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Japanese Medieval History and Literature

68筆綾丸:2007/06/27(水) 20:36:49
将軍家の仰せ
小太郎さん
『加賀・能登 歴史の窓』を入手しました。

「将軍と武士の棟梁としての鎌倉殿を分けようとする考えは北条氏の内では常に考え
られていた課題ともいうべき問題であり、摂家将軍より宮将軍宗尊親王に替った段階で、
そのことが如実に現われてくる。それは宗尊親王が関東に下向したすぐ後の建長四年
六月三十日付で発給した関東下知状案(『遺』七四五四号)である。この文書の書止
文言に「依将軍家仰、下知如件」と記載されている。従来の「鎌倉殿」ではなく
「将軍家」と表現されているのである。この違いには注目すべきである。宗尊親王が
鎌倉へ下向した時期は、北条時頼を中心とした得宗体制が確立しようとしている時期
であり、義時以来北条氏の懸案であった将軍の処遇に関わる問題を解決しようとした
のが、この書止文言に表現される「将軍家」であったと考えられる。
この宗尊親王将軍の時期の下知状の書止文言は全て「依将軍家仰、下知如件」であった
が、次の惟康王が将軍に就任したすぐ後に、書止文言が「依仰下知如件」(文永三年
十二月、『遺』九六○九号」)に替り、文永五年三月になると又「依鎌倉殿仰、下知如件」
と「鎌倉殿」に復しているのである。文永五年と言へば北条時宗が連署より執権となった
時期に当り、国難とも言うべき蒙古の国書が届き、まさに国家の危機に直面しようとして
いた時期でもある。将軍を武士の棟梁から外した体制でこれに対処するのは危険であると
判断して、「鎌倉殿」への復帰だったのではなかろうか。この変更以降、将軍や執権が替
っても、下知状の書止文言は変化することなく鎌倉末期を迎えることになる」(244頁〜)

武家の棟梁は鎌倉殿が本筋だ、ということかと思いますが、著者のロジックですと、宗尊
親王の場合に限って、なぜ鎌倉殿から将軍家にしたのか、という理由をうまく説明でき
ないように思いました。
宗尊親王が、鎌倉殿にはなれない、あるいは、鎌倉殿ではまずい、という積極的な理由が
欲しい、と思いました。




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