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It's beginning to and back again

271M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/02(日) 23:46:06 ID:4GyeId/Q
同前

私が、ある言葉の「意味」を知っているかどうかは、私がその言葉の用法においてまちがっていないと他者(共同体)にみとめられるか否かにかかっている。しかし、ここで注意すべきことは、そのとき、他者もまた規則を積極的に明示できるわけではないということだ。
彼はただ「否」としかいえないのである。ということは、規則がどこかに積極的に明示しうるかたちで存在するのではないということを意味するのである。
他者にとって「意味している」ことが承認されるとき、そのかぎりにおいてのみ、「文脈」があり、「言語ゲーム」があるのだ。つまり、そのかぎりにおいてのみ、われわれは「規則にしたがっている」。
われわの「世界」は、この言語ゲームのなかで存在する。それをこえた”客観的”世界はない、それも言語ゲームに属するから。この「世界」を疑うことはできない、「疑う」ことも言語ゲームのなかで可能だから。
この<他者>は誰であってもよい、もしそれがわれわれの「世界」の限界を画定するのであれば。

<われわれが境界を知らないのは、境界線など引かれていないからだ>(ウィトゲンシュタイン)
われわれはむしろ”不安”に、つまり境界の不安定性にとどまるべきなのだ。どこに明瞭な線を引くことができるだろうか。たしかに差異はあるが、はっきりと線を引くことができない。
<世界の中に神秘はない。世界が在ることが神秘だ>(ウィトゲンシュタイン)
言語ゲームは多様であり、したがって「世界」(の限界)は多様である。
しかし、このことは、言語ゲームが成立するか否かにかかわる無根拠な危うさと、われわれが「世界」を画定することの不可能性とを、考慮にいれなければ、大して意味がない。

事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

われわれは、遡行すべき、共同主観的世界も、分節化をこえた連続的・カオス的世界ももたない。
それらは、言語ゲームの外部にあるがゆえに無意味であるか、またはそれ自体言語ゲームの一部にすぎない。それらはたんに物語として機能する。

そこにどんな根源的な知があろうと、私と一般者しかいない世界、あるいは独我論的世界は、他者との対関係を排除して真理(実在)を強制する共同体の権力に転化する。


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