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近現代史綜合スレ

613とはずがたり:2015/08/15(土) 20:52:50

細川護熙元首相「祖父、近衛文麿の“遺書”が裏付けた侵略戦争」〈週刊朝日〉
dot. 2015年8月14日 07時00分 (2015年8月15日 15時52分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150814/asahi_20150814_0000.html

 元熊本県知事、第79代首相の細川護熙(もりひろ)氏は、戦後70年の談話(安倍談話)について持論をこう語る。

*  *  *
 私の祖父の近衛文麿は、亡くなる前の晩に次男の通隆に宛てて遺書のようなものを残していますが、その中で、日支事変の拡大、仏印進駐は自分の政治的誤りであったということを言っています。先の大戦は侵略戦争であったということを裏付けるような発言です。当時その責にあった人がそう言っているわけで、その言葉は重く受け止めざるをえない。

 だから首相に就任した1993年8月の最初の記者会見で記者の質問に答え、先の大戦について侵略戦争だったと、間違った戦争だったと認識していると、首相として初めて明言しました。私が言わなかったら村山談話も小泉談話もあそこまで踏み込んだものにならなかったかもしれません。それまで歴代の総理は、戦争を通じて多大な損害を与えたことに対する真摯な反省の気持ちを述べられていましたが、「侵略」に関しては政権の内外とも奥歯にものが挟まったような発言が繰り返されていました。しかし、私には明確な歴史認識を示すことで、近隣諸国の対日不信感を払しょくする一助になるのではないかという信念がありました。

 私の発言は、中国と韓国はもちろん欧米の首脳にも広く歓迎されました。ロシアのエリツィンさんは、首脳会談で来日されたとき、私のあの発言がなかったら、自分はここにいなかったとはっきりと言われました。

 おそらくあのときが一番、日本とほかの国との関係が外交的にはうまくいっていたときだと思います。

 でも自民党からは、もう総攻撃でした。石原慎太郎さんや橋本龍太郎さんらから予算委員会でも徹底的に追及されました。当時の与党のみなさんもびっくりされたと思います。与党の人たちからは特になにも言われなかったんですが「よく言った、そのとおりだ」と真っ先に言ってくれたのは小泉(純一郎)さんだったというのも意外でしたね。

 安倍さんが戦後70年談話を出されるということですが、私の考えは極めて簡単で、村山、小泉談話をそのまま継承すればいいということです。いささかでも私の発言や村山談話から外れてその精神を損なうものであれば、それは有害なものになるでしょう。「侵略」とか「植民地」とかいくつかのキーワードを継承していかないと、「未来志向」と言っても意味がない。

 そもそも10年ごとに談話を出す必要もないと思っています。過去に対して向き合うのが10年ごとに変わるのでは困ります。そして日本と中国、韓国との関係においては、平和友好以外の選択肢はありえません。

(構成 本誌・長倉克枝)

※週刊朝日 2015年8月21日号

614名無しさん:2015/08/15(土) 21:11:33
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00044645-gendaibiz-soci
日本人はヒトラーをどう見ていたか?〜ファシズムへの共感が広がった理由 【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』4
現代ビジネス 8月14日(金)9時1分配信

 日本はなぜファシズムに傾斜していったのか? モデルとなったのはもちろんヒトラーのナチスドイツ。当時の日本人はこれをどう見ていたのだろう。ヒトラーのナチズムが「先進的な模範モデル」として徐々に共感を広げていった様子を追う。

 (*井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』より「Ⅳ章 カリスマ待望と戦争」を4回に分けて特別公開。最終回)

ファシズムへの共感

ヒトラー・ユーゲントの一大旋風
 日本国民に枢軸国に対する親近感を抱かせるうえで、大きな政治的・社会的役割をはたしたイベントとして、ヒトラー・ユーゲント(ドイツ青少年団)の来日がある。

 1938(昭和13)年8月、横浜港にグナイゼナウ号で来日した一行30名余は、11月に神戸から帰国の途につくまでの約3ヵ月間、日本に一大旋風を巻き起こすことになる。

 写真壁新聞も逐一、報道する。8月19日号「ようこそ!! 若き盟友!! /青年日本の歓迎裡に憧れの帝都へ」は、「バンザイバンザイの熱狂的な青年日本の歓迎陣に迎えられて……防共の誓新たなるを覚える中に宮城へ堂々と行進を起した」として、宮城前を行進するヒトラー・ユーゲントの写真を載せる。その写真は東京駅から宮城へとハーケンクロイツの旗を先頭に行進するヒトラー・ユーゲントを取り巻く人びとが埋め尽くしている。

 写真壁新聞は、他方でドイツを訪問する日本の青少年団の様子も伝えている。8月21日号「独逸各地で歓迎攻め/我が訪独青少年団代表一行」は、港に到着した直後の行進風景の写真である。

 ヒトラー・ユーゲントの足跡を追う写真壁新聞は、9月21日号で大島の三原山を登山する一行の姿を伝えている。「活火山を持たぬドイツ国民とて火山ではすっかり驚嘆〝凄い凄い〟を連発して下山」したという。

 ヒトラー・ユーゲントの来日の政治的・社会的影響は大きかった。一行の様子は多くのメディアが報じた。『ホーム・ライフ』もそうである。1938年10月号は、3頁の特集を組んでいる。「万歳・ヒットラー青年」は、靖国神社を参拝する一行の写真である。横浜港上陸から東京駅前、富士登山、山中湖畔での「日本青少年団交歓キャンプ」の写真がつづく。

615名無しさん:2015/08/15(土) 21:11:59
>>614

模範国としてのナチス・ドイツ
 注目すべきことに、亀井貫一郎「この世界観──自由主義を揚棄する所以」が同じ号に掲載されている。亀井貫一郎とは、社会大衆党の幹部のひとりで、近衛内閣の成立に協力した人物である。当時、亀井は前年に訪問したドイツから帰国し、近衛新党の結成を画策していた。

 亀井は同論考において、「日本はナチス・ドイツの真似をしているとよくいわれる」と言う。ところが亀井によれば「これはまちがいで、実はナチス以前の統制の真似をやっているにすぎない」。日本はナチス・ドイツと同様に「新らしい文化を建設するために、自由主義を揚棄するのである」と力説する。

 「そのためには男性も婦人も『性』を超越し、一つの目的へ向わねばならない、この世界観さえしっかりしていれば、末梢的な梅干弁当や、見当違いの勤労奉仕などから起る矛盾も解消すると思う」。

 ナチス・ドイツは男女間の格差を是正する新しい文化と生活様式を創造する国である。亀井にとってヒトラーのドイツは、この意味で日本の模範国だった。

 ドイツの社会的な影響は『ホーム・ライフ』にもおよんでいる。その具体的な現われの一つが日本の「民族優生保護法案」への関心である。大和民族をより強く、より立派にしようとする法律にもとづく民族強化政策は、明らかにナチス・ドイツに範を求めたものだった。

 同誌の1939(昭和14)年12月号は、「京大講師・医学博士藤森速水」に「ドイツに留学中何かと見聞したナチス・ドイツの民族強化政策」を語らせている。藤森は言う。

 「国家が権力をもって人たるの本能を奪うのは怪しからんと説く人があるが、これは大変な誤解である。今日の進歩せる手術をもって断種法を施す場合、被手術者に何らの苦痛を与えず、しかも手術後も何ら人生の本能を阻害することなく生殖能力を差止めることができる」。

ヒトラーの下での平等──山田耕筰がみたドイツ
 ヒトラー・ユーゲントをとおして生まれた共感のさきにあったのは、優生学への関心だけではなかった。以下ではドイツで見聞を広めたふたりの人物に注目する。

 ひとりは音楽家の山田耕筰である。山田は1938(昭和13)年1月13日から15日の『東京朝日新聞』に「ナチ独逸人を語る」を連載している。このなかで山田は、ベルリンフィルハーモニーによる自作の曲の演奏会のことにふれる。山田は見逃さなかった。入場券には「この演奏会、ユダヤ人の入場を許さず」と記されていた。

 しかし山田はユダヤ人差別の是非を論じることなく、別の点でドイツ人を賞賛する。「独逸人の性格でまた最も尊敬すべきものの一つに身の程を知るという美点がある」。「身の程を知る」とは何か。「床屋は床屋として、下僕は下僕として其職を蔑まない。あらゆるものがその与えられた職分を守って精進する」。これがドイツ人にとって「身の程を知る」ということだった。

 他方で日本においては、山田によれば、たとえば「車夫」が弁護士になるといった「成功線上を彷徨して夢の成功を握」ろうとするという。これではいけない。ドイツ国民の「健康性」は「吾が国の現状には移し植えて培うべき特性である」と山田は言う。

 要するに山田が感嘆したのは、ヒトラーの下でのドイツ国民の平等だった。ヒトラーの下で職業の貴賤はない。ヒトラーの下で社会的な格差が是正される。

 「持たざりし大多数の者が持ち得ざりしあるものを与えられて、はじめて僅なる陽の目を喜び楽しんでいる……。国家社会主義ナチの現象としてはこれはあまりにも当然すぎる事実である」。

 山田は叫ぶ。「この勝れた盟邦独逸と独逸国民の上により多き祝福の加えられんことを祈念し、Heil Hitler!」(『東京朝日新聞』1938年1月15日)。山田はヒトラーの国家社会主義による社会の平等化に日本の理想を見出した。

616名無しさん:2015/08/15(土) 21:12:22
>>615

新しい生活様式のモデル
 もうひとりは「東京聯合少年団中央健児女子部長藤村千良女史」である。藤村のドイツ見聞録は、「新興の意気が到る処に満ち満ちて居ることでした。何を見ても唯感心する他なく、学ぶべきことが実に沢山ありました」とはじまる(『東京朝日新聞』1938〈昭和13〉年9月16日、17日)。

 藤村は日本の女性に伝える。

 「ドイツに於ける赤ちゃんの大切にされていることは日本の婦人には想像だに出来ないことです。/汽車などに乗る時でも、お母さんが腰をかけているその前に、赤ちゃんは乳母車ごとそのまま乗れるようになって居ります。/地下鉄などでも赤ちゃんの乳母車の上げ下ろしを男子までが、自分の子供よりも大切にして手伝うのです」。

 藤村は乳幼児と母親が社会的に大切にされている理由がわかっていた。「よい体格の女子とよい体格の男子との結婚によってよき子を生むことに依って強き第二国民に将来の大使命を負わせよう」とするためである。それでも藤村にとって、ヒトラーのドイツの下では、男女は平等だった。

 藤村は言う。「ドイツの婦人全体に真に国家のためと云う観念が生活の凡ゆる方面に漲って、緊張した生活をしています」。藤村はこのような緊張感を日本の銃後社会に持ち込もうとした。「盟邦ドイツに学んで、更に一層銃後の婦人の緊張に拍車をかけなければならないと思います」。

 ヒトラーのドイツは日本の新しい生活様式のモデル国家となった。

ファシズム優生学への「期待」
 日本はドイツのようなファシズム体制をめざす。そうは言っても日本は日本である。ドイツを真似したところで同じようになれるわけがなかった。

 たとえばナチス・ドイツ流の優生学を導入するといっても、限界があった。この点に関して、医学博士の林髞は言う。

 「この事変以来、日満支の一体が叫ばれ、日本人の進出を多く見るようになったが、その場合結局一番問題になるのは異種族間の結婚……だが恐らくこの問題は、近親結婚よりこの方が数からいって少くはないかと思う。異種族間の結婚問題は、ある程度の弊害はあるとしても、要は増殖率が多いかどうかにあると思う」(『ホーム・ライフ』1939〈昭和14〉年12月号)。

 日本はドイツのようにユダヤ人を排除しアーリア民族の優秀性を唱えたくても唱えることができなかった。日中と「五族協和」を掲げる満州国の三国が「東亜協同体」をめざす立場からすれば、「五族」の異種族間の結婚は、推奨すべきではあっても、禁止すべきことではなかったからである。

 この背景にはつぎのような日独のちがいがあった。ドイツは第一次欧州大戦に敗れて植民地を失った。対する日本は形式的ではあれ、戦勝国である。しかも台湾を領有し、韓国を併合している。日本はすでに多民族国家だった。多民族国家日本が一方的に大和民族の優越性を強調するわけにはいかなかった。

 優生学の導入は、日本の文脈において再解釈される。当時の日本では、法律によって、伯父・叔父と姪、伯母・叔母と甥の結婚は禁止されていた。それを従兄妹同士にまで広げようというのである。

 林は言う。「日本で問題になる近親結婚としては、この従兄妹同士というのが一番多いわけだから、時代が経つと禁止になるかも知れないと、私は思っている」。

 近親結婚は、自由主義的な結婚観の立場からであっても、忌避されるべきだろう。これはナチス・ドイツ流の優生学とは異なる。医学の発達段階にともなう近代的な常識にもとづく判断である。

 それでもファシズムが持つ平準化作用の魅力は失われない。林は結婚した者には独身者の二倍の賃金を与えろと提言する。戦争景気の下で高賃金を得た独身の若い労働者が贅沢をしている。「この弊害を改める上にも、妻のある者には二倍の高賃金を払うか、独身者には普通の賃金しか払わないとなれば、独身者はそんなに遊びまわる余裕がなくなり、早く結婚して平和な生活をしようと工夫するようになると思う」。

 ファシズムの優生学は賃金格差の是正と「平和な生活」への期待を抱かせた。

617名無しさん:2015/08/15(土) 21:13:00
>>616

近衛新体制の末路
 日本は日本的なファシズム体制をめざす。日本的とはいっても、ファシズム体制である以上、大衆に支持される「独裁者」が必要だった。日本の場合、その「独裁者」は近衛以外に見当たらない。本章1節(→こちら)でふれたように、近衛は三度、政権の座に就くことになる。

 近衛に対する大衆の期待は変わることがなかった。「近衛氏のほかに、人なしとして、同氏にだけ、のぞみをつないでいるというありさま」だった(筒井清忠『近衛文麿』)。

 その近衛は第二次組閣に際してのラジオ放送において、政府と国民が一体となって社会の平準化(より正確には戦時下における下方平準化)をめざすべきことを訴えた。

 「国民の全部が皆私心を去り、一面積極的増産に力を致すと共に、他方大節約に努めなければならない。/凡そ奢侈逸楽を事として興隆せる国家は未だ曽て之を見ない。政府に於ても予算に出来るだけ削減を加え、不急を除き、冗費を節したい」(1940〈昭和15〉年7月23日放送)。

 大衆が支持したのは、近衛の下での社会の下方平準化だった。

 新体制の確立をめざす近衛を勇気づけたのは欧州情勢である。ヒトラーの電撃戦の成功は欧州新体制をもたらしつつあるようにみえた。近衛にとってヒトラーのドイツは、近衛の「弱い性格」を補完する。仮装パーティでヒトラーに扮した近衛の写真がある。この写真は近衛の二面性を示唆する。

 一方では近衛はヒトラーを揶揄しないではいられなかっただろう。ヒトラーの出自と野蛮な暴力主義の権力奪取の手法は、近衛とは相容れないところがあった。他方では、ヒトラーの存在は近衛の決断力不足、優柔不断さの心理的補償作用となった。

 近衛がめざしたのは、そのヒトラー(とムッソリーニ)との三国同盟による国際新体制およびこの国際新体制と連動する国内新体制の確立だった。

 近衛にとっての国内新体制とは、ナチズム体制に類似した一国一党体制のことである。しかしこの国家路線を追求する過程で、近衛は帝国憲法の改正という難問に直面する。憲法改正をためらった近衛が作ったのは大政翼賛会だった。大政翼賛会は、一国一党体制とはほど遠い、諸政治勢力の寄せ集めにすぎなかった。

 他方で国際新体制に関しても、元老西園寺がさきの近衛のラジオ放送を評して「実にパラドックスに充ちていた」と述べたように、三国同盟と日米関係の調整を両立するのは困難だった。三国同盟は近衛の主観的な意図とは異なり、客観的な結果としてはアメリカに対日戦争の覚悟を固めさせることになったからである。第三次近衛内閣は総辞職する。

 それでも写真壁新聞の1941(昭和16)年10月28日号は「大活躍の我が野村駐米大使」との記事において、ワシントンで対米交渉をつづける野村(吉三郎)大使の写真を掲載している。依然として政府は、国民に対米国交調整の努力を伝えていた。

 しかし日米交渉は不調に終わる。政党内閣崩壊後、残されたほとんど唯一の切り札だった近衛を失った日本に真の危機が迫っていた。

 (了)

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井上 寿一(いのうえ・としかず)
1956年、東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院法学研究科博士課程などを経て、現在、学習院大学法学部教授。法学博士。専攻は日本政治外交 史。主な著書に『危機のなかの協調外交』(山川出版社、吉田茂賞)、『日中戦争下の日本』(講談社選書メチエ)、『昭和史の逆説』(新潮新書)、『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)、『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)がある。
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井上寿一

618名無しさん:2015/08/16(日) 18:19:51
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150814-00003107-kana-l14
戦死の誤報で母再婚 父2人のはざまで娘は…
カナロコ by 神奈川新聞 8月14日(金)7時0分配信

 父の腕に抱かれ、ハンカチで口元を押さえる少女。BC級戦犯としてフィリピンで死刑判決を受けながらも恩赦によって横浜港に帰還した元日本兵と、約10年ぶりに再会した子どもたちの写真が、1953年7月23日の本紙に載った。その少女、尾畑慶子さん(76)=旧姓前川、横浜市鶴見区=は「これで元に戻れる、と思いました」と当時の心境を振り返る。けれども、そこに母の姿はなかった。夫が戦死したとの誤報を信じて再婚していたからだ。市井の人の「戦争」は続いていた。

 「私は覚えていないんですが、お葬式をしたと母から聞きました」と慶子さんは話す。終戦から2、3年後に父・前川治助さんの戦死公報が届いた。母の邦子さんは、生活を案じた近所の人の紹介で再婚した。2人の幼い弟は新潟の父方の実家に引き取られ、母は新しい父との間に妹と弟をもうけた。

 治助さんがフィリピンの刑務所で健在だと分かると、邦子さんは煩悶(はんもん)した。日本人戦犯の減刑のために奔走した横浜出身の歌手、渡辺はま子さんにしたためた手紙に「再婚したものゝ、前川が生存して居ると知つた其の時から、此の帰りを待ちわびて来た私でした」と真情を吐露した。

 帰国がかなった53年7月の恩赦に加えて同年12月、さらなる恩赦で釈放されるまで、治助さんは東京・巣鴨刑務所で服役した。その間、邦子さんは再婚した夫とともに巣鴨を訪れ面談した。結局、邦子さんが選んだのは治助さんだった。その気持ちを慶子さんは推し量る。「あんたが大人になったら分かる、とだけ言っていました。結局、好きだったということでしょうね。母は大恋愛で結ばれ、16で私を生んだんです」

 治助さんは邦子さんを許し、新潟の弟たちも一緒に暮らすことになった。横浜港で慶子さんが見せた涙には、新潟、横浜と離れ離れだった弟に再会した喜びもあった。「うれしくてしょうがなかったんです」

 一方で、新しい父は身を引き、妹と弟を連れて家を出た。慶子さんにとって、その2人も大切なきょうだいだった。内職に忙しかった母に代わり、赤ん坊のころから銭湯へ連れて行き、かわいがったのだ。「会いたくて、親に黙って顔を見に行ったこともあります」

 その弟は病で早世し、妹は慶子さんが20代前半のころ奉公に出されることになった。そのことを慶子さんが伝えると、治助さんは自分が引き取ると言った。戦後十数年、戦争に翻弄(ほんろう)された慶子さんのきょうだいが一つ屋根の下に集まった。「私たちを育ててくれた新しいお父さんにも恩返しができたと思いました」

 治助さんが亡くなったのは90年。フィリピンでのことは口を閉ざしたままだったが、かの地で10年間、家族を思い続けたことだけは確かだった。慶子さんは、横浜港で父が最初に発した言葉を忘れない。「お前、腕は大丈夫か」。ごく幼いころ腕に負ったやけどを、ずっと心配していたのだ。

 ◆フィリピンのBC級戦犯 非戦闘員や捕虜などを殺害、虐待したなどの容疑でフィリピン政府が起訴した日本兵151人を指す。79人が死刑判決を受け17人が刑死。エルピディオ・キリノ大統領の恩赦で帰国できたのは108人だった。戦犯は首都マニラ郊外のモンテンルパにあるニュービリビッド刑務所に収監された。教誨(きょうかい)師の加賀尾秀忍や、戦犯が作詞作曲した「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌った歌手の渡辺はま子らが減刑を嘆願した一方、日米両軍が激突し約10万人の民間人の命を奪った1945年のマニラ市街戦などを背景に、日本兵に対する住民の憎悪は根深かった。自身も妻子4人を日本兵に殺されたキリノは、キリスト教精神に基づき恩赦を決断したが、必ずしも国民の共感は得られず、直後の大統領選で落選した。

619とはずがたり:2015/08/20(木) 12:28:24
イタリアもエチオピアやリビアへの侵掠の罪を直視してんだろーねー。
そしてその先には当然宏大な土地を侵掠した英仏の罪がある筈である。狂った帝国主義時代を反省すべくガンガンやろう♪

イタリア、「日本の中国侵略の罪」を歴史教科書で明確に・・中国への関心高まり―中国メディア
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150820/Xinhua_26689.html
フォーカス・アジア 2015年8月20日 12時05分 (2015年8月20日 12時20分 更新)

中国・新華網は19日、イタリアの小学校から高校で使用する歴史の教科書で近年、「日本の中国侵略の罪」が明確に記述されるようになったと伝えた。イタリアで中国への関心が高まったことが背景にあるという。
報道によると、10年前、イタリアの歴史教科書では中国に関する記述があまりなかったが、今ではさまざまな教科書が日本の中国侵略について記し、「満州国の成立」や「南京大虐殺」にも言及するようになった。ある教科書では「日本は歴史修正主義で、虐殺の罪を認めることを拒絶しているだけでなく、中国で犯した罪について教科書の中で大きく扱わないようになってきた」と指摘している。
ローマのある歴史教育専門家は、イタリアの歴史教科書で中国に関する内容が増えた背景について、中国が世界第2位の経済体となり、その歴史を理解することの重要性が高まったこと、中華系住民が増えたこと、また同国の歴史教育が欧州中心主義ではなくなってきたことがあると語った。
(編集翻訳 恩田有紀)

620とはずがたり:2015/08/27(木) 11:16:12

日本は謝罪も経済支援もした!中国のくどい“お詫び要求”に根拠などない―仏メディア
レコードチャイナ 2015年8月26日 19時14分 (2015年8月27日 11時02分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150826/Recordchina_20150826057.html

17日、仏メディアRFI中国語版は中国外交部が安倍晋三首相の戦後70年談話に満足しなかった点に言及し、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」とする記事を掲載した。写真は中国人民抗日戦争記念館。(Record China)

2015年8月17日、仏国際ラジオ放送ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)中国語版は中国外交部が安倍晋三首相の戦後70年談話に満足しなかった点に言及し、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」とする記事を掲載した。

同記事は中国の作家らの文章を引用し、中国の寛大さに感謝を示した安倍談話を「中国への尊重」と評価。過去の戦争を反省し、永遠の不戦を誓った日本に比べ、日本による侵略、植民地化をくどくどと訴える中韓はあまりにも遅れていると指摘する。さらに、田中角栄元首相が初めて毛沢東国家主席(当時)に会った際、頭を下げたことに触れ、「日本が中国に謝罪していないなどということはない」「反省や謝罪だけでなく、罪を償うための賠償もしている」と巨額の対中支援や対中投資を例に挙げた。

さらに、「平和主義を掲げる日本が軍事拡張路線を進む中国に服従するはずがなく、民主主義の日本が権威主義の中国に屈することはない。国際主義の日本が民族主義の中国の配下となることもない」と述べ、現実的な中国人は日本人とむやみに張り合おうとすべきではないと指摘した。

このほか、「人類にとって戦争は日常茶飯事で、侵略者と被侵略者の違いは、どちらが勝ったかで判断される」「領土割譲や賠償、戦勝国による一定期間の占領、戦争裁判などが終われば、敗戦国の謝罪や清算も終わりを告げられる」との意見を紹介し、償いを終えた敗戦国にいつまでも戦争問題を訴え続けることに疑問を呈した。

その上で、日本の首相が替わるたびに中国が謝罪を求めている点を挙げ、同じ敗戦国であるドイツやイタリアでは見られない事態だと指摘。また、「日本人と中国人では謝罪の捉え方が違う」と説明し、「中国人にとっての謝罪は負けや失敗を意味するがゆえに中国人は謝罪問題に対して強い姿勢に出る」との見方を紹介した。そして最後に「安倍談話に盛り込まれた“謝罪”というキーワードは、表面上は中国の勝ちのように思われがちだが、国際世論を考えれば本当の勝者は安倍首相だ」とまとめた。(翻訳・編集/野谷)

621名無しさん:2015/08/28(金) 00:05:10
http://news.livedoor.com/article/detail/10503441/
【戦後70年首相談話】橋下氏、「謝罪の宿命負わせない」に同意 「指導者と国民は別。政治家は謝罪し続けなければ」とも… 
2015年8月24日 8時7分 産経新聞

 橋下徹大阪市長(維新の党最高顧問)が23日、安倍晋三首相の戦後70年談話に初めて言及した。

 「戦争責任は国家の指導者と国民を分ける二分論で整理すべき」と述べ、「政治家は反省を前面に出し、まだ謝罪をし続けなければいけない。中国や韓国には謝罪の意はきちっと表明しなければいけない」との持論を展開した。

 市内で行われた市主催の戦後70年記念行事のあいさつでの発言。橋下氏の言う「二分論」は、「二分法」として知られる戦争指導者と国民を分ける中国の論理で、橋下氏は日中国交正常化で中国が国内の説得に使った論理として引用した。

 ただ、この二分法の論理は「A級戦犯」をまつる靖国神社への首相参拝を批判する根拠にもなっており、国政政党の幹部でもある橋下氏が中国側の論理を引いて戦争責任のあり方に言及したことで波紋を広げる可能性もある。

 また、橋下氏は「変なところで過去の歴史を正当化したり、謝罪はもういらないと言ったりするのはあり得ない」と述べ、「戦争の一番の歯止めは指導者に常に反省の気持ちを持ち続けさせること」と語った。

 一方、安倍談話が「(将来世代に)謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と言及した部分には同意。「日本だけでなく、いろんな国が帝国主義だった時代だ。原爆投下や大阪大空襲など民間人無差別攻撃も問題提起しなければならない」とも指摘した。

622名無しさん:2015/08/30(日) 14:57:33
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150826-00000004-jct-soci
山本太郎議員の国会質問がまた話題 「原爆投下や大空襲は米軍の戦争犯罪では?」
J-CASTニュース 8月26日(水)19時50分配信

 山本太郎参院議員(40)が国会でした質問がまた、反響を呼んでいる。今度も、「米軍による日本への原爆投下や東京大空襲は、戦争犯罪ではないのか」という単刀直入なものだった。

 山本太郎氏は、誰もが持つ素朴な疑問を次々に安倍晋三首相にぶつけている。2015年7月29日には、「原発がミサイル攻撃されたら?」と質問して、ネット上でもその内容が賛否両論になった。

■イラク戦争での米軍による「一家銃殺事件」を取り上げる

 今回質問したのも、安保関連法案を審議した同じ参院平和安全法制特別委員会だった。「生活の党と山本太郎となかまたち」共同代表として、山本氏は8月25日の委員会で、安倍首相の見解を問いただした。

 民間人の殺害などを禁じるジュネーブ諸条約、国際人道法は、日本も批准している。山本氏はまず、日本がこうした国際法に違反する行為をしている他国への支援、協力は行わないかへの確認を求めた。

 答弁に立った安倍首相は、自衛隊が国際法違反の行為への支援は行わないのは当然だとし、もしある国がこうした行為をしたとき、日本がその行為を支援することはないと明言した。それは、同盟国でも米軍でも同じで、日本は共犯者になることはないと言い切った。

 そこで、山本氏は、フリージャーナリストの志葉玲さんが4月28日にヤフー・ニュースに投稿した記事を元に、イラク戦争のケースを取り上げた。記事では、06年3月15日にイシャキ村で米軍が一家銃殺事件を起こしたと紹介し、安保法案について、こうした戦争犯罪でも日本は支援するのかと疑問を投げかけている。山本氏は、この記事内容について、「総理、これ戦争犯罪ですよね? 国際法違反ですよね?」とただした。

 これに対し、安倍首相は、事実確認のしようがないので、論評は差し控えたいと述べるに留まった。

「必要な議論」「政治で通じない」賛否分かれる
 米軍のほかの行為について、安倍首相と同様なやり取りをした後、山本太郎氏は、「もっと分かりやすい例え」を持ち出した。それは、多くの一般市民が犠牲になった広島や長崎への原爆投下や東京大空襲は、戦争犯罪であり国際法違反ではないかということだ。

 この点については、民主党議員からもすでに質問があり、政府は8月14日の臨時閣議で、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、人道主義に合致しないものであった」などとする答弁書を決定している。そのことを踏まえ、岸田文雄外相は、山本氏の質問に「国際法の思想的基盤にあります人道主義の精神に合致しない」とだけ述べた。

 これに対し、山本氏は、安倍首相に聞いており外相は呼んでいないと不満を漏らし、「過去の米軍の過ちを認められないものが、どうやって戦争犯罪常習国である米国の行動をこの先ジャッジできるんですか」と批判した。最後に、山本氏は、「自衛隊は、米軍の2軍ではないんですよ」と指摘して、安保法案に対して反対する考えを強調した。

 国会での山本氏の質問については、今回もネット上で、賛否両論になっている。質問に共感する声としては、「よく言ってくれた」「これは必要な議論でしょ」「割と痛い所ついてくるよなw」といった書き込みがあった。一方で、「安保法案を理解してないね」「正論が政治で通じるとは限らんのよ」「アメリカを敵に回して何かいいコトあるんか?」といった疑問や批判も出ていた。

623名無しさん:2015/08/31(月) 18:10:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015083100531
戦後70年談話を評価=「侵略、一人称が望ましかった」-北岡座長代理

 安倍晋三首相の戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一国際大学長は31日、東京都内の日本記者クラブで会見し、談話について「基本的には、懇談会の報告は大体踏まえていただいて、ほぼ満足している」と評価した。
 一方、談話に盛り込まれた「侵略」に関しては、「ここは(首相に)一人称でできれば言ってほしかった」とも指摘。「植民地支配の犠牲者についても、もうちょっと触れてもよかった」と述べた。
 北岡氏は、談話を受けた中国と韓国の反応にも言及。韓国に関しては「非常に理性的で抑制されたものだった」としたが、中国については「こんなに書いたんだから、もう少し良く受け止めてくれるかと思った」と感想を語った。 (2015/08/31-15:44)

624とはずがたり:2015/09/01(火) 16:42:08
その金は何処へ行ったんだ?戦後汚いカネでのし上がった日本の新興企業も多そうだ。

日本が戦争中に中国から奪った金は6000トン、日本はこれで戦後復興した=中国ネット「中国は戦争に勝ったのに…」「侵略者よ、ありがとう!」
配信日時:2015年8月30日(日) 21時22分
http://www.recordchina.co.jp/a117764.html

2015年8月27日、広州日報は「第2次世界大戦中に日本が中国で略奪した文物は10万点、金は6000トンに上る」とする記事を掲載した。これに中国のネットユーザーが反応を示している。

記事は、日本が大戦中に中国を含むアジア各地から洗いざらい持ち出したと説明。「中国から奪った金は6000トン、東南アジアでは1万トンに上る。これらは日本の戦後復興を支えた基盤となり、奪われた側のアジア諸国は貧困に苦しんだ」と指摘し、当時これに関わった人の話として「日本の手段は卑劣極まりない。墓に埋葬された人が身に付けていた金品まで持ち去った」と伝えた。さらに、現在でも日本各地の博物館で当時の略奪物が展示されていると紹介し、なかには重要文化財として展示されている文物もあると説明した。

625とはずがたり:2015/09/02(水) 08:29:30
習氏、抗日勝利「国民党も貢献」…中台連帯演出
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E7%BF%92%E6%B0%8F%E3%80%81%E6%8A%97%E6%97%A5%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%80%8C%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%E3%82%82%E8%B2%A2%E7%8C%AE%E3%80%8D%E2%80%A6%E4%B8%AD%E5%8F%B0%E9%80%A3%E5%B8%AF%E6%BC%94%E5%87%BA/ar-AAdPuQu
読売新聞 9 時間前

【北京=竹内誠一郎、台北=向井ゆう子】中国の習近平国家主席は1日、「抗日戦争勝利70年」の軍事パレード出席のため北京を訪問している台湾与党・国民党の連戦元党主席らと会談し、中国国営新華社通信によると、共産党と国民党が「ともに抗日勝利に重要な貢献をした」と強調した。

国民党が反発してきた「共産党が抗日戦争の主体だった」とする従来の主張は控え、パレード開催に向け、中華民族としての連帯を演出した形だ。連氏も「国民党は正面作戦で日本軍に大きな打撃を与え、共産党はゲリラ作戦で日本軍をけん制、壊滅させた」と中国側に歩調を合わせた。

連氏の発言に対し、台湾の総統府報道官は1日、「すべては国民党が指導した。史実を否定することは許されない」と批判した。

626名無しさん:2015/09/03(木) 22:40:43
http://www.jiji.com/jc/c?g=tha_30&k=2015082900152
ソ連の対日参戦

 ソ連の対日参戦 ソ連は1945年2月、米英とのヤルタ会談で、対日参戦の見返りに南樺太(サハリン)と千島列島を占領する極東密約を結んだ。ドイツ降伏3カ月後の8月9日、日ソ中立条約を破棄して満州(中国東北部)に侵攻。樺太では11日、千島では18日から戦闘を始めた。日本兵はシベリアに連行・抑留され、逃げ遅れた在留邦人から残留孤児が出た。日本の降伏文書調印3日後の9月5日、北方領土の占領を終えた。(モスクワ時事)(2015/08/29-14:43)

http://www.jiji.com/jc/c?g=tha_30&k=2015090200100
ソ連の対日参戦

 ソ連の対日参戦 ソ連は1945年8月9日から、米英との極東密約(ヤルタ協定)に基づき、日ソ中立条約を破って満州(中国東北部)、南樺太(サハリン)、千島列島に順次侵攻。日本兵はシベリアに連行・抑留され、在留邦人から残留孤児が出た。日本の降伏文書調印3日後の9月5日、北方領土の占領を完了。ロシアはこれら地域を「日本軍からソ連軍が解放した」という歴史観を持つ。(モスクワ時事)(2015/09/02-07:33)

627とはずがたり:2015/09/04(金) 18:47:50
>>619-620

中国は日本に「謝罪迫る資格」なし・・・莫大なODAを忘れたか? ドイツもイタリアも侵略の謝罪はせず=仏メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%80%8C%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E8%BF%AB%E3%82%8B%E8%B3%87%E6%A0%BC%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%97%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E8%8E%AB%E5%A4%A7%E3%81%AA%EF%BD%8F%EF%BD%84%EF%BD%81%E3%82%92%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F-%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%82%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%82%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%AE%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AF%E3%81%9B%E3%81%9A%EF%BC%9D%E4%BB%8F%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2/ar-BBm5RzF#page=2
サーチナ サーチナ モーニングスター株式会社 2015/08/25

 フランス国際放送、RFIはこのほど、運営するニュースサイト(中国語版)で、中国が歴史問題で日本に毎年謝罪を迫るのは根拠がないなどの主張を紹介する記事を掲載した。日本が莫大(ばくだい)なODAなどで中国を支援してきたことにも触れた。

 記事は、複数の中国人が示した意見を紹介する形で書かれている。まず日本が戦争行為を反省し、永遠の不戦の誓いをしていることは「だれでも知っている」と指摘。一方で、中国人と韓国人が毎日のように「日本の侵略と植民の歴史」を唱えているのは「見劣りがする」と断じた。

 謝罪については、田中角栄元首相が国交正常化のために訪中した際にすでに、「深々と頭を下げた」と指摘。日本は「贖罪のための賠償もした」として、ODAなどによる巨額の対中経済援助を挙げた。

 記事は続けて「今の平和主義の日本が、軍拡主義の中国に服従することはない。民主主義の日本が権威主義の中国に服従することはない。国際主義の日本が民族主義の中国に服従することはない」と論じた。

 戦争については、人類の歴史で「日常茶飯事」だったと主張。侵略行為の認定も勝利国によるもので、敗戦国は領土喪失、賠償、一定期間の占領、戦争犯罪者の裁判などが強いられるが、「これらが終了すれば、謝罪や清算はすべて完結したことになる」と論じた。

 さらにドイツやイタリアも侵略国であり敗戦国だが、「何度も繰り返して相手国に謝罪するのは見たことがない」、「国際法でもそんなことは定められていない。中国以外の世界中の第二次世界大戦の“被害国”は、そんなことをしない」と論じた。

**********

◆解説◆ 中国では「ドイツは戦争についてきちんと謝罪」が“常識”になっている。しかし、中国でよく例となるワルシャワにおけるブラント首相(1970年当時)の謝罪も、ユダヤ人の迫害に対するもので、ポーランド侵攻を含む戦争発動に対するものではない。

 1985年の終戦40周年式典でのフォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説では「われわれ全員が過去からの帰結にかかわりあっており、過去に対する責任を負わされている」と述べたが、「反省」や「謝罪」の言葉はなかった。

 イタリアは日独と同盟する枢軸国として第二次世界大戦に加わったが、戦局が不利になると指導者のムッソリーニを排除し(最終的に処刑)、連合国側に加わり日本にも宣戦布告した。このため、他の連合国と同格ではないが、敗戦国扱いは受けていない。(編集担当:如月隼人)

628とはずがたり:2015/09/04(金) 18:50:03
>イタリアは、国民性の問題もあり戦争はだめだった
笑。ここhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1165050511/6-7参照

抗日戦で「本当に頑張った」のは国民党の広西軍・・・日本軍から学ぶ柔軟性もあった、「共産党軍は軽部隊」と中国人専門家
http://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E6%8A%97%E6%97%A5%E6%88%A6%E3%81%A7%E3%80%8C%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E9%A0%91%E5%BC%B5%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%AF%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%E3%81%AE%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%BB%8D%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%9F%94%E8%BB%9F%E6%80%A7%E3%82%82%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%81%E3%80%8C%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E8%BB%8D%E3%81%AF%E8%BB%BD%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%80%8D%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AE%B6/ar-BBm6qCp#page=2
サーチナ モーニングスター株式会社 2015/08/26

 中華民国研究の専門家で、江蘇行政学院(南京市)で教授を務める李継鋒氏は、日中戦争で日本軍と最も頑強に戦い成果を上げたのは、広西省(現、広西チワン族自治区)の国民党軍だったと論じる文章を発表した。日本軍の戦い方を直ちに採用するなどの柔軟性もあったという。共産党も戦意は旺盛だったが、「軽部隊」だったという。

 李教授は、当時、ファシスト国家であったドイツや日本は戦力が高かったと主張。ただし「イタリアは、国民性の問題もあり戦争はだめだった」と論じた。

 日本については、「武器もすごかった。精神面も頑強。そのため、中国軍は死傷率が極めて高かった」と論じた。第2次上海事変で「日本軍の損害は4万人。中国軍は25万人。25万人です。どう考えたらよいのか」と論じた。

 当時の中国は徴兵制の定着前だ。「人さらい」で兵員を補充した。李教授は、「民族自衛戦争なのに、人さらい。本来ならば、自ら喜んで兵になるはずだが、そうは簡単にいかなかった」と論じた。

 李教授は、日本には徴兵制が確立していたと指摘。日本兵と異なり中国兵は多くが字も読めず、先進的な武器は扱えず、組織生活も軍事訓練も経験していなかったと説明した。

 李教授によると、戦意が高かったのは共産党の支配地域と広西省だった。広西省は中国で最も早く徴兵制度を導入し、兵士の戦闘能力は高かったという。

 広西軍は第2次上海事変にも参加した。大損害を受けたが、指導者の白崇禧、李宗仁らは日本軍の「塹壕戦」を直ちに取り入れた。広西軍は戦いが始まって数カ月で、日本軍から戦術を学習し能力を大いに向上させたという。

 共産党軍については「軽部隊。重火器もあまりない。そのため、大量補給も必要なかった」と指摘。国民党軍については重砲、戦車、航空機、自動車などを使っての戦いであり、ガソリンや弾薬の補充が絶対に必要だったと説明。組織的に大規模な戦いを進めたと指摘した。

**********

◆解説◆ 白崇禧は1893年生まれ。広西軍の指導者のひとり。蒋介石に日本軍の補給線を崩壊させる「総力戦」を提案した。日本の敗戦により接収した台湾で反国民党の暴動(1947年、2.28事件)が発生すると、現地に乗り込み庶民から聞き込み調査をした上で国民党側の非を認め、捕えられた学生の恩赦を行うなどした。

 蒋介石とは1946年ごろから疎遠になり、48年には防衛大臣を罷免された。国共内戦で国民党が敗北すると、大陸を離れる最後の部隊を率いて台湾に渡った。1966年に台北で没した。(編集担当:如月隼人)

629名無しさん:2015/09/06(日) 11:57:23
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015090502000251.html
新選組 斎藤一に新史料 西南戦争従軍歴など国立公文書館に恩給関係文書
2015年9月5日 夕刊

 西南戦争で右肋骨(ろっこつ)に銃撃を受け、警視庁では中間管理職の警察官-。幕末に活動した新選組の生き残りとして知られながら、史料が少なく、謎が多いとされる斎藤一の明治維新後の従軍歴などが、国立公文書館が所蔵する明治時代の恩給関係の文書で明らかになった。歴史研究家のあさくらゆうさん(46)が公開請求した。
 文書は、退職公務員の恩給請求書などをまとめた「明治廿六年官吏進退恩給二」の文官恩給の部。斎藤は警視庁を退職翌年の一八九三年一月十九日付で、警視総監宛てに申請した。丁寧な文字で書かれた「西南之役従軍履歴」などは直筆とみられ、維新後から使った「藤田五郎」の名前で、押印もある。
 これによると、斎藤は七七年二月二十日に内務省の警視局で警部補となり、同五月十七日に「警視第二番小隊半隊長」として西南戦争へ従軍。四日後の同五月二十一日に大分県の嵯峨へ着き、同七月十二日に大分県の高床山で弾丸により右肋骨を負傷すると、陸軍の出張病院へ入院した。部隊復帰は同八月十五日で、戦闘終結後の同十月二十四日に臼杵で乗船。帰京後の七九年十月八日に勲七等を与えられた。
 八一年の警視局廃止後は、陸軍省の御用掛に。警視庁の設置で、同年十一月十一日に巡査部長となり、翌年十二月に月給が十二円から十五円へ昇給した。階級は八五年七月三日に警部補、八八年十一月一日に警部へ上がり、九二年十二月十四日に退職。当時四十八歳で「官ノ都合ニ依リ諭旨」とあり、十六年間の勤務に対する恩給は年四十六円だった。
 これらは、妻トキヲが斎藤の死亡後、遺族年金に当たる「文官扶助料」を申請した書類にも記されていた。斎藤は後に東京高等師範学校(現筑波大)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で守衛や会計などの仕事に就いたが、この間の恩給の請求記録はなかった。
◆実像知る手掛かり
 歴史研究家のあさくらゆうさんの話 人気漫画やゲームのキャラクターにも描かれるなど、歴史に興味がある人以外にも斎藤一の人気が広がっているが、残されている史料は少なく、足跡には謎が多い。警視庁時代のこともスパイや暗殺者として書籍に書かれるなど、怪しいイメージがつきまとうが、見つかった史料は公文書で、実像を知る手掛かりになる記録が出てきた意義は大きい。
 <斎藤一> 1844〜1915年。江戸生まれとされる。1863年に近藤勇らが京都で結成した壬生浪士組に入り、新選組となった後は最年少幹部で副長助勤に。沖田総司と並ぶ剣豪とされた。会津藩主松平容保が務めた京都守護職の下、反幕府派を襲撃した池田屋事件などのほか、新選組を離れた元隊士の暗殺にも関わったとされる。戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽伏見の戦いを経験し、近藤が投降後も会津藩に合流し新政府軍に抵抗した。明治維新後は、松平家が斗南藩として再興した青森の五戸へ移り、後に上京した。

630名無しさん:2015/09/06(日) 13:08:47
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150903-00045078-gendaibiz-pol
ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた
現代ビジネス 9月3日(木)6時2分配信

 なぜ、文明国ドイツにヒトラー独裁政権は誕生したのか。『ヒトラーとナチ・ドイツ』を著した東京大学大学院総合文化研究科教授の石田勇治氏に、ヒトラー政権誕生の歴史から、わたしたちはどのような教訓を導き出すことができるのか、話を聞いた。

はじめは有権者の26%しかナチ党に投票していなかった
 ーーヴァイマル憲法という民主的憲法をもったドイツに、なぜ民主主義を否定する政権が誕生したのでしょうか? 
 「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」とよく言われますね。たしかにヒトラー率いるナチ党はヴァイマル共和国末期の経済的危機、社会的混乱に乗じて台頭し、1932年7月の国会選挙で第一党(得票率は37%)になりました。

 しかしナチ党の勢いはここまででした。その年の11月の国会選挙で約200万票を失い、得票率も33%に下落します。地方選挙でも大敗を喫し、12月には党のあり方をめぐって分裂の危機に直面します。

 経済はこのころ好転の兆しが見られ、このままいけば民意はさらに離れ、ヒトラーもナチ党もやがて政界から消え去るのではないかとの観測も出てきます。ヒトラーが大統領によってドイツの首相に任命されたのはその直後、33年1月30日のことでした。

 「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」という言い方は事柄の本質を半分しか言いあてておらず、なぜヒトラーが首相になったのかという問いへの答えとしては不十分です。

 いま述べた32年11月の国会選挙の投票率は80%でしたから、ヒトラーが首相になる直近の国会選挙で有権者の26%しかナチ党に投票していなかったことになります。

 大衆はヒトラーの虜になっていたように言われますが、ヒトラー政権が誕生するまではそれほどではなかった。大衆はそんなに愚かではなかったのです。

 むしろ落ち目のヒトラーを救い出し首相の座に引き上げた大統領と、その周りに集まった既成の権力者たちの行動が問題でした。

「大統領の大権」で国会が形骸化
 ーーヴァイマル共和国末期の国会はすでに形骸化していたようですが、具体的にどのような状況だったのでしょうか。

 ヴァイマル憲法は、現在のドイツや日本と同じように、国会に基礎をおく議院内閣制を定めていました。しかしヴァイマル共和国末期の国会には、政党間のイデオロギー対立と相互不信が深刻化し、妥協と調整による多数派(合意)形成能力がすっかり失われていました。

 ヒトラーに先立つブリューニング、パーペン、シュライヒャーといった共和国末期の政権はどれも国会に基盤らしい基盤のない少数派政権で、まともな議会運営ができません。そこで「大統領の大権」が用いられたのです。

 ヴァイマル憲法は大統領に大きな権限(首相・閣僚の任免権、国会の解散権、非常時の緊急命令権)を与えていました。この時期の政権は、その力を借りて政権運営をはかります。

 たとえば国会で否決された法案は大統領緊急令として公布されました。国会がその緊急令を否決すると、大統領が国会を解散することもありました。大統領の大権をこのように行使することは憲法が想定したものではないのですが、非常時を乗り切るためと称して頻繁に用いられ、これが国会の形骸化をもたらしました。

 ナチ党が国会第一党となり、第三党となった共産党とあわせて議席の過半数をおさえた1932年の後半には、国会はもう何も決められない状況に陥ります。

 当時の共産党はソ連型独裁を志向しており、議会制民主主義をブルジョワ支配の道具だといって攻撃していました。政府は国会を解散して大統領緊急令による統治を続けますが、世論はいっそう反発し、国会不要論が噴出してきます。

 当時の大統領はヒンデンブルクという人物です。ドイツ帝国陸軍元帥で、プロイセンの伝統を引く帝政主義者でした。25年に大統領に初当選。32年春に再選されたとき、すでに84歳でした。共和国の大衆民主主義を衆愚政治とみなし、それに代わる権威主義的な新国家の建設をめざして大統領緊急令を出していきます。

 ヒンデンブルクがヒトラーを「ボヘミアの一兵卒」と呼んで見下していたことは有名な話ですが、共産党の躍進を恐れる財界の要請をうけてヒトラーをついに首相に任命しました。

631名無しさん:2015/09/06(日) 13:09:16
>>630

ヒトラーは当初、過小評価されていた
 ーー発足時、ヒトラー政権にナチ党員は3名しかいませんが。

 ヒトラー政権はナチ党の単独政権ではなく、保守派の国家人民党との連立政権として発足しました。ナチ党から入閣したのはヒトラー首相のほか、フリック内相、ゲーリング無任所相だけです。ヒトラー政権は当初、やはり少数派政権で、大統領の大権に依存していたのです。

 反ヴァイマル右翼運動を率いるヒトラーと野合した保守派は、それで何を達成したかったのでしょうか。答えは三つです。議会制民主主義を廃止し、共産党(マルクス主義)を撲滅し、強いドイツ(再軍備・軍拡)を実現することです。

 これらはヒトラーが求めていたことでもあり、両者はこの目的のために手を組んだのです。これらが達成できれば、あとはまた大統領の力でヒトラーを政権から追い出せばよい。保守派はそのように高を括っていたのです。

 ーー保守派に両脇をしっかり固められたヒトラーですが、それがどうしてヒトラー独裁へと向かうのでしょうか? 
 ヒトラーは当初、世間からも過小評価されていました。国政担当の経験がなく、専門的な知識もない、どうせ保守派の閣僚の手玉にとられてさっさとお払い箱になるだろうというわけです。

 そんな甘い予想に反して、ヒトラーは一気に攻勢に出ます。国会を解散、選挙にうって出ました。

 選挙戦の最中に大統領緊急令を出させて言論統制をおこない、国会議事堂炎上事件(33年2月27日)が起きるとこれを徹底的に利用して、共産主義者など左翼反対派を一網打尽にします。

 そして言論・集会・人身の自由など憲法が定める国民の基本権をすべて停止したうえで政府の独裁権を求めるのです。国難危急にあたり「強い政府」が必要だというのです。

 ヒトラーが目をつけたのが授権法です。授権法は全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば政府は国会から自由に、また大統領に依存することもなく法律を思うがまま制定できます。

 じつはヒンデンブルク大統領も授権法の制定に賛成していました。ここ数年来の大統領統治には憲法違反の嫌疑が向けられており、ヒンデンブルクはそのことの精神的負担から早く免れたいと思っていました。議会制民主主義の限界を言いたてる与党の国家人民党も、自党の政策が容易に実行できる授権法の制定に意欲を示します。

632名無しさん:2015/09/06(日) 13:09:42
>>631

ヒトラーは当初、過小評価されていた
 ーー発足時、ヒトラー政権にナチ党員は3名しかいませんが。

 ヒトラー政権はナチ党の単独政権ではなく、保守派の国家人民党との連立政権として発足しました。ナチ党から入閣したのはヒトラー首相のほか、フリック内相、ゲーリング無任所相だけです。ヒトラー政権は当初、やはり少数派政権で、大統領の大権に依存していたのです。

 反ヴァイマル右翼運動を率いるヒトラーと野合した保守派は、それで何を達成したかったのでしょうか。答えは三つです。議会制民主主義を廃止し、共産党(マルクス主義)を撲滅し、強いドイツ(再軍備・軍拡)を実現することです。

 これらはヒトラーが求めていたことでもあり、両者はこの目的のために手を組んだのです。これらが達成できれば、あとはまた大統領の力でヒトラーを政権から追い出せばよい。保守派はそのように高を括っていたのです。

 ーー保守派に両脇をしっかり固められたヒトラーですが、それがどうしてヒトラー独裁へと向かうのでしょうか? 
 ヒトラーは当初、世間からも過小評価されていました。国政担当の経験がなく、専門的な知識もない、どうせ保守派の閣僚の手玉にとられてさっさとお払い箱になるだろうというわけです。

 そんな甘い予想に反して、ヒトラーは一気に攻勢に出ます。国会を解散、選挙にうって出ました。

 選挙戦の最中に大統領緊急令を出させて言論統制をおこない、国会議事堂炎上事件(33年2月27日)が起きるとこれを徹底的に利用して、共産主義者など左翼反対派を一網打尽にします。

 そして言論・集会・人身の自由など憲法が定める国民の基本権をすべて停止したうえで政府の独裁権を求めるのです。国難危急にあたり「強い政府」が必要だというのです。

 ヒトラーが目をつけたのが授権法です。授権法は全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば政府は国会から自由に、また大統領に依存することもなく法律を思うがまま制定できます。

 じつはヒンデンブルク大統領も授権法の制定に賛成していました。ここ数年来の大統領統治には憲法違反の嫌疑が向けられており、ヒンデンブルクはそのことの精神的負担から早く免れたいと思っていました。議会制民主主義の限界を言いたてる与党の国家人民党も、自党の政策が容易に実行できる授権法の制定に意欲を示します。

633とはずがたり:2015/09/07(月) 03:03:04
>>630-633
姑息な手段で「授権法」成立
 授権法成立には国会議員総数の3分の2の出席と、出席議員の3分の2の賛成が必要です。この選挙(33年3月5日)でナチ党は44%、国家人民党は8%をとり、政府は過半数の議席を手に入れます。しかしまだ十分ではありません。

 政府は共産党の国会議員81名全員と一部の社会民主党議員を国会議事堂炎上事件の容疑者として拘束(逃亡を含む)していましたが、議決にあたり社会民主党の「欠席戦術」を防ぐため、議長が認めない事由の欠席は出席とみなすという議院運営規則改正案を直前に国会に提出して、賛成多数で通過させます。じつに姑息な手段です。議場内に入ったナチの突撃隊員が見守るなか、授権法案は可決成立します。結局、反対投票したのは社会民主党だけでした。

 成立した授権法には、「国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる」(第1条)、「政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる」(第2条)と記されています。ヴァイマル憲法はこうして改正されることも廃止されることもなく形骸と化したのです。

 ナチ体制下のドイツではおびただしい数の法律が制定されました。かつては議論が百出して日の目をみることのなかった法案も易々と成立します。「決められる政治」が実現したのです。ホロコーストへいたるユダヤ人迫害は合法的に進みましたが、それはこの授権法によって可能になったのです。

 授権法の成立は1933年3月23日。ヒトラー政権の誕生からわずか50日あまりで、ドイツはもはや民主主義国家に戻れない不可逆地点を乗り越えてしまったのです。

ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた
写真:現代ビジネス
権力者の恣意的な憲法解釈を許していいのか
 ーーいまの日本を考えるうえで、ヒトラーの「政権掌握」やナチ・ドイツの歴史から何が言えるでしょうか? 
 当時のドイツといまの日本とでは、それぞれを成り立たせている前提条件が違います。ヒトラー独裁政権は、第一次世界大戦から間もない、世界恐慌の最中に起きたものです。当時のドイツには議会制民主主義の考え方が十分に定着しておらず、民主主義と独裁は矛盾しないとまで言われていました。

 これに対して現在の日本では、日本国憲法が定めた議会制民主主義は少なくとも制度として広く国民に支持され、浸透しています。ただ「決められない政治」に嫌気がさして、強い首相や「決められる政治」を待ち望む声はいまの日本にも存在しますね。

 そして一昔前は考えられなかったヘイトスピーチや排外主義的な風潮の広がりは、日本の社会から寛容さが失われつつあることを物語っています。これがエスカレートすればどのような事態に行き着くか、ヒトラーとナチ・ドイツの歴史はそのあたりをよく示しています。

 さらに気がかりなのは、日本の政治指導者の誤った歴史認識です。一昨年夏の「麻生発言」は私にとって大きなショックでした。

 「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」

 麻生氏は撤回しましたが、更迭されたわけではありません。この発言で日本が失った国際的な信頼は計り知れないと思います。政治家こそ歴史をしっかり学んでほしいですね。

 最後にひとこと。

 ヴァイマル憲法は大統領の大権について「詳細は、共和国の法律でこれを定める」(第48条第5項)としながら、結局それを定めず、時の権力者の恣意的な解釈を許しました。それが大統領の大権の濫用につながり、国会の形骸化を招き、ひいてはヒトラー政権をもたらしたのです。

 憲法の条文を時の政府が勝手に解釈して、憲法の実質的な骨抜き=形骸化をはかることなどあってはならないことです。戦後70年、道を誤って独裁と戦争を招来することがないよう、過去の人類の失敗の歴史をふりかえることは、大切なことのように思います。

 読書人の雑誌「本」2015年9月号より

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石田 勇治(いしだ ゆうじ)
1957年、京都市生まれ。東京外国語大学卒業、東京大学大学院社会学研究科(国際関係論)修士課程修了、マールブルク大学社会科学哲学部博士課程修了、Ph.D. 取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科(地域文化研究専攻)教授。専門は、ドイツ近現代史、ジェノサイド研究。著書に『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』『20世紀ドイツ史』(ともに白水社)、『図説 ドイツの歴史』(編著、河出書房新社)、『ジェノサイドと現代世界』(共編、勉誠出版)などがある。

634とはずがたり:2015/09/07(月) 03:03:43

東アジアの「最先進国」は韓国か?
「一君万民」で読みとく、日清戦争から大統領選挙まで
http://toyokeizai.net/articles/-/14480
與那覇 潤 :歴史学者

…しばしば「近くて遠い国」とも呼ばれるように、多くの日本人にとって、朝鮮史の知識は乏しい(おそらくは、逆もまたしかりだろうが)。

この問題について「意識の高い」人々のあいだでも、注目されるのは目下の従軍慰安婦問題のような、植民地化以降の話題に限られがちだ。そのことがかえって、韓国との歴史問題といえば「解決不可能なもの」、いつまでもそれに熱くなる韓国人は「理解できない人々」といった印象を、強くしているようにも思う。

昭和史を先取りした、併合以前の朝鮮王朝

しかし当たり前のことだが、朝鮮に植民地化される以前の歴史がないわけではない。むしろ、近現代でも互いに「国と国」の立場で対峙した時代を紐解く方が、「対等」の関係に近づくがゆえにこそ修復が困難をきわめる、今日の日韓関係への、ヒントを得られるかもしれない。

趙景達『近代朝鮮と日本』は、朝鮮民衆史の第一人者による併合「以前」の通史だ。平明な新書でありつつも専門研究を踏まえた筆致からは、時として私たちにも似た、朝鮮王朝下の人々の相貌さえ浮かび上がる。

併合以前の朝鮮王朝の特徴は、「民本主義」を「一君万民」の形式で実現しようとする、儒教的な政治文化にあった。

民本主義と聞くと、大正時代に吉野作造がデモクラシーにあてた訳語を連想するが、元来は西洋思想と関係はない。

『書経』の「民は惟れ邦の本(たみはこれくにのもと)」に由来し、民衆の生活を安んずることを政治の本義におく、儒教の統治理念だ。その担い手を、貴族や官僚といった中間搾取者を排して、衆庶の声に直接耳を傾けてくれる英明な君主に求めるのが「一君万民」の発想である。

日本の世界史教科書で習うと、頑迷な鎖国主義者にしかみえない大院君(執政1864〜73年)は、実はこの理念に最も忠実たらんとした君主であった。

既往の地方官の収奪を取り締まり、エリート階級たる両班(ヤンバン)の特権を削減する政治を行い、民衆からも熱狂的な支持を得ていた。その人気が、失脚以降の日朝関係史の画期にも関わっているという。

たとえば1882年の壬午軍乱は、大院君に代わった閔氏政権が中間搾取を復活させたという不満のもと、一部軍人が困窮民と合流しつつ、閔氏打倒を訴えて大院君を担ぎだすクーデターだった。いわば、貧農救済のために天皇親政を標榜して、「君側の奸」を殺害した昭和の五・一五、二・二六事件の先駆けである。

実際に大院君の一時復権を勝ち取った点では、後の青年将校よりも優越するが、その鎮圧にあたって強大な隣国(清国)の介入を招かざるをえなかった点に、島国日本と異なる朝鮮半島の悲劇があった。

日清戦争の契機となった甲午農民戦争(1894年)でも、大院君は自身の人気を利用し、密書を発して農民軍を抗日蜂起に導く脇役を演じる。「忠君愛国」ゆえにこれに応じた全?準の人となりは日本人にも感銘を与え、井上馨も助命運動を支援したという。

おおむね武士層限定だった幕末の「尊王攘夷」と異なり、実際に民衆を動員しえた点に、朝鮮の志士の力を見たのかもしれない。

一君万民という本来、天皇制の冠絶性を説くはずの国体論の用語が、田中正造の直訴が弾圧された明治日本よりも、国王への直訴が広く認められた朝鮮王朝の方に当てはまるとは、原武史『直訴と王権?朝鮮・日本の「一君万民」思想史』の指摘でもある。とすれば意外にも、植民地化「した」日本の方が、「された」朝鮮の伝統を追いかける形で、両国の近代史は展開したことになろう。

635とはずがたり:2015/09/07(月) 03:04:04
>>634-635
大統領制の政治は日本の未来の予兆か

それはひょっとすると、日韓の未来にも当てはまるのかもしれない。浅羽祐樹『したたかな韓国?朴槿恵時代の戦略を探る』が描く大統領選挙のダイナミクスには、ふとそんな思いを感じてしまう。

今日の韓国では与野党とも、党公認候補を決定するための予備選挙で、党員以外からの投票も受けつけるほか、世論調査での支持率まで票数に換算して組み込んでいるという。後者は世界に類例がないというが、まさしく現代版の「一君万民」であろう。

しかも本番の大統領選挙は全国を一選挙区とするシンプルな勝負で、相対的に一票でも多い方の勝ちだ。さらに直接議会に法案を出せるなど、当選後の権限も強い。

米国に比べても、民意を大統領一人に集約する度合いが高いわけだが、首相公選制や国民投票といった「直接民意を代表させる」体験への期待が高まる日本人が望む政治のあり方と、それは実のところ近似していないだろうか。

民主政下の「一君万民」はポピュリズムに堕すのか


木村幹『韓国現代史?大統領たちの栄光と蹉跌』(2008年、中公新書)
事実、木村幹『韓国現代史?大統領たちの栄光と蹉跌』は、前代の李明博(イミョンバク)氏が就任するまでの各大統領の人生から描く戦後史だが、民主化以降の描写は近年の日本と対照しても示唆が深い。

根深い地域ごとの党派対立を克服し、インターネットを駆使して特定の派閥によらない国民統合を模索したのは、前々代の盧武鉉(ノムヒョン)大統領。

自身の支持者で固めた新党で臨み、守旧派議員を放逐して圧勝した2004年の国会議員選挙は、小泉純一郎首相の郵政解散に一年以上先行する。

もっとも、その後の盧武鉉政権の急速な失墜を、木村氏は「改革」すれば必ず社会の進歩につながるという国民の期待と、政治の力で起こせる変化はすでに尽きていた同国の現実との、落差に求める。

そもそも一君万民とはポピュリズムの異名でもあり、大院君も民衆へのバラマキのツケとして悪貨鋳造によるインフレを招いたとは、趙氏の著書にも見える。過度な改革幻想や成長神話に基づく、民衆側の統治者への無批判な一体化を戒める上で、わが国にとっても益するところの多い挿話だろう。

むろん、史実の解釈は多様であっていい。しかしいたずらに自国の栄光を誇り、他国の失敗をあげつらう関係は虚しいだけだ。

これまでも、これからも多くの課題を共有する両国であればこそ、互いに相手の経験を鏡とするような、成熟した歴史の語りを持ちたいものである。

【初出:2013.6.8「週刊東洋経済(マンション時限爆弾)」】

636名無しさん:2015/09/07(月) 19:19:23
>>633
とはさん、貼り忘れのフォローありがとうございます。
記事読みながら貼っていたら、貼ったつもりになっていたようです。。。

637とはずがたり:2015/09/07(月) 19:42:37
>>636
いえいえ,こちらの方こそいつも興味深い記事有り難うございます!

638名無しさん:2015/09/12(土) 16:00:57
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150912-00083211-toyo-soci
それでも「君が代」が国歌であり続ける理由
東洋経済オンライン 9月12日(土)6時0分配信

議論の絶えない国歌「君が代」。近代日本を背負った140年余のその生命力とは。『ふしぎな君が代』著者の辻田真佐憲氏に聞いた。

 ──政治と芸術の視点から「君が代」の歴史をひもとくと、新しい理解ができるのですか。

 合意が取れていない議論を延々と繰り返すのはあまりに不毛だ。なぜ問題になるのか。一言で言えばこの歌は近代日本そのものなのだ。1869(明治2)年に誕生して、今まで国歌であり続けている。近代日本のいいところも悪いところも象徴している。まず政治と芸術の視点から、知られざる歴史に迫ったらどうか。

■ 「君が代」が国歌になるまで

 ──誕生秘話にも定説がありませんね。

 明治早々、英国王子の来日で急きょ国歌が必要になる。急場しのぎで、『古今和歌集』の詠み人知らずの短歌に鹿児島で愛唱されていた「蓬莱山」の節をつけて間に合わせたというのが、維新の元勲、大山巌の回想を基にした有力説だが、真説とは断定しにくい。

 ──探究すると説は八つに及ぶとか。

 ここ20年、近代音楽史の研究は進み、「君が代」の論文も最新の研究がいくつか出ている。国歌がこんなに問題になるとは思っていないので、誕生にまつわる資料は皆無だ。昭和になってから伝聞が記述され残っている。誰が歌詞を選んだかは特定できないが、明治政府の誰かが選んだ。それを英国人が作曲し、日本語で歌えるように雅楽の若き専門家の奥好義(よしいさ)らが改訂し、ドイツ人が五線譜に直して1880年に今の「君が代」ができたことはわかっている。

 当時、日本には国歌という概念自体がなかった。だが、なくては文明国扱いされないので、急きょ作らなければならない。いい歌詞はないかと既成のものを探し、最終的に絞られたのが和歌の「君が代」で、『古今和歌集』に載っているもの。『古今和歌集』では、「我が君は」で始まる。それが平安時代末期に「君が代は」に言い換えられたといわれる。

639名無しさん:2015/09/12(土) 16:01:32
>>638

 『古今和歌集』に載っているといっても、決して古臭いわけではない。君というのは天皇だけでなく、将軍という意味や、目の前のあなたという意味でも1000年ぐらいの間に使われ、その人が「千代に八千代に」健康で長寿であるようにとの祝いの歌として使われてきた。歌詞が物語や戯作の中に取り込まれ、江戸時代にはポピュラーソングだった歴史さえある。諸外国でも君主国は皆、国王万歳という国歌を作っている。君を天皇ととらえれば、これはちょうどいいとなったようだ。

■ 近代日本のいいところ、悪いところも象徴

 ──国旗国歌法では作曲者が林広守となっています。

 奥が中心になって作ったがたくさんの人がかかわっている。ドイツ人のお雇い軍楽教師・エッケルトは外せないし、奥は林広季(ひろすえ)と一緒に作ったという説もある。林広守は直接には作ってはいなくて雅楽チームの代表者名義みたいなものだ。

 ──いつ国歌に。

 海軍が宮内省を巻き込んで決めたといっていい。ほかの役所や政府として承認していたわけではない。陸軍は「扶桑」を、文部省は別の「国歌按」を考えて、「君が代」に対抗し始める。ところが、ほかの曲は出来が悪い。詞は長いし、メロディもなじみにくく、「君が代」に勝てない。「君が代」の歌詞は歌い継がれてきたほどだから、よくできている。現代からすると変だといわれるが、メロディも一度英国人が作曲したものを日本人に加えドイツ人も直してハイブリッドに修正されている。ぽっと出のものより当然出来がいい。

 1999年に国旗国歌法ができるまで、法律では多くの国と同様に国歌を定めていない。学校で教える機会があって定着した。天長節をはじめ祝日大祭日の儀式用唱歌として子どもたちが歌う。祝日に歌われていたことで、国歌の資格が定まった。レコードもラジオもない時代だけに、重要なポイントであり、そこに「君が代」が入り込めた。文部省も自分たちの曲は出来が悪いとわかってあきらめた。文部省が受け入れた時点で、デファクトとしての国歌になった。もともと西洋では事実上の国歌というのが普通であり、法律で定めるのは珍しい。

640名無しさん:2015/09/12(土) 16:02:20
>>639

 ──どのように普及していったのですか。

 普及手段は限られている。楽譜を配っても読める人は皆無。本格普及は昭和初期、レコードが普及した時期と重なる。公式の楽譜も用意されて、文部省が単なるメロディラインだけではなくて、どこで区切るか、息継ぎするのかを示した楽譜を作る。学校で教えられ、ラジオでも模範的な歌い方が聞けることで定着する。半世紀ほどかかった。

■ 「君が代」は政治と芸術の関係の古典的問題だ

 ──そして、戦争期です。

 戦争期は、天皇を中心に団結しようというのが当時の雰囲気。「君が代」は都合がいい。「君が代」が必要とされた時期で普及が加速する。ただし厳粛な歌であり、歩きながら口ずさむようなものでない、ご真影に向かって歌うなどと教えられた。国威発揚に大いに利用され、植民地での公民化政策に使われた面もある。

 ところが、戦争に負け、その歌詞では不都合になった。憲法が変わって、天皇は象徴になり、主権は国民。「君が代」ではよくないのではないかとなって、新しい国歌の候補曲公募が次々と行われる。日教組も「緑の山河」を作った。しかし、結局、「君が代」に勝てない。

 ──もめ続けます。

 国民一般はこの議論から一歩引いた姿勢だが、一部の右と左が争い、両者は妥協する気がない。しかも保守的な政権になると強制しようと、教育者に懲戒処分を行ったりした。明治時代にも「君が代」は暗い、歌う気がしないといった批判はあったが、この状態をこれからも放置していていいわけはない。

 ──どうすべきですか。

 世界を眺めれば、歌うことを義務化しているのは中国など一部しかない。欧州はほとんど歌わない。日本はどちらのタイプを選ぶのか。歌わせるのは確かに圧迫感が強い。斉唱が反発の原因だと思うので、「聞く国歌」はどうか。スポーツの国際試合などでもほかの国の国歌は聞く。歌い手にお願いする、歌いたい人は歌うなどでいいのではないか。それが日本の状況に合っている気がする。

 ──政治と芸術の関係とも絡む。

 戦後70年経って政治と芸術や文化を警戒なく結び付けるところが目立ってきた。自衛隊の募集ポスターにアニメキャラが使われたり、少し前の自民党若手議員の勉強会で配られた会の目的に「政策芸術」という言葉があったり。「君が代」は政治と芸術の関係の古典的な問題といえる。これ以上進むと、プロパガンダになってしまう。その線引きが今後の一つの防波堤になると思っている。

塚田 紀史

641名無しさん:2015/09/20(日) 11:00:08
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150909-00016133-president-bus_all
靖国神社参拝論争の運命を握る「ある民間人」とは誰か
プレジデント 9月9日(水)11時15分配信

■参拝を問題化させた三木総理の「基準」

 安倍晋三総理が2013年12月に靖国神社に参拝した。7年ぶりの総理の参拝は、中国や韓国から非難され、さらにはアメリカ政府からも「失望」を表明される異例の事態となった。国が戦死した兵士の慰霊をするのは、世界的に見て普通のことなのに、なぜ外国は総理の靖国参拝を問題視するのか、疑問に思う方も多いだろう。それを理解するために、まず靖国神社の歴史を押さえよう。

 靖国神社は、1869年に明治政府によって「東京招魂社」として創建された。招魂とは、死者の魂を招いて祀ること。当初は、戊辰戦争の官軍の戦死者を祀る神社だった。10年後、東京招魂社は神社の格を上げるという意図のもとに「靖国神社」と改称される。靖国は、国を平和にするという意味。この改称と前後して、内戦の戦死者にとどまらず、国民的な対外戦争の犠牲者も合祀の対象になっていく。

 靖国神社は国が管理していたが、その性格は戦後に大きく変わった。1945年12月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が神道指令を発して、政教分離の原則と国家神道廃止を打ち出した。日本政府には宗教性を薄めて国の慰霊施設として残すか、国から切り離すかという2つの選択肢があったが、選んだのは後者だ。翌年に宗教法人令で靖国神社は民間の宗教法人となり、国のコントロール下から離れた。

 宗教法人となった後も、総理の多くは参拝している。当時は、それが問題視されなかった。問題になったのは、75年に三木武夫総理が終戦記念日に参拝してから。三木総理は私的参拝であることを表明、私的参拝の基準(公用車を使用しない、お供を連れていかない、肩書を記帳しない、玉串料は私費)を示した。それまでは公的か私的かということにこだわらなかったのに、私的参拝を強調したことで「総理の参拝は政教分離の原則に反するのではないか」という論点が浮かび上がった。

■中国とアメリカが参拝を非難する理由

 ただ、問題化したといっても、この当時は国内問題だった。しかし、78年に当時の靖国神社の宮司によってA級戦犯が密かに合祀された。A級戦犯とは、日本を戦争に導いた指導者として東京裁判で罪に問われた人たちのことだ。そして翌年、共同通信と朝日がこれをスクープした。ここからリベラル派の攻撃が激化したが、それでも海外から抗議はこなかった。

 国際問題化のきっかけは、85年の中曽根康弘総理の参拝だ。中曽根総理は終戦記念日の公式参拝を事前に表明。それに対して中国外務省は公式に非難声明を発表した。これを機に、総理の靖国参拝、さらにA級戦犯合祀が外交問題に発展したのである。

 靖国は、国内におけるイデオロギー対立の一大争点となってしまう。リベラルメディアは中国まで行ってコメントを求め、キャンペーンを張る。また、靖国参拝や歴史認識に関する閣僚の失言でも攻勢を強める。靖国参拝は一種の「踏絵」と化して、中曽根総理以降はしばらく総理の参拝が途絶えた。

 その後、96年の橋本総理、01年以降の小泉総理、そして13年の安倍総理と、総理が参拝するたび中国から抗議がきて日中関係は悪化した。

 中国は、なぜ靖国参拝に抗議をするのか。基本としてA級戦犯合祀の問題があることは間違いないが、背景にあるのは中国自身の国内政治である。実は中曽根総理はいったん公式参拝した後、参拝をしていない。自分が参拝すると、仲のよかった改革派の胡耀邦(こようほう)総書記の立場が中国国内で悪くなることを憂慮したからだ。かつては中国にも、胡耀邦のように靖国問題をスルーしてもいいという勢力がいた。しかし、胡耀邦の失脚後、そのラインは途絶えてしまった。その後の指導者は、保守派に配慮して抗議をせざるをえない立場にいる。靖国は中国の国内問題なのだ。

 一方、アメリカはどうか。アメリカにとって日本はかつての敵国。今は同盟国でも、先の戦争は正しかったという右派の歴史認識は絶対に認められない。戦争責任の罪を負ったA級戦犯が合祀されている靖国神社に総理が参拝することに、いい顔はしないのである。

 中国やアメリカにはこうした事情があるので、国の代表が戦没者を慰霊するだけだと説いても通じないのだ。

642名無しさん:2015/09/20(日) 11:00:56
>>641

■A級戦犯の分祀は実現するのか? 

 国内の靖国問題で問われている本質とは、国家の命令で戦い亡くなった人をどうするのかということだ。兵士の犠牲のもとに今の社会があることを忘れると、戦争は誰かがやってくれるから怖くないという風潮が広がり、戦争へのハードルを下げてしまう。その意味で、宗教右派、右派、中間層、リベラルまで、兵士の慰霊を行うことに関して異論はないはずだ。

 ただ、そのやり方については、各立場で考え方の違いがある。ここは意見が分かれるところだが、私はA級戦犯を分祀して、天皇陛下が御参拝できる環境を整えることが、どの立場の国民も納得する落としどころではないかと考えている。A級戦犯の合祀が発覚して以降、天皇陛下の御参拝は途絶えている。御参拝が再開されることは宗教右派も歓迎する。もちろん、何らかの形での靖国神社の国家管理が前提だ。

 しかし、実現は容易ではない。というのも、靖国神社は民間の宗教法人であり、国が介入できないという建前があるからだ。仮に政府が分祀を望んでも、宮司が首を縦に振らなければ動かない。兵士の慰霊は国として取り組むべき重要な仕事なのに、一民間人が外交関係にまで影響しうる問題のキャスティングボートを握っている。そこに靖国の問題の根深さがあるのだ。

■靖国神社と首相参拝の歴史

 【1869年】東京招魂社として創建。戊辰戦争の官軍戦死者を祀る。

 【1879年】靖国神社に改称され、別格官幣社となる。

 【1946年】改正宗教法人令で、民間の宗教法人に。

 【1975年8月】三木総理が私的参拝。公私の区別が論点に。→参拝の「基準」がつくられた

 【1975年11月】昭和天皇、戦後8回目かつ最後の靖国神社御参拝。

 【1978年】松平永芳宮司が独断でA級戦犯を合祀。

 【1985年】中曽根総理が公式参拝。中国が非難声明を発表。

 【1987年】胡耀邦失脚。中国保守派の勢力が拡大。

 【2001年】小泉総理が参拝。以来、毎年参拝。

 【2005年】中国で反日デモ。日本側の対中感情も悪化。

 【2013年】安倍総理が小泉総理以来7年ぶりの参拝。

 ▼靖国神社に合祀されているA級戦犯14名

 [絞首刑]
東条英機(首相)/板垣征四郎(陸軍大将)/土肥原賢二(陸軍大将)/松井石根(陸軍大将)/木村兵太郎(陸軍大将)/武藤章(陸軍中将)/広田弘毅(首相)
[終身刑]
白鳥敏夫(駐イタリア大使)/平沼騏一郎(首相)/小磯国昭(陸軍大将)/梅津美治郎(陸軍大将)
[禁固20年]
東郷茂徳(外相)
[判決前に病死]
永野修身(海軍大将)/松岡洋右(外相)

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日本学術振興会特別研究員・青山学院大学兼任講師 三浦瑠麗(みうら・るり)
国際政治学者。2010年東京大学大学院法学政治学研究科修了(法学博士)。11年東京大学政策ビジョン研究センター特任研究員。13年より現職。著書に『シビリアンの戦争』ほか。
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日本学術振興会特別研究員・青山学院大学兼任講師 三浦瑠麗 構成=村上 敬 撮影=宇佐美雅浩

643名無しさん:2015/09/21(月) 11:18:28
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150921-00045447-gendaibiz-pol
絵空事ではない琉球独立宣言!「本土」の皆様、サヨウナラ
現代ビジネス 9月21日(月)6時2分配信

なぜ琉球人が独立まで求めるようになったのか
 なぜ琉球人が独立まで求めるようになったのでしょうか。

 ネットの世界で飛び交っている、琉球独立運動への偏見に満ちた空虚な言葉によっては、琉球で今起きていることは理解できません。

 あなたの好きな琉球だからこそ、静かに島の人の声に耳を傾けてみませんか。日本人の平和な生活を守るためにも琉球独立が必要であることが分かるはずです。

 今年8月に台湾に行ってきました。桃園国際空港の運行スケジュールの電光掲示板を見ると、「琉球(沖縄)」と表示されていて、大変嬉しくなりました。

 かつて琉球国という独立した国がありました。最近も琉球人というアイデンティティを持つ人が増えています。1972年、琉球が沖縄県になるときに、中華民国(台湾)政府は日本政府に強く反対しました。

 「沖縄は日本固有の領土」と日本政府は考えているようです。しかし琉球の現在の「県」という政治的地位は必ずしも確定したものではありません。

 琉球が日本の一部になったのは1879年でしかなく、しかもその時日本政府が軍事力で無理やり日本の一部にしたのです。

 琉球はアメリカ、フランス、オランダと修好条約を結ぶ独立国家でした。3つの修好条約原本は日本政府に奪われ、今も国の外交史料館にあります。琉球ではその返還運動が盛り上がっています。

けっして他人事ではない
 読者の皆さんはこの本(『琉球独立宣言』)の表紙に少し驚いて手に取るかもしれません。

 日の丸を背景にして「日本から独立する」と訴えています。シーサー(琉球)が赤瓦にしっかりと足をすえており、琉球独立論が事実や理論をしっかり踏まえたものであることが暗示されています。

 琉球の独立宣言はアメリカの独立宣言を参考にして考えました。日本の「同盟国」であるアメリカはイギリスから独立したのです。

 琉球は日本から本当に独立できるのだろうか。何のために独立するのだろう。私たちにとって独立とは世界のどこかのことであり、自分とは関係がないと思っている人が多いのではないでしょうか。

 日本ではこれまで大衆的な独立運動が発生したことがありません。戦後の日本の「独立」もアメリカによって準備されたものでした。そのような日本の中で琉球では本気で独立を目指す運動が活気づいています。

 どこから独立するのでしょうか? 
 あなたが住んでいる日本からです。ですから琉球の独立は他人事ではないのです。琉球人は日本からの独立を宣言します。

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松島 泰勝
1963年沖縄県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、早稲田大学大学院博士課程単位取得。博士(経済学)。専門は島嶼経済。在ハガッニャ(グアム)日本国総領事館、在パラオ日本国大使館の専門調査員、東海大学海洋学部助教授等を経て、現在、龍谷大学経済学部教授。2007年「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」を立ち上げ代表に。’13年「琉球民族独立総合研究学会」の設立メンバーとして共同代表に就任。現在も国内外で多くの講演や交流、活動を精力的に行っている。
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松島泰勝

644名無しさん:2015/09/23(水) 19:48:52
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150923-00010001-tokyofm-life
【誰かに教えたくなる話】「岩倉具視」の子孫はあの有名人!? 偉人達の意外な子孫とは
TOKYO FM+ 9月23日(水)11時40分配信

明治維新で活躍した、幕末の志士たち。あれから150年……彼らの子孫は孫、ひ孫と世代を重ねています。そのなかには、ご先祖様に負けず劣らずの有名人も。そんな「驚きのトリビア」をご紹介しましょう。

まず、お札にもなった政治家、岩倉具視。教科書にも必ず出てくる偉人です。
岩倉使節団として各国を訪問、日本を近代化に導いた重要人物ですが、実は子孫にたくさんの有名人が。
そのうちの一人が、若大将のニックネームでおなじみの加山雄三さん!
なんと、玄孫にあたるそうです。

次に、小栗上野介。
アメリカ相手にひるまない外交を行い、「日本人最高の人物は、小栗上野介である」と言わしめた人物。
幕末の歴史好きから圧倒的な人気を誇る小栗の子孫は……格闘家の、武蔵さん!
相手に対してひるまない……似ている部分が、あるかもしれません。

最後にご紹介するのは、説明のいらない幕末ナンバーワンの人気者、坂本龍馬。
龍馬の末裔であるのは、自然画家の坂本直行さん。
……ご存知ない方もいらっしゃるでしょうか。
では、あの北海道のお菓子屋さん「六花亭」の紙袋の絵を描いた方、と言ったらどうでしょう。
あの有名なイラストを描いたのが、坂本直行さんなのです。
意外なところで、龍馬と六花亭が繋がっていたのですね。

聞いてびっくり、偉人の子孫の活躍ぶり。
調べてみると、面白いかもしれませんよ。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」5月7日放送より)

文/岡本清香

645とはずがたり:2015/09/24(木) 05:13:13

「尖閣は琉球の一部」記載の最古の地図 1804年独製
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E3%80%8C%E5%B0%96%E9%96%A3%E3%81%AF%E7%90%89%E7%90%83%E3%81%AE%E4%B8%80%E9%83%A8%E3%80%8D%E8%A8%98%E8%BC%89%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9B%B3-%EF%BC%91%EF%BC%98%EF%BC%90%EF%BC%94%E5%B9%B4%E7%8B%AC%E8%A3%BD/ar-AAep2Tc?li=BBfTvMA
朝日新聞デジタル 6日前

 自民党の国際情報検討委員会などの17日の会合で、尖閣諸島が琉球(沖縄)に含まれることを示す1804年のドイツ製の地図が発表された。従来最古とされていた地図より60年以上古く、同党は、尖閣諸島領有の正当性をアピールする資料として外務省などに活用を働きかける方針だ。

 地図は、1780年代に尖閣諸島周辺などを探索したフランスの航海家の情報に基づき、ドイツの地図発行人が1804年に作製。尖閣諸島が琉球と同じ色で塗られ、台湾との間に線が引かれている。長崎純心大の石井望准教授がインターネット上の古書店で見つけ、会合で発表した。

 石井氏によると、これまでは尖閣諸島が琉球に含まれていると示す地図は1868年のドイツ製のものが最古とされていたという。

 同委の原田義昭委員長は「はるか昔から先進国が尖閣は琉球の一部だと認識していたと示すもの。外務省や内閣官房のホームページへの掲載など、情報発信を検討させたい」と述べた。(松井望美)

646とはずがたり:2015/09/26(土) 22:28:19
2012年の記事
>史料からは尖閣諸島は中国・清王朝の領土だったが、1895年に日本に併合されたことになっている(日清戦争)。
ハーバード大学歴史学部教授がこういってまっせ。。

アラブの怒りより日中の怒りが怖い理由
All the Asian Rage
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2012/10/post-2734_1.php
日中が尖閣諸島をめぐって躍起になるのは内政の危機においてナショナリズムが切り札になるからだ
2012年10月23日(火)14時16分
ニーアル・ファーガソン(本誌コラムニスト、ハーバード大学歴史学部教授)

 昨今は世界中で怒りがブームになっているようだ。アメリカで制作された映画が預言者ムハンマドを冒涜しているとみたイスラム教徒の怒りが中東各国で炎上。リビアではアメリカ大使を殺害する事件にまで発展した。

 この事件そのものより気掛かりなのは米オバマ政権の情けない対応だが、それ以上に懸念すべきなのはこれとはまったく違うタイプの怒りかもしれない。度を越したナショナリズムに突き動かされた中国人の怒りだ。

 先日は北京駐在のアメリカ大使ゲーリー・ロックが怒れる中国人に取り囲まれた。幸い大事には至らなかったが、私が彼なら50人の中国人ナショナリストに囲まれて「アメリカの帝国主義を倒せ! 勝つのは中国だ!」とシュプレヒコールを上げられれば、良い気分はしなかっただろう。

 彼らが「勝つ」と叫んでいたのは、日本では尖閣諸島、中国では釣魚島と呼ばれる、小さな無人島群の領有権をめぐる争いだ。それは、5つの島と3つの岩礁から成る総面積6.3平方キロ足らずの島しょ群。米アラスカ州に属する2つの小島をめぐってカナダ人がアメリカ大使館前で抗議するようなものだ。

 当事国以外の人間は、まさかそんなことでと思うかもしれない。だが大規模な戦争が小さな土地をめぐって勃発したケースは過去にもある。例えば、第一次大戦の発端はボスニアとヘルツェゴビナをめぐる領有権争いだった。第二次大戦は、実質的なポーランド管理下の自由市グダニスク(ドイツ名はダンツィヒ)をナチス・ドイツが奪還しようとして勃発した。

 史料からは尖閣諸島は中国・清王朝の領土だったが、1895年に日本に併合されたことになっている(日清戦争)。第二次大戦後の45年以降はアメリカの管理下に置かれ、71年に日本に返還されたが、中国も台湾もこの取り決めを認めていない。

貿易戦争勃発を回避せよ

 日本政府は先日、尖閣諸島の国有化を発表し、中国人ナショナリストの感情をさらに逆なでした。ロック大使が襲われた北京をはじめ広州や瀋陽など反日デモは中国全土に拡大した。

 1930〜40年代の血塗られた日中間の歴史を考えればこの事態は深刻に捉えるべきだ。世界第2位と3位の経済大国を、貿易戦争勃発という危機に直面させるのは誰にとっても得策ではない。北アフリカ諸国の取るに足らないアラブ経済とは異なり、日中の経済を合わせると世界経済の5分の1を占める。しかも両国の相互依存度は日増しに高まり、今の中国は日本にとって最大の輸出市場だ。

 それなのになぜ日中両国は岩だらけの不毛な島をめぐって躍起になっているのか。答えは簡単だ。内政の危機にある日本と中国の指導者はナショナリズムという伝家の宝刀を抜きたがっているのだ。

 一方、胡錦濤(フー・チンタオ)の後継者と目される習近平(シー・チンピン)は先週レオン・パネッタ米国防長官に「日本は中国の統治権と領土の保全を損ねるような言動を控えるべき」で、アメリカはこの論争に介入すべきではないと伝えた。強気な発言は経済成長が停滞し、首脳交代の時期も迎えた今の中国では受けがいい。

 同じく先週、米国務省のカート・キャンベル次官補(東アジア・太平洋担当)は上院の外交小委員会でこう発言した。「アメリカは日本の実効支配をはっきりと認めている。これは日米安保条約第5条の明確な適用範囲内だ」

 バラク・オバマ大統領は昨年11月、この条約は「地域の安全保障の要」であり、国家安全保障の重点を中東からアジア太平洋地域にシフトすると明言した。この方向転換は本心なのか口先だけなのか、その真意は分からない。後者だとしたら、次に激高するのは日本だろう。

[2012年10月 3日号掲載]

647名無しさん:2015/09/28(月) 22:30:55
>>623

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150928-00010001-chuokou-pol
「I」と「We」と「Japan」――戦後70年談話の複雑な構造
中央公論 9月28日(月)8時0分配信

 戦後七〇年談話が発表された。「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」など、村山談話をはじめとする歴代談話のキーワードがすべて盛り込まれていることから、個別的な批判はあるものの、おおむね評価する声が多いようだ。

 しかしながら、重要なのは、いかなるメッセージを、誰が誰に対して発しているかである。実を言うと、この談話はかなり複雑な構造をしている。

 その複雑さは、談話を英文で読むとよりはっきりする。

 談話は長短五つのパートから成るが、最初と最後のパートは主語が「We(私たち)」で統一されている。これに対し、近代日本をめぐる歴史観を語る第二のパートは、主語が「Japan(日本)」になる。そして一番ややこしいのは第三のパートであり、「I(私)」と「We」、そして「Japan」が完全に混在する。第四のパートも基本は「We」だが、「Japan」が加わる。

 昔、英作文の授業で習ったように、同じ主語の繰り返しを避け、ある程度言葉を入れ替えるのは、特別なことではないのかもしれない。とはいえ、談話全体が「We」パートと「Japan」パート、そして混在パートに明確に分かれるのは、何ごとかを暗示しているのかもしれない。

「We」パートは、国内外に向けて、日本政府としての決意を語る部分であろう。本来、内閣による談話とは、そのような部分が中核になるはずであり、その意味では談話の始めと終わりが「We」パートになるのはきわめて自然である。

 これに対し、「Japan」パートはやや特異である。特定の歴史観を一政治家、もしくは一政党として示すならともかく、歴代の内閣をかなりの程度拘束するこの種の談話に、踏み込んだ歴史観を盛り込むことは、それ自体として論議されてしかるべきである。

 というのも、西洋列強による植民地圧力に対して近代日本が立ち上がり、日露戦争で勝利したまではよかったものの、その後世界恐慌のダメージで孤立し、国際秩序への「挑戦者」になってしまったという歴史観は、けっして自明でも中立的でもないからである。とくに日露戦争の勝利は「アジアやアフリカの人々を勇気づけました」という件には、海外からの異論もありうるだろう。このパートはやや、国内向けの印象が強い。

 問題の第三パートであるが、主語が混在していることには理由がある。元々の日本文の主語がきわめてあいまいなのである。そのため、主語を明示しなければならない英文だと、「I」と「We」、そして「Japan」が混じってしまうのである。英訳者の苦心がうかがえる。

 それではなぜ、日本文の主語があいまいかといえば、これにも理由がある。談話のキーワードである「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」がすべてここに集中しているのである。「植民地支配」や「侵略」はその主語が明示されず、「反省」や「お詫び」の主語で「私たち」は避けられている。結果として、この部分に関して、安倍首相の価値判断がわかりにくい。

 パートによって語りかける相手が微妙に変化し、あるパートではあえてすべてが宙づりになっていることは、談話が文章として出来が悪いことをけっして意味しない。むしろ、日本政府が世界や日本国民に対して、いかなるメッセージを発するべきか、実に微妙である現状をよく示しているのかもしれない。だとすれば、この複雑さを自らの行動を通じていかに明確化していくかが、日本政府の次なる課題となるはずである。
(了)

宇野重規=政治学者
最終更新:9月28日(月)8時0分

648とはずがたり:2015/09/29(火) 09:10:34
韓国 小中学校で「慰安婦」に関する教材を導入-新華社
2015年09月28日 13時41分
http://www.xinhuaxia.jp/social/81278
ECC0DA3A91A82A87DE909BC94080AA4D

【新華社】 韓国はこのほど、小中学校に「慰安婦」に関する補助教材を導入している。韓国女性家庭部の金姫廷(キム・ヒジョン)長官は「韓国青少年が歴史を正しく把握し、正しい歴史観を持つことが狙いである」と語った。

韓国女性家庭部と教育部がこの教材を共同で作った。金姫廷長官によると、以前の歴史教科書では「慰安婦」に関する内容はあるが、少ない。2015年が韓国光復70周年に当たり、日本の社会で「慰安婦」歴史を歪曲した声が多数出ていることから、韓国はこうした専門教材を作る必要性を認識している。

金姫廷長官は、この教材を通じ、韓国の青少年に平和と人権の貴重さを認識し、歴史的悲劇を繰り返すことを回避してほしいという。

韓国の公式データでは、日本が朝鮮半島を植民地支配した1910年-1945年の期間中、朝鮮半島の女性8万-16万人は日本軍の「慰安婦」として連行された。金姫廷長官によると、韓国政府は2016年3月にユネスコに、「慰安婦」に関する資料を「世界記憶遺産」に組み入れるよう申請した。韓国は国際社会から「慰安婦」問題に関する関心を喚起し、戦争の性的暴行の土壌を根源から根絶やしにすることが狙いである。女性家庭部はそれに向け、専門委員会を設立し、関係部署や学界、民間機関と共に資料の収集や記録を後押しする。これらの資料は録音や治療記録、関連する訴訟の内容、ほかの「慰安婦」被害国及び民間団体活動などを含む。

(翻訳 李継東)

649名無しさん:2015/09/29(火) 19:51:26
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150929-00000087-jij-pol
政府会計の戦後処理終結へ=旧外地の剰余金など7億8000万円
時事通信 9月29日(火)15時18分配信

 政府は29日、1945年の終戦とともに廃止された朝鮮総督府など旧外地の特別会計を正式に終了させる決算処理を行う政令を閣議決定した。
 44年度と45年度の2年分に生じた剰余金に、特会の積立金を加えた合計で約7億8000万円を2015年度の一般会計に繰り入れる見込み。財務省は「国の会計上の戦後処理はこれで全て終結する」(主計局担当者)と説明している。
 旧外地特別会計は「朝鮮」「台湾」「樺太」「関東州」「南洋」の5地域の現地政府運営などのために設けられ、計10会計に上る。終戦に伴いこれら特別会計は廃止されたが、終戦後の混乱で決算関連書類が散逸し、決算処理が行われない状態が続いていた。

650名無しさん:2015/10/03(土) 13:56:24
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151001-00010000-nipponcom-pol
鼎談:「安倍談話の読み方」
nippon.com 10月1日(木)14時33分配信

8月14日に安倍晋三首相が出した「戦後70年談話」。その意義づけや海外の受け止め方、今後の東アジア国際関係に与える影響などについて、談話の土台となる「21世紀構想懇談会」報告書作成に深く関わった3人が意見を交わした。

「リアリスト安倍」がとったバランス感覚
――8月14日に安倍晋三首相が出した「70年談話」。内容についての率直な感想を伺いたい。

白石 それなりにいいものができたなと思う。3つの意味がある。1つは、安倍首相という人はリアリストであると同時にナショナリストで、2013年の12月に靖国神社に参拝したが、私自身は、あれで「ナショナリスト安倍」は打ち止めで、その後は「リアリスト安倍」でいくと見ていた。それが確認できた。とてもバランス感覚の良いステートメントだった。

この談話を安倍さんが出し、しかも内閣として承認されたものとして出たことで、これから80年、90年と仮に談話が出るとしても、あそこからもう右には行けない。その意味で歯止めができ、国内世論としてぶれる余地がなくなった。これが2つ目のポイントだ。

3番目に、2013年12月に安全保障戦略が出ているが、あれと今回の談話はペアで考えるとよい。談話は世界の中の日本、アジアの中の日本を歴史的に振り返り、1930年代、40年代に国策を誤ったという趣旨の内容となった。戦後の日本はこれと断絶するかたちで存在し、これから先もそれが日本の基本的な方向だと明らかにした。これによって、まさに安全保障戦略と整合的なステートメントになっている。中曽根政権時代から30年、ずいぶん時間がかかったが、落ち着くべきところに日本の大戦略の議論が落ち着いたと思う。

戦後70年と、未来を語る談話
川島 今回の談話は(戦争に至る)歴史についての話だと思われがちだが、やはり戦後70年と未来の話を語っている点が特徴だ。これまで(戦後)日本が進めてきたことをしっかりと受け止め、未来について説明し、自らの歩みに歴史的な裏打ちを与え、将来を展望した点に意味があった。

特に平和国家であることや、(各国と)和解を進めたという経緯を述べたが、これは現在の安保法制を意識してのことだろう。また、通商レジームに戦後ずっと貢献してきたとしていることは、TPPを意識しているのだろう。日本が進める安全保障政策であれ通商政策であれ、「こういう歴史的な背景があるのですよ」ということ説明している面があると一読して感じた。

一方で、やはり驚きもあった。首相はこの1年間、さまざまな演説をしている。その中の歴史に関連する部分と私ども(21世紀構想懇談会)の報告書、それに村山・小泉談話をミックスして談話をつくるのだろうと思っていたが、今回の安倍談話にしかないフレーズというのがいくつかある。日露戦争の評価の内容が出てきたり、「謝罪を子々孫々で受け継がない」という部分など。それらが特徴としてあると思う。

海外の受け止め方については、私は中国が専門だが、「あれなら中国も拳を振り上げて厳重抗議するということにはならないだろう」というのが一読した印象だった。温家宝・元中国首相がかつて村山・小泉談話の中で評価した部分を、私は懇談会の提言書で引用した。それを受け継いでこれからもやっていくということなのだろう。そうした意味では従来の政権と基本的に同じスタンスだった。

651名無しさん:2015/10/03(土) 13:57:34
>>650

最保守の安倍首相が村山談話引き継ぐことに意味
細谷 歴史家E.H.カーの「歴史とは、現在と過去との間の尽きることのない対話である」という有名なフレーズがあるが、まさに安倍談話は、過去と現代が一体になっている。今回の場合は先の大戦、あるいは戦前の日本の行動の反省の上に立って、戦後は平和国家としての道のりを歩み、それを堅持するということで、過去があって現代がある。また現在の国際情勢であるとか、日本の置かれた立場というものがあり、そういった拘束の中から「過去にどう向き合うか」という歴史の言葉を選んでいる。

日本はとりわけ過去20年間、リベラルと保守の間で非常に厳しい歴史認識をめぐる対立があった。今回の談話はその亀裂、対立を乗り越え、その両側の立場というものに配慮していると思う。最もリベラルな首相であった村山首相の談話を、最も保守である安倍首相が引き継ぐという意味では、ある意味ではかなり幅広い、ナショナルなコンセンサスになり得る談話だと思う。首相の1年前、あるいは2年前の歴史認識に関する発言と比べると、これまで持っておられた歴史認識を「広げて深めた」と思う。報告書を相当丁寧に読まれたことが、談話の内容につながったのではないか。

安倍談話の枠組みつくった懇談会報告書
――21世紀構想懇談会の報告書の(提言)作成過程では、「侵略」の定義について一部に異論があったとも聞いている。懇談会メンバーの中で激しい対立などはなかったのか。また、報告書の骨子はどのように決まっていったのか。

白石 それぞれのテーマで実際に報告があると、委員の議論そのものは1人2-3分ぐらいしかできない。回数も時間も限られている。

川島 要は(懇談会の場で)誰が何を発表するかという発表者が重要。彼らの発表内容が、(委員からのコメントを踏まえた修正を経て)提言の骨子になった。委員ももちろん大事だが、毎回の会議で委員に求められた役割は、報告に対してコメントをすることだった。そのコメントには非常に大きな幅があった。もう一つ特徴的なのは、会議が終わってすぐに密度の濃い議事録を公開した点。メディアはそれを読んで記事にしたが、その記事に対する反応で、世論の動向を見たという部分はあったと思う。

議論するテーマは初めから決まっていて、「歴史」1回、「戦後」3回、「未来」1回。それぞれの発表者は決まっていた。委員と発表者それぞれのメンバー(一部重複)とアジェンダセッティングが決まった段階で、ほぼ(報告書の)枠組みは出来上がっていたかなという感じだ。

652名無しさん:2015/10/03(土) 13:59:31
>>651

「侵略」、「国策の誤り」めぐり、歴史家メンバーは認識共有
――その懇談会の構造が色濃く反映されて、談話が出てきたと考えていいのだろうか。

白石 提言は懇談会で作ったが、談話は官邸が決める。そこは切れている。これはわれわれも理解の上で懇談会に入っている。同時に、懇談会の議論からあまり逸脱した談話は出せないだろうとも思っていた。その意味では、微妙な緊張関係にあった。

――細谷先生は第4回会合で報告されたが、懇談会の雰囲気とか、委員とのやりとりはどうだったのか。

細谷 特段事前に強い要望もなく、かなりの程度、自由にお話しさせていただいた。懇談会ではプロフェッショナルな歴史家の方々の中では、とりわけ20世紀前半の歴史をどう見るかということについて、例えば「侵略」や「国策を誤った」ということについて、その認識を共有していたと思う。

一方で、懇談会の提言を前提として、安倍首相がどういう言葉を選ぶかというのは、最初の段階では分からない。緊張感があったと思うし、また、かなりの程度不確定な部分があったのだろう。

談話の内容で、私にとって想定外だったのは、「過去」の記述がここまでたくさん入ったことだ。提言では戦後の和解をかなり強調していたので、戦後の部分が大きな字数を占めると思っていた。村山談話というものを引き継ぐ立場も明確だった。言葉の使い方も、「戦争の苦痛をなめ尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さん」というように、具体的な言葉を使って踏み込んでいる。首相は21世紀構想懇談会に出席する中で、相当いろいろと悩んで、またご自身で勉強されて、考え方も少しずつ広がり、変わっていった部分があるのかなと思う。

目の前の政治、国際関係も談話のトーンに影響
白石 メディアは談話の字句にものすごく関心を持ち、中国、韓国の反応に注目したが、少しピント外れだったのではないかと思う。安倍首相は、そもそもそのようには考えていなかったのではないか。むしろ日本国民に対してどのような談話を出すか、日本の同盟国である米国、さらにはパートナー国の人たちにどういうメッセージを出すか、もっと広く考えていたのではないかと思う。

その意味で、僕は、一昨年のオーストラリア議会での演説、それから今年4月のバンドン(インドネシア)でのアジア・アフリカ会議60周年を記念する首脳会議の時の短い演説、5月のアメリカ議会での演説、こういうものはすべて一連のもので、その締めくくりとなるのが今回の談話だと考えたほうがいいと思う。

川島 全くそのとおりだ。ただ、意外な展開もあった。安保法制の国会審議が延び、談話発表が国会会期中になってしまった。加えて安保法制ももめて、7月は支持率も下がった。談話は本来会期外に公表されるはずだったのに、国会運営や世論の動向と深く関わるものになったということだ。そのため公明党はもとより、さまざまな配慮をする必要が生じた。より詳細な談話の作成過程、特に7月の最終週と8月の半ばまでに、どういうせめぎ合いがあって、ああいう長い談話になったのかというのは、やがて検証されるだろう。

細谷 国会審議が延びたというのはかなり大きい。安倍談話が閣議決定になるという時点で、公明党が了承できないものということはあり得なかったと思う。もう一つは、昨年のAPECサミットから日中関係が比較的好転していること。日本も中国も、日中関係を改善しようという動きを示しており、歴史認識をめぐってそのような動きを傷つけるような言葉や姿勢というのは示さないという配慮が、双方の側にあったと思う。9月3日の習近平主席スピーチも、日本に対してそれほど厳しい言葉は含まれていない。結局、歴史認識や談話というのは、現在動いている政治の中で作られるのだとも感じる。関係改善の中で、双方が慎重に言葉を選んだのだろう。

653名無しさん:2015/10/03(土) 14:01:28
>>652

かみ合った日本、中国双方の対応
白石 懇談会の議論でのキーワードは「謝罪」ではなく「和解」だった。そこは大きな合意があった。

細谷 そういった意味では1998年の日中共同宣言に戻ってきたと思う。この時の宣言は日中関係を前に進めようという、かなり強い意志があった。今もまた、日中両国とも関係を前に進めようという意志が色濃くみられている。

双方の努力によって歴史和解を進める。そして、その和解を基礎として、現代の2国間関係を好転させる。おそらくこのサイクルを日米、日豪、日英などでやってきたということを談話で強く示唆することによって、当然ながらこれを日中にも、もちろん日韓にも応用可能だということが、「和解」という言葉を強調した大きな意味だと思う。それが私は、今後の日中関係や日韓関係にも効果を持つのではないかと思う。

川島 98年の日中共同宣言というのは、実は「日本側が今後村山談話を順守」すると言っている。また98年の江沢民の訪日は、覚えていると思うが、あれは日本国内からの不満が強く(※2)、共同宣言の文章は素晴らしいが、日中が融和する気にならなかった。その後、2007年4月12日に温家宝が日本の国会で演説をして、そこでこれまでの日本の歴史問題への取り組み、村山談話と小泉談話を評価した。だが、その当時、日本の自民党政権は1年ごとに首相が交代する状況で、中国からのメッセージにきちんと対応することができなかった。

そういう意味では98年、2007年ともに日中の対応はちぐはぐというか、ちょっとかみ合っていなかった。今回は細谷さんがおっしゃるように、日本が安倍談話を出して、9月3日に習近平が割に日本を批判せずに、平和国家中国を強調した。そうした意味では今回、日中はお互いようやくかみ合ったという感じだ。

今後の対中国・韓国関係と歴史問題
――ただこれから先、逆に東アジアは緊張関係がかなり高まっていく流れもある。南シナ海も全然決着がついていない。その中で今回の談話の意義をどう考えればいいのか。今後、日本がアジアの中で生きていく中で、この歴史問題と安倍談話が、どのような意味合いを持ってくるのだろうか。

白石 歴史問題というのは、基本的に現代の問題だと考えた方がよい。例えば、かつて中曽根政権の時には、靖国参拝は憲法の問題だった。しかし、今では完全に外交の問題になっている。重要なことは、日本政府の要人、特に首相、大臣の職にあるような人たちが不用意なことを言ってはいけない、ということだ。「首相談話を出したが、結局、本音は違うじゃないか」といった議論にまたなることのないよう、できる限り注意したほうがいい。

中国の指導者は非常に戦略的に外交関係を考えているので、日本の政治家が不用意なことを言ったり、したりすれば、モラル・ハイ・グラウンド(道徳的な高み)を占めようとはするだろう。しかし、国内問題もあり、このカードをあらゆる機会に使うといったことはなかなか考えにくい。

韓国にとっては、このカードは非常に使いやすい。国民的に「日本はけしからん」という空気があるので、政府もあらゆる機会に使おうとするだろう。韓国はいま、非常に大きな戦略的選択のプロセスにある。安全保障においてはアメリカ、中国とうまくやっていればそれで十分、経済的には中国への輸出が鍵となっている。したがって、これからの韓国の安全保障を考えても経済発展を考えても、アメリカのリバランシングに引っ張り込まれて、アジア太平洋の安全保障のネットワーク化のようなことに関与して、中国から警戒されるのは避けたい。歴史認識の問題がある「日本が悪い」と言って、事実上G2との関係をうまく管理することで、安全保障と経済発展の両方を達成しようという戦略的な選択をしようとしているように見える。日本としても、クールに対応するしかない。

654名無しさん:2015/10/03(土) 14:05:09
>>653

日中韓米:国際政治は大きな分岐点に
川島 大きな国際政治の分岐点に、今、来つつあるということはたぶんみんな分かっていて、特に中国とアメリカの関係が今後どうなるかということが一番大きな焦点になる。中国は一帯一路という構想を出して、周辺の国と、あるいはユーラシア全体を自分のやりやすい空間にしていこうとしている。おそらく中国は、東シナ海、南シナ海、太平洋というのは厄介な空間で、日米と直接ぶつかることは、かなりコストがかかることを今、学びつつある。だからこそ、「西進」をイメージ化したのだろう。だが、これは「東」を無視することを意味しない。

そういう中でアメリカも安全保障体制を組み直しながら、日本に対してもさまざまな要求をしてくる。韓国はまさに米中の中間にいて、ある種の選択を迫られている。相当うまくバランスを取っていかないと無理だという問題に、韓国は直面していると思う。

中国の場合は、歴史認識問題というのは共産党の正統性の根幹に関わるが、白石先生がおっしゃるように、あまり歴史カードを使うことも危険。反日デモは、やっても必ずしも取り締まりを受けないので、そこでまたいろいろな問題も噴出してくる。だから国際宣伝とかさまざまな面で日本に対して厳しいことをやり続けると思うが、国内ではやり過ぎないようにする。この両面のかじ取りを中国はやってきていて、9月3日もまさにそれが現れたかなという印象だ。

でも今回、韓国の朴槿惠大統領は8月15日に、安倍談話を踏まえた演説を行っている。談話が出た後の14日の夜から一生懸命に頑張って、加筆修正したようだ。そういう意味ではかなり努力をした。このようにして日中韓3国がともに歴史をマネージしてみせたのが8月から9月ではなかったか。まだこれからさまざまなことがあるかもしれないが、対立のエスカレーションを一定程度防ぐことを世界に見せることができたという意味では、一つの例としてよかった。

655名無しさん:2015/10/03(土) 14:05:27
>>654

歴史を政治の道具として悪用しないために
川島 談話の中の「謝罪を子々孫々まで受け継ぐかどうか」という議論だが、これも国内で議論が進むといいと思う。ドイツなどでは、戦争犯罪を分類している。ヤスパースの議論にもあるが、そもそも戦後生まれは戦争の時に生きていないわけだから、戦時下の事象に対して刑事的な罪があるはずはないという。でも戦後に生きているわれわれは、ある種の和解に対しては責任があるとか、罪を弁別して考えている。

日本では、そういう議論はあまりない。東アジアの国々も「日本民族全体、そして戦前も現在も同じ民族」として責任を追及する面がある。しかし世代が進むにつれ、べつにドイツに全て学ぶ必要はないが、日本や東アジアでも「何がそもそも悪いのか」、「何に対して責任があるのか」ということについての議論がもう少し哲学的に進むと、日本でも中国でも受け入れられるものができるのではないか。

そういう意味で今回の談話は、若干ドイツを参考したかなという思う箇所があり、興味深い。「日本の和解に協力してくれた個人や国家に感謝する」というのは、メルケル・ドイツ首相の言葉に近い。そういうところが入ったのは面白いかなと思う。

細谷 ドイツを参考にしたというのは、おっしゃるとおりだと思う。3月にメルケル首相が来て、あのような演説をしたことが(※3)大きかったと思う。メルケル首相が非常に強調したのは、フランスなどの周辺国が和解の精神で手を差し伸べてくれたということ。あれは明確に、ギリシャをはじめとして歴史を修正しようとする国に対するけん制だと思う。

つまりはヨーロッパの中でも誠実にドイツと和解を求める国と、今のギリシャのように現在の問題を解決するために歴史を利用、あるいは悪用し、歴史をゆがめてドイツに対して優位に立とうとする国に分かれている。その中で、相当強い言葉でメルケル首相はギリシャをけん制したと思う。

ドイツや日本が真摯に歴史に向き合うということは必要だが、「現代の政治問題を解決するために歴史を道具として悪用するということは避けるべきだ」ということの理解というものも、これからの国際社会に必要ではないか。

nippon.com別館

(※1)「戦後70年談話」の作成に向け、安倍首相が設置した私的諮問機関。正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」。
2015年2月から6月に6回の会合を行い、8月6日に報告書を提出した。

(※2)中国の江沢民主席は訪日中、日本の歴史教育を批判する発言を行い、天皇と小渕恵三首相に過去の歴史に基づいた謝罪を要求した。

(※3)メルケル首相は訪日中の講演で、隣国フランスの寛容さが独仏の和解を進め、欧州統合という平和の土台を築くことができたと強調。東アジアの歴史認識をめぐる問題に直接は触れなかったが、和解に向けて双方が“謝罪と寛容”を示す努力が必要であると示唆した。

白石 隆(SHIRAISHI Takashi)nippon.com編集主幹。政策研究大学院大学学長、ジェトロ・アジア経済研究所所長。専門は国際関係論、東南アジア政治。1950年愛媛県生まれ。東京大学大学院国際関係論修士課程、米コーネル大大学院博士課程修了。21世紀構想懇談会(※1)で委員を務めた。

川島 真(KAWASHIMA Shin)nippon.com編集長。東京大学総合文化研究科教授。専門はアジア政治外交史、中国外交史。1968年東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学後、博士(文学)。北海道大学法学部助教授などを経て現職。21世紀構想懇談会委員。

細谷 雄一(HOSOYA Yuichi)nippon.com編集委員。慶應義塾大学法学部教授。専門は国際政治史、イギリス外交史。1971年千葉県生まれ。慶大大学院政治学専攻博士課程修了。北海道大学法学部専任講師、慶大法学部助教授などを経て、2011年から現職。21世紀構想懇談会では第4回会合で、「米国、豪州、欧州との和解の70年」に関連する発表を行った。

656とはずがたり:2015/10/08(木) 17:32:51
韓国国民年金公団、靖国神社支援企業に投資=韓国ネット「移民を決意した」「朴大統領は日本で暮らせば?」http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20151007/Recordchina_20151007057.html
レコードチャイナ 2015年10月7日 21時52分 (2015年10月8日 17時22分 更新)

2015年10月5日、韓国・YTNによると、日本の戦犯企業らに毎年数千億ウォンの投資をしていることが分かり、批判を受けていた韓国の国民年金公団が、靖国神社を支援する日本の企業らにも莫大な投資をしていたことが明らかとなった。

新政治民主連合のイン・ジェグン議員が国民年金基金運用本部から受け取った資料「日本企業への投資内訳」によると、靖国神社のカレンダーを作り、日本の首相や閣僚の靖国神社参拝を定着させようと主張する「凸版印刷」に対して、韓国の国民年金公団は、最近5年間で30億ウォン(約3億円)を投資していたことが分かった。さらに富士通や三菱重工業など37の企業にも1兆5000億ウォンを投資していたが、それらの企業は会社の代表が日本の右翼団体「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーだという。

国民年金公団は「収益性やポートフォリオなどを考慮すると、戦犯企業らを別に取り除くことは難しい」と話しているという。

657とはずがたり:2015/10/08(木) 17:34:03
北京日本人学校の生徒激減 反日宣伝、大気汚染の悪化影響か
共同通信 2015年10月8日 12時49分 (2015年10月8日 12時54分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20151008/Kyodo_BR_MN2015100801001216.html

 【北京共同】中国北京市朝陽区にある日本人学校(奥田修也校長)の小学部と中学部を合わせた児童・生徒数が9月末に400人を割り込み、ピーク時の2007〜08年から約4割減少したことが8日分かった。中国メディアなどによる絶え間ない反日キャンペーンや大気汚染の悪化が背景にあるとみられる。
 同校の児童・生徒数は13年に600人、14年に500人を割り、先月末は398人となった。最多だった07〜08年の688人から約4割減少したことになる。
 同校は1974年に北京日本人学童補習校として開校、76年に北京日本人学校となり、中国経済の発展に伴って生徒数が増え続けた。

658名無しさん:2015/10/10(土) 21:40:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151009-00010004-shincho-int
元植民地が日本びいきなワケ 「あの頃はモラルがあった……」
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 10月9日(金)13時28分配信

■貨幣経済をもたらした
 前回の記事では、『日本を愛した植民地』(荒井利子・著)をもとに戦前、日本の委任統治領だったパラオの人たちが、戦後も日本に好意を持ってくれていることをお伝えした。

 なぜ彼らは今でも日本時代を懐かしむのか。同書では数多くの島民の生の声を紹介している(以下、引用は『日本を愛した植民地』より)

 たとえば1925年生まれのパラオ人、フジオさん(仮名)はこう語っている。

「日本時代が良かったっていうのは、まあ金もあったし、自由で、品物はたくさんありましたから。何でも出来たっていうのがいいところでしょうか」

 実はパラオに貨幣経済をもたらしたのも日本。島民たちは初めて手にした現金を持って、デパートやお店に買い物に行き、珍しい日本の商品を買うのが楽しみだったという。

 差別がなかったわけではない。島民は飲酒を禁じられていた。

 それでも生活の満足度は高かったようだ。

「お前は日本人だと言われ、日本人、日本人という教育を受けていました。お酒を飲めないのは差別と感じていたけど、それ以外で差別と感じるようなことはありませんでした。

 日本人の奥さんたちも、自分の子どもと同じように扱ってくれました。

 シンガポールが落ちたというと、パラオ人も日本人も一緒に提灯行列しました。今でも(自分のことを)日本人と思っているパラオ人もいます」

■アメリカ人の先入観

 ここで疑問を持つ人もいることだろう。

 日本時代が良かったとしても、戦後、解放されてアメリカの支配下に置かれてからのほうがもっと良いはずではないか、と。

 実際に、島民も、

「ドイツ時代から日本時代になって生活レベルが上がった。また新しい時代になれば、もっと良い時代になるに違いない」

 と当初は考えていたようだ。

 ところが、話はそう簡単ではなかった。

 アメリカは日本統治時代のミクロネシアを知らなかったため、島が経済的に栄えていたことなど知らなかった。戦後、アメリカ人が見たパラオの人たちは疎開先から戻ってきたばかりだったので、ボロボロの衣服をまとい、体中が汚れた姿だった。それを見たアメリカ人は、それがパラオ人の真の姿だと思い込んでしまったのだ。

 そのため、アメリカ人は勝手に「パラオ人には原始的な生活をさせておけばいい」と考えたのである。その後、誤解は解けたのだが、それでもなお島民がアメリカ時代を高く評価しない理由があるのだという。

■自由を嘆く老人たち

 それは皮肉にも彼らがもたらした「自由」の弊害だった。

 アメリカはドイツや日本とは異なり、島民に指図をせず「自由」を与えた。しかし、多くのパラオの人々にとって「自由」とは聞いたことのない言葉だったため、混乱が生じてしまう。

 日本人の父親を持つトミオさん(仮名)の話。

「戦争が終わって、アメリカが来て、だいぶ違った生活になりました。アメリカ人は日本人と違って、『おまえたち、あれやれ、これやれ』っていっさい言わないで、『おまえたち、自分でやれー、好きなようにやれー』って。

 だからそこで私たちは初めて自由って何なのかアメリカ人から学びました。その自由とは、何でもしたい放題、好き勝手にやっても良いことだと受け止められた」

 当初、「自由」を謳歌していたのだが、島民たちは「自由が間違って理解された」ことを悔いている。酋長の言うことも聞かれなくなり、秩序が壊れてしまったのだ。

 パラオ人女性の話。

「日本時代は子どもが結婚しないで生まれたら、みんなから白い眼で見られたものなのに、今は結婚しなくても平気で子どもを産む。私生児はたくさんいます。今の若い人は自由になったのだから、何をしてもいいと言って、年寄の言うことなんか聞きません」

 別のパラオ人女性の話。

「アメリカは自由すぎる。学校で乱暴しても喧嘩しても、先生は殴らない。日本の学校では先生に殴られたけど、良いことと悪いことを教えてくれた。今の子どもたちに怒ると、『今と昔は違う』と言われる。殴られたからこそ、私たちは学ぶこともできた」

 お気づきのように、彼らの語る「日本」は、現在の「日本」ではない。おそらく彼らが今の日本の実情を見たら、驚き、また悲しむのかもしれない。しかしそうした「美しい誤解」もあって、今でもパラオの人たちは日本に好意を持ってくれているのだろう。『日本を愛した植民地』は、国が国を統治するという行為について新しい視点を与えてくれる力作である。

SHINCHOSHA All Rights Reserved.

659名無しさん:2015/10/10(土) 22:15:44
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000066-san-pol
日本、ユネスコ拠出金凍結も 本来の目的にそぐわず「断固たる措置取る」
産経新聞 10月10日(土)7時55分配信

 中国が申請していた「南京大虐殺文書」が記憶遺産に登録される見通しになったことについて、日本政府筋は「断固たる措置を取る」と述べ、ユネスコの分担金拠出などの一時凍結を検討する構えを見せている。

 平成26(2014)年度のユネスコ予算の日本の分担率は米国の22%に次ぐ10・83%で、金額は約37億1800万円。米国が支払いを停止しているため、事実上のトップだ。さらに分担金以外でも、さまざまな事業に対する任意拠出金があり、同年度のユネスコ関係予算は計約54億3270万円に上る。

 外務省首脳は「日本の分担金はトップクラス。(ユネスコ側が)日本からの申し入れに真剣に耳を傾けることに期待したい」として、中国の申請案件の登録が認められた場合は拠出金の凍結もあり得るとのシグナルを送り、慎重な審査を求めていた。

 一方、中国の分担率は6位の5・14%で日本のほぼ半分。任意拠出金も日本より少ない。しかし、中国の動きに詳しい関係者によると、中国は、記憶遺産の周知を図る名目で関係者を中国に招待するなどしているという。記憶遺産事業だけでなく、アフリカでの女子教育などにも中国は積極的に支援を行っており、「さまざまな形でボコバ事務局長の思いに応えている」との指摘もある。

 中国の登録申請を受け、“防戦”に回った日本も傍観していたわけではない。「審査を行う国際諮問委員会メンバーに対し、ユネスコ加盟国は働きかけられない」(日本外務省筋)ことから政府はその動きをつまびらかにしていない。しかし、「政府は関係する分野の専門家などと協力し、委員側に日本の主張を伝えてきた」(与党議員)という。民間団体もパリのユネスコ事務局を訪問し、英文の反論文を提出している。

 記憶遺産は、人類にとって歴史的価値のある貴重な文書の保護などを目的とする。中国が日本を貶(おとし)めるために利用する「南京大虐殺文書」の登録が本来の目的にそぐわないことは明らかだ。政府関係者は「今回の申請も受理も理解できない」と述べ、記憶遺産事業の見直しもユネスコに働きかけるべきだと強調した。

660名無しさん:2015/10/10(土) 22:57:20
新・大中華世界的話題
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1440116307/300

300 名前:名無しさん[] 投稿日:2015/10/10(土) 16:35:01
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000212
日中韓が「歴史戦争」=ユネスコ舞台に-聯合ニュース

 【ソウル時事】韓国の聯合ニュースは10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が推薦した南京事件に関する資料が登録されたことを報じ、日中韓の3カ国がユネスコを舞台に「歴史戦争」を繰り広げていると指摘した。
 聯合は「中国が併せて申請した『日本軍の慰安婦資料』は登録目録に含まれなかった」と報道。「日本政府の強い反発がユネスコに影響を与えたという分析もある」と伝えた。
 さらに、韓国が日本の植民地時代の「強制動員」の記録の世界記憶遺産登録を目指していることに触れ、「日本政府が強く反対するとみられる」と分析、歴史をめぐる論戦が続きそうだと指摘した。 (2015/10/10-15:27)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000065
日本の制止実らず=中国申請の「南京」認定-ユネスコ記憶遺産

 【パリ時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京事件」に関する資料の登録が決まった。日中間で事実認識に隔たりがあり、論争が続く中での認定。日本政府はユネスコに慎重な対応を求めてきたが、受け入れられなかった。

 南京事件は、日中戦争時の1937年12月に旧日本軍が南京を占領した際、多数の中国人を殺害した事件。ユネスコが公表した中国の申請書類によると、当時の日本兵が撮影した写真や米国人神父による記録映像、中国人女性の日記などが登録対象とされている。
 南京事件に関しては、犠牲者の規模などをめぐり日中で見解が分かれる。記憶遺産への登録は、中国側の歴史認識に「お墨付き」を与えることになりかねず、日本政府はかねて「ユネスコの政治利用だ」(菅義偉官房長官)と反対してきた。
 一方、中国が同時に提出した「従軍慰安婦」に関する資料は登録リストに記載されていない。中国側は申請書類で、大戦中の日本軍が中国などで、住民女性を「性奴隷」として奉仕させるため、「強制的に徴用した」と説明。当時の軍の内部資料がこうした事実を裏付けていると主張し、認定するよう求めていた。慰安婦女性が強制的に連行されたとの見方は日本では否定論が強い。
 中国の再申請などを通じ、慰安婦の資料が将来認定される可能性は消えていない。韓国も日本の植民地時代の「強制動員」の記録について、記憶遺産への登録を目指し、来年にも申請する方向。日本政府は引き続き、ユネスコを舞台とした「歴史戦」への対応を迫られそうだ。(2015/10/10-05:53)

661名無しさん:2015/10/10(土) 23:12:45
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000007-jij-int
シベリア抑留資料、記憶遺産に=「南京事件」も登録―ユネスコ
時事通信 10月10日(土)2時6分配信

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10日、重要な歴史文書などの保存を目的とする世界記憶遺産に、第2次大戦後のシベリア抑留者に関する資料「舞鶴への生還」(京都府舞鶴市申請)と、政府推薦の国宝「東寺百合文書」を登録したと発表した。
 日本からはこれまで慶長遣欧使節の関係資料など3件が登録済みで、今回で計5件となる。
 中国が推薦した南京事件に関する資料も登録された。過去には旧ソ連からの独立を求めたバルト3国の「人間の鎖」や植民地に関する記録など、国により立場が異なる案件の登録例もあるが、歴史的評価や事実認定が固まっていない事柄の登録は異例。従軍慰安婦資料については不登録だった。
 シベリア抑留資料は、舞鶴港に帰還した抑留者の手記など、舞鶴引揚記念館が所蔵する570点。抑留中の生活や心情を、シラカバの樹皮にすすで作ったインクでつづった「白樺日誌」や、息子の生還を待ち続ける母親の姿を歌ったヒット曲「岸壁の母」のモデルとなった故端野いせさんの手紙などが含まれる。
 東寺百合文書は京都市の東寺に伝わる、8〜18世紀の約1000年間にわたる約2万5000点もの古文書群で、足利義満の直筆や織田信長の書状もある。寺院運営などの仏教史に加え、当時の社会状況や和紙発展の歴史を示す貴重な資料で、1997年に国宝に指定された。
 いずれも日本ユネスコ国内委員会が2014年6月に推薦を決定。4日からアラブ首長国連邦のアブダビで開かれたユネスコ国際諮問委員会が審査していた。

662名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151010-00045700-gendaibiz-pol
自民党「憲法改正」の系譜〜吉田茂・鳩山一郎・岸信介、それぞれの憲法観 「戦後レジームの正体」第7回(前編)
現代ビジネス 10月10日(土)11時1分配信

鳩山一郎の改憲論
 1952(昭和27)年9月12日、鳩山一郎は日比谷公会堂で政界復帰の第一声の演説を行った。憲法改正と、ソ連との国交回復交渉を訴えたのである。

 ――憲法はいうまでもなく独立国が拠って立つ根本法である。ところが現在の憲法は占拠下に占領軍の手によってつくられたものであり、しかも非武装が前提になっている。平和を追求するためには自衛の軍備を持つ必要がある。

 吉田茂首相は戦力は持たないと言っているが、保安隊(後の自衛隊)がある。これはあきらかに戦力であり、この大矛盾を解消するには憲法改正が必要である――。

 これが鳩山の強い主張であった。吉田茂首相はその矛盾をごまかしているのだというわけだ。

 さらに、東西冷戦が厳しくなってきて、米ソ戦争が始まれば、このままでは日本は戦場になってしまう。ソ連はアメリカの基地がある日本を攻撃する。だから、ソ連との国交をなるべく早く正常化すべきだというのである。

 当時シベリアには4万人以上の日本人が抑留されていた。このことも重大な問題になっていた。

鳩山一郎と吉田茂の食い違う「記憶」
 ところで鳩山一郎は戦前から穏健派の政治家であった。そして戦後に自由党(結党時は日本自由党)を結成してその総裁となり、敗戦の翌年1946(昭和21)年4月10日の第1回総選挙で、自由党は141議席(進歩党94、社会党93)を獲得して第1党となった。

 そこで鳩山が首相になることになったのだが、その直前にGHQが鳩山は公職追放令に該当すると政府に通達した。

 鳩山が戦前に自著でヒトラーを礼賛したことや、文相時代に京都帝国大学の滝川幸辰(ゆきとき)教授の辞任要求をしたことなどが原因だとされたが、鳩山自身は、総選挙を前にして厳しい共産主義批判をしたことがソ連の横槍となり、GHQに睨まれたと捉えていたようだ。

 そして、幣原喜重郎内閣の外相だった吉田茂を口説いて首相にした。鳩山は、その事情を『鳩山一郎回顧録』(文藝春秋新社)で次のように書いている。

 「吉田君が総裁を引受けることになった時、四ヵ条かの書いたものを向うから持って来た。この書いたものはその後何うなったか、紛失してしまったが、あの時二人でこんな話をした。自分は政党のことは全く関係がなくて分らんから、政党の人事については一切君の方でやってくれなきゃ困る。政党は一切君の力で押えてくれ。但し内閣の人事については干渉してくれるな――とこう吉田君が私に話した。

 又吉田君は自分は金はないし、金作りも出来ない。金の心配は君の方でやってくれなきゃ困る。俺は辞めたくなったら何時でも辞めるんだ。君のパージが解けたら直ぐ君にやって貰う、とこういって吉田君はこれを四ヵ条に書いて私のところに持って来た」

 吉田茂も『回想十年』(新潮社)の第一巻で、「鳩山君を麻布市兵衛町の外務大臣官邸に呼んで、最後の話し合いをした。私はそのとき、三つの条件を出した」と明かしている。

 「金はないし、金作りもしないこと、閣僚の選定には君は口出しをしないこと。それから嫌になったら何時でも投げ出すことの三点であった」

 これが三つの条件であり、「パージが解けたら直ぐ君(鳩山)にやって貰う」という項目は吉田の『回想十年』には入っていないのである。

 もっとも吉田は「長くやろうという気はなかった」と書いているのだが、鳩山が1951(昭和26)年8月に追放解除になり、52年10月の総選挙で当選しても、吉田は権力の座を固守し続け、54年12月まで通算7年2ヵ月も首相の座に居続けた。

663名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:42
>>662

「自衛隊は軍隊ではない」という主張
 なお、鳩山は自衛隊の存在は違憲であり、だからこそ憲法改正が必要だと主張し続けたのだが、吉田は、朝鮮戦争が起きてGHQの要請で警察予備隊が発足し、それが保安隊になり、自衛隊となっても「再軍備反対」の姿勢を変えなかった。

 『回想十年』第二巻の中で、「一体、私は再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい」と言い切り、その理由を三つ挙げている。

 「米国はその戦勝の余威を以て、且つまた世界に比類なき富を以て、あの巨大な軍備を築き上げたもので、他の国があれに匹敵し得る軍備を持つということになれば、それこそ大へんな負担であり、仮りにその負担に堪え得るとしても、あれだけの費用をかけてさえ、果して今日の米国の如き進歩した高度の武装を実現し得るや否やは疑問とされるそうである。況んや、敗戦日本が如何に頑張ってみても、到底望み得べきことではない。これが私が再軍備に反対する理由の第一である。

 第二に国民思想の実情からいって、再軍備の背景たるべき心理的基盤が全く失われている。第三に、理由なき戦争に駆り立てられた国民にとって、敗戦の傷跡が幾つも残っておって、その処理の未だ終らざるものが多い」

 そして、警察予備隊が、保安隊、自衛隊となっても、吉田は「戦力ではない」と言い切り、憲法改正には否定的であった。

 ところで、鳩山一郎は51年8月5日に追放を解除されたのだが、その5、6日前に脳溢血で倒れた。68歳であった。

 追放解除が近いという空気になり、音羽の鳩山邸に、三木武吉、安藤正純、大野伴睦、石井光次郎などが集まって、鳩山の追放解除後の政治活動を論議していた。安藤たちは自由党復帰を提案した。三木は断固として、新党結成を主張し、鳩山も三木の説を強く支持した。激論となり、鳩山は途中でトイレに立って、そこで倒れたのである。

 鳩山の再起を賭けた闘病生活がはじまった。

 そして51年9月8日、サンフランシスコ講和条約調印が行われた。日本は独立したのである。吉田は講和条約と、その日の午後に結ばれた日米安全保障条約とに調印した。両条約が発効するのは52年4月である。

664名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:17
>>663

権力の座に居座り続けた吉田茂
 鳩山の体調が回復すると、鳩山陣営の三木や河野一郎たちが、吉田側に、約束どおり政権を鳩山に渡せと執拗に迫った。

 だが、吉田は鳩山側の要求を拒否した。吉田は『回想十年』第一巻で次のように書いている。

 「鳩山君の病?よく独立再建の国務に堪え得るや、重責に堪ゆるの明かならざる限り、私として党総裁および総理大臣の重任に鳩山君を推挙するのは、情誼はともかく、総理大臣として無責任であると感じ、これを躊躇せざるを得なかった」

 建前はともかく、ホンネは獲得した権力を手放したくなかったのである。そして鳩山たち公職追放組が大量に政界に戻ってくることに大変危機感を募らせ、吉田は追放解除組の選挙準備が整わないうちに先手を打って総選挙を行った。

 そこで冒頭に記した日比谷公会堂での鳩山一郎の復帰第一声となったのである。

 鳩山は脳溢血の後遺症を抱えながらの選挙戦で、自由党ではあったが、反吉田、というより悲願は吉田首相打倒であり、主張は憲法改正と日ソ交渉であった。

 吉田は自衛隊は軍隊でないと言っているが、これはごまかしであって、あきらかに軍隊であり、それもしっかりした軍隊であらねばならない。そのために憲法改正が必要である――と、鳩山は吉田批判と憲法改正を直接的に結びつけた。

 選挙は熾烈な分裂選挙となり、自由党は240議席を獲得して過半数は握ったが、追放解除の反吉田派も大量に当選し、三木は鳩山グループの強硬派を集めて自由党内に反吉田の民主化同盟を結成した。

 そして翌53年、吉田の「バカヤロー」発言で、吉田内閣不信任案が出されると、民主化同盟の22人はこれに賛成したので不信任案は可決され、ふたたび総選挙となった。

 この総選挙以後、吉田支配体制は崩れ、さらに保全経済会事件や造船疑獄などの汚職事件で吉田内閣は末期症状を呈すようになった。

 一方鳩山の方も、分党派自由党を結成したり、かと思うと吉田の自由党に復党したりと試行錯誤を重ねるのだが、54年11月に、改進党、日本自由党(1953年結党のミニ政党)、自由党の反吉田グループという三派合同による日本民主党を結成した。所属議員数は衆院121人で、自由党の185人に迫る第二勢力となった。

 仕掛人は三木と、幹事長となった岸信介であった。ここで、鳩山を上回る強硬な憲法改正論を主張し続けた岸信介について記すことにする。

665名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:50
>>664

軍隊に逆らった岸信介
 岸信介は、1896(明治29)年11月13日に山口県の山口町(現山口市)で生まれた。日清戦争に日本が勝利して、山口県の下関市で講和条約が調印された翌年である。

 1920(大正9)年に東京帝大を卒業すると、岸は先輩たちのすすめを拒んで農商務省に入省した。官僚の花形は内務省と大蔵省であった。

 岸は農商務省の官僚となって欧米を視察し、とくに強い印象を受けたのがドイツであった。第一次世界大戦で惨敗し膨大な賠償金に喘ぎながら、「国家統制化」という名の産業合理化運動で経済再建の成果を上げていたのである。ドイツモデルは、岸が学生時代から抱いていた国家社会主義のイメージと見事に重なっていた。

 1936(昭和11)年、二・二六事件が起きた年の10月に、満州国実業部総務司長、(翌年、産業部次長)として満州というフロンティアに赴任した岸は、産業開発の五ヵ年計画を遂行し、国家社会主義的な統制経済を徹底させた。

 岸の統制経済は満州では成功し、時の関東軍参謀長だった東条英機にも高く評価された。そのためもあってか、東条が首相になると岸は商工大臣に引っ張られている。

 なお、満州を離れるとき、岸は記者たちに「出来栄えの巧拙はともかくとして、満州は私の描いた作品である」と語った。満州については自信に満ちていたわけだ。

 東条に商工大臣として迎えられながら、岸はオポチュニスト的優等生ではなかった。

 1944(昭和19)年にサイパン島の日本軍守備隊約3万人が玉砕し、日本本土が完全にB29の攻撃射程に入ると、岸は「サイパンを失っては戦争継続は不可能」だと東条に主張したが、東条は「そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何がわかるか」と一蹴し、岸を辞めさせて内閣改造を図ろうとした。

 だが、岸は断固として辞任を拒否し通し、そのために閣内不一致で東条内閣は総辞職に追い込まれてしまった。岸は東条政権を潰した後、憲兵隊につけ回され、身の危険にさらされ続けた。

 1945(昭和20)年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わった。約310万人の日本人がこの戦争で命を失った。そして9月15日に岸は戦犯容疑者として占領軍に逮捕された。

 「名に代へて この聖戦(みいくさ)の正しさを 萬代までも伝へ残さで」

 逮捕される直前に岸が山口の田布施の自宅で詠んだ歌である。

 A級戦犯を裁いた東京裁判について、『岸信介回顧録』(廣済堂出版)で次のように述べている。

 「東京裁判はドラマとしては壮大で、また深刻きわまりなかったが、今は、人間の知恵の浅さを思い知らせたことと『文明』の名に汚点を残したという記録に過ぎないのである。

 こういうわけで、巣鴨に収監されている間も『我々は、法律に違反した犯罪人である』という意識は全くなかった。あるものは勝者対敗者の関係であった。その関係において、敗者は勝者の手によって裁かれ、処刑されるのはやむを得ないと覚悟していた。

 従って、死は免がれないものの、それまでに我々の意見、立場を堂々と主張し、日本だけが悪事を働いたという一方的な押し付けに反駁し、彼らの理非曲直を明らかにして真実を後世に伝えん、と意気軒昂といってもよい心境であった」

 さらに岸は、占領初期のGHQの基本方針について次のように述べている。

 「日本の軍事力や工業力の抹殺はいうまでもなく、このような日本人の精神構造の変革、つまり日本国民の骨抜き、モラルの破壊に主眼があったことは間違いあるまい。

 日本人の復讐心の芽をつみ、日本人は欧米人種に比べて劣等であることを思い込ませ、現在の敗北と苦痛は、あげて日本人の不法かつ無責任な侵略によってもたらされたものであることを徹底させるために、天皇の権威の否定から戦争犯罪人の逮捕、神道及び神社への公共資金による財政的支持の禁止、果ては、歌舞伎忠臣蔵の上演禁止に至るまで、日本の国民生活の全分野にわたって強制、干渉、監視が仮借なく実施された。そしてその集大成が、今の日本国憲法である」

666名無しさん:2015/10/10(土) 23:33:17
>>665

東京裁判を生き延びる
 それでは岸は現在の憲法をどう捉えているのか。

 「吾々は先づ第一に吾々国民の自由意思に基く吾々の憲法を持たねばならぬ。憲法は云ふまでもなく独立国の拠って以て立つ根本法である。現行の憲法が占領下に於て時の占領軍の最高司令官から押し付けられたものであり、原文が英語で書かれた翻訳憲法であることは今日では公知の事実である。斯くの如き憲法を持って居る独立国は古今東西に其の例を見ざるところである。

 (中略)唯単に憲法九条だけの改正の問題ではない。民族の魂が表現せられた憲法であるべきであって、日本の土と血に繋って居る民主主義を内容とする憲法であるべきものと確信する。祖国を吾々の手に依って防衛すると云ことは独立国として当然の義務であると同時に権利である。他国の軍隊を国内に駐屯せしめて其の力に依って独立を維持するといふが如きことは真の独立国の姿ではない」(岸の後援会誌『風聲』1954年1月号より)

 1948(昭和23)年12月23日の午前零時すぎ、東条英機、土肥原賢二、松井石根たちA級戦犯7人の絞首刑が執行された。そしてその翌日、クリスマス・イブの日の朝、岸は児玉誉士夫、笹川良一など他の18人のA級戦犯容疑者とともに巣鴨拘置所から釈放された。

 そして追放解除が近づくと、岸は新党を旗揚げして、全国を演説して回る計画を立てていた。それに対して新聞記者が「戦犯容疑者や追放解除者が日本再建の音頭を取るのはおかしいという意見もあるが」と問い質すと岸はひるむことなく答えた。

 「私は巣鴨生活で過去のいっさいは清算したつもりだ。自分としては政治の再建に携わる資格はあると思う。東条英機内閣の閣僚だった、軍の手先だったと言われるかもしれない。それはある程度、事実だからやむを得ない。現在の気持ちとしては、元商工相とか翼賛政治会総務とか、そんな過去の経歴にこだわる気持ちは毛頭ない」(『憲法政戦』塩田潮 日本経済新聞出版社)

 国民の多くは、戦争の影を引きずり、強いこだわりを抱いていたのだが、開戦と戦争遂行に深くかかわった岸は、過去の清算は終わったと言い切った。

 そして52年4月19日に、日本再建連盟を結成し、岸は顧問に就任した。

 岸の狙いは吉田政権の打倒であった。

 岸にとって、吉田政権とは、GHQが日本弱体化のために日本人の骨抜きを謀るべく押し付けた憲法を押し頂き、誇りも理念もなくひたすら政権の延命だけを図る存在でしかなかった。また戦前派や追放組の中には岸と同じ思いの人間が少なからずいた。

 明日公開の後編につづく

田原 総一朗

667名無しさん:2015/10/11(日) 12:44:37
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151011-00045702-gendaibiz-pol
ゼロからわかる「55年体制」〜自由民主党はこうして生まれた 「戦後レジームの正体」第7回(後編)
現代ビジネス 10月11日(日)11時1分配信

 前編では、「現憲法維持」の吉田茂、「改憲論者」の鳩山一郎、そして鳩山を上回る「強硬な改憲論者」岸信介の三者三様の憲法観を紹介した。今回は、戦争指導者としてA級戦犯容疑をかけられた岸信介がいかにして政界に復帰し、吉田茂政権を打倒したか。自民党が誕生した経緯を解説しよう。

A級戦犯から再び政治の舞台へ
 岸は講和条約が発効した28日に追放解除となった。

 そして10月1日に総選挙が行われた。再建連盟は40人以上の候補者を立てたが、岸自身は出馬しなかった。「A級戦犯容疑者」であった岸を選挙民がどう捉えているかを計りかねていたのである。

 だが再建同盟は、総選挙で惨敗した。

 そこで岸は作戦の練り直しを余儀なくされたのだが、それを見て、岸の実弟で自由党幹事長であった佐藤栄作が強引に入党させた。

 実は、岸は惨敗後に「戦う民主主義」を標榜する西ドイツの実情を知るために現地へ旅立ったのだが、その間に吉田の「バカヤロー」発言による内閣不信任、そして衆院解散、総選挙となり、佐藤が岸の留守中に自由党への入党と立候補の準備を済ませたのである。

 選挙区は岸も佐藤と同じ山口二区で、佐藤は1位、岸は3位(定数5人区)で当選した。

 岸は1年生議員ではあるが、大勢のいわば子分を抱えて岸派を形成する大物で「台風の目になる」と注目されていた。

 総選挙で、第1党は吉田自由党が199、重光葵の改進党が76、そして鳩山の分派自由党が35となり、革新側は左派社会党が72、右派社会党66と、保革両陣営とも多党乱立状態であった。

 岸は、吉田自由党に属しながら、実は反吉田で、占領政治の打破、そして憲法改正のために保守合同を目指していた。

 ところが、米ソ冷戦が際立ってきてアメリカは日本に防衛力増強を要求するようになり、分派自民党の限界を感じた鳩山が、防衛力強化のための憲法改正、そのために憲法調査会を設置することを条件に自由党に復党した。そして、佐藤の進言で、岸が新設の憲法調査会の会長となった。

 「だが、吉田は憲法改正が簡単に実現するとは思っていない。岸が反吉田で動き出さないように憲法調査会という玩具を与えて適当に遊んでいてもらう魂胆であった。

 ところが、岸は憲法改正を通じて政界再編を実現する考えである。一も二もなく飛びついた」(憲法政戦』塩田潮、日本経済新聞出版社)

 岸は54年3月12日、憲法調査会の発会式で挨拶した。

 「現行憲法は現在とはまったく違った環境の下でつくられたものです。いまや全面的に再検討すべき時期にきている。もし改正の要ありという結論に達したら、具体案を決め、国民大多数の支持を得られるようにしなければならない」(前掲書)

 吉田自由党は鳩山たちを復党させて、岸にも玩具を与えて安定するかに思えたのだが、造船疑獄に火がついて、4月20日に、検察は佐藤幹事長に対する逮捕許諾請求決定した。

 現職の幹事長が逮捕されれば、吉田内閣は崩壊を免れ得ない。吉田の指示で、犬養健法相が翌21日に指揮権を発動して佐藤逮捕を強引に阻止させた。

 だが、この事件で国民の吉田政権への不信感は決定的となり、5月に吉田内閣の支持率は23パーセントとなってしまった(朝日新聞)。

 こうした世論に呼応して、いやむしろ先んじて、吉田自由党を含む保守陣営内で「吉田降ろし」の動きが活発となり、指揮権発動の1週間後には「新党結成促進協議会」がつくられた。公然と吉田抜きの保守合同合作がはじまったのだ。

 中核となったのは三木武吉、石橋湛山、河野一郎、そして岸信介であった。岸は協議会改め「新党結成準備会」の事務局長となった。巣鴨拘置所から出所して約5年半、追放解除となってわずか2年余で、岸は新党運動のリーダーの一角となったのである。

668名無しさん:2015/10/11(日) 12:47:29
>>667

自由民主党の誕生
 保守合同のためには、鳩山自由党、重光改進党と、首相であり総裁である吉田を排除した吉田自由党を合体させなければならない。

 岸は、まず鳩山と重光、さらに三木、石橋らを加えた会談を実現させ、保守合同で一致させた。さらに吉田が頼みとする副総理の緒方竹虎には、「とりあえず鳩山を新総裁にして、次は必ずあなたを総裁にする」と約束して、吉田からの離反を図った。

 10月20日、新党結成準備会拡大大会が開かれ、12日後、11月1日に鳩山が新党結成準備委員長となった。つまり鳩山が新党総裁になることが確定したわけだ。舞台裏を仕切ったのは岸と、保守陣営きっての策士である三木武吉であった。

 そして11月24日の日本民主党の結成となったのである。衆参あわせて142人の議員が参加した。

 総裁は鳩山、副総裁は重光、そして岸は幹事長となった。三木武吉は総務会長になったが、緒方は日本民主党には参加しなかった。

 このとき、吉田自由党の衆院議員は180人で、数の上では民主党を大きく上回っていたが、総務会長の大野伴睦をはじめ、少なからぬ自由党議員が、実は反吉田であった。岸、三木たちの根回しが自由党の隅々までいきわたっていたのである。

 11月30日に臨時国会が召集されると、岸は左派、右派社会党の書記長を口説いて、吉田内閣不信任案を提出する態勢を固めた。

 岸は三輪寿壮など右派社会党にパイプを持っていたのだ。民主党と左、右社会党が結束すれば、不信任案は可決される。そこで吉田は衆院を解散しようとしたが、それを支持したのは子飼いの佐藤と池田勇人だけで、緒方をはじめ議員の大半が解散に反対した。

 こうして吉田はついに通算7年2ヵ月で辞任に追い込まれたのである。

 12月9日、後継首相指名選挙で、鳩山が指名された。三木と岸が、早期解散、総選挙を実施するための「選挙管理内閣」だといって左、右社会党を説得したのである。

 鳩山は55年1月に衆院を解散した。ワンマン吉田の長期政権に厭きた国民の多くが、脳溢血に倒れて、舞台裏を三木や岸にまかせた、いわば担がれ神輿としての弱々しさを歓迎して「鳩山ブーム」が起き、民主党は124議席から185議席へと大きく伸び、逆に自由党は180議席から112議席へと激減した。

 だが、三木と岸は、勝ったとはいえ危惧を強めていた。過半数にほど遠い少数政権であったうえ、左・右社会党が21議席も増やして156議席も獲得していた。

 岸たちは、社会党の左・右が合併し、近い将来政権奪取するのではないかと危機感を抱いていたのだ。現に左、右社会党内では権力奪取のための合併話が進んでいたのである。

 三木と岸はなんとしても保守合同を急がねばならないと思い、自由党で強い影響力を持つ大野伴睦に目をつけた。大野と三木とは東京の市会議員の時代から不倶戴天の間柄であったが、三木は「このままでは赤化の危機にさらされる」と大野を口説き落とした。三木と岸の作戦は成功した。

 10月13日に政権奪取を目指して社会党が統一された。そして1ヵ月後、11月15日に民主党と自由党が解体されて自由民主党が誕生した。いわゆる55年体制がスタートしたのである。

 ただし、このときは「総裁」は空席で、鳩山、緒方、三木、大野の4人が代行委員となった。岸はあえて一歩退くかたちで、しかし抵抗なく幹事長となった。このあたりが岸の手堅さであり、したたかさである。

 実は、岸が「初代総裁は鳩山で、ただし日ソ交渉を花道にして早晩緒方に譲る」と大野たち自由党の幹部に話をつけ、自由党の顔を立てるために、結成時は「総裁」の空席というかたちをとったのだ。

669名無しさん:2015/10/11(日) 12:48:48
>>668

防御態勢の確立と国家社会主義
 22日に、鳩山は首相に三選された。三木、岸、大野、石井光次郎の密約では、翌56年4月には緒方が総裁に選ばれ、首相に就任することになっていた。ところが緒方は56年1月28日に急死した。67歳だった。7月4日には岸が頼りにしていた三木武吉も死去。71歳だった。

 三木と岸の作戦は、鳩山を早晩引退させて、緒方に「権力」という贈り物をして、緒方から首相の座を岸に禅譲させるということになっていたのだが、岸の目論見は潰えた。自力で権力を奪取せざるを得なくなったのである。

 なお岸は『風聲』56年1月号に、「巣鴨の拘置所で送った三年三ケ月の生活及びそれに続く追放時代より一貫して把持し来つた私の政治的信念」として次のように書いている。

 一、憲法の改正と防衛態勢の確立
二、自由主義国家群との連繋の強化と東南アジアに対する経済外交の推進
三、放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進による経済自立の達成
四、教育制度の根本的改革による道義の昂揚

 岸のいう防御態勢の確立とは、GHQが日本弱体化を狙って作成した憲法九条を改正して交戦権のある軍隊、つまり自衛軍をつくり上げることであった。それと「放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進」という指摘には、国家社会主義による満州経営の自信が底流にあったのであろう。

 なお、岸は小選挙区制の実現を自民党の主目標の一つにした。憲法改正のためには各議員の総議員の3分の2以上の賛成を獲得しなければならず、そのためには小選挙区制の実現が必要だと考えていたのである。

 鳩山も憲法改正を主張したが、これは反吉田という意味合いが強く、首相になって政治生命を懸けたのは日ソ交渉であった。もっとも一時は北方領土問題で完全に行き詰まったが、日本側が棚上げすることで妥協し、56年10月19日にモスクワで日ソ国交回復の共同宣言が発表された。

 日本側にソ連との国交回復を急がなければならない事情があったのだ。シベリアに抑留されたままになっている数多くの日本人(帰国がかなったのは2689人)の帰還問題に加え、ソ連が賛成してくれないと国連加盟ができなかったのである。日本の国連加盟が実現したのは12月18日であった。

 鳩山はソ連から帰国すると、11月2日に退陣を表明した。吉田と違って権力に執着しなかった。病?で気力を失っていたともいえる。引退後2年2ヵ月余で死去した。

 岸は権力奪取のため、それなりに根回しを計ったようだが、頼りの三木がいなくなり、1885年に日本で議員内閣制が発足して以来はじめての総裁選挙となった。岸、石井、そして石橋湛山の三者が立候補した。岸派が3億円、石橋派が1億5000万円、石井派が8000万円をばらまいたともいわれる金権選挙でもあった。

 第1回目の投票で、岸は1位とはなったが過半数に達せず、決選投票では2、3位連合が功を奏して、石橋が首位となった。ところが首相となった石橋が体調を壊し、代わって岸が念願の首相となった。衆院議員となって3年10ヵ月しかたっていなかった。

670名無しさん:2015/10/11(日) 12:49:50
>>669

国民の要望に応えようとしたつもりが……
 岸首相の狙いは、もちろん憲法改正と防衛態勢の確立であった。だが、自民党内からも、経済界からも、何と社会党からも不平等な日米安保条約を改正すべしという意見が強く打ち出された。

 1951年9月8日、サンフランシスコで対日講和条約の調印が行われた日の午後、サンフランシスコ郊外の米軍の駐屯地で吉田茂が日米安全保障条約に署名したのだが、この安保条約はいわば米軍による占領の延長で、米軍が、日本のどこにでもどれだけでも望むがままに基地をつくることができて、それでいて日本を守る義務はなく、期限も決まっていなかった。その意味ではきわめて不平等な条約だったのである。

 そこで、実は鳩山内閣時代に、重光外相が安全保障条約の改正を図ったのだが、ダレス国務長官にすげなく扱われて失敗していた。このとき、岸は重光の対米交渉に同席していたのである。

 しかもこのとき、ニューズウィークのハリー・カーンがダレスに「岸こそ現在日本では最も重要な政治家であり、岸と秘密裏に会うべき」だと書き送っている。現にダレスは時間をとって岸と会っていた。

 また、岸から、日本の共産化を防衛するために資金を援助してくれと頼まれて、ダレスは長期間、大量のカネをCIAに用意させていた、ということだ(『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子 幻冬舎文庫)。

 ようするに岸はダレスに信用され、CIAのカネという尋常でないアメリカとのパイプを有していたことになる。

 岸には重光外相がダレスとの安保交渉に失敗した理由がわかっていた。重光外相は対等条約を望み過ぎたのである。ダレスが意地悪く「アメリカが万一攻撃を受けた場合に、日本は軍隊を国外に派遣して、アメリカを助けてくれるのか」と問うたのに対して、重光外相は答えを持っていなかった。憲法改正を行って、自衛隊を交戦権を有する軍隊にしない限り海外派兵はできない。

 だから、重光外相の交渉に同席したとき、岸は安保条約改正の前に憲法改正が必要だと考えたのである。

 だが自民党内や経済界だけではなく社会党からも不平等条約の改正を求める意見が強まって、岸は考え方を変えた。それに、マッカーサー駐日大使との幾度もの会談で、相当の安保条約改正は可能だとの感触を持っていたのだ。

 だから、岸は、いわば世論の要望に応えるつもりで安保改正に取り組んだのであった。アイゼンハワー大統領訪日の予定も取り付けた。

 そして両方を実現させて国民の支持が高まったところで選挙を行い、3分の2以上の議席を獲得して、念願の憲法改正を行おうとにした。繰り返し記すが、岸にとっては、安保条約改正は国民の要望に応えて支持を盛り上げる手段のつもりだったのである。

 日米安保条約とその改定についてはあらためて記すが、60年の安保条約改定は、岸が予想もしていなかった大騒動となり、岸は日本を戦争に駆り立てる大悪党として集中攻撃された。60年の安保騒動である。

 岸は、自民党の中でも孤立して、結局安保改定と心中するかたちで首相を辞めざるを得なかった。憤死である。そのために念願の憲法改正にも、小選挙区制の導入にも、手をつけることができなかった。

 第8回につづく

田原 総一朗

671名無しさん:2015/10/11(日) 13:25:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000104-san-soci
世界記憶遺産登録 「これで戦友浮かばれる」シベリア抑留経験の90歳男性
産経新聞 10月10日(土)14時35分配信

 「これで死んでいった戦友たちも浮かばれる」。舞鶴引揚記念館でボランティアガイドを務めるシベリア抑留経験者の原田二郎さん(90)=京都府綾部市=は、登録決定をほっとした様子で受け止めた。

 原田さんは陸軍の衛生兵として従軍。昭和20年10月にロシアのハバロフスクの収容所に送られ、その後約4年間をすごした。

 「次々と仲間が死に、いつ自分の番かと不安で仕方なかった。引き揚げ船が舞鶴に着くまでは安心できなかった」

 原田さんは戦後約50年にわたり抑留体験について口をつぐんでいた。「捕虜となって生き延びたことは恥ずかしいこと」という思いがあったからだ。だが、地元の人たちに請われて徐々に体験を語りはじめ、今は記念館を訪れる小中学生らに、当時の体験を語るようになった。

 心境の変化があったのは、仲間への思いからだ。抑留生活では多くの仲間が死んでいったが、自分が生き残ることができたのはシベリア抑留の経験を語り継いでいく役割を託された、と思うようになったのだという。

 「今の子供たちは平和をあたりまえのことと思っているが、もっと真剣に考えてほしい」と語る原田さん。「記憶遺産に登録されて、シベリア抑留や引き揚げのことを世界中の人たちに知ってもらうことは、言葉にできないぐらいうれしい」と話した。これからも、体力が続く限り抑留体験を語り継ぐ覚悟だ。

672名無しさん:2015/10/11(日) 14:10:02
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000267
記憶遺産、被害強調=「広島・長崎と並ぶ惨事」-中国

 【北京時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録された旧日本軍による南京事件は、中国にとって「アウシュビッツ強制収容所、広島・長崎(への原爆投下)とともに第2次大戦の三大惨事」(国営新華社通信)とされる。中国は登録を受け、犠牲の大きさを強調しつつ、自らが主張する「歴史」の宣伝を続けていくとみられる。

 中国メディアによると、登録決定を受け、中国のユネスコ代表は「資料の真実性と唯一性に対する承認であり、完全性に対する最高の称賛であり、世界的な意義がある」と語った。
 アウシュビッツ収容所と広島の原爆ドームは既に世界文化遺産に登録されている。中国は昨年2月、南京が攻略された12月13日を「国家哀悼日」に定めており、「南京大虐殺記念館」(南京市)の朱成山館長は「記念日の制定で国内の認知度が大きく上がり、記憶遺産登録で世界の人々が共通認識を得た」と解説した。
 今回申請された資料は、中国人女性や外国人の日記、米国人牧師や旧日本軍が撮影したとされるフィルム・写真、南京軍事法廷の判決書、生存者の証言など全11組。
 南京軍事法廷の記録は「犠牲者30万人以上」とする中国の主張の根拠となっている。女性の日記は中国版「アンネの日記」とも呼ばれ、フィルムには日本兵に襲われ体中に傷を負った妊婦が写っているという。ただ、申請書類がそろって公開されているわけではなく、不透明感が残る。
 「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利70年」の今年、中国は内外で戦争被害を訴え、戦勝に果たした中国の役割を強調してきた。中国側は「資料に記載されているのは中日両国の憎しみではない」(研究者)と言うが、登録には至らなかった「従軍慰安婦」の資料についても再度登録を目指す可能性があり、歴史をめぐる日中の摩擦は消えそうにない。
 南京大虐殺記念館では学者や生存者を集めた座談会を開催。広場には記憶遺産登録を記念した石碑の設置を計画しているという。(2015/10/10-18:37)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000296
中国の南京事件資料

 新華社電によると、南京事件の世界記憶遺産登録で中国が申請した資料は次の通り。
 (1)住民らの避難地区にいた中国人女性の日記
 (2)米国人牧師の16ミリ撮影機とフィルム
 (3)日本軍が撮ったとされる写真16枚
 (4)当時、中国人から提出された暴行の写真
 (5)南京軍事法廷の判決書
 (6)南京軍事法廷での米国人の証言記録
 (7)生存者の証言記録
 (8)当時の調査委員会の調査表
 (9)南京軍事法廷での犯罪証拠
 (10)市民からの上申書
 (11)外国人の日記
(北京時事)(2015/10/10-20:29)

673名無しさん:2015/10/11(日) 14:10:13
>>672

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000210
中国の歴史宣伝を懸念=日本政府、「政治利用」抗議

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に南京事件の資料が登録されたことを受け、中国の登録申請を「ユネスコの政治利用」としてきた日本政府は10日、在北京日本大使館を通じて中国外務省に抗議した。政府はまた、中国が「犠牲者30万人」とする主張を既成事実化し、日本の「負の歴史」を宣伝することを強く懸念。今月末にも開かれる日中韓首脳会談を控え、対応に苦慮しそうだ。

 南京事件をめぐり、日本政府は「犠牲者数は諸説あり、確定していない」との立場。川村泰久外務報道官は10日に発表した談話で、「日中間に見解の相違がある」とした上で、今回登録された資料について「完全性や真正性に問題があることは明らかだ」と指摘した。
 今回の登録を機に、中国が南京事件に関する対外発信を強化し、中国の主張が国際社会で「史実」として広まることを日本政府は警戒。これまでも「過去の一時期における負の遺産をいたずらに強調することは極めて遺憾だ」(菅義偉官房長官)と繰り返し中国側に抗議してきたが、今後も冷静な対応を求めていく考えだ。
 一方、政府はユネスコに対しても「政治利用」を許したとして抗議する方針。ユネスコに1割強の分担金を拠出している立場から、記憶遺産事業で「中立性」を確保するよう制度改革を主導したい意向だ。(2015/10/10-20:07)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000313
「ユネスコへの妨害やめよ」=記憶遺産、日本に反論-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は10日、南京事件に関する資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録されたことについて「歓迎」する考えを表明した。日本政府の非難に対しては「歴史を直視したがらない誤った態度だ」と反論。「中国にとやかく言ったり、ユネスコの正常な業務を妨害したりするのを直ちにやめる」よう求めた。
 また「歴史を心に刻み平和を大切にし、未来を共につくり、人類の尊厳を守る役割」を、これらの資料が十分に果たせるよう保護・普及を図ると表明した。
 その上で、南京事件は「国際社会公認の歴史的事実」であり、「全人類の共通の記憶」になるべきだと強調。日本に対し「歴史に責任ある態度で、侵略の歴史を直視し深く反省し、誤りを正すよう促す」と述べた。 (2015/10/10-22:02)

674名無しさん:2015/10/12(月) 09:53:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151012-00010001-nishinp-pol
「岸信介を傘下に納めた」日米双方の思惑が築いた蜜月関係
西日本新聞 10月12日(月)8時30分配信

 憲法改正を目指し、対米自立を望んだ岸信介元首相は、首相に就任する前から米国の冷戦戦略に取り込まれていた―。そんな認識を示す文書を、日米外交に深く携わった元米国務次官補が残していた。孫の安倍晋三首相の政治姿勢にも強い影響を与えた岸氏だが、背景を探ると、もう一つの顔が浮かび上がった。

 文書はワシントン近郊のジョージタウン大図書館にあった。戦前戦後に在日米大使館で勤務し、1960年の日米安保条約改定時には極東担当の国務次官補を務めたグラハム・パーソンズ氏の文書コレクション。パーソンズ氏は、退官後の80年代前半に書いたとみられる未刊行の自伝で、岸氏に関してこう語っていた。
 「戦犯(容疑者)だった岸氏は50年代半ば、大使館のわれわれによって傘下に納まった。その後、(自民)党総裁になり、信頼に足る忠実な協力者となった」(「傘下に納まった」の原文は「cultivate」。和訳は文書を見つけたオーストラリア国立大のテッサ・モーリス・スズキ教授と吉見俊哉東大大学院教授の共著「天皇とアメリカ」=2010年刊から)
 63年の同僚宛ての手紙にも「われわれは54年、岸を傘下に納めた」。そこには有望な政治家と見なす岸氏を取り込んだ、との視点が鮮明にうかがえる。
 55年の保守合同で自民党が誕生する直前の混乱期。保守派リーダーの一人だった岸氏は、米国とどうつながっていたのだろうか。

民主、自由両党の合同前に
 保守合同前夜の1955年7月9日午後、東京の在日米大使館。当時の民主党幹事長だった岸信介元首相は、大使館のジョージ・モーガン参事官に招かれた。「キングサイズのスコッチ・アンド・ソーダ」を片手に約3時間半。モーガン氏の質問に冗舌に答える岸氏の姿があった。

 膨大な米公文書の調査などを基に戦後の日米関係を米国側の視点で描いた「『日米関係』とは何だったのか」の著者、米アリゾナ大のマイケル・シャラー教授(68)が90年代に見つけた大使館から本国への報告文書には、その時の様子が詳しく記録されている。
 民主、自由両党の合同はまだ時期が公になっていなかった。民主党を主導する岸氏は、合同が11月ごろになるとの見通し、新党首選びの状況、憲法改正や積極的な反共外交政策の採用、再軍備促進といった新党の政策などについて情報を「提供」(シャラー氏)。社会党の動向に関する推察も伝えた。いずれも米国側が欲していたとみられる。

675名無しさん:2015/10/12(月) 09:55:57
>>674

岸氏こそ米国の政策に合致
 岸氏は戦前、在日米大使だったジョセフ・グルー元国務次官とじっこんだった。同氏が日本で立ち上げたロビー団体の米誌東京支局長は、民主党幹事長時代の岸氏の英会話の家庭教師。支局長らは米政府に日本の政治状況などを報告、岸氏を売り込んでいたという。
 50年代、反共のとりでとして日本に安定した保守政権の誕生を望む米国の思惑をよそに、54年12月に退陣した吉田茂首相の後を継ぐ鳩山一郎、石橋湛山両氏はそれぞれソ連との国交回復、日中関係改善を志向。もともと反共・反ソで保守合同の強力な推進者、岸氏こそ米国の対日政策に合致する政治家だった。ロビー団体の人脈などを通じて、米国は岸氏をさらに「磨いた」とシャラー氏は語る。
 シャラー氏によると、50年代半ば、在日米大使館員が岸氏と会ったり、酒を飲みに行ったりしたとの記述も文書に散見された。岸氏がモーガン氏と会った当時の首席公使が、岸氏を「傘下に納めた」と記したグラハム・パーソンズ氏。大使館と岸氏とは深い結びつきができていたとみられる。

蜜月関係が権力へ導いた
 シャラー氏は「岸氏は米国に取り込まれたというより、むしろ積極的に取り入ろうとしていたと私は考える」。日米安保条約の不平等性の解消を目指した岸氏だが、「米国の信頼を得なければ、それは成し遂げられないし、信頼されれば国内での自身の政治力も増すという計算もあっただろう」とみる。
 55年、鳩山政権からの条約改定申し入れを一蹴した米国は、57年の岸政権からの交渉提起には応じ、60年に改定は実現した。
 一方でシャラー氏は、岸氏が首相就任後、米中央情報局(CIA)と秘密の資金提供の関係を結んだと著書で明記した。「権力の座に駆け上がる過程で米国と築いた濃密な関係が、資金提供の土壌になったのもまた事実だ」と指摘した。

岸氏の戦略「独立のために従属」
▼「岸信介証言録」などの著書がある原彬久・東京国際大名誉教授
 「cultivate」の意味について、私は「米国は自分たちの望む方向に動くように岸氏を取り込んだ」というニュアンスに受け取った。米国は岸氏を利用しようとしていた。彼らは岸氏を高く評価していたが、利害関係とは別のところで尊敬したり評価したりはしない。そんな生やさしい世界ではない。一方、岸氏も国内外の共産勢力と戦うため、米国を利用しようとしていた。だから米国の信頼を得るために情報を提供することもあろう。政治家として熟察し、いろんな計算の下で動いていたといえる。
 CIAから資金提供を受けることは道義的に問題ありだが、当時は革新勢力も旧ソ連から資金援助を受けていた。強力な保守政権を築き米国から何とかして自立したい、選挙で革新勢力に負けたくない、との思いから岸氏はきわどい政治判断をしたのではないか。
 逆説的な言い方だが、米国から独立するために従属する―というのが、皮肉にも岸氏の対米戦略だったと考える。

西日本新聞社

676名無しさん:2015/10/13(火) 22:43:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000582-san-pol
世界記憶遺産 維新・今井幹事長「大変遺憾、登録手続き間違っている」
産経新聞 10月13日(火)20時31分配信

 維新の党の今井雅人幹事長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録された件について「大変遺憾だ。歴史的検証がはっきりとなされていない中での登録は手続きとして間違っている」と批判した。

 政府・自民党からユネスコへの拠出金の削減を検討する意見が出ていることに関しては「どういうやり方かはともかく、対抗措置を講ずるのは当然だ」と強調した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000543-san-pol
世界記憶遺産 共産・山下書記局長「ユネスコ拠出金削減検討は国際社会の理解得られない」
産経新聞 10月13日(火)15時57分配信

 共産党の山下芳生書記局長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、中国により登録申請されていた「南京大虐殺文書」を記憶遺産に登録した件に関し、政府・自民党からユネスコへの分担金拠出の削減を検討する意見が出ていることについて、「日本政府の主張が認められなかったからといって、拠出金削減を検討するなどという対応は国際社会の理解を得られないだろう」と述べた。

 山下氏は「南京事件については、どの程度の規模だったかについては議論があるとはいえ、大虐殺が行われたことは動かしがたい歴史的事実だ」と強調した。

677名無しさん:2015/10/13(火) 23:47:01
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000093-mai-pol
<ユネスコ分担金>二階氏「のうのうと…よいのか」停止検討
毎日新聞 10月13日(火)21時1分配信

 ◇世界記憶遺産に「南京大虐殺」 菅官房長官が表明

 菅義偉官房長官は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺」に関する資料が登録されたことについて、日本がユネスコに拠出する分担金や任意の拠出金の停止、削減を検討すると表明した。分担金などの支出は年間約42億円(2014年)にのぼり、ユネスコに制度改革を促す狙いがあるが、野党の一部からは慎重論も出ている。

 菅氏は会見で「(日中両政府の)意見が全く違う中で登録され、公正であるべき国際機関として問題だ。政治的に利用されることがないよう制度の透明性を強く求めたい」と述べ、登録の審議が非公開である点などを問題視し、制度見直しを求める考えを改めて示した。

 外務省によると、日本の2014年のユネスコ分担金は約37億2000万円。10.8%の分担率は加盟国では米国(22%)に次いで2番目に多い。これに加えて任意で約5億円の拠出金もある。米国は11年以降、パレスチナのユネスコ加盟に反発して分担金の支払いを停止しており、日本は実質的には最大の拠出国だ。

 自民党の二階俊博総務会長は会見で「協力金を一生懸命納めておきながら、日本の意見や主張はどこまで通っているのか。のうのうと引き下がってよいのか」と指摘した。

 自民党の国際情報検討委員会の原田義昭委員長が会合で「南京大虐殺、従軍慰安婦の存在をわが国は全く否定しようとしているときにもかかわらず記憶遺産で取り上げるのは承服できない」と発言するなど、党内には、政府の公式見解とは異なる主張もくすぶっている。相次ぐ支出見直し発言には、こうした党内事情も反映しているとみられる。

 共産党の山下芳生書記局長は会見で「日本政府の主張が認められなかったからといって拠出金削減を検討する対応は国際社会の理解を得られない」と批判した。【高本耕太、小田中大】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000525-san-pol
世界記憶遺産 民主・細野政調会長「ユネスコの分担金削減あっていい」
産経新聞 10月13日(火)12時47分配信

 民主党の細野豪志政調会長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録された件を受け、「記念遺産になるまでのプロセスに不明確な部分がある。(日本がユネスコに拠出している)分担金の削減を検討することはあってもいい」との見解を示した。

678名無しさん:2015/10/15(木) 22:54:30
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151015-00000570-san-eurp
ロシア、日本の記憶遺産登録の撤回を要求 シベリア抑留資料で 日本は「パンドラの箱を開けた」と非難
産経新聞 10月15日(木)20時46分配信

 【モスクワ=遠藤良介】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に日本のシベリア抑留資料が登録されたことについて、ロシア政府は15日までに、ユネスコの「政治利用」だとして登録の撤回を求める方針を固めた。露ユネスコ国内委員会のオルジョニキゼ書記が国営ロシア通信に対して明らかにした。日本政府は、中国の申請で「南京大虐殺文書」が登録されたことを同様に「政治利用」と批判しており、この問題は日中露が入り乱れる構図となった。

 オルジョニキゼ氏は「ユネスコに政治問題を持ち込むことには反対だ」と述べ、日本が登録を申請しないよう事前に申し入れていたことを明らかにした。今後はユネスコと日本政府の双方に登録撤回を働きかけるとしている。

 1945年の第二次大戦終戦後、ソ連軍が満州や朝鮮から約57万5千人を連行して強制労働を課し、約5万5千人が犠牲となったシベリア抑留。ロシアではこの問題の認知度が非常に低く、終戦後の出来事であるにもかかわらず、抑留者が「軍事捕虜」と称される。

 オルジョニキゼ氏も、抑留者は「大戦後の48〜56年に帰還した軍事捕虜だ」との認識を示し、「捕虜たち自身の回想によれば、その扱いは妥当なものだった」と主張した。

 中露両国は今年、首脳が互いの「戦勝70年行事」に出席し合うなど、歴史認識をめぐる「共闘」を演出している。対日戦での中ソの協力関係を誇示することで「戦勝国」の立場を強化し、日本への圧力とするのが狙いだ。

 オルジョニキゼ氏は、世界記憶遺産をめぐる「パンドラの箱」を開いたのは抑留資料を申請した日本だと批判。ただ、中国の「南京大虐殺」についても「同様のことは多くの国であり、問題は2国間で解決するべきだ」と指摘し、戦争関連の出来事は世界記憶遺産にそぐわないと述べた。

 「南京」と異なり、シベリア抑留の規模や犠牲者数に関する見解は日露間でおおむね一致するが、ロシア側は犠牲者1万5千人超の資料を開示していない。

 菅義偉官房長官は15日の記者会見で、「シベリア抑留の申請は舞鶴市の姉妹都市であるナホトカ市の理解と協力を得ている。広い意味で世界的な重要性があるということでユネスコの委員会から推薦された」と述べ、ロシアと連携して進めているとの見方を示した。

679名無しさん:2015/10/17(土) 16:41:01
http://www.asahi.com/articles/ASHBH54VFHBHUHBI01D.html
「シベリア抑留」登録、ロシアが撤回要求へ
モスクワ=駒木明義2015年10月15日19時17分

 ソ連によるシベリア抑留に関連した記録がユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界記憶遺産」に登録されたことについて、ロシア・ユネスコ委員会のオルジョニキゼ書記が14日、「ユネスコで政治的な問題を扱うべきではない」として撤回を求める方針を明らかにした。

 ノーボスチ通信によると、オルジョニキゼ氏は「ユネスコに政治問題を持ち込むべきではない。戦争に関連した遺産を登録することは控えるべきだ」と指摘。日本とユネスコ事務局に対して、シベリア抑留に関する記録の撤回を働きかける考えを明らかにした。

680とはずがたり:2015/10/18(日) 08:11:46

慰安婦の登録、ユネスコが中韓共同申請を奨励か
http://www.yomiuri.co.jp/world/20151013-OYT1T50071.html?from=yrank_ycont
2015年10月13日 19時02分

 【北京=竹腰雅彦、ソウル=宮崎健雄】中国外務省の華春瑩フアチュンイン副報道局長は12日の定例記者会見で、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が登録を申請し、今年の選考で見送られた「慰安婦に関する資料」について、「(ユネスコ側に)関係国との共同申請を奨励する意見があり、中国は真剣に考慮し検討する」と述べた。

 いわゆる慰安婦に関する資料については、韓国政府も記憶遺産への登録準備を進め、これまでに中国への協力を表明しており、今後、中韓両国が共同申請を目指す可能性がある。

 中国外務省副報道局長の発言について韓国外交省報道官は13日、「韓国の民間団体が(『慰安婦に関する資料』の世界記憶遺産)登録と国際協力を推進していると知っているが、具体的内容は把握していない。民間団体が判断しなければならない」と述べた。

2015年10月13日 19時02分

681とはずがたり:2015/10/18(日) 08:12:01
>>679

「シベリア抑留」記憶遺産、露が取り下げ要請
http://www.yomiuri.co.jp/world/20151017-OYT1T50089.html?from=yrank_ycont
2015年10月17日 20時13分

 【モスクワ=緒方賢一】ロシアの国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)委員会のグリゴリー・オルジェニキーゼ書記は16日、シベリア抑留に関する資料の世界記憶遺産への登録について、露外務省でモスクワの日本大使館幹部と会談し、登録申請を取り下げるよう求めた。


 日本側は要請を受け入れない姿勢を示した。

 会談で同書記は「申請はユネスコの政治利用につながりかねないので見直してほしい」と語った。日本側は、「政治利用する意図は全くない」と強調した。

 世界遺産総合研究所(広島市)の古田陽久所長は「世界自然遺産・文化遺産では登録後の抹消が2例あるが、世界記憶遺産では聞いたことがない」と話した。
     ◇
 日本政府は資料について「ユネスコが求める『真正性』を完全に満たしている」(外務省幹部)との立場だ。ロシア側の抗議は当たらないとし、申請の取り下げには応じない方針だ。

2015年10月17日 20時13分

682とはずがたり:2015/10/18(日) 08:13:37
次は中共による中国国民大虐殺だな

2015.10.17 20:55
韓国メディア「腹立たしいが反論は困難」 文春“ベトナム韓国軍慰安所”報道
http://www.sankei.com/world/news/150513/wor1505130021-n1.html

 韓国軍がベトナム戦争中に、サイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-という「週刊文春」のスクープ記事の余波が、韓国国内で広がっている。同国メディアが、朴槿恵(パク・クネ)政権に対し、軍による慰安所運営の実態を調査するよう注文をつけたのだ。自国の恥部を、明らかにできるのか。(夕刊フジ)

 「週刊文春の『韓国軍トルコ風呂』報道、腹立たしいが反論は困難…」

 ハンギョレ新聞(日本語電子版)は4月25日、こんな神妙なタイトルの記事を掲載した。問題としたのは、同誌4月2日付春の特大号に掲載された、TBSの山口敬之ワシントン支局長(当時)による衝撃リポートだ。

 文春記事は、山口氏が米国で発見した公文書に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所」の存在が明示されていたという内容で、これを裏づける元米軍海兵隊幹部の証言なども盛り込まれている。

 朝日新聞が大誤報を認めたことで、日本の慰安婦問題の核心(強制連行)は崩壊している。それでも、韓国が「解決」を求め続けていることを念頭に、山口氏は「もし韓国政府がこの問題を黙殺したり、調査もせず否定したりするなら、彼らこそ都合の悪い事実に背を向け、歴史を直視しない国家であることを、国際社会に対して自ら証明することになる」とリポートを結んでいる。

 ハンギョレは「腹立たしくはあるが反論しにくい主張だ」と指摘し、韓国政府に対して「慰安所の運営・管理に軍当局がどこまで介入したのかなどを明らかにするための調査と後続措置に乗り出さなければならない」と促しているのだ。

 夕刊フジで「新・悪韓論」を連載する、ジャーナリストの室谷克実氏が背景を分析する。

 「私の知る限り、文春報道を取り上げた韓国メディアはハンギョレだけだ。同紙は韓国内では左派メディアと位置づけられており、軍に対して批判的な報道が目立つ。『アンチ軍』の立場から文春のスクープに飛びついたのだろう。一方、他の韓国メディアの中には『軍と対立したくない』という空気が強く、ハンギョレの報道を追いかける可能性は低い」

 ハンギョレはこれまでにも、韓国の恥部といえる、韓国軍によるベトナム民間人虐殺疑惑や、「基地村女性」「洋公主(ヤンコンジュ)」などと呼ばれた米軍慰安婦の問題を取り上げてきた。

 今回の報道が、政府や軍への本格的追及につながるとは考えにくい。ただ、報道がなければ「韓国の人々は、軍の慰安所に言及した公文書の存在を全く知らされなかった」(室谷氏)だけに、その意義は大きいといえそうだ。

683名無しさん:2015/10/18(日) 12:01:34
>>681

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151016/k10010272441000.html
記憶遺産に抑留資料 「政治利用ではない」
10月16日 16時17分

ユネスコ=国連教育科学文化機関の「記憶遺産」に、いわゆるシベリア抑留などに関する資料の登録が決まり、ロシア側が「ユネスコに政治問題を持ち込んだ」として日本を批判していることについて、馳文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、政治利用ではなく批判は当たらないという認識を示しました。
ユネスコ=国連教育科学文化機関は、今月開かれたユネスコの国際諮問委員会で、日本が申請していたいわゆるシベリア抑留や、戦後、旧満州などから引き揚げた人たちに関する京都府舞鶴市の資料を「記憶遺産」に登録することを決め、ロシア側は「ユネスコに政治問題を持ち込んだ」などと、登録を申請した日本を批判しています。
これについて、馳文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、「舞鶴市は姉妹都市であり、抑留者を乗せた引き揚げ船の多くが出港したロシアのナホトカ市の当局と意を通じ合い、申請に同意を得ていたと聞いている」と述べました。そのうえで、馳大臣は「政治利用すべきではないという観点に立ち、姉妹都市とも連携して合意を得たうえでの申請となっており、政治利用には当たらない」と述べ、ロシア側の批判は当たらないという認識を示しました。

684とはずがたり:2015/10/20(火) 22:13:01
>毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された
笑。木戸孝允すげえw

黒田清隆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86

黒田内閣は、大隈重信が主導した不平等条約改正交渉の失敗によって大隈が襲撃され、翌 明治22年(1889年)10月に倒れた。改正の条件に外国人の裁判官を置くという別の不平等を持ってきたことが、国内の反対を受けたのである(辞職後2か月間三条實美内大臣が首相を兼任)。なお、この時に、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件(明治22年(1889年)12月15日夜)を起こして政府内から非難を浴びて謹慎している。

酒乱
平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。ある時、酒席で暴れ、武術家としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された。以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。

685名無しさん:2015/10/20(火) 23:02:07
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151020-00000056-asahi-pol
「シベリア抑留」登録、ロシアが取り下げ要請 日本反論
朝日新聞デジタル 10月20日(火)18時34分配信

 岸田文雄外相は20日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が世界記憶遺産に登録したシベリア抑留に関連する記録について、ロシア政府が日本政府に取り下げを求めたと明らかにした。日本側は「政治利用の指摘は当たらない」と反論したという。

 16日、在ロシア大使館にロシア外務省から要請があった。岸田氏は「申請に先立って(京都府)舞鶴市関係者が在大阪ロシア総領事を通じて、申請の経緯と趣旨を説明したと承知している。引き続き理解を求めていく」と述べた。

朝日新聞社

686とはずがたり:2015/10/23(金) 00:06:50
日本軍による南京大虐殺はなかったと云う論。
なんで政治家があんな妄言を繰り返すのか不思議だったけどそれなりの体裁をとっているのだな。ひょっとしたらなかったのかも。
皇軍の規律正しさや無謬性を強調するのではなく,旧日本軍の愚かしさや蛮行を認めて帝国主義を非難し日本軍国主義体制を全面否定した上でそれでも南京虐殺はなかったのだというならもっと信頼置けるんだけどなーw
そういうスタンスの人はいないのかな?

四度あった南京大虐殺(リニューアル保存版)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2668.html

687名無しさん:2015/10/24(土) 17:13:37
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2015102300389
ロシアに説明済み=シベリア抑留資料登録-菅官房長官

 菅義偉官房長官は23日午前の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産にシベリア抑留の資料が登録されたことに対するロシア政府の批判について、「申請に先立って、京都府舞鶴市の関係者から在大阪ロシア総領事を通じて申請の経緯と趣旨を説明済みだ。だからロシア側も事前に承知をしている」と述べ、同国の主張は当たらないとの考えを示した。 (2015/10/23-11:51)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2015102300096
細菌兵器の死者「120万人」=中国と日本がまた応酬-国連総会委

 【ニューヨーク時事】中国の傅聡軍縮大使は22日、国連総会第1委員会(軍縮・国際安全保障)での大量破壊兵器に関する討論で、第2次世界大戦中、旧日本軍が中国で化学兵器や細菌兵器を組織的に開発、使用し、民間人が多数犠牲になったと非難した。細菌兵器による死者について、「未完成の統計」を根拠に「広島と長崎の原爆犠牲者数の4倍に当たる120万人以上」と主張した。
 化学兵器は1131回使用され、多数の民間人が犠牲になったと指摘。中国に遺棄した化学兵器の処理を急ぐよう日本に要求した。その上で「日本は戦争から70年たっても、歴史の隠蔽(いんぺい)と言い逃れにこだわっている」と批判した。
 これに対し、日本の佐野利男軍縮大使は、日本政府が中国の主張を裏付ける客観的な記録を持っていないと説明。化学兵器の使用回数には「疑問があり、誇張されている可能性がある」と反論した。遺棄兵器については「処理計画は着実に進展している」と強調した。 
 傅大使は20日、日本が核物質を大量に保有していると指摘し、核兵器開発に乗り出す恐れを主張。佐野大使がこれを否定し、応酬となった。(2015/10/23-06:47)

688名無しさん:2015/10/24(土) 18:31:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151021/k10010277181000.html
国連総会「核武装」で日中が応酬
10月21日 9時01分

国連総会で軍縮問題を扱う委員会で、中国の軍縮大使が、「日本は原子力発電所の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを大量に保有しており、核開発に乗り出す可能性がある」と指摘したのに対し、日本の軍縮大使は核武装の意図はないと強く反論するなど、双方が応酬しました。
ニューヨークの国連本部では、今月上旬から国連総会で軍縮問題を扱う第1委員会が始まり、20日には各国が核軍縮を巡る立場を表明しました。
この中で、中国の傅聡軍縮大使は中国が核軍縮に取り組む姿勢を強調する一方で、日本が原子力発電所の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを47トン以上も保有しているうえ、国内には核武装を求める声も根強くあるとして、日本が核開発に乗り出す可能性があると指摘しました。
そして、「なぜ日本はこれほど大量のプルトニウムを保有しているのか。日本はごく短時間で核兵器を保有することができる状況にある」と述べ、日本側に説明を求めました。
これに対して日本の佐野利男軍縮大使は、日本はIAEA=国際原子力機関の査察を受け入れ、すべての核物質を監視下においているとしたうえで、「専守防衛を基本方針とする日本は、他国への軍事的な脅威になることはない。非核三原則も堅持している」と述べ、核武装の意図はないと強く反論しました。

689名無しさん:2015/10/24(土) 20:57:46
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00022309-hankyoreh-kr
日本の歴史教科書から軍国美談はいかに消えたか(1)
ハンギョレ新聞 10月24日(土)15時9分配信

朴槿恵(パク・クネ)政権が推進する韓国史教科書国定化方針に対して、日本の市民社会が憂慮している。彼らの反対理由を知るため、日本が1903年から施行した小学校教科書国定化の流れと、その結果作られた教科書の内容を調べてみた。そこで発見できたのは、教科書を通じて国民の精神を支配して、無謀な侵略戦争に若者たちを駆り立てた日本政府の悪しき本音だった。すべての悲劇は一件の偶然な紛失事故から始まった。

 日本が朝鮮の支配権などを巡ってロシアと一大決戦を行うべしという世論が高まった1902年11月のある日のことだった。 東京の品川駅周辺を歩いていた一人の住民が、田畑に落ちている革カバンを発見し警察に申告した。 カバンの中には手帳一冊と当時の教科書の大手出版社だった普及社の社長、山田禎三郎(1871〜1930)の名刺が入っていた。 警察にはすでに山田氏からカバンをなくしたという紛失届けが出されていたので、カバンは間違いなく山田氏のものだった。

 カバンを受け取った担当警察官は好奇心から手帳を開いて内容を覗き見た。 その中には韓国の広域自治体長に相当する日本の各県知事、視学官(奨学官)、その他教育関係者の名前とその横には金額のような小さな数字がびっしり記されていた。 それを見て何か尋常でないと感じた担当者は警視庁に連絡し、警視庁は東京地裁検事局にその事実を通知した。1カ月程度の内偵の末に検察はその年の12月17日、今回の事件を教科書出版社が教科書採択権限を持つ教育関係者らに大規模なわいろを上納したものと規定し、事件を公開捜査に切り替えた。 以後、日本の政官界を揺るがす大型贈賄スキャンダル「教科書疑獄事件」の始まりだった。

■修身・歴史・国語から国定化

 この事件を契機に日本政府は1887年5月、「教科用図書検定規則」制定以来16年間にわたり維持してきた小学校教科書の検定制度を撤廃し、本格的な国定化を進めることになる。 その名分はもちろん「国民の精神を統制するため」ではなく、「教科書採択を巡る業界の不正を一掃する」だった。

 今月12日、韓国政府が2017年度から中学・高校で使われることになる韓国史教科書を、朴正煕(パクチョンヒ)政権の維新時期に導入された国定制に回帰すると明らかにした後、それを憂慮する日本の市民社会の強い反発が相次いでいる。「子どもたちに渡すな!あぶない教科書大阪の会」など24の教科書・歴史関連市民団体は16日、声明で「かつて日本は日露戦争直前の1903年から敗戦の1945年までの42年間の長きにわたって国定教科書を使用し、その結果、多くの日本人が侵略戦争を『聖戦』と信じこみ、アジアの人々を殺戮した」と指摘した。 日本の朝日新聞も19日付社説で「民主化して30年近くたつ韓国は、多様な価値観が存在する先進国である。いまになってなぜ、歴史教科書のみを国定化せねばならないのか理解に苦しむ」と朴槿恵(パク・クネ)政権を遠回しに非難した。

 日本の市民社会はなぜ韓国の教科書制度に強い関心と憂慮を明らかにしているのだろうか。 その背景には日本人が過去の軍国主義時期に体験した辛い経験がある。

 日本のNHK放送が1982年5月に放映したドキュメンタリー「明治教科書疑獄事件 〜国定化への道〜」によれば、日本政府が教科書疑獄事件を活用して教科書の国定化を周到綿密に貫徹していく過程が描写されている。

 検察が事件を公開捜査に切り替えて1カ月にもならない1903年1月9日、教科書国定化案が閣議に提出され、続いて3カ月後の4月13日には小学校令が改定され、修身・日本史・地理・国語の4科目国定化が立法化された。 まさに電光石火のような動きだった。 当時、日本の国会で政府のこのような動きに反対したのは根本正議員(1851〜1933)だけだったと伝わる。

690名無しさん:2015/10/24(土) 20:57:58
>>689

 当時、日本の教科書国定化を指揮したのは、明治の軍人、児玉源太郎(1852〜1906)だった。児玉は事件発生の直前である1902年9月18日、桂太郎首相(1848〜1913、朝鮮強制併合当時の首相)に教科書界に蔓延したわいろ不正の摘発を急ぐよう手紙を送った。 わいろ事件の摘発を契機に国定化方針が確定すると、彼は1903年7月に桂内閣の内務大臣と文部大臣を兼任し、教科書国定化を本格的に指揮していく。 こうして見ると、日本の教科書国定化と戦争遂行のための「忠良な皇国臣民養成」はコインの両面だった。

 以後、日本の教科書は国民精神改造の道具に変わって行く。日本が最初に国定化を推進した科目が、人間の思想に関連する修身・歴史・国語科目だったという事実がこれを象徴的に示している。

 それとともに既存の検定制教科書の内容が大幅に修正され始める。 滋賀大学附属図書館が2006年11月に出した『近代日本の教科書のあゆみ-明治期から現在まで』によれば、「これまで多くの検定教科書が神代(日本の歴史で神話の時代に該当する時期)を省略してきたが、国定教科書では神代から始める歴史教育を復活させた」と指摘している。 これは日本の子供たちが自国の歴史を石器時代という“考古学的事実”ではなく「(日本の創造神である)天照大神は天皇陛下の先祖」という“主観的神話”から習い始めたことを意味するわけだ。 戦争末期に使われた『初等科国史』下巻は、日本が起こした満州事変と大東亜戦争を「東洋平和を確立するためのもの」と正当化し、「私たちは一生けんめいに勉強して…立派な臣民となり、天皇陛下の御ためにおつくし申しあげなければなりません」で終わっている。このような天皇中心の歴史観は、靖国思想などと結びついて「日本は神国なので絶対に戦争に負けない」 「天皇のために死んで靖国で会おう」という盲目的な国家観につながっていった。 当時の日本政府の宣伝戦がどれほど乱暴だったかは、朝鮮総督府が発行した機関紙である毎日新報の紙面をいくつか見るだけで容易に感じをつかむことができる。
(2)に続く。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:10月24日(土)15時33分

691名無しさん:2015/10/24(土) 20:59:36
>>690

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00022310-hankyoreh-kr
日本の歴史教科書から軍国美談はいかに消えたか(2)
ハンギョレ新聞 10月24日(土)15時9分配信

1902年、教科書わいろ事件を活用し 
1945年まで国定教科書を使用 
石器時代でなく建国神話で始まり 
盲目的国家観で戦争を美化 
侵略戦争を“聖戦”と信じこませ 
日本を占領した連合軍司令部の 
最初の措置は既存教科書にあった 
戦争美談を墨で消せとの命令 
形ばかりの検定制という批判はあるが 
“国定化”は良くないという合意がある

■ねつ造された「水兵の母」

 国民を戦争に動員するために日本政府が最も心血を注いだのは「戦争美談」だった。 当時の小学校5年用国語教科書に収録された美談「水兵の母」を見よう。

 明治27〜28年、戦争(日清戦争)が終わらんとしている時であった。ある日、軍艦高千穂の一水兵が手紙を読みながら泣いていた。通りかかったある大尉がこれを見て、余りにめめしいふるまひと思って、「こら、どうした。命が惜しくなったか。妻子がこひしくなったか。軍人となって、軍に出たのを男子の面目と思はず、そのありさまは何事だ」と鋭く叱った。水兵は驚いて立ちあがり、しばらく大尉の顔を見つめていたが、「それは余りなおことばです。私には、妻も子もありません。私も、日本男子です。何で命を惜しみませう。どうぞ、これをごらんください。」といって、その手紙をさし出した。

 兵士の母親が送った手紙であった。「聞けば、そなたは豊島沖の海戦(忠清南道牙山近海で起きた日清戦争の緒戦)にも出でず、八月十日の威海衛攻撃(日清戦争で日本軍の勝利が事実上決定された戦闘)とやらにも、かくべつの働きなかりし由、母はいかにも残念に思ひ候。何のために軍(いくさ)には出で候ぞ。一命を捨てて、君の御恩に報ゆるためには候はずや。村の方々は、朝に夕に、いろいろとやさしくお世話なしくだされ、一人の子が、御国のため軍に出でしことなれば、定めし不自由なることもあらん。何にてもえんりょなくいへと、しんせつに仰せくだされ候。母は、その方々の顔を見るごとに、そなたのふがひなきことが思ひ出されて、この胸は張りさくばかりにて候」

 中内敏夫・一橋大学名誉教授は著書『軍国美談と教科書』(1988年)でこのエピソードに関して、「名も無き母子家庭の老母とその息子、このような家庭の母親が一人息子を国家のために喜んで差し出して、天皇の戦争に身を捧げるよう願っているという文は、軍の指揮部が見れば国民教育の絶好の素材になっただろう」と指摘した。しかしこの母子の現実は日本軍部が願った模範的モデルとは相当な乖離があった。 水兵の実際のモデルは、現実には病弱で豊島沖海戦が起きる前に船から下りるよう命令を受けたことがあり、エピソードが出た後にほどなくして人々の目を避けて鹿児島県の故郷へ帰り3年後に病死したためだ。

 当時の軍国美談の中では現実を巧妙に歪曲したりねつ造したという疑いが濃厚なものが多い。 最も代表的なものは第1次上海事変が進行中だった1932年2月22日、上海郊外の鉄条網陣地を破壊するために爆薬筒を持って肉弾攻撃を敢行した江下武二、北川丞、作江伊之助の3人の工兵を指す「肉弾3勇士」の美談だ。当時、日本のマスコミは作戦遂行のために命を捧げた三勇士を称賛する記事を書き立てたが、兵士たちが亡くなったのは死を覚悟した勇猛な作戦の結果ではなく、導火線の長さを誤って計算した“ミス”だったことを暗示する関係者の証言が出てきた。

692名無しさん:2015/10/24(土) 20:59:47
>>691

 このような“神話ねつ造”は戦争を遂行した日本大本営の得意技だった。 大本営は特殊潜水艇に乗って1941年12月8日米国の真珠湾を攻撃した海軍の「九軍神」、日本軍として最初に守備隊全員が降参せずに決死抗戦し全員が死亡した「アッツ島玉砕」などを大々的に宣伝して戦争美化の道具として使った。 しかし九軍神の潜水艇は何ら軍事的成果を上げられなかった失敗した作戦であり、アッツ島の兵士は全員玉砕したのではなく一部は生き残り米軍の捕虜になったという事実が以後の研究と実態調査を通じて明らかになっている。 韓国で発見できる似た事例としては、1968年に「僕は共産党が嫌いです」という言葉を残して共産軍に殺害されたという「少年イ・スンボク」のエピソードが挙げられる。 このエピソードは永く国民学校道徳教科書に載り、その痕跡が今でも小学校の校庭の一画に放置された銅像として身近な所に残っている。

 日本の歴史教育が再び大転換することになった契機は1945年8月の敗戦だった。 戦争が終わった後、日本を占領した連合軍最高司令部(GHQ)は軍国主義的な教科書が日本を戦争の道に導いたという判断の下、どのように過去と断絶した新しい歴史教育を樹立するかを検討することになる。 占領軍が取った最初の措置は、既存の教科書から天照大神から始まる日本の建国神話や戦争美談を墨で消すよう命令することだった。 連合軍最高司令部は次に日本政府の介入を排除して民間学者が参加した新しい教科書の編纂に乗り出す。

 日本の歴史学者の家永三郎(1913〜2002)ら4人の学者が東京大学史料編纂所に集結したのは1946年5月17日だった。 彼らは連合軍最高司令部所属の米軍将校とともに、特定のイデオロギーを宣伝しない▽軍国主義・超国家主義的神道教育をしない▽天皇の業績が歴史の全てではない▽経済・文化など民衆の歴史を扱う、という原則に則り、新しい小学校用歴史教科書『国のあゆみ』を執筆する。当時の作業の意味について、家永三郎は1977年に放送されたNHK特集ドキュメンタリー「戦後教育の開始」で「不十分な教科書だったが、日本の歴史が神の降臨ではなく石器時代から始まるように変わったのは大きな意味があることだった」という証言を残している。 以後、日本は1948年に教科書検定制を復活させ、本格的な戦後歴史教育を始めることになる。

■歪曲教科書採択率が6.4%まで上がる

 それから60年余りの歳月が流れた今、日本の検定制は再び大きな危機に直面している。 2012年12月に登場した安倍晋三政権が、教科書の執筆と検定の基準になる学習指導要領解説書や教科書検定基準などを詳細化し、各出版社が教科書にどのような内容を入れるかを逐一定めているためだ。 そのため日本の市民団体は現在の教科書検定制について「形だけの検定であり事実上の国定制」と批判している。 その上、安倍政権は日本の侵略戦争を美化する育鵬社教科書など歴史わい曲教科書が一線の学校でより多く採択されるよう種々の支援を惜しまない。 それによって2001年に登場した歴史歪曲教科書は、2016年から使われる中学校教科書基準で採択率が6.4%まで上がっている。

 それでも日本では、韓国の朴槿恵政権のように戦争前のような国定制に回帰しようとする動きはない。 過去の歴史の悲劇を通じて“越えてはならない一線”に対する社会的合意が存在するためだ。 かつての日本の教科書の問題点を指摘したが、維新時期の韓国の国定教科書も盲目的な愛国心と反共主義を強調したという点で特に変わりはないと言えるだろう。 歴史は朴槿恵政権の今回の措置をどのように記憶するだろうか。 時代に逆行する韓国政府の国定化の試みは成功できるだろうか。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:10月24日(土)15時9分

693とはずがたり:2015/10/24(土) 21:18:19
解りやすいかもw

護国戦争
http://hosokawa18.exblog.jp/17900986/
北洋軍閥についてゲームの攻略本チックに見ていきます。

694名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:22
http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150810-OYT8T50122.html
占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102
2015年08月11日 05時20分

おくの・せいすけ 1913年、奈良県生まれ。東大法卒。38年、内務省入省。自治事務次官を経て63年衆院選に自民党公認で初当選し、13回連続当選。文相、法相、国土庁長官などを歴任し、2003年に政界を引退した。現在、アジア福祉教育財団名誉会長。

 「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

 ポツダム宣言受諾について、9日深夜から御前会議をやったが、内閣としては閣議で決定できていなかった。内務大臣(内相)の安倍源基さんは「日本の国体はどうなるのか」と執拗に迫り、受諾を承知しなかった。「国体護持」の考えが皆にしみこんでいたからね。内相が頑張っている中、我々は作業を進めた。

 官房長たちとの会議の主な議題は、軍の物資の処理だった。「軍が持っている物資は膨大だが、このままでは没収される恐れがある。だが国民に行き渡っていれば、その恐れはないだろう」と判断し、占領前に、軍が保有する食糧や衣料品などの物資を困窮する国民に早く分けようという方針を決めた。

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

 問題は、軍隊をどう収めるか。下手な収め方をしたら軍が決起するからね。大変な状況だった。

695名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:34
>>694


役所一転「上司」はGHQ

 1945年3月、東京大空襲を経験した。翌日、私は霞が関から内務省の職員50人を連れ、下谷(現・台東区)の区役所の応援に行った。広場にたくさんの人が荷物をリヤカーに積んで逃げてきて、焼夷しょうい弾で焼け死んでいた。どぶ川をさらうたびに死体が上がった。

 あんな場所にリヤカーで集まったら、焼夷弾に焼かれるのは当たり前だよ。住民への避難指導が十分に行われていなかった。「こんなことでは戦争にならない」という感じを強く持った。

 5月の「山の手大空襲」では、今の渋谷区にあった自宅がやられかけた。近くまで焼夷弾が落ちてきたので雨戸を閉め、家内は荷物を防空壕ごうへ放り込み、子どもを背負ってどこにでも逃げられるようにした。

 焼夷弾がどこに落ちるか見定めようと空を見上げていると風向きが変わり、焼けずにすんだ。運だよ。

 翌朝は歩いて内務省に向かった。表参道まで来ると、熱風を避けようとしたのか、鉄筋の建物の脇で人が重なり合って死んでいた。赤坂の辺りでも人間が燃え、黒い小さな塊になっていた。

 4月初めだったか、陸軍省から内務省に、「沖縄は放棄せざるをえないが、降伏はしない。敵を本土に迎え撃って必ず最後の勝利を収めるから、敵が上陸してきても各行政組織が統一的に運営されるようにしてほしい」と連絡してきた。もう一つ、「国民も軍に協力してほしい」とも言ってきた。この時、次官の灘尾さんが私の耳元でささやいた言葉を今でも覚えている。

 「軍は国民を道連れにしようとしている。けしからん」「国民に協力を、と言われても、竹やりぐらいしかないじゃないか」

 それが灘尾さんの気持ちだったが、内務省に戦争を終わらせる力はなかった。私は軍の要請を受け、敵の本土上陸後も行政を維持できるよう、地方総監府(※)の官制原案を書いた。

 6、7月に灘尾さんと一緒に九州を一回りした。国民に全く戦意がないことがよくわかった。とにかく受け身だった。

 7月26日、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、陸軍は最後まで強硬だった。8月10日には受諾の聖断が下るが、陸軍は徹底抗戦を訴えていて内情は大変だった。

 15日未明には、天皇陛下が事前収録した玉音ぎょくおん放送の録音盤を奪おうと、反乱軍が探し回るんだよ。見つからなかったのは幸いだった。そして最後は阿南惟幾これちか陸相が腹をかききって……。天皇陛下に謝って自殺することで、軍は収まったんだと思うなあ。

 15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

占領下の日本 改めて実感

 玉音放送の内容は聞き取りにくかったな。でも事前に大体分かっていたからね。みんな宮城きゅうじょうの前に行って頭を下げ、泣いたもんだよ。

 軍隊を収めるのは大変だったと思うな。最後はやっぱり、天皇陛下の力だな。天皇の力なくしては戦争を終結できなかったね。それは事実だと思うよ。

 玉音放送の後、私は愛知県庁に置かれていた地方総監府を訪れ、古井喜実知事(戦後、厚相など歴任)に、指令書と灘尾さんの「後は頼む」と書いた手紙を渡した。古井さんは私の媒酌人で、灘尾さんが辞めた後の内務次官になった。

 名古屋からは15日夜のうちに帰京した。ところが翌日だったか、高熱が出た。パラチフスだった。それから長く仕事を休んだ。

 出勤は約3か月後。連合国軍総司令部(GHQ)から最初に命じられたのは、「内務省が地方に対して持っている権限を洗いざらい書いて出せ」という仕事だった。

 日本が占領下にあることを改めて実感したな。

(聞き手 編集委員 福元竜哉 撮影 鈴木竜三)
 ※地方総監府 連合国軍の本土上陸で国土が分断される事態に備え、1945年6月、内務省が全国8区域(北海、東北、関東信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州)に設置した地方行政機関。地方総監には、管内の知事への指揮権など強力な権限が与えられた。同年11月に廃止された。

696名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:44
>>695


「日本再起のきっかけに」…天皇の地方巡幸

 内務官僚だった奥野さんは、静岡、山梨両県に続く3か所目の地方赴任として、1941年4月、鹿児島県庁に配属された。その8か月後、太平洋戦争に突入し、奥野さんは戦時下で役人生活を送った。

 この年、鹿児島県庁を視察に訪れた東条英機首相(当時)と県職員たちとの記念写真に納まっている。東条首相に対しては、「家々のゴミ箱をのぞいて回り、国民に食料が行き渡っているかどうか調べた、と言われたが、あれはパフォーマンスだった」と冷ややかだ。

 奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。

 強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

 「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

 戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。

(福元)
2015年08月11日 05時20分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

697名無しさん:2015/10/25(日) 18:37:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151025-00000052-jij-n_ame
83年、戦争「一触即発」=ソ連、演習偽装の攻撃警戒―米機密文書
時事通信 10月25日(日)16時17分配信

 【ワシントン時事】米ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は24日、冷戦時代の西側の先制核攻撃に対するソ連の警戒の深さを分析した米機密文書を公開した。
 1983年に行われた北大西洋条約機構(NATO)の軍事演習の際、「米国は不用意にソ連との関係を一触即発の状態に陥れた恐れがある」と指摘している。
 NATOは当時、核戦争を想定した演習を毎年実施。83年11月の「エイブル・アーチャー(優れた射手)」と題した演習では、同9月の大韓航空機撃墜事件を受け、対ソ関係が緊張する中、実物に似た模擬核弾頭を搭載した航空機を動員するなど、新たな手法を取り入れた。
 これに対し、ソ連側は東ドイツをはじめとして、空軍が高度な警戒状態に入り、情報収集活動も大幅に強化。実際に危機が起きた時と同様の警戒態勢を敷いた。報告書は「米国が演習を隠れみのに利用して攻撃に着手するとソ連軍首脳は真剣に危惧していた可能性がある。少なくともソ連にとって戦争の恐怖は現実味を帯びていた」と結論付けた。
 公開されたのは、1990年2月に米大統領の諮問機関、対外情報諮問委員会に提出された報告書。公文書館が情報開示請求を通じ入手した。

698名無しさん:2015/10/26(月) 22:44:54
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015102500216
安倍首相がコンサート鑑賞=日本人抑留者建設の劇場で-ウズベキスタン

 【タシケント時事】安倍晋三首相は25日午後(日本時間同日夜)、昭恵夫人とともにウズベキスタンの首都タシケントにあるナボイ劇場を訪れ、コンサートを鑑賞した。

 同劇場は第2次世界大戦後、旧ソ連による強制連行で抑留された日本人が建設に携わったもので、1966年の大地震でも倒壊を免れた。コンサートでは、出演者が日本の唱歌「ふるさと」を合唱する場面もあり、首相は盛んに拍手を送っていた。
 これに先立ち、首相と昭恵夫人は日本人抑留者が埋葬された墓地を参拝した。 (2015/10/25-23:53)

699名無しさん:2015/10/26(月) 22:46:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151022-00039496-crankinn-movi
アンジー監督作『アンブロークン』公開決定、日本軍捕虜となった元五輪選手の半生描く
クランクイン! 10月22日(木)8時0分配信

 ハリウッドの人気女優アンジェリーナ・ジョリーが映画監督として、第二次世界大戦で日本軍の捕虜となったオリンピック・アスリートの半生を描いた最新作『不屈の男 アンブロークン』の日本公開が決定した。

 映画の舞台が日本でもあるにも関わらず、国内公開がないことに違和感を感じた製作のユニバーサル・スタジオと配給のビターズ・エンドが、「戦争を描くいろいろな形の映画があるべき」というスタンスから合意。シアター・イメージフォーラムの賛同も得て、日本での公開決定が遂に実現。

 本作の主人公は、1936年のベルリン・オリンピック5000メートルで驚異的なタイムを叩き出したルイ。第二次世界大戦で空軍パイロットとなるも、搭乗していた爆撃機が海に不時着。47日間の漂流の末、日本軍に見つかり、捕虜として収容所に送られてしまう。収容所では、ルイに対して病的な執着を見せるワタナベ伍長の執拗な虐待が待ち構えていたが、彼は不屈の精神で耐え抜き、終戦によって遂に解放されるのだった。

 ルイ役を演じるは『300 <スリーハンドレッド> 〜帝国の進撃〜』『名もなき塀の中の王』のイギリス人俳優ジャック・オコンネル。そして、ワタナベ伍長役に抜擢されたのは、ミュージシャンのMIYAVI。アンジーに才能を認められて、俳優としてハリウッドデビューを飾った。

 『不屈の男 アンブロークン』は、2016年2月よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー。

700名無しさん:2015/10/26(月) 22:48:30
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00000001-withnews-ent
これは「反日」映画なのか? 批判を覚悟、捕虜虐待の軍曹演じた決意 「アンブロークン」のMIYAVI
withnews 10月25日(日)10時0分配信

 「日本軍の捕虜虐待を強調している」――。作品や原作に対するそんな反発が米国での公開前からネットを中心に広がり、日本での公開が一時は暗礁に乗り上げたアンジェリーナ・ジョリー監督の米映画「不屈の男 アンブロークン」。「反日」批判から劇場探しも難航したが、ようやく来年2月、まずは東京で公開されることになった。世界ツアーなどを重ねるミュージシャンのMIYAVIさん(34)が、捕虜に苛烈な態度をとり続けた実在の渡辺睦裕軍曹役をなぜ演じ、批判をどう受け止めたか。ロサンゼルスで語ってもらった。

「受けるつもりはありませんでした」
 2013年5月ごろ、東京の事務所にキャスティングディレクターの奈良橋陽子さんがやって来ました。彼女は映画については触れず、「どういう音楽をしてるんですか」「どんな映画が好きですか」と聞いてきた。「どういう俳優が好きですか」という質問には、ほんとにたまたまなんですが、「アンジェリーナ・ジョリー」と答えた。奈良橋さんはそれでも何も言わず、「英語で何か話してください」と僕の動画を撮影しました。

 出演依頼について聞かされたのはその後です。アンジーはネットで僕の動画も見たようです。

 でも、受けるつもりはありませんでした。まず、自分には演技の経験がない。脚本の内容を聞き、賛否両論を巻き起こす可能性を感じたこともありました。

 アンジーと会ったのはその年の7月。ブラッド・ピット主演「ワールド・ウォーZ」のプロモーションのため、一緒に来日していた。ブラッドはすごく気さくで、部屋に入ってきた瞬間、「WHAT’S MY NAME? WHAT’S MY NAME?」って、僕の曲を口ずさんだんですよ。アンジーをすごくサポートしてました。

 でもその時も、出演は決心していなかった。だけどアンジーが開口一番、こう言ったんです。「ルーイ(ザンペリーニ)の人生を通じて、どれだけ人間が強くあれるか、ゆるせるかというメッセージを届けたい。そのためには軍曹の役が必要。すごくセンシティブだけれども、そこを乗り越えたメッセージを日本の人にも伝えたい」。僕が音楽でやろうとしていることと、すごく近いと思った。

701名無しさん:2015/10/26(月) 22:48:55
>>700

「どのみち誰かがこの役をやるなら、僕が」
 戦争といってもいろんな見方や意見、立場がある。同じ日本軍にも捕虜と一緒に音楽を作ったり、いい関係を作ったりした人たちもいる。その中で、渡辺軍曹がどうであったか。お会いしたことがないので僕たちの描写がすべて正しいとは言えませんが、戦争という、一部を除いて誰も望まない状況の中で、渡辺氏も含め、みんなが葛藤を抱えていたと思う。

 ルーイ自身、本当に苦しい時間を過ごした日本に戻ってきて、地元の人たちや子どもたちと長野五輪の聖火リレーで走り、みんなが笑顔になった。アンジーはこの瞬間にかけて全てを作り上げた。僕もその実際の映像を見て、やる意義があると思った。これを届けるためなら僕は悪役にだってなるし、でもただの悪役ではなく、人間性を含めて演じたいなと思いました。どれだけできるか、不安もありましたが、どのみち誰かがこの役をやるなら、僕が責任をもってやりたいと思いました。

 渡辺謙さんたち日本の俳優を世界に出そうとやってきた奈良橋さんがこの作品に関わっていることも、出演を決めるうえで、すごく大きな判断材料になりました。

「撮影中は、よく瞑想してました」
 撮影中もいろいろ悩みながら、自分なりに、憂いの部分を表情や言葉で出すようにしました。撮影中は、よく瞑想(めいそう)してましたね。

 渡辺氏の手記も読みましたが、彼もお母さんに会いたい気持ちがあった。戦争中も、日本が負けていく中で、恐れがあったと思う。

 ルーイとは米国で会うことができた。渡辺氏と会うことができなかったルーイが、僕と会ってどんな反応をするか、アンジーもプロデューサーもすごくナーバスになっていたんですが、ルーイはほんとに陽気で、一緒に連れて行った僕の娘たちと遊んだりして、チャーミングだった。
 ルーイは「僕は何もいま思っていない。渡辺氏に会いたかったのは、それを伝えたかったためだ。長野五輪の聖火リレーに参加したのもほんとに大事な思い出だ」と話していた。渡辺氏の親族にも伝えてほしい、と言っていた。

 同じ直江津捕虜収容所にいた元米兵にも会いました。彼は戦後、直江津に行っていて、実は日本食が一番好きだそうです。

702名無しさん:2015/10/26(月) 22:49:17
>>701

「『偏った反日映画』とは、まったく思っていない」
 2020年に東京五輪を迎える。同じことを絶対、繰り返しちゃいけない。過去を忘れると、同じことを繰り返してしまいかねないと思う。戦争がいかにむごいか、僕たちに何をもたらすか。この作品は国境を超えた教訓になると僕は思う。日本がダメだという話ではない。

 この作品が「偏った反日映画」だとは、僕は一貫してまったく思っていない。むしろ逆です。原作の記述には異論があり、だから僕は懸念していました。でもアンジーは、映画は原作とは切り離して、ルーイの人生や強さに焦点を当てたいと言った。正直、日本人として見るのは心が痛い部分もありますが、日本が70年、戦争してこなかったことに対して、もっとプライドや自信を持つべきだと思う。あの戦争を乗り越えられているなら、受け入れられるはずだと僕は思う。ルーイも、乗り越えた時に初めてゆるすことができたんだと思う。

 米国の人たち、日本のことが大好きですよ。日本がその後、戦争していないことをみんな知っている。それゆえの敬意がある。日本を嫌いな人に会ったことないですよ。「シンドラーのリスト」を見てドイツを嫌いにならないでしょう。

 一方、この映画に出演したことで、ネットで僕は「反日」だと言われています。オヤジは在日コリアンから日本国籍を取得、母は日本人。つまり僕はハーフコリアンですが、日本人として生まれ、日本人として育ってきた。韓国語はまったくしゃべれないし、サッカーや野球の日韓戦では当たり前に日本を応援してきた。海外でプレーする時も日本人としてやってきた。僕は日本で活動し、ファンもたくさんいる。日本のことを悪く言うだけの映画だったら出るつもりはなかった。

「もうこれからは当たり前に世界の中の日本」
 日本の人たちにもこの作品を見てほしい。今年1月の放送映画批評家協会賞授賞式でも、隣に座っていたアンジーが「ルーイの人生を通して平和のメッセージが届けばいいね」って話していました。

 昨年6月、ロサンゼルスに拠点を移しました。日本向け、世界向け(と分けるの)じゃなくて、もうこれからは当たり前に世界の中の日本。それが音楽家としてあるべき姿だと思う。

 昨年末にNHK紅白歌合戦の出演が終わると、すぐに米ナッシュビルに飛び、(複数のミュージシャンで楽曲を作る)「ライティング・セッション」をやった。放送映画批評家協会賞授賞式では、以前日本で前座をやったことのあるジャレッド・レトに久しぶりに会い、「『アンブロークン』見た。すごいよかったよ〜」と言われました。ニューヨークではクリス・コーネルと会ったりして。米国ではグラミー賞受賞者など歴史を作ってきた人たちと会える機会が多くて、刺激を受ける。音楽家として、そういう環境に自分を置きたかった。

703名無しさん:2015/10/26(月) 22:49:57
>>702

「外のことを知らないと、自分のこともわからなくなる」
 英語を勉強し始めたのは約8年前。それまでアジアや欧州に行ったことはありましたが、通訳を介したコミュニケーションと、直接やりとりするのとでは全然違うと感じた。音楽に言葉はいらないとはいえ、僕はもっともっと勉強したいと思い、当時、音楽活動をいったんやめてロサンゼルスに来ました。

 在米中は発電機を買って、カリフォルニア州のベニスやサンタモニカの海岸沿いでストリートパフォーマンスをやってました。ダンサーの友達を作り、踊ってもらって。ロックやジャズ、ヒップホップ、ポップは西洋の文化。そこから何かを得るには英語が必要だった。その中でアジア人の自分がギターを弾く意味を見つけたかった。

 語学学校に行き、わからない単語はすぐ聞き、友達をいっぱい作った。毎晩勉強しましたが、ほんとに、泣いてました。その時間は本来音楽に費やせるはずなのに、英語という基本スキルがないことへのフラストレーションがあった。今でも、それはある。

 渡米は5歳と4歳の娘たちの教育のためでもあります。これからの時代、ネットと英語は必須。日本語の教育もし、日本文化も大事にしながらですが、世界で当たり前に戦える土壌にいさせてあげたい。外のことを知らないと、自分のこともわからなくなるのではないか。そんな風に思っています。(聞き手・藤えりか)

704名無しさん:2015/11/02(月) 22:57:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151031-00000003-sasahi-peo
【秘話発掘】横井庄一さんは殺される寸前だった! 知られざる“元日本兵生還劇”の舞台裏〈dot.〉
dot. 10月31日(土)7時14分配信

 終戦を知らないまま、グアム島に28年間も潜伏し、奇跡的な生還を果たした元日本兵・横井庄一さん(享年82)が生誕して100年。週刊朝日では、現地で横井さんを発見した男性を07年8月に取材している。その際にこの男性は、これまで語られなかった“新事実”を明かしていた。年老いた証言者が見た光景とは--。(週刊朝日2007年8月24日号に掲載した記事をニュースサイト「dot.」編集部が再編集しました。年齢は07年8月当時)

 「恥ずかしながら生きながらえて帰って参りました」

 1972年、28年ぶりに祖国の土を踏んだ元日本兵・横井庄一さんが発した第一声は、あまりにも有名である。

 太平洋戦争の記憶が薄らぎつつあった時代に、日本社会に衝撃を与えた奇跡の生還劇。横井さんが亡くなって10年目の7月末、本誌は横井さんの発見者であるマニュエル・デグラシア氏(74)をグアム島に訪ねて、あらためて発見当時の状況を語ってもらった--。

 1972年1月24日、グアム島南部のタロホホ村に住むデグラシアさんは、義兄と2人の息子と一緒に、タロホホ川付近のジャングルへ鹿狩りに出かけた。夕暮れが近づき、周囲が暗くなりつつあった。

 義兄の後方を歩いていたデグラシアさんは、獲物がいないか辺りをうかがっていた。すると、生い茂った草むらがゴソゴソと揺れているのが見えたという。

「最初は村の猟師仲間だと思いました。左から右に動いた影を見ると、どうも村人ではない。目を凝らして見たら、ヒゲがのび放題でボロボロの服を着た日本人らしき男だったんです」(デグラシアさん)

 グアム島南部では戦後になってからも、旧日本兵が発見されていた。魚を捕るウケを右肩に担ぎ、左手にもうひとつのウケを持って腰をかがめながら歩く日本人らしき男性。その人こそが横井さんだった。

 デグラシアさんは、目の前に現れた横井さんを見ると、大きな声で叫んだ。

 「日本兵だ!」

 突然の出来事に顔を引きつらせた横井さんは、両手を合わせて命乞いをするようなしぐさをした。

 横井さんは当時の状況を、手記『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』(文藝春秋)にこう記している。

〈私は無我夢中で目前の現地人に飛びついて銃をひったくりに行きましたが、体力の相違か無念にも押し倒されてしまいました。「ニホンヘイカ」と日本語で尋ねられ、やがて、横にいた何人かが「ツイテコイ」と両側から私を立たせました。で、私は「もうどうでもせよ」という気持で、あとからしょんぼりしょんぼりとついて行きました〉

 だが、デグラシアさんによれば、実際に見た状況と手記の内容は食い違っているという。

「横井さんは体力が衰えていたためでしょうか、ほとんど抵抗しなかった。あまり伝わっていない話ですが、実は私の義兄は横井さんを殴りつけたうえに、射殺しようとして銃の引き金を引こうとしたんです」

 射殺直前--。手記にはこのような記述はいっさい見当たらない。いったい、どういうことなのか。

 デグラシアさんの記憶をもとに、当時の状況を振り返ってみよう。

 デグラシアさんの義兄は横井さんが日本兵だと認識すると、素手で殴りつけて失神させ、殺意に満ちた恐ろしい形相で銃口を向けたという。

 その様子を見て驚いたデグラシアさんは、大声でこう叫んだ。

 「やめろ!」

 一緒にいた息子とともに羽交い締めにして制止しようとしたが、義兄はそれを振り切ってなお、引き金を引こうとした。デグラシアさんは再び叫んだ。

 「彼を殺してしまったら、われわれも殺人者になってしまう!」

 その言葉を聞いた義兄は我に返り、横井さんの射殺を思いとどまったという。

 ここまで横井さんに憎しみをぶつけた理由は何だったのか。残念ながら、義兄は7年前に亡くなったが、デグラシアさんがその心境をこう代弁した。

705名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:07
>>704

●肉親を殺害した日本兵への恨み

 「実は義兄は日本兵をひどく恨んでいた。1950年にジャングルに潜んでいた残留日本兵に弟と甥を殺されていたんです。殺され方もあまりに無残だった。銃殺されたり、ナタのような刃物で切り殺された。肉親を奪われた義兄の怒りはすさまじく、『絶対に犯人を捜し出してやる』とよく言っていたものです。それに2人の遺体は、横井さんを発見した場所の近くで見つかっていたんです」

 事実、横井さんが“容疑者”として疑われていたフシもある。

 グアムの警察当局は発見当初、横井さんが先の2人を殺害した可能性が否定できないとみていたようだ。殺人事件の再捜査を求めるか否か、警察はデグラシアさんの義母に問うてきたというのだ。

 これに対して、義母は警察の申し出を断ったうえでこう語ったという。

「遺体となってしまったが、子供は私のもとに帰ってきた。すでに犯人は許していますので、捜査をやり直す必要はありません」

 義母はカトリック信者として、残留日本兵もまた戦争の被害者で、責めることはできないという慈悲の精神を持っていた--デグラシアさんは義母の心情を代弁している。

 「日本兵も被害者」。日本兵に子供を殺された母親にそう言わせたグアム島の戦争とは、そもそもどんなものだったのか。

 太平洋戦争の主導権を米軍に握られていた1944年。サイパン島を攻略した米軍は7月21日、約5万5千人の兵力でグアム島に上陸した。

 グアム島は戦前、米国領だったが、開戦直後に日本軍に占領されていた。

 だが、6月に米軍はマリアナ沖海戦で日本海軍の機動部隊を壊滅させ、マリアナ諸島の制海権、制空権を奪取した。グアム島に残された約2万人の日本軍守備隊は、援軍や補給のない絶望的な戦いを強いられた。

 日本軍は7月25日、上陸した米軍に対してマンガン山から夜襲による総攻撃を試みるが、米軍の機銃掃射の前に次々に倒れ、3日後には司令官の高品彪中将が戦死する。

 生き残った日本軍は密林地帯に逃れて抵抗を試みるが、8月11日には小畑英良中将が大本営に向けて「己の身を以て、太平洋の防波堤たらん」とした決別の電報を打った後、叉木山(マタグアック)の地下壕で自決する。日本軍の組織的戦闘は終結し、米軍は全島を制圧した。

 日本軍は捕虜になることを厳しく禁じていたため、食料も武器もなく追い詰められた兵士には自決した者も多い。2万人いた日本兵のほとんどが二度と祖国の土を踏むことはなかった。追い詰められた日本兵が、現地住民を虐殺する事件も発生した。
 グアム島在住の日本人男性(50)はこう語る。

「私も30年ぐらい住んでいますが、いまだに高齢者から肉親が日本兵に殺された話を聞くことが多い。日本兵につけられた傷跡を見せてくる人もいます」

 島南部の密林に逃げた兵士のなかには、横井さんもいた。終戦後も投降を拒み続け、28年間、ジャングルのなかで自給自足の生活を続けることになる。

 日本軍が玉砕した叉木山は現在、「南太平洋戦没者慰霊公苑」として整備されている。日米両軍の戦没者を祭る慰霊塔が設置されているほか、敷地内の「平和寺」と書かれた建物には仏像も安置されている。ただ、日本軍兵士の鉄兜などの遺品が一部ガラスケースに展示してあるが、乱雑に置かれ、まったく手入れされていないようだ。

「以前に比べて訪れる人も少なくなってきています。駐グアム米軍が定期的に芝刈りを行っていますが、国営ではないので管理は不十分な状態です」(前出の日本人男性)

 一方、アサン湾の高台には現地住民と米軍の戦没者の追悼碑があった。現地住民は約1万6千人、米軍は約2500人の戦没者の一人ひとりの名前が金属製プレートに刻まれている。ところが、今年7月上旬には、一部のプレートが剥がされ、くず鉄として中国に輸出される事件も発生している。
 戦争の記憶は確実に薄らいできているのだ。

706名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:25
>>705

●一本橋を悠々と渡った横井さん

 横井さんの発見時に話を戻そう。

 デグラシアさんは「不測の事態」に備えて、横井さんを後ろ手に縛り、安全な場所に保護しようとした。

 「発見現場から400メートルほど離れた畑に、私のジープを駐車していました。それに乗せて自宅まで連れていこうと思いました」(デグラシアさん)

 横井さんは空腹を我慢できなかったのか、「食べもの、ある?」と日本語で尋ねてきたという。

 デグラシアさんは、息子が携帯していたパンケーキを横井さんに食べさせた。

「パンケーキは口のなかでパサつくから、一口食べただけで、それ以上は食べなかった。水も飲ませてあげました」(同)

 印象に残っている光景もある。ジープを止めてある場所に行く途中、丸太で作った“一本橋”を渡ったときの出来事だ。デグラシアさんは縛られたままでは横井さんが渡りにくいと思い、縄を解こうとした。

 だが、横井さんは後ろ手のまま、身軽に橋を渡っていった。その姿を見たデグラシアさんは、横井さんの身体能力の高さに驚いたという。

「手を縛られたまま、軽々と渡っていくので、たいへんびっくりしました。現地の人でもこわごわ渡っている橋でしたから」
 横井さんを乗せた車が自宅前に着くと、音を聞きつけた子供たちが家から飛び出してきた。

 「獲物は捕れたの?」と子供たちが目を輝かせて尋ねると、「これが獲物だよ」とデグラシアさんは横井さんを指さした。

 子供たちが不思議そうに見つめながら、「この人、誰なの?」と尋ねると、「名前は知らない」とデグラシアさんは答えたという。

 その後、ロープを切って横井さんを家の中に招き入れた。デグラシアさんは横井さんがおなかを空かしていると思い、家族に食事の支度をするように指示した。

 目の前に出されたのは、牛のテールスープと白米、マカロ(アジに似た魚)のスープなどだった。

「白米はペロッと平らげたけど、テールスープの牛肉は残していました。牛肉は口に合わなかったようですけど、マカロのスープは魚も全部食べました」

 デグラシアさんは、日本兵を捕まえたことを伝えるため、タロホホ村の村長がいる事務所に出向いたが、村長が通夜で不在だったため、場所を教えてもらい、村長の行き先に向かった。

 通夜に出席していた村長を呼び出して、日本兵を保護したことを伝えた。だが、まったく信じてもらえなかったという。

「村長は『ウソだろ』と言って、なかなか信じてくれなかった。私が『本当ですよ』と強く言うと、村長は非常に驚いていました」

 デグラシアさんは、横井さんから事情を聴くため、村長の事務所に連れていった。通訳として、現地住民と結婚した沖縄出身の女性に協力を仰いだ。警察や政府など関係各所に連絡すると、パトカーや白バイが村長の事務所に集結した。

707名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:35
>>706

●「殺害されても仕方ない状況」

 「私は、横井さんが村長の質問に答える様子をそばで見ていた。聞かれた質問には時間をかけて答えていた。自分が置かれた状況を整理できなかったのか、横を向いたり、上を向いたりして、まるで言葉を探しているようだった。困惑した表情も浮かべていた。殺されるのではないかと恐れていたのでしょう」(デグラシアさん)

 確かに、横井さんは警戒心を解いていなかったようだ。このときの状況について、前出の手記ではこう記されている。

〈家の中から日本人らしい人が出てきて日本語で何か訊かれたりしましたが、ハッキリ覚えておりません。そのうえ警官が来て、村の連中も物見に押しかけてきて、部屋中ごった返すなかで調べられました。多少日本語もまじっていたようですが訊かれる意味はろくに分らず、まるで見世物みたいに引き回されている気持でした〉

 横井さんは15年間、タロホホ川流域の洞穴を住み家にしていた。昼間は魚やエビ、ネズミなどを捕獲したほか、ジャングルの植物を口にして飢えをしのいだ。

 現在、横井さんが住んでいた洞穴はどうなっているのか。記者も実際に確認しようと試みたが、現地住民によると、すでに大半が崩落しており、近くに立ち寄ることができず、放置されている状態だという。

 横井さんの妻、美保子さん(79)は、夫が発見された翌年に横井さんと洞穴を見学している。

「当時はまだ縦穴が残っている状態で、下まで下りることができました。ですが、横穴は天井がすでに崩れており、奥まで行くことができませんでした。内部はたいへん蒸し暑いうえに息苦しかったことを覚えています。こんなところで生活していたなんて、信じることができませんでした」

 ところで、美保子さんは、横井さんが「銃殺寸前」だったことを知っていたのだろうか。

「いえ、主人からは何も聞いていません。初めてお聞きしました。現地の方は日本軍に対する感情がよくないので、主人が発見された時点で殺されても仕方ない状況だったと考えています。ケガもなく、主人を日本へ無事に帰してくださりたいへん感謝しております」(美保子さん)

 かりに発見者がデグラシアさんでなければ、横井さんが過ごした日本での“第二の人生”はなかったかもしれない。

(金子哲士)

708とはずがたり:2015/11/12(木) 13:43:38
中国にはなぜ「親日派」がいないのか(『橘玲の中国私論』あとがき)
橘玲 | 作家
2015年3月16日 16時11分配信
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tachibanaakira/20150316-00043897/

中国には「知日派」はいても「親日派」はいない。中国で「親日」のレッテルを貼られると、「漢奸」「売国奴」として社会的に抹殺されてしまうからだ。

これには歴史的な経緯がある。

日中戦争が泥沼化し、首都南京を攻略しても終戦のきっかけがつかめないなか、軍部は謀略によって傀儡政権を樹立することを計画する。白羽の矢が立てられたのは国民党の創設メンバーでありながら蒋介石と対立していた汪兆銘で、参謀本部第八(俗称「謀略」)課長影佐禎昭(かげささだあき)らが工作の中心となった。

1938年7月、汪兆銘の密使として極秘裏に日本を訪れた国民党政府の外交官、高宗武に対し、陸軍大臣、板垣征四郎は「日本は従来の因縁によって、どうしても蒋介石とは両立せぬ、もし蒋に代わって汪兆銘が出るならば、条件を寛大にし,、十分面子を立てるようにして、決して漢奸に終らしめることをしない」と約束した。

日本の敗戦によって、南京の傀儡政府も崩壊した。汪兆銘は終戦直前に病死していたが、その後を継いだ陳公博ら政権要人の亡命を日本政府は受け入れた。だが「戦勝国」である中国国民党政府から彼らの逮捕・送還を要求されると、政府と外務省はパニックに陥った。

外務省の決めた対応策は、「日本政府が信義をおろそかにするものではないことを力説する」としながらも、「結論的に日本政府の公式的な意見は、これを述べることなく、逆に陳主席の意向を引き出し、その次第によってあらためて処置を考える」というものだった。陳公博らの亡命工作を指導した小川哲雄(南京政府軍事顧問兼経済顧問補佐)はこれについて、「要約すれば、日本側から、中国に帰ってくださいとは、とうてい言えないが、帰ってもらえば助かる。何とか主席の面子を傷つけることなく、帰国の雰囲気に話をもってゆきたいということである。誠に虫のよい話。もはや正面きった信義論などどこかに吹き飛んで、厳しい現実に立った妥協が全面に出てきた」と述べている(劉傑『漢奸裁判』中公新書)。

日本に居場所のなくなった陳公博は中国に帰国し、ただちに処刑された。南京政府首相・汪兆銘は、敵国・金と和解するために愛国の英雄、岳飛を処刑した南宋の宰相、秦檜(しんかい)と並び、中国の歴史上最悪の漢奸となり果てた。日本の政治家や官僚は保身のために平然と「信義」を捨て、彼らを見殺しにしたのだ――こうして「親日」と「売国奴」は等号で結ばれることになった。

日本の保守派には中国の歴史認識や反日教育を批判するひとが多いが、元をただせばそこにはすべて理由がある。彼らがときに異常なまでに激高するのは、日本が侵略者であるかぎり、中国側の主張に理があることがわかっているからだろう。理屈で説得できなければ、あとは相手を恫喝するほかはない。

709名無しさん:2015/11/12(木) 22:59:20
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151111-00000002-sundaym-pol
<サンデー時評>日本しか発信できないもの 核めぐる2人の語り部物語
mainichibooks.com 11月11日(水)11時39分配信

 ◇倉重篤郎のサンデー時評 連載75

しつこいようだが、ラグビーワールドカップの感動が続いている。理由はエディー・ジョーンズ前ヘッドコーチ命名の「ジャパンウェイ」という戦略にあるような気がする。

 日本人の体格には不適とされたアングロサクソン好みのラグビーの世界でも、俊敏さ、体力、技術、チーム力、真面目さといった日本的特質を強化するニッポン方式によって、十分に国際水準に到達することができる、その新鮮な発見が、あらゆるところで驚きと共感を広げているのではないか。

 もちろん、単なる日本回帰ではない。体力・健康管理に最先端の技術を使い、世界から一流のコーチを呼び、チームも外国出身選手を多数起用した多国籍的構成であった。国際化と日本化を同時追求し、国際インフラの活用で日本的特質を深掘りしたことが、選手たちの潜在能力をコアコンピタンス(他にマネのできない核となる能力)にまで高めあげたわけである。

 この鮮やかなお手並みには脱帽だ。商売柄、日本政治にもジャパンウェイの可能性を模索したい。今週は、そんな覚悟や使命感を持って発信しようとしている2人の語り部について語りたい。いずれも、発信の中身は、核にまつわるものである。すなわち、前者は「ヒロシマ、ナガサキ」であり、後者は「フクシマ」である。

 1人目は柴田優呼(ゆうこ)さん。朝日新聞記者を経て中国、米国で学位を取得、現在はニュージーランド・オタゴ大の助教授(日本文学専攻)だ。彼女は近著『"ヒロシマ・ナガサキ"被爆神話を解体する――隠蔽(いんぺい)されてきた日米共犯関係の原点』(作品社)で以下の問題を提起した。

 日本は戦後70年を機に原爆の語られ方(言説)をいま一度見直すべきである。

 なぜならば、従来の言説は、米軍占領期の言論統制下でスタート、いまだに「永久敗戦」たる日本と、「永久勝戦」たる米国との間のいびつな日米関係に縛られており、本来その被爆体験が世界史的、人類的に共有すべき衝撃、意義に見合う言説となりえていない。

710名無しさん:2015/11/12(木) 22:59:51
>>709

 ◇被爆体験と原発事故 核の倫理的抑止力を世界に向けて語れ

 例えば、原爆「投下」という表現。原爆による「攻撃」、「原爆を落とされた」といった表現を避け、「投下」という機械的で中立的な表現にすり替わった。

 被爆の語られ方も然(しか)り。放射能汚染被害の深刻さは十分な言及が行われてこなかった。柴田さんは、その典型的事例として、被爆ルポの原典ともいわれるジョン・ハーシー『ヒロシマ』(1946年『ニューヨーカー』誌掲載)をやり玉に挙げ、空爆前後の落差を詳報することで爆発の威力は印象付けられているが、長期的被害や放射能の影響はわずかにしか語っておらず、あたかも自然災害的な一過性の出来事の如(ごと)く描かれている、と指摘。また、ハーシー本がひな型化し、原民喜、峠三吉ら被爆作家の作品は国際的に認知度が低い、という。

 そして、被爆体験を矮小(わいしよう)化する言説を被爆神話と呼ぶとすれば、それを作り上げてきた責任はまぎれもなく日米両国にある。米国は原爆を正当化するため、日本はその米国の姿勢を結果的にサポートしたために。それは被爆体験の隠蔽であり、大きな犠牲の対価として本来人類が知るべきことを知らせなかった罪における共犯者だという。

 この共犯関係を解消しよう。被爆体験者がいなくなる前に、米国に遠慮せずに体験の真相を語り、国際社会の言論に介入し、交渉、説得すべき時である。日本にしかできない貢献の一つだという。

 2人目は、菅直人氏である。

 2011年に首相を退陣して、はや4年。この間、外遊15回。米国、欧州、台湾、韓国の反原発市民団体から呼ばれ講演、あるいは、各国の原発や最終処分場などを視察して回った。日本国内よりも外国での存在感の方があるようだ。史上最大級の過酷な事故に遭遇し、行政トップとしてその収束作業に当たった人物は、世界を見渡してもそんなにいない。あえて言えば、スリーマイルのカーターとチェルノブイリのゴルバチョフか。

711名無しさん:2015/11/12(木) 23:00:20
>>710

 3・11についてはこう語る。原子炉が立て続けにメルトダウンした際には、首都圏も含め半径250キロが避難区域化、5000万人が避難しなければならない、というシミュレーションが出て、戒厳令に近い強権の発動と、皇室や国家機関の避難まで検討した。日本一国で5000万人もの難民問題が生じる可能性が出てくるほどの事態だったのだ、というと欧米の聴衆は鋭い関心を向けてくる。

「今世紀中に原発はなくなります」とも説く。その理由として、コスト高という経済原則、原発なしでもこの2年間電気不足はなかったという実績、再生可能エネルギーの充実、司法の変化(地裁での原発運転差し止め判決)を挙げた。実際に、菅氏が海外に赴いた15回のうち、3カ所(米サンディエゴと韓国・古里で廃炉、台湾で建設凍結)で変化があった。

 柴田さんの「日米共犯」説には強く同調したい。そもそも核という最終兵器の軍事的抑止力を支えるものは何か。広島、長崎が立証したその恐るべき破壊力と非人道性が独裁者に対してすらその使用を躊躇(ちゆうちよ)させるという倫理的抑止力とはいえないか。その意味では、世界で一つしかない日本の被爆体験の希少さを我々はもっと大事にし、自分のものとして、国際問題解決のために有効に使うべきだろう。そこにはジャパンウェイのあるべき一つの姿が見えてくる。

 菅直人氏の脱原発伝道師としての国際的な仕事ももっと注目されていい。原発推進派には目の上のたん瘤(こぶ)であろうが、日本にしかない体験を臨場感と証拠をもってここまで発信できる人はいない。小泉純一郎、細川護熙両元首相と連動できればもっと強力なジャパンウェイになると思うが、いかがか。

712名無しさん:2015/11/15(日) 11:52:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151114-00010001-tokyofm-life
もしも、お相撲さんの頭に「まげ」がなかったら……
TOKYO FM+ 11月14日(土)12時0分配信

ちょんまげ・月代(さかやき)が当たり前だった江戸時代から明治に入り、何といっても変わったのは「髪型」。そんな髪型の変化で影響を受けた、ある職業の話を紹介します。


人々の生活を大きく変えた明治維新。
そんな明治を表わす言葉に「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」
というものがあります。
散切り頭……そう、明治時代、「断髪令」が政府から布告されました。
正確には「散髪脱刀令」。
ちょんまげと、刀を持つことをやめさせる令です。

一般庶民が次々と髪を切っていくなか、困っている人々がいました。
そう、力士たちです。
髷(まげ)があってこその力士……切るわけにはいかない。
ですが、政府の命令は絶対。一体どうすればいいのか悩んでいたのです。

明治時代、相撲は「江戸の名残りの庶民文化」として、低俗だと思われる節がありました。
髷を結ったまま行うなど、新しい時代にふさわしくない……
一時は存続の危機すらあったのです。
そんな危機を救ったのは、2人の人物。
明治天皇と、大久保利通です。

明治天皇は、大の相撲好きでした。
なんと、自分自身も相撲を取り、あの山岡鉄舟と組み合ったこともあったとか。
力士隊長と言われた伊藤博文とも、
何度も相撲を取ったのだそう。

明治に入り、断髪令とともに「裸体禁止令」が出されました。
力士たちがそれを拒否することにより、
罰金や、むち打ちの刑など、辛い目にあっていたなか、
救いの手を差し伸べたのが大久保利通。
「大相撲だけは髷を残したい。伝統を大切にして力士にだけは髷を残しましょう」
そう、明治天皇に手紙を書いたのでした。

相撲好きだった明治天皇はこれを受け、承諾。
もし、このやりとりがなかったら、
お相撲さんの頭には髷がなく、洋服を着て闘っていたかもしれません。
いえ、もしかしたら相撲という文化すら残ることが難しかったかもしれませんね。

江戸の時代から庶民に愛され、今や国技となった「相撲」。
たくさんの人物に支えられ、私たちも楽しむことができるのですね。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」6月3日放送より)

文/岡本清香


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