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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

279愚鈍凡夫:2003/05/28(水) 00:48
277: みかん(z8VoUpnM)さんへ

確かに法華経には一念三千を連想させる記述は見あたりません。その意味では、天台大師の個人的な悟達と言えるかも知れません。
しかし日蓮聖人は、一念三千が法華経の延長線上にある理念と考えていたのではないでしょうか。

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(「開目抄上」 学会版P189)
「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し、出現して、迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して、百界千如・一念三千其の義を尽くせり」(「観心本尊抄」 昭定P719)
「法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(「撰時抄」 学会版P288)

以上の文証からは、法華経から導き出されると言っているように思いますが。

次に「絶対信」ですが、「絶対信」は「本尊に己の人生を依存する」ことが前提になると思うのです。言い換えれば、「絶対帰依」とでも言うのでしょうか。
要するに、身の回りに起こる全てのことが、本尊の仏力・法力によると信じることではないでしょうか。これはもう「盲信」と言っても差し支えないように思いますが。

慧心流口伝法門について、
「自受用報身如來。以顯本爲正意也」(「一帖抄」)
「一念三千即自受用身。自受用身者出尊形佛文以此道理以報身爲正意習也」(「一帖抄」)
「以テ報身ノ自受用ヲ爲スト顯本ノ正意ト相傳スル也」(「二帖抄」)
「一念三千即自受用身行體云。」(「八帖抄」)
これらの文証がまず頭に浮かぶのです(これらが慧心流口伝法門ではないというのならば、勉強しなおします)。

ただ本覚論について、小生のような素人がとやかく言うのは危険かも知れませんが、避けては通れない道だと思います。
個人的に、日蓮聖人が本覚論をそのまま受け入れていたとは思いませんが、結論を出には尚早だと思うので、これからも研鑽を続けていきたいと思っています。

とりあえず、この辺でお休みなさい。


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