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現代人が納得できる日蓮教学
1
:
管理者
:2005/07/16(土) 10:06:55
新しいスレッドテーマの提案が有りましたので、立ち上げます。提案文は以下の通りです。
1721 名前: 顕正居士 投稿日: 2005/07/16(土) 06:59:06
ここは「つぶやきすれっど」なので1700 1705 1706 1709 1718 1720などの内容について意見を交換するスレッド
を作ってはどうでしょうか?「現代人が納得できる日蓮教学」とか。
わが国の仏教の「現代」はいつ始まるのか?飲光慈雲が悉曇学を復興し、富永謙斎が経典成立史を解明した
18世紀だろうとおもいます。この時点では睡眠中の仏徒は未だ覚醒せず明治の廃仏に至った。ようやく各宗は
欧州へ留学生を送って、現代仏教学が誕生した。以後、わが国の仏学の発達はめざましい。だが各宗の先哲、
さまざまに改革の努力をしたけれども、ついに葬式仏教から脱化しなかった。現代仏教学の知見は薄弱にしか
普及せず、伝統宗学の学習すら衰退した。そこで人民の宗教需要はほとんどが新興宗教に吸収されていった。
結局、わが国の仏教は今は整然、3種類に分かれるに至った。学問仏教、葬式仏教、仏教系新興宗教である。
伝統宗学も学問仏教に属する。いつの時代でも高等な学問は少数学僧のことで、在家信者の多数は基礎的な
宗学も知らなかったといえばそうであろう。問題は間を繋ぐ一般僧侶の教養である。かつて日蓮宗諸派の壇林
では能化に至るのには20年ほどかかった。天台の六大部を隅々まで学習するのにはそれくらい必要であった。
今日では僧侶と在家信者の教養には大差がないから、仏教学者、宗学者たちは直接に在家信者を対象にした
著作をよく出すようになった。葬式仏教、新興宗教に満足しない読者は増加しているようである。読書仏教の
隆盛である。わが国の仏教が結果的に当たり前のところに到着したのだといえる。現代仏教学の見識の上に
立った仏学書を手引きにして、次には自ら仏典を読む、それが在家仏教徒の基本である。中国、台湾の仏教
はまったくこういうあり方である。漢文がわれわれよりも楽に読めるからであるが、仏教学が発達した日本では
サンスクリット語、パーリ語からの現代日本語訳経典も溢れており、仏教を学ぶにはわが国が最高の環境です。
2
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 11:29:50
顕正居士さんの整理は、さすがに的確であると敬服します。
わたしは新興宗教の家庭に生まれて、やがて末寺から本山を在家という立場から、そして、経釈読みに入っていきました。この経験でいちばん、よくわかったことは「ご都合」を背負った人の御説は、それがどんなに人の尊敬を集め、権威と呼ばれるところであってもご都合の垢で汚れていると言うことでした。つまり、清掃しないと役に立たないということです。
この垢はまた、簡単にこちら側に付着します。付着した垢はコピペのようなものですから、付着した本人は自分の頭で考えた自分の言のように語りますが、コピペ元を知っていれば、すぐにわかります。
重要な点は、このような垢まみれの人は、自分が垢まみれであることも、また、コピペしただけであることにも気付けないと言う点です。このスレッドは極めて、重要な意味を持つことになると思います。
この清掃ができる人は、実に数が少ないのです。わたしはこのスレッドによって至るところは、文献考証もさることながら、結局のところ、この清掃のできる自由精神に至れるかどうかということであろうと思います。
投稿される方は、以上の点を、投稿の際に、どうか思い出してみてください。
ご提案の顕正居士さんは、もちろん、この‘清掃’を先駆けてできた希有の逸材であったと、わたしは尊敬しております。
3
:
ラキ
:2005/07/16(土) 13:12:06
1)石山系教団で初歩教学で「三転読授」に付いて。
学会・顕正会では「三転読授」の意味すら知ってる方は少なく感じます。
「三転読授」の意味を知ったのが、役20年前の入信当初、基礎教学の本を読んでいて、
勤行の姿勢の項目で、勤行の速度は喋る速さで読授と書いてあったので、
疑問に思い、当時の地区リーダーに尋ねました。
その時「三転読授」の事を始めて知りました。
十にょうぜいを三回繰り返して読授が「三転読授」と言う、教え方は間違いではないのでしょうか?
2)学生の小僧さんがどうしゅの勤行のとき、高速読授&1分題目て惰性で勤行してるように感じております。
何故このように感じたか。
それは夕方の勤行の時間に、早く行く時と遅くギリギリの時があり、その時の印象なのですが、
早く行って唱題をしていると、10分前には勤行の準備をいつも始めております。
ギリギリの時間に行った時は、準備もしてなくて、唱題をしてると少し遅れて、勤行の準備を始める事が良くあったからです。
5時半と時間が決まっているにもかかわらず、5分ぐらい遅くなる事はしょっちゅうありました。
惰性で勤行と感じたのは、早く行った時の勤行のしたくをしてる姿が、信徒がきてるから仕方がないな、と雰囲気で準備も乱雑な感じが見えたからです。
学会に対して3分勤行と批判してる宗門が、学会に負けない速度の高速勤行はおかしいと感じずにはおれません。
勤行の速度だけ限定すれば、顕正会の勤行の速度が一番理想の速度だと思います。
各教団で一番気になるのは、
1)勤行の意味そして読授の意味を理解していないのではと感じる事。
2)合掌の姿勢と数珠の取り扱いの意味も理解されたないと感じる事。
このような基礎教学的な事を確り教えて行ってない、各教団のあり方は、
変ではないと感じております。
私の周りだけかも知れませんが、ご助言いただければ幸いです。
4
:
顕正居士
:2005/07/16(土) 13:36:50
現代仏教徒は各宗各派の教理の相違をどう考えるべきか?
高遠な考察はしばらく措いて、できる限り単純に実際的にこれを考えてみる。浄土真宗、日蓮宗等と称するのは
仏教の中の宗だからである。また何々派と称するのはある宗の中の派だからである。したがって派祖の見解が
宗祖の見解と相違すれば、宗祖の方をとるべきである。宗祖の見解が仏陀の金口と相違すれば、仏陀の金口
をとるべきである。これ以外にあり得ないから、少なくとも建前では皆が承諾して来た事柄である。
では何をもって仏陀の金口とするのか。顕教では2500年前に閻浮堤に出現された仏陀釈尊が実際に説かれた
教えである。そうでないと云った人はいない。昔から偽経、偽論ということも云った。したがって後世成立の経典
の説の中で著しく仏陀の直説と相違するものは仏陀の金口の延長解釈とすることはできない。
現実に存在する経典は北伝、南伝ともにその大部分は後世の加上である。須弥山宇宙など自然科学未発達の
故の説は仕方がないが、歴史的な事実の記載の誤り、道徳上大いに問題とすべき教えなど、無益有害の部分
が実際には少くない。ディグナーガ(陳那菩薩)は仏教においては外教のように聖教量を立てるのは不可である
と決択している。経典の説は経験と推理に合致するがゆえに採用されるに過ぎないからである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%82%A3
ゆえに後世の加上であり、かつ科学、道徳とも合致しない説は仏陀の金口ということはできない。ただしこれを
反対にいえば、仏陀の金口から発達し、かつ科学、道徳と合致する宗祖、派祖、その他の師の説はそれぞれ
の宗や派の伝統教義として尊重されるべきである。
5
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 14:24:21
3のご投稿は問うスレの趣意に必ずしも一致しませんので、素朴な疑問でお応えしました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/2544
6
:
パンナコッタ
:2005/07/16(土) 14:47:14
教義の変遷を、良くも悪くも”進化”と捉える物の見方はどうでしょうか。
モノを生命と見立ててシミュレートしていく「人工生命」的手法で(学会の主張する宇宙生命論とは
全然違うもの)歴史・教義の変遷を改めて見直してみると、また別の側面からの分析が可能かと思われます。
また、あくまでシミュレートということで、自分の宗教的信念を切り離して
別に思考・論考するという事も出来ると思いますので、考え方の一つとして如何でしょうか。
人工生命の参考
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/sakuralab/main.htm
7
:
顕正居士
:2005/07/16(土) 16:08:50
>教義の変遷を、良くも悪くも”進化”と捉える物の見方はどうでしょうか。
これが富永仲基が250年も前に発見した「加上」という法則です。日本仏教史や日蓮宗宗学史を研究される
方は今はみなこの法則を応用して考察しておられるでしょう。4はあらゆるそういう高遠な事柄をしばらく措き、
現代の仏教徒が初心入門の際から注意することが可能な考え方として述べました。
日蓮聖人の曼荼羅は雑乱勧請であると唱える宗派すらある。どんどん進化したり、あるいは退化したりして、
信者が集まりさえすれば、それが宗派として継続するのが実相です。そういう意味では自然現象と同じです。
8
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 20:38:09
「現代人が納得できる日蓮教学」という言葉は、では、人々はなにを納得していないのかという問の表裏ですね。また、どんなに嫌がられても、これをやめると組織の存続が成り立たないというせめぎ合いとも関連しています。
現代社会は、宗教によって、物事が決まっているわけではなく、憲法・法律によって主付けられているわけです。
基本的人権、民主平等に違反しないということです。
まず、この段階で、学会を含む石山教学は、人々から受け容れられないのでしょう。
また、科学によって証明されています。違憲、違法の宗教は受け容れられないというのが大前提です。非科学的なものは、もはや受け容れられません。
日蓮教学でいう最大の価値というのは、どうやら「信」ということなのかと思えます。
自分たちを信じる者は正しく、信じない者は間違っているという鉄則です。
宗教に差別があるのは当然だともします。当然だとするのは勝手ですが、差別意識は、社会一般から受け容れられないわけです。
社会一般からすれば、なにを信じようと・信じまいとその人の基本的な人権は保障されていますし、罰せられることはありません。ところが、この信仰世界では、そうはいかない。自分たちがいちばん、正しく、世界唯一の指導者であり、世界最高の教義であり、世界最高の本尊であることを認めないと成り立たない。
つまり、この構造は自分たちを最高とする‘ピラミッド’を信じるか・信じないかという差別によって成立しているわけです。このピラミッド構造のなかに為政者、就中、天皇をどう引き込むかに腐心してきたわけです。この差別感を信仰心であると勘違いしているのに過ぎません。
日蓮はこの規範を法華経に置き、これを涅槃経から考えたわけです。他のスレで議論しましたが、浄土念仏、真言禅を信じ、法華経を信じない僧侶は刎頭断罪にすることが仏教だと言ったわけです。中世以降の日蓮門下も「見壊法者・置不呵責」を折伏と言うも天文法難も経、檀家制度ともなり、近代では日輝以降、それを捨てた。しかし、近代、それがそれを田中智学等が復活した。また、戦後は創価学会が折伏大行進と言って、大石寺の血脈、彫刻本尊、日蓮本仏から、組織会長絶対を言い、近年、これを捨て、顕正会は戸田原理主義を模倣し、いまや世間の顰蹙を買っているわけです。
何度も記したことですが、「折伏」(折り伏せる)などという言葉で、事故の信念を押し付けるような態度は、差別的、自己絶対を強調する異常行為として、その言葉自体に不快感が懐かれるのは、当然のことであろうと思います。
この構造のなかで人びとが受け容れないのは、ファンダメンタリズム、呪物崇拝、カリスマ崇拝、信・不信差別、そして、強引な勧誘ということでしょう。わたしは個人的には公明党も受け容れがたいところですが、選挙戦法の勝利というか、ともかくも、いまや政府与党と手を組むわけですから、どういう訳か、日本国民は公明党を受け容れていることに、結果的になっています。
9
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/07/16(土) 20:38:38
―9からつづく―
いまは創価学会は教義その他を変更してきていますが、ここはひとまず、近代という括りで同一に論じます。
人々が受け容れないのは、教義と言うより、信・不信に端を発する‘差別’ということであり、これは換言すれば、基本的人権の侵害は受け容れるはずはないということです。これは教義以前の問題です。ところが、これら集団の最も壊れているところは、世間法より、仏法のほうが上にある、具体的に言えば、優先されているという勘違いです。そして、差別するのは当然とも思っています。
この勘違いは、シオニズム(選民思想)を構築しています。信じているものが正しく勝れ、信じないものが間違い劣っているという判断です。このような構造を持つ宗教は、社会一般から受け容れられないということです。これは教義以前の問題です。
教義的に言えば、近代の科学発展は、日蓮が言っていたことの誤りを次々と露見させてきたわけです。また、中世以降の門派教学についても同様です。
この点については、「つぶやきすれっど2」1705で挙げたとおりです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/r1705
石山に限って言えば、だいたい、抜けた歯にくっついている肉が生きて増殖しているなんてことをいまだに言っているのは、呆れ果てるばかりです。しかも、「いや、そうではない。そう、いわれてきたことを素直に、そう信じるのが信心だ」という内部者のレクチャーは、ほとんど、社会から乖離した戯言に過ぎません。この点は彫刻本尊に対しても言われることで、実は本物は別にあって、いま見せているのは、一般信者向けの見せ物だというわけです。本当か・嘘か知りませんが、「一般信者なんかに本物は見せない」というのですが、今の時代はこういうことを詐欺といいます。
以上の点は、教義以前の問題で、社会通念に違反するものは受け容れられないと言う大前提すら守られない実態といったところでしょうか。
また、世界人口の、多く見積もっても、0.015%しか信者がいないトップを世界の指導者というのは、わたしは誇大宣伝に属すると思えます。いくら、世界の著名人と会って、勲章が100個集まろうが、ただ、それだけでしょう。これは、数十年かかって、女子高校生中心に勧誘を行い、累計数が100万達成で最高の指導者というのも同様であろうと思います。数千人規模で集まったイベントがそのような錯覚を演出しているのに過ぎません。純粋で騙されやすい人間を集めて、嘘八百を並べても、嘘は嘘です。法華経は釈尊の説いたものではなく、日蓮教学は現代科学の前に破綻している以上、国立戒壇もあったものではありません。
やや、話を拡大すれば、ここ10年、日本人が「ノー」と言ってきたのは、いわゆる、カルトということでした。この理由は至って簡単で、反社会的という一点にその理由があります。また、この信念体系化に陥ることによって起きる人格変化も、拒否の対象です。
日蓮教学も含めて、宗教外一神教化するところには、差別と暴力が発生するという普遍的な原理があると見聞できます。しかし、人々にとって、何を信じているかは問題ではなく、何をしているかが問題であるわけです。
目的達成のために暴力が肯定されるのであれば、もはや、それを受け容れる人はいない、仮にいるとすれば、それは受け容れたのではなく、屈服したのに過ぎないわけです。それは自由と、人権の侵害であるということでしょう。
10
:
陣内
:2005/07/16(土) 21:02:59
>法華経は釈尊の説いたものではなく、日蓮教学は現代科学の前に破綻している
とすれば、それでも日蓮・日蓮教学にこだわる理由は何でしょうか?
やはり、何らかの形で日蓮を信じているのですか?
11
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 21:16:30
> 日蓮・日蓮教学にこだわる理由は何でしょうか?
> 何らかの形で日蓮を信じているのですか
過去40年間、自分が信じてきたものの種明かしは、日本という社会の今後の役に立つと思うからです。要は、自分と同じ無駄を省略できる人を減らしたいという思いです。
ところで、そう尋ねるとあなたは、始めての書き込みですか。
人にものを尋ねるときは、挨拶ぐらいするものですよ。
12
:
陣内
:2005/07/16(土) 21:36:27
すみません。久しぶりに書き込みました。以前、別スレッド「摂受と折伏について」で一度
お話致しましたね。
>自分と同じ無駄を省略できる人を減らしたいという思いです
では、日蓮教学を否定していかれるのか、現代人が受け入れられるように
修正していかれるのかといったことをお聞きしても宜しいでしょうか。
13
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 21:57:26
そうですか。お話しましたか。いま、確認しました。最近、どうも耄碌してきたようです。ご勘弁ください。
> 日蓮教学を否定…現代人が受け入れられるように修正
事実の形を事実のままに記述することは否定ではないと思います。いわば、分析でしょう。もちろん、信仰とは違います。また、わたし自身が修正すれば、もはや、それは日蓮の教学ではなくなります。ですから、まず、日蓮の教学の原形を探る段階で、中途の添加をまず削除し、ついで、現代以降も耐用性のあるものがあるかどうかを探る作業をしているわけです。
さて、残るかどうか、現時点では、答えが出ているわけではありません。
なお、わたしの言が、日は的であると思う場合、大概の日蓮僧俗の反応は、必ず批判する側への攻撃となります。これは日蓮僧俗の嫌われる原因の一つですね。
わたしが悪いところを挙げれば、実際に社会に受け容れられている善い点を挙げるというのが、最も効果的な方法であると、わたしは思います。
14
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 21:59:36
【13の訂正】
誤)日は的
正)批判的
15
:
陣内
:2005/07/16(土) 22:19:09
有難うございます。
>日蓮の教学の原形を探る段階で、中途の添加をまず削除し
とはいいましても、大まかなアウトラインは動かないのでは?
つまり、法華経が諸経より勝れているという主張も添加である
とは言えそうにないので、法華経が >釈尊の説いたものではなく・・・
というのであれば、基礎が潰れるので、>現代以降も耐用性・・・ は絶望的です。
16
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 23:02:53
> 現代以降も耐用性・・・ は絶望的
法華経が釈尊の説いたものといいう点は、絶望的はおろか、既に破綻しています。
しかし、法華経が説こうとしたもの、目指そうとしたものが、精神的に卓越したものがあれば、そうとは言えないかも知れません。
キリスト者が、世が1週間出来た天地創造やら、土からできたアダム、肋骨からイブが出来たとかという話をかつては絶対の真実としていながら、いまでは寓話として、精神、社会貢献で生き残ってきました。精神・生活規範として、人類に貢献する部分があれば、生き残るでしょう。そのようなものが日蓮にあるかどうかです。
17
:
陣内
:2005/07/16(土) 23:59:07
>法華経が説こうとしたもの、目指そうとしたものが、精神的に卓越したものがあれば、そうとは言えないかも知れません。
そうですね。その方向性なら、きっと実りある作業になろうかと思います。
質問に答えていただき有難うございました。
18
:
犀角独歩
:2005/07/17(日) 00:05:33
陣内さんは、なかなか‘肉’のある応答をされる方ですね、いま、はじめて印象に残りました。
また、お気軽にお声掛けください。今度は、記憶しました。
この次、わたしが「はじめてですか?」と書いたら、「これは耄碌している」と諦めてください(笑)
23
:
問答迷人
:2005/07/17(日) 21:34:11
>法華経が説こうとしたもの、目指そうとしたものが、精神的に卓越したものがあれば、そうとは言えないかも知れません。
僕は、現在も日蓮聖人を宗祖と仰いでいますので、この点については賛同しますが、さらに以下の様に考えています。
日蓮聖人が説こうとしたもの、目指そうとしたものに、卓越したものがあると信じているので、破綻しているとは考えていない。
そして、日蓮聖人の教えの卓越性を自分の行動、人生に顕したいと願っています。
24
:
顕正居士
:2005/07/17(日) 22:23:00
Aさんが「素朴な疑問」スレッドの2543に投稿された堀米日淳師(大石寺65世)の文章にはこのスレッドの4に
述べた「派祖の見解が宗祖の見解と相違すれば、宗祖の方をとるべきである。宗祖の見解が仏陀の金口と
相違すれば、仏陀の金口をとるべきである。これ以外にあり得ないから、少なくとも建前では皆が承諾して来た
事柄である」と、一見は異なる考え方があらわれているので、この文章を考察してみたいとおもいます。
Aさんが御投稿の文章を次に転載します。
25
:
顕正居士
:2005/07/17(日) 22:23:59
日蓮聖人と法華経
日蓮聖人と法華経との関係は聖人の教義を領解し奉る上に最も大切なことで、根本的の問題
であり又教義そのものでもある。古来門下の教学に於て幾つかの異義が行われておるが、結局
此の関係に於て見解が異っておるからである。或るものは終始法華経を中心として、聖人の御
一代の弘教を判断してゆこうとするし、或るものは聖人を中心として法華経を判断してゆこう
とする。此の二つの立場が基礎となつて、大きく二つの潮流をなして、此の上に幾つもの異義
が成立しておる。
そこで聖人の教義を正しく領解し奉るには先ず此の立場が批判されねばならない。法華経は
仏教の教典中最勝第一であるとし、此れを鉄則として、聖人の教義を此の眼で見て、御一代の
弘教を会通し法華経の要約と敷衍とにあると考えることは、聖人の教学に於て正しい立場とは
いえない。聖人の教義はあくまで聖人の御書に依て判断せられねばならない。
もつとも此の点については上述の無条件に法華経を中心として判断するものと.聖人の御書から
その帰趨は法華経を中心として聖人の弘教をその要約と敷衍とにあるとするものとがあるが、
そういう立場をとる人は知らず知らずの間に前者の跡を踏襲しておるものである。
此れは教学の上から見れぱ明らかである。
最初聖人の門下に於て教学を学ぶものが先ず仏教学として天台を学び、その上に聖人の教義を学
んだのである。それがために天台の教義に制約せられて、真に聖人の御精神を領解し奉ることが
できなかったのである。
後に於ては、かくして成立した教義を踏襲して如何に之を証明づけるかということに努力が払わ
れたのであった。
聖人の御書に接することができるようになってからもその流義のきはんに束縛せられたものには
寧ろ御書はその流義の証明に役立たせるにほかならなかつた。
此れについては二祖日興上人が「聖人の御抄を心肝に染め、極理を師伝して若し間あらば台家を
学ぶぺきこと」と、御遺誡置文に仰せられたが、学者は先ずその態度をはっきり決定して、法門
を学ぶべきと教えられたもので、当時門下に於て天台を学び、その教学を中心として、聖人の
教学に臨むという風があったのに対する御誡めである。聖人の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって
決定されねばならない。
ここに於て論者の中には、釈尊と聖人とに於て仏教といえば釈尊が主である。聖人の御書の
意と釈尊の法華経の意といずれをとるかといえば法華経をとるというものがあるが、此れは法
華経に上行を称歎せられ、於諸法之義名字及言辞楽説無窮尽如風於空中一切無障碍と仰せられ
た御文からいって釈尊の証明を尊重しないものである。此の経文の意からいって聖人の御教示
は末法に於ける仏教に於て絶対に権威のあるものである。それ故に聖人の教義は御書に於て決
定せられて少しも差支えないのであって、そうすることが最も正しいのである。 以下略
26
:
顕正居士
:2005/07/17(日) 22:25:50
1 「聖人の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって決定されねばならない」
まずこのことは当然です。天台妙楽の釈などともし相違するところがあっても無理に「会通」をするべきではない。
派祖やその後の諸師の説と相違するところがある場合にも、同様に無理に「会通」をするべきではありません。
および日蓮聖人の遺文の趣旨は13世紀日本の社会状況を理解して読まれねばならないし、語法は当時の文書
を参考に解釈されねばなりません。
2 「二祖日興上人が「聖人の御抄を心肝に染め、極理を師伝して若し間あらば台家を学ぶぺきこと」と、
御遺誡置文に仰せられた」
日蓮を学ぶ者はまず遺文をその意義を理解せずとも、おおよそこれを暗記すべきである。これも当然のことです。
ただし遺誡置文は興師の作でなくても上代の著述に属し、日蓮を学ぼうとする成人についていう。少年得度僧に
「台家を学ぶ」学力などあり得ないから。
3 「或るものは終始法華経を中心として、聖人の御一代の弘教を判断してゆこうとするし、或るものは聖人を
中心として法華経を判断してゆこうとする。此の二つの立場が基礎となつて、大きく二つの潮流をなして、此の上
に幾つもの異義が成立しておる」
「二つの潮流」というから一致、勝劣のことであろう。一致、勝劣は教義的というよりは党派的な区別である。
および「法華経を中心」とするならば、天台妙楽の釈に必ずしも拠らない、以外の先哲の解釈を採用することが
ある潮流の意味であるが、日蓮宗史上にそういう派は存在しない。
4 「釈尊の証明を尊重しないものである」
これを、大石寺は仏教に非ず、独立の教なりとの趣意に解すれば、誰を開祖とするかの問題が起こる。宗祖の
遺文はことごとく「釈尊の証明」に訴えている。この派の教義を大成した日寛師もわが派が仏教から独立すると
いう宣言はしていない。大石寺がすでに仏教、キリスト教などと並列する独立の宗教だというのは構わないが、
開祖の名や開宗の年号をいうべきであろう。あるいはこの文章がそうなのであろうか。
27
:
犀角独歩
:2005/07/17(日) 22:32:15
ちょうど、投稿文を書いていましたら、問答さんのご投稿がありました。また、顕正居士さんのご投稿もありましたので、一応、書き終えたので、投稿することにします。追って、顕正居士さんのご投稿については、拝読させていただきます。
問答さんは「破綻」とは考えないとのことですが、わたしも精神論、信仰として完全に破綻したとは思っていません。ただ、「法華経は霊山八箇年の本懐の、お釈迦様が説いたもの」と言った類の部分で破綻したという意味で記しました。
> 日蓮聖人の教えの卓越性
この点をしっかりと言語化でき、実践化できれば、たしかに21世紀に日蓮は継承されていくだろうと思います。
その前提で、科学実証主義の前で、もはや日蓮の教えは消え去っていくのか、どうなんだろうという点を観察しています。日蓮は鎌倉時代の人ですから、日蓮のパーソナリティでいまの学問的成果を掌握したとしたらどうするのかという建て直し方も可能かも知れません。それとも、日蓮本仏下のように、学問的成果を認めず、御書は全編、真筆、相伝も事実、法華経は釈尊の直説、羅什は最高の漢訳者、天台・妙楽・伝教の釈は最高という100年前と変わらぬ教え混みを信じ込むことだけで、自分の信仰を成り立たせるのか。さて、どうするのかという問いかけを、当スレは含んでいると思います。
顕正居士さんが学問仏教、葬式仏教、仏教系新興宗教と三つに分類してくださったところは、たいへんにわかりやすいと思います。上記の事情を考える、適当な名前は思いつきませんが、伝説・神話仏教といった18世紀以前の形をそのまま、信仰する形態というのも一つ分類に立てられる気がします。因習仏教と言ったところでしょうか。そして、それが日蓮門下一般の形態で、学会を含む石山という信仰圏はこれに当たる気がします。それでも、学会の破門(独立)後は、ここからの転換を図っていると言えるのかも知れません。しかし、今のところは何もまだ成功していません。
学問仏教は、科学的、学問的成果を追求し続けます。しかし、岩本裕師が言うような門派護教といった自己肯定化に陥る自分(僧)と自分のお客さん(檀家)へリップサービスをするような学者の言うことは、掃いて捨てればよいのでしょう。要は「ご都合」の清掃です。言っていることのどこまでが、保身から、事実を枉げているところかを見極めないと、「大学者」の言うことだから正しいなどという坑に墜ちます。「学問とは○○先生の書いていることだから」ではなく、「最も信頼の出来る、最も新しい学問的成果は何か」を見る姿勢を忘れれば、カリスマ信仰と何ら変わらないものになってしまいます。
葬式仏教は、どうでしょうか。これはわたしが一つ付け足したらどうかと言った檀家制度以降の旧態依然とした科学の進歩から置き去りにされることで成り立っているところでしょうか。まあ、葬儀にニーズがあれば、わたしは、故人のためというより、遺族の満足のために、この形が、まだ少しは生き続けるとは思います。案外、この形を壊し始めたのは創価学会の友人葬なのかもしれません。それまでの葬儀に‘慣れた’人からすれば、違和感があり、高級感がなく、なんだか、即席、適当にやっているという印象を与えているようです。しかし、尊敬もしない坊さんは呼ばないという学会の考えは、まあ、わたしには一つの形と映じます。「あと、30年もすれば、坊さんは葬式で食えなくなる」、そう言った日蓮宗僧侶がいらした。正しい分析であろうかと思います。
28
:
犀角独歩
:2005/07/17(日) 22:32:42
―27からつづく―
わたしのところには毎日のように多くの相談が寄せられますが、最近、「戒名ってどうやってつけるんですか。自分でつけちゃ駄目ですか」といった類の問い合わせが入るようになりました。漫荼羅でさえ、ネットからダウンロードして、自分の納得のいく紙を選びプリントし、表装することが起きている現在、自家製戒名は、ある意味、戒名不用と並ぶ、新たな時流となるのかも知れません。わたしはこれもありだと考えます。「親からもらった名前ではなく、ネットでは自ら決めたハンドルネームで行く」というのが、先駆けであれば、死んだのちの自分の名前(戒名)を自分で決めるという流れが生じるのは、寧ろ必然とすら思えます。
宗教は所詮人間が作ったものだ。人知を越えたものなど、実は何もない、という当たり前のことがわかると、いままでの脅迫衝動は一挙に消滅します。「まだ、科学でわからないことはたくさんある」、そんなことは当然ですが、しかし、そのあとに、故に、わたしは続けてきました。「だから、科学性以前の宗教じゃ尚更のこと」。
しかし、人間は老いさらばえて、やがて病み、死にます。この摂理の前で、日蓮さえ、無力でした。無宗教の人が立派に死んでいく姿をわたしは幾例も見てきました。また、反面、唱題の力で、闘病を越え、立派な死を迎えた例もたくさん、見ました。
原型の仏教より、それ以降の発展系のなかで、秀でた部分もたくさんあると思います。
シャキャムニの教えは、林棲し、死に向かう教えという側面が強い気がします。ですから、一般社会を生きるためには役に立たないところもたくさんあります。しかし、それだけに死に行くためには有効であると思えます。
日蓮の教えはどうでしょうか。その教学体系=法華経釈尊究極の直説という教義大綱は、先に記してきたとおり、既に潰えてしまいました。けれど、実際に、唱題をした、各人の実体験は、そのような点を超えて人生に大きく役立った部分もあります。反面、勤行唱題に逃げ込んで、それだけで自己満足してしまう思考と行動の停止を呈しているという信者が気が付けない坑に墜ちている部分もあります。
四箇格言差別とも言うべき日蓮門下の脅迫衝動。彫刻本尊信仰圏で言えば、模造の彫刻、日蓮本仏、血脈談義。信不信によって醸造される差別と憎悪です。
しかし、日蓮の消息文に見られる細やかな感性、(日蓮なりに考えたことであったにせよ)正しいこと、それを貫こうとする正義心。親を思い、国を思う心等。賛同し、見習うべき点は数多あるようにも思えます。
現代人が納得できる日蓮教学は、換言すれば、 現代人を納得させられる日蓮教学ということでしょうか。しかし、その教学は集団、指導者の商業ツール、説得、購買動機の説明原理から決別し、各個人的な精進のために吟味する段階に入ったのだと、わたしは思います。
29
:
犀角独歩
:2005/07/18(月) 09:09:54
> 25
このような姿勢は、多かれ少なかれ、門派・派祖教学には、日蓮に限らず、恵心流口伝法門辺りでも見られることなのでしょうが、しかし、なんとまあ、ひどい文章だと思いました。こんなものを読んで「素晴らしい」と思うとすれば、これはかなり重症だというほかありません。
そもそも言うところの「御書」は真偽選定すらされていない自分達のご都合で解釈されるところであり、石山においては、たとえば、「釈尊」とあっても、それを「日蓮」と読み直し、本仏の意義を添えてしまうわけです。第一段階として、御書によるといいながら、実は相伝に拠っているのであって、その相伝は日蓮に由来すると信じるという条件を勝手に付したうえで、唯授一人の指導者のみが正しく相承し、その解釈権も保持するというわけです。こうなれば、どのような解釈も可能であって、つまるところ、御書のとおりでなくても一向に構わないと言う悪弊が生じることになります。
なるほど、どのような形で、勝手解釈が罷り通るようになるかを示す好見本のような文章であると思った次第です。
30
:
01
:2005/07/18(月) 13:59:18
ここまできましたか。うーむ。
31
:
空即是進化
:2005/07/18(月) 21:37:11
管理者さん、顕正居士さん、犀角独歩さん、本スレッド立ち上げありがとうございます。
息をひそめて議論の展開を見守っている方が、かなりいらっしゃるのではないでしょうか。
簡単に結論が出るようなものでないことは百も承知ですが、よろしくお願いします。
特定の宗教を信じることの怖さを改めて感じる日々ではありますが、何らかの超越した
モノを欲するのも人間の本能の一部ではないでしょうか?
特に子育てをしていて思うのは、親として子供たちに自信を持って伝えるものが無いと
いうことのさびしさです。
敗戦後の親たちは、それまでの価値観を捨て去り、新たに信ずるものを求めて、子に伝
えようとしてきました。それから60年、私たちは何を伝えようとするのか。
「21世紀の日蓮」に期待するところ大です。
今のところ、私の方から情報提供できるようなものが思い当たりません。それでもよけ
れば、次回のオフ会に参加したいと思うのですが。
32
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/07/19(火) 08:24:50
空即是進化さん、オフ会への参加を歓迎します。
さて、先に挙げた15のことは、わたしは実はかなり早い時期に自分では知ってました。しかし、閉じた心がそれを事実として受け入れませんでした。たぶん、ロムされている方の大半も、段階の差こそあれ、いまはそのような状態ではないでしょうか。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/r1705
残念ながら、わたしがここで確認したことは紛れもない事実であって、もはや動きません。しかし、日蓮は、法華経が釈尊最期8年の唯一最高の極説であるという大前提から、その教理を打ち立ていました。そして、日蓮にとって、信行学は相依矛盾しないものであって、分離して考えるものではありませんでした。しかし、現代の日蓮信奉者は、その分離を余儀なくされています。
わたし自身、僧侶の、また、信者に多くの知人があり、友人があり、以上のことをストレートに述べることに躊躇がありました。また、それをストレートに認めてしまうことは、自己実存の否定ともなる点で恐怖を帯びていたために回避していたのも事実です。しかし、そのような惰弱、脆弱なことで自分を誤魔化し続けるのは時間の無駄ですし、また、話し合える場所がある以上、ここでしっかり書き残しておこうと思ったわけです。
以上の話をし、日蓮門下という立場にあって、これをストレートに認め、護教保身を超えて、真摯に応じてくれた日蓮に関わる人を、まだ、わたしは2人しか知りません。
一人は富士宮の日蓮宗寺院住職・貫名英舜師であり、もう一人は沙門行明師です。貫名師は日朝像を祀る寺院の住職ですが、寺院で生まれ育った方でした。住職になってから寺院興隆にを勤め檀家も増加させてきました。一方、ここ10年、積極的にカルト問題と取り組んできた活動家でもあります。バランス感覚のある師は、保守的な寺院典礼、運営で、上記のようなことを話すことはありませんが、「さて」と腰を据えて話すとき、まさに上記の内容を避けず、逃げず、真正面から考え、思索してきました。当掲示板の身延・西山・石山・北山観光オフの際、皆で、帰りに押し掛けて、話を聞いたこともありました。
師の結論は、「空」ということでした。結局のところ、仏説、論釈、日蓮教説も含めて、悉く一切は、「空」であり、仮であった。しかし、それをとらえていけば、実のところ中道として意義を見出せるという点に活路を求めておられました。そして、その起源を、「無常」という釈尊の悟りに求めるという形で思索を進めているようにお見受けします。
もう一人は、沙門行明師で、四半世紀前、渡印し、藤井日達師の弟子となり、インドに3寺を建立。その後、一宗派の所属を克ち、一人の沙門として、日印を往復しています。
また今回も、本日から出発され、アルメニアグルジアドイツ英国…カシミール…ラダック…アルメニアグルジアロンドン…アンダマンニコバル諸島と、それぞれの仕事を済ませ、9月に帰国と言うことでした。年収200万円といい、インドでは、乞食を主とし、いまは、唱題に限らず、マントラも称え、念仏道場にも訪れるも言います。海外における宗教者の役割は、日本と比べものにならないと、師は言います。発言の持つ力が大きく民衆と政治・経済の指導者を動かす要因となるということです。また、インドにおける沙門は、その人が何を説いているのかというより、戒律を護り、僧侶としての生活をちゃんとしているかどうかのほうが遙かに大きな意味を持つともいいます。「漢字で書かれた漫荼羅を見せても、なんだか、理解されません。ただ、唱題するより、太鼓を打ってのほうが人々の心も打ちます」という万国共通の民衆の反応を話してもらったことが印象に残っています。この師の結論も、やはり、空、無常無我という点に迫るもののように思えました。
33
:
犀角独歩
:2005/07/19(火) 08:25:21
―32からつづく―
わたしが仏教談義をして、もっとも納得がいったのは精神科医・高橋紳吾師でした。師は、当初、龍谷大学で仏教を学んでいましたが、その本質を極めるために精神医学を修める必要があると考え、医師に、それも精神科医となった人です。その専門は宗教病理学と犯罪心理学でした。何度か紹介しましたが、以下の文章は、その思索を簡潔にまとめた秀でた師の仏教見識であると考えます。少し長いのですが、引用します。岩波書店から発刊された『超能力と霊能者』の一節です。
―― 教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である。
もっとも八正道の実践だけでは出家修行者のみ可能な小乗仏教であって、これでは一般大衆には宗教的な喚起の世界は与えられない。そのために救済のビジョンが必要で、大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。
(補助自我−自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである。) ――
執着から脱却、象徴(シンボル)からの脱却、八正道、菩薩道、補助自我といったところがキーワードでしょうか。
執着は煩悩と言い換えても善いかも知れませんが、これと象徴の病は同義異語であり、つまるところ、無常無我、また、のちの空(さらには三諦)といった観念とも矛盾しないと思えます。また、それらを内実的な結論とするとき、対外的に具現しようとすれば、それは菩薩道という様態を採ることに、わたしは賛成します。(もちろん、涅槃経説は問題外ですが)
以上の前提から、日蓮を点検すると、どうなるのか。わたしは日蓮の言っていることは、ある面、短絡過ぎないかと思うところが多くあります。法華経は絶対だ。だから、帰依すれば、人も国家も安泰になる。究極は南無妙法蓮華經だ。口に唱題、身には漫荼羅を帯すれば現世安穏・後生善処であるというわけです。法華経、題目、漫荼羅といったものが完全にシンボル化しています。さらにその‘安全’を保障するものは「信」であるというわけです。まあ、俗化して表現してみれば、どんなことになっても日蓮と法華経・題目への信仰を捨てなければなんとかなる。本当は何とかなるんだが、過去に積んできた悪い業でそうならないので、その罪障消滅をすれば、その後は善くなる、といった思考パターンに拠っているわけです。
いまだ日蓮信奉下にある人は怒るかもしれませんが、結局のところ、この思考パターンは「善くなりたい」という執着から、一歩もでていません。この執着は、煩悩と言い換えてもよいかもしれません。しかし、実際のところ、この点検が、日蓮の実像とあっているかどうか、わたしは考えています。ただ、以上、デフォルメした素描した日蓮信仰は、もはや、無常無我を標榜した仏教というより、俗化した密教に近いようにわたしには映じます。こんな部分で日蓮を前面に押し出しても、欲得と、死・病の恐怖に振り回される人には通用しても、真剣に人生と社会を考える人々からは冷笑を被るばかりでしょう。
以上の前提から、では、日蓮は、ということです。
34
:
問答迷人
:2005/07/19(火) 22:00:36
犀角独歩さん
>無常無我を標榜した仏教というより、俗化した密教に近いようにわたしには映じます。こんな部分で日蓮を前面に押し出しても、欲得と、死・病の恐怖に振り回される人には通用しても、真剣に人生と社会を考える人々からは冷笑を被るばかりでしょう。
原始仏典にみる釈尊の教えは、人間は、苦・空・無常・無我なる存在である、と達観することに尽きるのだと思います。
しかしながら、大乗の教えは、人間とは苦・空・無常・無我なる存在であると達観した時に、浄・楽・我・常の世界が開かれると教えたと考えています。所謂、『我此土安穏・天人常充満』と法華経に説かれる如くです。これは、俗化した密教と軌を一にするとお考えでしょうか、或いはどう違うとお考えでしょうか。
35
:
犀角独歩
:2005/07/20(水) 08:57:43
問答名人さん
> 『我此土安穏・天人常充満』と法華経…俗化した密教と軌を一…或いはどう違う
まず、整理したいと思いますが、挙げられる経文は言うまでもなく自我偈です。
一方、常楽我常は涅槃経の所説ですから、この偈が契当すると言えば、法華の涅槃的解釈と言うことになるのでしょうか。
少し調べてみましたが、常楽我常は涅槃経の哀歎品等に説かれることのようです。あと、延命十句観音経の
「観世音 南無仏 与有因仏 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心」
というのがあるとのことでした。
たしかに、学会を含む石山門下では常楽我常は特記されるところで、たとえば、石田次男氏なども、四大真徳といい、これを取り上げていた記憶があります。
以上の前提で、天台が言う三妙合論はたしかに仏の常住、その国土の常住、安穏を言う如くで、常楽我常と類型と感じさせます。
ご質問の意図は、やや斟酌しかねますが、涅槃経にいたり、常楽我常は説かれるところの、密教との関連ということでしょうか。
法華経の編纂成立は紀元前100年から遅くとも300年頃までということのようです。
その後、早い時期に漢訳され、天台も解釈を付けますが、その頃、密教はまだ中国には伝わっていなかったわけですね。では、インドにおける密教は?ということになりますが、この辺りはどうなのでしょうか。仏教の密教と言うより、インドの雑多な信仰形態が仏典と称されるものと一緒に持ち帰られ、中国で仏典として扱われたと考えたほうがよいように、どうもわたしには思えます。ヒンドゥー教と一言で言うとあまりにも大雑把すぎますが、ともかくベーダー以来の呪(まじな)いやらなんやらが結局は仏教といわれるものと習合して成立していくのが密教であって、どうにも、定義することに困難を覚えます。密教は小乗・大乗を超えた金剛乗だと言うわけですが、わたしはこんなものが仏教だとは到底思えません。俗信、迷信、呪い、祈祷といった類に映じます。これを仏教という気は起きません。しかし、信者のニーズはこちらのほうが大きかったのでしょうか。大乗経典成立時に、既に金剛乗の影響があったかどうか。どうでしょうか。
また、その密教の成立が、法華経、涅槃経に影響を与え、仰るような常・楽・我・浄という、無常・苦・無我・不浄(染?)の逆転的な発想として固定したのかどうか。わたしにはよくわかりません。どなたか補完していただければ有り難く存じます。
やや、資料手放しで記します。
現代風の言い回しをすれば、仏は衆生の最終様態と言うことになりますから、その常住を言い、常楽我常とそれまでの教えを180度逆転させてもよいと、一応は言えるのでしょうか。しかし、これが直ちに衆生全般に当てはまるとは思えません。「時我及衆僧 倶出霊鷲山」と仏僧(梵本では、たぶん、仏と四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)を意味していたのであろうと思いますが)が霊鷲山に現れることを示します。
その条件として、「広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命」と舎利供養・不自惜身命という条件が示されています。六道の衆生は有為転変にあり、無常・苦・無我・不浄(染?)なのではないでしょうか。しかし、霊鷲山は違うという、ここに聖地信仰が成立している如くです。
この霊鷲山信仰とも言うべき、法華経の際だった特徴が、の三宝の常楽我常を示す如くで興味が惹かれます。
個人的な意見を言えば、常楽我常を言ってしまった仏教は、当初の釈尊が確立した無常・苦・無我(・不浄(染?))のいっさい逆を言い、つまり、その前の状態に戻り、元の木阿弥となり、ここに仏教は終わったように、わたしには感じられます。それは大乗から、密教という仏教ではない教えの幕開けと軌を一にしたとは言えるのかも知れません。
36
:
問答迷人
:2005/07/20(水) 10:52:15
犀角独歩さん
>常楽我常を言ってしまった仏教は、当初の釈尊が確立した無常・苦・無我(・不浄(染?))のいっさい逆を言い、つまり、その前の状態に戻り、元の木阿弥となり、ここに仏教は終わった
という事は、涅槃経は仏教ではない、と判断されているわけでしょうか。
37
:
犀角独歩
:2005/07/20(水) 11:43:50
問答名人さん
> 涅槃経は仏教ではない、と判断
悩ましいところですね。なにをもって仏教というか、という問題になります。
これはあくまで個人のことですが、わたしは八正道、四聖諦ぐらいまでしか、仏教と思っていません。十二因縁となるとどうだろうかという感じです。
要は、シャキャムニが説いた(可能性のあるもの)ものまで、ということです。
そこから、その後の発展、また、仏教の名の下に拡大解釈されていったものをどこまで、含めるかという点で、答は出していません。つまり、この決定ができないのは、白黒できちんと分けられず、大乗経典のこの部分は初期経典から延長、ここはイラン系の習合、ここはギリシャ、漢訳のこれは中国思想…、ここはどこのものだろうかという具合に判断しかねるからです。多かれ少なかれ仏典といわれるものは、習合、混淆が織り混ざっていますので、一経まるごとを仏教・非仏教と区分するより、句節、思想ごとに分類しなければならないだろうという思いがあるからです。
涅槃経についていえば、『ブッダ最後の旅』として、訳されるようなものは、まあ、受け入れますが、大経などに見られる「刀杖執持・斬首」は、仏説として受け入れるわけにはいきません。ただし、政教一致の書という観点から、為政者の統治論が書かれていると読めば、そんなものだろうとは思います。殊に、涅槃経というのは、ありとあらゆる思想、宗教のみならず、執政に至るまで、いまでは仏教に区分されない内容まで孕んだ種々雑多な集成のように見え、その全体を仏典と言われれば、頷くわけにはいかないという判断です。
もう一つ、個人的な感覚で言えば、わたしは涅槃経より法華経、妙楽より天台のほうが、より仏教的ではあると思えます。では、仏教的という判断肢は何によるのかと言えば、まさしく常楽我浄の逆、無常・苦・無我という点ではないのかという思いがあります。なお、‘浄’という点について、この逆が不浄、もしく染(染浄二法の染)、また、穢と見るような考えは、インド起源と言うより、中国思想的な発想と感じなくもありません。
サハー(娑婆)という概念がどこまで、遡れるのかわかりませんが、この語源は、ご承知のとおり、堪忍(堪え忍ぶ)ということです。この我等が生きる世界を、穢れた世と見たり、衆生の階位(十界分別)の低位を染まり・穢れたものと見るような、「穢れ」思想のようなものが、シャキャムニにおいてあったとは思えません。故に、浄の逆をシャキャムニ以前に起源を探ることは無意味な気もしています。
あとこれはご質問の趣旨からは離れますが、わたしは法華経の涅槃経解釈には反対です。また、妙楽より天台を優位と見ています。
天台、日蓮は法華経を涅槃経で解釈しようとしたところに、そもそもその躓きがあると、わたしには思えます。法華涅槃から、純法華。天台妙楽から天台。その天台から涅槃を除いてみるほうが、より健全な教えになっていくとわたしは思えます。
第一段階として、法華経の涅槃経解釈は止めようと主張しておきたいと思います。
38
:
問答迷人
:2005/07/20(水) 12:19:30
>法華経の涅槃経解釈は止めよう
『自我得仏来。諸経諸劫数。無量百千万。億載阿僧祇。常説法教化。無数億衆生。令入於仏道。爾来無量劫。為度衆生故。方便現涅槃。而実不滅度。常住此説法』
この寿量品の一節は、僕は、原始仏典以来の、仏の概念を根底から改変するものだと思います。そもそも、仏とは『仏に成れば、もう、この世界には生まれて来なくなれる、六道の輪廻を断ち切れる』といった意味を含む概念であったと思います。この点は如何お考えでしょうか。
39
:
問答迷人
:2005/07/20(水) 12:58:37
関連しますが、一つ大きな疑問。それは、覚りを開いたシッダルタが、なぜ人々に教えを説いたか、という疑問です。この世は苦であり空であり無常であり無我であると悟ったなら、そのような世を遁れるべきではなかったのか、という事です。にも拘らず、彼がその後歩んだ道は、所謂九横の大難と言われる迫害の嵐であり、せっかく広めた教えも、程なく元々のヒンドゥー教に飲み込まれて、名のみの仏教に成り果ててしまうわけですから。
この点も合わせてお考えをお聞かせ願えるとありがたいです。
40
:
顕正居士
:2005/07/20(水) 13:04:24
常楽我浄について述べた祖書、玄義の主な文
「外道は常楽我浄と立てしかば、仏、世にいでまさせ給ては苦空無常無我ととかせ給き。二乗空観に著して
大乗にすすまざりしかば仏誡めて云く 五逆は仏の種、塵労の疇〈たぐい〉は如来の種、二乗の善法は永不
成仏と嫌せ給き。常楽我浄の義こそ外道はあしかりしかども、名はよかりしぞかし。而れども仏、名をいみ
給き。悪だに仏の種となる。ましてぜん(善)はとこそをぼうれども、仏二乗に向ては悪をば許して善をばいま
しめ給き」(十章抄)
「馬鳴龍樹菩薩等は仏滅後六百年七百年等の大論師なり。此人々世にいでゝ大乗経を弘通せしかば、諸々
の小乗者疑て云く 迦葉阿難等は仏の滅後二十年四十年住寿し給ひて、正法をひろめ給ひしは如来一代の
肝心をこそ弘通し給ひしか。而るに此人々は但苦空無常無我の法門をこそ詮とし給ひしに、今馬鳴龍樹等は
かしこしといふとも迦葉阿難等にはすぐべからず是一。迦葉は仏にあひまいらせて解をえたる人なり。此人々
は仏にあひたてまつらず是二。外道は常楽我浄と立てしを、仏世に出させ給ひて苦空無常無我と説かせ給ひ
き。此ものどもは常楽我浄といへり是三」(報恩抄)
「大經に云く。一實諦とは則ち二有ること無し。二有ること無きが故に、一實諦と名く。又一實諦とは虚偽無き
に名く。又一實諦とは顛倒有ること無し。又一實諦とは魔の所説に非ず。又一實諦とは常樂我淨に名く。常樂
我淨とは空假中の異り無し。異らば則ち二と為す。二ならば故に一實諦に非ず」
「常樂我淨とは一實諦に名く。一實諦とは即ち是れ實相なり。實相とは即ち經の正體也。是くの如きの實相と
は、即空・假・中なり」(玄義卷第八下)
http://ccbs.ntu.edu.tw/cgi-bin/webgetfile_.exe?pid=27582&offset=8
諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 (一切皆苦)〜三法印(四法印) / 諸法実相〜一法印 という。
大乗の涅槃経には法身の常住、涅槃の四徳(常楽我浄)、悉有仏性(衆生内在の法身)が説かれる。八宗の
祖龍樹は生死即涅槃と決択されたから、仏のみならず、衆生も国土も常住である、と中国仏教では考える。
法華経では「諸法従本来 常自寂滅相」といちおう空性の立場であるが、その八不中道(中論帰敬偈)、諸法
実相が法華経の経体であるから、空性の名が妙法蓮華経であると三論宗ではいう(大乗三論大義抄)。
41
:
顕正居士
:2005/07/20(水) 14:28:27
仏教の教義はすべてが六道輪廻の考えの上で説かれている
インド人以外が仏教を含めたインド思想を理解する上で、最も重要な事柄が六道輪廻(輪廻転生)である。
インド人にはこの考えは堅く信じられていて、疑う余地がない、まったく与えられた事実である。われわれ
インド人でない者はこのことを信じていないから、中国人や日本人の仏教では六道輪廻は教義の発明や
解釈のための約束に過ぎない。信じていない者は想像を逞しくするしかない。もしわれわれが六道輪廻を
疑う余地がない、まったく与えられた事実と信じていたら、もう一回でも再生することは鬱陶しく感ぜられる
のであろう。再生を断絶して涅槃寂静の境涯に至る、解脱ということがあらゆるインド宗教の目標である。
死んだら終わりと信じているから、インド人以外は永遠のいのちを得るために、キリスト教やイスラームや
浄土教に帰依する。つまり三世説(六道輪廻)が主観的の事実であるのに対して、二世説(復活、浄土)は
希望である。インド人以外が六道輪廻を信じると云う場合には、もう一回くらい再生したいという願望に過ぎ
ない。死んだら終わりと信じている場合には、それが反対に人情であろう。インド、中国、日本と変遷する
仏教の教義には土台に死生観の相違がある。外来宗教はその民族固有の宗教の上に概念装置としては
君臨しても、決して主観的の事実を変更し得ない。たとえば、日本の仏教系新興宗教は「功徳と罰」を説く。
これは神道系新興宗教の「おかげとたたり」を漢語で云ったに過ぎない。おかげとたたりは祖霊から来る。
日本人は先祖供養を重んじるが、儒教から由来したのではない。主な目的は先祖が祟らないためである。
祟らないようにきちんと祀ったことを日本仏教では「成仏」という。これら基本的な概念はマレーポリネシア
諸民族に共通である。祖霊がいる場所は山岳あるいは叢林(草葉の陰)である。もっとも日本的な仏教の
開祖である日蓮は二世説(浄土教)を激しく嫌い、祖霊の住む場所は霊鷲山(わびしい山岳)であるとした。
三(四)法印、一法印の問題や、なぜ智邈や日蓮が大乗の涅槃経を重視したかは根本的に民族の死生観
の相違に由来する。
42
:
犀角独歩
:2005/07/20(水) 20:25:44
問答名人さん
既に顕正居士さんが正鵠を得たご投稿を下さいましたので、わたしはご質問のみ、簡潔に記させていただこうと存じます。
>『自我得仏来…常住此説法』
> …原始仏典以来の、仏の概念を根底から改変
なるほど。
> …世界には生まれて来なくなれる
無余涅槃とは、もちろん、そのような謂いであろうと存じます。
この思想は、阿羅漢果が先行し、その意味するところは、最後の肉体を持つ者という意味であったと思います。ブッダは目覚めた人、覚った人と意味ですから、やや意味するところは違いますが、当然、仰るような意味合いを有すると思います。
顕正居士さんがご指摘くださったように、インド人にとって、輪廻は脱したい束縛と捉えられていたようで、ところが中国に入ると、まったく逆転して認識されたと言われますね。つまり、死んでも自分が無くならないと受容され、この点は日本も同様であったという指摘を以前、読んだことがあります。この筋から、漢訳経釈の常楽我浄を捉えないと、意味を取り損ねるのではないかと思えます。
しかし、寿量品における仏の常住は、インド発想と言うことになります。では、ここからどのように読み解けるのでしょうか。問答さんが仰るように、これは大きな改変であると、わたしは思います。どうやら、天台教学では法華経は、既に三諦論を成就しているということになってしまっていますが、常住此説法の仏とは、わたしは三身よりももっと原初的であると考えます。法華経におけるコンセプトは成仏とは長寿(寿量)覚徳を意味するもので、つまり、不死を得た如来が永遠に霊鷲山にいて、説法をし続けるという文字通りの意味なのであろうと思います。その意味において、そこに三身説が介在する余地がないのが寿量品でしょう。しかし、こう書けば、天台教学を墨守する人は、釈文をもってきて難を付けるでしょうが、わたしはこの点では譲りません。
以上の次第から考えるとき、「此の世に生まれてこなくなる」という以前に不死を得た如来であるから、というのが天台釈によらず、直裁にみた法華原文の意味であろうとわたしは考えます。
> 覚りを開いた…空…無常…無我…世を遁れるべき
わたしはこの点で実に現実的にしか考えていません。生きている以上は食べなければならなかった。食べて生きていれば、人々は集まってきたという循環であったろうと。
> 九横の大難と言われる迫害の嵐
わたしは、むしろ、シャキャムニは王に庇護され、長者に精舎を寄進されるなど、「大難」という程のことはなく、ただ、釈迦族の滅亡、提婆達多・阿闍世王の暗殺未遂は大きな事件であったにせよ、しかし全体的には庇護、尊敬を集めた生涯であったと思えます。
> せっかく広めた教えも、程なく元々のヒンドゥー教に飲み込まれて、名のみの仏教に成り果ててしまう
これも、全体的に見れば、そうでしょうが、全部が全部ではなく、いまでもシャキャムニの教えを厳守する人と集団は生き残っていると言います。砂漠で一粒のダイヤのような存在であっても、わたしはいまに継続していると考えています。
43
:
犀角独歩
:2005/07/20(水) 20:36:18
―42からつづく―
しかし、そのような営々とした流れとは別に、第一次分裂以降、次々と俗化し、混淆していった集団論理は、ついに密教化まで行き当たり、そのほとんどが灰燼に帰したのは事実ですね。
わたし達が信じてきたものは、日蓮の教えを含めて、果たしてどこまで、胸を張って仏教だと言える要素があるのか、仏教信仰を語る人は自己肯定化論理ではなく、この点を率直に反省し、正面から考え直してみる必要があると思います。
44
:
犀角独歩
:2005/07/20(水) 20:55:19
そう一つ書き落としました。
バラモン教という点です。シャキャムニがなしたことは、仏教という新しい宗教の確立であったのかという問題があります。みかんさんが、ロムされておれれば、たぶん、突っ込んでこられる点です。
シャキャムニ自体、新しい宗教を立てたという自己認識はなかったのではないのかと言われます。階級化旧バラモン教に対して、新バラモン教というか、新しい視点で再興したのではないのか意味です。ちょっと、例としてはうまくなく、誤解を招くかも知れませんが、聖書社会における旧約に対する、新約の位置を果たしたのが、シャキャムニではないのかという意味です。ブッダ、サンサーラ、アートマン、アールハットなど、その他諸々の用語は、仏教独自のものと言うより、当時、インドにおけるバラモン教の用語であったのではないでしょうか。ただ、その中の、自由思想家の一人の成就者を中心とした集団であり、それ以上でも、それ以下でもなかったのが当時の集団の実像ではないのかと思います。
45
:
通りすがり2
:2005/07/20(水) 23:34:44
・・・仏説では死後についてはそもそも無記だろ。
46
:
犀角独歩
:2005/07/21(木) 00:01:21
その仏説が何であるのか、杳としているという話です。
しかし、ここの掲示板で「だろ」はNGです。言葉遣いには気を付けましょう。
47
:
顕正居士
:2005/07/21(木) 16:03:32
マウリヤ朝のアショカ王が崩御した後、国を奪ってシュンガ朝を建てたプシャミトラ王は廃仏を行った。また
近隣諸国から「三悪王」が侵攻し、仏教はおおいに疲弊したと『阿育王経』などにある。その後、クシャン朝の
カニシカ王は仏教を保護し、この時代に大乗仏教が興起した。地図を見るとクシャン朝の領土はマウリヤ朝
の領土よりずっと北西に移動している。歴史上、インドといわれない地域が多い。大乗仏教はこの地域と関係
がある。チャンドラグプタ2世(超日王)のグプタ朝の領土はだいたい北インドである。この時代に六派哲学と
いうインド正統派の教学が成立し、宗教面ではヒンドゥー教(インド教)と呼ばれる。仏教もサンスクリット語で
経論を編纂し、インド正統文化と互換性をたもちながら、一種の対抗文化としての仏教のかたちが定まった。
ヴァルダナ朝のハルシャ王(戒日王)が最後の仏教の保護者として知られる。以後、インドはイスラーム侵攻
の時代に入る。最後のインド大乗仏教の形態は哲学的には瑜伽行中観派であり、宗教的にはタントリズム
(密教)である。13世紀始めにヴィクラマシーラ大寺がムスリムにより破却されたのをインド仏教滅亡とするが、
末期インド大乗仏教はチベットへ亡命した学僧により、かの地へ移植され、以後チベット仏教として発達する。
古代インド歴史地図
http://eurekajwh.hp.infoseek.co.jp/kougi/kougi/ind/ind01.html
インドで仏教が滅亡した理由は不明である。仏教はインド文化の中の異端、少数派である。イスラーム侵攻
が滅亡する契機ではあったろうが、それらがどのような機序ではたらいたのか。最近、新説が発表された。
保坂俊司・『インド仏教はなぜ亡んだか』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0820.html
仏教はインド文化の中の対抗文化であった。民族の聖典を尊敬せず、ヴァルナ、ジャーティに対して否定的な
見解を有する。大乗仏教は生死観に三世説でなく、二世説の傾向を示し、神観に一神教的の傾向を有する
(西域との関係)。対して末期インド仏教は三世説を堅持し、汎神教的である。したがって浄土門仏教徒は多く
イスラームに改宗し、聖道門密教の学僧はチベットに逃れ、信者はヒンドゥー教(インド教)に同化した、という
考えは説得力がある。インド密教は凶悪な「護法尊」のイメージに溢れている。ヴィクラマシーラ大寺が破却
された理由は、インド文化の中で異端、少数派であるのに、対イスラーム抵抗は先鋭であった、と考えるなら
理解し易い。
48
:
乾闥婆
:2005/07/21(木) 16:50:15
私は蓮祖の教学をその時代に限定的に見、考えるという作業は非常に有益なものと考えます。中世日本は現代日本とは別の世界であり、その枠の中で思考するように努めることは、現代社会においての蓮祖の教学を括弧に入れ、直接的な行動原理とはさせない、理知的な態度であると思います。
しかし、私は「現代人が納得できる日蓮教学」とはどういうことなのだろうと考えてしまいます。納得する必要があるのでしょうか。宗教とは納得するものなのでしょうか。
日蓮系宗派に限らず、多くの宗教は現代人に納得できるものなのでしょうか。私にはそのようには思えません。イエスが復活したり、種々の奇蹟を行ったりすることは、納得できません。西方に浄土があるということも納得できません。禅者はいったい何を納得するのでしょうか。私は宗教とは納得するものではないと思います。
科学という観点は宗教から従来のような強い精神的な拘束力を奪った、そういう意味では宗教を死に至らしめた、と思います。それを受けて宗教は従来のままであってはいけないことは自明のことです。しかし、むしろ納得できてしまう宗教などという視点こそ危険なのではないでしょうか。宗教が科学的に現代人の目から見て、つまり誰が見ても納得しうるものとして、ありうる、そのような幻想は抱くべきではないし、宗教とはそのようにはありえないと思います。創価学会も懸命に自分たちの信仰は科学から見ても正しいといいうるのだ、といった主張をしていた時期があると思います。私はいかがわしい、と常々感じていました。なぜ信仰に科学の証明を導入しようとするのか、それらはまったく別物ではないのか、そう感じていました。彼らは逆に科学という言葉を利用して自分たちの正当性を主張しようとしていたのだと思います(もちろん成功するはずもありませんが)。現代人の誰もが納得できる宗教という幻想は結局創価学会のようなあり方を生み出してしまうのではないでしょうか。
現代における宗教とは犀角独歩さんも指摘されているとおり、もはや寓話としてしか生き延びる道はないと思います。
>>16
「キリスト者が、世が1週間出来た天地創造やら、土からできたアダム、肋骨からイブが出来たとかという話をかつては絶対の真実としていながら、いまでは寓話として、精神、社会貢献で生き残ってきました。精神・生活規範として、人類に貢献する部分があれば、生き残るでしょう。そのようなものが日蓮にあるかどうかです。」
寓話・物語、として生き延びる宗教は、それを受け入れる人間の中でしか生き残れないのだと思います。キリスト者が受け入れている寓話を私は受け入れませんし、もちろん納得もしません。それはもはや信仰者個々の問題であるのだと思います。「現代人」と括られる不特定多数の人間によって納得されうる宗教などないし、だからこそ、それは個々の人間において極私的に受容される以外ないものなのだと思います。創価学会で問題となるのはその受容形態が組織的であり、その本来あるべき私的な受容としての信仰を否定する側面があるところなのでしょう。
大事なことは各々の宗教はそれぞれひとつの物語に過ぎないと、理解して自身の信仰をはぐくむことではないでしょうか。物語は人間に対して有効か無効か。私はそれを物語であると理解して受け入れるのであれば有効であると考えています。ここで行われているような、蓮祖真蹟遺文のみによった検証は、蓮祖のその時代における姿を捉える上で非常に重要ではありますが、それはある意味で、信仰そのものとは別次元の問題であると思います。危険なことは、ひとつの物語にすぎない教義を唯一絶対の真理として受け入れてしまうこと、現代人の誰にでも納得しうる宗教はありうるという幻想を抱いてしまうこと、なのではないでしょうか。
以上、ここまで読ませていただいて、私の感じているところを長々と述べさせていただきました。失礼いたしました。
49
:
犀角独歩
:2005/07/22(金) 06:33:05
顕正居士さんがご紹介くださった麗澤大学(早稲田大学)の保坂俊司師の『インド仏教はなぜ亡んだか』は、わたしはご本人から直接、いただき拝読しましたが、非常に優れた一書であると思います。
その書とは別に勝手な個人的な意見を述べます。仏教集団とは出家、つまり、政経と距離を置くことによって成り立つものですから、社会から距離を置いて成り立つものであり、非武力的であったから、それがいちばんの衰退の原因になったのではないのか、また、イスラムの侵攻は、当初はその信者が貿易をすることで入り込み、併せて教えが伝わり、さらに武力行使で確定的になった。仏教集団の非武装を、わたしは支持しますが、しかし、武力攻撃を受ければ、一溜まりもないのは事実です。法華経のような無抵抗菩薩論理が涅槃経のように武装殺人菩薩によって補強されたが故に中国仏教は生き残り、日本まで到達できたのでしょうか。仏教の第一次分裂では貨幣で供養を受け取れるとした方が発展し、最終的には武力肯定したほうが生き残ったという史実は考えさせられます。少なくとも、法華涅槃仏教とは、そのようなもので、日蓮もまた、その影響下にあるのであって、それを民主、平和の象徴であるといった論調は真跡遺文が語る日蓮とは食い違った虚像であるとわたしには映じます。
実際のところ、近代史を見ても、日輝以降の摂受の日蓮宗より、折伏闘争の創価学会のほうが勢力を拡大したのは、正邪の問題というより、寛容と暴力、どちらに立つほうが優位を考えるうえで一つの視点になるのかも知れません。
乾闥婆さんの、
> 納得する必要があるのでしょうか。宗教とは納得するものなのでしょうか
という、問いは重要ですが、スレッドが立った意図からはやや違っているとわたしは思います。わたしが「納得」というとき、それは、つまり、入信、もしくは帰依を意味すること、また、その場合、入信動機として、納得できる最低限の説得性を有すかどうかという議論でした。また、信者とならない人々にとって、納得がいかないとは、非科学的である、反社会的であるなど、社会の一員としての条件を満たさないことを意味します。一方、乾闥婆さんが仰る納得は、信仰姿勢とは納得するものではない、また、対社会的な意図は考慮に入っていないようにお見受けしました。
わたし個人はシャキャムニの教えを合理的なものとしてとらえています。八正道は、現在でもまったく通用する教えです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
この観点から見ると四聖諦もまた、同様であると思います。ところがこれを十二因縁からとらえると、途端に怪しくなってきますが、それはいまは置きます。さて、しかし、日蓮となるとどうかというのが、ここでの議論ですね。
50
:
犀角独歩
:2005/07/22(金) 06:33:32
―49からつづく―
> 蓮祖真蹟遺文のみによった検証…信仰そのものとは別次元の問題
わたしは、この点はどうも仰る意味がわかりません。真跡遺文から確実に知られるところの日蓮の信仰観はあるし、疑偽書・門派教義を添加したうえでの信仰も当然成り立ちます。これを真跡遺文考証を信仰から分離するのは問題です。ただし、確実な日蓮教義信仰観がある程度、特定できたところで、それが信仰の対象足り得るかどうかは各人の判断に委ねられるからです。それが「納得」ということです。しかし、これは日蓮を採るか捨てるかという択一論ではなく、この部分は採れるが・この部分取れないといった姿勢で受け止めていけるかどうかが重要なのでしょう。納得できるか・どうかでは、納得できる部分もあるが、できない部分もある、「それは、ここと、ここが」という議論の形です。納得するかしないかという択一論ではありません。択一論が危険なのです。
> 危険なことは、ひとつの物語にすぎない教義を唯一絶対の真理として受け入れてしまうこと、現代人の誰にでも納得しうる宗教はありうるという幻想
この文脈は、よくわからないのですが、要は「唯一絶対の真理として受け入れられる」=「現代人誰もが納得しうる宗教がある」というのが幻想だということでしょうか。そうであれば、そんなことは当然でしょうね。しかし、この連文は=でつなげるのでしょうか。あるいは、前文は危険なこと、後文は幻想を意味しているのでしょうか。
たしかに、物語を唯一絶対の真理として受け入れることが危険です。それがしかし、信仰というものでしょう。鰯の頭も信仰の対象となり得ます。やっている本人は納得しているのでしょう。ただし、わたしは納得しません。
後者の、「現代人が誰しもが納得できる信仰があるという幻想」というのは、漠然としています。誰しもとは大多数ということでしょうか。それとも全員がということでしょうか。信仰者からすれば、納得=信仰ですが、一般大衆からすれば、そうではありませんね。社会的親和性があり、また、実害がなければ、受容されることになります。この場合、その内容が理解されていなくても納得されたということでしょう。
納得とは教義に向けられる場合もあるし、その信仰をする個人集団の行動に向けられるときもあります。前者の場合、入り口では科学・学術・倫理道徳と違反しないこと、反社会的でないことが大事な要件となるでしょう。しかし、十分な納得となれば、教義の完全な認知なくしては議論のしようがないことになります。これもまた納得です。前者は社会大衆でも「納得」できますが、後者は信者以外では関係のないことでしょう。
行動面で言えば、非科学的、反社会的であるものは、その内容如何とは関係なく、万人が納得することは有り得ません。しかし、そのような非科学的、反社会的、具体的には違法性を帯びない限り、信教の自由は保障されるわけですから、それを否定する理由はありません。この否定する理由がないことは納得に入りませんか。
わたしが先に挙げた、かつてわたしが超えた15のハードルについていえば、日蓮と、その後の、特に石山教学・本尊・血脈の類はもはや問題外です。もう終わっています。ただ、それとは別に、日蓮に意義を感じる人々が、これから何を為すかという点では、何も終わっていません。寧ろ、いまそのスタートに立っているとわたしは思うのです。
51
:
問答迷人
:2005/07/22(金) 10:53:03
乾闥婆さん
>納得する必要があるのでしょうか。宗教とは納得するものなのでしょうか。
僕は、蓮祖曼荼羅の信仰者です。それを止める気はありません。恐らく、生涯、蓮祖曼荼羅の信仰者であり続けるであろうと思います。つまり、蓮祖曼荼羅の信仰者として、この現代日本に生きてゆこうとしています。
その時、蓮祖の遺文に示された教えが、果たして、現代にも全て通用するかと思うとき、例えば、蓮祖の示す仏教テロリズムはやはりそのままでは受け入れることはできません。このギャップは僕に取ってはどうしても折り合いをつけるべきものです。そして、合理的な折り合いのつけ方が定まったとき、一つの納得が生まれるわけです。信仰者に取って、受け入れがたい教義はやはり、そのような形で納得・受容されるべきものであると思います。
なお、仏教テロリズムの教えについては、僕としては、現在のところ、どう折り合いを付けるか結論は出ていません。
52
:
顕正居士
:2005/07/22(金) 15:23:38
>>48
乾闥婆さん。
さまざまな宗教宗派はそれぞれの時代と社会の学問、道徳が要求する基準を満たし、納得できるから信仰
されたのではないでしょうか?基準を満たさない場合には邪教邪宗として取り締まられた。今日、「破壊的
カルト」というのと同じです。犀角独歩さんがおっしゃるように、基準の一つは時代の学問に合致することです。
わが国では室町時代までは仏学が最高の学問であった。だから宗派の信仰はまず仏学に合致しなければ
ならない。次に社会生活の基準である儒学、神道の規範に反してはいけない。日蓮の遺文は檀越に宛てた
比較的短いものであってさえ、自らの信仰を積極的に説くというより、これらの学問と規範に合致するのだと
いつも論証しようとしています。
中国の仏教は宋の時代にはほぼ完成し、以後、大きな発達はありません。したがってわが国でも江戸時代
に入ると、仏学は訓詁の学が中心となった。先端の学問は儒学、蘭学に交替し、やがて国学も興ります。
ついに幕末明治には仏教は蒙昧な迷信であり、国力を弱める邪教であると批判されます。理由は一つは
自然科学に反する。室町時代に世界が球体であるとする天文学も、世界地図も伝来しています。しかし仏家
は頑なに須弥山説を説き続けた。明治に真宗の僧で佐田介石という方が視実等象儀という機械を作って
須弥山説をなおも普及しようとした。依頼を受けて機械を作ったのは東芝の創業者である田中久重翁です。
「理性の衰弱」
http://www.kibicity.ne.jp/~j-kida/image/2004/092501/
理由のもう一つは文献学に反する。すでに18世紀に富永仲基が仏典成立史をあらかた解明しましたが、
仏家は釈尊金口を唱えるばかりであった。平田篤胤は仏学の2大欠陥を大いに嘲笑した。明治廃仏に至り、
ついに仏家も寝言を云ってはおられなくなった。東本願寺は執持刀杖の仏説に依り僧兵訓練を復活した。
当時、南条文雄は東本願寺僧兵であった。彼が欧州へ留学し、現代仏教学の建設者の一人として知られる
ことになったのは、石川舜台という傑僧が権力闘争に勝利して宗務行政を掌握したからであります。
さて乾闥婆さんがおっしゃるように宗教宗派の信仰とは神話すなわち物語に基づくという方面があります。
フィクションだから、幾らでもことなる物語が成り立つのであり、それらは事実や史実ではないが信者(ファン)
にはなんらかの「真実」を感銘する。事実と真実との混同がたしかに西欧のキリスト教や日本の仏教の歴史
に見られます。それはおそらく、西欧のカトリック教会、日本の比叡山延暦寺がその宗教の中に凡ゆる学問、
芸術を包含し、不可分に融合していたために、異端を武力で征伐するということを行った。異端の方では
やはり武力でもって正統教会と闘った。そういう事情があるとおもいます。この考えから見ると、日蓮の活動
は「反−宗教改革」であって、イエズス会の創設者、イグナチウス・ロヨラに比較するのが適切です。「真実」
だから構わないということは云えません。アル・カイーダの「真実」は折伏(武力討伐)されなくてはなりません。
日蓮の思想を構成する要素の大部分は、今日では棄てられねばなりません。彼の思想中で、とるべき事柄
は、現代文明に反逆する宗教宗派は言論と武力で退治すべきという一事のみだと、わたしは考えています。
日蓮の誤謬を「真実」どころか「事実・史実」などと迷信する教徒は、当然、最初に折伏されねばなりません。
54
:
乾闥婆
:2005/07/23(土) 00:41:43
今仕事から戻り、皆様からのレスを読ませていただいたところです。
また明日も仕事で早いので後日必ずレスをいたします。
皆様のそれぞれの角度からのご意見、興味深く拝見させていただきました。
レスをいただきありがたく思っております。
57
:
犀角独歩
:2005/07/23(土) 08:57:30
いちおう、確認ですが、わたしの個人的な自覚としては、いまでも富士門流人ではあると思っています。ただし、信徒ではないということです。このようなスタンスは、その僧俗ともに認めないでしょうが、このような自由なスタンスが認められるようになることも、わたしの目標の一つです。
たぶん、数10年、あるいは100年以上経った頃、わたしのこのスタンスのほうが、信徒方より多数を占めるようになると考えています。いわば、その先駆けの位置にわたしはいる自覚です。
62
:
犀角独歩
:2005/07/23(土) 18:10:52
事実を語ることに感情的になって、異論を排除することでしか、保身を考えることの出来ない愚論は捨て置くことにします。まさに「理性の衰弱」した保身は、何等問題の解決になりません。
さて、顕正居士さん
明晰な分析、ことに「真実」「事実」「史実」を明確に使い分かれての敬服します。また、ご呈示の点、大いに参考になりました。有り難うございました。
以下、当スレッドのテーマから離れます。我々が直面している問題は、ここ10年は破壊的カルト・マインドコントロールという心理操作に係る問題でした。わたしもこの問題に積極的に取り組んできた一人ですが、これが個人レベルの解決であるとき、まだ、その処方箋はありました。しかし、社会心理学のテーマである破壊的カルト・マインド・コントロールは、人を操作し、自分たちと異質のものに憎悪と排除、さらに言論を含む暴力を肯定する論理となるとき、社会問題になります。それが武力肯定となるとき、テロリズムとなっていきます。かつては宣戦布告という、それでも、一定のルールに基づいて開戦され、勝敗を喫して終了するというものでした。しかし、現在は、テロリズムというまったく違う様相を為すに至りました。そして、このテロリズムは一神教を信仰する人々によって行使され、現段階でその終息を見る可能性は極めて低い状況にあります。この時点で、顕正居士さんが「武力討伐」をここに明確に記された決断に、正直、驚きを感じました。わたしはこの点は、現段階では答えを保留しているからです。
我が知人・沙門行明師は、「宗教者には宗教者しかできないやり方がある」、そう言い残して、海外行脚へ旅立っていきました。いまは、その詳細をここに記すことはいたしませんが、わたしはこのカードを最後まで捨て去るわけにはいかないと考えております。
> 現代文明に反逆する宗教宗派は言論と武力で退治
ここで仰るところは、国民は認められた言論の自由に基づきこれを退治し、国家統治側が、時には警察権にはじまる武力行使をもって断固、退治するということを仰っているのだと拝察いたします。実際のところ、東京都壊滅を企んだオウム真理教のサリン散布は、当初、飛行機を使う空中散布も目論んでいたと言われます。また、水源、原発を標的とするようなテロを言論で封じ込めることは出来ません。しかし、それらを国民一人ひとりが武器を手にとって、その暴信徒を退治することは法律的に認められていません。
過去10年、一定の成果を収めたカルト問題への関わりは、世界レベルに拡げて考えることを余儀なくされる段階に入っています。テロの脅威に曝される現在、この点は看過できません。しかし、その前に、日蓮を21世紀に生き残させる方途を具体的に考えておきたいと思います。もちろん、それは新興宗教を作る云々などという大きく的を外した見立てとは全く異なるものであることは賢明なロムの皆さんは理解下さっていることでしょう。
63
:
犀角独歩
:2005/07/23(土) 18:11:29
―63らつづく―
さて、スレッドのテーマに戻ります。
>
> 日蓮の誤謬
門下は明らかとなった日蓮の誤謬を正確に掌握し、今後をどうするのかを真剣に考える時期に入りました。また、実際のところ、この大部は既に答えは出ています。あとは、事実を受け容れられるか、受け容れて、どうするのかという課題が残るばかりです。
テロリズムというテーマからすれば、日蓮門下のコップのなかの嵐など、既に終焉した過去の遺物ということは簡単です。しかし、ここにはわずかながら、数百万レベルの信者が喜怒哀楽を示しています。この閉鎖社会で、たとえば、昨晩からの論調のように、富士門流信仰という何か固定したものがある幻想したうえで、それにしがみつき、その幻影を脅かすものは排除することで安定を図ろうとする愚かな感情論が未だにあることは実に嘆かわしいことです。
日蓮門下が現代文明下、ここ100年で闡明になり崩壊した仏教神話、コップのなかで言えば、日蓮神話から脱却し、‘次を’考え、その答えを示し、「納得」が得られないとき、この信念体系は死滅するという事態にいま追い込まれている現実が見えないのでしょう。このような、感情論はここでは捨て置くことにします。
わたし自身、半世紀に日蓮を敬愛してきた一人として、日蓮を21世紀に残したいというささやかな願望があります。しかし、このままでは陣内さんが15に記されたとおり、今後の行く末は、富士門流に限らず、日蓮門下全般、もはや「絶望」的です。
このために、まず、わたしは日蓮の実像を正確に掌握すること、次にそのなかから、今後も人々を納得するに足りる要素を抽出し、それを言語化する作業が必要であると痛切してきました。
その課程で、神話と過去の亡霊にしがみつく、迷信は退治することは必須条項でした。この点はしかし、当掲示板でも一定の成果を収めることが出来たと思っております。
しかし、肝心の21世紀に耐える「日蓮」教説の抽出は、先の退治以上に困難な作業であると実感しています。
顕正居士さんは、この点に就き、どのような報とがあるとお考えになりますか。ご賢察を拝聴できれば、有り難く存じます。
64
:
犀角独歩
:2005/07/23(土) 18:18:52
【62の訂正】
誤)…使い分かれての敬服します
正)…使い分けてのご賢察、敬服します。
【63の訂正】
誤)どのような報とがある
正)どのような方途がある
68
:
パンナコッタ
:2005/07/23(土) 20:53:50
宗旨・宗派にこだわりすぎると、本来在るべき物を見失い、意味が逆転した物を肯定したりと悪癖が無視
できませんね。更に悪感情で意見の違う人を侮蔑的に見下し、嫌がらせを平気でやったりする行為は自分の
教団にとって正義と思えるかもしれませんが、全くの独り善がりで一般社会には絶対受け入れられる物ではなく
結局は日蓮大聖人の顔に泥を塗っている行為なのだと、自覚し反省してほしいですね。
(もっとも自覚があればやるわけないですし、助長しているのであれば社会悪です)
現代人が本当に納得し、未来に伝えていける日蓮の教えとは宗教教団の形式では、最早無理なのではないかと
思います。
しかしながら、一般の民衆・大衆はそのような事にはむしろ無頓着で結局、おすがりの対象がほしい人、
苦しいときの神頼みの対象になる物がほしい人がほとんでしょう。(日本人の典型例でしょう)
また教団に所属すれば、教団活動を生き甲斐と感じている人、絶対のモノに洗脳されたい人、 などにとっては
救いのオアシスなのかもしれません。しかし、国民全員がそのようであるわけではない為に、布教活動において
一般社会との軋轢を生む要因となりトラブルが発生する。 これは本末転倒、無駄・無意味な気がしてなりません。
各教団の姿勢が大きく変わる事はないと思います(獲得信者の減を嫌うと思うため)。教団の硬直した箱庭的思考の
限界なのでしょう。 ならばそうした古い殻を破り個人で横のつながりを保った信仰のスタイルが伸びて行く事は、
必然の流れになるのではないでしょうか。
72
:
乾闥婆
:2005/07/23(土) 23:46:18
>>49
犀角独歩さん。
>わたしが「納得」というとき、それは、つまり、入信、もしくは帰依を意味すること、また、その場合、入信動機として、納得できる最低限の説得性を有すかどうかという議論でした。また、信者とならない人々にとって、納得がいかないとは、非科学的である、反社会的であるなど、社会の一員としての条件を満たさないことを意味します。
信者となる人の「納得」と信者とならない人の「納得」は違う、ということでしょうか。信者とならない人の納得は分かります。「非科学的である、反社会的であるなど、社会の一員としての条件を満たさない」宗教には「納得」しない、つまり逆を解せば科学的であり、社会的親和性に富む宗教であれば信者とならない人でも一定の理解を示せるというレベルでの「納得」はあるのでしょう。しかし「科学的であり、社会的親和性に富む宗教」とはどのような宗教でしょうか。たとえばキリスト教の教義と科学的であることとはどのように折り合いがつくのでしょうか。また宗教というものが、社会的であることから阻害された人々にとって魅力あるものと映るのは、そのような社会的疎外者を受け入れる要素がそもそも宗教にあるからなのではないでしょうか。それが先鋭化するときに非常に危険な信仰集団が成立するだけのことであり、宗教とは元来そのような危険な要素を常に孕む存在なのではないでしょうか。信者となる人の「納得」となるとさらによく分かりません。帰依に至る「納得できる最低限の説得性」とはどのようなものなのでしょうか。科学的であり、社会的親和性に富むことは、消極的な「納得」の条件とはなるのでしょうが、帰依に至る人間はそのような条件だけで、ある特定の宗教を選んだりはしないと思うのです。そのような条件を飛び越えたところで帰依するのでなければ、数ある宗教の中で、なぜその宗教を自身の信仰として選んだのか、よく分からなくなってしまいます。条件が揃ったから信仰する、揃った条件に「納得」がいったから信仰する、そんなことではないと思うのです。同じ条件が揃った異なる宗教が目の前にあったとして、どちらをその人間は選ぶのでしょうか。それゆえに、私は、信仰を選ぶものは「納得」などして選んでいるのではないのではないかといったのです。
>一方、乾闥婆さんが仰る納得は、信仰姿勢とは納得するものではない、また、対社会的な意図は考慮に入っていないようにお見受けしました。
対社会的な意図は信者とならない人たちがその宗教を社会の枠組みの中で受け入れることができるのかどうか、といった局面において考慮されるべきだと考えています。それは、信者が信仰する意識内においては、究極的には排除されると考えています。「現代人が納得できる日蓮教学」といった表題は、二つの側面があるのでしょう。信者ではない現代人が受容できる「日蓮教学」。もうひとつは現代人であるところの私たちが信者として信仰しうる「日蓮教学」。その二つの側面は表裏一体にせめぎあうのだと思いました。
73
:
乾闥婆
:2005/07/23(土) 23:46:53
>>50
>真跡遺文から確実に知られるところの日蓮の信仰観はあるし、疑偽書・門派教義を添加したうえでの信仰も当然成り立ちます。
少し言葉が足りませんでした。現在の、たとえば曼荼羅本尊の信仰などは、真蹟遺文を突き詰めて解体しえたとしても、信仰として残る、といったことを言いたかったのです。私は正直に言って、曼荼羅へ向かっての唱題を、どのように真蹟遺文に限定することにによってその本尊としての根拠を奪われたとしても、「信仰として」捨てないと思います。疑偽書といわれようとも、「諸法実相抄」などを、おそらく愛することでしょう。私にとって、それはそれ、これはこれ、なのです。なぜならば信仰とは納得する条件が揃うからするものではないからです。蓮祖をその時代に限定し、その真蹟遺文に限定し、その事実に迫ることは、非常に重要ですが、結局蓮祖は受容され変容され現在に至る信仰としてあるのです。事実による変容された姿への異議申し立ては、前にも書きましたとおり、現代社会における蓮祖の教学を括弧に入れ、直接的な行動原理とはさせない、重要な役割を果たします。それは蓮祖の教義は対社会的な強制力をもはや持たない、といった前提を私たちに与えてくれます。しかし一個人の信仰に対しては、また逆にそのような蓮祖の事実は強制力を持たないと考えるのです。それは信仰が基本的には非社会的な部分にかかわる営みだからだと考えます。蓮祖の対社会的な積極姿勢は、もはや現代社会においての説得力に関して言えば絶望的です。そしてそれでいいのだと思います。蓮祖の言動やその受容・変容をすべて括弧に入れて、物語として、信仰者の意識の中で、蓮祖は生き延びるのだと思います。
>納得するかしないかという択一論ではありません。択一論が危険なのです。
そうですね。信仰とは「納得するかしないかという」ことではないと私も思います。択一ではなく、それ以外なくなる、といった方がいいのかもしれません。ちょっと犀角独歩さんの論旨とずれてしまいますが、物語として受容することを信仰の生き残る道と考えている私は、そもそも択一する意味がないのでしょう。物語を物語と知って読む者は、この物語以外はすべてダメ、という言い方を普通はしません。しかしひとつの物語を読んでいる人間は、基本的にその物語の世界にいます。
>要は「唯一絶対の真理として受け入れられる」=「現代人誰もが納得しうる宗教がある」というのが幻想だということでしょうか。そうであれば、そんなことは当然でしょうね。しかし、この連文は=でつなげるのでしょうか。あるいは、前文は危険なこと、後文は幻想を意味しているのでしょうか。
そういう文章ではなくて「ひとつの物語にすぎない教義を唯一絶対の真理として受け入れてしまうこと」とは私の目に映る創価学会のようなあり方を指し、「現代人の誰にでも納得しうる宗教はありうるという幻想を抱いてしまうこと」とは、このスレッドから感じた私の印象を指します。ゆえにこの連文はイコールではありません。しかし結果として同じ陥穽にはまるのではないか、といったことを示唆したものではあります。もちろん信者ではない現代人でも受容しうる「日蓮教学」を視野に入れているこのスレッドに対しての、私の勘違いではありました。申し訳ありませんでした。
>日蓮と、その後の、特に石山教学・本尊・血脈の類はもはや問題外です。もう終わっています。ただ、それとは別に、日蓮に意義を感じる人々が、これから何を為すかという点では、何も終わっていません。寧ろ、いまそのスタートに立っているとわたしは思うのです。
同意いたします。私の読み続けてきた物語も、本門戒壇大御本尊であるとか、血脈であるとか、そういった部分は、すっかり廃れきっております。もう少し枠の広い蓮祖という物語を読んでいるのでしょう。その一環としてこの掲示板はあり、常々読ませていただいております。この掲示板のおかげで、私の読む蓮祖の物語の枠は大きな広がりを見せております。事実、という魅力あるテーマのもとに。
74
:
乾闥婆
:2005/07/23(土) 23:47:25
>>51
問答名人さん。
>僕は、蓮祖曼荼羅の信仰者です。それを止める気はありません。
私もおそらくそのようにしてあり続けるのだろうと思います。
>蓮祖の示す仏教テロリズムはやはりそのままでは受け入れることはできません。このギャップは僕に取ってはどうしても折り合いをつけるべきものです。そして、合理的な折り合いのつけ方が定まったとき、一つの納得が生まれるわけです。信仰者に取って、受け入れがたい教義はやはり、そのような形で納得・受容されるべきものであると思います。
折伏に関して、私は現代社会においてはその用を成さないことを、蓮祖自身が規定されていると考えています。現代社会はどう見ても、「邪智謗法」の者が多い国ではありません。蓮祖における「邪智謗法」とは法華誹謗であるのでしょうが、いまは法華経の名すら知らない人が充満している国ではないでしょうか。「無智悪人」が充満している国であると思います。仏教テロリズムの不要な時代であることを蓮祖自身の規定により、私は「納得」し受け入れています。
75
:
乾闥婆
:2005/07/23(土) 23:48:04
>>52
顕正居士さん。
>さまざまな宗教宗派はそれぞれの時代と社会の学問、道徳が要求する基準を満たし、納得できるから信仰されたのではないでしょうか?基準を満たさない場合には邪教邪宗として取り締まられた。今日、「破壊的カルト」というのと同じです。犀角独歩さんがおっしゃるように、基準の一つは時代の学問に合致することです。
蓮祖はいわば、取り締まられた側の人間であると思います。つまり当時の鎌倉幕府から「納得」されなかったのではないでしょうか。しかし蓮祖を出発点とする幾多の信仰集団は生き延び続け、現代に至るのだと思います。それは「納得」した人々もいた、ということなのかもしれません。それはしかし「それぞれの時代と社会の学問、道徳が要求する基準を満たし」たからであるというよりも、信仰として、それを切実に受容せずにいられない人たちがいたからなのではないでしょうか。その切実さに、私は「それぞれの時代と社会の学問、道徳が要求する基準を満たし」たから「納得」できたといった、説明に収まりきれないものを感じます。時の権力に「納得」されえなくても求めた、信仰とはそのようなエネルギーを指すのではないでしょうか。
自然科学と、文献学によって、蓮祖の信仰は社会的強制力を持ちうる宗教から、物語としての宗教へと移行せざるを得なくなったと思います。しかし多くの宗教も似たような立場に立たされているのではないかと考えます。そしてそれでいいのだと考えます。
>それらは事実や史実ではないが信者(ファン)にはなんらかの「真実」を感銘する。事実と真実との混同がたしかに西欧のキリスト教や日本の仏教の歴史に見られます。
大いに同意いたします。事実と真実の混同こそ、現代社会へ移行する過程で、分離されなければならない点です。
>日蓮の活動は「反−宗教改革」であって、イエズス会の創設者、イグナチウス・ロヨラに比較するのが適切です。
そうですね。保守反動としての蓮祖を仏教史の中で見出すことは重要だと思います。
>「真実」だから構わないということは云えません。アル・カイーダの「真実」は折伏(武力討伐)されなくてはなりません。日蓮の思想を構成する要素の大部分は、今日では棄てられねばなりません。彼の思想中で、とるべき事柄は、現代文明に反逆する宗教宗派は言論と武力で退治すべきという一事のみだと、わたしは考えています。日蓮の誤謬を「真実」どころか「事実・史実」などと迷信する教徒は、当然、最初に折伏されねばなりません。
少々驚きましたが、「日蓮の誤謬を「真実」どころか「事実・史実」などと迷信する」ことはやめるべきですし、真実は個人の感動であっても社会的強制力を持つものではないことは、大いに自覚しなければならないことだと考えます。そのような思い違いに対しては強制力を持った対処が必要なのかもしれません。
76
:
通りすがり2
:2005/07/24(日) 00:30:25
今日、折伏すべきなのは、テロリズムでもなければ、古めかしい宗教でもなく、
物質主義的なものの考え方や享楽主義だろう。
77
:
犀角独歩
:2005/07/24(日) 09:21:08
72 乾闥婆さん
レス、有り難うございます。
拝読して思ったのですが、乾闥婆さんは、スレのテーマを読み違えていませんか。
現代人が納得できる日蓮教学ということを、わたしは、日蓮を21世紀に残すために考えてみようと思って、このスレッドに望んでいます。そのために一般的な見地から見える日蓮、その一般の人々が納得するものは何かを抽出する作業をしようとしているわけです。批判として読んでいただきたくないのですが、乾闥婆さんのご投稿を読んだ一般の人は、言葉は悪いかも知れませんが、多分に「言い訳臭い」と感じるのではないでしょうか。
このスレ・テーマは自己信仰への弁明を目的とするより、何によって人は日蓮を受容するのかという模索です。その意味で、乾闥婆さんは、何か勘違いなさっているようにお見受けします。
斯くいうわたしは、生まれながらの「日蓮正宗」信徒「創価学会」員でした。両親は熱烈な活動家でした。家族の一員であること、親孝行であること、良い子であること、それらの価値観を満たす条件で、最優先事項は「正しい」信徒会員であることでした。そこには一切の選択肢は存在せずに育ちました。ご指摘を受けるまでもなく、納得して信仰などしてきませんでした。しかし、ここに出口があることを知りました。
'95年の地下鉄サリン事件を機に、わたしは自己信仰の点検に入りました。平行して、ここ10年来、社会活動として、所謂、カルト集団と信者、また、その被害者と向かい合ってきました。そのなかで同じようにカルト問題を考える多くの人々との出会いがありました。精神科医、弁護士、博士、臨床心理士から、牧師、神父、各派僧侶…、その数は200名近くになります。また、カルト入会活動する子・配偶者を持つ家族の悲痛な叫びを多く聞くことにもなりました。
この人たちとので出会いと会話を通じて、自分が信仰してきたものは、日本の一般社会、ましてや全世界的宗教問題では、まったく通用しないことを痛切に思い知らされました。
ロムの多くの方々、特に的外れな無責任な書き込みを吐き捨てる人々は誤解しているようですが、わたしは日蓮を、いまでも敬愛しています。故に何とか、この日蓮を、未来に継承したい。そのような思いがあります。そのために一般人の視点を借りて、では、納得できる日蓮の要素とは何かを考えてみようというのがテーマです。
> 「科学的であり、社会的親和性に富む宗教」とはどのような宗教でしょうか
この問いはそもそも、わたしの記述を取り違えています。科学的な宗教などあるはずはありません、その成立が科学以前の訳ですから。そうではなく、非科学的な宗教は説得性を有さないというのみです。これは=科学的な宗教という意味ではありません。
しかし、「社会的親和性に富む宗教」の例など、いくらでもあります。文明、文化全般、政治・経済、諸学問に至るまで、宗教の延長から発展したものはいくらでもあります。その具体的な事例が思いつきませんか。
78
:
犀角独歩
:2005/07/24(日) 09:22:13
―76からつづく―
> キリスト教の教義と科学的であることとはどのように折り合いがつくのでしょうか。
この問いは先に答えた点で無意味となりましたので、繰り返しません。
> 社会的…阻害された人々…魅力…受け入れる要素がそもそも宗教にある
これは社会的疎外者の定義が曖昧すぎます。
社会的疎外者のなかには、社会的弱者が含まれるでしょう。このような人々が、社会的恩恵を被ることなく、むしろ、宗教によって助けられてきた点を、どうして、わたしが否定する理由があるでしょうか。このような要素は、人をして宗教を納得させる要素となり得たのは歴史的な事実です。天地創造を言いながら、キリスト者が社会一般でボランティアその他貢献するのは、その例でしょう。しかし、一般の人は、その教義のなかから、神話的な要素を除外視し、「博愛」の精神と実践を評価しているのに過ぎません。その部分が人々を納得させるのでしょう。わたしが「納得」の要素として考える一つです。わたしの恩人である浅見定雄師がご自身ハーバードで学んだ神学者でありながら、「何を信じているのかを問題にするのではなく、何をしているのかを問題にする」という優れた視点でカルト門田を解決してこられたのも、この視点でした。この何をしているのかが、公共に寄与すれば社会的親和性をもち、反面、反社会的であれば、カルトと断罪されるでしょう。「納得」を考える重要な一面です。
> 非常に危険な信仰集団が成立するだけ
「だけ」?、ですか。
社会的阻害を受ける人々の中には反社会性を有する人々という一面もあるでしょう。カルト・リーダーを、心理、もしくは精神分析し、その異常性を分析するデータがあります。また、近年では人格障害という側面からのこれら人々の真相を究明することも行われてきました。宗教が、この異常者の満足の道具となり、また、同じように社会不満を暴力行使も辞さず、社会改革幻想に、実際に犯罪を犯す例はあります。日本で言えば、オウム真理教です。ここで紡がれる「物語」はしかし、個人の信仰という枠を超え、仮想現実という妄想から現実社会の被害を及ぼします。
「物語」は、そのような側面も有していることは看過してはならないとわたしは思います。このような信者の仮想現実埋没、幻想物語は、選民思想を生み、ファンダメンタリズムを生み、歪んだ自画像は信仰者以外の侮蔑と差別を容易に惹起します。このような物語と幻想に警戒をするのは寧ろ当然のことでしょう。
> 宗教とは元来そのような危険な要素を常に孕む存在
そのようなことは十二分に理解しています。そのような危険な要素は、しかし、社会的被害を起こすという実害に対する、被害者の痛みがまるで考慮されていません。そのような宗教は駆除されなければならないでしょう。危険を行使する宗教は、もはや、宗教ではなく、社会的に見れば、単なる犯罪集団であるからです。宗教と名を置けば何をやってもよいという屁理屈は通りません。
> 帰依に至る「納得できる最低限の説得性」とはどのようなもの
反対にお聞きしますが、乾闥婆さんは、鰯の頭を仏壇に飾って拝みますか。
夜、口笛を吹くと蛇が出ると信じますか。ミミズに小便をかけると局部が腫れ上がると信じていますか。もし、信じていれば、話になりませんが、もし、信じないとすれば、何故でしょうか。わたしがいう最低限の説得性とはそのような意味です。
> 数ある宗教の中で、なぜその宗教を自身の信仰として選んだ
わたしは、この記述は、虚偽であると思いますよ。
日本だけでも数万もあるという宗教、世界的に見れば、その数は数十万、数百万、いやもっと多いかも知れません。実に狭い選択肢のなかから、たまたま、知り得た宗教に意義を感じたというのが現実ではないでしょうか。
79
:
犀角独歩
:2005/07/24(日) 09:24:38
(一つ前77からつづくのまちがいです)―78からつづく―
> 条件が揃ったから信仰する、揃った条件に「納得」がいったから信仰する
そのようにお考えですか。たとえば、日蓮の信仰姿勢というのは、まさにこのような納得ずくめで確立されたものであると、わたしには映じます。下克上がなぜ起きたか、何故、同士討ちが起きるのか、他国から攻められるのか、不幸が起きるのか、それらを解決する条件とは何か、釈尊の極説は法華経である、末法には、南無妙法蓮華經である…。日蓮は、鎌倉当時に考えられる最高水準の「学問」をもって自身納得していった様が、真跡遺文から、ありありと読み取れると、わたしは思います。
> …信者ではない現代人が受容できる「日蓮教学」…現代人である…信者として信仰しうる「日蓮教学」。その二つの側面は表裏一体にせめぎあう
「せめぎあう」ですか。それは不条理、納得できないことを、それでも信じたいという心があるからでしょうね。そこを過ぎると、せめぎあいは消えていきます。
> …私にとって、それはそれ、これはこれ、なのです
個人的には勝手です。まさに鰯の頭も信心で論じあったテーマです。
そのような信仰は、信教の自由によって保障されています。
ただし、それが不変な真理だ、それを信じない者は地獄に堕ちる、誹謗正法だ、極悪、堕獄だどうのと他者攻撃、差別、言論を含む暴力の道具となるとき、社会鑑識に晒され、反社会的であれば、排除されることになるでしょう。また、自分一人で納得するだけであれば独り善がりです。
> なぜならば信仰とは納得する条件が揃うからするものではない
これは、乾闥婆さんの信仰観でしょう。個人的にはどのように、考えようと上述したとおり、自由です。しかし、日蓮は鎌倉時代の学問宗教の最高水準で自身納得がいく条件が揃ったからこそ信仰をしたと思いますし、わたしは現代の水準で納得がいけば、あるいは信仰というカードをもう一度手に取るかも知れません。
> 物語として、信仰者の意識の中で、蓮祖は生き延びる
このような一面もあります。しかし、それだけではない、その点を模索したいというのが「納得」というテーマです。
> 択一ではなく、それ以外なくなる
このような姿勢は、ご本人、気を悪くされるかも知れませんが、まるで、親鸞の言う信仰観に酷似していますね。
わたしが「択一ではない」と言った意味とまるで違います。
善いところは採り、悪いところは捨てるという意味合いで記しました。つまり、一つのものを白黒どちらかでレッテルを貼らないという意味も含みます。一つのものを多面的に観察する見識眼を養うということです。一人の宗祖、一仏、一経、相対的に取捨すれば最高のものが残るというのは幻想に過ぎないでしょう。
> 物語として受容することを信仰の生き残る道…物語を読んでいる人間
これは換言すれば、仮想現実の住人、夢の住人、妄想の住人となるという意味になりませんか。自分が納得できるベッドを用意して、現実を放り出して、夢を見ることが宗教ですか。日蓮の考えからもかけ離れているように見えますが。
> 掲示板…私の読む蓮祖の物語の枠は大きな広がり…事実、という魅力あるテーマ
このようなお考え、ロムいただくことは有り難いことであると思います。
乾闥婆さん、漫荼羅信仰を卒業して、さらに見る日蓮漫荼羅は、信仰で見る日蓮漫荼羅より遙かに規模が大きいことに、いま、わたし自身、驚いています。漫荼羅唱題・日蓮を‘出口’にすると、世界は広漠と広がっており、その広野は実に絶景です。いつしか、この光景をご覧になってください。
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