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Japanese Medieval History and Literature

40筆綾丸:2007/06/17(日) 19:13:31
押込の構造
今谷明氏『近江から日本史を読み直す』(講談社現代新書2007年5月)に、
笠谷和比古氏の『主君「押込」の構造』に触れて、こう述べられる件りがあります。
「(主君押込という武家の慣行の)起源は中世にあり、その最初の君主が後白河
上皇である。上皇はまず、平治の乱(1159年)で藤原信頼、源義朝に拉致され
一本御書所に押し込められ、次いで鹿ヶ谷の謀議がもれて平清盛に鳥羽殿に押し込
められ、三度目は義仲による拉致である。生涯三度も押し込められた君主は珍しい。
押し込めの慣行は、この後も源頼家の修禅寺押し込め、北条時政の伊豆押し込めと、
連綿と続いている」(98頁)

このロジックは強引すぎまいか。
笠谷氏の著書には、江戸期大小名の家老達による殿様押込の例は沢山ありますが、
老中達による将軍押込の例はありません(当然ですが)。前者が可能だったのは、
明示的にせよ黙示的にせよ、幕府が主君押込を容認していたからで、これと「将軍
押込」とは、実例がないとは言え、権力構造の次元が全く違う筈です。
したがって、頼家や時政はともかく、後白河の「押込」と笠谷氏の「主君押込」と
は別異に考えねばならぬのであって、今谷氏のロジックは強引すぎるように思われ
ます。今谷説の如くんば、こうも言えまいか。
鎌倉幕府は、後鳥羽を隠岐に押し込め、順徳を佐渡に押し込め、土御門を阿波に押し込め、
藤家将軍を京都に押し込め、王家将軍を京都に押し込め、後醍醐を隠岐に押し込めたので
ある、と。・・・しかし、江戸期の権力構造と次元があまりに違いすぎて、押込のアナロ
ジーは成り立たないように思われる。


小太郎さん
お手数をおかけします。




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