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現代人が納得できる日蓮教学

72乾闥婆:2005/07/23(土) 23:46:18
>>49
犀角独歩さん。

>わたしが「納得」というとき、それは、つまり、入信、もしくは帰依を意味すること、また、その場合、入信動機として、納得できる最低限の説得性を有すかどうかという議論でした。また、信者とならない人々にとって、納得がいかないとは、非科学的である、反社会的であるなど、社会の一員としての条件を満たさないことを意味します。

信者となる人の「納得」と信者とならない人の「納得」は違う、ということでしょうか。信者とならない人の納得は分かります。「非科学的である、反社会的であるなど、社会の一員としての条件を満たさない」宗教には「納得」しない、つまり逆を解せば科学的であり、社会的親和性に富む宗教であれば信者とならない人でも一定の理解を示せるというレベルでの「納得」はあるのでしょう。しかし「科学的であり、社会的親和性に富む宗教」とはどのような宗教でしょうか。たとえばキリスト教の教義と科学的であることとはどのように折り合いがつくのでしょうか。また宗教というものが、社会的であることから阻害された人々にとって魅力あるものと映るのは、そのような社会的疎外者を受け入れる要素がそもそも宗教にあるからなのではないでしょうか。それが先鋭化するときに非常に危険な信仰集団が成立するだけのことであり、宗教とは元来そのような危険な要素を常に孕む存在なのではないでしょうか。信者となる人の「納得」となるとさらによく分かりません。帰依に至る「納得できる最低限の説得性」とはどのようなものなのでしょうか。科学的であり、社会的親和性に富むことは、消極的な「納得」の条件とはなるのでしょうが、帰依に至る人間はそのような条件だけで、ある特定の宗教を選んだりはしないと思うのです。そのような条件を飛び越えたところで帰依するのでなければ、数ある宗教の中で、なぜその宗教を自身の信仰として選んだのか、よく分からなくなってしまいます。条件が揃ったから信仰する、揃った条件に「納得」がいったから信仰する、そんなことではないと思うのです。同じ条件が揃った異なる宗教が目の前にあったとして、どちらをその人間は選ぶのでしょうか。それゆえに、私は、信仰を選ぶものは「納得」などして選んでいるのではないのではないかといったのです。

>一方、乾闥婆さんが仰る納得は、信仰姿勢とは納得するものではない、また、対社会的な意図は考慮に入っていないようにお見受けしました。

対社会的な意図は信者とならない人たちがその宗教を社会の枠組みの中で受け入れることができるのかどうか、といった局面において考慮されるべきだと考えています。それは、信者が信仰する意識内においては、究極的には排除されると考えています。「現代人が納得できる日蓮教学」といった表題は、二つの側面があるのでしょう。信者ではない現代人が受容できる「日蓮教学」。もうひとつは現代人であるところの私たちが信者として信仰しうる「日蓮教学」。その二つの側面は表裏一体にせめぎあうのだと思いました。


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