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現代人が納得できる日蓮教学

79犀角独歩:2005/07/24(日) 09:24:38

(一つ前77からつづくのまちがいです)―78からつづく―

> 条件が揃ったから信仰する、揃った条件に「納得」がいったから信仰する

そのようにお考えですか。たとえば、日蓮の信仰姿勢というのは、まさにこのような納得ずくめで確立されたものであると、わたしには映じます。下克上がなぜ起きたか、何故、同士討ちが起きるのか、他国から攻められるのか、不幸が起きるのか、それらを解決する条件とは何か、釈尊の極説は法華経である、末法には、南無妙法蓮華經である…。日蓮は、鎌倉当時に考えられる最高水準の「学問」をもって自身納得していった様が、真跡遺文から、ありありと読み取れると、わたしは思います。

> …信者ではない現代人が受容できる「日蓮教学」…現代人である…信者として信仰しうる「日蓮教学」。その二つの側面は表裏一体にせめぎあう

「せめぎあう」ですか。それは不条理、納得できないことを、それでも信じたいという心があるからでしょうね。そこを過ぎると、せめぎあいは消えていきます。

> …私にとって、それはそれ、これはこれ、なのです

個人的には勝手です。まさに鰯の頭も信心で論じあったテーマです。
そのような信仰は、信教の自由によって保障されています。
ただし、それが不変な真理だ、それを信じない者は地獄に堕ちる、誹謗正法だ、極悪、堕獄だどうのと他者攻撃、差別、言論を含む暴力の道具となるとき、社会鑑識に晒され、反社会的であれば、排除されることになるでしょう。また、自分一人で納得するだけであれば独り善がりです。

> なぜならば信仰とは納得する条件が揃うからするものではない

これは、乾闥婆さんの信仰観でしょう。個人的にはどのように、考えようと上述したとおり、自由です。しかし、日蓮は鎌倉時代の学問宗教の最高水準で自身納得がいく条件が揃ったからこそ信仰をしたと思いますし、わたしは現代の水準で納得がいけば、あるいは信仰というカードをもう一度手に取るかも知れません。

> 物語として、信仰者の意識の中で、蓮祖は生き延びる

このような一面もあります。しかし、それだけではない、その点を模索したいというのが「納得」というテーマです。

> 択一ではなく、それ以外なくなる

このような姿勢は、ご本人、気を悪くされるかも知れませんが、まるで、親鸞の言う信仰観に酷似していますね。

わたしが「択一ではない」と言った意味とまるで違います。
善いところは採り、悪いところは捨てるという意味合いで記しました。つまり、一つのものを白黒どちらかでレッテルを貼らないという意味も含みます。一つのものを多面的に観察する見識眼を養うということです。一人の宗祖、一仏、一経、相対的に取捨すれば最高のものが残るというのは幻想に過ぎないでしょう。

> 物語として受容することを信仰の生き残る道…物語を読んでいる人間

これは換言すれば、仮想現実の住人、夢の住人、妄想の住人となるという意味になりませんか。自分が納得できるベッドを用意して、現実を放り出して、夢を見ることが宗教ですか。日蓮の考えからもかけ離れているように見えますが。

> 掲示板…私の読む蓮祖の物語の枠は大きな広がり…事実、という魅力あるテーマ

このようなお考え、ロムいただくことは有り難いことであると思います。

乾闥婆さん、漫荼羅信仰を卒業して、さらに見る日蓮漫荼羅は、信仰で見る日蓮漫荼羅より遙かに規模が大きいことに、いま、わたし自身、驚いています。漫荼羅唱題・日蓮を‘出口’にすると、世界は広漠と広がっており、その広野は実に絶景です。いつしか、この光景をご覧になってください。


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