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Japanese Medieval History and Literature
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現代語訳。
すいません、二日条の「忽可失命之命」は「忽可失命之故也」、五日条の「先教遠朝臣」は「先以教遠朝臣」でしたね。
さて、現代語訳。かなり意訳しましたので、厳密なものではないです。
<現代語訳>
一日。深夜・・・子の刻も近いだろうか・・・家の門を叩く音がするので、誰かと思って尋ねさせてみたら、仙洞にいる娘(三条厳子)のところから下女が走って来たという。彼女の言うには「お嬢さまが大変です。血が止まらないほど怪我をしてしまって・・・」。それを聞いた家の女房が、動転して裸足のまま仙洞に走っていった。その後、彼女は帰って来ず、共に行った女だけが帰宅した。聞いてみると、後円融院が娘の部屋に乱入し、抜刀した挙句、刀の峯で娘を打ち据えた。それで出血が止まらなくなってしまったという。一体、どういうことなのだろう。何か落ち度があったわけでもないだろうに・・・。さらに事情を聞いてみると、まず院は少将内侍(日野種子)を通して、寝所に来いと娘に言った。娘の方は出産直後で里から帰ったばかりのこととて、袴やら湯巻やらがありませんと、やんわりお断りした。それを聞いた院は逆上し、部屋に乱入して娘を刀で打ち据えた。このような振舞は、まったく理の通らない話であろう。ひょっとして、娘が密通しているとでも告げた人間がいるのだろうか。仮に娘に落ち度があり、暇を出されることがあるにしても、天皇や上皇という立場にある人が、こんなことをしてしまってよいものだろうか。まず以て言語道断、前代未聞の事件ではある。
二日。娘の傷の血は止まりそうだというが、うっかりすると、ふっと気を失う瞬間があるという。安否はまったく予断を許さない。まったく、呆れた話である。夕刻になってから、准后(広橋仲子)・・・院のご母堂・・・が仙洞に行き、院に酒を勧めた。それでどうやら機嫌がなおったらしい、というのを、仙洞から家の者が走って来て告げた。さっそく迎えの輿を仙洞にやった。娘を脱出させるためである。こういうことが再びあるようなら、おそらく娘の命はない。脱出の手立てについては、准后がとりはからってくれた。夜になって、計画どおり、娘は仙洞から逃げ出すことができた。女房が介添えとして一緒に輿に乗り、帰宅してきた。院は娘が抜け出そうとしていたのを知らないだろう。もし知っていたら、また乱入して今度は命を奪われてしまっていたかも知れない。ともあれ、何とか隠しとおして脱出することができた。虎口を逃れる、とはこういうことを言うのである。
三日。早朝、准后がやって来てくれた。娘の見舞いだという。彼女はしばらくして帰った。丘首座が創傷専門の医者・・・名は楽阿弥。傷を治す名医だという・・・を連れて来てくれた。娘を診察したのち、医者は傷に薬をつけた。
四日。医者の楽阿弥に娘を治療するよう言ったのは、実は左大臣(足利義満)で、按察中納言(裏松資康)に命じたのだという。楽阿弥は、そもそも按察家の者だそうだ。
五日。「お嬢さんが仙洞からお下がりになった、という話を聞きました。詳しいお話を聞きたいのですが」との書状が左大臣から息子(三条実冬)のもとに届いた。息子は、とても書面には記せない、直に会ってお話しましょう、と返事をしたそうだ。夜になってから、息子は左大臣亭に向かった。ふさわしい装束も乗り物も、取り込み中でとても用意できない。かと言って、事情を説明しないわけにもいかないので、直垂の格好で輿に乗り、ひそかに左大臣亭に向かった。到着すると、まず申次の山科教遠を通して、直垂という非礼を詫び、本人に会ってから直接に詫びもしたのだが、左大臣は「ああ、最近、そういう人は増えてますよ。全然、問題ないですから」と言ってくれたという。娘の件について、詳しく事情を説明した。左大臣は、ひどく驚いた様子だったそうだ。
九日。院が丹波の山国庄に隠居する、という噂が流れた。(そうなっても別に構わないが)しかし、残念ながらデマ。
十日。
十一日。あとで聞いて記すのだが、仙洞の按察局・・・故三位橘知繁の娘で、院の寵愛を受けていた・・・が今日出家して尼になったという。昨冬から院の情もよろしからず、ほとんど追い出されるようなかたちになっていた。左大臣と密通している、というのを疑ったのだろうか。それで、近日は寵愛のほども薄れていたという。哀れな話である。
十二日。左大臣が内裏に参った。摂政(二条良基)と会って何か話をしたらしい。
十五日。今夜、裏松資康と広橋仲光が、左大臣の使いとして仙洞に向かった。ところが、院は使者との対面を嫌がり、挙句のはてに持仏堂に籠城して「腹を切る」とわめき立てた。幕府が院を配流にするとの噂があり、それを耳にしてこの挙に出たのだろうか。のちに聞いたところによると、またしても准后が色々となだめすかして、ようやく使者と対面したということである。
今夜、下京のあたりで「上皇自殺未遂」が話題になり、ひと騒動あったらしい。この他にも色々と噂は多いのだが、どうせデマばかりなので、ここには記さない。
※ちなみに、後円融院庁の構成員は、ほぼ全て義満の家司化していたそうです。今谷明『室町の王権』にいわく、近臣が有能なら配流云々の噂が院の耳に入ることはない、ということですが、多分その近臣からして、院にプレッシャーをかけていたのかも知れません。
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