[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
現代人が納得できる日蓮教学
50
:
犀角独歩
:2005/07/22(金) 06:33:32
―49からつづく―
> 蓮祖真蹟遺文のみによった検証…信仰そのものとは別次元の問題
わたしは、この点はどうも仰る意味がわかりません。真跡遺文から確実に知られるところの日蓮の信仰観はあるし、疑偽書・門派教義を添加したうえでの信仰も当然成り立ちます。これを真跡遺文考証を信仰から分離するのは問題です。ただし、確実な日蓮教義信仰観がある程度、特定できたところで、それが信仰の対象足り得るかどうかは各人の判断に委ねられるからです。それが「納得」ということです。しかし、これは日蓮を採るか捨てるかという択一論ではなく、この部分は採れるが・この部分取れないといった姿勢で受け止めていけるかどうかが重要なのでしょう。納得できるか・どうかでは、納得できる部分もあるが、できない部分もある、「それは、ここと、ここが」という議論の形です。納得するかしないかという択一論ではありません。択一論が危険なのです。
> 危険なことは、ひとつの物語にすぎない教義を唯一絶対の真理として受け入れてしまうこと、現代人の誰にでも納得しうる宗教はありうるという幻想
この文脈は、よくわからないのですが、要は「唯一絶対の真理として受け入れられる」=「現代人誰もが納得しうる宗教がある」というのが幻想だということでしょうか。そうであれば、そんなことは当然でしょうね。しかし、この連文は=でつなげるのでしょうか。あるいは、前文は危険なこと、後文は幻想を意味しているのでしょうか。
たしかに、物語を唯一絶対の真理として受け入れることが危険です。それがしかし、信仰というものでしょう。鰯の頭も信仰の対象となり得ます。やっている本人は納得しているのでしょう。ただし、わたしは納得しません。
後者の、「現代人が誰しもが納得できる信仰があるという幻想」というのは、漠然としています。誰しもとは大多数ということでしょうか。それとも全員がということでしょうか。信仰者からすれば、納得=信仰ですが、一般大衆からすれば、そうではありませんね。社会的親和性があり、また、実害がなければ、受容されることになります。この場合、その内容が理解されていなくても納得されたということでしょう。
納得とは教義に向けられる場合もあるし、その信仰をする個人集団の行動に向けられるときもあります。前者の場合、入り口では科学・学術・倫理道徳と違反しないこと、反社会的でないことが大事な要件となるでしょう。しかし、十分な納得となれば、教義の完全な認知なくしては議論のしようがないことになります。これもまた納得です。前者は社会大衆でも「納得」できますが、後者は信者以外では関係のないことでしょう。
行動面で言えば、非科学的、反社会的であるものは、その内容如何とは関係なく、万人が納得することは有り得ません。しかし、そのような非科学的、反社会的、具体的には違法性を帯びない限り、信教の自由は保障されるわけですから、それを否定する理由はありません。この否定する理由がないことは納得に入りませんか。
わたしが先に挙げた、かつてわたしが超えた15のハードルについていえば、日蓮と、その後の、特に石山教学・本尊・血脈の類はもはや問題外です。もう終わっています。ただ、それとは別に、日蓮に意義を感じる人々が、これから何を為すかという点では、何も終わっていません。寧ろ、いまそのスタートに立っているとわたしは思うのです。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板