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It's beginning to and back again

1M=M ◆eskwQ12oL2:2008/08/05(火) 23:43:50 ID:???
パチプになってから本をほとんど読まなくなった。
目が疲れてるので。
本もずいぶん処分したり実家の押入れに放り込んだりしてる。
こんなままじゃなんだから、これから基本一日一レスづつ、
手持ちの本やネットで見て印象に残ってる言葉を引用していこうと思う。
まあ、就寝前の日記代わりに。

215M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/11(土) 23:47:56 ID:R1.eUGzo
「聖地の想像力」植島啓司

聖地の定義。
とりあえず箇条書きになっているが、それらはすべて個別に結びついている。
相互にその性格を強めあっているのである。

1 聖地はわずか1センチたりとも場所を移動しない。
2 聖地はきわめてシンプルな石組みをメルクマールとする。
3 聖地は「この世に存在しない場所」である。
4 聖地は光の記憶をたどる場所である。
5 聖地は「もうひとつのネットワーク」を形成する。
6 聖地には世界軸(axis mundi)が貫通しており、一種のメモリーバンク(記憶装置)として機能する。
7 聖地は母胎回帰願望と結びつく。
8 聖地とは夢見の場所である。
9 聖地では感覚の再編成が行われる。

216M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/12(日) 00:00:24 ID:R1.eUGzo
同前

「すべて抱懐され、感じられ、実験され、想像され、考えられ、見抜かれたものは、現実である。
 そして現実以外には何ものもない。世界は世界ではない。物質は物質ではない。空間、無限、小宇宙の数々、諸構造、
 生物学的法則などは外的なものではない。すべて存在するものは人間的である」(ル・クレジオ「物質的恍惚」)

聖地が容易にわれわれの意識を変容させるように、われわれ自身の存在もまた「場所」の意味を次々と変容させうるのである。
いつ、どのようにして、そこを訪れたかということーーすなわち、移動の記憶こそが、聖地には長い年月にわたって折り重なるように堆積しているのである。
そして、それを読み解く行為は、そのまま自分自身について知るということにもなるのである。

217M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/15(水) 02:01:21 ID:5ecG5DL6
「自死という生き方」 須原一秀
 10章 雑感と日常(哲学的プロジェクトとして自死を遂行することを決意し、それを実行するまでの身辺雑記)

どうして人に告げねばならないのかと考えたのかと言えば、自分の決心が本物かどうかを自分で確かめるためと、そのことを客観化するためでもあった。

健康であり、比較的快適な生活が安定して続いているので、哲学的に「死の身体化」確認するのに適切だからである。
あまり、老人になりすぎても、あまり若くても研究者として意味がないような気がするのである。
そして、私の仕事(大学講師)の関係上、春休みが仕事先に迷惑をかける程度が一番低いのである。

今回の自死と拙著「<現代の全体>をとらえる一番一番大きくて簡単な枠組み」で問題にした「肯定主義」とは関係している。
なぜなら、肯定主義は、人生をすべて生きるに値すると肯定するわけでも、人生はすべて生きるに値しないと否定するわけでもなく、人生には良い面も悪い面もあり、
また生きるに値する場合も生きるに値しない場合もあることを認める立場だからである。
その上、肯定主義は人間の可塑性を認めるわけだから、人間が自分の「生き死に」のすべてを人工的にコントロールすることも、場合によってはありうることを肯定主義は認めるからである。

もともとあまり先のことは考えないタイプであり、そのようにして生きてきたが、今ここに至って、
あと半年ほどの時間枠で物事を考えれば良いわけだから、今は尚更に気持ちは楽になっているような気がする。

何か新しい遊びを思いついた子供のようにワクワクしているのである。
全体としては健康状態が上々であるということもあってか、上機嫌のまま月日が流れている感じである。

確かに、思い残しも未練も無いわけではないと思うのだが、なんとなく人生の基本はおさえたという思いもあって、そういうもに執着する気持ちはほとんど無いし、
たとえば来年の花火大会に行かないことにも、今楽しんだからそれで良いという思いがある。

218M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/15(水) 02:38:25 ID:5ecG5DL6
同前

この貴重な数ヶ月間を有意義に過ごしたい、という気持ちは当然あるのだが、結局は普通の生活
(食事、散歩、運動、人付き合い、仕事)にかまけて、あまり変わらないというのが現実である。
これは、最後がもっと近くなった時には、そうではなくなるのだろうか。今の段階では分からない。
いじれにしても、今自分が平常心でいられることに誇りと嬉しさを感じている。
月日の経つのが、あまり速くないような気がする。これは毎日が充実しているからであろうか。本人としてはそんな気がしない。

12月4日の段階では、どうってことのない焦りであったが、3月の半ばになってくると、まだ本が出来上がってないということや、それにもかかわらず、それ以外の準備
(遺書の作成、決行場所の選定、道具の用意など)もほとんど出来ていないことで、気分が滅入ってきた。
それを友人に話すと「あんたは昔から、そうだったではないか」と言われてしまった。

結局、今も昔も生活意識はほとんど違っていない、というのが私の実感である。確かに、小さなことでは
「どうせ死ぬのだから、まあいいか」などと横着になることもあるが、大きなことではまずそのような気持ちになるようなことはない。

ソクラテスが刑死の当日に、いつもの友人たちといちもどおりのディスカッションにいつもの気分で楽しんで、あっさりと死んで行った原因と理由も分かった気がした。

つまらないことで気分が落ち込み、以前にもあった同様の失敗を思い出し、つい、「あー、死んでしまいたい」とつぶやいている自分に気がついて、苦笑いをしてしまった。
もう3ヵ月後には死ぬことが確定している人間でも、こんな姑息な手段で自分を救っているということは、「死ぬことを前提に生きてこそ、本当の人生を歩むことができる」などという言い草は怪しいものだと感じてしまった。

最後まで自分の歯で食べ物をしっかり噛みしめて味わうことができるまま、この世を去ることができることは有難いと感じた。

どうしてあまり感傷的にならなかったのかという理由は分からない。最近の私は無感動的になっているわけでもないことを考え合わせると、なお更に分からなくなってしまう。

219M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/15(水) 03:02:10 ID:5ecG5DL6
同前

とにかく今は気分が良いのだから、支障のないうちにこのまま行ってしまいたい。

友人は私のご機嫌の良さをいぶかって、「あんたは遊びかゲームのつもりで生きて死んでいくのだなー」とか、「あんたの態度は人生に対する一種のアイロニーだなあー」などと
インテリらしいコメントをしたのだが、私は違うと言った。
この問題に関する限り、心は極めて単純で裏も表もない感じがしている。
また彼は「自然死であれ人工死であれ、結局はどちらも避けたいのだがなー」と言ったので、
あれこれ考えないで、チャンスが来たら間髪を入れずに死んで行く葉隠的な死がそうだと答えた。

今の私はあまり時間がなくてあせっている。片付けなければならない仕事が重なってきたのである。
そのせいで、今までの気分の良さがそがれてしまっている。
後進の方々には、期日などにはこだわらないように事態を設計されますようお勧めする。

(須原氏は2006年4月、某県の神社の裏山で、頚動脈を刃物で切り裂いた後首吊り。享年65歳。晴朗で健全で、そして平常心で決行されたひとつの自死。)

220M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/15(水) 03:21:41 ID:5ecG5DL6

今日は、死ぬにはいい日だ。私の人生のすべてがここにあるから。(あるネイティブ・アメリカン長老の言葉)

光を与えるものは、火に焼かれることを耐えねばならない。(V・フランクル)

221M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/16(木) 01:13:00 ID:R1.eUGzo
「目ざめて生き、目ざめて死ぬ」 S・レヴァイン

(癌患者ロビンは自分の癌を癒すことに意識を集中して数年過ごしたが、とうとう極度の痛みに圧倒されるようになった。
そこでコンシャス・ダイイングの運動家であるレヴァインに会い・・)
彼女「癒そうとするのは止めて、自分自身を死なせてあげるべきなのでしょうか」
彼女の質問は私の体を貫き、意識は一瞬にして凍った。それは明らかにハートだけが答えることのできる質問であった。そして私のハートは深い所で知っているのか、こうささやいた。
「本当の質問は、見つけるべき癒しとはどこにあるのかだ」これは生それ自体が尋ねる質問だ。「死という完了とは何か」。
癒しが先入観でなく探求になった時、ロビンの痛みは消え始めた。(中略)こうした状態が数週間続き、ロビンはヒーリングの輪を作って欲しいと願い出た。
数人の有名なヒーラーが彼女を囲んで輪を作り、癒しのエネルギーを送るべく集まった。皆が手のひらをかざして行う力強いヒーリングだった。
輪の外側にいた友人のなかには、エネルギーがはっきりと見えた者もいた。部屋の中に”癒しが存在していた”ことに疑いはなかった。
一週間ほどして、ロビンは頭と背中に三十もの新しい腫瘍が見つかった。
「ヒーリングは効きました。ハートがこれほど開いたと感じたことはありませんでした。病気がそろそろ完結するのだと思います」と、彼女は私に告げた。
死ぬ前の数週間、彼女はそれまで知ることもなかった完全さの感覚を体験していると話してくれた。

222M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/16(木) 01:58:39 ID:R1.eUGzo
「自我と無意識」 C・G・ユング

だから、自我が勝利の主張をやめるならば、呪術師(無意識)による憑依も自動的に止む。では、マナは、どこへ行ってしまったのだろうか。誰が、あるいは何がマナになるのか。
ここで我々に分かっているのは、意識も無意識もマナを持っていないということだけである。従ってこの状態では、マナは、意識的でないとともに無意識的でもないような、ある物の手に入っていることになる。
このある物こそは、求められていた人格の「中心」であり、対立物間の言い表しがたい一点であり、あるいは、対立物の統合者であり、葛藤の帰結であり、エネルギーの緊張がもたらした成果であり、
人格の生成、最も個人的な前進であり次なる段階に他ならないのである。

無意識との対決の当面の目標は、無意識内容がもはや無意識でなくなって、じかにアニマ・アニムス現象として現れたりしない状態に達することである。すなわちアニマ・アニムスが無意識に対する関係の単なる一機能となることである。
そうならないかぎり、それらは、依然自律的コンプレックスとして、意識の制御を超え、さながら撹乱者のようにふるまう障害要因でしかない。人は、コンプレックスを持てば持つほど、憑依された状態になる。

意識が原像の素朴な具体化を止めない限り、実際、繰り返し起こるだろう。この圧倒的な力から逃れることができるなどとは、私は、全く思っていない。
人にできるのは、それに対する態度を変えることだけであって、それによって、自分がいとも簡単にあれこれの元型に落ち込み、自らの人間性を犠牲にしてある役割を演じる羽目になるのを防ぐのがせいぜいなのだ。
元型に憑かれた人間は、単なる集合的な存在となり、仮面の一種となってしまう。

それに対して身を守るには、無意識の諸力に対して自らの弱さを頭から認めてしまうほかない。

私が無意識を人格的なものと考えていると思われては困る。
無意識は、人間的・人格的なものの彼岸にある自然現象から成り立っている。

223M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/16(木) 02:38:40 ID:R1.eUGzo
同前

魂というものを持った我々は、内からと外からの手強い作用の間に立たされているわけで、何らかの仕方で両者をふたつながら正当に取り扱わねばならないのだ。
それをするには、人それぞれの能力に応じてするしかない。「何をなすべきか」ではなく、何をなすことができるか、何をしなければならないかに思いを致さなければならない。

二つの世界像と、その実体は漠然としかつかめぬながらそれだけいっそうはっきり感じられるその諸力の間にはさまれて、存在し、生きている何ものか、それが我々自身に他ならない。この「何もの」かは、我々とは違うくせに、身近なものであり、まさに我々自身でありながら、それと認識できない。
それはまた心の秘められた構造の、仮想される中心点であって、動物とも神々とも、鉱物とも星々とも、近づきを求めることができ、そのくせ我々に不思議な思いもさせない。
この何ものかは、実際これらのことを全て要求してくるが、我々の手のうちには反対する然るべき理由は何もなく、それどころか、この声に耳を傾けるほうがはるかにためになる。

私は、この中心を「自己」と名づけた。それは、われわれにはそれそのものとしては把握できない。それは、我々の理解力を超えている。
「我々の内なる神」と呼んでもいいだろう。我々の全精神生活は、まさにこの一点に解きがたい」すべての端緒を発しているかに見え、あらゆる最高かつ究極の目標も、ひたすらこの一点を目指しているように思われる。
こうした逆説は、我々が、自らの理解力の彼方にあるものを言葉で言い表そうとするときには、常に避けることができない。

自己と自我の関係は、ほとんんど太陽と月の関係に等しい。
自己がなにか不合理なもの、定義不可能なものであって、自我はそれに敵対するわけでも隷属するわけでもなく、それに依存しつつ、太陽の周りを回る地球のように感じ取られたとき、個性化の目標は達せられたことになる。
個性化された自我は、自らが、上位に位置する知られざる主体の客体であると感じるようになる。

224M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/17(金) 00:34:08 ID:R1.eUGzo
「天使のおそれ」 G・ベイトソン

精神の定義
1 精神とは相互に作用しあう複数の部分ないし複数要素の集合体である。
2 精神の各部分のあいだで起こる相互作用の引き金を引くものは差異である。
3 精神過程は傍系エネルギーを必要とする。(注 差異はエネルギーではない)
4 精神過程は、循環的(またはそれ以上に複雑な)決定の連鎖を必要とする。
5 精神過程においては、差異のもたらす結果をそれに先行する出来事の変換形(コード化されたもの)とみなすことができる。
6 これら変換プロセスの記述と分類によって、その現象に内在する論理階型の階層構造が明らかになる。

ここでは<認識論>を、知るというプロセスーー差異に反応する能力と、それらの差異の発生源である物質世界との相互作用ーーを研究する科学として定義したい。

まだまだ自分が、かたや量的思考をともなった現行の唯物論と応用科学と「しっかり管理された」実験、かたやロマティックな超自然論にはさまれて、身動きとれないでいるのがわかる。
私の仕事は、悪夢のようなこれら二つのナンセンスのあいだに、どこか宗教のおさまるべきまともで妥当な場所があるかどうかを探ることである。
もしも宗教が蒙昧や偽善なしに成り立つとしたら、知識や芸術のなかに、自然の一体性をよろこびとするような聖の肯定の基盤を見出せないものか。
そしてそれは、われわれにいまぜひとも必要な新しい謙虚さを生み出すことができるだろうか?

225M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/17(金) 01:12:33 ID:R1.eUGzo
同前

ある種ののノンコミュニケーションは<聖>の維持に欠かせないものだと私は考える。
そうした場合コミュニケーションが望ましくないのは、それがこわいからではなく、コミュニケーションが何らかのかたちで観念をの本質を変化させてしまうからである。
(オープンさというのは、過剰になりうるもののひとつだ。例えば生物学ではある最適値を越えると何でも毒になる)

人が聖とみなすものは何か? ひょっとして、あらゆる生命システムの働きのなかにいくつか特殊なプロセスがあって、そのプロセスの知らせなり情報なりがシステムの他の部分に届くと、
全体の機能が麻痺してしまったりする、そんなことがあるのだろうか?

生命圏におけるkミュニケーション上の規則性を探ろうとすることは、とりもなおさず、その浸透度と決定力の大きさから「神」という言葉で呼んでもいいような一システムの複雑にからみあった規則性ををも探ることになるにちがいない。
そこで発見した規則性がつくるひとつのまとまりこそ、我々の真の拠り所となるものである。
それらの規則性は、<エコ>とも呼ぶべき神の属性とみなすことができるだろう。

<聖>、人間がいじりまわすべからざるもの、畏敬のなかでのみ出会うことのできる全体感覚、そしてそれは謙虚さを呼び起こす。
何かを構築してそれを<聖>指定することなんてできない。
そうした<聖=エコ>は単純な意味の善悪などにはかかわりあわず、自由意志ももたない。
実際それは、たとえば適応の裏には中毒かもっとひどい場合には病気があるという事実を象徴するものだ。

ガイアとエコは同じではない。ガイアという考え方は、地球の物理的リアリティにもとづいたものだ。それは「もの」的だ。
<エコ>と呼べるような神について考えるときは、精神過程にのことを考えほしい。大切なのは「過程(プロセス)」だ。

結びつきというのは完全にがっしりしてるのではなくて、知識には切れ目があること、さらに精神過程には新しい結びつきを形成する力(自己修復的トートロジー)が含まれている。

エコというのは精神過程のの論理、つまり全生命と進化をひとつにまとめている結合性の謂いだ。それに違反することはできるが侮ることはできない。
愛すべきものというより、美しいもの。そして恐ろしい。

226M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/21(火) 00:44:07 ID:R1.eUGzo
「伝達不能体」 植島啓司

裂け目、何らかの歪みがコミュニケーションを可能にする。
コミュニケーションは、構造化の内に生ずる非連続的な契機を基点とする。その非連続的なるものは体系には吸収されず、外側へと逸脱する。不定形なパルスのように。
つまり、ある種の体系的なコミュニケーション・システムが定位されると、巨大なディスコミュニケーション(伝達不能体)が同時に姿を現わす。
そのコミュニケーション・システムは、その怪物と出会うために(あるいは出会わないために)機能し続ける。

227M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/21(火) 00:54:58 ID:R1.eUGzo
「ディスコミュニケーション」 植島啓司

ディスコミュニケーションについて論じるための前提
1 コミュニケーション・システムは、いかなるものであっても、それ自身きわめて限定されたものである。
2 それ故に、コミュニケーションそのものがひとつの矛盾であること。さらに、情報というのはすべて欠陥のある情報であるという認識が必要である。
3 ある規則について知ることを妨げる規則をわれわれ自身が所有していること。
4 それをチェックしうるフィード・バック回路の借定。
5 さらに、多様性の高いシステムをつくり上げるためのトレード・オフ。

228M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/21(火) 01:16:44 ID:R1.eUGzo
「男が女になる病気」 植島啓司

私は、男が女のカテゴリーへ自らをうつし入れるということ(又はそうした欲望)は、両性具有及び一つの全体性の体現というばkりではなく、
一つのトランスフォーメーションの現実化として意味を持つのではないかと考えている。
すなわち、肝腎な点は、二つのカテゴリー間を自由に往き来することができるという事ではなかったかと想像するのである。
もっとも広く見られる信念の一つに、動物と人間との転生・輪廻、化身、霊魂と肉体との分離などの特徴が見出される。
世界は常に変化することをやめない。人々は否応もなくこの現実の世界とは異なる世界へと連れていかれるのだ。
こうした信念のもとでは、異なる世界との間を幾度も自由に往復できる人間こそが神聖とされたのではなかろうか。カーニヴァルに登場する仮面・仮装はおそらくその名残である。

ある人間が超自然的存在と関わるには、彼が普通の人々とは異なっているという表徴が必要なのである。
それが広い意味での<病気>であり、ヒステリー性の精神疾患のこともあるし、具体的な肉体的疾患こともあるのだ。
人々は率先して、神職に従事する者の片眼を潰したり、足を切断したりしたのである。

229M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/21(火) 01:37:19 ID:R1.eUGzo
「遠野物語」 柳田国男

85 土淵村の柏崎にては両親とも正しく日本人にして白子二人ある家あり。髪も肌も眼も西洋人の通りなり。
  今は二十六七くらいになるべし。家にて農業を営む。語音も土地の人とは同じからず、声細くして鋭し。

106 海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりという。見慣れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。
  年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。

230M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/02(土) 02:42:48 ID:R1.eUGzo
「不死のワンダーランド」 西谷修

<死>は個人の消失するところであるとともに共同性の結節点であり、<人間>の存立に関わるあらゆる思考の結び目である。
その<死>は近代の<公共性>の成立によって非人称化し、<技術>による世界の更新によってますます希薄になってきた。
まず<固有の死>が見失われて<無名の死>となり、やがて万人の死が留保され、誰もが「死ぬことのできない」世界がやってくる。
そこに「危険」を見出して、人間にもう一度<可能な死>を取り戻そうという努力があった。
だがその一方で<死の不可能性>をついにあらわになった実存の条件と見なし、この未知の状況に歩み出て、それが不可避にする<人間>についての思考の変容を身をもって生きようとする試みがあった。

世界戦争以後、人間の世界が<死線>を越えたのだとすれば、この状況は世界の<死後>とも言いうるだろう。
だが、人間には<死後>はない。「私」は、「死んだ」という過去形の主語となることはできないのだ。<死線>を越えると、そこにはもはや始まりも終わりもない地平の不在が現れる。
だが、それはのっぺらぼうの空間ではなく、<外>の風が吹き通うなか、<有限な者>たちが輪舞するにぎやかな荒野、洗い出された<地上の不死>の光景だ。
長らく人間をあらかじめ断罪してきたアポカリプスは消滅する。

231M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/07(木) 01:59:45 ID:wqAyEL.U
「イエスという男 逆説的反抗者の生と死」 田川健三

イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である。そして、歴史の先駆者はその時代の、またそれに続く時代の歴史によって、まず抹殺されようとする。
歴史はイエスを抹殺したと思った。しかし、その跡を完全に消し去ることはできなかった。それで今度は抱え込んで骨抜きにしようとした。
そしてそれは、一応見事に成功してしまった。キリスト教は、イエスの抹殺を継続する抱え込みであって、決して、イエスの先駆性を後に成就した、というものではない。

原始キリスト教からはじまって二千年間のキリスト教は、旧約・ユダヤ教の宗教儀礼のアーメンは忠実に守り伝えながら、イエスの叫びの、逆手にとって突きつける、
そういう態度は継承しなかった。キリスト教というものは、こうしていつも、イエスの頭を飛び越して、ユダヤ教のイデオロギーを継承する。

イエス自身は「愛」という単語をほぼまったく用いていない、という事実だけは知っておいたほうがいい。
(そもそも「イエスの宗教」などというものはないので、イエスは宗教支配の社会に対して抗った男なのだけれども)

義人ではなく罪人が救われる、と主張することははなはだしい危険をはらむ。これを固定した真理として証明しようとした時には、すでにおかしくなる。
しかし、イエスは人類に真理をもたらした人ではない。現状を支配する「真理」を拒否する逆説的反抗者だったのだ。
その紙一重が、あちら側にでなくこちら側転がる瞬間は、それを、怒りをもって発言する時である。それを「義人」に向かってたたきつける時である。

232M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/07(木) 02:48:28 ID:wqAyEL.U
同前

「羊を百匹持っている者がいたとしよう。そのうち一匹がどこかへ行ってしまった(以下略)」(マタイ18、ルカ15)
世の中全体が算術的合理性をもって強制してくる時に、それに抗おうと思えば、こちらも強引かつ単純にそれを裏返して主張するのでなければ、強い衝撃力を持てない。
大切なのは九十九でなく一だ。こう主張する時、もはや人は深く全体を見通す平衡のとれた理性を失っている。暴論ですらある。
だがそのように叫びださなければならない状況はしばしばあるものだ。これまた決して不動の真理ではない。逆説的反抗なのである。

此の世で実際にこのようなことを、ある程度以上主張すれば、叩き潰されざるを得ない。実際には九十九の力に一が勝つはずがないからだ。
逆説的反抗に立ち上がれば、人は悲劇に突入する。しかし、歴史を動かしてきたのはさまざまな悲劇だった。
イエスという人がさまざまな場面で語り、主張してきた逆説的反抗を「真理」の教訓に仕立て変えてはならない。
イエスは「真理」を伝えるために世界に来た使者ではない。そのように反抗せざるを得ないところに生きていたからそのように反抗した。だから、殺されたのだ。

「人間はいかなる罪であろうと赦される」(マルコ3)
悔い改めにふさわしい実を結べ、とか洗礼を受けろとか、そういったことは一切言われていない。ここに洗礼者ヨハネとイエスの決定的相違がある。
そしてもっと重要なことは、イエスはこれ以外(及び「義人と罪人」は「罪」(マルコ2))は「罪」について一切発言していない、ということだ。
原始キリスト教団は洗礼者ヨハネの呼びかけ「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」を継承し、それがあたかもイエス自身の思想の質であるかのように描こうとした。

「我が神、我が神、何ぞ我を見捨て給いし」(マルコ15)そう言って叫んだ時、その瞬間に残ったのは、無残な死だけであった。
このあまりに赤裸々な断末魔の死と対面するのを避けるため、解釈者はイエスからこの言葉すらも奪おうとした。そういう解釈者の意識の中で、イエスは「復活」させられる。
次には、イエスの死の意味づけが始まる。ついには、イエスという救済者は十字架の死によって世の人々を救うために此の世に来たのだ、と言われるようになる。イエスは十字架にかかって死ぬために生きた、というわけだ。
そうではない。イエスのあのような生の活動の結末として、あのようにすさまじく生きたから、あのようなすさまじい死にいたり着いた。
いやむしろ、死が予期されているにもかかわらず、敢えてそれを回避せずに生きぬいた、ということか。
イエスの死に希望があるとしたら、死そのものの中にではなく、その死にいたるまで生きかつ活動し続けた姿の中にある。

233M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/12(火) 01:14:27 ID:R1.eUGzo
「倫理と無限」 E・レヴィナス

関係の他に還元し得ない(総合化し得ない)窮極的な経験は、人間の向かい合い、つまり、社会性のなかにあるように思われます。第一哲学は倫理なのです。

顔貌への接近(向かい合い)は直ちに倫理的なものになります。それは知覚に還元されるものではないのです。
願望の露呈、それは慎み深い露出であるにもかかわらず、最も赤裸々なものです。顔貌には本質的な貧しさがあるのです。
通常、人はあるひとつの「役割」です、つまりあるものの意味は他のものとの関係のなかにあるのです。しかし、顔貌はそれとは反対に、ただそれだけで意味であるのです。汝、それは汝ということなのです。
顔貌は、あなたの思惟が包み込むような内容のものにはなりえないのです。あなたを彼方へと導いて行くものなのです。

顔貌が語るのです、顔貌こそあらゆる言説を可能にし、また、開始する、という意味で。「汝、殺すなかれ」ということが、顔貌の最初の言葉です。これは一つの秩序=命令なのです。
他人の顔貌は貧しいものです。それは、私がどんなことでもすべてをそのためになし得るし、またそれに対してすべてをなさなければならないような貧しいものなのです。
そして、私のほうは、私が誰でありしかし、「最初の人間」として、私が顔貌の呼びかけに応じるための方策を自ら見出す最初の人間であるのです。

他人が私を見つめるやいなや、私にはそれに責任があるということになります。相手の責任が私にかかってくるのです。それはまさに、私がすることの彼方へと向かう責任です。
私は相手に同じように私に対することを期待することなく、他人に対して責任を負うのです。私が他人に隷従するのは、まさに他人と私の間の関係は相互的なものではなく、非対称的なものでだからです。

私の責任は、譲り渡すことができないものであって、誰も私に取って代われないでしょう。私に課せられるこの重荷は、単独者の最高の栄誉です。
交換し得ない我、私は自分で責任を負う限りにおいてのみ、その我なのです。私は全ての人に取って代わることができますが、誰一人私に取って代わることはできません。

顔貌は、<無限者>を意味するのです。

234M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/17(日) 00:52:23 ID:i4OQmZ3.
「人間性の解体」 K・ローレンツ

世界の出来事の経過は予め定められていて、なんらかの目的を目指している、と信じている人が多い。
実際には、有機的創造物の生成は、予言できない道筋で起こっている。
真に創造的な出来事の可能性への我々の確信も、人間の自由やとりわけ責任への我々の確信も、この認識に基づいている。

人間のすべての道徳的責任は、彼の価値感情によって決定される。それゆえ我々は、現実は数量化でき計量化できるものにのみ属するとする流行病的迷信に反対しなければならない。
次に、我々の主観的体験の諸過程は、厳密な自然科学の用語で表現されうるすべての事柄と同じ程度に現実性をもっているということが、解明されねばならない。

概念的思考と言語は、人間の知識・能力・意欲の、換言すれば人間の精神の成長をひき起こした。
ところがこの成長の指数的な増大スピードは、精神を事実上<魂の敵対者>にしてしまった。

科学主義や擬技術的な思考によって抑圧されている、美や善への価値感情が、新たに呼び起こされねばならない。
教育的処置は、ゲシュタルト知覚のトレーニングを目指している。なぜなら、これのみが感じ取った調和を伝えることができるからである。
このゲシュタルト知覚が正しく機能するためには、あらゆる計算機械がそうであるように、非常に多くのデータが供給されなければならない。
一つの有望な方法は、できる限り幼い時期に、生きた自然とできるだけ親密に接触する機会を与えることである。

235M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/23(土) 03:30:39 ID:i4OQmZ3.
「聖と俗」 M・エリアーデ

神聖なるものは、一切から隔絶した<まったくの他者>である。すなわちいかなる人間的なものも、また宇宙のいかなる現象もこれに比すべきものはない。
この神聖なるものに対するとき、人間は自らが全く無価値なことを感じ、<一個の被造物に過ぎない>と痛感する。

人間が聖なるものを知るのは、それがみずから顕れるからであり、しかも俗なるものとは全く違った何かであると判るからである。−聖体示現
聖体示現はすべて背理を示す。聖なるものを啓示することによって、事物は或る<全く別のもの>となるが、しかもその後も依然としてその事物であることに変わりはない。

古代社会の人間は、聖なるもののなかで、あるいは浄められた事物のすぐそばで生活しようと努める。
聖なるものとは力であり、究極的には実在そのものを意味するからである。
聖なるものは実有に充ちている。聖なる力は実在と永遠性と造成力とを同時に意味する。

236M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/24(日) 01:02:25 ID:i4OQmZ3.
同前

宗教的人間にとって空間は均質ではない。空間は断絶と亀裂を示し、爾余の部分と質的に異なる部分を含む。
我々はこれを<世界の創建>と同一視してよかろう。それは世界についてのあらゆる考察に先立つ原初の宗教体験である。この空間の断絶あって始めて、世界の形成が可能になる。
この断絶こそ、将来のあらゆる方向付けの基礎となる<固定点>、中心軸を産み出すものだからである。
聖なるものの啓示によって世界は存在論的に創建される。何の目印もない無限に均質な空間のなかに、一つの絶対的な<固定点>、一つの<中心>が聖体示現によって露われてくる。

それゆえ宗教的人間ははまた、常に<世界の中心>に居を定めようと努めた。世界のなかで生きることができるためには、世界を創建せねばならぬ。

聖域の内で、俗界は超越される。初期の文化段階では、この超越の可能性は様々な入り口の形を示すことによって表現された。神々が地上に降臨し、また人間が象徴的に天界に昇ることのできる通路として、上を向いた戸口がなくてはならぬ。

人の住む領域は、それがあらかじめ浄められているからこそ、つまりそれが神々の所業であり神々の世界と交流しているからこそ、一つの<コスモス>である。
<われらの世界>と成るべきものは、その前に先ず<創造され>ねばならぬ。そして一切の創造にはその手本として、神々による宇宙の創造がある。
未知の領域の宇宙化は常に或る浄化である。空間に秩序を与える者は、神々の模範的仕事を再現する。
伝統社会の人間は上に向かって、<開いている>空間、象徴によって地平の突破が保証され、それによって地上を超えた別の世界との接触が可能な空間の中にのみ、生きることができたのである。

世界はそれが聖なる世界として啓示される限り、<世界>ないし<コスモス>(宇宙)と認められる。

237M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/27(水) 01:28:40 ID:i4OQmZ3.
「朝の影のなかに」(1935年刊) J・ホイジンガ

*文化の基礎条件
第一に、精神的価値と物質的価値の均衡を必要とする。この均衡があってはじめて、単なる欲望の充足とか権勢欲の満足とかの次元を越えた、
より高次のものと人々が身をもって評価する社会の機構が開かれるのである。
第二に、文化は努力を内包する。文化とは志向することであり、その方向はつねにひとつの理想に、(個人の理想を越えた)共同体の所有するひとつの理想にしぼられている。
文化の担い手にとって、理想は常に救済を意味する。

人間の相互依存という原理が存分にその力を発揮し、そのいわば統率のもとに、さまざまなかたちの義務感が配列される。

今日、様々な文化志向を互いに結ぶ言葉は、豊かな暮らし、権力、安全(平和と秩序もこれに含まれる)、といった語彙に見出される。
すなわち、これ全て自然の本能から真っ直ぐ出てきただけのものであって、精神によって高められていない、ひとつにまとめるよりは互いに分ける方向に働く理想である。
こんなものは、すでに穴居人類これを知っていた。
今日しきりに国民文化、階級の文化が語られる。ということは、文化という概念が、福祉、権力、安全といった理想に従属させられているということだ。

文化は形而上的に志向づけられねばならぬ。

238M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/27(水) 02:19:17 ID:i4OQmZ3.
同前

*判断力の全般的衰弱
今日西洋に生きているごく当たり前の人の場合、彼は余りにも多くのことを知らされすぎている。
既成の文化一式の強引な働きかけにあって、その言うがままに考え、利用してしまうという危険から身をかわすことは困難であろう。
多種にわたる皮相な知識、批判の武器を具えていない視線にとってはあまりにも広すぎる精神の地平、ここに、判断の能力は不可避的に弱まっていかざるをえない。

現代の大衆娯楽・宣伝のメカニズムは、集中ということを妨げる働きを極度に持っている(例 視覚的暗示への即座の反応)。内省と献身が欠落しているのである。
己自身の内面への回帰、この瞬間への没入、これこそが、文化を求める人間にとって欠くべからざる心の構えなのである。

*ピュアリリズム;判断能力の発展段階から見てそれ相応以下にふるまう社会、子供を大人へ引き上げず逆に子供の行動にあわせてふるまう社会の精神態度
それは二様にあらわれる。一つ、真面目で重要な活動と目されながら、その実それが全く内容空虚な遊びとしての性格を帯びている場合。
一つ、確かに遊びと目されてはいるのだが、しかしその行動の態様からして真の遊びとしての性格を失っている場合。すなわち遊びと真面目の区別の混乱。
現代においては、遊びは多くの場合、終わらないのである。従ってそれは真正の遊びではない。

永遠の青年期;適切と不適切を見分ける感情の欠落、他人の意見を尊重する配慮の欠如、個人の尊厳の無視、自分自身に対する過大な関心。判断力と判断意欲の衰弱がその基礎にある。
このなかば自ら選び取った昏迷の状態に、大衆は非常な居心地の良さを感じている。
ひとたび倫理的確信のブレーキがゆるむや、いついかなる瞬間にも危険極まりないものとなりうる状況がここにある。

*カタルシス;浄化、ギリシャ人は悲劇を観終わったあとの精神状態をそう名づけた。哀れみも恐れも消え去った心の平静さ。事物の基底に触れたところに生じる心情の純化。
心は、ここに、真面目に新たに義務を遂行し、運命に耐えようとする。傲慢は打ち砕かれる。生の激しい衝動は遠ざけられる。
時代の要請する精神のクリアリングには、新しい禁欲が必要とされよう。純化された文化の担い手は、いわばあさまだきに目覚めた者でなければならないであろう。

239M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/29(金) 02:25:35 ID:i4OQmZ3.
浅田彰の講演録から

禅問答ー逃げ場のない状況で人工的なダブル・バインドを設定し、そこへギリギリとプレッシャーをかけていく。有を取ると無になり無を取ると有になるという絶体絶命の境地に追い込んでいく。
そして有と無の対立を超えた空の境地にポーンと飛ばせる。ダブル・バインド状況を相対矛盾的にやり過ごすのではなく、絶対矛盾的に突き詰めていった果てに命がけでワープする。
僕の知る限り、このワープが失敗することも珍しくないようだし、成功しても脳軟化と紙一重(笑)。うまくすると悟りといわれるような一瞬の閃きを得ることができる、というわけです。
ただし、実際は、相対矛盾的にやり過ごすだけというのが九割方だと思うんですね。有と無の対立からおりたあと適当になし崩しにする。

日常的な分節構造をいったん消去することで、それに先立つ分類なき連続体へとジャンプし、その体験から日常世界に還帰してそれを非分節的分節構造としてとらえ返す〜絶対矛盾的自己同一〜これだと単なるデジ/アナ二元論と変わらない。
そんなものが悟りだとしたら、ずいぶん緊張のない認識だというほかありません。むしろ問題は、絶対矛盾的自己差異化とでもいったものでしょう。
極限としての空というのは、同一的な場所というより、分節構造すなわち差異体系がたえず自らの上に折り重なってきては自らを差異化しつづける、メビウス的な生成の過程としてとらえるべきものではないかと思います。
言いかえるなら、それはアナログな連続体などという大人しいものではない、デジタルな分節構造がメビウス的に自己回帰しつづけるハイパーデジタルな運動体。
それは、分節として固定される以前の微細な粒子が捩れを孕みながら超高速で旋回している、そういうそういう恐るべき時空なのでしょう。
ダブル・バインド状況から絶対矛盾的にワープした果てに見出されるのは、そんな光景ではないかと思います。

240M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/30(土) 00:43:52 ID:i4OQmZ3.
「表層批評宣言」 蓮實重彦

ある名付けがたい「不自由」。それは、読むこと、書くこと、思考することを介して誰もがごく日常的に体験している具体的な「不自由」である。
だが人は一般に、それを「不自由」とは意識せずむしろ「自由」に近い経験のように信じ込んでいる。いまこの瞬間、誰もがごく身近に感じ取っていながら、
その感じとられた生々しい対象を、奥深い影の部分だの不可視の暗部だのに身をひそめたより確実なものと信じられる何ものかを参照することなしにはそれを具体的に容認しがたいという、
徹底して表層的な「不自由」が問題なのである。人が意識しないもの、あるいは意識するのを回避するもの、それは、のっぺら棒の表面だ。
距離の意識も方向の感覚もが対象の認識に貢献しえない、中心や深さを欠いた環境としての表面。「知」は、この環境を距離の意識と方向の感覚とに従って分節化しようとする。
ところでその分節化を可能にする距離と方向とは、実はすでに分節化されている、従って決していま、ここにありはしない抽象的な環境の中にあらかじめ刻みつけられたものにすぎない。
「不自由」を「自由」と錯覚することで、人は「知」と呼ばれる抽象と折り合いをつける。
錯覚されることで希薄に共有される「不自由」、希薄さに見合った執拗さで普遍化される「不自由」、これをここでは「制度」と名づけることにしよう。

241M=M ◆eskwQ12oL2:2010/10/30(土) 00:59:14 ID:i4OQmZ3.
同前

「制度」の機能を意図的に模倣しながら、その反復を介して「制度」自身にその限界を告白させること。
そのわずかな裂け目から、表層を露呈させること。「制度」の分節化の磁力が及びえない陥没点をおのずと形成させること。
その、表層と呼ばれるどこでもない場所で、言葉ははじめて「物語」の分節「装置」から「自由」になるだろう。その「自由」は「不自由」ととり違えられることのない荒唐無稽な「自由」であり、
距離の意識と方向の感覚とを欠落させた何ものかの生々しい到来だ。
だが人はその過剰なる何ものかをたえずころあいの「記号」に還元し、遭遇というあの単調な「物語」を再生産することで終えてしまう。

表層体験の記憶を、より生々しい現在として世界に向けておし拡げようではないか。

242M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/07(日) 00:55:26 ID:i4OQmZ3.
「パルチザンの理論」 C・シュミット

空中空間は、第1次大戦以来新しい次元として加わってきた。そしてそれによって陸地と海洋というこれまでの舞台は、その空間構造という点で即座に変わった。
パルチザン闘争においては、錯綜的な構造をもつ新しい行動空間が発生する。
なぜならば、パルチザンは、公然の戦場においても、また公然の最前線戦争という同一平面においても、戦わないからである。
パルチザンはむしろ、自己の敵を強制して別の空間へと連れ込む。
このようにしてパルチザンは正規の伝来の交戦区域に別種のいっそう暗黒な次元をすなわち深層の次元を付け加える。

243M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/07(日) 01:27:59 ID:i4OQmZ3.
「管理社会」 G・ドゥルーズ

マイノリティとマジョリティは数を基準にして区別されるのではありません。マジョリティを規定するのは適合を強いてくるモデルです。
これに対してマイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけですからね。
何らかの面でマイノリティへの生成変化に組み込まれ、その生成変化の道を歩む決意ができていれば、誰もが未知の旅路に分け入っていくことができるのです。

将来的には主体化のプロセスが新たな権力を産み落としたり新たな知に回収されことになったとしても、主体化がおこなわれる時点を見る限り主体化のプロセスには確かに反抗の自発性があるのです。
義務と権力と知をそなえた審級が回帰することはありえないのです。主体化のプロセスを、<事件>と言うこともできるでしょう。
<事件>を引き起こす状況や、そのなかに<事件>回収されるような状況に訴えたところで説明のつかない複数の<事件>。<事件>の出現は一瞬の出来事です。
重要なのはその瞬間であり、とらえなければならないのはその機会なのです。

世界の存在を信じることが、じつは私たちに一番欠けていることなのです。
世界の存在を信じるとは、小さなものでもいいからとにかく管理の手を逃れる<事件>を引き起こしたり、あるいは面積や体積が小さくてもかまわないからとにかく新しい時空間を発生させたりすることでもある。

244M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/07(日) 02:04:00 ID:i4OQmZ3.
同前

管理社会は監禁によって機能するのではなく、不断の管理と瞬時に成り立つコミュニケーションによって動かされている。

個人が体験するさまざまな内部滞在の機構すなわち監禁の環境は独立変数である。そこでは環境が変わるごとにゼロからやり直すのが当然のこととされ、すべての環境に共通する言語が存在したとしてもそれは類比にもとづく言語なのである。
これに対して様々な管理機構のほうは分離不可能な変異であり、そこで使われる言語は計数型で可変的な幾何学を具えたシステムを形成する。監禁は鋳型であり、個別的な鋳造作業であるわけだが、管理のほうは転調であり、
刻一刻と変貌をくりかえす自己=変形型の鋳造作業に、あるいはその表面上のどの点を取るかによって網の目が変わる篩に似ている。

管理社会では何一つ終えることができない。企業も教育も奉仕活動も、全て同じ一つの変動が示す準安定の共存状態であり、変動そのものは普遍的な歪曲装置として働くからである。

管理の計数型言語は数字でできており、その数字があらわしているのは情報へのアクセスか、アクセスの拒絶である。

245M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/14(日) 01:49:18 ID:i4OQmZ3.
「あらたなる世界」 MARTH

私たちは 今もこの瞬間も 本当は 未知なる 神秘なる はかりしれぬところにいる

光も闇も 水も大地も 人も星も まわりのすべて あらゆるものが 不可思議なものでできている

あらゆることがおこってきても 本当は 心配いらないんだ だって今ここはとてつもない神秘のなか 夢のようなものでできている世界なのだから

本当に生きるということは 永遠なるとてつもない未知のなかを まるで 果てしなく変化し続けながら旅をするかのようなもの・・・

夢のなかで死んだとして それを死と呼べるのか もし呼べないのなら この世界と呼ぶ夢のようなところで 死などあるのだろうか・・・

”生まれた”と信じるなら いつか必ず終わりがくることでしょう 
しかし 生まれるということを定義するには本当は いつ どこに 誰が・・ということの答をともなわなくてはなりません
しかし 神秘なるとてつもないところに生まれたということになれば それが真に事実ならば 私たちは そこをただ旅している旅人にすぎないのです

鳥のさえずり 青い空や白い雲 ここちよい風 日ざしやひだまり 花や花の香り・・
私たちがそれらのものを何より好きなのは それが私たちの本当のふるさとであり 本質であるからです
そして そのすべてが 森羅万象が生みだす自然そのものであるからです

246M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/14(日) 02:24:05 ID:i4OQmZ3.
同前

自然界のキャンパスには きっと果てがないのです どこまでも永遠に ゆけばゆくだけ 思えば思うだけ 生まれ続いてゆくのです

真の人生は果てなく美しい そのリアリティーのなかでは あらゆるものは輝いて ときめきの息吹を秘めている

私は誰・・人が名づけた名前でなくて人の決めたものでもなければ 私は 森羅万象の一部であるとしかいえない

人は どこへゆくのか・・・ 永遠に さまざまに未知なるところ けっしてひとりになることもなく けっしてわかたれることもなく

人は どこからきたのだろう それは 永遠にはかり知れない 未知なるところから 別の未知なるところへ やってきた

本当は何処にいて 本当は誰であるのかということ そしてすべてのものがひとつであること そして夢のような世界のなかに本当はいるのだという科学的事実を 私たちは今思い出さねばなりません

とてつもない神秘のなかから現れ とてつもない違った神秘のなかへ入ってきて そしてまた 違うかたちの神秘のなかへと還ってゆくのです

名称を超えてその当のものをみることができたならば それは とてつもなく美しいものになるでしょう

247M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/15(月) 01:33:42 ID:i4OQmZ3.
「量子論」 D・ボーム

世界を、別個の部分へと正確に分割することはできない。
むしろ世界は、古典的(ニュートン的)限界のなかでのみ個々の部分が有効な近似値として現れるような、不可分のユニットと見なされるべきである。

量子レベルの精密さにおいては、あるひとつの物体はそれ自体にのみそなわった「固有の」性質(ex波動、粒子など)をもつものではない。
むしろその性質のすべてを、その物体が相互作用するシステムとともに互いにかつ不可分に分かち合うものである。

たとえば電子のような所定の対象は、異なった可能性をもつ異なったシステムとともに異なった頻度で相互作用するので、それ自身を体現しうるさまざまな形態のなかで、絶え間ない変容を繰り返す。

248M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/15(月) 01:45:58 ID:i4OQmZ3.
「私の世界観」 E・シュレディンガー

あなたが自分自身と呼んでいるこの知識、感情、選択の統一体が、それほど昔でないある瞬間に何もないところから突然おどり出た、ということなどありうるはずがない。
むしろこの知識、感情、選択は、本質的に不変、不滅のものであり、あらゆる人間、あらゆる感覚的存在の内にある、数的にただひとつのものなのである。
ただしこれは、スピノザの汎神論のように、あなたは永遠無限の存在の一部分、あるいはその変形なのだ、という意味ではない。
あなたは、「すべて」なのだ。
それゆえ、あなたが今生きているこの生は、存在全体のたんなる一部分ではなく、ある意味ではその全体そのものだと言える。
ただ、この全体というのが、一目で見渡せるようにつくられてはいないだけだ。

249M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/15(月) 02:09:25 ID:i4OQmZ3.
「あいだ」 木村敏

この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、
われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。

自己とは絶え間ないひとつの動きなのであって、そのどの一瞬を切っても、そこに「それ以前」から「いま現在」を通って「それ以後」へと向かう時の流れのようなものが出てくる。
これは丁度、曲線のどの一点をとってみても、そこに曲線が曲線を生み出し続ける微分的な方向が働いていて、刻々に未来を先取りしているのと同じことである。

対自的な自己意識のどのひとつの瞬間にも、「いま」のノエマ的な自己と、微分的な未来の先取という動きとしてのノエシス的な自己とのあいだに、極微の間隙があいている。
われわれは、自分自身の現在の一瞬に経験できるこの極微の間隙を通して、自他分離以前の「あいだ」に直接触れることができる。
主体内部の「あいだ」と主体相互間の「あいだ」とは、本来同じ一つのメタノエシス的原理なのだ。

250M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/15(月) 02:41:07 ID:i4OQmZ3.
「般若心経」(現代語訳、というより解釈)柳澤桂子

すべてを知り 覚った方に謹んで申し上げます
聖なる観音は求道者として 真理に対する正しい智慧の完成をめざしていたときに
宇宙に存在するものには 五つの要素があることに気づきました

お聞きなさい これらの構成要素は 実体をもたないのです
形のあるものは形がなく 形のないものは形があるのです 感覚、表象、意志、知識も すべて実体がないのです

お聞きなさい 彼はこれらの要素が「空」であって 生じることもなく 無くなることもなく 汚れることもなくきれいになることもないと知ったのです

お聞きなさい 私たちは 広大な宇宙のなかに 存在します 宇宙では 形という固定したものはありません 実体がないのです
宇宙は粒子に満ちています 粒子は自由に動き回って 形を変えて おたがいの関係の 安定したところで静止します

お聞きなさい 形のあるもの いいかえれば物質的存在を 私たちは現象としてとらえているのですが 現象というものは 時々刻々変化するものであって 変化しない実体というものはありません
実体がないからこそ 形をつくれるのです 実体がなくて 変化するからこそ 物質であることができるのです

お聞きなさい あなたも 宇宙のなかで 粒子でできています 宇宙のなかの ほかの粒子と一つづきです 
ですから宇宙も「空」です あなたという実体はないのです あなたと宇宙は一つです

宇宙は一つづきですから 生じたということもなく なくなるということもありません
きれいだとか 汚いだとかいうこともありません 増すこともなく 減ることもありません
「空」にはそのような 取るに足りないことはないのです

251M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/15(月) 03:26:18 ID:i4OQmZ3.
同前

お聞きなさい だから 「空」という状態には 形もなく 感覚もなく 意志もなく 知識もありません
眼もなく 耳もなく 鼻もなく 舌もなく 身体もなく 心もなく 形もなく 声もなく 香りもなく 
あなたをさわるものもなく 心の対象もありません

実体がないのですから 「空」には 物質的存在も 感覚も 感じた概念を構成する働きも 意志も 知識もありません
眼の領域から意識の領域に至るまで すべてないのです

真理に対する正しい智慧がないということもなく それが尽きるということもありません
迷いもなく 迷いがなくなるということもありません それは「空」の心をもつ人は 迷いがあっても 迷いがないときとおなじ心でいられるからです

こうしてついに 老いもなく 死もなく 老いと死がなくなるということもないという心に至るのです
老いと死が実際にあっても それを恐れることがないのです

苦しみも 苦しみの原因も 苦しみをおさえることも 苦しみをおさえる方法もない 知ることもなく得るところもない

得るということがないから 永遠なるものを求めて永遠に努力し 心を覆われることもなく生きていけます
心を覆うものがないから 恐れがなく 道理をまちがえるということがないから 永遠の平和に入っていけるのです

私たちが あらゆるものを 「空」とするために 削り取り 削り取ったことさえも削り取るとき 私たちは深い理性をもち 「空」なる智慧身につけたものになれるのです

真理を求める人は まちがった考えや無理な要求をもちません 無常のなかで暮らしながら 楽園を発見し 永遠のいのちに目覚めているのです
永遠のいのちに目覚めた人は 苦のなかにいて 苦のままで 幸せに生きることができるのです

深い理性の智慧のおかげで 無常のほとけのこころ ほとけのいのちは すべての人の胸に宿っていることを悟ることができました

このように 過去・現在・未来の三世の人々と 三世のほとけとは永遠に存在しつづけます 深い理性の智慧もまた 永遠にわたって存在するということです

それゆえに ほとけの智慧は 大いなるまことの言葉です いっさいの智慧です これ以上のまことの言葉はありません
いっさいの苦を取りのぞく 真実で偽りのない言葉です その真実の言葉は 智慧の世界の完成において次のように説かれました

行くものよ 行くものよ 彼岸に行くものよ さとりよ 幸あれ

これで 智慧の完成の言葉は 終わりました

252M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/21(日) 00:45:02 ID:i4OQmZ3.
「メディア・レイプ」 W・B・キイ

意識的に知覚されない命令に抵抗することは不可能かもしれない。

自分は自立しているという認識は、洗脳の一番基本的な点火剤である。文化的な価値観に染まっている度合いが高ければ高いほど、それだけ操作されやすい。
知覚の硬直性と同調性は、サブリミナル強化に最適の条件となる。彼らは最初から、諸々の観念や関係を個別的な区画に仕切りたがる傾向がある。

理論は真実ではない。理論は、その理論の存在を容認するようなコンテクスト内においてのみ有効なのだ。
仮説とはたんに何かを理解するための当座の方法であり、他に利用できるものがない場合にかぎり有益なものとなりえる。一つの仮説が有効であるのは、ある特定の時・場所・状況においてのみである。
言葉も、数字も、その限界と弱点を見極めたうえで初めて有効なのだ。シンボルは、それが指し示すもの自体には絶対になれないのである。

サブリミナルなもの、無意識的なもの、そうしたものは文化装置として機能しているように思われる。
それは、多少とも基本的な信念と確信のシステム、文化的価値観、その人の全般的性向、基本的前提などの宝庫である。

サブリミナルな刺激にたいする敏感さは、個人や集団のストレス、不安、懸念の強さに比例する。これはたぶん、生存のためのメカニズムとしてごく自然に進化してきたものだろう。
緊張やストレスが減少すれば、サブリミナルな刺激の影響を受けにくくなる。そうすれば不安を起こすようなメディアの情報から身を守ることができる。
事実にもとづいたデータをつねに意識し、直感的な推測を批判的に評価し、コミュニケーションの背後にひそむ動機にたえず注意を向けていれば、それだけ影響されにくくなるのだ。
最上の防衛策は、何事も軽視しないことだ。無関係なものは何ひとつないと思いなさい。

投影と取り込みは、個々人とマスコミの双方にとってきわめて重要な知覚防衛である。これらはメディアを通して大規模な大衆の行動に転換される。これらに取りつかれてしまうとそれを意識することはできない。
知覚された事実や世論、信頼性の高い情報源などによって保証されているかのように見える。しかし、投影されたイメージは一般に嘘である。
良いか、悪いか、ステレオタイプ化された一般論が投影される。両方であることはめったにない。

253M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/21(日) 01:16:05 ID:i4OQmZ3.
同前

マスコミの多くは、人間の弱さにつけこみそれを操作することで成り立っている。広告に見られる一貫したテーマとは、消費者の劣等性である。

広告とそれを裏付ける「ニュース」報道の作用には、視聴者ないし読者が秘かに埋め込まれている。その報道の信頼性は、立証しうる事実の知覚にではなく、受け手の同一視と投影にかかっている。
マスコミの視聴者は、何十年にもわたり、自分自身についての願望思考を強化するように条件づけられてきた。

知覚にバイアスをかけることも、大衆操作では重要な役割を果たす。ある一つの感覚刺激だけを選択すれば、残りの感覚は無意識的な潜在知覚として脳に入力される。

言語が表現しようとしている対象ないし人々とその言語との関係は、例外なく主観的なものである。
ところが、我々の多くは、言語を額面通りに受け入れ、皮相なマクロ知覚を盲信するよう、しっかり教え込まれてきたのである。

*つねに実行可能な選択肢の数を増やすように行動すること
多くの人々は(「真理」を見出すために)選択肢の数を減らしてゆくように子供の頃から教育されてきた。しかし、どんな問題にも、その解答は複数あるものなのだ。
選択は本来暫定的なものだ。失敗しそうな見通しが出てきたら、いつでもそれを捨てて他の方法に切りかえる心構えを持とう。
ただイエスとノー、真と偽という答しかないような問いは、人間の知性とは無縁の言語を構成する。

*ひそかに仮説を疑えーとくにあなたがもっとも大切にしている仮説を
イデオロギーは、一般に、検証可能で、自律的で、事実にもとづく知覚を回避する。
文化によって単純化された世界を知覚するよう訓練された個人は、いとも簡単に騙せるカモである。

254M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/21(日) 02:20:22 ID:i4OQmZ3.
同前

*生き延びるための八つの方法
①リラックスすること
 リラックスすれば事実志向的な現実知覚が生じやすくなる。緊張、ストレス、不安は、操作に対する抵抗力を低下させる。サブリミナル刺激を分析するには、ストレスの低減がいちばん効果的である。
②遅らせること
 暫定的結論は避けられない。焦らずにいこう。時間のプレッシャーは知覚的防衛を引き起こしやすい。
③知覚すること
 知覚されたものの知覚的分析は、現実知覚を改善することができる。他人の反応に対する自分の反応を吟味せよ。メディアの幻想的知覚と知覚可能な現実世界を比較してみたまえ。
④脈絡から切り離すこと
 論理的・統辞法的思考を逆転させよう。言葉や絵を見るときに、でたらめに非論理的に、上下を転倒し、裏表をひっくり返して知覚してみよう。
⑤分子化すること
 分解してみよう。人間が知覚したものはすべて意味がある。あなたの精神が無関係だと告げる知覚こそ、いちばん注意深く見つめよう。
⑥象徴化
 知覚されたものはすべて象徴的である。シンボルと戯れてみよう。多重の意味、意味のない意味、意味のなかの意味、意味の上ないし下の意味を探そう。
⑦動機づけ
 動機を分析しよう。動機は多元的で互いに絡み合いしばしば互いに矛盾しあうように見える。動機を考慮しなければ、いかなるコミュニケーションもまともに評価することはできない。
⑧評価すること
 誰が誰に、何のことを語っているかについて、明確な観念を持つようにしたまえ。
 人間が言語的になす区別、追い求めるイデオロギー、下す評価、採択する理論、告知する決定、、こうしたものはその人の内なる人格を明かしている。
 いかなるものも、いかなる人も、額面通りにとってはならない。

255名無しさん:2010/11/21(日) 19:48:21 ID:zh2ToYwo
統失って毎日楽しいの?

256M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/23(火) 02:20:36 ID:i4OQmZ3.
OSHO

ストレスのない生活への七つの鍵
*あなたは全体と調和していることも、葛藤し不調和でいることもできる。調和は自ずと深い沈黙、喜びや楽しみを生む。

*ストレスそれ自体が踏み石として使える。それは創造力となり得る。
 まずそれを受け入れなさい。闘う必要はない。

*自分自身に休みなさい。自分自身にくつろぎなさい。自分自身を楽しみ、祝いなさい。
 誰かになることで時間を無駄にせず、誰でもないものになりなさい。

*瞑想とは、あなたが深刻にならずに楽しんでいるときに自然と湧き起こる質だ。ギャンブル、商売・・何でも瞑想に変えることができる。
 ただ一つ付け加えねばならないのは、深刻ではない遊び心だ。

257M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/23(火) 02:32:17 ID:i4OQmZ3.
OSHO 続き

*私が「ただ在りなさい」というとき、それはオープンでいなさいということだ。他のなにかになろうとしないということだ。
 なぜなら、他の誰かになろうとするその努力であなたは張りつめてしまうだろう。
 なんであれ、あるがままの自分を受け容れたときにだけあなたはオープンでいられる。

*時間は、おそらく人生における最大の緊張と苦しみだ。時間は人間の葛藤であり、不安であり、苦悩だ。
 時間の中に生きるとは、二つの極(過去と未来)の間に引っ張られて生きるということだ。
 時間は常に私たちの無意識、心理的な眠りに正確に比例して存在する。私たちが完全に目覚め、気づくと、時間は消滅する。

*現在の瞬間は過去全体の頂点であり未来全体の始まりだ。それぞれの瞬間が、過去と未来の収束したものだ。
 あなたがその両方ともに気づくことができれば、何のストレスもなく気楽でいられる。
 あなたはとても意識的で注意深くなるだろう。

258M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/23(火) 02:54:32 ID:i4OQmZ3.
「希望の心理学」 P・ワツラウィック

人生とは
「”これはゲームではない。本気なのだ”というルールに従うゲームである」(A・ワッツ)
「人々はゲームをやっている、ゲームをやっているんじゃないというゲームを」(R・D・レイン)
不幸へ至る基本的な前提条件は我々の右手をして左手が行っていることを知らしめないという「能力」にある。そうしてゲームを演じることができる。

ある共働状態にある者の一方が人生というものを全般にゼロサムゲームとして、勝ちか負けかで見始めるとしよう。するとそこに簡単に地獄が出現する。
人生のことは勝ち負けゲームから最も遠くあるべきことなのだ。
彼らはこの最大の敵(=人生)に対するや、仲よくゲームに負けることになる。

このゲームを終結させ得るたったひとつのルールは、ゲーム自体のルールの中にはない。それは外観は異なるがいつも同じものを意味する。
すなわち、公平さ・忍耐・そして信頼といった性質をもっているものだ。
それらなしには、ゲームは終わりのないゲームになってしまう。

事態が絶望的であれば解決もまた実に簡単なのだ。

259M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/23(火) 03:19:41 ID:i4OQmZ3.
「テクストの快楽」 R・バルト

私が物語で味わうものは、決して内容ではないし、構造でさえない。むしろ私がその美しい外被につける擦り傷だ。

快楽のテクスト。それは満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生まれ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。
読者の、歴史的、文化的、心理的土台、趣味、価値、追憶の凝着を揺るがすもの。読者と言語活動との関係を危機に陥れるもの。

快楽のテクストの中では、対立する力はもはや抑圧の状態にはない。真に敵対するものは何もなく、すべては複数的である。

「テクスト」は「織物」という意味だ。しかし、これまで、この織物は常に生産物として、背後に意味(真実)が隠れて存在するヴェールとして考えられてきたけれど、
われわれは、今、織物の中に、不断の編み合わせを通してテクストが作られ、加工されるという、生成的な観念を強調しよう。
この織物の中に迷い込んで、主体は解体する。自分の巣を作る分泌物のなかで、自分自身溶けていく蜘蛛のように。

快楽が宙吊りにする力については、どんなに強調してもしすぎることはない。
(快楽が宙吊りにするのは意味された価値である)

衝動的な偶発事・・

260M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/23(火) 03:44:25 ID:i4OQmZ3.
「結ぼれ」 R・D・レイン

彼にはなにか問題がある、ということが彼にはわかっていないのだからして、彼にはなにか問題がある、ということを彼がどうしてもわかわるまいとしているということを
私たちは彼を手助けして彼にわからせようとしているのであって、なにもそんな仕方で彼を迫害しているわけではないのを私たちは彼を手助けしてわからせようとしているのであって
なにもそんな仕方で彼を迫害しているわけではないということを私たちは彼を手助けしてわからせようとしているのだ、ということを私たちが彼を手助けしてわからせようと試みているからといって
私たちはなにか問題がある、と考えてしまうとは彼にはなにか問題があるに違いない、ということを私たちが彼を手助けしてわからせようとしているからといって
私たちにはなにか問題があるに違いないと、と彼は考えてしまうのだから彼にはなにか問題がある。

261M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/23(火) 03:54:33 ID:i4OQmZ3.
同前

わたしはわたしの持っているものを持つだけの資格がないのだ、だから、わたしの持っているものはなにもかも盗んだものだ。
もし、それがわたしの手に入ったのだとすれば、そして、わたしにはそれを持つだけの資格がないのだとすれば、わたしはそれを盗んだのに違いない。
なぜなら、わたしにはそれを持つだけの資格がないのだから。

わたしはそれを持つだけの資格がないのだ、なぜなら、わたしはそれを盗んだのだから。

わたしはそれを盗んだのだ、だから、わたしにはそれを持つだけの資格がないのだ。

わたしにはそれを持つだけの資格がないのだ、だから、わたしはそれを盗んだのに違いない。

さもなくば、それは特別の恩恵として誰かそれを持つだけの資格のある人から、わたしに与えられたのだ、
そこでわたしは、持っているあらゆるものにかんして、感謝の念を抱かねばならないことになる、
なぜなら、わたしの持っているものは、盗んだものではなくて、与えられたものなのだから。

262M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/28(日) 00:36:40 ID:i4OQmZ3.
M・フーコーの講演録から

分析格子としての知と権力ーこの二つの概念の機能は、存在単位や力やある超越的なものを示すことにあるのではなく、かかわる領域との関係において<価値の一貫した還元>を実行するにすぎないのです。
知という概念は、特定の分野においてある瞬間において受けいれられるものとなるすべての手続きとすべての知識の効果を指します。
権力という概念は、ディスクールや行動を誘発するとみられる特定のメカニズム、一連の定義可能なメカニズムの全体を指します。
この二つの概念を使って現実の一般的な原則をとりだそうとするのではありません。分析の前線を確定し分析に関連のある要素の種類を確定することを目的とするのです。
単独の、一つの知、一つの権力が存在すると考えてはなりません。知も権力も分析のための格子にすぎません。
ある体系の総体が、経験的に観察可能である状態から、それが実際に観察可能な時代において歴史的にうけいれられるものとなるまでの経路を分析するのです。
そしてこの体系を支えている知と権力の結び目を分析し、この体系がうけいれられたという事実にもとづいて、これを捉え直すべきなのです。体系をその実定性のもとに捉え直す。

この実定性のもとに集められたものはどれも自明なものではありません。この実定性の分析において捉える必要があるのは、ある意味での純粋な特異性なのであり、それは何らかの本質が具現したのでも何らかの種が個体化したものでもありません。
純粋なうけいれ可能性の条件にだけ関連した、それだけに複雑であると同時に緊密な因果性の網の目を展開する必要があるのです。関係を複数化し、異なった種類の関係のあいだに差異を作り出すこと、相互作用と循環的な行為を解読し、異質なプロセスの横断を考慮に入れることが必要になるのです。
ある特異性の出現の条件を再構成しようと試みることが大切なのです。こうした特異性はこれらの要素から生成されたものとしてではなく、その効果として発生するのです。
この特異な効果を理解することのできる関係は、相互作用の戯れに固有の論理において発見しうるのですが、この戯れはつねに不確実性の変動し続ける末端部と相互作用しています。
このさまざまな関係の網の目は、単一の平面を構成することはありません。それぞれの関係はほかの関係とのあいだに永続的な<ずれ>を作り出しているからです。

大切なのは、権力をつねに相互作用の場のうちの関係として思考すること、権力を知の形式と分離することのできない関係のうちで思考すること、つねにある可能性の領域との結びつきのうちで思考すること、つねに可逆的で逆転可能なものとして考えることです。
相互作用と複数の戦略の戯れのうちで、知と権力が分離できないものであるという事実が、いかにしてそのうけいれ可能性の条件から出発して定められる特異性と、可能なものの場の両方を誘発することができるのか。
これらの場は知と権力を脆弱なものとし、永続的でないものとし、この効果を出来事に、もはや出来事でないものに、もはや出来事にすぎないものにしていくのです。

263M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/28(日) 01:24:15 ID:i4OQmZ3.
OSHO

もし時の海原の表面をただ泳ぐとしたら、その表面は実在ではないのだから、あなたはいつも恐れているだろう。
実際には表面は海ではなく、ただの境界、周辺だ。深みへと進みなさい。瞬間を深く生きるなら、あなたはもはや時の一部ではない。

危険に生きなさい。それはあなたの生なのだ。あなたに教え込まれてきたいかなる類の愚かしさのためにもそれを犠牲にしてはならない。

毎瞬、あなたが何をするにしろ、それを全面的にすることだ。単純なことをー風呂に入るなら全面的に入るがいい、全世界を忘れて。
瞑想とは、いかに物事を全面的に行うかを学ぶやり方に他ならない。一度あなたが学んだら、あなたの生全体をひとつの瞑想にしなさい。瞑想法のことは忘れてしまいなさい、生を唯一の法にしなさい。

エゴは全ての問題、全ての矛盾、全ての嫉妬、恐れ、うつ病の原因だ。自分を失敗者だと感じること、絶えず他人と比べることは、誰をも傷つける。

ただ、あなたの生に一つのこと、瞑想を加えなさい。今までのあなたは、人生に物事を付け加えることしかしてこなかった、今度は、あなたの実存に何かを加えてごらん。
するとそれは、音楽を生み、奇跡を起こし、魔法がかかり、新たなスリル、新たな活力、新鮮さを生み出すだろう。

264M=M ◆eskwQ12oL2:2010/11/28(日) 02:08:10 ID:i4OQmZ3.
OSHO

バランスを失い、蓄積された怒りや攻撃性が現れたとき、いつも「二つではない」を繰り返しなさい、意識的に。
「二つではない」選択の余地はない、好き嫌いの選択はないのだ。するとすべては申し分なく、あなたはすべてに感謝するだろう。
生がどこへ導こうとも、あなたは行く。あなたは生を信頼するだろう。

あらゆるみじめさは、私たちがどこか不自然に生きていることを示している。みじめさは敵ではない。ただの兆候だ。それは指し示してくれる。
すべては問題ないと受け止めなさい、自分は正しいのだと受け止めなさい。

成長とはまさに一つのことを必要としている。それは勇気だ。勇気こそが新しい人間を存在へといざなう。
これは生におけるとても不思議なことの一つだが、群集は常に間違った方向へ進んで行く。群集が光明を得たという話を聞いたことがあるかね? 意識の頂点に至るのは常に個人だ。
勇気とはひとりあることだ。道連れになる人もなく、どんな地図もなく、生の深い森の中であなたの道を見出してゆくことだ。
まさにこの努力があなたに注意深さを与える。まさにこのことがあなたの中に意識を生みだす。なぜならありとあらゆるたぐいの危険が、あなたを取り囲んでいるからだ。
あなたがどこに向かっているか誰も知らない。そういいう状況に身を置くことで、あなたの中に爆発が起こる。それは新しい誕生であり、新しい夜明けの始まりであり、新しい人間の誕生だ。

誰かが人生の意義を与えてくれるという考えを落としなさい。独り在ることを、独りで生まれ独りで死んでいくことを受けいれなさい。
誰もあなたを知らない、あなたですらーだから誰かが自分のことを知っているべきだと期待してはいけない。
私たちは異邦人だ。おそらく偶然に私たちは出会い、共に居るのだろう、しかし「独り在ること」はそこにある。
このことを忘れてはならない。なぜなら、あなたはそれに働きかけねばならないからだ。そこにこそ、あなたの購いと救済がある。
「独り在ること」を受け入れることだ、そのほかに道はない。また、その本質を変える方法はない。
これは、あなたの正真正銘の現実だ。それこそあなたなのだ。そして、あなたは自分自身から逃避している。

265M=M ◆eskwQ12oL2:2010/12/05(日) 01:08:37 ID:i4OQmZ3.
「光と愛のことば」 デ・ラ・クルス

孤独な鳥の条件は五つある
第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ
第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされず
その同類にさえもわずらわされない
第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける
第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない
第五に孤独な鳥は非常にやさしくうたう

266名無しさん:2010/12/12(日) 13:01:34 ID:zh2ToYwo
真夜中に、写経して、何の、意味が、あるの、でしょうか?
躁鬱は、怖い、ですね。

267名無しさん:2010/12/26(日) 05:30:27 ID:aSf06QAM
流し読みだけど、全部見てしまった
バキシルさんはそうとうな読書家みたいですね
柄谷行人に関して書いてましたが、難しくないですか?最近トランスクリティーク見てるんですが
カントだとかヘーゲルだとか左よりのドイツ人の言説は理解に苦しむ
神学なんかも詳しいんでしょうか?興味あるんですけど

268名無しさん:2011/01/01(土) 22:39:51 ID:XixwWUqE
柄谷行人だの田川建三だの懐かしい名前がw
大学生くらいの頃に分かりもせんのにそのへんの本を読んで
結果おかしな方向に行く、というのはありすぎるくらい良くある話だよなあ
いや、MM氏を揶揄するわけじゃなくてまさに自分がそうだ、という話

269M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/02(日) 21:02:32 ID:fdJzhULc
しばらく見てなかったので遅レスすみません。
>>267
柄谷ですと、岩波新書の「世界共和国へ」が読みやすいですよ。
あと講演・インタビュー集(「言葉と悲劇」「戦前の思考」「近代文学の終り」)。

神学(ユダヤ・キリスト教)はちょっと歯が立たなかったですね、自分は。
最近は仏教や心理療法関係の本をチョコチョコ読んでます。

>>268
>結果おかしな方向に行く
いやまったく仰るとおりです。
昔読んだ本を引っ張り出してこうしてシコシコ写経してるのは、まぁ一種の自己治療です。

270M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/02(日) 22:59:44 ID:fdJzhULc
では柄谷の著作から

「探究Ⅰ」 柄谷行人

言語が差異的な形式体系であるというような認識は、”意味”を現象学的に還元してゆくことで得られる。つまり構造主義・システム論・情報理論などは結局現象学的な構えに内属している、ということができる。
それに対して、そのような差異体系の体系性(すなわちそれが一つの超越的な中心によって組織され閉ざされていること)を批判する企てがある。
しかし、差異的な形式体系を”外部性”に訴えることなくその内部で瓦解させようとするならば、われわれは、いわば自己言及的な形式体系、あるいは自己差異的な差異体系というべきものを基底に想定するほかない。
われわれは二者択一に追い込まれているようにみえる。「意識」から出発することで、形式的な体系の内部に閉じ込められ、それを”脱構築”したりまたは”観念的に”それを破砕してしまう方向をたどるか。
それとも、バフチンのように客観的(外在的)な視点から言語の社会性を考察し、モノローグ的な意識=単一体系を批判するか。
しかし、このいずれも、マルクスのいう神秘=社会的なものに触れてはいない。

ヴィトゲンシュタインは、<他者>を、「われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人」とみなしている。
むろん、それは子供であっても動物であってもかまわない。肝心なのは、主体における「意味していること」の内的な確実性をうしなわせることであり、それを無根拠な危うさのなかに追いこむことなのだから。
「意味している」ことが、そのような<他者>にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、”文脈”があり、また”言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。
だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができるー規則、コード、差異体系などによって。
いいかえれば、哲学であれ言語学であれ経済学であれ、それらが出立するのは、この「命がけの跳躍」(マルクス)の「あと」にすぎない。規則はあとから見出されるのだ。
この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ”神秘”がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠な危うさにかかわっている。

271M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/02(日) 23:46:06 ID:4GyeId/Q
同前

私が、ある言葉の「意味」を知っているかどうかは、私がその言葉の用法においてまちがっていないと他者(共同体)にみとめられるか否かにかかっている。しかし、ここで注意すべきことは、そのとき、他者もまた規則を積極的に明示できるわけではないということだ。
彼はただ「否」としかいえないのである。ということは、規則がどこかに積極的に明示しうるかたちで存在するのではないということを意味するのである。
他者にとって「意味している」ことが承認されるとき、そのかぎりにおいてのみ、「文脈」があり、「言語ゲーム」があるのだ。つまり、そのかぎりにおいてのみ、われわれは「規則にしたがっている」。
われわの「世界」は、この言語ゲームのなかで存在する。それをこえた”客観的”世界はない、それも言語ゲームに属するから。この「世界」を疑うことはできない、「疑う」ことも言語ゲームのなかで可能だから。
この<他者>は誰であってもよい、もしそれがわれわれの「世界」の限界を画定するのであれば。

<われわれが境界を知らないのは、境界線など引かれていないからだ>(ウィトゲンシュタイン)
われわれはむしろ”不安”に、つまり境界の不安定性にとどまるべきなのだ。どこに明瞭な線を引くことができるだろうか。たしかに差異はあるが、はっきりと線を引くことができない。
<世界の中に神秘はない。世界が在ることが神秘だ>(ウィトゲンシュタイン)
言語ゲームは多様であり、したがって「世界」(の限界)は多様である。
しかし、このことは、言語ゲームが成立するか否かにかかわる無根拠な危うさと、われわれが「世界」を画定することの不可能性とを、考慮にいれなければ、大して意味がない。

事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

われわれは、遡行すべき、共同主観的世界も、分節化をこえた連続的・カオス的世界ももたない。
それらは、言語ゲームの外部にあるがゆえに無意味であるか、またはそれ自体言語ゲームの一部にすぎない。それらはたんに物語として機能する。

そこにどんな根源的な知があろうと、私と一般者しかいない世界、あるいは独我論的世界は、他者との対関係を排除して真理(実在)を強制する共同体の権力に転化する。

272M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/03(月) 00:20:30 ID:4GyeId/Q
「探究Ⅱ」 柄谷行人

個体の多数性は、それぞれが「他ではない」という差異性によって保証されるのではない。また、関係の外面性は、項に対する関係の独立をいうことによっては保証されはしない。
それらは結局、「内面的関係の理論」になってしまっている。つまり、一つの閉じられたシステムのなかで考えられている。
かりにそこで「外部」がいわれていても、それはそのような「外部」をふくむようなシステムにすぎないし、多数性がいわれていても結局一つのシステムなのである。
いうまでもなく、このようなシステムは「外部性」(関係の外面性)を内面化することによって成立している。しかし、それを否定するために「関係の外面性」をあらためて主張してもむだである。
では、けっして内面化されないような「関係の外面性」はいかなるものか。それはこの関係が「偶然的」であるほかないような関係である。そしてこの偶然性は、交通における関係の非対称性に帰着する。

二つの系列が独立しうるのは、それらを同時に見通すような視点がないときだけである。しかもそれは「神」であっても見通せないようなものでなければならない。
”結果”においてみるならば、いかなる複数の系列も一系列としてみえる。では、複数系列、単純化していえば二系列の独立性が確保されるのは、どこにおいてであるか。
それは、二者の関係において、その両方あるいはその前後に同時に立つことができないような関係においてのみありうる。
つまり、それこそが、「売るー買う」とか「教えるー学ぶ」といった非対称な関係なのである。ここでは、”結果”の優位性はありえない。ここに神でも見通すことのできない不透過性がみとめられる。

273M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/03(月) 01:05:23 ID:4GyeId/Q
同前

スピノザの無限の観念は”積極的”なものである。たとえば「すべて限定は否定である」というのは、有限を無限の否定として見ることであり、無限を有限の否定(無限定)として消極的に見ることの逆である。
そして、一と全体、特殊性と一般性といった、「概念」の閉じた円環を破るのは、積極的な無限の「観念」だけである。

「無限」は、無際限な超越者ではない。それは、そのような超越がもはやありえないという意味で、世界を閉じるものである。そのとき、内部と外部、本質と現象、真理と幻想、精神と身体といった二分法が静かに止めをさされたのである。

神が「無限の実体」だということは、それを超越するものがありえないこと、その外部がないことを意味する。それは「唯一の」世界である。つまり、一切がこの世界内に属するのである。それが「無限」ということの意味することだ。
さらに、神のみが実体であるということは、それのみが自己原因であり、他のものはすべて他に原因を持つということを意味する。それは、この世界=自然の原因なり背後なりを考えることができないということだ。
この世界の外に考えられるものは、超越的な神であろうと、彼岸であろうと、世界の意味や目的であろうと、表象(想像物)でしかない。それらは、この自然=世界に原因をもち、そこから派生したものである。

スピノザはこう考えたといっていい。われわれがあるものを表象ではないかと疑い、その諸原因を解明しようとする意志は、それ自体この自然史によって促されており、そこに原因をもつのだ、と。コギトは、自然を超越するどころかこの自然史の諸原因の結果である。
スピノザは超越的でなく、したがって超越者もみとめないが、その姿勢は、一言でいえば、超越論的なのである。超越を否定しうるのは「超越論的」姿勢であり、主体(個)を否定しうるのは単独性なのだ。
スピノザの「場所」は、外部的である。それは上方でもなければ基底でもない。そういう超越そのものを表象と見なすような場所、この場所なしに「無限」はありえない。
無限の観念は、意識=表象ではなく外部的実存である。つまり、それはエチカ(倫理)である。

274M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/03(月) 01:21:29 ID:4GyeId/Q
同前

「無限」はすこしも神秘的ではない。逆に、それだけが超越的な諸力や神秘的な諸観念を否定しうるのである。
内部/外部、中心/周縁の分割を無化してしまうような「無限」を、どこか超越的な所に求めてはならない。
「無限」は、いわば現実的なのだ。それは、いかなる自己の中心化も他者の超越化も許されないような場所での、他者との出会いなのである。

275M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/03(月) 02:03:55 ID:4GyeId/Q
「なぜ『共産主義者宣言』(マルクス)か」 柄谷行人

われわれは「理念」について再考しなければならない。たとえば、カントにおいては、われわれが理論的にけっして知りえず表象できない「物自体」を想像的に表象したものが「理念」である。
注意すべきことは、「物自体」という概念が、イデアのような真の世界ではなく、そうしたものを仮象として批判しうる根拠として提起されていることである。
同時に、カントは、理念をたんに否定しなかった。それは、理論的には証明しえないし、また「構成的」に実現されてはならないが、「統整的」に機能する不可欠な仮象である。

マルクスは、歴史を動かしているような理念を否定した。彼が見ようとしたのは、いわば物自体としての歴史であり、それは資本主義によってたえず予想をこえて変形されている。
「ブルジョア階級は、生産手段を、それゆえ生産関係を、それゆえ社会関係の総体を、絶えず革命することなくしては存続しえない」(マルクス)
要するに、資本は、「社会関係の総体」をたえず変えなければ存続できない。
そしてこの変革は新たな「階級闘争」をもたらす。しかし、この変革が予見しえないものであるならば、それがもたらす「階級闘争」も予見しえない。

マルクスはたんに「理念」を否定したのではない。彼は、理論的に仮象であるにせよ、「理念」の必要と不可避性を認めていた。
彼が否定したのは「理念」の「構成的」機能である。彼が未来のプログラムを拒否したのはそのためである。
「共産主義とは、われわれにとって成就さるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成さるべき何らかの理想ではない。
われわれは、現状を止揚する現実の運動を共産主義と名づけている。この運動の諸条件はいま現にある前提から生じる」(マルクス)

276M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/03(月) 02:35:44 ID:4GyeId/Q
同前

すべてが資本主義の中で起こる。

ヨーロッパでは、経済的共同体の構想において、近代国家の枠組を越える観念が提唱される。しかし、それは世界資本主義の現実的発展に強いられたものにすぎない。
後進国には、ナショナリズムや各種の宗教的原理主義激化している。これは古い観念が生き延びているからではなく、現在の絶望的な事態によって生み出されているものだ。
「近代」を越えようとする、さまざまな観念は、それが原因ではなく結果であることを忘れている。理念は、つねにそのような「仮象」(イデオロギー)である。
かくして、理念はかたちをかえてあらわれる。歴史が物自体としてある以上、それを想像的に把握する理念が死滅することはない。

われわれが達成すべき、あるいはそれによって社会を構成すべき「理想」とは、つねに仮象にすぎない。
しかし、同時に、明白なのは、この資本主義が、たえず諸矛盾を生み出さざるをえないこと、そして、それが全地球の環境に及ぶことである。
それでも、たえず変容する所与の前提のなかで、それがもたらす諸矛盾を止揚しようとする闘争が各所であるならば、そこに「共産主義者」がいるだろう。
そう名乗ることが「共産主義者」たることを保証するのではない。逆に、知らずして、各個人は「共産主義者」である。
共産主義は「現状を止揚する現実の運動」にしか存在しない。(1993年)

277名無しさん:2011/01/06(木) 09:49:21 ID:VqpdarhU
写経続けてインテリ気取りなのは結構だが
そこにてめぇの思想は全く反映されてないのは滑稽だな
気ぐるみ共にはラブ注入しまくってるくせにw

278M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/09(日) 03:41:37 ID:fdJzhULc
「近畿御巡幸記」保田輿重郎

近畿御巡幸は、終戦後の各地御巡幸の最後の地域にて、ここを以って北海道を除く全国の御巡幸を終え給うたのである。(中略)
ここに生まれた国民的感激こそわが国史を通じての盛事の厳然たる最大事実であろう。
真の日本はここを大地としてしかと両脚を据え、わが民族の歴史は、この事実の生む感銘と確信の上に、将来の基礎をおくのである。
またこの事実こそ、表現を絶して、天皇の御本質を国民各自の国民感情の上に於いて、明徴し奉つたのである。
余が本御巡幸記を謹撰せんとした理由は、真の日本国民は古にありしままに、今もあることを、内外に示し、又海外遠隔の地の同胞に示さんとの念願からである。

奉迎の民は、令せずして動き、強いられることなくして、自ら振舞ったのである。
しかもわが国民が陛下に捧げる敬虔な親慕に思いは、わが天皇陛下が、ヒューマニズムにいう「人格」に於いてすぐれさせられけるからではない。
国民が陛下に熱狂して至誠を献げ奉るのは、国民としての各自に内在する精神のあるものによってである。
即ち天皇は単に一つの「人格」にては御座さぬのである。
国民は道義にねざす民族の願望と信仰と信念と希望の、永遠の象徴として拝するのである。
それは実に国史そのものである。
それは時空を超越した永遠の事実の象徴とも拝される。
実にここに国そのもの、民心そのものがあった。

279M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/09(日) 03:44:08 ID:fdJzhULc
訂正
敬虔な親慕に思い→敬虔な親慕の思い

280M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/09(日) 04:45:37 ID:fdJzhULc
「昭和天皇論」 小林よしのり

敗戦時、あの未曾有の危機の中で、彼の人が何を考え、何を成したのか、我々は振り返らねばならない。
その孤独の一端でも想像してみる勇気を持とうではないか!

昭和天皇の御巡幸は、古代の天皇、明治天皇に続く、3度目の天皇巡幸だった。
古代国家の建設期、近代国家の建設期、そして戦後の復興期と、日本の国の統合が特に必要とされる重要な局面で、天皇は巡幸をなさっていたのである。

今後、両陛下がお出掛けになるときは、それが民の幸福を祈ってのことであると我々は思い起こしたい。

天皇は我々国民のように、今現在の社会のヨコ軸のみで考えてはいない。
二千数百年に及ぶ歴史のタテ軸で考えておられる!

大東亜戦争の敗戦時、昭和天皇はもはや日本国民の中に頼れる者はいなかったはずである。
たった一人で、これからやってくる占領軍とその司令官に対峙し、戦わねばならない! 日本国を守るために!
そう、昭和天皇はあのとき、天智天皇以外に頼る者はいなかったのである!
御言葉(昭和21年8月14日)
「終戦記念日にあたって私は九州を見学(大正9年)した時の大宰府の水城を思い出した。
わが舟師が唐軍と白村江で戦い惨敗した当時の天智天皇がおとりになった国内整備、いわゆる文化国家建設の経論をしのびたい」

昭和天皇はタテ軸に裏打ちされた絶妙の政治センスで、有史以来、日本最大の危機を乗り越えた。
いや、昭和天皇はむしろ勝ったのではないか? 未だに負け続けているのは国民の方ではないか?
残念ながら我が国民は、敗戦の試練にたえかねて日本人としての節操を曲げてしまい、卑屈に、自虐的に生きるようになってしまったのかもしれない。
御製(昭和21年)
 ふりつもる み雪にたえて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ
我々は昭和天皇がおとりになった国家の緊急事態に対する覚悟をしのびたい。
我々は、松のように雄々しく生きなければならない!

御製(昭和20年)
身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて

ひょっとしてあの時代、立憲君主でなく、天皇自ら政治を司る天皇親政だったら・・・
日本の戦争はあのような経緯をたどらず、結果も違っていたのかもしれない。

281名無しさん:2011/01/10(月) 02:05:44 ID:Rasrd1xo
西尾や伏見は読まれないんですか?

282名無しさん:2011/01/12(水) 09:14:03 ID:VqpdarhU
真冬の早朝から昭和天皇の書籍を写経wwww

283名無しさん:2011/01/13(木) 16:11:28 ID:VqpdarhU
で、M氏が崩御されたら…他の住人は一体どうなるんでげすか?

284M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/15(土) 03:33:36 ID:UTDQzPbs
>>281
論壇には疎くて・・西尾幹二は学生の頃にニーチェの入門書を読んだくらいです。
伏見という方はどなたか存じません(物理学者じゃないですよね)、すみません。

285267:2011/01/15(土) 20:06:00 ID:0PYcUd1w
バキシルさん、レスどうもです。
さっそく、世界共和国へ買ってきましたw隣にあった、倫理21も一緒に。
探究の写経したけど、これもとっつきにくいですね、ソシュールだとかウィトゲンシュタイン
あたりを通らないと、辞書引かないといけないからめんどくさそう。
あとなんとなくですけど(ほんとになんとなくなんで無視してもらっていいんですけど)
バキシルさんにはキリスト教のほうが合ってる気がするんですけど、仏教は
すがる対象っていうか、絶対的な存在が無く、ある種哲学的だから肌にあわないんじゃないかと思って。
あとなんかおすすめでもあったら教えてください。
ステージ弱かったら、打ちながらでも文庫本は読めるからw

286名無しさん:2011/01/15(土) 20:07:17 ID:0PYcUd1w
↑の3行目、写経みましたけどの間違いです

287名無しさん:2011/01/17(月) 09:48:54 ID:fPVIj7xw
写経してもらった文面を一度でいいから細川俊之に朗読して欲しかったですねw

288M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/20(木) 02:11:48 ID:fdJzhULc
>>285
>仏教はすがる対象っていうか、絶対的な存在が無く、
仏教は基本的に無神論ですものね(浄土教や密教はおいといて)。
仏教すなわち仏道。無常・縁起の理を知り執着を滅する日々の実践・修行道。
とはいえ、大乗の根幹は「慈悲・衆生の救済」です。「空〜自他不二〜慈悲」の理路を得心したいのですが、
長時間労働(パチンコ)とそれに付随する帰宅後の作業のおかげで一日一時間も読書の時間が取れず、
なかなか進みません。

289M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/20(木) 02:52:18 ID:fdJzhULc
「一日一生」 内村鑑三 (無教会主義)

キリスト教化されようと望んでキリストに来た者は、必ず彼を棄てることになるだろう。
新しい思想を得たいと望み、また広い交際に入ろうと望んで彼に来た者も、また彼を棄てることになるだろう。
その罪を購われその霊魂を救われようと望んで彼に来た者だけが、よく永久に彼と共にとどまることができるだろう。

私たちがキリスト信者になったというのは、洗礼を受けてキリスト教会にはいったということではない。または私たちの智能をもってキリスト教の教理を理解したということでもない。
私たちがクリスチャンになったということは、私たちがある「聖者」を友としてもつようになったということである。しかも古い記録において、ある理想の人を発見したというのではない。
今活けるある聖い友人を発見してその伴うところとなったということである。「側にある者」を得たということである。
寂寞の世にあって孤独の生涯を送るのをやめて、大なる「訓慰師」を平常の友としてもつようになったということである。

キリストにおける信仰は私を罪から救うものである。けれども信仰もまた神の賜物である。
私は信じて救われるのみならず、また信じさせられて救われるものである。
ここにいたって私は全く自分自身を救う力のないものであることを悟った。
それでは私は何をなそうか。私は私の信仰をも神から求めるのみ。
キリスト信徒はは絶え間なく祈るべきである。

290M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/20(木) 03:21:47 ID:fdJzhULc
同前

キリスト教がわかってみますと世人の生涯は夢の生涯であります。

「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる」(詩篇55)

ああ神よ私は信じざるをえないから信じるのである。

「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは、乏しくても主を畏れるほうがよい」(詩篇15)

キリスト教は理論ではなく事実であり、実験である。

キリスト信者の善行の本源はパウロの言った「キリストは私たちがまだ罪人であった時に私たちのために死んで下さった、
神はそれによってその愛を彰わしてくださった」という事実にあるのである。私たちはもはや道徳上の義務として悪を避け善を行なうのではなく、
キリストの愛に励まされて(=強いられて)行なうのである。
すなわち私の心が足りて余裕があれば、私は世に与えなくてはいられなくなるのである。

私たちが神に対してなしうることはただ一つである。すなわち、神がキリストをもって私たちにお降しになった赦免の事実を信じ、
罪の身のこのまま、不信の心このまま彼にささげまつることである。そしてひとたび彼にささげまつった以上は、再び自分のことについて苦慮することなく、
ただ神の羔であるイエスを仰ぎ見て私たちの一生を終わるべきである。

291M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/24(月) 02:59:49 ID:fdJzhULc
「預言者」 K・ジブラン

先ず考えなさい。自分は、いったい施しをするのに相応しい人間だろうかと。施しの相応しい道具なのか、と。
まことに、生命に与えるのは生命自身。与えるのが自分だと思い込んでいるあなたはがたは、その立会人でしかないのに。
そして施しを受けるひとたちよ。およそ、ひとは皆、受ける者。重んじ過ぎてはならない。
むしろ、施すひとと共に、その贈り物の上に立ちなさい。ちょうど翼の上に乗るかのように。

自由であろうとして自分の身から払い落とそうとしているもの、それは或いは、あなたがた自身の一片ではありませんか。

あなたがたの魂をして、その理性を情熱の高みへとたかめさせなさい。理性がそこで思うままに歌えるように。
そしてさらに理性によって情熱を導かせなさい。そうしてこそ、情熱は日々新たによみがえり、不死鳥のように、自分の灰の上に起ち上がって行きます。
私の望みは、あなたがたが分別と欲望とを家に招いた親しい客とみなすこと。

あなたの日々の生活に起こるさまざまな奇跡へのおどろき、それを心に常に生き生きと保てたなら、苦しみも喜びにおとらず不思議に溢れていることがわかるでしょう。
田畑の面を過ぎて行く季節を、いつも自然に受けとめてきたように、心の季節をもあなたがたがそのまま受けとめられたなら。
苦しみの多くは自ら選んだもの。
それは、あなたがた自身がのなかの、うちなる薬師が、病んでいる自分を癒そうとして盛った苦い苦い一服。
それゆえに、この薬師を信じなさい。そしてその薬を沈黙と静隠のうちに飲みほしなさい。

あなたはただ、目に見えない神殿に入って行く。それだけで充分なのです。

292285:2011/01/25(火) 00:15:02 ID:0sr.2r0g
>>パキシルさん
>「空〜自他不二〜慈悲」の理路
もしよければこのくだりの意味を軽く説明してほしいです、あまり詳しくないのでw
自分は学生だし、パチも時給1500円あれば御の字って感覚で文庫でも読みながらやってる時も
多いので、本読む時間もとれるけど、専業の方はなかなか時間とれないですよね。
あと、唐突ですがなかなか難しい内容の写経が多いので一言二言解説や意見なんかも書いてくれるとうれしいです

とりあえず写経の迷惑になったら悪いのでこれからはロム専になろうと思います、スレ汚しすみませんでした

293M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/27(木) 02:56:22 ID:fdJzhULc
>>292
①この世には永遠・常なる実体などというものはなく、全ての事象は相互に連関しあい果てなく移ろいゆく(無常・空)。
②であれば確固たる自己というものもなく、また自己と他者の別もない(自他不二)。
③ここからすべての事象への慈しみが生まれる(慈悲)。
ということでしょうか。「慈しみ」、情緒が萎んでしまってるメンヘラの自分には分かりづらい言葉ですが、
初期仏典に次のようなくだりがあります。
 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
 たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
 あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
 無量の慈しみのこころを起こすべし。
 この慈しみの心づかいをしっかりと保て。
 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

294M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/27(木) 03:10:47 ID:fdJzhULc
このように単に言葉で書くのと、本当に納得して実践するのとでは、もちろん天地の開きがあります。
(自分はまったく実践できていません)

なんか、宮沢賢治の詩や童話が思い出されますね。

295名無しさん:2011/01/28(金) 17:03:16 ID:zh2ToYwo
毎日が統失記念日だなんて素敵ですね!

296M=M ◆eskwQ12oL2:2011/02/01(火) 01:12:20 ID:fdJzhULc
「夜と霧」V・E・フランクル
(ユダヤ人精神科医フランクルは、第二次大戦下ナチスによりアウシュヴィッツ強制収容所に送られた)

そしてわれわれは夜寝る前に虱を取りながら裸のわが身をみる時など、皆大凡同じことを考えるのであった。
一体この身体は私の身体だろうか、もうすでに屍体ではなかろうか。一体自分は何なのか?
人間の肉でしかない群集、掘立小屋に押し込まれた群集、毎日その一定のパーセントが死んで腐って行く群集、の一小部分なのだ。

われわれはそれから外で、西方の暗く燃え上る雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。
そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまだ燃える空が映っていた。
感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。

297M=M ◆eskwQ12oL2:2011/02/01(火) 01:40:56 ID:fdJzhULc
同前

一体与えられた環境条件に対する態度の精神的自由、行動の精神的自由は存しないのであろうか?
人間は従ってその身体的体質、その性格学的素質及びその社会的状況の偶然の結果に他ならないのであろうか?
収容所生活はわれわれに、人間は極めてよく「他のようにもでき得る」ということを示した。
人が感情の鈍麻を克服し刺激性を抑圧し得ること、また精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、
外的にも内的にも存し続けたということを示す英雄的な実例は少なくないのである。(中略)
彼等は、人が強制収容所の人間から一切を取り得るかも知れないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているのである。
「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、収容所内の毎日毎時がこの内的決断を行う数千の機会を与えたのであった。
その内的決断とは、人間からその最も固有なものー内的自由ーを奪い、自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。

298M=M ◆eskwQ12oL2:2011/02/01(火) 02:14:29 ID:fdJzhULc
同前

具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩の中にも一つの課題、しかも一回的な運命を見なければならないのである。
人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人一回だけ立っているという意識にまで達せねばならないのである。
何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。何人も彼の代わりに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。
まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。
強制収容所にいるわれわれにとってはそれは決して現実離れのした思弁ではなかった。かかる考えはわれわれを救うことのできる唯一の考えであったのである!
何故ならばこの考えこそ生命が助かる何の機会もないような時に、われわれを絶望せしめない唯一の思想であったからである。
素朴に考えられるような人生の意味といった問題からわれわれは遠く離れていたのであり、(中略)われわれにとって問題なのは死を含んだ生活の意義であり、
生命の意味のみならず苦悩と死のそれとを含む全体的な生命の意義であったのである。
苦悩の意味が明らかになった以上、われわれは収容所生活における多くの苦悩を単に「抑圧」したり、あるいは安易な、または不自然なオプティミズムでごまかしたりすることで
柔らげるのを拒否するのである。
われわれにとって苦悩も一つの課題となったのであり、その意味性に対してわれわれはもはや目を閉じようとは思わないのである。
苦悩もわれわれの業績であるという性質をもっているのであり、それこそリルケをして「苦悩の極みによって如何に昂められし」とうたわせたものなのである。

299M=M ◆eskwQ12oL2:2011/02/21(月) 22:58:26 ID:sP6QMwbc
「意味による癒し」 V・E・フランクル

われわれは人生の抽象的な意味を探し求めるべきではありません。
いかなる人も人生においてその人独自の使命や任務を有しているのであり、充足を求めているその具体的課題を実行しなければならないのです。
人生の各々の状況は人間への問いかけを意味し、解決すべき問題を彼に提出しています。
人間は自分の人生の意味が何であるかと問うべきではなく、むしろ、問われているのは自分であるということを認識しなければなりません。
一言でいえば、各々の人間が人生から問われているのです。
そして各人は、自分自身の人生に責任を担うことによってのみ人生に答えることができるのです。

300M=M ◆eskwQ12oL2:2011/02/21(月) 23:13:46 ID:sP6QMwbc
同前

一人の人間はさまざまな事物の中の一つにすぎないのではありません。事物は相互関係によって決定されますが、人間は究極的には自己決定する存在なのです。
例えば、われわれが強制収容所という、この生きた実験室において目撃しかつ実証したもの、それは、われわれの仲間のある者はブタのように行動し、
また他の者は聖人のようにふるまったという事実です。人間は自らのうちに両方の可能性を持っているのです。
そのいずれが現実化されるかは、素質や環境といった条件にではなく、人間の決断にかかっているのです。

要するに、人間とは、アウシュヴィッツのガス室を発明した存在です。
けれども、人間とはまた、主の祈りや「シェマー・イスラエル」を唱えながら、そのガス室に頭を下げて入っていった存在でもあるのです。

301名無しさん:2011/05/09(月) 17:11:37 ID:fPVIj7xw
http://hi.baidu.com/woshixilige/album/item/384c881828d10280ad6e75ab.html#

労働者の、爪。

302名無しさん:2011/05/16(月) 17:31:24 ID:VqpdarhU
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/43/f9/aquarius1969newage/folder/1798714/img_1798714_59878157_2?1290875240

文学青年だったら、この位は、押さえておかないと、な。

303名無しさん:2011/06/01(水) 21:47:19 ID:W7m99X/.
バリは大東会なんだってな 糞バリ

304M=M ◆eskwQ12oL2:2011/06/28(火) 00:47:10 ID:sP6QMwbc
「ふるさとの生活」 宮本常一

岩手県の三陸海岸は津波の多いところで、海岸にある村が、何十年目かに一度さらわれてゆきます。(中略)
ほとんどの人が漁をして暮らしているので、どうしても海辺に家のあるほうがつごうがよいのです。
長いあいだ、津波もないから、もういいだろうなどと思って、海辺に家をたてているとひどい目にあいます。
あわてて山のほうへ家をたてて住んだのですが、いつかまた海辺へ家をたてるようになる。
するとまたひどい目にあう。それをくりかえしているにすぎません。

305M=M ◆eskwQ12oL2:2011/06/28(火) 01:04:47 ID:sP6QMwbc
「識られざる神」 V・E・フランクル

人格はただ神の似姿としてのみ理解しうるものです。人間はみずからをただ超越者からのみ理解することができます。
人間が人格であるというのもやはりただ、彼が超越者によって人格たらしめられている、つまり超越者からの呼びかけが彼に鳴りわたり響きわたる、その範囲内においてのみなのです。
人間は良心においてこの超越者からの呼びかけを聴き取ります。良心は超越者がみずからの来訪を告げる場所なのです。

人間は、みずからが現に何であるかということをも、みずからが何であるべきかということをも、内在性から学ぶことはできません。
人間発見は、神の模倣において行われるのであります。

306名無しさん:2012/01/30(月) 10:16:30 ID:lBj1Cbsk
写経も、どうしたのでしょう?
稼働よりも、心の洗濯屋ケンちゃん、でしょうが

307名無しさん:2012/03/16(金) 07:50:44 ID:Vhu4ixuU
写経に励んだだけで知的になったと思い込んでいる
朝鮮玉弾きなんて、世間からも弾きだされているんだろうなw

308M=M ◆eskwQ12oL2:2012/03/26(月) 19:39:48 ID:sqwWxxjI
OSHO

生というのは「問題」ではなく「神秘」だ。
宗教にとって、生とは解決されるべきものではない。問題とは解決するべきものであり、知ることのできるものだ。
だから宗教には決して、「生とは何か」というような質問はない。
宗教はこう問いかけるーいかにもっと生命に溢れるか。
宗教は「いかに神になるか」とは問うが、「神とは何か」とは問わない。
私たちは神秘を生きることができるし、それとひとつになることもできる。
それは質の変化であって、べつに何かが解決されるわけではない。解決できるものは何もない。
解決できるように見えたり、知ることができるように見えるのは、私たちがそれを断片的に扱うからだ。
もしその全体を見れば、知ることができるようなものは何もない。
生はそこにある。生は今までずっと神秘だったし、これからもずっと神秘のままだ。

309M=M ◆eskwQ12oL2:2012/03/26(月) 19:54:05 ID:sqwWxxjI
同前

内側の空虚それ自体が神秘だ。それは感じられもしなければ、知られもしない。あなたがそれになるのだ。
内側が空虚になったら、あなたはいなくなる。あなたは神秘の目撃者になるのではなく、神秘になる。
あなたはそれを観察できない。なぜなら、それと分かれることがないからだ。決して二つにはならない。

神秘というのは、実際のところ何も神秘的なもではない。まったくありふれたこの<存在>を、問題を起こさずそのまま受け入れたら、それが神秘だ。
問題を起こしたら、神秘を破壊してしまうーそれは解決や解答を追求することだ。

まったく単純なもの、およそこの世でもっとも単純なものだ。そして、それに出会うためには、自分もまた単純になるしかない。

310M=M ◆eskwQ12oL2:2012/03/26(月) 20:27:23 ID:sqwWxxjI
同前

もし自分のことを「誰々だ」と考えていたら、あなたの一部分は狂気になる。その「誰々であること」こそが狂気だ。

あなたの重点が「すること(行為)」から「在ること(存在)」へと変化しないかぎり、私の言う「善も悪もない、物事はそのあるがままだ」ということの意味は理解できない。

瞑想は、究極の遊びだ。何かのための手段ではない。
瞑想に何も期待せず、ただそれ自身を楽しむ。そしてその成り行きとして、悟りがある。あくまでも成り行きだ。結果ではない。
ところが、マインドはいつもすべてを仕事に変えてしまう。マインドは言う「これこれをしなさい。そうすればこれこれが利益として得られる」
想像上のものであれ、実際のものであれ、マインドが必要とするのは、しがみつくもの、投影できるものだ。そうして初めて、マインドは何かに専念できる。
マインドは今働くが、それは未来のためだ。これこそいわゆる欲求だ。
瞑想の中で、あなたは未来に対する何の考えもなしに遊び、今この瞬間を楽しみ、その行為そのものを楽しむ。そのとき想像は欲求ではない。
そのときあなたは想像と遊ぶことができる。想像とはこの世でもっとも美しいもののひとつだ。
この遊びこそ、この徹頭徹尾瞬間にいることこそ、悟りだ。それが起こった瞬間、あなたは変容する。
これこそインドの概念「リーラ」の意味だ。神は遊んでいるのであって、仕事にいそしんでいるわけではない。ただエネルギーの遊びだ。
リーラの概念は、創造の概念とまったく違うものだ。神はただ遊んでいる。「なぜか」とは問えない。遊びに「なぜ」はない。

311M=M ◆eskwQ12oL2:2012/03/26(月) 21:10:13 ID:sqwWxxjI
同前

人間は一人で生まれ、一人で死ぬ。その生と死という、二点の間、人間は社会に生きる。他人とともに生きる。
「独存(ひとりであること)」こそ、人間の根本的な真実だ。でも私たちは他人ともに生きる。それゆえ、自己知はまったく忘却されている。
自分は未知のままだ。これこそ根本的な不安だ。自分の大本である源泉に対する無知、自分の向かっている終局に対する無知、自分が今現在何であるかについての無知だ。
独存の中で自己に直面すると大きな恐怖と苦痛を感じるだろう。
なぜ苦痛が存在するのか。まず第一にエゴが病む。エゴが存在できるのは、他人がいればこそだ。エゴは関係性のなかで成長してきた。一人では存在できない。
エゴは窒息を感じる。でも死にかけているのは、あなたではなく、エゴの方だ。あなたはそれを自分と取り違えている。あなたはそれと同化している。
一人だったら聖人でも罪人でもない。孤独の中では、自分について知っていることは、すべて落ちる・・少しずつ消え去っていく。もはや自分が誰だか分からなくなる。
きっと恐怖を感じることだろう。でもその恐怖を通り抜けることだ。そうして初めて無恐怖となる。勇敢になるのではなく、あくまで無恐怖になる。
これは死だ。そこから新しい生が出現するかどうか、あなたには分からない。このプロセスの最中、あなたの知るものは死だけだ。
逃げれば必ず元に戻ってしまうー仮面に戻ってしまう。何もせず、ただその恐怖を生きなさい。
震えればいい。何もせず、その起こるがままにまかせる。それは自然に消えていく。そのままにしておけばいい。
それが過ぎ去れば、あなたは変わる。

一人であるとは、決して「私は個(マインド)だ」という意味ではない。一人であるとは、社会と個人という二分法がもはや存在しないということだ。
それによって全体性が現れる。もうあなたはいかなるものの部分でもない。あなたは全体となった。

312中川愛美:2012/04/06(金) 16:24:07 ID:caH65MvU
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313名無しさん:2012/05/25(金) 23:52:36 ID:PoeGWxT.
また過疎ってますが。

314名無しさん:2012/05/31(木) 07:55:56 ID:uWO00.oQ
Mの字が着ぐるみ砲を炸裂させないからだろ?


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