舘の前を観光客がうっかり通り掛かると、おっかない郎従が出て来て捕まり、かたっぱしから首を切られてしまいますな。
(参考文献)『男衾三郎絵詞』
押込の構造
今谷明氏『近江から日本史を読み直す』(講談社現代新書2007年5月)に、
笠谷和比古氏の『主君「押込」の構造』に触れて、こう述べられる件りがあります。
「(主君押込という武家の慣行の)起源は中世にあり、その最初の君主が後白河
上皇である。上皇はまず、平治の乱(1159年)で藤原信頼、源義朝に拉致され
一本御書所に押し込められ、次いで鹿ヶ谷の謀議がもれて平清盛に鳥羽殿に押し込
められ、三度目は義仲による拉致である。生涯三度も押し込められた君主は珍しい。
押し込めの慣行は、この後も源頼家の修禅寺押し込め、北条時政の伊豆押し込めと、
連綿と続いている」(98頁)
このロジックは強引すぎまいか。
笠谷氏の著書には、江戸期大小名の家老達による殿様押込の例は沢山ありますが、
老中達による将軍押込の例はありません(当然ですが)。前者が可能だったのは、
明示的にせよ黙示的にせよ、幕府が主君押込を容認していたからで、これと「将軍
押込」とは、実例がないとは言え、権力構造の次元が全く違う筈です。
したがって、頼家や時政はともかく、後白河の「押込」と笠谷氏の「主君押込」と
は別異に考えねばならぬのであって、今谷氏のロジックは強引すぎるように思われ
ます。今谷説の如くんば、こうも言えまいか。
鎌倉幕府は、後鳥羽を隠岐に押し込め、順徳を佐渡に押し込め、土御門を阿波に押し込め、
藤家将軍を京都に押し込め、王家将軍を京都に押し込め、後醍醐を隠岐に押し込めたので
ある、と。・・・しかし、江戸期の権力構造と次元があまりに違いすぎて、押込のアナロ
ジーは成り立たないように思われる。
小太郎さん
お手数をおかけします。
流血の伯爵夫人。
>筆綾丸さん
女吸血鬼で有名なエリザべート・バートリだって、お城の石牢に閉じ込められたわけですから、「押し込め」になっちゃいますわなァ。
つーか、生かしておくのは邪魔だが、種々の事情で殺しちゃうこともできない人を、どっかに閉じ込めるのは、古今東西を問わないンでないでしょーか?
(参考文献)
桐生操氏『血の伯爵夫人』(新書館、1995年)
レイモンド・T・マクナリー氏・ラゥド・フロレスク氏著・矢野浩三郎氏訳『ドラキュラ伝説』(角川書店、1978年)
鎌倉観光文化検定
鎌倉観光文化検定を受けてきました。
問題は100問、4択のマークシート方式です。
90分ありましたが、1時間でも十分ではないかな、というレベルでした。
と、偉そうなことをいっておりますが、自己採点では何とか合格点とったかな〜とどきどきしております。
私が間違った問題↓
○鎌倉所在の絵巻で、唯一の国宝、浄土変相図の由来を描いた「当麻曼荼羅縁起絵巻」を所蔵している寺はどこか。
○大船と横須賀間に横須賀線が開通したのはいつか。
○腰越で主に養殖されている海産物は何か。
女性は結構若い方もいらっしゃいましたが、男性は年配の紳士が大多数。
若い男性はほとんどいなかったな〜。残念。
ちなみに問題の答えは、順に、光明寺、1889(明治22)年、わかめ、です。
バーバリアン。
編集長さま。
こんな感じですね。
例1)『男衾三郎絵詞』「馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ。此の門外通らん乞食・修行者めらは用ある者ぞ、蟇目・鏑にて駆け立て駆け立て追物射にせよ」
例2)『今昔物語集』巻14第10「(陸奥国の壬生良門)弓矢を以て朝暮の翫として人を罰し、畜生を殺すを以て業とす。夏は河に行て魚を捕り、秋は山に交はりて鹿を狩る」
例3)『今昔物語集』巻19第14「(讃岐国多度郡の源大夫)心極めて猛くして殺生を以、業とす。日夜朝暮に山野に行て鹿・鳥を狩り、河海に臨て魚を捕る。亦、人の頸を切り、足手を折らざる日は少なくこそありけれ」
「中世 夢が原」のメインは、備前福岡の市の光景だそうですが、刀を提げた武士に因縁つけられる、といったようなことはないのでしょうか。
PLANET OF THE BARBARIANS(武士の惑星)
故障した日本製宇宙船が、未知の惑星に不時着。
そこは、ちょっとしたことで矢を放ち太刀をブン回して人を殺す野蛮人の支配する星であった。
野蛮人達の手を逃れた宇宙飛行士は、彷徨った末に、海岸に出る。
その波打ち際には、美男におわす巨大な仏像が座していた。
仏像を見上げた宇宙飛行士は、砂浜に突っ伏し、絶望して叫ぶ。
「ここは、鎌倉だったンだ〜〜〜〜!!!」
(完)
>kariさん
↑ 以前、ちょこっと書いたネタを脹らましてみますた。
「PLANET OF THE SAMURAI」とかにしないのが、私のポリシー。
>はぎつきさん
合格すると良いねェ。
しかし、マニアックな問題ですこと。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003420M.jpg
「史料講読講座」締切撤廃のお知らせ。
え〜、6月23日(今週の土曜日)に開催致します日本史アーカイブズ主催第1回「史料講読講座」なんですが、昨日(17日)が参加申し込みの締切になってましたが、締切撤廃します。
よって、飛び込みでお出で戴いてもかまいませんが、資料の印刷の都合がありますので、なるべくなら、前日までに「お問い合わせ」欄にメールで、お申し込みください。
詳細:http://jparchives.sakura.ne.jp/system/siryohkohdokukohza.html
お問い合わせ欄:http://jparchives.sakura.ne.jp/cgi-bin/wmail/wwwmail.htm
なぜ、締切撤廃になったか? は、聞かないよーに。わはは!
押込再論
釈由美子が好きさん
平城帝は平城京に押し込められ、崇徳院は讃岐に押し込められた、と言えば言えますから、
押込は武家の慣行で、その起源は中世にあり、初例は後白河である、とは言えず、そんな
の、昔からあるじゃん、と思いました。
「(本問題は)今日のいわゆる幕藩体制論・近世国制論の中に位置づけれらないまま看過
されてきた問題なのである。しかしながら主君「押込」は家臣団の手で、主君を強制的に
隠居させるものであるから、その本性において主君廃立行為としての性格をもち、近世の
国制を考察するにはやはり避けて通れぬ問題である」(平凡社選書『主君「押込」の構造』
1988年はしがき)
笠谷氏の分析は江戸幕藩体制下の大名の御家騒動に限られ、将軍家の御家騒動については、
あたりまえのことながら、何も言及されていない。大名と将軍では権力の位相が違うので、
笠谷氏の論理を中世に外挿するのはどうだろうか、と思いました。
諸般の事情から、殺すに殺せない奴は、とりあえず幽閉する、というのは、古今東西、
権力の普遍現象でしょうから、押込の起源は武家の慣行で、その起源は中世にあり、初例
は後白河である、というような、うぶな善男善女を惑わす言説はいかがなものか、と思っ
たのです(笑)。
今谷氏がどーとかでなくて。
>筆綾丸さん
>うぶな善男善女を惑わす言説はいかがなものか、
一般論として、学者・研究者も妙ちきりんなことを言うこた、ありますわな。けっこー。
思わず暴走してしまうこともありますし、目立とうと思ってわざわざ変なことを言うこともありますし、ただ単にバカな場合もありますし、原因はいろいろですが。
読者も、偉い先生の言うことだからと鵜呑みにしちゃう場合もあるし、もともとバカだからとか、てけとーに読んだためとかで、変なとこに気付かないこともある。
でも、史料に合わない説、つまり妄想は、いずれ消えます。
誰も相手にしなくなるから。
中には、自分のことを自分で、世界で一番偉い、世界で一番頭が良いと思い込んでて、妙ちきりんなことを口走っておいて、それを
「おかしいンじゃないの?」
と批判されると、その批判を吟味することなんかせず、批判されたこと自体にキレて、
「ギャー! ギャー! ヒー! ヒー! ブヒ! ブヒ!」
と、わめき散らすヤツもいますが、こんなのは、ただの基地外ですから、無視すれば良いのでございます。
こないだ、某ブログで亜季多幸孝さんが「歴史を研究する」ということについて、
「事実を知りたいだけなんだ」
と、おっしゃってましたが、まったくその通りだと思います。
「ホントのこと(史実)」を知りたいから、一所懸命調べて(研究して)、自分が史実だと考えたことを論文とかで公表する。
でも、それは、しょせん「仮説」に過ぎない。
史実は誰にもわからないし、仮説は、しょせん仮説。
それをわかったうえで、猶、史実に近付こうとする。
・・・・・これが、研究という行為なんでないでしょーか?
「ホントのこと(史実)が知りたい。そのためなら、自分の出した仮説が間違っていたって、全然、かまわない」
この思いさえ忘れなければ、道を踏み外すことは、きっと無い、と私は思います。
誤りを訂正すること
考古学の場合、ある仮説が間違いだったってのは、多分、文献史より明確に出ます。その仮説を否定する遺構や遺物が地下から出れば、それまでですから。しかし、自分の仮説が間違ってた場合の対応は大切だと思います。地下から出た「事実」を自分の仮説に合わないからっていう理由で抹殺しようとしたり、現場には来ずに(文献で言えば史料見に来ずに)担当者呼びつけたり…。悲しいけど、こういう人もいますね。反面教師にしたいと思います・
小太郎さんへ
ご依頼のものは、
黒川高明「史料を蒐めること−鎌倉時代雑考−」(『加能史料会報』7、1994年)です。『加能史料』に付いてきます。ただし、7号がどの巻に付いているのかわかりません。たぶん、鎌倉1または2だと思いますが…
ちなみに同会報は、加能史料編纂委員会編『加賀・能登 歴史の窓』としてまとめられています(青史出版・石川史書刊行会)。
こんなもんでよいでしょうか、小太郎さん。
>『加能史料会報』7
横レス、失礼いたします。
>『加能史料会報』7
『加能史料』鎌倉?(加能史料編纂委員会編、石川県発行、1994年)に付いていました。
たまたま、この巻だけ手元にありまして(^_^)。
ガクト
釈由美子が好きさん
ラディカルなお話(過激な、という意味ではなく、根源的なという意味で)、仰る通り
と思います。
http://www.bk1.co.jp/product/2779648
過日、この本を読みましたら、本能寺の変について「本願寺教如首謀者説」というのが
あることをはじめて知り、ええ!と、びっくりしました。
某局の『風林火山』にはまっている私ですが、ガクト(Gackt)演ずる上杉謙信が、前回、
初登場しました。アンドロギュヌス(両性具有)のような若者が、どんな武将になるのか、
楽しみにしています。神懸かり的になるような予感がしますけれども。
前々回は、市川左團次が上杉憲政を演じていましたが、斜陽の上杉家の感じがよく出て
いました。
ありがとうございます。
>通りすがりさん
まるでテレパシーが通じたかのようなタイミングですね。
感謝感激です。
>高遠さん
サンキュです。
ついでですが、「回顧と展望」初登場、おめでとー。
>筆綾丸さん
通りすがりさんご紹介の論文が「「将軍家の仰せにより」に関係するものです。
>今谷説の如くんば
富山の鱒寿司は鱒が、バッテラは鯖が押し込められてますね。
年齢
>筆綾丸さま
偶然ですが、私も「検証 本能寺の変(谷口克広著、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)」を読んでいるところです。小説「明智左馬助の恋(加藤廣著、日本経済新聞出版社)」を読んだ流れで突入いたしました。
>前々回は、市川左團次が上杉憲政を演じていましたが
川越夜戦の回は、私は何も疑問なく見てしまったのですが、「大河ドラマ&時代劇 登場人物配役事典」というサイトで↓の書き込みを見つけまして、なるほどそういう年齢差があったのかと、感心いたしました。
>23歳の上杉憲政役を67歳の市川左團次がふんする
大河や時代劇を見るときもそうですが、歴史を楽しむ際も、人物の年齢を頭に入れておかないと、大分印象が違ってしまいますね。因みに、長尾景虎を養子に迎えた1557年というと、上杉憲政は34歳、景虎27歳だったのですね。
名前だけ聞くと、フケてる感じがしますな。
>猫殿
>自分の仮説に合わないからっていう理由で抹殺しようとしたり、
とんでもねェですな。本人、抹殺してやりゃいいですわ。
それが、かわいそうなら、押し込めちゃえ。
>反面教師にしたいと思います・
ほんまですわ。
>通りすがりさん
らっしゃい♪
>筆綾丸さん
>ガクト(Gackt)演ずる上杉謙信
似合いそうですよね。イクサ・バカ一代。
>小太郎さん
>鱒寿司は鱒が、バッテラは鯖が
わはは!
>NAO4@吟遊詩人さん
>上杉憲政は34歳、景虎27歳
関ヶ原の時、小早川秀秋が数えの19歳、宇喜多秀家が29歳。
頼朝挙兵の年、北条義時が18歳、畠山重忠が17歳、結城朝光が14歳。
頼朝御本人は34歳で、嫁の政子が24歳。
鎌倉滅亡の年、足利尊氏が29歳、新田義貞が33歳。
道元が悟りを得た時、26歳。
・・・・・みんな、若いですよね。
ちなみに、北条時政は頼朝挙兵の時、43歳なんで、あたしゃ、この時の時政より、もう年上です。
>高遠さん
>「回顧と展望」初登場、
おめでとん♪
押し込み養子
NAO4@吟遊詩人さま
山本勘助が死ぬ半年前の永禄4年(1561)の春に、謙信は関東管領の名跡を継ぎます
から、最終回近くで鶴岡八幡宮が出てくるのでしょうね。
ガクトが、石階で、
「ふーん、これが、歴史に名高い鴨脚樹だな」
などと言って、樹肌をピタピタ撫でるシーンでもあれば、嘘っぽくていいですね(笑)。
「明智左馬助の恋」、私も読みました。
有名な京都の馬揃えについて、これはもと兵馬汰といい、『幸若舞』の中で、頼朝挙兵
の場を馬揃えと称したので、馬揃えとなった、兵馬汰は天皇が警護の武者を閲兵するこ
とを意味した・・・という説明を興味深く思いました。加藤氏の言う通りとしますと、
あの馬揃えの政治的意味が、すこし変わってきますね。
通りすがりさん
高遠彩華さま
ありがとうございます。
小太郎さん
ありがとうございます。探してみます。
私は最初、信州丸米味噌、という言葉を思い出しました。
「明智左馬助の恋」に、こんな箇所がありました。
信長は、次男信雄を南伊勢の北畠氏の養子に、三男信孝を北伊勢の神戸氏の養子に
したが、これは血族の跡継ぎを追い出しての<押し込み養子>であった、と。
著者の造語なのか、わかりませんが、面白い表現ですね。
釈由美子が好きさん
歴史に名を残す人は、みんな、若い時に何かをしていて、ふー、と溜息が出ますね。
押し買い。
>筆綾丸さん
>押し込み養子
まったく血縁の無い人が当主となって家を継ぐというのが、どーも不思議な感じがするのですが、昔の人は、あんま違和感無かったみたいすね。
ところで、以前、中前勉(再興中世前期勉強会)事務局長かどたの法眼氏は、某研究者が自分の研究会の雑誌を売っていたところ、
「何だ? もう、それしか残ってないのか? じゃあ、全部買ってやるから、まけろ」
と言って、強引に買い叩いて行ったそーで、無理矢理、雑誌を売らされた某研究者は、
「“押し買い”とは、どーゆーことなのか、よくわかった」
とぼやいていたンですって。
法眼殿、中世を研究するだけでなく、実践する男であります。
中世史論文のお知らせ。
こんばんは、先日『鎌倉』第103号が届きました。その中で中世史の論文が紹介されていましたのでお知らせいたします。
『鎌倉』第103号
鎌倉公方足利成氏とその文書ー特に花押形の検討からー
佐藤博信氏
鎌倉幕府成立後の源頼朝と伊豆国
田辺旬氏
鎌倉地方における虚空蔵信仰の諸相
篠原幸久氏
また、山川均氏の『石造物が語る中世職能集団』が新刊紹介として掲載されています。
問い合わせ先は、鎌倉文化研究会 〒248−0016
鎌倉市長谷3−11−2
長谷寺宝物館内 電話0467−22−6300です。
以上お知らせいたします。
開催日。
>相国入道さん
お知らせ、ありがとごじゃります♪
さて、本日は、いよいよ日本史アーカイブズ主催第1回「史料講読講座」の日である。
どーなることやら。
http://jparchives.sakura.ne.jp/system/siryohkohdokukohza.html
道玄坂
釈由美子が好きさん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
大御所家斉などは甚だ迷惑な存在だったでしょうね。
『日本の地名の意外な由来』(日本博学倶楽部 PHP文庫 2007年6月)という
本を読んでいましたら、こんな記述がありました。
『江戸名所図絵』に「俚諺に云う、大和田氏道玄は和田義盛が一族なり。建暦三年
五月和田一族滅亡す。其残党此所の窟中に隠れ住みて山賊を業となす。故に道玄坂
なり」
道玄坂(渋谷区)の地名起源だそうです。また、由比ヶ浜の「ゆい」は「結」で、
漁師の相互扶助の組織を意味し、「結のある浜」が転じて、由比ヶ浜となった、と
あり、さらに、世田谷の下馬は頼朝の愛馬に由来する、とあります。
・・・どこまでホントかわかりませぬが、なかなか面白い話ですね。
ちょっぴり亀なのかタイムリーなのか
>NAO4@吟遊詩人さま
本日の日本テレビ「世界一受けたい授業」のトピックは
「歴史は10代がつくった 政宗は15歳で初勝利」ですね。
昨晩
昨日は、日本史アーカイブズ主催第1回「史料講読講座」を聴講させていただき、大変楽しい一時を過ごさせていただきました。また、ネット上でしか知らなかった皆様に実際お会いできて、うれしかったです。みなさま、どうもありがとうございました。
>井上渉子さま
昨日の上洛は諦められたのですね。
>「歴史は10代がつくった 政宗は15歳で初勝利」ですね。
そういうことになっていますね。
ただ、武田信玄の初陣は16歳で、海ノ口城平賀源心を攻めたときになっていますが、これは後世に作られたものとか。そうすると、初陣が勝利というのは、割り引いて考えたほうが良さそうに思えます。
>筆綾丸さま
亀レスですいません。
>「ふーん、これが、歴史に名高い鴨脚樹だな」
>などと言って、樹肌をピタピタ撫でるシーンでもあれば、嘘っぽくていいですね(笑)。
本掲示板の成果ですね。
>兵馬汰は天皇が警護の武者を閲兵することを意味した
そう書かれていましたね。ずいぶん細かいことにこだわる作家だと思いましたが、面白い話なのかもしれませんね。
おれー。
>NAO4@吟遊詩人さんはじめ「史料講読講座」ご参観の方々
御参加、ありがとうございますた。
講師がテンパって、誠に申し訳ございませんでした。
次回は、もうちょっと落ち着いてると思いまする。
>NAO4@吟遊詩人さん
遠路の御参加、あらためまして、ありがとうございます♪
お会いできて、私も大変嬉しゅうございますた。
ネットて、おもしろいですねェ〜〜〜。
アップ情報♪
「コミュニティ」に、「史料購読講座掲示板」を設置しました♪
ご意見・ご感想をお寄せくださいませ。
猫ひぢりさまの雄雄しい現場姿の写真入記事拝見!
お久しぶりです。
今朝、職場の読売新聞で猫ひぢりさまの雄雄しい現場姿の写真入のインタビュー記事を拝見しました。
>ただ、十条条坊が早い時期(西暦730年頃まで)に廃絶する理由などは不明で、その解明は右京域における十条条坊の確認と共に、今後の課題といえますね。
とても楽しみな課題ですね。
ところで事後報告になって申し訳ありませんが、八千代市郷土歴史研究会の「郷土史研通信」58号に宝篋印塔のルーツについて、猫ひぢりさんの報告を大胆に引用してしまいました。
ネットでは↓のURLから58号のPDFをご覧いただけます。
http://yatiyo-web.hp.infoseek.co.jp/kyoudo/kyoudo_index.htm
ではまた。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/
社務記録より。
某ブログにかなめ丸様もお書きのように、「史料購読講座」第1回は、
--------------------------
参加者は18人。
そのうち、サイトを見て応募してくれた方が7人、飛び入りで来てくれた方が1人であった。
今回の講座は、日本史アーカイブズが対外的に開催した初めてのものである。
我らが起こした行動に対して、外部から来てくれた方がこれだけいるということに、拙者は感動したのである。
有り難いことであるなあ。
---------------------------
ということで、それなりのと言えば謙虚すぎてイヤミであり、ものすごい大成功であったと言えばスタッフの一人として多少の不手際もあったなあと反省の必要を感じ、でもまあ相当良かったよね、という素直な喜びをじわじわと味わっている週明けの今日この頃であります。
出版しかり、市民講座しかり、我らが蒔いた種は着実に実を結んでいるのだ、ただひとつ、私が責任者であるウィキを除いては、かっかっか、と笑うべきタイミングではないにもかかわらず、ついつい笑ってしまうのですが、こちらも7月に入ると私に暫く時間的余裕ができますので、しっかりスタートするつもりであります。
>さわらびY(ゆみ)さん
お久しぶりです。
>雄々しい現場姿
メットも猫ひぢりさんがかぶっていると、どこかお洒落ですね。
『戒律文化』第5号
>さわらびさん
ありがとうございます。遺跡発掘は一人の力でできるものではなく、チームワークの結果ですので、僕が出たのは甲子園で優勝したチーム監督が出てるみたいなもんなのですよ〜。
>小太郎さん
>ヘルメット
あの緑メット、自分で塗装したんですよ(笑)
さて、上とは全く関係ありませんが、僕も編集に関わっている『戒律文化』第5号についてお知らせです。
【論文】
泉涌寺出身の律僧たち 高橋秀栄
中世社会における持斎の受容 大塚紀弘
中世鎌倉名越の律宗寺院 落合義明
奈良国立博物館蔵神泉苑請雨経法道場図について 内田啓一
湛睿筆『破僧違諌戒勘文』について 道津綾乃
京都東山太子堂考 松尾剛次
【書評・新刊紹介】
山川均著『石造物が語る中世職能集団』 藤澤典彦
西大寺編『金田元成和尚著作集』 佐伯俊源
(その他の項目も含め、122頁)
内容的にはかなり充実しており、お勧めです。特にこの筋の研究者の方(笑)には必携の書といえます。
購入は、書店を通じて注文されるのがもっともお得です(税込2635円)。販売元は法蔵館(075-343-5656)です。
>NAO4@吟遊詩人さま
「史料購読講座」にいらしていたのですね。
次回は参加したいと思っていますので、そのときお目にかかるのを楽しみにしております。
>昨日の上洛は諦められたのですね。
そうなのです。そのかわり、横浜市歴史博物館の企画展を見学してきました。
日曜までの展示で古代史関連の展示でした。
9月15日からは「合戦絵巻の世界」(仮題)として中世にも関連した展示をするようなので楽しみにしています。
将軍家の仰せ
小太郎さん
『加賀・能登 歴史の窓』を入手しました。
「将軍と武士の棟梁としての鎌倉殿を分けようとする考えは北条氏の内では常に考え
られていた課題ともいうべき問題であり、摂家将軍より宮将軍宗尊親王に替った段階で、
そのことが如実に現われてくる。それは宗尊親王が関東に下向したすぐ後の建長四年
六月三十日付で発給した関東下知状案(『遺』七四五四号)である。この文書の書止
文言に「依将軍家仰、下知如件」と記載されている。従来の「鎌倉殿」ではなく
「将軍家」と表現されているのである。この違いには注目すべきである。宗尊親王が
鎌倉へ下向した時期は、北条時頼を中心とした得宗体制が確立しようとしている時期
であり、義時以来北条氏の懸案であった将軍の処遇に関わる問題を解決しようとした
のが、この書止文言に表現される「将軍家」であったと考えられる。
この宗尊親王将軍の時期の下知状の書止文言は全て「依将軍家仰、下知如件」であった
が、次の惟康王が将軍に就任したすぐ後に、書止文言が「依仰下知如件」(文永三年
十二月、『遺』九六○九号」)に替り、文永五年三月になると又「依鎌倉殿仰、下知如件」
と「鎌倉殿」に復しているのである。文永五年と言へば北条時宗が連署より執権となった
時期に当り、国難とも言うべき蒙古の国書が届き、まさに国家の危機に直面しようとして
いた時期でもある。将軍を武士の棟梁から外した体制でこれに対処するのは危険であると
判断して、「鎌倉殿」への復帰だったのではなかろうか。この変更以降、将軍や執権が替
っても、下知状の書止文言は変化することなく鎌倉末期を迎えることになる」(244頁〜)
武家の棟梁は鎌倉殿が本筋だ、ということかと思いますが、著者のロジックですと、宗尊
親王の場合に限って、なぜ鎌倉殿から将軍家にしたのか、という理由をうまく説明でき
ないように思いました。
宗尊親王が、鎌倉殿にはなれない、あるいは、鎌倉殿ではまずい、という積極的な理由が
欲しい、と思いました。
「あっ!!!」と言う間にカメとなり、
誠に申し訳ありませんが、
>筆綾丸さん
>大御所家斉
無計画にポロポロ子供を作りまくり、後始末は全部、大名に押っ付ける・・・・・マジ、メーワクなお人でございます。
>「鎌倉殿」への復帰
歴史屋業界含め世間様はほとんど注目しておらず、私が1人で意味を見出そうとしてるコトなんですが、惟康親王て、源氏賜姓して一般人「源惟康」になり、正二位に叙し、右近衛大将に任官するんですよね。
これって、源頼朝なのでして、つまり惟康は源頼朝の再来なのであります。
これも「依鎌倉殿仰、下知如件」と関係するんでないでしょーか?
鎌倉遺文研究会第132回例会の御案内(再掲)
本日です。
会場がいつもと違うので、ご注意を。
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日時:6月28日(木)18:00〜
場所:早稲田大学文学学術院33-2号館(スロープ脇建物の2階)第2会議室
報告者:水野智之氏
題目:「『時元記』の基礎的考察−『平安遺文』・『鎌倉遺文』未収録文書の紹介と検討−」
[報告者の一言]
『時元記』(宮内庁書陵部所蔵)は室町期の小槻時元の記録で、このなかの下請符集という箇所に、平安・鎌倉期の年号をもつ文書がいくつか写されています。その内容は「禰家抄」(でいけしょう)という史料とほぼ同じ内容です。「禰家抄」は、大日本史料が刊行されている時期の文書は活字化され、紹介されていますが、大日本史料が刊行されていない時期の文書はまだ活字で紹介されていないように思われます。よって、このあたりの史料の翻刻・紹介と検討を加えてみようとするものです。
http://www.f.waseda.jp/ebisawa/top.html
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>筆綾丸さん
釈さんや秋山哲雄氏の研究で北条時頼への評価はかなり変化していると思いますが、少し前の論文なので、「北条時頼を中心とした得宗体制が確立しようとしている時期」という認識が前提となっているのはやむをえないのでしょうね。
案外、同じ京都生まれでも2歳から鎌倉で育った九条頼経は鎌倉殿でオッケーだけど、12歳で鎌倉に来た宗尊親王にはちょっと違和感があるから別の名前にしようかな、程度の理由だったりして。
>猫ひぢりさん
>自分で塗装
あっ、そうなんですか。
実に良い色ですね。
ついでに誰へという質問でもないのですけど、新人物往来社から郵送されて来た中世都市研究会シンポジウムの案内はここに転載していいんですかね。
訂正のお知らせ
>第1回「史料講読講座」ご参加の方々
すいません。こないだの解説で、訂正があります。
「編集長ブログ」をご覧下さい。
誠に申し訳ありません。
ちょっと引用。
熊谷隆之氏「六波羅探題考」『史学雑誌』113−7、2004年。
「それでは、上洛時の御所(※六波羅御所)使用についてはともかく、なぜ鎌倉殿は下向時に六波羅御所への移徙をわざわざ行う必要があったのであろうか。いずれの事例においても、摂関家や王家の邸宅から六波羅御所へ立ち寄ったうえで、即日鎌倉へむけ下向しており、きわめて儀礼的なものを感じさせる。つまるところ、この問題を解決する糸口は、鎌倉殿のおかれた地位にあるのではなかろうか。思えば、鎌倉殿は朝廷の官制上、公卿もしくは親王であるとともに、征夷大将軍としての地位にある。つまり、あくまで朝廷側の秩序に照らせば、鎌倉殿はもともと京都に住する摂関家や王家出身の貴種でありながら、東国を制圧する征夷大将軍として京都から鎌倉へ一時的に下向しているというにすぎないのである。『幕府』ということば自体、出征中の幕営を意味する近衛大将や将軍の唐名に由来する呼称であることも考えあわせる必要があるだろう」
筆綾丸さま。
上記は朝廷の側の認識でしょうが、編集長のおっしゃることと重ね合わせると、宗尊親王期にはまだ「将軍だけど、鎌倉にずっといるわけじゃないよ」という認識が、幕府側にもあったということになるのでしょうか。
熊谷氏の説については賛否両論あるでしょうが、上記の箇所は名文だとつくづく思います。
「美作中世地域史研究を拓く―美作学への招待―」のご案内
「美作中世地域史研究を拓く―美作学への招待―」のご案内
美作大学地域生活科学研究所
美作中世地域史研究グループ
美作大学では、平成19年度に津山市教育委員会のご支援をいただき、計10回に渡って「美作学講座」を開催いたします。
それを受けて、美作大学地域生活科学研究所美作中世地域史研究グループでは、「美作中世地域史研究を拓く―美作学への招待―」と題し、講演会・シンポジウムを開催することといたしました。この講演会・シンポジウムは、研究者はもちろんのこと、一般の方に広く開放するもので、どなたでも自由に参加することができます。奮ってご参加ください。
記
1.開催概要
?日 時:平成19年10月20日(土) 13時30分〜(13時開場)
?場 所:美作大学 本館 31教室
?基調講演<13:30〜15:00>
題 目:「中世美作の民衆生活−生産・流通・宗教と地域社会−」
講 師:前原 茂雄氏(福岡市史編集委員会委員/美作大学地域生活科学研究所共同研究者)
?シンポジウム<15:20〜16:30>
パネリスト:前原 茂雄氏(福岡市史編集委員会委員/美作大学地域生活科学研究所共同研究者)
パネリスト:苅米 一志氏(就実大学人文科学部准教授)
パネリスト:辰田 芳雄氏(岡山朝日高等学校教諭)
司 会:渡邊 大門氏(美作大学地域生活科学研究所客員研究員)
2.参加費:無 料
3.申込方法
住所、氏名を明記のうえ、申込先へメール、葉書、FAXでお申込みください。
4.申込先
〒708-8511 岡山県津山市北園町50
美作大学地域生活科学研究所 美作中世地域史研究グループ 渡邊 大門 宛
TEL:0868-22-7310 FAX:0868-23-6936 E-Mail:wdaimon@mimasaka.ac.jp
※電話での連絡は、できるだけご遠慮ください。
主催:美作大学地域生活科学研究所 後援:津山市教育委員会
死せる孔明・・・
釈由美子が好きさん
小太郎さん
kariさま
13世紀の事件が、きっちり頭に入ってないので、頓珍漢なことを言うかも知れませぬ
が・・・。
北条宗家である経時くんちに対して、時頼がうんと気を使っているような気がします。
頼嗣の妻は経時の妹ですから、頼嗣を無理無体に引きずりおろして京都に「押し込め」
たとは、経時くんちの、いわば廃絶にトドメを刺すようようなもので、新しく迎えた
宗尊親王を「鎌倉殿」と呼ぶのは、どんなにツラの皮が厚くても言えない。それは僭称
である、というような非常に緊迫した政治的状況があったのではないか。
そこで、時頼は、朝廷という虎の威を借りたというよりも、一歩も二歩も譲歩して、
「将軍家」とせざるを得なかったのではないか。ヤクザの世界ではありませぬが、
「将軍家」という名称で、暗黙の手打ち式のようなものがあったのではないか。たかが
名称に過ぎぬのですが、ここで政治判断を誤ると今度は俺の命が危ねえ、というような。
「将軍家の仰せ」という間の抜けた名称は、時頼権力の脆弱さの象徴なのではあるまいか。
死せる孔明、生ける仲達を走らす、ではありませぬが、死せる経時の影響があるのではな
いか。宗家の格式といいますか、経時は大変な人物だったという、逆証明のような気も
します。経時に比べ、時頼は非常につまらねえ奴だったのではないか。
宗家の嫡流であれば、わざわざ「得宗」などと言わずとも自明のことですから、「得宗」
という名称には、宗家を乗っ取ったのだ、というペジョラティフな(貶下的な)意味が、
当初は含まれていたのではないか。権力が安定すると、ペジョラティフな意味が綺麗に
払拭されて・・・というようなことだったのはないでしょうか。
カメカメ。
>猫殿
カメでありますが、私、貴殿の緑メットの雄姿を拝見できませんでした。
残念であります。
>渡辺さん
お知らせ、ありがとござんす。
>井上さん
>次回は参加したいと思っていますので、
よろしゅ♪
>さわらびさん
おひさです♪
>kariさん
>宗尊親王期にはまだ「将軍だけど、鎌倉にずっといるわけじゃないよ」という認識
結局、しばらく将軍やったら京都帰るつー宗尊親王(宗尊の前の頼経・頼嗣もそーですが、親王将軍に限りますと)の例が定着しちゃうんですよね。
源氏になったりしたのも、惟康親王だけですし。
惟康がどうも極端に特殊なのでして、あたしゃ、惟康の履歴に、北条時宗の鎌倉幕府観つーか、時宗が鎌倉幕府をどんなモノにしたかったか? が現れてるよーに思っておるのでございます。
>筆綾丸さん
>頼嗣の妻は経時の妹
つーこた、当たり前ですが、時頼の妹でもあるわけでして、果たして頼嗣を将軍クビにすることが「経時くんちの、いわば廃絶にトドメを刺すようようなもの」になりましょーや?
歯が痛い。
久しぶりに歯医者のお世話になっております。
大して痛まなかったので、「気のせいかな〜」とか思ってたんですが、歯医者に行ったらなんと二つも虫歯を指摘されまして、通院中です。
歯が痛いといえば、頼朝も歯が痛いって言ってたな〜と思い出しました。
京都に「良薬」を問い合わせたりしてましたよね。
でも、当時、歯の根本的な治療をしようと思ったら、抜歯ですよね。(薬飲んで治るなら、ぜひ教えていただきたい!)
麻酔なしで抜歯ですか。
糸かなんか結んで引っ張るのでしょうか(ひえええ〜)?!
これに関しては現代に生きててよかった。
頼朝の歯労については、なんかの本で「年齢からいって歯周病」というのを読んだことがありますが。
頼朝=あの時代の飲水病=(このイコールはまったく個人的なものですが)甘党=虫歯。
なのではないかと私は思っています。
頼朝の晩年は吾妻鏡の記述がないので、はたして抜歯にいたったのかどうなのか。
抜歯といえば『花園天皇宸記』にも記事があったのですが、今手元を確かめたらその部分が見つかりません。
確か抜歯して「痛くない!名医だ!」と医師を褒めたたえていたような。
そのとき調べていたこととは関係なかったのですが、面白がってコピーしてきたはずなんです。どこいったんだろ〜?
ナルシスト
釈由美子が好きさん
兄妹間の親密度の相違なとどいうことを考えたのですが、無茶でした。
今夜の『風林火山』でガクトが琵琶を弾じていましたが、ナルシスト謙信、という
感じでした。
昨夜、東京オペラシティで、庄司紗矢香のヴァイオリン協奏曲第1番(パガニーニ)を
聴いたのですが、久しぶりに体が震えました。いるのですね、こういう天才的な人が。
元の名は「征露丸」。
>はぎつきさん
>歯が痛い。
虫歯、辛いっすよね。おだいじに。
>頼朝も歯が痛いって
『吾妻鏡』建久五年(1194)10月17日条でさね。
[原文]
歯御療治事、頼基朝臣注申之、其上献良薬等、藤九郎盛長伝進之、
彼朝臣者、参河国羽隅庄為関東御恩所令領知也、
[書き下し]
歯の御療治の事、頼基朝臣これを注申す。その上良薬等を献ず。藤九郎盛長これを
伝進す。彼の朝臣は、参河国羽隅庄を関東御恩として領知せしむる所也。
丹波頼基先生、虫歯治療の方法を教えてお薬を献上しただけで、所領をもらえたンですから、ウハウハ♪ だったでしょーな。
太っ腹な話ですが、頼朝、よっぽど歯が痛かったンすかね?
それにしても、虫歯の「良薬」て、どんなモンだったんですかね?
昔も正露丸みたいのが、あったンでしょか?
でも、あれは痛み止めで、根本的には治りませんやね。
やっぱ、抜歯しか無かったンでしょーなァ。
>筆綾丸さん
>無茶でした。
でも、経時の息子達を時頼がどー遇したか? は、気になるところでありまつ。
>庄司紗矢香さん
残念ながら、存じ上げませぬ。無粋で、すいません。
おしえてください
私は11歳で、宿題を出されて、○風が吹いて2度もたまたま勝ってしまった。
とゆうことなんだが・・・。
わからないので、おしえてください。
んーさんへ
「○ = 神」か「○ = 台」だと思うよ。
でも、宿題は、なるべく自分でやったほうがよいよ。
すごいww
ありがとうございます。
いえ、いえ。
>んーさん
お役にたったなら、うれしいわ。
楽しい学校生活をおくってくださいな。
私信というか
井上渉子さんに返信をしたかったのですが、実は、このところ、歴史ネタがなくて、書き込めずにおりました。
先日、?「実朝の首(葉室麟著、新人物往来社)」という小説と、?「源氏 武門の覇者(新人物往来社別冊歴史読本)」を買ってきて、読んでおります。?は当然このサイトで話題になりそうなのですが、出てきませんね。小説ですからでしょうか。私は結構面白いと思っております。鶴岡八幡宮のイチョウは残念ながら、出てきてしまいますが。(著者はこのサイトを読んでいない。(笑))
?で、永井晋先生の記述で、「鎌倉幕府の首長鎌倉殿が代々征夷大将軍に任命されるようになるのは、鎌倉殿が武家の棟梁として実体を失っていく三代将軍源実朝からである。」というのがあり、筆綾丸さまのご指摘のヒントがありそうな気配がしたのですが、回答は得られませんでした。この雑誌も面白いのではと思います。
さて、本題の私信(「掲示板」使っていいのか?)ですが、
>井上渉子様
私も、第2回史料講読講座に参加させていただこうかと考えております。そして、井上渉子さまとお会いできるのを楽しみにしております。ただ、はっきり言いまして、私、歴史好きのそれでいて浅学のオヤジですので、ご期待いただかぬようよろしくお願いいたします。
ですよね。>はぎつきみたえさま
>高遠彩華さま
>葵さま
なんて謙虚な!!
>NAO4@吟遊詩人さま
「クイズ・ここはどこ」でぶっちぎりで「king of マニア」の称号を手にしたことを私は忘れていませんわ!
NAO4@吟遊詩人さまが「浅学」だったら、私は、ウイスキーでいったらツーフィンガー?くらいでしょうかw。
前回ゆっくりお話できなかったので、今度お目にかかるときにはいろいろ教えてくださいね。私も第2回、参加予定です。
なんて謙虚な!!2
>NAO4@吟遊詩人さま
私も、はぎつきさまの御意見に全面的に賛成でして、
謙虚にもほどがありますわ。
第1回の講座の時にお話しさせていただいて、大変楽しかったです(^_^)。
第2回講座の時も、かなめ丸さまのお付きで受付にいるかと思いますが、
よろしくお願いいたしますm(_ _)m。
勝手に(でもないが、とにかく)宣伝♪
↓ のよーなシンポジウムがございます。
こないだ、小太郎さんがおっしゃてたものです。
都市研(中世都市研究会)は、文献史学と考古学のコラボによって、中世の都市を多角的に研究しようとう研究会です。
今年のシンポのテーマは、「開発と災害」ですな。
報告も題名見ますと、「砂に埋もれた」とか火事とか飢饉とか、なかなかおもしろそうですな(← 不謹慎発言)。
ふるってご参加くだされ♪
>猫殿
2日目に報告される佐藤亜聖さんは、猫ひぢり一家の方ですよね?
>>>>>>>>>>>>>>>
♪ 2007年度 中世都市研究会「開発と災害」へのご案内 ♪
期 日:2007年9月1日(土)・2日(日)
研究会会場:東京大学工学部2号館213教室(当日、赤門・正門にてご案内いたします)
◎最寄り駅 本郷三丁目駅(地下鉄丸の内線)、湯島駅又は根津駅(地下鉄千代田線)、東大前駅(地下鉄南北線)
参 加 費:4000円(中世都市研究最新号「都市をつなぐ」と当日配布資料代金を含む)
????????????当日、受付にてお支払いいただきます。
懇親会会場:学士会分館(大学敷地内) Tel 03−3814−5541
懇親会費 :5000円
問い合わせ先:株式会社 新人物往来社 酒井直行
東京都千代田区神田錦町3−18−3 錦三ビル
Tel 03-3292-3971??fax 03-3292-3972
申込方法:電子メールまたは郵送にて、必要事項を記入の上お送り下さい。なお、7月27日までとさせていただきます。
(1) 氏名
(2) 住所
(3) 電話番号
(4) E-mailアドレス
(5) 所属
(6) 懇親会の出欠
(7) 9月2日(日)昼食用弁当(1000円程度)の予約の有無
(会場周辺には飲食店が余り多くありませんので、ご予約をお勧めします)
(8) 来年度以降の案内の必要の有無
【電子メールの宛先】toshiken@jinbutsu.jp(申込専用)
【封書の宛先】〒101-0054東京都千代田区神田錦町3−18−3 錦三ビル
新人物往来社内 中世都市研究会事務局
[ご注意]
◆9月2日(日)の昼食は事前にお申し込みの方にお弁当(1000円程度)を準備
いたしますので、必ず予約をして下さい。
会場周辺にも食堂やコンビニはありますが、十分とはいえません。
◆会場には駐車スペースがありません。
できるだけ公共交通機関をご利用のうえご来場下さい。
♪ 当日スケジュール ♪
★9月1日(土)
12:30 開場
13:00 問題提起●五味文彦(人間文化研究機構)
13:30 第一部?? 環境と開発――河川との関係を意識して――
□中世武蔵国における宿の形成
落合義明(東海大学)
コメント●齋藤慎一(江戸東京博物館)
□中世北陸の港町と災害―砂に埋もれた町場と市庭―
垣内光次郎((財)石川県埋蔵文化財センター)
コメント●飯村 均(福島県文化振興事業団)
15:10 休憩
15:20 □『越後国郡絵図』にみる河川・潟・橋と町
福原圭一(上越市公文書館準備室)
コメント●伊藤正義(鶴見大学)
□中近世移行期における都市景観と自然地形
山村亜希(愛知県立大学)
コメント●小島道裕(国立歴史民俗博物館)
17:30 懇親会
★9月2日(日)
9:30 第二部????災害と飢饉
□中世都市奈良と火災
佐藤亜聖((財)元興寺文化財研究所)
コメント●安田次郎(お茶の水女子大学)
□鎌倉と災害
高橋慎一朗(東京大学史料編纂所)
コメント●河野眞知郎(鶴見大学)
□応仁の乱への道―牢人・流人・足軽・飢饉―
早島大祐(京都大学)
コメント●水野章二(滋賀県立大学)
12:00 昼食
13:00 論点整理
13:15 シンポジウム(司会進行●中澤克昭・小野正敏)
15:00 閉会
>>>>>>>>>>>>>>>
一番隊隊長
>釈さん
そーです。ウチの一番隊隊長で、例の下三橋遺跡発掘のパートナーで、中国石造物調査のパートナーで、要するに我々はよくセット関係にあります。都市研にいかれる方、せいぜい虐めたって下さい。そういえば釈さんの名刺、持ってるって言ってましたよ。
めーし。
>猫殿
>要するに我々はよくセット関係にあります。
研究のパートナーがいるということは、けっこーなことであります。うらやましい限り。
わしゃ、敵ばかり。そりゃ、それで、ピリピリして良いのですが。
>せいぜい虐めたって下さい。
そんなこと言うと、ホントにイジメられちゃいますよ。
>釈さんの名刺
「再興中世前期勉強会最高幹部
細 川 重 男 」
て刷ってあるヤツでござんしょ?
あれ、配りまくったら、なくなっちゃったンで、また作らにゃならんのです。
今度は「日本中世史アーカイブズ編集長」も入れなくちゃ。
>NAO4@吟遊詩人さん
>はぎつきさん
>高遠さん
カメ気味ですが、7月28日(土)の第2回「史料講読講座」、どんぞ、よろしくお願い申し上げます。
http://jparchives.sakura.ne.jp/kouza/siryohkohdokukohza.html
>NAO4@吟遊詩人さん
葉室麟氏『実朝の首』(新人物往来社、2007年5月)は、知りませんでした。ありがとごじゃります。
>めーし。
>釈さん
かなめ丸様のロゴ入りの名刺を作りませう。
中世都市研究会の案内のアップ、サンキュです。
>佐藤亜聖さん
お名前と所属を見て、たいていの人がお坊さんだと想像するでしょうね。
>問題提起●五味文彦(人間文化研究機構)
私は「人間文化研究機構」の存在すら知りませんでしたが、国立歴史民俗博物館・国文学研究資料館・国際日本文化研究センター・総合地球環境学研究所・国立民族学博物館の上部機関みたいなもんですか。
http://www.nihu.jp/
首の行方
NAO4@吟遊詩人さま
『実朝の首』(葉室麟著)、私も面白く読みました。
濡れ衣を着せられた首謀者は激怒しているな、と思いました。
亀菊姉さんが妖艶でいいですね。姉さんがあのように肉付けされたのは、我が国の歴史
(小説)史上、空前ではないかしらん。
実朝の首がなぜ秦野(波多野)にあるのか、なかなか面白い話ですが、ただ、銀杏の
樹に女装の公暁が隠れるのは、あれほどダメだと言ってるのに(笑)。
『史學雑誌 2006年の歴史学会ー回顧と展望ー』を眺めていましたら、
「『吾妻鏡』に見る将軍の装い」と題して、宗尊親王までの鎌倉殿の服装から、各将軍
の地位の差異を指摘した論文があるとのことでした。
釈由美子が好きさん
最高幹部・・・というのは、うーむ、凄いですね。
少し前の中国の「最高実力者」という表現を、なんとなく思い浮かべました(笑)。
鬚切
まずは、↓の投稿写真ですが、勿論本物ではありません。本日ショッピングモールでガチャガチャ「日本の金貨」なるものを見つけて、1回百円で、2回もやってしまいました。左が天保大判、右が慶長小判の模造品だと思います。素材は、Zn(真鍮メッキ)だそうです。何か今後集めそうな気がします。
>筆綾丸さま
お久しぶりでございます。『実朝の首』(葉室麟著)読まれましたか。私は、買おうか買うまいか迷って、批評記事を探したのですが、見つからず、買って読んでしまい、ついでにAMAZONにレビューを投稿してしまいました。誰も投稿していないので、気持ちよーく投稿させていただきました。
>実朝の首がなぜ秦野(波多野)にあるのか
そうなんですよね。この小説では何となく辻褄を合わせていますね。伝承の「武常晴が波多野にもたらした。」って説明になっていませんよね。三浦氏と波多野氏が友好関係にあるのなら、なおのことよく分からない話なのですが、両者が気まずい仲なら、少しは分かります。
●そんで、鬚切
2年前のNHK大河「義経」で何となく源家の秘刀「鬚切」の話を見ておりましたが、「源氏 武門の覇者(新人物往来社)」で、関幸彦先生の書かれているコラムは分かりやすかったです。
鬚切〔満仲時代〕→鬼丸〔頼光、頼義、義家時代〕→獅子の子〔為義時代〕→友切→鬚切〔義朝→頼朝時代〕と名前を変えていることなどが解説されておりました。
また、大河では頼政が「これは鬚切では無い」と清盛に言うシーンがありますが、考えて見ると頼光から摂津源氏に伝わるべき秘刀を河内源氏が持っているのですから、頼政としては、やりきれなかったのかなあ、そこまで踏まえてあの話ができているのかと感心した次第です。
どうも「鬚切」はフィクションのようですが。それにしても「源氏 武門の覇者」は私のような素人系歴史マニアには面白い本だと思います。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003469.jpg
時期的なものか、忙しい。
>小太郎さん
>かなめ丸様のロゴ入りの名刺を作りませう。
そーしませう♪ そーしませう♪
>筆綾丸さん
>うーむ、凄いですね。
中前勉(再興中世前期勉強会)は、だらだらした組織で、会長と事務局長しか正式の役職が無いのでして、「最高幹部」は自称です。
「最高実力者」と同じで、便利な言葉でしょ?
>NAO4@吟遊詩人さん
>ガチャガチャ「日本の金貨」
知ってます! 知ってます!
前に横浜市立博物館に行った時、某大学院生が、「うひゃ♪ うひゃ♪」喜びながら、買ってました。
優等生大学なのに、いい男やねェ〜〜〜と思いますた。
実朝の首…
>NAO4@吟遊詩人さま
アマゾン拝見しました(??)。そうか〜。そういう話なんですね。
私もその本は、読もう、読まねば、読んだほうがいいよな、と思いつつ、題名の生々しさに手が出ません………。
>筆綾丸さま
>『史學雑誌 2006年の歴史学会ー回顧と展望ー』を眺めていましたら、
「『吾妻鏡』に見る将軍の装い」と題して、宗尊親王までの鎌倉殿の服装から、各将軍
の地位の差異を指摘した論文がある
非常に興味を惹かれます!情報ありがとうございます。手に入れて読んでみようと思います。
沖の小島に首の寄る見ゆ・・・
NAO4@吟遊詩人さま
一週間程、別宅にこもっておりました。
『実朝の首』に、梁塵秘抄の、
美女打ち見れば一本葛へも成りなばやとぞ思ふ
という引用がありますが、この美女は、おそらく、妖艶な白拍子などを意味し、以前話題
になった職制としての美女ではないのでしょうね。後白河院が民俗から掬い上げた美女が、
どのような経緯をたどって、鎌倉幕府の職制になりえたのか。興味深い現象ですね。
幕府草創期、里見義成が遊君別当などという羨ましいような(?)職に就任していますが
(1193年)、色里の美女が職制の美女にメタモルフォーゼするのは、このあたりが境目な
のかしら。後白河院の没後というのは、なんとも絶妙で、頼朝の心憎いまでの配慮ですね。
侍所別当などという無骨な職には何の興味も覚えませぬが、遊君別当というアンチ荒事の
ロココ風な職は、是非やってみたいな(笑)。
釈由美子が好きさん
いつも質問ばかりしていて恐縮ですが、遊君別当の職務や政治性について言及した
論文がございましたら、御教示くださいませ。
はぎつきみたえ様
いえいえ。
是非、お読みください。なるほど、と御参考になると思います。
ただ、朝の首、とか、夕の首、あるいは、『源氏物語』の、夕顔、くらいならよかった
ですね(笑)。
すみません。
>筆綾丸さん
>遊君別当
研究含め、具体的なことは、私には、わかりませぬ。
申し訳ないです。
『吾妻鏡』建久4年(1193)5月15日条で、里見義成が頼朝から任命され、遊女のことは訴論などいっさいがっさいを義成が担当することになったということしかわかりませぬ。
遊君別当
東島誠「ある国境の別れ」(『緑聖文化』第2号、2004年)に若干、言及があります。東島さんは「遊女の事から訴論に至るまで」、すなわち遊女統括&訴訟処理と解釈しているようです。黄瀬川宿という場の「京都―鎌倉という2つの磁界の交錯するところ、国境地帯に位置した交通の要所、物資輸送の拠点」としての性格に注目しておられます。
「遊女とは、本質的に〈都市〉的な生業であった。不特定多数と交わることから『公界』と呼ばれ、近世には『交通業』とも呼ばれた点…遊女が『公界』と呼ばれたのは、今日出会い、明日は別れるであろう〈他者〉との交わり、その〈都市〉性をそう表現したと考えるべきであろう」
何とも文学的な表現です。
アルビテール・エレガンティアルム
釈由美子が好きさん
いえいえ、ありがとうございます。
御座候さん
ラテン語に、arbiter elegantiarum という言葉がありまして、この表現に相応しい
のは後白河と後鳥羽で、遊君別当はこの系譜に連なるものの謂かと愚考しておりました
が、すこし考えを改めました。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/119305.html
時代はぐっと下るものの、七十一番職人歌合などでは、すぐ訴訟沙汰になりそうな職業が
ほかにうんとあるはずですが、なぜ遊君にかぎり別当職があるのか。
『吾妻鏡』を確認するに、該当箇所は有名な三色餅の前日のことで、これは、正式の職制
というよりも、酒宴での悪ふざけに過ぎぬのではあるまいか。
里見、おめえは女性あしらいが上手い色男だから、遊君の別当に任ずるぜ、いいな。と、
宴席の連中は、よ、大将、よろしくな、などとやんやと騒いだのではあるまいか。
あの時代、遊女の訴訟が頻々と発生したとも思えぬし、金の縺れが訴因になるほど貨幣
経済が発達していたとも思えませぬ。仮に遊君が訴えても、通常の訴訟として処理すれば
済むことで、あえて遊君専門の別当を設置する必要はありませぬ。要するに、建久4年5月
15日の後段の記述を字義通り真面目に受け取ると、事実関係を誤認するのであって、これ
はただのfarce(笑劇・茶番)として読むべきもののような気がします。ファルスの根拠
を示せ、と問われれば、困るのですが。
遊君別当の実態を鎌倉時代に探しても、何も出てこないのではあるまいか。東島誠氏とい
う方は存じませぬが、あまりにウブな考察のように思われます(笑)。
なお、arbiter elegantiarum は、普通、趣味の審判者とか目利きと訳されますが、私は、
粋や通という訳でいいのではあるまいか、と考えています。
補足
東島論文を読む限り、東島さんも「遊君別当」については、
手越・黄瀬川の遊女を集めてのドンチャン騒ぎにおける座興と捉えているようです。
ただ、この座興の持つ象徴的意味を探り、
それを手掛かりとして黄瀬川のような出会いと別れの場=〈都市的な場〉の本質を明らかにしようというのが、
東島さんのスタンスなのだと思われます。
東島さんの主要な研究については、こちら↓
http://www.amazon.co.jp/%E5%85%AC%E5%85%B1%E5%9C%8F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E5%89%B5%E9%80%A0%E2%80%95%E6%B1%9F%E6%B9%96%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%B8-%E6%9D%B1%E5%B3%B6-%E8%AA%A0/dp/4130266020/ref=sr_1_1/249-0514328-5315563?ie=UTF8&s=books&qid=1184073054&sr=8-1
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/official/doctor/d1999_33.html
ネットはホント便利だわ♪
>御座候さん
おひさざんす♪ そして、
>東島誠氏「ある国境の別れ」
ありがとござんす♪
>筆綾丸さん
良ございました。ネットは、役に立ちますなァ。
ちなみに、『吾妻鏡』建久4年(1193)5月15日条の該当部分は、
[原文]
遊女事等至訴論等、義成一向執申之云々
[書き下し]
遊女事等訴論等に至るまで、義成一向にこれを執り申すと云々、
でして、私はこれを、
「遊女のことは、訴訟などまで、いっさがっさい全部、里見義成が担当することになった」
と解釈しとります。
うじゃうじゃ群れを成す遊女軍団を前にして、
頼朝「おい! 義成! 今日から、お前が遊君別当だ! これからは、この姉さん達のお世話は全部、お前がやったれよ!」
義成「え?! 俺がですかい?!」
頼朝「わははは!!」
てな感じじゃなかったンすかね?
勝手に宣伝
私も最近知ったので、宣伝が遅れてしまいました。あと2回分、残っております。
特別展 足利義満600年御忌記念「京都五山 禅の文化」展 関連事業
テーマ講演会「京都五山の文化」 全4回
特別展 足利義満600年御忌記念「京都五山 禅の文化」展の開催に先がけ、鎌倉時代後半から室町時代にかけて京都五山を中心に花開いた禅文化をテーマとして、その特色について美術と歴史の両面から探る4回連続の講演会です。
■第1回 2007年6月9日(土)
時間 13:30〜15:00(開場13:00予定)
演題 「五山派の彫刻」
講師 出版企画室長 浅見 龍介
■第2回 2007年6月30日(土)
時間 13:30〜15:00(開場13:00予定)
演題 「京都五山の絵画」
講師 特別展室長 救仁郷 秀明
■第3回 2007年7月14日(土)
時間 13:30〜15:00(開場13:00予定)
演題 「室町幕府外交と京都五山」
講師 北海道大学大学院文学研究科准教授 橋本 雄 氏
■第4回 2007年7月28日(土)
時間 13:30〜15:00(開場13:00予定)
演題 「五山僧と学芸」
講師 情報管理室長 田良島 哲
会場 東京国立博物館 平成館大講堂
定員 380名(当日先着順)
聴講料 無料 (ただし入館料は必要です)
* 当日会場にお集まりください
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=C01&processId=00&event_id=4046
東博つながりで勝手に宣伝その2
>御座候さま
宣伝ありがとうございます(って私は管理人でも何でもありませんが)
第3回の「室町幕府外交と京都五山」がものすごく聴きたかったのですがちょっとムリなので涙を呑んでいました。でも聴きたい…! この時間だけタマシイになって百里の道を飛べれば…!
はいいとして。
東博では昨日からから10月28日まで(長いな)
特集陳列として「板碑―中世の供養塔―」という展示をしています。
展示されているのは
☆東京都あきる野市高尾出土 室町時代・康正3年(1457)
☆栃木県小山市愛宕神社境内出土 建治2年(1276)
などだそうです。
もう少しで天皇家乗っ取れたのに。
>御座候さん
>井上さん
お知らせ、どもです♪
そーですか。義満がカゼこじらせてから、600年ですか。
(参考文献)今谷明氏『室町の王権 ― 足利義満の王権簒奪計画 ― 』(中公新書、1990年)
風に立つ。
台風が日本を横断中です。
皆様のところは大丈夫ですか。
うちも雨戸を閉めました。これ以上被害が広がらないとよいのですが。
先ほどテレビで台風情報を見ていたら、JR日南駅前が映りました。
ひどい暴風雨の中、すっくと立つ銅像の後姿が!
気になって調べたら、伊藤マンショの銅像だそうです。九州にはほかにも2箇所ほど伊藤マンショの銅像があるようです。
この地方ではメジャーな方なんですね。
私は高校日本史の授業以来でした。
http://www.atkyushu.com/AreaApp?LISTID=201&VIC=1000002281
活版印刷
>はぎつきみたえさま
>伊東マンショ
「天正遣欧少年使節」↓wikipediaで調べて見ますと、随員の中に、印刷技術習得要員の日本人少年が2人も混じっているのが分かりますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E5%B0%91%E5%B9%B4%E4%BD%BF%E7%AF%80
布教活動のために、印刷機と印刷技術の導入が、大きな目的だったようです。
さらに、↓では印刷された天草本の中に、「平家物語」があるのが面白いですね。
http://www.media-line.or.jp/igu/j/img/pdf/p11_22.pdf #search='%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%20%E6%B4%BB%E7%89%88%E5%8D%B0%E5%88%B7'
さて、伊東マンショですが、日向伊東氏の流れを汲むということは、工藤祐経の子孫ということになるのでしょうか。
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●「頼朝のその弟たち(栗林浩著、新人物往来社)」を読みました。
自費出版本(My Book)ですが、「歴史読本」などで、広告が載っていたので、読んでみました。レビューはアマゾンに載せましたので、そちらを参考ください。
この題名に惹かれた理由は、頼朝の同腹の弟「希義」について書かれていないかと思ったためです。狙い通り、「頼朝と希義」という題名で一章が設けられており、まあまあだったのですが、情報量としては期待したほどではありませんでした。
この本、学術書ではなく、分類からすると文芸書になるのでしょうね。でも、史実を結構良く踏まえて、情景を物語にしていると思います。でも、このサイトに集う方々には、物足りないかもしれませんね。「将軍嗾殺犯考」では、実朝暗殺について書かれています。犯行の現場を上宮内側ときっぱり断言しています。
ちょっと、後から気になったのですが、上記の本ですと、希義が兵を挙げたのは、頼朝と同じ治承四年(1180年)ですが、今読んでおります「相模三浦一族と周辺史(鈴木かほる著、新人物往来社)」では、永万元年(1165年)に長門で既に打たれたことになっている点です。
行ったきり
>NAO4@吟遊詩人さま
印刷機と印刷技術ですか〜。学校の授業じゃ少年使節は行ったきりで、帰ってきたところまでやりませんでしたから存じませんでした。
マンショはじめ4人はそれぞれの最期を迎えましたが、印刷技術習得要因の2人は、人生を全うできたのでしょうか。
技術者ですから、それなりに大切にされたとは思うのですが…。
>『頼朝とその弟たち』
アマゾン拝見しました。前回も思ったのですが、ああいう書評って意外に書くの難しいですよね。でも、NAO4@吟遊詩人さまのレビューは、短くても要件がよくまとまっているので、お上手だなあと思っています。
私は、こういう本は、著者がどんな人なのかが真っ先に気になります。
栗林浩氏は、俳句などにも詳しい方のようですね。
ストライクゾーンはどこなのでしょうか。
http://homepage1.nifty.com/muneuchi/rou/rou20/mokuji.htm
クアトロ・ラガッツィ
天正遣欧少年使節が、活版印刷を日本にもたらした話は、岩波のPR誌「図書」に書かれていて、どこかのサイトに投稿したはずなのですが、下書きが見つからず、詳しい内容は忘れてしまいました。日本では、不思議なことに活版印刷は普及せず、木版画の印刷が江戸時代を通じて隆盛を極めるのですよね。
ところで、この印刷技術者「コンスタンチノ・ドラード」「アグスチーノ」ですが、ネット検索して見ると、アグスチーノはイエズス会に入らなかったために、記録に残っていないそうです。ドラードは、イエズス会に入会した後、マカオに追放され、司祭に叙せられた後、その地で病死したようです。
ずばり本が出ていますね。
http://homepage1.nifty.com/GANDE/japanprinter/4-87085-170-9.html
小説もあり
http://www.junkudo.co.jp/detail.jsp?ID=0186428364
>栗林浩氏
多才な人ですね。「地球温暖化対策・俳句・歴史に興味あり」と著者略歴に書かれています。文章も上手だと思います。
↓は、遣欧少年使節とは関係ないのですが、安土セミナリオ跡です。雰囲気を出すために掲載しました。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003484.jpg
アップ情報♪
「史料」に
○『太平記』巻第5「弁才天影向事」(北条氏の家紋・三鱗の由来)
○『園太暦』文和2年(1353)3月26日条(怖い話。人さらいの尼)
をアップしますた。
ひっさびさ! の更新であります。
最近、スタッフ一同、忙しく。
『太平記』は、北条氏の繁栄は時政の前世の善行のお陰というお話。
『園太暦』は、副題の如く、なんか恐い話っす。
お楽しみくだせ。
実は、現在、潜行中。
>NAO4@吟遊詩人さん
>はぎつきさん
すいません。
今、異常に忙しく、てんぱっておりまして、お話に参加できませぬ。
今度、レス書きますので、そん時は、よろしゅう。
刀と鉄砲
>NAO4@吟遊詩人さま
>活版印刷は普及せず、木版画の印刷が江戸時代を通じて隆盛を極める
鉄砲が入ってきたのに、幕末まで刀で戦っていた日本らしいですね(笑)。
それにしても、どんな人物もどこかで誰かがすでに研究しているのですね〜。小説まであるとは、驚きました。
でも、
>無為におわった彼らの青春をみごとに描破した歴史大河長篇。
って、ずいぶんひどい本の紹介文(笑)。
>釈由美子が好きさま
大丈夫ですよ〜。お気遣いなくw
再度の宣伝♪
第2回史料講読講座、来週の土曜日(28日)ですので、よろしく〜〜〜♪
http://jparchives.sakura.ne.jp/kouza/siryohkohdokukohza.html
禅空
非常に唐突で恐縮ですが、森幸夫氏が「平頼綱と公家政権」で検討された禅空について何か新しい知見を加えた論文をご存じの方は教えて下さい。
なお、平雅行氏の「青蓮院の門跡相論と鎌倉幕府」は既に読んでいます。
すみませぬ。。。
>皆様
釈さんが超多忙の折、共同管理人の私がしっかりせねばならんとは思うのですが、このところ久しぶりに勉強モードに突入しておりまして、なかなか気持ちに余裕がありませぬ。
↓でも突然訳わからんことを書いてしまいまして、「何じゃ、これは」と思った方がいるかもしれませんが、禅空(または善空)というのは平頼綱の威を借りて持明院統の後深草院政・伏見親政下の朝廷政治に介入したとされる僧侶で、幕府に苦情が殺到した結果、正応4年(1291)5月頃、幕府に鎌倉へ呼びもどされ、関係者も処分されています。
森幸夫氏の「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54号、1994)は数少ない史料を丁寧に分析して禅空という不思議な存在を掘り起こした優れた論文ですが、禅空の出身・経歴はなお曖昧なままなので、以前から気になっております。
ついでに例によって勝手に宣伝をしておきます。
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鎌倉遺文研究会第133回例会の御案内
日時:7月26日(木)18:00〜
場所:早稲田大学文学学術院第2研究棟(39号館)6階第7会議室
報告者:守田逸人氏
題目:「(仮)中世成立期の国衙・在庁官人・領主」
[報告者の一言]
地域社会における領主の役割を検討する一つの試みとして、国衙・在庁官人・地域の領主などがどのように連携しながら中世の地域社会が展開していくのか、考えてみたい。
http://www.f.waseda.jp/ebisawa/top.html
銅像
で、直接見たことのある人々。
源頼朝(鎌倉)。
頼朝と政子(伊豆韮山)。
北条早雲(小田原)。
真田幸村(長野・上田)。
楠正成(東京)。
足利尊氏(足利)。
織田信長(岐阜城)
加藤清正(名古屋城)。
土肥実平と奥さん(湯河原)。
…意外と少ないですね。
あとは、ハチ公(東京)と大国主命(出雲)。
六波羅蜜寺の空也上人…あれは銅像じゃなかったか?
僧なら空海とか、多そうですね。
ただ立ってるよりは、馬に乗った武将の像なんかは、顔がはっきり見えないだけ(夜目遠目笠の内)けっこう格好良く見えたりします。
事後の御礼
ご無沙汰しております。
別に何をしていたわけでもないのですが、ちょっと遠のいてしまいました。
ところで、「コラム」所載の編集長執筆「南北朝の守護―狼たちの夢」ですが、あまりの名文だったので、若い人たちに大々的に宣伝してみました。好評です。
事後承諾でまことにあいすみませんが、お許しください。
そのかわり、タダでとは言いません。
よろしければ、以下のデータをどこかで使ってやって頂けませんでしょうか。
現代語訳は、ちょっと待ってください。
<トホホな治天と「してやったり」の将軍>
『後愚昧記』永徳三年(1383)二月条
一日、入夜<亥終刻歟>、有叩門之者、相尋之処、自 仙洞局下女走来云、上臈有不慮事、珍事也、血不止、浅猿事也云々、仍女房驚而徒跣而急参了、其後於女房者不被帰之、共女性帰来、相尋子細之処、新院令打入局給、抜御剣以剣峯令打上臈給、仍血多出而不止云々、過怠不知何事、指而無違逆申事、先是以少将内侍被召云々、而境節袴并湯巻等無用意之間、不参処、不及是非沙汰、令打入給、如此御打擲、頗不得其意事也云々、若有讒人之故歟、縦又有罪科、雖及御退出、為 主上・ゝ皇之人、豈可及如此之儀哉、凡不可説、前代未聞珍事也、莫言々々、
二日、上臈疵、於血者聊有止気、但連々有絶入之儀云々、安否難知之体也云々、凡驚歎無極者也、及晩頭准后<新院御母儀>、被参 仙洞、被進一献云々、機嫌可然之由、自 仙洞走来告之、仍俄馳走遣迎輿、是上臈為退出也、如此祗候、重及不思議沙汰者、忽可失命之命、且可退出之由、准后同被相計之故也、秉燭之程、無相違上臈退出了、女房同輿被帰了、 上皇不被知食上臈退出之由、若知食者、重令打入給可被断命歟、令隠密而退出、可謂逃虎口歟、
三日、早旦准后被来、為見上臈云々、暫之被帰了、丘首座相具疵医<号楽阿弥、疵医名人也>来、令見上臈、付薬了、
四日、疵医師楽阿能々可加療治之由、依左府命、按察中納言召仰之云々、件法師按察家人也云々、
五日、上臈籠后(居カ)之由承及之、委可示給之旨、左府被送状於大納言許、非可載状、仍可参申之由、献返事了、入夜行向左府亭、装束・乗物等境節不能秘計、此事又非可黙止之、仍乍直垂乗己輿、密々所行向也、先教遠朝臣<申次>、直垂之由謝之、直又謝之処、近日人々皆以為此儀、更不可被憚旨被示之云々、事様委演説之、左相以外被驚之体云々、
九日、新院御没落丹州山国庄之由、有荒説、然而虚誕也、
十日、
十一日、後聞、按察局(※脇付に「仙洞」)<故三位知繁卿女、仙洞御愛物>、今日出家為尼云々、自去年冬比、御気色不快、殆及御追出故云々、左府密通歟之由、依有御疑心歟、寵愛近日怠之故也、不便々々、
十二日、左府参 内、摂政参会云々、
十五日、今夜、資康 仲光卿等、為左府使参 仙洞、而無御対面、入御々持仏堂、可被切御腹之旨、被仰之云々、是為武家可奉配流之旨、依有荒説、如此被仰歟云々、後聞、准后種々依被宥申、憖有御対面云々、
今夜京中下辺、依此事騒動云々、付其有種々荒説等、不被詳記之、虚説等有之故也、
義満のほくそ笑む顔が目に見えるようですね。
自治体史刊行のお知らせ。
皆さんご無沙汰しています。各地で様々な自治体史が刊行されていましたのでお知らせいたします。
?『愛知県史』資料編12 織豊編2
天正10年7月から天正18年7月までの愛知県に関係する古文書・記録・金石文資料・宗教関係の資料を編年で掲載。特に小牧・長久手の戦いに関して詳細に収載してます。
?『愛知県史別編』 窯業2 中世・近世 瀬戸系
県内の139窯跡、平安から室町期の中世の瀬戸窯などに関する解説をし、「主要消費遺跡解説」として、瀬戸・美濃陶磁器が出土した日本全国67遺跡の「遺跡の特徴と意義」に関する解説もしています。
鎌倉・南北朝期の資料編は
『愛知県史』資料編8 中世1です。
その他に、『愛知県史』資料編9 中世2・『愛知県史』資料編11 織豊1も刊行。
『愛知県史研究』第11号も刊行。中世史関係のみですが、
「星野氏と天羽衣」ー室町期大嘗会における三河国ー 西島太郎氏
「専長寺阿弥陀如来像と「宋風」彫刻 附 遍照心院の遺仏」伊東史朗氏
資料解題
「尾張守護・守護代・守護又代一覧について」 水野智之氏
が収められています。
定価ですが、資料編の中世1・2 織豊1・2が、各5,000円。
別編 窯業2が、6,500円。 県史研究が650円となっています。
送付方法は、下記のページで参照してください。
http://www.pref.aichi.jp/kenshi/
?山梨県史研究の刊行。
『山梨県史研究第14号』発売されました。昨年刊行されたのですが、非売品だったものを今回山梨県史編纂室のご好意で販売されることになりました。
内容は、中世関係ですが
「戦国期「半手」村々の実態」 黒田基樹氏
「甲州金成立期にかんする覚書」 平山 優氏
「明治時代における武田氏館跡保存問題」 秋山 敬氏
『山梨県史』中世資料編としては
『山梨県史』資料編4 中世1(県内文書)
『山梨県史』資料編5 中世2上(県外文書)
中世2下(県外文書)
『山梨県史』資料編6 中世3上(県内記録)
中世3下(県外記録)
『山梨県史』資料編7 中世4 (考古資料)
近々『山梨県史』通史編2 中世も刊行予定。
『山梨県史』は各6,500円
『山梨県史研究』は14号は390円。1号から13号までが710円です。
『山梨県史研究』は、下記の住所に現金書留でお願いしますとの事でした。
山梨県県民情報センター 甲府市丸の内1-8-5??電話055(223)1408にお問い合わせください。
『山梨県史』は 山梨日日新聞社 出版局
〒400−8515 山梨県甲府市北口2−6−10
電話 055−231−3105までお願いいたします。
?『館林市史』の刊行。
『館林市史』資料編2 中世 「佐貫荘と戦国の館林」が刊行されました。
鎌倉期から戦国時代までの資料がカラー写真をふんだんに取り入れ、鎌倉公方・古河公方・後北条氏の文書が写真入で紹介されてます。定価は3,000円です。
購入先は、館林市役所企画課 市史編纂センター
〒 374−0018 群馬県館林市城町2ー3(第二資料館内)
電話 0276−76−7651にお願いいたします。
?『喜連川町史』刊行
待望していました『喜連川町史』第5巻 喜連川文書上・下がついに刊行されました。
「喜連川文書」の全てが鮮明な写真で解説され、鎌倉・古河公方の研究者にとってこれ以上ない資料集です。定価は6,000円ですがそれ以上の価値のあるものですので是非購入をお勧めいたします。
購入先は 〒329−1412 栃木県さくら市喜連川4397−1 喜連川公民館内
生涯学習課編纂(喜連川町史)係 電話028−686−6622にお願いいたします。
なお、土日祝日はお休みだそうです。
?『二宮町史研究』第4号刊行。
昨年の『二宮町史』史料編1 考古・古代・中世に続きまして、『二宮町史研究』第4号が刊行されました。
内容は、高田専修寺特集として中世史のみ掲載いたしますが、
専修寺所蔵木像真仏坐像、木造顕智坐像 川瀬由照氏
「下野国高田専修寺」の中興 本橋端奈子氏
の論文が所収されています。
定価は500円です。
購入先は 二宮町史編纂室
〒321−4521 栃木県芳賀郡二宮町久下田719
電話 0285−73−1085にお願いいたします。
また、『二宮町史』史料編は3,000円です。
以上お知らせいたします。
<釈由美子さんが好きさん
連日お忙しそうですね。お体大切になさって、くれぐれも無理のない様にしてください。
7月19日のブログは、私にとって肝に銘じなければならないものです。先週私が千葉歴史学会の中世史部会で発表したのですが、レジュメの史料を充分生かしきれずに大きな失敗を起こしてしまいました。今度は史料をよく読み込んで再度検討のしなおしです。
新居荘に行ってきました。
台風4号が猛威を振るう中、中国・四国方面に旅行してきました。
今回の目的の一つは源実朝の後室が建てた遍照心院領があったといわれる新居荘と、実朝の供養塔といわれる七重石塔。
どこからどこまでが新居荘だったのかは今はわかりませんが、石塔のある金剛院周辺は瀬戸内海に面した広い平地で、現在も広い水田地帯が広がっていました。見たところ安定した収量が望める豊かな土地だったのではないかと感じます。
西八条禅尼の置文にはこの荘園をめぐる争いがあったことを示唆する文章がありますが、こんなに広いんだからそんなに目くじら立てなくても、という気がしますね。
石塔の写真などを含めた詳細はブログのほうにも書きましたのでよかったらご覧ください。
http://wataruko.ameblo.jp/wataruko/entry-10040601326.html
う〜ん、やはり・・・
見逃せないですね。ここ。
>Kariさん
ごぶさたです。
個人的に、興味深いくだりです。
件の上臈さん、厳子さんてお名前でしたっけ?
こうなるとほんとうに、トホホな治天としかいいようがないですねぇ。
後愚昧記、手許にないので助かります♪
秀吉もそうでしたが、上淫というのでしょうか。
好んで上流階級の女性に食指を動かしたと伝わります。
たんなる好色ではなくて、何らかの政治的意図まで読み取るべきなのでしょうか?
この時代のことに疎くて、わかりませんが。
>井上さん
相変わらずエネルギッシュですね。頭が下がります。
私なんか、京都にさえここ○○年・・・(あわてて口を閉ざす。)(/_・;)
ブログも拝見しましたが、石塔はずいぶん立派なものですね。
供養塔というと、いつごろの建立になるのでしょうか?
長野の善光寺には、佐藤継信・忠信兄弟の供養塔と伝わるものがありますが、
どうやら建立年代は室町時代らしいんですって。
>むらじさま
>七重石塔
市の説明板には「実朝の五十年忌にあたり建立された」と解説されています。
手持ちの本では信濃常楽寺の石造多宝塔を例に挙げて様式の共通性を指摘していますが、不調法者の私にはなんとも言えなくて申し訳ありません。
この近くの野間という地区にも十数基の石造物があるそうで気になりはしたものの、時間の都合で割愛せざるをえませんでした。リベンジ決定です。
http://wataruko.ameblo.jp/wataruko/entry-10040601326.html
信濃常楽寺の石造多宝塔
>信濃常楽寺の石造多宝塔
これですか?
多宝塔と層塔、しかも四国と信濃でどこまで比較対照となりうるのか、浅学非才なので分からないのですが。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003497M.jpg
亜季多さんに浅学非才とか言われると
謙遜を通り越して嫌味にしか聞こえないんですけど(笑)写真をありがとうございます。
私の書き方が悪くてすみません、件の本では「石塔婆」という表現をしていたので探していたら多宝塔が見つかったのでああいう書き方をしてしまいました。
載せていただいた写真の多宝塔の両脇に層塔があったかと思いますが、筆者はそれと比較したのかと思います。
ただいずれにせよ文章を読んだ限りではあまりにも漠然としているというか唐突にすぎて、ご指摘の通り両者を比較する理由は私にもわかりません。
現代語訳。
すいません、二日条の「忽可失命之命」は「忽可失命之故也」、五日条の「先教遠朝臣」は「先以教遠朝臣」でしたね。
さて、現代語訳。かなり意訳しましたので、厳密なものではないです。
<現代語訳>
一日。深夜・・・子の刻も近いだろうか・・・家の門を叩く音がするので、誰かと思って尋ねさせてみたら、仙洞にいる娘(三条厳子)のところから下女が走って来たという。彼女の言うには「お嬢さまが大変です。血が止まらないほど怪我をしてしまって・・・」。それを聞いた家の女房が、動転して裸足のまま仙洞に走っていった。その後、彼女は帰って来ず、共に行った女だけが帰宅した。聞いてみると、後円融院が娘の部屋に乱入し、抜刀した挙句、刀の峯で娘を打ち据えた。それで出血が止まらなくなってしまったという。一体、どういうことなのだろう。何か落ち度があったわけでもないだろうに・・・。さらに事情を聞いてみると、まず院は少将内侍(日野種子)を通して、寝所に来いと娘に言った。娘の方は出産直後で里から帰ったばかりのこととて、袴やら湯巻やらがありませんと、やんわりお断りした。それを聞いた院は逆上し、部屋に乱入して娘を刀で打ち据えた。このような振舞は、まったく理の通らない話であろう。ひょっとして、娘が密通しているとでも告げた人間がいるのだろうか。仮に娘に落ち度があり、暇を出されることがあるにしても、天皇や上皇という立場にある人が、こんなことをしてしまってよいものだろうか。まず以て言語道断、前代未聞の事件ではある。
二日。娘の傷の血は止まりそうだというが、うっかりすると、ふっと気を失う瞬間があるという。安否はまったく予断を許さない。まったく、呆れた話である。夕刻になってから、准后(広橋仲子)・・・院のご母堂・・・が仙洞に行き、院に酒を勧めた。それでどうやら機嫌がなおったらしい、というのを、仙洞から家の者が走って来て告げた。さっそく迎えの輿を仙洞にやった。娘を脱出させるためである。こういうことが再びあるようなら、おそらく娘の命はない。脱出の手立てについては、准后がとりはからってくれた。夜になって、計画どおり、娘は仙洞から逃げ出すことができた。女房が介添えとして一緒に輿に乗り、帰宅してきた。院は娘が抜け出そうとしていたのを知らないだろう。もし知っていたら、また乱入して今度は命を奪われてしまっていたかも知れない。ともあれ、何とか隠しとおして脱出することができた。虎口を逃れる、とはこういうことを言うのである。
三日。早朝、准后がやって来てくれた。娘の見舞いだという。彼女はしばらくして帰った。丘首座が創傷専門の医者・・・名は楽阿弥。傷を治す名医だという・・・を連れて来てくれた。娘を診察したのち、医者は傷に薬をつけた。
四日。医者の楽阿弥に娘を治療するよう言ったのは、実は左大臣(足利義満)で、按察中納言(裏松資康)に命じたのだという。楽阿弥は、そもそも按察家の者だそうだ。
五日。「お嬢さんが仙洞からお下がりになった、という話を聞きました。詳しいお話を聞きたいのですが」との書状が左大臣から息子(三条実冬)のもとに届いた。息子は、とても書面には記せない、直に会ってお話しましょう、と返事をしたそうだ。夜になってから、息子は左大臣亭に向かった。ふさわしい装束も乗り物も、取り込み中でとても用意できない。かと言って、事情を説明しないわけにもいかないので、直垂の格好で輿に乗り、ひそかに左大臣亭に向かった。到着すると、まず申次の山科教遠を通して、直垂という非礼を詫び、本人に会ってから直接に詫びもしたのだが、左大臣は「ああ、最近、そういう人は増えてますよ。全然、問題ないですから」と言ってくれたという。娘の件について、詳しく事情を説明した。左大臣は、ひどく驚いた様子だったそうだ。
九日。院が丹波の山国庄に隠居する、という噂が流れた。(そうなっても別に構わないが)しかし、残念ながらデマ。
十日。
十一日。あとで聞いて記すのだが、仙洞の按察局・・・故三位橘知繁の娘で、院の寵愛を受けていた・・・が今日出家して尼になったという。昨冬から院の情もよろしからず、ほとんど追い出されるようなかたちになっていた。左大臣と密通している、というのを疑ったのだろうか。それで、近日は寵愛のほども薄れていたという。哀れな話である。
十二日。左大臣が内裏に参った。摂政(二条良基)と会って何か話をしたらしい。
十五日。今夜、裏松資康と広橋仲光が、左大臣の使いとして仙洞に向かった。ところが、院は使者との対面を嫌がり、挙句のはてに持仏堂に籠城して「腹を切る」とわめき立てた。幕府が院を配流にするとの噂があり、それを耳にしてこの挙に出たのだろうか。のちに聞いたところによると、またしても准后が色々となだめすかして、ようやく使者と対面したということである。
今夜、下京のあたりで「上皇自殺未遂」が話題になり、ひと騒動あったらしい。この他にも色々と噂は多いのだが、どうせデマばかりなので、ここには記さない。
※ちなみに、後円融院庁の構成員は、ほぼ全て義満の家司化していたそうです。今谷明『室町の王権』にいわく、近臣が有能なら配流云々の噂が院の耳に入ることはない、ということですが、多分その近臣からして、院にプレッシャーをかけていたのかも知れません。
とりあえず、お礼。
>kariさん
おもしろい史料を、ありがとうございます。
ただ入力するだけでも一苦労なのに、そのうえ、ちょーーー!!! 力作の現代語訳まで頂戴し、感謝感激であります♪♪♪♪♪
ちかいうちにアップさせて戴きますね。
また、拙文をお褒め戴いたうえに、宣伝して戴きまして、誠にありがとうござりまする。
幼少より、あんま褒められたことなく育ちましたので、恥ずかしいですわいな。
地下活動中ゆえ、お礼のみにて、失礼いたしやす。
kariさんの紹介された史料
桜井英治『室町人の精神』25〜26頁でも取り上げられていますね。
桜井氏は後円融のことを「マザコンで暴力男という現代にもありそうな」と評しております。
ありがたや現代語訳
>kariさま
現代語訳ありがとうございます。
原文を読んだ段階では、「院が女性に乱暴を働いて血が止まらない」という程度にしかわかりませんでした。
ありがたや現代語訳。
栗再論
唐突ですが。
《「桑と養蚕を田畠の「農業」に含めて考え、農業の一部として扱うのは、少なくとも
古代・中世においては実態に即しても、また制度的にも完全な誤りであり、それは漆、
栗、柿等の樹木栽培についても全く同じであった。鎌倉幕府法の追加法四二四条に
「領主等作田畠、養蚕事」とあるのも、両者が法的にも区別されていたことを明確に
物語っており、それ故、桑をはじめ漆、栗、柿等の樹木栽培を「農業」のなかに入れて
憚らないのは、農業の語の不当な拡大解釈か、農業への過大な思い入れ、無意識の
「農本主義」の強調としか考えられない》(網野善彦『中世民衆の生業と技術』176頁
東京大学出版会)
気になって、同書第三章の『栗と漆』をみますと、
「丹波国御栗栖は、きわめて古い起源をもつ天皇家直属の栗栖として栗を貢進しており、
平安末期以降はそれを基盤として甘栗供御人といわれた栗売が活動していた」(135頁)
とか、
「京都に丹波屋という丹波国甘栗供御人の流れをくむ商人がいたように、栗は各地で商品
として売られたに相違ない」(138頁)
とか、
「栗林に対する公的な賦課は、桑・漆・柿が本別であったのに対し、反別の地子栗であった
ことも別に述べたとおりである。このような果実の栗が食料として、田畠の穀物と比べても
無視し難い大きな意味を、百姓の生活のなかでもっていたことも間違いない」(153頁)
とか、あります。
以前、話題にした『徒然草』第四十段の、因幡国在住の栗ばかり食う女の話は、もしか
すると、単なる田舎の奇譚としてではなく、もっと普遍的なもの、つまり、経済学でいう
交換価値のアレゴリーとして読むべきもので、そう読めば、経済現象に並々ならぬ関心を
示した経世家(太平記に云う傾城屋の主?)兼好にふさわしくなる、という感じがして
きました。
精神的蒲焼き
今週土曜日、何となく小岩に行くつもりでいたのですが、第2回史料講読講座の会場は駒澤大学駅近くでしたね。
あぶない、あぶない。
スタッフなのに、何を考えているんだか・・・。
夏の暑さはうなぎと釈さんの講義で精力をつけて乗り切らねば。
ついでですが、当日飛び込みでも大丈夫ですけど、資料準備の都合がありますので、参加希望の方はなるべく早くご連絡ください。
http://jparchives.sakura.ne.jp/kouza/siryohkohdokukohza.html
>kariさん
臨場感溢れる名訳ですね。
後円融院も殆ど病気、というか病気そのものなので気の毒な点もありまする。
>「南北朝の守護―狼たちの夢」
「元弘以往はただ民百姓のごとくにて上野の山名といふ所より出侍しかば・・」の山名は私の田舎の近くです。
小学生のときは山名八幡宮に遠足に行きました。
http://jparchives.sakura.ne.jp/column/db/nantaiheiki_wolves.html
http://www.net-you.com/yamana/
>相国入道 さん
いつもありがとうございます。
以下、自問自答。
>禅空
森幸夫氏に聞くのが一番早そうなので、今度お会いしたときに質問してみます。
森氏の論文によれば醍醐寺文書の憲淳宛親玄書状に「禅空」が三宝院において通海から灌頂を受けたことが記されており、時期的には確かにこの「禅空」でよさそうですね。
通海というのも色々気になる人です。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kojima-shosaku-kouannogogan.htm
山梨県史通史編 中世刊行のお知らせ
皆さんこんばんは、先日ご案内いたしました。
『山梨県史』通史編2 中世が刊行されました。
鎌倉時代から戦国時代の山梨の通史を紹介しています。武田信玄・勝頼はもとより、信玄以前の武田氏の研究は注目です。
定価は6500円です。申し込みは下記まで申し込んでください。
山梨日日新聞社 出版局
〒400−8515 山梨県甲府市北口2−6−10
電話 055−231−3105。
歴史の話からそれますが、古河公方の文書を所蔵しています。『鷲宮神社』が今ちょっとしたブームになっているのだそうです。アニメ『らき☆すた』の鷹宮神社のモデルが鷲宮神社なのだそうです。詳しいニュースは下記を見てください。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/comics_and_animation/?1185364256
>鈴木小太郎さん
ありがとうございます。これからもどんどんお知らせします。
農業というもの。
筆綾丸さま。
ご無沙汰しております。
山村研究をしている知人は、大学院時代に網野善彦氏に師事したのですが、師匠と酒席で「漆掻きは農業か?」「桑は?」「柿は?」「栗は?」しまいに「楮は?」という話になり、網野氏が「いや、それは農業じゃない」と力説するもので、ほとんど喧嘩腰になってしまったそうです。知人の言うには、「網野さん自身が、裏側から(排他律的に)農業という定義にこだわり過ぎなのではないか」ということでした。
したがって、「農本主義」なることばも、実は網野氏の内面に、深く刻印されており、それに対する近親嫌悪的な情があるのではないか、との疑念が浮かびます。
性格上、「定義」というものには、あまり近づかないようにしていますが、それでなくとも「農業」の定義は難しいだろうと思います。ある先史人類学者のいわく、「農業とは、ある生物がある生物に栄養摂取を目的として依存し、かつその生物を消費し尽くさないことである」。実は、ある種の淡水魚も菌類を「栽培」して消費し、かつ消費し尽くさないで「増殖を待つ」のだそうです。
で、栗なんですが、「地子」という徴収方法をとっているのは、栗がまさに「地面に落ちる」からで、「どの木になっていたかを問わない」からかも知れません。また、当時は「菓子(果子)」そのものに稀少価値があり、例えば金・銀と対比可能であって、その点で貨幣的な性格をもつ、とも言えそうです。
ただですね。一種の指数として扱われていたのは事実としても、最終的に人の口に入るものなんだから、栗の木を栽培するのもやっぱり農業なんじゃないの(前掲の「定義」)、という根本的な疑問があります。桑だって「農業」と思われていた節はあって、例えば伊予国弓削島は塩を年貢に出すので著名ですが、平安末期における塩はどういうわけか「桑」の本別にかかります。ちょっと事情があって、実はこの島には水田がほとんど無いんですね。畠はあるにも関わらず、それを飛び越えて「桑」を指数として、つまり一種の公田として塩年貢を賦課してしまう。要するに、桑と田の互通性みたいなものが見えてきます。
税の賦課方法という点で、別に考察は必要かと思いますが、農業・非農業という「網野史学」の分類法は、それだけではちょっと危ないかな、と考えています。
♪ 直前に勝手に宣伝 ♪
♪ 地方史研究協議会第6回研究例会 ♪
日時 2007年7月27日(金) 18:30〜20:30
会場 立正大学(大崎キャンパス)11号館第5会議室A(学術情報センター5階)
※JR大崎駅・五反田駅より徒歩5分
論題 伊予国弓削島荘の悪党(仮題)
報告者 渡邊浩史氏
???? 第58回(高松)大会の関連例会だそーです。
塩
kariさま
こちらこそ。ちょっと旅に出てました。
http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/yuuki/insect/insect1.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%A9%E6%AD%A9%E5%8B%95%E7%89%A9
ハキリアリは大変高度な技術者で、まさに agriculture という感じがしますね。むしろ、
horticulture(園芸)と言うべきかもしれませんが。ホモ・サピエンスがアグリカル
チャーを発見するのは新石器時代くらいからでしょうか。ハキリアリが農業に関する議論
を聞いたら、いまさら何を、と言うかもしれませんね。
最近よく、5、7、17、23 ・・・というように、素数年毎に孵化発生する蝉の戦略が話題
になりますね。この蝉は人類より早く素数を知った、と。素数なる高度な数学概念に太古
の昔から精通していたのだから、根っからの農業家ハキリアリより凄いかもしれませんね。
最近人気沸騰中のクマムシ君などは、数万気圧下でも、断じて死なぬそうです。人類で
あれ昆虫であれ、結句、種の保存が至上命題でしょうから、この虫などは、ほんとに偉い。
ただ、そんなに種を保存せんとしてどうすんだ、という気もしますが。良寛さんの言を
敷衍すれば、人類は滅ぶべきときに滅べばいいのですよね(笑)。
与太話はさておき、語弊があるかも知れませぬが、網野氏における一種精神病理学的な現象、
なんとなくわかるような気がします。弓削島の塩の数量単位といいますか、カウントの方法
といいますか、非常に興味深いお話ですね。
フランスのアンシャン・レジームでは、grande gabelle(大塩税:大西洋の塩田から取れ
る塩への税)と petite gabelle(小塩税:地中海の塩田から取れる塩への税)が有名で
すが、塩税の問題はどこの国でも難しいですね。
塩商人は saunier(女性形 sauniere)といいますが、機内で『ダヴィンチ・コード』
の仏訳を読んでいますと、ヒロインの祖父で殺されるルーヴル美術館長 Jacques Sauniere
のソニエールが気になりました。なぜ塩商人などという姓を撰んだのか、なにか神話的な
意味を込めたのでしょうが、筆者の意図がわかりませんでした。
釈由美子が好きさん
弓削島を根城にした塩ドロボーの話ですね。
>農業というもの
網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』の第5章で、
石井氏が「牧畜は農業でしょ」「養蚕は農業でしょ」と一々挙げていくのに対して、網野氏が「いや、それは農業じゃないですよ」と一々否定していたのを思い出しました。
てーぎ。
おはよーございます。
釈さん、復活いたしますです。
んで、定義ですが、kariさんと同じで、あたくしも、あんま近付きたくはないのですが、話の都合上、近付かざるをえぬ時ゃありまさね。
定義の定義は「概念の内容を限定すること」・「或る概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること」(『広辞苑』)でして、つまり「これは、こーゆーモンである」と決めちゃうことですわい。
あること(言葉)を「こーゆー意味です」と決めとかないと、議論が混乱しちゃうので、きっちり定義しとく必要があるわけですな。
何をどー定義しようが、その人の勝手ちゃ勝手なンでしょーが、議論の前提である定義が間違ってると、議論が全部、わやになりますわな。
理路整然と妙ちきりんなことをほざくことになるわけっす。
たとえば、泥棒を「泥で出来た棒」と定義しますと、これは、もう、わけのわからんことになる。
「泥で出来た棒」的なことを口走ってる研究て、けっこーあります。
[参考文献]安本美典氏『虚妄の九州王朝』(梓書院、1995年。13・14頁参照)
勝手に宣伝
皆さんこんばんは、私の所属しています『栃木県歴史文化研究会』で下記の研究発表会を予定していますのでふるってご参加ください。
第17回栃木県歴史文化研究会研究発表会
大会テーマ
??????????「武者たちの時代ー中世成立期の下野ー」
記念講演 10:50〜12:20
演題 「武者たちの時代と平泉政権」
講師 入間田宣夫氏 (東北工科大学教授)
研究報告 13:20〜15:20(各40分)
?「下野武士団の成立」
須藤 聡氏(群馬県立太田女子高等学校)
?「下野における中世寺院の様相」
大澤 伸容氏(足利市教育委員会)
?「大谷磨崖仏の歴史的評価について」
橋本 澄朗氏(しもつけ風土記の丘資料館)
質疑・討論 15:30〜16:30
開催日 8月25日(土)
場 所 栃木県立博物館講堂
????問合せ 栃木県立博物館 028‐634−1313
会員以外の方は参加費として500円いただきます。
皆様奮ってご参加ください。
もう一つ栃木県立文書館の研究紀要が発刊されましたので併せてお知らせいたします。
栃木県立文書館研究紀要第11号(開館20周年記念特別号)
中世史のみ掲出いたします。
論文
中世東国の大道について 江田郁夫氏
戦国時代常陸東林寺の動向について 荒川善夫氏
研究ノート
勧進聖頭白上人の探索 峰岸純夫氏
研究動向
下野中世史研究の回顧と展望ー『栃木県史』以降ー
松本一夫氏
価格は280円です。
問合せ、栃木県文書学事課情報公開推進室
電話 028−623−2073(月〜金、ただし土・日・祝日は休室)にお問合せください。
以上お知らせいたします。
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