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現代人が納得できる日蓮教学

28犀角独歩:2005/07/17(日) 22:32:42

―27からつづく―

わたしのところには毎日のように多くの相談が寄せられますが、最近、「戒名ってどうやってつけるんですか。自分でつけちゃ駄目ですか」といった類の問い合わせが入るようになりました。漫荼羅でさえ、ネットからダウンロードして、自分の納得のいく紙を選びプリントし、表装することが起きている現在、自家製戒名は、ある意味、戒名不用と並ぶ、新たな時流となるのかも知れません。わたしはこれもありだと考えます。「親からもらった名前ではなく、ネットでは自ら決めたハンドルネームで行く」というのが、先駆けであれば、死んだのちの自分の名前(戒名)を自分で決めるという流れが生じるのは、寧ろ必然とすら思えます。

宗教は所詮人間が作ったものだ。人知を越えたものなど、実は何もない、という当たり前のことがわかると、いままでの脅迫衝動は一挙に消滅します。「まだ、科学でわからないことはたくさんある」、そんなことは当然ですが、しかし、そのあとに、故に、わたしは続けてきました。「だから、科学性以前の宗教じゃ尚更のこと」。

しかし、人間は老いさらばえて、やがて病み、死にます。この摂理の前で、日蓮さえ、無力でした。無宗教の人が立派に死んでいく姿をわたしは幾例も見てきました。また、反面、唱題の力で、闘病を越え、立派な死を迎えた例もたくさん、見ました。

原型の仏教より、それ以降の発展系のなかで、秀でた部分もたくさんあると思います。
シャキャムニの教えは、林棲し、死に向かう教えという側面が強い気がします。ですから、一般社会を生きるためには役に立たないところもたくさんあります。しかし、それだけに死に行くためには有効であると思えます。

日蓮の教えはどうでしょうか。その教学体系=法華経釈尊究極の直説という教義大綱は、先に記してきたとおり、既に潰えてしまいました。けれど、実際に、唱題をした、各人の実体験は、そのような点を超えて人生に大きく役立った部分もあります。反面、勤行唱題に逃げ込んで、それだけで自己満足してしまう思考と行動の停止を呈しているという信者が気が付けない坑に墜ちている部分もあります。

四箇格言差別とも言うべき日蓮門下の脅迫衝動。彫刻本尊信仰圏で言えば、模造の彫刻、日蓮本仏、血脈談義。信不信によって醸造される差別と憎悪です。

しかし、日蓮の消息文に見られる細やかな感性、(日蓮なりに考えたことであったにせよ)正しいこと、それを貫こうとする正義心。親を思い、国を思う心等。賛同し、見習うべき点は数多あるようにも思えます。

現代人が納得できる日蓮教学は、換言すれば、 現代人を納得させられる日蓮教学ということでしょうか。しかし、その教学は集団、指導者の商業ツール、説得、購買動機の説明原理から決別し、各個人的な精進のために吟味する段階に入ったのだと、わたしは思います。


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