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232
:
M=M
◆eskwQ12oL2
:2010/10/07(木) 02:48:28 ID:wqAyEL.U
同前
「羊を百匹持っている者がいたとしよう。そのうち一匹がどこかへ行ってしまった(以下略)」(マタイ18、ルカ15)
世の中全体が算術的合理性をもって強制してくる時に、それに抗おうと思えば、こちらも強引かつ単純にそれを裏返して主張するのでなければ、強い衝撃力を持てない。
大切なのは九十九でなく一だ。こう主張する時、もはや人は深く全体を見通す平衡のとれた理性を失っている。暴論ですらある。
だがそのように叫びださなければならない状況はしばしばあるものだ。これまた決して不動の真理ではない。逆説的反抗なのである。
此の世で実際にこのようなことを、ある程度以上主張すれば、叩き潰されざるを得ない。実際には九十九の力に一が勝つはずがないからだ。
逆説的反抗に立ち上がれば、人は悲劇に突入する。しかし、歴史を動かしてきたのはさまざまな悲劇だった。
イエスという人がさまざまな場面で語り、主張してきた逆説的反抗を「真理」の教訓に仕立て変えてはならない。
イエスは「真理」を伝えるために世界に来た使者ではない。そのように反抗せざるを得ないところに生きていたからそのように反抗した。だから、殺されたのだ。
「人間はいかなる罪であろうと赦される」(マルコ3)
悔い改めにふさわしい実を結べ、とか洗礼を受けろとか、そういったことは一切言われていない。ここに洗礼者ヨハネとイエスの決定的相違がある。
そしてもっと重要なことは、イエスはこれ以外(及び「義人と罪人」は「罪」(マルコ2))は「罪」について一切発言していない、ということだ。
原始キリスト教団は洗礼者ヨハネの呼びかけ「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」を継承し、それがあたかもイエス自身の思想の質であるかのように描こうとした。
「我が神、我が神、何ぞ我を見捨て給いし」(マルコ15)そう言って叫んだ時、その瞬間に残ったのは、無残な死だけであった。
このあまりに赤裸々な断末魔の死と対面するのを避けるため、解釈者はイエスからこの言葉すらも奪おうとした。そういう解釈者の意識の中で、イエスは「復活」させられる。
次には、イエスの死の意味づけが始まる。ついには、イエスという救済者は十字架の死によって世の人々を救うために此の世に来たのだ、と言われるようになる。イエスは十字架にかかって死ぬために生きた、というわけだ。
そうではない。イエスのあのような生の活動の結末として、あのようにすさまじく生きたから、あのようなすさまじい死にいたり着いた。
いやむしろ、死が予期されているにもかかわらず、敢えてそれを回避せずに生きぬいた、ということか。
イエスの死に希望があるとしたら、死そのものの中にではなく、その死にいたるまで生きかつ活動し続けた姿の中にある。
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