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現代人が納得できる日蓮教学
37
:
犀角独歩
:2005/07/20(水) 11:43:50
問答名人さん
> 涅槃経は仏教ではない、と判断
悩ましいところですね。なにをもって仏教というか、という問題になります。
これはあくまで個人のことですが、わたしは八正道、四聖諦ぐらいまでしか、仏教と思っていません。十二因縁となるとどうだろうかという感じです。
要は、シャキャムニが説いた(可能性のあるもの)ものまで、ということです。
そこから、その後の発展、また、仏教の名の下に拡大解釈されていったものをどこまで、含めるかという点で、答は出していません。つまり、この決定ができないのは、白黒できちんと分けられず、大乗経典のこの部分は初期経典から延長、ここはイラン系の習合、ここはギリシャ、漢訳のこれは中国思想…、ここはどこのものだろうかという具合に判断しかねるからです。多かれ少なかれ仏典といわれるものは、習合、混淆が織り混ざっていますので、一経まるごとを仏教・非仏教と区分するより、句節、思想ごとに分類しなければならないだろうという思いがあるからです。
涅槃経についていえば、『ブッダ最後の旅』として、訳されるようなものは、まあ、受け入れますが、大経などに見られる「刀杖執持・斬首」は、仏説として受け入れるわけにはいきません。ただし、政教一致の書という観点から、為政者の統治論が書かれていると読めば、そんなものだろうとは思います。殊に、涅槃経というのは、ありとあらゆる思想、宗教のみならず、執政に至るまで、いまでは仏教に区分されない内容まで孕んだ種々雑多な集成のように見え、その全体を仏典と言われれば、頷くわけにはいかないという判断です。
もう一つ、個人的な感覚で言えば、わたしは涅槃経より法華経、妙楽より天台のほうが、より仏教的ではあると思えます。では、仏教的という判断肢は何によるのかと言えば、まさしく常楽我浄の逆、無常・苦・無我という点ではないのかという思いがあります。なお、‘浄’という点について、この逆が不浄、もしく染(染浄二法の染)、また、穢と見るような考えは、インド起源と言うより、中国思想的な発想と感じなくもありません。
サハー(娑婆)という概念がどこまで、遡れるのかわかりませんが、この語源は、ご承知のとおり、堪忍(堪え忍ぶ)ということです。この我等が生きる世界を、穢れた世と見たり、衆生の階位(十界分別)の低位を染まり・穢れたものと見るような、「穢れ」思想のようなものが、シャキャムニにおいてあったとは思えません。故に、浄の逆をシャキャムニ以前に起源を探ることは無意味な気もしています。
あとこれはご質問の趣旨からは離れますが、わたしは法華経の涅槃経解釈には反対です。また、妙楽より天台を優位と見ています。
天台、日蓮は法華経を涅槃経で解釈しようとしたところに、そもそもその躓きがあると、わたしには思えます。法華涅槃から、純法華。天台妙楽から天台。その天台から涅槃を除いてみるほうが、より健全な教えになっていくとわたしは思えます。
第一段階として、法華経の涅槃経解釈は止めようと主張しておきたいと思います。
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