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海のひつじを忘れないようです
1
:
◆JrLrwtG8mk
:2017/08/19(土) 21:55:33 ID:rN6ohdMg0
紅白作品
微閲覧注意
408
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:15:27 ID:AKaoAE960
だからこそ、気づかなければならない。
『私』は『私』という利己的生命体の一であることに。
私は十ではない。私は百ではない。私は千の、万の、
億の兆の京の垓の……無量で割ることの一ではない。
私は一の一。その行いも、責任も、伸し掛かる罪過の重みも、私の一。
私が負うべき一の一。きっと、たぶん、それこそが――。
「あなたが選んで、あなたが決めて」
彼が、背を向けた。
そして、踏み出す。
腕を広げ、我が子の帰りを待つ『母』の下へ。
牧師<『母』>と彼<『子』>が正対する。
穏やかな光はすでに彼を包み込もうとしている。
その暖かさを前にして、彼は、さらに、もう一歩、足を踏み出し、そして――
彼“が”、牧師“を”、抱きしめた。
.
409
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:16:13 ID:AKaoAE960
静かな声が、波紋を生む。
「……もう大丈夫です。あなたがいなくても、ぼくはもう一人で歩けます。
ぼくはもう、あなたじゃないから。だから、母なる人よ――」
彼が、笑った。
「いままでありがとう。そして……さようなら」
一度だけ。
ただ、一度だけ。
牧師の手が、光のその手が、彼の頭を、撫ぜた。
それで、終わりだった。
人の形は消え、生命の泡が弾けた。
散逸した光が泡なる泡を、
生命なる生命を呑み込んで、
そして――
――たぶん、きっと、それこそが。
『私』が『私』であると自覚することこそが。
“大人”になる条件だと、私は思うから。
――そして、鐘の音が、止まった。
海が、凪いだ。
.
410
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:16:43 ID:AKaoAE960
4
「それがお前の答えか」
彼の主が、問いかける。
「なにがあろうと生きる。それがお前の選択か」
彼が、うなづいて応える。
「ならば――」
彼の主の腕が上がる。
同じように、彼の腕も上がる。
その手の先には、何かが握られていた。
彼の手の先には、短刀が握られていた。
刀身に奇妙な波模様の浮かんだ、あの短刀。
彼の主の――彼の主の譲り受けた、あの、短刀。
「その証を、俺に示せ」
411
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:17:12 ID:AKaoAE960
私は知っている。
二人の間で起こることを。
それを私は知っている。
だから私は、何も言わない。手出しをしない。
それは私の試練ではないから。
それは彼の試練だから。
“通過儀礼”だから。
私はただ、見守る。彼の、選択を。
――そして、彼が、選択する。
412
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:17:33 ID:AKaoAE960
短刀が、彼の主のその胸へ、迷うことなく刺し込まれた。
.
413
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:17:53 ID:AKaoAE960
「――その感触を、忘れるな」
.
414
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:18:17 ID:AKaoAE960
血は流れなかった。
彼の主のその胸から流れ出したのは、羽根だった。
純白の鳥の羽根が、止め処もなく溢れ出してきた。
羽根が溢れれば溢れるほど、彼の主はその人としての形を失い、
透過した身体が背後の風景を透かしだした。
その半透明な彼の主の身体のうちに、
彼の手放した短刀が呑み込まれていった。
奥の、一番奥の、まだ内側を見通せないその色のついた部分まで。
彼の主の口が開いた。
そのぽっかりと空いた口腔から、何かがゆっくりと這い出してきた。
それは、葉っぱだった。オリーブの葉。奇妙な波模様の浮かんだ、
見たことのないオリーブの葉。その葉を巻き込んで、彼の主が飛んだ。
虚空の羽根と化した彼の主が、飛んでいった。凪いだ海を、
無数の一で成り立つ一羽の鳥が影を作り、飛んでいった――。
.
415
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:18:47 ID:AKaoAE960
「後悔していない?」
彼と並んだ立つ。
浜辺の際、幽世と現し世の境、この世界の外縁で。
私達の現実がよく見える、この場所で。
「……わからない」
彼は正直だった。その顔には楽観も悲観もない。
ただあるがままを、そこで待つ現実を見つめている。
「そうよね」
私も同じような顔をしているだろうか。
世界に左右されない『私』でいられているだろうか。
そうであったなら、いい。
416
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:19:14 ID:AKaoAE960
「あなたはきっと、忘れてしまう」
前を向いたままの彼にささやく。
私もまた、前だけを見つめながら。
「ここで起きたことも、ここで出会った人のことも、
ここの記憶、そのものも」
きっと彼はもう、忘れ始めている。
モララーのことも、ショボンのことも、
ワタナベや、ハインのことも。
「だからこそ、あなたに覚えていてほしい。
ただひとつ、これだけ、覚えておいてほしい」
彼の主のことも、それに、私のことも。彼は全部、忘れるだろう。全部、全部。
……それで構わない。いまは、それで、構わない。
「『ソウサク』。この言葉を、忘れないで欲しい」
彼がうなづいたのが、わかった。
それだけで十分だった。
417
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:19:46 ID:AKaoAE960
私たちはかつてひとつだった。
それが分かたれた事実は、確かに悲しいことなのかもしれない。
でも、それは悲しいだけじゃない。
『私』がいるから、『あなた』がいる。『あなた』がいるから、『私』がいる。
例えそれこそが争いの直因であろうとも、私は他者を否定しない。
人は孤独な生き物だ。
『私』を恐れて逃げ出しても、『私』はいつもそこに在る。
『私』は私を苛んで、逃げても逃げても追い続ける。
恐れを呑んで向き合い始める、その時まで。
その戦いに、他者が手を出すことはできない。
『私』は『私』にしか見えないから。
418
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:20:34 ID:AKaoAE960
けれど、共有することはできる。
『あなた』と戦う『あなた』と支え合うことはできる。関係し合うことはできる。
『あなた』というその存在が確かに存在すると、信じることができる。
『私』は生きている。
『あなた』も生きている。
だから私は、踏み出せる。
生きるための、その一歩を。
『私』と向き合う、私の一歩を。
だから、だから私は、私は――
.
419
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:21:01 ID:AKaoAE960
外へ――
.
420
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:22:00 ID:AKaoAE960
∞
<やはりここにいたのですね>
……。
<あなたは悩むと、いつもここ>
……親父に言われて来たのか?
<まさか>
……いたんだな、お前も、ここに。
<いましたよ。だから、全部見てました。
あなたの思いも、あなたの葛藤も>
失望しただろう。
<どうしてそう思うのですか?>
……俺はお前が思っているような男じゃない。
俺はただの、臆病者だ。
421
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:22:26 ID:AKaoAE960
<……あなたの心はいまも、罪に囚われているのですね>
……俺の罪。
俺はお前を殺した。父や兄よりも身近にいてくれたお前を。
だが、それは罪の半面に過ぎない。
残された罪の半面にして己が本質をまだ、俺は……
俺は……
<剥き出された私の身の内の肉を“恐ろしい”と思ったこと。
あなたはそれを、いまなお気に病んでいる>
……。
<そうなんですね?>
……そうだ。
422
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:23:02 ID:AKaoAE960
<……ふふ>
……なにを、笑う。
<だってあなたが、あまりに変わらないから>
……。
<ええ。出会った頃から変わらない。
やっぱりあなたは、私が思った通りの人>
……俺は、ただの臆病者だ。
<約束を破ったのはなぜ?>
……。
<私の遺体を、どうして海へ流したのですか。
恐ろしいはずの私の残骸を、お父様やお兄様の
目を盗んでまで流したのは、なぜ?>
423
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:23:37 ID:AKaoAE960
……それは。
<あなたは本当に、やさしい人>
……俺は、やさしくなど。
<行いが証明しています。あなたはやさしい人です。
だから『牧人』になったのでしょう?
光に導かれ泡となることもできたのに。
誰よりもそれを望んでいたというのに>
……現実が数多の生命を蔑ろにする世界である以上、楽園は必要だ。
“迷える仔羊”を導き匿う、安息の地が。その役目を果たし終える、その時まで。
<途方もない歳月になりますよ>
それでも。
<果てはないかもしれませんよ>
それでも。
その時まで、俺は、俺でいる。
魂の救済を告げる鐘が鳴り終え止まる、その時まで。
俺は、俺で在り続ける。
424
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:24:08 ID:AKaoAE960
<……なら>
……。
<……なら、私も、そばにいます>
……。
<……その時が訪れるまで、私もあなたのそばにいます>
……それは、ダメだ。
<聞きません>
……生は、苦痛だ。
<聞きませんよ>
お前に必要なのは安息だ。
俺の生に付き合う必要など、もう、お前には……。
<もう主従もないでしょう?>
……。
<だからこれは、私のわがまま>
……。
<だってここは、楽園だから>
425
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:24:33 ID:AKaoAE960
……勝手にしろ。
<はい、勝手にします。だから、ねえ、――>
……。
<私の名前も、呼んでもらえますか?>
……。
<あの時、みたいに……>
……。――。
<……ふふっ>
426
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:24:58 ID:AKaoAE960
……鐘の音が、響き始めた。
<小さな魂がまたひとつ、母へ……>
歌ってくれるか。あの魂が二度と迷わぬように。
<はい。海のひつじと、“楽園”のために>
……そうだ。
その歌を、俺は待ち続けていた。
長い間、忘れていた。
“俺の楽園”には、お前の歌が必要だと――。
.
427
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:25:55 ID:AKaoAE960
――よ。もはやお前は俺を忘れただろうか。
お前を外へと送り出して本当に良かったのか、俺にはいまもわからない。
力づくでも押し留め、母へと回帰させるべきだったのではないかと
思い悩まぬ日々はない。牧羊者として、最後までお前を導くべきだったのではないかと。
しかし、お前は外へ出た。自らの意志、自らの脚によって。
お前は俺から巣立った。
だから俺は祝福しよう。
母の庇護を越え、ただ己によって生き始めた光輝なる人の姿に。
茨敷かれし苦難の道を歩まんとする、お前の姿に。
人の内にあらんとする神代の姿に。
――よ。世界は変わらない。
いつか俺の到達した結論を、お前が否定する日が来たならば。
お前の世界こそが楽園だと呼べるその時が来たならば。
その時再び、俺たちは見えよう。その時こそ俺は、お前を送り出した己を許そう。
だから――よ。かつて俺のひつじで在ろうとした者よ。
その時が訪れる遥けき彼方まで、俺はここに在る。
ここに在って、導き続ける。
迷える仔羊を。かつてのお前を。
いまも、そう、ここで、見つけたように。
428
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:26:21 ID:AKaoAE960
きみよ、安心しろ。
もう大丈夫だ。
怖いことも、辛いことも、ここにはない。
悲しみも、苦しみも、ここにはない。
お前の居場所は、ここに在る。
お前の安らぎは、ここに在る。
だから、おいで。
ここがお前の、安息だよ。
ここがお前の、楽園だよ――
.
429
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:26:51 ID:AKaoAE960
波の音に、目覚めた。
目を開けると、一面が、砂浜だった。
胸に、触れる。
首から掛かったものを、握りしめる。
そして――そして、泣いた。
声を限りに、泣いた。
赤児のように、泣きじゃくった――
.
430
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:27:15 ID:AKaoAE960
『外章 あなたのひつじ』へつづく
.
431
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:28:03 ID:AKaoAE960
0
父は楽園を求めていた。
私の故郷に伝わる伝承。
海より生まれ出でたものは、その死を境に海へと還る。
すべての生命は、やがて母なる海とひとつになる。
そこには一切の悲も苦もなく、始原の波に揺蕩う安寧に満ちている。
父は母を愛していた。だから、母の死に耐えられなかった。
母を失くした現実を受け入れられず、そして、伝承に頼った。
伝承の楽園を求めて、海へ出た。海の男であった父は自らの船を駆り、
まだ言葉も満足に話せぬ幼い私を連れて故郷を捨てた。
多くの国、多くの街を巡った。扱う言語も、肌の色も違う人々の間を縫い歩いた。
騙され、煙たがれ、時には直接的な危険に晒さることもあったが、楽園は見つからなかった。
父は諦めなかった。諦めず、昼夜を問わず調べ通し、そして、病に倒れた。
432
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:28:35 ID:AKaoAE960
頭の病気だった。まず、よく転ぶようになった。
生傷が絶えなくなり、いくら包帯を巻いても追いつかなかった。
次いで、一人で食事が摂れなくなった。なにを口に入れてもぼろぼろとこぼすようになった。
固いものも柔らかいものもそうだった。のどの奥まで、私が指で押し込んだ。
苦しみえずいた父は、よく私の指を噛んだ。私の手も、傷だらけになった。
病態は日々悪化していった。
末期には下の用も満足に足せなくなり、全部私が面倒を見なければならなくなった。
そして最終的に寝たきりとなった父は、うわごとのように母の名を繰り返していた。
父の口から出て来るのは、母の名だけだった。
私は父が好きだった。
それが例え父という閉じた世界しか知らなかったという理由であったとしても、
理由は感情の妨げにはならない。私は父が好きだった。だからこんな状態でも、
父には生きていてほしかった。父のために、稼がなければならなかった。
私は歌を歌った。故郷の歌。母の歌。母のことは、ほとんど記憶にない。
物心つくよりも前に亡くなってしまったから。
けれど母が、ぐずる自分をあやすために歌ってくれたことは、かすかに覚えている。
母は覚えていなくとも、その音、そのメロディ、その響きは強く心に残っている。
私にとって母とは、歌だった。私は母を歌っていた。
433
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:29:14 ID:AKaoAE960
歌は言語の壁を越えた。言葉は通じなくとも、少なくない人が私の歌に耳を傾け、
足を止め、施しの銭を投げてよこしてくれた。その金でパンを買えた。スープをもらえた。
贅沢とまではいわないまでも、生きていくだけの食事を賄うことはできた。
一人なら。
母の名を呼ぶ父ののどにふやかしたパンを押し込み、スープで流し込んだ。
咳き込んだ父は当然の防御反応として、私の指を強く噛んだ。
指を噛まれた私は止血もしないまま、再び街路へ歌いに走った。
そんな日々を長い間続けたある日、水を飲みに街外れの川まで出歩いた時、気づいた。
水面に映る自分の顔が、自分の知っている顔からかけ離れたものとなっていたことに。
その顔は、まるで死人のような――記憶の深層で蘇る、
海へと流された母のような冷たい色をしていた。
このままだと死ぬ。そう思った。
それでも私は、生活を変えなかった。
他のやり方など知らなかったし、それにやはり、私は父が好きだった。
父のために死んだら、もしかしたら一度くらい、私の名を呼んでくれるかもしれない。
そんな期待も、あったから。
だから私は歌った。痩せてしまったからか声は思うように出せず、
朦朧とした意識では自分が正しい音程を響かせているのかも判別できなかったけれど、
とにかく歌った。歌って、歌って、歌って……そうしたら、声を掛けられた。
434
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:29:42 ID:AKaoAE960
恰幅のいい男性が、何事か話しかけてきた。私には馴染みのない言語。
けれど数ヶ月の滞在によって、なんとか意味を読み取るくらいのことはできた。
男は言っていた。うちで働かないか、と。
こんなところで通行人を相手にせずとも、食うには困らないようにしてやる、と。
降って湧いた幸運に、私は混乱しつつすぐにも飛びつこうとした。
男は私に、もう飢える必要はないと言っていたのだ。それは天の恵みにも等しかった。
けれど私は、素直にうんとは返せなかった。男の言葉に、続きがあったから。
男が、いった。
『お前は孤児か?』
孤児でなかったら、どうだというのか。
孤児でなかったら、連れて行かないというのか。
孤児でなかったら、置き去りにされてしまうのだろうか。
私が、孤児でなかったら。
男は旅の行商人だった。もう間もなくしたらこの街を離れ、
次の街へと向かうらしい。準備はすでに整っている。
だから返事は、この場でもらいたい。そう、いわれた。
435
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:30:12 ID:AKaoAE960
選択しなければならなかった。
父か、自分か。
私は父が好きだった。物静かで、海の男であった父が。
たくましく、母に一途な父のことが私は好きだった。
けれど、父は、一度も私を呼んではくれなかった。
父は、母しか見ていなかった。
私は。
私は――。
.
436
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:31:09 ID:AKaoAE960
この国では、遺体は土葬される。私の介護を失った父は、早晩餓死するだろう。
そして、埋められる。母の送られた海ではなく、冷たく、暗い、土の下へ。
父はもう母とは会えない。あんなにも求め焦がれた母と、
その死後ですら再会すること叶わない。海と大地に分かたれてしまったから。
厚く遠い黄泉の壁によって隔絶されてしまったから。
私が父を、見捨ててしまったから――。
.
437
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:31:49 ID:AKaoAE960
「これが、私の罪……。私が犯した、私の罪です」
話し終えると同時に、船体が大きく傾いだ。
このまま転覆するのではないかと危ぶむも、
瀬戸際のところで船はバランスを取り戻した。
けれどそれも、わずかな延命にすぎない。
強い揺り返しが、身体を揺する。
大きな力に翻弄されて、気分が悪くなる。
雷の凄まじい稲光が、外界から遮断されたはずの船倉にまで届く。
もはや船が船としての機能を失っているのだろう。
彼が言うには、船はその中腹を基点として真っ二つに折れてしまったらしいのだから。
船に乗っていた人も、どれだけ生き残っているのかしれない。
彼も揺れる船内を為す術もなく転がるうち、ここまでたどり着いたそうだから。
彼。名も顔も知らぬ男性。
横転した貨物に隔てられて彼がどのような人物か確かめることはできなかったけれど、
声から察するに私よりずっと年のいった中年男性のように思われた。
その声色には威圧的なところや、不快なものはまったく混じっていない。
……少しだけ、記憶の中の父に似ていた。
438
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:32:21 ID:AKaoAE960
荒れ狂う嵐の下、私達人間風情にできることなど何もなかった。
いずれ訪れる死を待つこと、それ以外には。そしてそれが私の罪に対する罰であるのなら、
甘んじて受け入れなければならない。死を。あの日先延ばしにした、私の死を。
そのことへの躊躇など、いまさら抱こうはずもなかった。
ただ、申し訳なかった。海へ還れてしまうことが。
父があんなにも求めていた海での死を、奪ってしまった私が。
「次はあなたの番。教えてください、あなたが犯した罪を。
あなたが罰せられなければならない、その理由を」
話のバトンを彼へと渡す。私たちにできることは何もなかった。
死を待つこと以外には。だから私たちは残された時間で、この理不尽に訪れる死が、
確かな因果の下に巡ってきた罰であると確認する作業に費やすと決めた。
どちらからともなく……いや、どちらかといえば私が、
そうなるように話を誘導したのかもしれない。私は告解したかったのだろう。
この、少し父に似た声を持つ男性に。父に。顔を合わせぬままに。
「私の罪は……」そう言ったきり、男性は押し黙った。私は待った。
待つ以外のことはできなかったし、言いよどむその気持ちもわかる気がしたから。
だから私は待った。
439
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:33:14 ID:AKaoAE960
……けれど彼からの告白は、いつまで経っても続かなかった。
次第に不安になる。聞こえるのは波が船を叩き、しなりすぎた木板が悲鳴を上げる音ばかり。
まさか、いなくなってしまったのではないか。傾く船の傾斜に流されて。
あるいは、私からは見えない逃げ道を見つけて。
私は彼を呼ぼうとした。その矢先だった。彼
の声が聞こえてきたのは。彼は短く、こういった。
「あった」、と。
積み重なった貨物の壁を越え、何かが飛んできた。
それは私の足元へ、正確に落着する。折りたたまれたそれを、私は広げた。
木綿とコルクで組み合わせれたライフ・ジャケット。救命胴衣。
「これは……」
手に取り、瞬時に思う。絶対ではない。でも、もしかしたら。
あるいはこれを身に着けていれば、助かるかもしれない。
生命をつなぎとめることができるかもしれない。
……けれど、助かったとして私はどこへ?
440
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:33:35 ID:AKaoAE960
それに、疑問もあった。彼は返事をしない間、
おそらくはこれを探していたのだろう。ずいぶんと長い時間を掛けて。
そしてようやく発見した分を私に寄越してくれたのだろうが、
でも、それなら――。
「あなたの分は……」
「『罪なき者こそ恐ろしい。無垢なる彼らは己が正義を疑わぬから。
罪とは外より去来するものではない。熱した金によって刻印されるものでもない。
己が裡より芽生えるものである。罪深き者とは善悪を知る者であり、
最も神に親しい者である』。かつて私が師と仰いだ者の残した言葉です」
彼は私の問に答えなかった。不安が確信に変わる。声が震える。
「ないんですね……?」
「……あなたはやさしい人だ」
441
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:34:03 ID:AKaoAE960
投げ返そうとした。私には権利などなかったから。他者を排して生き残る権利など。
一度きりのその権利は、もう使ってしまっていたから。
だから私は、この与えられたタイトロープを彼の手へ返還しようとした。
けれど、そうはならなかった。一際大きな波が、船を横から持ち上げた。
煽られた船の動きに同調して、船倉内も天地を失う。積荷がでたらめに転がって、
頭や肩に容赦なくぶつかってきた。
気づけば、自分を失っていた。
ばらまかれた積荷に押しつぶされ、酷く不自由な格好を強いられている。
どうやら浸水もしているらしく、脚と腰が冷たかった。
船倉どころか、自分の周囲がどうなっているのかも把握できなかった。
だというのに、私はそれを手放さなかった。彼が寄越した救命胴衣を、胸に抱えていた。
「どうして!」
どこへいるのかも、まだこの船倉内にいるのかも不明な彼に向かって叫ぶ。
いや、彼に向かって叫んだのかも私にはわからなくなっていた。
私を取り巻くすべてに。これまで辿ってきた過去の軌跡に。
あるいは罪人となってまで生き延びてきた自分自身に。生まれたことに。
これらがないまぜになったものへの憤りが噴出した結果としての言葉が、
「どうして」という、疑問の一語であるのかもしれなかった。
442
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:34:33 ID:AKaoAE960
「私はあなたの歌に救われたことがあります」
声が、思いの外近くから聞こえてきた。
「あなたは私を知らないでしょう。けれど私はあなたを知っています。
裸足で街路に立っていたあなたを、私は知っています。
異国の歌を歌っていたあなたの姿を、私は知っています」
ごん、ごんという、何かを叩く音が、近くで聞こえた。
「あなたは私を救ってくれました。悩み苦しんでいた私の心を、
あなたの歌が救ってくれた。けれど当時の私は余裕がなく、
あなたの救いに何も返すことができませんでした。
……ようやく、恩を返せます」
音は外からではなく、内から聞こえていた。
一定の調子で叩かれるその音は、何かを壊そうとしているかのように力強かった。
「あなたの罪。それは他の誰が許そうとも、
あなた自身が背負い続ける宿星なのでしょう。そのことについて、私は何も言えない。
手出しできない。けれど罪を負ったあなただからこそ、
何を伝え、何を残さないか選ぶことができる」
「選ぶ……?」
443
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:34:58 ID:AKaoAE960
リズミカルに叩かれていた音に、異音が交じる。
ぎちぎちと、耳障りな音。木の板が軋む、悲鳴。
「罪を知ったあなただからこそ、何が善きことで、
何が悪しきことかの判断がつくはずです。無論、
一方にとっての善が他方にとっての悪という場合も多々あるでしょう。
善いと信じた行動が、とてつもない被害を及ぼしてしまうこともあるでしょう」
板の軋む音が、いよいよ極限を迎えていた。
さらに傾いていく船の影響を受け、積み重なった荷が揺れ動いて散らばった。
「それでも私たちは、何を伝え、何を残さないか選択し続けるべきだと私は思います。
でなければ、世界は不変のままだから。小さな、けれど重大な一歩の積み重ねが、
世界を善くするものだと私は信じているから。
遠き過去より連綿とつづいてきた無数の選択に、
無駄なものなどなかったと私は信じたいから。
そしていつか。すべての選択が真の実りを迎えたその福音の時こそ、私たちは――」
彼の顔が、一瞬、ほんの一瞬、目に入った。
この世界こそが楽園であったと、気付けるはずだから。
.
444
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:35:26 ID:AKaoAE960
板が、砕けた。同時に、身体が吸い込まれた。
比喩的な意味ではなく、物理的に身体が流れ込んできた水流に呑み込まれていた。
息ができず、目も開けられない状況下で、私は救命胴衣を握りしめていた。
なぜかは自分でもわからない。
彼の話に何かを感じたからかもしれないし、直面した死の暴威に臆したからかもしれない。
もしかしたら、ただの反射だったのかもしれない。理由はわからない。
とにかく私は、救命胴衣を抱きしめたまま、流されて、流されて、
そして、流されていった――。
.
445
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:35:46 ID:AKaoAE960
目を覚ますと、私の上で誰かが泣いていた。
少年。おそらくは、私よりもいくつか年下の。
彼の目から止め処もなく溢れる涙が、私の顔に降り注いでいた。
「なぜ泣いているのですか……?」
言葉を発した私に、少年は驚いた様子で目を見開いた。
その目に魅入られる。少年とは思えぬ深い悲しみに彩られた、その目に。
その目が閉じて、切られた涙がこぼれ、そして、開いた。
「だって、死ぬのは、悲しいじゃないか……」
ああ、そうか。
とても当たり前で、だからこそ忘れてしまった部分を、突かれた気がした。
そして、感じ取った。この少年も、罪を知っているのだと。
死の意味を、理解してしまったのだと。
少年が、ぐいっと目元を拭った。
446
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:36:13 ID:AKaoAE960
「おまえ、名前は」
名前。
久しく呼ばれることもなく、自分でも口にすることのなかった私の名前。
とっくの昔に忘れていた気がしたそれを、けれど私は、覚えていた。
まだ、かろうじて、私は私を覚えていた。
私は彼に伝える。数年ぶりに思い出した、その響きを。
私の響きを受け取った彼は、上向いて、口をもごもごと動かし始めた。
その口が、閉じる。そして、彼の顔が、私の顔に、一層、接近した。
「生きててよかった、トソン……」
言うなり、彼の目から再び涙が溢れ出した。
彼の涙が、再び私の顔を濡らす。でも、今度は、彼だけではなかった。
私も、泣いていた。私の目からも、涙が溢れて、止まらなかった。
447
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:36:33 ID:AKaoAE960
涙を流しながら、私は歌った。故郷の歌。思い出の歌。
何が悪いことで、何が善いことかなんて、私にはわからなかった。
ただ、私は歌が好きだった。
歌うことが好きだった。
母から教わったこの歌を歌うことが好きだった。
だから私は歌った。歌った。私は母を、歌った――。
.
448
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:37:05 ID:AKaoAE960
外章 あなたのひつじ
1
ぼくは農場へ売られた。シナーという男が経営する農場へ。
海を越え、遠く言葉も異なる国――ヴィップで拓かれたその大農場では、
奴隷はただの消耗品として扱われていた。
ただ労働が過酷なだけではない。
ここの農場主シナーは、毎夜奴隷を私室へと連れ込み、
豊富に取り揃えた数々の器具を用いて奴隷に苦痛を与えることを日課としていた。
拷問そのものが目的に行われるその狂事は、
明け方よりも前に終わることは決してなかった。
拷問を受けた奴隷は一睡もすることなく、
抉られ、焼かれ、潰された身体のまま労働に駆り出された。
少しでも身体を休めようとすれば、監督官の鞭が容赦なく唸りを上げた。
449
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:37:36 ID:AKaoAE960
無理をしてでも、働かざるを得なかった。無理をするから、体を壊した。
体を壊しても、休むことは許されなかった。
そうして、少なからぬ奴隷が死んでいった。
ぼくがここへ来た夜に、先輩の奴隷から忠告を受けた。
ここは地獄だぞ、と。その先輩も死んだ。ぼく自身も、何度も死の危機に瀕した。
心身ともに摩耗し、おかしくなりかけたことも一度や二度ではなかった。
それでもぼくは、自分は幸運だと信じていた。
なぜなら、生きているから。
450
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:38:00 ID:AKaoAE960
あの日、あの時。
あの浜辺で目を覚ました後、ぼくは近所に住む老夫婦に保護された。
ハーモニカを抱えて泣きじゃくる得体の知れないこどもであるぼくに、
老夫婦は温かいスープを振る舞い、柔らかなベッドを提供し、
やさしい言葉をかけてくれた。
そしてその上で、街長に通報した。
街長は直接、人身売買を営む街の名士、フォックスに連絡した。
為す術もなく連行され、閉じ込められた。元いた場所、奴隷の檻へと。
フォックスの処断は迅速だった。ぼくは他の奴隷たちの前で、
見せしめとして処刑されることとなった。
しかしぼくは死ななかった。幸運が、ぼくを延命させた。
異国ヴィップで拓かれた大農場の主シナーが、ぼくを引き取ると言い出したのだ。
シナーは商談のためにこの街へ訪れており、
用を終えるとすぐに帰国するつもりだったのだが、
商談相手に誘われ“それとなく”奴隷市場を覗いてみたらしい。
そして、ぼくの何かが彼のお眼鏡に適った。
451
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:38:20 ID:AKaoAE960
フォックスは当初、シナーの提案に渋る様子を見せていた。
市場の長としての面子もあったのだろう。
脱走者の処刑という筋を通すことに、やはり彼はこだわっていた。
しかし最終的には、ぼくの引き渡しを受けた。
裏でどのような取引が行われたのか、それはわからない。
けれどとにかくぼくは、シナーのおかげで生き残ることができた。
シナーが帰国するまでの三日間、ぼくは檻の中で周囲の様子を眺めていた。
何も変わりはないはずだった。ぼくがここを脱走する前と、後で。
なのに、何かが欠落している気がした。何かが足りない。
絶対的にそこに存在していたはずの、何かが。
でも、それが何なのか、ぼくにはどうしてもわからなかった。
その正体を得られぬまま、ぼくはこの街を、この国を出た。
そこにあったはずの何かを、痛切に思いながら。
.
452
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:38:49 ID:AKaoAE960
その日シナーに選ばれたのは、ぼくだった。
いつ終わるとも知れない苦痛の夜が、間断なく襲い掛かってくる。
皮膚の外も、内も、肉の外も、内も、骨の外も、内も、
痛みの下では隔てなく、平等に、蹂躙される弱者であった。
拘束され動くこと叶わぬぼくは、そのままの格好で思う。
このまま気を失うことができれば――いや、このまま死んでしまえれば、
この苦しみから解放される。助かりたい。なくなりたい。死にたい。
何度も、何度もそう思いかけた。
けれどその度に、てのひらが熱くなった。
熱く、何か、忘れてはいけない感触がよみがえってきた。
何かを奪った感触。何かを奪ってまでも、生き延びた感触。罪の実感。
放棄するわけにはいかない。
生命を。
そう、思った。
.
453
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:39:35 ID:AKaoAE960
「お前はなぜ、生きている」
彼方で昇りかける朝日が、窓から差し込んできていた。
今日の拷問を乗り切れたことに安堵する。そこに、声を掛けられた。
はじめは、自分に向かって放たれた言葉だとは思わなかった。
シナーが奴隷に話しかける場面など、一度も見たことはなかったから。
けれどいまこの部屋には、ぼくとシナーしかいなかった。
「なぜだ」
いまやシナーがぼくへ話しかけていることは明らかだった。
シナーの声は案外とやわらかで、ただ、感情に乏しい印象を受けた。
彼は奴隷を拷問している時も、何か機械的に義務を遂行しているような態度で、
楽しいとか、愉快だとかの感情を表に表すことはなかった。
彼が笑っているところを、ぼくは見たことがなかった。
無表情、無感動な彼の顔。その顔に向かって、ぼくは質問の答えを返す。
ぼくの答えは、決まっていた。明確な、ただひとつの答え。
「ハーモニカを、吹くんです」
.
454
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:39:59 ID:AKaoAE960
ぼくの答えをどう受け取ったのか、
シナーはやはり感情を出さぬ表情のまま、部屋から出て行ってしまった。
部屋の中で一人放置される。
身体中が、拷問の傷で痛む。拘束もきつい。
不自由な格好のまま固定されているため、関節が外れそうになっている。
ぼくはシナーの目がないのをいいことに、拘束だけでも緩められないかと身をよじった。
「お前はこの先も、生き続けるんだろうな」
音もなく扉が開き、シナーが姿を現した。
自分の勝手な行動を見られたのではないかと恐怖心に駆られかけたが、
シナーは何も言わなかった。それにぼくも、それどころではなくなった。
シナーの手に握られていたものを見て。
シナーが、ぼくのハーモニカを握っていた。
ここへ来た時に没収された、ぼくのハーモニカを。
455
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:40:26 ID:AKaoAE960
シナーがハーモニカを握ったまま、接近してくる。
感情の読めない目で、ぼくを見下ろしている。しばらく、そのまま動かなかった。
ぼくも、シナーも。シナーの顔は朝日を浴びて、
少し、少しだけ、悲しむような影を作っているようにも見えた。
「うらやましいよ、お前が」
激痛が、脇腹に走った。拷問でつけられた傷口が開いていた。
開いたその傷口に、何かが突き刺さっていた。
傷口に、ハーモニカが突き刺さっていた。
痛みにのたうつ。
ハーモニカは深く差し込まれていたわけではないらしく、すぐに腹から落下した。
それでも痛みは収まらず、ぼくは泡を吹いて拘束された身体を暴れさせた。
身体が、倒れた。思った程きつく締められていなかったのか、
それともこれまで被害を受けてきた奴隷たちの念がそうせたのか、
拘束はあっさりと解けた。拘束が解けてからもすぐには動くことができず、
床に倒れてからも息荒くその場でうずくまっていた。
気づけば、シナーがいなくなっていた。
456
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:40:47 ID:AKaoAE960
そして、銃声が、轟いた。それも一発や二発ではない。
組織的に重ねられた、一斉射撃。なんだ。訝しむ間もなく、さらに銃声。
傷を押さえて這いずり、窓に近づく。朝日とは違う、
もっと赤々と暴力的な明るさが窓ガラスに反射している。
いったい、なんなんだ。身を乗り出し、窓から外を見た。
農場中に、火が放たれていた。
無理やり従わされたとはいえ長年付き合い育ててきた農場の葉々が
ことごとく焼かれていた。焼けた葉から立ち込める臭いと煙で、頭がくらくらとする。
思わずむせて、咳き込んだ。
しかし、悠長に咳き込んでいる余裕などなかった。
風に煽られた炎が意志持つ者のように形を為し、
まだ距離の離れたぼくのほほまで焦がさんとうねり狂っている。
火の燃え広がり方は早く、シナーの屋敷――つまりいまぼくがいる
この場所にまでその手が届くのも、時間の問題だった。
457
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:41:14 ID:AKaoAE960
ハーモニカを持って、駆け出した。むろん、身体は痛む。
まともに走れるような状態ではないから、片足で飛び、転がるような無様な移動になる。
移動する度に身体を壁や柱にぶつけて、その度に激痛でのたうちそうになる。
けれどぼくは歯を食いしばり、とにかく一刻も早く屋敷から抜け出ることに専心した。
生きなければ。その思い、ひとつで。
火あぶりにされる直前に何とか屋敷から転がりでたぼくは、
呆然とした様子でこの状況を眺めている奴隷たちの下へ向かった。
奴隷の一人に肩を借り、ぼくも彼らとともに燃える農場を眺めた。
シナーの農場の、その終焉を、眺めていた。
458
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:41:42 ID:AKaoAE960
「諸君!」
火の勢いが弱まり、残火が炭の内でくすぶり初めていた頃、
その人物はようやく現れた。栗毛の馬にまたがり馬上から
語りかけてきたその人物は、自分を騎兵隊の隊長であると名乗った。
そして奴隷解放令の発令により、諸君らを解放しにやって来たと。
「諸君! 諸君らはすでに自由である!
我らがヴィップの誇る自由と博愛の精神を胸に、
どこへなりとも好きなところへ行くがよかろう!」
それだけ言うと騎兵隊の隊長とやらは馬を走らせ、
瞬く間にその姿を消してしまった。そんなわけで、
ぼくらは自分たちの身に何が起こったのかもよくわからないまま、
とうとつに自由を与えられた。
ぼくがこの国へ送られてから十年の歳月が過ぎた、ある日のことだった。
.
459
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:42:36 ID:AKaoAE960
2
ヴィップの治安は悪化の一途を辿っていた。
解放され、行き場を失った元奴隷たちが徒党を組んで略奪を繰り返しているからだ。
彼らは確かに自由になった。しかし自由で日々の糧を得られる者は、
わずかな数に限られていた。席は、いつでも有限だったから。
彼らの多くは、自由を忌み嫌った。
自ら考えることを放棄し、鉄の鎖とともに与えられるパンを望んだ。
自分たちから奴隷になる権利を奪うなと叫んだ。
が、その願いが聞き届けられることはなかった。
故に、彼らは奪った。
奪うことでしか、生きる術を見いだせなかったから。
ぼくは彼らの仲間にはならなかった。
何とか口にのりをするだけの特技を持っていたから。
ぼくは、ハーモニカを吹いた。
460
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:42:57 ID:AKaoAE960
元奴隷たちの蛮行も相まって、
この国の国民が移民に抱く感情はけして良好なものではなかった。
けれど、それでも、ぼくの演奏に耳を傾けてくれる人はいた。
少なくない人がぼくのハーモニカに聞き入り、賞賛の言葉とともに、
その人にとっても貴重であろう賃金の一部を分けてくれた。
その事実がなんだかとても、胸を締め付けた。
ぼくは毎日ハーモニカを吹いた。吹かない日はなかった。
ハーモニカはぼくにとっての歓びであり、
その演奏を楽しんでくれる人と出会うことは、ぼくにとっての至福だった。
これこそがぼくの長年求めていた生き方そのものだった。
……そのはず、だった。
461
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:43:17 ID:AKaoAE960
何かが、欠けていた。
何か、とても大事な、何か。
けして忘れてはいけないはずだった、何かが。
ぼくは確かに、幸せだ。
この生活に不満はない。
でも、本当にこれで良かったのだろうか。
ぼくは、なぜ、生きている。
ぼくは、なぜ、生きられた。
ぼくは、何に、助けられてきた。
ぼくは、何を、踏み潰してきた。
ぼくは、ぼくは――
幸せのためだけに、生きようとしたのだったろうか?
.
462
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:43:49 ID:AKaoAE960
その日から、図書館に通い始めた。
言語としてのヴィップ語は理解できたが、
文字としてのヴィップ語は知らなかった。
だからまず、読み書きから学んだ。
鍵は言葉だった。ぼくの中で欠けた何か。
その実像はいくら掘り返そうとしても手の中をするりと抜けてしまったけれど、
ただひとつ、強く、強くぼくの核を刺激する言葉を思い出せた。
『ソウサク』
この言葉が何を意味するのか、それはぼくにもわからない。
食物か、人名か、それともスポーツや格闘技に使われる名称なのか。
皆目検討がつかない。けれどこの言葉が、
ぼくの失われた欠片に結びつくピースであることだけは、何故か確信していた。
この言葉が、『ぼく』を『ぼく』へと導く唯一の手がかりだと、ぼくは信じた。
463
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:44:20 ID:AKaoAE960
ハーモニカを吹き、吹いていない時は図書館に通い、
図書館にいない時はハーモニカを吹くという生活を続けた。
そうしているうちに、ヴィップの環境にも変化が訪れていた。
治安は良くなっていた。
特設された移民取締法とその法を執行する官憲の手によって。
徒党を汲んで略奪を働いていた元奴隷たちも鳴りを潜め、
移民による被害件数は激減していた。
もしかしたら居場所をなくした彼らは国境を越え、
周辺諸国へと散らばっていったのかもしれない。
とはいえ、それは一面的な視点に過ぎない。
罪のない移民が捕まる冤罪も多発した。ぼく自身も何度か、
謂れのない罪で検挙されかけたことがある。
ぼくの演奏を熱心に聞いてくれていた人の口添えなどで
何とか無実を証明することはできたものの、疑われるぼくの方が悪いという
態度を取られていたことは明らかだった。
464
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:44:43 ID:AKaoAE960
ヴィップはぼくにとって、あまり居心地の良い国ではなくなっていた。
それでもぼくは、生活を変えなかった。ハーモニカを吹き、図書館に通った。
何日も、何ヶ月も、何年も、そうした。そして、ついに見つけた。
『ソウサク』という言葉の、その意味するものを。
ソウサクとは、ヴイップとは海を隔てた大陸に位置するシタラバ地方の、
その一部を国土とする小国の名称だった。情報によると数十年前までは王
政による統治が成されていたらしいけれど、団結した市民の蹶起によって王政は打倒され、
現在は議会制民主主義を採択しているそうだ。
何かを、思い出しそうだった。けれど、それが何かはやはりわからない。
ただひとつはっきしりしているのは、行けばわかるという揺るぎのない確信が、
ぼくの胸を占拠しているという事実だけだった。
支度に時間は掛からなかった。必要最低限の生活用品とこのハーモニカが、
ぼくの持ち物のすべてだったから。そしてぼくは翌日の朝、
長い間世話になってきたこのヴィップの国に別れを告げ、旅に出た。
ソウサクへの旅に。欠けたものを取り戻しに行く為の旅に。
.
465
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:45:09 ID:AKaoAE960
旅は過酷だったが、つらいばかりではなかった。
旅先では様々な人々と出会った。街とともに生きる人。
人を治める義務を負った人。人というしがらみを恐れ、もがき苦しむ人。
彼らは人の中に在った。人の中に在り、好悪とは関係なく相互に干渉しあっていた。
油断のならない人もいた。騙し、奪い、陥れることを生業とする人々。
しかしそういう人々ですらも――いや、あるいはそういう人々だからこそ、
他者を必要としていた。彼らは生に執着していた。
生きるための手段として、彼らは人に依存していた。
ぼくと同じように旅をする人とも出会った。商機を逃すまいと奔走する商人がいた。
当てのない放浪に身を宿す者もいた。自らを試し鍛えることを旨とする修行者もいた。
彼らもまた、一人ではなかった。旅の間は一人でも、どこかで人と関わった。
生きるためには、人が必要だった。
466
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:45:35 ID:AKaoAE960
ぼくも、そうだった。街から街へ、国から国へと渡り歩くぼくもまた、
多くの人に支えられ、守られ、生かされていた。
ハーモニカを吹くしかできないぼくを生かしてくれたのは、彼らだった。
彼らがいなければ、ぼくはとっくの昔に死んでいた。
だからぼくも、ぼくにできる限りの演奏を返した。
仲間もできた。過酷な旅路を共に切り抜ける仲間が。
彼はぼくよりも幾分か年若い女性的な顔つきをした若者で、
その華奢な見た目とは裏腹に息を呑むような力強い踊りの技を持っていた。
彼が舞うと空気や景色そのものが色めき立ち、まるで太古の、
神話の時代がその場に顕現したかのように世界が変化した。
彼は素晴らしい踊り手だった。その彼がぼくの演奏に合わせて踊る。
これもまたぼくにとって、かつて感じたことのない歓びとなった。
467
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:46:04 ID:AKaoAE960
「姉を探しているんです」
彼は自分の過去について、詳しく話すことを控えている様子だった。
ただ、彼の技が代々受け継がれてきたものであること。
家族で暮らせなくなる事情があったこと。兄から直接踊りを教わったこと。
その兄が、自分のために死んでしまったことは、話してくれた。
そしてまた、生きていればいまもまだ踊っているであろう姉がいることも。
彼にとっての踊りとは、家族へとつながる最後の絆でもあった。
けれど、と、彼はつづける。
例えこの旅の果てに姉がいなくとも、ぼくは踊り続けます、と。
「例え束の間の気休めに過ぎなくとも、ぼくの踊りで救われる人がいたなら……
それはそのまま、ぼくの生きた意味となりますから。遠き過去から
ぼくへと続くその血脈が、無駄ではなかったとの証明になりますから……」
兄もきっと、生きていたらそうしたはずだと思いますから。
最後にそう言いきった彼は、以後、自身の過去について口を開くことはなかった。
468
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:46:28 ID:AKaoAE960
世界には、多くの人が生きていた。
多くの営みがあり、多くの争いがあり、多くの寄り添いがあった。多くの生命があった。
そのすべてに過去が、歴史があった。幸福な歴史ばかりではない。
辛く、悲しい歴史の方が、むしろ多かった。歴史を抱えて生きていた。
ぼくは、どうだ。
彼とは別れた。行き先が違ったから。
欠けたものが見つかるようお互いの幸運を祈り、ぼくらは再びそれぞれの旅路へと着いた。
一人になってからもぼくの生き方は変わらなかった。
ただ、うら寂しい気持ちになることが増えた。人と人との結びつきを見ると、
胸苦しくなることが増えた。起こった変化は、その程度だった。
吹いて、歩いて、歩いて、吹いて。何年も、何年もそうして生きてきた。
そして、今日、この日。ヴィップを出立してから十二年余の歳月が過ぎ去ったこの時。
ぼくはついに、到着した。
ソウサクへ。記憶の欠片の、その国へ。
.
469
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:47:04 ID:AKaoAE960
3
この国の異常な構造には、入ってすぐに気がついた。
この国の人々は、奇妙によそよそしかった。目を合わせようとせず、口数も極端に少ない。
特にある一定以上の年代では、その傾向が顕著に表れていた。
初めはぼくが余所者だからだとも思ったが、実際は違った。
人々は、共に暮らし住まう人々にも同様の視線を向けていた。
人が人を、信用していなかった。ここで何があったのか。
それを知る手がかりも、この街の人々からは教えてもらえなかった。
ただ、ある程度の察しはついた。
かつて栄華を誇ったのであろう貴人の宮殿が、
塊となった怒りをぶつけられたそのままの姿に放置され、廃墟と化していたから。
そんな廃墟がこの街には、この国には、いくつも残されていた。
何かが機能せぬまま、時が止まっていた。
廃墟を巡り、ハーモニカを吹いた。そこで暮らしていた何者かへと送るように。
ただの自己満足だとは思いながらも、そうせずにはいられなかった。
過去の、“踏み潰された者”を思うと。
470
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:47:35 ID:AKaoAE960
「もし、よろしいか」
廃墟の前でハーモニカを吹いていたある日、一人の老人に声を掛けられた。
老人はぼくに忠告をしに来たらしかった。そんなことをしていると、
『王党派』としてあらぬ嫌疑をかけられますぞ、と。
ぼくは老人の心遣いに感謝の意を示しつつ、それでも止めるつもりはないと断言した。
老人がたずねる。何故か、と。
ぼくは答える。その理由を見つけるために、と。
老人はそれ以上、ぼくを止めようとはしてこなかった。
ただ一曲、一曲だけ、私の前で吹いてほしいと頼まれた。断る理由はなかった。
ぼくは老人の厚意に報いるためにも、心を込めた演奏を彼へ、この滅びた廃墟へと送った。
ハーモニカから、口を離す。腰掛け、
目をつむっていた老人が、そのままの格好で手をたたき、口を開いた。
名を、呼ばれた。
老人が背筋を伸ばして立ち上がり、恭しく腰を曲げた。
まるで貴族か何かに向かって礼を示すかのように。
初めて受けるそのような態度にぼくは戸惑うばかりであったが、
老人は気にする様子なくぼくの目を見つめ、
そして、ぼくの名を呼んだその口を再び開いた。
「“お嬢様”がお待ちです――」
.
471
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:48:15 ID:AKaoAE960
“お嬢様”は八年前に亡くなったと、老人
――シラヒーゲと名乗るその老人は、語った。
従者として見守り続けてきた彼女のその生と生の終わりまでを、彼は語り始めた。
彼女――“お嬢様”は、ソウサクを治める王とその第二王妃との間に、
正当な王家の血を受け継ぐ存在として生誕した。
すでに数人の兄弟姉妹がいたため政治的にそこまで
大きな意味を有しているわけではなかったが、
その誕生は真に天下万民に祝福されうるものだった。
本来ならば。
彼女は、生まれながらに不具であった。
脚は右も左も膝ほどまでしかなく、腕も奇妙に萎縮していた。
さらに母の胎から産み落とされた際、彼女は一声も泣かず、すなわち呼吸をしていなかった。
青白い肌がぬらりとした血液にまみれている姿を見たものは、
誰もがこれは死産であると判断した。
なお悪いことに、彼女の母は分娩の痛みによってか、
あるいは死んだ子を産んでしまったことによる心痛によってか、
精神を不安定にさせてしまった。そして彼女の母は壊れた心を癒やす間もなく、
窓から飛び降りて死んだ。彼女が生まれてから、一週間後のことだった。
472
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:48:45 ID:AKaoAE960
生まれたばかりの彼女に、罪などあろうはずもなかった。
しかし王は、彼女を許せなかった。何とか息を吹き返し
そのか弱い心臓を動かし始めた彼女を、王は人里離れた場所で放棄された
うらさびしい塔の最上階へと送り、ベッドを置いたらそれで
一杯になってしまうような広さの部屋に幽閉した。
そして名を与え、しかし、その名を名乗ること、
そして他の誰にも、その名を口にすることを禁じた。
彼女は生まれた瞬間に、その存在をこの世から抹消された。
.
473
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:49:31 ID:AKaoAE960
彼女は父王に幽閉されていたが、
しかし仮に自由の身であっても行動範囲に変化はなかっただろう。
彼女は身体が弱かった。わずかに動いただけで、心臓が悲鳴を上げた。
それだけでなく、ただじっとしているだけでも脂汗を流し、
痛みに耐えていなければならなかった。
欠損は、外側だけではなかった。身体の内側。
臓器のいくつかにも異常が有り、必要なものの多くが欠けていた。
ただ生きることが、彼女には大変な難行だった。
彼女にとっての生とは、そのまま苦痛を意味した。
十まで生きることはないだろう。それが医師の見解だった。
彼女は一日の大半を寝て過ごした。
身体にかかる疲労が、睡眠を要求した。
時には数ヶ月間も覚醒することなく、そのまま死を
迎えるのではないかと危ぶまれる時もあった。それも、一度や二度ではなかった。
だが、眠っていようとも彼女の苦痛が収まることはなかった。
彼女の寝顔は、とても安らかと言えるようなものではなかった。
夢の中でも彼女は苦しんでいた。寝ていようと、起きていようと、
彼女が苦しみから逃れる術はなかった。
ただ待つことしか、彼女にはできなかった。
死を、待つことしか。
474
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:50:04 ID:AKaoAE960
そして、その日が訪れた。いつになく深い昏睡。
苦痛すら感じさせぬ死相を浮かばせて、彼女は深く意識を失った。
遠くない内に彼女は死ぬと、だれもが思った。
シラヒーゲは思った。死を控えたいまくらい、
彼女も父の愛を受けえるべきではないのかと。
その死を見届けてもらう程度の権利は、彼女にもあるのではないかと、そう、思った。
従者の本分を越えた願いであることは間違いなかった。
それでもシラヒーゲは、湧き上がるこの哀れな少女に対する
同情の念を禁じ得ることができなかった。
結論から言えば、シラヒーゲの望みが叶うことはなかった。
王が提言を聞き入れなかったから――ではない。
時代が、その小さな望みを蹂躙したのだ。
王は、すでに死んでいた。ソウサクで起こった市民革命によって。
475
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:50:33 ID:AKaoAE960
ソウサクで起こった市民革命は、他国に比しても過激なものだった。
結託した市民は、王政に与する者に対していかなる暴力も厭わなかった。
王は断頭台にて処刑された。王の血を継ぐ者も、残らず殺された。
ただ、彼女を除いて。幸か不幸かいかなる書からもその存在を抹消されていた彼女は、
生贄を求める革命派の目に留まることなく、その生を永らえることができた。
父王が亡くなったその時も、彼女は眠り続けていた。
彼女は死ななかった。眠りながらも、生きていた。
シラヒーゲは彼女の身柄を預かり、『シラナイワ』という仮の名を与え、
孫という扱いの下で眠る彼女の世話をすることに決めた。
彼女の死、あるいは目覚めのその時まで。
時代は移り変わっていった。
王政打倒の功労者たるメンバーによって組織された臨時政権は、
政治を知らない素人の集団に過ぎなかった。やること成すことが裏目に出た。
周辺諸国との連携も途絶え、国家の血となる金や物資が
心臓部で留まったままになったソウサクでは、国という体制の機能が完全にマヒしていた。
飢えと貧困に苦しむ市民は政府に不満を抱き、
その中には王政時代を懐かしむ者まで現れ始めた。
臨時政権の瓦解は、もはや秒読み段階であった。
しかし、彼らも後には引けなかった。
引けば、今度は自分たちが処刑されるかもしれないからだ。
かつて、王を殺した時のように。
476
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:51:00 ID:AKaoAE960
彼らは打開策を探った。答えは簡単に見つかった。
生き残った貴族を中心として結成され、
現政権に不満を持つ者の支持を急速に集めつつある野党の存在。
彼らは、すべての罪をこの野党に被せた。
野党を王政復古を狙う王党派だと糾弾し、
ソウサクを市民の手から再び奪い去るためにあらゆる手段を使って
現政権の妨害をしているのだと訴えたのだ。
そして市民の中にも、王党派のスパイは紛れ込んでいると。
敵は王党派だ。これが彼らのスローガンとなった。
初めに一人、処刑された。
国会に召喚されたその男は自分が王党派のスパイであると告白し、
自分がどのような工作を働いたか、
市井にどれだけのスパイが紛れ込んでいるかを事細かに語った。
野党は当然その証言を否定した。与党の雇った役者である。
それが野党の言い分だった。だが、その真偽が明かされることはその後もなかった。
スパイと名乗ったその男が、本当に処刑されてしまったから。
男は首と胴が寸断されるその直前、大勢の聴衆の前で最後にこう叫んだ。
約束が違う、と。
477
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:51:22 ID:AKaoAE960
現政権は、密告を奨励した。
どころか告発をしない者には、スパイの嫌疑を掛けた。
スパイと断定された者は、容赦なく処刑された。人々は自分、
あるいは家族を守るために、無実の他者を告発した。
自分たちが生き残るための、生贄のひつじとして。
現政権は、長くは持たなかった。しかしその爪痕は深く、暗く、この国に禍根を残した。
人々の間には疑念と、そして負いきることのできぬ罪の重みが残された。
その痛みはいまもまだ、この国に重い影を落としている。
これらの惨劇を見ずに済んだ彼女は、あるいは幸運だったのかもしれない。
ある日、彼女はとつぜん目を覚ました。彼女が眠りに落ちてからすでに、
三○年近くの月日が過ぎ去った日のことだった。
呼吸もままならず、衰えた筋肉を動かせないため
痛みにあえぐこともできない様子の彼女が、それでも何かを訴えていた。
シラヒーゲはかすかに動く彼女の口元に、耳を近づける。彼女はいっていた。
ほとんど息しか漏れていない声で、それでも力強く、繰り返していた。
ペンと、紙を、と。
478
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:51:48 ID:AKaoAE960
「これが、お嬢様の残したものです」
案内されたその蔵書子には、同じ装丁の書物が幾冊も並んでいた。
数十、いや数百はあるだろうか。しっかりとした革の表紙に製本された書物には、
どれも『シラナイワ』という著者名が記されている。
「何も言わず、ここに置かれた本をすべて読んで頂きたいのです」
静かに扉を閉めたシラヒーゲが、頭を下げた。
「お嬢様からあなた様への、最後の願い故に」
ぼくがうなづき返すその時まで、シラヒーゲは頭を上げなかった。
.
479
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:52:14 ID:AKaoAE960
それは、物語だった。
数多くの物語。
人生の縮図たる物語。
――こどもたちの、物語。
こどもたちは、誰もが現実という名の過酷な運命に晒されていた。
ある者は人質とされた弟を逃がすため望まぬ虐殺に加担させられ、
ある者は父の暴行を避けるため自分を捨てた憎むべき女の真似をし、
ある者は自分を物として扱う養母の愛を求め進んで見世物となった。
誰もが地獄に生きていた。誰もが現実を生きていた。
誰もが生きるために戦っていた。そして、誰もが罪を負っていた。
彼らは大人になれなかった。
その小さな背にかかる重みは、彼らが一人で耐えきれるものではなかった。
生は苦しみだった。もはや忍ぶことはできなかった。彼らは生を諦め、そして、
最果ての楽園――海の消失点へと辿り着き、ついにその自己から解放された。
480
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:52:54 ID:AKaoAE960
これは、悲しみの物語だった。
これは、苦しみの物語だった。
これは、現実の物語だった。
この世界で当たり前に繰り返される、
あえて語られることのない物語――。
でも。
彼らの諦めたその生は、無意味なものだったのだろうか
失われた彼らの歴史は、無価値なものだったのだろうか。
そうは、思えなかった。
彼らは、生きていた。
この世界に、生きていた。
ただ、その事実が。ただ、その事実を。
失くしてしまいたくないと、ぼくは思った。
忘れたくないと、そう、思った。
481
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:53:33 ID:AKaoAE960
千冊にも及ぶ彼女の著作を読み終わった時、
ぼくはさらに二つほど年を取っていた。けれどぼくの中には、
二年という歳月では計り知れないほど膨大で、遠大なものが蓄積されていた。
ぼくの中に、多くの人生が宿っていた。ぼくの背後に、多くの生命が感じられた。
ぼくはもはや、ぼくだけで生きてはいなかった。
「お嬢様の書は、多く批判を持って迎えられました」
彼女の書籍は発行され、ソウサクのみならず言語の通じる
周辺諸国にも流通されていったらしい。しかしシラヒーゲが言うとおり、
市場の反応は芳しくなかったようだ。その理由は、ぼくにもわかった。
彼女の物語は、現実を扱っていた。現実の場所、現実の国、そして現実に生きる人々を。
非道な行いを名も伏せられぬまま書かれた者が存在した。
すでに亡くなった家族の名誉を傷つけられたと憤慨する者もいた。
そして彼らがなにより怒り狂ったのは、これが創作であったから。
記憶にも記録にもない、ただの想像の産物によって陥れられるのは不当だと、彼らは訴えた。
482
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:53:54 ID:AKaoAE960
存在しないこどもたちの物語。しかし物語は虚構を越え、現実に侵食した。
彼らの存在を、現に信ずる者たちが現れた。自身の境涯を義憤にかき混ぜ、
非道を行う者が現れた。痛ましい事件が、何度か起こされた。
彼女への非難は日に日に強まっていった。
いつしか彼女は、一部の者にこう呼ばれるようになっていた。
人心を惑わし、いたずらに社会を混乱させる『魔女』、と。
シラヒーゲにも、彼女の行いが果たして正しいものであるのか否か、判別できなかった。
彼女を訴える者たちの言葉には正当性があった。
彼女の言葉は、現実に根ざした正当性を含んでいるようには見えなかった。
せめて名を伏せてみてはどうか。シラヒーゲは、そう提言した。
物語の大枠は変えず、舞台や人物を架空のものにしてみるのもよいのではないかと話した。
しかし、彼女は首を縦には振らなかった。もはや一語を発することすら
困難なほどに衰弱していた彼女は、筆談で、シラヒーゲにこう告げた。
それでは意味がない、と。
483
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:54:19 ID:AKaoAE960
その文を見せる彼女の手は、震えていた。
その震えを見た時、シラヒーゲは彼女を信じることに決めた。
彼女は、気にしていないわけではなかった。
自分が起こした影響が災禍を呼んでいることを理解した上で、
それでも書くことを望んでいた。最後まで書ききることを。
誰かの何かを、奪おうとも。
そして彼女は、書ききった。
本当に最後の、生命が尽きるその瞬間までをも使い果たして。
「これが、その最後の書になります」
そう言ってシラヒーゲが手渡してきた書は、
他の書籍のように立派な装丁のなされた本ではなかった。
それは、本ですらなかった。それは一冊のノートだった。
変哲のない、どこででも見かけることのできるノート。
どこかで見た覚えのある、ノート。
484
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:54:52 ID:AKaoAE960
ノートを開く。中は、白紙だった。
次のページを開く。そこも白紙だった。
さらにめくる。次を、次の次を。
一枚一枚、時間を掛け、そこにあるはずのものを見る。
ページをめくる音だけが響く。
紙の中に、彼女の痕跡を探す。
そして、ついに、最後のページに到達した。
――文字が、書かれていた。
.
485
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:55:21 ID:AKaoAE960
ツン=デレは、生きた
.
486
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:55:51 ID:AKaoAE960
アイスブルーの、その瞳。
文字が、にじんだ。文字の上に、水滴が落ちた。
ページの余白が、次々と円状の染みを作り始めていた。ぼくは、泣いていた。
涙が止まらなかった。そこに書かれたたった一○文字が、すなわち彼女そのものだった。
ツン=デレこそが、ぼくへと到る鍵だった。
「お嬢様はとある少年と約束を交わされておりました」
シラヒーゲの目が、ぼくの胸を、ぼくのハーモニカを見つめた。
「その少年も、あなたと同じようにハーモニカを嗜んでおられました」
シラヒーゲの目が、ぼくの顔を、ぼくの瞳を見つめた。
「亡命の折に名を変えられたそうですが、当時の彼は、
お嬢様からこう呼ばれておりました。彼は、彼の名は……」
シラヒーゲが、その名を口にした。
ぼくのルーツ足る、その名を。
その人の名を。
487
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:56:34 ID:AKaoAE960
彼。
そして。
ぼく。
彼の名は。
そして。
ぼくの名は。
ぼくらは。
ぼくらは――
.
488
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:57:15 ID:AKaoAE960
4
ぼくらはひつじを飼っている。
罪のひつじを。
贄のひつじを。
屍のひつじを。
一頭、十頭、百頭、千頭――
どれだけいるかは定かじゃない。
けれどいつも、感じてる。
彼らの鼓動に悔悟する。
ぼくは、歩く。
命に焼かれた背中を負って、
一歩一歩と、歩いてく。
歩いて歩いて、歩いて歩く。
海知る丘の、その先へ。
彼女が焦がれた、その場所へ。
数多の変遷、思いつつ。
遥けき軌跡を、描きつつ――
489
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:57:55 ID:AKaoAE960
過去を。罪を。生命を。
圧し掛かる重みを捨て去ることができれば、どんなに楽だろう。
吐く息ひとつが重い。まぶたを開くことすら重い。
知らなけれ、感じなければ、捨て去ってさえしまえれば。
こんな想いを抱かずに済むのだろう。
すべてを忘れてしまえば。
それでもぼくは、忘れられない。
忘れたくない。
.
490
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:58:18 ID:AKaoAE960
父を、母を、しぃを。
モララーを、ショボンを。
アニジャを、オトジャを。
ワタナベを、ミセリを、ヒッキーを。
小旦那様――ドクオを。
彼女――ツン=デレを。
自分を。
ぼくは、忘れない。
ぼくは、ぼくは――
.
491
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:58:40 ID:AKaoAE960
( ^ω^)「海のひつじを、忘れない」
.
492
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:59:27 ID:AKaoAE960
彼女の墓は、丘の上に建てられていた。
かつて彼女が閉じ込められていた塔の跡地。
海を見渡せる、その丘に。
その丘で、ぼくは、ハーモニカを吹く。
この世界に生まれ、そして去っていった、
すべてのひつじ<あなた>のために。
この世界に生まれ、そしていずれ去っていく、
すべてのひつじ飼い<あなた>のために。
ぼくは、吹き続けた。
この音色が、<あなた>まで届くように――
.
493
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:59:54 ID:AKaoAE960
.
494
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 19:00:20 ID:AKaoAE960
ねえ、約束してくれる?
.
495
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 19:01:19 ID:AKaoAE960
いつかもし、私が大人になれたなら。
ねえ、もう一度。もう一度だけ。
あなた<ブーン>のハーモニカを
私<ツン=デレ>に聴かせてください――
.
496
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 19:01:59 ID:AKaoAE960
海のひつじを忘れないようです ―― 完 ――
.
497
:
◆JrLrwtG8mk
:2017/08/22(火) 19:03:10 ID:AKaoAE960
以上で完結です。ここまでお読み下さり、真にありがとうございました
498
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 20:38:43 ID:Iy27fOgQ0
おつ
息が止まる位、のめり込んで読んだわ
499
:
名無しさん
:2017/08/23(水) 00:07:13 ID:dSWWk4jQ0
AAが無かったのは色々伏線があったんだな…… 独特の世界観が良かった 乙です
500
:
名無しさん
:2017/08/23(水) 19:08:36 ID:atWpKGuE0
乙
>>325
あたりと
>>355
照らし合わせたらわからなくなってきたんだが、ギコ=ブーンって訳ではないのか?
501
:
◆TflJu3mvXc
:2017/08/27(日) 00:44:42 ID:Y3bx3Les0
【業務連絡】
主催より業務連絡です。
只今をもって、こちらの作品の投下を締め切ります。
このレス以降に続きを書いた場合
◆投票開始前の場合:遅刻作品扱い(全票が半分)
◆投票期間中の場合:失格(全票が0点)
となるのでご注意ください。
(投票期間後に続きを投下するのは、問題ありません)
詳細は、こちら
【
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/21864/1500044449/257
】
【
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/21864/1500044449/295
】
502
:
名無しさん
:2017/08/30(水) 19:21:30 ID:pITprL5g0
やっと読み終えた……でも読み切って良かった
ツンの生き様が本当に好き。乙
503
:
名無しさん
:2017/09/01(金) 20:53:08 ID:8ECJZC860
乙です
ぜんぶ読み終えた後、涙があふれて止まらなかった
キャラの現実の時代背景が少しずつつながっているんだね、考察したらとんでもない事になりそう
504
:
名無しさん
:2017/09/05(火) 05:33:49 ID:rcRb8/mw0
車椅子=ツン、ギコ=ブーンだと思いつつうそーんと思ったりする
が引き込まれる話だった
505
:
名無しさん
:2017/09/05(火) 05:35:19 ID:rcRb8/mw0
なぜならギコの父と車椅子に関わりがあったっぽいけど塔に幽閉されてるなら関わりがあるとは思えない的なあれだが
506
:
名無しさん
:2017/09/18(月) 01:39:26 ID:acSFundo0
今読み終わった
涙が止まらん
507
:
名無しさん
:2017/10/05(木) 00:15:03 ID:WMkCbb1I0
理解できないところも多かったけど面白かった
登場人物の相関図作りたくなるなこれ
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