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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
347
:
ガンコ
:2003/07/21(月) 14:49
「先日のまぼり暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。」
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」
経王殿御返事は能説・所説の関係において、じつに明瞭な御指南と拝するものであります。
すなわち、釈尊=法華経 日蓮=南無妙法蓮華経 ですが、もちろんイコールで結ぶかどうかに異論があるかもしれません。とりあえず、記号の問題はおきます。
「正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。」
いわゆる末法適時の御法門とは何か、この上野殿御返事においても明瞭であります。すなわち、
能説の教主=南無妙法蓮華経の法華経の行者たる日蓮大聖人
所説の法門=妙法五字の大曼荼羅
なんで所説の法門が曼荼羅なのかという問題はとりあえずおきます。ここで確認していただきたいのは、これらの御文は観心本尊抄のつぎの仰せに相当することであります。
「本門は序正流通倶に末法の始めを以て詮と為す。在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり。」
在世の本門と末法の初めは一同に純円と仰せであるから勝劣を言うのは間違いなのかもしれません。ただし、彼は脱、此は種、彼は一品二半、此は但題目の五字との仰せは、所説の法門の異なることをもって能説の教主のちがいを仰せあそばしたものと考えられます。
しかし、寿量品の「常住此説法」を考え合わす時、能説の教主はあくまで釈尊一人であって、大聖人を能説の教主と言うのはどうか、大聖人はあくまで「仏の御使い」である、との説も有力であって悩ましいかぎりであります。
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