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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
295
:
ガンコ
:2003/06/01(日) 21:12
御文字御本尊と仏像との整合性について(1)
四条金吾釈迦仏供養事に云はく「草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これよりおこる」と。
とくに「五色の絵の具」に注目するならば、まるで画像を奨励あそばすようにも拝せるところですが、これは一般仏教の通例をお挙げになられたものと考えます。
「爾りと雖も木画の二像に於ては、外典内典共に之を許して本尊と為す」(本尊抄)
「有情の第一の財は命にはすぎず」(主君耳入此法門免与同罪事)
そもそも、なぜ非情(物質)に過ぎない木画を本尊とすることが可能なのか? 時には木画のために命を張ることだってある。有情の第一の財を非情のために捨てるとはいかなることか? なんとも難しい問題であります。
観心本尊抄における重要なテーマでありましょう。つまるところ、仏教一般の通例として木画を本尊とするけれども「一念三千の仏種」でなければ本尊にはならない、との仰せと拝します。
本宗においてはいわゆる色相荘厳の仏をきらいますが、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(経王殿御返事)の墨(=単色)と五色とではまるでちがいます。「仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、法華経は神なり」(本尊問答抄)との仰せは、仏は「釈迦・大日総じて十方の諸仏」であるから五色、法華経は文字であるから単色と考えられます。よって、「五色の絵の具」はあくまで例示にすぎない、と思います。
なお、にわか勉強で恐縮ですが、五という数は仏法の基本概念をあらわすために比較的多用される数字のように思われます。「五色の絵の具」の直前には「五陰世間」、冒頭には「五眼」とありますし、戒法門には「五行・五大・五色・五根・五輪」が図になっています。また、一念三千理事には「五陰とは、新訳には五蘊と云ふなり。陰とは聚集の義なり。一には色陰、五色是なり」等とあります。
木絵二像開眼の事に拝する、三十一相+法華経=三十二相具足純円の仏、ということも同様に考えます。「生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」と。つまり、木画はほんらい非情なるがゆえであります。ゆえに、 一念三千の仏種>有情(生身の仏)>非情(木画二像) と考えるものであります。
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