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ホラーテラー作品群保管庫

156なつのさんシリーズ「ノック 下」1:2014/06/16(月) 21:56:04 ID:mn6OmNt.0
誘拐犯の女とその息子が、まだこの家の中に居る。
すぐには理解できなかった。噛み砕いて、その言葉の意味をゆっくりと脳に染み込ませる。
ようやく理解し、最初に出てきた感想は「そんな馬鹿な」だった。
「そんなこと……」
「無いと言い切れるか?お前、Kが言ってた、犯人の女が失踪する前に残した、遺書らしき手紙の内容覚えてるか?
 確かな情報じゃないかも知れんが、『息子の元へ行きます』って言葉は、『息子の居場所』を知っている者の台詞だ」
「……何年も行方不明で、死んだものと思ったんじゃない?」
「個人的な視点になるが、俺はそうは思わない。息子のために、白熱灯ならまだしも、部屋の窓を潰すような母親だぜ?」
「でも、だったら……、行方不明は、狂言だったってこと?」
「さあな。それは分からないな」
「狂言なら、まさか、二人共生きてる……?」
「いや。少なくとも息子は死んでるだろうな。だから、彼女は誘拐事件を起こすんだよ。
 動機については、警察の見立てで間違ってないと思う」
いなくなってしまった息子への想いから、同じ年頃の男の子を誘拐しては、数日間だけ一緒に暮らす。
息子と同じ部屋に閉じ込めて、息子と同じように会話をしようと話しかける。
「つまり、だ。
 俺は、母親は何らかの理由で死んでしまった息子の死体を、
 どこかに隠し、周りには行方不明になったと伝えた、と考えてる。
 認めたくなかったのか、他の理屈が働いたのかは知らないがな」
そして、一人に耐えきれなくなった母親は誘拐事件を起こす。
息子の部屋で子供と接することで、自分の子供は生きていると思い込みたかったのだろうか。
けれども、その行為を数回終えたところで悟ったのだろう。所詮、彼らは自らの息子じゃないのだから。
「でもさ、何で、その二人の死体が『この家にある』 って分かるんよ?」
「別に分かってるわけじゃない。ただの希望的確率論だ。
 自分の一人息子なんだから、少しでも傍に置いときたいと思うのが人情だろ」
そしてSは壁を二度、コンコンとノックする。
「……そして、だから、お前は今日ここに来たんだよ」
「は……?」
紙風船から空気が抜けたような間抜けな音が僕の喉から滑り落ちる。
「……僕が、何?」
「言っとくが、今俺が言ったのは、未だ真相でも何でもない。全て想像と憶測の産物だ。
 ただ、お前も、俺と同じように考えたに違いないんだ。否定するか?お前は無意識下の元ロジックを組み立てたんだよ。
 そうして、それを探したい、見たいという欲求が、ノックの音になって意識下に現れたんだ」
「なっ、な、おい、何でSにそんなことが分かるのさ」
「お前に聞こえるノックの音は、俺には聞こえない。だとすれば、そいつはお前の中で鳴っている音だ。
 お前自身が脳みそをノックしてたんだよ」
「そんなこと言ったって、僕は、この家の子が日光に触れちゃいけない体質だったなんて、初めて聞いたよ?」
「数年前に、この事件が世間で話題になった時、そのくらいの情報は流れただろうな」
「し、知らないし、見てないし、覚えてないし」
「覚えてなくたって、ちらりと見やっただけの情報も、脳みそはちゃんと保存しているもんだ」
そんな馬鹿な、と言おうとしたけれど、それより早くSが口を開く。
「じゃあ聞くが。お前、この家に入ってから、ノックの音は聞いたか?」
その言葉に僕は絶句する。
確かにそうだ。この家の中に入ってから、それまで僕を誘導していたノックの音はぱたりと止んだ。
まるで、その役目を終えたかのように。
「その音の役割は、お前を、親子二人の死体がある『らしい』この家に連れて来ることだ。
 ここまでは無意識下で組み立てられても、肝心な死体がどこにあるかなんて分からないからな。誘導しようがないのさ」
僕は目を瞑り、後ろの壁にもたれかかる。身体から、どっと力が抜けてしまったようだ。
Sが小さく笑って、僕の肩をたたく。
「もう、ノックが聞こえることは無いだろ。ま、喜べよ。Kにいい土産話が出来たじゃないか」
全く慰めになってない。僕は力なく笑った。
それは結局、僕は自身の思い込みに従い、大きな大きな無駄足を踏んだということだ。
「帰るか」というSの言葉に、僕は黙って頷いた。
トボトボとSの後ろをついて家を出ることにする。
当初、ノックの主に呼ばれているだなんて思っていた僕が馬鹿みたいだ。
それでも。と頑張って思い直す。
今日の体験が、非常に不思議で、なおかつドキドキワクワクして面白かったことは間違い無い。
ノックの音に誘われて、僕はこんなところまで来てしまい、
そこで起こった事件の裏の一面を、少しでも垣間見たかもしれないのだ。
まあ、良い体験をしたと思おう。

1572なつのさんシリーズ「ノック 下」2:2014/06/16(月) 21:57:04 ID:mn6OmNt.0
玄関のある部屋まで戻る。Sはもう靴を履いて外へ出ていた。
これから、あの外した玄関の戸を元に戻さなくてはいけない。立つ鳥跡を濁さずってわけだ。
その時、ズボンのポケットの中で携帯が振動した。電話だ。誰だろうと思い取り出してみると、それはKからだった。
少し早めに恥ずかしい土産話を披露することになるのだろうか。
一人で苦笑いしながら、僕は外に居るSに「Kから電話」と伝えて、玄関の段差に座り、通話ボタンを押した。
『よおー。俺だ。昼に電話くれてたけどよ。何か用かー?』
どことなく陽気なKの声。
「え?K、まさか今起きたん?」
『わりーかよ』
確か時刻はもう五時に近いはずだ。
「遅いよ。何時だと思ってんだよ、もう夕方になるよ?」
『うっせーなー。何だよ。ソッチの要件は何だったんだよ』
う、と言葉に詰まってしまう。Sの方を見ると、そっぽを向いて欠伸をしていた。
「……ノック」
『はぁ?』
「ノックだよノック。そのノックのせいで、精神的にもノックアウトしちゃってさ。もうまいっちゃってさ」
やけくそになって、僕は床を拳で軽くコンコンコンコンと叩きながら「あはは」と笑う。上出来な自虐ギャグだ。
自分でも可笑しかった。可笑しくて笑う。床を叩いて笑って、そして僕は笑うのを止めた。
電話の向こうでKが何か言っている。でも、何を言っているのかまるで聞こえない。
床を叩く。
コンコン。
もう一度、違う場所を。
コンコン。
立ち上がって、携帯を切った。
外と室内を繋ぐ四畳半程の部屋には、カーペットが敷かれている。
最初に入って来た時も見た、渦まき模様の丸いカーペット。僕はその端を持ち、少しめくってみた。
カーペットの下は板の間で、そこには半畳程の大きさの正方形の扉があった。
心臓が音を立てて鳴っている。頭の中を様々な思考が飛び交っているのに、何も考えることが出来ない。
それは、取っ手の金具を引き出して上に持ち上げるタイプの扉だった。この先に何があるのか、何の扉かもわからない。
手を伸ばして、扉を叩く。
コンコン。
それは僕が今日、今まで聞いてきたノックの音と全く同じ音だった。
どうしてだろう。どうして僕は、『この音』 を聞くことが出来たのだろう。
先程Sが言ったことが正しければ、僕は僕が聞いたことが無い『この音』 を創り出せたはずがないのだ。
……コンコン。
僕は叩いていない。
それは今まで聞いた中で一番弱々しかったにも関わらず、一番はっきりと聞こえたノックの音だった。
決して脳内で創り出した音なんかじゃない。僕の鼓膜は確かにその微弱な振動を捉えていた。
扉についている金具を引き出し、僕は扉を持ち上げる。
かなり重かったけれど、ゴリゴリと音を立てて、扉の下からゆっくりと、まるで井戸のような黒いうろが姿を見せた。
据えた匂いと、ひやりとした空気が、穴から立ち上る。背筋がぞくりとして、全身に鳥肌が立った。
扉を落としそうだったので、裏側にあったつっかえ棒で固定する。
「……何やってんだ?」
いつの間にかSが、玄関からまた家の中に入って来ていた。
僕は返事もしないで、扉の奥の穴を見つめていた。
「そいつは……、たぶん、芋つぼだろうな」
「芋つぼ……?」
「その名の通りだよ。芋を保存しとくために、地下に掘る天然の土蔵だ。古い民家なんかにはたまにある。
 ……というか、お前これどうやって見つけたんだ?」
Sの話を聞くでもなく耳にしながら、僕は穴の奥から目が離せないでいた。
「……Sさ、車の中に、懐中電灯ある?」
少しの沈黙の後、Sは「あるぞ」と言った。
「それさ、取って来てくれない?」
Sは何も言わず黙って車へと向かった。

1582なつのさんシリーズ「ノック 下」3:2014/06/16(月) 21:57:49 ID:mn6OmNt.0
しばらくして戻って来たSの手には、二本の懐中電灯が握られていた。
玄関先から、その内の一本を僕に投げてよこす。
「ありがと」
ちゃんと光がつくかどうか確かめて、僕は再び穴に向き合った。
そっと光の筋を穴の奥に這わす。
思ったより穴は深いようだった。三メートルほどだろうか。
木の梯子がかかっていて、下まで降りたところで横穴がまだ奥に続いているらしい。
横穴の様子は、ここからでは窺えない。
何故か迷うことは無かった。僕は穴の中に入ろうと、扉の縁に手をかけた。
「おい」
Sの声。僕は顔を上げる。
「数年間放置されてたんだ。梯子が腐ってることもある。気をつけろよ」
「……OK」
梯子に足をかける。最初の一歩を一番慎重に。腐っている様子は無い。二歩、三歩と、僕は芋つぼの底に降りてゆく。
頭まで完全に穴の中に入ったところで足元が見えなくなり、あとは完全に感覚で梯子を下った。
しばらくすると、足の裏が地面の感触を掴む。芋つぼの中はかなり寒かった。
湿気なども無さそうで、なるほど、と思う。食料を保存しておくには適した場所だろう。
スイッチを入れっぱなしにしていたライトをポケットの中から出す。そうして僕は、ライトの光をそっと横穴に向けた。
あの時の光景を僕は一生忘れない。
暗闇の中、足元からすぐ先に、一枚の茶色く変色した布団が敷かれている。
その上で一組の親子が、互いに寄り添う様にして静かに眠っていた。
掛け布団の中から二つの頭だけが出ている。きっとあの見えない部分では、母親がわが子を抱きしめているのだろう。
僕はライトの光を向けたまま茫然と立ち尽くしていた。
それ以上、一歩も前に進むことが出来なかった。
足やライトを持つ手が震えているのが分かった。恐怖では無い。ただ、身体が震えていた。
息をするのも辛くなって、僕は二人に背を向けた。
その時、初めて自分が泣いているのだと知った。嗚咽もなく、ぼろぼろと涙だけがこぼれた。
涙は熱く、頬に熱を感じる。
怖くは無い。悲しくもない。感動しているわけでもない。よく分からない。
ただ、強いて言うなら、『痛いから』 だった。
自分の中の芯の部分が、ネズミのような何かに集団で齧られているような。そんな気分だった。
頭上からライトの光が降って来る。Sだった。自分が照らされていることを知り、僕は俯いて涙をぬぐった。
身体の震えはいつの間にか消えていた。
梯子をつたって上へと上る。
震えは止まったけれど、思うように身体が動かず、えらく時間をくった上に、最後はSに引っ張り上げてもらった。
Sは何も言わなかった。僕が落ち着くまで待つつもりなのだろう。
ふと玄関の方を見やると、家の中を隠すように戸が玄関に立てかけられていた。
「ごめん……。もう大丈夫」
そして、僕はSについ先ほど見てきた光景を話した。
「そうか」
Sの感想はただそれだけだった。
僕はずっと考えていた。それは、僕がどうしてあの二人を見つけることが出来たかについてだった。
偶然だったのか。または必然だったのか。僕が無意識下でまたやらかしたのか。
それともあの二人に、もしくはどちらかに、呼ばれたからだろうか。
答えは出なかった。
僕はポケットから携帯を取り出す。
「止めとけよ」
その次の行動を見透かしたようにSが言った。
「……何を?」
「警察に通報するつもりだろう」
「……そうだけど。どうして?」
「俺が警察なら、お前を真っ先に疑う」
その口調には何の力も込められていおらず、ただ、いつも通りのSの言葉だった。
「あの二人をここに閉じ込めて殺した犯人としてな。
 ノックの音が聞こえたんでそれで来ました、なんて言ってみろ。それこそ、精神異常者として扱われるのがオチだ。
 まあ、色モノが大好きな世間様には気に入られるだろうが」
「それじゃあ、公衆電話から……」
「そんな電話、こちらから名乗れない以上、イタズラと思われて終いだろう。警察はイタズラ電話多いからな」
「じゃあ、どうすんのさ……、だからって、このままにしとくわけにはいかないしさ」

1592なつのさんシリーズ「ノック 下」4:2014/06/16(月) 21:58:23 ID:mn6OmNt.0
すると、Sはゆっくり息を吸って、こう言った。
「何がいけないんだ?」
それは予想もしなかった言葉だった。
「何がって……」
「俺は別に良いと思うけどな。このままでも。親子水入らずで過ごせるんだ。別に悪いことじゃないだろ」
僕はあの二人の姿を思い出す。二人で寄り添い、一つの布団に入って眠っていたあの姿を。
ここで親子の居場所を外に教えることは、あの二人の間を裂くことになるのではないか。
何故いけないのか。そうだ、何故いけないのだろうか。
僕は答える。
「……やっぱり、駄目だ。知らせよう」
病弱な息子を守りたい、危険から遠ざけたいとした母親。でも、息子の方からすればどうだったのだろう。
生きている頃も、窓の無い部屋でずっと母親に守られ、死んでからも、こうして母の手に抱かれている。
「あのさ……、性懲りもなくって思うかもしれないけんど……。
 僕が聞いたノックの音って、あの男の子が僕を呼んだんじゃないか、って思うんよ」
芋つぼの扉を叩いた、弱々しくもはっきりとしたあの音。あれは『外に出たい』意志の表れではないだろうか。
「あの子が生前、病気で思うように外に出られなかったとしたら。
 死んで身体から離れた今だから、自由にしてあげたいじゃない。
 ……でも、あれだけ母親に大事に抱え込まれてたらさ、それも出来ないんじゃないかなぁって……
 だから、何と言うか、お母さんの方も、子離れしないといけないのかなぁ、てね?」
最後の方は、何か言ってて自分で恥ずかしくなったのだけれど、Sは黙って聞いてくれた。
そして「ふー」と、欠伸ともため息ともつかない息を吐くと、
「親の心子知らず、されど子の心親知らず、ってか」と小さく呟いた。
「分かった。好きにすりゃあいいさ。
 ただ、直接警察に言うのは止めとけよ。見知らぬ親子のために、色々犠牲にすることは無いからな」
じゃあ、一体どうすればいいんだろう。
そんなことを思っていると、いきなりSが立ちあがり、未だ開いていた扉から穴の中に片足を入れた。
「え?わ、何、どうすんの?」
慌てる僕を横目に、身体の半分ほど穴に下りたSは一言、
「まあ、任せておけばいい」と言って、さっさと降りて行ってしまった。
穴の下を覗きこむも、Sが何をしているのか分からない。というよりも、Sはあの空間に居て平気なのだろうか。

しばらくして、Sが梯子を上がって戻って来た。
やはりというか、当然だけれど、その表情には動揺が見えた。でも、僕ほど取り乱した様子もない。
「流石保存用の土蔵だな。イモだけじゃなくて、人間も保存できるのか……」
それから、Sは携帯の写メを使って色々家の中を取り始めた。
あっちの部屋に行ったと思ったらこっちの部屋に行き、芋つぼの様子を真上から撮影して、
最後に外に出て、家全体の様子を映して、ようやく何かが終わったらしい。
「さて、もう良いだろ。おい、外した戸を元に戻すから手伝え」
二人で二枚戸を元に戻す。
外すことが出来たんだから、戻すのも簡単だろうと思っていたのだけれど、
それは間違いで、思ったよりも時間がかかってしまった。
ようやく戸が元に戻った時には、もう時刻は午後五時半を過ぎていた。
カラスの鳴き声と共に、辺りが段々と暗くなり始めている。
Sが家に向かって一礼した。僕も倣う。
そうして、僕らは未だ一組の親子が住む古民家を後にした。

1602なつのさんシリーズ「ノック 下」5:2014/06/16(月) 21:59:03 ID:mn6OmNt.0
「帰りに、ちょっとネカフェに寄ってくぞ」
車に戻りながらSが言った。
「Sさ……大丈夫なん?眠いんじゃない?」
「大丈夫だ。さっきのを思い出しさえすれば、眠気は飛ぶからな」
そういうSの表情からは、冗談かそうでないかの判別がつかない。
ふと、そう言えばKの電話を切ってから、携帯の電源をOFFにしていたことを思い出す。
電源を入れると、着信履歴にKの名前がズラリと残っていた。電話するのも面倒くさいので、メールを一通入れておく。
『約四時間か五時間後にそっち行くよ。尚疲れたので、帰るまで電話もメールも受け付けません』
そして再び電源を切った。
車に戻る頃には、陽は西の山に全部沈んでいた。夕焼けの残りが、オレンジ色の光を僅かに空に留めていた。

「それで、ネカフェに行って何すんの」
帰りの車の中、僕はSに尋ねる。
「別に……大したことじゃない。ただ掲示板上に、写真を織り交ぜて、体験談風のウソ話を投稿するだけだ。
 もちろん、過去に起こった誘拐事件の概要、不法侵入の場面や、死体を発見した場面は真実を添えてな。
 後は勝手に親切な有志達が、警察に通報してくれる」
「……写メ撮ったの?」
「肝心なとこは撮ってねえよ。そんな気も起こらなかったしな」
「……大丈夫かね。その文章と写真、直接メールで警察に送った方が早いんじゃない?何か余計な話題にもなりそうだし」
「別に評判を貶めようってわけじゃないんだ。それに、メールで通報ってのは、ネット上の犯罪行為に限られてくるからな。
 心配しなくても、ちゃんと警察まで届くよう、別の手も打っとくさ」
「何なん、別の手って」
「そのうち分かる」

そのまま僕とSは帰り道の途中にあったネットカフェに立ち寄り、そこで軽い食事もとって、
また自分たちの街へと車を走らせた。
その際にSは何度かKとメールのやり取りをしていて、帰りに彼の家に寄っていくことになった。
やっぱりと言うか、Sも相当疲れているらしく、運転中、何度も眠たそうに目をしぱしぱさせていた。

Kが住む大学付近の学生寮についたのは、午後十一時頃だった。
Kはどうやら僕らが来るのを待ちかねていた様で、
僕らが部屋の扉の前まで来ると、ノックをする暇もなく戸が開いて中に引き込まれた。
「うおおっ、お前ら見ろお前ら!昨日行った児童誘拐事件の現場がすごいことになってんぞっ!」
Kのテンションがすごいことになっている。
そうしてKは、開いたノートパソコンの画面を僕らに押し付けて来た。
そこには、数時間前にSがネカフェで作成したウソ半分本当半分の体験談が、もちろん僕とSの名前は伏せて載っていた。
「いや、俺もSに言われて初めてこのスレッド知ったんだけどよ。いやあ、やべえなあこいつら。
 何かさ、扉壊してまで入ってさ。中で地下の隠し通路見つけてさ、さらに死体発見してやんの。
 しかもそのまま逃げ帰ってるしよ。あんまりなもんでさ、俺警察に通報しちゃったよ!マジで」
ああ、なるほどな、と思う。別の手とはコレのことだったのか。
興奮冷めやらぬKとは間逆に、Sは心底眠たげな目を、ぐい、と擦ると、
「……おい、K、悪い、布団借りるわ。数時間寝る」と言って、部屋の隅にあった折りたたみベッドを広げると、
ばたん、と倒れるように眠ってしまった。
「何だよあいつ。ことの重大さが分かってねえぞ。
 ……いや、ってか俺さ、明日暇だからよ。も一度あそこに行ってみようかと思うんだが。なあなあ一緒に行こうぜー!」
正直僕も眠たいのだけれど、がくがく肩を揺さぶられては仕方が無い。
「……すくなくとも、Sは行かないと思うよ」
「何でよ?いやまあいいや。そんなこともあろうかと、ちゃんと電車代とバス代いくらかかるか調べてあるから。
 片道四時間二十分。往復で五千円もかからないとよ、……ああ、アレだ、そう、片道2240円だとよ。往復で4480円」
ん、何か聞き覚えのある数字だな、と思うけども、疲れて頭が上手く働かないので思い出すことが出来ない。
「あれ……、そういや、お前ら、今日どこに行ってたんだよ?」
その言葉に僕は思わず笑ってしまった。
そうだった。そもそも土産話をしにここへ来たのだった。
疲労でぼんやりとした頭を二度、コンコンとノックして、僕はこの元気な友人に一から語ってあげることにした。
「いやぁ、今日の昼頃なんだけど、ノックの音がね……」

終わり

1612なつのさんシリーズ「蛍」1:2014/06/16(月) 22:44:24 ID:mn6OmNt.0
八月。開いた窓から吹きこんでくる風と共に、微かに蝉の鳴き声が聞こえる。時計は午後六時を回ったところ。
陽はそろそろ沈む準備を始め、ラジオから流れて来る天気予報によれば、今夜も熱帯夜だそうだ。
僕を含め三人を乗せた軽自動車は、川沿いに伸びる一車線の県道を、下流域から中流域に向かって走っていた。
運転席にS、助手席に僕、後部座席にK。いつものメンバー。
ただ、Kの膝の上にはキャンプ用テント一式が入った袋が乗っていて、
車酔いの常習犯である彼は身体を横にすることも出来ず、先程から苦しそうに頭を若干左右に揺らしている。
僕らは今日、河原でキャンプをしようという話になっていた。
Kが持つテントの他にも、車のトランクの中には食料や寝袋、あとウィスキーを中心としたお酒等も入っている。
夜の川へ蛍を見に行こう。
言いだしっぺはKだった。何でも、彼は蛍のよく集まる場所を知っているらしい。
意外に感じる。
Kはオカルティストで、いつもならこれが『幽霊マンションに行こうぜ』 やら、『某自殺の名所に行こうぜ』となるのだけれど、
今回はマトモな提案だったからだ。
「蛍の光を見ながら酒でも飲もうぜ」とKは言った。
反対する理由は無い。でもそれだと車を運転する人が、つまりSが一人だけ飲めないことになる。
「お前だけジュースでも良いだろ?」と尋ねるKにSは、「お前が酒の代わりに川の水飲むならな」と返した。
だったら、不公平のないよう河原で一泊しようという話になった。キャンプ用品はSが実家から調達してくれた。

川の流れとは逆に上って行くにつれ川幅は徐々に狭くなり、
角の取れた小さく丸い石よりも、ごつごつした大きな岩が目立つようになってきた。
D字状に旧道と新道が別れているところに差しかかる。
山沿いに大きくカーブを描いている旧道に対して、新道の橋はまっすぐショートカットしている。
車は旧道の方へと入って行った。

川を跨ぐ歩行者用の吊り橋のそばに車を停める。吊り橋の横には河原へと降りる道があった。
僕とSの二人で手分けして荷物を河原まで下ろす。その荷物の中には、車酔いでダウンしたKという大荷物も含まれていた。
川はさらさらと音を立てて流れている。川幅は十四,五メートルといったところだろうか。
対岸はコンクリートの壁になっており、その上を県道が走っている。
時間が経ち、陽の光が弱くなるにつれ、透き通っていたはずの緑は段々と墨を垂らしたように黒くなってゆく。
蛍の姿はなかった。出て来るのは完全に暗くなってからだと、ようやく回復したらしいKが言う。
「雲も出てるし、風邪もねえし、絶好の蛍日和じゃん」
蛍は、自分達以外の光を嫌うものらしい。それがたとえ僅かな月明かりでも。
「Kって蛍に詳しいん?」
「蛍だけじゃねえよ。俺は昆虫博士だからな。なにせヤツらは、そもそもは地球外から降って来た宇宙生物って噂だし」
ああなるほど、と僕は思う。

そんなこんながあってから、三人でテントを張った。
河原では地面にペグが打ちこめないため、テントを支えるロープを木や岩などに結び付ける。
五〜六人の家族用のテントなので、中は結構広い。
そのうちKが、小型ガスボンベに調理用バーナーを取り付けて鍋を置き、湯を沸かし始めた。
テントを張る時の手際を見た時も思ったけれど、Kは意外とアウトドア派なのだろうか。
Sに尋ねてみると、「……おかげでガキの頃は色々連れ回された」と嘆いてから、「いや、今もだな」と付け加えた。
それからKは、大きな石を移動させて大雑把な囲いを作ると、周りの木々を集めて組み立て、たき火を起こした。
僕も手伝おうと薪を拾ってくると、「そりゃ生木だお前。煙が出るだけだぞ」と笑われた。

1622なつのさんシリーズ「蛍」2:2014/06/16(月) 22:45:30 ID:mn6OmNt.0
夕食が完成した頃には陽はだいぶ落ちて、辺りはオレンジ一色だった。
夕食は、ぶつ切りにしたキャベツやニンジンや玉ねぎやナルトや魚肉ソーセージを一緒くたに放りこんだ、
ぞんざいなインスタントラーメン。
でも見た目はアレでも味は中々で、鍋はすぐに空になった。
ラーメンが無くなると、紙コップにウィスキーを注いで、三人で乾杯した。
残ったキャベツやソーセージをつまみに。Sは何もなしで飲んでいた。
たき火の火に誘われてか、小さな虫たちがテントの周りに集まって来ていた。
蠅を一回りでかくしたような虫に、腕や足などを何箇所か噛まれて痒い。
「テジロちゃんだな」とKが言った。
何でも、捕まえてよく見ると、前足の先が白いんだそうだ。だから手白。
「よっしゃ、捕まえてみるか?」
「……蠅を見に来たわけじゃないでしょうが」
「そりゃそうか」
僕らは蛍を見に来たのだ。
「まだ出てこないね」
時刻は午後八時を回っていた。辺りはもう十分暗い。
「そろそろだろーな」
そう言うとKは立ち上がり、空の鍋に川の水を汲んできて、たき火の上にそれをかけた。
火が消え、辺りは目に見えて暗くなる。雲が出ていて月明かりもない。
辛うじて、テントの入口あたりに置いておいたガスランタンの小さな光だけが、視界を奪わないでくれていた。
暗闇の中、僕らはしばらく何も喋らず、黙ってウィスキーを胃袋に放りこんでいた。

「……そう言えば、お前らには話してなかったっけか」
沈黙を破ったのはKだった。
「この辺りじゃあな、数年に一度、丁度これくらいの時期に、蛍が大量発生するんだとよ」
興味を引かれた僕は、「へえ」と相槌を打つ。
「数年置きとかじゃなくて、本当にランダムなんだそうだ。研究者の間でも確かな原因は分かってない。
 ……でもな、この辺りじゃ、密かに噂されてる話があってな」
Kの表情は分からない。輪郭は辛うじて分かるけれど、この明かりでは互いの表情までは見えなかった。
「この川な。下流はそうでもないが、中流辺りだと突然深くなる場所とか、渦を巻いてる箇所とかあってだ。
 けっこう溺れて死ぬ奴がいるんだわ。近隣の小学生とか特にな。
 もちろん、そういう場所は遊泳禁止には指定はされてるんだが、……ま、子供の好奇心にゃ勝てんわな」
僕はふと、自分のコップが空になっていることに気付いた。ウィスキーのビンを探したけど、見えない。
「まあ、そうは言っても、数年に一人か二人だけどよ。
 でも、重なるらしいんだよな。水死者が出た年、蛍が大量発生する年。
 ……ああ、わりいわりい。ウィスキー俺が持ってるわ」
Kが僕の方にビンを差しだし、僕はKに紙コップを差しだす。
タタ、と音がして、辛うじて白と分かるコップに、何色か分からない液体が注がれた。
「……今年は、その、溺れた子がいるん?」
一口飲んで、焼けるような喉の刺激が去ってから、僕は尋ねる。
Kは「うはは」と笑って、「そんなこたぁ、俺はシラネー。ここには蛍を見に来ただけだからな」と言った。
「んでだ。その話には、もう一つ不思議なことがあってな」
Kが続ける。
「日本で見かける蛍ってのはさ、ゲンジボタルかヘイケボタル、大体この二種類でな。
 ゲンジボタルの成虫が出るのは、五月から六月、遅くて七月上旬にかけてだから。
 そうすると、八月のこの時期に出るのは、ほぼ年がら年中見られるヘイケボタルってことになる」
Kは本当に昆虫に詳しいらしい。
こういう風に、なるほどと思える話をKから説明されることは珍しいので、何だか違和感を覚える。
いつもならそういう解説はSの役目なのだけれど、彼はさっきからつまみも挟まず静かに飲んでいる。
「でもヘイケボタルってのは、集団発生はしねーんだよ。
 年がら年中見れるってこたぁ、成虫になる時期が同時でないってことだ。
 逆に、皆そろって成虫になるのは、ゲンジボタルの方なんだけどよ。
 でも、ゲンジはこの時期にゃあ交尾終えて死んでるし」
酔った頭でも何となく理解出来た。
つまり、Kはこう言いたいのだ。

1632なつのさんシリーズ「蛍」3:2014/06/16(月) 22:46:03 ID:mn6OmNt.0
「……つまり、大量発生するその光は、ホタルじゃないかもしれない、ってこと?」
「おうおうおう!何だ、察しがいいじゃねーか。……
 ま、普通に異常発生したヘイケボタルっつう可能性の方が高ぇだろうけどよ」
「蛍じゃなかったら、なんなのさ」
「シラネーよ。見たことねえし。でもまあ強いていやぁ、そうだな。……鬼火とか、人魂とか、怪火の類?」
「……今年も見れると思ってるんじゃない?」
「シラネーシラネー」
そう言ってKは「うはは」と笑った。
またオカルト絡みか。今日はただ蛍を見に来ただけだと思っていたのに。
蓋を開けてみれば、やっぱりKはKだったということなのだろうか。
その時、今までずっと沈黙を守っていたSが、ふと口を開いた。
「出てきたぞ」
その言葉に、僕はハッとして川の方を見やった。
何も見えない。じっと目を凝らす。
ちらと、青い火の粉のような何かが視界の隅に映った。それを区切りに、河原に無数の青白い光が浮かび上がる。
突然、辺りがさらに暗くなった。KかSのどちらかが、テント前のガスランタンの光を消したからだろう。
おかげで目の前の光がよりはっきりと見えるようになった。
光は明滅していた。それも飛び交う全ての光が同じタイミングで消えては光る。
それはまるで、無数の光全体が一つの生き物のように思えた。
時間の経過とともに、光は更に数を増していった。河原を覆い尽くすかのように、僕らの周りにも。
思考も感覚もどこかへ行ってしまい、目だけがその光を追っていた。
度の強いウィスキーのせいで幻覚を見ているんじゃないかと疑う。それほど幻想的な光景だった。
雲に隠れた星がここまで降りてきたかのような、そんな錯覚さえ抱く。
「もの思へば、沢の蛍もわが身より、あくがれ出づる、魂かとぞ見る……」
ふと、我に返る。Sの声だった。
「……何それ?」と僕が訊くと、「和泉式部」とSは言った。
「誰それ」とさらに尋ねると、溜息が返って来た。
「お前、文系だろうが」

それから数時間もの間。僕らはただ、目の前の星空を眺め続けた。飽きるという言葉すら浮かばなかった。
時間はあっという間に過ぎた。
その内に少しずつ数が減ってきて、時刻が夜十時を過ぎた頃、光は完全に沈黙した。
Kがいったん消した焚き火を組み直し、火をつける。
つい先ほど見ていた光とはまた別の火の光。ぱちぱちと薪が燃えて弾ける音がする。
「昔の人は、人間に魂があるとすれば、それは火の光や蛍の光のようなものだと考えたんだが……。
 今のを見れば、まあ分からなくもないな」
手の中で空の紙コップを弄びながら、Sがぽつりと言った。
あの数は大量発生と言えるのだろうか。だとすれば、今年も誰かが川で溺れて亡くなったのだろうか。
感動と共に、僅かな疑問が頭をよぎる。
「……あ、そう言えばKって、虫取り網持ってきてたよね。使わんかったん?」と僕はKに尋ねる。
おそらくは、あの光が人魂か虫かを確かめるためには、捕まえるのが一番手っ取り早いということで持ってきたのだろう。
「ああ、忘れてたな……。ま、いいや。ありゃ人魂とかじゃねえよ。蛍だ。集団同期明滅してたし」
蛍だった、とKは言いきった。
「ああ、あの同時に消えたり光ったりしてたやつ?」
「そ。ありゃ蛍の習性だからな。ああやって、同時に光ることで雄と雌を見分けてんだよ」
「ふーん」
「……あーあ、でも俺ぁてっきり、今までに死んだ水死者の魂が、飛び交ってんだと思ってたんだけどなあ」
ただ、そういうKの顔に落胆の色はなかった。あれだけのものを見たのだ。満足しない方がおかしい。
僕たちはそれから焚き火を囲んで少し話をして、三人でウィスキーを二本ともう半分開けてから、寝ることにした。
興奮はしてたものの相当酔っていたので、熱帯夜にもかかわらず、すぐに眠りにつくことが出来た。

1642なつのさんシリーズ「蛍」4:2014/06/16(月) 22:46:51 ID:mn6OmNt.0
次の日の朝。起きると、テントの中に残っているのは僕が最後だった。
外に出ると、Sは河原の石に座って釣りを、Kは底が硝子になっているバケツを川に浮かべ、網を持って何かを探していた。
その日は、すっきりと雲ひとつない天気だった。
川の水で顔を洗ってから、釣りをしているSの元へと行ってみた。
「釣竿なんか持ってきてたっけ?」と僕が尋ねると、「昨日、そこの茂みで拾った」と言う。
じゃあ餌は何を使っているのかと聞けば、昨日の内にテジロちゃんを捕まえておいたので、それを使っているらしい。
見せてもらうと、テジロは本当に手の先が白かった。
ちなみにSはこの後、立派な岩魚を二匹釣るという快挙を成し遂げた。
塩焼きにして昼飯になったのだけれど、すごくおいしかった。
Kの元へ行くと、彼はゴリという名の小魚を捕まえようとしているらしい。
ちなみに彼はこの後ゴリを十匹ほど捕まえ、それは昼飯の味噌汁の具になるのだけど、
ゴリは骨ばっててとても不味かった。

二人共元気なことだ。などと思いながら、僕は河原を行ける所まで散歩していた。
その時、ふと足元に黒い昆虫の死骸が落ちていることに気がついた。
十字の模様がついた赤い兜に、黒い甲冑。拾い上げてみると、それは一匹の蛍の死骸だった。
そのまま持ち帰ってKに見せてみた。
「おう。蛍だな」
ちらりと見やりそれだけ言うと、Kはまた腰をかがめて水中に意識を戻した、かと思うと、
がばと起き上がり僕の腕を掴み、もう一度その蛍の死骸を見やった。
「ゲンジボタルじゃん……」とKは呟いた。
「ゲンジボタルなん、これ?」
「ああ、頭のところに十字の模様があるだろ。てっきりヘイケボタルかと思ってたけど。
 ……でも、何でこんな時期に出て来てんだコイツ。一,二月くらいおせぇのに」
僕はもう一度、自分の手の中のゲンジボタルの死骸を見つめた。
Kは「おっかしいな〜」などと言いつつ、ズボンから携帯を取り出すと、何かを調べ始めた。
おそらくインターネットで、ゲンジボタルの生態でも確認しているのだろう。

1652なつのさんシリーズ「蛍」5:2014/06/16(月) 22:47:57 ID:mn6OmNt.0
「……あ?」
しばらくして、Kが妙な声を上げた。携帯の画面をじっと見つめている。
「……どしたん?八月でも出ますよってあった?」
「いや、そうじゃねえけど。いや、これは俺も知らんかったわ」
「だから何が」
Kは開いた携帯の画面を僕に見せながら言った。
「ゲンジボタルの学名だ。……『Luciola cruciata』 ラテン語で、『光る十字架』だとよ」
頭部の辺りに見える黒い十字が見えるけれど、これが十字架なのだろうか。
「……何を祝福してんのか知らんけど、溺れた奴が全員キリスト教でもねえだろうにな」
そう言ってKは「はは」と小さく笑った。
光る十字架。
僕は昨夜の光を思い出す。
ゲンジボタルが光る時期より一,二ヶ月遅れたこの季節は、子供たちが川で遊ぶ季節だ。
そうして人が溺れて死んだ年だけ、光る十字架たちは飛び回る。
全くの無関係なのだろうか、それとも。
ふと、昨夜Sが口ずさんだ歌を思い出す。
あの後、Sにあれはどういう意味かと訊くと、彼は面倒臭そうにこう言った。
『恋心に沈む自分の魂を、蛍にたとえた歌だ』
昔から、人は人間の魂を蛍の光に例える。
僕は首を振った。僕には何も分からない。

昼食が終わった後、僕らはテントを片付けて荷物を車に運び込んだ。
出発する前にKが「ちょっと待ってくれ」と言い、半分残ったウィスキーの瓶を持って、吊り橋の上へと向かった。
何をするのかと見ていると、Kは橋の上からウィスキーの瓶をひっくり返し、残っていた液体を全て川へと振りかけていた。
「よ、待たせたな」
戻って来たKに、何をしていたのか尋ねようかとも思ったけれど、止めておいた。
Kは何も言わなかった。だったら、こっちから聞く必要もないだろう。

車のエンジンがかかり、僕らは川を後にする。
「いやぁ、でも、良いもの見たしね。楽しかった」
走り始めた車内で、僕は本心を言った。
「そうだな」と珍しくSも肯定してくれたので、「また機会があれば、行こうよ」と二人に提案してみる。
「おう、そうか。だったら、次は山だな」とKが言う。
「かなり遠いけどな。昔人喰いクマが出て有名になった山があってな」
いやそれはちょっと勘弁してくれ、と僕は思った。

終わり

1662なつのさんシリーズ「異界」1:2014/06/16(月) 23:29:45 ID:mn6OmNt.0
大学もバイトも、何もイベントのない日。昼寝から起きると、時刻は午後五時になろうとしていた。
携帯を見ると、一通のメールが届いている。知り合いからだ。
その人とは、大学一年の時にボランティアを通じて知り合った。メールもボランティアメンバー全員に宛てたものだった。
メールの内容は、『○○公園のソメイヨシノが開花したよ』 というちょっとしたお知らせ。
大きく拡大した桜の花びらの写真も添えてある。
四月四日のことだった。
僕の家の近くには、桜の名所として全国的にもそれなりに有名な公園がある。
標高二百メートルくらいの小さな山の山頂にある公園で、
山には桜並木の他に、広いグラウンド、美術館、寺、展望台、また山頂に繋がるロープウェイもあり、
地元の人はそれら全てをひっくるめて○○公園と呼んでいた。
休日となると観光客も訪れ、春には花見客が地面に敷くブルーシートで公園中が青くなる。そんなにぎやかな場所だった。
夕食の食材を買いに行くついでに桜を見に行こう。そう思い立った僕は、簡単に身支度を済ませて原付に跨った。

山に沿って建てられた住宅街からカーブの多い山道を上り、○○公園へ。
いつもは子供たちが野球の練習をしている公園敷地内のグラウンドの端に、原付を停めた。
風はなく、上着は必要なさそうだ。
僕は公園全体をぐるりと一周するつもりで歩きだした。散歩コースとしても、この公園は中々良い。
事実、平日の夕方にも関わらず、何人か犬を連れて散歩する人や、ジョギングをしている人とすれ違った。
道の脇に植えられた桜は、見たところ二分咲きほど。開花したと言ってもまだ蕾の方が多い。
それでも、人はいないが屋台のテントを三つほど見かけたり、
大学生らしき若者たちが数人、ベンチのある広場に集まってお酒を飲みながら騒いでいたりと、
花見シーズンがもうそこまで来ているのだと感じさせる。
僕はだらだらと歩き、立ち止まっては桜を見上げ、また歩く。
桜並木から少し離れ、右手にグラウンドが見える坂を下る。

左手に、今はもう誰も住んでいないだろう廃屋の横を通り過ぎた時だった。
廃屋の向こう側に道がある。立て札があり、『○○墓地入口』 と書かれている。
この辺りに墓地があることは知っていた。けれど、その墓地へと続く道の脇にはもう一つ道があった。
おや、と思う。知らない道だ。
ちょっと覗いてみる。林の中へ分け入る道。
舗装はされておらず、折れた木の枝などが所々に落ちていて、頻繁に人が使っているわけではなさそうだ。
人とすれ違うのにも骨が要りそうなほど細い道が蛇行しながら、こちらから見れば下向きに伸びている。
どこに繋がっているのかは分からなかった。
どうせ暇だから来たんだしと思い、僕はその道を下りてみることにした。
知らない道を行くのは、何だか冒険をしているようでワクワクする。

顔面に蜘蛛の巣の特攻を受けながら少し進むと、木々の隙間、眼下に、僕が原付で上って来た側の住宅地が見えた。
帰りがけに寄ろうと思っていたデパートの看板も見える。
あの辺りに出るのかと思いながら、もう少し歩を進める。
すると、前方に分かれ道があった。下っている右の道と、若干上りになっている左の道。
どちらかと言えば右の方がちゃんとした道に見えたので、僕は右の下りる道を選んだ。
思った通り、その道はデパート近くの住宅地に出た。
傍らにはお坊さんを彫ってある大きな岩があって、
その横の朽ちかけた立て札は、『思索の道。この先○○寺』 と辛うじて読める。

1672なつのさんシリーズ「異界」2:2014/06/16(月) 23:31:04 ID:mn6OmNt.0
来た道を逆に、分かれ道まで戻る。
さて、どうしようか。結局、僕は来た道は選ばず、まだ行ってない方の道へと進むことにした。
小さな山だ。きっとどこか知った道に合流するだろうと、そう思っていた。
この時、僕はまだ好奇心に支配されていた。

それから少し歩くと、道のすぐ傍らに一匹の痩せた犬が横たわっていた。
歩を止める。
ぴくりとも動かない。しばらく見やって、死んでいるのだと知った。
小バエが数匹、辺りを飛び回っていた。毛並みは茶色。
腐敗はそこまで進んでいないようだったが、耳の根元が黒ずんでおり、眼球がなくなっていているのが分かった。
そこからハエが体内に出たり入ったりしている。
どうしてこんなところで死んでいるのだろう。
野良犬自体なら、この公園近辺には多くいる。観光客がくれる餌を求めてやって来ているのだ。
けれど、目の前で横たわる犬は首輪をしているように見えた。
そのまま犬の傍を通り過ぎ前へと進むか、そうでなければこのまま引き返して来た道を戻るか。
僕は選ばなければならなかった。
少しばかり迷う。
そうしてから、僕はゆっくりと足を前に踏み出した。
正直、死骸は怖かった。いや、怖いというよりは、ただの毛嫌いだったのかもしれない。
ドラマなどで見る安っぽい死ではなく、目の前の犬の肉体は限りなくリアルだった。
そうして、だからこそ、気持ち悪いから逃げ帰るなんて失礼だと思った。
死骸の様子を間近で見る。途端に一つ心臓が跳ねた。
首輪だと思っていたものは傷口だった。
喉元がばっくり開いていて、そこから染み出した血が黒く固まり、首輪のように見えたのだ。
犬同士の喧嘩の末にこうなったのだろうか。
しかし、傷口は噛み痕には見えず、何か刃物で切られたようにまっすぐ喉を裂いていた。
注視したせいか吐き気を覚える。やっぱり引き返した方が良かっただろうか。
白い歯が覗く半開きの口は、僕に何かを訴えているようにも見え、
頭が勝手に、目の前の死骸がいきなり喋り出す様を想像した。
ただの穴となった眼窩から蠅が飛び出して、僕の胸にとまる。不安と一緒に払いのけて、犬に向かって手を合わせた。
そうして僕は犬の死骸を背に、その先へと進んだ。
先程も書いたが、僕はこの道は、
どこか住宅地から寺や公園へ上がるいくつかの道のどれかに合流するんだと、勝手に思いこんでいた。

犬の死骸のあった場所からもう少し進むと、足元に道は無くなり、閑散と木の生えた場所に出た。
見たところ、行き止まりのようだった。
目の前の木の枝に、キャップ帽とトレーナーが一着引っかかっていた。二つとも色が落ちくすんでいる。
その木の根元には、蓋の取っ手が取れたやかんがあった。
やかんの向こうには、トタン板と木材が妙な具合に重なり合って置かれていて、
傍にコンクリートブロックで出来た竈のようなものがある。火を起こした跡もあった。
その他にも、辺りには金色の鍋や、茶色い水の溜まったペットボトル、ボロボロの布切れ、重ねて置いてある食器類、
何故か鳥籠もあった。中には鳥ではなく、白い棒きれのようなものが何本か入っていた。
一瞬それが骨に見えて、ギョッとする。でも鳥の骨にしては大きい。だったら骨じゃない。
けれどもじゃあ何なのかと問われると、僕には答えられなかった。
いずれにせよ、それらは確かにこの場所で人が暮らしていたという痕跡だった。
崩れたトタン板や木材は家の名残だろうか。
そこにある品々の古さや具合から、今もここに人が寝泊まりしているとは考えにくかったが、
林の中で忽然と漂ってきた生活臭は、あまり気持ちの良いものではなかった。
すでに冒険心は小さくしぼんで、代わりに不安という風船が大きく膨らんできていた。
ホームレスだろうか。

1682なつのさんシリーズ「異界」3:2014/06/16(月) 23:31:39 ID:mn6OmNt.0
つい先程見た犬の死骸を思い出す。関連があるとは思いたくないが。
いずれにせよ、こんなところでこんなところの住人と対面するのは極力遠慮したかった。
ただそうは言っても、来た道を引き返し、またあの犬の死骸の脇を通るというのも気が進まない。
辺りは徐々に暗くなり始めていた。時刻は午後の六時を過ぎている。
他に道はないかと、僕は周囲を見回した。
すると、行き止まりかと思っていた箇所に、辛うじてそれと分かる上へと続く道があった。
戻るか進むか天秤にかける。僕は迷っていた。
この道が本当にどこか知っている道に合流している、という自信は霞みかけていたし、
犬の死骸を踏み越えても元来た道を戻るのが正解に思えた。
その時だった。
気配を感じる。微かに枝を踏む音。僕がやって来た方の道から聞こえた。誰かがこちらへやって来る。
新たな重りが加わり天秤が傾く。僕は咄嗟に新しく見つけた道へと進んでいた。
僕のような好奇心でやって来た者か。もしくはここに住むホームレスか。どっちにせよ、遭遇はしたくない。

急な道だった。
道の途中にはもう数ヶ所、人の寝床と思しき箇所があった。
それは大きく突き出た岩の下に造ってあったり、小型車程の大きさの廃材を使ったあばら家だったり、
ある程度密集したそれらは、まるで集落のように見えた。
上って行くにつれて道は霧散し、もうケモノ道とも呼べないただの斜面になっていた。
それでもしばらく上ると、たたみ二畳ほどの広さで地面が水平になっている場所に出た。
そこにも人の生活の気配がうかがえた。
灰の詰まった一斗缶。黒い液体が溜まった鍋。木の根もとに並べられたビールの缶。枝に吊るされたビニール傘。
先の欠けた包丁。そして小さなテント。
僕は足を止めてそのテントを見やった。異様だったからだ。
三脚のように木材を三本縦に組み合わせて縛り、その周りをブルーシートで覆っている。
高さは僕のみぞおち辺りで、人が入れる大きさではなかった。
一体、何のためのテントなのか。テントの周りにはハエが飛んでいた。
虫の羽音。
そして、羽音とはまた別の音が聞こえる。
タ。
タ。
タ。
それは、閉め忘れた蛇口から落ちた水滴が、シンクを叩く音に似ていた。
地面と僅かにできた数センチの隙間。覗くと、銀色をした何かがテントの中に置かれていた。
鍋のようだった。おそらく鍋は受け皿で、あの中に水滴が落ちている。
ハエが飛ぶ。僕の心臓がやけに早く動く。
異臭。
僅かに風向きが変わったのか。
生臭い匂いだった。以前にも嗅いだ事がある。確か小さな頃、目の前で交通事故が起こった時だ。
匂いの質は同じだけれど、あの時よりももっと酷い匂い。
鼓動が骨を伝わり、足が震えだした。
どこか遠くで犬の鳴き声がした。公園に住みつく野良犬だろうか。首を切られ、横たわって死んでいた犬を思い出す。
現在、テントの外に置いてある鍋の中には、なみなみと黒い液体。赤黒い液体。いや違う。血だ。血の匂い。
タ。
タ。
タ。
水滴がシンクを叩く音。
僕は混乱していた。

1692なつのさんシリーズ「異界」4:2014/06/16(月) 23:32:12 ID:mn6OmNt.0
はやくこの場から去りたいのに、足が動かなかった。
それどころか、足が勝手に動き、自分の腕が青いテントに向かって伸びていた。
めくろうとしているのだ。中を見ようとしているのだ。
やめろ。
声は出ず、心の内で叫ぶも、僕は止まらなかった。
そうして僕は、ブルーシートをめくった。
臭気が這い出て来る。何匹かのハエが、僕の行動に驚いてかテントの傍を離れた。
息を飲んだ。
中には一匹の犬が逆さに吊られていた。喉元が裂かれていて、傷口から血が鍋の中へ滴り落ちている。黒犬だ。
舌が垂れ、見開いた目が地面を睨んでいた。
タ。
タ。
タ。
血が鍋の底を叩く音。
僕の手が驚くほど緩慢な動きでゆっくりとシートを元に戻した。
足も手も震えて、声にならない声が腹の奥から上がって来て、今にも叫びだしそうだった。懸命に自分を押さえる。
息が荒くなっていた。上手く呼吸が出来ない。
その場にしゃがみ、胸の辺りを掴み、目を瞑り、落ち着くまで待とうとした。
「何しゆうぞ」
人の声がした。
振り向くと、そこに人間がいた。
どうやら僕は自分のことに精いっぱいで、近づいて来る足音にも気付かなかったらしい。
男だった。赤いニット帽を被っている。革のバッグを背負い、黒いジャンパー、履いているのは青いジャージだ。
顔には無数のしわが刻まれていて、頬が少し垂れている。
年齢は良く分からなかったが、六十代の半分は過ぎているだろうか。
男は、ぐっと腰を曲げて、しわの延長線上のような細い瞼の奥にある光の無い目で、僕のことを見つめていた。
僕は何も反応ができなかった。
男はそれから青いテントに目を移した。
「……ああ、ああ、見たんか。兄ちゃん。そうか」
ぼそりぼそりとそう言って、それから低く笑った。
「見えんようにと、被せたんにのう」
その時の僕は、今しがた見てしまったモノに対するショックと、突然現れたこの人物に対する驚きで、
身体も精神も固まっていた。
どうやら人間は、許容量を遥かに超える負荷をかけられると、肝心な部分がどこかへ行ってしまうらしい。
男はその手に犬を抱いていた。死んでいる。僕が先程見た眼球のない犬だ。
僕は夢でも見ているようなぼんやりとした心持ちで、その光景を眺めていた。
「ああ、こいつか?こいつぁ、おれの犬だな」
男は僕の視線に気がついたのか、そう言った。
「こいつぁな、野村のヤツが殺した。おれが留守にしとる間に。……そうにきまっとる。
 犬嫌いやけぇあいつは……、俺の犬や言うとろうが。俺が骨もやっとったし、紐もつけとる。やのに、野村のヤツが……」
ぶつぶつと誰もいない茂みへ忌々しげに吐き捨てると、男はもう一度僕の目を覗きこみ、こう続けた。
「兄ちゃん。勘違いしたらいかん。……こいつは食わんぞ?俺の犬やきの」
男は歯がだいぶ欠けていた。
僕の中の糸が切れた。いや、繋がったのかもしれない。
僕は起き上がり、その場から逃げた。
どう逃げたのかは覚えていない。ただやみくもに斜面を上ったような気がする。
途中、転んだかもしれない。悲鳴を上げたかもしれない。何も覚えてない。

1702なつのさんシリーズ「異界」5:2014/06/16(月) 23:32:46 ID:mn6OmNt.0
気付けば、僕は見知った道の上に立っていた。道の向こうに原付を止めたグラウンドが見える。
傍らに見覚えのある、墓場へ誘導する立て札。
立て札の脇には、僕が好奇心をくすぐられて入ったあの細い道の入り口があった。
いつの間にか僕は入口に戻ってきていたのだ。
息が切れていた。近頃運動らしい運動もしていなかったからか、身体のあちこちが痛かった。
見ると、気付かないうちに手の甲に怪我までしていた。
しばらくの間、僕はその場に立ち尽くしていた。
張りつめていた緊張感が爆発したツケか、頭の中で余熱が暴れ回っていた。
これが冷めない限り、正常な思考は出来そうもない。
目を瞑ると、先程見た様々な光景がフラッシュバックした。
時間はどれくらい経っただろう。陽はもう西の山の向こうに沈んでいた。
僕は歩きだした。

グラウンドの傍にある自販機で350ミリリットルのお茶を買うと、一気に飲んだ。
火照った身体と頭が、それで少し冷えた気がした。
遠くの方で誰かが笑っている。
この公園にやって来た当初にも見た若者たちが、未だ桜の要らない花見を続けているのだろう。
腹の中の全てを絞り出すように大きく息を吐く。
もう少し日にちが経てば、満開の桜の下、公園はたくさんの花見客でにぎわうことになる。
それは毎年繰り返される当たり前の光景だ。
けれども、そんなにぎやかな場所から林のカーテンを一つ隔てた先には、全く別の世界がある。
僕は今日、それを知ってしまった。
思う。
あの男はホームレスだろう。
そして、テントの中で吊るされていたあの犬は食料だ。最後に聞いた男の言葉がそれを物語っていた。
頸動脈を切られ、吊るされて、血抜きをされていたのだ。
犬を食べる。
聞いたことはあった。タイや韓国などアジアを中心とした国では、市場の店先に普通に犬の肉が置かれていることもあると。
捌き方や調理法さえ知っていれば、日本の犬だって食べれないことはないだろう。
ましてや調達の手間を考えても、観光客から餌をもらうのに慣れた犬など捕獲し殺すのは簡単だ。
野良犬ならば、動物愛護団体にでも見つからない限り、法的に罰せられることもない。
別にあのホームレスが何かをしたわけではない。

1712なつのさんシリーズ「異界」6:2014/06/16(月) 23:33:50 ID:mn6OmNt.0
魚を釣って料理していたのと同じだ。生きるために他の動物を食べることを止める権利など、誰も持っていない。
ふと、目の前を犬を連れた女の人が通り過ぎた。散歩が終わり、愛犬と自宅に戻るのだろう。
首輪に繋がれた小さな犬が、僕に向かって一つ吠えた。血の匂いでも嗅ぎ取ったのか。
犬だけを特別扱いする理由はない。その理屈は分かる。
でもやはり、もやもやとした何かは残った。嫌悪感と言っても良い。僕でなくても大抵の人はそうだろう。
僕の家では犬は飼ってはいなかったけれど、祖母の家が飼っていた。可愛い犬だった。
あの男だってそうだ。男は『自分の犬は食わない』とそう言ったのだ。
ペットとして飼っていたのだろうか。餌はどうしていたのだろう。
鳥籠の中にあった骨を思い出した。自分が食べた後の犬の骨。そこまで考えて、止めた。
人に飼われる犬。人に喰われる犬。犬を喰う人。犬を飼う人。
遠いようで、それらを隔てる壁は案外薄いのかもしれない。
少なくともこの場では、その隔たりは閑散とした林だけだった。
それとも、二つは完全に分かれていて、僕が迷い込んだことがただの例外だったのだろうか。
異界。
そんな言葉が思い浮かんだ。大げさだと自分でも思う。
僕は首を振って、重い腰を上げた。帰ろう。そう思った。
これから何をしようという気はなかった。夕飯の買い物に行く気にもならなかった。
公園に野良犬が多いと保健所に苦情を言う気も、ホームレスをどうにかしてくれと役所に頼む気も。
声が聞こえる。もう暗いのに、若者たちはまだ騒ぎ足りないようだった。
原付に跨り、エンジンをかける。
それでも、今年はここでの花見には来れそうもない。
走り出す直前に、ふと犬のなきごえが聞こえた気がした。
けれどもエンジン音のせいで、それが本物かどうかは僕には分からなかった。

終わり

172くらげシリーズ「五つ角」1:2014/06/26(木) 16:18:53 ID:TrdgkZJA0
梅雨時になると、たまに思い出すことがある。今から十年程前の話だ。当時、私は中学一年生だった。

四方を山に囲まれた盆地に、私の住んでいた街はあった。
といっても標高はそれほど高くもなく、南側の山一つ越えれば太平洋を見ることができる。
コンクリートで固められた一本の川が街を南北に等分していて、その北側の住宅街に私と家族の家はあった。
対して南側の住宅街。その片隅に『五つ角』と呼ばれる場所があった。
そこは、一見すれば単なる十字路である。
では何故四つ角ではなく五つ角なのかというと、
二本の道が交錯する丁度中心に一メートル程の大きなマンホールがあり、それが五つ目の角だというのだ。
五つ角という名は正式な名称では無い。誰が名付けたのかは知らないが、もちろんそう呼ばれるには理由があった。
『雨の日の夕刻、五つ角のマンホールに近づいてはいけない』
街では有名な都市伝説だった。
何でも、男の幽霊が手招きしていて、
近づいてきた者をマンホールの中、つまり五つ目の角の奥へと引きずり込むのだそうだ。
世の都市伝説に洩れず、えらく恐ろしげでたっぷり胡散臭く、それでいていたく子供心をくすぐる噂話だった。

私と同じクラスに『くらげ』というあだ名の人物がいた。
私がオカルトに興味を持つきっかけになったのが、彼だと言ってもいい。
彼はいわゆる、『自称、見えるヒト』だった。
何でも幼少の頃、自宅の風呂に何匹ものくらげがプカプカ浮いているのを見たその日から、
彼は常人では決して見ることのできないモノを見るようになったのだとか。
当然、最初はなんじゃそりゃと思っていたが、彼と一緒に居るうちに、私はその話を信じるようになっていった。
「僕は病気だからだね」と彼はよく言っていた。病気という言葉には何かしらの説得力があった。
ちなみに、私は当時、どちらかというと科学っコだったのだが、だからこそ彼の存在は面白かった。

「五つ角の幽霊の真相を暴きに行かないか?」
六月半ばを過ぎた、ある雨の日のことだった。
HRが終わり下校の時間。私は帰ろうとしていたくらげにそう切り出した。ちなみに、二人共帰宅部だった。
くらげは私を見て、窓の向こうの雨空を見て、少しだけ面倒くさそうな顔をした。
彼はあまり積極的なノリのいいタイプでは無かった。普段も一人ぼんやりしていることが多く、表情も乏しい。
その点でも、海に漂うくらげのような人物だった。
「いいよ。って言うまで、帰らしてくれないんでしょ」
外を見つめたまま彼は言った。
私は肯定の意味でにっと笑って見せた。
くらげとは小学六年からの付き合いだが、お互いのことはもう大体分かっている。

一端荷物を置きに自宅に帰り、制服のまま傘だけ持って家を出た。
集合場所は、街を北と南を分ける仏と名のつく川に架かった、地蔵と名のつく赤い橋。
くらげは南側の山の方に住んでいた。
五つ角も南の住宅街にあるのだから、くらげが橋まで来る必要はなかったのだが、
私たちが一緒に行動する時、待ち合わせはいつもここだった。
私が行くと、くらげは先に橋で待っていた。彼は私服に着替えていた。
連日の雨で川の水は茶色く濁り増水していた。
「くらげは、五つ角の幽霊、見たことあったりする?」
「あるけど」
私が尋ねると、くらげは平然と答えた。
彼が見たことがあるということは、少なくともガセではなく、男の霊は存在するということだ。
私たちは並んで、目的の五つ角に向かって歩きだしていた。
「どんなんだった?」
「人だった。手招きしてた」
「それは知ってる」と私が言うと、「後は分からないよ。近くで見たわけじゃないから」とのこと。
「それなら、普通の人間かも知れないじゃないか」
疑問を口にすると、くらげは『それは違う』と首を横に振った。
「水死体って、見たことある?」
今度は私が首を横に振る番だった。実際に見たことは無いが、水難事故で死んだ人間がどうなるか、その知識はあった。
「そんな感じだった」
くらげはそう言った後、軽く欠伸をした。
私はぶくぶくに膨れた人間が手招きしている姿を想像して、唾を呑みこんだ。

173くらげシリーズ「五つ角」2:2014/06/26(木) 16:19:48 ID:TrdgkZJA0
五つ角は、南地区の簡素な住宅街の外れにあった。
車一台がやっと通れるほどの細い道で、周りの塀が異様に高く、こちらに倒れて来そうな圧迫感があった。
前方数メートル先に、四方に伸びる曲がり角と、マンホールのふたがあった。時刻は四時半頃だっただろうか。
私の見たところ、マンホールの付近には誰も居なかった。
「……夕刻って何時だろうな」
「日暮れ時じゃない?」
「今日は太陽出てないぞ」
「じゃあ暗くなったらだよ。きっと」
地面は水浸しで座ることも出来ないので、私たちは立ったまま五つ角の幽霊の出現を待った。

くらげと一緒に居ると、私も時々妙なモノを見ることがあった。
それは薄っすら人の形をしていたり、浮遊する青白い光の筋だったりしたが、くらげにはもっとはっきり見えている様だった。
「この病気は感染するんだって」
くらげの説明によると、私は感染したらしい。
「治したかったら、僕に近づかないこと。そしたら自然に治るから」とも言った。
見てはいけないものを見る。背筋がぞくぞくするその体験は、非常に怖くもあり、芯から楽しくもあった。

くらげと他愛もない話をしながら、三十分程たった時だった。
急に雨脚が強まった。雲が厚くなったのか、辺りは少し暗くなっていた。ばたばたばた、と雨粒が音を立てて傘を揺する。
私は地蔵橋の下の水位を思い出した。
まだまだ大丈夫だろうが、早めに帰った方がいいかもしれない。そんなことをふと思う。
服の上からでも分かるひやりと冷たい手が、私の肩を掴んだ。
あまりの冷たさにびっくりしながら横を見ると、くらげが人差し指でゆっくりとある方向を指し示した。
つられるようにそちらを見やる。
軽く息を呑みこむ。
土砂降りのカーテンの向こうに何かが居た。
ピントのずれた映像のようにその姿はぼんやりとしていて、はっきりと見ることができない。
ただ、人だった。頭があり、二本ずつの手足がある。その右手と思われる部分が、ユラユラと上下に動いていた。
噂通りだ。
「手招きしてるね。……もっと近づいてみようか?」
くらげが私に尋ねた。
私はくらげを見返した。彼の表情はまるで読めない。
そろそろ門限だから。これ以上川が増水して橋が渡れなくなったら困るから。
もし噂の通りだとすれば危険だから。怖いから。
断る理由はいくらでもあった。
しかし、私は頷いた。
二人でそいつの方に近づいた。
一歩ごとに、今まではぼんやりとしていた輪郭が、少しずつではあるが鮮明になってくる。
やはり人間だった。ぶくぶくと太った人間。背が高い。正直、男か女かは分からなかった。手招きしている。
その手の届く三〜四歩前で私は止まった。横でくらげが何か呟いたが、雨の音で聞こえなかった。
くらげは止まらなかった。止める暇もなかった。彼はそいつの目の前まで歩み寄った。
雨の音が消えたような気がした。代わりに自分の心臓の音がやけにはっきり聞こえた。
マンホールがずるずると開いて、くらげが中に吸い込まれる。
一瞬そんな想像をしたが、重さ数十キロはあるだろう鉄製の蓋はピクリとも動かなかった。
何も起きなかった。
そんな中くらげは、自分の左手に持っていた傘をそいつの頭上に掲げた。傘をさしてあげているのだ。
途端にくらげは雨に打たれて水浸しになった。
しかし、そんなことはまるでお構いなしに、彼はそいつをじっと見つめていた。
それだけだった。後は何も起こらなかった。
「ああ。それはすみません」
唐突にくらげが言った。
そうして傘を自分の頭上にさし直すと、くるりと私の方に向き直った。
「帰ろう」
そう一言。
返事も待たずに彼は歩きだした。私の前を通り越してどんどん進んで行く。
「……おい待てよ」
はっとした私は、慌ててその背中を追いかけた。
その際、一度振り返ったが、そいつは跡かたもなく消えていて、あるのは雨にぬれるマンホールだけだった。
私たちは黙って歩いた。頭の芯が熱くて、心臓の音がまだ微かに聞こえていたが、しばらく歩くとそれらは収まった。

174くらげシリーズ「五つ角」3:2014/06/26(木) 16:21:04 ID:TrdgkZJA0
くらげは地蔵橋までついてきた。見送りのつもりなのだ。
心配していた水嵩も大して変わっていなかった。
私たちはいつもここで待ち合わせし、いつもここでさよならする。
私は橋の入り口で立ち止まった。くらげも同じように立ち止まったのを見て、私は口を開いた。
「……結局、うそっぱちだったな」
私の自己満足の言葉に、くらげは首を傾げた。
私は事前に調べていたのだ。
あのマンホールに落ちて死んだ人間は確かにいた。
それは、十年ほど前に下水の改修工事をしていた作業員だった。
突然の雨に流され、発見されたのは幾日か経った後、数キロ先の海だった。
それ以来、あのマンホールに落ちて死んだ者はいない。事故もない。
つまり噂の後半、『近寄ったら下水に引きずり込まれる』はデタラメなのだ。
だから近づけた。危険じゃないと知っていたから。
「で。あいつ、何て言ってたんだ?」
私はくらげに気になっていたことを聞いてみた。
すると彼は、胸の前でしっしとハエを払うような動作をした。
一瞬馬鹿にされているのかと思ったが、そうではなかった。
「『帰れ』 だと思うよ。口の動きだけだったから、分かりにくかったけど」
くらげは、あいつの口の動きをよく見るために傘をさしてあげたのだ。
そしてなるほど。手招きじゃなくて、あっちへ行け、か。
やはり、都市伝説なんてばからしいものだ。
可笑しくなった私が「ははは」と笑うと、彼が不思議そうにこちらを見た。
雨が少し弱くなっていた。空を見上げて、明日は晴れるといいなと思う。
「じゃあ、また明日な」
私がそう言うと、くらげは黙って頷き、背を向けて山の方へと歩きだした。
私はふと、彼の服が未だびしょ濡れなことに気がつく。
「おーいくらげ。風邪をひくなよ。シャワーだけじゃなくて風呂につかれよ」
くらげが振り返った。滅多に動かない彼の眉毛が、困った様に八の字になっている。
「……そうするよ」
しぶしぶと言った声だった。
「風呂は嫌いなんだけどなぁ……。あいつら、刺すからさ」
そう言い残して、彼はまた背を向け歩きだした。私も帰ることにした。
彼とは反対方向に歩きながら、体育の時間で見たあの発疹だらけの身体を思い出し、改めて思う。
やっぱり、変わったやつだよなぁ。
そして私はまた笑った。

175くらげシリーズ「死体を釣る男」1:2014/06/26(木) 16:22:26 ID:TrdgkZJA0
中学時代のある日のことだ。その日、私は朝から友人一人を誘って、海へと釣りに出かけた。
当時住んでいた街から山一つ越えると太平洋だったので、子供の頃は自転車で片道一時間半かけ良く遊びに行った。
小学生の頃はもっぱら泳ぐだけだったが、中学生になって釣りを覚えた。

待ち合わせ場所である街の中心に架かる地蔵橋に行くと、友人はすでに橋のたもとで待っていた。
彼はくらげ。もちろん、正真正銘あの海に浮かぶ刺胞動物というわけでは無いし、本名でもない。
くらげというのは彼につけられたあだ名だ。
私は中学の頃オカルトにはまっていたのだが、そのきっかけがくらげだった。
くらげは所謂『自称、見えるヒト』だ。
なんでも、自宅の風呂にくらげがプカプカ浮いてるのを見た日から、
彼は常人には決して見えないものが見えるようになったらしい。
「僕は病気だから」と彼はいつもそう言っていた。
しかし、くらげと一緒にそういう『いわく』 のある場所に行くと、たまに微かだが、私にも彼と同じモノが見える時があった。
くらげが言う病気は、他人に感染するのだ。
「わりぃ、待たせた。んじゃ行くか」
私が言うと、くらげは黙って自転車に跨った。
釣竿は持っていない。彼は釣りをやらないのだ。理由は聞いたことは無かった。
「見てるだけでも良いから来いよ」 と言ったのは私だ。
くらげを誘ったのにはわけがある。それは、これから行こうとしている場所には、とある妙な噂話があったからだ。
曰く、近くの漁村に、死体を釣る男が居るという。いわゆる都市伝説だ。
自転車での山道。私は意地で地面に足をつけずに砂利道を上った。
くらげは自転車を押しながら、後ろからゆっくりとついて来ていた。

峠を越えると突然、眼前眼下に青い海と空が広がる。
純白の雲が浮かぶ空はうららかに晴れていて、風は無い。辺りに潮の匂いがまぎれている。
上りで汗をかいた分、猛スピードで下り降り、向風で身体を冷やした。
小さな港から海に突き出ている防波堤。
近くの松林の脇に自転車を置き、私たちはコンクリートの一本道を、歩いて先端まで向かった。
防波堤は全長五〜六十メートルといったところだろうか。途中で、『く』 の字に折れている。
防波堤の行き止まりに到着した私は、その場に座って仕掛けを作り始めた。
波は穏やかで、耳を澄ませば、ちゃぷちゃぷと小波が防波堤を叩く音が聞こえる。
ふと隣を見やれば、くらげは防波堤の縁に座り、海の上に足を投げ出していた。ぼんやりと遠くの方を眺めている。
何を見てんだ。そう訊こうとして、やめた。きっと何も見てやしない。
「おーいくらげ。お前、死体を釣る男の話って、聞いたことあるか?」
くらげは海の方を見たまま首を傾げた。

176くらげシリーズ「死体を釣る男」2:2014/06/26(木) 16:23:41 ID:TrdgkZJA0
「……鯛を釣る男の話?」
「違う。死体を釣る男の話」
「ああ。死体……。うん、知ってるよ。ここの港にいたおじいさんのことでしょ」
私は舌打ちをした。知っていたのか。面白くない。
針の先に餌をつけ、撒き餌も撒かずにそのまま放り投げる。座ったまま適当に投げたので、あまり飛ばなかった。
赤い浮きが、すぐそこの海面に頭を出している。
死体を釣る男も防波堤の先端で、木製の釣り具箱をイス代わりに、日がな一日中釣り糸を垂らしていたという。
しかし釣りが下手だったのか、そもそも釣る気が無かったのか。噂では男はいつもボウズだった。
「みちさんっていう名前なんだけどね」
くらげが口を開き。私は彼を見やった。
「みちさん?あー、それが死体を釣る男の名前か」
「そう。昔、この辺りの親戚の家に預けられてたことがあって、その時みさちさんと仲良くなったんだ。
 色々話したよ。釣りも教えてもらった」
私は内心驚いた。知り合いかよ。でもそれはそれで面白い。
「僕がここに居たのは三ヶ月くらいだったけど、その間にも、一人釣ったよ」
潮の流れのせいか、ここの港や近辺の浜辺には多くの漂流物が流れ着く。
大体はただのゴミなのだが、中には沖で溺れて死んだ人が、潮流に乗って帰って来ることもある。
死体を釣る男ことみちさんは、どざえもんを何十人も釣りあげた。
人間が海で遭難して死亡した場合は、五体満足で帰ってくる方が稀だ。
小さな魚介類につつかれて顔の判別もままならない遺体も多く、
さらに多くの場合、体内に腐敗ガスが溜まって膨らみ、体表は白く、触れただけで崩れるようになる。
「……でも。みちさんに釣りあげられた人たちは、顔も綺麗なまま、手も足もちゃんと残ってる人が多かった」
そしてくらげは私の方を向いて、「不思議だよね」と言った。
私もそこまでは噂話の範疇だったので知っていたのだが、そこから先は聞いた覚えのない話だった。
「みちさんの最後は知ってる?」
くらげに訊かれ、私は首を横に振った。
死体を釣る男に関する噂話は、ここの港にいる老人がよく死体を釣りあげるという部分だけだった。
男の結末までは噂になっていないし、私は男が死んでいることすら知らなかった。
「みちさん。海に落ちたんだ。釣りの途中で……」
良く出来た話だ。幾つもの水死体を釣って来た男の最後が溺死だったとは。
「でも、そんな面白い話が、なんで噂の中に入って無いんだろうな。いや、面白いって言っちゃ悪いか」
「夕方で暗くなってたせいじゃないかな。周りに誰も居なかったし」
私はくらげを見やった。たぶん不思議そうな顔をしてたんだろう。
「ああ、ごめん」
くらげは何故か謝った。
「僕だから。みちさんを釣ったのは」
しばらく何も反応ができなかった。

その日の夕食前、くらげはふと防波堤の先端に行ってみた。
しかしみちさんはおらず、たてかけられた竿だけが置いてあった。
忘れて帰ったのだろうと思い、くらげがそれを何気なく持ち上げてみたら、
糸の先にはみちさんが引っかかっていたのだそうだ。

想像してみたら、それは不気味を簡単に通り越してシュールだった。
「……あ、ひいてるよ」
くらげの声に我に返る。手ごたえは弱いが確かにひいている。アタリだ。
しかしその時、私はふと思った。果たしてこの糸の先に居るのは、本当に魚なのだろうか。
ゆっくりと巻き上げると、そこには綺麗に針だけが残されていた。ただの魚だったようだ。
ホッとすると同時に、そんなことに怯えた自分が何だか無性に馬鹿らしくなった。
「僕は、釣りはやらない」
隣でくらげが呟いた。
「だって僕に釣りを教えてくれたのは、みちさんだからね」
私は口笛を吹いて聞いてないふりをした。
そして立ち上がり、再び餌をつけた二投目を水平線めがけて放り投げた。

終わり

177くらげシリーズ「死口内海」1:2014/06/26(木) 16:24:54 ID:TrdgkZJA0
これは私が中学生だった頃の話だ。

そろそろ夏休みが待ち遠しくなる七月後半。その日私は、山一つ越えた先の海で一日中泳いでいた。
海水浴場ではない。
急な崖を降りた先に、地元の子供たちだけが知っている小さな浜辺があり、
夏の暇な日は、そこへ行けば誰かしら遊び相手が見つかるといった場所だった。
その日も顔見知りの何人かと一緒に遊び、共に日に焼けている身体を更に黒くした。

海から出て、彼らと別れ、家に帰りついたのは午後六時少し前だっただろうか。
風呂に入る前に、泳ぎつかれて喉が渇いていたので、私は台所で蛇口から直接コップに水を注ぎ、ぐいっと飲んだ。
その時だった。何か思う暇もなかった。
得体の知れない違和感を感じた時には、それは一瞬にして猛烈な吐き気に変わり、
私は今さっき飲んだ水をシンクの中に吐き出していた。
喉がひりつき、しばらく咳が止まらなかった。
蛇口から出てきたのだから、何の警戒もなく真水だと思ってしまったのだ。
私が呑みこんだのは普通の水では無かった。それは紛れもなく塩水だった。

ようやく咳が収まり、信じられなかった私は、蛇口に人差し指の腹を当て、水滴を舐めてみた。
海の味がする。
小さな頃、海で溺れてしまった時に呑みこんだあの海水と同じ味だ。
しかし、何故蛇口から海水が出て来るのだろうか。
うちの水は、地下水をくみ上げているのでも山から引いているのでもなく、水道局から送られてきている水はずだ。
自然に塩分が混じるとは考えにくい。
「おーい、かあさん。なんか蛇口から塩水が出るんだけど」
呼ぶと、隣の居間から母親が顔をのぞかせた。これは我が子を疑っている顔だな、とすぐに分かる。
「嘘言いなさんな。さっきそこで夕飯こしらえたばっかやのに」
「ホントだって、ほら、これ、塩水」
コップに水を注ぎ、母に渡した。
彼女はしばらく疑わしそうに匂いなど嗅いでいたが、その内ちびりと口を付けると、そのまま一気に飲み干してしまった。
「……アホなこといっとらんで、風呂に入ってきんさい。ほら、髪がぼそぼそやんか」
母はそう言って私の頭をわしゃわしゃと撫でて、居間に戻って行った。
釈然としなかったので、私は再度蛇口から水を注ぎ、口を付けた。
舌がしびれる。やはり普通の水ではない。
どういうことだろう。母が嘘を言っているのだろうか。
しかし、目の前で一気飲みされてしまったのだ。嘘をつくにしても身体をはり過ぎだろう。
それにわざわざそんな嘘をつく必要がどこにあると言うのだ。
おそらく、一日中海で泳いでいたせいで、味覚が変になっているのだろう。私はそう自分を納得させた。
外から海水が染み込んで、一時的に身体がおかしくなっているのだと。
ただそれが味覚の勘違いであれ、塩水を飲んでしまったせいで余計に喉が渇きを感じていた。
水道水は止めにして、代わりに冷蔵庫を開けるとオレンジジュースがあったので、それを飲むことにする。
コップに注ぎ、飲む。そして、私は再びそれを口から吐きだした。
塩水じゃないか。
愕然として、まだ半分ほど残っているコップの中の液体を見やる。
色も匂いもオレンジジュースで間違いないのに、私が今飲んだのは、明らかにオレンジ色をしたただの塩水だった。
そのほかも試してみた。冷蔵庫の中にあった、麦茶、牛乳、乳酸菌飲料。冷凍庫の中の氷すらも、塩辛い。
私は何も飲むことが出来なかった。
自分がおかしくなっているということは、とりあえず風呂に行って浴びたシャワーで確信できた。
口に入って来る水滴のせいだ。身体はさっぱりしたが、口の中と喉だけが熱く、どうにも泣きたい気分だった。

その後、私は夕飯も食べずに、母と一緒に病院に行った。
診察と検査をしてくれた医者は、私の話を聞きながら首をかしげるばかりだった。
味覚障害だろうと告げられたが、その場合多くの原因である内臓の異変もなく、原因は分からないと言われた。
ただ、その時は、医者も親も、そう深刻になることは無いだろうと楽観視していたようだった。
私だけが言いようのない不安を覚えていた。
意識的にコップ一杯程の海水を飲んだことのある人間は居ないと思う。居たとしても少数派だろう。
あれは到底飲めるものではない。

178くらげシリーズ「死口内海」2:2014/06/26(木) 16:25:32 ID:TrdgkZJA0
次の日から私は病院に入院し、常に点滴で水分を取るようになった。
普通の方法ではどうしても水分を取ることが出来なかったのだ。
たとえ成分がただの水であっても、どうしても呑みこむことが出来なかった。飲んだとしても、すぐに吐いた。
固形物も、水分が多く含まれていると無理だった。お粥も駄目、果物も駄目。
果ては自分の唾液すら塩辛く感じられて、しばしば水を飲まなくても嘔吐した。
吐き気は常に感じていて、突然ベッドの上で吐き、何度もシーツを汚した。
加えて熱や下痢もあった。
これは体調の悪化による副次的なものだろうが、しかしまるで私の身体の一部でなく、全部が狂ってしまった様だった。
人間、物は食べなくてもある程度生きていけるが、水が飲めなければあっという間に死ぬ。

入院してからたった数日で、驚くほど体重が減った。
自分の身体がカラカラに乾いて行くのを感じ、天井を見つめながら、このままミイラになって死ぬのだろうかと考えた。
この状況が続けば、間違いなく死ぬだろうなと思った。
母も父も、毎日看病に来てくれた。普段は絶対そんなことはしないのだが、入院中母はずっと私の手を握っていた。
それを見ながら、自分は大事にされているのだなと実感した。
死にたくないな。今までの自分の人生で、初めて強くそう思った。

そんな生活を送っていたある日、一人の友人が病院に見舞いに来た。
当たり前だが、入院中は学校を休んでいた。
両親も何と学校に説明したらいいか分からなかったのだろう。
理由は伏せられていて、後で訊いたら、原因は夏風邪ということになっていた。
その友人は、学校のプリントを届けに家に来た折に、私の入院を知ったのだった。
彼は病室に入るなり、無表情のままぽかんと口を開けた。
そうして、私が寝ているベッドの傍に来ると、しみじみとした口調でこう言った。
「痩せたねぇ……」
その言い方が可笑しくて、私は少しだけ笑ってしまった。
笑ったのは久しぶりだったし、自分にまだ笑う元気があったことが驚きだった。
その時は母も父もおらず、他に入院患者も居なかったので、病室に居たのは私と彼だけだった。
彼は『くらげ』というあだ名の、ちょっと変わった男だった。海に浮かぶくらげのように、クラス内でもちょっと浮いている存在。理由は、彼が常人には見えないものを見るからだ。所謂、『自称、見えるヒト』だ。
何でも、ある日自宅の風呂の中に何匹ものくらげが浮いているのを見た日から、そういうモノを見るようになったのだとか。
と言っても、彼自身はそのことを吹聴もせず、そのことについて問われると、「僕は病気だから」と答えていた。
当時、私はよくくらげと遊んでいた。彼といると面白い体験ができたからだ。
「マジでやばくてさ。なんか、死ぬかも」
私はくらげに向かってそう言った。その言葉は思ったよりあっさりと口から出てきた。
くらげは黙って私のことを見ていた。
その視線は、左腕の関節部分に刺さった点滴の針から伸びる細いチューブを辿り、
頭上にある栄養と水分の入ったパックに行きついた。
「これ……、夏風邪じゃないよね。どうしたの?」
私は、ことの始まりから今までのことをくらげに話した。途中、彼は相槌も頷きもせずにじっと耳を澄ましていた。
話が終わると、「ふーん」と言った。
「ねえ、ちょっと、口開けてみて」
「……口?」
「うん。歯を治療する時みたいに、『あー』って」
私は言われるままに口を開けた。すると、くらげは少し腰をかがめて、私の口の中を覗き込んだ。
「……あー、これじゃ塩辛いよね」
くらげが上体を起こした。
「海になってるよ。君の口の中」
訳が分からなかった。
くらげは納得したように一人頷くと、「じゃあ、ちょっと僕、海に行って来るよ」と言って、私に背を向けた。
私は意味が分からず、口を開けたまま、彼が病室を出るのをただ見ていた。

179くらげシリーズ「死口内海」3:2014/06/26(木) 16:26:18 ID:TrdgkZJA0
その後しばらくして、病室に飴玉の袋が届けられた。
看護師さんが言うには、くらげが下の売店で買って、私に渡してくれと言ったのだそうだ。
唾液のせいで塩味の強い飴玉は美味しくは無かったが、他と比べれば何とか食べることが出来た。

その夜、私は今までで一番の吐き気に襲われた。
眠っている最中だったが、反射的に傍に置いてあるバケツを引き寄せ、中にぶちまけた。
それは、滝のような、という表現が一番ぴったりくる。出しても出しても収まらなかった。
ようやく収まると、私はベッドに倒れ込んだ。

気がつくと、病室の明かりがついており、ベッドの周りに看護師と医者と母が居た。
私は無意識にナースコールを押していたらしい。
見ると、五リットルは軽く入りそうなバケツが、半分程吐しゃ物で埋まっていた。
とはいえ、胃の中に何も入っていなかったからか、それは恐ろしく透明な液体だった。
自分の体にまだこんなに水分が残っていたのかと驚くほどに。
看護師と医者は難しい顔をして何か話し合っていて、母は疲れ切った笑顔で私の頭をそっと撫でた。
「寝てていいんよ」
母にそう言われ、私は目を閉じた。
しかし、その内、私は口の中に違和感を感じた。
いや、違和感が無いことによる違和感、といった方がいいだろうか。
とにかくどういうわけか、すっきりしていたのだ。今までは吐いた後も不快感しか残らなかったのに。
まるで、先程の嘔吐で悪いものを何もかも吐きつくしてしまったようだった。
唾を呑みこもうとしたが、口の中が渇いてしまっていた。
私は起き上がって、昼間くらげに貰った飴玉を一粒頬ばった。
甘い。それは何に邪魔されることもなく純粋に甘かった。
私は母に頼んで水を持ってきてもらった。
恐る恐る口を付ける。一口、舌先で確かめるように。二口、軽く口の中に含んで、それから一気に飲んだ。
その時の水の味は一生忘れない。ただの水がこんなに美味しいと思ったことは無かった。
自然と涙がこぼれた。今思えば、入院生活はとても辛かったが、泣いたのはあの時だけだった。
ようやく取れた水分を涙に使うなんてもったいないと思ったが、止まらなかった。
泣きながら、医者と母に症状が治ったことを告げた。
医者がそんな馬鹿なという顔をする横で、母も私と一緒に泣いてくれた。
頬を伝い口の中に入って来た涙は、やはり、ちょっとしょっぱかった。

それから私は、自分で言うのも何だが、すさまじい勢いで回復した。
入院自体は短期間だったこともあり、体力もすぐに取り戻した。
一学期の終業式には出られなかったが、夏休みは十分エンジョイできそうだった。

その終業式の日、くらげが再度見舞いに来た。
おそらくもう退院しても良かったのだろうが、しばらく経過を見るということだったので、
入院はしているものの、もう点滴は外し、病院内をうろちょろする元気も戻っていた。
「ああ、もう大丈夫みたいだね。良かった良かった」
病室に入って来たくらげはそう言った。
ホッとした様子ぐらい見せてもいいのに、彼はまるで読めないあの表情で、口調も淡々としていた。
くらげはプリントの山をベッドの上に置いた。夏休みの宿題。どうやら、これを届けるために来たらしい。
さっぱりしている。らしいと言えばらしいが。
「いつ退院できそう?」
「そうだなー。来週くらいには帰れるんじゃないか?」
「ふーん」
それからしばらく他愛もない話をした。

180くらげシリーズ「死口内海」4:2014/06/26(木) 16:26:58 ID:TrdgkZJA0
その後しばらくして、病室に飴玉の袋が届けられた。
看護師さんが言うには、くらげが下の売店で買って、私に渡してくれと言ったのだそうだ。
唾液のせいで塩味の強い飴玉は美味しくは無かったが、他と比べれば何とか食べることが出来た。

その夜、私は今までで一番の吐き気に襲われた。
眠っている最中だったが、反射的に傍に置いてあるバケツを引き寄せ、中にぶちまけた。
それは、滝のような、という表現が一番ぴったりくる。出しても出しても収まらなかった。
ようやく収まると、私はベッドに倒れ込んだ。

気がつくと、病室の明かりがついており、ベッドの周りに看護師と医者と母が居た。
私は無意識にナースコールを押していたらしい。
見ると、五リットルは軽く入りそうなバケツが、半分程吐しゃ物で埋まっていた。
とはいえ、胃の中に何も入っていなかったからか、それは恐ろしく透明な液体だった。
自分の体にまだこんなに水分が残っていたのかと驚くほどに。
看護師と医者は難しい顔をして何か話し合っていて、母は疲れ切った笑顔で私の頭をそっと撫でた。
「寝てていいんよ」
母にそう言われ、私は目を閉じた。
しかし、その内、私は口の中に違和感を感じた。
いや、違和感が無いことによる違和感、といった方がいいだろうか。
とにかくどういうわけか、すっきりしていたのだ。今までは吐いた後も不快感しか残らなかったのに。
まるで、先程の嘔吐で悪いものを何もかも吐きつくしてしまったようだった。
唾を呑みこもうとしたが、口の中が渇いてしまっていた。
私は起き上がって、昼間くらげに貰った飴玉を一粒頬ばった。
甘い。それは何に邪魔されることもなく純粋に甘かった。
私は母に頼んで水を持ってきてもらった。
恐る恐る口を付ける。一口、舌先で確かめるように。二口、軽く口の中に含んで、それから一気に飲んだ。
その時の水の味は一生忘れない。ただの水がこんなに美味しいと思ったことは無かった。
自然と涙がこぼれた。今思えば、入院生活はとても辛かったが、泣いたのはあの時だけだった。
ようやく取れた水分を涙に使うなんてもったいないと思ったが、止まらなかった。
泣きながら、医者と母に症状が治ったことを告げた。
医者がそんな馬鹿なという顔をする横で、母も私と一緒に泣いてくれた。
頬を伝い口の中に入って来た涙は、やはり、ちょっとしょっぱかった。

それから私は、自分で言うのも何だが、すさまじい勢いで回復した。
入院自体は短期間だったこともあり、体力もすぐに取り戻した。
一学期の終業式には出られなかったが、夏休みは十分エンジョイできそうだった。

その終業式の日、くらげが再度見舞いに来た。
おそらくもう退院しても良かったのだろうが、しばらく経過を見るということだったので、
入院はしているものの、もう点滴は外し、病院内をうろちょろする元気も戻っていた。
「ああ、もう大丈夫みたいだね。良かった良かった」
病室に入って来たくらげはそう言った。
ホッとした様子ぐらい見せてもいいのに、彼はまるで読めないあの表情で、口調も淡々としていた。
くらげはプリントの山をベッドの上に置いた。夏休みの宿題。どうやら、これを届けるために来たらしい。
さっぱりしている。らしいと言えばらしいが。
「いつ退院できそう?」
「そうだなー。来週くらいには帰れるんじゃないか?」
「ふーん」
それからしばらく他愛もない話をした。

181くらげシリーズ「死口内海」5:2014/06/26(木) 16:27:29 ID:TrdgkZJA0
「……そろそろ帰るよ」
くらげが立ち上がる。そうして病室から出て行こうとしたが、途中で「あ、そうだ」と言って振り返った。
「今回のことはね、たぶん、君に僕の病気がうつったことが原因だと思う。病状が悪化したっていうのかな」
私はどきりとした。
くらげは薄く笑っていた。小学校六年からの付き合いだったが、彼のそんな表情などこれまで見たことが無かった。
いや、笑ったところは見たことはあるが、とにかく初めて見せる顔だった。
「だから、これからはあまり一緒に遊ばない方がいいかもね。僕に近寄らなかったら、病気も自然に治るよ」
くらげはそう言って、病室を出て行った。
彼と一緒に居ると、はっきりでは無いにせよ、確かに私にも妙なモノが見える時があった。
いや、見えるだけでは無い。その声が聞こえたり、時には軽く触れることも出来た。
くらげの病気。それに私が感染してしまったために、今回のことが起きたのだろうか。
私はしばらく考えていた。
なる程、彼の言う通りかもしれない。
今まではただ面白いとだけ思っていたが、実際に危険性が高まったとなれば話は別だ。
私は病室の窓に近寄り、開いて頭を外に出した。
病室は二階にあったのだが、そこからは病院の入り口を見下ろすことが出来た。
しばらく待っていると、入口からくらげが出てきた。
「おーい。くらげー」
あまり離れても居なかったが、私は大声でその名を呼んだ。
くらげが首をこちらに曲げる。
「良く分からんけどよ。今回のコレ。お前がなんとかしてくれたんだろ。ありがとうな」

私が良く泳ぎに行くあの浜辺に、女性の水死体が打ち上げられているのが発見されたのは、
私の症状が収まった次の日のことだった。
因果関係は分からない。証明だってしようが無いが、無関係だとは思えなかった。
こちらが気付いていないだけで、私は彼女と会っていたのかもしれない。海の中で。見初められたといえばいいか。
もちろんそれは、もしかしたらの話だが。

「まあ、色々あるらしいから、しょっちゅうは止めるけどさ。たまには遊ぼうぜ。それでいいだろ?」
正直、彼との付き合い方を変えようと思った。今回のような事態はまっぴらだ。
但し、こんな面白い友人を自ら無くすこともない。それが私の結論だった。
「そんでさ。夏休みの間に、一度くらいキャンプでもしようぜ。退院したら連絡すっからさ」
くらげは長いこと私の方を見ていたが、ふいに両手でメガホンを作ると、
「分かったー」と、彼にしては大きな声でそう言った。

182くらげシリーズ「くらげ屋」1:2014/06/26(木) 16:31:10 ID:TrdgkZJA0
私が子供だった頃、『自称見えるヒト』である友人の家に、初めて遊びに行った時のことだ。
当時私は小学六年生で、友人はその年に私と同じクラスに転校してきた。
最初の印象は『暗くて面白みのないヤツ』で、あまり話もしなかった。
とある出来事をきっかけに仲良くなるのだが、それはまた別の話。

季節は秋口。
学校が終わった後一端家に鞄を置いてから、私は待ち合わせ場所である、街の中心に掛かる橋へと自転車を漕いだ。
地蔵橋と呼ばれるその橋では、先に着いていた友人が私を待っていた。欄干に手をかけて川の流れをぼーっと見ている。
私のことに気付いていないようなので、そっと自転車を止め、足音を殺して近づいた。
「わっ」
後ろからその肩を掴んで揺する。
しかし、期待していた反応はなかった。声を上げたり、びくりと震えもしない。
彼はゆっくりと振り返って、私を見やった。
「びっくりした」
「してねぇだろ」
彼はくらげ。もちろんあだ名である。
何でも幼少の頃、自宅の風呂にくらげが浮いているのを見た時から、
常人では見えないものが見えるようになったのだとか。
私は今日の訪問のついでに、それを確かめてみようと思っていた。
すなわち、彼の家の風呂にくらげは居るのか居ないのか。私には見えるのか見えないのか、だ。

橋を渡って南へと、並んで自転車を漕いだ。
私たちが住んでいた街には、街全体を丁度半分南北に分ける形で川が流れており、
私は北地区、くらげは南地区の住人だった。
住宅街から少し離れた山の中腹に彼の家はあった。
大きな家だった。家の周りを白い塀がぐるりと取り囲んでいて、木の門をくぐると、砂利が敷き詰められた広い庭が現れた。
その先のくらげの家は、お屋敷と呼んでも何ら差し支えない、縦より横に伸びた日本家屋だった。
木造の外観は、長い年月の果てにそうなったのだろう。木の色と言うよりは、黒ずんで墨の様に見えた。
異様と言えば、異様に黒い家だった。
私が一瞬だけ中に入ることに躊躇いを覚えたのは、その外観のせいだったのだろうか。
「入らないの?」
見ると、くらげが玄関の戸を開いたまま私の方を見ていた。私は彼に促されて家の中に入った。

中は綺麗に掃除されていて、外観から感じた不気味さは影をひそめていた。
くらげが言うには、現在この広い家に住んでいるのはたったの四人だという。
祖母と、父親、くらげの兄にあたる次男。そして、くらげ。くらげは三兄弟の末っ子。
母親が居ないことは知っていた。くらげを生んだ直後に亡くなったのだそうだが、詳しい話は聞いていない。
長男は県外の大学生。次男は高校で、父親は仕事。
家には祖母が居るはずだとのことだったが、その姿はどこにも見えなかった。気配もない。
どこにいるのかと尋ねると、「この家のどこかにはいるよ」と返ってきた。
玄関から見て左側が、家族の皆が食事をする大広間で、
右に行くと、各個人の部屋に加えて風呂やトイレがある、と説明される。
二階へ続く階段を上ってすぐが、彼にあてがわれた部屋だった。
くらげの部屋は、私の部屋の二倍は軽くあった。
西の壁が丸々本棚になっていて、部屋の隅に子供が使うには少し大きな勉強机がひとつ置かれている。
「元々は、おじいちゃんの書斎だったそうだけど」とくらげは言った。
確かに子供部屋には見えない。
本棚を覗くと、地域の歴史に触れた書物や、和歌集などが並んでいた。
医学書らしきものもあった。マンガ本の類は見当たらない。
「くらげさ。ここでいっつも何してんの?」
「本を読んでるか、寝てる」
シンプルな答えだ。
確かにくらげの部屋にいても、面白いことはあまり無さそうだ。そう思った私は、彼に家の中を案内してもらうことにした。

183くらげシリーズ「くらげ星」2:2014/06/26(木) 16:32:00 ID:TrdgkZJA0
二階は総じて子供部屋らしい。階段を上って三つある部屋の内の一番奥が長男、真ん中が次男、手前がくらげ。
兄貴たちの部屋を見せてくれと頼んだら、「僕はただでさえ嫌われているから駄目だよ」 と言われた。
「そう言えばさ、その二人の兄貴も、見える人?」
くらげは首を横に振った。
「この家では、僕とおばあちゃんだけだよ」
一階に下りて、二人で各部屋を見て回る。
掛け軸や置物ばかりの部屋があったり、雑巾がけが大変そうな長い廊下があったり、意外にもトイレが洋式だったり。
くらげはどことなくつまらなそうだったが、私にとっては、古くて広い屋敷内の探検は、何だか心ときめくものがあった。

「ここがお風呂」
そうこうしている内に、今日のメインイベントがやって来た。
脱衣場から浴室を覗くと、大人二人は入れそうなステンレス製の浴槽があった。
トイレの時と同じように、五右衛門風呂なんかを想像していた私は、その点では若干拍子抜けだった。
中にくらげが浮いているかと思えば、そんなこともない。
そもそも水が入っていなかった。まだ午後五時くらいだったので、それも当然なのだが。
「何しゆうかね」
しわがれた声に、私はその場で軽く飛び上がった。
驚いて振り向くと、廊下にざるを抱えた腰の曲がった白髪の老婆が居た。
「おばあちゃん」とくらげが言う。
どうやらこの人がくらげの祖母らしい。
「どこ行ってたの?」
「そこらで、いつもの人と話をしよったんよ」
老婆はそう言って、視線を私の方に向けた。
「ああ。言ったでしょ。今日は友達連れて来るって。この人が、その友達」
「どうも」と頭を下げると、老婆は曲がった腰の先にある顔を、私の顔の傍まで近づけてきた。
目を細めると、周りにある無数のしわと区別がつかなくなってしまう。
その内、顔中のしわが一気に歪んだ。笑ったのだった。
そうは見えなかったが、「うふ、うふ」と嬉しそうな笑い声が聞こえた。
「風呂の中には、何かおったかえ?」
いきなり問われて、私は返答に詰まった。
何も答えられないでいると、老婆はまた「うふ、うふ」と笑った。
「夕飯はここで食べていきんさい。さっき山でフキを採ってきたけぇ」
「いや、あの……」
遠慮しますと言いかけると、老婆は天井を指差して、「夕雨が降ろうが。止むまで、ここにおりんさい」と言った。
夕雨。夕立のことだろうか。朝に天気予報は見たが、今日は一日中晴れだったはずだ。
「さっきからくらげ共が沸いて出てきゆうけぇ。じき、雨が降る」
思わず私はくらげの方を見た。無言で『本当か?』と問いかけると、
くらげは無表情のまま首を横に傾げた。『分からない』と言いたかったのだろう。

184くらげシリーズ「くらげ星」3:2014/06/26(木) 16:33:13 ID:TrdgkZJA0
数分後。私はくらげの部屋から、窓越しに空を見上げていた。
雨が降っている。くらげの祖母の言った通りだった。
長くは降らないということだったが、土砂降りと言っても良い程、雨脚は強かった。
家に電話をして、止むまでくらげの家にいることを伝えると、『そう。迷惑にならんようにね』とだけ返って来た。
私の親は放任主義なので、子供が何をしていようがあまり気にしない。
「雨の日になると、街中がくらげで溢れるそうだよ。
 プカプカ浮いて、空に向かって上って行くんだって。まるで鯉が滝を登るみたいに」
イスに座って本を読んでいたくらげが、そう呟くように言った。
「……マジで。そんなの見えてるのか?」
すると、くらげは首を横に振った。
「僕には見えないよ。僕に見えるのは、お風呂に水がある時だけだから」
私は窓の向こうの雨を見つめながら、前から気になっていたことを訊いてみた。
「なあ、そもそもさ。お前が風呂で見るくらげって、どんな形をしてんだ?」
「普通のくらげだよ。白くて、丸くて、尾っぽがあって。……あ、でも少し光ってるかも」
私は目を瞑り想像してみた。無数のくらげが雨に逆らい空に登ってゆく様を。
その一つ一つが淡く発光している。それは幻想的な光景だった。
再び目を開くと、そこには暗くなった家の庭に雨が降っている、当たり前の景色があるだけだった

その内、くらげの父親が仕事から帰ってきた。
大学で研究をしているというその人は、くらげとは似つかない厳つい顔つきをしていた。
くらげが私のことを話すと、こちらをじろりと一瞥し、一言「分かった」とだけ言った。
口数が少ないところは似ているかもしれない。
次男はまだ帰って来ていない。但しそれはいつものことらしく、彼抜きで夕食を取ることになった。
大広間に集まり、一つのテーブルを囲むように座る。
大勢での食事会にも使えそうな部屋で四人だけというのは、いかにもさびしかった。
フキの煮つけと、白ご飯。味噌汁。ポテトサラダ。肉と野菜の炒め物。
いつも祖母が作るという夕食はそんな感じだった。
最後にその祖母がテーブルにつき、まず父親が「いただきます」と言って食べ始めた。
私も習って、家では滅多にしない両手を合わせての「いただきます」を言う。
テーブルには酒も置いてあった。一升瓶で、銘柄は読めないが焼酎の様だ。
但し、父親はその酒に手をつけようとしない。
その内にふと気がついた。
テーブルには五人分の料理が置かれていた。
私は当初、それは帰って来ていない次男の分だと思っていたが、そうでは無かった。
祖母が一升瓶を持って、一つ空のコップに注いだ。その席には誰も座っていない。
「なあ聞いてぇな、おじいさん。今日はこの子が、友達を連れてきよったんよ」
祖母は誰もいないはずの空間に向かって話しかけていた。まるでそこに誰かいるかのように。
おじいさんとは、後ろの壁に掛かっている白黒写真の内の誰かだろうか。
見えない誰かと楽しそうに喋る。たまに相槌を打ったり、笑ったり、まるでパントマイムを見ているかのようだった。

185くらげシリーズ「くらげ星」4:2014/06/26(木) 16:33:56 ID:TrdgkZJA0
呆気に取られていると、私の向かいに座っていた父親が、呟く様にこう言った。
「……すまない。気にしなくていい。あれは、狂ってるんだ」
「うふ、うふ」と老婆が笑っている。
隣のくらげは黙々と箸と口を動かしていた。
私は何を言うことも出来ず、白飯をわざと音を立ててかきこんだ。

夕食を食べ終わったのが七時半ごろだった。その頃には土砂降りだった雨は嘘のように止んでいた。
外に出ると、ひやりとした風が吹いた。
車で送って行くという父親の申し出を断って、私は一人自転車で家路につく。
「お爺ちゃんも、雨の日に浮かぶくらげも、おばあちゃんがよくお喋りするいつもの人も、僕には見えない。
 だから僕は、『おばあちゃんは狂ってないよ』って言えないんだ」
それは、私を見送るために一人門のところまで来ていたくらげの、別れ際の言葉だった。
「……もしかしたら、本当に狂ってるのかもしれないから」
くらげはそう言った。
――でも、お前も同じくらげが見えるんだろ――。
のどまで出かかった言葉を、私は辛うじて呑みこんだ。

『僕は病気だから』と以前彼自身が言っていたことを思い出す。
あの時、『あれは、狂ってるんだ』と父親が言った時、一体くらげはどう思ったのだろう。
家に向かって自転車を漕ぎながら、私はそんなことばかりを考えていた。
地蔵橋を通り過ぎ、北地区に入った時、私は思わず自転車を止めて振り返った。
一瞬、何か見えた気がしたのだ。
振り向いた時にはもう消えていた。
私はしばらくその場に立ちつくしていた。
それは光っていた。白く。淡く。尻尾のようなひも状の何かがついていたような。
あれは空に帰り損ねた、くらげだろうか。
もしもそうだったとしたら、私も少し狂ってきているのかもしれない。
しかし、それは思う程嫌な考えでは無かった。
くらげは良い奴だし、雰囲気は最悪だったがおばあちゃんの夕飯自体はとても美味しかった。
私は再び自転車を漕ぎだす。空を見上げると雲の切れ間から星が顔をのぞかせていた。
空に上ったくらげ達は、それからどうするのだろうか。私は想像してみる。
星になるんだったらいいな。くらげ星。くらげ座とか、くらげ星雲とか。
その内の一つが本当にあると知ったのは、私がもう少し成長してからのことだが、それはまた別の話だ。

186くらげシリーズ「みずがみさま」1:2014/06/26(木) 16:35:04 ID:TrdgkZJA0
中学時代の話だ。
その年の夏、私と、私の両親と、友人一人の計四人で、一泊二日のキャンプをしたことがあった。
場所は街を流れる川の上流。景観の良い湖のほとりにテントを立てた。
水神湖(みずがみこ)という少し変わった名前の湖。観光パンフレットにも載っていないので、周りに人は私たちだけだった。

事前の予定では、両親はいないはずだった。
普段は放任主義なのだが、さすがに子供二人だけでのキャンプは危険だと思ったのだろう。
いきなり自分たちも参加させろと言いだして、計画にもあれこれ勝手に手を加え始めた。
今ならその心配も十分に分かるのだが、当時は普通にウゼーと思っていたし、実際口にもした。
もっとも私よりも、まず友人に申し訳ないと思っていたのだが、彼は表向きはまるで気にしていないようで、
私が親がついて来ると告げた時も、「うん。分かった」の一言だったし、
行きの車の中でも、私の両親とえらく普通に会話をしており、私一人だけがいつまでもブーたれていた。
「やっぱりくらげちゃんは、誰かと違って礼儀正しくてしっかりしてるねぇ」
移動中の車内。母が声を大きくしたのはわざとだろう。
くらげとは友人のあだ名だ。私がそう呼んでいるのを聞いて、親も真似をしてそう呼ぶ様になったのだった。
しかし、何が『くらげちゃんはしっかりしてるねぇ』だ。いっそのこと、そのあだ名の由来を教えてやろうかとも思った。
友人は所謂『自称、見えるヒト』であり、幽霊の他にも、自宅の風呂に居るはずの無いくらげの姿が見えたりする。
だからあだ名がくらげなのだが。
口に出したい気持ちを、ぐっと呑みこむ。
くらげはその日、長袖のシャツに黒いジャージという出で立ちだった。
彼はあまり親しくない人の前で肌を見せるのを嫌う。つまりは、そういうことだった。
「まあ何ねこの子は、さっきからぶすーっとして」
うっせー。誰のせいだ。

細い山道を幾分上り、目的地に着いたのは午前十時頃だった。
人の手が入ってないからか、湖の水は隅々まで透き通っていた。
所々白い雲の浮かぶ空は青く、周りの緑がそよ風になびいてサラサラと音を立てている。
荷物を下ろし、今日のために休暇を取ったという父親が、はりきってテントを組み立てにかかった。
くらげがそれを手伝い、私は落ちてある石を集めて積み上げ簡素な竈を作った。
口は強いが身体の弱い母は木陰でクーラーボックスに腰かけ、皆の作業の様子を眺めていた。

テントが完成した後、母が私の作成した竈で昼食をこしらえた。
野菜と一緒に煮込んで醤油とマヨネーズで味付けした、ぞんざいなスパゲッティ。鰹節をふりかけて食べる。
見た目と同様に味もぞんざいだったが、美味かった。
「そう言えば、前にも一度ここに来たことがあってな」
食事中、ふとした拍子だった。パスタと共に昼間から酒に手を付け始めた父が、しみじみとした口調で言った。
「あの時は、こんなにゆっくりとは出来んかった」
私たちが生まれる前のことだという。麓の街に住む一人の男が、山に入ったまま行方が分からなくなった。
次の日、家族の通報により捜索隊が組まれ、何日もかけて山中を探しまわったそうだ。
消防署に勤めている私の父も捜索に加わっていた。
そうして二日程たった頃。行方不明だった男はこの湖の近くで、見るも無残な姿で発見された。
「たった二日なのにミイラみたいになっててな、驚いた。
 腕は一本千切れて無かったし、動物の爪のあとやら、
 しかも腹にはどでかい穴が空いててな、内臓があらかた食われてた。
 熊じゃないかってことになって、そこからは皆大騒ぎだよ。猟友会も呼んで男の次は熊の捜索だ」
私とくらげは無言のまま顔を見合わせた。
隣の母が露骨に止めてくれというような顔をしていたが、私は構わず父に尋ねた。
「で?その熊は見つかったん」
「いや。見つからなかった。そもそも熊じゃないって話もあったな。
 猟友会の奴らが、これは絶対熊じゃないって言うんだ。傷がでかすぎるってな。
 まあ、確かにここらの山に熊が出るなんて、その頃でも聞かない話だったが。
 でも熊じゃないとしたら、じゃあ何なんだって話だよ」
「……そんなのが出るかもしれん山に、私らを連れてきたん?」
そう言って母が父を睨んだ。父はどこ吹く風で缶ビールを口に運ぶ。
「もう十何年も前の話だから心配ない。それに、どこの山だって死亡事故の一つや二つ起きてるもんだ。

187くらげシリーズ「みずがみさま」2:2014/06/26(木) 16:35:36 ID:TrdgkZJA0
いちいちビクビクしてたら何も出来んだろ」
「それにしても、食事中にする話じゃなかろーが」
それでも美味そうにビールを飲む父に、母は「この酔っぱらいめ」と悪態をつく。
そんな夫婦のやり取りを見ながら、私の口の悪さは母譲りだなと改めて思う。
「ああそう、思い出した……。死体を見た専門家も、こいつは熊じゃないって言ってたな」
一本目の缶ビールを飲みほした父が、そのまま顎を上げ空を見上げた状態で、どこか独り言のようにそう言った。
「腹の傷辺りの内臓が、すっかり溶けてるとかなんとか」
「やめんと刺すぞ」
母が父に菜箸をつきつけ、この話は終わった。

昼食後は、日が暮れるまでそれぞれ好き勝手なことをして過ごした。
母は読書をしたり、傍に居たくらげを捕まえて話の相手をさせていた。
酔っぱらいは、わざわざ家から持ってきたハンモックを手ごろな木に吊るして、昼寝をしていた。
私はというと、もっぱら釣りをしていた。
餌はその辺の岩の下に居た小さな虫で、この湖で何が釣れるのかも知らなかったが、
湖の景観は眺めていて飽きなかったし、ついでに何か釣れればいいな、くらいの心持ちだった。

小さな折りたたみ椅子に座りぼんやりしていると、
ようやく母に解放されたらしいくらげがやって来て、私の隣に腰を下ろした。
しばらく二人共無言で湖を眺めた。
どこかで、ピィ、という鳥の鳴き声と一緒に、木々の擦れ合う音がして、
小さなこげ茶色の影が数羽、私たちの頭の上を西から東へと横切っていった。
「さっきの親父の話さ、あれ本当だと思うか」
鳥の影が見えなくなった後、私は何となく尋ねてみた。
欠伸の最中だったらしいくらげは、両手首で涙をぬぐいながら、そのまま「んー」と伸びをした。
「僕は当事者でも何でもないし」
「まあ、そうだよな」
そして、くらげは地面に生えていた草を数本引きぬくと、湖に向かって投げた。
「……あのさ。これ、随分昔におばあちゃんに聞いた話なんだけど」
くらげが言った。
「この辺の山には、神さまが住んでるって」
「神さま?」
「そう。みずがみさま、っていうんだけどね」
くらげは湖を見つめながらそう言った。
みずがみさま。その名前は私に、今自分が釣り糸を垂らしている湖の名前を否応なく思い出させた。
「そのみずがみさまがどうかしたのか?それとも事件は、そいつのせいだって言うのかよ」
くらげは首を横に振った。
「かもしれないねって話。でも、この湖のそばで見つかったんでしょ?」
確かに男の死体はこの水神湖周辺で見つかったそうだが、
だからといって、湖の神さまが犯人は突拍子過ぎるのではないか。
そんな私の考えを知らないくらげは、淡々と続ける。
「ふつう、神さまが見える人なんて滅多にいないし。見えない何かに危害を加えられたり、なんてことはあり得ないんだけど」
そして、くらげは右腕を前に伸ばすと、シャツの裾を少しめくって見せた。
白くて細い腕の中に、赤い斑点が数ヶ所浮き出ている。
「見えない人には居ないも同然だけど。もしも『それ』が見える人なら、刺されたり噛まれたり、殺されることもあるんだよ」
それは、彼が自宅の風呂に出たくらげに刺されたという跡だった。
最初に見たのは小学校の頃の体育の授業だったが、それから数年経っても消えないで、未だ彼の身体に残っている。
ファントム・ペイン――幻肢痛。そんな、どこかで聞いたような単語が頭に浮かぶ。
しかしあれは、すでに失った、あるはずの無い手足の痛みを感じる、というものだったはず。
この場合、幻傷と言った方がいいのかもしれない。
「……でもなあ。最近の神さまは、人を襲って内臓食うのかよ」
私が言うと、くらげは前を見たまま「どうだろうね」と少し首を傾げた。
「神さまなんて、善いとか悪いとか関係なしに、人が崇める対象のことだし。
 もしかしたら、生贄だと思ったんじゃないかな。僕らの街も昔は水害が多かったそうだから」
さらりと言って、くらげは再び欠伸をした。
それから後ろを振り向き、父が寝ているハンモックをどことなく羨ましそうに見やった。
その後、私は夕暮れまで粘ったが、結局一匹も釣れなかった。

188くらげシリーズ「みずがみさま」3:2014/06/26(木) 16:36:11 ID:TrdgkZJA0
夕飯はカレーだった。但し、ここで作ったものでは無い。母が家から鍋ごと持ってきたのである。
しかも飯盒も米も無いので、別の鍋でうどんを茹でて、カレーうどんという体たらく。
何故キャンプに来て、昨日の残りのカレーを食べなければいけないのだ。何故白米が無いのだ。
ここでも結局、私のみがブーたれていた。

食事の後は、焚き火の光を目印に集まってきた虫達と一緒に、夜の景色を眺めたり、誰かと適当に話をしたり、
父のウィスキーを少しなめさせてもらい、母に怒られたりした。
時間は驚くほどゆっくり流れ、
夜空にはどこも欠けることのない満月と共に、
今にも落ちてきそうな、もしくは逆にこちらが吸い込まれそうな、満天の星空が輝いていた。

酒のせいか、いつテントに入ったのかは覚えていない。気がつけば、私は寝袋を敷布団にして仰向けに寝転がっていた。
右を見ると父と母が、左にはくらげが少し離れたテントの隅で、まるでカブトムシの幼虫の様に身体を丸めて眠っていた。
どうして目が覚めたんだろう。
外の焚き火は消えている様だった。辺りはしんと静まり返り、虫の鳴き声が唯一、静寂を一層際立てていた。
私は上半身を起こした。寝起きだというのに、何故か自分でも驚くほど目が冴えていた。
目だけじゃない。五感がこれ以上ない程にはっきりとしている。
何か居る。
ほとんど直感で、私はその存在を認識していた。テントの外に蠢く何かが居る。
直感に次いで、這いずる音が聞こえた。
その内、不意にテントの壁に大きな影が映った。私の背よりは大きくないが、横にかなりの幅がある。
そいつはテントの周りをのそのそと、入口の方まで移動してきた。
私は無意識の内に、テントの入り口に近寄っていた。
二重のチャックは二つとも閉じている。薄い布二枚隔てた向こうに何かが居る。
不思議と、熊かも知れないとは思わなかった。
そいつの足か、もしくは手がテントに触れた。でかい身体の割には随分と細い手足という印象だった。細くて、先が鋭い。
みずがみさま。
ガジガジガジガジ、とまるで錆びた金属同士をこすり合わせたような、そんな音がした。
鳴き声だろうか。そうだとしたら、そいつは熊ではあり得無い。
私は手探りでテントの中に転がっていた懐中電灯を見つけ出した。
片手に握りしめ、もう一方の手でゆっくりと出入り口のジッパーに手をかけた。
じりじりとジッパーを下ろしてゆく。片手が入る程の隙間。その隙間に、私は光のついていない懐中電灯を向けた。
スイッチを入れようとした。
その瞬間、突然後ろから肩を掴まれた。
驚く間もなく口を塞がれる。
「……静かに」
耳元でもようやく聞こえる程の小さな声。くらげの声だった。
いつの間に起きていたのだろうか。後頭部から彼の心臓の鼓動がはっきりと聞こえていた。自分の心臓の音も聞こえる。

189くらげシリーズ「みずがみさま」4:2014/06/26(木) 16:36:49 ID:TrdgkZJA0
いつの間にか懐中電灯が取り上げられていた。
「今は駄目だ。相手にもこっちが見えるから」
外の気配は相変わらず、すぐそこにあった。
「見えるってことを、知られちゃいけない。見えないふりをしないと」
小さく囁くその声が、僅かに震えているのが分かった。そこでようやく、私の頭の芯が冷えてきた。
私は鼻で大きく深呼吸を二回すると、くらげの膝を軽く二度叩いた。
くらげが私の口から手を離した。
星明かり月明かりのおかげで、テントの中でもそれ程暗くない。
テントに映る影。改めて見ると、影の高さは、膝を立てて座った時の私の目線とほぼ同じだった。
私が開いたジッパーの隙間から、その姿の一部分が見え隠れしている。但し、夜中だったせいか黒くしか見えない。
ガジガジガジガジ。あの音がする。不快な音だ。
どうして両親は起きないんだろうと思った。
もしかしたら、彼らには聞こえていないのかもしれない。私とくらげ、二人だけに聞こえている。
くらげと一緒に居ると、私にも常人には見えないものが見える時がある。それをくらげは、『病気がうつる』と表現していた。
見えてしまう病気。それは時には、見えてしまうがゆえに様々な症状を誘発する。
くらげから離れさえすればこの病気は治る。それでも私はくらげと友人でいた。
一度覗いてしまった非日常の世界を、簡単に手放すことは出来なかった。
しかし、この病気は悪化もするのだ。

どのくらい動かずに居ただろう。不意に、外に居るそいつが背を向けたのが分かった。気配がテントから離れていく。
暗闇の中、私とくらげは目を合わせた。「……ライトは駄目だよ」と、くらげが小声で言う。私は頷いた。
二人でそっとテントの出入り口に近づく。
手が一つ入る程だったジッパーの隙間を、もう少しだけ広げた。二人で片目ずつ、外を覗く。
息を飲んだ。
虫だ。
四本の足で這いながら、湖の方へと近づいて行く。
そいつはとてつもなく大きな、まるで私たちが小指大まで縮小してしまったのかと思う程大きな、昆虫だった。
枯れた水草のような色。その畳二畳分はあるだろう背中。
頭から横にはみ出した、車すら挟み潰してしまいそうな巨大な鎌状の前足が二本。
「……タガメだ」
くらげが小さく呟いた。
湖の傍まで来ると、そいつは突然立ち止まり、動かなくなった。
その背中がもぞもぞと動く。同時に、ガジガジガジ、とあの音がした。あれは虫が身体をこすり合わせる音だったのだ。
そう思った途端。いきなりその背中が二つに裂けた。身体の大きさが横方向に突如膨れ上がった様にも見えた。
羽を広げたのだ。
その四枚の羽根が目に見えない速さで振動する。ざあ、と風が吹いて、テントが揺れた。
飛ぶ。その大きな体がふわりと、地面から少しだけ浮いた。
水面に波紋が立つ。飛び上がるというよりは、水面を滑る様に。
徐々に上昇していって、あっという間に木々の向こうへと飛び去ってしまった。
湖はまた静かになった。
私はしばらくの間、動くことも声を発することも出来なかった。
くらげがジッパーを開いて外に出た。湖の方へと歩いて行き、先程あの巨大な虫が飛び立った場所で立ち止まった。
「やっぱり、みずがみさまは、タガメだった。おばあちゃんに聞いた通りだ……」
夜空に向かって、くらげは呟く様にそう言った。
その声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。
私も外に出てみる。見ると、焚き火をした後の灰の中に、未だ赤くくすぶっている薪があった。
あの虫は、この僅かな光につられてやってきたのだろうか。

190くらげシリーズ「みずがみさま」5:2014/06/26(木) 16:37:27 ID:TrdgkZJA0
ぶるり、と私は一つ震えた。
「……もし捕まってたら。どうなってたんだろな」
タガメに関する知識で、蜘蛛のように獲物の内臓溶かしながら少しずつ吸う性質がある、ということを私は思い出していた。
「もし捕まったら、僕らお供え物になってたね。きっと今年、このあたりで水害は起きなかったはずだよ」
私の傍に来てくらげがそう言った。
お供え物。私はくらげを見やって、思わず笑ってしまった。
すると、くらげは不思議そうな顔をした。どうやら冗談で言ったのではないらしい。
今年水害が起こったら、それは私たちのせいでもあるということか。
「あら……、二人共早起きやねぇ」
声のした方を向くと、母がテントから顔だけ出していた。私の笑い声で起こしてしまったようだ。
見ると、辺りが段々青白く明るんで来ていた。朝はもう、すぐ近くまで来ている。
「何しゆうんよ。二人で」
母の言葉に、私たちは顔を見合わせた。どう説明したらいいものかと一瞬悩んだが、私は本当のことを話すことにした。
「いや、あのさ、テントの外にでっかいタガメが居るの見つけて、ちょっと観察してたんだけど……」
嘘は何も言っていない。
母は目をぱちくりさせた後、小さく溜息を吐いた。
「ねぇくらげちゃん」
その時の母の笑顔は、私が今まで見たこともないようなものだった。
「ウチの子こんなに馬鹿なんだけど。これからもお願いね?」
するとくらげは、珍しく少し戸惑ったような表情をしてから、こう言った。
「あの、僕、ずっとは無理ですけど……、出来る限り、そうしたいと思ってます」
数秒の間を置いて母が笑った。
当のくらげはやっぱり不思議そうな顔をしていて、どうやらこれも冗談ではないようだ。
くらげの言葉。きっと母と私では、違う受け取り方をしただろう。
正直、おいおいおい、と思ったが、私は笑って流すことにした。

終わり

191くらげシリーズ「転校生と杉の木」1:2014/06/26(木) 16:38:19 ID:TrdgkZJA0
これは、私が小学校六年生だった頃の話だ。

四月中旬。私はその日の放課後、一人居残って教室の掃除をしていた。不注意で花瓶を割ってしまったのだ。
ガラスは担任が片付けてくれたが、濡れた床の掃除を命じられ、
おかげで校門を出た時間は、他の『まっすぐ帰る組』よりも数十分遅れていた。

昨夜はひどい雨だった。校庭に植えられた桜はほとんど散っている。
道には花弁が散らばり、足元にある水溜りは桃色をしていた。
いつもなら水溜りなど気にせず踏み越えて行くのだが、その日ばかりはチョロチョロと避けて歩く。

帰宅途中、私が昔通っていた保育園の前を過ぎようとした時だった。
道路の端で、誰かが園内に生えている大きな杉の木を見上げていた。
同じ学校の生徒だろう。黒いランドセルを背負っている。
見覚えある横顔。彼は始業式の日に、私のクラスに転校してきた生徒だ。
彼は一風変わった転校生だった。
転校初日の全ての休み時間、彼は一度も教室に留まることをしなかった。
休み時間が始まると、一人教室を抜け出して、いつの間にかいなくなっているのだ。次の日からもそうだった。
転校生にとって、転校初日は友人を作る上で最も重要な日だろう。
その重要な日の休み時間に自ら教室を出ていく。つまりは、そういうことだ。
人嫌いの変わり者。それが周りの彼に対する評価だった。
その転校生が私の目の前で、じっと杉の木を見上げている。
園内には、サイズの小さな遊具で遊ぶ子供たちと、それを見守る保育士の先生の姿があった。
私も昔、同じようにここで遊んだ。
私は保育園が大好きな子供で、休みの日でも「やだー。保育園行くー!」と泣きわめいて親を困らせたらしい。
杉の木は園内の隅に生えている。きっと街が出来る以前からそこにあったのだろう。
幹は太く、高さは周りの家々の三倍はある。
建材用のまっすぐ伸びた杉ではなく、見ようによっては身をよじった人のようにも見え、
根元には『みまもりすぎ』と名札が掛けられてある。
私が園児だったころからすでに、その杉の木は『みまもりすぎ』だった。
転校生の横を過ぎざまに、私はちらりと杉の木を見上げてみた。
彼は何を見ているのだろうか。漠然と、枝にとまった鳥でも見ているのだろうと思っていたが、違った。
白い靴が二足、空中に浮かんでいた。
不思議な光景だった。
足はそのまま歩きながら、首だけがその靴を追う。可動域の限界まできたところで私は立ち止まった。
杉の木の方に身体も向けて、もう一度見やる。
一組の白い運動靴が、つま先を下にして、私の頭より高い場所で浮かんでいた。
その一,二メートルほど上には太い枝が真横に張りだしていて、そこから細い糸で吊るしているのだろうか。
しかし、一体どういう理由で。
ふと気がつくと、先に杉の木を見上げていた彼が、いつの間にか歩きだしていた。
何事も無かったかのように平然と、私の横を通り過ぎる。
私は振り返り、その背中に声を掛けようとした。けれど、何と言えば良いのか分からない。
まごまごしている内に、彼は角を曲がり、その姿は見えなくなった。
一人取り残された私は、もう一度杉の木を見上げた。
何もない。白い靴は消えて無くなっていた。
その場に立ちつくし、茫然と杉の木を見上げる。
幻覚、錯覚、見間違い。しかし、私の見たものが見間違いなら、彼は見ていたものは何なのだろう。

その日、家に帰ってから、私は母に今日あったことを報告した。
二足の白い靴が、保育園の大きな杉の木の下に浮かんでいたと。
丁度夕飯の買い物に行こうとしていた母は、
玄関へと向かいがてら、私の頭をわしゃわしゃと撫でて、一言「アホなこと言いなさんな」と言った。

192くらげシリーズ「転校生と杉の木」2:2014/06/26(木) 16:38:53 ID:TrdgkZJA0
日付は変わり、次の日のこと。
学校に行く途中、保育園の前を通り過ぎる際に、私はあの杉の木を見上げてみた。
白い靴など影も形も見当たらない。角度を変えたり目を細めたりしたが、やはり何も見えない。
ふと、柵の向こう、園内から一人の赤い頬をした小さな男の子が、私のことを不思議そうに見つめていた。
私は取り繕うように笑って、そそくさとその場を後にした。

やっぱり、見間違いだ。
母の言う通り。アホなことだったんだろう。
幾分ホッとした私は、以降しばらくの期間、白い靴のことを思い出すことはなかった。

そうして、それからしばらく経った日のこと。
四月が終わりを迎え、五月。端午の節句がすぐそこまで近づいていた。
その日も前日は雨だった。
学校が終わり、一人での帰り道。道路には水溜りという置き土産がいくつも残っていた。
わざと水溜りを蹴飛ばしながら歩く。靴下まで水に濡れて、一歩歩くごとにガッポガッポ音が鳴るのが楽しい。
母には不注意で溝に落ちたとでも言い訳するつもりだった。

そうやって、私は保育園の横の道までやって来た。
歩くのを止めて立ち止まる。何か聞こえたのだろうか。虫の知らせだろうか。理由は忘れてしまった。
とにかく私は立ち止まった。
保育園では数人の子供が遊んでいるようだった。はしゃぐ声がする。
園内を見やると、丁度私の視界を遮る様にあの杉の木があった。
ふと、あの白い靴のことを思い出した私は、なんとなく、木の幹を辿って、視線を空へと向けてみた。
頭上にあの白い靴が浮かんでいた。
瞬きすら忘れて私はそれを見つめていた。
誰かが白い靴を履いている。
その時見えたのは靴だけではなかった。前は見えていなかった人の足首。靴を履いている。人間の足だ。
足は脛のところで途切れていて、それ以上は見えない。
色や輪郭は、まるで霧がかかったようにぼんやりとしている。しかし、
白い運動靴を履いた足が二本、確かに空中に浮かんでいた。
誰かが私の背後を通り過ぎる。
はっとして横を見やると、黒いランドセルが向こうの角を曲がろうとしていた。見覚えのある背中。
「ちょっと待てよ!」
私は咄嗟にその背中を呼びとめていた。彼は立ち止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
その顔は無表情で、相変わらず何を考えているかわからない。
転校してきて一カ月。その頃、彼はすでに教室の置き物扱いだった。休み時間に教室に居ないのは変わらず。
最初の方こそ、寡黙な転校生を面白がっていた周りも、慣れてくるにつれ次第に相手をする者もいなくなっていた。
彼は黙って私の方を見ていた。
言葉で説明出来なかった私は、無言で、杉の木の下に浮かぶ誰かの白い靴を指差した。
彼が私の指差した方向を見やる。長い沈黙があった。
「……見えるの?」
杉の木を見上げたまま彼が口を開いた。
そんなことはないはずなのだが、私はその時、初めて彼の声を聞いたような気がした。
「白い靴と、足首」
私は見えたままを答える。
どうやら、彼にも同じものが見えているようだった。しらばっくれる気はないらしい。
「そう。でも、それ以上は見ない方がいいよ」
そして彼はゆっくりとこちらを見やった。
「あの人、君の方見てるから」
それだけ言い残し、彼は背を向けて歩きだした。
再び呼びとめることも出来ず、私はただその背を見送っていた。
その姿が曲がり角の先に消えてしまってから、私は杉の木を見上げる。
白い靴と人間の足首は、忽然と消えて見えなくなっていた。
一体全体、何だというのだ。

193くらげシリーズ「転校生と杉の木」3:2014/06/26(木) 16:39:26 ID:TrdgkZJA0
その日も家に帰って親に報告したが、やはり母も父もまともに取り合ってはくれなかった。
見間違いではない。自分の目に見えたものが何なのか。私は知りたいと思った。
彼が何か知っているに違いない。その考えは確信に近かった。
私は二度、白い靴を見た。一度目、二度目も、私の傍には彼の姿がある。
しかも、最初にあの杉の木を見上げていたのは彼なのだ。無関係とは思えない。

次の日、学校での給食の時間が終わり、昼休み。私は誰よりも早く教室を出て、廊下にて待機していた。
いつものように彼が教室から出てくる。私はその肩を捕まえた。
「ちょっと話をしないか」
彼は無言のまま私を見やった。相変わらず表情は乏しい。迷惑と思っているのだろうか。
いずれにせよ、中々返答しようとしない彼に、私は自分の中で一番優しげな笑顔を作ってみせた。
「いいよ、って言うまで付きまとうから」
彼は俯き、小さく息を吐いた。
「……いいよ」

人気の少ない中庭に場所を移す。
二人で階段を下り、上履きから靴に履き替え外に出た。
睡蓮の葉が浮かぶ丸い池のふちに腰かけ、単刀直入に、前置きも何も入れず、私は切り出した。
「あの白い靴と足は、何なんだよ」
「分からないよ」
対する彼の答えもシンプルだった。
そうして彼は、「僕は、あの人のことを知らないから」と続けた。
『あの人』。先日もだ。彼は確かにそう言った。『それ以上は、見ない方がいい』とも。
きっと足だけでは無いのだ。その上がある。そして、彼にはそれが見えている。
「あの人って……。人があんなとこで、何してるんだよ」
私の問いには答えず、彼は池の中心にある噴水の方を見やった。
「もう、僕に近づかない方が良いよ。君は特に」
意味がわからない。私は口を開きかけたが、彼の言葉の方が早かった。
「僕は病気だから」
それはまるで、原稿を読み上げるニュースキャスターのように。彼の口調はあくまで淡々としていた。
「……病気?」
「君は、家のお風呂に、くらげが浮いているのを見たことある?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。じっくりと考えた末に、私は黙ってかぶりを振った。
風呂に浸かるくらげ。そんなもの、見たことあるわけがない。
「僕は、そういうのが見える病気だから。君が見た白い靴や足とかもそう」
『自称、見えるヒト』というわけだ。しかし彼は、その原因を自ら告白した。
病気。
それは私の体験した全てを説明できなくとも、何かしらの説得力を持っていた。
少なくとも、たまにTVに出てくるナントカ霊能力者。
彼らの様に、何の説明もなく、幽霊やその他が見えると言われるよりも、はるかにずっと。
「君は、僕の病気が伝染ったんだよ。たまにそういう人いるらしいから。……君は前から見えてたわけじゃないんでしょ?」
伝染病。あの白い靴が見えたのは、彼の病気が私に伝染ったからだと彼は言った。
私は彼と同じ病気に罹ったのだろうか。
傍から見ても狼狽していたのだろう。私を安心させるためなのか、彼は辛うじてそうしたと分かる程度に小さく笑った。
「でも大丈夫だよ。その病気は、僕に近づかないようにすれば、自然と治るから」
私は何も言うことができなかった。

194くらげシリーズ「転校生と杉の木」4:2014/06/26(木) 16:40:01 ID:TrdgkZJA0
彼が中庭を去った後も、私は一人、噴水に腰かけていた。
それ以降の午後の授業も、私は心ここにあらずという状態で、先生の話も聞かず、黒板も見ていなかった。
何か考えていたはずなのだが、内容は覚えていない。

その日は五時間授業で学校が早く終わった。
放課後。一緒に帰ろうという友達の誘いを断り、皆から少しおくれて、一人で帰路につく。
ゆっくりと歩き、あの杉の木がある保育園までやって来た。園児たちの姿は無い。お昼寝の時間だろうか。
私は立ち止まり、樹齢は何年だろう、その大きな杉の木を見上げた。
今のところ不可解なものは何も見えない。見えるのは、空へと伸びる杉の木と、その先の青く広い空だけだ。
このまま家に帰れば、今まで通り何事もなく過ごせるだろう。
私はそれをちゃんと理解していた。しかし、私は歩き出せなかった。いや、歩き出さなかった。
その内、黒いランドセルを背負った彼がやって来た。私の姿を見とめたのか、はた、と歩くのを止める。
相変わらずの無表情で、何を考えているかわからない。しかし立ち止まったということは、私の存在が意外だったのだろう。
「や。こっち来いよ」
手を上げて私はそう言った。幾分時間を掛けて、彼が私の傍へやってくる。
「……どうかしたの?」
私はその言葉を無視して一人、杉の木を見上げた。
先程までは決して見えなかった、白い運動靴、足首、さらにその上のつるりとした膝と、ズボンの裾。
間違いない。彼の傍に居るから見えるのだ。そうして、見える範囲が昨日よりも広がっている。
「どうやったら、もっとよく見えるんだ?」
上を見上げたまま私は尋ねる。
「……見ない方がいいよ」
彼は昨日と同じ言葉を繰り返す。私は返事をしなかった。
しばらくお互いに無言のままだったが、
彼はやがて諦めたように、ふう、と小さく息をはくと、私と同じように杉の木を見上げた。
「昨日は、靴と足首だけだったんだよね。今は?」
「今は、膝らへんまで」
「ズボンは?」
「少し、見える」
「そう……」
次の瞬間。彼の右手が、私の左手首を掴んだ。それは思い掛けなく、唐突な出来事だった。
驚いて彼を見やる。その表情は変わっていない。視線も杉の木に固定されたまま、彼は残った手で上空を指差した。
「あの人の手は見える?ズボンの腰辺りで、ぶらぶらしてる、白い手」
戸惑いながらも、私は再び上を見やった。
手が見えた。
手首から先だけだったが、はっきりと。彼の言う通り、それは白い手だった。
彼に腕を掴まれたからか。ズボンも裾まででなく、腰の辺りまで見えるようになっていた。
「シマウマみたいな、長袖のシャツを着てるね」
隣で彼がそう言った瞬間、私の目はぼんやりと白と黒のボーダー柄のシャツを捉えていた。
それは徐々に鮮明になってゆき、しわまではっきりと分かるまでになった。
細かく説明されるごとに、『彼女』の見える部分が増えてゆく。
「首に、ロープが食い込んでる」
縄が見えた。張り出した枝から垂れたロープが、白く細い首に絡まっている。
「女の人だね。ショートヘアで、舌がちょっと出てて、目は……君の方を見てる」
そう言ったのを最後に、彼は私の手首を掴んでいた手を離した。
顔が見えた。
私にはもう何もかも見えていた。

195くらげシリーズ「転校生と杉の木」5:2014/06/26(木) 16:40:33 ID:TrdgkZJA0
その足も、その手も、その身体も、その顔も、口から少し飛び出た舌も、
瞬きもせずじっと私を捉える、その虚ろな目も。
「……あ」
思わず声が出ていた。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
私はその人を知っていた。
彼女は、私がここの保育園で年中組と年長組だった時に、世話になった先生だった。
私は幼い頃。母が入退院を繰り返していて、小さな私は寂しい思いをしていた。
だから、十分に母に甘えられない分を、私は保育士だった彼女に求めたのかもしれない。
私はよく先生の足に縋りつくのが癖だった。まるで猿やコアラの赤子のように。
彼女は私を足にくっつけたまま、「よいしょよいしょ」と歩くのだ。そのまま他の用事をすることもあった。
優しい人だった。
その先生が首を吊って死んでいる。
私はそっと手を伸ばして、その白い運動靴に触れようとした。
指の先が少し触れたが、感触はどこにも無く、私の指は空を掻いた。
触れられない。
「大丈夫?」
気遣ってくれているのだろうか。
「……知ってる先生なんだ」
私は答える。それは自分でも驚くほど冷静な声だった。
おかしなことに、先生の死体を前にしても、実感はまるで湧かなかった。
それは、テレビの向こう側で行われる有名人のお葬式のようだった。
ロープで木にぶら下がった彼女は、ずっと私の方を見ている。
もしかしたら、私と彼女が知り合いであることに、彼は最初から気付いていたのかもしれない。
「『見守り杉』っていうんだねぇ、……この木」
隣で彼が小さく呟いた。

それから、どこで彼と別れて、どうやって家で帰ったのかは、記憶にない。
家に帰ってから、私は母に事情を聞いた。
先生の名前を出すと、母は観念したようで、色々と話してくれた。
黙っていたのは、忘れているのならそのままの方がいい、と思ったからだという。
先生は自ら命をたった。
失恋の果ての自殺。時期は、私が保育園を卒園してすぐのこと。
恋人は、当時同じ保育園に勤めていた人で、私の記憶にもある人物だった。
破局の理由は喧嘩でも浮気でも無く、先生の生まれ育った場所にあった。
周りから忌み嫌われる土地。
知識としてはあったが、そんなものはずっと昔の話だと思っていたし、何より理不尽で、やりきれなかった。
母は「あんた一時期、あの先生のことを、『お母さん』って呼んでたんよ」と言って、懐かしそうに笑った。
記憶の中の先生の姿が、目の前の母と重なる。
私の目から涙がぽろぽろと勝手にこぼれ落ちた。先生は死んだのだという実感がようやく沸いてきたのだ。
私は小さな子供のように泣いた。そんな私の頭を母はわしゃわしゃと撫でてくれた。

196くらげシリーズ「転校生と杉の木」6:2014/06/26(木) 16:41:06 ID:TrdgkZJA0
翌日。私は登校中に、保育園に立ち寄った。
門の傍には一人の保育士がいた。私はその人に、前日に母に用意してもらった小さな花束を渡す。
杉の木の下に供えてくれるようお願いすると、
その年配の保育士は心得ているのだろう、一瞬嬉しそうな、それでいて寂しそうな表情をした。
「ありがとうね」
彼女は私に向かってそう言った。
私は一度だけ杉の木の方を見やったが、先生の姿はどこにも見えなかった。
保育園に背を向けて、私は歩き出す。涙は出ない。先生のための分は、どうやら昨日の内に出しつくしてしまったようだ。

学校までの道、小学校の校門の前で、私は見覚えのある黒いランドセルを見つけた。
彼だ。
その背に声を掛けようと口を開く。しかし言葉が出てこなかった。
足が止まり、私はその場で立ち止まる。
彼が抱える病気。
『近づかない方がいい』という彼の言葉。
私を見下ろしていた先生の目。
見える、ということ。
様々な言葉や事柄が頭の中を駆け巡り、その背を追いかけることを躊躇わせた。
覚悟。そう言ってもいいかもしれない。当時の私は、まだそれを持ってはいなかった。
だから、私が彼のことを『くらげ』と呼ぶ様になるのは、もう少しだけ先の話になる。
後ろから肩を叩かれた。
「ねえ、何ぼーっと突っ立ってんの?」
振り向くと、そこにはクラスメイトの女の子が、疑問符を頭の上に出して私を見やっていた。
若干慌てつつ、「何でもないって」と答えると、彼女はより不思議そうな顔をして。
「何かへんなものでも見たのー?」
そう言って屈託なく笑った。

197くらげシリーズ「緑ヶ淵」1:2014/07/09(水) 09:27:34 ID:qlht/3vE0
街を南北に等分する川。その川を少し遡った、中流域と上流域の丁度境目あたり。
緩やかにカーブを描く流れの外側に一箇所、岸がえぐれて丸く窪んでいる場所がある。
そこは緑ヶ淵と呼ばれていた。
田舎の子供たちにとって、夏の間の川は市営プールと同義だが、
緑ヶ淵は入ると急に深くなる上に、中では流れが渦を巻いているらしく、毎年淵の周辺は遊泳禁止区域に指定されていた。
しかし、川の外からでは渦は見えず、飛び込むのに丁度いい大岩もあってか、
緑ヶ淵はごく稀に、危機感の無い者や、反抗心の使い方を間違えている若者たちの度胸試しの場にもなっていた。
地元の人間は緑ヶ淵で溺れて死ぬことを、『呑まれる』と表現する。
父が消防署に勤めていたので、私もじかに聞いたことがある。
――緑ヶ淵が、また人を呑んだ――

私が中学一年生だった頃の話だ。
九月中旬、暦の上ではとっくに秋だ。もう夏休みボケは抜けたものの、日差しも気温もまだ十分に暑かった。
その日は学校が休みで、部活も入っておらず勉強熱心でもない私は、
朝から一人の友人を誘って、緑ヶ淵に向かって自転車を漕いでいた。
小さな頃から海川野山を駆けずり回って育ってきた私にとって、片道一時間半なんてちょっとした散歩のようなものだ。
ただ付き合ってくれた友人には、「川に釣りに行こうぜ」としか言っておらず、
こんなに遠出するとは思っていなかったのだろう。
しかも、川沿いの道を上流に向かって遡っているので、ゆるい上り坂がずっと続く。
緑ヶ淵に到着したとき、友人は既に青色吐息だった。
彼はくらげ。もちろん渾名だ。
何でも、彼の家の風呂にはくらげが沸くらしい。
『自称、見えるヒト』というわけだが、その中でも、見えるモノが一風変わっている。
加えて、見た目もくらげのように青白い。私は逆に真っ黒だ。

先に対岸の川原でそこら辺の石をひっくり返し、ケラの幼虫やら餌に使う虫を集める。
ミミズも持ってきていたのだが、その土地で取れる餌が一番釣れるというのが私の持論だ。
くらげは先に緑ヶ淵の傍にある飛び込み台としても使われる大岩の上に座って、川の流れをじっと眺めていた。
ちなみに、彼は釣りはやらない。
ただ、水のある風景は好きなようで、海だろうが川だろうが、何時間でも飽きずに眺め続けられるそうだ。
餌を集め終えた私は、くらげの上へと向かう。自転車を止め、ガードレールを跨ぐ。
大岩の上。真上からのぞく緑ヶ淵は、名前の通り周りの流れよりも一層濃い色をしている。
「……飛び込まないでよ」
隣のくらげが小さく呟いた。

198くらげシリーズ「緑ヶ淵」2:2014/07/09(水) 09:28:09 ID:qlht/3vE0
『落ちないでよ』では無く、『飛び込まないでよ』である辺り、
彼とは小学校六年生からの付き合いだが、そろそろ私のことを分かってきた証拠だ。
「心配すんな。今日は水着持ってきてねぇから」
彼が私を見る。彼は基本無表情だが、『そういう意味で言ったんじゃないんだけど』と、その目が言っている。
「冗談だって」と私が言うと、小さくため息のようなものを吐いた。
「……何だか、脳の血管に出来た、静脈瘤みたいだ」
緑ヶ淵について、くらげが何だかよく分かるようでよく分からない微妙な例え方をした。
「気をつけろよ。落ちたら、浮かんで来れないからな」
ちなみに、釣りをする際、私はあまり目的の魚を一匹に絞ることをしないのだが、今回は少しだけ事情が違った。
くらげの隣に座り、つり道具を広げる。大岩から水面までは三メートル強といったところだ。
針に餌をつけて、淵の真ん中を目掛けてのべ竿をふる。
『緑ヶ淵には、何かが潜んでいるのではないか』とは、私の父から聞いた話だ。
子供を怖がらせようとした作り話かもしれないが、それが私が今日ここに来ようと決めた理由でもあった。
「ここで溺れると、死体も上がらないんだってよ」
すると、くらげがちらりと私を見て、「ふーん」と言った。ここまで来るのに相当疲れたのか、少し眠たそうな顔をしている。
『緑ヶ淵に呑まれる』という言葉はただの比喩ではなく、
実際に緑ヶ淵での死亡事故では、遺体が上がらないことが多いそうだ。
雨や台風で増水した場合は別にして、川の水難事故で遺体が上がらないといった状況は、そうそうあることではない。
何度か捜索に駆り出されたことがあるうちの父親は、『巨大人喰いナマズでも居るんじゃないか』と冗談半分に言っていた。
くらげが空に向かって欠伸をしている。
まさか、『今日は人喰いナマズを釣りに来たのだ』とは、さすがの私でも口に出来ない。
アタリの感触はまだ無い。
深緑色をした水面は、円状の淵の中で緩やかに時計回りの渦を描いていた。
流れ着いた枝の切れ端や木の葉などの小さなごみが中心に集まり、ゆっくり回転している。
こうして見ると、ここが人を呑む淵と呼ばれているなどとは到底思えなかった。
北の空には縦に厚い雲が一つ、山を越えてゆっくりとこちらに向かってきていた。ぼんやりと時間が過ぎる。
そよ風が吹き、草木が揺れ、魚は釣れず、隣の彼は船を漕ぎ出していた。

199くらげシリーズ「緑ヶ淵」3:2014/07/09(水) 09:29:08 ID:qlht/3vE0
何投目か。
しばらくして、あまりにもアタリが無いので上げてみると、針に刺さっている部分は残して餌の半分だけ食べられていた。
魚が居ないわけではないらしい。
「……いてっ」
新しい餌に換えようとして、針が人差し指に刺さった。
思ったよりも血が出ていたが、面倒くさいのでそのまま餌をつけて、再び竿を振る。
絆創膏も無いので、一度指を舐めて、あとは放っておく。
隣のくらげが、眠たげな目で私の指をじっと見つめている。
「何?」と訊くと、彼は餌の虫が入ったケースに目を落として、「……何でも無い」と言った。
おかしな奴だなと思う。
その時だった。竿が下に引っ張られた。合わせる暇も無いほど、それは一瞬の出来事だった。
もしも咄嗟にくらげが服を掴んでくれなかったら、私は川に落ちていたかもしれない。それほど突然で、強いアタリだった。
ギチ、と竿が悲鳴を上げる。
くらげも危ないと思ったのか、私の服を掴んだ手を離そうとはしなかった。
本当に巨大ナマズでもかかったのだろうか。
踏ん張りながら、糸の先にいる生き物が何なのか私は考える。
これほど強い引きの川魚とは出会ったことが無い。
しかもそいつは前後左右に暴れることを一切せず、ただ下へ、下へと引っ張っている。
まるで私を川へ引き込もうとするかのように。
これでは、釣りではなく綱引きだ。
その不自然な引きに、一瞬背筋が震えた。
けれども、竿から手を離すことはしなかった。この先に何が喰らいついているのか知りたいと思った。
しかし、結末はあっけなく訪れた。糸が切れたのだ。
引き込まれないよう力をこめていた私は、その瞬間後ろに尻餅をつく。
糸の先にはウキだけが残り、あとの仕掛けは全部持っていかれてしまっていた。
「大丈夫?」
くらげの問いに、私はひっくり返った体制のまま頷く。
ゆっくりと身体を起こして、半ば呆然としながら千切れた糸の先を見やる。
最初は本当に人喰いナマズでも掛かったのかと思った。けれども私の直感は、あれは魚ではないと告げていた。
じゃあ何なのかと問われると、答えようが無いのだが。
「……釣れなくて、良かったのかもね」
川のほうを見ながら、くらげがぽつりと呟いた。
再び覗き込むと、緑ヶ淵はまるで何事も無かったかのように静かに佇んでいた。

200くらげシリーズ「緑ヶ淵」4:2014/07/09(水) 09:30:02 ID:qlht/3vE0
それから、仕掛けを付け替え、めげずに釣りを続けていた私だが、二度とあの強いアタリが来ることはなかった。
代わりにうぐいが二匹釣れたので、うろこと内臓を取って川原で焚き火を起こし、塩焼きにして食べた。
内臓を取っている際、横で見ていたくらげがぽつりと一言、「……君って、やっぱり変わってるよね」と呟いた。
「お前にだけは言われたくねぇ」と返すと、「そうかもね」と言って、ほんの少し笑っていた。

緑ヶ淵でまた水難事故が起きたのは、その次の年の夏のことだった。
街に住む男子高校生三名が、度胸試しという名目で同時に大岩の上から飛び込んだらしい。
一人だけ撮影係として岩の上に残っていた者の証言によると、
三人が水に飛び込んだ後、誰一人浮かんでくる者はおらず、影も見えず、水面には波一つ立たなかったという。
そのまま三人は帰らぬ人となった。
証言者が嘘をついているのではないかという話も上がったそうだが、
彼の持っていたビデオカメラには、
三人が岩の上から飛び込む瞬間と、飛び込んだ後の静かな水面の様子が映っていたらしい。
――緑ヶ淵が、また人を呑んだ――
とは言うものの、それが一体具体的にどういうことなのか、説明できる人間はいない。
非科学的だといって頑なに否定する者も居るそうだが、それでも緑ヶ淵は確かに存在し、今日も静かに佇んでいる。

終わり

201くらげシリーズ「緑北向きの墓」1:2014/07/12(土) 16:12:33 ID:7TU1mP.c0
私が中学一年生だった頃の話だ。

十月上旬。その日は土曜日だった。
昼食を食べた後、私は自転車の荷台に竹箒をくくりつけ、友人の家へと向かっていた。
自宅のある北地区から、町を東西に流れる地蔵川を越えて南地区へ。
思わず、快晴!と叫びたくなるほど真っ青な空の下、箒をくくりつけた自転車は、何だか空すら飛びそうな気がした。
もちろん、気がしただけだったが。
友人の家は、南側の住宅地を抜けた先の山の中腹辺りに、街を見下ろす形で建っている。
家の周りをぐるりと囲む塀の脇に自転車を停め、箒を持って門の傍に行くと、
松葉杖をついた友人が門の外で待ってくれていた。
彼はくらげ。もちろんあだ名だ。
彼の左足には白いギプスが巻かれていた。確か何本か肋骨にもヒビが入っていたはずだ。
先月九月後半、台風がやってきた際の事故による怪我だった。
「別に家の中で待ってりゃいいのに」
私が言うと、くらげは自分で脇腹の折れた肋骨の辺りを軽くさすった。
「……そういうわけにもいかないよ。君は、お墓のある場所知らないでしょ」
今日私がここに来た理由は、彼の先祖の墓を掃除するためだ。
先月の、丁度秋彼岸の時期にやってきた台風により、墓の周辺が荒れてしまったのと、
いつも掃除をしているくらげの祖母の体調が芳しくないため、急遽ピンチヒッターとして私が自ら名乗り出たのだった。
「そういえば、おばあちゃんまだ体調悪いのか?」
「そうだね……。自分では、『大分良くなってきた』って言っているけど、あまり良くないみたい」
くらげはそう言って、家の方を振り返った。
ちなみに、くらげは三人兄弟の末っ子で、長男は県外の大学に行っており、
現在家には、くらげと祖母、大学教授の父親、高校生である次男の四人が住んでいる。
ただ、父親と次男には先祖の墓掃除をする気は無いようだ。理由を聞いたが、くらげは教えてくれなかった。
本来なら家の者が掃除するべきなのだろうが、くらげと祖母は動けないし、あとの二人はそんな感じなので仕方がない。
他人の家の墓を掃除することが失礼に当たることは知っていたが、家の者に許可を貰っているから大丈夫だろう。
そもそも、くらげが怪我をした事故には私も少なからず関わっているので、責任を感じている部分もあった。
「そっか……。じゃ後で、『お大事に』って伝えといて」
「うん。分かった」

それから二人で墓のある家の裏手へと向かった。
裏手には山の斜面に沿った細い道があり、この道を上っていくと墓があるそうだ。
道も分かったので、くらげはここで待ってた方が良いと言ったのだが、彼は自分も行くと譲らなかった。
「君は僕の家の人間じゃないんだから、勘違いされたら、困るでしょ?」
『誰が何を勘違いするんだ』と言いかけて、私はその言葉を飲み込んだ。
言い忘れていたが、彼は『自称、見えるヒト』である。
ちなみに、くらげの祖母も見える人で、その力は彼の比ではないとか。他の兄弟と父親は見えないらしい。

くらげが転びやしないかと内心ひやひやしながら、緑に囲まれた細い道をしばらく登ると、
墓が三段に並んでいる開けた場所に出た。
墓は確かにひどい有様だった。
折れた木の枝や葉がそこら中に散乱し、
花入れは何本か地面から引っこ抜かれていて、その内のいくつかが地面に無造作に転がっている。
その有様を眺めながら、私はふと、違和感を覚えた。何かがおかしいような気がしたのだ。
けれども、これ程荒れているのだから、多少の違和感はあって当然なのかもしれない。
掃除して綺麗になれば、違和感も消えてなくなるだろう。と、その時は思った。
とりあえず、家から持ってきた箒で、目に付くゴミを片っ端から片付ける。
くらげも近くの雑草などを抜いて、出来る限り手伝おうとしてくれていた。

掃除をしている最中、ふと、一番新しそうな墓が目に留まった。
よくよく見てみると、側面に書かれている命日は、私の生まれた年だ。
墓石に刻まれた名前は女性のものだった。だとすれば、これはくらげの母親の墓なのだろう。
彼の母は、彼を生んですぐに亡くなったと聞いたことがあった。
生まれてすぐに母親を亡くす。それが一体どういうことなのか、幸せな私には想像もつかない。
祖母が母親の代わりだったのだろうか。
余計な想像を、私は頭を振って振り落とした。

202くらげシリーズ「緑北向きの墓」2:2014/07/12(土) 16:13:14 ID:7TU1mP.c0
一時間ほど駆けずり回っただろうか。
もし私の母親が見ていたら、『自分の部屋の掃除もこれくらい真剣にしてくれればねぇ……』などと愚痴ってそうだ。
頑張った甲斐もあり、墓の周辺は随分綺麗になっていた。
その間、くらげは一度家に戻っており、ペットボトルのジュースやら水やら饅頭やらを家から持ってきていた。
「おつかれ様」
「おー、サンキュ」
一番上の段の草むらの上に腰を下ろし、くらげからジュースを一本と饅頭をひとつ貰う。
周りの木々が微かな風になびいてさわさわと音を立てた。
私の周りを、濃い緑の匂いと共に、何やらよく分からない小さな虫が飛び回っている。
ジュースを飲み、栗饅頭をかじりながら、私は今しがた自分が掃除した墓を見下ろした。
先程感じた違和感は消えてはいなかった。どころかそれは、墓が綺麗になったことで逆に強まっていた。
何ともいえない、『何かが違う』という感覚。
いくら考えてもその正体は見えず、私は隣に座るくらげに尋ねてみた。
「なあ、くらげさ。……気ぃ悪くしたらごめんだけど」
「何?」
「ここのお墓ってさ、なんか変じゃないか。上手くはいえないけど、どこかおかしいっていうか……」
「ああ、うん」
私は彼を見やる。その表情は何ら変わらず、いつもの彼のものだった。
「全部、おばあちゃんに聞いた話だけど……」とくらげは言った。
「この辺りにはね。昔から、人は死ぬと、その魂は海に還るって言い伝えがあるんだ」
街から現在私たちがいる山を一つ越えれば、その先には太平洋が広がっている。
街の人間にとって、海は昔から身近な存在だった。
「だから魂がちゃんと海に還れるように、この辺りのお墓はみんな、南を向いてる」
そこで私はようやく、違和感の正体にも気がついた。
確かにそうだった。私が今まで見てきた墓は、全部名が彫られた面を南向きにして建てられていた。
しかし、ここの墓は名前のある面が北に向いている。還るべき筈の海に背を向けているのだ。
おそらく無意識のうちに、『墓は南を向いている』という固定観念が私の中に出来ていたのだろう。
だから、初めて北を向いている墓を見て違和感を感じた。
「……村八分って言葉があるでしょ?」
くらげは淡々と話を続ける。
「あれって、死んだ後のことと、火事とか水害とか災害の時は助け合う、っていうのが二分で、
 あとの八分は一切のけ者にする。それが、村八分の意味らしいんだけど。
 ……僕らの家は、八分じゃなくて、村九分にされてたんだ。
 ……だから、お墓も逆向きに建てさせられた。死んだ後も、同じ場所にはいけないように」
私は何も言えなかった。彼はペットボトルのジュースをゆっくり口に含むと、ふう、と一息ついた。
彼の家が疎外されていた理由。それは、彼や彼の祖母が『見えるヒト』であることと、何か関係があるのだろうか。
「……でも、そんなことがあったのはずっと昔のことだから。
 今は、ご先祖様が皆あっち向いてるから、合わせなきゃいけない、っていう理由らしいけど」
そこまで言うと、くらげは饅頭と一緒に持ってきた袋と松葉杖を持って立ち上がった。
そして、一番端にある墓の前にしゃがみこむ。
袋に入っていたのは水と米だった。墓の上から水を掛け、米を供え手を合わせ、瞑想する。
それが終われば、隣の墓に移る。上の段から順々に。
しばらくその様子をぼんやり眺めていたが、はっとした私は、慌てて彼の後についてお参りをする。
そうして、一段目、二段目と供養を続け、一番下の段まで来た。
「これは、ひいおじいちゃん」
水を掛けながら、くらげが呟いた。
「……これは、ひいおばあちゃん」
次々と、その名前を呼びながら手を合わせてゆく。
「これが、おじいちゃん……」
くらげの祖父の墓。今まで一番長く手を合わせていた。
私はくらげの祖父に会ったことが無い。
けれども以前、彼の家で夕食をご馳走になったときのことだ。
死んだはずの祖父の席には料理と酒が置かれ、祖母は誰もいない空間に向かって嬉しそうに話しかけていた。
もちろん、私には祖父の姿は見えず、まるでパントマイムを見ているかのようだった。
くらげにも祖父の姿は見えないらしい。

203くらげシリーズ「緑北向きの墓」3:2014/07/12(土) 16:14:23 ID:7TU1mP.c0
「……なあ、くらげのおじいちゃんって、どんな人だったんだ」
祈り終え、顔を上げたくらげに私は尋ねる。
「怖い人だった」
くらげはそう答えた。
「医者だったからかな。幽霊なんて、全然信じてなかった……。
 だから、僕とかおばあちゃんがそういう話をするのが、すごく嫌だったみたい。
 ……殴られたこともあるよ。『正しい人になれ』って」
私はまた、あの夕食の席を思い出していた。
私にとってはただ一度きりだが、あの家では毎回、毎食、同じ光景が繰り返されているのだ。
もし、くらげの祖父が、生前自分が否定したモノになっていたとしたら、彼は今どんな気持ちでいるのだろう。

くらげが最後の墓に向かう。それは彼の母親の墓だった。
残り全ての水を注ぎ、米を供える。松葉杖を脇で支え、二拍手の後、くらげは目を閉じた。
私は想像してみる。
くらげの母のこと。一体どんな人物だったのだろうか。
しばらくして目を開けたくらげが、ちらりと私の方を見やった。そして何か感じ取ったのか、ゆっくりと首を横に振った。
「分からないよ。……何も、覚えていないから」
私はどうやら無言の質問をしていたらしい。対する彼の答えがそれだった。
私はその名前が刻まれた墓石を見やる。
母と過ごした記憶の無い彼に、目の前の石の塊はどう映っているのだろう。
「戻ろう」とくらげが言った。私は黙って頷いた。

墓を出ようとした時、一陣の強い風が吹いて、周りの木々をざわめかせた。
それはあまりに突然で、
墓を掃除した私に対するお礼だったのか、それとも、よそ者が余計なことをするなという怒りの声だったのか、
もしくはその両方か。
北向きの墓。
海に帰ることの出来なかった魂は、一体何処へ向かうのだろう。
そんなことをふと思う。

「今日は、ごめんね。休みなのに」
山を下りている最中、くらげがぽつりと呟いた。
実際、彼は人に仕事をさせて自分が楽しようというタイプではないので、
今日私が作業している横で心苦しかったのかもしれない。
けれどもそれは、後からこうだったのかもしれないと考えたことだ。
その時の私は、彼の気持ちなどまるで思い至らなかった。
「ああ、それは別にいいんだけど……」
一つ、先ほどからずっと気になっていたこと。
「まさか……、勘違いされてないよな」
せっかく苦労して掃除したのに、当の墓の下で眠る方たちに、墓を荒らしに来たよそ者と思われたままでは、
頑張った甲斐がない。
私の言葉に彼は何度か目を瞬かせた後、不意に私から目を逸らし、何故か突然「くっ」と短く笑った。
笑ったことで肋骨に響いたらしく、身体を丸め、脇腹の辺りを押さえている。
「おい、何が可笑しいんだよ」
私が口を尖らすと、くらげはちらりとこちらを見やり、
「……されたかもしれないね。勘違い」
そう言って、また小さく笑い、「いたた……」と脇腹をさすっていた。

204くらげシリーズ「蛙毒 上」1:2014/07/12(土) 16:15:22 ID:7TU1mP.c0
私が中学生だった頃の話だ。

ある夏の日のこと。その日私が学校に行くと、教室の隅に人だかりが出来ていた。
一部の男子たちを中心に何か騒いでいるようだ。
「何してんの?」
一番近くにいた奴を捕まえて尋ねると、彼は心底気持ち悪そうな顔を私に向けて「蛙だよ」と言った。
「あいつ、ペットボトルに蛙つめて持ってきてるんだ」
その口調からして、彼は蛙が苦手なのだろう。「うえ……」と呟き離れていった。
私は彼と入れ替わりに、人だかりに身体をねじ込んだ。
騒ぎの中心に居たのは、あまり評判のよくない男子生徒だった。仮にOとしておこう。
Oが持っているのは、1.5リットルのペットボトルだった。
ラベルは剥がされていて、中には一匹の茶色い蛙が窮屈そうに押し込められていた。
「キャ」と短い悲鳴が上がる。興味本位で見にきたらしい女性陣からだ。
彼は蛙を周囲に見せびらかして、その反応を楽しんでいるようだった。
私の姿を見つけると、「ほれっ」とペットボトルを目と鼻の先まで近づけてきた。
蛙が手足をばたつかせ、容器の側面にへばりつく。
白いお腹には、黒い斑点がまだら模様に浮かんでいる。その背にはぶつぶつとイボもある。
大きさは六から七センチほど。若いヒキガエルだ。
Oは、臆さず動じず蛙を凝視する私にいささか拍子抜けしたようだった。
幼い頃から哺乳類も爬虫類も虫も魚も散々触れてきた私にとって、ヒキガエルは気持ち悪いどころか逆に可愛いくらいだ。
ふと、私はそのペットボトルの表面に、小さく文字が書かれていることに気がついた。
マジックで書かれたのだろうか。汚い文字だが辛うじて読める。Oの苗字のようだ。まさか、Oが書いたのだろうか。
そしてもう一つ。彼がどうやってペットボトルの中に蛙を入れたのか、という疑問もあった。
飲み口の穴は蛙の体より明らかに小さい。
表面にはいくつか空気穴らしき穴が開けられていたが、
それも五ミリほどの直径で、蛙が通り抜けられる大きさではなかった。
一体どうやって入れたのかとOに尋ねると、「俺だって知らねぇよ」と予想外の答えが返ってきた。

話を聞けば、こういうことだ。
私たちの街から山を一つ越えれば太平洋に出る。
その週の休日、Oは友達数人と海に遊びに来ていた。
海沿いの集落にOの親戚の家があり、友人共に泊りがけで遊んでいたそうだが、
二日目、彼らはその集落の外れに、一軒の奇妙な家があるのを見つけた。
廃屋かというくらいボロボロの小さな家だったが、
家の周囲を囲む塀に上には、大小様々な大きさのペットボトルが並べて置かれていた。
「百個くらいあったんじゃねーか?」とOは言った。
Oは最初、猫避けか何かかと思ったそうだが、違った。
その中には、一匹ずつ蛙が閉じ込められていた。大きさはバラバラで、ヒキガエルだけでなく、青ガエルも居たらしい。

205くらげシリーズ「蛙毒 上」2:2014/07/12(土) 16:16:02 ID:7TU1mP.c0
透明なペットボトルの中に閉じ込められた蛙は、
夏の強い日差しを浴び殆ど死にかけているか、もしくは既に死んで干からびていた。
Oが見つけたヒキガエルは、中で暴れたためか塀の上から落ちて日陰に転がり、運よく日差しを免れていたのだそうだ。
「そんなもん持ってくんなよ〜」
他の男子が冗談交じりにOを叩く。
するとOは、「ウケルと思ったんだよ」と言って、ニヤニヤ笑った。
「で、どーすんの、それ。あんたが飼うの?」
クラスで二番目くらいに気の強い女の子が尋ねた。そろそろ朝のHRが始まる時間だ。
「飼うわけねーだろ」とOは言う。
「じゃあ、逃がすの?」
彼女の言葉に、Oはまたニヤニヤと笑った。
「ちょっと、そこどけ」
Oは周りの人間を少しだけ後ろに下がらせた。
そして、ペットボトルの蓋の部分を両手で持ち、まるで打席に立ったバッターのように振りかぶった。
中の蛙は、いきなり天地を逆さにされ、なすすべも無く飲み口の部分まで転がる。
「ぱしゃ」とも、「ぺちゃ」とも聞こえた。
嫌な予感を感じる暇も無かった。
Oが蛙の入ったペットボトルをフルスイングしたのだ。
遠心力でペットボトルの底の部分に叩きつけられた蛙は、その大きな口から赤い塊を吐き出し、潰れて、死んだ。
悲鳴と短いうめき声が同時に上がった。
見ると、私の隣で、クラスで二番目に気の強い女の子が尻餅をついていた。Oはそれを見てケラケラ笑っている。
挙句の果てには、ペットボトルの蓋を開けて中の匂いを嗅ぎ、「うわ、くっせぇ」などと言って騒いでいた。
「どうせ干からびて死んでたんだしな」
Oの言葉だ。
だからといってここで殺す必要は何処にも無い。しかし、そんなことをOに言っても無駄だということは分かっていた。
私は、内蔵の飛び出た蛙の死体に対してではなく、O自身に対して気持ち悪さを覚えながら、
ただ軽蔑の視線を送るだけだった。
その後すぐにチャイムが鳴り、
蛙の死体が入ったペットボトルは、証拠隠滅のためOによって廊下側の窓から学校裏の林に向かって放り捨てられた。
とはいえ、Oのこのような問題行動は、私たちのクラスにとってありふれたものだったので、
HRでも問題には上がらなかった。

206くらげシリーズ「蛙毒 上」3:2014/07/12(土) 16:16:52 ID:7TU1mP.c0
問題は次の日からだった。
Oが学校に来なくなった。
最初は誰もが、ただの風邪か、もしくはサボりだろうと思って何も気にしていなかった。
ところがそれが三日四日と続き、ようやくクラス内にも『どうしたのだろう』という雰囲気が生まれていた。
Oの親は当初、単なる体調不良だと学校に伝えていた。
しかし、一週間ほど過ぎたところで、隠しきれないと思ったのか、学校側にも真実を伝えた。
両親が言うには、どうやらOは自分の部屋から出てこなくなったらしい。
自分の部屋に鍵をかけ引きこもり、母親が食事を運んでくる時だけ、僅かにドアを開けるだけだという。
理由は分からない。
担任の先生や、仲の良い友人が家を訪ねたそうだが、Oはドアを開けず、「開けるな」「見るな」と叫び追い返した。
突然引きこもりだしたOに、両親も困惑していたそうだ。
幾日かかけて、母親はドア越しに、ようやくその理由を聞き出した。
「……体中に、イボが出来てる」とOは語った。
顔にも手にも足にも。水泡のようなイボが皮膚をまんべんなく埋め尽くしているのだと。
しかし、それを聞いて母親は不審に思った。
彼女は食事を運ぶ際に、僅かな隙間からだが彼を見ている。少なくともその手には、イボのようなものは見当たらなかった。
ある時、食事を運ぶ際に、母親は意を決して扉を開いた。
Oはものすごい形相で何事か叫びながら、力ずくで母親を追い出した。
けれども、やはり彼の体にはイボなど無かった。
ただ、おかしなところはもう一つあった。
引きこもってからのOは、喋るときによく声を詰まらせるようになった。
会話の節々に「……っく……っく」と、喉の奥から空気を搾り出したような音が引っかかる。
Oの友人のうちの誰かは、「蛙の鳴き声のようだった」と言った。
引きこもり始めて十日が過ぎた。
その頃には、Oはもはや言っていることすらおかしくなっていた。
食事もとらなくなり、
自分で鍵を閉めているにもかかわらず、「出られない」「ドアが開かない」「透明な壁がある」などと言い出した。
さらに、「熱い」「かゆい」と訴えるようにもなった。
さすがに手の施しようが無くなり、父親が無理やり鍵を壊し、Oを引きずりだして病院に運んだ。
その体にイボは見当たらなかったが、代わりに体中をかきむしったらしい傷跡で埋め尽くされていたそうだ。
入院中に何があったのかは知らない。
精神科に入院していたOが、退院し、学校に戻ってきたのは、新たな年も明けた約半年後のことだった。
戻ってきたといっても、以前の彼とはまるで違う。
口数も少なく、良くも悪くも騒ぎ好きだった性格は影をひそめ、
いつも何かにおびえている様な、陰険な奴に変わってしまっていた。
しかも、話す際には必ず、「……っく……っく」と声を詰まらすのだった。

207くらげシリーズ「蛙毒 上」4:2014/07/12(土) 16:17:37 ID:7TU1mP.c0
時間を夏に戻す。
彼が家に引きこもっている間、クラスは『蛙の呪い』の噂でもちきりだった。
蛙の幽霊がOに取り憑いただの、爬虫類の呪いは比較的強力だの。
中には、イボガエルに触れるとイボが移る、といった古くからの迷信も含まれていた。
いくらなんでもOがかわいそうだ、という意見もあった。
確かに、自業自得だとは思う。ただしそれを言うなら、私だってこれまでの人生、蛙を殺したことくらいある。
こういう言い方は、人間至上主義と呼ばれるのかもしれないが、
たった一匹の蛙を殺しただけで、果たしてあれだけの症状が出るものなのだろうか。
同情はしていなかったが、不思議ではあった。それに、他にもいくつか気になることがある。
飲み口より大きな蛙をペットボトルの中に入れる方法。ボトルの表面に書かれていたOの苗字。
そうして一番は、そのペットボトルが何本も並んでいたという、海沿いの家についてだ。
当時、私はオカルトというものに目覚め始めていた。そうでなくとも、不思議や謎に一番関心のある年頃だ。
それに、一度気になると動かずにはいられない。自分で言うのもなんだが、私はそういう困った性格の持ち主だった。
そうして我慢しきれなくなった私はその夏、Oが言っていた海沿いの家に向かうことに決めた。
但し、単独ではさすがに心細いので、友人を一人誘ってだ。
その友人は『自称、見えるヒト』であり、私がオカルトにはまるきっかけとなった人物と言っていい。
「おい、次の休みにさ。Oが言ってたカエルの家に行ってみようぜ」
学校にて、友人に向かってそう切り出すと、彼は無表情の中にもひどく面倒くさそうな顔をして、
「……呪われても知らないよ」と言った。
彼はくらげ。もちろん、あだ名だ。

208くらげシリーズ「蛙毒 下」1:2014/07/12(土) 16:18:44 ID:7TU1mP.c0
その日、私は朝早くから自転車に跨り、まずは待ち合わせ場所である街の中心に掛かる橋へと向かった。
私たちが一緒に行動するときはいつも、地蔵橋と呼ばれるこの橋を使う。
くらげは先に着いていて、私のことを待っていた。
不思議なのだが、この橋で待ち合わせをしたとして、私は彼を待ったことがない。
いつも彼は先に待っていて、黙って川の様子を眺めているのだった。
一度、彼がどれくらい早く来ているのか調べてやろうと思って、
わざと待ち合わせ時間より四十分も前に橋に出向いたことがある。
しかし、その時ですら、彼は私より先に着いていた。
「や。待ったか?」
自転車に乗ったまま声を掛けると、くらげはゆっくりと首を横に振り、
「……さっき来たところだよ」
彼はいつもそう言うのだが、それが果たして本当なのか嘘なのか。真相は闇の中だ。
「行こうぜ」と言うと、彼も自分の自転車に跨った。
Oの言った海沿いの集落に行くには、山を一つ越えなければならない。
見上げると、空には薄い雲が広がっていた。天気予報では今日は一日中曇りとのことだったが、さてどうなるだろう。

二人で自転車を漕ぎ、山の峠を越える。
すっきり晴れた日と違って、眼下に見える海もどこか灰色染みていて、
汗で体にへばりついたシャツや、湿度の高いむしむしした気温も相まって、何だか余計に疲れた気がした。
太平洋に到着してからも、海沿いの道を少しの間、東へむけて走らなければならない。

目的の集落に到着したのは昼前だった。
広い松林の間を縫うように細い道がいくつかあって、ポツリポツリと民家が点在している。
集落の入り口に一軒の駄菓子屋があったので、情報収集に休憩もかねて立ち寄ることにした。
店の中には、小柄で糸の様に細い目をした五十台くらいの女性が居た。
彼女は私たちを気付くと、「あんたら、ここらでは見ん子やね」と言った。
「隣町から、山を越えてきたんです」
私が正直に答えると、「あんらまあ」と驚いていた。
私とくらげはそこでアイスを一つずつ買った。
料金を払うついでに、「この辺りで、ペットボトルを周りに並べてる家ってありますか?」と訊いてみた。
すると、おばあさんが糸のような目をこちらに向けた。
「そんなこと聞いて、どうするん?」
口調は柔らかいが、私の質問はあまり好ましいものではなかったようだ。
私はその顔に子供らしい満面の笑みを浮かべて見せる。
「あ、私たち、夏休みの自由研究で、『海沿いの変わった場所』っていうのを調べてるんですよ。
 いくつか集めて、マップを作成しようと思ってて。
 それで、この辺りに変わった家があるって聞いたものですから」
隣でくらげが私をじっと見つめていた。何が言いたいのかは分かっている。
自分でも、良くもこうぽんぽん口からでまかせが出てくるものだと、半ば呆れつつ半ば感心していた。
「ああ、そうなんね」と言って、おばさんは納得したように何度か頷いた。
内心ほくそ笑む。この演技で騙せない人間は私の母親くらいだ。
「確かに変わっちゅうけど……。あんまり見に行かん方がええよ」
おばさんが言うには、『ペットボトルの家』には老人が一人住んでいるらしい。
予想は出来ていたが、彼女の口ぶりからしても、あまり快い人物では無いようだ。
「そのペットボトルの中には、何がおると思う?」
こちらを脅かすような口調だ。
私も興味津々な振りをして、「……何でしょう?」と言う。
「か、え、る。……蛙が、入っちゅうんよ」
知っている。でも、驚いてみせる。
「ペットボトルに入れて逃げれんようにして、太陽の光で焼き殺すんよ。……あの人はね、カエルを殺すのが趣味なんよ」
その老人はそうやって焼き殺した蛙の死骸を、ペットボトルに入れたまま集落の他の家の門の前に置いていくのだという。
「うちの前にも置かれたことがあってねぇ」
軽くため息を吐きながら、おばさんは言った。
「どうして、そんなことするんですか?」
「とっと昔にね。何か村でごたごたがあったらしいんよ。妹か弟が病気で死んだんやったかな……。詳しくは知らんけんど。

209くらげシリーズ「蛙毒 下」2:2014/07/12(土) 16:19:55 ID:7TU1mP.c0
 それをまだ根に持って、嫌がらせしに来るんやと」
嫌がらせに蛙の死骸を置いていく。まるで子供の発想だなと私は思った。Oみたいな人間がやってそうだ。
しかし、本当にただの嫌がらせなのだろうか。
その時家の前に置かれていた蛙の死骸はどうしたのかと訊くと、気持ち悪いからペットボトルごと捨てたとのこと。
当然の答えだ。
「その家って、どこにあるんですか?」
おばさんはあまり答えたくなさそうだったが、
「遠くから見るだけですよ」という私の言葉に、「うーん。まあ、見るだけやったら……」としぶしぶ教えてくれた。
大体聞くべき事は聞けたので、私とくらげは彼女に礼を言って、店を出ようとした。
その際、ふと一つだけ聞き忘れていたことに気付き、私は振り返る。
「あの、ここの辺りに、『Oさん』っていますか?」
私の言葉に、おばさんは細い目を何度か瞬かせた。
「二つ隣の家がOっていうけど……。それがどうかしたん?」
「その人の家にも、同じペットボトルが置かれたことってありますか」
「……どうやろねぇ。でも、あると思うよ。この辺りの人は、皆やられてるはずやから」
お礼を言って、店を出た。

店の外にあるベンチに二人で座り、そこでちょっと柔らかくなったアイスを食べる。
私は普通のアイスクリンで、くらげは最中をだった。
文字通りアイスをぺろりと平らげた私は、隣のくらげに尋ねる。
「なあ、……呪いって、本当にあんのかな?」
今回Oに起こった出来事。その原因はやはり『呪い』なのだろうか。
但しそれは、『カエルの呪い』といった可愛らしいものではなく、
人間が人間にかけた、誰かが誰かを不幸にするための呪い。
自業自得とはいえ、Oはそのとばっちりを受けてしまったのではないか。
わざわざ最中のブロックを手でちぎりながら食べていたくらげは、
最後のブロックを口に含み、こちらがいらいらするほどゆっくりと飲み込んでから、
「……あるんじゃないかな」と言った。
「ほら、昔から、蛙に触るとイボができる、って言うし」
「そりゃ、迷信だろ」
「……似たようなものだと思うけど」
くらげを見やる。その口調は、どこかいつもの彼と違う気がした。
くらげは無意識だろうが私の視線をかわすように立ち上がり、
アイスの開き袋を綺麗に四つ折りにして、傍にあったゴミ箱に捨てた。
「雨が降りそうだね」
空を見上げ、そう呟く彼は、いつもの彼だ。
私も立ち上がる。
「……んじゃ、さっさと行きますか」
私の言葉に、彼は小さく頷いた。

210くらげシリーズ「蛙毒 下」3:2014/07/12(土) 16:20:38 ID:7TU1mP.c0
二件隣の『O』と表札の出ている家を通り過ぎ、いくつか松林を潜り抜け、セミの鳴き声に背中を押されながら、
駄菓子屋のおばさんに聞いた道を進む。
Oが言った通り、集落の外れ。目の前に小さな墓地を臨む、古ぼけた平屋の民家。
そこが目的の家だということは一目で分かった。
大して高くない塀の上に、ペットボトルがずらりと並べて置かれてある。
Oが言った百個は言い過ぎにしても、数十個は確かにありそうだった。
陽に焼かれ黒く変色した蛙の死骸が入ったペットボトル。いくつかは道に落ちてしまっている。
見たところ、生きている蛙はいなかった。

セミの声に混じって、遠くで浜辺に打ち寄せる波の音が聞こえた。辺りは静かで人の気配は無い。
私とくらげは自転車を降りて、塀の傍に近寄った。
近くで見ると、ペットボトルの表面には、それぞれ小さく文字が書かれてあることが分かる。どれも人の苗字だ。
駄菓子屋で聞いた話を思い出す。蛙の死骸が入ったペットボトルを家の前に置いていく老人。
それがもし、単なる嫌がらせ目的ではなかったとしたら。
もう随分と学校に来ていないOは、自分の部屋から出てこず、おかしくなってしまったのだと噂されている。
呪い。
塀に沿って歩く。庭へと繋がる門は、無用心にも少しだけ開いていた。
いくらか躊躇った後、私は門の中に足を踏み入れた。
「見るだけじゃなかったの?」
後ろからくらげの声。
「……庭を見るだけだ」
手入れをしていないのか、庭のいたるところで雑草が背を伸ばしている。
家の窓は全て閉められ、カーテンが引かれているため中の様子は伺えない。
庭の隅にはこれまた今にも壊れそうな納屋があり、鍬が一本立てかけてあった。
納屋とは逆方向の隅の方で私は何かを見つけた。
それは水槽だった。蓋がしてあり、中で小さな何かが蠢いている。
コオロギだ。水槽の中には、底を埋め尽くすほどのコオロギが居た。
その大半は動かず、死んでいるようにも見えたが、中には生きて動いているものも居る。
何にせよ、虫嫌いが見たら卒倒しそうな光景だ。
果たしてこれは、蛙の餌だろうか。
私は想像する。
餌がここにあるということは、このペットボトルの中の干からびた蛙たちは、元々ここで飼われていたのかも知れない。
だとすれば、飲み口と蛙の大きさが合わない疑問も解ける。
卵か、もしくはまだ幼体の蛙をペットボトルの中に入れ、大きくなるまで飼育する。
そうしてある程度大きくなったところで、陽の光を浴びさせ焼き殺す。透明な壁に阻まれ蛙は逃げることもできない。
おそらく、このペットボトルに書かれた苗字は集落の人間のものだろう。
Oが学校に持ってきたペットボトルには、Oの苗字が書かれていた。だからこそ彼も特別興味を示して拾ってきた。
そして、彼は蛙を殺した上に、その蓋を開けてしまった。

211くらげシリーズ「蛙毒 下」4:2014/07/12(土) 16:21:52 ID:7TU1mP.c0
振り返ると、すぐ後ろにくらげが居た。全く気付いていなかったので、ほんの少しどきりとした。
「……脅かすなよ」
私の言葉に、くらげは何度か目を瞬かせて、「ごめん」と言った。
私は辺りを見回す。この庭には他に見るべきものは無いようだ。
入ってきた門を見やる。門にはインターホンのようなものはついていなかった。
次いで、私は家の玄関に視線を向けた。
「どうするつもり?」
くらげが言った。
私は答えの代わりに、にっ、と笑ってみせる。
結果的に見るだけじゃなくなってしまったが、気になるのだから仕方が無い。
「中に居るかな」
辺りに人の気配は無いが、もしかしたら中で寝ているのかもしれない。
玄関の前に立つ。門と同様、チャイムのようなものは無い。
手のひらで扉を二度軽く叩く。
もし老人が家に居るなら、少しだけでも話を聞きたいと思っていた。
あの蛙の入ったペットボトルは、本当に呪具の類なのか。
尤も、素直に話してくれるとも思っていなかったが、帰る前に本人の顔くらいは拝んでおきたかった。
返事は無い。やはり出かけているのだろうか。
「すみませーん」
中に向けて声をかける。やはり返事は無い。
もう一度声を上げようとしたとき、私はふと、何か妙な匂いを嗅いだ気がした。
据えた匂い。家が古いからなのだろうか、微かに漂ってくる。
特に顔をしかめるほどではなかったが、私がその匂いを嗅いで真っ先に感じたのは、何ともいえない嫌悪感だった。
蛙の死骸を見たときよりも、無数のコオロギが詰められた水槽を見たときよりも、はるかに強い嫌悪感。
この扉を開けてはいけない。
警告が頭の隅をよぎる。
けれども私は、殆ど無意識に玄関の取っ手に手を伸ばしていた。私を動かしていたのは好奇心だ。
私はまるで傍観者のように、自分の腕が戸をあけようとするのを眺めていた。
私の腕を誰かが掴んだ。
その瞬間、短い夢から覚めたかのように意識が鮮明になった。
振り向くと、そこにはくらげが居た。
彼は私をじっと見やると、ゆっくりと首を横に振った。
そのまま腕を引っ張り、玄関から引き離そうとする。
「おい……」
思わず声を上げる。
くらげは立ち止まり、私の方を振り返った。
そして、腕を掴んでいる手とは逆の手を持ち上げると、その手のひらを上にしてこう言った。
「雨が降ってきたよ」
ぽつり、と体のどこかに水滴があたった。雨だ。灰色の空から小粒の雨が降ってきている。
「……帰ろう」
くらげが言った。
彼は相変わらずの無表情だったが、腕を掴むその力は意外なほど強かった。
私は一度、後ろを振り返る。古ぼけた家は相変わらずそこにある。
ただし、雨が降っているからか、それとも別の理由か、
私の目にはその家が先程よりも明らかに、古く、黒ずんで、歪んでいるように見えた。
私は目を閉じ、大きく息を吸って、吐いた。
あの戸には鍵が掛かっていた。そう思うことにした。
「……帰るか」
くらげが私の腕を離す。その様子は、どこかほっとしているようにも見えた。
二人で門を出る。
自転車に跨ろうとすると、何者かの視線を感じた。辺りを見回すも、誰も居ない。
そこにはただ、透明な檻に閉じ込められた蛙の死骸が、無表情に私たちを見つめているだけだった。
「帰ろう」
立ち止まっている私に向かって、くらげがもう一度言った。
私は黙って頷き、ペダルに乗せた足に力を込めた。

私たちの街へと帰る間、小雨は強くもならず弱くもならず、ずっとぱらぱらと降り続けていた。
そしてまた、そんな雨を喜ぶかのような「……っく、……っく」という微かな蛙の鳴き声が、
自転車をこぐ私たちの後ろを、どこまでも、どこまでもついて来ていた。

212くらげシリーズ「蛙毒 後日談」:2014/07/12(土) 16:23:03 ID:7TU1mP.c0
あのペットボトルの家で老人の遺体が発見されたと知ったのは、それからまた幾日か過ぎた日のことだ。
道に蛙の入ったペットボトルが散乱し、片付けもしないのかと、文句を言いに来た近所の人間が死体を発見したのだという。
私はそれを、あの駄菓子屋の目の細いおばさんから聞いた。
その日は、私は友達数人と普通に海に遊びに来ていた。おばさんは私を覚えていたようだ。
「自由研究は進んだかえ?」との問いにはもちろん、「バッチリです」と答えておいた。
「また見に来たのかねぇ。でも、あの家はもう無いよ」とおばさんは言った。
老人の死因は、熱中症と脱水症状による衰弱死だった。
何でも、部屋の中で転んだ拍子に足の骨を折ってしまい、
動くことも出来ず、助けを呼ぶことも出来ず、そのまま死んでいったのだそうだ。
出かけようとしていたのか、部屋は全て窓を閉めた状態だった。
そのせいで熱が中に篭り、発見されたとき室内はサウナのようだったという。
近所の人間が老人の死に気付いたのは、『匂い』がきっかけだった。死臭。人が腐ったときの匂い。
「……その人は、いつ頃、死んだんですか?」
尋ねる声が少し震えた。それは演技でもなんでもない。
老人が死んだのは、私とくらげがあの家を訪問した前日のことだった。私が戸を叩いたとき、家主は家の中にいた。
部屋から出ることも出来ず、助けも呼べず、じわじわと身を焼く暑さの中、死を待つしかない。
その状況はまるで、ペットボトルに閉じ込められた蛙と同じだ。
「戸を開けた瞬間、すごい匂いがぶわっと湧いてきたそうでねぇ。
 立ち会った内の何人かは、そんで体を壊して、今でもうなされて、起き上がれないんよ。
 ……嫌やねぇ、死んでまで人様に迷惑かけて」
私は思う。
その発見者が戸を開けたとき湧き出してきたのは、本当に匂いだけだったのか。
生き物を閉じ込めて殺すことで生ずる呪い。
老人が最後に想った感情が恨みであったとすれば、扉が開かれた瞬間、その恨みはどこへ行ったのだろうか。

駄菓子屋を出た後、私は友人たちと一旦分かれ、一人であの家へと向かった。
歩いていくと少しだけ時間が掛かった。
日数が経っているからか、事件現場だと示すようなものは何も残っておらず、
塀の上に置かれていたはずのペットボトルも全て無くなっている。
門を開き、私は庭へと入った。
コオロギの水槽はそのままだった。
もう全部死んでいるだろうと思ったが、驚いたことに、まだ生き永らえている個体が居た。
餌もないのにどうやって生きているのだろう。
玄関の前に立ち、家を見上げる。
なんということはない。ただの古民家だ。嫌な予感も、匂いも、何も無い。
私は玄関の戸に手をかけ、開こうとした。
しかし、扉は動かなかった。鍵が掛かっている。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
あの日もこうやって、ちゃんと鍵が掛かっていたのだろうか。
私が扉を開けていたらどうなっていたのか。
くらげにはあの時、何かが見えていたのではないか。
しばらく考えてから、それらがいくら考えても答えの出ない疑問であることに気付く。
そして私は空を見上げた。
青々とした空からは、答えも、雨も、何も降っては来なかった。

終わり

213くらげシリーズ「黒服の人々 前編」1:2014/07/12(土) 16:42:51 ID:7TU1mP.c0
灰色の空から、水気をたっぷり含んだぼた雪が落ちてくる。
その日、学校は休みだったが、私は朝から制服に身を包み、自転車にまたがっていた。
自宅のある北地区から街を南北に等分する川を越えて、南側の山の中腹あたりに建つ友人の家へと向かう。
私が中学一年生だった頃の話だ。
二月。風は身を切るほど冷たく、吐く息は白く凍る。
山に沿った斜面を上っていると、見覚えのない車がいくつか路肩に停められているのが目についた。

友人の家の前に着く。家を囲む塀の周囲にも、車が何台か停められていた。
門の前では、黒い服に身を包んだ大人が数人立っていた。
そのうちの四十代くらいの女性が私を見つけ、一瞬怪訝な顔をしてから、軽く頭を下げた。
自転車を停め、視線を送ってくる人たちにお辞儀を返しながら、門をくぐる。
砂利の敷き詰められた広い庭と、その向こうの異様に黒い日本家屋。屋根には溶け残った雪が微かに積もっている。
庭にも数人、黒い服装をした人たちが何事か話をしていた。
見たことのない人たちばかりで、少しばかりの居心地の悪さを感じる。
丁度その時、友人が玄関から出てきた。
私を見やると彼もまた、少しだけ驚いたような顔をした。
制服ではなく、黒い長袖のシャツを着ている。
彼は、くらげ。小学校六年生からの付き合いである彼は、『自称、見えるヒト』でもある。
自宅の風呂にプカプカ浮かぶくらげが見えるから、くらげ。けれども、今日だけはその呼び名は使えない。
「来てくれたんだ」
その口調も、表情も、まるでいつもの彼と変わりはなく。
逆に、私の方が何と言ったらいいのか分からず、口を開くまでにずいぶん時間がかかった。
「……あのさ、こういうのは慣れてなくて。手ぶらで来たんだけど、……悪かったか」
「そんなことないよ。大丈夫」
玄関の脇には、小さな受付用の机と共に、柄杓と水の入った桶が置いてあった。
彼に連れられ玄関を抜けようとした時、私はふと思い出す。
この場合は確か、家に入る前には手を洗わないといけないのではなかったか。
しかし横の彼は何も言わず、私たちはそのまま家に上がった。

玄関から向かって左の大広間には、数十人分の座布団が敷かれ、すでに大勢の人たちが座っていた。
部屋の奥には両脇に榊を置く祭壇と木の棺、棺の前には一枚の写真が飾られていた。
モノクロの写真の中に写っているのは、くらげの祖母だ。
去年の秋ごろから体調を崩しており、冬の間はほとんど起き上がれないほどになっていたそうだ。
家族は入院するよう促していたようだが、彼女は家に留まることを望み、そうして数日前、春の訪れを待たずして亡くなった。
享年八十一歳、死因は老衰。
遺影の中の彼女は、着物を着ていて、目を細めて笑っている。
それは見覚えのある笑顔だった。笑うと、目が顔中のしわと同化してしまうのだ。
加えて、「うふ、うふ」というその独特な笑い声も、最初の頃こそ苦手だったが、度々会う内に慣れてしまい、
彼女とは何度か世間話で笑い合ったこともある。
彼女はくらげと同様『見えるヒト』でもあり、その力はくらげ以上だという話だった。
この家で二人の他に『見える』者はいない。
「もう少しで始まると思うから、ちょっとここで待ってて」
そう言って、くらげは私を残し部屋を出て行った。
私は目立たないよう部屋の後方一番隅の座布団に座り、じっと葬儀が始まるのを待っていた。
周囲からの視線は、家の門をくぐった当初からずっと感じていた。
数人からは、直接どこの子かとも聞かれたが、正直に孫の友人だと答えると、
彼らは表面上は「えらいね」などと言いながらも、
その視線にはどこか、私の言葉の真偽を探るような、訝しげなものが混じっていた。
そんな折。一人、茶色に薄く髪を染めた背の高い青年が部屋に入ってきた。十代後半だろうか。
くらげと同じような黒っぽいシャツを着ているが、どこかだらしない印象を受ける。
周りの者におざなりな挨拶をした後、彼の視線がこちらに向いた。
一瞬立ち止まってから、その目に浮かんだのは好奇だった。こちらに近づいてくる。

214くらげシリーズ「黒服の人々 前編」2:2014/07/12(土) 16:43:59 ID:7TU1mP.c0
「わざわざ、どーも」
彼の言葉に、私は無言で短く礼を返した。
彼とは話したことは無いが、初対面ではない。この家で一度か二度、顔を合わせている。
彼はくらげの兄で、三人兄弟のうちの次男。
くらげとは四歳か五歳離れていると聞いていた。そして、くらげがその二人の兄からひどく嫌われているとも。
「えっと、何だろ?君は今日、あいつに呼ばれて来たの?」
彼が言った。『あいつ』とはもちろんくらげのことだ。嫌な聞き方だと思った。
私は首を横に振り、「いえ」とだけ答えた。
「じゃあ、クラスの代表とかで?」
そんなことがあるわけがない。彼は薄く笑っていて、明らかに私をからかっていた。
私は彼をまじまじと見やった。
信じられなかった。すぐそこに彼の祖母が眠る場所で、彼はいとも簡単に軽口を言ってのけたのだ。
正直、腹が立った。けれども、私は膝に置いた手をぎゅっと握りしめて、頭の天辺へとにじり上ってくる不快な感情を抑えた。
「おばあさんのご飯を、食べたことがあるから……。この部屋で」
「あいつが飯食いに来いって?」
もう答えるのも嫌になって、私は無言で首を横に振った。私のそんな様子を見て、彼は面白そうに薄く笑った。
「なあ、これ、好奇心から聞くんだけど」と彼が言った。
「君ってさ、あいつの何なの?」
私はもう一度、彼を見やる。
私は、くらげの、何だ。それは考えるまでもなかった。
「……友人です」
彼が笑う。
「友達ならさ、あいつのこと、どこまで知ってんの?
 ……これ親切心から言うんだけどさ、俺、あいつの友達にだけは、ならない方がいいと思うんだよな」
彼の言いたいことは大体予想ができた。彼はくらげが『自称、見えるヒト』あることを言っているのだ。
まるで見えず、まるで信じない人からすれば、
彼の言動は虚言症持ちか、もっと言えば、精神異常者として映っているのだろう。
兄や父親も同じような考えなのだろうか。
くらげは自分の見える力のことを『病気だから』と言う。
私は思う。彼はきっと、こんな環境に居たからこそ、そう思うに至ったのだ。
唇を噛んだ。けれども、見えない人には何を言っても仕方がないのだ。
「……自分で病気だと言っていることは、知ってます。……何が見えるかも」
彼が初めて「へぇ」と驚いたような顔をした。
「知ってんだ。意外。……いやさ、確かに、あいつだけなんだよな。ばあちゃんが死んで泣かなかったの。
 やっぱその辺が関係あんのかな」
鉄の味がする。どうやら先ほど強く噛みすぎて、唇に穴が開いたらしい。
「……で、だからなんなんですか?」
吐き出すようにそう言うと、周りの人々がちらりと私たちを見やった。
彼はさすがにやりすぎたと思ったのか、「まあ、まあ」と私をなだめるように胸の前に両手を上げ、
先ほどよりも小さな声でこういった。
「いや、俺ってさ、良く勘違いされやすいんだ」
もし彼がこれ以上何か言ったら、もっと大声を出してやるつもりでいた。
けれども次の瞬間、彼の口から出てきた言葉は私を黙らせるのに十分なものだった。
「俺はさ、あいつが、『見える』っていうのは嘘じゃないと思ってるし、
 それに、別にあいつ自身がそれほど嫌いなわけじゃないよ」
それは相変わらず軽い口調だったが、嘘をついているようには見えなかった。
「でもさ。今、そこにある棺の中に入ってんのが、ばあさんじゃなくて、あいつだったらいいのになー、とは思ってる」

215くらげシリーズ「黒服の人々 前編」3:2014/07/12(土) 16:45:28 ID:7TU1mP.c0
私は彼を見やった。言葉が出なかった。
こんなにも堂々と、『死んでしまえばいいのに』という言葉を聞いたのは初めてだった。
それでいて、彼はくらげ自身は嫌いではないと言う。
「矛盾してると思うよな。でも、俺は正常だよ。たぶん、この家の人間の中じゃ一番マトモだ」
部屋の入り口から、どこか見覚えのある顔の知らない誰かが入ってきた。
「あー、兄貴入ってきたな。そろそろ始まんのかな」
振り返って、彼が言う。
礼服をぴしっと着用した、どうやらあの人がこの家の長男らしい。そういえばどことなく、くらげの父親と似ていた。
しかし、その時の私には、そんなことに気を取られている余裕はこれっぽっちもなかった。
「そうだなー……、あいつを一番嫌ってんのは、兄貴か親父だよ。たぶん。
 俺はまだほとほとガキだったから、何がどうしてああなったかなんて、覚えちゃいないしさ」
正直なところ、一体彼が何を言っているのか、私にはまるで分からなかった。
目の前の人間が、まるで宇宙人のように思えた。絶対マトモじゃない。そう思った。
全部顔に出ていたのだろう。彼はそんな私を見て薄く笑った。そして、天井近くの壁の方を指差した。
そこには遺影が何枚か掛けられてあった。
白黒の写真の中に一枚だけカラーのものがある。写っているのは、色の白い三十代くらいの女性だ。
彼が指差してるのは、その女性だった。
「あれ、うちのかーちゃんなんだけどさ……」
彼ら兄弟の母親は、くらげを生んですぐに亡くなったのだと聞いたことがある。
長男に続いて部屋の入り口から、くらげと、くらげの父親が入ってきた。これから葬儀が始まるのだろう。
その時、傍にいた彼がぐっと近寄ってきて、私の耳元で一言ささやいた。
その瞬間、私の中の時計が止まった。
どんな顔で彼を見やったのか、自分でもわからない。
彼はまた、あのからかうような薄い笑みを浮かべると、踵を返し、祭壇の近くの親族の席へと移っていった。
ふと気が付くと、部屋の入り口に立ったまま、くらげが私の方を見つめていた。
その顔は、いつも通り無表情で、これから彼の祖母の葬式をするというのに、何の感情も表に出してはいない。
彼の言葉がずっと頭の中でこだましていた。
こだまなら、壁にぶつかり跳ね返るごとにその音は弱くなっていくはずなのに、
その言葉は私の脳内で反響を重ねるごとに、大きく、強くなっていった。
私は思わず視線をそらしてしまった。
はっとしてもう一度くらげの方を見たが、その時にはもう彼は私を見ておらず、自分の席に向かっていた。
――かーちゃん殺したの、あいつだから――
私の耳にこびりついた言葉。
そんなはずはない、常識的にありえない、と何度否定しても、その言葉は私の中で膨れ上がり、
軽い吐き気と一緒に胃からせりあがってきた。とっさに口を押える。

狩衣に烏帽子を被った斎主が部屋に入ってきた。
部屋の中にいる黒服の人々がその方を向いて礼をする中、
部屋の隅で私だけが体を丸めたままじっと動かず、つい先ほど傷をつけたばかりの唇を、強く、強く噛んでいた。

216くらげシリーズ「黒服の人々 後編」1:2014/07/12(土) 16:46:40 ID:7TU1mP.c0
私の胸中とはまるで裏腹に、葬儀はしめやかに進められた。
えらく長く、それでいてほとんど何を言っているか分からない祝詞などを聞いているうちに、
次男の言葉に混乱していた私も、次第に落ち着きを取り戻していった。
一度、冷静になって考えてみる。
くらげの母親は、彼が生まれた直後に亡くなったと聞いている。
そうだとすれば、本当に彼が母親を殺したのなら、首も座らない赤ん坊が殺人を犯したことになる。そんなことはありえない。
けれども、彼が全くの嘘をついたようにも思えなかった。
だとすれば、おそらく彼女は、出産が原因で亡くなったのではないか。
昔よりは医療が充実した現代だが、ありえない話ではない。
もしもそれが原因だとしたら、彼女の死が、引き換えに生まれてきた赤ん坊のせいにされることだってあるだろう。
私の理性はそう結論付けた。これ以上の答えは、その時の私には考え付かなかった。
それでも、何か腑に落ちない、もやもやとした塊が腹の中に残った。
私の中の誰かが、「違うんじゃないか」と言っている。私はその声を無理やり胸の奥の奥へと押し込んだ。
するとその代わりに、また、あのおちゃらけた次男への怒りが湧き起って、それを鎮めるのにも一苦労がいった。

葬儀の方はすでに、祝詞から玉串奉奠へと移っていた。
仏式では焼香にあたる儀で、席順に遺族、親戚、一般という順に榊の枝葉を受け取り霊前に置いていくようだ。
当時の私は神葬祭の経験自体少なかったので、奉奠のやり方が分からず、目を凝らして前の人の動作を観察した。
二礼二拍一礼は分かるのだが、その前の榊の置き方だ。
何やら回転させているように見えたが、距離があるのと、背中で隠れてしまうため、良くわからない。
私の番が来るまでに、ちゃんと見て覚えておかなければならない。
そう思い、玉串を納めている人の背中を凝視していると、ふと私の目に別の何かが映った。
棺の上に、小さな光る何かが浮かんでいる。
それは蛍の光のような、小さな、淡く青い光の粒だった。しかも、一つではなく複数だった。
何だろう。焦点を合わそうとしても、いかんせん祭壇まで遠く、それが何であるかわからなかった。
祭壇には提灯があるが、それは少なくとも提灯の光ではなかった。風に遊ばれる風船のように揺れて、浮き沈んでいる。
一体、あれはなんだろう。
ふと気が付くと、ほとんどの人が奉奠を終え、次が自分の番だった。
まだ完全に動作を覚えたわけではないが、今になって誰かに助けを求めるわけにもいかない。
仕方なく、ぶっつけ本番で臨むことになった。
祭壇に近づくにつれて、棺の上にある淡い光がより鮮明になる。
斎主の前に進み出た時には、それが何であるかはっきりと見て取れた。
それは小さな、ゴルフボールくらいの大きさの、数匹のくらげだった。
その表面にちりちりと光の筋を浮かび上がらせ、空中にふわふわと漂っている。
どうやら、ゆっくりと天井に向かっているらしい。
そのうち、一匹の新たなくらげが、棺の中から顔を出した。
このくらげたちは棺の中から現れているのか。
あまりの光景に、私はしばらくの間、我を忘れていた。
自分の前に榊が差し出されているのに気づき、慌てて受け取る。
霊前に進むと、一匹一匹のくらげたちの表情がより深く見て取れた。
薄暗い部屋の中、それはとても幻想的であり、たっぷり非現実的でもあり、見惚れるには十分な光景だった。
これは何だろうという疑問さえ、綺麗に消え去っていた。
ふと、くらげたちの動きが変化したのに気が付いた。
天井へ向かっていたくらげの群れがその動きを止め、再び棺の中へゆっくりと落下していく。
そうして、最後のくらげが棺の中へと消えていった次の瞬間、玉串を持った私の手を、誰かの手がふわりと包み込んだ。
その手は目には見えなかった。しかし確かに、棺のある方向から私の両手を優しく握っていた。
そうして、私の手を玉串諸共ゆっくりと時計回りに回転させた。葉をこちら側に、玉串の茎が棺に向くように。
目には見えない。けれども、握られたから分かった。
その手は、小さく、しわだらけで、ごつごつしていた。そして、私はその手が誰の手かを知っていた。
『彼女』は奉奠の動作がわからない私に教えてくれたのだ。
不意に涙がこぼれた。それは感情の動きよりも先に、フライングして出てきたような涙だった。
玉串を置いてもしばらくの間、その手は私の両手を握ったままだった。
このままでは涙も拭けない、そう思った時、ふっと手を包んでいた感触が消えた。
制服の袖で、ぐい、と涙をぬぐい、棺に向かって、二礼、二拍手、一礼する。
ありがとうございます。
そう一言呟き、私は霊前を後にした。

217くらげシリーズ「黒服の人々 後編」2:2014/07/12(土) 16:47:46 ID:7TU1mP.c0
目がにじんでいたせいか、棺の中から浮かび上がるくらげたちは二度と見えなかった。
席に戻る際に、親族の席に座っていたくらげと目があった。
涙の跡を見られないようにと目をそらすと、向けた視線の先に次男が居た。
さすがに真面目な顔をしていたが、どこか面白そうに私を見ていた。
その横には長男も座っていたのだが、彼は軽く目を瞑り彫像のように動かない。
三人が三人とも似ていない兄弟だった。

一般客の後、最後に斎主が自ら玉串を霊前に置き、玉串奉奠の儀は終わった。
その後、斎主が退出し、喪主であるくらげの父親の短い挨拶があって、葬儀は閉会となり、
出棺の準備のため、親族以外は別の部屋に待機することになった。
しばらく待っていると、大広間から、どん、どん、と釘を打つ音がした。
次いで家の中から棺が運び出され、門の外で待っていた霊柩車に乗せられた。
外は相変わらず水をたっぷり吸った重たい雪が降っていた。空は灰色。
遠くの山を白くかすみ、その中を黒い服に身を包んだ人々が動いている。
まるで、出来の悪いモノクロ映画のような光景だ。
火葬は近しい親族だけで行うらしく、私のような一般客やその他の人は、彼らが戻るまで家で待つことになった。
大広間に、茶や菓子が用意されているとのことだったが、私は家には入らず、彼らの帰りを外で待つことにした。
理由は特にない。強いて言うなら、出所の分からない意地だった。
外は寒い。何度か中に入るようにと言われたが、首を横に振り続けていると、彼らも何も言わなくなった。
家に入り、事情を知ってそうな人から、くらげの母の話を聞く。そういう考えも無くはなかった。
けれども何故か私には、もしも誰かに訊くとすれば、この話はくらげ自身の口から聞くべきだ、という想いがあった。

雪がひどくなって、私は屋根のある門の下へと避難した。上着も持ってきていなかったため、手も足もひどく悴んだ。
自分でも何をやっているのだろうと思ったが、それでも家に入る気は起きなかった。
火葬場で焼かれている祖母の遺体のことを思う。雪風に打たれている私とは真逆の状況だ。
といっても、敢えて変わってほしいとも思わなかったが。
ひとしきり馬鹿なことを考えていると、年配の女性が家の中からお菓子と防寒具を持ってきてくれた。
紋所の付いた赤いちゃんちゃんこ。亡くなった祖母のものだという。袖はなかったが、それはとても暖かかった。

火葬場から彼らが戻ってきたのは、二時間も経った後だった。
祖母のちゃんちゃんこを着、門で待っていた私を、親族たちのほとんどは奇怪な目で見やった。
次男は可笑しそうに笑い、長男と父親は何も言わず、くらげは真顔で「本当に、おばあちゃんかと思った」と言った。
その後は大広間での食事会だったが、大人たちのつまらない昔話に耳を傾けるつもりはなく。
私はくらげを誘って抜け出し、二階の彼の部屋へと上がった。
適当なところに座布団を敷いて座る。二人ともしばらくの間、口を開かずにいた。
色々な考えや出来事が私の中のあちこちで渦を巻いていて、それらは容易に言葉にならなかった。
「……今日は、ごめんね」
先にそう言ったのは、くらげだった。
彼は私に向かって『ごめん』と言った。しかし、こちらには謝られるような覚えはない。
怪訝そうに彼を見やると、彼は私とは目を合わさず、「何だか、気分を悪くさせたみたいだから……」と言った。
なるほど。くらげは彼の兄であるあの男のことを言っているのだ。
確かに嫌な気分にはなった。けれども、それは決して彼が謝るべきことではない。
話題を変えようと、私は無理やり口を開く。
「そう言えばさ……、棺の上に、小さいくらげが浮いてたよな」
すると、彼が不思議そうに私を見た。
「……くらげ?」
彼には見えていなかったらしい。
私は驚く。私に見えたのだから、当然、それは彼にも見えたのだと思っていた。
私は元々霊感など持っていない人間だ。それが、くらげと一緒にいるときだけ、僅かだが彼と同じものが見えるようになる。
今まではずっとそうだった。
「え、じゃあ、あの手も?」
くらげは首を横に振った。私は彼に、玉串奉奠の際に体験したことを一通り話した。
「そう……、おばあちゃんらしいね……」
そう小さく呟いた彼の口元は、かすかに微笑んでいた。
窓の外に目を移すと、ぼた雪はいつの間にか雨に変わっていた。

218くらげシリーズ「黒服の人々 後編」3:2014/07/12(土) 16:49:12 ID:7TU1mP.c0
こんな雨の日、くらげの祖母には、空に向かって登る無数の光るくらげたちが見えたそうだ。
「なあ、くらげさ」
くらげの方に顔を向けると、彼は小さく頷き、「うん」と言った。
「ただの想像だけどさ。もしかして……。あのくらげって、生き物の死体から湧くんじゃないか」
棺の上を漂い、青白く光るくらげたち。あの時、私は一瞬だけだが、魂という言葉を連想した。
死体から湧き出る、くらげ。もし、魂というものが存在するのなら、あの光るくらげは、それに近いものなのではないか。
以前、どこかで聞いたことがある。雨は、そのたった一度で、驚くほど多くの生き物の命を奪うと。
生を失うのは、大抵は小さな生き物だ。その一つ一つの魂が発光する小さなくらげとなり、空へ向かって昇っていく。
祖母はその光景を見ていたのではないだろうか。
そんな与太話を、くらげは黙って聞いてくれていた。
私がしゃべり終えると、彼は肯定も否定もせず、窓の向こうの雨を見つめながら、「そうかもしれないね」とだけ言った。
またしばらく沈黙が続いた。
「おばあさんさ……。死ぬ前に、くらげに何か言った?」
ふと、気になっていたことを尋ねる。
死に目にはあえたと聞いていた。人が人に伝え残す最後の言葉。祖母は彼に何が言い残したのだろうか。
「……『強う気持ちを持っておらなぁいかんよ』」
くらげは、ゆっくりとその言葉を口にした。
「そう言った。……自分はもうじき居なくなるから、って」
私は改めてくらげを見やった。その言葉はもしかしたら、そのまま祖母の人生を表していたのかもしれない。
くらげに祖母が居たように、彼女には誰か味方がいたのだろうか。
私は、玉串を納め終えた後もしばらく離してくれなかった、あの小さな手の感触を思い出した。
あの手は、私に何か伝えようとしていたのではないか。
祖母が死んで、くらげは一度も泣かなかった。次男は私にそう言った。
死者が見えるのだから、悲しむ必要もないのだろう。その言葉の裏にはそんな響きがあった。
私はあの野郎が嫌いだ。
悲しくないはずがない。私は二人がどれだけ仲が良かったかを知っている。
いくらそれらが見えたからといって、死んだ者が生きている者と同じようにふるまえるわけがない。
私はそれをこの家で学んだ。死んだ祖父のために出された料理は、決して減ることは無かった。
例え骨になるまで焼かれても、例え雪の降る中突っ立っていても、死んだ者は熱さも寒さも感じることは無い。
いや、例え感じていたとしても、私たちにそれを知るすべはない。
悲しくないわけがない。
私は自分の肩に手をやった。柔らかな綿の感触。まだ、祖母の赤いちゃんちゃんこを着たままだった。
このまま着て帰りたい気持ちもあったが、いったん脱いで、彼の前に差し出した。
「これ、返す」
彼はそのちゃんちゃんこをじっと見つめ、それから「……うん」と言って手に取った。
「……それ着てみろよ。すんげぇあったかいから」
彼は無言でちゃんちゃんこを羽織った。意外と似合っている。
「な」と私が言うと、彼はまた「……うん」と呟き、そのまま抱えた両膝に顔をうずめた。
そうして彼は、まるで眠ってしまったかの様に動かなくなった。
本当は、彼の母親のことを訊こうかとも思っていた。一歩間違えればそうしていた。
私は彼を問い詰め、そして彼はきっと正直に答えてくれただろう。
私は寸前で、これ以上彼を追い詰めずに済んだのかもしれない。
きっと彼だって、張り詰めた糸のような均衡で保たれていたに違いないのだ。
訊くべき時。それは決して『今』ではなかった。
その名を呼ぼうとして私は口をつぐんだ。
膝に顔をうずめ動かない彼に、それ以上かけてやるべき何かを私は持ってはいなかった。
あったとしても彼には届かなかっただろう。当時の私たちは、まだほんの子供だった。
だからせめて、私は彼が顔を上げるまで、そこで待つことにした。
寝転がると、一階の大広間の話し声が微かに聞こえた。大きな家だから、なかなか声も届かないのだろう。
耳を澄ますと、すぐ窓の向こうに降る雨音の方がよく聞こえた。
例え彼が母親を殺していたとしても。たった一つ、これだけは言える。
彼はいいヤツだ。
寝転び、窓を見上げたまま、私は目を閉じた。
暗闇の中では、幾千幾万というくらげが色とりどりに薄く淡く発光しながら、
どこへ続くかもわからない空へと吸い込まれていった。

終わり

219鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」1:2014/10/07(火) 13:43:11 ID:N5E6U.uY0
バイト先の仲間及び上司と肝試しをすることになった。
常連のお客様一人とそのご友人二人。僕とユウキ(源氏名)、そしてガクト(仮)さん。
女二人、真ん中の人一人、男三人、計六人。
名目上は、お客様へのアフターサービスと新しい顧客開拓の準備行為。
売上が急激に下がったのが、このようなサービス残業をする理由だ。
不況を理由には出来ない。その時期にゴソっとお客様が来なくなったのだ。サービス低下の証拠だろう。
潜在的な顧客を含めても、お客様三人に僕たち三人を当てるのは少々過剰だと思う。
だが常連のお客様は、指名料ダントツのガクトさんを二時間以上拘束できる相当な太客。
なので、そのご友人にも期待をこめての放出なのだろう。
しかし正直言うと、ナンバー1であるガクトさんへの接待色が強い。お客様三人も「あれ」が目的だ。
つまらない話だろうが、大声で笑う。自慢話は褒め称える。わざとらしく、大袈裟ぐらいが丁度いい。
外面、男女が六人で和気藹々。内面、各人の思惑で虎視眈々。

「おい、リョウ。それお姉ちゃんマンションだろ?」
焚き火越しに、ガクトさんが僕の源氏名を呼ぶ。照り返しで元々深い彫りの顔立ちがまるでマネキンのようだ。
「流石!これ、僕の地元の話だから勝算あったんですけど。マジ何でも知ってますね」
「お、そうなのか。何度塗りなおしても赤い文字で浮かび上がるんだってな。TVで見た」
「なにそれ〜。怖〜い」
男ではないお客様予定の一人が黄色い声をあげる。全く怖がっているようには見えない。
食虫植物のような凶悪なマスカラに彩られた目で、ガクトさんを見つめる。
どうやら既にガクトさんのことを気に入ったようだ。言い忘れたが、女でもない。
ユウキが次の話に移る。
「じゃあ、ガクトさん、四角い部屋は?」
「あ。あーし、聞いたことあるかもぉ。四人が遭難して寝ないようにして、助かるのでしょ」
アピールするのはかまわないが、それではただの良い話だ。
「山岳部とかワンダーフォーゲル部だかの奴らが、遭難から命からがら帰還。
 実は、その生き残った方法に重大な欠陥があることに後で気づく、ってヤツか。有名な話。基本だな」
「知ってますねえ。なんでそんなに詳しいんですか?」よいしょ、よいしょ。
僕の言葉にユウキが被せる。
「違います、そっちじゃないです。
 マンションとかホテルのペントハウス、エレベーターから直結する部屋あるじゃないですか。
 あんな感じで、エレベーターで四角い部屋に直結するらしいんす。聞いたことありますよね?」
「はあ?部屋なんて大概四角だろ?」
「俺も詳しくは分かんないんすけど、その部屋は完全に四角なんですって。やっぱり知らないんすか。…俺1点ゲットですね」
「何だよ、その完全な四角って。意味わかんねえよ」
確かに意味が分からない。ただ四角い部屋に行くのが何故怖い話なのか。
恐らくは、元々意味のないものに意味を与える行為を楽しむ類の怪談なんだろう。
「じゃあ次、私の番ね。友達から聞いた話なんだけど――」
浜辺で一斗缶の焚き火を囲みながら話していた。

百物語のあとに心霊スポットに行くのが肝試しの王道だ、とガクトさんの案。逆らう理由も力もない。
最初は百物語のつもりで話していたのだが、思いの他ガクトさんが怖い話を知っているため、
徐々に趣旨が変わり、ガクトさんの知らない怪談を探すゲームになっていた。
今のところユウキの話以外は知っているようだ。
「あぁ、それ知ってる。足つかまれるオチ?」
「何で知ってるの、私もうないよ。ホントにガクト物知りだね」
百物語と言っても、百話も話すつもりがないのは全員理解している。
適当なところで心霊スポットの探索に行く予定だ。
本当にやるとしたら、六人で百話、一人当たり16,7話用意しなくてはならない。
普通なら知っている話など2,3話がいいところだ。相当難しい。
百物語を終えた後には怪異が起こるというのも、こういった理由からなんだろう。
肝試しは仲間内での遊びだ。

220鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」2:2014/10/07(火) 13:43:44 ID:N5E6U.uY0
肝試しをするのに集まる仲間など、多くても十人いないくらいだろう。
一人10話も話せないから、百話も話せない。結局、百物語は終われない。
秒速で落下する流れ星に三回も願い事を唱えられないのと同じだ。
肝試し用の心霊スポットは、随分前から放置されている廃ホテルだった。
経営苦で自殺した社長が出るそうだが、
恐ろしいのはむしろ、壁に落書きに来る暴走族や、風雨に晒されたビルの耐久性だろう。
いっそう仲良くなった様子のガクトさんとお客様たちを、彼のマンションに送る。
どうか明日からウチの店に通ってくれますように×3。
流れ星ではないが、一応願っておく。念のため。

僕たちも帰路に向かっているときに、ユウキが切り出した。
「なあ。さっきの四角い部屋の話なんだけど」
「ああ、あれは良くねえな。何なのお前、空気読めよ。分かってるだろ?」
「いや、ガクトさんなら大丈夫かと思ったんだよ。ダメだったけど。
 で、四角い部屋の謎解きに攻め込もうぜ、今から。チャレンジだ!リベンジだ!」
あっついなあ。リベンジって意味分かってるのだろうか?
「何お前、マジネタなのかよ?ガキじゃねえんだからさ」
「マジネタも何も。まさかお前も?四角い部屋知ってるだろ?」
「ガクトさんが知らないネタ、僕が知ってるわけないだろ。有名なのかそれ」

ユウキが話した四角い部屋のルールはこうだった。
エレベーターで直結部屋に行った者しか『完全な四角』の意味は分からないのだが、
『完全』の意味が分かると意味が分からなくなる。
四角い部屋に行くことは誰でも出来るのだが、エレベーターの最大積載量を越えることは出来ない。
必ず一階からスタート。
エレベーターのボタンを下から上まで順に押す。
点灯を確認して、その後上に向かう。
止まる直前に非常ボタンを押す、そうするとランプが点灯したまま次の階に向かう。
それを最上階まで繰り返す。全てのボタンが点灯した状態で最上階へ。
最上階まで行けると、そこは『完全な四角い部屋』だという。
途中で人が乗るなどの邪魔が入ったり、階数のランプが全て光っていなければ失敗らしい。

「エレベーターに非常ボタンなんてあるの?」
「ははっ、俺も似たようなこと聞いたわ。
 非常ボタンってよりも非常マイクって言った方がよかったな。あれで管理人に繋がるんだよ」
「ああ、あれのことか。緊急停止用のボタンかと思った」
「エレベーター緊急停止して何の得があるんだよ。むしろ何かあったら急ぐだろ。面白いこと言うな」
非常ボタンを押すと、外部のメンテナンス会社に繋がるものと、ビル内の管理人に繋がるものがある。
今回行くビルは、管理人に繋がるタイプのものらしい。やけに詳しい。こいつ。
「お前、既に下見済みかよ」
「まあ、そんな感じ。途中で帰ってきたけどな」

221鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」3:2014/10/07(火) 13:44:36 ID:N5E6U.uY0
路上に駐車し、歩くこと五分。
「着いた。ここ」
「え?コレ?全然普通のビルじゃん。死ぬほどぼろいけど。電気は点いてるけど、ホントに人住んでるのか」
「あの潰れたホテルよりはマシだ」
ユウキは先導して入り口へとずんずん進む。見たところ十階程度のマンションだ。
外灯からの距離が離れているせいか、建物の壁面が薄汚れた灰色をしているせいか、
マンション管理会社が電気代をケチっているせいなのか分からないが、いやに暗い。
「これがそのエレベーター」
ボタンを押すと、チンという音が鳴り、すぐさま扉が開いた。
しばらく誰も乗らなかったのか、中にある蛍光灯がチカチカと瞬きながら点く。
「あっそ。んで、どうするの?」
「まずは、一階から十階までの階数を全部押す」
何度やっても全部は点かない。
若干飽きてきている僕とは正反対にユウキは必死だ。
当たり前だ。今一階に止まっているのだから、一階のランプなんて点かない。
「なあ、謎解きしたいんだろ?取り合えず一番上行こうぜ。それで解決するかもだろ?」
ユウキは僕の言葉を聞き、口をポカンと開け、呆けた。
「お前、頭良いな」
誰でも考え付きそうなものだが、お馬鹿なユウキ君は考え付かなかったようだ。
こいつジャニーズの高学歴アイドルに似てるのに天然だったのか、知らなかった。
しかし、頭が良いと言われてちょっと嬉しくなる僕もまた、頭が悪いのだろう。

最上階に着く。居住用の部屋のドアが通路の壁に均等に並んでいるだけだ。
天井の蛍光灯がパチパチ音を立て切れかけているのが少し怖い。
だが、通路が四角くもなければ、トワイライトゾーンに繋がっているわけでもない。
きっとこのエレベーターの怪談を知る者は、一階のエレベーターで悪戦苦闘して先に進めず……。
そうか、何となく分かった。

「なあユウキ。俺、分かっちゃったんだけど」
一階に戻り、小学生のようにエレベーターのボタンを連打するユウキ。見ていて滑稽だ。
「うるさい。今忙しい」
イライラが伝染する。冷たく言う一言に、カチンと来る。
「ねえもう帰っていい?僕疲れちゃったよ。主に精神面で」
「はあ!?ふざけんな!俺と一緒に謎解くって言ったじゃねーか!」
いや言ってないし。何熱くなってんだよ。
「もういいよぉ、飽きたよぉ」
「帰るんなら帰れよ!マジむかつくわリョウ。お前ぜってえ後悔させてやるからな」
おお、こわ。それじゃあお言葉に甘えて帰らせていただきます。

222鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」4:2014/10/07(火) 13:45:17 ID:N5E6U.uY0
クルマに乗り込んだのはいいが、帰りアイツ足どうするんだろ?という素朴な疑問と罪悪感が生まれた。
どうやら先ほどは僕も熱くなっていたらしい。売り言葉に買い言葉だ。ちょっとだけ待ってやるか。
prrrrr
『もし。リョウ今どこだ?』
ガクトさんからだ。
「お疲れ様です!まだ近くにいます。何かありましたか?」
『ちょっとお客さんの相手してくれね?俺もう寝たい』
「了解です!すぐそっち行きます」
『ユウキもいるか?』
「今ちょっといないですけど、連れて行きます」
『頼む。早めにな』
先ほどのクサクサした気分とは一転、楽しくなってきた。
早くユウキを連れてピンク色のパーティーへと行こう、そんなことを考えながらユウキへと電話する。
「もしもーし、まだやってるのか?ガクトさんからお呼び出しだ、行くぞ」
『……マジかよ、分かった。……あ!点いた!』
「え?点いたの?でももうダメ。ガクトさんの言うことに逆らうなんて、健全な男子の僕には出来ないわ」
『あとちょっとだけ待っててくれ。頼む』
「ムリ。早くこっち来い」
『ちょっとだから、すぐに終わる』
「あのさあ、言いたくないけど、それお前ハメられてんだよ。元々成功するはずないんだ。その怪談は――」
僕はその怪談のカラクリを教えてやった。
一階のボタンが点灯した理由は分からないが、普通は到着階に着いたエレベーターのボタンの点灯は消える。
それが到着した合図だから、むしろエレベーターの設計上そうならなければならない。
全てが点灯した状態でどこかの階になどいけない。
少なくとも一つはボタンの光は消えている状態になっている。
動いている最中に押せば出来るが、それだと怪談のルールを破るし、そもそも降りるべき最上階に着いたら消えてしまう。
だから、最初から出来ないことを前提とした怪談で、出来たら不思議な何かがあるかもっていうオチ。
『…不思議な何かって何だよ』
「知らないし。何かがあるっていうのを考える怪談なんだから、答えはないんだよ」
『じゃあ、シュンさんはどこに行ったんだよ!?』
「誰だよ。ほら、ガクトさん待たせてんだから早く」
『っざけんな!何で誰も覚えてねえんだよ!?ナンバー2のシュンさんだよ!俺の派閥の親だよ!!』
「はぁ?何言ってんだ?ナンバー2はマキさんだろ?結構前から」
尋常でない取り乱し方に、僕はマンションに向かう。電話は繋がったままだ。
『大体、お前らに四角い部屋の話をしたのも、シュンさんだろぉが!?
 四月に、ガクトさん派とマキさん派とフリーのお前を含めて、ノルマ持ち合いの会議しただろ!?
 その席の雑談で、四角い部屋の話しただろ?』
「おいおい、落ち着けって。何の話か分からないぞ。四角い部屋は今日初めて聞いたぞ」
確かに四月に会議をした記憶はある。
派閥間でノルマを分配し合うことにより、ノルマを達成できないという給金に影響を与えるリスクを減らすのだ。
もちろん、提供できる余裕ノルマがある派閥の発言力が強い。そしてそれは、大体の場面でガクト派だったりする。
派閥間ではこれで貸しを作ったりする。派閥の親は、派閥管理のためにも使う。
季節的理由で避けられない人員変動や、予見できない急な用事の時が重なった時に役に立つ。
『じゃあ何で今日俺がガクトさんと一緒にいたのか、説明できるか?』
「それはお前……」
何でだ?そういえば何でユウキはガクトさん派になったんだ?揉め事起こしたわけでも、拾われたわけでもない。
俺は良い。各派閥に影響力のある強力なコネを持っているから、基本的に派閥間移動はフリーだ。
ちょっかい出してくるヤツは表立ってはいない。今日のような催しも招待される。
しかし、ガクトさんの派閥に入って日が浅いはずのコネもないユウキが、
何故プライベートに近いこんなイベントに参加できるのか。
確か、確か、確か。

223鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」5ラスト:2014/10/07(火) 13:46:01 ID:N5E6U.uY0
『答えられないのか?教えてやるよ。それが四角い部屋の謎だ。
 俺はガクト派になった覚えはねえ。入店してからずっとシュンさん派だ。
 だけど、今の俺は何故かガクト派だ。説明できる理由がねえ。それを誰も不思議に思わねえ。
 矛盾だらけなんだよ。シュンさんが四角い部屋に向かってから。
 だから俺も行く。行って四角い部屋の謎を解く。
 おい、聞いてるか?リョウ?今八階だ。もうすぐシュンさんを助けられる。よっと、これであと一階』
「待て、言ってる意味が分からない。取り合えず戻れ、もっとちゃんと説明してくれないと分からない。
 シュンって誰だ?何でその人が四角い部屋に行くことになったんだ?
 何でシュンって人が四角い部屋に行ったこと知ってるんだ?」
『もうちょっと待ってろ、もう着く。よし』
「おい!?止めろ!!」
『……くそ、完全ってこういうことかよ。確かにカンゼ――』
「おい!?返事しろ!冗談にしてはタチがわりぃぞ!!!」
ユウキの電話が切れた。いや、切れていない。
電話を掛けてすらいない。音がなくなっただけだ。
通信が切れた後の音や、通話時間を示すものもない。ただの待ち受け画面になっている。
リダイヤルのページを開いても、僕が最後に電話を掛けたのはガクトさんになっている。掛かってきたのもガクトさん。
電話帳にもメール受信・送信欄にもユウキの名前はなかった。
何だこれは。

マンションに到着する。急いでボタンを押す。
チンと音を立てドアが開くと、中の蛍光灯が点いた。エレベーターには誰も乗っていなかった。
prr
ガクトさんだ。
「はい」
『おう、ついでに箱ティッシュとペリエ買ってきてよ』
「すいません。ユウキと連絡が取れなくなってしまって」
『ん?ユウキ?誰?』
「え……。いや、今日一緒に……」
『何?遅いと思ってたら知り合いにでも会ったのか。いーよいーよ。友達は大切にしな。
 だけど上司にもちょっぴり優しくしてくれると、睡眠時間と共に君への感謝が増える』
「ガクトさん、あの、シュンって人知ってますか?」
『誰?同業?』
「いや、知らないならいいです」
『じゃ、頼んだ』
「すいません!あと一つ!四角い部屋って知ってますかっ!?」
『おいうるせぇって。眠いんだから耳元で叫ばないでくれよ。
 四角い部屋?はあ?部屋なんて大概四角だろ?なぞなぞ?』
「いや、完全に四角い部屋です」
『何だよ、その完全な四角って。意味わかんねえ。いいから早く来いよ、お待ちかねだぞお姉さま方』
その声と共に、リョウちゃ〜ん、と甘い声が複数響く。
しかし心は躍らなかった。

終わり

224鴨南そばさんシリーズ「迷子」1:2014/10/07(火) 13:47:10 ID:N5E6U.uY0
車で旅行に行った話。

僕にバイトを斡旋してくれた先輩と夏休み旅行に行った。
当時、念願のクルマを購入した僕は、ドライブに行きたくてしょうがなかった。
「じゃあ俺の実家行くか?」
そう言った先輩に僕は二つ返事で飛びついた。
道中は特に何もない。ただ、移動距離が飛行機クラスだった。
夜の11時に出発して、着いたのが朝過ぎ。もうアホかと。
先輩の家族はものすごく良い人たちだった。
先輩はきっと拾われた子なんだろう。または遺伝子操作で生まれたんだろう。
受験生の妹もいた。先輩の妹だけあって凄く可愛かった。どうやら兄・先輩・妹の三兄弟らしい。
「手を出したら殺す」と、半ば本気で言われる。
「先輩がシスコンとは意外でした」と言ったら、みぞおちに蹴りをいただいた。ナイスキック。

ここから本題だ。
状況はたったの二文字で表すことができる。『迷子』だ。道に迷った。

事の発端は、滞在二日目に先輩が「良い所教えてやるから行くぞ」と言ったことだ。
妹ちゃんともっとお話していたかった。だが、僕が妹ちゃんにべったりなのでやきもちを妬いたのか。
先輩の気持ちは分からないが、僕を外に連れ出した。

囲炉裏のある温泉宿みたいなところに連れて行ってもらう。
そこで昼食の他に、蜂の子(?)と、ツグミ(?)を食べさせてもらった。
どちらも凄く珍しいものと聞いたのだが、グロテスクすぎて食べるのに勇気がいる。
思い出としては懐かしいが、今出されて食べる自信はない。
そこは先輩の古くからの知り合いの店だったようだ。
先輩のことを「タクちゃん」と親しげに呼んでいた。

温泉にも入り、囲炉裏でタバコを吸いながらまったりしていた。
先輩が「サトさん」と、入ってきた人に声を掛ける。
「おお。お前久しぶりだな、こんな所に何の用だよ」
「サトさんご無沙汰です。今、後輩を連れて帰省中なんです」
「もっと顔出せよ、まあいいや。親父さん元気か?」
「元気ですよ。あ、コイツ後輩のマサシです」
「こんにちは。先輩にはいつもお世話になっています」
「嘘つけよ。お世話してんだろ?」
「……はい」
その後、サトさんを含めて三人で雑談。
サトさんは長身でスラリとしていて、声が太く、口が悪い人だった。
だが、凄く感じのいい人だ。先輩が懐くのも分かる。
面倒見の良い渋いイケメンとでも言えばいいのだろうか。
建築関係のリース業をやっていると言っていた。実は当時は良く分かっていなかった。
その日は休みだから釣りに来た模様。
「先輩、僕たちも行きましょうよ」
「明日な、今からじゃ遅いわ」
サトさんにそのポイントを教えてもらう。

225鴨南そばさんシリーズ「迷子」2:2014/10/07(火) 13:47:45 ID:N5E6U.uY0
次の日の早朝から家を出た。
そして、お待ちかねの帰り道。道に迷う。
先輩が調子に乗って、上流へ上流へと登って行く。
さあ帰ろうと言う時に、現在位置が分からなくなった。
先輩の地元とはいえ山奥。道順など知らないだろう。
もちろん、山を甘く見た僕たちがGPSなど持って行っている訳がない。
「ここどこですか?」
「分からん、ヤバイな」
「まあ道路ありますから、まっすぐ行けばどっかに当たりますよ」
「だな」
道路に上がり歩いた。
しかし、相当な時間歩いてもどこにも着かない。それどころか、看板すら見えない。
段々暗くなってきた。
休憩と称して、ガードレールに腰掛ける。
タバコに火をつけながらふと有名な怪談を思い出す。
「そういえば、オイテケ掘りとかありましたね」
「ああ、なんかの昔話だろ?」
「今の状況それじゃないっすか?」
「荷物になるし、置いてくか」
「オイテケ掘りだけに?」
「オイテケ掘りだけに」
ナイロン製の魚の入った魚篭やえさ箱を道路の脇に置き、釣竿やタモなどの小道具もそこに置いていった。
一応、電話番号と名前と後日取りに来る旨を書いた物を添えて。
オイテケ掘り云々よりもかさばって歩き辛かったのがメインの理由。
持って行かれてもいいや、そんな気持ちだったのは内緒だ。借り物なのに。

それから更に歩いた。
幸いなことに疲れもほとんど感じない。
緩い下り道が続いていたので、何も考えずに歩いた。何とも無計画な行為。
クルマが来たら乗せてもらおうと思っていたのだが、それも叶わず。

三時くらいに道に迷ったのを先輩が認め、今が夜の八時。五時間以上も道を歩いていることになる。
時速5キロで歩いているとしても、距離にして25キロ。
いくらなんでも、看板やクルマの往来のある道路に出てもいいはずだ。
しかも、ここはちゃんと舗装されている道路。山の中で迷っているのとはわけが違う。
月明かりがあるので周りが分かるくらいの光はあるが、辺りは真っ暗。街灯はほとんどない。
「先輩。これ、本格的にやばくないっすか?」
「俺も思った」
「いや、遭難ですよこれ」
「そうなん、ですか」
コイツ、ダメだ。
「電波あります?」
「おお。バリバリ。電話するわ」
「もっと早くしてくださいよ」
「そう、そう。うん。じゃあ迎えに来てって言って。
 え?いや、分かんない。●●川の上流沿いの道路にいるんだけど、場所はちょっと分かんないや。
 そう、近くに来たら教えて。はい、じゃあね」
「先輩。妹ちゃんですか?」
「おお、何で分かった?」
「シスコン」
「うっせ」
「どうする?待つか?それとももうちょっと歩くか?」
「まあ、こんな所で待つのもカッコ悪いし、歩きますか」
「だな」

226鴨南そばさんシリーズ「迷子」3:2014/10/07(火) 13:48:32 ID:N5E6U.uY0
しばらく歩く。
多分30分くらい。時間の感覚など既にない。
「おい。あれ見ろ」
先輩が小声で僕に囁く。
道路下の川を指差している。
「何かいますか?」
「何だあれ?」
カカシ?木にしては妙に白い。
「何ですかね?流木が岩に引っかかってるんじゃないですか?」
「動いてるぞ。生き物だろ?人か?」
「ちょっと細すぎないすか?人にしては」
「おい、あっちにも居るぞ」
先輩の言うとおり、川の中にその白く細いものが何匹か立っていた。
どうやら川の中から出てきているようだ。
「ちょっと幻想的ですね」
「ああ、なんかキレイだな」
そんなことを二人で言いながら、段々増えてくるその白いのを見ながらタバコを吸っていた。

ppp先輩の電話が鳴る。
「うん、今どこ?え?置いたけど、そうそう、いや、今ちょっと面白いのが見えてるからそれ見てる。
 え?クルマ通らなかったぞ?じゃあ下ってきて」
「どうしました?」
「釣竿とかは見つけたけど、場所分からないんだとさ」
「そうなんすか」
「一本道なんだがなぁ」

二人でその白いのが静かに増えるのを見ていた。今ではそこかしこにいる。
川の中に溢れるほどの大群。ゆっくりゆっくり下流に向かっているようだ。
「なあ、もうちょっと近くで見ねえ?」
「僕もそれ言おうと思ってたんですよ」
美しい。そういう風に覚えている。
月の光かどうかは分からない。その白いのに埋め尽くされて、川全体が発光しているようにも見えた。
吸い込まれていきそうな魅力がそこにあった。

pppppまただ、急な電話の音は頭にくる。
「はい、え?おお、サトさん。いやいや酔ってないです。今ですか?道に迷っちゃって、ちょっと面白いの見てるんですよ。
 それです!そうです。川の中にしろい…」
『それを見るなっ!!!』
ケータイを通して僕にも声が聞こえた。
『おい!今どこだ!?』
「わかんないです。道に迷ってんですって」
『じゃあ、その白いのはどっちに向かってる!?』
「ああ、下流方向〜?ですね」
『じゃあ上に向かえ!いいか!?道を登れ!!』
「街とは反対ですよ、それだと」
『いいから言うこと聞け!!ぶっ殺すぞ!!!』
「どうしたんすか?なんかサトさん怒ってません?」
「わかんね、すっげえ怒ってる」
『お前、言うこときかねえんだったら、妹ちゃんにアノことばらすぞっ!?』
「何すか先輩?アノことって?聞きたいっす!」
「おい、上行くぞ」
先輩の目つきが変わった。
「えええ、登るんですかぁ、疲れますよ〜」
足をどかりと蹴られた。登山用のブーツで攻撃力も倍増だ。
「うるせぇ、行くぞ」

五分も歩くと、上から先輩の親父さんの運転するクルマがやってきた。
後少し待てば来たじゃないか、とブツクサ思っていた。
川を見ても白いのはもう居なくなっていた。普通の山道の川だ。

僕は車に乗り込むと、もの凄い疲れを感じた。
先輩も同じだったようだ。家に着いたら風呂にも入らずそのまま寝てしまった。

227鴨南そばさんシリーズ「迷子」4ラスト:2014/10/07(火) 13:49:19 ID:N5E6U.uY0
翌日の早朝、先輩に叩き起こされた。
サトさんが出社前に僕たちを訪ねてきたという。
「お。無事だったか」
サトさんは昨日の電話越しとは違って、とても優しく笑う。
「いや、本当にすいません。昨日帰った後寝てしまって、着信気付きませんでした」
「気にすんな。あれ見たら最低でも二,三日寝込むらしいからな。若いってのは偉大だ」
「何なんですか?あれ?」
「ああ、なんか白ヤマメとか言われてるな」
「結構有名なんですか?」
「地元でそこそこ山に入るやつなら、一回は聞いたことがあると思うぞ」
「キレイでしたけどね」
「……お前。まあ、いいか」
「何ですか?気になりますよ」
「……本当に、キレイだったのか?」
川の中に立つ白いカカシ。
細すぎるけど人間っぽい形はしてた。足はぴっちり閉じてたな。ってかゆっくり跳ねながら進んでた。
良く分からないけど、手?妙に細い腕はあったな。プラプラ揺れてた。
目と口の部分に空洞。空洞?ごとりと落ち窪んだ穴。
長くて白い髪?ボサボサの。枯れたリュウノヒゲみたいな。
もちろん服は着てない。
骨ばっているというより木の皮みたいな肌。
それが川を埋め尽くすほど大量に。わさわさと溢れんばかりに。
何だこれ?何がキレイなんだ?
「なあ、本当にキレイだったか?」
「……いえ、今思い出すと、……気持ち、悪いです」
「まあ神隠しの一種なんだろ。変な所に入り込んじまうんだ。お前のテンションもわけ分からなかったからな」
「すみません。無礼でした」
「だから気にすんなよ。誰でも一時的にちょっと気が狂うもんらしいんだ」
そういえば、あんなに長い間歩いてた割には、二人とも異常に楽観的だった。
先輩の性格なら、自分が遭難の原因だろうと絶対僕に当り散らす。迷ってから一発も殴られなかった。
何よりいくら下りとはいえ、何時間も歩いていて疲れないわけがない。休憩にしたって、タバコを吸うぐらいだ。
何より飲み物もないのに、のども渇かなかった。
気が狂う、か。そういえば先輩優しかったなぁ。
「無事ならいいんだ。あんまり無茶すんな」
サトさんは、時計を見ながら僕たちに言った。時間が迫ってきているようだ。
「じゃあ最後に一つ」
「おお、何でも聞け」
「何であんなのがヤマメなんですか?魚ってよりもカカシですよ?」
「ヤマメは漢字で、『山女』って書くんだよ」
ぞくり。背中に汗が線を描いた。

終わり

228名無しさん:2014/10/17(金) 10:50:31 ID:DE6lauo.0
ホラテラ無くなったんだよね。

残念m(。≧Д≦。)m

229名無しさん:2014/10/31(金) 10:23:16 ID:kZan/lBs0
懐かしいなw
蟹風呂って確かここ出身だよね

230名無しさん:2014/11/03(月) 20:55:23 ID:o.vNxu0o0
誰だよw

231名無しさん:2015/04/09(木) 03:42:33 ID:86ppwZAA0
ホラーテラー懐かしいわ
初コメハンター2号で活躍してたけど覚えてる

232名無しさん:2015/06/14(日) 22:36:19 ID:Vzfw3lvo0
ホラテラ懐かしいわ
無くなったんだよね

233名無しさん:2015/07/06(月) 18:06:12 ID:gDT12DB60
雪山とビデオテープって
Samuel Hopkins AdamsのThe Corpse at the Table
ほぼそのまんまなんだけど…

234名無しさん:2018/09/17(月) 20:45:17 ID:LTHrItvQ0
テスト

235名無しさん:2018/09/22(土) 09:44:56 ID:NT/VTf1M0
Hvgjcっヴ

236名無しさん:2019/02/11(月) 03:03:40 ID:Ya4.csHY0
終電を逃した夜、お腹が痛くなって公園のトイレにかけこんだ。静かでなんか不気味な感じがする中、隣の個室に誰か入ったような音がしたのだが――。
夜飲食店でバイトしてた頃、
残業してたらいつもの電車に間に合わなくて、
途中の寂れた駅までしか帰れなかった時があった。
その日は給料日前日で全然金なくて、
始発出るまで公園で寝てたんだけど、
寒さで腹壊しちゃってトイレに行ったの。
そしたら、少しして隣の個室に人が来たんだけど、
何か電話しながら入ってきたみたいで話が聴こえた。
外からは車の音とかするんだけど、
トイレの中かなり静かだから、
相手側の声も微妙に聴こえたんだ。
「ん?うん、分かってるって。あはは!あ、ごめんごめん。何?」
『 ・ ・ なった ・ ・ いつか ・ ・ 』
「あぁ、そーだなー。大丈夫だって。気にすんなよ。え?おう。ぁははっ!やだよ。なんでだよ!ふふ。うん。そーなの?」
『たしか ・ ・ かけ ・ ・ し ・ ・ 』
「そうだっけ?おう ・ ・ あー、そうかもしんね。わり!ちょっと待ってて」
で、トイレから出ようとした時、はっきり相手側の声が聴き取れた。
急に怖くなり駅まで走って、
駅前で震えながらシャッターが開くのを待ってた。
ただ物凄く気味が悪くて怖かった。
思い出すとまだ夜が怖い。

237雷鳥一号 ◆zE.wmw4nYQ:2019/08/21(水) 19:19:03 ID:UJan4.Pk0
大学時代の山岳部の先輩の話

その先輩がとある尾根を進んでいると
向こうからおそろいの黄色い装束を着た修験者が10人ばかり
二列になって疾走してくる
足元は草鞋履きで手に錫杖を持っている
先輩があっけにとられて見ていると
そいつらは先輩の前まできて道中笠をぽーんと放った
するとどの修験者も信楽焼のタヌキの顔をしている
修験者達は「ホッホッツホ- エサホッツホー」と叫んで足元の悪い場所で1回転すると
いっせいに消えたという

238名無しさん:2020/04/14(火) 03:50:53 ID:2fQ5uIB.0
受験勉強のため
部屋で猛勉強していたら、
夜中の2時頃に部屋のドアをコンコンとノックされた。
「○○、夜食持って来たから、ドア開けなさい」
って、母親が言ってきた。

(ドアにはカギがかかってる)

でも○○は、ちょうど勉強に区切りの
いいところで休憩したかったので、

「そこに置いといて、お母さん」って、言ったらしい。
そしたら、お母さんがそのまま階段をトントン降りていく音が聞こえた。
それから3時頃になって、また、お母さんがドアをノックして、
「○○、おやつ持って来たから、ドア開けなさい」って、言ってきた。
でも○○は、「おやつなんて別にいいよ」って、答えた。
そしたら、「うるさい!いいからここ開けなさい!!開けろっ!開けろぉ!!!!」って、急に怒鳴り出したらしい。
○○はビビって開けようとしたんだけど、なんだか嫌な予感がして、開けなかった。
そしたら、今度は涙声で、
「お願い・・・○○・・・ドア開けてぇ・・・」って、懇願してきた。 でも、開けなかったらしい。
そのまま10分ぐらい経ったあと、

「・・・チッ」

って、母親が舌打ちして、階段をトントン降りて行った。
でも、それからすぐに○○は思い出したんだと。
今、両親は法事で田舎に帰っているということに。
あの時、ドアを開けていたらどうなっていたかと思うと、
○○は震えたそうだ。

(終)

239名無しさん:2020/04/14(火) 05:08:41 ID:2fQ5uIB.0
拝観料
せっかくの連休なので歴史好きな親父と一緒に寺院巡りの旅行に出た。

一泊二日の予定で初日は有名所を見て回った。

やはり生で見る大仏は迫力が違う。

二日目はガイドマップを見ながら比較的小さめなお寺を巡る。

とある寺院の前に来たが親父が「あれ?ここは案内に載ってないな」と不思議がっていたが、行動派な父は山門から中へ入っていった。

俺も続いて中へ入るが何だか変な感じだ。何とも言えない空気?と言ったら良いのか。親父は気にしてないようでズカズカ参道を歩いていく。

他に参拝客は居ないようだ…

真正面の本堂に入ってみる。静まり返っている…住職も誰も居ないようだ。

何よりおかしいのは有るはずの本尊が無い。親父も首を傾げている。

右手側にある廊下から奥へと進んでみる。

迷路の様な通路になっていて所々何やら文字が書かれているが読めない。

さすがの親父も気味が悪くなってきたのか足早になった。

240拝観料:2020/04/14(火) 05:09:17 ID:2fQ5uIB.0

ようやく長い通路を抜けてさっきの場所に戻ってきたが、何かが違う…

仏像だ!さっきは無かったのに…

憤怒の表情をしているので明王の仏像だろう、何故か目を閉じているが。

たしか仏像の意味って「目覚めた者」だったはず!

頭の中が?だらけになり親父に「とりあえず出よう」と言おうとしたが親父も同じ考えだったようで目で合図し急いで本堂を出た。

その時

「お待ちなさい」

突然後ろから声がかかり俺は心臓が止まるかと思った。が、親父は冷静に声をかけてきた住職らしき人に「すいません、拝観料が必要でしたか?」と切り返す。

しかし住職は「拝観料はもう頂きましたので結構です。お気をつけてお帰り下さい」と無機質な声で言い意味深な笑顔を向けてきた。

俺たちは「失礼しました」と言い寺院を後にした。

変な気分になったので次は気分転換にガイドマップに載っている由緒ある寺院に向かった。

241拝観料:2020/04/14(火) 05:09:47 ID:2fQ5uIB.0

その寺院は先ほどとは打って変わり賑わっておりホッと安堵できた。
「こんにちは」
また後ろから声がかかるが今度は優しい声だった。
振り返ると『良い人』の模範のような住職さんが居てこう続けた
「どうやらあなた方は良くない場所に招かれたようですね」
俺たちは驚き先ほどの事を話してみた。
「恐らく拝観料として取られたのは寿命だと思われます。」

「このまま放っておく訳にもいきませんので、そこへ案内してもらえますか?」
「せっかくの旅行が大変な事になったな」と苦笑いの親父。
先ほどの寺院へ着いた
「あれ?こんなにボロかったっけ?」
外観もだが、参道も草が生い茂っていた。
まるで狐に化かされたようだ。
住職さんは連れてきたお弟子さん数名と共に本堂を囲むと何か念仏を唱えだした。
数分後…どうやら終わったみたいだ。
「これで大丈夫です」
住職さんはそう言うと本堂の中へ入って行き中の様子を見て戻ってきた。
「目が彫られていない仏像がありました。恐らくアレがここを廃寺にした元凶でしょう。私共の寺に移し手厚く祀りましょう」

そうして俺と親父の旅行が終わった。
あれが元気だった親父との最後の思い出か…
あの住職さんの寺が火事で全焼と風の噂で聞いた

最近よく幻聴を聞く

無機質な声で

「お待ちなさい」

「命を置いていきなさい」

242女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:07:43 ID:o.Sh1KJQ0
女の存在を知らせること
* この話を読む前に次のことをしてくれるとうれしいです。

1、 左足のすねを触ってください。

2、 触ったまま目を閉じて「篠原」という名前を頭のなかで呼んでください。

3、 同様のことを左の薬指と小指にも行ってください。

以上のことを行った方から下にお進みください。

なお、かなりの長文ですが区切らず、話を進めていこうと思います。

今から8年と10ヶ月前のことです。当時、高校3年生だった僕は富山の立山というところに住んでいました。桜もほとんどが散り、とても暖かい一日でした。

受験シーズンに入ろうとしていましたが、僕はただダラダラと過ごしていました。

高校を卒業した後、実家の弁当屋の手伝いをすることに決めていたからです。周りもそんな奴らばっかりでした。僕の学校はレベルが低く、ガラの悪いのが当たり前みたいな感じでした。僕自身も髪の色は茶色でした。

友達のIとHとは中学からの親友でした。

カツアゲみたいなことはしなかったけれどバイクに乗ったり(当時、無免許でした。)、タバコ吸ったりはしていました。

「明日、遊びにいかん?」といってきたのはHからでした。ちょっと遠くにいかんけ、と。富山には、遊べるほどの場所がほとんどありませんでした。あってもパチンコくらいです。「どこに行くが?」と聞くと、Hは「村。」と一言いいました。

「なん、実はそこで肝試しやろっかな・・・って思って。いや、女子とかも誘うし!」と付け加え、行こう、と言ってきました。

243女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:09:30 ID:o.Sh1KJQ0
正直、楽しくなさそうだなと思っていましたが。女子もくるなら・・・ということでそれに応じました。Iはかなり乗り気でした。「俺、写るんですもって来る!」みたいなことを言ってたような気がします。

「じゃあ俺、女子誘うわ。」といってHが右足の義足を引きずりながら。女子のところに歩いていきました。

Hの右足はひざから下がありません。本人は「バイクで事故った。」と言ってました。

結局、集まったのはIとHと僕、女子が3人の計6人。電車を乗り継ぎ、2時間くらいかかりました。「マジで合コンみたい。」「やっば楽しくなってきたんやけど。」といっていました。

Hがいうには普通の村だけどそこで幽霊がでるらしいのです。

といっても怖さは全然ありませんでした。ただのお楽しみ会のようでした。

村ではほとんどが田んぼですが、ポツリポツリと明かりがついてました。まさに「田舎」という感じです。いく当ても無くただ歩いていました。遠くから人が話している声も聞こえてきました。

なんかおかしいな、と思い始めたのはそれから5分くらい経ってからでした。

女子が「なんか気持ち悪い。」とか「歩きたくない。」といい始めました。なんの冗談だよ、マジでうぜえな、と思っていた僕ですが、だんだんと目眩がしてきました。キーーーンと耳鳴りもしてきています。

このときはまだ余裕がありました。Iは「幽霊来るって。まじカメラもって来てよかったし。」と笑っていたと思います。

244女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:12:25 ID:o.Sh1KJQ0
ふいに、自分達が歩いているとこがアスファルトから、砂利道に変わったことに気がつきました。あれ?と思い周囲を見渡します。女子の一人が「どうしたん?」と声をかけてきました。

村の雰囲気がおかしかったのです。

邪気とかそういう意味ではなく、なんとなく古くなっていました。昭和の村というか、タイムスリップしたみたいでした。

女子もなんか古いよね、といい始め。Iもカメラを撮り始めました。

目をやると酒屋だと思われるところに「キリンビール」とかいてあるポスターも貼ってありました。その横にはビール瓶とそれを入れる籠が置いてあります。

家からはテレビの音が聞こえてきます。昔の音というか、独特の音楽が流れてきました。

ここまでくるとさすがに不気味になってきて誰からともなく「引き返そう。」というようになってきました。ところがHは「もう少しだけ進もう。頼むから、もう少しだけ。」といってどんどん進んでいきます。

このころから僕はHに疑問をもつようになりました。これまでHは一言もしゃべってないし、適当に歩き回っているはずなのに「もう少しだけ進もう。」と僕たちに言ったりしたり。あきらかにHは「目的をもって」行動していまいした。ただそれは、今だから考えられることであのときは「なんか怖いな、H。」ぐらいにしか思っていませんでした。

245女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:13:27 ID:o.Sh1KJQ0
Hは右足を引きずって黙々と進んでいきました。

民家からは「東京ブギウギ」が流れてきていました。

Hの動きがある家の前でピタッと止まりました。「H、帰る気なったん?」と女子が聞いてきました。くるっとHが僕たちを見回しました。Hが僕たちを見る目には哀れみが混ざっていました。Iが「なに?ここが幽霊でるとこ?」と勝手に入って行きます。女子も入っていきました。それに続いて僕とHも門をくぐりました。

表札には「篠原」と立て掛けられていました。その家は他の家と違って電気はついていませんでした。

庭から物音がすることに気付いたのは女子の一人でした。勝手に入ってたら怒られるな、と思って出ようとすると、Hが「あっちに行こう。」と言い出しました。「ふざけんなや。」IがHに向かっていいましたが。女子やHはすでに物音のする方向に向かっていて、Iも僕もしぶしぶそこに歩を進めました。

そういえば、人に会うのこれがはじめてかも・・・と思っていましたが、真夜中だしこんなものだろうかと思い、気にしませんでした。

庭を少し歩くと人がいました。「第1村人発見じゃね?」とIが僕にいってきます。あれは幽霊じゃねえだろ、と考えながらHに尋ねました。

Hの顔が異常でした。鼻息はフーフーと荒く、汗が傍目からでも分かるほど流れていました。足が震え始め、次第には歯を鳴らすようになりました。

246女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:14:35 ID:o.Sh1KJQ0
Hの目線に合わせて頭をスライドさせてもそこには後ろ向きにかがんでいる人がいるだけ。かがんでいる人は古い花柄のワンピースを着ていて、肩にかからないほどのパーマをかけていました。この人も昭和みたいだな。というのが第1印象でした。

その女の人は右手を振りかざし、そのまま目の前の地面に手刀よろしく右手を振り落としていました。そして、女の人の向こうにはマンホール4,5個分くらいの穴がぽっかりと開いていました。正直、明かりもついてなかったので、女の人がなにしているのかわかりませんでした。穴にもなにがあるのかさっぱりです。

黙々と作業している女の人を後ろから眺めている6人の男女。

隣の家からは、「りんごかわい〜や〜かわいやり〜ん〜ご〜」とかなんとかと歌っている女の歌手の声。

なんだこれは、と一人で苦笑していると突然女の人の周りが明るくなりました。その後にパシャっというカメラのシャッター音。「ああ、まちがってIがカメラを押しちゃったんだな。」と理解する前に僕の頭のなかは目の前の光景に引き付けられました。

女の人の右手には大振のナタがあり、光りでなぜか赤茶色に反射しました。それよりも息を呑んだのは穴の中の光景でした。

一瞬の光りでも僕の目はそれを認識しました。バラバラの手が、足が、指が、胸が、破れた服が、大きい額縁めがねが、頭皮が、髪の毛が見えました。それもいくつも。真っ赤な斑点が無数にとびちり、真っ赤な臓器のようなものも見えた気がします。女の足元には先ほど切ったであろう体が千切れかけで転がっていました。

247女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:15:49 ID:o.Sh1KJQ0
全身の毛穴が開くような感覚がありました。手が足が震えてきました。唐突にHが門に向かって走りだしました。右足がないとは感じさせないほどはやく、ずり、ずりと。後ろにいたHがいきなり走り出し、僕は顔を後ろに向けました。目線がHに向いていく中、僕の視界は端に女の姿を捉えました。ゆらりと女は立ちあがって体は小刻みに揺れています。

ぎゃああああ。

女子の一人が叫んだのが合図になりました。

女は回転切りをするように体を半回転させました。右手にナタをもって、関係の無い左手も思い切りふり上半身だけをまず回し、次に下半身を動かす歪な動き方で。ナタは叫んだ女子のこめかみを捕らえました。女の動きに合わせて女子の体も動きます。シュトっという子気味よい音と同時に女子の叫びもぷつりと切れました。

ナタと一体となった女子は不自然な格好でその場に突っ伏しました。このときには僕やIや女子は走り出していました。

4人の精一杯の合唱も息ピッタリに重なり合いました。「えぐっ。」と呻き声をだして女子の一人が体は走っているのに頭だけは女に引き寄せられていました。見ると長い髪の毛をわし掴みにされ引っ張られていました。僕は顔を前に戻し、走り続けました。女の子を見殺しにしました。あのときは恐怖が頭のなかを占めていてそれどころではなかったのです。

「やめっ、ああああいいいい!!!」女子が叫び、泣き出しました。叫び声をあげている途中もシュトン、シュトンとナタを振り落とす音が聞こえてきました。

僕とIと女子一人の三人は一気に砂利道を駆けていきました。

248女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:16:42 ID:o.Sh1KJQ0
先頭を走っていた女子が方向を変え、明かりのついている家の戸を叩き「助けてくださいぃ!!」とドンドンと引き戸を叩き始めました。引き戸を開けようとすると、スーーっと戸が開き、力を入れていたため、女子は多少よろけています。それでも玄関に転がっていくようにして入っていきました。僕もその家に入りました。「助けったすっ。」と掠れながらも必死に声を出しました。Iは一瞬足を止め、躊躇っていましたが、別の方向へと走っていきました。

なかの風景も異常でした。オレンジ色の豆電球が上からぶら下がっているだけ。ちゃぶ台には味噌汁や焼き魚、おひたしが並んでいました。テレビはサザエさんの家にあるような大きなテレビで、ふすまや座布団もありました。

でも人がいません。そこから人だけが消えたよでした。僕はそんなこと気にもせず、「誰かっ。誰か。」と声を出し続けました。涙声で鼻水をズルズルとすっていました。僕と女子は顔を見合わせます。「誰もいない・・・。」一体どうなっているのかわかりませんでした。

ガラガラガラガラ・・・

心臓が飛び出るのではないかと思いました。

誰かが戸を開けて入ってきました。Iだろうか?それともこの家の人だろうか?と思っていましたが、女子は顔を強張らせてこっちをみています。あの女だ。

反射的に押入れに手をやりました。押入れの中は新聞紙が敷いてあるだけでした。僕は女子そっちのけでなかに入ります。それに続いて女子も。すっと閉め、息を殺しました。

その直後ぎしぎし・・・と足音が聞こえてきました。脂汗が吹き出てきます。しばらくぎしぎしと音が鳴り。辺りを探していました。よく聞くと「ほほほほほほほっほほほほほほほほほほほほほほほほほ・・・。」と笑っているような声が聞こえました。女の人の金きり声のようでした。ドクドクと心臓が高鳴ります。ふいに、物音がしなくなりました。女の声も聞こえません。無音になりました。僕は女子の顔をみようと顔を上げました。

「そこかぁ。」

249女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:18:38 ID:o.Sh1KJQ0
シュッと戸が開き、向こうから腕が伸びてきました。手は血で赤く染まっていました。その手は女子の首を掴み居間へと引きずり出しました。「いやああああああああああぁぁああ。」と叫ぶ声が聞こえます。

僕は咄嗟に押入れから飛び出しました。彼女を助けるためではありません。今なら逃げ出せる、と思ったからです。

中腰のまま僕は飛び出ました。女は僕に気付き、「あはっ。」と笑い声を出しました。そこで女の顔を僕はのぞいてしまいました。顔色は薄い灰色で返り血や電球のオレンジ色で変な抽象画をみているようでした。唇は不自然な程潤っていて、異常なほど口端を吊り上げていました。目は明らかに焦点があっておらず、半分白目のようでした。口からは「ほほほほほ・・・」と空気の漏れるかのような音をだしています。

女は左手で女子の首を抱え、右手のナタを僕に向かって振り下ろしてきました。

シュト

目の前に芋虫のようなものがくるくると飛んできました。なんだあれは、と目をこらすとそれは指でした。状況が判断できず、それでも逃げようと左手を床についたとき、いつもある左手の小指と薬指がなく、代わりに飛び散った血がありました。

「びゃぁああうううう・・・。」情けない声を出して僕は畳を転げ回りました。全身の毛が逆立ち、耐え難い苦痛が僕を襲いました。心臓が早鐘をうっています。それでも僕は左手を押さえながら、必死に玄関に向かいました。

250女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:20:14 ID:o.Sh1KJQ0
「いやっいやだぁああ!ああああああ!」と必死に叫ぶ声と食器をひっくり返す音を背後に聞きながら僕は玄関を出ました。誰でもいいから助けてください。自分の血が服につき、涙と汗で顔がグシャグシャになっていました。

来た道を必死に思い出し走りました。あああああと叫び声を上げていました。砂利を踏む音がアスファルトに変わっていったのは走り出してしばらくしてからのことでした。

ここから後は記憶が飛んでいて、次に思い出せるのは病院で目をさましたところからです。

あのとき、通りかかった人が血だらけにいなりながら泣き喚いている僕を見つけ、近くの労災病院に運んでくれたらしいです。両親は警察に被害届を出しておらず、(普段でも家に帰ってこないことは日常茶飯事でした。)両親が病院に駆けつけたのは僕が目を覚まして両親の名前と住所を言ってからのことでした。

次第に落ち着いてきた僕は起こったことを医師や両親に話しました。肝試しをしにここに来たこと。歩いていたら、景色が変わっていったこと。ナタを持った女が襲い掛かってきたこと、女子3人が見ているかぎりもう死んでしまったこと。僕がこのことを喋ったことで始めて事件としてみてもらえるようになりました。

しかし、5人のうち、女子3人の遺体は発見されず、行方不明者扱いになってしまいました。Iの行方もいまだに分かりません。おそらく女に見つかってしまったのではないかと思います。

251女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:21:08 ID:o.Sh1KJQ0
しかし、Hだけは、自宅にもどり、今回の事件のことを話さないでいたとのことです。目を覚ましてから2日後、Hが僕の病室を訪れました。

「○野(僕の名前)お前に話しておきたいことがあるんやけど・・・。」Hは第一声にこう切り出した後、「とりあえず、助かってよかった。」といいました。

Hのどの言葉がカンに触ったのかはよく分かりませんが、一気に頭に血が上りました。「おんまえ!なにがよかったじゃボケが!てめえがさそわんけりゃこんなことにならんかじゃこのだぼが!」他にも汚い言葉をHにぶつけたような気がします。Hは黙って聞いていて僕が1通り言い終えると「実は。」と言い出しました。

ここからはHがいったことを簡単にまとめたことを書いていきます。

実はHはあの場所に行くのは2回目だということ。

高校に入る前に地元の先輩に誘われて、社交辞令的な感じでいき、同じように景色が変わり始めたこと。

「篠原」という家に連れて行かれ、同じようにナタを持った女に襲われたこと。

そして先輩の1人が止めようとして腹を切られてしまったこと。

残りの先輩たちと命からがら逃げたこと。

252女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:21:46 ID:o.Sh1KJQ0
そしてこの肝試しを考えた先輩がこういってきたこと。

「あの女からは絶対に生き延びられない。女は自分を知っている奴らの四肢を少しずつあの世界から奪いに来る。そしていつかは手足の無くなった俺の首を落としに来るだろう。」

「ただ、あの女から殺される時間を少しだけ延ばす方法がある。それはあの女の存在を知らない奴にあの女のことを記憶させること。」

「女は自分のことを知っている奴らを無差別に殺して回っている。裏を返せば、あの女の存在を1人でも多くの人間に記憶させれば、自分が四肢をもがれる可能性が少なくなる。」

「俺は前にも同じ目に会ってあの女の存在を知らされてしまった。俺は少しでも死ぬ可能性を低くするため、お前らにあの女を記憶させた。お前らも少しでも生きたかったら、あの女の存在を他の誰かに知らせてくれ。」

253女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:22:34 ID:o.Sh1KJQ0
そしてその4ヶ月後、Hはバイク事故という形で右足をもがれたこと。

事故にあったときその女が視界の端にみえたこと。

そしてあの女が自分の右足を掴んで笑っていたこと。

そのことに恐怖を覚えたHは仲間である俺たちにもあの女の存在を知らせようと思ったこと。

僕はただ唖然としていました。Hは「すまん。」と短くいうと席を立ち静かに去っていきました。外では鶯がないていました。

この話は上でも話したとおり、9年近く前の話です。あのときから僕は今までのことは忘れようと考え、生活してきました。退院してからなんとか学校にはいこうとしたのですが、休みがちになり、結局、中退という形をとりました。

そのあと、通信制の学校に入り直し、弁当屋を手伝いながら、勉強していました。1年前僕は階段から落ち、打ち所が悪かったのか左足を骨折しました。

そして階段から落ちるさなか、階段の上から異常な程に唇をつりあがらせたあの女がいました。入院を余儀なくされた僕は左足にギプスをつけ、通信制の高校の勉強をしていました。

254女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:23:23 ID:o.Sh1KJQ0
入院してから左足が熱を持ち始めて痛みを持ち始めたため、医師に頼んでギプスを外して診てもらうと僕の左足はすねから下が腐っていました。切断を余儀なくされました。あの女に左足を持っていかれた。そう思いました。そして、Hと同じ考えを持つようになりました。誰かにあの女の存在を教えてやろうと。

ここで一番上の「お願い」について話していきたいと思います。

左足と左薬指、中指は僕があの女に「持っていかれた」部位です。やってくださった方はこれで僕がどこを切断したかを確認していただけたと思います。

次に、僕はこの話をできるだけ「細かく」「詳しく」書きました。それは少しでも読者の方々にあのときの描写を想像してもらおうと思ったからです。

つまり、皆さんにもぼくの「あの女についての記憶」を共有してもらい、僕が次に四肢を失う確立を少しでも下げようということです。本当に申し訳ありません。

身の保身のためだけに今回書かせていただきました。

しかし、これを書いていて安心している僕もいます。せめてもということで皆さんのところにあの女がくることが無いように祈っています。

255霊柩車:2020/05/04(月) 03:07:13 ID:I8iUchik0
Kさんという若い女性が、
両親そしておばあちゃんと一緒に住んでいました。

おばあちゃんは
もともとはとても気だてのよい人だったらしいのですが、
数年前から寝たきりになり、
だんだん偏屈になってしまい、
介護をする母親に向かってねちねちと愚痴や嫌味をいうばかりでなく

「あんたたちは私が早く死ねばいいと思っているんだろう」

などと繰り返したりしたため、
愛想がつかされて本当にそう思われるようになりました。


介護は雑になり、
運動も満足にさせて貰えず、
食事の質も落ちたために、
加速度的に身体が弱っていきました。

最後には布団から起き出すどころか、
身体も動かせず口すらもきけず、
ただ布団の中で息をしているだけ
というような状態になりました。

はたから見ていても
命が長くないだろうことは明らかでした。


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