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現代人が納得できる日蓮教学
25
:
顕正居士
:2005/07/17(日) 22:23:59
日蓮聖人と法華経
日蓮聖人と法華経との関係は聖人の教義を領解し奉る上に最も大切なことで、根本的の問題
であり又教義そのものでもある。古来門下の教学に於て幾つかの異義が行われておるが、結局
此の関係に於て見解が異っておるからである。或るものは終始法華経を中心として、聖人の御
一代の弘教を判断してゆこうとするし、或るものは聖人を中心として法華経を判断してゆこう
とする。此の二つの立場が基礎となつて、大きく二つの潮流をなして、此の上に幾つもの異義
が成立しておる。
そこで聖人の教義を正しく領解し奉るには先ず此の立場が批判されねばならない。法華経は
仏教の教典中最勝第一であるとし、此れを鉄則として、聖人の教義を此の眼で見て、御一代の
弘教を会通し法華経の要約と敷衍とにあると考えることは、聖人の教学に於て正しい立場とは
いえない。聖人の教義はあくまで聖人の御書に依て判断せられねばならない。
もつとも此の点については上述の無条件に法華経を中心として判断するものと.聖人の御書から
その帰趨は法華経を中心として聖人の弘教をその要約と敷衍とにあるとするものとがあるが、
そういう立場をとる人は知らず知らずの間に前者の跡を踏襲しておるものである。
此れは教学の上から見れぱ明らかである。
最初聖人の門下に於て教学を学ぶものが先ず仏教学として天台を学び、その上に聖人の教義を学
んだのである。それがために天台の教義に制約せられて、真に聖人の御精神を領解し奉ることが
できなかったのである。
後に於ては、かくして成立した教義を踏襲して如何に之を証明づけるかということに努力が払わ
れたのであった。
聖人の御書に接することができるようになってからもその流義のきはんに束縛せられたものには
寧ろ御書はその流義の証明に役立たせるにほかならなかつた。
此れについては二祖日興上人が「聖人の御抄を心肝に染め、極理を師伝して若し間あらば台家を
学ぶぺきこと」と、御遺誡置文に仰せられたが、学者は先ずその態度をはっきり決定して、法門
を学ぶべきと教えられたもので、当時門下に於て天台を学び、その教学を中心として、聖人の
教学に臨むという風があったのに対する御誡めである。聖人の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって
決定されねばならない。
ここに於て論者の中には、釈尊と聖人とに於て仏教といえば釈尊が主である。聖人の御書の
意と釈尊の法華経の意といずれをとるかといえば法華経をとるというものがあるが、此れは法
華経に上行を称歎せられ、於諸法之義名字及言辞楽説無窮尽如風於空中一切無障碍と仰せられ
た御文からいって釈尊の証明を尊重しないものである。此の経文の意からいって聖人の御教示
は末法に於ける仏教に於て絶対に権威のあるものである。それ故に聖人の教義は御書に於て決
定せられて少しも差支えないのであって、そうすることが最も正しいのである。 以下略
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