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現代人が納得できる日蓮教学

48乾闥婆:2005/07/21(木) 16:50:15
私は蓮祖の教学をその時代に限定的に見、考えるという作業は非常に有益なものと考えます。中世日本は現代日本とは別の世界であり、その枠の中で思考するように努めることは、現代社会においての蓮祖の教学を括弧に入れ、直接的な行動原理とはさせない、理知的な態度であると思います。

しかし、私は「現代人が納得できる日蓮教学」とはどういうことなのだろうと考えてしまいます。納得する必要があるのでしょうか。宗教とは納得するものなのでしょうか。

日蓮系宗派に限らず、多くの宗教は現代人に納得できるものなのでしょうか。私にはそのようには思えません。イエスが復活したり、種々の奇蹟を行ったりすることは、納得できません。西方に浄土があるということも納得できません。禅者はいったい何を納得するのでしょうか。私は宗教とは納得するものではないと思います。

科学という観点は宗教から従来のような強い精神的な拘束力を奪った、そういう意味では宗教を死に至らしめた、と思います。それを受けて宗教は従来のままであってはいけないことは自明のことです。しかし、むしろ納得できてしまう宗教などという視点こそ危険なのではないでしょうか。宗教が科学的に現代人の目から見て、つまり誰が見ても納得しうるものとして、ありうる、そのような幻想は抱くべきではないし、宗教とはそのようにはありえないと思います。創価学会も懸命に自分たちの信仰は科学から見ても正しいといいうるのだ、といった主張をしていた時期があると思います。私はいかがわしい、と常々感じていました。なぜ信仰に科学の証明を導入しようとするのか、それらはまったく別物ではないのか、そう感じていました。彼らは逆に科学という言葉を利用して自分たちの正当性を主張しようとしていたのだと思います(もちろん成功するはずもありませんが)。現代人の誰もが納得できる宗教という幻想は結局創価学会のようなあり方を生み出してしまうのではないでしょうか。

現代における宗教とは犀角独歩さんも指摘されているとおり、もはや寓話としてしか生き延びる道はないと思います。>>16 「キリスト者が、世が1週間出来た天地創造やら、土からできたアダム、肋骨からイブが出来たとかという話をかつては絶対の真実としていながら、いまでは寓話として、精神、社会貢献で生き残ってきました。精神・生活規範として、人類に貢献する部分があれば、生き残るでしょう。そのようなものが日蓮にあるかどうかです。」

寓話・物語、として生き延びる宗教は、それを受け入れる人間の中でしか生き残れないのだと思います。キリスト者が受け入れている寓話を私は受け入れませんし、もちろん納得もしません。それはもはや信仰者個々の問題であるのだと思います。「現代人」と括られる不特定多数の人間によって納得されうる宗教などないし、だからこそ、それは個々の人間において極私的に受容される以外ないものなのだと思います。創価学会で問題となるのはその受容形態が組織的であり、その本来あるべき私的な受容としての信仰を否定する側面があるところなのでしょう。

大事なことは各々の宗教はそれぞれひとつの物語に過ぎないと、理解して自身の信仰をはぐくむことではないでしょうか。物語は人間に対して有効か無効か。私はそれを物語であると理解して受け入れるのであれば有効であると考えています。ここで行われているような、蓮祖真蹟遺文のみによった検証は、蓮祖のその時代における姿を捉える上で非常に重要ではありますが、それはある意味で、信仰そのものとは別次元の問題であると思います。危険なことは、ひとつの物語にすぎない教義を唯一絶対の真理として受け入れてしまうこと、現代人の誰にでも納得しうる宗教はありうるという幻想を抱いてしまうこと、なのではないでしょうか。

以上、ここまで読ませていただいて、私の感じているところを長々と述べさせていただきました。失礼いたしました。


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