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現代人が納得できる日蓮教学

73乾闥婆:2005/07/23(土) 23:46:53
>>50

>真跡遺文から確実に知られるところの日蓮の信仰観はあるし、疑偽書・門派教義を添加したうえでの信仰も当然成り立ちます。

少し言葉が足りませんでした。現在の、たとえば曼荼羅本尊の信仰などは、真蹟遺文を突き詰めて解体しえたとしても、信仰として残る、といったことを言いたかったのです。私は正直に言って、曼荼羅へ向かっての唱題を、どのように真蹟遺文に限定することにによってその本尊としての根拠を奪われたとしても、「信仰として」捨てないと思います。疑偽書といわれようとも、「諸法実相抄」などを、おそらく愛することでしょう。私にとって、それはそれ、これはこれ、なのです。なぜならば信仰とは納得する条件が揃うからするものではないからです。蓮祖をその時代に限定し、その真蹟遺文に限定し、その事実に迫ることは、非常に重要ですが、結局蓮祖は受容され変容され現在に至る信仰としてあるのです。事実による変容された姿への異議申し立ては、前にも書きましたとおり、現代社会における蓮祖の教学を括弧に入れ、直接的な行動原理とはさせない、重要な役割を果たします。それは蓮祖の教義は対社会的な強制力をもはや持たない、といった前提を私たちに与えてくれます。しかし一個人の信仰に対しては、また逆にそのような蓮祖の事実は強制力を持たないと考えるのです。それは信仰が基本的には非社会的な部分にかかわる営みだからだと考えます。蓮祖の対社会的な積極姿勢は、もはや現代社会においての説得力に関して言えば絶望的です。そしてそれでいいのだと思います。蓮祖の言動やその受容・変容をすべて括弧に入れて、物語として、信仰者の意識の中で、蓮祖は生き延びるのだと思います。

>納得するかしないかという択一論ではありません。択一論が危険なのです。

そうですね。信仰とは「納得するかしないかという」ことではないと私も思います。択一ではなく、それ以外なくなる、といった方がいいのかもしれません。ちょっと犀角独歩さんの論旨とずれてしまいますが、物語として受容することを信仰の生き残る道と考えている私は、そもそも択一する意味がないのでしょう。物語を物語と知って読む者は、この物語以外はすべてダメ、という言い方を普通はしません。しかしひとつの物語を読んでいる人間は、基本的にその物語の世界にいます。

>要は「唯一絶対の真理として受け入れられる」=「現代人誰もが納得しうる宗教がある」というのが幻想だということでしょうか。そうであれば、そんなことは当然でしょうね。しかし、この連文は=でつなげるのでしょうか。あるいは、前文は危険なこと、後文は幻想を意味しているのでしょうか。

そういう文章ではなくて「ひとつの物語にすぎない教義を唯一絶対の真理として受け入れてしまうこと」とは私の目に映る創価学会のようなあり方を指し、「現代人の誰にでも納得しうる宗教はありうるという幻想を抱いてしまうこと」とは、このスレッドから感じた私の印象を指します。ゆえにこの連文はイコールではありません。しかし結果として同じ陥穽にはまるのではないか、といったことを示唆したものではあります。もちろん信者ではない現代人でも受容しうる「日蓮教学」を視野に入れているこのスレッドに対しての、私の勘違いではありました。申し訳ありませんでした。

>日蓮と、その後の、特に石山教学・本尊・血脈の類はもはや問題外です。もう終わっています。ただ、それとは別に、日蓮に意義を感じる人々が、これから何を為すかという点では、何も終わっていません。寧ろ、いまそのスタートに立っているとわたしは思うのです。

同意いたします。私の読み続けてきた物語も、本門戒壇大御本尊であるとか、血脈であるとか、そういった部分は、すっかり廃れきっております。もう少し枠の広い蓮祖という物語を読んでいるのでしょう。その一環としてこの掲示板はあり、常々読ませていただいております。この掲示板のおかげで、私の読む蓮祖の物語の枠は大きな広がりを見せております。事実、という魅力あるテーマのもとに。


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