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It's beginning to and back again

225M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/17(金) 01:12:33 ID:R1.eUGzo
同前

ある種ののノンコミュニケーションは<聖>の維持に欠かせないものだと私は考える。
そうした場合コミュニケーションが望ましくないのは、それがこわいからではなく、コミュニケーションが何らかのかたちで観念をの本質を変化させてしまうからである。
(オープンさというのは、過剰になりうるもののひとつだ。例えば生物学ではある最適値を越えると何でも毒になる)

人が聖とみなすものは何か? ひょっとして、あらゆる生命システムの働きのなかにいくつか特殊なプロセスがあって、そのプロセスの知らせなり情報なりがシステムの他の部分に届くと、
全体の機能が麻痺してしまったりする、そんなことがあるのだろうか?

生命圏におけるkミュニケーション上の規則性を探ろうとすることは、とりもなおさず、その浸透度と決定力の大きさから「神」という言葉で呼んでもいいような一システムの複雑にからみあった規則性ををも探ることになるにちがいない。
そこで発見した規則性がつくるひとつのまとまりこそ、我々の真の拠り所となるものである。
それらの規則性は、<エコ>とも呼ぶべき神の属性とみなすことができるだろう。

<聖>、人間がいじりまわすべからざるもの、畏敬のなかでのみ出会うことのできる全体感覚、そしてそれは謙虚さを呼び起こす。
何かを構築してそれを<聖>指定することなんてできない。
そうした<聖=エコ>は単純な意味の善悪などにはかかわりあわず、自由意志ももたない。
実際それは、たとえば適応の裏には中毒かもっとひどい場合には病気があるという事実を象徴するものだ。

ガイアとエコは同じではない。ガイアという考え方は、地球の物理的リアリティにもとづいたものだ。それは「もの」的だ。
<エコ>と呼べるような神について考えるときは、精神過程にのことを考えほしい。大切なのは「過程(プロセス)」だ。

結びつきというのは完全にがっしりしてるのではなくて、知識には切れ目があること、さらに精神過程には新しい結びつきを形成する力(自己修復的トートロジー)が含まれている。

エコというのは精神過程のの論理、つまり全生命と進化をひとつにまとめている結合性の謂いだ。それに違反することはできるが侮ることはできない。
愛すべきものというより、美しいもの。そして恐ろしい。


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