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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

1避難民のマジレスさん:2019/06/18(火) 19:24:25 ID:y0tBAQCMC
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 - なんでも避難所 - したらば
URL:
http://jbbs.m.shitaraba.net/b/i.cgi/study/8276/1530935225/n#last

>>863〜マハリシの対話録の講読会、開催中であります。

156鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/23(金) 22:28:15 ID:1d4drIFg0
ただひたすらに知識を求めることに意味は無いのじゃ。
必要な知識を得たら実践を続けるとよいのじゃ。
実践しないのに知識だけを求めるのは無意味なのじゃ。
実践のために知識はあるのであるからのう。

157避難民のマジレスさん:2019/08/23(金) 23:58:49 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話104

1935年11月28日

デリー出身のインド政府鉄道の役員であるキショーリーラール氏は、飾らない静かな物腰で、威風堂々としている。
胃潰瘍を患っているため、町に宿泊している。
五年前、彼は帰依信仰(バクティ)の文学を研究し始めた。
シュリー・クリシュナの帰依者でもある。
彼はすべてにクリシュナを見、クリシュナはたびたび彼の目の前に現れて至福を与えた。
仕事は彼の努力なしに進んだ。
あたかもすべてはクリシュナ自身によって彼のために為されるかのようだった。

後に、彼はあるマハートマー(偉大な聖者)との接触を得、ヴェーダーンタ哲学を学ぶこととニラーカーラ・ウパーサナ、つまり無形の存在に帰依することを勧められた。
彼はすでに『ウパニシャド』、『アシュターヴァクラ・ギーター』、『アヴァドゥータ・ギーター』、『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』などを含む七百冊の哲学書とヴェーダーンタの本を読んでいた。
彼はまたシュリー・バガヴァーンの英訳本も読んでおり、非常に深い印象を受けていた。

以前、彼が死の瀬戸際にあったとき、人生においてまだシュリー・バガヴァーンを訪れていないという思いだけが唯一彼をとらえた。
こうして彼は短い滞在だがアーシュラマムを訪れたのだった。
彼はただシュリー・バガヴァーンに触れていただき、恩寵を授かることだけを懇願した。

師は『バガヴァッド・ギーター』から引用して言った。

マハルシ
 「私はアートマンである」。
 アートマイヴァーハム・グダーケーシャ。

 真我(アートマン)はグルであり、恩寵でもあります。
 アートマンなしに生きる人はいません。
 人は常に接触しています。
 外的な接触は必要ないのです。

質問者
 理解しています。
 外的な接触を意味しているのではありません。

マハルシ
 真我よりも親しいものはないのです。

質問者
 三ヶ月前にシュリー・クリシュナが私の前に現れ、こう言ったのです。
 「なぜあなたは私にニラーカーラ・ウパーサナ(無形の真理への瞑想)を求めるのか?
  それはただサルヴァ・ブーテーシュ・チャ・アートマナーン・サルヴァ・ブーターニ・チャ・アートマニ(真我はすべてに存在し、すべては真我の中に存在する)ということなのだ」と。

マハルシ
 それは全真理を包括しています。
 しかし、これできえ間接的(アウパチャーリカ)です。

 事実は、「真我以外の何ものも存在しない」ということです。
 世界は心の投影でしかありません。
 心はアートマンから現れます。
 それゆえ、アートマンだけが「唯一の存在」なのです。

質問者
 それでも、それを実現するのは困難なことです。

マハルシ
 実現するようなことなど何もありません。
 それはニティヤ・シュッダ・ブッダ・ムクタ(永遠、純粋、覚醒、解放)です。
 それは自然で永遠のものです。
 新たに得るものなど何もありません。
 その反対に無知を棄て去らなければならない、ただそれだけです。

 この無知の源まで遡らなければなりません。
 誰にとっての無知なのでしょうか?
 何に無知なのでしょうか?
 主体と対象があります。
 そのような二元性は心の特性です。
 そして心はアートマンから生まれるのです。

質問者
 そうです。
 無知はそれ自体では存在できません。

(彼はついに降参するとこう言った。
 「医師が患者のどこが悪いかを見つけ出し、それにしたがって治療をするように、シュリー・バガヴァーンもまた私に同じようにしてください」。
 彼はまた「本の研究やそれから学ぼうとする傾向を完全に失いました」と語った)。



*サルヴァ・ブーテーシュ・チャ・アートマナーン…:『バガヴァッド・ギーター』6-29

ヨーガによって真我を実現した人は、自己を万物の中に見、万物を自己の中に見る。
それゆえ、彼は一切を平等に見ている。

158鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/24(土) 21:34:20 ID:1d4drIFg0
アートマンを実現するというが実際には実現すべきものはないのじゃ。
悟りを得るとか悟りを開くとか言っても実際に得たり開いたりするものはないようにのう。
それらは言葉の性質から仮に説いているだけなのじゃ。
自我も認識も滅した本来の心の状態がアートマンの実現であり、悟りなのじゃ。

159避難民のマジレスさん:2019/08/24(土) 23:50:16 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話105

 イェーナ・アシュルタン・シュルタン・バヴァティ。

 それを知れば、すべての未知なるものは既知となる。
 
  『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』第6巻1章3節

バガヴァーンの従者であるマーダヴァ・スワミが尋ねた。

『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』の中にある偉大な確言「タット・トヴァム・アシ」(汝それなり)の教えには九つの方法があるのでしょうか?

マハルシ
 いいえ、そうではありません。
 方法は一つだけです。
 ウッダーラカはサット・エーヴァ・ソーミャ「ただ存在だけが在る」をシュヴェータケートゥの断食とともに説明しました。
 
 個人の中のサット(存在)は、断食によって明らかになります。
 このサットは異なった花から集められた蜜のように、すべての生きとし生けるものの中に同じように存在しています。

 深い眠りの状態の説明にあったように、各個人の中にあるサットに区別はありません。
 もしそうなら、なぜ一人ひとりが眠りの中でそのことを知らないのでしょうか?

 なぜなら、眠りの中では個としての存在が失われ、ただサットだけが残ったからです。
 川は海の中に失われます。
 もし失われたのなら、そこにサットは在るでしょうか?

 もちろんです。
 木は刈り込まれても再び生長します。
 これが疑いようのない生命のしるしです。
 しかしそれは潜在的な状態でも存在しているのでしょうか?

 そうです。
 塩と水の例をとってみなさい。
 水の中の塩の存在は微量です。
 しかし目には見えなくとも他の感覚でなら認識できます。
 どうやって知るのでしょうか?
 他の方法とは何でしょうか?

 調べることです。
 ガンダーラの森の中をさ迷った人が家路にたどり着いたように。

 進化と退化の中、顕現と崩壊の中に唯一存在するもの、それがサットです。
 テージャハ・パラスヤーン、デーヴァターヤーン「至高なるものの中に融け入る光」

 不誠実な人は炎のテストで火に触れると火傷をします。
 炎によって彼の不誠実さが露わにされるのです。
 誠実さはおのずと明らかなものです。
 真実の人、真我実現した人は、世界、誕生と死などといった偽りの現れの影響を受けずに幸福に生きますが、不誠実で無知な人は不幸なままなのです。


*イェーナ・アシュルタン・シュルタン…:『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』6-1-3

それによって聞かれたことのない教えは聞かれ、熟考されたことのない教えは熟考され、知られたことのない教えは知られる。

*サット・エーヴァ・ソーミャ:『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』6

ただ存在だけが在る。
『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』第6章の中で、聖者ウッダーラカは息子のシュヴェータケートゥに「ただ存在だけが在る」と説く。

*テージャハ・パラスヤーン、デーヴァターヤーン:『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』6-8-4,6、6-2-1

死の瞬間、話す力は心の中に融け入り、心はプラーナ(生気)の中に融け入る。
プラーナはテージャス(光輝)の中に融け入り、テージャスはパラマートマンの中に融け入る。

160鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/25(日) 22:15:59 ID:1d4drIFg0
方法は常に一つなのじゃ。
自らを追求することなのじゃ。
心の中にある自分という観念を追及して明らかになる時全ても明らかになるのじゃ。
全ての法の違いはそれを別のやり方で行うだけなのじゃ。

161避難民のマジレスさん:2019/08/26(月) 00:09:37 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話106

1935年11月29日

スワミ・ヨーガーナンダ(パラマハンサ・ヨガナンダ)と数人の同行者が八時四十五分に到着した。
彼は大柄ながら落ち着きがあり、清楚な身なりをしていた。
彼の長い黒髪は肩まで被っていた。
一行はアーシュラマムで昼食を取った。

秘書のC・R・ライト氏が尋ねた。

「どうすれば神を実現できるでしょうか?」

マハルシ
 神は未知なる実体です。
 さらに彼はあなたの外側に存在しています。
 一方、真我は常にあなたとともに在り、それはあなたなのです。
 なぜ自分に親しいものから立ち去って、外側へと向かうのでしょうか?

質問者
 この真我とは何でしょうか?

マハルシ
 誰もが真我を知っています。
 しかし明確には知られていません。
 あなたは常に存在しています。
 その「在ること」が真我なのです。
 「私は在る」(I AM)が神の名前です。
 神を定義した言葉の中で、『旧約聖書』の出エジプト記第三章第十四節にある「私は私で在るものである」(I AM THAT I AM)ほどふさわしい言葉はありません。
 他にも「ブラフマイヴァーハム」(ブラフマンは私である)、「アハン・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)、「ソーハム」(私は彼である)という確言があります。
 しかし「私は在る」(I AM)を意味するエホヴァという名前ほど直接的に表現したものはないでしょう。
 絶対的存在とは、「在るもの」です。
 それが真我であり、神なのです。
 真我を知れば神を知ります。
 実際、神は真我以外の何ものでもないのです。

質問者
 なぜ善と悪が存在するのでしょうか?

マハルシ
 それらは相対的な言葉です。
 そこには善と悪を見分ける主体が存在しているはずです。
 その主体が自我です。
 自我の源を探究しなさい。
 そうすれば、それは真我の中で消滅します。
 自我の源は神です。
 この神の定義のほうが具体的で、あなたにとってより理解しやすいでしょう。

質問者
 おっしゃるとおりです。
 ではどうすれば至福を得ることができるのでしょう?

マハルシ
 至福とは獲得するようなものではありません。
 その反対に、あなたは常に至福なのです。
 欲望は、不完全であるという感覚から起こるものです。
 この不完全という感覚は誰にとって起こるのでしょうか?
 調べなさい。
 深い眠りの中で、あなたは至福に満ちていました。
 今のあなたはそうではありません。
 深い眠りの至福と目覚めにおける至福のない状態の間を、いったい何が遮っているのでしょうか?
 それは自我です。
 その源を探し出し、あなたが至福であることを見いだしなさい。

 新しく得るものなど何もありません。
 その反対に、「自分は至福ではない」とあなたに考えさせる無知を取り除かなければならないのです。
 誰にとってこの無知はあるのでしょうか?
 それは自我にとってです。
 自我の源をたどりなさい。
 そうすれば自我は消え去り、ただ至福だけが残るでしょう。
 それは永遠なるものです。
 今ここで、あなたは「それ」なのです。
 それがすべての疑いを解く鍵です。
 疑いは心の中に起こります。
 心は自我から生まれ、自我は真我から立ち現れます。
 自我の源を探し出しなさい。
 そうすれば真我は顕わになり、ただ「それ」だけが残るのです。
 宇宙とは自我が拡張したものにすぎず、それは真我と異なったものではありません。

162避難民のマジレスさん:2019/08/26(月) 00:14:52 ID:et2usUsg0
質問者
 最善の生き方とは何でしょうか?

マハルシ
 それはその人がジニャーニであるかアジニャーニであるかによって異なります。
 ジニャーニは何一つ真我と異なったもの、あるいは分離したものと見ません。
 すべてが真我の中に在るのです。

 世界が存在し、その中に身体があり、その身体の中にあなたが存在していると想像するのは間違いです。
 もしも真理が知られたなら、宇宙もその彼方に在るものも、ただ真我の中に存在するだけだということがわかるでしょう。
 視野はその人の見解にしたがって異なるものです。
 視野は目を通して得られます。
 目はどこかに位置しているはずです。
 もしあなたが粗大な目で見るなら、他の物事は粗大に見えるでしょう。
 もし精妙な目(心の目)で見るなら、他の物事も精妙に見えるでしょう。
 もしも目が真我となるなら、真我は無限であるため、その目も無限なものとなります。
 そうすれば、真我と異なるものを見ることなどなくなるのです。

彼はマハルシに感謝の意を表した。

マハルシは「感謝を表す最善の方法は、常に真我としてとどまることです」と答えた。


*「私は私で在るものである」…:I AM THAT I AM

神がモーゼに告げた名前 I AM THAT I AM は、これまで日本の神学者や旧約聖書研究者によって、「私は『私は在る』という者だ」「私は在るものである」「わたしは有って有る者」「私は私で在るものである」などの表現で解釈されてきた。
エヘイェ・アシェル・エヘイェ(I AM THAT I AM)というへブライ語を文字通り訳せば、「私は私として在る」 I am as I am または 「私は私で在る」Iam what I am となるだろう。

神の名前、Jehovah(エホヴァ)つまり「私は在る」I AM は、同じ語根から派生した2つの言葉の組み合わせであり、1つは「存在」、もう1つは 「現在」を意味している。
別の言葉で言えば「私は今存在している」となり、これが英語で I AM と表されたのである。
聖書の別の箇所で、神はこのような表現もしている。
「私は在った。私は在る。私は在るだろう。ただ私だけが存在する」

これらの言葉は神が名称も形態も超越した、言葉では表現できない「存在」であることを示している。
それゆえ、ユダヤ教徒はけっして神の名を口にせず、神を偶像(イメージ)として表現することを禁じてきた。

163鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/26(月) 20:39:40 ID:1d4drIFg0
神とは全てを創造した主体であり、在るものすべてだとしたらアートマン以外に無いのじゃ。
宇宙の全ても今ここでアートマンによって創造され、在るものとして在るのじゃ。
世界があって人があり、アートマンがあるのではないのじゃ。
すべてはアートマンとして在るのみなのじや。

164避難民のマジレスさん:2019/08/26(月) 23:46:03 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話107

後にスワミ・ヨーガーナンダが尋ねた。

「どうすれば人々の精神性を向上させられるでしょうか?
 どのような指導を与えるべきでしょうか?」

マハルシ
 それらは個人の気質と彼らの心の霊的成熟度にしたがって異なります。
 全般的な教えというものはありえないのです。

質問者
 なぜ神はこの世に苦しみをあらしめているのでしょうか?
 神は全能の力でたちどころに苦しみを取り除き、宇宙全体に神の実現を命ずるべきではないでしょうか?

マハルシ
 苦しみは神を実現するための手段なのです。

質問者
 別の方法を定めるべきではありませんか?

マハルシ
 それが神のやり方なのです。

質問者
 ヨーガや宗教は苦しみに対する解毒剤なのでしょうか?

マハルシ
 それらは苦しみを克服する助けとなります。

質問者
 なぜ苦しみがあるのでしょう?

マハルシ
 誰が苦しむのですか?
 苦しみとは何でしょうか?

答えはなかった。
ヨーギーはついに立ち上がると、「私の仕事のために祝福をお与えください」とシュリー・バガヴァーンに祈り、「性急に去ることを遺憾に思います」と告げた。
彼はとても誠実で、献身的であり、感情に訴える人だった。


*Ramana Maharshi Rare video - Ramana Maharshi, Swami Yogananda & Paul Brunton

https://www.youtube.com/watch?v=DBRzHQzpdyk

165鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/27(火) 21:16:52 ID:1d4drIFg0
苦があれば人は苦を克服しようとして悟りもめざすのじゃ。
苦がなければ悟りを目指すものも少ないじゃろう。
老病死の苦を克服できるのは悟りを得るしかないのじゃ。
苦の主体が観られれば厭離が起きて苦もなくなるのじゃ。

166避難民のマジレスさん:2019/08/28(水) 00:00:16 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話108(対話105の統き)

質問者
 ウッダーラカは、(深い眠りの説明のように)すべてがサット(存在)から現れ出すと説明しました。

 身体は食物を取り、食物は水を必要とします。
 食物を消化するために、水は火を必要とします。

 『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』によると、「光の輝きの源を探ること」(テージョー・ムーラマンヴィッチャ)、それが「存在の中に融け入ること」(サット・パラスヤーン・デーヴァターヤーン)です。
 もし私たちが「存在の中に融け入った」(サット・サンパンナハ)のなら、なぜ私たちはそれを悟らないのでしょう?

マハルシ
 異なった花々から集められた蜜がハチの巣の中で塊となるように、そしてその一滴一滴がどこから集められたのかわからないように、深い眠りや死におけるサット・サンパンナハでも、人々は自分の個としての存在を認識しません。
 彼らは気づかぬうちにその状態に陥り、目を覚ましたときに以前の彼らの個人的特性を取り戻すのです。

質問者
 たとえ異なった花々から集められた蜜でも、一塊となれば一滴一滴の特質を失ってしまいますが、蜜にはもともと個的な部分は存在しませんし、その源に戻ることはありません。
 一方、深い眠りに入った後で目覚めた個人は、以前と同じ個人として目覚めます。
 どうしてでしょう?

マハルシ
 ちょうど海に流れ入った川がその個としての存在を失い、蒸発して雨水となって丘に降り注ぎ、やがて川となって海へと流れ着くように、眠りに就いた個人もその個としての存在を失いますが、過去の心の潜在的傾向(ヴァーサナー)によって、目覚めの世界にまた個人として戻ってきます。
 このように死においてさえ存在(サット)は失われないのです。

質問者
 どうしてそのようなことがありえるでしょう?

マハルシ
 見てごらんなさい。
 木は枝を切られても再び生えてきます。
 生命の源が影響を受けないかぎり、それは生長し続けます。
 同様に、死においてハートの中に沈み込んだ過去世の潜在的印象(サンスカーラ)も死に絶えることはありません。
 それは機が熟せばハートから芽生え始めます。
 ジーヴァはこうして生まれ変わるのです。

質問者
 ハートの中に沈み込んだ微細なサンスカーラから、どうしてこの広大な宇宙が芽生えると言うのでしょうか?

マハルシ
 バンヤンの大木が小さな種子から芽生えたように、名称と形態をともなうこの広大な宇宙もハートから芽生えるのです。

質問者
 もしその起源がサットであるなら、どうしてそれを感じられないのでしょう?

マハルシ
 塩の山は目に見えても、水に溶けてしまえば見えなくなります。
 それでもその存在は味によって知られるのです。
 同様にサットは知性によって認識されなくとも、異なった方法、つまり超越的な方法で実現されるのです。

質問者
 どのようにでしょうか?

マハルシ
 密林で強盗に目隠しをされて置き去りにされた人が、道を尋ねて家に帰り着くように、無知で盲目になった人も、目の開いた人に尋ね、自己の源にたどり着くのです。

 グルーパデーシャ(師の教え)──

 ヴァーング・マナシ・サンパディヤテー、マナハ・プラーネー、
 プラーナステージャシ、テージャハ・パラスヤーン・デーヴァターヤーン・イティ。

 死の瞬間、話す力は心の中に融け入り、心はプラーナ(生気)の中に融け入る。
 プラーナはテージャス(光輝)の中に融け入り、テージャスはパラマートマン(至高の真我)の中に融け入る。

  『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』第6巻8章6節

質問者
 もしそうなら、ジニャーニもアジニャーニも同じように死ぬはずです。
 なぜアジニャーニは転生し、ジニャーニはそうならないのでしょうか?

マハルシ
 サッティヤービサンダ、つまり無罪の人は罪人とは違い、熱せられた鉄球に触れても焼かれないように、サッドブラフマ・サッティヤービサンダ、つまりジニャーニはサット(存在、真理)の中に意識的に融け入りますが、他の人は気づかぬうちにサットの中に入り、気づかぬうちに放り出されるのです。

167鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/28(水) 22:01:39 ID:1d4drIFg0
人が眠っても起きて自分と認識するのは記憶が在るからなのじゃ。
記憶に拠って自己同一化しているのじゃ。
それが阿頼耶識の働きなのじゃ。
それが無くなれば自我もなくなるのじゃ。

168避難民のマジレスさん:2019/08/28(水) 23:44:07 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話109

1935年12月13日

パンジャブ州のアンバラから来た二人の紳士が、数週間ここに滞在していた。
シュリー・バガヴァーンにいとまごいをする直前に、そのうちの一人が尋ねた。

「どうすれば私の友人や一般の人々の精神的な怠情を取り除くことができるでしょうか?」

マハルシ
 あなたは自分自身の怠惰を取り除いたのですか?
 あなたの中であなたの怠惰を取り除こうと働きかけているその力が、他者にも働きかけるでしょう。
 あなたが他者に働きかけることのできる意思の力というものは存在しています。
 しかしそれは低い次元であり、望ましいものではありません。
 まずあなた自身の面倒を見なさい。

質問者
 どうすれば私自身の怠惰を取り除けるでしょうか?

マハルシ
 誰の「怠惰」なのですか?
 調べなさい。
 内側に向かいなさい。
 あなたのすべての探究を真我に向けなさい。
 あなたの内に働く力が他者にも働きかけるでしょう。

169鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/29(木) 22:25:23 ID:1d4drIFg0
マハリシの説くことは常に自らの心を探求することなのじゃ。
どのような質問にもそれが現われるのじゃ。
他人のことではなく自分の心に常に引き戻すのじゃ。
全ての問題と苦はそこにしかないからなのじゃ。

170避難民のマジレスさん:2019/08/30(金) 01:03:32 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話110

1935年12月14日

アメリカ人女性がバガヴァーンに、彼のサマーディの体験はどのようなものかと尋ねた。
バガヴァーンは彼女に、まず彼女自身の体験を語り、それが正しいものかどうか尋ねるべきだと提案した。
彼女はバガヴァーンの体験こそが正しいもので、知られる価値があり、彼女自身の体験は重要ではないと答えた。
そして彼女はシュリー・バガヴァーンの身体がサマーディの中で熱く感じたか冷たく感じたか、彼がティルヴァンナーマライに到着してから最初の三年半の間に、神への祈りを捧げたかどうかといったことを知りたがった。

マハルシ
 サマーディは心や言葉を超越しているため、描写することはできません。
 深い眠りが描写不可能なように、サマーディの状態はそれ以上に説明できないものなのです。

質問者
 しかし私は深い眠りの中で無意識だったことを知っています。

マハルシ
 意識や無意識は心の様態でしかありません。
 サマーディは心を超越しているのです。

質問者
 それでも、どのようなものかは言えるはずです。

マハルシ
 あなたがサマーディの中にいるときだけ、それを知るでしょう。

171鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/30(金) 22:56:34 ID:1d4drIFg0
既に言葉を超えたサマーディを言葉で描写することはできないのじゃ。
言葉にすれば嘘になるからのう。
そこに光があったとかいえば、他の者も自己暗示で光を感じてサマーディになったとか思うのじゃ。
否定でしか表せないものには自ら到達するしかないのじゃ。

172避難民のマジレスさん:2019/08/30(金) 23:53:31 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話111

1935年12月16日

アーンドラ・プラデーシュ州から来た紳士がブラフマ・バーヴァナについて尋ねた。

マハルシ
 「私はブラフマンである」や「すべてはブラフマンである」などと考えないこと自体がジーヴァン・ムクティ(解脱)です。

彼は啓示を受けた行為について尋ねた。

マハルシ
 行為が起こるにまかせなさい。
 それは純粋な真我に影響を及ぼさないのです。


*ブラフマ・バーヴァナ

ブラフマンを理解し、感じ取ること。

173鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/31(土) 23:00:52 ID:1d4drIFg0
もはやブラフマンに達したならば、ブラフマンに関する思考は無いのじゃ。
それもまた修行者を導くための法と知るからなのじゃ。
ブラフマンに達したならば全ての行為もなくなるのじゃ。
行為をする者も行為も行為の対象もないからなのじゃ。
それが無為なのじゃ。

174避難民のマジレスさん:2019/08/31(土) 23:53:28 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話112

1935年12月17日

ポール・ブラントン氏は『ウパデーシャ・マンジャリー』(霊的な教え)を読んでいて、自我、世界、神はすべて非実在であるという表現に出くわした。
彼は「神」に違った言葉を使うか、少なくとも限定形容詞、例えば「創造力」、あるいは「人格神」を使うことを望んでいた。

シュリー・バガヴァーンは、神はサマシュティ、つまり全体性に「存在」(Be-ing)を加えたもの、同じように、「私」は個人プラス「存在」、世界とは多様性プラス「存在」なのだと説明した。

マハルシ
 「存在」はどの場合においても実在です。
 万象、多様性、個人は非実在です。
 それゆえ、実在と非実在の統合、混同、偽りの同一化もまた誤りなのです。
 それはサッド・アサッドヴィラクシャナ、つまり実在と非実在(サットとアサット)を超越することです。
 実在は神を含めたすべての概念を超越するものです。
 「神」という名称が使われているかぎり、それは真実ではありえません。
 ヘブライ語のエホヴァ=「私は在る」(I AM)という表現は神を的確に表しています。
 絶対なる存在は描写を超えているのです。


「神」という言葉を置き換えることはできないし、またそうする必要もないのだ。
ブラントン氏は何気なく、
「先史時代には霊性はありましたが、高い知性はありませんでした。
 しかし現代では知性が発達しています」と言った。

シュリー・バガヴァーンはその知性が「誰の知性なのか?」という質問を起こしたのだと指摘した。

マハルシ
 その答えは「真我」です。
 それゆえ、知性は真我の道具なのです。
 真我はさまざまなものを比較評価すために知性を使います。
 知性は真我ではありませんが、真我から離れてもいません。
 真我だけが永遠であり、知性は現象にすぎないのです。
 人々は多様性の発達を知性の発達として語ります。
 知性は常に存在していました。

 ダーター・ヤター・プールヴァン・アカルパヤト。
 
 創造者は以前と同じように創造した。

  『リグ・ヴェーダ』第10巻190章3節

 あなた自身の状態について日々考えなさい。
 夢のない深い眠りの中に知性はありません。
 しかし今はそれがあります。
 子供の中に知性はありません。
 それは年齢とともに発達するのです。
 眠りの状態や子供の中に知性が種子として存在していなかったのなら、どうして現れることができたのでしょうか?
 この基本的事実を理解するために歴史を振り返る必要はありません。
 歴史における真理は個人における真理と同レベルのものなのです。


*『ウパデーシャ・マンジャリー』(霊的な教え)

最も初期の帰依者の一人、ナターナーナンダが書きとめたバガヴァーンと帰依者との対話の記録。

175鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/01(日) 21:31:59 ID:1d4drIFg0
全てを含んだものとして神もありえるのじゃ。
人格があったり特定の観念や宗教に結びついた神はありえないのじゃ。
それは観念であるからのう。
観念を超えた存在としての神をマハリシは説くのじゃ。

176避難民のマジレスさん:2019/09/01(日) 23:47:59 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話113

アーンドラ・プラデーシュ州から来た紳士がカルマ・ヨーガについて尋ねた。

マハルシ
 人は舞台の上の役者のように演じるべきです。
 すべての活動の中にはサット(真理)が基本原理として存在しています。
 それを心にとどめながら行為しなさい。


紳士は心の純粋性(チッタ・シュッディ)について尋ねた。

マハルシ
 チッタ・シュッディとは他のすべての想念を除いてただ一つの想念だけに集中することです。
 別の言葉では、「一意専心」(一点に集中された心)と呼ばれます。
 瞑想は心を清らかにするのです。

177鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/02(月) 21:56:55 ID:1d4drIFg0
集中によって雑念が退き、観察も強くなるのじゃ。
集中が無ければ観察も弱いのじゃ。
どこまでも自分を追求して行くには集中力も必要なのじゃ。
雑念の無い心が清らかな心なのじゃ。

178避難民のマジレスさん:2019/09/02(月) 23:48:21 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話114

1935年12月23日

東ドイツのフォン・ヴェルトハイム男爵が尋ねた。

「真我の知識と世間の知識との間には調和があるべきです。
 それらはともに発達すべきです。
 そうではありませんか?
 マハルシは同意されますか?」

マハルシ
 同意します。

質問者
 知性を超えた後、そして叡知が現れる前、そこには意識の前に世界の画像が現れます。
 そうではありませんか?


シュリー・バガヴァーンは、『ダクシナームールティ・ストートラム』の中にあるそれに相応する句を示して、
「画像は鏡の中の反映のようなものだ」と語った。

そして『ウパニシャド』からも引用した。

「鏡の中がそうであるように、祖先の霊(メイニーズ)の世界の中もそうである。
 水の中がそうであるように、ガンダルヴァの世界の中もそうである。
 あたかもブラフマ・ローカの中の光と影のように」

質問者
 霊的な目覚めが一九三〇年以来世界中で起こっています。
 マハルシはこれに同意されますか?

マハルシ
 その発展はあなたの見解によるものです。

質問者
 マハルシは私に霊的超越状態をもたらし、語ることはできなくとも理解することのできるメッセージを与えてくださいますか?


答えはなかった。


*『ダクシナームールティ・ストートラム』の中にあるそれに相応する句…

夢のごときマーヤーによって、外側にある街が鏡の中に映し出されるように、霊的目覚めとともに、自分自身の内側にある宇宙を自己の真我として見る彼。
原初のグル、ダクシナームールティに讃えあれ。

179鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/03(火) 23:24:10 ID:1d4drIFg0
世界は心によって創られているのであるから心が無ければ何も現われないのじゃ。
全ての者が同時に目覚めることもありえないのじゃ。
自らの努力が無ければならないからのう。
自己という迷信が無ければすべては正しく在るのじゃ。

180避難民のマジレスさん:2019/09/03(火) 23:57:46 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話115

1935年12月25日

M・フリードマン氏
 以前から望んでいたわけでもないのに、奇妙な体験をすることがあります。
 それはどこから現れるのでしょうか?

マハルシ
 その願望は今のものではないかもしれません。
 もし以前にあったのであれば、それで十分です。
 現在のあなたには忘れられているものであっても、やがて機が熟せば実を結びます。
 それがジニャーニにはプラーラブダが残っていると言われる所以なのです。
 もちろん、これは他者(アジニャーニ)の視点にしたがったものでしかありません。

181鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/04(水) 23:02:31 ID:1d4drIFg0
プラーラブダとはカルマの一つで前世からの報いをこの世で受けさせる作用が在るのじゃ。
それは悟った後にも起こるというのじゃ。
悟った者にも寿命や智慧の違いがあるのはそのせいだというのじゃ。
自分が望んだわけでもないのにいろいろな体験をするのもそのせいだとマハリシはいうのじゃ。

182避難民のマジレスさん:2019/09/05(木) 00:00:34 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話116

質問者
 ジーヴァはカルマによって束縛されていると言われています。
 そうなのでしょうか?

マハルシ
 カルマにその結実を楽しませなさい。
 あなたが行為者であるかぎり、あなたはまた楽しむ者でもあるのです。

質問者
 カルマから解放されるにはどうすればいいのでしょうか?

マハルシ
 そのカルマが誰のものなのかを見いだしなさい。
 あなたは自分が行為者ではないことを見いだすでしょう。
 そのとき、あなたは自由になるのです。
 それには神の恩寵が必要です。
 そのためには、神に祈りを捧げ、礼拝し、瞑想しなければなりません。

 努力なしに、つまり意図せずに起こる行為は束縛とはならないのです。

 ジニャーニでさえ彼の身体の動きから、行為をしていると見られています。
 努力や意図(サンカルパ)なしにカルマはありえません。
 それゆえ、すべての人にとってサンカルパが存在します。
 それらには二種類あります。
 束縛するもの(バンダ・へートゥ)と束縛しないもの(ムクティ・ヘートゥ)です。
 前者は放棄されるべきものであり、後者は培われるべきものです。
 以前のカルマなしに結実(業果)はありえず、以前のサンカルパなしにはカルマもありえません。
 行為者という感覚が続いているかぎり、解脱(ムクティ)でさえ努力の結果なのです。

183鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/05(木) 21:43:39 ID:1d4drIFg0
悟ったものでさえ学びに努めることで知識も増えるのじゃ。
学ぶという行為によって知識が増えるという結果が生まれるのじゃ。
行為無しに結果だけが生まれることは無いのじゃ。
実践にょって人は進歩して行くのじゃ。

184避難民のマジレスさん:2019/09/06(金) 00:34:14 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話117

スリランカから来た人が尋ねた。

「真我実現のための第一段階とは何でしょうか?
 その第一歩を踏み出せるように、どうか私をお助けください。
 本を読むことは助けにならないのです」

別の人
 この方一人の願いはみなの願いです。

マハルシ
 まったくそのとおりです。
 もし真我が本の中に見いだせるなら、すでに実現されていたはずです。
 本の中に真我を見いだそうとすることほど奇妙なことはないでしょう。
 そこにそれを見つけられるでしょうか?

 もちろん、本は読者にこの質問を尋ねさせ、真我を探究させたのですが。

質問者
 本はまったく役に立ちません。
 すべて焼かれたほうがいいのです。
 語られた言葉と恩寵だけが役に立つのです。

他の者たちはそれぞれの理解の光にしたがって語り、最終的に初めの質問に戻った。
しかしシュリー・バガヴァーンは沈黙を保っていた。

185鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/06(金) 22:54:11 ID:1d4drIFg0
本の中にアートマンを求めることは出来ない。
それならばどこに、どのようにしてアートマンを求めるべきじゃろうか?
それは話し合うことではなく、自らの心の中に沈黙して求めるべきなのじゃ。
余計な観念が無くなればアートマンも自ずから実現するのじゃ。

186避難民のマジレスさん:2019/09/07(土) 00:10:40 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話118

アーンドラ・プラデーシュ州のヴールヒース大学の学者であるランガチャーリー氏がニシュカーマ・カルマについて尋ねた。
しかし何の答えも得られなかった。
しばらくして、シュリー・バガヴァーンはランガチャーリー氏を含めた数人の同行者とともに丘を登った。
道の上に棘だらけの枝が落ちていて、バガヴァーンはそれを拾いあげた。
その場に座ると、彼はゆったりとした気分でそれに手を加え始めた。
棘は切り取られ、こぶは滑らかにされ、枝全体が粗い葉で磨かれた。
その全工程はおよそ六時間かかった。
元は棘だらけの素材だったその枝から、思いもかけないような美しい仕上がりの杖が生まれたことに誰もが驚嘆した。

一行が歩き始めてまもなく、一人の羊飼いの少年が姿を現した。
彼は杖をなくして途方に暮れていたのだ。
シュリー・バガヴァーンは即座に手に持っていた新しい杖を少年に渡すと、また歩き続けた。

ランガチャーリー氏は、「これが私の質問への実地の答えなのです」と語った。


*ニシュカーマ・カルマ

意図、動機、私心のない行為。

187鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/07(土) 22:40:41 ID:1d4drIFg0
無我であれば結果を期待せずに行為も出来るのじゃ。
結果にも執着しないのじゃ。
マハリシはそれを実践によって示したのじゃ。
無為によって為したのじゃ。

188避難民のマジレスさん:2019/09/08(日) 00:30:36 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話119

同じとき、アーシュラマムには四匹の犬がいた。

シュリー・バガヴァーンは、
「これらの犬は私が食べないかぎり、どんな食べ物も受け入れません」と語った。

ランガチャーリー氏は実際にそれを試みようと食べ物を犬の前にまき散らしてみたが、犬たちは触れようともしなかった。
しばらくして、シュリー・バガヴァーンはその一切れを自分の口の中に入れた。
すると、とたんに犬たちは食べ物に飛びついたのだった。

189鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/08(日) 21:51:14 ID:1d4drIFg0
犬にも信頼すべき者がわかるのじゃ。
害意を捨て去った者を信頼することで安心が在るのじゃ。
決して裏切られないと知る故に命も預けられるのじゃ。
それが自らの利益になると知っているからなのじゃ。

190避難民のマジレスさん:2019/09/09(月) 00:05:47 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話120

ある人が目隠しをした二羽の孔雀を連れて来た。
マハルシの前で目隠しをはずしたとたん、遠くへ飛び去ってしまった。
それらは連れ戻されたが、また飛び去ってしまった。
シュリー・バガヴァーンは言った。

「ここにとどめようとするのは無駄なことです。
 それらはこの四匹の犬のように心が成熟していないからです」。

いかに彼らが孔雀をそこにとどめようとしても、一分ももたなかった。

191鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/09(月) 22:28:34 ID:1d4drIFg0
信頼が無ければ動物も逃げるのじゃ。
恐れがあるばかりであるから逃げようとするのじゃ。
鳥などは人を信頼するほど心が成熟していなかったのじゃ。
それもまた生まれつきの報いによるものなのじゃ。

192避難民のマジレスさん:2019/09/09(月) 23:46:44 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話121

これは以前に師と二人のイスラム教徒との間で交わされた対話である。

質問者
 神には形がありますか?

マハルシ
 そう問うのは誰でしょうか?

質問者
 もし神に形がないなら、偶像崇拝は正しいのでしょうか?

マハルシ
 神のことは放っておきなさい。
 なぜなら、それは未知の存在だからです。
 あなたはどうなのですか?
 あなたには形がありますか?

質問者
 はい。
 私にはこの身体があります。

マハルシ
 それでは、あなたには手足があり、身長は百七十センチほどで、髭をはやしているなどということですね?

質問者
 そのとおりです。

マハルシ
 では深い眠りの中でも、あなたはそのような姿をしていますか?

質問者
 目が覚めた後、私は自分が眠っていたことに気づくのです。
 これから推測すれば、私は深い眠りの中でもそのような身体だったということになります。

マハルシ
 もしあなたが身体なら、なぜ死後、死体は埋められるのでしょうか?
 身体は埋葬されるのを拒むはずです。

質問者
 いいえ。
 私は粗大な身体の中に宿る精妙なジーヴァです。

マハルシ
 それゆえ、あなたは本当は無形なのです。
 しかし今のあなたは自分を身体と同一視しています。
 あなたに形があるかぎり、なぜ無形の神を形あるものとして礼拝してはいけないのですか?

質問者はまごつき、困惑した。

193鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/10(火) 22:54:48 ID:1d4drIFg0
イスラム教徒は神であるアッラーを形ある者として崇拝してはいかんのじゃ。
偶像崇拝を禁止しているのじゃ。
しかし人は自らを形ある者として認識しているのじゃ。
マハリシは自らを形ある者として認識していながら、形の無い者として神を礼拝するのはおかしいというのじゃ。

194避難民のマジレスさん:2019/09/10(火) 23:56:49 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話122

1936年1月1日

クリスマスに大勢の人がここに集まった。

質問者
 どうすれば統一意識に達することができるでしょうか?

マハルシ
 統一意識として在りながら、どうやってそれに達すると言うのでしょう?
 あなたの質問自体がその答えなのです。

質問者
 アートマン(真我)、アナートマン(無我)、パラマートマン(至高の真我)とは何なのでしょうか?

マハルシ
 アートマンとはジーヴァートマン(個的真我)であり、その他は明白です。

 真我は永遠に存在しています。
 誰もが真我を知りたいと望んでいます。
 自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だと言うのでしょう?
 人々は何か新しいものとして真我を見たいと願っています。
 しかし真我は永遠不変に存在し続けるのです。
 彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいます。
 どうしてそうありえるでしょう?
 真我は光ではなく、暗闇でもありません。
 それはただあるがままに在るのです。
 それを定義することはできません。
 最もふさわしい定義は、「私は私で在るものである」(I AM THAT I AM)です。
 聖典は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大なもの、最微小より微小なものなどと記しています。
 それらには何の事実的根拠もありません。
 それはただ「存在」なのです。
 しかし実在や非実在とは異なります。
 それは「知識」です。
 しかし知識や無知とは異なります。
 いったいどうやってそれを定義できると言うのでしょよう?
 それはただ「存在」なのです。

シュリー・バガヴァーンはターユマーナヴァルの全文学作品から次の節を取り上げた。

「自我は消え去り、別の『私ー私』が自ら光輝に満ちた姿を現す」

次に彼は『スカンダール・アヌブーティ』から引用した。

「実在でも非実在でもなく、闇でも光でもない。それは在る」

ある人が言った。

「クンバコーナムのシッダ(超自然能力者)が、超越主義だけで日常生活を扱わないシャンカラの欠点だらけの哲学体系を論破したと宣言しました。
 人は普段の生活において超人的能力を訓練するべきだ、つまり完全な存在となるためにはシッダとならなければならない、と彼は言うのです」

シュリー・バガヴァーンはターユマーナヴァルの作品で、シッディ(超自然能力)を完全に批判している詩節を引用した。

彼はさらに、
「ターユマーナヴァルは数えきれないほどマウナ(沈黙)について述べていますが、それを定義しているのはたった一つの詩だけです。
 マウナとは自我が消滅した後に自然と顕わになる状態です。
 その境地は光と闇を超えながら、それでもそれは光と呼ばれています。
 それ以外にふさわしい言葉が見つからないからです」と語った。


*ターユマーナヴァルは数えきれないほどマウナについて…『パヤップリ』14

自分自身を独立した実体とみなしていた「私」が恥じ入って頭をたれたとき、完全なる唯一無二の源は、私のハートを満たし、比類なき至福、全意識を包み込む慌惚境を与え、沈黙(マウナ)によって私を抱きしめた。
これ以上いったい何が言えよう?

195鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/11(水) 23:11:47 ID:1d4drIFg0
当初から意識である者が更に意識になることはできないのじゃ。
ただそれであるだけなのじゃ。
観念である自我が自分であると認識しているからそれがわからないのじゃ。
観念の自我が自分ではないと気付けばそれは厭離されてアートマンも実現するのじゃ。

196避難民のマジレスさん:2019/09/11(水) 23:51:24 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話123

1936年1月3日

イスラム教徒でアラハバード大学のウルドゥ語とペルシャ語の教授であるモハンマド・ハフィズ・セイェド博士が尋ねた。

「外的な顕現(世界の現れ)の目的とは何なのでしょうか?」

マハルシ
 この顕現があなたの質問を引き起こしたのです。

質問者
 おっしゃるとおりです。
 私はマーヤーに覆われています。
 どうすればそれから自由になれるでしょうか?

マハルシ
 誰がマーヤーに覆われ、誰が自由になりたいのでしょうか?

質問者
 師よ、「誰か?」と問われれば、それが感覚、心、身体から成る無知な「私」であるということは私も知っています。
 ポール・ブラントンの本を読んだ後、私は「私は誰か?」を試みてみました。
 三度ほど私の心は高揚し、その高揚はしばらく続いた後で消え去ってしまいました。
 どうすれば「私」の中に確立されるのでしょうか?
 どうぞ何か手がかりを与えて助けてください。

マハルシ
 新たに現れたものも、時が来れば消え去ってゆくのです。

質問者
 永遠の真理に達する方法を教えてください。

マハルシ
 あなたは「それ」なのです。
 真我から離れて在ることができるでしょうか?
 自分自身で在ることに努力は必要ありません。
 なぜなら、あなたは常に「それ」だからです。

197鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/12(木) 22:43:32 ID:1d4drIFg0
誰も永遠の意識であることから、更に何かになることは出来ないのじゃ。
自我を滅却してそれに気付く事が出来るだけなのじゃ。
私は誰かであるという幻想から目覚めればアートマンも実現するのじゃ。
努力よりも無努力によって到達するのじゃ。

198避難民のマジレスさん:2019/09/12(木) 23:29:55 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話124

もう一人の気短かな質問者が念入りな長い前置きの後で、子供の死はなぜ起こるのかと尋ねた。
彼は大人たちではなく、犠牲者である幼児が納得できる答えを望んでいた。

マハルシ
 犠牲者に尋ねさせなさい。
 なぜあなたが子供の立場に立った答えを求めるのですか?

199鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/13(金) 22:36:19 ID:1d4drIFg0
他人の立場に立って質問するのは無意味なのじゃ。
自分の役には立たないからのう。
自分のアートマンを求めることだけがこの世から自由になる門なのじゃ。
自分のしたこととしなかったことだけを見るのじゃ。

200避難民のマジレスさん:2019/09/13(金) 23:57:03 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話125

イスラム教徒の教授が尋ねた。

「ここにいる間は、私の心は純粋(サートヴィック)ですが、ここを去ったとたん多くの物事を渇望するのです」

マハルシ
 それらの物事はあなたと異なるものでしょうか?
 主体なくして対象はありえないのです。

質問者
 どうすればそれを知ることができるのでしょう?

マハルシ
 「それ」として在りながら、何を知りたいと言うのでしょう?
 知る者と知られる者という二人の自己があるのですか?

質問者
 もう一度お尋ねします。
 これらすべてについての真理を知り、体験するにはどうすればいいのでしょうか?

マハルシ
 新しく得るものなど何もないのです。
 必要とされるのは、真我を無知から解き放つことだけです。
 ここで言う無知とは、真我と真我ではないものを同一視することです。

質問者
 はい。
 それでも私には理解できません。
 あなたの助けが必要なのです。
 ここにいる誰もがあなたの恩寵を待っています。
 あなた自身も初めはグルや神の恩寵を探し求めたに違いありません。
 その恩寵を今、他の者にも差しのべて、どうか私をお救いください。

 ここに来る前、私はあなたにお会いしたいと強く願っていました。
 しかしどうしてもその機会を見いだすことができずにいました。
 バンガロールで、私はもう故郷に帰ろうと決心していたのです。

 フリードマンたちに出会わなければ、ここに来ることはなかったでしょう。
 あなたが私をここに引き寄せたのです。
 私の場合は、ポール・ブラントンがボンベイにいたときの状況と似ています。
 彼も帰国を取りやめて、ここに引きつけられたのです。

 ここに着いたばかりの頃、私はためらっていました。
 あなたにお会いして言葉を交わす許可を得られるとは思ってもいなかったのです。
 私の疑いはすぐに消え去りました。
 ここでは誰もが平等であることがわかったからです。
 みなの間に平等をもたらし定着させたのはあなたです。
 私はあなたと、そして他のみなとともに食事をしました。
 故郷の人たちにそれを伝えても、誰も信じないでしょう。
 ブラーフマナたちが私と一緒に水を飲み、パーンを噛むことなどありえないからです。
 しかしあなたは私や私のような人々を等しく受け入れています。
 マハートマー・ガーンディーは奮闘していますが、国内でこのような状況をもたらすことはできません。
 私はあなたの臨在のもとにいてとても幸せです。

 私はあなたを神と見なしています。
 私はシュリー・クリシュナを本当の神と思っています。
 なぜなら彼は、「誰を崇拝しようとも、その人は私だけを崇拝しているのだ。それゆえ、私は彼を救う」と言っているからです。
 他のどの神も「あなたは私を通してのみ救済される」と言います。
 クリシュナだけがそのような広い心を持ち、神のように語ります。
 あなたはそれと同じ平等を保っておられます。


*パーン

インドの「噛み嗜好品」。
キンマの葉の上に覚醒作用のあるカートの葉のペーストを塗り、そこにクローブ、カルダモン、アニス、ミントなどのスパイスを包んで三つ折りにしたもの。
これをロに入れて噛み続けると赤い汁が出る。

201鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/14(土) 22:34:35 ID:1d4drIFg0
何かを行うことは人をアートマンから遠ざけることになるのじゃ。
しかし、人は何かすることでしか神や悟りには到達できないと思うのじゃ。
何もしないことは出来ないのじゃ。
何もしないで自らの本心を観る事ができればいつでもアートマンは実現するのじゃ。

202避難民のマジレスさん:2019/09/14(土) 23:52:38 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話126

1936年1月4日

再びセイェド博士が尋ねた。

「霊的進歩を望む人は、行為の道(プラヴリッティ・マールガ)と放棄の道(ニヴリッティ・マールガ)のどちらを選ぶべきでしょうか?」

マハルシ
 あなたは真我の外へ行くことができますか?
 放棄とは何を意味するのですか?


アメリカ人のエンジニアがサットサンガ(賢者との交際)について尋ねた。

マハルシ
 サット(真理)は私たちの内側にあります。

質問者
 『私は誰か?』という小冊子の中で、あなたは「ハートは心の座である」と述べられています。
 そうなのでしょうか?

マハルシ
 心はアートマンなのです。

質問者
 それはアートマン自体でしょうか、それともその投影なのでしょうか?

マハルシ
 それは同じことです。

質問者
 西洋人は心を最高原理と見なしています。
 一方、東洋人はその反対です。
 なぜでしょうか?

マハルシ
 心理学が行き着いた果てから、哲学が始まります。
 これは体験なのです。
 心は生まれ、私たちはそれを見ます。
 たとえ心がなくとも、私たちは存在しているのです。
 みなの体験がそれを証明しています。

質問者
 深い眠りの中では、私は存在していないように見えます。

マハルシ
 あなたがそう言うのは目覚めたときにです。
 今、話しているのは心です。
 深い眠りにおけるあなたは心を超えて存在しているのです。
 
質問者
 西洋哲学は高次の自己を「心に感化を与えるもの」として認めています。

203鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/15(日) 22:40:22 ID:1d4drIFg0
深い眠りの中では分別もなくなっているのじゃ。
それでも意識はあるものじゃ。
ただそれを認識できないだけなのじゃ。
それは記憶による認識であるからなのじゃ。
記憶によらない意識は常に在り続けるのじゃ。

204避難民のマジレスさん:2019/09/15(日) 23:46:32 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話127

アメリカ人のエンジニアが尋ねた。

「距離は恩寵に影響しますか?」

マハルシ
 時間や空間は私たちの内側に存在しています。
 あなたは常に真我の中に在るのです。
 どうして時間と空間が真我に影響できるでしょう?

質問者
 ラジオなら、近くにいる人のほうがより早く聞き取ります。
 あなたはヒンドゥーであり、私たちはアメリカ人です。
 それが何らかの違いをもたらすでしょうか?

マハルシ
 いいえ。

質問者
 思考でさえ他の者によって読み取られることがあります。

マハルシ
 それは私たちが一つであることを示しているのです。

205鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/16(月) 23:01:39 ID:1d4drIFg0
時間があるとか、空間があるとか認識するのも観念なのじゃ。
実際にはそれは存在しないのじゃ。
物質の存在と物質の変化を解釈するための観念が空間と時間なのじゃ。
全て一つであるならば時間も空間も無いのじゃ。

206避難民のマジレスさん:2019/09/16(月) 23:50:29 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話128

1936年1月5日

数人のフランス人男女とアメリカ人がアーシュラマムを訪れた。
彼らはシュリー・バガヴァーンにいくつかの質間をした。
そのうちの一人が尋ねた。

「西洋に対する東洋のメッセージとは何でしょうか?」

マハルシ
 すべてが同じ目標に向かっているのです。


別の質間にシュリー・バガヴァーンが答えた。

マハルシ
 あなたはどのように「私は在る」と言うでしょう?
 あなた自身を探すのに明かりが必要でしょうか?
 それとも、あなたはそれを本の中に見いだしたのですか?

質問者
 経験によってです。

マハルシ
 そうです。
 経験がそれにふさわしい言葉です。
 知識は主体と対象を含んでいます。
 しかし経験は終わりのない永遠なるものなのです。

207鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/17(火) 22:57:10 ID:1d4drIFg0
知識による認識は認識自体を越えることは出来ないのじゃ。
知識も認識の中で働くものであるからのう。
体験によって人は新しい変容を受け入れることが出来るのじゃ。
気付くという体験によって悟りも訪れるのじゃ。

208避難民のマジレスさん:2019/09/17(火) 23:51:26 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話129

1936年1月6日

以前にB・V・ナラシンハ・スワミとともに仕事をしたことがあり、ヴィシシュタアドヴァイタ(限定不二一元論)関係の書籍の著者でもある老紳士がここを初めて訪れた。
彼は転生について質問し、微細身(リンガ・シャリーラ)が融け去って、死後二年以内に転生することは可能かどうかと尋ねた。

マハルシ
 確かに可能です。
 転生が可能だというだけではなく、たとえ死後二年以内でも、新しい身体の中で二十歳、四十歳、七十歳でいるかもしれないのです。

シュリー・バガヴァーンは『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からリーラーの物語を語った。

マハルシ
 シュレヨー・ヒ・ジニャーナン・アビャーサーット・ジニャーナーット・ディヤーナン、ディヤーナーット・カルマパラ・ティヤーガハ。
 「努力によって繰り返し修練することよりも、知識のほうが優れている」。

 ここでいうジニャーナとは、修練なしの知識を示し、アビャーサは知識なしの修練を、ディヤーナとは知識をともなった修練を意味しています。

 修練をともなわない知識は知識なしの修練よりも優れ、知識をともなった修練は修練なしの知識よりも優れています。
 
 カルマパラ・ティヤーガハ、ニシュカーマ・カルマ。
 「行為の結果に対する執着を離れた、動機や欲望のない行為」(『ヨーガ・ヴァーシシュタ』)は賢者(ジニャーニ)のもので、それは知識をともなった修練よりも優れています。

質問者
 ヨーガと明け渡しの違いは何でしょうか?

マハルシ
 明け渡しはバクティ・ヨーガです。
 「私」という想念の源にたどり着くことが自我の破壊であり、目標の成就です。
 それが明け渡し(プラパッティ)であり、叡知(ジニャーナ)なのです。


*『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からリーラーの物語…

この物語は、宇宙の本質、死と死後の本性、時間と空間の相対性、世界の中に存在する世界、欲望と想念が顕現を生み出す力を説明している。

パドマ王の献身的な妻リーラーは夫を不死にしようと宗教的儀式を行うが、それが不可能であることを悟り、女神サラスワティーに祈る。
彼女の帰依心に満足したサラスワティーは、夫が死んでも彼の魂は彼女の部屋にとどまるようにという彼女の願いをかなえた。
やがてパドマ王は戦争で死に、悲しみにくれる彼女の前に女神サラスワティーが現れる。
女神は王の身体を保存するよう彼女に命じた。
リーラーは夫の死後の状態を知りたいと女神に懇願する。
女神はリーラーにさまざまな次元の世界が不可視のまま相互に関連しながら存在していることを説明し、さらに内的なヴィジョンの中でそれらの世界を訪れる方法を彼女に授けた。
こうして夫の死後の世界を訪れたリーラーは、彼が16歳の若い王として別の王国を統治している姿を見る。
リーラーは驚愕するが、サラスワティーは、リーラーは前世においてヴァシシュタというバラモンの妻アルンダティとして別の世界で小さな小屋に暮らしていたと告げた。
ある日、夫ヴァシシュタはある王が壮麗な行列を従えて行進していくのを見て、自分もあのような王になりたいと願い、その願いを胸に抱きながら死を迎えた。
死別の苦しみに耐え切れない妻アルンダティは、自分自身を夫とともに荼毘に付した。
サラスワティーはこれが一週間前に起こったことで、このバラモンの夫婦がパドマ王とリーラーになったのだと説明する。
この話を疑ったリーラーを納得させるため、サラスワティーは彼女をその世界に連れ戻した。
リーラーは死去したバラモンの夫婦の息子から事実を明らかにされる。
その後、リーラーは瞑想を通して創世記以来の自分の過去世をすべて思い出す。
リーラーとサラスワティーはパドマ王の来世の世界を訪れ、ヴィドゥーラタ王と呼ばれ70歳になっていた彼を見いだす。
彼の現在の妻もやはりリーラーと名乗っていた(ここではリーラーⅡと呼ぶ)。
王の部屋に現れたリーラーとサラスワティーは、王に彼の過去世だったパドマ王について語った。
すると王は再びパドマとして生きたいという願望を抱いた。
リーラーⅡは女神に夫の来世でも彼と共に暮らしたいと懇願する。
やがてヴィドゥーラタ王は戦争で死に、彼の魂は次元を超えて、再びパドマ王の遺体の中に入った。
目を覚まして起き上がったパドマ王は、そこに2人の妻と女神を見いだす。
驚く王にリーラーが状況を説明すると、王は敬意とともにサラスワティーを礼拝した。
サラスワティーは満足すると、祝福として長寿と富、繁栄と真我実現を彼に与えたのだった。


*シュレヨー・ヒ・ジニャーナン・アビャーサーット・ジニャーナーット…『バガヴァッド・ギーター』12-12

ヨーガの修練が無理なら、知識を極めよ。
だが、知識よりも瞑想のほうが優れ、瞑想よりも行為の結果を放棄するほうが優れている。
なぜなら、心の平安は放棄によって得られるからである。

209鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/18(水) 22:58:38 ID:1d4drIFg0
ヨーガは悟りを得るためのあらゆる方法を包含しているのじゃ。
バクティ・ヨーガもその一つなのじゃ。
健康のためのハタ・ヨーガもその一つなのじゃ。
肉体が健康でないと修行も出来ないからなのじゃ。

210避難民のマジレスさん:2019/09/18(水) 23:50:14 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話130

シュリー・ラーマクリシュナ・ミッションから来たラクシュマン・ブラフマチャーリーが尋ねた。
 「私は誰か?」という探究、あるいは「私」という想念は、それ自体どちらも想念です。
 どうしてそれがその過程で破壊されると言うのでしょう?

マハルシ
 ラーマが森でリシ(聖者)の姿をして他のリシたちと共にいたとき、シーターはリシの妻たちから、どの人があなたの夫かと尋ねられました。
 一人ずつ指で指し示されたとき、彼女はその一人ひとりを否定しましたが、ラーマが示されたとき、彼女はただうつむくばかりでした。
 彼女の沈黙は雄弁だったのです。

 同様に、『ヴェーダ』もまた「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)において雄弁で、それから沈黙にとどまります。
 その沈黙こそが真の境地です。
 これが沈黙による教えの真意です。
 「私」という想念の源にたどりついたときその想念は消え去ります。
 その後に残るもの、それが真我です。

質問者
 『パタンジャリ・ヨーガ・スートラ』は同一性について語っています。

マハルシ
 「至高なるもの」との同一性とは、自我の破壊を意味するもう一つの名前なのです。

211鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/19(木) 22:23:46 ID:1d4drIFg0
一切を否定する想念も想念の一つでは在るのじゃ。
それが全ての想念を破壊して、その源にたどり着くことでそれ自体も消えるのじゃ。
それまでは有効な方法としてあり続けるのじゃ。
否定の想念も消えて沈黙が訪れるのじゃ。

212避難民のマジレスさん:2019/09/19(木) 23:17:54 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話131

スッバ・ラーオ氏が尋ねた。

「ムキャ・プラーナ(主要な生気)とは何でしょうか?」

マハルシ
 それはそこから自我とプラーナが生じる源であり、ときにクンダリニーと呼ばれています。
 意識は生まれたことがありません。
 それは永遠に存在し続けます。
 しかし自我は生まれ、その他の想念も同様です。
 それらは絶対意識と結びつくことで輝きを得ますが、さもなければ輝きません。

質問者
 モークシャ(解脱)とは何でしょうか?

マハルシ
 モークシャとは、あなたが生まれたことなどなかったと知ることです。

 「静かに在りなさい。そして私は神だと知りなさい」

 「静かに在る」ということは、「考えない」ということです。

 「考えなさい」ではなく、「知りなさい」がその言葉なのです。

質問者
 胸には異なった色の六つの器官があると言われています。
 その中のハートは中心線から指二本分だけ右側にあると言います。
 しかしハートに形はありません。
 それでは、私たちはその形を想像して、それに瞑想すべきなのでしょうか?

マハルシ
 いいえ。
 「私は誰か?」という探究だけが必要なのです。
 深い眠りと目覚めの状態を通して常に存在するもの、それは同じものです。
 しかし目覚めには不幸があり、それを除こうとする努力があります。
 眠りから目覚めたのは誰かと問われれば、あなたは「私」と答えるでしょう。
 今、あなたはこの「私」をしっかりとらえなさいと言われたのです。
 もしそうしたなら、「永遠の存在」はおのずと明らかになるでしょう。
 「私」を探究することが要点であって、ハート・センターに瞑想することではありません。
 内側や外側などというものはありません。
 それはどちらも同じ意味か、まったく何も意味しないかのどちらかです。

 もちろんハート・センターへの瞑想という修練もあります。
 それは修練でしかなく、探究ではありません。
 心が活動を止め、静寂にとどまるとき、ハートに瞑想する人だけがその自覚を保つことができます。
 一方、他のセンターに瞑想する人はそれほど自覚的にはなれず、心が再び活動し始めたことによってのみ、それが静止していたことに気づくのです。

213鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/20(金) 23:05:13 ID:1d4drIFg0
修練とは集中を意味しているのじゃ。
ハートに集中して集中力を養うのじゃ。
そして自分とは何かを観察して探求するのじゃ。
ハートに集中することは自覚を保てるから他の集中よりも善いとマハリシは勧めるのじゃ。
他の集中では瞑想が深くなると意識がなくなったと感じる者が多いから、それがないハートへの集中が善いというのじゃ。

214避難民のマジレスさん:2019/09/20(金) 23:46:08 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話132

教養ある男性が尋ねた。

「絶対なる存在というものがあるのでしょうか?
 それと相対的存在との関係性とはどのようなものでしょうか?」

マハルシ
 それらは互いに異なったものでしょうか?
 すべての質問は心からのみ現れます。
 心は目覚めとともに立ち現れ、眠りとともに沈みゆきます。
 心が存在するかぎり、そのような質問や疑問は起こるでしょう。

質問者
 「絶対なるもの」に達するには、段階的な進展があるはずです。
 実在にも段階があるのでしょうか?

マハルシ
 実在に段階はありません。
 ジーヴァ(個我)にとっては体験の段階がありますが、実在にとってではありません。
 新たに得ることができるものなら、やがて失われるときも来るはずです。
 一方「絶対なるもの」は、今ここに在るのです。

質問者
 もしそうなら、どうして私は無知なままでいるのでしょうか?

マハルシ
 誰にとっての無知だと言うのですか?
 「絶対なるもの」があなたに、「自分は覆い隠されている」と言うでしょうか?
 何かが「絶対なるもの」を覆い隠していると言うのはジーヴァなのです。
 誰にとっての無知なのかを見いだしなさい。

質問者
 なぜ完全性の中に不完全性があるのでしょうか?
 つまり、どうして「絶対なるもの」が相対的になったのでしょうか?

マハルシ
 誰にとっての相対性でしょうか?
 誰にとっての不完全性でしょうか?
 「絶対なるもの」(純粋意識)は不完全ではなく、質問さえできません。
 「生命意識のないもの」(身体)も質問できません。
 この二つの間に何かが現れ、疑いを感じ、質問をするのです。
 それは誰でしょうか?
 それは今、現れたものでしょうか?
 それとも、それは永遠なるものでしょうか?

 完全でありながら、あなたはなぜ不完全だと感じるのでしょう?
 すべての宗教の教えとはそのようなものです。

 体験がどのようなものであろうと、体験者は一人であり、同じなのです。

 「私」はプールナ──完全です。
 眠りの中に多様性はありません。
 それが完全性を示しているのです。

215避難民のマジレスさん:2019/09/20(金) 23:47:19 ID:FXk.y0gQ0
質問者
 完全でありながら、なぜ私はそれを感じられないのでしょう?

マハルシ
 深い眠りの中では不完全性も感じられませんでした。
 眠りの中の「私」は完全なのに、なぜ目覚めの状態では不完全だと感じるのでしょう?
 なぜなら不完全さを感じるのは、無限なるものから区別され、神から分離した偽りの派生物(自我)だからです。

質問者
 三つの状態の中にあって私は同じままです。
 自我が私を覆い隠したのでしょうか、それとも私自身からそれに巻き込まれたのでしょうか?

マハルシ
 あなたなしに何かが現れるでしょうか?

質問者
 私は常に同じです。

マハルシ
 なぜなら、あなたがそれを見るから、それは現れたように見えるのです。
 眠りの中でもこの疑問を感じましたか?
 今、新しく現れたものは何ですか?

質問者
 感覚と心です。

マハルシ
 そう語っているのは誰でしょうか?
 眠っている人ですか?
 もしそうなら、彼は眠りの中でもこの質問をするでしょう。
 眠っていた人は消え去り、偽りの派生物である自我が現れ、自分自身を区別して、今そう語っているのです。
 永遠で完全なるものなしに、何か新しいものが現れるでしょうか?
 このような議論自体、際限のないものです。

 関わらずにいなさい。
 内側に向かいなさい。
 そしてこのようなことはすべて終わらせてしまいなさい。
 論争に終わりはないのです。

質問者
 このすべてを終わらせる恩寵をお与えください。
 議論をしにここに来たのではありません。
 私はただ学びたいのです。

マハルシ
 まず、あなたが何なのかを学びなさい。
 そのためには聖典も学識も要りません。
 これはシンプルな体験なのです。

 「存在」の状態は常に、今ここに在ります。
 自分自身を見失って、あなたは他者に指導を求めています。
 哲学の目的は、あなたを内面に向かわせることです。

 もしあなたが真我を知れば、悪は寄りつかないでしょう。
 あなたが尋ねたから、私は教えたのです。

 自我は立ち現れ、あなたをとらえています。
 あなた自身をとらえなさい。
 そうすれば自我は消え去るでしょう。
 それが起こるまでは、賢者は「在る」と言い、愚者は「どこに?」と尋ねるでしょう。

質問者
 問題の核心は「汝自身を知れ」にあるのです。

マハルシ
 そう、まったくそのとおりです。

216鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/21(土) 22:01:20 ID:1d4drIFg0
全ての賢者達の全ての教えは自分自身を知ることなのじゃ。
瞑想もそのための方法の一つに過ぎないのじゃ。
自分を知ること無しに悟りが訪れることはありえないのじゃ。
自分という幻想を知ることで無我になり、悟りも訪れるのじゃ。

217避難民のマジレスさん:2019/09/21(土) 23:33:25 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話133

マハルシ
 アドヴァイタ哲学には二つの学派があります。
 (1)ドリシュティ・スリシュティ(同時創造)と(2)スリシュティ・ドリシュティ(段階的創造)です。
 
 タントラ系のアドヴァイタは三つの基本原理であるジャガト、ジーヴァ、イーシュヴァラ、つまり世界、魂、神を認めています。
 これら三つも実在ではあるのですが、実在はそこで終わらず、その彼方へと超えて行くのです。
 それがタントラ系アドヴァイタです。

 実在は無限です。
 三つの基本原理は絶対的実在から離れて存在するわけではありません。
 実在がすべてに遍在していることは誰もが認めるところです。
 神(イーシュヴァラ)が個我(ジーヴァ)を満たしているからこそ、ジーヴァは永遠の存在を得たのです。
 彼の知識に限界はありません。
 限られた知識とは彼の想像でしかなく、真理における彼の知識は無限です。
 無限の知識の果てには沈黙があります。
 この真理はダクシナームールティによって明らかにされました。
 いまだに(世界、魂、神という)三つの基本原理を知覚する者にとっては、それらは実在だと言えるでしょう。
 しかしそれらは自我に付随したものなのです。

 神々のイメージは細部に渡って描写されてきました。
 そのような描写は究極的実在を指し示しているにすぎません。
 さもなければ、なぜ詳細にわたって特別な意義が与えられてきたのでしょうか?
 考えてみなさい。
 イメージは単なる象徴にすぎません。
 名前と形の彼方にあるもの、ただそれだけが実在なのです。

 シャイヴァ・シッダーンタとアドヴァイタ・ヴェーダーンタは同じ真理に基づく共通の目的を共有しています。
 そうでなければ、どうしてアドヴァイタの偉大な唱道者、シュリー・シャンカラーチャーリャが神々の賛歌を歌ったのでしょう?
 明らかに、彼はすべてを知りながらあえてそうしたのです。


質問者は非常に真剣に、彼のシャイヴァ・シッダーンタとアドヴァイタへの信仰心がバハーイ教の経典を読んだ後で揺らぎ始めたことを伝えた。
「どうかお救いください」と彼は言った。

マハルシ
 今ここにある真我を知りなさい。
 そうすれば、揺らぐことはなくなるでしょう。

質問者
 バハーイ教徒は人の心を読み取るのです。

マハルシ
 それは可能です。
 あなたの想念は別の人に読み取られます。
 そこにはあなたの心を「知る者」がいるはずです。
 それが実現されるべき常在の真理なのです。
 真理が揺らぐことはありません。

質問者
 恩寵をお与えください。

マハルシ
 恩寵は常に在り、与えられるものではありません。
 なぜバハーウッラー(バハーイ教の教祖)の良い点や悪い点を気にするのですか?
 あなた自身を知りなさい。
 すべてを真理と見なしなさい。
 彼もまた真理だと見なしなさい。
 彼は真理から離れて存在できるでしょうか?
 あなたの信仰は変わるかもしれません。
 しかし真理は変わらないのです。

質問者
 シッダーンタの真理をお示しください。

マハルシ
 彼らの教えにしたがいなさい。
 そのうえで、もし疑いがあるなら尋ねてもよいでしょう。
 その教えを固持するなら、それはあなたをただ沈黙へと導くでしょう。
 相違が見られるのは外的なことにだけです。

 もしあなたが彼らの教えにしたがうなら、あらゆる区別は消え去るでしょう。
 王子と呼ばれる人は、王の息子以外にはありえません。
 同様に、完全である「それ」だけが「完全」と呼ばれるのです。

 弟子となること、入門の儀式や帰依(明け渡し)の儀式などに満足するべきではありません。
 それらは単なる外的現象にすぎないのです。
 すべての現象の根底にある真理を忘れてはいけません。

質問者
 ダクシナームールティの沈黙の意義とは何でしょうか?

マハルシ
 学者や賢者たちがさまざまな説明を与えてきました。
 あなたの気に入ったものを受け入れなさい。

218鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/22(日) 22:36:47 ID:1d4drIFg0
余計な知識が多ければむしろ実践の妨げになるものじゃ。
別の宗教の経典や不可思議な力や恩寵や真理等というものは観念の中にあるものじゃ。
観念を超えることはできないのじゃ。
自分を観る事でのみひとは観念を超えて悟りにいたることができるのじゃ。

219避難民のマジレスさん:2019/09/22(日) 23:27:47 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話134

1936年1月14日

ハートに関する質問があった。

マハルシ
 真我を探究し、それを実現しなさい。
 ハートは自動的にその役割を果たすでしょう。
 実現の座がハートなのです。
 それは外側とも内側とも言えないものです。

質問者
 バガヴァーンは最初の体験において、ハートを実現の場所として感じられたのでしょうか?

マハルシ
 私はハートに関する文献を見てから、その言葉を使うようになったのです。
 それは私の体験に基づいています。

220鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/23(月) 20:27:00 ID:1d4drIFg0
実践では常に体験が先に在るのじゃ。
言葉はそれを他人に伝えるために仮設しているだけなのじゃ。
脳が記憶による分別を止めた時、ハートに意識は感じられるのじゃ。
それは同じ体験をしなければ理解できないのじゃ。
そこに至るまで言葉を超えて実践し続けるしかないのじゃ。

221避難民のマジレスさん:2019/09/23(月) 23:33:21 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話135

1936年1月15日

神智学協会から訪れた三人の西洋人女性が尋ねた。

「神の計画全体は本当に善いものなのでしょうか?
 それとも、それは私たちが最善を尽くす他ないという本質を含んだ失策なのでしょうか?」

マハルシ
 計画は、実際善いものです。
 過ちは私たちの側にあります。
 私たちが自分自身を正せば、すべては正しくなるでしょう。

質問者
 眠っている間の私たちの行為を思い出すことによって、自分自身を正す方法があれば教えていただけますか?

マハルシ
 何の手段も必要ありません。
 誰もが幸福に眠り、その間何も覚えていないということを体験しています。
 それ以外には何も体験されていないのです。

質問者
 その答えでは納得がいきかねます。
 私たちは眠っている間アストラル界をさ迷いますが、覚えてはいないのです。

マハルシ
 アストラル界は夢と関係していますが、深い眠りとは関係していません。

質問者
 世界の苦しみの原因についてどうお考えですか?
 個人として、あるいは集団としてどうすればそれを変えることができるでしょうか?

マハルシ
 真我を実現しなさい。
 それが必要なすべてです。

質問者
 より偉大な奉仕のために、啓蒙を促進することができるでしょうか?
 それはどのように為されるのでしょうか?

マハルシ
 自分自身を救えないからこそ、私たちは至高なるものに完全に自分を明け渡さなければならないのです。
 そうすれば神は世界も私たちのことも加護してくれるでしょう。

質問者
 ゴールは何だとお考えですか?

マハルシ
 真我実現です。

質問者
 各人が自分に合ったグルに出会うための方法があるでしょうか?

マハルシ
 強烈な瞑想がそれをもたらすでしょう。

222鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/24(火) 22:00:14 ID:1d4drIFg0
自分自身を救えない者が世界を救えるはずも無いのじゃ。
世界は自分の心が創ったものであるからのう。
自分を救えないままで、どのように世界を変えても救われない世界ができるだけなのじゃ。
自らを救えば世界はもはや救われていると知れるのじゃ。

223避難民のマジレスさん:2019/09/24(火) 23:18:51 ID:IMv4YTvA0
ラマナ・マハルシとの対話136

数日ここに滞在していた若いオランダ人のG・H・ミース博士がシュリー・バガヴァーンに尋ねた。

「深い眠りは何かサマーディに非常に近いものだという印象を受けるのですが、そうなのでしょうか?」

マハルシ
 質間するのは目覚めている「私」であって、眠っている「私」ではありません。
 もしあなたが目覚めた状態において、サマーディと同じである「目覚めた眠り」という状態に達したなら、疑いは起こらないでしょう。

 サマーディとは人の本来の状態です。
 それは三つの状態すべての根底に流れています。
 「私」がそれらの状態の中にあるのではなく、それらの状態が「私」の中にあるのです。
 もし私たちが目覚めているときにサマーディに入るなら、それは深い眠りの中でも持続するでしょう。
 意識と無意識という区別は心の領域に属しますが、心は真我の境地において超越されるのです。

質問者
 仏教の見解には、個人の魂という概念に一致した永続する実体は存在しません。
 これは正しいのでしょうか?
 これは輪廻転生する自我というヒンドゥー教の概念と一致するのでしょうか?
 魂は何度も繰り返し転生する永続的な実体なのでしょうか、それとも単なるサンスカーラ(生来の精神的傾向)の塊にすぎないのでしょうか?

マハルシ
 真我は永遠に存在し、影響を受けません。
 転生する自我は低次元、つまり想念に属します。
 それは真我実現によって超越されるのです。
 輪廻転生は自我という偽りの派生物ゆえに起こります。
 それゆえ、それは仏教徒に否定されました。
 現在の状態は、チット(意識)とジャダ(生命意識のないもの)の混同によるものなのです。

224鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/25(水) 22:48:29 ID:1d4drIFg0
自我があるという幻想の上で輪廻もあるという幻想が成り立つのじゃ。
自我が無いと気づけば輪廻も無いと知れるのじゃ。
今まで幻想の生まれかわりを辿ってきたと気付くのじゃ。
悟ればそれを思い出すことは出来るが、夢を一々思い出すように意味の無いことじゃ。

225避難民のマジレスさん:2019/09/25(水) 23:40:47 ID:IMv4YTvA0
ラマナ・マハルシとの対話137

シュリー・ラーマクリシュナ・ミッションから来たラクシュマン・ブラフマチャーリーが尋ねた。

「人は自分自身を想念の観照者と見なすことができるでしょうか?」

マハルシ
 それは自然な状態ではありません。
 それは単に心を静めるためのアイデアです。
 そうイメージしようとしまいと、真我は常に観照しています。
 心を静める目的でなければ、そうイメージする必要はありません。
 真我としてとどまることが最善なのです。

226鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/26(木) 22:09:09 ID:1d4drIFg0
無理に観念によってアートマンのイメージを創らなくて善いのじゃ。
それはまた観念となって苦の原因になるものじゃ。
アートマンは自らの心にあるからそれに到達すれば善いのじゃ。
すべてを否定して真のアートマンに到達しなければ法そのものが無意味なのじゃ。

227避難民のマジレスさん:2019/09/26(木) 23:42:14 ID:IMv4YTvA0
ラマナ・マハルシとの対話138

マイソールの財政事務官が尋ねた。

「ポール・ブラントン著の『秘められた道』はインド人にとっても有益なのでしょうか?」

マハルシ
 すべての人にとって有益です。

質問者
 身体や感覚などは「私」ではありません。
 それは私たちの間で共通の認識です。
 しかしそれはどのように修練するのでしょうか?

マハルシ
 その本の中に述べられている三段階の方法によってです。

質問者
 呼吸制御は探究に必要なものでしょうか?

マハルシ
 必ずしも必要ではありません。

質問者
 本の中には「そこに空白状態が現れる」と述べられています。

マハルシ
 そうです。
 そこで止まってはいけません。
 誰にとって空白状態が現れるのか、それを見なさい。

質問者
 「帰依の道を歩む人(バクタ)にとって空白状態はない」と述べられています。

マハルシ
 彼らにとっても潜在的状態(ラヤ)は起こります。
 それでも、しばらくすれば心は再び目を覚ますのです。

質問者
 サマーディの体験とはどのようなものでしょうか?

マハルシ
 それはあるがままの状態です。
 外側から見ている人にとっては恍惚状態に見えるでしょう。
 修練している人にとっても、初めのうちはそのように感じられるかもしれません。
 何度か繰り返されるうちに落ち着いてくるでしょう。

質問者
 そのような体験はナディー(霊的な神経経路)を穏やかになだめるのでしょうか、それとも興奮させるのでしょうか?

マハルシ
 初めのうちは興奮するでしょう。
 体験が続けて起こるごとに、それは普通の状態となり、もはや興奮することもなくなります。

質問者
 道を着実に安全に進んでいくには、不快な体験があってはならないはずです。
 興奮は穏やかな存在状態にとっても、修練活動にとっても不適切です。

マハルシ
 心がさ迷っているなら道を誤ったのです。
 帰依心だけが正しい道の上にあるのです。


*三段階の方法
 『秘められた道』の「自己分析の方法」の章で、ポール・ブラントンは真我に目覚めるために、熟考、分析、瞑想を用いて(1)身体、(2)心ー感覚、(3)知性を否定していくという三段階の方法について説明している。

*潜在的状態(ラヤ)
 精神的活動が一時的に停止している状態。

228鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/27(金) 23:08:44 ID:1d4drIFg0
本を読んで、修行すればこのようになるとか、あのようであってはならないという思い込みは実際には修行の障害になるものじゃ。
煩悩の一つである愚であるとも言えるのじゃ。
人の体質や性質によってさまざまな道があり、その途中の体験もまた異なるのじゃ。
先入観を持たずにありのままの自らの心を観て進むしかないのじゃ。

229避難民のマジレスさん:2019/09/27(金) 23:44:29 ID:IMv4YTvA0
ラマナ・マハルシとの対話139

1936年1月19日

セーラムから来た立法府議員のエラッパ・チェッティアール氏が尋ねた。

「心を内側に向けるだけで十分なのでしょうか、それとも『私はブラフマンである』という確言に瞑想すべきでしょうか?」

マハルシ
 心を内側に向けることが最も重要です。
 仏教徒は「私」という想念の流れへの洞察を解放と見なしています。
 一方、私たちは、そのような流れはその根底にある唯一の実在から生じたものと見ています。

 なぜ「私はブラフマンである」に瞑想すべきなのでしょうか?
 「私」の消滅だけが解放なのです。
 しかしそれは「私ー私」を常に視野に入れることによってのみ達成できます。
 そのためには「私」という想念を調べることが必要です。
 「私」を手放さないかぎり、探究者に空白状態は起こりません。
 さもなければ、瞑想も眠りに落ち入ってしまうでしょう。

 常に存在するのは唯一「私」だけです。
 しかし偽りの「私」という想念が時あるごとに立ち現れてきます。
 一方、そのような想念が立ち現れる前でさえ、直覚的「私」は常に自ら輝き続けているのです。

 粗大な身体の誕生が自己の誕生ではありません。
 自我の誕生が自己の誕生なのです。

 解放にとって、新たに獲得されるべきものは何もありません。
 それは原初の状態であり、変わることなく在り続けるからです。


*仏教徒は「私」という想念の流れへの洞察を解放と…

ある仏教徒は「『私』という想念は絶えず変化し続ける感覚的印象の連鎖でしかなく、束の間のはかない存在であり、実体を持たない。それゆえ『空』である」という洞察と理解が解放をもたらすと見なす。
しかし、「私」という根が断ち切られていないため、「空」の洞察は得ても、その洞察を得た者(自我)はまだ生き残っている。
釈尊自身の説く究極的な解脱は、空の洞察ではなく自我の寂滅(ニルヴァーナ)であり、それはマハルシの説く「私」の消滅と変わらない。

230鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/28(土) 23:11:31 ID:1d4drIFg0
何かの想念に対して瞑想するより、自らの心の中を観るべきなのじゃ。
想念を追っていては観念遊戯に陥るだけなのじゃ。
常に自らの心の中を観て、自分とは何かをありのままに捉えるのじゃ。
それが出来れば自我も滅するのじゃ。

231避難民のマジレスさん:2019/09/28(土) 23:17:20 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話140

質問者
 実在とは何でしょうか?

マハルシ
 実在は常に真理であるに違いありません。
 それは名前や形をともないません。
 名前や形の根底に存在するもの、それが実在です。
 それは「限定されたもの」の根底にありながら、それ自体は無限であり、束縛を受けません。
 それは「非実在なるもの」の根底にありながら、それ自体は実在として在ります。
 存在するもの、それが実在です。
 それはあるがままに在り、存在や非存在などといった言葉や表現を超えているのです。

232鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/29(日) 22:32:38 ID:1d4drIFg0
名前と形は観念の要素なのじゃ。
実在は名前や形をともなわないとは、観念が無いということなのじゃ。
一切の観念が無い時、実在は実感されるのじゃ。
それはどこか遠くの世界のことではなく、肉体を含む全ての今ここでのありようなのじゃ。

233避難民のマジレスさん:2019/09/29(日) 23:41:07 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話141

同じ紳士が『カイヴァリャ・ナヴァニータム』から引用した後で尋ねた。

「一度達成された真我の知識(ジニャーナ)が失われることはあるのでしょうか?」

マハルシ
 ひとたび明らかになった真我の知識は、確立されるまでに時間がかかります。
 真我は確かに誰もが直接体験していることですが、私たちが想像しているようなものではありません。
 それはただ「あるがまま」に在るのです。
 この体験がサマーディです。

 火は呪文などの方法で身を守る人を焼くことはできませんが、そうでない人は焼いてしまいます。
 同様に、真我は心の潜在的傾向(ヴァーサナー)に覆い隠されていますが、ヴァーサナーがなくなれば顕わになるのです。 ヴァーサナーの変化変動ゆえに、真我の知識は確立されるまでに時間がかかります。
 確立されていない真我の知識に、輪廻転生を止めるだけの十分な力はありません。
 ヴァーサナーがあるかぎり、真我の知識は不動となりえません。
 確かに偉大な師の臨在のもとに在れば、ヴァーサナーは活動を止め、心は静まり、サマーディは起こるでしょう。
 それは何かの方法で火に焼かれずにすむようなものです。

 こうして弟子は師の臨在のもとで真の知識と正しい体験を得ます。
 その中にとどまるには、さらなる努力が必要とされます。
 最終的に、彼はそれが自分自身の真の存在であることを知り、生きながらに解脱するでしょう。
 
 目を閉じたままのサマーディは確かに良いものですが、行為と無為が対立しない状態に達するまで、さらに進まなければなりません。
 活動によってサマーディを失うことを恐れるなら、それは無知のしるしでしかありません。
 サマーディは誰にとっても自然な生活の根底であるべきです。

 そこには私たちの努力や無努力を超えた状態があります。
 それが理解されるまで、努力は必要です。
 一度でもそのような至福を体験すれば、繰り返しそれを得ようと試みるようになるでしょう。
 平和の至福をひとたび体験すれば、誰もそこから出て他のことに関わりたくなどなくなります。
 アジニャーニにとっては想いから自由になることが難しいように、ジニャーニにとっては想いを起こすことが難しいのです。

 普通の人たちは自分自身を知らないと言います。
 彼らは多くの想念に巻き込まれ、想念なしにとどまることができません。
 しかしジニャーニはどのような活動にも影響を受けません。
 彼の心は永遠の平和の内に在るのです。

234鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/30(月) 22:38:02 ID:1d4drIFg0
サマーディに至るだけでは悟りではないのじゃ。
それから更に無我になり、無認識にまで至らなければならないのじゃ。
その状態が真の実在であり、ありのままの在り様であると気付かなければならんのじゃ。
それでこそ大悟徹底なのじゃ。

235避難民のマジレスさん:2019/09/30(月) 23:23:49 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話142

1936年1月20日

ベズワダから来たプラカーシャ・ラーオ氏が尋ねた。

「ブラフマンとの自己同一性が実現される前でも、マーヤー(幻影、世界の現れ)の働きがなくなることはあるのでしょうか?
 それとも、それは実現の後でさえ続くのでしょうか?」

マハルシ
 ヴァーサナーが消滅した後に幻影が続くことはありません。
 ブラフマンとの自己同一性の知識を得てからヴァーサナーが消滅するまでの間では、幻影は現れるでしょう。

質問者
 どうしてブラフマンとの自己同一性が実現された後にさえ、世界が彼に影響を与えられると言うのでしょう?

マハルシ
 まず実現しなさい。
 それから見てみなさい。
 そのとき、もし必要ならこの質問をすればいいのです。

質問者
 私たちが自分自身のアイデンティティを知っているように、それを知ることはできるのでしょうか?

マハルシ
 あなたは心と異なったものでしょうか?
 いったいどうやってそれを知れると言うのでしょう?

質問者
 心の全領域(チッタ・ヴィラーサ)を知ることはできるでしょうか?

マハルシ
 ほお!
 それがブラフマンとの自己同一性だと言うのですか?

 無知が消え去ったときその後に残るもの、それがそれ自体を顕わにするのです。

 それは体験であって、知識の領域にはないのです。

236鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/01(火) 22:19:59 ID:1d4drIFg0
知識すらも又悟りには不要なものなのじゃ。
知識が全てと思い込んでいる者には受け容れがたいことであるかもしれんがのう。
悟りを得ることは知識を得ることではないのじゃ。
悟りによって正しい知識を得ることは出来るがのう。
実在であることは智識をも超えたことなのじゃ。

237避難民のマジレスさん:2019/10/02(水) 00:01:21 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話143

1936年1月23日

ポール・ブラントン氏がシュリー・バガヴァーンに、「この丘は空洞なのでしょうか?」と尋ねた。

マハルシ
 『プラーナ』(太古の聖典群)はそう述べています。
 ハートは空洞だと言われています。
 その中に突き進んでいくと、それが光の広がりであることがわかります。
 それと同じように、この丘も光なのです。
 洞窟などはその光に覆われています。

質問者
 内側に洞窟があるのですか?

マハルシ
 私はヴィジョンの中で洞窟や通りのある街々、そして世界全体を見ました。

質問者
 シッダ(超自然能力者)もその中にいるのでしょうか?

マハルシ
 すべてのシッダがそこにいると言われています。

質問者
 シッダだけですか、それとも他の者たちもですか?

マハルシ
 それはちょうどこの世界のようなものです。

質問者
 シッダはヒマラヤにいると言われています。

マハルシ
 カイラースはヒマラヤにあります。
 それはシヴァの住処です。
 一方この丘はシヴァ神自身なのです。
 彼の住処にあるべき品々も、彼自身がいるところにあるに違いありません。

質問者
 バガヴァーンはこの丘が空洞であることを信じていますか?

マハルシ
 すべては個人の観点によるのです。
 あなた自身もヴィジョンの中でこの丘に隠者の庵を見たと本に書きましたね。

質問者
 そうです。
 それは丘の表面でした。
 ヴィジョンは私の内側にあったのです。

マハルシ
 まさにそのとおりです。
 すべては人の真我の内に存在するのです。
 世界を見るには、それを見る人がいなければなりません。
 真我なしには世界もありません。
 真我はすべてを包み込んでいます。
 事実、真我がすべてであり、真我以外には何も存在しないのです。

質問者
 この丘の秘密は何なのですか?

マハルシ
 あなたが『秘められたエジプト』の中で「ピラミッドの秘密は真我の秘密である」と述べているのと同じように、この丘の秘密も真我の秘密なのです。

チャドウィック少佐
 私には真我が自我と異なったものなのかどうかわかりません。

マハルシ
 深い眠りの中のあなたはどのようでしょうか?

質問者
 私にはわかりません。

マハルシ
 誰がわからないのでしょうか?
 それは目覚めている自我ではないでしょうか?
 あなたは深い眠りの中での自分の存在を否定するでしょうか?

質問者
 私は存在していました。
 そして私は存在しています。
 しかし深い眠りの中では誰がそこに存在していたのかわからないのです。

マハルシ
 そのとおりです。
 目覚めた人は、「眠りの状態では何も知らなかった」と言います。
 現在、彼は物事を見ていますし、自分がそこに存在していることも知っています。
 ところが、眠りの中では物事もなければ、それを見る人もいません。
 今、語っている人は深い眠りの中にも存在していました。
 これら二つの状態の違いとは何でしょうか?
 そこには物事があり、感覚が戯れています。
 それらは眠りの中には存在していませんでした。
 新しい実体である自我がその合間に現れ、それが感覚を通して物事を見、それ自身を身体と混同し、「自我が真の自己だ」と言うのです。
 真実は、深い眠りの中に存在していたものが、現在も存在し続けているのです。
 真我は不変です。
 二つの状態の合間に現れたのは自我です。
 立ち現れては沈みゆくものは自我であり、不変のままとどまるものが真我なのです。

238鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/02(水) 22:55:18 ID:1d4drIFg0
深い眠りの中でさえ意識はあるのじゃ。
それは死者の意識とも同じなのじゃ。
寝ているときと同じく、死んでも意識はなくならないと気付くのじゃ。
全てと同じ意識が死によっても変わらずあるのじゃ。

239避難民のマジレスさん:2019/10/02(水) 23:27:05 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話144

プラカーシャ・ラーオ氏が尋ねた。

「マーヤーの根本原因は何でしょうか?」

マハルシ
 マーヤーとは何でしょうか?

質問者
 マーヤーとは誤った知識、幻影です。

マハルシ
 誰にとっての幻影でしょう?
 そこにはそれに惑わされる人がいるはずです。
 幻影とは無知のことです。
 無知な自己があなたの視点にしたがって対象物を見るのです。
 対象物自体が存在しないとき、どうしてマーヤーが存在できるでしょうか?
 マーヤーとはヤー・マー(存在しないもの)なのです。
 何も存在しないときそこに残るもの、それが真我です。
 もしあなたが対象物を見ると言うなら、あるいはもしあなたが真の統合を知らないと言うなら、そこには二人の自己がいるはずです。
 一人は知る者で、もう一人は知られる対象です。
 自分自身の中に二人の自己がいると認める人は誰もいないでしょう。
 目覚めた人は「ぐっすりと眠っていた間、気づいていなかった」と言いますが、「眠っていた人と現在話している人は違う人だ」とは言いません。
 存在するのはただ真我だけです。
 真我は常に気づいています。
 それは不変です。
 真我以外に存在するものは何もないのです。

質問者
 アストラル体についてはどうでしょうか?

マハルシ
 あなたは夢の中で身体を持っていませんでしたか?
 それはベッドで横たわっていた身体とは異なるのではありませんか?

質問者
 私たちは死後も存続するのでしょうか?
 アストラル体は物理的な身体の死後も存続するのではないでしょうか?

マハルシ
 夢の中でいくつかの奇妙な体験をした後に目覚めるように、物理的な身体の死後も別の身体を見つけるといったことが起こるのです。

質問者
 アストラル体は死後四十年でさえ存続すると言われています。

マハルシ
 現在の身体の中で、あなたは夢の身体をアストラル体と呼びます。
 夢の中でもそう呼んだでしょうか?
 今考えれば、アストラル体だった夢の身体も、夢の中では現実に思えます。
 この視点からすれば、現在の身体そのものがアストラル体なのです。
 一つのアストラル体ともう一つのアストラル体に何の違いがあると言うのでしょう?
 何の違いもないのです。

P・ブラントン氏
 実在には段階があります。

マハルシ
 今は夢見の身体が非現実的に思え、今のこの身体が夢の中では非現実的に思えるということが、実在の段階を示すわけではありません。
 深い眠りの中では身体の体験はまったくありませんでした。
 常に、唯一存在するもの、それが真我なのです。

240鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/03(木) 22:04:17 ID:1d4drIFg0
マーヤーがなにものか知らない者には全てがマーヤーになるのじゃ。
全く同じところに一緒に居ながら悟った者には全てがアートマンであり、ブラフマンなのじゃ。
それは実在するものが違うのではなく、心の了解が違うのじゃ。
実在しないものに迷わされているうちはアートマンも見えないのじゃ。

241避難民のマジレスさん:2019/10/03(木) 23:34:22 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話145

P・ブラントン氏
 なぜ宗教は神や天国や地獄について語るのでしょうか?

マハルシ
 それらが世界と同程度のものでしかなく、ただ真我だけが実在だということを人々に理解させるためです。
 宗教は探究者の観点によるのです。
 『バガヴァッド・ギーター』を例にとれば、アルジュナが、「王国を継承するために、親族や年長者と闘い殺し合うことはできない」と言ったとき、シュリー・クリシュナは、「彼らや、あなたや、私は、以前に存在していなかったわけでも、今存在しないわけでも、これ以降存在しなくなるわけでもない。何も生まれなかったし、何も死にはしなかった。これ以降そうならないというわけでもない」などと説きます。
 後に彼は論題を発展させ、「私は同じ教えを太陽神に伝え、太陽神はイクシュヴァークに伝えた」と宣言しました。
 アルジュナは疑問をもたげ、「どうしてそんなことがありえるのでしょう?あなたは何年か前に生まれましたが、彼らは幾世代も前に生きていたのです」と問いただします。
 するとシュリー・クリシュナはアルジュナの論点を理解して、「そうだ。今まで私もあなたも数知れない転生を通ってきた。私はそのすべてを知っているが、あなたは知らないのだ」と語ります。
 
 このような言葉は一見矛盾して見えますが、それでも質問者の観点からすれば、それは正しいのです。
 キリストもまた、「私はアブラハム以前に存在していた」と宣言しています。

質問者
 宗教におけるそのような描写の目的は何なのでしょうか?

マハルシ
 ただ真我の実在性を確立させるためです。

質問者
 バガヴァーンはいつも最高位の観点から語られます。

マハルシ
 (微笑みながら)人々は単純な裸の真理──彼らの日常の、常に存在する、永遠の体験の真理を理解しません。
 その真理とは真我の真理なのです。
 真我に気づいていない人がいるでしょうか?
 彼らは真我について聞きたいとさえ思いません。
 その反対に、人々は何か彼方なるもの──天国や地獄、輪廻転生などについて熱心に知りたがります。
 なぜなら、彼らは神秘を愛しており、裸の真理を愛してはいないからです。
 それゆえ、宗教はただ真我の周辺に彼らを連れてくるだけのために、欲しいまま与えて甘やかします。
 あちらこちらをさ迷い歩いたあげく、結局は、他でもない真我に戻ってこなければならないのです。
 ならばなぜ、今ここで真我として在ろうとしないのでしょうか?

 天国や地獄は、それを見る者あるいは考える者である自己を必要とします。
 天国や地獄の実在性は、それを見る者あるいは考える者と同程度でしかないのです。
 天国や地獄は見る者なしには存在できません。
 それゆえ、それらは自己と異なりません。
 たとえ無知な人でさえ、物事を見るときは、ただ自己だけを見ているのです。
 しかし彼は困惑し、身体や感覚やこの世の劇(ドラマ)といった対象と真我を同一視してしまいます。
 主体も対象も、すべては真我の中に融け入るのです。
 そこには見る者も見られる対象も存在しません。
 見る者も見られるものも真我だからです。
 多くの自己が存在するわけでもありません。
 すべてはただ一つの真我なのです。

242鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/04(金) 21:02:19 ID:1d4drIFg0
どのような知識もマハリシにはアートマンのためにあるものなのじゃ。
迷信に囚われた者にはそれが最も良い説法なのじゃ。
衆生を迷信から解放させるために常にアートマンを説くのじゃ。
それ以外に説く必要はないと知っているからなのじゃ。

243避難民のマジレスさん:2019/10/05(土) 01:13:40 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話146

1936年1月26日

上流階級の教養あるインド人女性リーナ・シャラバーイの質問に、シュリー・バガヴァーンが答えた。

マハルシ
 平静な状態が至福の状態です。
 『ヴェーダ』の中の「私はこれだ、あるいはあれだ」という宣言も、心の平静を得るだけのためにあるのです。

質問者
 それでは、一つの目的を持って探究することは間違いなのですね?

マハルシ
 もし到達されるべき目的地があるとすれば、それは永遠のものではありえません。
 目的地は、すでにそこにあるものでなければなりません。
 私たちは自我によって目的地に到達しようとしています。
 しかし目的地は自我が現れる以前から存在しているのです。
 目的地は私たちの誕生、つまり自我の誕生以前から存在しています。
 私たちが存在するため、自我も存在するように見えるのです。

 もし私たちが自己を自我として見なせば、私たちは自我となり、もし自己を心として見なせば、私たちは心となります。
 もし自己を身体として見なせば、私たちは身体となるのです。
 さまざまな形で私たちを包みこむ心の鞘(コーシャ)をつくり出すのは想念です。
 水面に映る影は揺らいでいるように見えます。
 影の揺らぎを止めることができるでしょうか?
 もし揺らぎが止まれば、あなたは水に気づくことなく光だけを見るでしょう。
 同じように、自我とその活動に注意を払うことをやめ、ただその背後にある光だけを見なさい。
 自我とは「私」という想念です。
 真の「私」が真我なのです。

質問者
 それが真我実現への一歩です。

マハルシ
 実現はすでにそこに在ります。
 想念から自由になった状態だけが真の境地であって、実現といったような行為はないのです。
 真我を実現していない人がいるでしょうか?
 自分の存在を否定する人がいるでしょうか?

 実現を語ることで、そこには二人の自己があることを暗示しています。
 実現する自己と実現される自己です。
 まだ実現されていないものは、実現されなければなりません。
 ひとたび私たちが自分自身の存在を認めるなら、どうして真我を知らないということがあるでしょうか?

質問者
 それは想念、心のせいなのです。

マハルシ
 そのとおりです。
 私たちの幸福を妨げ、覆い隠すのは心なのです。
 どうやって私たちは自分が存在していることを知るのでしょうか?
 もし私たちを取り巻いている世界があるからだと言うなら、どうして世界のない深い眠りの中でも、あなたが存在していたことを知っているのでしょうか?

質問者
 どうすれば心を取り除くことができるでしょうか?

マハルシ
 心を殺したいと思っているのは、心そのものではないでしょうか?
 心がそれ自体を殺すことはできません。
 それゆえ、あなたの仕事は心の真の本性を見いだすことにあるのです。
 そうすれば、心が存在していないことを知るでしょう。

 真我が探究されたとき、心はどこにも見当たりません。
 真我の内にとどまれば、心の心配をする必要はなくなるのです。

質問者
 どうすれば恐れから自由になれるでしょうか?

マハルシ
 恐れとは何でしょうか?
 それはただの想念でしかありません。
 もし真我以外に存在するものがあるなら、恐れる理由もあるでしょう。
 誰が自分以外のもの(外側にあるもの)を見るのでしょうか?
 最初に自我が現れ、外側に物事を見ます。
 自我が立ち現れなければ、真我だけが存在し、自分以外のものは何もなくなるのです。

 自己の外側に何かがあるとしたら、それは内側に見る者がいることを暗示しています。
 その見る者を探し出せば、疑いや恐れは起こらなくなるでしょう。
 恐れだけではありません。
 自我を取り巻くすべての想念も、それとともに消え去るのです。

質問者
 この方法は一般に言われる「解脱のために探究者に必要とされる特質」(サーダナ・チャトゥシュタヤ)を培うよりも早い効果があると思います。

マハルシ
 そうです。
 自我という中心の周辺を、あらゆる悪い質が取り巻いています。
 自我が消え去ったとき、実現は自然に起こります。
 真我の中には良い質も悪い質もありません。
 真我はあらゆる質から自由だからです。
 質は心だけに属します。
 しかし「それ」は質を超えているのです。

 もし単一性があるなら、そこには二元性もあるということです。
 一という数が、その他の数を生じさせるからです。
 しかし真理には一も二もありません。
 「それ」はあるがままなのです。

244避難民のマジレスさん:2019/10/05(土) 01:14:55 ID:5cT9Awlw0

質問者
 困難は無想の境地に在ることです。

マハルシ
 無想の境地のことは放っておきなさい。
 それはあなたが関わることではないのです。
 歩くとき、あなたは意図せずに歩を進めます。
 行為においても同じです。
 しかし無想の境地はあなたの行為の影響を受けないのです。

質問者
 行為における識別とはどのようなものでしょうか?

マハルシ
 識別は自動的で直観的なものになるでしょう。

質問者
 では直観だけが重要なのでしょうか?
 直観は発展します。

マハルシ
 偉大な真理を発見した人たちは、真我の深い静寂の中でそれを発見したのです。

 自我は大地に映る自分の影のようなものです。
 それを埋めようとするのは愚かなことです。
 真我はただ一つです。
 もし限定されていれば、それは自我であり、限定されていなければ、それは無限の実在なのです。

 水泡は一つひとつ異なり数知れません。
 しかし海はただ一つです。
 同様に、自我は数多くとも真我は一つ、ただ一つなのです。

 「あなたは自我ではない。実在を実現しなさい」と言われたにもかかわらず、なぜまだ自我と自分自身を同一視するのでしょうか?
 それはちょうど「薬を飲むときに猿のことを考えてはならない」という諺のようなもので、不可能なことです。
 普通の人々にも同じことが起こります。
 実在について教えられたのに、なぜ「私はシヴァである」(シヴォーハム)や「私はブラフマンである」(アハン・ブラフマースミ)に瞑想し続けるのでしょう?
 その真の意義を見極め、理解しなければなりません。
 単に言葉を繰り返したり、それについて考えたりするだけではだめなのです。

 実在とはただ自我を失うことです。
 自我のアイデンティティを探し出すことで、それを破壊しなさい。
 自我には実体がないため、それは自動的に消え去ります。
 そうすれば、真理はひとりでに輝き出すでしょう。
 これが直接的方法です。
 一方、他のすべての修練方法は自我を保持しなければできません。
 それらの道を選べば多くの疑いが起こり、究極の問いは最終的に直面されるまで残るでしょう。
 しかし真我探究では、最後の問いだけが唯一の問いです。
 そして最初からこの問いなのです。
 この探究にはいかなる修練(サーダナ)も必要ありません。

 実在として在りながら、私たちは実在を獲得しようと探究しています。
 これ以上の不思議はないでしょう。
 私たちは実在を隠している何かがそこに在り、実在が獲得される前にそれが破壊されなければならないと思っているのです。
 それはばかげています。
 あなた自身があなたの過去の努力を笑う日がやって来るでしょう。
 あなたが笑うだろうその日もまた、今、この瞬間なのです。

質問者
 それでは、それは見せかけの大芝居(ゲーム)なのですか?

マハルシ
 そうです。

 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』にはこう述べられています。
 「実在は私たちから隠され、偽りが真実として顕わになっているのだ」と。
 私たちは実際、実在のみを体験しています。
 それにもかかわらず、私たちはそれを知らないのです。
 これほどの不思議があるでしょうか?

 「私は誰か?」という探究こそ、自我を断ち切る斧なのです。


*薬を飲むときに猿のことを考えてはならない…

「この薬を飲めばあなたの病気は治る。だが1つだけ条件がある。それは薬を飲むときに猿のことを考えてはならないということだ」と医者に言われ、猿のことを考えまいと努力したが、薬を見るなり猿のことを考えてしまい、結局薬を飲んでも効かなかったという昔話に由来する諺。

 いくら「私は自我ではない。私はブラフマンだ」という真理に瞑想しても、「私は自我だ」という思い込みを消し去ることはできない。
 自我を消し去ることができるのは真我探究しかない、とマハルシは説いている。

245鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/05(土) 22:42:21 ID:1d4drIFg0
アートマンについての知識があってもそれは観念に過ぎないのじゃ。
観念をいくら追いかけても悟りは得られないのじゃ。
自ら自分を観察してそれが実在ではないと気付けば厭離が起こるのじゃ。
そして無我になればアートマンも知れるのじゃ。
その他に道は無いのじゃ。

246避難民のマジレスさん:2019/10/06(日) 00:33:00 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話147

カルナータカ州から来たサンニャーシーの質問に、シュリー・バガヴァーンが答えた。

マハルシ
 心には異なった段階がありますが、実現は完全なものです。
 心によってそれを理解することはできません。
 「全知の境地」(サルヴァジニャートヴァ)とは「すべて」(サルヴァム)として在ることです。
 その「すべて」は心にのみ属しています。
 心を超越したとき、あなたは真我としてとどまります。
 現在の知識は限られたものですが、「あの」知識は無限です。

 それゆえ、それは現在の知識では理解できないのです。
 知る者として在ることをやめなさい。
 そうすれば完全な知識が現れるでしょう。

247鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/06(日) 22:51:29 ID:1d4drIFg0
知識を信奉する者は知識が最も尊いものとして、執着してしまうのじゃ。
それもまたこの世で生きるために役立つ観念に過ぎないものじゃ。
多くなればなるほど迷いも多くなるのじゃ。
知識を捨てて知る者として在る事がなければ、真の知識が現われるのじゃ。

248避難民のマジレスさん:2019/10/07(月) 00:49:14 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話148

1936年1月27日

グジャラート州から来た紳士が言った。

「私は音(ナーダ)に精神を集中させています。
 この方法は正しいでしょうか?」

マハルシ
 ナーダに瞑想することは、推奨されている修練方法の一つです。
 この方法を実践する修練者は、特別な恩恵がそれにはあると宣言しています。
 彼らによれば、それは最もやさしく直接的な方法です。
 子守唄が子供を眠りに誘うように、ナーダは心をなだめ、サマーディの状態へと誘います。
 王が長旅から帰還した王子を楽隊で迎え入れるように、ナーダは帰依者を快い手法で神の王国へと誘うのです。
 ナーダは集中を助けますが、その後、修練自体をゴールとするべきではないことに気づくようになるでしょう。

 ナーダが目的なのではなく、主体をとらえなければならないのです。
 さもなければ、空白状態に陥ってしまうでしょう。
 その空白状態にあってさえ主体は存在しています。
 それでも、さまざまな音(ナーダ)が止まったことに彼は気づかないでしょう。
 その空白状態にあってさえ気づくようにするためには、自分自身を覚えていなければなりません。
 音への瞑想(ナーダ・ウパーサナ)は良い方法です。
 もし探究(ヴィチャーラ)と組み合わせるなら、さらに良くなるでしょう。
 その場合、ナーダはチンマヤ(純粋意識、知識)との組み合わせ、またタンマヤ(真我への没入)との組み合わせとなります。
 ナーダは集中を助けるのです。

249鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/07(月) 22:41:56 ID:1d4drIFg0
マハリシも集中と探求の二つを教えているのじゃ。
ただ集中するだけではサマーディに到達し、更に対象のないサマーディにまで到達しなければならないのじゃ。
それでは時間もかかり、才能の無い者には無理なのじゃ。
集中と自己の探求をあわせて悟りも速やかに訪れるのじゃ。

250避難民のマジレスさん:2019/10/07(月) 23:45:58 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話149

1936年1月20日

サードゥが尋ねた。

「バクティ(帰依、信愛、明け渡し)には身体を忘れる状態があるのでしょうか?」

マハルシ
 なぜ身体を気にするのですか?
 バクティを実践しなさい。
 身体に何が起こるかは心配せずにいなさい。

251鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/09(水) 00:22:40 ID:1d4drIFg0
実践に対して不安が一つでもあるならば、どのような答えを聞いても次から次へと不安は湧いてくるじゃろう。
知識とはそのように増えていくものじゃ。
知識があれば不安が生まれ、不安を解消するための知識が又不安を産むのじゃ。
その繰り返しを続ければ実践も出来ないのじゃ。
知識を捨てて実践することが聖者の真の教えなのじゃ。

252避難民のマジレスさん:2019/10/09(水) 03:32:37 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話150

アメリカから来た年配のケリー夫妻とその同行者が尋ねた。

「瞑想で座るときの足の痛みや蚊に刺されたときなどの不快感を克服し、集中を得るには何をすべきでしょうか?」

マハルシ
 もしあなたの集中が正しく行われれば、不快感に悩まされることはないでしょう。
 不快感については気にせずにいなさい。
 瞑想中の心を安定させなさい。
 蚊に刺されることに耐えるほどの精神力と忍耐力もないのに、どうして真我実現を望めると言うのでしょう?
 実現は人生におけるあらゆる苦難の只中にあるべきものです。
 快適な環境を整えてべッドに行くなら、眠ってしまうばかりでしょう。
 困難に直面しながらも、瞑想の内に安定しなさい。

253鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/09(水) 22:45:28 ID:1d4drIFg0
本当に集中していれば何が起きても気にならないのじゃ。
瞑想中にそばで雷が落ちて人が死んでも気付かなかったという行者も居るのじゃ。
気になるのは集中していないからなのじゃ。
対象に没入して自分も忘れれば気になることなど一つも無いのじや。

254避難民のマジレスさん:2019/10/09(水) 23:18:36 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話151

1936年1月31日

アメリカ人紳士は耳が少し不自由で聞き取ることが困難だった。

「若いころから自分で自分の面倒を見てきたので、自然と聴覚の衰えに不安を感じているのです」と語った。

マハルシ
 あなたは自分で自分の面倒を見てきたのではなく、自我があなたの面倒を見てきたのです。
 自我に頼ることがなくなり、本当に真我に頼るようになるのは良いことです。

 心配することはありません。
 感覚を克服することは真我実現の前提として欠かせないものです。
 一つの感覚がすでに神によってあなたのために抑制されたのです。
 そのほうがずっと良いではありませんか。

質問者
 マハルシのユーモアはありがたく思うのですが、それでもまだ自尊心が傷つくのです。

マハルシ
 真我はただ一つです。
 もしあなたが自分の間違いを責めたり叱ったりしたなら、あなたは傷つくでしょうか?
 もし真我をとらえれば、あなたを責める他者(あなた以外の人)は存在しないのです。
 世界に目を向けると真我を見失ってしまいます。
 その反対に、真我をとらえれば世界は現れないのです。

255鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/10/10(木) 22:28:59 ID:1d4drIFg0
制感が為されればアートマンに近づくのじゃ。
自分ではなく、自分のものでも無い感覚を失くすのは苦ではないのじゃ。
自我が投射されていれば苦と思うのじゃ。
本来無いものを失ってもアートマンから何一つ欠けるものはないのじゃ。
永劫に無欠なのじゃ。


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