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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
375
:
ガンコ
:2003/07/27(日) 05:57
本尊問答抄は曼荼羅正意か?
先般、法華経の題目を本尊とするわけだから、それは大聖人の御文字御本尊であろうと短絡的意見を述べた際、その根拠は何かと問われて返答に窮してしまいました。
なんのことだかわからない人もいるでしょうから簡単に説明すると、われわれ正宗信徒は御文字の御本尊全体が大聖人の御生命であると教わるものですから、本尊問答抄を拝すると直ちに妙法五字の大曼荼羅を想像するけれども、あくまで想像であって直接の脈絡は見出せない、もし百歩譲っても御曼荼羅の中央・南無妙法蓮華経(ないし釈迦多宝、あるいは四菩薩も含まれるか)が相当するのであって曼荼羅全体ではない、とする考え方があるのでした。
もっと融通のきかない言い方をすれば“法華経の題目とあるのだから法華経の題目なんだよ、まあ曼荼羅にも題目が書かれているから一応本尊になり得るけど”みたいな感じです。いや、これは誰が言ったということではなくて、過去の議論をずっと見ていくと大体こんな印象を受けるのです。
ここは単に本尊論ではなくて本仏論が裏に隠れている、種脱勝劣の問題が隠れていると思えます。
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。」
もちろん、読み方しだいで見解が違ってくるのでありましょう。末法においては法華経すら必要ないのであるから当然法華経の教主も要らない、つまり末法には下種の法華経が弘まる、それが日蓮大聖人の仏法であり大聖人こそ下種の法主・・・云々と。こうなると大聖人がたましひを墨に染めながして顕はし給うた御文字御本尊と仏像では明らかに勝劣があることになる。まさしく本尊論と本仏論は表裏一体の関係にあると言えるのではないでしょうか。
ゆえに、何を本尊とするかで本仏論の答えも自ずと決まってくると、わたくしは考えています。
まず、法華経の題目を本尊とすることは非常にいやらしい、と申し上げなければなりません。すでに多くの人がご指摘になっているかと思うのですが、まさに本門の題目との重複であります。
「問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。」
この法華取要抄の理路整然たる御表現を、大聖人御自らわざわざ美観を損ねるような、そんなことをあそばすであろうか? こうした理由もあってか、本尊問答抄を疑うむきもあるようです。
しかし、生意気なようですが、わたくしの拝したかぎりではあやしいところは見出せません。いやらしいけど、あやしくはない、と思います。
「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべし」(唱法華題目抄)
「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・・・」(観心本尊抄)
「法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄)
これらの御文は年代が異なるから当然こまかい点において違いがありましょう。しかし、共通して題目を本尊としているように拝せます。ゆえにあやしいところはないのですが、法華取要抄を三大秘法の名目開示の御書とするならば、それ以後の御書において“題目を本尊とする”という表現はなんともいやらしいと言わざるを得ません。
つまり、大聖人はこれらのことを御承知のうえ、あえて本尊問答抄を著されたと思われるのです。
わざわざ取要抄の整然たる御表現を冒してまでも伝えたかったことがあられた! それはいったいなんであろうか? こうした観点で拝読していくと、「法華経の行者の正意」すなわち日蓮大聖人の御本意をしかと拝せるように思うのです。
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