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It's beginning to and back again

272M=M ◆eskwQ12oL2:2011/01/03(月) 00:20:30 ID:4GyeId/Q
「探究Ⅱ」 柄谷行人

個体の多数性は、それぞれが「他ではない」という差異性によって保証されるのではない。また、関係の外面性は、項に対する関係の独立をいうことによっては保証されはしない。
それらは結局、「内面的関係の理論」になってしまっている。つまり、一つの閉じられたシステムのなかで考えられている。
かりにそこで「外部」がいわれていても、それはそのような「外部」をふくむようなシステムにすぎないし、多数性がいわれていても結局一つのシステムなのである。
いうまでもなく、このようなシステムは「外部性」(関係の外面性)を内面化することによって成立している。しかし、それを否定するために「関係の外面性」をあらためて主張してもむだである。
では、けっして内面化されないような「関係の外面性」はいかなるものか。それはこの関係が「偶然的」であるほかないような関係である。そしてこの偶然性は、交通における関係の非対称性に帰着する。

二つの系列が独立しうるのは、それらを同時に見通すような視点がないときだけである。しかもそれは「神」であっても見通せないようなものでなければならない。
”結果”においてみるならば、いかなる複数の系列も一系列としてみえる。では、複数系列、単純化していえば二系列の独立性が確保されるのは、どこにおいてであるか。
それは、二者の関係において、その両方あるいはその前後に同時に立つことができないような関係においてのみありうる。
つまり、それこそが、「売るー買う」とか「教えるー学ぶ」といった非対称な関係なのである。ここでは、”結果”の優位性はありえない。ここに神でも見通すことのできない不透過性がみとめられる。


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