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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

296ガンコ:2003/06/01(日) 21:25

御文字御本尊と仏像との整合性について(2)

最近あまりお見かけしませんが、菊水護国さんは以前こんなようなことをおっしゃっています。
云はく「われわれが信仰している対象は“物体”などではなく、その奥にある“法”である」と。

これは現代受けをねらった解釈ではないかと思っていましたが、よくよく考えると大聖人御自身にこのような御考えがあられたのではないか、と思うようになってまいりました。
日蓮大聖人は宗旨御建立において本門の題目を御唱えあそばされた。当然、大聖人ほどの御方であれば、この時すでに本門の本尊・本門の戒壇の御構想を抱いておられたでありましょう。ではなぜに直ちに説示あそばさなかったのか。もちろん実現は遠い将来(特に戒壇建立は)であったとしても、御説明あそばしても良かったのではないかと考えます時、必ず三沢抄の佐前・佐後が引き合いに出されます。しかし、佐前であるところの唱法華題目抄に御本尊の説明があるのはなぜでしょうか。
「本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。」

興味深いのは法華経ないし法華経の題目を本尊とする辺において本尊問答抄と同じでありながら、「釈迦多宝を書いても造っても」との仰せはまるで一塔両尊の造像を示すがごとくに思えます。顕正居士さんのおっしゃるように、なるほどいろいろな表現方法があるんだなあと思います。しかるになぜに大聖人はもっぱら御文字でもって御本尊をあそばしたのであろうか。そして同時に造像を容認あそばす御書が存在する意味は何か。

大聖人のおさとりは“物体”などというものではない、けれどもそれを表現するに当たっては紙と墨を用いられた、つまり妙法を御文字に顕された瞬間に一般仏教の木画とまったく同じ問題が生ずることを、大聖人は御考えになられていたのではないか、と思うのです。
そうであるならば、木画二像開眼の事や観心本尊抄(の前半)で“なぜに木画が本尊となりうるか”を証明することは、そのまま御自身の御文字御本尊の証明になるということだと思います。
そして、いちど証明されおわれば木画は生身の仏と崇められる、いわんや大聖人の顕し給う御本尊は生身の仏の御たましい、ゆえに諸仏能生の根源と申し上げるわけであります。


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