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It's beginning to and back again

273M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/03(月) 01:05:23 ID:4GyeId/Q
同前

スピノザの無限の観念は”積極的”なものである。たとえば「すべて限定は否定である」というのは、有限を無限の否定として見ることであり、無限を有限の否定(無限定)として消極的に見ることの逆である。
そして、一と全体、特殊性と一般性といった、「概念」の閉じた円環を破るのは、積極的な無限の「観念」だけである。

「無限」は、無際限な超越者ではない。それは、そのような超越がもはやありえないという意味で、世界を閉じるものである。そのとき、内部と外部、本質と現象、真理と幻想、精神と身体といった二分法が静かに止めをさされたのである。

神が「無限の実体」だということは、それを超越するものがありえないこと、その外部がないことを意味する。それは「唯一の」世界である。つまり、一切がこの世界内に属するのである。それが「無限」ということの意味することだ。
さらに、神のみが実体であるということは、それのみが自己原因であり、他のものはすべて他に原因を持つということを意味する。それは、この世界=自然の原因なり背後なりを考えることができないということだ。
この世界の外に考えられるものは、超越的な神であろうと、彼岸であろうと、世界の意味や目的であろうと、表象(想像物)でしかない。それらは、この自然=世界に原因をもち、そこから派生したものである。

スピノザはこう考えたといっていい。われわれがあるものを表象ではないかと疑い、その諸原因を解明しようとする意志は、それ自体この自然史によって促されており、そこに原因をもつのだ、と。コギトは、自然を超越するどころかこの自然史の諸原因の結果である。
スピノザは超越的でなく、したがって超越者もみとめないが、その姿勢は、一言でいえば、超越論的なのである。超越を否定しうるのは「超越論的」姿勢であり、主体(個)を否定しうるのは単独性なのだ。
スピノザの「場所」は、外部的である。それは上方でもなければ基底でもない。そういう超越そのものを表象と見なすような場所、この場所なしに「無限」はありえない。
無限の観念は、意識=表象ではなく外部的実存である。つまり、それはエチカ(倫理)である。


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