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私共の拝むj御形木御本尊に関する話題

1沖浦克治:2010/10/05(火) 06:24:37 ID:AJ3hr85o0
 くれぐれも不敬にならないよう、表現には注意をお願いいたします。

2沖浦克治:2010/10/05(火) 06:25:15 ID:AJ3hr85o0
 移動です
457 :槃特:2010/10/04(月) 22:00:04 ID:v8OFm2r20
さきほど、奥さんと少し諍いをしました。

私は帰宅が八時ちょっと前だったため、協議会に参加出来なかったのですが、協議会終了後に
支部長さんがわざわざ来られました。

なんでも、特別御形木御本尊様を支部で二帯下付することになったので、槃特さんに一帯申請して
おきました。

そういうお話でした。

私は、申し訳ないとは思いましたが、即座にお断りさせていただきました。
十八歳で実家を出る時に頂いた達師の御本尊様です。
自分なりの思い入れがあります。

協議会に参加していた奥さんにもその話があったそうで、奥さんは創立80周年の佳節に
特別御形木御本尊様を頂けるのは、すばらしいことじゃない、なんで簡単に断るのか。

そう言うのです。

私は、今は亡くなられた住職が「一生保ち続ける御本尊様ですよ」と言われて下付されたこと、
山奥の飯場で、何の希望も見出せなかった時に噛み付かんばかりの勢いでお題目をあげた
御本尊様だという、以前ここでも書き込ませていただいたことを奥さんに話しました。

だから、愛着があると。

まあ、最後には奥さんも納得してくれましたが、それにしても即座に断ることないんじゃない
もっと二人で話し合ってから決めてもねえと言いました。
協議会で婦人部の幹部の方から「槃特さんの奥さん、特別御形木御本尊様下付、すばらしいじゃない」
とか言われたんですかね。

この掲示板でも、どの御本尊様でも力は同じと皆さんおっしゃってますし、私も同感なんですが、
三十年以上御安置申し上げた御本尊様を交換するのは、いささかためらいがあります。

特別御形木御本尊様、

特別なんだから頂いたら良いのに、という奥さんの気持ち判らなくはないですが。

3沖浦克治:2010/10/05(火) 06:25:46 ID:AJ3hr85o0
459 :沖浦克治:2010/10/04(月) 22:12:04 ID:AJ3hr85o0
 槃特 さん、今晩は

 私もお断りするでしょうね。
 これまでなら。
 父から譲り受けた達師の特別御形木本尊は、取り替える気にならないでしょう。
 ですが、今月12日、耕治に譲ります。
 ですので、今ならお受けいたしますでしょう。

 ただ、全会員に最初から特別御形木本尊を下付する事が筋だと思います。
 御本尊で会員を差別する事は感心致しません。

 でも、微妙な判断ですよね。

4沖浦克治:2010/10/05(火) 06:26:23 ID:AJ3hr85o0
465 :槃特:2010/10/04(月) 22:56:10 ID:v8OFm2r20
沖浦さん こんばんは。

確かに微妙な問題ですね。

支部に二帯という意味も判りかねますし、なんで私なのという思いもありますし、
私の了承もないままに申請するというのもイマイチ判りません。

特別下付なので、今までお断りした方がいらっしゃらないという事ならば
私の考えは間違っているのだろうかとも思ったりします。

でも、私は自分の判断に従います。

それと、個人的に達師の御本尊様が一番バランスが取れている(こういう表現は不遜に当たるかな)と
思ってるんです。

あくまで個人的な思いですけど。

5沖浦克治:2010/10/05(火) 06:26:57 ID:AJ3hr85o0


469 :槃特:2010/10/04(月) 23:20:02 ID:v8OFm2r20
沖浦さん こんばんは。

まったくもって無学な私がお聞きするのも何なんですが、
なぜ歴代の法主たちは、戒壇本尊を書写されないのでしょうか?

戒壇本尊を書写してはならないとか、取り決めでもあるのですか?


470 :沖浦克治:2010/10/05(火) 05:51:45 ID:AJ3hr85o0
 槃特 さん、おはようございます

 歴代法主の書写全てを知りません。 
 ですが、私共が拝む寛師書写の御本尊は、戒壇本尊と異なります。
 比較すれば直ぐわかりますよ。

 すると、戒壇本尊以外に、何処かに基準があって法主は書写している事になりますが、私にはその基準がわかりません。

6沖浦克治:2010/10/05(火) 06:47:20 ID:AJ3hr85o0
 戒壇本尊唯一論は、まだ創価学会員に名残があります

 ですが、新しい世代はそう言う価値観をもっていません。
 年寄りの価値観ですし、消滅するでしょう。
 既に戒壇本尊は、日蓮正宗という宗派の専属となりました。
 私共創価学会とは全く無関係です。
 これまで、私共が日蓮正宗時代、私共の拝む御形木御本尊が、戒壇本尊の書写だと教えられ、疑うことなく信じて来ました。
 然しながら、めでたく独立を果たした現在、戒壇本尊唯一論にこだわる必然性がなくなったのです。

 これは、創価学会の教学部の見解の変化に明らかです。

斉藤教学部長
「創価学会会則」の改正について (2002年3月30日の聖教新聞)
 〜略〜

次に「一閻浮提給与・三大秘法の大御本尊を信受し」とあります。
これは、創価学会に貫かれてきた「大御本尊への信心」の本義を示したものです。

大聖人は、熱原の法難において民衆が不惜身命の信心を現したのに呼応して、弘安2年10 月12日に出世の本懐として大御本尊を顕されました。
 〜引用終わり〜

 18年かけて、今回の大白蓮華では、戒壇本尊を出世の本懐から外し、熱原農民の不退転への成長を本懐と位置づけています。
 大白蓮華の10月号、71P、熱原の法難と出世の本懐。で明らかです。

 後18年したら、おじいさんの若いころはね、大石寺と言う寺の戒壇本尊拝んでいたんだよ。

 ウッソ〜〜〜〜〜!
 アリエナイ〜〜〜〜!!

 こうなってますよ。

7沖浦克治:2010/10/05(火) 06:49:06 ID:AJ3hr85o0
 槃特 さん

 少し考えるとわかりかすが、寛師は戒壇本尊唯一論ではありません。
 本懐中の本懐で、究竟中の究竟だと書き残しています。
 ですので、彼は唯一で無く、随一だと言ったのです。
 その後宗門には見るべき法主は出ていません。

 日露戦争でついでにヨーロッパまで攻め込んで、ドサクサ紛れで広宣流布が出来る。
  
 大石日応の言葉です。
 このレベルが法主になれる宗派です。
 見るべき人はいません。
 すると、一体誰が戒壇本尊随一論を唱え広めたのか?
 当然の疑問です。

8:2010/10/05(火) 07:15:04 ID:eLF39l7A0
おはようございます。



>特別御形木御本尊様、

>特別なんだから頂いたら良いのに、という奥さんの気持ち判らなくはないですが。


特別ですか?  何が 特別なんでしょう?

本尊に特別なんて 設けていたら 可笑しいですね。


己心の妙法を書き顕したものが 曼荼羅ですよ。


本尊の考えかたを、今一度 考えてみてください。

9:2010/10/05(火) 07:23:29 ID:eLF39l7A0
己心の妙法を 本尊としなければ いけないのでは?

10:2010/10/05(火) 07:37:22 ID:eLF39l7A0
紙の曼荼羅本尊を 特別御形木御本尊にかえたら、

以前の普通の曼荼羅本尊は、どうするんでしょうね。


おそらく 廃棄 してしまうんでしょう。


それは、不敬には、ならないのか。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」

11タンポポ ◆HhiWFGTqB.:2010/10/05(火) 12:12:09 ID:WwDrUF2wO
此方も今日は。私の拙い、想像の域で失礼しますが、今、21世紀だから、Iパットみたいなモノに書写されたような、ご本尊さまを拝する時が近い未来にありそう!

私は、今、まだ東を向いて一生懸命お題目ひたすらお唱えさして頂いてるが、もう現代は、21世紀で、世界中に創価の考え方が広まりつつある今の時代、新しい近い将来には、ハイテク技術により、Iパット等への書写の、ご本尊さまを、拝する時がありそうですね。

12大勝利:2010/10/05(火) 12:50:54 ID:FfgO/4W.0
>>2 槃特さん

私どもの地域で今は特別とは呼ばないです。
特装を使います。
信心のしっかりした地区拠点のお宅へとのことだろうと思いますので、
お集まりになる方々への配慮もひとつの視点かと思います。(余計なことですが…)

13:2010/10/05(火) 12:52:59 ID:eLF39l7A0
たんぽぽさん

こんにちわ

> 新しい近い将来には、ハイテク技術により、
>Iパット等への書写の、ご本尊さまを、拝する時がありそうですね。


曼荼羅本尊は、 紙でも 板でも Iパット でも pc でも いいんですよ。



大事なのは、その曼荼羅本尊に書かれている 森羅三千が

たんぽぽさん の 己心の一念 なんだと 言う事を信じる事なんです。

紙の曼荼羅本尊も Iパットの曼荼羅本尊も

たんぽぽさん の 己心の一念 すなわち 森羅三千なんです。



「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」


たんぽぽさんの 胸中の肉団に 本当の御本尊が おはすか? なのです。


「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」

たんぽぽさんの 一念が 南無妙法蓮華経なんです。

本尊とするのは、

たんぽぽさんが
お題目をあげて、たんぽぽさんが、南無妙法蓮華経 なんだと 信じている。
たんぽぽ さん自身が 本尊なんですよ。


曼荼羅本尊は、たんぽぽさんの姿をあらわして、いるんです。

「第廿五 建立御本尊等の事
 御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、
戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、
日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。」


「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」

たんぽぽさん が 法華経の行者 ならば 本尊だと 書かれています。


「        寿量品廿七箇の大事
第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事 文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、寿量とは詮量なり、十方三世二仏三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと。
 御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。」



たんぽぽさんは、 お題目を唱えて 大聖人の弟子、旦那 なんですから

一切衆生であり、 如来であり、 無作の三身であり 
法華経の行者 なんです。

法華経の行者の事を 本尊と言われています。

たんぽぽさん あなた 本尊ですよね。

14タンポポ ◆HhiWFGTqB.:2010/10/05(火) 13:56:49 ID:WwDrUF2wO
>>13←あさん。お初今日は。になるかな?はい!素直にそのように信じて明るく楽しく、命に、生かして本としてお題目をして参ります!
どんなに書写の仕方がかわっても、なんにしても命に刻む気持ちで、南無妙法蓮華経と信じる心が大切ですね。

あさん。解説分かりやすく、ありがとうございました。m(__)m。

15槃特:2010/10/05(火) 22:48:02 ID:d1ZP06zQ0

脈絡もなく話を始めますが、私はマイカー通勤をしています。
会社までは片道約40分の距離です。

訳ありまして(皆知ってるちゅうの)境涯革命すべく真剣に唱題しております。
朝、御本尊様の前に座り唱題、通勤中もずっと唱題しています。

さらに、仕事中車で移動する時間が、日によって違うのですがだいたい3、4時間ありまして
ほとんど、唱題しています。

そこで、素朴な疑問なんですが、御本尊様の前に座って行う唱題と、車での唱題(声仏事を為すを信じて
声が枯れるほど大きな声で唱えます)は、功力に差が出るのでしょうか?

私は、功力の差などないと思っているのですが。

16:2010/10/05(火) 22:55:15 ID:tiCBMh7g0
>>15

こんばんわ 槃特さん

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は化城即宝処なり我等が居住の山谷曠野皆皆常寂光の宝処なり云云」

17槃特:2010/10/05(火) 23:00:36 ID:d1ZP06zQ0
大勝利さん こんばんは。

特別でも、特装でもどちらでもいいんですが、一般の(変な言い方だな)御本尊様と
違う御本尊様ですね。
サイズが一回り大きいのと表装も違うのでしょうね。

なぜ、このような御本尊様を下付するのでしょうね。
いまいち判りません。

誤解しないで頂きたいのですが、下付することを批判している訳じゃ決してありませんよ。

どんな御本尊様だろうと、功力は私たちの信心でしか決まらないと思っています。

18:2010/10/05(火) 23:02:27 ID:tiCBMh7g0
>>15


第廿五 建立御本尊等の事
 御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。



「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云」

19槃特:2010/10/05(火) 23:03:24 ID:d1ZP06zQ0
あ さん こんばんは。

出来れば、無学な槃特のために通解をお願いできないでしょうか?

甘ったれるな、自分で学べ。と叱責されそうですね。

20:2010/10/05(火) 23:22:31 ID:tiCBMh7g0
はんどくさん

通解が、できるほど、教学のレベルでは、ないので、
通解は、よろしく お願いします。


槃特さん = 本尊 = 題目 = 戒壇 = 南無妙法蓮華経 = 如来 =

= 地涌の菩薩 = 法華経の行者 = 森羅三千


全部 = 「イコール」 同じものを 指し示しているんです。

同じだと、思えば わかりますよ。


そこが、信じる事ができれば、後は、語句がわかれば、はんどくさんの
事を、御文が言っている事が、わかります。


「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」

このまんまです。

21求道の人:2010/10/05(火) 23:24:45 ID:wipuhny60

あさん、横レスにて失礼します。

ご提示の日女御前御返事は真偽未決で、本覚思想が色濃く極めて偽書の可能性が高いと思います。

観心本尊抄には「十界互具之れを立つるは、石中の火木中の花。信じ難けれども縁に値ひて出生すれば之れを信ず。人界所具の仏界は水中の火、火中の水。最も甚だ信じ難し。」とあります。

十界互具という教理は信じがたいけれども、石を打ったときに火が出たり、枯れた木からも春が来れば花が咲いたりするように、見た目ではわからないようでも内に秘められている事がわかります。
しかし自分自身の中に仏があるということは、水の中に火があることなど信じられないように、また火の中に水がある事が信じられないように、最も甚だ信じる事が難しいと仰せです。

それほどに自分の中に仏がある、自分の中に御本尊がある、ということは正法・像法の時代の衆生と異なり、末法の衆生には信じる事が困難なのだと大聖人は認識していたと思います。

だからこそ自分の外に御本尊をつくったのだと拝します。

22:2010/10/05(火) 23:44:43 ID:tiCBMh7g0
求道の人さん

阿仏房の御書に

「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ」

宝塔を書きあらわしたのが、曼荼羅本尊ですよね。

また、

「然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり」

上記の御文は、阿仏房が、宝塔すなわち、本尊であると、言われています。

これ以上の才覚がいらないとすれば、 

阿仏房自身に、本尊の自覚を、促しているとしか、考えられないのです。



同じ内容で、

「「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」」

も 同じように、考えてみてください。

本覚思想の事は、わかりません。

ただ、日女御前御返事 及び 御義口伝 などの、破折を していただきたいのです。

仏法上 内容が矛盾していれば、それは、間違いであります。

私は、少なくても、ここで挙げた、部分は、真実と信じています。

どちらかと言うと、真偽 よりも 内容の矛盾のほうが、大事だと
思うので、よろしく お願いします。

23:2010/10/05(火) 23:48:54 ID:tiCBMh7g0
求道さん

>それほどに自分の中に仏がある、自分の中に御本尊がある、ということは正法・像法の時代の衆生と異なり、
末法の衆生には信じる事が困難なのだと大聖人は認識していたと思います。


わたしは、信じられるんですよ。なぜか。
自分が本尊なんだと。
ちょっと 危ない人に 見えるでしょうが。

自分が 森羅三千なんだと。

悩む本尊ですがね。

24求道の人:2010/10/06(水) 00:05:28 ID:wipuhny60

あさん、阿仏房御書も真偽未決書ですね。

あさんのお考えは、偽書・真偽未決書でしか裏づけされないのです。
戦前・戦後までの昔の日蓮宗があさんのような考え方です。
自身の考えが大聖人の教えに照らして正しいかどうかを論じる時、御書の内容云々ではなく、その御書が偽書であるかどうかが肝心だと思います。
私は偽書・真偽未決書は用いません。偽書・真偽未決書を離れられないのは、自説が大聖人の教えに優先しているからです。
大聖人の教えが根本ならば、確実な大聖人の御書をもって自説を証明できるはずです。


>>23
今はそう思うかもしれませんが、いざというとき信じられないと思います。
もし信じられるとすれば、それは大聖人の教えが間違っているということになります。

25:2010/10/06(水) 00:06:40 ID:tiCBMh7g0
求道さん

>だからこそ自分の外に御本尊をつくったのだと拝します。


紙の曼荼羅本尊は、 私たち凡夫に 紙の曼荼羅本尊に書かれている
状態が、 凡夫の姿なんだよと、 示すためなのだと 思います。
紙の曼荼羅本尊の示したものは、森羅三千なんだと。


曼荼羅本尊の顕しているもの



「一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心法界に
x満するを指して万法とは云うなり」

仏とは、 森羅三千を まるまる全部の事を言うのだと思います。

26求道の人:2010/10/06(水) 00:18:05 ID:wipuhny60

>>25

そのような考え方を本覚思想といいます。
大聖人滅後の天台宗に盛んになった思想です。

偽書・真偽未決書にのみ見える思想で、ご真筆が現存するような確実な大聖人の御書には無い思想です。

27:2010/10/06(水) 00:21:42 ID:tiCBMh7g0
>あさんのお考えは、偽書・真偽未決書でしか裏づけされないのです。

求道さんからみれば、そうなりますね。


>今はそう思うかもしれませんが、いざというとき信じられないと思います。
もし信じられるとすれば、
それは大聖人の教えが間違っているということになります。


求道さん 全ての文献の真偽が、決まらない限り、
「もし信じられるとすれば、
それは大聖人の教えが間違っているということになります。」
には、ならないでしょう。


調べて、真偽の 確認をするまでは、 なが〜い 時間が かかってしまい
死んで 終わって しまいます。
すべての真偽は、解らないでしょう。

それならば、書かれているように、できるだけ、実践をしてみるのも
いいのでは、と 思います。

28求道の人:2010/10/06(水) 00:26:22 ID:wipuhny60

一生成仏抄も真偽未決書ですね。ご真筆も上代の写本も無いです。

「一心法界」という成句は、御義口伝、読誦法華用心抄、法華本門宗血脈相承事と偽書にしか使用されていない成句です。

大聖人の教えを根本とするなら、数あるご真筆現存の御書、直弟子写本等の上代の古写本が残る御書を用いるべきだと思います。

偽書・真偽未決書を用いているようでは、大聖人の教えとはいえないと思います。

29:2010/10/06(水) 00:29:34 ID:tiCBMh7g0
求道さん

>私は偽書・真偽未決書は用いません。
偽書・真偽未決書を離れられないのは、
自説が大聖人の教えに優先しているからです。
大聖人の教えが根本ならば、
確実な大聖人の御書をもって自説を証明できるはずです。



求道さんは、何を証明するのでしょうか?

真の御文をもって、何を求めているのでしょうか?
また、
真の御文をもって、どのように、日蓮仏法を具体的に実践をしているのですか?

よろしく お聞かせください。

いいものならば、真似る事も必要かと思います。
あくまでも、私の基準なのですが。

30求道の人:2010/10/06(水) 00:35:33 ID:wipuhny60

>>29

偽書もご真筆もごちゃ混ぜにして教化された、創価教学の悪癖を取り除き、ご真筆現存の御書を根本に日蓮大聖人の真の教えに近づきたいと思います。

今はただそれだけです。

31:2010/10/06(水) 00:40:44 ID:tiCBMh7g0
求道さん

//////////////////////////////////
>>25

そのような考え方を本覚思想といいます。
大聖人滅後の天台宗に盛んになった思想です。
//////////////////////////////////////////


本覚思想に、 共感するところが あるみたいです。

この 本覚思想の 間違いを、指摘願います。

内容を指摘されなければ、意味がないように、思います。

わたしは、
一生成仏抄に 「うん うん」とうなずいて しまうのです。

32高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/10/06(水) 00:46:06 ID:JThdDrQw0
みなさん、こんばんは!

槃特さんへ

 大聖人の仏法も創価学会も本因妙の教えです。
 槃特さんは、特別御形木御本尊様を下付されるには、自分の今の境涯では、申し訳ないと思っていませんか。
 それでは、本果妙だと思います。 過去の行為に対する賞与とは違いますよ。
 そのように、受け取ったら増上慢ではないでしょうか。
 
 現在の御形木御本尊様と、特別御形木御本尊様の功徳は、一緒だと思います。
 だから受けたとしても、自分の信心の決意がなければ、意味がないでしょう。

 現在の御本尊様に、槃特さんの思い入れが有ることは、充分理解できます。
 しかし、会社の事、地区の事などは、今まで自分の事が主体だったのでは、ありませんか。

 これからは、もっと広く会社全体の事、地区全体の事を、考える必要が有ると云うことでは、ないでしょうか。

 もし、創価学会、御本尊様に感謝の念があるのなら、しっかりと御本尊様へ感謝のお題目をあげて、
 これからは、人間主義の旗を振り、社会へ少しでも貢献して行くとの信心の決意を持って、特別御形木御本尊様を
 お受けするべきだと、私は考えます。

 教学も信心を深めて確信を強くする為に学ぶものだと思います。
 素直な気持ちで、全て本因妙として捉えれば、解る事も多いと思いますが・・・。

33求道の人:2010/10/06(水) 00:48:13 ID:wipuhny60

あさん、内容云々ではなく、大聖人の教えではないということです。

大聖人の教えでなくとも「うん うん」と思うことはあるでしょう。

私はあさんの考えが間違っているとか本覚思想が間違っているとかではなく、大聖人の教えではないと申し上げているつもりです。

そして大聖人の教えでないものがいくら広まっても、それは広宣流布とはいえないと思います。

あさんは、日蓮大聖人の教えを実践されますか?
それとも本覚思想を実践されますか?
大聖人の教えに本覚思想を混ぜれば、それはもう大聖人の教えではありません。

34:2010/10/06(水) 00:51:43 ID:tiCBMh7g0
求道さん

>偽書もご真筆もごちゃ混ぜにして教化された、創価教学の悪癖を取り除き、
ご真筆現存の御書を根本に日蓮大聖人の真の教えに近づきたいと思います。
今はただそれだけです。


取り除くだけで、人生終わっちゃいますよ。多分
どこかで、解っている部分で、実践をして

何を求め
どのように、実践をするかを
確立される事が出来る事を 願います。


わたしは、御義口伝等に書かれている事を信じて、行くつもりです。
あなたにとって、偽書なんですが
私にとっては、真書の内容なんですよね。

このへんは、 お莫迦が、のたまっていると、思って 見てください。

引用する 御文に矛盾がありましたら、そのときは、
どう矛盾なのかを、教えてください。

35求道の人:2010/10/06(水) 01:00:47 ID:wipuhny60

あさん、私にとってとか貴方にとってではなく、学術的に偽書は偽書で一寸勉強すれば直ぐわかります。

学会教学部を指導している、東哲研の研究者も本当はわかっていますよ。学術の場では「日蓮」と呼び捨て、日蓮の思想を批判もしています。一般の学会員には知らされないだけです。

東哲研の小林さんも立正の中尾先生の講義に来ています。
いわば日蓮宗の僧侶に教えてもらっているのが現実です。

御書の真偽判はほぼ答えが出ており、学ぼうと思えば誰でも学べます。

36:2010/10/06(水) 01:01:23 ID:tiCBMh7g0
求道さん

>そして大聖人の教えでないものがいくら広まっても、それは広宣流布とはいえないと思います。
あさんは、日蓮大聖人の教えを実践されますか?
それとも本覚思想を実践されますか?
大聖人の教えに本覚思想を混ぜれば、
それはもう大聖人の教えではありません。


求道さん 

大聖人の教えに本覚思想を混ぜても、矛盾がなければ いいのでは
ないでしょうか?
たしたり、 引いたりして、 完成させて いくのも 悪くは、ないと思います。


たしか、土地土地にあわせて、教えを 広める と 言う話を
聞いた事が あります。

たしたり、引いたり の 原理が使えると思います。


御文が使えないと、やりずらいですね。
わたしの使う御文は、求道さんから見ると、偽書になってしまうので!!

あはっは。

37求道の人:2010/10/06(水) 01:06:41 ID:wipuhny60

あさん、大聖人の教えに本覚思想を混ぜたら、大聖人の教えではなくなってしまいます。

大聖人には本覚思想は無かったのです。無いところに混ぜたらもとの教えとは異なる教えになります。

お気持ちはわかりますが、ここは冷静に見つめるべきだと思います。

①大聖人の教えを求めるのか、②大聖人の教えも混ぜ合わせながら自分の思想を完成させるのか、この両者は全く異なります。

あさんのお考えでは②になってしまうと思います。
完成されるのは自分の思想であって、大聖人の教えではありません。

遅くなりましたので、今日はこれで失礼します。

38:2010/10/06(水) 01:16:26 ID:tiCBMh7g0
>学会教学部を指導している、東哲研の研究者も本当はわかっていますよ。
学術の場では「日蓮」と呼び捨て、日蓮の思想を批判もしています。
一般の学会員には知らされないだけです。
東哲研の小林さんも立正の中尾先生の講義に来ています。
いわば日蓮宗の僧侶に教えてもらっているのが現実です


それだけ、学者さんがわかって いるのなら、
その、解っているところから、
●どのような、実践が出来。
●何を 求める事が出来るのかが、わかると 思います。


なにが、大事なのか? 真偽がわかっても しょうがないのでは、

大事なのは、
● なんですよ。 学問で ●のところが、解るならば
その 学問を 採用すべきでしょう。


それが、わからなければ、学問は、あくまで 学問なんです。
宗教としての、実践には、使えないのではないでしょうか?

真偽ではなく、
実践で、何が得る事が出来るかなんです。



求道さんが、何かが、解ったり、掴んだら それが、みんなの
幸せにつながる ようでしたら、 みんなに 教えてあげてください。
わたしも、聞いてみたいと 思います。

それを、とりいれるか、どうかは、 私の好きかどうかなんですが。

39:2010/10/06(水) 01:37:43 ID:tiCBMh7g0
求道さん

>①大聖人の教えを求めるのか、
 ②大聖人の教えも混ぜ合わせながら自分の思想を完成させるのか、
 この両者は全く異なります。


求道さん 
 
信じると言うのは、100人いれば 100通りの思いであり
100通りの実践なんですよ
どのように、信じて どのように 実践するかは、統一できないですよ

統一の実践が、すべて 同じにできれば、 すぐ、大聖人と同じです。

同じ大聖人ばかりが、いたら 気持ちわるいでしょ。

桜梅とうり で いいのでは、 ないでしょうか?



>①大聖人の教えを求めるのか、
 ②大聖人の教えも混ぜ合わせながら自分の思想を完成させるのか、


①は、真偽の完成が完全でなければ、求めるものは、不完全です。

②でしか、人間は、出来ないのでは、ないでしょうか?
 最後は、自分の思うようにしか、実践ができないでしょう。
 言われた事が全部できるとは、思えないからです。
 

わたしには、題目をあげる自分を妙法の当体と信じるだけです。
それだけなんです。

お休みなさい。

40:2010/10/06(水) 02:10:01 ID:tiCBMh7g0
>>33

求道さん

>そして大聖人の教えでないものがいくら広まっても、
 それは広宣流布とはいえないと思います。


求道さん

別に大聖人の教えじゃないのが、広まって、みんなが 幸せになるのなら、
いいでは、ないですか?


求道さんから見た
真偽の判定が未だ未完成の教えが、広まれば 広宣流布というのでしょうか?


広宣流布と言うのは、教えを根本に 人類が平和で幸せになる事だと
思います。

私は、御義口伝の 一切衆生が仏であり、題目をあげて、その自覚を持つ 教えにより、
みんなが、幸せに なる事ができる と 信じているんです。


求道さん達の学問の研究者によって、より、高度な教えが、出来。
それが、みんなの幸せにつながる、教えであれば、自然とその教えが
広まりますよ。

わたしは、現在ある、信仰を信じていきますね。

42沖浦克治:2010/10/06(水) 05:17:02 ID:AJ3hr85o0
 槃特 さん、おはようございます

 功徳に差はございません。
 戸田先生のご指導にあります。
 只、私の経験ですが、御本尊に向かって真剣に祈れない時、人は切羽詰っていません。
 ですので、移動中の題目を真剣に唱えません。

 双方が連動しています。

43沖浦克治:2010/10/06(水) 05:25:17 ID:AJ3hr85o0
 槃特 さん、大勝利さん

 先生が指導され、宗門が難癖つけた指導です。

 『ご本尊様はどれもおなじですよ。
 紙の御本尊様、板の御本尊様、大きな御本尊様、小さい御本尊様。
 全て同じです。
 当然でしょう。
 南無妙法蓮華経、事の一念三千の当体なんですから、差別なんてありません。
 この間も、ある学会の婦人の方が言うんです。

 ご近所に法華講の方がおられる。
 先祖が功績あって板の御本尊を帯もらった。
 学会の会合にも出てこない。
 家には立派なのがあるからいいんだ。
 かわいそうでかわいそうで見ておられない。
 先日息子さんが亡くなられた。
 非業の死なんです。
 家は御形木様、こんなに小さい。
 でも功徳を一杯いただいている。 
 あちらは不幸の中。
 一体どうなんでしょう?

 やはり信心の血脈が無いのではないか。
 信心の血脈なくんば、法華経をたもつとも無益なり。
 いや、もっと罰なんです。』(趣意)

44沖浦克治:2010/10/06(水) 05:32:05 ID:AJ3hr85o0
 あ、さん、求道の人さん、おはようございます
 
 本覚思想と言う物は大聖人にも、創価学会にもありません。
 あるのは、

 全ての人は久遠元初からの南無妙法蓮華経如来だ。

 こう言う思想です。
 但し、忘れているので思い出さないと駄目です。
 本覚ではなく、本迷です。
 全人類が迷っている時、思い出す方がおられて、その方が御本仏と呼ばれます。
 御本仏は、その思い出した事実を、他の人類が思い出せるように環境を作ります。
 それが法であり、御本尊であり、その時に応じた仏道修行のやり方です。

 そう言う方がこれまで5人御出現です。
 釈迦、天台、伝教、大聖人、戸田先生。

 ですので、創価にも、他の聖人方にも、本覚思想などはございません。

45沖浦克治:2010/10/06(水) 05:36:15 ID:AJ3hr85o0
 一般論ですが

 拠点で多くの人が離れた場所から拝むなら、大きな御本尊がいいですね。
 会館はもっと大きく。
 様は、器にあった大きさです。

 ことさら、特別御形木などと言うので、ややこしいですね。

46般若:2010/10/06(水) 06:00:59 ID:N/FqlNB.O
本尊と曼陀羅を一体として、本覚思想を持ち出すのはナンセンスです。

宗祖は、本覚思想を嫌っていましたよ。

曼陀羅を持っていない信徒は曼陀羅を薬変わりにしたり、お守りのようにして題目をあげていたようです。
當身の大事とはこのことです。

47沖浦克治:2010/10/06(水) 06:13:28 ID:AJ3hr85o0
 般若さん、確か以前自己紹介されていましたね?

 おはようございます。

48沖浦克治:2010/10/06(水) 06:14:59 ID:AJ3hr85o0
 一切衆生が本来久遠元初の南無妙法蓮華経如来だ。
 
 これは、本覚思想と無関係です。

 こう書いただけで、本覚思想だと攻撃する人が、仏法を知らないだけですね。

49求道の人:2010/10/06(水) 06:51:47 ID:wipuhny60

あさん、おはようございます。

あさんのお考えですと、立正佼成会でも霊友会でも何でもよくなってしまいます。

50:2010/10/06(水) 07:24:54 ID:tiCBMh7g0
沖浦さん おはようございます。

仏法は、難しいですね。


求道さんみたいな 人達が、学問研究の理論を持って、挑む時代なんですね。
御書の中の御文の真偽には、私は、無知なので求道さんには、
きちんと答えられずに参ってしまいました。



ところで沖浦さん


>>44

> 本覚思想と言う物は大聖人にも、創価学会にもありません。

>>48

>一切衆生が本来久遠元初の南無妙法蓮華経如来だ。


ウィキペディで見たんですが?

//////////////////////////////////
本覚(ほんがく)とは、本来の覚性(かくしょう)ということで、
一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。
如来蔵や仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。
平たく言えば、衆生は誰でも仏になれるということ、
あるいは元から具わっている(悟っている)ことをいう。
///////////////////////////////////////////////////////////


本覚思想に 似ていると思うのですが、
関係ないとは、思えないんです。

本覚思想では、なにか まずいのでしょうか?

大聖人の仏法は本覚思想だと、私は思うのですが。




不勉強で申し訳ありません。

51:2010/10/06(水) 07:41:20 ID:tiCBMh7g0
>>49

求道さん おはようございます。

>あさんのお考えですと、
立正佼成会でも霊友会でも何でもよくなってしまいます。


立正佼成会・霊友会を 私は知りません。

知っているのは、日蓮正宗です。



●なぜ、?立正佼成会でも霊友会でも何でもよくなってしまうのですか?

52大勝利:2010/10/06(水) 12:53:36 ID:FfgO/4W.0
>>31
あさん

私は本覚思想に浸かるのは良いとは思いません。
「自分が本来の仏なんだ」と言う思想は、一見「生命の平等性」を発現しているかも知れませんが、
「我こそ本仏」への危険性もあると思います。

この偽書云々も、「仮託書」と言って、
例えばですが「自分は悟ったので大聖人から仮託された御書を書くこともできるんだ」ともなりかねません。
「己心の妙法が解かってしまえばもう御書なんてなくても良い」などなど発展もあるかも知れません。(あくまで例えばです。)
「当該門流の法主が大聖人に等しい」なんて発想も似たようなものではないでしょうか。

個人的にですが、私は大聖人に本覚思想に近いものはあったと思います。
真書にも「権教の釈尊を始覚の仏」と出てくるので、「法華経での仏」を本覚と位置付けるところまではあると思います。
本覚が始覚より先か後かはともかくとして、末法に上行菩薩に「仮託」するのですからね。

53日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/10/06(水) 14:40:48 ID:8FNX.yWoO
『本覚』について一言。

草木が繁る。実を成す。
それ自体が『本覚』ではないかと………。

実は、非情の中に、その『本覚』の真髄が、描かれているのではないかと………。

ふと、そう感じました。

敢えて、"四文字漢字"で言うならば、
【本覚思想】という表現ではなく、【本覚具足】ではないかと……。


なんてネ(^_^;)!。
馬鹿な智慧を働かせてしまいました(-.-;)。

ふと、そう感じたもので。

54:2010/10/06(水) 15:01:12 ID:Kn7J7nnI0
>>52

大勝利さん こんにちわ

>「我こそ本仏」への危険性もあると思います。


多分 それは、無いと 思います。

一切衆生 が 仏 だと言われていますから。

「即は円なれば法華経の別名なり即とは凡夫即極諸法実相の仏なり、
円とは一念三千なり即と円と言は替れども妙の別名なり、
一切衆生実相の仏なれば妙なり不思議なり
謗法の人今之を知らざる故に之を秘と云う」



「一切衆生実相の仏なれば妙なり不思議なり」

われこそ・一人だけ では、 ないですから。一切衆生です。みんなですね。



わざわざの 危険信号の お返事ありがとうございます。

55:2010/10/06(水) 15:16:00 ID:Kn7J7nnI0
日々さん 

こんにちは

> 草木が繁る。実を成す。
それ自体が『本覚』ではないかと………。
実は、非情の中に、その『本覚』の真髄が、
描かれているのではないかと………。



日々さんに、近いです。

宇宙 すなわち 森羅三千は、 私たち 人間 動物 草 木 砂 鉄 素粒子
全部 ひっくるめて 一つの生命体 みたいなものですよね。

その 全部ひっくるめた森羅三千の宇宙の事を 仏と言っているんですよ。

だから、全部ひっくるめた森羅三千の宇宙の事の仏の一部である、日々さんは
仏だとは、思いませんか?

多分 森羅三千と 日々さんは、 深いところで 全てと つながっているはずです。

悟ると言うのは、日々さんと森羅三千がつながっている事を、意識できる状態では、
ないでしょうか。

↓   ↓   ↓

一生成仏抄

「一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心法界にx満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし」

56:2010/10/06(水) 15:29:46 ID:Kn7J7nnI0
日々さん

森羅三千 と 日々さんが つながっていれば

私とも 深いところで つながって いるはずです。

もちろん 大聖人さまとも つながって います。


そうすると

第十四 時我及衆僧倶出霊鷲山の事

御義口伝に云く霊山一会儼然未散の文なり、
時とは感応末法の時なり我とは釈尊及とは菩薩聖衆を衆僧と説かれたり倶とは十界なり霊鷲山とは寂光土なり、
時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり秘す可し秘す可し、本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり、されば倶とは不変真如の理なり出とは随縁真如の智なり倶とは一念なり出とは三千なり云云。
 又云く時とは本時娑婆世界の時なり下は十界宛然の曼陀羅を顕す文なり、其の故は時とは末法第五時の時なり、
我とは釈尊及は菩薩衆僧は二乗倶とは六道なり出とは霊山浄土に列出するなり
霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云。


宇宙である 森羅三千とつながっている全ては

霊山一会儼然未散 で 散じてはいないでしょ。

みんな 三千の諸々が 未散で いるとは、 思いませんか。

日々さんから見た 日々さんの一念のなかで、 森羅三千がつながっている。

そんな 状態を 一念三千と 言われるのでは、ないでしょうか?

日々さんが、意識している、意識していないに かかわらず。


では。

57:2010/10/06(水) 15:38:52 ID:Kn7J7nnI0
日々さん

日々さんが 森羅三千と つながっている事を意識できたとき。

「第十一 自我得仏来の事
 御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、
自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、
自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、
我は法身仏は報身来は応身なり此の三身無始無終の古仏にして自得なり、
無上宝聚不求自得之を思う可し、
然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。」


森羅三千が全てがつながっている 日々さんならば、 
日々さんは、無上宝聚不求自得になっていませんか?

なんて 思っています。

58日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/10/06(水) 16:34:03 ID:8FNX.yWoO
>>54-57

あさん。こんにちはm(__)m。

私の考えは所謂=総論『OK』。各論『???』なんですが(^_^;)。

『???』を埋める為、一緒に学びませんか?。
雨煽りさんと一緒に(^_^;)。

あさんのカキコミは、一貫して『己心の妙法』にスポット(視点)を当てているように感じます。

総論では納得できるのですが、各論に移る時に、どうしても納得できない事があるんです。
『受持即観心』です。

私は、あさんの今迄のカキコミは、「自分教」になる危険性をはらんでいると思います。


やはり、宗教は、【拝む対象】は必要だと考えるんです。


今後、百年二百年先は分かりませんが。

59:2010/10/06(水) 17:09:31 ID:Kn7J7nnI0
日々さん

『己心の妙法』と『信仰の対象』が、 同じものだと言う事に
 早く気づいて 欲しいです。

まったく 同じなんですよ 全くです。


なんで、法華経の行者が 本尊と 言われるのかを もう一度考えてみてください。



「第廿五 建立御本尊等の事
 御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、
戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、
日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。」



「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」

って ちゃんと書いてあるでしょ。


じゃー 法華経の行者ってなんて 書いてあるか?


「第十二常不軽菩薩豈異人乎則我身是の事
 御義口伝に云く過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、
釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり
、さては我等が事なり今日蓮等の類いは不軽なり云云。」


「寿量品の教主とは我等法華経の行者なり」 


また

御義口伝
「今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、
されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」



「無作の三身とは末法の法華経の行者なり」
日々さんは、一切衆生ですね。
一切衆生が如来なんです。
日々さんは、大聖人の弟子旦那ですから 如来です。

日々さんは、如来なんですから 無作の三身なんです。

日々さんは、無作の三身なのですから 法華経の行者 なんです。


先ほどの

「「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」」



本尊とは 法華経の行者の 事を 言われているのです。

つまり 日々さんの事です。

60:2010/10/06(水) 17:29:14 ID:Kn7J7nnI0
日々さん

>>58

> 総論では納得できるのですが、各論に移る時に、
どうしても納得できない事があるんです。
『受持即観心』です。


上記の『受持即観心』って 、よく聞くけど
御書にないでしょ。多分

だれかが、作った言葉じゃ ないでしょうか?
多分 日蓮正宗時代の 言葉じゃないのかな?


「第十三若有能持則持仏身の事
 御義口伝に云く法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、
則の一字は生仏不二なり上の能持の持は凡夫なり持つ体は妙法の五字なり
仏身を持つと云うは一一文文皆金色仏体の故なり、
さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、
理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり即の字は即故初後不二の故なり云云。」



●「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり」

●「さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、」


日々さん 我が身の外に仏無しと持つを云うなり


日々さんの身の外に仏無しと持つ事なんです。

61日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/10/06(水) 18:31:56 ID:8FNX.yWoO
>>60

>上記の『受持即観心』って 、よく聞くけど
御書にないでしょ。多分



【我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう】という一節があります。


あさんとの対話のすれ違い?ボタンの掛け違い??には、ほんのちょっとした事なんだと思います。
だから踏み込んで、核心に迫りたいと思いますが………、
あさんは、"御本尊様いらない思想?"なんですか?。

62求道の人:2010/10/06(水) 18:52:35 ID:wipuhny60

あさん、こんばんは。

あさんのお考えは創価学会の路線問題とも矛盾すると思うんです。

全ての人が仏ならば、阿部日顕氏も仏ですよね、ということは創価学会、創価新報、聖教新聞の記事は仏に対する毀謗であり、謗法を犯していることになります。

森羅三千皆仏ならば、身延の総門入って直ぐにのところにあるお稲荷さんも仏ということになります。

それに対して創価学会は本尊の勝劣を論じてきたのが歴史でしょう。

森羅三千皆仏ではなく、差別があるからこそ本尊の勝劣を論じてきたのでしょう。

昔の創価学会はお稲荷さんを畜生界の本尊といったのです。ということはこの世に仏でないものの実在を認めているということです。

あさんの理想はわかります。森羅三千皆仏、そんな教えが本当であれば嬉しいですよね。

しかし日蓮大聖人の教えにも、釈迦の教えにも、また創価学会の思想にも、そのような考えは無いのです。

「全ての人が条件付で仏」これが現実の思想です。だから対立と紛争が起こるんです。

63日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/10/06(水) 18:59:23 ID:8FNX.yWoO
>>60
更に続けますね。

調べたら、このような一節もあると知りました。

【正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経を唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体用倶・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず】

(当体義抄512頁)


これを読むと、あさんの言っている事は理解できますし、己心の妙法も分かりやすく理解できるんです。

ですから、あさんの言ってる事は分かるんです。
否定もしてないんです。

ただ疑問なのは、あさんが《御本尊様不要論をバックボーンにして主張》をしているのかを聞きたいのです。
あさんのカキコミは、そこの所が曖昧なんです。
私の眼から見て。

64:2010/10/06(水) 19:08:44 ID:Kn7J7nnI0
>>61

如来滅後五五百歳始観心本尊抄

私に会通を加えば本文を黷が如し爾りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す
我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、
四大声聞の領解に云く「無上宝聚不求自得」云云、我等が己心の声聞界なり、
「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、
妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや、
宝塔品に云く「其れ能く此の経法を護る事有らん者は則ち為れ我及び多宝を供養するなり、
乃至亦復諸の来り給える化仏の諸の世界を荘厳し光飾し給う者を供養するなり」等云云、
釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す「
須臾も之を聞く即阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得」とは是なり、
寿量品に云く「然るに我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、
我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり、
経に云く「我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云、我等が己心の菩薩等なり、
地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり、
例せば大公周公旦等は周武の臣下成王幼稚の眷属武内の大臣は神功皇后の棟梁仁徳王子の臣下なるが如し、
上行無辺行浄行安立行等は我等が己心の菩薩なり、
妙楽大師云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」等云云。



「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、」の文です。


上から 読んで 見てください。 あくまでも、己心の釈尊の事を言っているのでは、ないでしょうか?

我等 ーーー>  すなわち 大聖人の弟子である 日々さんの 事ですよ。


なぜ、日々さん自身の 己心を みつめなおさないのですか?

森羅三千を書き顕したのが、紙の曼荼羅本尊であり、
その、森羅三千が、日々さんの 己心の事なんですよ。
日々さんの 己心は、そのまま 森羅三千なんです。

だから、紙の曼荼羅本尊に対する姿勢は、
紙の曼荼羅本尊に書き顕されている世界が、 日々さんの己心を顕しているのだと
信じて お題目を あげるのです。


森羅三千は、日々さんの己心の世界なんだと 信じる事なんです。


上記の
●「妙楽大師云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」等云云。」



●一生成仏抄の
「衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり、
文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり、
一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心法界にx満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし」


は、同じ事を言っているんです。

65雨煽り:2010/10/06(水) 19:19:05 ID:Pssg0Hu.0
日々さん

あ さんの書き込みが、よく理解できないのでしょ。
で、あ さんを心配してるのでしょ。
でも大丈夫、心配することなんか何もありませんよ。

あ さんも私も、仏法理解についてはあまりかわりませんから。
表現方法が少し違うだけなのです。(^o^)丿

66:2010/10/06(水) 19:19:58 ID:Kn7J7nnI0
求道さん こんばんは

>>62

>森羅三千皆仏ならば、身延の総門入って直ぐにのところにあるお稲荷さんも仏ということになります。


求道さん 仏って 多分ですが、 自分の事では、ないでしょうか?
自分ていうのが、6尺の身だと思わずに
自分ていうのが 森羅三千なんだと 信じる事では ないでしょうか?

求道さんからみて真偽未定かわからない

一生成仏抄を 引いてみます。

「夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり、文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり、一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心法界にx満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし、但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」

これ あっていると信じています。↑

67:2010/10/06(水) 19:42:22 ID:Kn7J7nnI0
>>63

日々さん

>ただ疑問なのは、あさんが《御本尊様不要論をバックボーンにして主張》をしているのかを聞きたいのです。
あさんのカキコミは、そこの所が曖昧なんです。
私の眼から見て。



日々さん 内得信仰 って やった事 ありますか?
車の中で、お昼やすみで やったこと ありますか?

紙の曼荼羅本尊 うつらうつら 思いながら やった事あるでしょ。
その 紙の曼荼羅本尊が、自分の己心の中を顕しているのだと
信じるのです。

この紙の曼荼羅本尊から、功徳をもらおうなんて 思うのが 間違いなんです。
紙の曼荼羅本尊は、 印刷された紙 なんですから。


紙の曼荼羅本尊の世界が 自分なんだと 信じれるのか?

自分以外の 紙を信じるのかが、 天と地 ほどの 違いなんです。

紙の曼荼羅本尊の世界は森羅三千を顕しています。
その 森羅三千は、 日々さんなんです。


紙の曼荼羅本尊はあっても、なくても どっちでも いいのです。
内得信仰を考えれば、わかる事ですから。


森羅三千である 南無妙法蓮華経である 日々さんの 自覚なんですよ。

日々さん自身が、南無妙法蓮華経の当体なんだと。信じる事ができるか? 出来ないか?です。


一生成仏抄

「都て一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず、
然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、
若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」


大聖人様は、「三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず」と言われています。


「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」

どんなに 題目となえても、心外に 道をもとめれば、半銭の得分もなきです。

68求道の人:2010/10/06(水) 19:54:18 ID:wipuhny60

あさん、それでは日顕さんにも自分が仏だと信じる権利がありますね。

しかし創価学会は認めません。

矛盾してますよね。

一生成仏抄はご真筆も上代の古写本も無く、室町期に突然現れたもので、大聖人の教えではないと私は思います。

御書全集は凡例の5ページに編纂の方針が出ており、都合が良いものは真偽の問題に関係なく掲載し、都合が悪いものは真書でも掲載をみおくったという趣旨が書かれています。

また御書全集には未掲載で古来偽書説の無い「戒体即身成仏義」には、日蓮大聖人の最終的な結論として、法華経を含む顕教よりも真言系の密教の方が勝るとしています。

これは極端な例ですが、大聖人の教説には常に勝劣がついてまわります。

森羅万象が自分であれば、大聖人は迫害を受ける必要が無く、一期の法難は何のためであった意味が無くなります。

森羅万象皆仏であれば、神社から善神が消え去ることもなく、神社参詣をとがめる必要など無かったのです。

「自分が森羅万象」もあくまでも「条件付で『自分が森羅万象』」が大聖人の教えです。

その条件の違いが宗派であり、教団の派生であると思います。

69:2010/10/06(水) 20:10:13 ID:Kn7J7nnI0
>>62
求道さん

> あさんの理想はわかります。森羅三千皆仏、そんな教えが本当であれば嬉しいですよね。

しかし日蓮大聖人の教えにも、釈迦の教えにも、また創価学会の思想にも、そのような考えは無いのです。

「全ての人が条件付で仏」これが現実の思想です。だから対立と紛争が起こるんです。

/////////////////////////////////////////////////////////


求道さんから、みたら 偽書である。

御義口伝には、

「生住異滅の森羅三千の当体悉く神通之力の体なり、
今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、


とあります。

誰の教え(大聖人さま)の教えか、どうか ではなく。

どのような 教えなのかが、大事では、ないでしょうか?


求道さん

>しかし日蓮大聖人の教えにも、釈迦の教えにも、また創価学会の思想にも、そのような考えは無いのです。

と 言う前に、

求道さんは、どのような 素晴らしい 教えを みなさんに、教えて
くれるのでしょうか?

その日がくれば、 サプライズ ですね。
上や下への 大騒ぎでしょうね。

求道さんの知っている教えが、素晴らしければ、かならず、少しずつでも
理解を、得る事ができると、思います。

わたしは、教えの内容が、すばらしければ、すばらしいほうを、実践すべき
だと、思っています。

理解を超えれば、運の問題なんですが。

現在は、今の信仰が、最高だと 思っています。

70高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/10/06(水) 20:13:22 ID:JThdDrQw0
みなさん、こんばんは!

求道の人さん、すみませんが、求道の人さんが進めようとする論の前に、あさんと雨煽りさんに質問させてください。

あさん、雨煽りさん
 今までの展開を読ませて頂くと、諸法実相(方便品第二)の論は、これ以上深まらないに思われます。
 そこで、教えて欲しいのですが、生命の真実を知ることでの心(喜び)の発露は、
 どのような振る舞いになるのでしょうか?

 また、久遠実成(寿量品第十六)へは、どの様に展開するのでしょうか?
 それを踏まえての成仏とは、何を云うのでしょうか?

 お手数をお掛けしますが、教えて頂ければ幸甚です。

71日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/10/06(水) 20:20:59 ID:8FNX.yWoO
>>65
雨煽りさん。こんばんはm(__)m。

今日は秋刀魚の蒲焼き丼でした(^O^)。

あさんのは、よくよく理解しているつもりなんですが(^_^)。

72:2010/10/06(水) 20:23:18 ID:Kn7J7nnI0
>>68

>あさん、それでは日顕さんにも自分が仏だと信じる権利がありますね。



当然です。

キリストだって、 マホメッドだって、 神主だって 当然

自分が仏だと信じる権利がありますよ。



第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事 
文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、
寿量とは詮量なり、十方三世二仏三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと。
 御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、
如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、
今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、
されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、
寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、
其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、
さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、
惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、
無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。



「今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、」

キリスト、マホメッド 神主 他 どんな人でも 一切衆生ですから 如来です。


お互いが、尊敬しあえると いいですね。
そのために、一切衆生は、仏だと 言っているのだと 思います。

まぬけで、おちょこちょいの 如来ですが。

73求道の人:2010/10/06(水) 20:32:53 ID:wipuhny60

あさん、

>どのような 教えなのかが、大事では、ないでしょうか?

私はそうは思いません。大聖人の教えでないものはひとまず置きます。

あさんのお考えでは、宗教の正邪を論ずる必要性は無く、日蓮大聖人一期の御法難は意味の無いものになってしまいます。

宗教観の対立は無い事が理想です。しかし大聖人自ら宗教対立を起こされた方です。

あさんの理想では、日蓮大聖人の教えを捨てるしかありません。

74タンポポ ◆HhiWFGTqB.:2010/10/06(水) 20:45:20 ID:WwDrUF2wO
今晩は。こちらのスレ、スピード速い!ビックリ!
みんなぼちぼちマイペースで中道精神忘れずどんなのでもテーマでネット内勉強会でね。
ROM者が分かりやすい解説通解で宜しゅうに!
日々さんへ。今晩は。今夜はカキフライとサラダでした。

主人寝ちゃいましたからこれから二時間ばかり、東向いてお題目して、寝ます。一応、お先、お休みなさい。
皆さん、1日お疲れ様でした。

75:2010/10/06(水) 20:52:04 ID:Kn7J7nnI0
高速さん こんばんは


>>70
 
わたしには、難しいです。
ごめんなさい。
勉強不足です。


参考にしてください。↓




御義口伝

五百品
     日本国一切衆生  題目御本尊  心法色法 煩悩即菩提生死即涅槃
      貧人       見此珠    其心大歓喜
                       信心ノカタチ
 此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。


   ↓

●「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。」


一生成仏抄
「一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心法界にx満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし」





  寿量品廿七箇の大事
第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事
 文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、
寿量とは詮量なり、十方三世二仏三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと。
 御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、
如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、
今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、
されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、
寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、
其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、
さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、
惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、
無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云





唯凡夫の当体本有の侭の自分が 南無妙法蓮華経の本尊だと信じる事では、ないでしょうか?

76:2010/10/06(水) 21:10:12 ID:Kn7J7nnI0
>>73

求道さん


> あさんのお考えでは、宗教の正邪を論ずる必要性は無く、日蓮大聖人一期の御法難は意味の無いものになってしまいます。
 宗教観の対立は無い事が理想です。しかし大聖人自ら宗教対立を起こされた方で



法難は、どこの世界でも、正しい事を言えば、出てきます。
広まる教えが、広まると、困る人が 後ろで、騒ぐものだと 思います。

宗教対立と 考えないで、 優れている教えを、取り入れるで、いいのでは、ないでしょうか?

言葉を、忘れてしまいましたが、

 流布の時に 土地土地での、習慣や文化に合わせて、行く事をするなんて、優れている教えを、取り入れる事には、
ならないでしょうか?




求道さんの 現時点では、どのような、教えを どのように 実践をして、どの様に、人々を
幸せに していけると、 思いますか?


できれば、上記の求道さんの、教えと 比較をしてみては、いかがでしょうか?

わたしは、理解する事が、できないでしょうが。 理解できる人が居れば、相手の教えの欠陥や、自分の教えの欠陥が
見えて、より、高みが、見えるのでは、ないでしょうか?

求道さんの、もっている 教えを ここで、拡げてみては?

77求道の人:2010/10/06(水) 22:15:28 ID:wipuhny60

あさん、世の中全てが仏だったら法難は起こらないのでは無いでしょうか?

森羅万象が即皆仏ではないということですよ。あくまでも条件付きで森羅万象が仏です。条件付でなければ十界互具じゃなくなるんですよ。

大聖人滅後の弘通は、ご真筆の現存するまとまった著作としては最晩年のものといえる「諫暁八幡抄」の最後に「仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。」とあるとおりだと思います。

釈尊は法華経誹謗のものを矯正しなかったのです。なぜならば正法時代には法華経誹謗者は無かったのです。しかし末法には一乗(法華経)の強敵が充満しているのです。したがって不軽菩薩の実践(非暴力・非妥協)をもって励まなければならないということだと思います。

78大勝利:2010/10/06(水) 22:43:22 ID:MYqDk7aIO
あ さん

衆生身心御書
「末代の凡夫これをよみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへどもくはしくこれをろむずれば己が心をよむなり、己が心は本よりつたなき心なればはかばかしき事なし」

79:2010/10/06(水) 23:26:35 ID:rLRGG.dI0
>>77

求道さん

また、求道さんからみた偽書を引用させていただきます。



>あさん、世の中全てが仏だったら法難は起こらないのでは無いでしょうか?


求道さん 仏? 私は、仏って 「地獄は地獄の有の侭」の「十界本有の妙法の全体」これが、仏だと思っています。

地獄の姿、そのままで 仏なんですよ。 苦しむ姿そのままで、仏なんだと思います。



御義口伝
第四 如来如実知見三界之相無有生死の事


今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、
又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、
無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の侭十界本有の妙法の全体なり



法難もあるし、嘘も 騙しも あるのだと 思います。



>森羅万象が即皆仏ではないということですよ。あくまでも条件付きで森羅万象が仏です。
 条件付でなければ十界互具じゃなくなるんですよ。


ここ よく 考えてみてください。森羅三千が一つの 仏なんです。
森羅三千の仏が、わたしであり、求道さん なんですよ。
苦しむ人も森羅三千 楽しい人も森羅三千 菩薩道の人も森羅三千 たくさんの人達が森羅三千なんだと、思います。


「第三身心遍歓喜の事 
御義口伝に云く身とは生死即涅槃なり心とは煩悩即菩提なり、遍とは十界同時なり歓喜とは法界同時の歓喜なり、
此の歓喜の内には三世諸仏の歓喜納まるなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉れば我則歓喜とて釈尊歓喜し給うなり,
歓喜とは善悪共に歓喜なり十界同時なり深く之を思う可し云云。」



「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉れば我則歓喜とて釈尊歓喜し給うなり,
歓喜とは善悪共に歓喜なり十界同時なり深く之を思う可し云云」



十界が同時なんですよ、同時です。  



>>76 で聞いてみたい、 求道さんの信心のお話↓

●求道さん 求道さんの している 信心の 話をしてくれないんでしょうーか?

80求道の人:2010/10/06(水) 23:44:11 ID:wipuhny60

あさん、やはり偽書の魔性は怖いものですね。麻薬と一緒で離れられなくなっている。

私にはあさんが偽書の麻薬中毒に陥っているように見えます。

麻薬が効いているときはいい気分でしょう。しかし確実に生命を蝕むように、偽書を根本としていたら成仏はありえません。

御義口伝の思想は大聖人の教えとかけ離れている事がわかると思います。

地獄の姿は地獄であって仏ではありません。あさんのいう事が真実なら宗教などいりません。大聖人の仏法も必要ないです。

私の信心の姿は既に示したとおり、不軽菩薩の実践こそが日蓮大聖人が滅後の弟子檀那に推奨した実践であるということです。

日蓮大聖人ご自身もご真筆の現存する「聖人知三世事」に、「日蓮是法花経行者也 紹継不軽跡之故」(日蓮は是れ法花経の行者也。不軽の跡を紹継するの故に」と仰せの通りです。

不軽菩薩の利益とは逆縁による下種結縁です。

81:2010/10/06(水) 23:51:49 ID:rLRGG.dI0
大勝利さん こんばんは

>>78

閻浮提中御書


 提謂経と申す経は人天の事をとけり、阿含経と申す経は二乗の事をとかせ給う、
華厳経と申す経は菩薩のことなり、方等般若経等は或は阿含経提謂経ににたり、或は華厳経にもにたり、
此れ等の経経は末代の凡夫これをよみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへどもくはしくこれをろむずれば己が心をよむなり、
己が心は本よりつたなき心なればはかばかしき事なし、法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給う、
仏の御心はよき心なるゆへにたといしらざる人も此の経をよみたてまつれば利益はかりなし、
麻の中のよもぎつつの中のくちなはよき人にむつぶものなにとなけれども心もふるまひも言もなをしくなるなり、




大勝利さんの引用した

「末代の凡夫これをよみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへどもくはしくこれをろむずれば己が心をよむなり、
 己が心は本よりつたなき心なればはかばかしき事なし」

ですが、法華経の話では、無いみたいです。


「法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給う」です。


御義口伝

 五百品
     日本国一切衆生  題目御本尊  心法色法 煩悩即菩提生死即涅槃
      貧人       見此珠    其心大歓喜
                       信心ノカタチ
 此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。



●「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く」

大勝利さん 

法華経と 法華経以外の経 の違いですが、

法華経は
心が本来 仏なんですね。

82:2010/10/07(木) 00:21:27 ID:rLRGG.dI0
求道さん

>>80

>私にはあさんが偽書の麻薬中毒に陥っているように見えます。
麻薬が効いているときはいい気分でしょう。
しかし確実に生命を蝕むように、偽書を根本としていたら成仏はありえません


しょうがないですよ。これが 良いって 思うのですから。
魅力があるんでしょうね。

求道さんからみると、 ダメ なんでしょうね。


わたしは、

「第十聞其所説皆信伏随従の事
 御義口伝に云く聞とは名字即なり所詮は而強毒之の題目なり、
皆とは上慢の四衆等なり信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり、
所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり。」


こちらの御文を信じていきたいと、思います。


これ以降は、いまのところ 平行線が続く事に なってしまいますね。


求道さん、 御義口伝の内容での 仏法上の欠点などが ありましたら、教えてくださいね。




あと、

>不軽菩薩の利益とは逆縁による下種結縁です。


これは、折伏だと 思いますが。 何を広めるのでしょうか?



大聖人の仏法でも、いろいろ あるんですね。

では、おやすみなさい。

83沖浦克治:2010/10/07(木) 05:38:18 ID:AJ3hr85o0
 あ、さん、おはようございます

>本覚思想に 似ていると思うのですが、
関係ないとは、思えないんです。
本覚思想では、なにか まずいのでしょうか?
大聖人の仏法は本覚思想だと、私は思うのですが。

 私共を邪義だと言う人は、本覚思想を間違って捉えているのです。

 人は本来は仏である。
 然しながらそれを忘れている。
 この状態を迷いと言い、そう言う人を衆生と呼ぶ。

 思い出した人もいる。
 悟りと言い、その状態を仏と呼ぶ。
 然しながら、同じ凡夫であって、本質的な差が両者にはない。
 
 迷いを悟りに転ずるものが、仏道修行を言う行為である。
 人が教育等を経て、人格を備える事と同義である。

 これが本当の本覚思想ですが、

 元々仏なら仏道修行が不要だ。

 と言う批判が多いです。
 そう言う人は仏法に暗い人ですね。

84沖浦克治:2010/10/07(木) 05:41:28 ID:AJ3hr85o0
 大勝利さん、おはようございます

>私は本覚思想に浸かるのは良いとは思いません。
「自分が本来の仏なんだ」と言う思想は、一見「生命の平等性」を発現しているかも知れませんが、
「我こそ本仏」への危険性もあると思います。

 そう言う危険性は無いと思います。
 今最も迷わないお方が、池田先生です。
 先生は一度として、私を拝みなさい。といわれた事がございません。
 反対はよくあります。

 先生がそう言う行動をなさる以上、私共は安心して、

 自分は、久遠からの南無妙法蓮華経如来だ。と信じて大丈夫です。

85沖浦克治:2010/10/07(木) 05:43:32 ID:AJ3hr85o0
 日々さん、おはようございます

>やはり、宗教は、【拝む対象】は必要だと考えるんです。
 
 必要だからこそ、大聖人が御本尊御図顕をなされたのです。
 不要ならなさいませんでしょうね。

86沖浦克治:2010/10/07(木) 05:51:25 ID:AJ3hr85o0
 あ、さん

 受持即観心は御書に無いでしょう。
 日蓮正宗の教義ですが、寛師あたりじゃないですかね?

 大白法・平成21年5月16日刊(第765号より転載)教学用語解説(132)

 即(すなわ)ち「受持即観心」とは、正法である三大秘法の御本尊を強(ごう)盛(じょう)に信じて、南無妙法蓮華経の題目を唱えることであり、それが末法の観心修行であることをいいます。
 〜引用終わり〜

 以上通り、邪義にして日蓮正宗が流していますね。
 信徒支配の道具が御本尊です。
 但し、日蓮正宗時代戸田先生も同様のご指導をされておられます。
 機根と言うものでしょう。
 創価学会が独立を勝ち得た現在、当然解釈は変わります。

87沖浦克治:2010/10/07(木) 05:54:41 ID:AJ3hr85o0
 求道の人さん、おはようございます

>あさん、それでは日顕さんにも自分が仏だと信じる権利がありますね。

 そりゃありますよ、当然です。
 但し、彼は本来は仏ですが、現在はそれを忘れて、第六天の魔王の働きをしています。
 ダイバダッタですね。
 でも、未来成道をしてるでしょう。
 同じです。

88:2010/10/07(木) 06:22:37 ID:rLRGG.dI0
おはようございます。

沖浦さん

>>83

>人は本来は仏である。
 然しながらそれを忘れている。
 この状態を迷いと言い、そう言う人を衆生と呼ぶ。

 思い出した人もいる。
 悟りと言い、その状態を仏と呼ぶ。
 然しながら、同じ凡夫であって、本質的な差が両者にはない。
 迷いを悟りに転ずるものが、仏道修行を言う行為である。
 人が教育等を経て、人格を備える事と同義である。

 これが本当の本覚思想ですが、
 元々仏なら仏道修行が不要だ。
 と言う批判が多いです。
 そう言う人は仏法に暗い人ですね。

////////////////////////////////////////////////

お返事ありがとうございます。

わたしも、同じです。

もともと、仏なんですよね。
沖浦さんの言われていた
南無妙法蓮華経如来なんですね。

89:2010/10/07(木) 06:47:49 ID:rLRGG.dI0
大勝利さん

おはようございます。

>>52 

52 で 言われてた、危険の 意味が 

沖浦さんの

>>84 の投稿をみて、今 わかりました。

教祖になってしまうよ って 事 だったんですね。

大丈夫 そんなものには、なりたくないですよ。

他人を信じても、意味がないですからね。

改めて 危険予防 ありがとう ございます。

大聖人さまの 教えは、 究極は、自分を 信じろ だと 思っています。

自分が、南無妙法蓮華経如来 なんだと 自覚しなさいと言う教えだと思います。

90求道の人:2010/10/07(木) 07:08:56 ID:wipuhny60

あさん、おはようございます。

御義口伝の原型が、「日蓮聖人註画讃」や天台宗との問答である「日出台穏記」で有名な、円明日澄師の「啓運抄」に引用されています。

それによれば、現在の御義口伝とは若干表記法が異なり、特に書き出し部分は「御義口伝に曰く」ではなく「御義に曰く」で始まります。

現在創価学会の方が眼にされる御義口伝は幾度も着色されなおしたものといえるでしょう。

91:2010/10/07(木) 08:12:58 ID:rLRGG.dI0
求道さん

おはようございます。


>現在創価学会の方が眼にされる御義口伝は幾度も着色されなおしたものといえるでしょう。


着色された方は、すごい人なのかも 知れませんよ。

少なくても、私にとってですが。

着色された方は、 より 完成度の 高い教えを、求めたのでしょう。


わたしは、大聖人様が、 特別な スーパーマン とは、見ていないんです。

私たちと、同じ 人間と 見ているんです。

私たちと同じ 一切衆生であり、如来であり、上行であり、地涌であり、仏であり、
法華経の行者であり、 南無妙法蓮華経 だと。

糞もするし、好きな人だって いたんだと 想像しています。
それが、健康な人の 証だとね。

後世の人が、大聖人さまを 宗教教団の装飾のために、特別視をさせたのでしょう。

求道さんからみた、偽書の御義口伝にありますが

「御義口伝

囑累品
信如来知慧者当演説此法華経
 此の文は釈迦如来の悟の如く一切衆生の悟と不同有ること無し故に如来の智慧を信ずるは即ち妙法なり
所謂南無妙法蓮華経の智慧なり云云。」




「釈迦如来の悟の如く一切衆生の悟と不同有ること無し」

の素晴らしい 教えなんですよ。


本質は、妙法蓮華経で 変わらないと 言っているんです。


だから、今は、この 信仰を続けたいと思います。

では、失礼します。

92沖浦克治:2010/10/07(木) 08:25:06 ID:AJ3hr85o0
 戒壇本尊本懐論者のほとんどは、おすがり信心です。
 戒壇本尊と言う、偶像を祭り上げ、それを信じる自分たちは素晴らしい。
 これは、仏法ではありません。
 浅き生き様です。

 祈りとはそう言うものでは無いのです。

 『浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり浅を去て深に就くは丈夫の心なり』
 (撰時抄)

 浅きおすがり信心を改め、深き内道に就くべきです。

93大勝利:2010/10/07(木) 15:28:54 ID:FfgO/4W.0
>>83 沖浦さん

> 人は本来は仏である。
> 然しながらそれを忘れている

久遠元初の当体は日寛教学なんですが、沖浦さんは少し誤解していると思いますよ。

久遠元初から忘れているのは最初から無いのと同じでしょう。
ですから仏種である一切衆生総与の御本尊が必要なのです。
正因があっていつかは仏となるのが決定しているとしても、それをもって「人は本来仏である」とは言えないと思います。

「下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり」


>悟りと言い、その状態を仏と呼ぶ

状態を仏と呼ぶなら、
「仏になったような気がしている人」の方が的確なような気がしている人が私です。

94大勝利:2010/10/07(木) 15:41:28 ID:FfgO/4W.0
>>86 沖浦さん

 >受持即観心は御書に無いでしょう。
 >日蓮正宗の教義ですが、寛師あたりじゃないですかね?

そうです。日寛教学です。
いまさらですが、「受持即観心」は基本の学会の教学です。

公式ページでも「大御本尊・・・・末法の一切衆生に信受せしめる」と発表されております。
「文永10年(1273年)4月25日、日蓮大聖人が52歳の時、佐渡流罪中に、一谷で御述作になり、下総国(千葉県)葛飾郡八幡荘の富木常忍に与えられた書で、観心本尊抄、本尊抄ともいいます。五大部、十大部の一つです。開目抄が人本尊開顕の書であるのに対し、観心本尊抄は法本尊開顕の書であり、教行証に配すると観心本尊抄は受持即観心の義を明らかにしているので行の重に配されます。
観心本尊抄の内容は、大きく四段に分けられます。第一段で一念三千の出処として、初めに摩訶止観巻五上の一念三千の出処を正しく示され、次に一念三千が情非情にわたることを明かされています。第二段では観心の本尊の観心の義について述べられ、観心とは衆生の観心であり、末法においては本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることに尽きるとして、受持即観心の義を明かされています。
第三段では末法に建立される本尊を明かされ、五重三段の教相を論じ、釈尊の教相・寿量文上脱益の本尊を破って、寿量文底下種の本尊を示され、末法の観心の本尊を結せられています。
最後に久遠元初自受用身である御本仏、日蓮大聖人が大慈悲を起こされ、南無妙法蓮華経の大御本尊を御図顕されて、末法の一切衆生に信受せしめることを明かされています。
このように観心本尊抄には、五重三段、受持即観心、末法下種の法本尊の開顕など、日蓮大聖人御建立の三大秘法の御本尊が末法の独一本門であることが詳しく説かれていのです。


95大勝利:2010/10/07(木) 15:50:51 ID:FfgO/4W.0
>>92 沖浦さん
 
>戒壇本尊本懐論者のほとんどは、おすがり信心です。
>戒壇本尊と言う、偶像を祭り上げ、それを信じる自分たちは素晴らしい

ちょっとひどいんじゃないでしょうか?
私は「正本堂」に入ったことのない人間ですが、学会員はその建設に懸命に御供養されたと聞いています。
本門戒壇の意義の正本堂だったのではないでしょうか。破壊されたとはいえその意義は万年に亘ると思います。

96沖浦克治:2010/10/07(木) 15:55:34 ID:AJ3hr85o0
 大勝利さん、今日は

>ちょっとひどいんじゃないでしょうか?

 相当ひどいと反省しております。

 他版で、ネットで戒壇本尊本懐論から離れられない人の中には、かなりの確立でおすがり信仰の方が存在している。

 このように発言を訂正いたします。

 あわせて謝罪を致します。

 申し訳ございませんでした。

 教義のことですが、直ぐに生徒がやってきますので、一段落したら書かせていただきます。
 先ずは、訂正と謝罪を致しました。

97大勝利:2010/10/07(木) 16:29:20 ID:FfgO/4W.0
>>81 あ さん

>「末代の凡夫これをよみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへどもくはしくこれをろむずれば己が心をよむなり、
> 己が心は本よりつたなき心なればはかばかしき事なし」

>ですが、法華経の話では、無いみたいです。

あ さんは
「一切衆生が仏である」と仰るのですから、法華経云々は関係ないのではないでしょうか?
それとも、法華経によって「仏」だったり「仏」でなかったりするのですか?
あ さんは大聖人の御書は「衆生が仏である」ことを気づいたきっかけにすぎないのですから、
御書があろうがなかろうが、法華経であろうとなかろうが、御本尊があろうがなかろうが、
「衆生が仏」との実体は不変ということですよね。

「生涯戦う姿勢」とは無縁の思想ですね。
人の言葉は真摯に受け止めず、御書はネット検索して貼り付けるだけで手に取って学ぼうとしていない。
あげくに「紙の本尊」はやめました。・・・でしょ。
よく本覚思想は「堕落」させると聞きますが、あ さんのレスを見ると確かにそう思いますよ。

98大勝利:2010/10/07(木) 17:38:50 ID:FfgO/4W.0
>>96
沖浦さん
ありがとうございます。

公式ページの説明を読めば解かるように、
日寛上人の教学の姿勢というのは、日興上人を含む御書のほぼ「整理整頓」と言っていいと思います。
日寛上人自身の新たな発見とか私論は皆無と言えます。
上代からの口伝云々も含みますが、むしろ秘密を開示する姿勢の方が顕著と思われます。
例えば「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」を「秘沈めたり」とかですね。
「しづめたり」「ひしづめたり」なのかの審議未決ですが、とにかく私達は「文底独一」を知ることができたわけです。
日寛教学上の最重要課題は「戒壇本懐論」ではないと私は思います。「国重」は皆無「熱原」には触れられるが「頼綱の滅亡」の因としてるに限り、
三烈士の処刑も弘安3年としているのです。
日寛教学上の重要視する部分はむしろ種脱相対でありこの主旨の流れで「一大秘法」が説明されていると私は感じます。

私は悪しき戒壇本尊本懐論と決め付けるのはおかしいと思います。
日寛教学上の「戒壇本尊」とは、民衆の為の「戒壇」であり「一大秘法」です。

大石寺の奉安殿に置かれている板本尊の偽作説に惑わされて、日寛上人を否定するのは早計だと思います。

99:2010/10/07(木) 18:32:27 ID:KtaMljTg0
大勝利さん こんばんは

大勝利さんの引用した、御文は、どう言う意味で、私に、投稿したのですか?

下記にあなたが、引用した御文と その続きを、書いてあります。



この御文は、
此れ等の経経 と 法華経を 比較・対比 したものと、思います。 



あなたが、引用した御文

>「末代の凡夫これをよみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへどもくはしくこれをろむずれば己が心をよむなり、
 己が心は本よりつたなき心なればはかばかしき事なし」


閻浮提中御書

 提謂経と申す経は人天の事をとけり、阿含経と申す経は二乗の事をとかせ給う、
華厳経と申す経は菩薩のことなり、方等般若経等は或は阿含経提謂経ににたり、或は華厳経にもにたり、
此れ等の経経は末代の凡夫これをよみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへどもくはしくこれをろむずれば己が心をよむなり、
己が心は本よりつたなき心なればはかばかしき事なし、


法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給う、
仏の御心はよき心なるゆへにたといしらざる人も此の経をよみたてまつれば利益はかりなし、
麻の中のよもぎつつの中のくちなはよき人にむつぶものなにとなけれども心もふるまひも言もなをしくなるなり、
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////



あなたが、引用した御文

>「末代の凡夫これをよみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへどもくはしくこれをろむずれば己が心をよむなり、
 己が心は本よりつたなき心なればはかばかしき事なし」


>>78

この御文だけを私に、見せて 何を おっしゃりたいのかが、 わたしには、わからなかったのです。


申し訳ないのですが、なにを、伝えたいのかを、具体的に 教えていただけませんか?

鈍感なもので。

100:2010/10/07(木) 18:47:26 ID:KtaMljTg0
大勝利さん

あと

自分の己心の妙法を信じて いない 状態で、題目をあげる 心 



自分の己心の妙法を信じて いる 状態で、題目をあげる 心 


で、差が天地の差が ある事を 知ってください。

101沖浦克治:2010/10/07(木) 19:13:44 ID:AJ3hr85o0
 あ、さん、今晩は

>自分の己心の妙法を信じて いない 状態で、題目をあげる 心 と自分の己心の妙法を信じて いる 状態で、題目をあげる 心 
で、差が天地の差が ある事を 知ってください。

 私はこれは間違いだと思います。
 なぜなら、法への理解度でお題目の力用に差はございません。

 『問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖畏厳恩蔵宣摩導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ、』
 (四信五品抄)

 法への理解は無関係です。
 たとえ、戒壇本尊本懐論を信じていても、戦いながら唱える題目は、己心の妙法を信じる人と全く同じ功徳があります。
 御書に書かれてありますから、私共は信受するのみです。

102沖浦克治:2010/10/07(木) 19:19:53 ID:AJ3hr85o0
 大勝利さん

>久遠元初から忘れているのは最初から無いのと同じでしょう。

 これは違います。
 冥伏と言って、無とは異なります。

>ですから仏種である一切衆生総与の御本尊が必要なのです。

 必要だと何度も書いています。 
 不必要なものを御本仏が御図顕はなさいませんでしょう。
 但し、一閻浮提総与の御本尊が、一帯だけと言う説は否定いたします。
 全ての漫荼羅は、一閻浮提総与。
 私はそう考えます。
 
>正因があっていつかは仏となるのが決定しているとしても、それをもって「人は本来仏である」とは言えないと思います。

 人は本来仏なのです。
 でなければ、お題目を唱えるはずがございません。

103:2010/10/07(木) 19:21:38 ID:KtaMljTg0

沖浦さん

こんばんわ


「都て一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず、
然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、
若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」


私は、上記の信じ方をしています。 どこか 間違いがありますか?

104沖浦克治:2010/10/07(木) 19:26:21 ID:AJ3hr85o0
 受持即観心は、寛師ですが、彼は間違っていました。

>観心とは衆生の観心であり、末法においては本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることに尽きるとして、受持即観心の義を明かされています。

 本門の本尊が、戒壇本尊だとするから、駄目なんです。
 衆生己心の妙法が本尊。
 これが基本です。
 池田先生が仰せです。

 『観心とは信心です。
 我が己心の仏界を信じる。
 これが観心です。
 私共凡夫が成仏するためには信心をしないといけない。
 その、信心のための本尊なんだよ。
 本尊のための人間ではないよ。
 だから大聖人様はありがたいんです。
 その信心のための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。
 こう読むんです。』(趣意)

 私共が信心をするための本尊です。
 そのために己心の妙法と宇宙に向かって、漫荼羅を通して唱題し、折伏弘教に励む。
 これが受持即観心です。

105:2010/10/07(木) 19:28:50 ID:KtaMljTg0
沖浦さん

>法への理解は無関係です。
 たとえ、戒壇本尊本懐論を信じていても、戦いながら唱える題目は、己心の妙法を信じる人と全く同じ功徳があります。
 御書に書かれてありますから、私共は信受するのみです。

と 先ほどの 一生成仏抄



「都て一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず、
然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、
若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」


●一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず、

●若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し

106沖浦克治:2010/10/07(木) 19:29:38 ID:AJ3hr85o0
>大石寺の奉安殿に置かれている板本尊の偽作説に惑わされて、日寛上人を否定するのは早計だと思います。

 戒壇本尊が、大聖人の御直筆か?
 書写か?
 そう言うことは余事ですね。
 寛師の過ちは明らかです。

 弘安2年10月12日の戒壇本尊を、究竟中の究竟、本懐中の本懐と位置づけ、三大秘法の当体だと言ったことです。
 これはね、御書にありませんし、興師も目師も言っておりませんし、寛師はこの事を証明するために御書を引用しておりません。
 己義にすぎませんね。

107沖浦克治:2010/10/07(木) 19:32:11 ID:AJ3hr85o0
 御本尊を信じて、お題目を唱える人はね、あ、さん。

 いくら自分の己心の妙法を知らなくても、御本尊を信じる事で、己心の妙法を信じる人と全く同じ功徳がございます。
 その人のお題目は、己心の妙法の向かったものとなるのです。
 それが御本尊のありがたさですよ。

108:2010/10/07(木) 19:34:14 ID:KtaMljTg0
沖浦さん

『問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖畏厳恩蔵宣摩導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ、』
 (四信五品抄)」



の 一遍の題目は、下記の御文を実践した時ですよ↓


「都て一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず、
然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、
若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」

109沖浦克治:2010/10/07(木) 19:38:34 ID:AJ3hr85o0
 あ、さん
 
 違いますよ。
 一分解なくしてとは、何も知らないでと言う意味です。
 無条件なんです。
 だから、大聖人様の仏法が凄いのです。

110:2010/10/07(木) 19:44:59 ID:KtaMljTg0
沖浦さん

「一分解なくして」 と  
「諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず」は、

意味が違いますよ。


「一分解なくして」は、仏法の理解をあらわし

「諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず」は、信ですよ。

111:2010/10/07(木) 19:59:20 ID:KtaMljTg0
お題目の唱え方

「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」

112求道の人:2010/10/07(木) 20:32:57 ID:wipuhny60

いや〜流れるのが早いですね。
展開を追いきれません。

あさん、偽書は何らかの下心があってつくられます。

その下心にまんまとはまってしまったのでは大聖人利用の悪人の思う壺でしょう。

偽書は百害あって一理ありません。そのことに早く気付いて欲しいです。

113沖浦克治:2010/10/07(木) 20:36:27 ID:AJ3hr85o0
あ、さん

 熱原の農民や三烈士はね、自分が妙法の当体などとは知りませんよ。
 そう言う教育レベルに無い時代の農民なんです。
 でも、彼等が唱えたお題目は、末法万年に広宣流布する機根の扉を開きました。
 力が無い道理がないでしょう。

 道理証文より、この現実の現証です。

114日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/10/07(木) 20:59:57 ID:8FNX.yWoO
>>104以降は、まだ読んでおりません。
先程仕事が終りました。

気がついた事があったので、メシ食べる前に一言。

沖浦さん>>104の表現は可笑しいです。

日寛上人の受持即観心は前段で否定し、後段で沖浦さんの受持即観心観を披露する。
これは、誤解を招くと思います。

受持即観心は必要ですよ。
日寛教学だかなんだかは、私は分かりませんが!。

104以降は、ゆっくりした時に読みます。
遅い晩飯(ばんめし)です。

115高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/10/07(木) 21:16:22 ID:JThdDrQw0
あさん、こんばんは! みなさん、こんばんは!

 流れが速くて書くのをためらいますが、チョット考えて頂きたいのです。
 あさんの言われている「己心の仏性(自分=仏)」を誰も否定していないと思います。
 あえて言っているとしたら、求道の人さんが、それは条件付きだと言われていること位です。

 これを、同じ事を何度も話されても、論は進まないと思います。
 このまま続ければ、おそらく天台の本覚思想とどの様に違うのかを説明する必要が出て来ると思われます。

 釈迦滅後、現代までズーっと、あさんと皆さんの様な議論は行われて来たようです。
 「一切皆成」「本覚」的な思想は、釈迦滅後から有るのだと思います。
 鎌倉時代に新たな宗派を起こした多くの僧は、天台の本覚思想を否定して起こしたと私は記憶しています。

 今さら、あさんに、天台を勉強した方が良いと言えませんし、意味も無いと思います。
 私も、10代で宗教的には、さ迷っている時に勉強して、記憶が薄くなっている所もあります。

 「己心の仏性(自分=仏)」(本覚的思想)に近い考えとして「相即論」があります。
 例えば「煩悩即菩提」です。これも、言葉として初めて大聖人様が使われたのでは、ありません。

 SOKAnetでは、「もちろん、この煩悩即菩提とは悩みや迷いがそのまま悟り(=菩提)に等しい
 ということではありません。」と解説しています。
 「己心の仏性」にも、このような捉え方が必要だと思います。
 そこを、大勝利さんが心配されているのではないでしょうか。

 自分に仏性がであると覚ったとしても、それだけでは、自分の成長は難しいのではないでしょうか。

 教学が無くても、お題目を上げれば結果は出ます。
 教学は、信を深め、強くする為に必要なのでは・・・と思います。
 私の、>>70 を一考して頂ければ・・・。

116沖浦克治:2010/10/07(木) 21:22:39 ID:AJ3hr85o0
大勝利さん、また後ほど

 あ、さん、

 衆生己心の妙法を信じない人がお題目を唱えても、本当の力が出ない。
 
 もし貴方がそう考えているなら、二乗です。
 菩薩ではありません。

 そこには迷いの衆生を軽んじる一念が入っています。
 それはね、身子なんですよ。

117:2010/10/07(木) 21:26:35 ID:KtaMljTg0
求道さん

こんばんわ

>あさん、偽書は何らかの下心があってつくられます。
その下心にまんまとはまってしまったのでは
大聖人利用の悪人の思う壺でしょう。




求道さん 
壺 ですか。 そのようですね。

多分 好きで はまっているんでしょうね。

好き や 嫌い で 物事を 判断しては、いけないのでしょうが。


ただ、その下心が、どのような、悪意があるのかが、 解らなければ
どうしようも、ないですね。

求道さんの立場からの 求道さんの お気持ちは察しますが。

求道さんの立場から 莫迦は、わからね〜な と 思って 流しておいて ください。

わからないまま たくさんの人が死んで行く内の 一人なんです。

結果は、最後 自分だけしか 解らない世界かな。

118:2010/10/07(木) 21:35:42 ID:KtaMljTg0
沖浦さん

>>113

>熱原の農民や三烈士はね、自分が妙法の当体などとは知りませんよ。
 そう言う教育レベルに無い時代の農民なんです。

教育ですか? 知識ですね。


自分が妙法の当体だと、信じる事に 知識は、いらないですよ。
必要なのは、信じる と 言う 信です。

119求道の人:2010/10/07(木) 21:40:50 ID:wipuhny60

あさん、貴方は大変有能な求道者です。貴方のような大人材を、創価も脱会組みも見放せるわけ無いでしょう。

だから私に限らず、多くの方が貴方と議論しているのですよ。

当然、現役の学会員と私とは根本的に考え方が違います。

しかし、あさんの素晴らしい部分を認め、コメントしていることにはかわりはないと思います。

私の立場からいえることは、日蓮大聖人の教えを求めるのであれば、ご真筆の現存する御書を中心に教義再考をすべきだということです。

120沖浦克治:2010/10/07(木) 21:44:18 ID:AJ3hr85o0
 エルサルバドルの理事長の体験が以前大白蓮華に乗っていました、あ、さん

 ゲリラの捕虜になって絶体絶命の時、お姉さんに教わったお題目を思い出して唱えたら、奇跡的に釈放されました。
 この人は、己心の妙法なんて聞いた事無い人でした。
 でも、キチンと功徳が出ています。

121:2010/10/07(木) 21:48:00 ID:KtaMljTg0
沖浦さん


>>116


>あ、さん、
 衆生己心の妙法を信じない人がお題目を唱えても、本当の力が出ない。
 もし貴方がそう考えているなら、二乗です。
 菩薩ではありません。
 そこには迷いの衆生を軽んじる一念が入っています。
 それはね、身子なんですよ。


沖浦さん 

なぜ、 私が 二乗なんですか?

どこに、 迷いの衆生を軽んじる一念が 私に あるのですか?


理由を はっきり 教えてください。


一生成仏抄

「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」

「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」

「都て一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず」

「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」

122沖浦克治:2010/10/07(木) 21:53:09 ID:AJ3hr85o0
 貴方はね、あ、さん、ご自分の祈りの結果を書かれない

 法の正邪深浅はね、たもつ人の現実の生活でしか判断が出来ません。
 それを書かないなら、現証を持って自説の正しさを証明できませんよ。
 今のままでは、理論だけです。
 ですので、貴方が、己心の妙法を信じて唱える題目と、それを知らないで御本尊に唱え題目の、現証での変化を書かないと駄目です。
 それがないなら、理論の遊びに過ぎません。

123:2010/10/07(木) 22:00:44 ID:KtaMljTg0
高速さん

こんばんわ

>>115

>>70

を、何度か読んでみたのですが、よく 理解する事が出来ないみたいです。

多分 私のどこかが、高速さんから見て 違うのでしょう。
高速さんからみて、 間違っているのだと 思います。

出来れば、私の どこが、どのように間違っているのかを、

御書の 御文を使って、御指摘してもらえないでしょうか?
お願いします。

124槃特:2010/10/07(木) 22:07:23 ID:TVbo1RYk0
高速太郎さん こんばんは。

温かい御指導ありがとうございます。

>大聖人の仏法も創価学会も本因妙の教えです。
 槃特さんは、特別御形木御本尊様を下付されるには、自分の今の境涯では、申し訳ないと思っていませんか。
 それでは、本果妙だと思います。 過去の行為に対する賞与とは違いますよ。
 そのように、受け取ったら増上慢ではないでしょうか。
 
私は、特別だろうと一般だろうと御本尊様を下付される時に自分の境涯の高低は考えたことはありません。
今の境涯で申し訳ない云々は、思いもよりません。

「この御本尊様は、一生保ち続ける御本尊様ですよ」

下付された時言われた住職の言葉が、今も忘れられないのです。
実際、支部長さんから話をされるその瞬間までお取替えすることなど、想像すらしませんでした。
困惑が先に立ったということです。


> 現在の御形木御本尊様と、特別御形木御本尊様の功徳は、一緒だと思います。
 だから受けたとしても、自分の信心の決意がなければ、意味がないでしょう。
 現在の御本尊様に、槃特さんの思い入れが有ることは、充分理解できます。
 しかし、会社の事、地区の事などは、今まで自分の事が主体だったのでは、ありませんか。
 これからは、もっと広く会社全体の事、地区全体の事を、考える必要が有ると云うことでは、ないでしょうか。


身から出たサビを洗い落とすのに必死な今の自分を考えるに、とても耳の痛い高速太郎さんの言葉です。
絶対に汚名を晴らす、今は自分の事しか祈れません。
綺麗ごとは言えません、業が深いのです。 

>もし、創価学会、御本尊様に感謝の念があるのなら、しっかりと御本尊様へ感謝のお題目をあげて、
 これからは、人間主義の旗を振り、社会へ少しでも貢献して行くとの信心の決意を持って、特別御形木御本尊様を
 お受けするべきだと、私は考えます。
 教学も信心を深めて確信を強くする為に学ぶものだと思います。
 素直な気持ちで、全て本因妙として捉えれば、解る事も多いと思いますが・・・。


私の今の問題と、特別御形木御本尊様をお受けするしないは関係があるとは思えないのです。
ちなみに、こういう問題は信心の塊みたいな実家に指導を受けるのが一番と、昨日電話をしました。
父親と弟に話を聞いたのですが、二入ともに見解が異なり余計困惑しました。

根本は「ただし御信心によるべし」で一致してはいるのですが、ちょっとまいりました。
父のところは、達師の特別御形木御本尊様で、弟は寛師の特別御形木御本尊様です。
弟は十年位前男子部時代に達師の御本尊様からお取替えしたそうです。
その弟から特別御形木御本尊下付について、少々面白くない話を聞かされて、またまたまいりました。

今日統監がありまして、地区部長とも終了後にこの話をしたのですが、地区部長は自分の気持ちが
一番大事だ、お受けするのもお断りするのも本人次第でしょう。と簡潔な言い方でしたね。
地区部長は顕師の御本尊様だったので、全然悩まずにお取替えしたと言ってましたね。

お受けするのをお断りした、と結論は出ている訳ですから、この問題は自分の中では決着です。

それにしても、自分が言いだしっぺみたいなスレッドが、どんどん長くなるのは嬉しいですね。
話に付いて行けない部分が多々ありますが・・・・。

まずもって、勉強 勉強。

125:2010/10/07(木) 22:18:33 ID:KtaMljTg0
>>

沖浦さん

沖浦さんが、現証 書き込んでいる事 すごいですね。


>貴方が、己心の妙法を信じて唱える題目と、
それを知らないで御本尊に唱え題目の、現証での変化を書かないと駄目です。


沖浦さん 私には、証明できないですよ。

大聖人の言われている事を、書いているのです。
御書の御文を 大聖人は、このように 言われてますよ と 貼り付けています。

また、大聖人の言われているよに、題目を あげる 努力をしています。


大聖人は、このように 言われてますよ と 貼り付けている事が
理論の遊びであると、 認識されるのなら しょうがないですね。

沖浦さんから みたら 理論の遊びなんでしょう。

私は、遊びのつもりは、 ないんですよ。

126沖浦克治:2010/10/07(木) 22:24:07 ID:AJ3hr85o0
あ、さん、
 
 私は貴方が遊びで書いていると思った事はありません。
 しかし、どう言う凄い事を知っていても、信じていても、それを流布できないなら、持っていないことと同じなんです。
 ですので、大聖人門下の私共は、自分の信じるもの、知りえた知識を流布させる責任があります。
 絶対の真理が仏法ですが、それを証明する行為は常に相対です。

 その、相対の最たるものが自身の現証です。
 私の経験では、素直に唱題し、戦うなら、信じ方に問題があっても無関係に功徳がありました。
 自身に謗法があると、功徳は出ませんでした。

 ですから、題目の力は信じ方ではなく、謗法のあるなしに左右されます。

127:2010/10/07(木) 22:29:06 ID:KtaMljTg0
沖浦さん

お題目をあげられる 事が 最高の功徳だとは、 思いませんか?

これ以上の 功徳が あるのでしょうか?

「阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり」

沖浦さん 私は、この才覚で 生きて 行こうと 思っているんですよ。

128槃特:2010/10/07(木) 22:29:11 ID:TVbo1RYk0
あ さん こんばんは。

私を含めて皆さん誰も理論の遊びとは思っていないでしょう。

実際私もものすごく勉強になってます。

どの辺が勉強になっているのかと問われれば、この辺ですと曖昧に答える槃特ですが。

とにかく、感謝申し上げます。

129沖浦克治:2010/10/07(木) 22:37:41 ID:AJ3hr85o0
 そうですよ、あ、さん

 題目を唱えられる、これは最高の功徳です。
 御書にあいります。
 ですが、自行化他が責務です、門下ですので。
 そうなると、他人に題目を唱えさせねばなりません。
 ですので、現証が必要です。

130求道の人:2010/10/07(木) 22:55:12 ID:wipuhny60

現証、

創価学会を辞めてからこの4年間の間に2度職場で昇格しました。

創価学会の御本尊を拝まなくなり、子供達の成績が上がりました。

ちょっと不謹慎ですが、昨年はBIG1000で1等が当たりました。

今年は子供のいない叔父叔母より、遺言状によって財産の遺贈を受けました。

学会時代に選挙と新聞のノルマでうつ病になった家内が、創価学会辞めてから社会復帰できました。

創価学会辞めていいことばかりです。

そのほかにもまだまだありますが、個人が特定される可能性があるのでネット上ではやめておきます。

創価学会を辞めたら罰が当たると思っている皆さん!そんなことはありません、いいことばかりです。

131高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/10/07(木) 22:56:10 ID:JThdDrQw0
槃特さん、こんばんは!

 ご返事ありがとう御座います。 指導なんて、とんでもありません!

 実は、私も同じ経験があるのです。
 以前、私は反発心が大盛なところがあり、学会の人事に対しても、素直に一度で
 お受けした事は、ありませんでした。
 今の役職のままでも、上の役職の方より活動しているから、それでいいでしょう、と言う考えでした。

 私にも、特別御形木御本尊様の話が有り、今までの折伏の成果に対して御下付されると云う
 説明だったので、それでは、おかしいのではないかと思いお断りしました。
 御本尊様からの功徳は、お断りしませんが、頑張れば学会から、何かが得られるのであれば、
 一般的な組織と同じで、私的には納得いきませんでした。
 実際、槃特さんと奥さんとのやりとりの様な事が、私もありました。
 ある幹部の方から、そうではない、シッカリとお守りしていく信心が大切・・・と云う指導があり、
 それが、槃特さんへの、本因妙の話に繋がるのですが・・・。

 槃特さんが、スッキリしているようなので、それが一番だと思います。
 家族の絆が深まることが大切だと、私は思います。

 差し出がましい内容ですみませんでした。
 これからも一緒に人間革命を目指して行けたら幸いです!

132:2010/10/07(木) 23:06:15 ID:KtaMljTg0
沖浦さん


> 私は貴方が遊びで書いていると思った事はありません。
 しかし、どう言う凄い事を知っていても、信じていても、それを流布できないなら、持っていないことと同じなんです。
 ですので、大聖人門下の私共は、自分の信じるもの、知りえた知識を流布させる責任があります。


南無妙法蓮華経の流布ですね。


 
>絶対の真理が仏法ですが、それを証明する行為は常に相対です。
 その、相対の最たるものが自身の現証です。


なにと、相対しているのか わからないのですが
わたしは、現証を相対する事は、しないと 思います。

「寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり」

私は、ありのままでいきます。

頓珍漢 や 失敗や 楽しく 悲しく の ありのままを。

 


>私の経験では、素直に唱題し、戦うなら、信じ方に問題寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなりがあっても無関係に功徳がありました。
 自身に謗法があると、功徳は出ませんでした。
 ですから、題目の力は信じ方ではなく、謗法のあるなしに左右されます。


上記の実践は沖浦さんのやり方なんですね。

わたしは、信じ方に 問題がないように、していきたいと 思っています。

一生成仏抄

「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」

「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」

「都て一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず」

「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」





沖浦さん わたしは、信じたいようにしか、信じられないんですよ。

今は、上記であげた、御文のように 信心をしていこうと 思っているんです。

沖浦さんには、どんなに あがいても なれないので 。


こんなに、沖浦さんと 話をしたのは、初めてですね。 沖浦さんの 投稿を みなければ、
こんな、わたしには、ならなかったの思います。
感謝しています。 


これからも よろしくお願いします。

133槃特:2010/10/07(木) 23:08:57 ID:oSEnZyow0
高速太郎さん こんばんは。

本当に温かいお人柄ですね。

私のような若輩でたわけ者に対しても、区別なくお話して下さる。

高速太郎さんに答えうる人材になるよう、必死にがんばります。

お題目あげます。

134槃特:2010/10/07(木) 23:14:12 ID:oSEnZyow0
求道の人さん はじめまして こんばんは。

>創価学会を辞めたら罰が当たると思っている皆さん!そんなことはありません、いいことばかりです。


罰は当たるものではなく、出るものだと聞いたことがありますね。

私は創価学会辞めない方がいいこといっぱいあると思ってます。

135求道の人:2010/10/07(木) 23:20:28 ID:wipuhny60

槃特さん、はじめまして。

私は本当に創価学会やめてからいいことばかりです。

やめたいのにやめる事が怖い人に、その苦痛から解放され、自由と歓喜を味わってもらいたいと思います。

今、創価学会に夢中な方は、どうぞその世界でがんばって下さい。

136:2010/10/07(木) 23:23:33 ID:KtaMljTg0
>>119

求道さん

こんばんは

>私の立場からいえることは、日蓮大聖人の教えを求めるのであれば、
 ご真筆の現存する御書を中心に教義再考をすべきだということです。


少しづつですが、勉強していきます。

大聖人に よみがえって もらって 講義でも してくれれば、いいのに
と 思ってしまいます。

御文も ちゃんと 指紋でも 押して きちんと 後世に 残すように
弟子に きつく 言いつけて くれれば な〜 と
思う 今です。

涼しくなってきましたので、 腹だして、寝ないように!!(笑

では、おやすみなさい。

137求道の人:2010/10/07(木) 23:42:24 ID:wipuhny60

あさん、

>少しづつですが、勉強していきます。

これがもっとも大事なことだと思います。
学ぶことを怠らなければ、創価にいようとどこにいようと、本当の大聖人の教えにめぐり合える日が来ると思います。

できるだけお腹は出さずに寝ようと思います。おやすみなさい。

138沖浦克治:2010/10/08(金) 05:31:49 ID:AJ3hr85o0
 あ、さん、おはようございます

 こちらこそ宜しくお願い申し上げます。

 神戸にいたころ、冬はスキー場に1週間以上いる事が多かったですね。
 おかげで仕事しくじりました。
 当時、車内泊ですから、勤行唱題東向いてやってました。
 お守り御本尊をいただきたくて申請したら、通りました。 
 直前に御本尊送りやったからでしょう。

 所が、その直後、本尊は私の命にあることに気づきました。
 お守り御本尊を持ち歩きしなくても、自宅でキチンと御形木本尊拝むなら、手ぶらで言いとわかったんです。

 ですので、お守り御本尊いただきましたが、お仏壇の中です。
 あった方が拝み易いとは思うんですが。
 車の中でもし盗難でもされたら嫌ですからね。

139沖浦克治:2010/10/08(金) 05:33:14 ID:AJ3hr85o0
 あ、さん、

 戸田先生の御書講義のレコードを出されています。
 池田先生が出されました。

 探してお聞きになられることをお勧めいたします。

140沖浦克治:2010/10/08(金) 05:36:10 ID:AJ3hr85o0
 求道の人さん

 創価学会を辞めて、良くなる人もおられますね。
 私の知るかぎりですが、組織と幹部に嫌な事や嫌な人がいて、知らず知らずに怨嫉謗法を冒していて、退会するとその環境がなくなって、謗法も終わります。
 お題目は唱えますから、功徳がある。

 こう言うケースが多いですね。
 いずれにせよ、貴方が幸せならそれが一番ですよ。

141沖浦克治:2010/10/08(金) 05:36:57 ID:AJ3hr85o0
 槃特 さん、おはようございます

 私も、創価学会をやめなくて良かったと思う毎日です。

142:2010/10/08(金) 07:30:59 ID:KtaMljTg0
沖浦さん

おはようございます。

>>138

>本尊は私の命にあることに気づきました。
 お守り御本尊を持ち歩きしなくても、自宅でキチンと御形木本尊拝むなら、手ぶらで言いとわかったんです。

> ですので、お守り御本尊いただきましたが、お仏壇の中です。
  あった方が拝み易いとは思うんですが。


沖浦さんが 以前に紙の曼荼羅本尊は、絶対条件では、ないと 言われていましたね。

私も、そのように 思っています。



>本尊は私の命にあることに気づきました。

沖浦さんのように 気づく人は、少ないと 思います。

私みたいに 気づけない人は、 大聖人さまは、「本尊は私の命にある」のだと 信じなさいと あえて 言われています。



一生成仏抄

「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」

「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」

「都て一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず」

「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」





紙の曼荼羅本尊が、絶対条件で 無いので 沖浦さの言われた「本尊は私の命にある」を しているだけです。



では、よい一日をお過ごしください。

143沖浦克治:2010/10/08(金) 12:32:15 ID:AJ3hr85o0


 青春対話・Ⅰ・Ⅱから抜粋引用


 『日蓮大聖人の「魂」である。
そして、その「魂」を、書き顕した曼荼羅本尊でもある。』
 〜引用終わり〜

 魂はね、大聖人己心の妙法です。
 そしてその妙法は大聖人様が仰せの通り、一切衆生に備わるのです。
 御書にありますよ。

 『此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 私共一切衆生の己心が、もったいなくも大聖人様と全く平等なんです。
 私共の己心の妙法は、大聖人と全く同じなんですよ。
 そして、その魂と言える己心の妙法を書き顕した物が、御本尊です。

 元になる己心の妙法が本。
 書き顕されている御漫荼羅が垂迹で迹。

 私や貴方が写真に写るでしょう。
 本体の私や貴方が本、写真が迹。

 同じことですね。

144:2010/10/08(金) 20:52:55 ID:MZ/B9D/w0
>>143

こんばんは 沖浦さん



>元になる己心の妙法が本。
 書き顕されている御漫荼羅が垂迹で迹。





沖浦さん 

沖浦さんの 信仰の対象について あらためて お聞きしたいと思います。

沖浦さんに とって 本当に 帰命して 信じるのは 下記の二つのどちらなんですか?


● 己心の妙法なんでしょうか?

● 書き顕されている御漫荼羅なんでしょか?


わたしは、己心の妙法です。

145沖浦克治:2010/10/08(金) 21:40:21 ID:AJ3hr85o0
 己心の妙法に、紙の御本尊を通じて帰依しています。

 ですので、本当は己心の妙法ですね。

146:2010/10/08(金) 21:49:48 ID:MZ/B9D/w0
沖浦さん お返事 ありがとうございます。

沖浦さんが言っていた。
「紙の御本尊は、道具」として、 沖浦さんの己心の妙法に帰命しているんですね。


ありがとうございました。

147日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/10/08(金) 22:13:45 ID:8FNX.yWoO
>>146
あさん、横から失礼しますm(__)m。

【道具】とは、
◎武士であれば、武器であり、
◎職人であれば、命。

先日、『コチラの板』の「どっかのスレ」で備前さんと道具について対話した時に出た意見です。

参考にされてくださればと思います。
肯定しろ。とは申しません。こういう考えもあるのか。程度の参考としてです。

横から失礼いたしましたm(__)m。

148沖浦克治:2010/10/09(土) 11:32:19 ID:AJ3hr85o0
 日蓮正宗の歴史を見ればわかりますが、寛師以前、約100年間に渡って要法寺から、法主が来ていました。
 その期間、当然、大石寺は、要法寺の下に位置づけられていたのです。
 寛師はその現状を打開するために、色々考え、戒壇本尊本懐論を作ったんですよ。

 大石寺にある戒壇本尊が大聖人出世の本懐で、三大秘法の当体なら、日蓮系において、大石寺が絶対の権限を持ちます。
 ですので、観心本尊抄文段で、弘安2年10月12日の戒壇本尊こそが究竟中の究竟、本懐中の本懐だと主張したのです。
 ですが、そう言うことは、御書に一言も書いていませんし、興師も目師も、書いていません。
 そして何よりも、聖人御難事と同じ月に、三世諸仏総勘文教相廃流と言う法門の大事を書かれた御書に、戒壇本尊は一言も触れられていません。
 極めて不自然です。
 また、道師の書いた、三師御伝土代にも、熱原法難機縁の御本尊図顕が書かれていますが、戒壇本尊とは全く無関係です。
 寛師は戒壇本尊本懐論を証明するために、御書の引用をしておりません。
 只、後付の日にち合わせのみ。
 極めて根拠が薄弱です。

 これらをかんがみれば、戒壇本尊が出世の本懐で無いことは明らかです。

149求道の人:2010/10/09(土) 11:46:30 ID:LOOiFaK.0

最近の研究では、法主だけでなく寛師が日蓮本仏論を構築する上で重宝した、両巻血脈(本因・百六箇)も要法寺系の相伝書といわれていますから、何もかもが要法寺あっての大石寺であったことが事実でしょうね。

その要法寺を寛政法難で裏切り、恩を仇で返したのも厳然たる歴史の事実でしょうけどね。

150沖浦克治:2010/10/09(土) 13:51:57 ID:AJ3hr85o0
 求道の人さん、今日は

 寛政法難は寛師以後半世紀ほど立っていますから、即時に結びつけることは避けたいです。
 ですが、近年宗門は、戦時中と平成のはじめの2回、大恩ある創価学会を切り捨てました。
 そう言う裏切りの体質があるのかも知れませんね。

151高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/10/10(日) 19:44:58 ID:JThdDrQw0
あさん、こんばんは!

 連続して投稿できず話が途切れる事をお詫び致します。

>>123 >高速さんからみて、 間違っているのだと 思います。
 何度も申し上げておりますが、間違っているとは思っていません。

 求道の人さんの >>130 が、出る前に、話をもう一歩進めて欲しかったなと・・・。

 本覚思想が何故廃れてしまったのか。私が思うには、諸法実相が、そのまま仏の覚りの世界であると観て
 その覚りが本より己心にあると考えれば、自分は、そのまま仏である、と云う事になります。
 極端に考えれば、凡夫は凡夫のままで良い事になり、修行も必要無い事になりかねません。
 自分は、自分が納得できる道を行けば良いとなってしまいます。はたして、それだけで良いのでしょうか。

 ある面では、解放かも知れませんが、堕落を生む原因となって、衰退してしまったのだと思います。

 あさん、「己心の仏性」を覚知して、「御書」を根本に大聖人様の仏法を学び、「題目」をあげたら、
 これ以上は、なにも必要が無いと云う事になりませんか。

 また、求道の人さんの、創価学会の呪縛から解放され、大聖人様の御真筆の御書を根本にする事で、
 正しい仏法を学ぶ事ができ、そして自分も幸せになったとの話しに、なるほどとなってしまいます。

 それは、それで間違っては、いないと思います。しかし、我々、学会員の振る舞いは、そこで止まって、
 良いのでしょうか。 菩薩道をどの様に行ずるかを、考える必要があるのでないでしょうか。
 
 久遠実成の釈尊に教化された「地涌の菩薩」とは、・・・何なんでしょう。

152高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/10/10(日) 19:48:38 ID:JThdDrQw0
求道の人さん、こんばんは!

 ご覧になっていたら、教えて頂きたいのですが、
 求道の人さんは、「勤行唱題」ですか、それとも「唱題」だけですか?

 差しつかえなければ、教えて頂けないでしょうか。

 宜しくお願い致します。

153求道の人:2010/10/10(日) 20:42:52 ID:LOOiFaK.0

高速太郎さん、こんばんは。

私は読経(方便品・自我偈)、要文拝読(御書の一節)、題目です。
自我偈は皆さんと違い「自我得佛来」からではなく、「爾時世尊 欲重宣此義 爾説偈言」から読みます。

御観念文は意味合いとしては大きな違いはないですが、古式を尊重しています。
読経前には讃嘆文として御義口伝の一説を拝読します。

これは旧興門派(明治期)の化儀なんだそうです。

数珠は大石寺にある日目上人御所持と伝わるものに近いものを使っています。

御本尊は興門派歴代の板曼荼羅と祖師像を安置しています。
仏壇内には御札もあり、皆さんからすれば「雑濫勧請」ということでしょう。

154高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/10/10(日) 22:08:55 ID:JThdDrQw0
求道の人さん、ご丁寧に詳しくありがとう御座います。

>これは旧興門派(明治期)の化儀なんだそうです。

 本門宗と云うことでしょうか?


>御本尊は興門派歴代の板曼荼羅と祖師像を安置しています。

 これは、「人法一箇」だと思うのですが。


 今日は、時間が有りませんが、またお話をお聞かせ願えればと思います。
 人法一箇をどの様に捉えておられるのかなど、お聞きしたいと思います。

それでは、皆様、きょう一日、大変お疲れ様でした。

155求道の人:2010/10/10(日) 22:46:49 ID:LOOiFaK.0

高速太郎さん、

>本門宗と云うことでしょうか?

ほぼそんな感じだと思います。ただ旧興門派時代は大石寺も一緒でしたけど。

>これは、「人法一箇」だと思うのですが。

人法一箇は本当は人法体一と云うみたいですね。
大石寺では本門戒壇の大御本尊をもって人法一箇の御本尊、保田妙本寺では万年救護の大本尊と正御影をもって人法一箇と拝するようですが、興門派でも他山には人法一箇という考え方はなく、住持三宝を模したというのが一般的だと思います。

個人的には保田妙本寺の考え方では、人法体別となってしまうと思います。
眼前の大曼荼羅をもって、本尊であると同時に宗祖日蓮大聖人の御魂と拝するところから、人法一箇の思想へと発展したのではないでしょうか。

156釈子・創価門流:2010/10/10(日) 22:47:31 ID:CSmnFY5k0
>>153
日興上人門流では、法華経読誦ではどの様な形態だった思われますか?

『大石記』(注:内容に疑義有り)
「仰に云く安房の中納言の阿闍梨は重須の大藏に向って云く何としても道心を發コして法華一部を讀み給へと、是レを大藏は本山うとく渡ル御房と云ヒき、
あわれ其ノ時何と道心を發コし其ノ讀誦の心を捨て給へと云はざりけるよ云々日目上人は日興上人へ佛法の御異見をば御申シありき所謂方便品の開三計リ
遊ハして廣開三をあそばさヾりけるを、日目、日興上人へ御申シある様は大聖人の御時已に遊ハされ候しに尤モ讀むべきにて候如何ンと、其ノ時上人仰セ
に云く尤も爾るべく候へども新發意共が自我偈をだにも覺エざる程に之レを略し候、已後讀ミ候べしと其レより遊ばしけるなり、又其ノ後中絶したりける
が今の日恩の時又興行して南ノ坊主に書カせ参せて大貳阿等を始メとして懐中して稽古して讀み給ふなり」

方便品長行と寿量品長行・自我偈の読誦が上古で行われていた事が伺いしれるのですが、実際はどの様だったのか。

157:2010/10/10(日) 22:54:14 ID:MZ/B9D/w0
高速さん

>>151

こんばんわ



わたしには、難しいですよ。

答えは、高速さんです。


高速さん と 私が 同じ事をする事に 意味が 無いと思っているんです。

ずいぶん考えたのですが これが、答えです。
ごめんなさい。

あすは、たのしい一日を
お休みなさい。

158沖浦克治:2010/10/11(月) 06:26:36 ID:AJ3hr85o0
 釈子・創価門流さん、おはようございます

 本当はね、大聖人の仏法では、お題目だけでいいのです。
 全てが含まれています。

 『此の南無妙法蓮華経に余事をまじへばゆゆしきひが事なり、日出でぬればとほしびせんなし雨のふるに露なにのせんかあるべき、嬰児に乳より外のものをやしなうべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし』
 (上野殿御返事)

 この通りです。 
 では、どうして大聖人は法華経を読まれたのか?
 機根です。

 僧が、題目だけでは馬鹿にされるのです。
 だから、ありがたく法華経を唱えて見せられた。

 これだけの事だと思います。

159沖浦克治:2010/10/11(月) 06:30:03 ID:AJ3hr85o0
 高速太郎さん、おはようございます

 本覚思想は仏法にはありません。
 本迷思想ですね。

 一切衆生は本来自分が仏であることに迷っている。

 これが基本です。
 本来全人類は仏ですが、忘れて迷っています。

 『此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、』
 (十如是事)

160求道の人:2010/10/11(月) 09:36:09 ID:LOOiFaK.0

釈子・創価門流さん、

御真蹟は現存しませんが、富士門流・三位日順師「摧邪立正抄」、中山門流・等覚院日全師「法華問答正義抄」といった上代文献に引用される「水月御書」に『されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。』とあることは、一つの参考になると思います。

161沖浦克治:2010/10/15(金) 13:51:14 ID:AJ3hr85o0
 御本尊の話題は、こちらでもどうぞ

162沖浦克治:2010/11/21(日) 21:50:03 ID:AJ3hr85o0
 先ほど支部長の家に訪問いたしました。

 たまたま戒壇本尊の話になって、私が、

 聖人御難事は10月1日で、戒壇本尊は12日。
 ですので、聖人御難事での、余は27年なり。が示す事実は、戒壇本尊とは無関係です。
 更に、編年体御書には、弘安2年10月12日付けの御書が編纂されていて、そこには戒壇本尊は一言も出てこない。
 道師の三師御伝土代には、戒壇本尊図顕をに否定的な記述がある。
 有師の本尊論に、戒壇本尊は全く出ない。
 ですので、戒壇本尊本懐論は、明らかに間違いです。

 このように言いましたら、支部長はその場でご納得でしたが、婦人部長さんは、驚かれたようでした。

163釈子・創価門流:2010/11/22(月) 00:32:25 ID:CSmnFY5k0
>>162
弘安の板本尊は、日蓮大聖人とは無関係でしょう。
 六老僧・富士上古の諸師文献には見えません。

164沖浦克治:2010/11/22(月) 07:14:01 ID:AJ3hr85o0
 釈子・創価門流 さん、おはようございます

 無関係ではありません。
 大聖人御図顕の本物の御本尊です。

 大聖人ご直筆か?
 書写か?
 書写なら在家か出家か?

 これは余事です。

165釈子・創価門流:2010/11/22(月) 12:15:06 ID:tS0VJAUw0
こんにちは、沖浦さん。

石山の板本尊は、日蓮大聖人の御真筆法華文字曼荼羅から一部を模し、諸尊を
創作あるいはパクッテ出来た物です。

大聖人御図顕=本物と言えるのでしょうか?
 パッチワーク本尊でしょう。
犀角独歩氏や金原氏や宿坊さんが、明快に答えられていますので、ご参照ください。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51202191.html

166備前 ◆TtzwqSGci2:2010/11/22(月) 14:51:16 ID:g2zr24dw0
  こう言うスレもあったのですね、今頃気が付いた (笑

  初めまして、釈子・創価門流さん

   > 大聖人御図顕=本物と言えるのでしょうか?
   > パッチワーク本尊でしょう。

  パッチワ−クであろうが書写御本尊であろうが、大聖人御図顕御本尊と違いますか?
  沖浦さんも、大聖人直造とは言われてませんよね。
  釈子・創価門流さんが、名を挙げられている人達も、「戒壇御本尊」自体をを「偽」と謂っている訳ではありませんよね?

  「大聖人直造」と言う事に対して「偽(直造では無い)」と言っているのです。そこら辺を履き違えるとエライ誤解の元となります。

167日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/11/22(月) 15:37:48 ID:8FNX.yWoO
創価草創の書籍「折伏教典」にありました。私の記憶です。

日蓮宗?勝劣一致派?石山?池上?
なんだか忘れましたが、

『真筆だからと言って、それが大聖人の本意に適ったものかどうか。』
についての記述です。
答えは、真筆だからといって、本意とは関係ない。って内容だったと思います。

今から始まろうとする??このスレッドの議論は、それと同じように感じて見ておりました。
その上で、私の考えを述べます。
題して、《私の考え》
・私は10月12日を想い、
・その数日前の大聖人の御心に自身の思いをめぐらせながら、
・池田先生の指導を通し、・我が家の御本尊がその時に顕された御本尊とまったく差別なく同じだと
・祈る事が肝要かと思います。

以上、これは「理」であり(:_;)、私が祈ることで始めて「事」になりますね(-.-;)。


横から私事、失礼いたしましたm(__)m。

追伸、沖浦さんへ(^_^;)。
支部長宅での昨晩の件(^_^;)。昨日読んでました。

なんともコメントのしようがありません(:_;)。
誤解を招かないようにと(^_^;)願っております。

168日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/11/22(月) 15:41:47 ID:8FNX.yWoO
>>165
お久しぶりです(^.^)。
コチラの方(この掲示板の方々)よりも詳しい方がおりますが(^_^;)。
他所の掲示板の方ですが。
紹介しましょうか(笑)?。

169沖浦克治:2010/11/22(月) 15:54:49 ID:AJ3hr85o0
釈子・創価門流さん

 芭蕉の句、

 古池や 蛙飛び込む 水の音

 誰が何処で何に書いても、松尾芭蕉の句です。
 御本尊も同じです。
 誰が何時何処で何にどうやって書いても。
 大聖人御図顕の御本尊です。

 犀角さんと、金原さんの本は読んでいません。 
 私は昭和54年から、今の意見です。
 あの方々は、私の後発ですね。

170釈子・創価門流:2010/11/23(火) 01:22:35 ID:CSmnFY5k0
板マンダラに付いて

⇒日蓮大聖人とは無関係と申した事は、日蓮大聖人の真意として何ら無関係で、似せて作るために、日禅師授与曼荼羅の一部をもってき、
残った部分を創作あるいは、何処から持ってきて出来上がった彫刻本尊であると。
 本尊を利用した、悪意にしか感じないということです。

顕発相貎が同じであれば、何でも日蓮大聖人の法華文字曼荼羅になるという道理は理解はしております。

⇒「戒壇の本尊」という言葉が日蓮大聖人の真意として有効かは疑わしいのですが、法華文字曼荼羅に
  図顕された通りの造像本尊であると私は思っております。

171沖浦克治:2010/11/23(火) 07:00:48 ID:AJ3hr85o0
釈子・創価門流 さん、おはようございます

 戒壇本尊は、御書に一言も出ていませんから、嘘だと思います。
 寛師は人師ですから、彼の説は無視していいでしょうね。
 後年、戒壇本尊を広宣流布に上手く利用なされたのが戸田先生です。
 しかしながら、世界広布が現実に進む今、過去の物となりました。
 そのうち、創価の中では消滅する思想でしょうね。

172求道の人:2010/11/23(火) 10:46:50 ID:yrxG4b3w0

能勢順道師の諸記録第1部によれば、大石寺御影堂の棟札に日精師の筆にて「本門戒壇本堂」と記されていることから、日目師らによって執筆された「日興上人御遺跡事」にみえる「本門寺本堂」(日蓮聖人御影安置すると出ている)を、大石寺では「本門戒壇」と解釈したのでしょう。

また日精師は「板本尊あるゆえに御堂とはいうなり」と家中抄に記されていますから、御影と板本尊のセットが江戸初期までの大石寺の「本門戒壇本尊」と解することができます。

所謂「本門戒壇の大御本尊」一体に人と法を見るのは、日寛師の独創かもしれませんね。

173釈子・創価門流:2010/11/23(火) 23:09:43 ID:CSmnFY5k0
>>172
確かに、『日興上人御遺跡事』には日目師・日善師・日仙師連判にて
「日蓮聖人御影、井ニ御下シ文・・・本門寺建立之時ハ本堂ニ納メ奉ル可シ」
(日蓮宗宗学全書第2巻 目師之部 P202)
とございますね。

でも、御影がいつから本尊として成り立ったのでしょう?

日興上人が、日蓮聖人御影に対しての執着の強さが発展したためでしょうか?

①『西御坊御返事』(日興上人全集 P155)
「聖人御影の御寶前に申上まいあらせ候了」
②『了性御房御返事』(同 p173)
「法華聖人の御寶前に申上まいらせ候了。」
③『弁阿闍梨御返事』(同 P182)
「御状法主聖人御神殿備進奉候了。」
④『民部公御房御返事』(同 P183)
「貴状先師寶前讀上候了。」
等々、門下・信徒からの御供養物・状を毎々に日蓮大聖人の御影に供えて(報告)
いた事がわかります。

174求道の人:2010/11/23(火) 23:30:20 ID:yrxG4b3w0

釈子・創価門流さん、ご無沙汰です。

本門戒壇思想は重須では日順師に、郷門では日伝師、尊門では日大師にと興門上代の諸師からみられますので、日興上人の段階で本門戒壇思想あるいはそのもととなる考えがあったことは間違いないと思います。

日興上人御消息文にみえる御影信仰の形跡は、本門戒壇を意識してのものと思います。

日昭・日朗両師は弟子を比叡山の大乗戒壇で受戒させているわけです。
受戒は聖僧の手によって仏門を志す沙彌に行われる儀式ですが、日興上人は末法における聖僧は法主日蓮聖人唯お一人と考えていたものと思われ、それゆえに本門戒壇には日蓮聖人御影を安置し、日蓮聖人より受戒を受ける儀式の場所としたかったのではないでしょうか。

御影=本尊というよりは、御影をもって生身の日蓮聖人と拝し、本門戒壇にて常住にて説法を続けるゆえに富士門流では読経の祖師像を用いたのではないかと思えてなりません。

そして御影(生身の日蓮聖人)より受戒を受けるという儀式を模索したのではないかと。

175釈子・創価門流:2010/11/24(水) 00:14:48 ID:CSmnFY5k0
求道の人さん、こちらこそご無沙汰しております。

⇒"受戒"。確かに戒壇堂とは"受戒"の場になりますね。
 日目師の消息文(全書第2巻 目師之部 P219)
「日本一のくぬぎ一だ御はし三百ぜん、をくり給候て、聖人の御影に申あげ候了」
にありますが、大石寺住持・日目師の言や、日代師の言など、富士上古では重須・石山の
両山にて聖人御影を御安置していたのですね。
 そうすると、戒壇とは両山に成立していたのでしょうか?
それか、大師講のように聖人御影の御前にて説法の場という意味合い色が強かったのか。

⇒日昭上人は「権律師」「法印」の号を比叡山より賜っていますね。
  日昭上人・日朗上人と日興上人とで、滅後に受戒の意識に付いてこうも隔たりがるのは
 すごいですね。

176求道の人:2010/11/24(水) 21:20:18 ID:yrxG4b3w0

釈子・創価門流さん、

日興上人も日目上人も、恐らくは本門戒壇は「国主立」と考えていたでしょうから、自前の御影堂は本門戒壇を模したものと認識していたのではないでしょうか。

本門題目・本門本尊・本門戒壇はそれぞれ独立した側面があると思います。
「本門戒壇の本尊」は後世創作で、本門戒壇に本尊は安置しないのが上代の思想と思います。

特に興門では御影堂=本堂ですが、国主立の戒壇が建立されなかった事実から、本山格の寺院では受戒の場として日蓮聖人御影を奉安する場所を本堂(御影堂)としていったのではないでしょうか。

資料手放しで大雑把な表現にて失礼致しました。

178岩志九郎:2013/10/26(土) 13:43:28 ID:???0
新しい掲示板を見つけました。 宗教掲示板を紹介します。 
  
http://shizu.0000.jp/cult/index2.html
宗教@しずちゃん ■ ▼  宗教に関する話題です。
http://shizu.0000.jp/cult/index2.html

創価カルト、池田先生のスレッドが沢山あって、面白いですよ。
カルトの皆さんも、どんどん投稿しましょうね。


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