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222
:
M=M
◆eskwQ12oL2
:2010/09/16(木) 01:58:39 ID:R1.eUGzo
「自我と無意識」 C・G・ユング
だから、自我が勝利の主張をやめるならば、呪術師(無意識)による憑依も自動的に止む。では、マナは、どこへ行ってしまったのだろうか。誰が、あるいは何がマナになるのか。
ここで我々に分かっているのは、意識も無意識もマナを持っていないということだけである。従ってこの状態では、マナは、意識的でないとともに無意識的でもないような、ある物の手に入っていることになる。
このある物こそは、求められていた人格の「中心」であり、対立物間の言い表しがたい一点であり、あるいは、対立物の統合者であり、葛藤の帰結であり、エネルギーの緊張がもたらした成果であり、
人格の生成、最も個人的な前進であり次なる段階に他ならないのである。
無意識との対決の当面の目標は、無意識内容がもはや無意識でなくなって、じかにアニマ・アニムス現象として現れたりしない状態に達することである。すなわちアニマ・アニムスが無意識に対する関係の単なる一機能となることである。
そうならないかぎり、それらは、依然自律的コンプレックスとして、意識の制御を超え、さながら撹乱者のようにふるまう障害要因でしかない。人は、コンプレックスを持てば持つほど、憑依された状態になる。
意識が原像の素朴な具体化を止めない限り、実際、繰り返し起こるだろう。この圧倒的な力から逃れることができるなどとは、私は、全く思っていない。
人にできるのは、それに対する態度を変えることだけであって、それによって、自分がいとも簡単にあれこれの元型に落ち込み、自らの人間性を犠牲にしてある役割を演じる羽目になるのを防ぐのがせいぜいなのだ。
元型に憑かれた人間は、単なる集合的な存在となり、仮面の一種となってしまう。
それに対して身を守るには、無意識の諸力に対して自らの弱さを頭から認めてしまうほかない。
私が無意識を人格的なものと考えていると思われては困る。
無意識は、人間的・人格的なものの彼岸にある自然現象から成り立っている。
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