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It's beginning to and back again

217M=M ◆eskwQ12oL2:2010/09/15(水) 02:01:21 ID:5ecG5DL6
「自死という生き方」 須原一秀
 10章 雑感と日常(哲学的プロジェクトとして自死を遂行することを決意し、それを実行するまでの身辺雑記)

どうして人に告げねばならないのかと考えたのかと言えば、自分の決心が本物かどうかを自分で確かめるためと、そのことを客観化するためでもあった。

健康であり、比較的快適な生活が安定して続いているので、哲学的に「死の身体化」確認するのに適切だからである。
あまり、老人になりすぎても、あまり若くても研究者として意味がないような気がするのである。
そして、私の仕事(大学講師)の関係上、春休みが仕事先に迷惑をかける程度が一番低いのである。

今回の自死と拙著「<現代の全体>をとらえる一番一番大きくて簡単な枠組み」で問題にした「肯定主義」とは関係している。
なぜなら、肯定主義は、人生をすべて生きるに値すると肯定するわけでも、人生はすべて生きるに値しないと否定するわけでもなく、人生には良い面も悪い面もあり、
また生きるに値する場合も生きるに値しない場合もあることを認める立場だからである。
その上、肯定主義は人間の可塑性を認めるわけだから、人間が自分の「生き死に」のすべてを人工的にコントロールすることも、場合によってはありうることを肯定主義は認めるからである。

もともとあまり先のことは考えないタイプであり、そのようにして生きてきたが、今ここに至って、
あと半年ほどの時間枠で物事を考えれば良いわけだから、今は尚更に気持ちは楽になっているような気がする。

何か新しい遊びを思いついた子供のようにワクワクしているのである。
全体としては健康状態が上々であるということもあってか、上機嫌のまま月日が流れている感じである。

確かに、思い残しも未練も無いわけではないと思うのだが、なんとなく人生の基本はおさえたという思いもあって、そういうもに執着する気持ちはほとんど無いし、
たとえば来年の花火大会に行かないことにも、今楽しんだからそれで良いという思いがある。


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