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It's beginning to and back again

1M=M ◆eskwQ12oL2:2008/08/05(火) 23:43:50 ID:???
パチプになってから本をほとんど読まなくなった。
目が疲れてるので。
本もずいぶん処分したり実家の押入れに放り込んだりしてる。
こんなままじゃなんだから、これから基本一日一レスづつ、
手持ちの本やネットで見て印象に残ってる言葉を引用していこうと思う。
まあ、就寝前の日記代わりに。

115M=M ◆eskwQ12oL2:2010/03/25(木) 02:57:39 ID:iAjs9J/Y
同前

樹木の限界線に咲いている花の前で謙虚な気持ちになるとき、山嶺に向かう道がお前のために開かれるのである。

「夜は近くにあり」道のなんとはるけきことよ。しかし、この道を辿るために要した時間は、
道がどんなところを通っているかを知るのに、私にとって一瞬ごとにいかに必要であったことか。

「さらに遠く、私は連れ去られてゆく」よし、よし、しかし、お前は差しだされた数かずの機会にたいして盲目だったわけではない!

「エホバよ栄光をわれらに帰するなかれ、われらに帰するなかれ・・・ただ御名にのみ帰したまへ」
なにがゆえのこの不安? 原因は分かりきっているではないか。ひそかにおまえ自身の栄誉を追い求めはじめたときから、おまえはもうみずからの弱さを力強さに転化させることができなくなったのである。
おまえはこうして《試みに引き入れられ》たのであり、そして、当然のこととしてみずから進んで運命を諾うことができるだけの、あの信仰の堅固さそのものを失ってしまった。
それというのも、かような確固たる応諾をなしうるには、その根底に微塵の偽りもないという前提がなくてはならないからである。

いつまでも受け取る者であることー謙虚さから。そしてお前の柔軟さを失わないために。
そして傾聴し、見、理解することができるのをありがたく思うこと。

116沈下酢 ◆PHwXvEfcS2:2010/03/25(木) 03:09:24 ID:zVR3HMi.
沈下酢(笑)

117M=M ◆eskwQ12oL2:2010/03/25(木) 23:45:20 ID:iAjs9J/Y
同前

人としてこの世にあることーー大地から自由であり、なおかつ大地を祝福する。

私の世界がかくも荒涼としているのは、貧しさの反映なのか、誠実さの反映なのか。弱さのしるしなのか、力のしるしなのか。
道に迷ってしまったことを意味しているのか、それとも正しく辿っていることを示しているのか。
絶望が答を与えてくれるであろうか。

118M=M ◆eskwQ12oL2:2010/03/26(金) 00:00:22 ID:iAjs9J/Y
「安楽への全体主義」 藤田省三

全ての不快の素を無差別に一掃して了おうとする現代社会は、「安楽への隷属」を生み、安楽喪失への不安を生み、分断された刹那的享受の無限連鎖を生み、
そしてその結果、「喜び」の感情の典型的な部分を喪わせた。
そしてその「喜び」が物事成就に至る紆余曲折の克服から生まれる感情である限り、それの消滅は、克服の過程が否応なく含む一定の「忍耐」、様々な「工夫」、
そして曲折を越えていく「持続」などの幾つもの徳が同時にまとめて喪われていることを指し示している。
複合的統合態としての精神の、つまり精神構造の、解体と霧散。

119M=M ◆eskwQ12oL2:2010/03/26(金) 00:31:43 ID:iAjs9J/Y
「今日の経験」 藤田省三

精神的成熟が難しい社会状況となっている。

物事は、元来それが人間の側の手前勝手な目論見を超えた独立の他者であるからこそ物とか事とかと呼ばれ、
それとの遭遇と交渉を通して私たちは経験を生きることになるのだけれども、現代の「先験主義」は物事のそうした他者性をそもそも認めないで、
自分に対して現れる問題は、すべて予め完全に統御できる筈だと考えるものであるから、その意識の枠内では、
物事との驚きに満ち又苦痛を伴う相互的交渉が起こる余地がない。

先見的な「設計図」の完璧な合理的体系を誇ろうとすればする程、その「設計図」が物との接触によって、打ち砕かれることへの怖れと不安が働くことになる。
此処から再び経験回避の動力を獲得する。その能動的回避の帰結は所属機関の保育機化をいよいよ「主体的」に促進することであろう。

精神の「成年式」は、混沌の苦痛の最中で独立の他者である物事の諸特徴を見詰め、自分の意図の世界に繰り入れ、相互制約を経て、両者の統合を内部に達成することである。
そうしてその統合が行われているところには、根本的価値の放棄や権力への内面の屈服や表面的状況への便乗は起こらない。
じかに物事との間に葛藤を常々持っていて、それを通して価値の再生が繰り返し行われているからである。

精神の生成過程を保障する条件は、先ず何よりも、自分を震撼させる物事に対して自らを開いて置くことであろう。

120M=M ◆eskwQ12oL2:2010/03/26(金) 01:00:32 ID:iAjs9J/Y
同前

私たちは経験の消滅という「最後の経験」を生きつつある。
三大経験ー最初の経験(誕生)、最後の経験(死)、再生の経験(復活)。
全ての経験がこの三つの経験の核を比喩的な模型の形で含んでいる。
私たちは、今、その一つを、未曾有の規模で経験しつつある。
個人的規模でないだけに、自分の経験として自覚もしにくく自分で左右することも出来にくいから、
いきおい運命としての性格が強いものではあるけれども、しかし運命との及び難い葛藤こそは精神的格闘の典型的なものでもある筈である。
私たちは図らずとも今日その機会に恵まれるに至ったのである。

「最後の経験」を十分に経験するためには、その大経験の原子として、小さな「失敗」や「計算違い」や機構の鋳型からの「はみ出し」などを、不愉快だからと忘却の彼方へ押しやらないで大切に保管し、
それが物語ってくるところのものを十分に咀嚼しなければならないだろう。

その道を歩む者からは、動かし難い社会的存在としての精神の野党が生まれるに違いない。
そうして動かしえない小さな存在は、それが外側から動かしえないものである以上、却って多数派を動かす要因となりうるのである。

121名無しさん:2010/04/03(土) 20:43:43 ID:Op3Z3U8E
慶次愛は連荘しねー
本当に80%なんか?
そのかわり、初当たりがやたらと軽い気がする

とりあえず5日間 連続で勝って5連勝したが
5連勝してたった+130Kだw
ショボすぎて物も言いたくない

で、今日
ルパンで800回してノーヒット
あとは慶次で20K突っ込んでノーヒットでマイナス60K

こんな立ち回りで2ヶ月連続勝ち越したんだがw ぷー

122名無しさん:2010/04/03(土) 20:50:35 ID:Op3Z3U8E
とりあえず、キセルは腐るほど出たが
外れたのは1回だけ
キセル信頼度が上がったんかな

今日初めて赤先読み保留が来たが
槍 SU5慶次からお松へ行って
華麗に外れた

これまでに一番感動したのは
金襖 金扇子 キセル無し 白襖
当然外れたと思ったら
白襖が開いた瞬間に前田利久の全回転

水墨画みたいなアニメ画で神々しいまでに美しかった
ケツが浮いた

123名無しさん:2010/04/03(土) 21:27:48 ID:Op3Z3U8E
私は大海の畔で
砂と戯れる子供に過ぎない

124沈下酢 ◆PHwXvEfcS2:2010/04/04(日) 03:32:44 ID:zVR3HMi.
ヤマトヲタ、消え去らんかい

125名無しさん:2010/04/04(日) 11:42:13 ID:N5OXtUY.
早く祖国に帰ったほうがええんとちゃうか?

ま、帰っても速攻で強制収容所送還だろうけどw

126名無しさん:2010/04/04(日) 23:26:47 ID:J3zc/ebY
                    .   -‐…… ‐-  ..
                 /             `   .
                 / /                 ` 、
                   , '       /             ,,ィヽ.
               /  /     '/ /          ハ o`ヽ
                 /   ′   ///  /          {  , xヘ
              ′   !     i//  /  /,ィ  ハ } 八 (>、o j>
                |  |    i-r‐‐/ /-ノ' ! /  Ⅵ '   ヽ. jjノ ∧
                |  |    |」j//∠⌒  ノ'′ ゝ| i l       ハ
                |i l〃|    「ん厂ハ`ヾ´   ノr j`メ、i{_  i    ノ,
            j八 { |    |r‐'.::::::リ     ´う'く、ハ  }  ||}
                  ハヽ|    |ゞ--゚く      r‐'::::ハ} ノ  ハ ハハノ
                   Ⅵi    从 ~゙′     , ゞ゚シ  イ .イ  / ノ 2日で9万使って、単発1回 ぷー
                    ヽi   ハー┐ r‐ 、   ''  イ爪  !  〈
                  ヽ  「`ヽ/  ー ´     .イ'i |ハ厶イハ
          __    _ >、{V:/\     . < ノム!  } /  }
         / / ∧ーく`ヽ`ヽ \ー三三ミー‐=彡y リ  ノイL. ノ  ___
.         i  i  i 厂 ̄厂`ヽ、 \ ___ _,ノ /イ ,∠二≧=、/`ヽ `ヽ`ヽ
         /!  !  !{=="  ノ 》ヽ         /、/》 | (    ヽ i  i  i
       , (O∧    Vr‐一'"  》ヘ 〉ミメ、___,/三〈 / 》 ヽ ー‐=j j  ;  ,
.      /  7 . :V///ハーr―≪`ヽノ`ヽミ三三三彡'⌒ヽ〈≫、_`二ニソ, /  / /
     ∧__,/. : : :∨//ハソー‐'ー‐'′  ゙ー―一'′   ゝく三ミ厂/////// ハ
     {  / : : : :i「 ̄「「´                       }//彡//////,イ\}i
.     〉/ . : : .::{   {    r:.,                r:.,    j/ >ー=彡''′ i   |
    〈/ . : : : ::八 、八                          从/ //    |  ノ
     ′    {  ヾヽ i:.                        //ハ.イイ    |く
    i       八   ) )ハ                     ///〃〈〉i       |=='
    l         ヽィ./ノハ                      ,′{ {   ノ'     i
           ノハ{    」                 ′ ) ).イ       |
.     、        ノヾ====!                 {_イイ/八 、     ノ
       \     /     j                   「 ̄`ヽ.  ヽ.   /
         ー '"      ,′        {          V///ハ`ヽハイ
               /                   V////ゝ、 \`丶、
                 /                       V//////ヽー///\

127M=M ◆eskwQ12oL2:2010/04/04(日) 23:30:26 ID:iAjs9J/Y
「ハムレットの方へ」 関 曠野

誓約する者は自分の言葉が未来において行為の真実となることを誓い、この誓いによって歴史的な存在としての己を新たに自由に作り出す。
誓う者は別の人間に生まれ変わる。そして彼はその己を証人としての他者と歴史に引き渡す。こうして彼においては、過去は未来となり、未来は過去となる。
そしてまた言葉は行為となり、行為は言葉となる。だから一度誓約した者は、今後は己は絶えず未来と過去、言葉と行為の相克に満ちた対話の中を生き抜くことを誓ったのだ。

言葉は行為によって、行為は言葉によって各々の価値を測られるものである。一つの言葉はそれが生み出した行為の自由さと偉大さを尺度としてのみ、他の言葉より高く評価される。
他方、一つの行為はそれが範としている言葉を尺度としてのみ、賞賛されうる。

誓約した者は、己が秘匿する意味を可能な未来として開示せんとする過去と、過去の意味を絶えず変容せしめる未来の対話が構成する<歴史的現在>の時間を生きる。
この生ける現在とは、過去が未来として予期せぬ相貌をもって繰り返し若返ることである。

人間は彼に固有の過去なくしては、他者と世界との繋がりを失い、何者でもなくなるだろう。しかし、学び成長する人間にとっては、過去とは常に両義的な実在である。
それは彼の成長を妨げる鉄鎖でもありうるし、絶えず未来に姿を変えて現在に到来し人間を解放する、過去になされた誓約でもありうる。
過去のはらむ意味を宿命と必然の鉄鎖から解放の約束へと変容させる力は、現在の深みから湧出する。過去は更新と変容をもたらす力としての現在によって救われ、その意味は現在とともに新たに成長する。
そして過去の意味を救出し若返らせる者は、それによって過去の死者たちを若返らせ、彼らの尊厳と偉大さを保つことに奉仕する。
過去の人人は空しく死んだのではない。もしそうであるなら、我々自身が空しい存在となろう。
だから人間は、過去の事物を繰り返し読み直し、過去が秘匿する未来をあらわにする努力をつうじてしか、己に固有の<歴史的現在>に到達することができない。
歴史とは答の発見ではなく、繰り返される問いかけである。

128M=M ◆eskwQ12oL2:2010/04/04(日) 23:51:02 ID:iAjs9J/Y
同前

そして我々は歴史を読み直しつつ、大地が秘匿する意味、その予期せぬ、謎めいた、生成し変容する奥深い意味をまさぐる。
母なる自然は一体いかなる意図あって、その胎内から、語り愛し労働する人間たちを生み出したのかーー我々は生のあらゆる瞬間において、それと知らずにこの問いに関わり、この問いを発しつつ己の生を生きているのである。

学び成長する存在であるがゆえに、人間は愛と闘いに身を投じ、大地の意味のより深く繊細な了解を獲得せんとして各自の歴史的な生を生きる。

語る人間はつとに言語と誓約し、言語を通じて、愛し学び成長するための闘争を遂行することを存在に対し誓約している。
それゆえに人間であることは一つの物語となる。己の生に一つの物語を与え、物語を介してのみ彼に固有の<歴史的現在>の時間に到達する。
そして闘争し物語る者として、彼は言葉を絶え間ない虚ろで不安なおしゃべりから救出して存在の沈黙に近づけ、心を砕いて、存在の絶大なる威力を言葉の中に守護する。

129781 ◆6AnkZLz8ms:2010/04/05(月) 09:47:17 ID:VqpdarhU
股潜伏Y.Wかよ・・・
こりで股、倉賀野がまた覚醒するんだな【プ

130名無しさん:2010/04/06(火) 22:10:19 ID:ymXy8PsM
2台しか空き台が無い慶次 愛をなんとか確保し
夕方から22:00まで打って
初当たり3回

3勝 4勝 1勝wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

有り得ない
こんなんだったら昔の50%の新海以下の連荘力しかないんだから
打つ価値なし

131名無しさん:2010/04/06(火) 22:17:53 ID:ymXy8PsM
というより
やたらと初当たりが軽いんだよね
1/370なんてなかなか初当たり引けないで苦労してるのに
2通を除いた実質大当たり確率1/518の慶次の方がラクに引けてる

逆に連荘率70%のルパンで引き戻しなしの19連荘、16連を達成
方や慶次では今のところ10勝が最高w
1勝で終わったのは愛では2回目
漸では腐るほど経験したが
思いっきり萎える

132名無しさん:2010/04/07(水) 21:16:12 ID:PdzcsiUc
慶次 愛は連荘しない
これは間違いない事実

が!!!
あの面白さに体が中毒になってしまっているのも事実

耐えられず、女に金を貢ぎに行く

夕方から、3Kでキセル
ここから初当たり4回を引くものの

3勝 4勝 1勝 5勝で終わりw
ナニこの糞台wwwwwwwwwwwwwwww

虎柄の扇子が見れたのと
槍→キセル→金襖の大道パターンが見れたのと
金セリフ→おふうリーチ(確定パターン)が見れたのが救い

ショボ勝ちで終わり ぷー

133名無しさん:2010/04/07(水) 21:19:47 ID:PdzcsiUc
おれ的には
慶次 愛のスペックは

大当たり確率 1/350
確変割合 60%

134名無しさん:2010/04/07(水) 23:20:17 ID:PdzcsiUc
http://www.youtube.com/user/perfectjeanie#p/u/0/CDQm1S8t_F8

以前紹介したシンガポール? ベトナム?
系の巨乳美人が、新しい演奏を披露してくれた


ところで
パチンコ打てば、月平均70万
ピアノは完璧に弾きこなし
スタインウェイのグランドを所有
絶対音感を持っていて
オーケストラのピアノを任されていて
ラーメンなんて庶民の食べ物は受付けない
セレブティーの御曹司さんは
ぜひその才能の旋律を
ようつべにて、うpして頂きたいものです

つーか
そんな高貴なお方が、なんでパチンコなんて
腸線の生み出した如何わしいギャンブルに身を投じるのか
理解に苦しむところではありますが・・・w

まぁ、言うだけ乞食ってのは日本人が生み出した崇高な文化でもあります

「だが それが いい」

135名無しさん:2010/04/07(水) 23:25:14 ID:PdzcsiUc
やぁ!

遅れてすまぬ

待っててくれてありがとう



うぅ

こやつ おれに「なかなか死なぬ奴」と悪態ついてござるよ

ぷー

136M=M ◆eskwQ12oL2:2010/04/08(木) 22:56:55 ID:iAjs9J/Y
>>135
ん〜と・・
>スタインウェイのグランドを所有
「所有」じゃなくて「欲しい」じゃなかったっけ?
>絶対音感を持っていて
音感は確かな方みたいだけど「絶対音感」とまでは言ってなかったような・・
>オーケストラのピアノを任されていて
譜面起こしのバイトをされてたとは言ってたけど・・
>ラーメンなんて庶民の食べ物は受付けない
コッテリ系スープより、東京ラーメンなんかのアッサリ系スープを好むだけなのでは?
>腸線の生み出した如何わしいギャンブルに身を投じるのか
知り合いの同業さんに、旧帝大工学部卒の人がいるよw
体こわして仕事辞めて、この道に入ったそうな。話すと確かに頭の良い人だから、本当なんだろう。
あと、自分は会ったことないけど、東大卒元財務省キャリアのパチプもいるそうな。
精神的な問題で退職したらしい。
まぁ、社会の底辺には、いろんな人がいろんな理由で転がり落ちてくるもんだよ。

話は変わるが、自分はルパンどうにも当たる気がしない・・

137M=M ◆eskwQ12oL2:2010/04/08(木) 23:05:47 ID:iAjs9J/Y
追記
ちなみにその旧帝大工学部卒さん、妻子もいて車とマイ・ホームも所有してます。

138名無しさん:2010/04/08(木) 23:28:53 ID:ubs4BZrM
対比の対象として
旧帝大工学部卒や東大卒元財務省を持ち出すという事は

パチプー=一般に低学歴、馬鹿ばっかり
と言う一般の社会的評価に対する劣等コンプレックスが拭えないという事かね?

おれ的には
旧帝大工学部卒や東大卒元財務省などに何の魅力もブランドイメージも感じないんだが
実際、自分の周りに3人 旧帝国大卒がいるが
おれと比べて、別段 何か特別に優れているという感じはしない

勘違いしてほしくないのは
生き方を否定したり、蔑む意図は全く無いってこと
差別する気も無い

ただ、おれは嘘つきや
ネット掲示板で自分を過大評価して自己主張する奴が大嫌いで
生理的に受け付けない
それだけのこと
もっとも右も左もそんな奴ばかりだがね

139名無しさん:2010/04/08(木) 23:45:47 ID:ubs4BZrM
便利な徳利よのぉ
毒と酒 どちらも注げるようになっておるわ

飲め! 飲まねば即刻 斬る
飲め!

140M=M ◆eskwQ12oL2:2010/04/08(木) 23:47:02 ID:iAjs9J/Y
「あたかも最期の日のように」 古東哲明

2700週のうちの3週間。これは1945年から現在までのうち、地上から戦火がとだえた期間である。平和ボケしたぼくたちはつい忘れがちだが、グローバルに見ると、この惑星は、砲火絶えることなき戦乱地。
産業公害、過労死、交通戦争、環境破壊・・・20世紀は何だったのかと問われたら、ぞんぶんに悪事と不幸のかぎりをつくした世紀と答えるしかないだろう。
そんな「すべてがゆるされている」「アポカリプス・ナウ」の現代世界を思うとき、《ゆるせないことを、怒り哀しみつつ、しかしそれでもなお受け入れること》、つまり悪の受容、それだけが人間にできる最終最後の姿勢ではないか。

それは、ゆるせないこと(悪)をゆるせること(善)へ変換することではない。毒はあくまで毒だ。だからしたり顔で善悪の彼岸をとなえることでもない。
ゆるせないものをゆるせないままにゆるすという逆説を生きること、それが、最後の倫理ではないか。

かりにこの世の禍悪がきれいサッパリなくなったとしよう。それでどうだと言うのか?そんな悪の解消状態が《善》なのか《幸福》なのか?
もしそうだとすると、善や幸福とはたかだか<悪の欠如>ということになる。つまり善や幸福それ自体に、なにか積極的な意味内容があるわけではないことになる。
不幸の不在は幸福と同義ではない。だから逆に、この世が禍悪の大地であろうと《幸福=究極目的》は可能なのではないか?

この世的な善悪の問題は、法規や政治施策において対処すべき問題。それは大いにやったらいい。だがそんなことは、人生の幸・不幸(倫理)に直接かかわる問題ではない。

141名無しさん:2010/04/08(木) 23:52:26 ID:ubs4BZrM
知り合いに渓流釣りが趣味の奴がいて
今の時期旬の葉わさびを釣り合間に採って来て
醤油漬けにして、くれた

マジで美味い
絶品 美味

142名無しさん:2010/04/08(木) 23:54:05 ID:ubs4BZrM
ん?
今スレタイと>>1を始めて見たが
おれは思いっきりスレチじゃねーか!

わりー
結果 荒らしちまった

消えます

143M=M ◆eskwQ12oL2:2010/04/09(金) 00:38:55 ID:iAjs9J/Y
同前

生存保持の努力としての生命、そんな生命の基本動性に固執するかぎり、ぼくたちは権力をこばめない。

人の形をした自分(=この世の役割存在者=公共的自分)を自分自身と考えないこと。
役割存在者に生命をあたえ、それを制御する内なる自分自身(=内在しながら超越する自己自身)に気を配ること。
役割存在者(演劇的自己)は世界劇場と、内なる自己は宇宙自然とそれぞれ対応する。

否定性(死・無常・無目的・不幸などの小悪)を、否定的(悪)と感じるのは、それに抗う自分がいるからだ。
つまり、否定性を忌避し、肯定性(生命・永続・目的・幸福などの小善)を選択する、人間的欲念が入るからである。
しかし、この自然宇宙は人間へのプレゼントではない。もともと自然は善悪無記、人間に無関心で中立的。
なのに人間的欲念を基点に考え、感じ、選んで生きようとするから、世界が否定的な顔を見せる。欲が満たせず不幸を嘆く。

ならば、否定性に抗う自分(=欲念)をなくせばよい。善/悪、生/死、肯定/否定、光/闇・・そんな窮屈な二分法(=差異)を投射するそもそもの光源を消せばよい。
むろん実際に光源を消すことはできない。生存が光源だから。
照らし出された善悪模様(光と闇の二分法)への反応をエポケーする非情・無関心を基点にすればよい。

空白の位相すなわち、演劇内世界で成立する諸関係性(人間関係・善悪模様)をそもそも可能にしている根本条件の次元(超越論的次元)にいったん身を引いて眺めなおしてみるならば・・
死者のように透体化し、善悪模様を洗浄されたその眼には、否定的に見えたこの世の存在や人生の営み(=世界劇場)が、なんとも不思議で新鮮な奇蹟とすら思えてくる。
「死に近き者こそ生に近き者」、こうして刻一刻の<今ここ>の瞬間が、唯一・一回的の表情をたたえて、静かに溢れでる。そして、《共にあること》の凄さにも覚醒する。

ひとものすべて死す。滅ぶ。その意味で、森羅万象がみな、無条件にすでに最初からこの空白の位相に属している。つまりエイリアン。
だからあとはひたすら、滅びと死の事実に気づくようにいざなって、共に在ることの不思議をたきつけ、転身作業へ誘うまでである。

144M=M ◆eskwQ12oL2:2010/04/09(金) 00:52:09 ID:iAjs9J/Y
>>142
いや別にかまいませんよ。
自分一人じゃ埋まるまであと何年かかるか知らんしw
でも、本人でスレ立てるのが一番いいかな。それか退職スレ。

145名無しさん:2010/04/09(金) 21:14:46 ID:qAD6KH/k
んじゃ 遠慮なく今日の愚痴を

仕事帰り夕方に等価店へ
角台の慶次 愛をゲット

打ち始めて6Kで金襖、金セリフ、赤扇子でもののふチャンスで
真田→直江
キセル無しでも見事に当たってケツが浮いたが
2勝で殿
仕事中に慶次のセグを暗記しまくってるので
そのセグが2通であることは直ぐに分かった

殿抜けて
300ちょいで
戦国モード1回転目に、ストーリーのおまつを引いた
戦国の1回転目の強リーチ、これ劇アツでしょ?
あっさり外して
600ちょいに再び金襖、金セリフ、赤扇子
キセル無しで、義の鉄拳

これは当たったと思ったが、あっさり外れてくれた

結局、800まで回して止め
マイナス32K

つーか
連日連夜、あまりにもショボ連で終わりすぎや!
80%なんてうそ臭いね

146名無しさん:2010/04/09(金) 21:19:23 ID:qAD6KH/k
今度の慶次のセグは突然確変が1
2R確変が9の合わせて10通りで
花びらは1個で、点等時間が長いから
判別しやすいし、覚えやすい

当然、パチンコで生計を立ててる者は
慶次のセグぐらい暗記ずみだろうけど

147名無しさん:2010/04/09(金) 21:25:04 ID:qAD6KH/k
真田のリーチで

「この佐助にはな 妹が一人おってな」
「沙霧殿!」
の後に(帰れ)と罵られるけど
あれは佐助が幸村に言ってるって奴がいるんだが
違うと思う
佐助は幸村に絶対の敬服を誓ってるはず

何度も読破した慶次だが
再び漫画喫茶で確かめてくる

148名無しさん:2010/04/09(金) 21:34:11 ID:qAD6KH/k
今日おれが打った台の過去5回の履歴を見て思いっきり笑った

3 3 3 2 3←おれが引いた当たり

平均連荘率7.4回だぁ?
死ね

149名無しさん:2010/04/09(金) 21:52:16 ID:qAD6KH/k
実は去年 ある国家資格を受験した

3科目あって、各20問 全60問
合格率約35%の国家資格なのだけど
59問正解で合格した

密かに60問全問正解を狙ってたけど
惜しくも達成ならず

あの時の精神的向上心を思い出して
必死に慶次のセグを暗記してるおれ様

履歴書に書ききれないほど資格は持ってるが
他者との比較ではなく
合格ラインを超えた者は全て合格なのが入試試験との違い

今まで国家資格試験で落ちたことは1度も無いが
能力も実力も無いのに
えらそーに1流国立大学ばかり受験して
結局どこも受からなかったおれには
どーでもいい話だw

150名無しさん:2010/04/10(土) 20:40:32 ID:GSnUzoiI
さすがに種銭が尽きて
一日中朝から酒を飲んで寝ていたおれ様

しかし慶次 愛の連荘力の無さには驚くばかりだ
斬の時もそれは感じたが
ほとんどの大当たりが5勝以内で終わる
1回も城門を突破できず1勝で終わることが異常に多い

確かに20%は2通なのだから
1/5の確率で連荘は終わるのだろうが
1日にいくらも引けない初当たりを苦労してやっとの思いで引いて
即落ちるときのあの落胆といったら・・・

本当に検定に通った時のスペックなのだろうか?
店が裏つけてるのか?
真相は闇の中だが
いずれにしても、この程度のショボ連しかしないなら
ミドルを打っていたほうがマシだ
確実にな

最近の平和の落ちぶれ具合は激しく
ルパンとて絶対に増台はしないだろう
釘を甘くして2列ぐらい入れれば
慶次に対抗できる看板台になるのに

やはり今年の本命は、GW前後に入るエヴァ6 始まりの福音
ってことになってしまった

慶次 愛は面白いんだが
連荘しないから、だんだん魅力を感じなくなってきた

151名無しさん:2010/04/10(土) 20:43:39 ID:GSnUzoiI
そもそも、実質大当たり確率1/518というスペックを見れば
あんなに軽々と初当たりを引けることが不自然だ

夕方から打ちに行って
大抵3回も初当たりを引けてる

まぁ、それ自体が極めて怪しいから
連荘力の無さも受け入れるしかないw

152名無しさん:2010/04/10(土) 20:56:04 ID:GSnUzoiI
明日は、ホームセンターに柔軟剤を買いに行って
そのまま漫画喫茶に行くつもり

その後、少々厄介な仕事があってな
酒を思いっきり飲むこともできん

それにしても、厚生労働省は壊滅してほしい
国民の健康など全く考えていないくせに
医療業界に金を貢がせるための策略を次々に生み出す
奴等は消費者金融の893よりたちが悪い

例えば、血圧の定義をかつては160であった基準を
140にまで下げることで、新たに数百万人の健康な人々が
「高血圧症」と認定され、治療費や投薬費で莫大な収入が見込める

人体は意味があって様様な反応を示しているのであって
血圧の数値に一喜一憂している現代人は非常に滑稽
この点に疑問を呈している善良な医者も多々いる
amazonで著書を検索してみるがいい

今年も強制的に受けさせられた春の健康診断で
おそらく3項目引っかかると思ってる

血圧と肝機能障害
さらに今年は便秘が祟って血便が出てたので
内視鏡検査になる可能性が高いが
医師の同意書に署名しなければ、内視鏡検査は実施できないから
それを利用してバックレるつもり

おれは再検査なんて行きたくはないのだ

153名無しさん:2010/04/10(土) 21:00:04 ID:GSnUzoiI
昨今
amazonで買った「血圧 心配症ですよ!」 著 松本 光正
という本は、非常に面白かった

厚労省と医療業界に脅さされてる愚かな国民を
目覚めさせるがごとく
真実を、客観的な事実を元に明かしてくれている

154名無しさん:2010/04/10(土) 22:09:15 ID:GSnUzoiI
人は日に畳一畳と米3合があれば十分


↑ 帰れ!

155M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/16(金) 00:39:47 ID:RUG6ds.w
適当に再開する。
OSHOの諸著作からの抜粋;以下O
M・アウレーリウス「自省録」からの抜粋;以下M
その他はその都度著者名著書(または章)名を記していく。

156M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/16(金) 01:33:41 ID:RUG6ds.w


アブラハムに共感するのは良いことだが、覚えておきなさい、アブラハムにもまた新生が必要であることを。

宗教性とは、私たちが終わりではないこと、私たちがただの航海者であること、まだすべてが起こってしまったわけではないこと、まだ多くのことが起こる、ということを意味している。

私たちがここにいるのは、必要とされているからだ。これは神の意志だ。人生は意味のあるものだーーこれが神の意味のすべてだ。
私にとって神とは人物ではない。存在だ。
必要なのは、人が自分自身のの中に空を創造することだけだーーそれは神を捜し求めることではない。
空になった瞬間、超越したものが自分を貫き、空を満たす。その恍惚の瞬間から、誕生も死もないことを、そして自分自身もまた永遠であることを知る。

人生は罰ではない。それは贈り物だ。人生の完全な味方になりなさい。

神を迎えるためには、自分自身を完全に消し去らねばならない。

人生は常に新しい。思考はつねに古い。人生は思考のない状態でのみ、見出される。

私たちは自分たちの意志によって、自分たちの愚かさによって、物乞いになってしまっている。
私たちは内なる聖典の言語の読み方を忘れてしまっている。

内へ入りなさい。調べに合わせなさい。そうすれば、終わりなき大いなる喜びがある。人生はそのときだけ人生になる。

人はひとりでは正しい行いはできない。ただ誤りを行なうのみだ。
正しい行いが起こるのは、人が神を通して動いていくことに自身をゆだねたときだけだ。

自らを明け渡すこと。

美を、すべての美を通して神を探し求めなさい。

必要なのはただくつろぎ、自分自身の中にいること。

私たちは、自分自身だけで勝利を得ることはできない。それはあたかも、小さな波が大海と戦っているようなものだ。
波は海に属しているものだ。どうして戦うことができよう。
人間が勝利を得ることができるのは、その意志によって生きるのではなく、神の意志によって生きるときだ。

しだいに対象と瞬時にひとつになるこつが、わかるようになる。観察者が観察される者になる。バラの花を見ている自分がバラの花になる。そこには分離がない。

すべてが無限だ。なぜならすべてが神性だからだ。存在と神は同じ現象を表すべつの言葉だ。それは芳香だ。

私たちは神に生まれ、神に生き、神に死ぬ。私たちのエネルギーは神のエネルギーだ。

157M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/17(土) 00:58:43 ID:RUG6ds.w


光になる、光が存在になる、その最後の瞬間まで、神を渇望していなさい。

内発的であるということは、現在に対して責任を持つということだ。人々は過去に支配されている。

いかにして遊びに満ち、安らぎを得るか、いかにして目標を持たずして幸せになるか・・

あるがままでいることを祝いなさいーー自分に何ができるというのだ

ゆっくりと、どのようにして溶けるかを学びなさい。すべての行いに溶ける。
そうするとその行いがダンスになる。行為だけがあって行為者がいなくなる。

私たちは、支配者を装う奴隷であるのが常だ。

私たちはただ忘れているだけだ、何もする必要がないことを。

呼吸、血液の循環、食物が肉体の存在のために必要なように、魂にとって必要なのは至福だ。
いちど自分の至福を、その源泉を見出せば、映ずるものすべてが変わる。
存在はただ私たちのありのままを反響させる。至福が、自分自身が本来持っている本質であることに気づいたとき、宇宙全体が至福となる。

神とは信じるものではなく、観るものだ。神とは経験であるべきだ。

これを礎としなさい。存在、外側、内側と親しみを持ちなさい、誰にでも親しみを持ちなさい、そして自分自身にもーーそれが最も難しい。人は自分自身を愛さない。

ただ起こるものを見つめるのみ、好感もなく、嫌悪もなく、正当化もなく、非難もなく、

歌になることができなければ、人生は空虚で意味がないままになる。

私にとって、宗教的であるということは、生命がみなぎること、他者と分かち合えるほどに生命に満ち溢れること

自分が唯一のものであることを覚えていなさい。自分を愛しなさい。

158M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/20(火) 01:22:39 ID:RUG6ds.w


それは解明されるべき問題ではない。生きるべき神秘だ。

まず最初に覚えておくべきことは、生は私たちに授けられたものであり、私たちが勝ち得たものではないということ。
実のところ、人々はそれを受け取るに全く値しない。
また覚えておくべき二番目のことは、精神の力についてだ。それもまたあなたに属するものではない。
あなたの中に絶え間なく流れている神のものだ。あらゆる瞬間、あなたは神を呼吸している。

存在はひたすら与え続ける。それは私たちがそれに値するからではなく、存在が溢れるほどに満ち足りているからだ。
全面的に受容的であれば、天国のすべてがあなたの実存へと、今ここ、この瞬間にも降りてくる。

第二の誕生は、唯一、瞑想を通してのみ可能となる。

あなたは肉体でもなけれbマインドでもない。あなたはそのすべての目撃者だ。
目撃を通して成長をとげぬかぎり、人は自分が魂だと知ることはない。

勇気とは何だろう? 慣れ親しんだもの、既知のものを落とす能力のことだ。

神は生の創造者ではなく、生そのものだ。
生は必要量を超えて横溢している。私たちは神と毎瞬、対峙している。

159M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/22(木) 23:40:08 ID:RUG6ds.w
OSHO

至福とは未来のどこかで起こるわけでなく、すでに起こっている事象なのだ。

賛美すればするほどさらに深く見てとれるようになり、より洞察も深まることだろう。
祈りに満ちた人は驚くほど知覚が鋭敏になる。彼は、あたり一帯に存在を見出す。

できるかぎり沈黙の中にありなさい。さらに深く静寂の中に座りなさい。
あらゆるたぐいの古い策略を練るのはマインドに任せておくがいい。そしてあなたはただ、どのような判断も下すことなく見つめる。
マインドの策略の犠牲となってはならない。ただ距離を保ち続けなさい。

機会があるときにはいつでも、ただ何もせず、静かに座ることだ。

自分が肉体でもマインドでもないと気がつくにつれ、何の妨げもない自由な感覚があなたの中に湧き起こってくる。
そしてその後で最も微細な壁ーー感覚を落とさなければなrない。

「私は全体からかけ離れてはいない」と知ることは、途方もない自由をもたらす。
自分で自分を閉じ込め続けている。私たちは監獄だ。そして囚人であり看守でもある。

自我の抜け目なさを理解するように努めなさい。それは謙虚になることすらあるのだから。自我は裏口からしのび込む。

至福は常に存在から贈られるもの。自我が死滅したときにのみ起こりうるものだ。

瞑想とは誰でもない者になること。

祈りが生まれるように瞑想しなさい。祈りが生じた証はひとつしかない。それはあなたが芳香を体験し、そのあなたの経験をほかの人々が味わうということ、つまりあなたが芳香を放っているということだ。

あなたが完全なる沈黙にあるとき、その沈黙の喜びはあまりにも大きく、宇宙に感謝せずにはいられなくなる。

160M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/23(金) 01:02:18 ID:1gxVaIrU
OSHO

真実の祈りは感謝の祈りだけだ。ただ「ありがとう」のひとことで充分だ。
存在に向かって静かに頭を下げることだ。

存在するのは神ではない。神性なのだ。どこにでもある限りない神性の存在に気づくのは、愛を通してだ。

祈るために神を信じる必要はない。最初に祈ることを知らねばならない。

祈りとは「私はあまりにも小さい。だから、総なるものの助けなくして私にとって可能になることはない」ということを意味する。
自己の総なるものへの明け渡し、絶望ゆえの降伏ではなく、深い理解による明け渡し。

神への感謝が起こるのは、喜びの心を通してのみである、これが、私の見方だ。
どこにいても、人は喜びの心でいられる。なぜなら、神がそのように決めたのだから。
喜びーそれは、神が人に与えた、美の世界を見る機会、可能性なのだ。

感謝の心の中で、人は受け取る価値のある者となる。要求すれば、それを失うことになる。

祝福をどこからでも探し出し、見つめ、見守っていなさい。

まず尊ぶことから始める。

思考は人を眠ったままにしておきたがる。思考とは夢の現象だ。

神は、花というより、むしろ芳香のようなものだ。人はそれを感じることはできるが、つかまえることはできない。
楽しみ、愛し、共に踊ることはできるが、自分のものにすることはできない。

凡庸な人間は、他者に依存して生きる。聡明な人間は自分自身の光に従って生き、どのようなリスクでも、受け入れることができる。
それは、自分自身の知性を信頼しているからだ。挑戦が大きいほど知性が深まることを、彼らは知っている。

人生とは悪夢のようなものだ。悪夢に苦しんでいるのなら、自分のエネルギーのすべてを目覚めさせることだ。

すべてが贈られるものであることを、心に留めておきなさい。

神について言えることは何もない。それはただ、経験であるだけだ。

そして人は知る、死がないということを、誕生がないということを、常に今ここに在るということを。

幾千もの神性なるものに囲まれていることを感じるようになったとき、もはや苦しみの存在する場所はなくなる。

空を見るとき、自分自身も空だと思う。星を見るとき、星が自分自身の中にいると思う。このことを、何度も繰り返し思い出しなさい。

神は、決して頭を通しては知ることができない。

人生は統一体だ。だから、縁を切るべきものは何もない。むろん、すべてを変容させねばならない。

信じることを始めると、自分自身も開かれていく。

161M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/24(土) 00:29:46 ID:RUG6ds.w
OSHO

瞑想とは、自分自身が座り、自分が自分であり、自分の主観に自分自身を開くことだ。

神秘を味わうことがなければ、生命は空虚なままだ。

知識は簡単で安いものだ。智恵を導き出すのは、自分自身の力だけだ。

破壊することは不可能だ。可能なのは、変容させることだ。

至福への道、この広大な至福への道は、肉体とマインドとの複合から自らを引き離すことだ。
「私は肉体ではない、私はマインドではない」「私は見つめる者、目撃者だ」これをいつも覚えておきなさい。

人が内側へ向かうとき、物乞いは消え去る。
真実の王国は自分自身の内側にある。それはいつもそこにある。人がつくり出す必要はない。それを思い出しさえすればよいのだ。
瞑想の技法はすべて、自分自身を覚えておくための技法なのだ。

智恵が生まれるのは、いかにして独りになるかを知ったときだけだ。
この世のすべてを忘れ去るとき、ただ自分自身になり、至福に満ち、他者を必要とせず、何の欲望もなくなるとき、そのとき、そのやすらぎの中、智恵が生まれる。
智恵とは、自己を洞察する力のことだ、透明さのことだ、変容だ、生命を見つめるための全く新しい道のことだ。
独りになることを覚えなさい。そして智恵を自分の存在の表に出してやりなさい。
そうすれば、社会に生きていながら、雑踏のなかでさえもひとりでいられるようになる。

独り在るということは、ひとつのアート(技術=芸術;技芸)だ。他に何もいらなくなるほど自分自身の中に深くくつろぐこと。

喜びの中で独りあることのアートを学びなさい。

あらゆる類の経験を、あらゆる類の花を楽しみなさい。しかし、常に動きを止めないことだ。

苦しみは執着から起こるあらゆるものにすがりつき、すがりつくことが苦しみをもたらす。なぜなら、人生は常に変化し続けているからだ。それは決して止まることはない。
美しい夕日を見たときは、それを楽しみなさい。しかし、それに執着してはならないーー写真ではないのだから。それはすぐに消えてしまう。
賢い者はすべとぉ楽しむ。昼を楽しみ、夜を楽しみ、人生を楽しむ、死を楽しむ。

ありのままの自分自身であることの責任を受け入れなさい。良いことも悪いことも、美しいことも美しくないことも、すべてを含めて受け入れなさい。

気づきを持てれば、人は新しくなる。それは、瞬間ごとに自分自身をいかに新しくしていくかを知るようになるからだ。

誰もが、総なるものと自分の間に塀を築こうとする。誰もが総なるものを恐れる。
私たちは皆、大陸の一部だ。だから大陸と戦うのは無駄だ・・・総なるものに溶け込みなさい、エゴを落としなさい。分離されていると思う自分を忘れるのだ。

愛、至福、祝福、神、真理、自由・・・これらは皆、同じ現象の異なる相だ。エゴを落とせば、人は多次元の実在に入ってゆく。そこには、このような異なる相すべてが含まれている。
しかし、それには勇気と度胸が必要だ。無限のものと、永遠のものと調和して生きるために、勇敢でありなさい。

162M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/24(土) 01:11:59 ID:RUG6ds.w
OSHO

目覚めていなさい。時折あなたを取り囲むどんな惨めさにも決して同調してはならない。
人は昼と夜、誕生と死、夏と冬といった円環のなかを動いている。だがもし自分がそのどちらでもないことを覚えていられたら、そのとき、至福が湧き起こる。

再び戻ってこられるかどうかは誰にも分からない。

あなたは勇ましく在らねばならない。神が未知なるがゆえに。

あなた以外に責任を取れる者はいない。

惨めさと至福、それは偉大なる教師だ。その二人の教師から学び、ただ見つめていくことができれば、他のどんな経典も必要ではない。

自分の思考、欲望、想像に対してもっともっと醒めているようになるいなさい。
どんな思考がマインドの中を通り過ぎているのかを観つめ続けなさい。

真理は常に新しい。

覚者たちは道を示すことはできる。けれども、その旅の全行程を歩むべきなのは、あなただ。

163M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/25(日) 20:32:22 ID:YdAKGitA
OSHO

神の臨在とともに生きた瞬間だけが救われる。

川とともに流れるがいい、完全に身をゆだねて。あなたを海へとともに運んでくれるだろう。海を発見しないかぎり、人に満足はない。

生それ自体に意味があり、それ自体が目的なのだ。そしてこれこそが完全なる自由の境地だ。
自由であって初めて真理の探求が可能になり、自由であって初めて喜びに溢れることができる。
誰もあなたを束縛するものはいない。それはあなた自身の無意識のなせる技だ。
だから、どのように自分が自らの奴隷化手を貸しているかに覚めているように。
自由、それはあなたの本性だ。成し遂げるべき何かではない。

私たちは花を咲かせ、その香りを放たねばならない。木々は風の中で太陽と戯れ、踊りだすときに満足を覚える。

ひとたびその高みと深みを知ってしまえば、生はただただ感謝以外のなにものでもなくなる。

過去や未来というのは100%あなたのマインドによるものだ。現在においては何も存在していない。瞑想者はゆっくりゆっくりと過去と未来を落とし始め、現在に落ち着き始める。

今ここに生きることは宗教的な生を送ることだ。それは純粋な意識だ。そして純粋な意識から出てくるものは何であれ美徳となる。

164M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/25(日) 20:58:13 ID:YdAKGitA
OSHO

川のようでありなさい。たくさんの美しい光景が通り過ぎようとも、それにしがみつくことなく、海に辿り着くまで流れ続ける。
流れに執着することなく。さもなければあなたは池になってしまう。池は決して海には辿り着けない。

あなたの魂は、愚かしい概念をあまりに背負いすぎている。
他者より与えられたあらゆるナンセンスを捨て去り、空っぽになってはじめて自己の実存との最初の接触を得、初めてそれと繋がれる。それは途方もない自由だ。

心の底から理解しておかなくてはならない。生は途方もなく高価な贈り物であり、一瞬一瞬が貴重であり、浪費されるべきではないと。

人は海の中へ消え去るアートを学ばなくてはならない。それには勇気がいる。
何しろ海の中へ消え去ることは、しずくとしての死を意味するからだ。しずくとして死を迎えないかぎり、海としての誕生は不可能だ。

神のささやく声を聞くことができるのは、唯一あなた自身の実存の中でしかない。
満たされねばならない条件はひっつしかない。それはあなたが沈黙し、騒音のない状態になることだ。

マインドが夢を観なくなったとき、ただひとつだけそこに残るものがある。それは「私は神である」ことだ。

幾重にもなる自己証明が層をなしている。ゆっくりゆっくりとすべての層を落としていかねばならない。
そして、最後に残るのは無だ。その無こそがあなただ。唯一無のみが広大になり得る。
神とはある存在ではない。究極の非在。ただただ臨在であり、無限なる境界なきものだ。
そしてまた私たちも神と異なるものではない。私たちはその無限性の一部だ。

165M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/25(日) 21:39:26 ID:YdAKGitA
OSHO

瞑想中は、決してその結果について思い悩んだりしてはならない。瞑想自体を楽しみなさい。
瞑想に対して欲深くなったり、野心を投影したりしないことだ。

真理にかかわることは何であれ決まって逆説的だ。というのも、真理は常にその対極を包括するからだ。

深く安らいでいくことに覚醒を保ち続けている必要がある。それは集中ではない、全くその逆だ、それはくつろぎだ。

少なくとも、一日に数時間くらいは、あらゆる活動を落とす必要がある。
ひとたび、安らぎのアートを学んでしまえば、あなたは活動的でありながら、しかも安らげるようになる。

神の乗り物として生を歩み始める。あたかも中空の竹のようになるーーそうなれば神は人を笛へと変容させる。

私たちが存在の贈りものを受け取れるのは、自分が全くの空っぽであるときだ。

沈黙し自分の惨めさを見つめなさい。それへの観照者となりなさい。自己同一化しないことだ。
するとあなたは驚くことだろう。見つめれば見つめるほどそれは減少していく。
そして突然あなたは、惨めさとなっていたエネルギーが至福の雨へと変わったことを知るだろう。
あなたは我が家に辿り着いたのだ。

166M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/25(日) 22:12:22 ID:YdAKGitA
OSHO

生は、どんな死もどんな誕生も知らない。それは永遠だ。

生には何一つとして問題はない。

私の道は神秘家の道だ。哲学者の道ではない。私は至福を信じている、至福についての学理ではなくね。

私たちは自分がいったい誰なのか知らない。私はあなたを外へと呼び出す。
何百年も続けられた古い習慣から、長い長い眠りから、そこから抜け出すために勇気を奮い起こすことだ。
ひとたびあなたが目覚めたなら、生はダンス、歌、至福、祝福となる。

存在はハートを通して知られる。それはあなたを頭のカオスからハートのハーモニーへと導く。

真の祈りを学ぶ必要がある。それは沈黙から、深く傾聴することから成り立っている。
神はあなたに何かを伝えたがっている。神はあなたを探しているが、あなたを見つけ出せずにいる。
それはあなたが絶えず忙しいからだ。静かになりなさい。もっと忙しさに呑まれず、もっと事に応じられるよう開いていなさい。

私はただあなたを取りまく存在の美しさを愛するように教える。それこそが真の礼拝だ。

167M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/25(日) 23:19:15 ID:YdAKGitA
OSHO

決して自分についての他人の意見などに気をもんではならない。そしてただひとつのことに留意していなさい。
「神こそが私の審判者だ」はたして私は神に顔向けできるだろうか?
これをあなたの全生涯を貫く判断の基準としなさい。

至福の状態にあっても熱狂しておらず、また平和な状態にあっても冷めていないこと・・

内側の美しさに目覚めた瞬間、外側でおこる闘争はすべて消え去る。

あなたは決して生まれたこともなければ、決して死ぬこともなくずっとここに在り続ける。

いかにしてより意識的になるか、この一点に全エネルギーを注ぎ込みなさい。
正しいことが自ずと起こるようになる。人格を養う必要など全くない。

あなたの生は単なるばらばらな花の寄せ集めのようなものだ。どんな有機的な統一もない。
それは大勢の「私」の寄せ集めにすぎない。その「私」ひとりひとりが主権争いをしている。
だが全面的に違った方法で生を生きることもできる。
ばらばらの花は紐で結ぶこともできる、全てを貫く何かによって、より意識的になることによって。

自我のせいで、分離という誤った感覚が生じる。人びとはゆっくりゆっくり自分自身の中に閉じこもっていく。
ひとたび自我が落とされたなら、木々や月や太陽、星や人びととの一体感を感じ始めるだろう。

瞑想とは、ただ自我を探して内側を深く見据えること。それが一体どこにあるのか、自らの実存の隅から隅まで探し回ることだ。
それはどこにも見当たらないだろう。どこにも見当たらないと理解した瞬間、それは消え去り、そしてあなたは新しく生まれ変わる。

瞑想とは自己同化をやめることだ。ただこのことを覚えておきなさい。

天国はどこか他にあるわけではない。地獄を生み出したように、あなたが天国をつくりださなくてはならない。自分こそ創造者であることを理解すること。

道徳と不道徳、善と悪、生と死、夏と冬・・・私たちはあらゆる二元性を越えていく必要がある。

覚醒について学びなさい。自分が行っていることのすべて、自分のマインドやハートにうつろい続けるすべてに対してもっともっと油断なく醒めていることだ。

168M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/28(水) 00:19:27 ID:RUG6ds.w
OSHO

まず、既知から未知へと進むことを学びなさい。そうすれば、すべての瞬間ごとに新しい何かが始まる。
そしていつか、究極のリスクを負うときが来る。未知から不可知へと進むのだ。
未知はいつか既知となるが、不可知は決して既知とはならない。その不可知こそが神だ。
人は未知へ進むことで興奮を知り、不可知へ進むことで喜悦と出会う。

勇気を持つとき、そこには多くの奇跡が起こる。それは瞬間ごとに起こる。なぜなら、勇気ある者は瞬間ごとに既知を落とすからだ。

生は変化だ。生のこの本質を受け入れること。
すべての季節と気配と共に、変わりゆく存在を受け入れること。絶えざる流れを理解すること。
それが至福に満ちることだ。人に苦しみをもたらすのは、不変への渇望だ。

このすべての変化、物事の本質を受け入れ、そしてそれを喜びと共に許すとき、
それがあるがままの人生であることを知るとき、その至福は誰にも妨げられることはない。

生は常に先に進んで行く。そして、人はそのはるか後ろをついて行く。

何かが起こるのを知りえないことは美しい。気づきを持つ者は、変化する現象を受け入れるだけの勇気を持っている。

169M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/28(水) 00:45:13 ID:RUG6ds.w
OSHO

人生が始まるのは、自分自身の存在に至福が入ってくるときだけだ。しかし、そのためには無防備でなければならない。
風や雨、太陽に向かって、存在に向かって、自分自身が開かれていなければならない。
そのためには度胸が必要だ。なぜなら、それは危険であるからだ。生きることは危険だ。死ぬことは極めて安楽だ。

もし、人が48分間の間、完全に沈黙したままでいたら、光明に達することができる、絶対的な至福が得られる。

存在が生きるのは、それが転成しているときだけだ。

決して、一瞬たりとも、自分の自由を失うことがあってはならない。
決して人を所有することがなく、また彼自身が他人に所有されることも許さない。
そのためには絶えず覚醒していなければならない。なぜなら、私たちのマインドは常に執着したがるからだ。そしてその執着の中で、私たちは自らを失う。

自分であることを愛すること、ひとりでいることを愛すること、それを喜ぶことだ。

自分自身の存在の聖堂に入っていかない限り、人の人生はただの消耗。

真の勝利とは神の勝利のことだ。まず社会から解き放たれ、次に自己から解き放たれる、
そして、自己のない状態にいること、思考のない状態にいることが神の中にいることになる。それが私たちの勝利だ。

170M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/28(水) 01:37:36 ID:RUG6ds.w
OSHO

私はあなたに修行を課したりはしない。私はただ、あなたが自分自身の核を開き、自分自身のハートに従うように助けるだけだ。それは徳となる。

私たちは窓のない、扉のない、閉ざされた独房の中に生きている。その方が安全で危険がないと思っている。
それは安全でも無事でもない。それは死だ。墓場の中で生きることだ。

私は他の世界、死の向こうにあるものを求めているのではない。私のつとめはこの瞬間、今このときをパラダイスへ変容させることだ。

決して延期してはならない、延期はマインドの巧妙なトリックだ。
瞬間のすべての中に生きるのだ。これが自分の手にした唯一の瞬間だ、ということを、いつも覚えておきなさい。
そこには他の瞬間はない。そこには他の世界はない。この世界は神だ、他に神はいない。

誰もが皆、歌と共に、自分の歌と共に生まれる。そしてその歌を歌わない限り、人は満たされぬままになる。

ほとんどすべての人間が錯乱している。わずかな人々だけが・・ブッダが、老子が、芭蕉が、イエスが・・自分に備わっている力の導き手となることができた。

私が時折思うことは、ある日すべての鳥たちが歌うことをやめたら太陽は昇らなくなる、ということだ。

沈黙には、それだけが持つ音楽がある。それが聞けるのは、頭からすべての騒音を落とした者だけだ。
この音楽こそが、人を超越へ導く音楽だ。それは虹の橋となる。

私が説くのは、何物も恐れないこと、そして自由についてだ。恐怖から解放されることは、神を知るために、至福を知るために、真理を知るために必要な最大の資質だ。
だから、空のもとに出てきなさい。すべての恐怖を落とすのだ。なぜなら、そのような恐怖は全くの偽りだからだ。
そして、人生の冒険をそのすべての危険と共に不確実さと共に楽しみなさい。それは美しい人生だ。その危険性と不確実性のゆえに。

問題なのは、徹底的に生きるかどうかだ。

171M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/29(木) 02:10:10 ID:RUG6ds.w
OSHO

私たちは以前からここにいて、永遠にここにいる。

永続し、決して来ることがなく、行くこともないものーーこれを覚えておきなさい。それが神だ。

肉体は美しい。肉体は寺院だ。しかし、それが美しいのは、自分が肉体ではないことを知ったときだけだ。
肉体を自分と同一視すると、それは醜くなる。寺院ではなく監獄になる。

瞑想とは、目撃することのアートだ。まず自分の肉体を、次にマインドを目撃することから始め、そして両方から抜け出すのだ。

自分のエネルギー全体を、自分自身の再生のために注がねばならない。

人生におけるかけがえのない経験とは、沈黙だ。人はどこにいても沈黙を育てることができる。

沈黙に生きている者の弟子となることは、宗教を経験するための、宗教の最初のきらめきを得るための唯一の道だ。
だから、生きた沈黙を見つけたら、それを飲み干しなさい、自分のマインドを脇へ置いて。

自分自身の大部分を占める無意識の部分から少しずつ手を離していくことだ。
常に意識を選びなさい。自分を無意識にするものは、すべて間違っている。

真に宗教的な者は、普通の人生を限りない喜びと恍惚に生きる。彼はその人生を非凡な感性で生きる。それは総なるものからの贈り物だ。

広大な空、この限りない世界・・・この祝福に満ちた存在の中で深刻になれる者がいるとすれば、それは全く奇妙で病的なことだ。

この瞬間に感謝しなさい。

172M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/30(金) 01:03:54 ID:RUG6ds.w
OSHO

地球や惑星が太陽のまわりを回るように、人の内側の存在全体もまた、至福の芯ののまわりを回転している。
これを理解しさえすれば、ものごとはきわめて単純で明らかになる。

真理は、人に伝えることができない。それを与えてくれる者は、誰もいない。
自分自身の力で発見しなければならない。それゆえ、他者から与えられるものはすべて、美しい偽り、きれいな甘い偽りでしかない。

存在から離れると、私たちは束縛される。
エゴの境界の内側では、私たちは偽りの中、憎しみの中、悪の中でしか生きることができない。
それはあたかも木の葉が、木と自分とが分離していると思うようなものだ。分離されている、という概念そのものが葉の活力を失わせてしまう。
たとえ小さな一葉でさえ、偉大な太陽と同じほど、総なるものに欠かせない要素なのだ。
存在の中では、何の階層もない。なぜなら、存在はひとつだからだ。

地球上で最初の人間のように、自分の人生を生きなさい。
自分の前には誰もいない。自分自身の光に従って生きる。失敗を犯すことの恐怖を持たずに生きる。新しい失敗を探し続けなさい。
問題なのは、自分に忠実であること、正直であること、自分自身の存在に責任を持つことだ。

本当に生きるためには、瞬間ごとに過去を消滅させなければならない。

自分自身の存在の中心に座り、見つめればそのときそこに驚きを見る。自分の体そのものが寺院となり、自分の中に神がいる。
外側からそれを見つけ出す道はない。神が自分自身の内側にあると知るとき、他人の中にも同じものが見えるようになる。

歌になりなさい。生命を喜びなさい。風と共に、太陽と共に、雨と共に踊りなさい。あなたが歩いているのは神聖な土の上だ。
すべてが神だ。歌にならないこと、踊りにならないことは、感謝の心を持たないことだ。
私たちは、自分たちなりのささやかなやり方で祝うことができる。
だから、人生を祝祭にしなさい。

173M=M ◆eskwQ12oL2:2010/07/31(土) 23:59:05 ID:RUG6ds.w
OSHO

奇跡の世界を開く秘密の鍵は至福だ。

為すべきことはただひとつしかない。社会があなたにどんなことを為そうとも、それをすべて白紙に戻すことだ。
だから私は純粋さを教えたり、道徳を説いたりはしない。・・・それらはすべてたわごとにすぎない。
私はただ瞑想だけを教える。瞑想によって、あなたはマインドから自由になれる。

あなたは完璧だ。にもかかわらず、ありとあらゆる愚か者たちに従い続ける。

生を見つめ始めなさい。ただ見つめるだけでなく生き抜くことだ。すると知ることは、後からついてくる。
それは決して、終わることのない巡礼の旅だ。
そして美しいのは、驚異は驚異のままであり続け、神秘は神秘としてあり続けることだ。

あらゆる類の知識を、知識それ自体を、脇にのけなさい。そうなって初めて、探求は始まる。

頭は推論でいっぱいだが、ハートはいついかなる時にも無垢であり、いつでも知る用意がある。
頭は決して若くなりえない。覚えておきなさい。そしてハートは決して老いることはない。

あなたが肉体を越えマインドを越えて自分の実存に入っていくとき、最初に味わうものは真実だ、次に味わうのは意識だ。
それ以前は意識はただの言葉にすぎない。人々はぐっすりと眠りこけている。意識とは何なのか、人々は知らない。機械のように機能している。
自分の内側に深く入っていくにつれ、あなたはまず真理と出会い、次に意識に出会い、最奥の核において至福と出会う。

174M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/01(日) 00:15:28 ID:RUG6ds.w
OSHO

真実のために死ぬことは生におけるこの上ない至福のひとつだ。

覚えておきなさい。他者から仕入れたものは何であれ真実についての何かにすぎない。真実そのものではない。

必要とされていることのすべては、湖水が少しばかり静かになることだ。それは誰にでも起こりうる。
あなたが内側における静けさを達成する瞬間、革命的な変化が起こる。
その時、あなたはこう語るだろう「私は祝福する!」と。

空っぽになりなさい、静かになりなさい。その経験はあなたのまさに内部を貫き、あなたの実存の一部になる。そうして、生は満たされる。

誰でもない人間になりなさい。どの子供も、何者かになるという概念に毒される。
私たちは、誰でもないというのが真のリアリティだ。そしてそのリアリティは、途方もなく美しい。

あらゆる事のすべては気づかれるためにある。

175M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/01(日) 00:54:59 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

彼らのうち誰一人私を損ないうる者はいない。というのは誰ひとり私を恥ずべきことにまき込む力はないのである。

この私という存在はそれが何であろうと結局ただ肉体と少しばかりの息と内なる指導理性より成るに過ぎない。書物はあきらめよ。

今こそ自覚しなければならない、君がいかなる宇宙の一部分であるか、その宇宙のいかなる支配者の放射物であるかということを。

次のことを常に覚えておくべし。宇宙の自然とは何であるか、私の内なる自然とは何であるか。後者は前者といかなる関係にあるか。それは如何なる全体のいかなる部分であるか。
また君が自然(君はその一部分である)にかなうことを行ったりいったりするのを妨げる者一人もないということ。

死ぬということは何であるか。もし我々が死それ自体を眺め、理性の分析によって死からその空想的要素を取り去るならば、それは自然のわざ以外の何物でもないと考えざるをえないだろう。
自然のわざを恐れる者があるならば、それは子供じみている。しかも死は自然にとって有益なことでもあるのだ。
いかにして人間は神に接触するか。人間のどんな部分によって、また人間のその部分がどんな具合になって接触するのか。

176M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/01(日) 01:52:12 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

たとえ君が三千年生きるとしても、記憶すべきはなんぴとも現在生きている生涯以外の何物も失うことはないということ、またなんぴとも今失おうとしている生涯以外の何物をも生きるということはない、ということである。
したがって、もっとも長い一生ももっとも短い一生と同じことになる。現在は万人にとって同じものであり、なんぴとも過去や未来を失うことはできない。人が失いうるのは現在だけなのである。

人間の魂が自己を最も損なうのは、自分にできる範囲において宇宙の腫瘍のようなものになる場合である。

人生の時は一瞬にすぎず、人の実質は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体全体の組み合わせは腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。
肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。
しからば我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、哲学である。それはすなわち内なるダイモーンを守り、これの損なわれぬように、また快楽と苦痛を制御しうるように保つことにある。
あらゆる出来事や自己に与えられている分は、自分自身の由来するところと同じ所から来るものとして、喜んでこれを受け入れるよう、何にもまして死を安らかな心で待ち、
これは各生物を構成する要素が解体するにすぎないものと見なすように保つことにある。
もし個々のものが絶えず別のもの変化することが、これらの要素自体にとって少しも恐るべきことでないならば、なぜ我々が万物の変化と解体とをおそれようか。
それは自然によることなのだ。自然によることには悪いことは一つもないのである。

177M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/02(月) 00:29:10 ID:RUG6ds.w
OSHO

生を難問と見なさないことだ。それは生きるべき神秘であり、解明されるべき何かではない。
楽しみ、踊り、愛し、歌うべきものであり、解決すべき何かではない。それは解決を待つ謎ではない。
驚き、畏怖を持って生を探検しなさい。ちょうど幼い子供のように。
だから快活さを学びなさい。すべての物事は、楽しみとして受け取られるべきだ。たとえそれが死であるとしても。

必要とされていることのすべては、生をトータルに生きることだ。
完全さはすでに備わっている。人は完全なるものから創られる。
私たちは究極なるものから生まれたもの、神の海に揺らぐ波だ。

人は皆、すでに完全だ。だが私たちは、その完全性を丸ごと生きぬいてはいない。

世間から逃げる必要はない。だが、全面的に違った方法をとることだ。
それを深刻に受け止めず、気楽にいきなさい、宇宙的ジョークとして捉えなさい。
東洋では、神の遊びと呼ばれる。私たちはその中のただの役者であり、その演技を深刻に受け止めることはない。
私たちは皆、色々な役を演じている。可能な限り、美しく演じなさい。だがすべてがゲームであることを、片時も忘れてはならない。

私にとって、生そのもの以外にどんな神も存在せず、存在そのもの以外にどんな寺院も存在しない。そうあってこそ、すべてが神聖なる祝祭となる。
生が祝祭なら死も祝祭であり、出会いが祝祭なら別れも祝祭だ。
すべてを祝い始めたら、あなたは真の礼拝者となる。何者も盲信する必要はない。教会や寺院に通う必要もない。
あなたがどこにいようと、何をしていようと、それがあなたの祈りとなり、瞑想となる。

肉体は老い、やがて死に至る。だが、純粋な意識は、あなたにどんな誕生も死もないという真実を明らかにする。
そのような純粋な意識のもとに生きることは、存在との調和のもとに生きることだ。

存在の祝福を得たいのであれば、できるかぎりの至福を創り出すことだ。人は自分にできる、最大限のことを行うべきだ。

存在の愛は、すべてに行き渡っている。存在は私たちに無関心ではない。
だが、ただ私たちのほうが無関心であるために、存在がそう見えてしまうだけだ。
存在は、ただ反射する。それは鏡だ。
存在がまるで意味の無いようなものに見えるのは、私たちが意味を創りだせずにいるからだ。
存在が実に鈍く単調なものに見えるのは、私たちがそうだからだ。

178M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/02(月) 00:57:19 ID:M9XWwfcI
OSHO

何の理由もなく、何の動機もなくただ静かに座ることを、人は楽しむようになるべきだ。
静かに座り、鳥たちに耳を傾け、自分の呼吸を観つめることの飽くことなき喜びだけのために、ただ在ること。
ゆっくり、ゆっくりと新しい香りがあなたの実存から放たれていく。それは彼方から贈りものとしてやってくる。
その人に値するものをその人は得る。自然は常にあなたに相応したもの、あなたの受容力に見合ったものを与えるのだ。

忍耐は探求者にとって基本的な資質だ。神に関しては性急になるべきではない。神は永遠の中に生きているのだから。
急ぐということは、あなたが秒や分や時を数えていることを示す。
まだその気配がなくとも気落ちしないことだ。彼を迎え入れるあらゆる用意をしておきなさい。ずっと用意して待っていなさい。

どの個人にも独自性がある。極めて独自なものであるがゆえに、自分自身を発見できるのはあなたしかいない。だからこそ桁外れの勇気が必要となる。

存在の音楽を聴くことを学びなさい。

日常の小さな出来事を愛しなさい。

179M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/03(火) 23:36:29 ID:RUG6ds.w
OSHO

祝祭に満ちている生は、神へと通じている。神のところへは、踊って行きなさい。
この生が何かの証であるとすればーー神が深刻であるはずがない。

神とはある人格ではなく、存在の究極のハーモニー、まさにオーケストラだ。
あらゆるものがその周りのすべてと同調している。木々は大地と同調し、大地は風と同調し・・それは果てしなく続いていく。
そこにはどんな階層制度もない。

どの個人もそれぞれの形で開花するべきだ。

気づきさえすれば、生は祝祭だ。私たちはただ、それに耳を傾けられるよう、もう少しばかり静かになる必要がある。
そして完全に沈黙したとき、私たちは消え去り、この全宇宙のハーモニーの一部となる。
自己の境界を失った瞬間、死もまた消滅する。

私たちの生は、生と呼ぶに値するものではない。生が始まるのはあなたが死を超える次元において動き始めた時だけだ。
だからこそ、瞑想はある。瞑想は、死の向こう側へ行く方策、智恵、はしごだ。
彼方なるものの一瞥があれば、それで充分だ。

180M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/04(水) 00:07:54 ID:RUG6ds.w
OSHO

私たちは、普通完全さとは終焉を意味すると考える。だが私はそうは思わない。完全さはよりさらなる完全さへと向かい続ける。

ひとたび瞑想の世界に足を踏み入れると、あなたの視界や展望はただちに変貌を遂げる。
あなたは自分が偶然ここにいるわけではなく、存在における、ある必要を遂行するためここにいることを感じ始める。

ひとたび源泉に在ることの喜びを味わってしまえば、生におけるその他いっさいの物事が無意味なものとなる。
日常の生活を続けられたとしても、それはすべて演技、素晴らしいドラマとなる。可能なかぎり美しく演じなさい。

人間の内側を探求していくと、人間というものが、ただの否定、ノーの累積にすぎないことに気づくだろう。
生は完全に肯定的なものになりうる。だが私たちはまず、すべてのパターンを変える必要がある。

イエスと答えることを学びなさい。何も抑えつけてはならない。そのイエスにどんな条件も設けてはならない。
生は果てしない歓喜になりえる。あなたに求められていることは、あなたの扉と窓を開けることだけだ。
風に太陽に月に雨に、そして全体に対してイエスと言うことだ。

神は決して誰の生をも邪魔しない。神は自らの創造性を愛するからだ。だからこそ、どんな人にも完全な自由を与えている。
自由を肯定的に使うことだ。自由を、未知なる客人を迎え入れるために使いなさい。

常に新しいもの、未知なるもの、危険なもの、不確かなものを選択しなさい。

外側でははかなさを祝福し、内側では永遠を捜し求めなさい。

181M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/04(水) 00:28:39 ID:RUG6ds.w
OSHO

人間は自己の実存を当たり前のものと捉えてはならない。あなたにはどんな実存のかけらもないのだから。
単に可能性を秘めた領域を手にしているにすぎない。それは人間の美点でもあり、人間の惨めさでもある。

世間に生きながらも、世間をあなたの中に息づかせることなく、この世がすべて刹那的なものであることを充分に意識して、世間を渡っていくことだ。
そうなれば不幸と至福、失敗と成功の間に何の違いもなくなる。
そして暗闇と光、生と死がすべて同じものであると理解できたとき、途方もない静穏、平静、調和があなたに訪れる。

あなたの歌を歌いなさい。

静寂の内にあるとき、自らの潜在性はあなたに語りかけ、囁きかける。しかもその囁きは、明確で揺るぎない。
そこには「もしも」や「でも」はいっさい存在しない。

おそらく世界とは神の顕現であり、神とは顕れていない世界のことなのだ。
だから、ごくささいな物事を楽しむことだ。

あなたの生を、極めて単純に謙虚に生きなさい。

182M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/05(木) 00:18:39 ID:RUG6ds.w
OSHO

人生が何であるかを知れば、今あるものを知れば、死が訪れたときに、その同じ気づきを死に向けることができる。
気づきを持てば、死はなくなる。誕生もなくなる。

ただ「私は何も知らない」と知るだけでよい。そしてそのマインドの状態のまま、内側に入る。
すべての信仰を捨てなさい。他人に教わった嘘を、すべて落としなさい。

すべての条件づけから抜け出しなさい。探求できるように、問うことができるように、自由になるのだ。
問うことに最初に必要なのは、すでに持っている結論をすべて落とすことだ。

ひとたび自分の中心を見ることができたとき、自分の周縁がその一部となる。
そうすれば、人は社会に生きていても、社会が自分に入ってくることがなくなる。

何もせずにただ座る。自分自身の中でくつろぐ。
それには少し時間がかかる。私たちは、動き続けるように育てられてきたからだ。

沈黙の中に深く入っていくほどに、欲望も消えていく。欲望は周縁だけに留まるようになる。それは水面の波のようなものだ、深く潜っていけば、そこに波はない。
自分自身の存在の中心では、欲望がかつて存在していたことを全く忘れてしまう。それは夢のように、幻想のように見える。
中心との触れ合いをを失わずにいられるなら、すべての波がただのゲームとなる。美しく、優雅にふるまうことができる。
群衆の中にありながら、完全にひとりでいることができる。

183M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/05(木) 00:56:56 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

ほかのものは全部投げ捨ててただこれら少数のことを守れ。各人は現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということを。

医者がつねに救急処置用の器具やメスを手許に所持しているように、君もつねに君の信条を用意して神のこと人間のことを理解し、
些細なことといえどもすべてこの両者間の相互の関連を意識しつつおこなえるようにしておくがよい。

実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠れ家を見出すことはできないであろう。
この場合、それをじいっとながめているとたちまち心が安らかになってくるようなものを自分の内に持っていればなおさらのことである。
そして私の言うこの安らかさとはよき秩序に他ならない。
まず気を散らさぬこと、緊張しすぎぬこと。
事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいのはただ内心の主観からくるものにすぎないということ。
すべて君の見るところのものは瞬く間に変化して存在しなくなるであろうということ。

死は誕生と同様に自然の神秘である。同じ元素の結合、その元素への分解であって、恥ずべきものでは全然ない。
なぜならそれは知的動物にふさわぬことではなく、また彼の構成素質の理法にもふさわぬことではないからである。

184M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/05(木) 23:04:39 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。汝にとって時をえたものならば、私にとって一つとして早過ぎるものも遅すぎるものもない。

あれを見たか。しからばこれも見よ。いらいらするな。自分を単純にせよ。
ひとが罪を犯すか。彼は自分自身に対して罪を犯すのだ。君に何事か起こったか。よろしい、すべて起こってくることはそもそもの初めから「全体」の中で
君に定められ君の運命に織り込まれたことなのだ。要するに人生は短い。
正しい条理と正義をもって現在を利用しなくてはならない。くつろぎの時にもまじめであれ。

我々に共通の自然の理性に背を向け、これから離反する者は宇宙の腫瘍である。なぜならばその出来事をもたらしたのと同じ自然が、君をもたらしたのである。

君のおぼえた小さな技術をいつくしみ、その中へやすらえ。
そして自分のすべてを心から神に委ねた者、またいかなる人間にたいしても自分を暴君にも奴隷にもなしえなかった者のごとく余生を送れ。

万物が変化によって生ずるのを夜昼となく眺め、宇宙の自然は現在あるものを変化させ、同じものを新しく作り出すことをなによりも好むのだ、という考えに慣れるがよい。

彼らの指導理性を注意深くながめ、賢者の避けるものはなにか、追い求めるものはなんであるかを見よ。

君の不幸は他人の指導理性の中に存するわけではない。また君の環境の変化の中にあるあけでもない。しからばどこにあるか。
なにが不幸であるかについて判断を下す君の能力の中にある。ゆえにその能力をして判断を控えさしめよ。
悪人にも善人にも同じように起こりうることを、悪とも善とも判断せしむるな。

185M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/05(木) 23:59:08 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

いかにすべてが宇宙のただ一つの感性に帰するか、いかに宇宙がすべてをただひとつの衝動から行うか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、
またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、常に心に思い浮かべよ。

変化することは物事にとって悪いことではない。同様に変化の結果として存続することは物事にとって善いことではない。

君の後ろに永遠の時の淵が口を開けているのを見よ、また前にももう一つの無限のあるのを。この無限の中で、三日の赤児も長生きした人間もなんのちがいがあろうか。

つねに近道を行け。近道とは自然に従う道だ。

いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。

君は自分に起こることをよろこばなくてはならない。
一つ、それが君に起こったことであり、君に処方されたことであり、当初は最もいにしえの原因からつむぎ出された運命の糸であって、何らかの意味で君に関係しているのであるから。
一つ、各人に個人的に起こる事柄は、宇宙を支配する者の繁栄と完成と、それから実にその存続の原因になるからである。

つぎの二つの思いにやすらうべきである。
一つ、宇宙の自然に適合しないようなことはいっさい私に起こらないだろう。
一つ、私は私の考え一つで神とダイモーンにそむくようなことはいっさい行わずにいられるということ、なぜなならこれにそむくことを私に強いる者はないのである。

「私は今自分の魂をなんのために用いているか」ことごとにこの質問を自分にたずね、つぎのように自分を調べてみるがよい。
「指導理性と呼ばれる私の内なる部分は、私と今どういう関係にあるか。そして今私は誰の魂を持っているのか。子供の?青年の?弱い女の?暴君の?家畜の?野獣の?」

普遍的物質を記憶せよ。そのごく小さな一部分が君なのだ。

神々とともに生きる者とは神々に対してつねに自己の分に満足している魂を示し、ダイモーンの意のままになんでもおこなう者である。

186M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/06(金) 00:38:35 ID:RUG6ds.w
OSHO

人はその生を夢という砂上に築く。だから何をしても失敗に終わる。ひとつの夢が敗れると別の夢を見始める。
欲望することは全体に背くことを意味する。それは不可能な仕事だ、成し遂げることはできない。
欲望しないことは全体にくつろぐこと、すなわち「全体の意思こそこそ私の意思だ、私はいかなる個人的な目的も達成するつもりはない」
私たちは生の、存在の一部となることを学ばねばならない。私たちは大海の波だーー個人的な目的は持ち得ない。

あなたが現実に従って生きるとき、そこに惨めさはない。

生を恐れる必要はない。あらゆる可能なやり方で、生に応じていきなさい。

一瞬一瞬が常に二者択一だ。惨めさか至福か、それはあなた次第だ。

快活でありなさいーーそれが宗教的であることの私の定義だ。
心からの笑い以上にあなたの笑いを神聖にするものはない。

欠けているものなど全くないと感じ取れる時が訪れたら、その日はあなたの生における特別な日となる。

187M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/06(金) 01:07:01 ID:RUG6ds.w
OSHO

未来を解放してごらん。どんな期待もかけてはならない。未知を未知なるもの、予測不可能なままにしておきなさい。
物事をどうにかして永続的なものに変えようとしてはいけない。生の本質は変化だ。
あなたの側からはどんな期待もせず、それと調和をとりなさい。

生がどんなかたちで訪れようと、無条件に受け入れる用意があるとき、突然、神はありとあらゆるところから、あなたへなだれ込んでくる。

人は神について考えることで全生涯を浪費している。決して自らのハートには耳を傾けない。
ハートには神への欲望などいっさいない。ハートはただ、歌い、楽しみ、生きることを望む。
だから私は言う、至福こそ神であり、他に神はないと。

あなたが神を所有することなど不可能だ。だが神があなたを所有するのを許すことなら可能だ。

すべてが必要とされている。なぜなら存在とは、すべてがともに在ることを意味するからだ。

外側からのどんな規律も強いてはならない。気づきを内側から生じさせなさい。それを湧き起こらせなさい。
そうすれば、それは常に新鮮で、若々しく、生き生きとしている。

神のことはすべて忘れなさい。ただ至福を探し求めなさい。あなたが惨めになるその原因を探し出し、落としなさい。
惨めさの要因がすべて落ちたとたん、あなたの中で至福が成長し始める。そして至福に満たされる瞬間、あなたは自分を取り巻く新たな臨在に気づくkとだろう。
それはあなたのみならず存在全体を包み込んでいる。
その臨在とは神だ、神とは人格ではなく臨在のことだ、神とは神でなく神性のことだ。

188M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/07(土) 00:58:32 ID:RUG6ds.w
OSHO

死んで再び生まれなさい!

自分が肉体ではないことを知る瞬間、まさにその瞬間、肉体を通して満たされ得るすべての欲望もまた消え去る。

神にはいつでも癒す用意があり、全体にはいつでも癒す用意がある。けれども、まず私たちが自らをさらけ出すことが必要だ。

私は人格には全く興味がない。道徳にもいっさい興味がない。私は人びとに意識的になるように、意識を生み出すようにと言っている。
より気づくようになるにつれて、生は変化し始める。あなたの為すこととあなたの在ることには深い調和があるだろう。
そして為すことと在ることが調和しているとき、生は喜びに、ダンスになる。

生は一瞬ごとに新しい。決して古くなることはない。存在は常に、今ここにある。それは過去とは全く関係がないし、未来とも全く関係がない。
あなたもまた今ここに在るとき、ひとつの出会いがある。その出会いが真実となる。
あなた自身が真実そのものとなる用意をしなければならない。

189M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/07(土) 02:00:51 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

上へ、下へ、または円を描きつつ元素は動く。しかし徳の運動はその中になく、もっと神的なもので、測りがたき道をいみじくも進んで行くのである。

我々とともに競技をしているともいうべき人たちにたいして多くのことを大目に見てあげようではないか。

私は自分の義務をおこなう。ほかのことは私の気を散らさない。なぜならそれは生命のないものか、理性のないものか、または迷って道をわきまえぬ人びとであるからだ。

我々各々の体や心の中にどれだけ多くのことが同じ瞬間のうちに起こるかを思い巡らせてみよ。
そうすれば我々が宇宙と呼ぶ唯一にして普遍的であるものの中にそれよりもっと多くのこと、
というよりはむしろすべての出来事が同時に共存するとしても、君は驚かないだろう。

君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。

正気に返って自己を取り戻せ。君を悩ましていたのは夢であったのに気づき、夢の中のものを見ていたように、現実のものをながめよ。

あらゆるものは互いに組み合わされており、したがってあらゆるものは互いに友好関係を持っている。
なぜならこれらのものは、膨張収縮の運動や、共通の呼吸やすべての物質の単一性のゆえに互いに原因となり結果となるのである。

君に割り当てられた物質の量だけで満足しているように、時についても同じく満足せよ。

君が自分の自然の理性に従って生きるのをなんぴとも妨げはしないであろう。
また宇宙の自然の理性に反してはなにごとも君に起こらないであろう。

190M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/09(月) 00:55:10 ID:RUG6ds.w
OSHO

深い瞑想状態にあってはじめて、私たちは自分が肉体でもマインドでもないという単純な事実を発見する。
私たちは気づきであり、意識だ。私たちはゲーム全体の観照者なのだ。

私たちは自動作用から自らを解除する必要がある。私たちはあらゆる動きにおいて、もう少し速度を落とすべきだ。
よりいっそう油断なくありなさい。
あらゆる物事をとても静かに、ゆっくりと、この上なく安らかに、優美に行いなさい。

人間の平均精神年齢はたったの12歳だ。私たちは知恵遅れの世界に生きている。

私たちが瞑想にすべてのエネルギーを注がないかぎり、それはただの夢にとどまる。決して現実にはなりえない。
変容は、1日24時間が常に瞑想となり不断のものとなって初めて可能となる。
ーーーひとつひとつの動きに完全に気づいていること。

生は偉大な教師だ。それは闇から光への究極的なジャンプができるよう、あらゆる人びとの用意を整えている。

神秘家たちは、私たちの世界を幻影・マーヤと言う。
苦しみとは実体のないものだ。至福こそ私たちの本質だ。このことを覚えておきなさい。そして何度も、何度も、何度も思い起こしなさい。

191M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/11(水) 00:21:24 ID:RUG6ds.w
OSHO

人生は小さなものごとで成り立っている。しかし、それを喜ぶことができれば、平凡なものごとを非凡なものに変容できる。

真の師は、人が自分自身の光の源泉を見つけられるように常に働きかける。
師は人がかれに依存するのを好まない。なぜなら、依存することは奴隷になることだからだ。

不満足は、思考の習慣だ。思考はそれによって生きている。思考は決して満足することができない。
自分がなぜ不満足なのかを理解するとき、外側に理由をみつけるのではなく、それが思考の働きであると理解するとき、
そのとき、人は思考の働きを落とすことができる。

人々は、同じ落とし穴に何度でも繰り返し落ちる。思考と、自分に仕掛けられる策略のすべてを見つめなさい。

運命の類は存在しない。それは臆病者の創作だ。

私たちは自分に対する完全な責任を負っている。これが、最初に受け入れなければならないことだ。

豊かになるための唯一の道は、神の存在に向かって心を開くことだ。その色、虹、歌、木々、花々に向かって心を開くことだ。
訪れる人生を、無条件に受け入れる用意ができるとき、その瞬間に、神があらゆる方向から押し寄せてくる。
人は、神で満たされることによってはじめて、人生の意味、人生の意義を得ることができる。

192M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/11(水) 01:15:34 ID:RUG6ds.w
OSHO

すべての宗教は失敗に終わった。人間は、全く宗教的になっていない。

私のここでのつとめは、あなたをふたたび生き返らせることだ。至福のためにすべてをかけなさい。これだけを、人生の唯一のゴールとしなさい。

自分自身を過去から引き離しなさい。自分の人生を、この瞬間から数え始めるのだ。
より注意深く、より油断なく、意識的になりなさい。

自分の光に従って生きていけば当然、多くの間違いを犯すだろう。しかし、間違いを犯すことは悪いことではない。
なぜなら、それが学ぶための唯一の方法だからだ。
新しい間違いを犯しなさい。新しい間違いを犯す方法を探しなさい。

193M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/13(金) 21:41:48 ID:RUG6ds.w
OSHO

自分が知っているという考えを生むすべてのものを落としなさい。驚きに満ちた心で、畏怖の念をいだき、神に向かいなさい。

私たちがここにいるのは、ある目的を充足させるためだ。誰もが皆、歌を歌うために、踊りを踊るために、芳香を放つためにここにいる。
しかし、それが可能になるのは、気づきが深まり、他者を通してではなく自分でじかに、自分自身を見ることができるときだけだ。
(今ここで自分自身について知っていることは、すべて他者によってもたらされたものだ)

宗教はすべての人間を低いものと高いものに、良いものと悪いものに分割する。
一度分割されると、人は苦しみの中に、自分自身との戦いの中に入ってしまうのが常だ。戦いにつぐ戦い、勝利もなく、敗北もない。
自分自身を愛しなさい。なぜなら、その愛を通してのみ、平和がもたらされるからだ。自分自身のすべてを、ありのままを受け入れなさい。

すべての思考が止まるとき、時間が止まる。人はただ、今にある。その圧倒的な瞬間。そのとき」、人は自分自身を発見する。
この活力をもってすれば、することがすべて、言うことがすべて反逆になる。

194M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/13(金) 22:36:27 ID:RUG6ds.w
OSHO

抑圧すれば、それだけ恐れも強くなる。秩序の主となる、ということの意味は、何の抑圧も持たずに、すべてを理解しようとすることだ。理解を通して、統御する力がやってくる。

瞑想とは、他者から強要されるすべての枠組みから解き放たれることを意味する。
いまいちど鏡が磨かれれば、ありのままの姿が映し出される。そのとき、人は、初めて責任を担う者となる。

すべての宗教は、人が臆病であることを利用してきた。地獄が恐怖をつくりだし、天国が貪欲さをつくりだした。そしてこのふたつのはざまで、すべての人間が魂の奴隷と化した。
宗教は、奴隷になることではけっしてない。宗教は、純粋な反逆だ。

生命が与えられるのは、私たちがそれに値しているからではなく、神が、生命を与えることの誘惑に逆らえないからだ。神はひたすら、生命を与え続ける。それが神の本質だ。
あたかも、たっぷりとした雨を含んだ雲のようだ。雨を降らせねばならない、石の上に、岩の上に、そこかしこに。
これを理解することが、宗教的であるということだ。この意味がわかれば、人は、不満が消え去る。限りない感謝の心が生まれる。

何かをしようとする力が全くなくなるとき、その弛緩した瞬間、瞑想と安らぎが同時に起こる。

この人類全体は、ただの夢遊病者の集団にすぎない。人が気づきをもつとき、瞑想的になるとき、その生き方は変化する。その集団の一部ではなくなり、はじめてひとつの個となる。
その気づきの中では、多くのものが消え去る。人は、あらゆる正しいものごとに、ひきつけられるようになる。もはや選択の余地はない。
この覚醒の中から、美しい秩序が生まれる。それは外側から強制されたものではない。外側から強制されたものはすべて隷属となる。
内部から生まれたものにはすべて美がある。なぜなら、それは自由であるからだ。

激しく生きることを学ばねばならない。生命のたいまつの両端を同時に燃やすのだ。すべてをかけた祝祭であれば、その一瞬だけでさえ充分だ。

瞑想には断固とした忍耐が必要だ。つまり「何が起ころうとも、どのような結果になろうとも、私は瞑想に入る決心をした。私は待つ用意ができた。そしてすべてを賭ける用意ができた」

でき得る限り喜びに満ちていなさい。何の理由もなく、狂人のように笑うのだ。

ハートに耳を傾けなさい、より深く、そして、ハートに従いなさい。マインドは自分のものではない、それは社会から与えられたものだ。ハートは自分のものだ、それは、神自身から与えられたものだ。
ハートには過去も未来もない。あるのは今だけだ。

人は本質的に神聖だ。だから、自分に起こることはすべて一過性のものにすぎない。そのために心を乱されてはならない。
観察しなさい。楽しみは過ぎ去り、痛みも過ぎ去る。それはあたかも、自分の存在の限りない空を動いていく雲のようなものだ。空は何の痛手も受けはしない。

神はあなた自身の内側の最奥にいて、あなたが我が家に帰ってくるのを待っている。

人はすばらしい花になることができる。そこはいつも春だ。私たちはただ調和するだけでよい。
春に調べを合わせるだけで、たちまち奇跡が起こる。覚えておきなさい、あなたはこのような奇跡に値するということを。

195M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/13(金) 23:26:08 ID:RUG6ds.w
OSHO

「マインドの安らぎ」というようなものは存在しない。マインドとは安らいでいないことであり、安らぎとはノー・マインドの状態のことだ。

思考はあたかも闇のようなものだ。闇に対しては直接何も手を出せない。投げ出すこともできなければ取り入れることもできない。
というのも闇はそもそも存在しないからだ。それには何の重みもない。単なる光の不在にすぎない。だから、灯りをともしさえすればそれは消え去る。

真実を知ることは真実となることだ。というのも、もはや知る者とその対象は分離していないのだから。

リアリティとは逆説的なものだ。それはあらゆる対極を包含する。正しい展望のもとでは、それらは対極とは思われない、むしろ補い合っているように見え始める。
まさにあなたが無思考の頂点に達すれば、そこに逆説はなくなる。昼と夜は出会い、生と死は出会い、夏と冬は出会い、溶け合う。

第一段階;マインドの沈黙;ただ見つめることである日それは消え去る。
第二段階;ハートの沈黙;それは感情を見つめることで訪れる。それはより精妙な現象であり、第一段階よりはるかに深い。
マインドの沈黙とハートの沈黙、そしてはじめてあなたは観照する者まで消え去ったことに気づく。知る人も消え去る。それこそが究極の沈黙だ。

私の語ることを鵜呑みにしないように。体験するように心がけなさい。体験しないうちは信じようとする心に負けてはならない。(というのも信じるのはたやすいからだ)

沈黙なくしては、どんな真理も自由も神もありえない。

人はただただ感謝の念から存在に跪く。自らを捧げる、いくばくかの実存の花々を。
その花々こそ、私が歌という言葉で表すものだ。ほんの少しの創造性でかまわない。あなたが創りだせるものなら何であろうとかまわない。
創造性こそは宗教であり。創造性こそは祈りに他ならない。

196M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/13(金) 23:53:42 ID:RUG6ds.w
OSHO

次のように唱え続けなさい「これは私ではない、これは私ではない」ひとつ残さず取り去り続けなさい。
絶対的な無が起こるとき、その無の中で蓮が花開く。あなたがいないとき、生まれてはじめてあなたは在る。

蓮は実に象徴的な花だ。蓮は泥から生まれる。−−祈りは性欲から生まれ、魂は肉体から生まれる。性欲、肉体は泥に当たるものだ。そして神聖さは世俗から生じる。
すべては繋がり合っている。何一つとして否定されるべきではない。

私たちの実存の一部は記憶に溢れており、他の部分は妄想や夢や投影に溢れている。だが過去と未来の間は、この上なく微妙で繊細な瞬間だ。
ゆっくりゆっくり、過去と未来に執着する両手を空っぽにしていきなさい。

生こそ唯一の神だ。人はそれを行きぬかねばならない。ほんの一瞬であろうと、それは永遠に続く時間を遥かにしのぐ価値がある。
瞬間瞬間に行きなさい。だが何一つ中途半端に終わらせることなく。 今ここにありなさい。あたかもそれが最後の瞬間であるかのように。
得たすべてをその一瞬に賭けなさい。次の瞬間ののことなど誰に分かるというのかね。結果に構うことがなければ、あなたは蓮の花となる。
この蓮の花を、何度も何度も思い返すがいい。さらにさらに深く、今ここに在ることができるように。しかし、同一化や執着を持つこともいっさいなく。
未来はないのだから、十全に生きられるはずだ。それに過去はないのだから、しがみつくことはない。

197M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/15(日) 01:43:33 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

「私は理性的動物によって形成される有機体の一肢である」この「一肢」を「一部分」と言うならば、君はまだ心から人間を愛しているのではなく、善事をおこなうことがまだ絶対的に君を悦ばすわけではないのだ。
君はまだ単に義務としてこれをおこなうにすぎないのであって、自分自身に施す恩恵としておこなうのではないのだ。

誰が何をしようと、なにをいおうと、私は善くあらねばならない。

指導理性は自分自身を悩まさない。

幸福とは善きダイモーン、または善き指導理性のことである。ではお前はここで何をしているのか、おお想像力よ。神々にかけていうが、あっちへ行け、お前がやってきたのと同じように。
なぜなら私はお前を必要としないのだ。それなのにお前は昔からの習慣でやってきてしまった。

顔に怒りの色のあらわれているのは、ひどく自然に反することで、それがしばしば見られるときには、美は死んで行き、ついには全く再燃も不可能なほどに消滅してしまう。
これは理性に反することであるとの結論をこの事実そのものから引き出してみよ。我々の過ちにたいする自覚がなくなったら、それ以上生きている甲斐があろうか。

198M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/15(日) 02:05:05 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

宇宙を支配する自然はすべて君の見るところのものを一瞬にして変化せしめ、その物質から他のものをこしらえ、
更にそれらのものの物質から他のものをこしらえ、こうして世界がつねに新たであるようにするのである。

想像力を抹殺せよ。人形のように糸にあやつられるな。時を現在に限れ。君、または他人に起こってくる事柄を認識せよ。
君の眼前にあるものを原因と素材とに区別し分析せよ。最期の時を考えよ。人が過ちを犯したら、その過ちは、これを犯した人のもとに留めておくがよい。

誠実とつつしみをもって、また美徳と悪徳の中間にあるすべてのものにたいする無関心をもって自己を輝かせよ。

あたかも君がすでに死んだ人間であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、自然に従って余生を過ごさなくてはならない。

自分に起こることのみ、運命の糸が自分に織り成してくれることのみを愛せよ。

あらゆる行動に際して、ただ自己にたいして美しくあろうということのみが君の唯一の関心事であり念願でなくてはならない。

笑止千万なことには、人間は自分の悪を避けない。ところがそれは可能なのだ。
しかし、他人の悪は避ける。ところがそれは不可能なのである。

199M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/20(金) 01:29:56 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

現在私のなすことが、叡智を持つ、社会的な、神と同じ法律の下にある人間の仕事であるならば、それ以上なにを求めようか。

なによりもまず、いらいらするな。なぜならすべては宇宙の自然に従っているのだ。
そしてまもなく君は何物でもなくなり、どこにもいなくなる。

このものはそれ自体、その固有な構成においてなんであるか。その物質と素材は? その形相因は? これは宇宙においてなにをなすか。どれだけの間存続するか。

なんぴとに出くわそうとも、ただちにまず自問せよ「この人間は善悪に関していかなる信念を持っているか」と。

なにごとかなすか。私はこれを人類の福祉に関連させてなす。なにごとか起こるか。私はこれを神々に関連させ、あらゆるものがそこから一丸となって出てくる万物の源泉に関連させて受け入れる。

人間の喜びは人間固有の仕事をなすにある。人間固有の仕事とは同胞に対する親切、感覚の動きにたいする軽蔑、信ずべく見える思想の真偽の鑑別、
宇宙の自然およびこれに従って生成する事柄の観照等にある。

君の想念を抹殺してしまえ。「いま自分の考え一つでこの魂の中に悪意も色情も、心を乱すものは一切存在しないようにすることができるのだ。
また万物をあるがままの姿で見きわめ、各々その価値に応じて遇することができるのだ」
自然によって与えられている君のこの能力を銘記せよ。

200M=M ◆eskwQ12oL2:2010/08/20(金) 01:58:04 ID:RUG6ds.w
M・アウレーリウス

君の全生涯を思い浮かべて気持ちをかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っているだろう、心の中で推測するな。
それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう。

理性が自分で自分を苦しめることのないようにせよ。
君のほかの部分が具合が悪くなった場合には、その部分自体に自己についての意見をいだかしめればいいのだ。

現在の時を自分への贈物として与えるように心がけるがよい。

平静とはすなわち、自分が自己の構成素質にかなった態度と行動を取るならばそれで満足している、という意味である。

人間には、人間的でない出来事は起こりえない。

私の自由意思にとって隣人の自由意思は無関係の事柄である。それは彼の息と肉が私に無関係なのと同様である。
我々の指導理性はそれぞれ自己の主権を持っているのである。さもなければ隣人の悪徳は私のわざわいとなってしまうであろう。

太陽の光は降り注がれているように見える。まったくそれは至るところに拡散している。しかし枯渇することはない。
なぜならこの拡散は一つの拡張なのである。精神の拡散と波及もこのようでなくてはならない。

人類はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ。

201M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/02(木) 01:18:37 ID:kQJQeToU
柄谷行人の講演録から

自然(じねん)というのは、対象としての自然(しぜん)ではなく、一種の働きとしての自然なんですが、自から然らしむることですね。自から成るという、いつの間にかこうなったんだ、自分の意志ではない、と。
自然(じねん)をもっとわかりやすい言葉で言いますと、「自己差異化」と呼んでいいかと思います。まず自分があって自己差異化するのではありません。自分と自分でないものとの差異化のことを言います。
そこから自分が出てくるわけですから、自己差異化というのは意識よりももっと基底にあることになります。我々は日常において、主体と客体に二分された世界にいるんですが、自己差異化のレベルまで降りると、この世界が変容を遂げることになる。
分節形態が全く変わってくる。そのようにして世界をもう一度見直すということ、それが「悟り」言われているものです。

意識のレベルからもっと基底へ行けば、主体も何もない差異化だけがある。その差異化している主体は自己ではありませんから、ただ差異化しかないのです。差異化の中から主体が出てくるのですから、主体もないのです。
主体がないということは、別の観点からすれば、何か超越者がいる、ということです。何も無いものが何かをさせているとすれば、その何も無いものが超越者である、ということになります。
だからいつでも「無」と「超越者」が入れ替わりうるわけです。無の「働き」、それを「空」と呼ぼうと「超越者」呼ぼうと、違いはありません。
人間を根底において動かしているものは何も無い、何も無いものが動かしている、つまり無為=超越者が動かしている。自己差異化というんは自己超越なのです。

202M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/02(木) 01:43:49 ID:kQJQeToU
同前

以上述べたことは下図の右側に列挙したものに当てはまります。
他者=神・・・・・・・・空=神
差異・・・・・・・・・・同一性
非対称・・・・・・・・・対称
他者の先行・・・・・・・自己差異化
言語ゲーム・・・・・・・独我論
共同体の間・・・・・・・共同体
歴史的・・・・・・・・・非歴史的
多数体系・・・・・・・・単一体系

自然(じねん)の論理は、ナルシズムと共同体に結びついています。
自己差異化というのは、自分と自分でないものとの差異化ですから、非自己が「他者」であるかどうかなど、どうでもよいわけです。結局自分だけのことなんですね。
それらが他者と呼んでいるのは、自己ー非自己の差異化における非自己のことであって、いつまでたっても、他者が他者性として、超越性として、外在性として、現れてこない。

existenceのexとは外に出るという意味です。つまり、共同体の外へ出るということ。自己の外に出るということ。
しかしこれは、一般的には神に出会うことになってしまう。恍惚・法悦状態です。すなわちエクスタシー。無であれ神であれ、それと合一することです。
したがってこのような世界には「他者」は出てこない。神と合一するということは、自分の本質を実現するという意味に過ぎないのです。これは結局のところ、自分だけの世界であり、また共同体の世界でもあります。

203M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/05(日) 01:14:00 ID:R1.eUGzo
「幻想の未来」 岸田秀

人間の欲望はすべて自我に発する。自我の形を維持することが人間の欲望の目指すところである。

自我とエスが葛藤するとき、(現在の)自我が葛藤するのは、かつていったんは自我であったエスの部分であり、初めからエスであり続けている部分が自我と葛藤することはない。
自我とは、本能が壊れた人間が本能の代わりにエネルギーを方向付け、秩序付けるためにつくりだされたある形であり、形とエネルギー(エス)という、次元の異なるものが葛藤するはずはない。
形と葛藤するのは形だけである。自我と葛藤するのは自我だけである。

自我と自我が葛藤するのは、自我が多層建造物だからである。その多くの層のおのおのについて、設計図も違えば、工事人の技術の程度も使われた資材も違うのである。
自我は、種子から芽が出てくるように個人のなかから成長してくるのではなく、人間関係のなかで形成される。

最初の層。乳幼児の完全に無能力であるがそのことの自覚の無い全知全能の魔法の世界。個人はこの全能象を全人格構造の基底として生涯にわたって持ち続ける。
穏やかなかたちでは自尊心や自惚れ、極端なかたちでは誇大妄想となったり、対象に投影されて全能の神や偉大な指導者のイメージとなったりする。

その次の層。自他の区別が成立し、己の無能力と母親への依存とが分かるようになると、依存的自我が形成される。
依存の欲望は形成されたばかりの無力で不安な自我を捨てて他者(母親)に依存し、他者と再び合一したい欲望であり、人間の最も基本的な欲望の一つである。

その後、さらに多くのさまざまな人たちとの関係の中で自我を形成してゆくが、その折その折の形成された自我の層は、一つも消滅することなく不統一に積み重ねられる。

204M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/05(日) 01:40:24 ID:R1.eUGzo
同前

自我には発達も成熟もなく、ただ次々と別の形の自我が積み重ねられるだけである。
そして、あとからできた層ほど薄く、根が浅い。自我は本質的に不安定・不統一である。

自我は不可避的に狭く、どのような経験でも消化できる自我というものはあり得ないから、人間は生きている限りは、つねに新たな自我(新しい説明・物語)を形成することを迫られ続ける。
そしてそれを自我の他の部分と調和させることがこれまたむずかしい。
これは解決不能なディレンマであり、何とかごまかすしかない。それが防衛機制である。
すなわち、自我のある部分だけを取り上げ、その部分だけである程度首尾一貫した形をつくり、その形と矛盾する他の部分を抑圧してエスに戻すのである。

現在の自我を首尾一貫させ、その内部的安定を確保しようとすればするほど、そこから排除しなければならない部分が多くなる。
従って現在の自我は狭くなり、それと対立する広大なエスに脅かされる。
つまり、内部的安定を求めようとすればするほど、実際には不安定になる。

現在の自我はたまたま現在において自我であるに過ぎず、いつひっくり返されるか分からないが、しかし、現在の自我である限りにおいて、現在の当人にとては自分の存在の全てである。
したがって、当人にとっては現在の自我を守り、安定させることが至上命令である。
人間の欲望とは、いわば、乱れた自我のホメオステーシスを回復しようとする欲望である。

205M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/05(日) 01:52:40 ID:R1.eUGzo
同前

自我とは形であり、我々はその形を他者から受け取る。自我の歴史は他者との同一視の歴史である。

友好的であれ敵対的であれ、我々と何らかの関係を持った他者は我々の内に何らかの痕跡を残している。
我々は他者の欲望を我々の欲望とすることによって、はじめて欲望をもつのである。
特に、安定した自我をもっているように見える他者の欲望を我々のの欲望とするのである。

全ての欲望は唯一の原型的欲望に集約される。
それは自我の形を整え、自我を安定させたい欲望である。様々な欲望はこの原型的欲望の様々な現象形態である。

206M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/05(日) 02:17:59 ID:R1.eUGzo
同前

我々の依存は繰り返し繰り返し不可避的に挫折し、ナルチシズムは不可避的に傷つく。
自我は、ナルチシズムという妄想を真理と思い込まなければ成り立たない。
それは単に幼児期の全知全能の快い幻想を捨てきれずいるからばかりではなく、自我というものは、実体ではないので、存立するために世界の中に位置づける必要があるからである。

自我が存立するためには、自我および世界の中に説明できない部分があってはならない。
自我とは自我についての説明である。この説明は首尾一貫し、かつ正しいものでなければならない。
正しく説明するためには、説明できない多くのことを視野の外におかねばならず、かつ視野の外においたことに無自覚でなければならない。
正に自我という体系は、それが正しいことが証明されなければ存立し得ず、そして、それが正しいことをその内部で証明できない体系である。

自我の正しさは根拠無く盲信するほかない。この盲信を支えているのがナルチシズムである。

欲望とは不安定な自我を安定させようとする企てであるが、自我は本質的に不安定なのだから、あらゆる欲望が本質的に不可能なことを目指しているのである。

自我は、存在しないものを存在するとしなければ存立し得ないという、根本的に不合理なものである。

207M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/07(火) 02:05:27 ID:KvbNOlFE
「知覚の呪縛」 渡辺哲夫

「私は実人間なんだそうです。実人間は、オタチギエ(お立ち消え)できません。現れっぱなしなんです。実人間は、オタチギエは死ぬことなんです
私だけ折りたためないで、ナクナレないんです。鋼鉄棒人間、硬度人間、異常人間なんだそうです。
今の私が有り過ぎるんです」(ある統合失調者の言葉)

208M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/07(火) 02:21:35 ID:KvbNOlFE
「見えはじめたぞ!」 スジャタ

心の苦痛は、人生に対する間違った態度を知らせてくれる。メディテーションは、自分が何を間違えているか教えてくれる。

私たちの中身はスキマだらけ。それでは、スキマなはずの暇な時間をどうやって埋めてゆくのか、少し自分を観察してみよう。

歴史を通じ、数々の偉大な師がこの世界にやってきました。でもそれは、世界がちゃんと正しい方向に向かっていることを知らせにきたのではありません。

もし、人生のすべてを大切な教えとして受け入れるならば・・

あなたの心もそれ自身の心を持っている。(あなたの割り込める場所はどこ?)

メディテーションは、私たちが自分のためにできるいちばん親切な行い。

賢い人とは、楽観的な人でもなければ悲観的な人でもない。すべてあるがままに物ごとを見る人です。

自分を救ってあげてください。

209M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/07(火) 02:30:14 ID:KvbNOlFE
K・プリブラム(脳科学者)と浅田彰の対話から

プリブラム「東洋思想は受動的な治癒の哲学としては有益かもしれないけど、十分に能動的でない。多分、その発生は経済水準の低さと関係があるでしょう。
      メディテーションというのは新陳代謝を引き下げるのに役立ち、おかげで餓死せずにすむ(笑)」

210M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/08(水) 00:35:41 ID:R1.eUGzo
「『日本奥地紀行』を読む」 宮本常一

(明治11年、英国人女性イザベラ・バードは日本を訪れ、北関東〜東北〜蝦夷地を旅行した。途中、日光で当地最高級の宿に宿泊し・・・)
「金谷さんの妹は、たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。彼女は玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。二つの縁側はよく磨かれている。玄関も、私の部屋に通ずる階段も同じである。
 畳はあまりにもきめが細かく白いので、靴下をはいていても、その上を歩くのが心配なくらいである。(中略)
 彼の母親は尊敬すべき老婦人で、彼の妹は、私が今まで会った日本の婦人のうちで二番目に最もやさしく上品な人であるが、兄と一緒に住んでいる。
 彼女が家の中を歩きまわる姿は、妖精のように軽快優雅であり、彼女の声は音楽のような調べがある」
以下 宮本の注釈
これは非常におもしろいことだと思うのです。つまり日本の上流階級になると、急にレベルが高くなり洗練されていて、それが突然日本へやってきたイギリス人を満足させるものを持っていたのです。
日本風のもてなし方をしているのですが、その中には違和感がないのです。
ここに上層文化の意味がよくわかるのではないかと思うのです。

211M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/10(金) 00:20:32 ID:R1.eUGzo
「イリイチは語る」I・イリイチ

一つの生命(a life)と言う場合、私たちはその言葉に実詞的な意味を付与しています。本来一個の人格(a person)と呼ぶべき存在を一つの生命に変容させているのです。この用法は全く現代的なものです。
ある人格が自分自身のことを生命と規定するような考え方が最初に登場するのはイエスとマルタの会話の中です。イエスはマルタに向かって「わたしは生命である(I am life)」と語っています。
以降、西洋の歴史や諸言語において、単数形の生命、すなわち、われわれがそれを有することができたりできなかったりするするような端的な生命とは、イエスとの関係を指す言葉となったのです。
それゆえこんにち、子宮に着床させる受精卵に生命と言う言葉を用いるとすれば、それによって我々は、受肉した神(イエス・キリスト)を意味する言葉を濫用していることになるです。
ガリラヤのかの人(イエス)が自らを指して呼んだ言葉を、あなたがたが、操作しうるもの、責任を負っていると感じるもの、管理するものに転用することは、他にはありえないくらい最も根本的な倒錯を犯すことに他なりません。

私が強く感じるのは、現時点においてこの言葉が人びとの胸中に喚起するのは、恐れと、「私は責任を負わねばならない」という漠然たる意識であるということです。
それ故この言葉に含意されているのは、それ自体として善きものではなく、我々が保存したいと思うものは管理可能であるという発想です。
それは生き生きとしていること(aliveness)ではなく生存(survival)に力点を置いているのです。生存という言葉はネクロフィリック(死体愛的)です。

生命とは高度に抽象的な言葉であり、それを操作の対象とするためには、それ自体強力ないくつかのシンボル(生命を象徴するもの)をつくらねばなりません。
科学において、生命と言う言葉は疑いなく根無し草の言葉であり、明らかに常識によって指し示される対応物を欠いた言葉です。

社会は、超越的なものとの関係にもとづいた自己規定によってそのまとまりを自覚するようになります。
そういう意味でこんにちの我々は、超越的なものが公的に宗教的になものとしては把握されていない社会に生きているのです。
聖域とは、絶対的な他者へと通じる入口であり、聖なるもの、あるいは神、あるいは一つの力が自己を顕現する場所なのです。
それゆえ私は、青と赤のこれら二つの円(地球と受精卵)は、我々の時代の聖域なのだろうかと考え始めました。

212M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/10(金) 00:56:37 ID:R1.eUGzo
同前

我々が地球をその外部から眺めた瞬間、また、妊婦の胎内に存する本来目に見えないものをながめた瞬間、伝統的な、そして必要不可欠な境界線が一挙に取り払われたのです。
受肉した神が発した「私は生命である」という言葉の倒錯に他ならない生命というこの構成概念は、しいて言うならば地獄の概念です。
生命は、敷居としてのこれら二つの映像を通じて、世界の全面的な管理を正当化します。あらゆる犠牲を正当化します。それはこの空虚な概念が持つ聖性によって正当化されるのです。

キリスト教的伝統の内部においてこそ、神の手に偶然的に委ねられていた自然が死んだ後、生命なるものが管理されるべき対象として現れるような文化的空間が生み出されるのです。
空虚な空間が生み出されたのです。それによって、自分たちと宇宙に責任を有する人間という概念の登場する余地が生じたのです。
それゆえ我々が生命に対して責任を負っているとすれば、我々は生命を改善したり、回復したり、救うことができなければならなくなります。
偽神としての生命。それは近代的な仕方でアニミスティックなものとなったのです。

213M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/10(金) 01:33:21 ID:R1.eUGzo
同前

我々は未来をもたないと知っておくことは、意味を持ち感覚に訴える言葉と明晰判明な観念を用いて思索や考察を行うために必要な条件だと思います。
明日というものはあるでしょう。しかし、それについて我々が何かを言えるような、あるいは何らかの力を発揮できるような未来というものは存在しないのです。
我々は徹底的に無力です。我々は、芽生え始めた他者との友情をさらに拡大していく道を探ろうとしています。その場合の他者とは、自己の無力さや、我々の結合された無力さを共に味わいうるような他者なのです。
他方で、ガイアについて語ったり、世界に対する責任を云々したり、それに関して何かなすべきであるとう幻想を信じている人々は、キチガイじみたダンスを踊っています。
私は、世界という全体を構成する一個の原子でもなければ、一個の美でもありません。

この不気味なエコロジーのダンスとは対極的なものを象徴する饗宴を生み出すことができるのは、この今という時間を、できるだけそれを利用することがないことによって祝福しうるようなセンスです。

転換を遂げる方法は一つしかありません。それは今この瞬間自分がこうしていきいきと存在していることを深く楽しむことであり、お互いにそうすることをすすめあうこと、つまり裸のキリストに倣って。
それは私が読んだ中世の修道士たちの書物の中で理想とされていた生活でもあります。

質問ーなぜ、あなたは責任を負うことは不可能だと思われるのですか?
イリイチ;正気を失っていない限り、私が責任を負うことができるのは、自分がそれに関して何かをなしうるようなことだがらだけです。
「地球温暖化反対!環境汚染反対!」と叫びながら道路を歩き回っている若者たちを見ると、私は笑わずにはおれません。それは雨乞いのおどりなのです。
この新たな宗教心によって、人々はかつてないくらい支配されやすく、管理されやすい存在になるのです。

それゆえ私は人びとに、今をいきいきと生きようと呼びかけます。
あらゆる痛みや災いを抱えつつ、この瞬間に生かされてあることを祝福し、率直に楽しもうと呼びかけるのです。

地球は、人がその匂いをかぎ、その風味を味わうことができるものです。私はたんに一個の惑星の上に住んでいるのではありません。

214M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/10(金) 01:47:11 ID:R1.eUGzo
同前

現代世界において生きるということがどういいうことを意味するのかを理解するためには、同時に二つの誘惑から遠ざかっていなければならない。
第一の誘惑はは、「黙示録的な放縦さ」。強い自制心をもって慎むべきです。
また、他方では、あらゆる種類のロマンティシズムを慎むべきです。
それは、我々が生きる場であると同時に、我々が生み出してきたものでもある社会を直視するためにひつようであり、
また、それを直視することに伴う苦しさに耐えるために、あるいはかろうじて耐えるために必要なのです。


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