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現代人が納得できる日蓮教学
42
:
犀角独歩
:2005/07/20(水) 20:25:44
問答名人さん
既に顕正居士さんが正鵠を得たご投稿を下さいましたので、わたしはご質問のみ、簡潔に記させていただこうと存じます。
>『自我得仏来…常住此説法』
> …原始仏典以来の、仏の概念を根底から改変
なるほど。
> …世界には生まれて来なくなれる
無余涅槃とは、もちろん、そのような謂いであろうと存じます。
この思想は、阿羅漢果が先行し、その意味するところは、最後の肉体を持つ者という意味であったと思います。ブッダは目覚めた人、覚った人と意味ですから、やや意味するところは違いますが、当然、仰るような意味合いを有すると思います。
顕正居士さんがご指摘くださったように、インド人にとって、輪廻は脱したい束縛と捉えられていたようで、ところが中国に入ると、まったく逆転して認識されたと言われますね。つまり、死んでも自分が無くならないと受容され、この点は日本も同様であったという指摘を以前、読んだことがあります。この筋から、漢訳経釈の常楽我浄を捉えないと、意味を取り損ねるのではないかと思えます。
しかし、寿量品における仏の常住は、インド発想と言うことになります。では、ここからどのように読み解けるのでしょうか。問答さんが仰るように、これは大きな改変であると、わたしは思います。どうやら、天台教学では法華経は、既に三諦論を成就しているということになってしまっていますが、常住此説法の仏とは、わたしは三身よりももっと原初的であると考えます。法華経におけるコンセプトは成仏とは長寿(寿量)覚徳を意味するもので、つまり、不死を得た如来が永遠に霊鷲山にいて、説法をし続けるという文字通りの意味なのであろうと思います。その意味において、そこに三身説が介在する余地がないのが寿量品でしょう。しかし、こう書けば、天台教学を墨守する人は、釈文をもってきて難を付けるでしょうが、わたしはこの点では譲りません。
以上の次第から考えるとき、「此の世に生まれてこなくなる」という以前に不死を得た如来であるから、というのが天台釈によらず、直裁にみた法華原文の意味であろうとわたしは考えます。
> 覚りを開いた…空…無常…無我…世を遁れるべき
わたしはこの点で実に現実的にしか考えていません。生きている以上は食べなければならなかった。食べて生きていれば、人々は集まってきたという循環であったろうと。
> 九横の大難と言われる迫害の嵐
わたしは、むしろ、シャキャムニは王に庇護され、長者に精舎を寄進されるなど、「大難」という程のことはなく、ただ、釈迦族の滅亡、提婆達多・阿闍世王の暗殺未遂は大きな事件であったにせよ、しかし全体的には庇護、尊敬を集めた生涯であったと思えます。
> せっかく広めた教えも、程なく元々のヒンドゥー教に飲み込まれて、名のみの仏教に成り果ててしまう
これも、全体的に見れば、そうでしょうが、全部が全部ではなく、いまでもシャキャムニの教えを厳守する人と集団は生き残っていると言います。砂漠で一粒のダイヤのような存在であっても、わたしはいまに継続していると考えています。
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