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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

1管理者:2002/03/08(金) 16:52

ここから、このスレッドの過去レスを見る事が出来ます。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/gohonbutu.htm


スレッドテーマのご提案がありましたので、立ち上げます。

古来、日蓮大聖人様が御本仏である、というのは、大石寺、富士門流の根幹教義です。この教義について、幅広く、根源的な議論が展開される事を期待して、このスレッドを立ち上げます。

276みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/05/27(火) 01:12
>>273 成仏 獲得希望者さん
 手持ちの御書(遺文集)から、真跡現存、曾存のものを拾い読みしてくださいという意味で、真跡だけあつめた遺文集を買って読んでくださいという意味ではありません。

 できるだけ真跡だけ集めるという方針の遺文集は一応ありますけれども(例外あり)。『平成新修日蓮聖人遺文集』(星雲社)、『日蓮聖人全集』(春秋社)。

277みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/05/27(火) 14:15
>>272 愚鈍凡夫さん

>天台大師の法門を継承するという意味での天台法華宗(天台顕教)は、一念三千を説くこ
とから、法華経の理念に適うと日蓮聖人は判断していたのではないでしょうか。

この文はちょっと違うと思います。日蓮は天台宗の世界観を受け入れていたので、法華最勝を主張したのだと思います。順序が逆だと思います。また、一念三千と法華経はあまり関係がないと思いますが。


> そのためには、本尊に対する絶対信(盲信)と唱題行を宣弘するしかなかったのだと思います。そして、教義上は天台教学を踏襲しながら、本尊と行法に於いて独自性を打ち出したのが日蓮仏法ではなかったかと思います。
> 誰にでも可能な成道の法の探求が、結果的に天台法華宗からの離脱を促したのではないでしょうか。

絶対信を盲信と言い換えることは不適切だと思いますし、日蓮が盲信を主張したかどうかはわかりませんが、とりあえず保留します。あと日蓮は本尊を信じることではなくて、むしろ法華経を信じることを強く主張しているように思うのですが。それ以外はおおむね同意します。

ひとつ付言するならば、誰にでも可能な成道の法は天台宗、天台本覚思想文献の中ででもいろいろ主張されているんですよね。それが実用的なものかはともかく。


> この3人を同列に並べて日本天台宗の獅子身中の虫としていることから、
> 中古天台は、台密を土台として成立していったように思うのです。

中古天台・天台本覚思想の文献を読まれるとわかると思いますが、天台顕教の世界観を基本としているように思いますが(それと阿弥陀信仰、密教が区別されず連続して描かれている点が日蓮との違い)。日蓮の遺文にとてもよく似ています。似ているのに違うので、興味深いわけですが。

恵心僧都源信が出てくるのは密教との関連ではなくて、浄土教との関係からではないでしょうか。

278みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/05/27(火) 14:15
> 日蓮聖人は、台密が大日経を法華経と相対して理同事勝とすることと、凡夫本仏論の源流とも言える中古天台の本覚論に、反発を感じていたのではないでしょうか。

松戸氏の本は持っていますが読んでないので凡夫本仏論なるものについては何とも言えません。

日蓮に天台本覚思想の影響は強いと思います。わたしには日蓮も道元も、「ある意味で」天台本覚思想家の一人にしか見えません。(二人ともそれから距離を取っていたことは確かだと思いますが、距離を取っていたり批判したからと言って、影響を免れているわけではない、と思うわけです)

浅井要麟先生以来、日蓮は本覚思想とは違うと考えるのが普通みたいですが、浅井円道先生や田村芳朗先生の仕事の後に生きている我々は、そう簡単に図式的に見てはいられないと思いますが。もっと事情は複雑です。

今日の仏教学者や思想史学者で、天台本覚思想を解説したり批判している人は、天台本覚思想をきわめて単純に図式化している方がいくらかいるように思います。たとえば最近では、佐藤弘夫先生の『偽書の精神史』(講談社)の163頁あたりの、本覚思想の説明は、ずいぶんと乱暴であるように感じます。「本覚思想の特色は、超越者と自己の一体的把握にあった。」(P163)そう単純なものではないだろうと思いますが。超越者という言葉はきわめて不適切だと思います。

そういった本覚思想への学者の説だけ読んで、本覚思想・如来蔵思想についてあれこれ言う一般の仏教に関心がある方がここ10年ほど多いわけですが(松本、袴谷両先生の影響でしょう)、研究書じゃなくて原典を読まないと、それについて何か言うのは危険であろうと思います。


> 慧心流の口伝法門では、
> 一念三千とは自受用身のことで、その自受用身とは出尊形仏であると定義づけますね。要するに凡夫の姿をした仏と言う意味ですね。
> 如来蔵思想を背景とした即身成仏の影響をまともに受けているように思います。

すいません、「慧心流の口伝法門」について何を読めば良いのかお教え頂ければ幸いです。続天台宗全書でしょうか。それとも研究書でしょうか。浅井要麟先生の『日蓮聖人教学の研究』でしょうか。

「一念三千即自受用身、自受用身者出尊形仏」という伝・最澄の文が御義口伝、末法相応抄に引かれているようですが、それが恵心流一般に流布した考えだったかどうか私は存じません。

さて、たとえば、本尊抄の「文の心は、釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」、「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起して、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう」といった記述には、天台本覚思想とたいした距離を感じません。

こういった記述は日蓮文献で多く見られますが、それらを見る限り日蓮思想も、如来蔵思想、仏性思想を背景とした即身成仏思想の一種だと思いますが。

日蓮思想と天台本覚思想を分けることがあるとしたら、凡夫即仏を言うか言わないか、行不要を言うか言わないか、だと思われるかも知れませんが、天台本覚文献でも行の必要は一応言いますし、日蓮も己心中の仏は言います。日蓮思想と天台本覚思想の差は、程度の問題かと思います。方向性が180度違うわけではないと思います。むしろ同じ方向を向いているように私には思えます。

279愚鈍凡夫:2003/05/28(水) 00:48
277: みかん(z8VoUpnM)さんへ

確かに法華経には一念三千を連想させる記述は見あたりません。その意味では、天台大師の個人的な悟達と言えるかも知れません。
しかし日蓮聖人は、一念三千が法華経の延長線上にある理念と考えていたのではないでしょうか。

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(「開目抄上」 学会版P189)
「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し、出現して、迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して、百界千如・一念三千其の義を尽くせり」(「観心本尊抄」 昭定P719)
「法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(「撰時抄」 学会版P288)

以上の文証からは、法華経から導き出されると言っているように思いますが。

次に「絶対信」ですが、「絶対信」は「本尊に己の人生を依存する」ことが前提になると思うのです。言い換えれば、「絶対帰依」とでも言うのでしょうか。
要するに、身の回りに起こる全てのことが、本尊の仏力・法力によると信じることではないでしょうか。これはもう「盲信」と言っても差し支えないように思いますが。

慧心流口伝法門について、
「自受用報身如來。以顯本爲正意也」(「一帖抄」)
「一念三千即自受用身。自受用身者出尊形佛文以此道理以報身爲正意習也」(「一帖抄」)
「以テ報身ノ自受用ヲ爲スト顯本ノ正意ト相傳スル也」(「二帖抄」)
「一念三千即自受用身行體云。」(「八帖抄」)
これらの文証がまず頭に浮かぶのです(これらが慧心流口伝法門ではないというのならば、勉強しなおします)。

ただ本覚論について、小生のような素人がとやかく言うのは危険かも知れませんが、避けては通れない道だと思います。
個人的に、日蓮聖人が本覚論をそのまま受け入れていたとは思いませんが、結論を出には尚早だと思うので、これからも研鑽を続けていきたいと思っています。

とりあえず、この辺でお休みなさい。

280みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/05/28(水) 01:57
日蓮自身は一念三千と法華経の関係についてそう考えていたでしょうね。

日蓮の信の対象は、再度申し上げますが本尊ではなくて法華経だと思うのですが。

わたしは口伝法門については知識がないですし、「一帖抄」、「二帖抄」という文献自体知らないので、すいませんが、参考になる本、あるいは論文があれば教えて頂きたいと言っているわけです。
今調べたら、天台宗全書九巻に収められているようですね。あと、富士宗学要集二巻の有師談書聞書で言及されているようですが、いずれも所持していないので、参照できません。

日蓮および大石寺門流と天台本覚法門については次の本が参考になるようです。
http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0824820266/
Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism (Studies in East Asian Buddhism, No. 12.)
by Jacqueline Ilyse Stone
Publisher: University of Hawaii Press; (October 1999)
ISBN: 0824820266

281みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/05/28(水) 02:11
↑上の本の概略
http://homepage1.nifty.com/seijun/pre-page/11-06/11-06.html
http://homepage1.nifty.com/seijun/pre-page/11-15/11-15.htm

昨日手元に届いたばかりですが、ざっと見たところ、第3部で、大石寺門流にかなり言及しているようです。

282顕正居士:2003/05/28(水) 04:42
みかんさん。

Jacqueline Ilyse Stone さんは "Major Writings of Nichiren Daishonin"の翻訳者です。
アメリカ日蓮正宗(創価学会)のメンバーであったのかはわかりませんが。したがって
歴史上の大石寺のみでなく、今日の大石寺や創価学会について知っている方でしょう。
http://campross.crosswinds.net/bodhisattva/JStone.html

富士宗学要集はNBさんが相伝や教義の巻をほぼ入力しておられます。返点、送仮名
付きの和文の入力が独特なのと、大部ゆえの誤入力がありますが。
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/mokuji.htm

中古天台の文献は
『天台本覚論』(日本思想大系)に基礎的なものの一部がある。あとはこの本の「概説」
に出る書と、『日本天台史』(上杉文秀)に引かれる書で、天台宗全書、続天台宗全書、
大日本仏教全書に在るものをいずれかの研究室の図書室で複写すれば、それが基礎
の文献といえるでしょう。KANDEN師のサイトにも短いものが在ります。
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/lib.html

283顕正居士:2003/05/28(水) 06:46
中古天台と鎌倉仏教-修行

修行がないといえば中古天台にも鎌倉仏教にもないし、あるといえばどちらにもある。
みかんさんの着眼に賛成します。唱題や只管打坐を真面目に修行であるといったら
電波であります。即身に仏であることをあらわす象徴的の行に過ぎません。祖師たち
もそう述べます。また若い日に修・証の問題に悩んだというのは道元で、日蓮には
そういうことはありません。日蓮は信仰の対象が一個であるべきだと考えたのであり、
親鸞と同じく一神教と信仰のみ(sola fide)を唱えたのです。また両祖師の信仰のみに
対し阿弥陀仏の絶対的の救済力の前には信仰すら不要としたのが一遍であります。

また中古天台というのはこれらの祖師の以後に本格的に発達し、鎌倉諸宗をながく
支配下においた強力な思想であって、江戸時代に比叡山が四明教学になってから
はじめて日蓮諸派も口伝法門から脱する。道元や日蓮の頃にはすでに中古天台の
初期文献があったが、それは唱題修行をすすめる最澄仮託の修禅寺決や称名念仏
をすすめる慧心仮託の註本覚讃釈で、法然や日蓮の出現の準備をしたものである。

中古天台における行の不要というのは此法住法位世間相常住をモットーとし、修行
とは特殊の宗教的の事柄でない、世間の活動がそのまま悟後の修行であるという
考えである。親鸞宗や日蓮宗も救済に宗教的の修行を不必要とし、信仰のみとする
ことで、社会活動すなわち悟後の修行であるとすることにかわりはない。信仰のみの
考えも社会活動を妨げて人々を宗団の奴隷にするのでなく、宗団から解放する思想
であった。

また日本は王朝時代の末期から戦乱の時代が幾世紀も続くけれども、三国志の時代
のように人口の増加も経済の発達も停止したのではない。反対であって、生産の拡大
によって識字人口が増加し、その上層が武士として台頭し、貴族の権力が崩壊したの
である。ゆえに日蓮はこれらの人々に漢文をふくめた手紙を書いたのである。だから
行の簡易化という説明は誤りである。貴族ほどひまでなかったとはいえるが、かれら
は新興識字階層である、しかし経済活動の基本に殺生がある人々には新しい思想が
必要であったのである。

284みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/05/28(水) 13:26
顕正居士さん、>>282
情報ありがとうございます。ジャクリーン・ストーン先生はMajor Writings of Nichiren Daishoninの翻訳者の一人でしたか。
いま、Major Writings of Nichiren Daishoninの1巻を見てみましたが、翻訳者についてはなにも書いていないようですね。
ストーン先生がNS(SGI)の信仰者だったかどうかは、御著書の内容からはちょっと計りかねますね。

天台本覚法門の原典および概説書で、入手しやすいのは未だに、岩波書店の『天台本覚論』(日本思想大系9、または再刊は、続・日本仏教の思想2)しかないですね。絶版ですが、古書値が安いですし、入手しやすいと思います。
この本に収められている田村芳朗先生の「天台本覚思想概説」が未だに唯一の一般向けの概説なのですが、田村先生のいつものでんで、図式的に割り切っているきらいがあるように思いますね。
上杉先生の日本天台史は未見なので見てみます。

285愚鈍凡夫:2003/05/28(水) 18:28
台密・中古天台関係の資料として、顕正居士さんが紹介された「怪しいライブラリー一覧」を利用しています。

独歩さんところの
「中古天台教學より日蓮聖人の教學、ヘの思想的展開(1) 執行海秀」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_005.html

日蓮宗現代宗教研究所の
「仏教思想史の中の日蓮教学」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_111.htm

同じく、日蓮宗現代宗教研究所の
「日蓮本佛論の構造と問題点(一) ―恵心流口伝法門との関係を視点として―」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_133.htm

いずれも参考にしています。

中古天台とは直接関係ないですが、天台宗関係書籍の紹介。
天 台 宗 典 編 纂 所
http://www.biwa.ne.jp/~namu007/

286川蝉:2003/05/29(木) 11:35
日蓮聖人と中古天台

武 覚超氏が「叡山・三井と日蓮門下との交流」において

「伝教大師に本迹二門を高調し、爾前諸経より法華経が勝れているとの所論が見られ、円珍も久遠実成を説く本門と開権顕実をたてる迹門の二門が兼備していることに爾前諸経に比して法華経の独妙独勝たる所以があるとし、また本迹二門に勝劣をたてる考え方も円珍の『法華論記』や安然の『教時諍論』等ころよりみられること。
また題目に万徳万善を具すると云う考えは『観心略要集』に見られ法然の『選択集』も『観心略要集』の名号功徳の所説を受けたものであって、日蓮の五字口唱を正行と主張したのは『観心略要集』や『選択集』の思想的構造をそのまま継承したものである(取意)」と、論証し、

《 日蓮の本門思想については、従来から日蓮の創説であり、独説である点が強調されているようであるが、日蓮の本門思想を迹門と本門、本門と観心、題目五字等の観点から詳しく分析してみると、その思想的要素は、日本天台、ことには中古天台の教学の中に出そろっていたと考えられるであろう。
この点について、上杉文秀博士が『日本天台史』において、「彼(日蓮)は決然此等(日本天台)の長所を悉く網羅採択し、以て法華中心の下に聚積し」たと述べられていることは、誠に当を得た論述であると思われる。》(平楽寺書店刊・本覚思想の源流と展開・400〜414頁)
と論述しています。

勝呂信静師が「教育新潮社刊・日蓮思想の根本問題」において、
「聖人は叡山天台の思想展開のゆきつくべき目的を予見され、その論理的必然性にしたがって自らの行動を律し、時代の風潮を矯正されようとしたのである」(86頁)
と書いています。
これは上杉文秀博士の
「(日本天台)の長所を悉く網羅採択し、以て法華中心の下に聚積し」
と云う見解より、より当を得た視点だと云えましょう。

勝呂信静師の見解は、
《 台密の叡山天台の信仰や儀礼はほとんど密教によるものになっていたが、教義・教判においては天台宗の権威を保つような理論が必要であり、その結果あらわれた思想がいわゆる「理同事勝」である。これは事実上は法華経を大日経より下に見るものである。
そこで、無始無終で万物を包摂する絶対的な仏である大日如来を説く大日経に対する為に、大日経に対応するような超越的優勝性が法華経にあることをあらわすために、本門の仏を説く本門が重視する考えが起こり、本門思想が発達していった。
しかし叡山天台の本門思想は、形式的には法華経本門の体裁を取りながらその内容は真言密教であった。
(「中古天台本覚思想は、台密の大日法身中心の曼荼羅思想に負うところが大であり、これをさらに一元的な世界観・人間観として徹底させていったもの」と浅井円道師が指摘している点でしょうー川蝉注)

本門思想の興起は本来の意義からすれば、伝教大師の遺志を正統に発展させたものとして、真言密教に対する開会としての機能を果たすべきものであったが、果たさなかった。

また恵心以後の中古天台では念仏が盛んになってきたが、それに対応するために、一方に於いて止観・観法を重視しされた。この観心主義は形式的には正統天台の教学を厳守しようと云う態度から出たものである。しかし、実際の行は念仏信仰を採用し容認するようになって行き、一方に於いて教相の法華経(宗教)と観心(宗旨)との分離することにもなっていった。

事の一念三千と云う本門思想や唱題行確立を果たした聖人は、中古天台の教学を批評的に克服されたものと見るべきである(取意)》
等と論述し、
「中古天台と無関係と云う見解や中古天台より脱化したものであると云う見解は皮相的である」(87頁)
と批判しています。

勝呂師が「中古天台の教学を批評的に克服されたものと見るべきである」
と結論していますが、批評的に克服した結果の具体相は、浅井円道師が『平楽寺書店刊・本覚思想の源流と展開的』の305〜306頁において、「日蓮の真正な遺文によって、日蓮思想と中古天台本覚思想との相違点を検討した結果」として、提示している五点と云えましょう。

287豊穣:2003/05/29(木) 21:04
大聖人は仏の経典をもちいて、人師のことばを用いるなっていったわけだね。
だれがどういったっていえば、そんな大聖人のルール違反!
「だれだれは、こういった。あの人はこういった」
なんだか池田センセイのスピーチみたいだねえ。

288成仏境涯 体感希望者77:2003/05/29(木) 22:10
   ワシは知りたい成仏の根本の修行は、?かを、。末法用の経典?=久遠?=本門の教主釈尊?様の流れを継続?・含蓄?の「末法今時の為?と言われる本門?且つ文底?の事?」という「教典?=法華経?」の事?を「体感・感得した??諸々の人師?」の言?は「ルール違反??」と言うことでしょうか、??

289みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/05/30(金) 02:47
>>287 豊穣さん。
豊穣さんは、大田区の宝浄寺の御所属なんじゃないのという説を聞きましたが、そういうものなんでしょか。

さて、>>286の川蝉さんのレスへのイヤミなんだと思いますが、めんどくさいし言うのもイヤなので説明しませんが、一言だけ。「鎌倉時代の学問の方法と、明治以降の近代仏教学の方法の区別すら付いていないなら発言するな」

なぜそう言われるのかはあまりにもばかばかしいので説明したくもありません。他の人説明してください。んじゃ。

290五月雨:2003/05/30(金) 08:34

日蓮正宗は最高の仏法だと信じ込まされるところから始まって、それが自分自身の選民意識に結びつき自分はエライと思い込む。これが石山系の“大きな勘違い” そこから社会一般常識からの逸脱が始まるように思います。

真面目な議論を積み重ねている掲示板に来て、人を見下すような物言いしか出来ない御仁に何かを説明することなど必要でしょうか。
みかんさんが仰るようにばかばかしいのひと言です。

天台の言を用いた日蓮だいせうにんにまず文句を言えばと言いたい気分です。

291成仏境涯 体感希望者:2003/05/30(金) 19:15
ミカン様、「区別が在った事もしらぬモノども」は「下がれ居れー、」でしょうか、? 五月雨様「石山系の感違い、」には御同感です、。 ただ「、、見下す、?」には??です、、。 豊穣様は「、、池田センセイの偽善・欺瞞性を心底から御理解したからこそ、、文言上での”イマイチ・ムナシイ? 核心への御懸念?を体得・体感”からのご発言?」かと、存じまするが、? ガンコの無疑問者(=
狂信者なら)「決してこのHPをの検索したり、投稿」はしないでしょう、、?? もう少し「包容力?」があってもよろしーかと、、、??

292五月雨:2003/05/30(金) 21:50

>五月雨様「石山系の感違い、」には御同感です、。 ただ「、、見下す、?」には??です、、。 豊穣様は「、、池田センセイの偽善・欺瞞性を心底から御理解したからこそ、、文言上での”イマイチ・ムナシイ? 核心への御懸念?を体得・体感”からのご発言?」かと、存じまするが、? ガンコの無疑問者(=狂信者なら)「決してこのHPをの検索したり、投稿」はしないでしょう、、?? もう少し「包容力?」があってもよろしーかと、、、??

成仏境涯 体感希望者さまの深い読解力の素晴らしさには呆れてものが言えません。
>287 のレスにそんなにふっかぁい意味があるとは凄いですね、そうですか。
まるで石山の文上、文底の法門のごとくですね。
無疑問者の方々はいくらでもこの掲示板に来られて真摯に議論をされていたと思います。(私は無疑問者の方々を狂信者とは思っていません、そこに区別はあると思っています。)
包容力?相手によりけりでしょう。

何事にもものには言いようがあると私は思っています、それが礼儀ではないでしょうか。

buenos1939さんでしたよね、成仏境涯 体感希望者さま、HNをひとつになさいませんか。

293ガンコ:2003/05/31(土) 00:00

あれ? どなたか、わたくしを呼びましたでしょうか?

294成仏境涯 体感希望者:2003/05/31(土) 00:57
ご無礼しました、、。  頑強な(ガンコではなく)方は、「一心=成仏とは?」何かと、??、存じます、?? 皆様の御知恵は、、??その方法は??  未だ不明のようです、、??

295ガンコ:2003/06/01(日) 21:12

御文字御本尊と仏像との整合性について(1)

四条金吾釈迦仏供養事に云はく「草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これよりおこる」と。

とくに「五色の絵の具」に注目するならば、まるで画像を奨励あそばすようにも拝せるところですが、これは一般仏教の通例をお挙げになられたものと考えます。

「爾りと雖も木画の二像に於ては、外典内典共に之を許して本尊と為す」(本尊抄)
「有情の第一の財は命にはすぎず」(主君耳入此法門免与同罪事)

そもそも、なぜ非情(物質)に過ぎない木画を本尊とすることが可能なのか? 時には木画のために命を張ることだってある。有情の第一の財を非情のために捨てるとはいかなることか? なんとも難しい問題であります。
観心本尊抄における重要なテーマでありましょう。つまるところ、仏教一般の通例として木画を本尊とするけれども「一念三千の仏種」でなければ本尊にはならない、との仰せと拝します。
本宗においてはいわゆる色相荘厳の仏をきらいますが、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(経王殿御返事)の墨(=単色)と五色とではまるでちがいます。「仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、法華経は神なり」(本尊問答抄)との仰せは、仏は「釈迦・大日総じて十方の諸仏」であるから五色、法華経は文字であるから単色と考えられます。よって、「五色の絵の具」はあくまで例示にすぎない、と思います。

なお、にわか勉強で恐縮ですが、五という数は仏法の基本概念をあらわすために比較的多用される数字のように思われます。「五色の絵の具」の直前には「五陰世間」、冒頭には「五眼」とありますし、戒法門には「五行・五大・五色・五根・五輪」が図になっています。また、一念三千理事には「五陰とは、新訳には五蘊と云ふなり。陰とは聚集の義なり。一には色陰、五色是なり」等とあります。

木絵二像開眼の事に拝する、三十一相+法華経=三十二相具足純円の仏、ということも同様に考えます。「生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」と。つまり、木画はほんらい非情なるがゆえであります。ゆえに、 一念三千の仏種>有情(生身の仏)>非情(木画二像) と考えるものであります。

296ガンコ:2003/06/01(日) 21:25

御文字御本尊と仏像との整合性について(2)

最近あまりお見かけしませんが、菊水護国さんは以前こんなようなことをおっしゃっています。
云はく「われわれが信仰している対象は“物体”などではなく、その奥にある“法”である」と。

これは現代受けをねらった解釈ではないかと思っていましたが、よくよく考えると大聖人御自身にこのような御考えがあられたのではないか、と思うようになってまいりました。
日蓮大聖人は宗旨御建立において本門の題目を御唱えあそばされた。当然、大聖人ほどの御方であれば、この時すでに本門の本尊・本門の戒壇の御構想を抱いておられたでありましょう。ではなぜに直ちに説示あそばさなかったのか。もちろん実現は遠い将来(特に戒壇建立は)であったとしても、御説明あそばしても良かったのではないかと考えます時、必ず三沢抄の佐前・佐後が引き合いに出されます。しかし、佐前であるところの唱法華題目抄に御本尊の説明があるのはなぜでしょうか。
「本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。」

興味深いのは法華経ないし法華経の題目を本尊とする辺において本尊問答抄と同じでありながら、「釈迦多宝を書いても造っても」との仰せはまるで一塔両尊の造像を示すがごとくに思えます。顕正居士さんのおっしゃるように、なるほどいろいろな表現方法があるんだなあと思います。しかるになぜに大聖人はもっぱら御文字でもって御本尊をあそばしたのであろうか。そして同時に造像を容認あそばす御書が存在する意味は何か。

大聖人のおさとりは“物体”などというものではない、けれどもそれを表現するに当たっては紙と墨を用いられた、つまり妙法を御文字に顕された瞬間に一般仏教の木画とまったく同じ問題が生ずることを、大聖人は御考えになられていたのではないか、と思うのです。
そうであるならば、木画二像開眼の事や観心本尊抄(の前半)で“なぜに木画が本尊となりうるか”を証明することは、そのまま御自身の御文字御本尊の証明になるということだと思います。
そして、いちど証明されおわれば木画は生身の仏と崇められる、いわんや大聖人の顕し給う御本尊は生身の仏の御たましい、ゆえに諸仏能生の根源と申し上げるわけであります。

297ガンコ:2003/06/02(月) 05:41

御文字御本尊と仏像との整合性について(3)

しかしながら、正直に申し上げるところですが、日眼女釈迦仏供養事だけは説明がつかないのです。

内容といい、また年代といい、上記の説明ではまったく納得できないので困りました。
まず、年代はいわずと知れた弘安二年。出世の本懐を遂げんとされる年にこのような御指南があるということは、やはりわたくし達が考えている出世の本懐というのは間違っているのではないか、と思わざるを得ないところです。じぶん達で勝手な理由をこさえて勝手に納得するのは簡単ですが、それでは広宣流布などできっこないでしょう。まじめに信心しているのならば、まじめに考えなければならない問題と思うのであります。

そして内容ですが、冒頭に御守り御本尊について一言だけ触れられ、後は延々と釈迦仏造立についての御指南がつづくのです。御文字御本尊と造像がいっしょの御書に論じられているのがいやらしい、なんて言ったら叱られそうですが、これは、先に少し話題になりましたところの合祀を思わせるところがあって悩ましいかぎりです。合祀が間違いであるとしても、この御書のばあいでは、御守り御本尊は文字どおり身に着けるもの、仏像は仏間に安置するという関係を思わせるところがあって、まったくわたくし達にとっては都合の悪い御書であります。

なにより文面より感じることは、大聖人が日眼女を“ベタホメ”に褒めているという印象をぬぐえないわけです。これはおそらく誰が読んでも同じでありましょう。
こうなると、造像はダメ、とは言い難いなあと思います。

というわけで、御文字御本尊と仏像との整合性についてのわたくしの考えは頓挫してしまいました。

どなたか、助けてください。(いないんだな、これが)

298通りすがり:2003/06/02(月) 17:04
日蓮大聖人が釈迦一体仏を拝んでいたのは歴史的な事実でしょうね。
その意味から、ガンコさんの頓挫は起こるべくして起こったということでしょう。

299豊穣:2003/06/02(月) 19:54
>ガンコさん
助け、ないね(笑)

300愚鈍凡夫:2003/06/02(月) 22:24
ガンコさんへ。

だから、本尊の表現方法の問題ではなくて、「観心本尊抄」、に記される理念と構図を備えた本尊であるかどうかの問題ではないでしょうか。

301愚鈍凡夫:2003/06/03(火) 20:39
ガンコさん、ふと思ったんですけど(思うなボケって言われそうですが)、

「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(「唱法華題目抄」 学会版P12)1260(文応1)年

との文証を引用されていましたね。
しかし、
「又本門に於て序正流通有り過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経乃至迹門十四品涅槃経等の一代五十余年の諸経十方三世諸仏の微塵の経経は皆寿量の序分なり一品二半よりの外は小乗教邪教未得道教覆相教と名く」(「観心本尊抄」 学会版P249)1273(文永10)年

「華厳経の十方台上の毘盧遮那大日経金剛頂経両界の大日如来は宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり、例せば世の王の両臣の如し此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり」(「法華取要抄」 学会版P333)1274(文永11)年

とあります。
一品二半、特に寿量品が重要であるとの仰せですが、「唱法華題目抄」では何故「本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり」なのでしょうか。
この点、どう思われますか。

302みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/06/04(水) 03:41
>ガンコさん。

ガンコさんの御文章を拝読しましたが、詳しく読んでいないのと、引用されている日蓮遺文にあたっていないので、きちんと理解していません。ですので内容についてはよくわからないので、すいません。
 ただ一つ思ったのは、タイトルと問題設定の意図がずれているのかも知れないなと言うことです。「御文字御本尊と仏像との整合性について」ではなくて、「大石寺の漫荼羅本尊正意・板曼陀羅正意と、日蓮遺文の釈迦仏像肯定との整合性について」というタイトルなら、ガンコさんの問題設定をより正確に言い表しているのではないかと想像しますけれども、そうだとすると、文章の内容がよくわからなくなりますね。どうもきちんと読めていないようです。すいません。
 さて、文字漫荼羅と仏像がなぜ日蓮の中で同居するかについては私なりの考えがありますが、長くなるので省略します。要するに日蓮は時代の子だということと、日蓮は人間だということと、本尊に向かって唱題するのは観法(観心行)であり、本尊は観法の道具だということです。釈迦仏像は観法の対象ではありません。できあがった体系として日蓮を見るのではなくて、人生史に於いて変化していった日蓮を見るのでなければ、誤解するのではないかと思いますが、どうでしょうか。

303ガンコ:2003/06/04(水) 17:40

まず、みかんさんに申し上げます。

> さて、文字漫荼羅と仏像がなぜ日蓮の中で同居するかについては私なりの考えがありますが、長くなるので省略します

そんなことをおっしゃらずに教えてください。
このところの一連の御文章を拝見していて、みかんさんのお考えはおおよそ理解できたような気がしていますが、しかし、大事なことは何も語っていらっしゃらない・・・そんな気もします。
長くなるので省略する、ということは時間をかけて説明するほどの価値はない、と思っていらっしゃるのか、それとも大事な問題だから簡単には説明できないとの意であるのか、そこなんですけど、わたくし達にとってはものすごく重要な問題なのです。
ですから、教えてほしいのです。一朝一夕に書けるものではないでしょうけど、少なくともわたくしの目の黒いうちに発表されることをお願い申し上げます。

>できあがった体系として日蓮を見るのではなくて、人生史に於いて変化していった日蓮を見るのでなければ、誤解するのではないかと思いますが、どうでしょうか

ええ、おっしゃることはわかります。
おそらく冗談でよく言われることかと思うのですが、人間にリセットボタンがあったらいいのになあ、みたいなことを。
わたくしも一度リセットして、白紙の状態から大聖人の御書を拝読して見たい、と思うことはあるのです。そうすれば、まったく違った読み方が出来るかもしれないと。
おっしゃるとおり、できあがった体系で見ているのだろうことは既に承知しているつもりなのです。なにしろ、わたくしは顕正会で十有余年、教育されてきたのですから。
リセットは不可能というのが結論です。
ですから、開き直って今までの延長線で学んでいこうと考えています。
もし、わたくしの書いていることに間違いがあればどんどん指摘してください。そして正義を示してください。リセットは出来なくても上書きされていくだろう、と思いますので。

このことはみかんさんだけでなく、すべての人にお願い申し上げるものであります。

304ガンコ:2003/06/04(水) 17:46

愚鈍凡夫さん

本尊抄の理念と構図を備えた本尊とかなんとか、すぐ難しいことおっしゃるんだから。
理念=末代幼稚の為の本尊ということでしょうか? するとわたくしはどうしても御文字御本尊を思い浮かべてしまうんです。
構図=為体ということでしょうか? そうするとやっぱり大曼荼羅のおすがたを思い浮かべてしまうんです。

堂々巡りのようですが、もし本尊抄の理念と構図に仏像も適うとして、では日眼女抄の一体仏も当てはまるのかというあなた自身の疑問は完全に氷解したのでしょうか?

さて、つぎに法師品と神力品について申し上げます。
じつはわたくし、法華経を読んだことがありません。よって、法師品と神力品に何が説かれているか、つぶさには知りません。
ですが、本尊問答抄の冒頭には、法華経の題目を本尊とする根拠を法師品に求めております。
「薬王、在々処々に若しは説き若しは読み、若しは誦し若しは書き、若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てゝ極めて高広厳飾ならしむべし。復舎利を安んずることを須ひず。所以は何。此の中には已に如来の全身有す」
神力品のほうはちょっとわかりづらいですが、
「要を以て之を言はゞ、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」
つまり、如来の全身=如来の一切、と考えて差し支えないならば、唱法華題目抄の次の段には、
「其の上、法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。・・・・・今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、十方世界の三身円満の諸仏をあつめて、釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、一仏一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり。故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大なり。」
とありますように、すべては南無妙法蓮華経の中に含まれているという意味になりましょう。
詮ずる所、寿量品に建立する所の本尊はいかなるおすがたであられるか、末代幼稚のわれわれには思慮のおよばぬことでありましょうから、御文字で拝する以外に方法はないのだと思います。
法師品神力品を、寿量品の本尊を説明あそばすための傍証と拝するならば、大聖人の御本意はほぼ御文字御本尊で間違いないのではないでしょうか?

305愚鈍凡夫:2003/06/04(水) 19:58
「法師品」は「見宝塔品」の1つ前だから、宝塔はまだ現れていないんですよね。
法師品で連想するのは、五種法師・十種供養、有名な「況滅度後」の一節ですか。
弘法を含めた仏道修行の在り方と、仏への供養。そして、その結果としての成道が説かれていると言えるでしょうか。
「神力品」は地涌千界に滅後の法華経流布の付嘱を与える処ですよね。まだ虚空会の儀式の最中ということですね。
これらのことから、仏道修行と結要付嘱を踏まえた上で、末法に於ける本尊を顕す意義を示唆しているのではないかと思ったからです。要するに、本尊の具体的な姿として述べているようには思えなかったからです(あの文証では四菩薩が説かれていませんから)。
「唱法華題目抄」では、南無妙法蓮華経を本尊としてではなく、唱題行として捉えているのではありませんか。「唱法華題目抄」は1260(文応1)年、「本尊問答抄」は1278(弘安1)年です。この間の18年の歳月を考慮すべきだと思いますが。
釈迦仏の一体仏であろうと、「本門の釈尊」と拝し、法華経をその釈尊の内証として添え、「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱なうべし」(唱法華題目抄)とすることによって、一尊四士の意義は満たされていると思えるようになりました。以前、「楊子本尊(1285(弘安8)年10月9日)」の写真を紹介しましたが、この曼荼羅は中尊と梵字で構成されていましたね。中尊は法華経の肝心ですから、これも一尊四士の意義は満たしているのではないですか(愛染・不動をどう解釈するかという問題はありますが)。

小生も数十年創価に身を置いてきました。故に、ガンコさんの気持ちは理解できます。
しかし、現在は創価教学を振り払うために、基礎から教学を組み立て直しているところです。

306愚鈍凡夫:2003/06/04(水) 20:36
訂正です。

楊子本尊は1271(文永8)年10月9日図顕です。
悪しからず。

307sunya:2003/06/05(木) 01:31

 > 303 ガンコさん、sunya です。(^^;

> なにしろ、わたくしは顕正会で十有余年、教育されてきたのですから。

 どこの団体・教団に居ても、だいたい同じコトじゃないでしょうか、要は自分自身の問
題だと、わたしは思いますよ。
 もっともそういう意味も含めての、ガンコさんのご発言なのでしょうが。

> リセットは不可能というのが結論です。ですから、開き直って今までの延長線で学ん
でいこうと考えています。

 おっしゃる通りだと、わたしも思います。リセットは不可能だし、他者が無理にそれと
近いことをしようと思えば、それは“逆洗脳”や“脱プログラム”という危険なテクニッ
クの乱用、にもつながりかねません。
 団体や教団の押しつけを押しつけと知って、押しつけではない知見を自ら選び取って
“上書きされていく”ということ、それを自ら受け入れていくこと、そういうしなやかな
自身の態度が大切な事ではないか、わたしはそう思います。

> そして正義を示してください。

 ガンコさんにとって、その“正義”とはどういうコトでしょうか。「正義とはこれこれ
だ」と、他者が示してくれるような“正義”が、果たして<正義>なのでしょうか。それ
では、顕正会の押しつけにその“正義”が取って替わるだけのことになる、そういう可能
性が残りましょう。
 なんて、言わずもがなのコトを申し上げるのは、老いぼれの繰り言でございます。

 すでに、ガンコさんはご自身でしっかりと考えて、「発言」をなさっていらっしゃる。
それゆえ、必ず多くの方々から様々な意見・異見が、提示されることでしょう。
 ただし、「正義とはこれこれだ」という意見には、注意したほうがよろしいかもしれま
せんですね。どうも余計なことばかりで、失礼をいたしました。

308ガンコ:2003/06/05(木) 06:34

sunyaさん、どうもです。

なんだか、よっぽど危なっかしく見えるんでしょうね、わたくしって。
ですけど、元来が頑迷なものですから、なかなか上書きされそうでされないんです。
本年初頭に独歩さんは、諸宗問答抄をお引きになって「非学匠は理につまらず・・・都て理におれざるなり」、これがわたくしなんですって。
そういえば夜中にお見えになってらしたようですね。

309その辺の 求道者:2003/06/16(月) 21:13
ガンコ様は問題提起される御方、、=No1の方でしょうか、、??

310:2003/06/19(木) 17:12
日蓮本仏論て
大石寺の日寛上人の頃から言われ始めたことなんじゃないかな。
大聖人も日興上人もそんなことは一言もいってないし・・・。

311ガンコ:2003/06/20(金) 13:10

>大聖人も日興上人もそんなことは一言もいってないし・・・。

そうしますと、日蓮大聖人はいかなる御立場でありましょうか?
大聖人御自身はどのように仰せであられるか、日興上人は大聖人をどのように拝しておられたか、もっとも適切と思われる御書・御筆記を教えてください。
また、あなたご自身のお考えも併せてご教示願いとうございます。

312:2003/06/21(土) 18:51
大聖人は宗祖でもなければ末葉でもない
大聖人は釈尊の仏像を拝んでいたんですよ。
日興上人は大聖人に師事していたんです。
他の5老僧もね、、。
私は、
仏−釈尊
宝−五字七字の題目
僧−日蓮
と思っております。

313ガンコ:2003/06/26(木) 12:01

kさんどうも遅くなりました。

あなたのお考えは簡潔でよくわかりました。できれば御書を教えてほしかったです。「一言もいっていない」とおっしゃるからには大聖人・日興上人の御指南を一言漏らさずご存知なのでしょうから。

314藤波太郎:2003/07/12(土) 22:17
重須本門寺の一信者です
大変活発な議論がなされていて、感動しております
かつてどうだったかは知りませんが
現在、重須では釈尊を本仏として拝んでおります
なんといっても、本門戒壇可建霊場
みなさんも、重須へお詣りしてはいかがでしょう
心が洗われますよ

315ガンコ:2003/07/13(日) 13:59
どうもはじめまして、ガンコと申します。わたくし大して教学もないのですけど、このところ恥も外聞もなく出まくっています。

よろしければ、日興跡条々事についてどのようにお考えなのか教えてください。

「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」

この掲示板では大石寺の奉安堂にまします御本尊がはたして「弘安二年の大御本尊」なのかどうかという、正宗信徒にとっては恐ろしい議論がなされてきたわけですが、少なくとも「弘安二年の大御本尊」とは曼荼羅本尊のことだとされているように思います。

であるならば、
>なんといっても、本門戒壇可建霊場

ここには「弘安二年の大御本尊」が安置さるべき道理かと思うのですが、今の重須本門寺ではどのような奉安形式をとっていらっしゃるのでしょうか?

316藤波太郎:2003/07/13(日) 20:35
ガンコ様は、日蓮正宗の教えを信仰されているのですね
私は重須の信者ですから、日蓮宗の教えを信仰しております

「日興跡条々事」についてですが
周知のとおり、日蓮宗の学者による研究では日興上人の作ではないと
断定されています
もちろん、日蓮正宗の学者による反駁もなされていますが
これって、まだ決着ついてないのではないでしょうか

どのようにお考えなのか
と聞かれましたので、一応お答えしますが
やはり文献批判の発言になってしまいますよ 
いわゆる「日目正統」を主張する為の偽作ではないですか、と

重須の本尊は曼荼羅本尊です
何年に図顕された御本尊か、私は覚えておりません
(本門寺の執事長さんに何度も聞いたのに、はずかしい)
「日興跡条々事」が日興上人の真意ならば、重須の本堂に
「弘安二年の大御本尊」を奉安すべきであろうとは思います
でも、文献的考察が決着ついてないのでしたら
とくに「何年」とこだわる必要もないのでは………

また、これは私見ですが
「弘安二年の大御本尊」を奉安しなければ本門戒壇(本門寺)たりえない
のであれば、もし戦争か災害で焼けちゃったらどうするのですか?
これは有り得る話です
本門戒壇って、火に焼けちゃう程度のモロい存在なのですか?
現に、重須は明治末期、火災でほとんどの堂々を失いました
大石寺だって、建築物である以上「不滅」ではないはずです

日興上人にとって、大石寺も重須も、どちらも大切な道場であったはず
そして、長きにわたりともに精進してきた歴史があるのでしょう
いま、必要なのは教団の利害を優先するのではなく、
また、互いの欠点を非難しあうことでもなく、
ともに論議を重ね、正しい道を模索することであろうと思います

317ジャージルーカス:2003/07/14(月) 00:50
藤波太郎さん
私は大石寺檀家のジャージと申します。
なお、法華講には加盟してません。

重須本門寺は正式には「本門寺根源」と名乗るべきであり、現時点で
「本門寺信徒」を名乗るのは、控えるべきであると、本門寺の御住職
から電話で直接確認いたしております。

と言うわけですので、ガンコさん
現在の重須は「本門寺根源」であり「本門寺」では無いのですから、
奉安形式に拘る必要は無いと思います。

>また、これは私見ですが
>「弘安二年の大御本尊」を奉安しなければ本門戒壇(本門寺)
>たりえないのであれば、もし戦争か災害で焼けちゃったらどう
>するのですか?
>これは有り得る話です
>本門戒壇って、火に焼けちゃう程度のモロい存在なのですか?
>現に、重須は明治末期、火災でほとんどの堂々を失いました
>大石寺だって、建築物である以上「不滅」ではないはずです

そんなこと当然です。本宗は物質信仰はいたしておりません。
御戒壇様に流れる法こそ尊いのです。
物質信仰は、創価学会や新参法華講の方たちで、それとて一代法華の
解釈する大石寺信仰に過ぎません。
本来の大石寺信仰で言えば以下のようになります。

問「御戒壇様が火で燃える事はあるのでしょうか。」
答「そんなこと当然である。全ての存在は成住壊空である。御戒壇様だけ
それを免れる道理が無い」
問「もし、御戒壇様が焼けたらどうすれば良いのでしょうか。」
答「時の法主(総貫首)が、再生すれば良い。そのために法主は存在するのだ。」

318ガンコ:2003/07/14(月) 15:00
藤波太郎さん、どうもです。

>「日興跡条々事」についてですが
>周知のとおり、日蓮宗の学者による研究では日興上人の作ではないと
>断定されています
>もちろん、日蓮正宗の学者による反駁もなされていますが
>これって、まだ決着ついてないのではないでしょうか

ああ、どうもすみませんです。こうした基本的なことすらよく知らないものですから、まったくひどいものです。どんどん教えてください。

で、またまた初歩的な質問で恐縮ですが、二箇相承はどうなんでしょうか?
御書の分類でいえば、重須曾存というべき道理かと思うのですが、この掲示板の議論では偽書説が有力とされています。
ま、まさか、あなたはそんなことはおっしゃらないでしょう?


ジャージルーカスさん、

なにげに(総貫首)っていれてますけど、これは日興上人御一人を申し上げるのではなかったですか?

319藤波太郎:2003/07/14(月) 18:16
ジャージルーカス様、ありがとうございます

ジャージルーカス様は、大石寺檀家で、法華講には加盟していらっしゃらない
そうですか
ジャージルーカスさんのご意見は、随分、日蓮宗に近いように感じます
私がモノを知らないだけかもしれませんが、日蓮正宗の信仰にも
いろいろなカタチがあるのですね
もっとも、それは日蓮宗とて同じことですが
日蓮正宗においては、統一見解が確立されているイメージがありました
意外ですが、そこが正宗の懐の深いところでしょう

本門寺の住職とは、貫首猊下のことでしょうか
よく、直接電話で話すことが出来ましたね
私など、とうてい叶うことではありません

320ジャージルーカス:2003/07/14(月) 20:46
>ジャージルーカスさん、
>なにげに(総貫首)っていれてますけど、これは日興上人御一人を申し上げるのではなかったですか?

それは違います。
法主はどのように呼ぶのが正しいかを文献を挙げて示すと、以下のようになります。
「白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」《具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄) 弘安三年一月一一日 聖寿 五九歳》

以上に明らかなようにまず日興上人を「総貫首」と拝しますが、さらに「日興が嫡々付法の上人」も「総貫首」と拝するのが正しいのです。

321ガンコ:2003/07/14(月) 21:11

>以上に明らかなようにまず日興上人を「総貫首」と拝しますが、さらに「日興が嫡々付法の上人」も「総貫首」と拝するのが正しいのです。

あっ、こここれは、失礼しました。

322藤波太郎:2003/07/14(月) 21:30
ガンコ様、ありがとうございます

「二箇相承」についてですが、日蓮宗の学者はほぼこれを否定しております
ほぼ、というか全く、といってよいのではないでしょうか
その他「百六箇抄」「本因妙抄」等、富士門流の相伝書はことごとく
疑問視されております

では、重須にとって、日興上人はどのような存在なの?
とよくきかれます

私は重須を代表して発言する立場ではないので、あくまで私見ですが
文献批判に耐えながらも、六老僧中やはり日興上人が付法の上人と
信じているのが現状ではないでしょうか

ある日蓮宗の学者がこのように発言したそうです
「文献批判をともなわない研究は、もはや宗学ではない」
私はこの言葉を謙虚にうけとめ、一応、真偽未決の文献については
第一級の文証としてあげることは、控えるべきだと思います

323ガンコ:2003/07/16(水) 17:35

藤波太郎さん、どうもです。

いや〜、がっかりです。しかし、それがまじめな態度なのでしょうね。

>私はこの言葉を謙虚にうけとめ、一応、真偽未決の文献については
第一級の文証としてあげることは、控えるべきだと思います

こうした風潮というか傾向というか、ともかくそのなかでもっとも遅れをとっているいるのが我が御宗門ということになりそうです。
そしてまた、そのなかでもとりわけ遅れているのが我が顕正会である、ということなのだそうです。

324藤波太郎:2003/07/17(木) 08:52
宗学に限らず、あらゆる学問において「根拠」が重要であることはいうまでもありません
近代とか現代とか、時代の問題ではなく、大聖人も「文証」を大事にされていたでしょう

ただ、大聖人の御書について文献学的考察がなされたのはつい最近のことです
(750年の歴史の中で)
いまのように御書を編年体にならべて拝読することなど不可能であったわけですから
断片的にしか学べなかった先師をいたずらに責めることは出来ません
日蓮大聖人がアメリカ大陸を知らなかったからと言って
世界を知らない狭い人間だと笑うのと同じことです

この時代にいたって、科学の進歩、文明の利器に恵まれた私たちは
かえって情報がありすぎて、戸惑ってしまうのですよね
宗学(もしくは仏教学・日蓮教学)においても日進月歩
ことにコンピューターの出現で飛躍的に研究が進みました
そして、先師の持ち得なかった情報を、手にしてしまった現実があります

真摯に道を求めれば求めるほど、学問を追究すればするほど
苦しまずにはいられない
私はそのように考えています

325藤波太郎:2003/07/17(木) 17:02
もう少し言葉を足します

「文証」「証拠」「根拠」ほぼ同じ意味であると私は思いますが
我々、富士の教えを信ずる者にとって、決定的打撃は
御書と相伝書とが必ずしも一致しないことです
つまり、「文証」「証拠」「根拠」が弱いということです

相伝書にあることが三大部もしくは五大部の教義に一致すれば
なんの問題もありません
しかし、実際には大きなズレがあるように思います
相伝書を中心に据えて教学を構築する時
どうしても御書を否定しなければならなくなるでしょう
日蓮本仏論はその最たる例だと思います
大聖人の御書には、「教主釈尊」よりも「行者日蓮」を上位におく思想は
よみとれますが、本仏であると断定するには富士の相伝書を
「文証」としなければならないのではないでしょうか

あるいは、日蓮正宗と日蓮宗とでは御書の読み下し方が違って
私が勘違いしているだけでしょうか

私は日蓮本仏論という素晴らしい教義を立てた先師に敬意を表します
しかし、もし文献的批判に耐えられぬ日蓮本仏論であるならば
やはり謙虚に反省しなければならないのではないかと思います

326ジャージルーカス:2003/07/17(木) 19:59
藤波太郎さん
「伝に曰わく」で作られているのが日蓮正宗です。
「伝に曰わく」で作られていないのが他の日蓮宗です。
そもそも土俵が違うのですから、文献的批判は意味を持たないのでは無いでしょうか。
柔道で空手を批判するようなものです。
そもそも、大聖人御自身が、自ら御立の法門の教義体型にそれまでの文証を切り文的に引用されております。
また、当時既に偽書と確定されていた文書を無造作に使用されております(聖徳太子の未来記など数え上げたらきりないです)。
大聖人は「自らの法門に有効な文書は偽書・真書問わず使用する」姿勢だった事が伺えます。

神道研究の大家S氏は大聖人を「仏法の仮面をかぶった神道家」と評しましたが、実は大聖人は既に仏教の枠を越えてました事は、御本尊の相妙や各種御妙判を見ても明らかです。大聖人は総合宗教の教祖ですから、自由自在に法門を立て、それまでにあった文章を御自身の法門を立てるために、使用できる部分のみ使用したと考えた方が良いと思います。
もっと言うと「陰陽道・道教・神道・仏法」等の全てを使用した総合宗教を立て、一応それまでの「仏法の流れ」のように装ったとも考えられます。
そして仏法の顔を装った以上、それ以外の部分は相伝に含ませるしか無かったのではないでしょうか。

327??:2003/07/17(木) 20:11
オイ! オイ! 本気かよ、、マジかよ、、。 でも「かなりの核心、、?」かも、、?

328藤波太郎:2003/07/18(金) 11:26
ジャージルーカス様

なるほど、と思わず納得してしまいました
そちらの土俵が少しみえたような気がします
柔道と空手、たしかに名勝負はあまり聞いたことがありません
k1とプロレスも、しかりですね
ルールが違うのですから、仕方ありません

「仏教日蓮宗」か「日蓮教仏教派」か
そんな議論が日蓮宗でもなされます
ジャージルーカスさんのおっしゃることから察するに
日蓮正宗は「日蓮教」とみてとれます

我々のルールは、大聖人の御書にほかなりません
それも、三大部・五大部といわれる真蹟とみて間違いない御書

日蓮正宗のルールは御書よりも相伝書を主とする立場
法華文上よりも文底を取るように、大聖人の御書においても
文上よりも文底を取るということでしょうか
そして、その文底を伝える相伝書について真偽さえ問わないのでしょうか

日蓮宗の歴史を見る時、身延も池上も、京都の諸山においても、そして重須でも
さまざまな教義を掲げた時代がありました
現代とて、未来から見れば大きな誤解を掲げているのかもしれません
しかし、つねに客観的批判に耐えながら、道を模索していくよりほかないと
私は思います

石山とて「教学史」が存在するでしょう
相伝書は「教学史」の中で編まれた文献であると私は解釈しております
最近、相伝の真偽についてそちらで熱心に議論されていますね

私は、議論している人の気持ちが、痛いほどわかります

329無徳:2003/07/18(金) 12:33
藤波太郎さん始めまして:

藤波さんからみてインド応誕の御釈迦さんの直説とは何でしょう?
いわゆる原始仏教と言われる経典群が釈迦の直説に近いとされていま
すが、何しろ御釈迦さん自身は文蹟を残していないとされていますか
ら、真偽の程は確かとは言えない様に思われますが如何なものでしょ
うか?

イギリスがインドを植民地化するに当たって、仏教を徹底的に研究す
べしとしてヨーロッパ的な文献学的手法を用いたとされています。
現在の日本における仏教学がロンドン仏教といわれる由縁でありまし
ょう。

>私は日蓮本仏論という素晴らしい教義を立てた先師に敬意を表します
>しかし、もし文献的批判に耐えられぬ日蓮本仏論であるならば
>やはり謙虚に反省しなければならないのではないかと思います。

とのことですが、藤波さんは日蓮御坊ご自身が本仏であると明言し、
それが文蹟として明確でなければ日蓮本仏論は成立しないということ
でしょうか?

330ガンコ:2003/07/18(金) 12:45

>大聖人の御書には、「教主釈尊」よりも「行者日蓮」を上位におく思想は
>よみとれますが、本仏であると断定するには富士の相伝書を
>「文証」としなければならないのではないでしょうか

本仏であることを強調しなければ、あんがいに日蓮宗も正宗もさしたる違いはないということでしょうか?
わたくしの乏しい知識で恐縮ですが、
「教主釈尊より大事なる行者」(下山御消息)
「月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。」(諌暁八幡抄)
ぱっと思い浮かぶのはこんなところですが、他にどのような御書をご存知か教えてください。

もし「教主釈尊」よりも「行者日蓮」を上と見るならば、もう大して違いはないように思えます。
そうすると、唯授一人の血脈相承が問題となりましょうか?
これは困った。

331藤波太郎:2003/07/18(金) 13:09
無徳様

あえてインド応誕のお釈迦様とされていますが、私は釈尊を本仏として
仰いでおりますので、釈尊の直説は法華経と断言します
これは、正宗の論理では通用しないかもしれませんが
私の正直な見解を申し上げれば、このようにしかお答えできません
原始仏教は方便の権教とみております

また、日蓮大聖人御自身が本仏であると明言しない限り
そして、それが文蹟として明確でなければ、日蓮本仏論は成立しないと
考えております

332藤波太郎:2003/07/18(金) 13:19
ガンコ様

私もじつは同じようなことを考えていました
日蓮本仏論、そして唯受一人の血脈相承をのぞけば、案外
正宗と日蓮宗との教義上のへだたりはないのかも知れませんね
「教主釈尊」より「行者日蓮」を上位におくのは
私も『下山御消息』と『諌暁八幡抄』を指して、そう申しました
ただ、他にもあったと思います、いや、ありましたよね

「教主」より「行者」を上位におくのは、どちらがすぐれているという
問題ではなく、末法という時代においては「行者」が化導を担うという
意味ですね
経法においては、釈尊は「法華経」、大聖人は「題目」
これも、末法なるが故に、「題目」でなければならないわけです

これは、日蓮宗においても常識です
そしてこれは、相伝書を用いずとも御書から充分まなべることです

333無徳:2003/07/18(金) 19:57
藤波さん今晩は:

>私は釈尊を本仏として仰いでおりますので、釈尊の直説は法華経と断言
>します。

とのことですが、この釈尊とはいかなる存在でしょうか?

>原始仏教は方便の権教とみております。

このご意見との兼ね合いからすると、インド応誕のお釈迦さんの事の様に
思われますがそれで宜しいのでしょうか?

334愚鈍凡夫:2003/07/18(金) 20:56
横から割り込み失礼します。
ガンコさん引用の
「たとひ鉄囲山を日本国に引回し須弥山を蓋として十方世界の四天王を集めて波際に立て並べてふせがするとも法華経の敵となり教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散に・たりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(「下山御消息」 学会版P363)

「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(「諫暁八幡抄」 学会版P586)
以外で有名な文証は、

「日蓮無くば釈迦多宝十方の諸仏の未来記は当に大妄語なるべきなり」(「真言諸宗違目」 学会版P140)
「当世法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」(「開目抄上」 学会版P203)
「智人南無妙法蓮華経と唱えば愚人の此れに随はんこと影と身と声と響とのごとくならん、日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(「撰時抄」 学会版P284)
「時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん」(「顕仏未来記」 学会版P507)
「日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり」(「聖人御難事」 学会版P1190)
といったところでしょうか。

「又日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず」(「一谷入道御書」 P1330)
とありますから、

>また、日蓮大聖人御自身が本仏であると明言しない限り
>そして、それが文蹟として明確でなければ、日蓮本仏論は成立しないと
>考えております
との、藤波太郎さんの仰せの通りだと思います。

335無徳:2003/07/19(土) 00:28
愚鈍凡夫さん今晩は:

>>また、日蓮大聖人御自身が本仏であると明言しない限り
>>そして、それが文蹟として明確でなければ、日蓮本仏論は成立しないと
>>考えております
>との、藤波太郎さんの仰せの通りだと思います。

との事ですが、私は人本尊開顕の書とも言われる『開目抄』と『種種御振舞御書』
を、何度も何度も読むたびに日蓮御坊を末法(現在)における御本仏であると確信
せざるを得ないのです。

今もこのレスを書く前に3度『開目抄』を拝読させていただきました。

<今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈
せられ、刀杖等を加へらるる者ある。日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ。
「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲」と。又云く「白衣の与に法を説て世に恭敬
せらるること六通の羅漢の如し」。
此等の経文は、今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば、世尊は又大妄語の人。
「常在大衆中 乃至向国王大臣 婆羅門居士等」、今の世の僧等、日蓮を讒奏して流
罪せずば此の経文むなし。
又云く「数数見擯出」等云云、日蓮法華経のゆへに度度ながされずば、数数の二字
いかんがせん。
此の二字は天台・伝教もいまだよみ給はず。況や余人をや。末法の始のしるし、恐怖
悪世中の金言のあふゆへに、但日蓮一人これをよめり。>

さらにあまりにも有名な

<詮ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。
身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼の婆羅門の責を堪へざるゆへ。久遠大通の
者の三五の塵をふる、悪知識に値ふゆへなり。善に付け悪につけ、法華経をすつる
は地獄の業なるべし。

大願を立てん。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせ
よ。父母の頚を刎ん、念仏申さずば。なんどの種種の大難出来すとも、智者に我義
やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし。

我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ、等とちかい
し願、やぶるべからず>

そして解釈に異説ありますが、

<日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり>

これらの御文は只事ではないと感じます。

336愚鈍凡夫:2003/07/19(土) 01:39
無徳さんどうも。レス有り難うございます。

蓮祖が世間から悪口罵詈され、諸難に遭った原因は、
「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をば焼きはらいて彼等が頚を由比ヶ浜にて切らずば、日本国必ず滅ぶべしと申し候了ぬ」(「撰時抄」 学会版P287)
と、ことあるごとに宣布したことが直接の原因だと思います。
当時、人格者と謳われた人物たちを由比ヶ浜にて斬首せよと言うのですから、当然と言えば当然でしょう。
蓮祖も十分そのことは予想していたことだと思います。
幕府の注目を引き、その理由を糾させ、公場にてこれらの高僧たちと相見えることを望んでのことだったと思います。
「立正安国論」の冒頭に記述されているような、地獄絵さながらの様相に接するにつけ、仏法の正邪を糾すことが一切衆生の眼目を開く近道であると確信されたのでしょう。
福祉活動より優先すると判断されたのだと思います。
人の命の重さや、人権に対する認識が現代とは随分違いますね。

釈迦牟尼の本意は「法華経」にある。従って、「法華経」を信じなければならない。
そして、「寿量品の教主釈尊」こそ末法相応の本尊であるというのが蓮祖の主張ではなかったですか。

「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」(「開目抄下」 P232)
との文証は、釈迦牟尼と同じ想い、同じ決意で法華経流布を誓われた決意の現れと拝します。

とりあえず、おやすみなさい。

337藤波太郎:2003/07/19(土) 08:36
無徳様

私が申しますところの「本仏釈尊」とは、もちろんインド応現のお釈迦様の
ことです
大聖人の御書を拝する時「釈尊」と「釈迦」と分けられていますね
無徳様は、このことから
「いかなる存在」
とお尋ねであると思います

大聖人は、一応「釈尊」「釈迦」等、表現を分けられていますが
これは三世益物の図式を考える上で、あえてそう表現されたのだと
思われます
インド応現のお釈迦様は「迹仏」です
しかし、その「迹仏」たるお釈迦様はじつは「本仏」であるというのが真意であります
ここは娑婆世界です
娑婆に応現され法華経を説かれるのは「釈迦仏」のみでしょう
これが西方世界であるのなら「阿弥陀仏」が法華経を説くのです
ですから、西方世界においては本仏が「阿弥陀」であると解釈されるのでしょう

もちろんこれはこちらの解釈です
正宗からみれば何を言うかとお怒りをかうかもしれません
しかし、これが、こちらの解釈です
信仰の対象、教学の論理がずいぶん違うのですね
「おもしろい」
と言っては不謹慎かもしれませんが、いろいろな解釈があるものです

338無徳:2003/07/19(土) 16:05
愚鈍凡夫さんそして藤波太郎さん今日は:

皆さんは日蓮御坊が

<日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。 仏の
御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。>

とされた御本尊を“信”じてお題目を唱えられておられるのではないのでしょうか?
インド応誕のお釈迦さんや法華経の寿量品に説かれる久遠の本仏、つまり“釈尊”
とはどの様なお方をイメージなされますでしょう。

私にはインド応誕のお釈迦さんや法華経に説かれる釈尊では、具体的にも具象的に
もイメージが湧かないのです。南無妙法蓮華経たる御本尊に“信”を置き題目を唱
えるには、日蓮御坊の残された文言区々を思い出し、自分が描いた御坊のイメージ
を思い抱きながら題目を唱えています。

私が日蓮御坊を“本仏”と仰ぐ由縁も一重にそこにあるといって過言ではありません。

339愚鈍凡夫:2003/07/19(土) 16:54
>>338: 無徳さんへ

小生が「寿量品の教主釈尊」を末法相応の本尊といっているのは、蓮祖の真蹟遺文にそうあるからです。日蓮門下を名乗るのであれば、まず蓮祖がどういわれているかが重要なのではありませんか。

「正像二千年之間、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗竝びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(「観心本尊抄」 昭定P712)
「一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(「報恩抄」 学会版P328)
「仏滅後二千二百二十余年今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず、当時果報を論ずれば恐らくは伝教天台にも超え竜樹天親にも勝れたるか、文理無くんば大慢豈之に過んや」(「土木殿御返事」 学会版P963)

蓮祖が「寿量品の教主釈尊(本門の教主釈尊)」を本尊とすべしと言っている以上、日蓮門下としてそれに従うは道理だと思いますが・・・・・。
それに、曼荼羅本尊を「寿量品の教主釈尊」の内証と捉え、唱題するのに別に不都合はありませんよ。

引用されている文証の「経王殿御返事」は、古写本さえ存在しないのではないですか。

340日蓮:2003/07/19(土) 22:31
余は仏ではない!

341ガンコ:2003/07/20(日) 03:03
あ、だめだめ、そんなふざけちゃ。いろいろ質問されちゃいますよ、観心本尊抄の読み下し方とか。だいじょうぶですか?

342藤波太郎:2003/07/20(日) 11:57
無徳様 愚鈍凡夫様

無徳様と愚鈍凡夫様とでは随分見解が違うようですね
もちろん私とも違いますが

質問したいのですが
石山では
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(報恩抄)
の「釈尊」を「日蓮大聖人」であると解釈すると聞いたことがあります

愚鈍凡夫様のご意見を拝するに、これに該当しないようですが
いまの石山ではどのように解釈しているのでしょう

できれば教えて下さい

343愚鈍凡夫:2003/07/20(日) 13:53
>>342: 藤波太郎さんへ

小生は元創価学会員で、現在何処の教団にも所属していません。
昔、創価学会で習ったのは、
久遠元初に教主釈尊(本因妙の教主釈尊)に下種を受けたのにもかかわらず、不信謗法の故に成道できなかった衆生(本已有善)を化導するために出現したのが久遠実成の教主釈尊(本果妙の教主釈尊)です。
この本已有善の衆生は、正像二千年で全て成道し、久遠実成の教主釈尊の役目は終わります。末法に入ると衆生の機根が久遠元初と同じ本未有善になります。
この本未有善の衆生は釈迦仏とは無縁の衆生で、釈迦仏法では成道できないとします。
そこで、これらの衆生に下種するために久遠元初の教主釈尊が出現します。
この末法に出現する下種仏こそ日蓮大聖人であるとするのです。
こういうふうに習いました。

344インド放浪体験者:2003/07/20(日) 18:09
300番代以降は、皆様方の御論戦とても御参考になります。 さて視点を一寸かえましょうか、? 皆様方「仏教の古里であるかの地、一度くらいはインド訪問をお薦め」します。小生は20代〜50代に都合五度ほど現地インドを訪ねましたが、どうも「仏教でこそ済度されるべきカースト最下層の方々」が、未だに「バラモン教の流れを引くヒンズー教の厚く強靱?な壁?になす術も無く」苦悩のドンゾコに低迷する在り様を可視可能です。そこには「後五百歳未法の民を思った釈尊の魂は?」。「そこには、本未有善の方の済度など、片鱗すらも感知不可?」の絶望的な大衆があふれ「仏教無力?」=「衆生救済?」、などを体感して来た一人です、、。 しかし「今後、展望の開花の希望だけは持続」したいものです。

345藤波太郎:2003/07/21(月) 08:50
愚鈍凡夫様

ご教示ありがとうございます
もう少し、お聞きしたいのですが
ええと、とりあえず2点にします

1点目
「久遠元初」とは、いわゆる法華経説法よりさかのぼる五百億塵点劫のポイント
すなわち一時点を指すのでしょうか?それとも、五百億塵点劫より過去の時間を指すのでしょうか?

2点目
「久遠元初」の教主は、下種をもっぱらとするのですね。
いわゆる「種」「熟」「脱」の「種」を担う仏であるということ。
そこで、わからないのは、末法において「種」を担うのは「上行菩薩」
ではないのですか?
仏が再度この世に応現してしまうのですか?

以上2点、日蓮宗の一信者として疑問に感じてしまいました
私の無知に加え
宗旨もちがえば、解釈も違います
愚問かも知れませんが、是非教えて下さい

346ガンコ:2003/07/21(月) 10:48
愚鈍凡夫さん
>引用されている文証の「経王殿御返事」は、古写本さえ存在しないのではないですか。

わたくし、この御書が偽書だったら、イヤだなあ、と思っています。この御書が偽書だったら、もう、それだけで信仰の値打ちがなくなってしまうくらいに感じてしまいます。とりわけ大曼荼羅信仰者にとっては重要な御書であろうと思うのです。
愚鈍さんは偽書と断定されているわけではありませんが、どうなんでしょう、お考えをご披露ください。

重要な教義上の争点において、はなはだアヤシゲな御文を引用して、それでこと足れりとするものがいれば、それはまったくお話にならないことでありましょう。しかし、御真蹟ないし古写本がなくとも特に疑義のない御書においては、さしたる問題はないのではなかろうかと思うのです。わたくしは愚鈍凡夫さんほどには御書に精通していないので、可能であれば御書全編にわたって講義を賜わりたい、そして一々の御書の真偽を解説いただきたい、と贅沢な、わがままな、むちゃな、甘ったれた・・・考えを懐いております。
それは無理なおねがいでありましょうから、日々の議論のなかで、折にふれてご解説いただけたら、とってもうれしく思います。

好きな御書っていうのがたくさんあるのですが、
「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即仏身なり。」(本因妙抄)
こ、これが偽書だなんて、そんなバカな・・・。もう、これだけで信心やる気なくなっちゃうくらい、だ〜い好きな御書なんですけども、はなはだ弱ったものです。


あと、藤波太郎さんにご質問があります。
「三世益物」とはどういった意味なのでしょうか? 簡単にご説明ねがえませんか。(簡単にしか理解できない頭なので)

347ガンコ:2003/07/21(月) 14:49
「先日のまぼり暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。」
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」

経王殿御返事は能説・所説の関係において、じつに明瞭な御指南と拝するものであります。
すなわち、釈尊=法華経  日蓮=南無妙法蓮華経 ですが、もちろんイコールで結ぶかどうかに異論があるかもしれません。とりあえず、記号の問題はおきます。

「正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。」

いわゆる末法適時の御法門とは何か、この上野殿御返事においても明瞭であります。すなわち、
能説の教主=南無妙法蓮華経の法華経の行者たる日蓮大聖人
所説の法門=妙法五字の大曼荼羅

なんで所説の法門が曼荼羅なのかという問題はとりあえずおきます。ここで確認していただきたいのは、これらの御文は観心本尊抄のつぎの仰せに相当することであります。
「本門は序正流通倶に末法の始めを以て詮と為す。在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり。」

在世の本門と末法の初めは一同に純円と仰せであるから勝劣を言うのは間違いなのかもしれません。ただし、彼は脱、此は種、彼は一品二半、此は但題目の五字との仰せは、所説の法門の異なることをもって能説の教主のちがいを仰せあそばしたものと考えられます。

しかし、寿量品の「常住此説法」を考え合わす時、能説の教主はあくまで釈尊一人であって、大聖人を能説の教主と言うのはどうか、大聖人はあくまで「仏の御使い」である、との説も有力であって悩ましいかぎりであります。

348旅の者:2003/07/21(月) 15:47
藤波太郎様、ガンコ様
インド放浪体験者様のレスはとても大切なレスですよ!
中近東、アジア、の悲惨さを知らずして仏教を語るとは、非常に残念な方々ですな!
以前から皆さんの意見を率直に拝見させていただいておりましたが、
所詮、日本人は井の中の蛙ですな!
100ドル位を持って働きながら中近東、アジアを旅してみたらいかがですかな?

349愚鈍凡夫:2003/07/21(月) 16:23
>>345: 藤波太郎さんへ

現在、小生は「日蓮本仏論者」ではないので考えが違うのですが、思考パターンを創価学会員当時に戻して考えてみたいと思います。
「日蓮本仏論者」の方々に間違いを指摘し、補足して頂ければと思います。

>「久遠元初」とは、いわゆる法華経説法よりさかのぼる五百億塵点劫のポイントすなわち一時点を指すのでしょうか?それとも、五百億塵点劫より過去の時間を指すのでしょうか?

「久遠元初」とは、「久遠実成」の当初(そのかみ)、即ち久遠実成以前を指しています。
一応、時間に約して論ずれば、生命の始まり(宇宙の始まり)の時を言うようです。違う言い方をすれば、久遠実成の教主釈尊の本因の時と言えるでしょうか。
而して、創価学会での解釈は、
「御義口伝に云く此の品の所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭と云う義なり」(「御義口伝下」 学会版P759)
との文証を引用して、無始無終の生命本来の姿を「久遠元初」というと結論づけています。

>「久遠元初」の教主は、下種をもっぱらとするのですね。
>いわゆる「種」「熟」「脱」の「種」を担う仏であるということ。
>そこで、わからないのは、末法において「種」を担うのは「上行菩薩」
>ではないのですか?
>仏が再度この世に応現してしまうのですか?

ええとこ突きはりまんなぁ(ワシが言いたいわ)。
気持ちを取り直して、

此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(「三大秘法禀承事」 学会版P1023)
「法華経の会座に登場する上行菩薩は、「久遠元初の教主釈尊」の垂迹であると解釈します。
法華経の会座では、上行菩薩として登場し、末法では日蓮という凡夫の姿で現れる。
而して、その本地は「久遠元初の教主釈尊」であるというのが創価学会の解釈です。

350愚鈍凡夫:2003/07/21(月) 16:56
>>346: ガンコさんへ。

小生は、御書に精通などしていませんよ。
昔は、御書全集(学会版)を通読する度にボールペンの赤い線の数が増えていったものですが、最近はインターネットの発達で、御書全集もダウンロードできる時代になりましたので、学会版、正宗版、日蓮宗版と三種類をパソコンに入れて、双方読み比べなどをしながら研鑚しています。

「経王殿御返事(報四條氏書)」に関する資料はまったく持っていません。しかし、パソコンの御書のデータベースを検索すると、古写本すら存在しないようです。経王のみならず、月満に宛てられた手紙も偽書と扱われていますね。
創価学会時代感銘を受けた一節を含む遺文が、調べていくうちに悉く偽書であると分かった時のショックは大きかったです。
見方を変えれば、確かにガンコさんが仰る通り法門上不都合がなければ偽書扱いの遺文でも引用しても良いのかも知れませんが、個人的にやはり抵抗があります。
それは、果たしてこの遺文は蓮祖の考えを本当に反映しているのだろうかという疑問が湧いてくるからです。

351ガンコ:2003/07/21(月) 17:17

>経王のみならず、月満に宛てられた手紙も偽書と扱われていますね。

扱われているというのは、日蓮宗において、ですか?

352藤波太郎:2003/07/21(月) 17:30
旅の者様

ご指摘ありがとうございます
おっしゃる通りかもしれません

私は、インド放浪体験者様の言葉から
日本山妙法寺僧伽のことを想いました
団扇大請一本で、世界各国を歩く人々

本門の本尊
本門の戒壇
本門の題目

あの人たち(日本山妙法寺僧伽)は、すべて団扇太鼓一本で、お題目を唱え
すべての答えを出していると思えてなりません
そして、多くの人が救われていることです

私はたしかに「井の中の蛙」です
なんびとをも救いえぬ自己をただ恥じるばかりです

ただ、いたずらに戯論を重ねているのではないことはご理解下さい
旅に出る勇気もない無力な者が、それでも信仰の道を探して
自己内の矛盾を言語化しているのです

イラク戦争の時、「人間の盾」として戦地にとどまった日本人がいました
私は、あの人たちのことを想うと、何も言葉を発することが出来なくなります

353愚鈍凡夫:2003/07/21(月) 18:08
>>351: ガンコさんへ

仰る通り小生の御書のデータベースは、日蓮宗の資料を基にしています。
日蓮正宗側の資料で、「経王御前御書」、「経王殿御返事(報四條氏書)」、「月満御前御書」が真蹟であるとの資料に心当たりは御座いませんでしょうか。
特に「経王殿御返事(報四條氏書)」は昔、個人的に感銘を受けました。
故に、ガンコさんの気持ちは良く分かります。

354ガンコ:2003/07/21(月) 18:52
御書の真偽についてはまったく疎いものですから、何も存じ上げません。

すでにご承知かもしれませんが、わたくしの手元にあります平成新編日蓮大聖人御書の発刊の辞と例言を一部書き写します。

「その二は、御書の真偽に関する判定基準を、宗門伝統の教義信条並びに宗祖大聖人御遺文の教義綱格の基本的標準的見地その他種々の要素より検討し、全体的に適正と信ずべき成果を得たことである。」(発刊の辞)

「本御書の編纂会に真偽検討委員会を設け、過去に疑義ありとされた御書一四七篇について、五十五回に亘る審議によって厳正な検討を加え、真書・偽書・真偽未決に判別し、たとえ行学増進に役立つと思われる書でも偽書は不収録とした。」(例言)

そのうちの三十二書を偽書と判定し、十七書を真偽未決として、不収録としたとのことです。
おそらく日蓮宗側から見れば、真偽に甘い、ということなのかもしれません。
なお弱ったことには、わが顕正会では大石寺ですら掲載しない十七書のうちのいくつかを「折伏理論書」等に載せているのです。
顕正会はなんにも考えていない?のかもしれません。

そういうわけで、わたくしはなんにも知らないのです。

355孤独な迷子:2003/07/21(月) 22:01
藤波太郎さん

はじめまして。孤独な迷子と申します。よろしくお願いします。

>あの人たち(日本山妙法寺僧伽)は、すべて団扇太鼓一本で、お題目を唱え
すべての答えを出していると思えてなりません
そして、多くの人が救われていることです

「多くの人が救われている」について、もう少し説明していただければ幸いです。

356藤波太郎:2003/07/22(火) 13:35
孤独な迷子様

日本山妙法寺のお坊さん、あの有名な藤井日達上人を中心として
「西天開教」すべく海を渡りました
私は戦争を体験したことがありません
だから、これは聞いた話ですが
日本山のお坊さんは、わざわざ戦地におもむいて、お題目を唱え
「平和」を訴えているということです

日本における、いわゆる戦前・戦中・戦後の時代を通して

戦場には兵士ばかりではなく、非武装の民間人が多く巻き込まれています
日本山のお坊さんたちは、銃口の前に立ち、多くの民間人を救っているそうです
見ず知らずの人を助ける為に
銃口の前に立ち、お題目を唱える

いったいどんな気持ちでしょう
私は、このことを想うと、自己の日常がとても恥ずかしくなるのです

357ジャージルーカス:2003/07/22(火) 15:09
> 日本山のお坊さんは、わざわざ戦地におもむいて、お題目を唱え
>「平和」を訴えているということです

法の正邪は別にして、これはすばらしい行いだと思います。
これは浄土宗の中にも、日蓮宗の中にも、キリスト教の中にも個人的にそのような行いはあったとは聞いております。
顕正会の会長あたりだと「世間の浅き事に命をかけた」等と言いすてそうですが、私は賛美します。

私は個人的には「大東亜戦争肯定論者」ですから、戦争の正邪にすいては、ここでは控えておきます。
しかし最近でも、例の同時多発テロの時に、アフガンへ乗り込み、民間人へ供給をした「右翼結社日本青年社」のような例もあります(及ばずながら私も物資は供給しましたが)。
またその中には、右翼結社の中の日蓮正宗信徒もたくさん参加しており、その所属寺院から金銭的援助も受けたそうです。

358孤独な迷子:2003/07/22(火) 22:16
藤波太郎様

>日本山のお坊さんたちは、銃口の前に立ち、多くの民間人を救っているそうです
見ず知らずの人を助ける為に
銃口の前に立ち、お題目を唱える

お題目を唱えるお坊さん方の中にも、そのようなお坊さん方もいるのですね。初めて知りました。

有難うございました。

359愚鈍凡夫:2003/07/22(火) 23:27
>>356:藤波太郎さんへ

>見ず知らずの人を助ける為に
>銃口の前に立ち、お題目を唱える

その昔、日蓮門下の僧侶たちが命を張って弘教した話はよく聞きましたが(日親師・日典師・日経師など)、現代でもこのような方々がいらっしゃるのですね。
強い信念があれば、相手の"人差し指"に自分の命を委ねることができるものなのですね。

360アネモネ:2003/07/23(水) 10:59
聞きかじりの内容で恐縮ですが…
近年の実践的思想家として尊敬されるひとりに、インド独立運動の指導者マハトマ・ガンジーがあげられますが、日本山妙法寺の人々の行動はガンジーに深く愛され、非暴力・不服従という思想行動は、互いに深く影響を与えあっていたといわれていますね。
学ぶべき姿勢がたくさんあるように思われます。

組織拡大という目先の目的達成などではなく、排他精神や独善性を克服した真に平和目的のための実践的救済活動は、宗教の違いや国の違いを超えて非常に尊い姿として広く感銘を受けるものですね。それこそ生きる勇気を与えるものでしょう。
日蓮の過激に強い信念体系とは、このような形で現代に生かされてくことが最も望ましいといえるのかもしれません。

日蓮正宗では、自分とは関係のない人のために祈るということは全くといっていいほどなかったと思います。人のために祈るどころか、敵対する人たちの不幸を祈るような唱題が行われてもいたところなど、信仰者として非常に恥ずべき姿であったと思われます。
また組織に関する裁判勝訴のために四六時中唱題会が行われることはあっても、世界のどこかで理不尽な戦争に巻き込まれ被害を受け悲しんでいる人々のために、心を合わせた唱題をするようなことは、組織内でただの一度も経験したことはありませんでした
そのような姿からして、この信心が正しいなどといえるものではないと、いつも感じてきました。

しかし、日本山妙法寺の行動には人の為に祈るという非常に尊い姿がみてとれますね。しかも祈るだけに留まらず、実践的に救済につながる行動をしている姿は、本当に敬服するものです。

私は、今となっては日蓮が本仏であるか否かということよりも、むしろ日蓮を師として現代に連なる者が、現実社会の中でどのような思想をもって振舞い、そしてどのような社会的実践行動をとっていくのか、そちらのほうに関心がいきますね。
またその姿に宗教としての真価や、信仰者としての評価が問われるような気がするものです。

361展望 期待人:2003/07/23(水) 19:46
アネモネ様:>日蓮を師として、現代に連なる者が、現代社会の中でどのような、、振る舞い、、社会的実践行動をとっていくのか、、。御同感いたします。 時に(株)花王では先日「全社員に”指針反して利益を求めず”との誓約書」の提出を決定しました。冊子には「会社の利益の為という動機でも、また上司の指示があっても”法律や倫理に反する行為”は許容しない(コンプライアンス=法令順守)」と明記されましたようです。 世の中も動き出しました。http://www.kao.co.jp/comp/bcg/index.html

362アネモネ:2003/07/24(木) 08:55
展望 期待人 さん

レスありがとうございます。

>冊子には「会社の利益の為という動機でも、また上司の指示があっても”法律や倫理に反する行為”は許容しない(コンプライアンス=法令順守)」と明記されましたようです。 

ここ数年、三菱自動車のリコール問題や、雪印の事件など、企業の不祥事が数多く表沙汰になりましたね。企業における組織の論理で利益追求のみを考えてきた皺寄せが、平成大不況のこの時期にダブルパンチとなって襲ってきたといえますね。それら企業に共通していえることは、企業ブランドに胡座をかいてお客様本位の立場を忘れていたということ、組織ぐるみで不祥事を隠蔽しようとしていたところ、そして不祥事に対する責任の所在が不明であるということではないでしょうか。
しかし、このようなことが発覚すれば、企業の社会的信頼は地に落ちますね。胡座をかいていたブランドイメージも幻と消えます。
再び消費者から真の信頼を取り戻すためには、組織の論理を乗り越えて、個々の社員ひとりひとりが責任をもって仕事に取り組むことから始まるわけですね。
たとえ上からの命令であっても、それが良識的な命令といえるのかどうかは、個々の「自分」が理性的に判断していくことが求められてきているわけですね。とても発展的な決断といえます。

宗教組織も同じだと思います。いや本来、宗教こそそのような自己確立が求められるべきはずです。世間法の上に仏法があるというなら、社会に先んじて宗教組織は変わっていかなければならないはずです。

確信をもって社会に向けて信仰を語りながら、その広めている信仰に対する責任は組織丸ごといたって希薄であることは否めません。それは組織全体の「責任感の喪失」という社会的問題でもあるとの視点から、別の掲示板で「信仰者の信仰責任」というテーマで議論を試みております。よろしかったらご閲覧ください。
http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/pundarika.html

363藤波太郎:2003/07/24(木) 10:04
愚鈍凡夫様

349
丁重なるレスありがとうございます
返信遅くなり申し訳ございません

おっしゃる内容は、私なりに理解できたと思います
日蓮本仏論は、「教」「機」「時」「国」「序(教法流布の前後)師」
いわゆる五義に照らして、よくよく考えられて構築された教義ですね
とても納得させられてしまいます

日蓮宗では五百億塵点劫は「たとえ」であり当然「久遠元初」という「時」は
存在しません
しかし、もし「たとえ」でなかったとすれば…
もしかしたら日蓮本仏論が正しいのではないかと考えさせられました

おちついて耳を傾ければ、正宗と日蓮宗は教義の上で決して水と油ではないと
思います
御書それも真筆として間違いないところを基とすれば、それは当然の結果かと思います

364孤独な迷子:2003/07/24(木) 12:56
アネモネさん

他のスレッドでレスを頂いていたのに返レスが間に合わなくなってすみませんでした。

気分を害されているのではと気になっておりますが、その点お詫びします。


>しかし、日本山妙法寺の行動には人の為に祈るという非常に尊い姿がみてとれますね。しか
も祈るだけに留まらず、実践的に救済につながる行動をしている姿は、本当に敬服するものです。

このような姿は、たとえ信仰を持っていない人たちが見ても感銘を受けるのではないかと思います。
同じ日蓮を信奉する宗派でありながら、このような違いが生ずるのは何故なのでしょうか?

365藤波太郎:2003/07/24(木) 17:38
ガンコ様

346にて「三世益物」についてお尋ねであったと思います
すみません、遅くなって

「三世」(さんぜ)とは「過去」「現在」「未来」の三世
「益物」(やくもつ)とは「物」=衆生を「利益」することを意味します
「三世にわたる本仏の衆生済度」ということですね

たしか、天台の法華経解釈の特色だったと思います
(自信がなくてごめんなさい)

「過去益物」
久遠下種→インド応現までの説法
「現在益物」
インド応現→インド入滅までの説法
「未来益物」
インド入滅→永遠の未来にいたる説法

この三世益物を総括しているのは、もちろん本仏(あえて釈尊とも大聖人とも記しません)
しかし、ご存知の通り本仏が直接化導するのは久遠下種のみで
あとは迹仏、末法に入れば本化菩薩が化導を担うことがプログラムされているわけです
おっと、正宗では「久遠下種」とは言わないのでしょうか?
「久遠元初」があるわけですからね

日蓮大聖人は、この「三世益物」の図式をかんがみられ、自らを
末法応現の本化上行と自覚されたわけです

勝手に申しましたが、違っていたら、誰かご指摘&ご教示下さい

366MILD SEVEN:2003/07/25(金) 04:47
僕の別サイトのホームページに、ある方が投稿してくれたもの。

<日本仏教の危機>

日本仏教は多くの祖師方によって 中国伝来の仏教を日本人の思考 行動に適合するよう変容し きわめて個性的仏教を開拓されてきました。
祖師方のどなたをみても その仏法にたいする造詣の深さ 仏法受容の創造性には驚嘆するばかりです。
今日にいたるも その精神は脈々と息づいていることは尊いことです。
しかし日本仏教にとって残念なことは 仏教をおこされた仏陀釈尊にたいする尊敬の念が祖師方の強烈なイメージによって打ち消されてしまっているということです。
これは世界宗教の上でも驚くべきことであり奇異なことです。
それに加えて 今日の仏教は時代とともに俗化され その力はしだいにおとろえ 社会への影響力も弱くなってきております。
したがってもはや既成宗派宗団のなかでは 仏教の回復はほとんど不可能です。
今日ほど日本仏教が力を失い その形骸をむさぼっている時代はありません。
日本仏教がいきづまったということは 宗派仏教のアカが全体に通ずる血管をふさいでしまっているからです。
それと同時に日本人自身の価値観が大きく変化して 従来の日本仏教の布教の在り方 教えの内容にさえ そのままでは適応できなくなってしまったのです。
したがって仏教の起死回生をはかるためには はるかなる仏教の根源にもどり もう一度そこを出発点として再スタートしなければならないとおもいます。
つまり仏陀釈尊の教えに回帰することです。
宗派があって仏法があるのではありません。
仏陀がおられて宗派があるのです。
それに加えて 現代は人類の歴史にとって 今まで経験したことのない大きな転換期にさしかかっていることは論をまつまでもありません。今までの価値観ではとうてい適応できず まったく役にたたなくなつています。
たとえば「進歩することはいいことだ」「拡大することは強くなることだ」という従来の価値観に人間は疑問をもちはじめています。
大量生産、大量消費という豊かさの拡大によって 人間は物質的にも精神的にも 処理できないほどの巨大ゴミを作ってしまいました。
この巨大なゴミ(マイナスエネルギー)をどうすべきか もう一度立ちどまって 内面を重視する東洋の叡智に学ぶべきではないかと思います。その意味でも仏陀釈尊の教えとその実践には これから人類のすすむべき在り方を暗示する貴重な教えが内在しているといえます。
仏教という宗教は たんに信仰や宗教文化という面ばかりではなく きわめて哲学的造力をもっているということです。
このような意味でも また世界思想の上でも仏陀の教えはおおきく貢献できる時代が到来したといえます。
そのためには世界に通用する仏教でなければなりません。
それは純粋に仏陀釈尊ご自身の教えそのものにほかなりません。
仏陀の行なった瞑想を だれでも実践可能な仕方で実行していかねばなりません。
仏陀の教えは瞑想によって 本物の自分を発見する道を開かれたのです。
自分が発見できれば、生命の本質も、生きることのいみも、すべて悟ることができま
す。

            ・・・・・・

<僕の返信>

ご丁寧な投稿ありがとうございます。

私はキリスト教徒ですが、仏教の慈悲は尊敬に値するものと感じています。・・・失礼な言い方なら、お赦し下さい。

良い競争相手は必要です。
お互いに。

全日本仏教会との連携は考えています。
行動は開始しています。

          ・・・・・・・・・・・

>法華経の虚空会の儀式における「従地涌出品」。釈尊の呼びかけに応えて、大地から無数の地涌の菩薩が出現する。その出現に驚いた弥勒菩薩が、釈尊に意義を問う。<

本当の実力者は謙遜を心得ているはずです。
世界でも、もちろん。
これからが楽しみですね!
出て来るかな!?

創価の策略で無き事を!

http://www3.ezbbs.net/14/g9okm/

367ガンコ:2003/07/25(金) 07:27
藤波さん、どうもです。

三世益物について、わかりやすいご教示を賜わりました。
久遠下種というのは正宗でも使うと思います。ただ、意味の取り方に違いがあるんだと思います。
大聖人は上行菩薩であられる。これも正宗で言うと思います。
末法においては上行菩薩が下種をするということが御書に説かれています。
ようは経文の説相に準じて上行菩薩、内証を久遠元初の御本仏と拝するわけです。
非情に難しいところなので、わたくしは簡単に、ほんらい下種というのは仏さまがなされることであろうから上行菩薩というのは本当は仏さまにちがいない、と考えています。
自受用身とか無作の三身とか正宗では言いますが、言葉は知っているけど意味はよくわかってないです。

時に藤波さん、
>日蓮宗では五百億塵点劫は「たとえ」であり当然「久遠元初」という「時」は存在しません

これはどういうことですか? 久遠元初はおくとして、久遠下種は「たとえ」なのですか?
それとも寿量品の示すごとく、釈尊は久遠の昔に成道を遂げたがそれを表現することの困難を意味しているのでしょうか?
「然善男子。我実成仏已来。無量無辺百千万億那由他劫。譬如・・・」
この「譬如」以下を「たとえ」というならそうでしょうけど、久遠実成そのものを「たとえ」というならまったく意味が違ってくると思うのです。
もっとも日蓮宗は広いですから、学者によっても意見がまちまちなのでしょうけど。

368藤波太郎:2003/07/25(金) 12:10
ガンコ様

「五百億塵点劫」が「たとえ」というのは、その数値が測定不能であるという日蓮宗の解釈です
「五百億塵点劫」は実数値ですが「久遠」は「たとえ」であり実数値ではないでしょう
その違いを私は言いたかったのです

たとえば「久遠実成」すなわち本仏がおさとりになった瞬間を見ようとして、タイムマシンでさかのぼったとしても
永遠にその瞬間にはたどりつきません
「五百億塵点劫」ですと、遠い昔ではあるけれども、具体的数値ですから
そのポイントには必ずたどりつくでしょう

「本仏」とは本来仏であるが故に「本仏」というのですよね
ならばさとった瞬間があっては太古の「始覚仏」です
正宗では、「五百億塵点劫」より過去に「久遠元初」をおきます
私の理解では、この「久遠元初」が永遠=「久遠」なのかな、と
思っていますが

369アネモネ:2003/07/25(金) 13:28
議論が進んでいる中、横レスを失礼いたします。

孤独な迷子さん

>364
>気分を害されているのではと気になっておりますが、その点お詫びします。

とんでもない。そんなことを気になさっていらしたのですか。全然です。
いつも、孤独な迷子さんの発する質問の着眼点に感心していたくらいです。

>同じ日蓮を信奉する宗派でありながら、このような違いが生ずるのは何故なのでしょうか?

私もずっと考えてきたことですね。pundarikaの掲示板における議論の試みも、このような疑問から起きているといえます。
私が見てきた法華講のみをもって、それが日蓮正宗の姿だと言い切ることはできませんので、一概にこうだとは比べられないかもしれませんが、ただひとついえることは、信仰者の目線の違いではないかと私なりには思っています。
正宗は往々にしてその目線が社会や衆生に向いていない、むしろ背を向け、ただただ御本尊にだけ視線が向けられている、そんな形に思えますね。時に社会に目線を向けたとしても、謗法、邪教、邪義…とただ蔑視して片付けてしまう思考が身についてしまっていますね。
私には、そのような不信者への蔑視こそ、その心根の姿として映るところでもあり、とても真の仏教徒の姿とは思えないところです。

まあ、こうして書きながら思うことは、仏教で説かれているはずの慈悲が忘れられているからかもしれませんね。
社会や衆生に背を向けてしまうことそのものが、慈悲を忘れた姿といえるかもしれません。

考えてもみれば、信徒は慈悲についての指導はされていないといえますね。折伏活動が慈悲の行為と摩り替えられているわけですから当然のことかもしれません。しかし折伏が慈悲の行為だとは、今の私にはとても思えなくなってしまいました。
まだまだこれだという考えはまとまらず、尽きないのですが、これからも思慮を続けていきたいと思うテーマですね。

370ガンコ:2003/07/25(金) 18:11
>たとえば「久遠実成」すなわち本仏がおさとりになった瞬間を見ようとして、タイムマシンでさかのぼったとしても永遠にその瞬間にはたどりつきません
>さとった瞬間があっては太古の「始覚仏」です

これは、ものすごくわかりやすいですね。
どうもありがとうございました。

う〜ん、しかし、なんだろう? じぶん達はいったいそこから何をつかむことができるのだろうか?
気の遠くなる話であって、もうこうなると大聖人が本仏だろうが釈尊が本仏だろうがどっちでもいいや、って気分になってきました。

371無常の者、、。:2003/07/25(金) 23:39
No.348::旅の者様: <中近東、アジアの悲惨さ、、、>。 全く同感いたします、。 小生、昨今欧州からインド経由で帰国した一某社員です。 乗り継ぎ合間にVaranasi市を訪問しました。 ガンジス川がユッタリ流れ、その中「下流では半焼きの死体が漂流」してました、。 そのまた下流では、野犬が「半腐乱死体をツイバン」でいました、。 死後も「仏陀にも見放されたカースト最下層者」方らは「ろくに火葬もされなく、流される様です、」。この有様には仰天です。 皆様「一見のほどを、、!!!」 。。

372無徳:2003/07/26(土) 00:30
藤波太郎さん今晩は:

>「本仏」とは本来仏であるが故に「本仏」というのですよね
>ならばさとった瞬間があっては太古の「始覚仏」です
>正宗では、「五百億塵点劫」より過去に「久遠元初」をおきます
>私の理解では、この「久遠元初」が永遠=「久遠」なのかな、と
>思っていますが

との事ですが、「観心本尊抄」や「法華真言勝劣事」には“無始
の古仏”とありますがどの様に理解されますでしょうか?

確かに正宗では“久遠元初”を無始無終の永遠と解釈しています。
しかし、“久遠即末法”として久遠を今に移すといった解釈もあ
ります。

「南条兵衛七郎殿御書」には<久遠下種の者の五百塵点を経し事>
とあり、真蹟は有りませんが「船守弥三郎許御書」には<過去久遠
五百塵点のそのかみ(当初)唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事な
り>とあります。

更に、「曽谷入道等許御書」には<久遠大通の時に於て純円の種を
下せしかども>ともあり久遠を“下種”の時としています。

これらからの事から、久遠即末法として久遠は今にありと解釈さ
れていると思われますが、藤波さんはどのようにお考えになりま
すでしょう。

373愚鈍凡夫:2003/07/26(土) 11:22
>>363: 藤波太郎さんへ

あっ、どうも。
私見を交えずに「日蓮本仏論」の概略を述べたつもりです。
少しでもお役に立てれば幸いです。
同じ日蓮門下で、それぞれ解釈が違うのは何故なのか、
その違いについての相互理解が進むといいですね。

374旅の者:2003/07/27(日) 00:16
無常の者さま
はじめまして、あなたも体験されましたか、
海外生活が多いとびっくりさせられ事が多いですね
このページの方々は『ある意味りっぱな方ですから』が多いですから、
無常の者さまも退散をお勧めします、
では退散させていただきます。

375ガンコ:2003/07/27(日) 05:57

本尊問答抄は曼荼羅正意か?

先般、法華経の題目を本尊とするわけだから、それは大聖人の御文字御本尊であろうと短絡的意見を述べた際、その根拠は何かと問われて返答に窮してしまいました。
なんのことだかわからない人もいるでしょうから簡単に説明すると、われわれ正宗信徒は御文字の御本尊全体が大聖人の御生命であると教わるものですから、本尊問答抄を拝すると直ちに妙法五字の大曼荼羅を想像するけれども、あくまで想像であって直接の脈絡は見出せない、もし百歩譲っても御曼荼羅の中央・南無妙法蓮華経(ないし釈迦多宝、あるいは四菩薩も含まれるか)が相当するのであって曼荼羅全体ではない、とする考え方があるのでした。
もっと融通のきかない言い方をすれば“法華経の題目とあるのだから法華経の題目なんだよ、まあ曼荼羅にも題目が書かれているから一応本尊になり得るけど”みたいな感じです。いや、これは誰が言ったということではなくて、過去の議論をずっと見ていくと大体こんな印象を受けるのです。
ここは単に本尊論ではなくて本仏論が裏に隠れている、種脱勝劣の問題が隠れていると思えます。
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。」
もちろん、読み方しだいで見解が違ってくるのでありましょう。末法においては法華経すら必要ないのであるから当然法華経の教主も要らない、つまり末法には下種の法華経が弘まる、それが日蓮大聖人の仏法であり大聖人こそ下種の法主・・・云々と。こうなると大聖人がたましひを墨に染めながして顕はし給うた御文字御本尊と仏像では明らかに勝劣があることになる。まさしく本尊論と本仏論は表裏一体の関係にあると言えるのではないでしょうか。
ゆえに、何を本尊とするかで本仏論の答えも自ずと決まってくると、わたくしは考えています。

まず、法華経の題目を本尊とすることは非常にいやらしい、と申し上げなければなりません。すでに多くの人がご指摘になっているかと思うのですが、まさに本門の題目との重複であります。
「問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。」
この法華取要抄の理路整然たる御表現を、大聖人御自らわざわざ美観を損ねるような、そんなことをあそばすであろうか? こうした理由もあってか、本尊問答抄を疑うむきもあるようです。
しかし、生意気なようですが、わたくしの拝したかぎりではあやしいところは見出せません。いやらしいけど、あやしくはない、と思います。
「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべし」(唱法華題目抄)
「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・・・」(観心本尊抄)
「法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄)
これらの御文は年代が異なるから当然こまかい点において違いがありましょう。しかし、共通して題目を本尊としているように拝せます。ゆえにあやしいところはないのですが、法華取要抄を三大秘法の名目開示の御書とするならば、それ以後の御書において“題目を本尊とする”という表現はなんともいやらしいと言わざるを得ません。
つまり、大聖人はこれらのことを御承知のうえ、あえて本尊問答抄を著されたと思われるのです。
わざわざ取要抄の整然たる御表現を冒してまでも伝えたかったことがあられた! それはいったいなんであろうか? こうした観点で拝読していくと、「法華経の行者の正意」すなわち日蓮大聖人の御本意をしかと拝せるように思うのです。


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