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It's beginning to and back again

270M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/02(日) 22:59:44 ID:fdJzhULc
では柄谷の著作から

「探究Ⅰ」 柄谷行人

言語が差異的な形式体系であるというような認識は、”意味”を現象学的に還元してゆくことで得られる。つまり構造主義・システム論・情報理論などは結局現象学的な構えに内属している、ということができる。
それに対して、そのような差異体系の体系性(すなわちそれが一つの超越的な中心によって組織され閉ざされていること)を批判する企てがある。
しかし、差異的な形式体系を”外部性”に訴えることなくその内部で瓦解させようとするならば、われわれは、いわば自己言及的な形式体系、あるいは自己差異的な差異体系というべきものを基底に想定するほかない。
われわれは二者択一に追い込まれているようにみえる。「意識」から出発することで、形式的な体系の内部に閉じ込められ、それを”脱構築”したりまたは”観念的に”それを破砕してしまう方向をたどるか。
それとも、バフチンのように客観的(外在的)な視点から言語の社会性を考察し、モノローグ的な意識=単一体系を批判するか。
しかし、このいずれも、マルクスのいう神秘=社会的なものに触れてはいない。

ヴィトゲンシュタインは、<他者>を、「われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人」とみなしている。
むろん、それは子供であっても動物であってもかまわない。肝心なのは、主体における「意味していること」の内的な確実性をうしなわせることであり、それを無根拠な危うさのなかに追いこむことなのだから。
「意味している」ことが、そのような<他者>にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、”文脈”があり、また”言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。
だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができるー規則、コード、差異体系などによって。
いいかえれば、哲学であれ言語学であれ経済学であれ、それらが出立するのは、この「命がけの跳躍」(マルクス)の「あと」にすぎない。規則はあとから見出されるのだ。
この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ”神秘”がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠な危うさにかかわっている。


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